インタビュー 魚住昭氏に聞く『特捜検察の闇』(図書新聞)



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投稿者 YM 日時 2001 年 7 月 06 日 19:23:33:

図書新聞2540号
インタビュー 魚住昭氏に聞く『特捜検察の闇』
変容する司法界
腐敗するメディア
一挙に噴き出してきた戦後民主主義の崩壊現象

うおずみ・あきら氏=1951年生まれ。共同通信に入社、87年から司
法記者クラブに在籍し・リクルート事件などの取材にあたる。96年フ
リーに。主な著書に『特捜検察』『渡邊恒雄メディアと権力』、『沈黙の
ファイル』(共著)など。

聞き手:米田網路(本紙編集)

──先ごろ魚住さんは『特捜検察の闇』を刊行されました。「正義」を振
りかざす検察と対峙した、ある意味で対称的な二人の弁護士を軸に書かれ
たこの本には、変質した特捜検察の姿と、中坊公平に率いられた住宅金融
債権管理機構(住管、現整理回収機構〔RCC〕)の「国策的正義」の実
態が描き出されています。やはりここからは、とりわけオウム真理教教
祖・麻原彰晃の主任弁護人である安田好弘弁護士逮捕(安田事件)と裁判
の経過が如実に示しているとおり、検察や住管のかざす「正義」が、事実
や問題の真相究明と噛み合わなくなっている実態が窺えます。一読して、
「国策捜査」が「正義」の名のもとに、これほどまでに露骨に行われてき
ているのか、という思いを改めて強くしています。
魚住さんは司法記者としての取材をもとに、一九九七年に『特捜検察』
(岩波書店)を書かれていますけれども、今度出された『特捜検察の闇』
のあとがきに、「つい最近まで自分がこんな本を書くとは思わなかった」
と書いておられますね。やはり、『特捜検察』から今回の『特捜検察の
闇』にいたるこの四、五年の間に急激に進んだ日本の国家主義化の問題が
そこにはあると思われますが、検察の変質、そして横行する「国策的正
義」の問題などについて、まずお話しいただけませんか。
魚住 僕にとって『特捜検察の闇』を書いた最大のきっかけは、やはり安
田事件です。安田さんが逮捕されたということをテレビのニュースで知っ
たんですが、そのときにびっくりしたんですね。僕は何百人という弁護士
を見てきたけれど、安田さんはおそらくいまの日本の弁護士のなかで最も
優秀で良心的な人の一人だと思うんです。彼のような弁護士がいるからこ
そ、司法に対する市民の信頼がかろうじてつなぎ止められている。だか
ら、ニュースを見てまず最初に思ったのは、そんな良質な弁護士を逮捕し
てどうするんだ、ということでしたね。
ただ、強制執行妨害という安田さんへの容疑事実を見て、彼はもしかした
ら法に触れることをやったのではないかと思ったことも事実です。法廷で
安田さんが無実を主張しているのを開いていても、初めはそれを全面的に
信用したわけではなかった。まだその頃は事件の内実を知りませんでした
から、安田さんの支援者の人たちが「権力の陰謀、策略だ」といっている
のを聞いても、それは違うだろうと思ったんですね。
というのは、僕自身ずっと警察や検察を取材してきましたから、いまどき
そんなひどいことをする悪質な捜査官などいないだろうと思ったし、だい
いちそんな必然性もないんじゃないかとも思いました。オウム事件の絡み
で安田さんを麻原弁護団から排除しようとしたとか、死刑廃止運動に対す
る攻撃だということも一部ではいわれましたけれども、僕はそうも思わな
かったんです。
ところが、おかしいと思ったのは、安田さんがいつまでたっても保釈され
なかったことです。拘留は一〇ヶ月に及んだのですが、最高懲役二年程度
の罪で一〇ヶ月も拘留するなんて、これはおかしいと思い始めた。検察は
何を考えているのか、という思いが強まったんですね。それで、これは
ちゃんと取材してみなければならないと考えて本格的に取材を始めたんで
す。
そうして、裁判の経過や証拠関係を見て唖然としたわけですよ。まさか、
検察がこんなひどい捜査をやっているとは思わなかった。
──『特捜検察の闇』のなかで、「過去に何百件かの事件を取材したが、
これほど検察側立証が総崩れになる事件を見たことがない」「捜査の目的
は真実や正義の追求ではない。安田を葬り去ることである」と書いておら
れますね。
魚住 結局は、安田さんの支援者の人たちの言っていることが正しかった
わけです。検察や警察のことを知っているつもりでいたけれども、安田事
件によって、いままで知らなかった部分を如実に見せられたんですね。
じゃあ、自分はいままで検察庁や警察のどこを見ていたのか。そのことを
考えているうちに、僕は二つの問題に気づきました。一つは、それまで
者クラブ制度という枠内で検察や警察を見ていたということです。その本
当の姿を、自分はきちんと取材できていなかったのではないか、という思
いがした。それからもう一つは、ここ数年で、検察庁だけでなく司法界全
体で進んでいる急速な変容の問題です。安田事件をとおして、その二つを
痛感させられましたね。安田事件の背後には住宅金融専門会社(住専)の
問題がありますけれども、中坊住管のやり口を見ていくと、結局は住管と
その上にある政府の特殊法人・預金保険機構に検察官や裁判官、弁護士、
警察や国税のOBが集まって、法曹界が一体となって債権回収をやる構図
が見えてくる。しかも、その回収の仕方が、いままであった民事上の商取
引や債権・債務関係に捜査当局は介入しないという「民事不介入の原則」
をなかったも同然にしていくようなものなんですね。その一方で、中坊さ
んは弁護士の「倫理」「自己改革」ということを言って、「正義」を正面
にかざした路線を打ち出してくるわけです。しかし、これはやばいと思う
わけですよ。『特捜検察の闇』にも書きましたが、司法のシステムは、弁
護士が倫理的になったから、あるいは公益性を重視したからといってうま
く機能するものではない。弁護士は徹底的に依頼人の利益を擁護するのが
仕事であり、刑事裁判でいえば、検察官は国家の利益を代表し、事件の真
相を追及して被疑者を断罪する。裁判官はその双方のやりとりを聞き、証
拠を見て、冷静にどちらが正しいかを判断する。そうした、裁判官を頂点
とする三角形の構造のなかで、弁護士と検察官が互いに論議を尽くすこと
で、初めて司法のシステムがバランスよく機能するわけですね。ところ
が、そこで弁護士が、「公益」の名のもとに国家の方にすり寄ったり、あ
るいは住管のように法曹三者が一体となって、いくら不動産業者が金を返
さないからといって、その業者に刑事罰を課して次から次へと罪人に仕立
て上げていくようなことは、やはりおかしい。これはもう、ある種の
ファッショだと思います。いわば司法界の翼賛体制ですね。そうなってし
まえば、いくら形骸化したとはいってもとりあえず機能していた司法のシ
ステムは、もうまったく働かなくなってしまうのではないか。僕が危倶す
るのは、司法界全体のそうした傾向に対してです。

(中略)
──「公共の使命」という名の「国策的正義」の御旗に、検察のみならず
弁護士までが寄り集まるという構図が、いまのお話から浮かび上がってき
ます。国策として債権回収を行っているのだから、多少「不適切な回収」
があっても「正義」は自分たちの方にある、それに逆らう者は「国賊」だ
といわんばかりの実態が、『特捜検察の闇』には描き出されていますね。
そこには、「正義」や「公共的な職務」といったことが国策に従事する人
間たちによって殊更に強調され、それに比例するかたちで、こんどは私た
ちの言論の自由や人権が脅かされていくという事態があるように思いま
す。しかし、個人情報保護法に対する反応を見てもわかりますが、そのこ
とに対する私たちの危機感は極めて稀薄です。むしろ、そうした「国策的
正義」に同化していくような傾向が顕著に出てきていると思います。
魚住 持に一九九五年のオウム事件以降、その傾向が強くなってきていま
すね。たとえば、オウム裁判の長期化批判がありましたけれども、とりわ
け麻原裁判に関してその批判が強くなされた。いまでもそれは続いていま
すけれども、いろんなオウム・ウオッチャーたちが検察の尻馬に乗って、
弁護団批判をやったわけですね。しかし僕は、この批判はいったい何だっ
たのかと思うわけですよ。彼らは、裁判のいちばん基本的なことを理解し
ないで言っているのではないか。
僕らの常識では、弁護人というのは、先ほども言ったように徹底的に依頼
人の利益を代弁し権利を擁護するのが仕事であって、麻原であろうが誰で
あろうが、そうするのが弁護士の役目です。いたずらに裁判を長期化させ
ていると批判するけれども、僕に言わせれば長期化してどこが悪いの、誰
が損をするの、ということなんです。
裁判の長期化批判というのは、要するに早く死刑にしろということでしょ
う。もし仮りに、遺族が早く麻原を死刑にしろというのなら、僕はその気
持ちはよくわかるんです。けれども、被害者でもない第三者がそういうこ
とを言う。しかも彼らは、司法の基本的なところを誤解しています。
それに、検察が組み立てた地下鉄サリン事件の構図を全面的に信用するの
は非常に危険なことであって、そのなかに、おそらく捜査当局が隠してい
ることがいろいろあるはずです。あれだけの大きな、前代未聞の事件だか
らこそ、隠されたことを時間がかかっても表に出して、事件をより深く
知っていくことが大切なんです。そこにこそ裁判経過を報道する意味もあ
る。だから僕らにとっては、弁護側の活動によって少しでもあの事件の真
相が明らかになればいいわけですね。しかし、弁護団に対する裁判の長期
化批判がなされる。それが、僕にはどうしてもわからなかったんです。し
かも批判の大合唱ですよ。これは本当に恐ろしいことだと思いましたね。
ほぼ同じ時期に、「日本は被疑者の権利ばかり守って、被害者の権利を守
らない国だ」といった議論が髣髴として湧き上がってきました。しかしこ
れを聞いていても、いったい何を言ってるんだと思うわけですよ。そうい
うことを言う人は、じゃあ被疑者の権利がどういうふうに守られているの
か知っているのか、と問いたい。実態を見れば、日本が被疑者の権利を
守っているなんてとんでもない話で す。特に象徴的なのは安田事件の「人
質司法」ですけれども、刑事訴訟法で定められた保釈の制度と運用の実態
とは全然違います。要するに、検察側が認めなければいつまでたっても保
釈されない。そして、裁判官が自ら決定する権利を放棄してしまっている
実態がある。
これは作家のいとうせいこうさんが指摘しておられたことだけれど、もと
もと被疑者の権利というのは、国家と個人の間の対立軸の話であって、被
害者の権利というのは、被害者対マスコミあるいは被害者対その周囲の人
間というように、私人間の権利やトラブルをめぐるものです。けれども、
全く違う軸にあるその二つをごっちゃにして、あたかも日本は被疑者の権
利がよく守られている国であるかのような論調が出てくるなんて、実にお
かしい。もちろんそこには、被疑者の権利がきちんと守られることによっ
て、世の中全体の人々の権利を守ることになるのだという共通認識はもは
や全くないですね。
そうしたことが、オウム事件以降九〇年代後半のほぼ同じ時期にどっと出
てきたわけです。だから僕は、いま起こっている現象とはいったい何なん
だと考えざるをえない。正直言って、本当によくわからないところがあ
る。辺見庸さんが言っておられることですが、やはりこの現象は「ヌエの
ような全体主義」ですね。もちろん、政府などが意図してやっているとこ
ろもずいぶんあるけれども、結局は僕らのような一般庶民の気持ちのなか
で、あるいはマスコミの人間の心のなかで、ある種の「転向」現象が起き
ているんだといえるでしょう。つまり、戦後民主主義で憲法が謳った理
念、その内実がほとんどなくなって、個人の自由や表現の自由といった基
本的な理念が何ものにも代え難いものなんだという認識が、まるっきり失
われています。
戦後五〇年を経て、戦後民主主義はもう完全に崩壊してしまったんだと思
いましたね。その背景には、一つはやはり人々の戦争の記憶の風化がある
と思いますけれども、もう一つはバブル崩壊以後の経済的な危機です。経
済的な危機によって、戦後民主主義の崩壊現象が一挙に吹き出してきたん
だと思います。

日本中で一番荒廃しているのはマスメディアではないか

──戦後民主主義の基本的な理念の風化という現象の背景には、やはりマ
スメディアの問題があると思われます。この間の個人情報保護法をめぐる
報道を見ていても、また一九九九年に成立してしまった盗聴法や国旗国歌
法などの諸悪法にしてもそうですが、マスメディアが国策的な動きに対し
て批判的で検証的な報道や言論を生み出せないという問題があり、また司
法の翼賛体制化に対してマスメディアが批判的機能を果たしていないとい
う問題があるように思います。
いま出てきている個人情報保護法に露骨に表れているように、新聞やテレ
ビがもはや取り組まない批判的役割を担い、問題提起をしていこうとする
雑誌ジャーナリズムや、魚住さんのようなフリーのジャーナリストたちに
規制をかけるところにまで、もはや事態は来てしまっているのですね。先
ほど記者クラブ制度のお話がありましたけれども、そうしたいまのマスメ
ディアが抱える問題について、魚住さんはどうお考えですか。
魚住 僕も共同通信に二〇年ほどいましたから、自分の問題を抜きにして
簡単に批判できないんですけれども、一つ思うのは、たとえば安田事件に
しても、少し取材すれば、検察の立証活動というものがボロボロ崩れてい
るということがよくわかるはずなんです。しかし、そうした報道はほとん
ど出ないですね。なぜ出ないのか。それは、記者たちが取材していないか
ら知らないということもあるかもしれませんが、やはり検察に遠慮したん
でしょう。そこには、かつての僕も含めてですけれども、知らないうちに
検察に取り込まれてしまう記者クラブの構造がある。なぜなら、検察情報
というのは、マスコミにとっては喉から手が出るほど欲しいものなんです
ね。それは当局からネタをもらいたいですし、やはり検察の機嫌を損ねた
くないという自主規制的な心理がそこに働いているんではないかと思いま
す。これは司法記者クラブだけの問題ではなくて、記者クラブ制度そのも
のが新聞・テレビのジャーナリズムをだめにしているというのが、このご
ろの僕の実感なんです。フリーになった直後はあまりそんなことは感じな
かったし、記者クラブのなかにいたころも、別に記者クラブに依拠して取
材していたわけではないから、記者クラブ制度の問題なんていわれてもあ
まりピンとこなかったし考えもしなかった。フリーになると当局取材とい
うのはほとんどなくて、民間の取材が大半を占めてきますが、組織の外に
出て何年かたって、当局を通して見る世の中とへ在野からものを見る世の
中がこんなに違うものかということをすごく感じたんですね。そこで初め
て、自分は共同通信時代、官庁情報のシャワーをずっと浴びていたんだと
いう思いが強くなってきました。
安田事件の報道に端的に表れてくるんですが、新聞は完全に「安田は人権
派の仮面を被った悪徳弁護士だ」というような論調でしたね。ところが、
雑誌は少し違いました。たしかに、見出しなんかをみるとそうなんだけれ
ど、文中を読んでみると安田批判になっていない場合がある。それはなぜ
かというと、雑誌は当局に取材源があまりないから、事件当事者やその周
辺を取材するわけですが、そうすると、当局情報で書いている新聞と在野
情報で書いている雑誌とでは、事件に対するスタンスが微妙に違ってくる
わけですね。もちろん、ケースバイケースでどちらが正しいとは一口に言
えないけれども、新聞が安田事件で「悪徳弁護士」的論調になっていった
のは、やはり警視庁の情報で書いていたからです。
しかし、じゃあ自分が安田事件発生のとき警視庁記者クラブにいたらどう
だっただろうか。そのことを考えると、もう寒気がするわけですよ。僕は
一方で安田という人間を三〇年ぐらい前からよく知っている。非常に尊敬
している。しかし、仮りに僕が警視庁クラブの担当記者で捜査二課を回っ
ていて、夜回りなんかで捜査員から「安田というのはこんな悪いヤツだ」
という断 片的なネタをもらったとしたら、自分はどう書いただろうか。そ
れはもう両者に引き裂かれて、にっちもさっちも行かなくなっていただろ
うと思うんですね。
もちろん官庁情報に対する需要はあるわけですが、官庁情報に大幅に依拠
しているいまの新聞のあり方を変えていかないと、いつまでたっても新聞
は、在野で生きている人たちの思いは伝えられないでしょう。そして、結
局は官庁情報垂れ流し機関にとどまって腐敗していくと思いますね。
僕は最近思うんですが、日本中で職場の空気や、働く人の心のありようが
いちばん荒廃しているのは、新聞・テレビのマスメディアではないでしょ
うか。まだ雑誌の方がましです。雑誌は独自性を競い合う部分があります
から、それだけ多様な見方ができるし、正常な神経がまだ少しは残ってい
ます。ところが、新聞はそれとは逆で横並びですから、すごく均質な価値
観でものを見る。ある新聞社の雑誌部門で働いている人が「新聞記者を
やっていると、このニュースは紙面の何段くらいで、こんな書き方になる
というのがあらかじめ決まっているから、思考停止状態になる。」と言っ
ていましたが、まったくその通りです。しかも新聞は、官庁寄りのいわば
統治する側から世の中を見る視線を、記者クラブ制度を通じて身につけて
います。そして、そうした視線で世の中を見ているから、新聞はもうどん
詰まりに陥っているのではないでしょうか。そのことは、こんどの個人情
報保護法案に対する新聞の反応ぶりを見てもよくわかります。もう不感症
になっているんですね。早くから熱心にこの問題に取り組んでいる「毎日
新聞」を除いて、ほとんどの新聞が無反応ですし、記事を書いても官僚の
作文のような、まるで他人事のような書きっぷりです。口では言論の自
由、表現の自由と言っておきながら、それが意味するものを全くわかって
いない。

マスメディアが世の中を悪くしている
(中略)
魚住 麻原裁判長期化批判の大合唱に対し、また「被疑者の権利を守って
被害者の権利を守らない」という論調に対してものを言っていくことは、
ものすごい孤立感を抱える行為ですね。いまの状況では、『特捜検察の
闇』を出すのも孤立感を抱えてしまいます。戦前の翼賛体制といまの状況
とが違うのは、その当時とでは比べものにならないくらいにマスメディア
が発達していることです。しかしそのことで、当局が世の中を見る見方
が、マスメディアを通してわっと流布してしまう。それが、「麻原はけし
からん」といった庶民の感情とないまぜになって、世の中を「ヌエのよう
な全体主義」に導いているのではないかと思うんですね。
問題なのは、マスメディア自体が、自分たちは当局を通じてものを見てい
ることを意識してない、ということです。もはやそうしたものの見方に慣
れきってしまっているから、たとえば個人情報保護法に対してもまったく
の不感症に陥る。それに対して僕らのようなフリーの人間は、当局から
守ってもらうわけでも組織が守ってくれるわけでもない、いわば丸裸だか
ら、在野から個人情報保護法を見て、ものすごく直接的な危機感を覚える
わけです。ところが、マスメディアの人たちは「言っていることはわかる
けれども」と言いながら、本当のところ何が起きているのかは実感として
わからない。さらには、なぜ自分たちがそれに危機感を持たないのかとい
うことすらわからないわけです。それはもう、非常に危機的な状況です
ね。
ですから、先ほども言ったように、日本中でいちばん精神的な荒廃がすす
んでいるのはマスメディアなのではないかと思うんです。そしてもっと言
えば、マスメディアが世の中を悪くしていると思います。自分も二〇年組
織にいて、その頃に気づかなかった愚かさも感じますけれども、いまは本
当にマスメディアが世の中を悪くしているのではないか。やはり、マスメ
ディアがもう一度、自分たちが置かれている状況を認識しないと、とんで
もないことになるんじゃないでしょうか。
でも、マスメディアの再生はもう無理かもしれません。
昨年『渡邉恒雄 メディアと権力』(講談社)という本を書きましたけれど
も、それは「読売新聞」の例を見れば一目瞭然です。いまは戦後民主主義の
基本的な理念がボロボロに崩壊していますし、ナベツネさんのように目立つ
キャラクターがいなくても、同じようなことが他でも起こっている。もう至
る所にミニ・ナベツネがいるという状況です。僕はいま、自分の共同通信時
代の体験と「読売新聞」を取材してわかったこととがオーバーラップして、
マスメディアの腐敗が本当に取り返しのつかないところまで進んでいるとい
うことを非常に強く感じています。





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