超常現象と魔女狩り ガイ・L・プレイフェア

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投稿者 SP' 日時 2001 年 8 月 07 日 15:22:01:

回答先: 「オレが透視した敵潜水艦、誘拐犯。そして臨死体験」(『ボーダーランド』96年6月創刊号) 投稿者 SP' 日時 2001 年 7 月 27 日 16:17:46:

『ユリ・ゲラーの反撃』(ユリ・ゲラー、G・L・プレイフェア共著、秋山真人訳、騎虎書房、1989)第三部。


  13 執拗なゲラー攻撃と手品師の証言

 反ゲラー運動

「ユリ・ゲラーはインチキである──手品師がかの偽超能力者の秘密を暴露」──この記事が最も過激な週刊誌として知られる『ハオラム・ハゼー』(一九七〇年一〇月二〇日付)の表紙を飾り、ユリがイスラエル民衆の前に姿を現してからわずか二、三カ月の間に反ゲラー運動は始まった。反ゲラーの理論的根拠は、「手品師はあらゆる技を心得ており、ゲラーも同様である。彼は手品師にすぎない」というものであった。
 彼は手品師に違いない、と当時多くの人々が考え、現在も一部の人々はそう思っている。ゲラーはもともと舞台芸人であり、彼自身、そう呼ばれることを拒んでいない。彼のやることは一五年間ずっと同じだったので、その間に他の手品師たちは、自分たちもスプーンを曲げたり、時計を直したり、観客の描いた絵を再現できるということを示した。そして人々は、ゲラーは単に独自の出し物を編み出して観衆をうまくひきつけたにすぎないのだ、と思いこんでしまった。初期の反ゲラー派の中にも比較的好意的な者はおり、マルチェロ、ツルッチなどは、ゲラーをその年の最優秀手品師に推薦し、批判をやめようと言い出した。
 しかし他の人々はそれほど寛大ではなかった。彼らにとってゲラーは、「超能力などとうそぶいて手品の芸術性を地に落とした奴」なのである。彼らの怒りのほどは、「驚異の手品師」と呼ばれたジェームズ・ランディが反論のために書いた『ユリ・ゲラーのマジック』(一九七五)によく表れている。その中で彼は、「私は自分の職業を誇りに思っており、このかけがえのない芸術の身売りに対して怒りを覚える。私の見る限り、ゲラーはこの道を汚しているばかりか、人格形成期にある若者の考え方をも歪めている。これは許すまじきことである」と書いている。
 このランディの本は、著名な文学者であるカール・セーガンから「ゲラーのペテンの術に関する興味深い解剖書」として賞賛を受けた。また、『タイム』のレオン・ジャロフは同書を「超心理学と呼ばれる擬似科学に対する痛烈なパンチ」だとし、『サイエンティフィック・アメリカン』のマーチン・ガードナーは、「真実を尊ぶ者は皆、脱帽してこの著者に喝采せよ」と主張した。
 一方、これに対抗する陣営でも、科学界のゲラーシンパの中に、研究室においても舞台やTVスタジオと同様に妙技も見せるこのイスラエルの青年(ゲラーのこと)に疑念を抱く者が出てきた。なぜなら、この青年は科学者やその先駆者たちが一世紀以上にわたって調べてきたどのタイプにもあてはまらなかったからである。
 過去におけるスター的超能力者の例としては一八七〇年にダニエル・D・ホームが、当時その道の権威といわれたウィリアム・クルックスのもとで三年以上もの間、実験台になり続け、科学に貢献してきた。その後、ナポリ出身のユーサピア・パラディノは五〇人以上の科学者の実験台となった。その科学者たちの中には、四人のノーベル賞受賞者も含まれており、研究は三〇年近く続いた。ボストンのレオトーレ・パイパーは、心霊研究協会に常時協力し、同協会は、彼女がトランス状態で口走った内容を次々と出版した。他にはオーストリアの自動車修理工であったルーディ・シュナイダーは、生涯を通じて余暇の大部分をさいて、科学者から念力を使ってくれと頼まれれば、何でもしてやり、さらに同じことの繰り返しでもいとわなかった。アイルランド系アメリカ人のアイリーン・ギャレットは、自身のもつ透視能力の科学的分析を依頼、経費も自費で負担した。
 しかしゲラーは違っていた。彼も一九七二年から一九七四年までは、多くの時間を研究室で過ごしたが、間もなく彼は人間モルモットの役にあきてしまったのである。機械にコードでつながれたり、あれこれ指示されることは彼の気性とは全く相入れないことだった。彼は芸人であり、観客の前で技を披露している時だけ落ち着けるのだった。だから彼はもとの巣、つまり舞台に戻りたくなったのである。
 ゲラーのシンパは考えを変え始めた。ロンドン大学のジョン・G・テイラー教授は一九七五年に『ゲラー白書』を作製し、自分の研究室で起こった出来事を挙げて、「ゲラー効果が認められる限り、科学的に不可能なことも起こり得ることが証明できる」とした。が、その後、「ゲラーはいかさまをしていたに違いない、という無難な考え方をすることもできた」とつけ加えた。彼はこの文をそれから五年後に書いた著書『科学と超自然現象』の中に引用している。その中で彼は、ある手品師の助力によるトリック防止装置を用いて実験したところ、ゲラー効果が認められなかったとし、次のように結論づけた。
「私が見た限りでは、ユリ・ゲラーの神話は終わった。特定の条件下での実験に対応できないとあれば、彼の能力も本物ではあるまい」
 反ゲラー物語の始まりと、前述のイスラエルの雑誌(一九七〇年一〇月二〇日付)に三ページにわたって掲載されたカバーストーリーへと話を戻そう。この反ゲラー物語の発端となった記事に署名はないが、その主張のほとんどは、エイタン・アヤロンと名乗る手品師によるもので、全イスラエルの手品師は力を合わせてゲラーを糾弾する意向だとし、その理由として、次の三つを挙げている。
 第一の理由として、ゲラーは自分を超能力者だと主張しすぎる、このような技を見せたのはゲラーに限ったことではないとアヤロンは指摘する。心理マジックと幻想とで知られるデビッド・バーグラスの技も、イスラエルではゲラーと同様に、テレパシーと超心理学を利用したものだといわれていた。バーグラスは自己の超能力を否定し続けたので許されるが、ゲラーは自己主張のしすぎである、というものである。
 第二の理由はもっと深刻なものだ。ゲラーはイスラエルの政治に干渉した、というのである。その根拠として、ゴルダ・メイヤー首相がイスラエルの将来についての質問に対して「わからない。ユリ・ゲラーに尋ねなさい」とくだけて答えたことが大きく取り上げられている。その少し前に、ゲラーは運輸大臣(のちの首相)に会い、スプーンやフォークを曲げて見せていた。「彼はシモン・ペレス氏のペンを手を触れずに壊してみせた。さらに今週、ユリ・ゲラーはモーシェ・ダヤン国防相に会って能力を披露することになっているという情報もある」とし、この「えせ超能力者」が「国の支配を脅かす」存在になりつつあるとした。
 しかし、アヤロン一派がゲラー糾弾に立ち上がった主な理由は、次の第三の理由による。アヤロンいわく、「奴のおかげで、われわれの商売はさっぱりだ。だから仕返しをするのだ」。彼らは最初、ゲラーの秘密暴露ではなく、エディ・ムーアとヌリト・パイという二人の若者をえせ超能力者に仕立て上げ、披露した。アヤロン自身も「神秘的な」あごひげを生やして、ゲラーの得意技を下敷とする演技で観衆を何度かだましおおせた、と主張した。
「ユリ・ゲラーの名前は消えるだろう」と、アヤロンは予言した。「われわれはゲラーに最後通牒をつきつける。二週間以内にペテンをやめなければ、すべてを公表する。こんなことはしたくないが、これはイスラエルの人々を救うためなのだ」と彼は言った。

 ダヤン将軍との会見

 ゲラーはシモン・ペレスに会ったことを認めている。「彼のペンはポケットの中で曲がって折れた」とも言った。さらにゲラーは、六日戦争の英雄、ダヤン将軍との会見について、次のように話した。
 「彼(ダヤン将軍)が私に電話してきて、会いたいと言ったのだ。そして、彼の自宅のあるザハラという町の近くにある、ホワイト・エレファントというステーキハウスでの食事に招待してくれた。それは光栄なことだった。当時ダヤンは崇拝されていたから。私は自分の能力を披露した。まず、彼が描いた絵を私が受信し、次に、私が描いた絵を彼に送った。それから私は鍵を曲げてみせた。そしてこういう能力の持つ可能性について論じ合った。彼はひどく興味を示した。彼の片目がキラキラ光っていたのを覚えている。その後、彼はもう一度もっと人目の少ないところで会いたいと言った。
  二、三週間後に、彼は再び電話してきて、今度は彼の自宅へ招待してくれた。二人だけで内密に会いたい、ということだった。
  私は彼の家へ行った。彼の自慢の骨董品のコレクションを見せてもらった後で、彼は言った。『ところでユリ、私はこの部屋のどこかに写真を一枚隠しておいた。君にしてもらいたいことが二つある。一つはそれをみつけること、もう一つは、それを見る前にどんな写真か説明することだ』。
  私はこれによく似たことをよくパーティーでやっていた。ほとんどの場合、指輪かブレスレットで、写真を探したことはなかった。私は『うまくいかないかもしれません。緊張していますから』と言った。そして、いつものように両手を前に伸ばして歩き出すと、棚の上の四〇冊ぐらいの本が並んでいるところで止まり、その中の一冊を指さして『そこにあります。本の中です』と言った。
 『そのとおりだ』と彼は即座に言って笑った。『それで、その写真には何が写っているかね』と言ったので、彼にその写真をイメージし送信してくれるよう頼んだ。私はいろいろな画像を受信し、紙と鉛筆をくれないかと頼んだ。
 『ダメだ。君から目を離したくないのでね。口で言ってくれれば良いから』と彼は言った。彼の用心深さのおかげで、私はすっかり気が重くなった。この時のことは忘れられない。
  とにかく、五分ほどして、私はこう言った。
 『それはイスラエルの国旗です』。彼は肘かけ椅子に座ったまま、大笑いしていた。
 『私が正しいから笑っているんですか。それとも間違っていたんでしょうか』と私は尋ねた。彼は、自分で本を開けて調べてみるようにと言った。写真はなかった。彼は本を手に取って二〇一ページを開けてみせた。小さな写真が載っており、ロンドン空港のメインタワーが写っていた。そしてその屋根と旗ざおとイスラエルの国旗が見えていた。
 『君は自分自身を証明してみせた。もうこれ以上、何もしてみせる必要はない。ところで、君はイスラエルのために何ができるかね』と彼は言った」

 ゲラーは、その後の二時間に及ぶ会話については触れたがらなかった。ダヤンは「とても大きなこと」に関心をもっていて、超能力の軍事的利用の可能性を、ゲラーが考えていた以上に具体的に考えている様子だった、とだけ語った。
「私が、超能力をもったスーパースパイになるよりも、普通のビジネスに興味があったので、ダヤンはあきらめたようだった」とユリは私に言った。ゴルダ・メイヤーと、イスラエル軍情報局長のアーロン・ヤリブ将軍とに会見したとされていることについても、あまり話したがらなかった。しかし、イスラエル情報局の周知の手口からすれば、ゲラーが隅から隅まで、知らぬ間に調べあげられていなかったとはまず考えられない。少なくとも、どこか一局は調べあげていたはずだ。同様に、調査結果が不用意にもれることもまずあり得ない。

 さらに続くユリ・ゲラー糾弾

 エイタン・アヤロンの予言ははずれ、ゲラーは一九七〇年になっても姿を消さなかった。イスラエルの人々も、アヤロンに救いを求める様子ではなかった。しかし、糾弾者たちはあきらめなかった。『ハオラム・ハゼー』は、一九七三年三月一四日号でこの論争をまき返した。その中で、編集者ユリ・タボールは、「ゲラーは全くのペテン師である」とし、証拠として、彼とソフィア・ローレンとの合成写真を載せた。(このトリック写真は、かつてゲラーの宣伝マンであったラニ・ヒルシュが個人的にやったものだと認めている)そして二週間後の号では、かねてからの予告どおり、金属曲げのトリックをあばく「秘密の薬品」説を展開し、ジェームズ・ランディが「そのような危険な薬品は手品用品店で扱うべきではない」と締めくくった。
 一九七四年二月二〇日、『ハオラム・ハゼー』は「ユリ・ゲラーの脅威からイスラエルを救う」決定版を掲載した。この記事は、ランディの本にも英訳が転載され、イスラエル科学アカデミーの公文書であるかのように広く流布しているが、実際には、徹頭徹尾正確さに欠ける。内容のかなりの部分がハンナ・シュトラングの証言から成っているが、彼女は私に、そこに書かれていることのどれ一つとして言ったこともなければ、その記事を書いた人間に会ったこともない、と語った。今では、編集者であるユリ・タボール自身が、記事全体がでっちあげであったかもしれないと認めているのである。
 ゲラーの経歴について、客観的、公平に報道していた英国報道機関さえも、この混乱をあおる結果になってしまった。一九七四年一月一五日付の『デイリー・メール』で、リチャード・ハードによる「ユリ・ゲラー伝説を探る」ためのイスラエル取材報告が掲載された。それによると、ゲラーはハンガリー生まれ、一〇歳の時に父親に連れられてイスラエルに移住、その父親は一九五七年に没、母親はその後再婚して男子を出産、とある。(実際には、ゲラーはテルアビブ生まれ、母親に連れられてキプロスへ移住、父親は一九七九年に没、母は再婚したが子供はない)。ハード氏はさらに続けて「彼が落下傘部隊に入隊するまで、彼について覚えている者はいない」と主張する。しかし、彼はキプロスにいたのだから、イスラエルの人々が彼を覚えていなくても不思議はない。キプロスでは、彼の師であったジェニー・アグロティス夫人が、彼のことをよく覚えている。彼女はゲラーについて、一九七三年の『ニュース・オブ・ザ・ワールド』一二月号で次のように述べている。
 「ユリ・ゲラーは、キプロスで五年間、私の生徒でした。まだ幼い頃から、彼はフォークを曲げるなど、不思議な力を発揮して、同級生たちを驚かせていました。彼が友人たちに話していた驚異的な科学の物語が、実現しつつあるようです。私は彼を信じます。彼はあらゆる面で秀でており、頭の良い、めったにいないタイプの子でした」

 もしハード氏が英国にとどまっていれば、ゲラーの昔の同級生に会えたかもしれない。現に私は、一〇年も経ってから、大した苦もなくその友人を探しあてた。彼らは多くのことを覚えていた。

 プハリッチが起こした混乱

 これまで、ゲラーに関する初期の記事をいくつか紹介してきたが、このように、彼に対する糾弾は、きわめてあいまいな根拠から成り立っていた。多くは想像、噂、あるいは全くのデタラメによるものだった。大衆雑誌である『ハオラム・ハゼー』のような主張がすんなり受け容れられ、『ネイチャー』のような科学誌に掲載される専門家の論文が、見向きもされないというのは、まさにゲラーも指摘したとおり、不可解なことである。
 ゲラー伝説を厄介なものにしてしまった者の中に、アンドリア・プハリッチがいる。プハリッチは、ゲラーの能力を見出だし、ヨーロッパに紹介した人物である。
 プハリッチは、ゲラーに出会うまでは、科学と超心理学の両分野で、想像力に富んだ研究をしていた。また、バイオテクノロジーの分野で、五〇以上の発明特許と二冊の著書を持ち、高く評価されていた。彼は超常的なものを研究対象としていたため、ユリ・ゲラーの研究にはうってつけの人とされていた。
 彼の著書『ユリ』(一九七四年)には、鋭い観察と推理に加え、事実に基づく報告も含まれているが、一部にSF小説まがいの部分もある。たとえば、「ゲラーは単なる中東生まれの人間ではなく、九人組と呼ばれる宇宙人グループの使者であり、宇宙支配を任務とする組織、スペクトラの一員である。彼らはユリにメッセージを録音・再生させて、地球人と交信している」などと書いているのだ。これに対しては、最もゲラー寄りと言われたコリン・ウィルソンでさえ、「あまりにも突飛で、信じ難い」という感想で、大部分の人々も同じ考えだった。ゲラー自身も、このくだりについては恥ずかしく思ったと語っている。
 私も、プハリッチには面識があるが、彼は明晰な頭脳の持ち主である。長年にわたる研究生活の中でも、彼の思考は日常の枠をはみ出し、奇抜な発明をして成功している。たとえば、小型補聴器は彼の発明によるものだが、まさにロングセラーである。だから、仮に彼の思考が私たちの想像を越えるものであっても、それは多くの発明家に共通の特徴といえるだろう。一見狂気のように見えることも、偉大な発明家にとっては不可欠な部分なのである。
 ところで、「九人組」に関する情報は、すべてゲラーが催眠術にかけられている時に得られたものである。プハリッチは催眠術に長けており、被験者の実行効果を上げるために催眠術を利用してきた。そしてゲラーは、自ら認めるほど、催眠術にかかりやすいのである。ゲラーは少年の頃、宇宙旅行やロケット、宇宙文明などをよく空想し、思春期には、その空想で作った物語を、友人などに話していたという。その空想がどこから入り、どう組み立てられるのかはともかく、それがゲラーの意識の下にあり、催眠術で表面化したのである。
 一八四四年に英国の催眠術師C・ヘア・タウンゼンド牧師は、被験者の中には、自分の思考と催眠術師の思考とを混ぜ合わせることができる者もいる、ということを発見し、次のように記した。
 「…私の患者の思考は、明らかに私の思考に近づいてきた。それは私の思考を反映したものにすぎなかった」

 プハリッチは、以前にも宇宙人に関連する材料を、ゲラー以外の被験者から聞き出していた。プハリッチが「九人組との対話」に自ら参加していなかったのが意外なほどである。九人組のアイディアは、それ自体で面白い本になっただろうが、それをゲラー研究に混入してしまったことで、ゲラーと著者プハリッチのどちらも信用を落とすことになった。ゲラーは自ら『マイ・ストーリー』という著書を出版して誤解を解こうとしたが、ほとぼりが冷めるまでには、少なからず時間がかかった。
 プハリッチの本のお陰で、最初からゲラー効果を信じていなかった人々の疑念はさらに深まった。私もその一人だった。

 “奇妙なことは起こるものだ”

 私が初めてユリ・ゲラーという人物の存在を知ったのは、『タイム』(一九七三年三月一二日)に掲載された彼に関する記事を読んだときのことである。当時、私はブラジルで超能力の実地調査をしていた。材料は数多くあったし、私には、スプーンを曲げるだけの手品師などには興味も湧かなかった。そんなあるとき、『サイキック』(一九七三年六月)が配達されてきた。その中に、アラン・ボーンによる、ゲラーとのインタビュー記事が掲載されていた。それによると、ゲラーは、インディアンロープのしかけ以外なら、過去に認められた超自然現象をほとんどすべて再現できた、というのである。私は興味を持ったが、なかでも特に心に残ったものがある。
 「私は、アンドリア(プハリッチ)との実験の中で、身体を遊離してブラジルへ行くように頼まれたことがある。私はある町へ行き、そこにいた人に、ここはどこかと尋ねた。その人は、リオデジャネイロだ、と答えた。それから別の人が来て、私の手に真新しい一〇〇〇クルゼイロ紙幣を押し込んだ。すると、アンドリアのそばにある長椅子に座っていた私の手の中に、その紙幣が現れた。私はブラジルに行ったのだった」

 これは一九七三年三月二四日に、ニューヨーク州オシニングにあるプハリッチ宅で起こった。私は非常に奇妙に思った。まず、ブラジルとアメリカとに同時にいるということが不可能である。ほかにもいくつか納得できない点があり、私は『サイキック』にそれを書き送った。第一に、一〇〇〇クルゼイロ紙幣は一九六七年に発行されて以来、出回っていない、という点である。その紙幣が、リオデジャネイロで五年もの間、新品のままでいられるはずがない。たいていは、二、三カ月でボロボロになってしまう。それに、リオの人々が、通りすがりの外国人に金を渡すようなことはまずない。
 私は、その手紙を「プハリッチがこの一見、時と空間を超えたテレポートと見える不思議を解決してくれることを望む」としめくくった。プハリッチは直ちにこれに応じ、紙幣の番号を教えてくれた。その紙幣は一九六三年四月に発行されたもので、紙質が悪いため、回収までの寿命はせいぜい九カ月ということがわかった。
 私はまた、プハリッチが同年にブラジルを訪れていたこともつきとめた。そして、彼がたまたま入手し、保存しておいた紙幣が、後になってソファのクッションの隙間から出てきたのではないかと思った。そこで、私はこの件について調べたことを本にした。実はこれが超能力研究に私が貢献した最初の出版物である。この論文は何度となく転載されたが、私は超能力に対する強い懐疑心を印象づけるために、
 「…ゲラーの超標準的能力をさらに調べれば、彼がどうやって妙技を見せるのかについて標準的な仮定が成り立つものと思われる」
と、結論づけた。
 ブラジル事件について、ゲラー自身が私にあてた手紙(一九七八年三月二一日付)は次のようなものである。
 「起こったことをありのままに話そう。その金は、私が意識をとり戻した時に、すでに手の中にあった。催眠状態にあった時のことで思い出せるのは、大通りを歩いていたということだ。道に迷って怖かったので通りがかりのカップルに金を下さいと言った。紙幣をくれたのが誰なのかよく憶えていないが、それを手にしたとき、私はオシニングのベッドで目を覚ました。本当だ。もしかしたら、催眠状態がとても深かったので、そのことが現実に思えるだけで、紙幣はアンドリアが握らせたのかもしれない、と思うこともある。私の意識にある限りでは、現実の出来事だと信じる気持ちが強い。それに、アンドリアがデッチ上げによって得することは何もないのだ。これ以上何も言えないが奇妙なことは起こるもので、これもその一つだと思う」

 奇妙なことは起こるものだ、ということを決定的に証明するのは難しい。科学のたいていの分野では、仮説を立てて実験をする。結果が普遍的なものであれば、証明が成り立つ。しかし心霊科学にこの方法は適用できない。ウィリアム・クルックス以来、数多くの著名な科学者たちが超常現象を目撃したと証言しているが、他のことであれば疑問視されることがないにもかかわらず、心霊現象のこととなると、にべもなく拒絶されてしまう。なぜであろう。
「それは、その人たちがだまされているだけだからだ。手品師ならそんなトリックは見破れる。テーブルをかしげたり、スプーンを曲げたり、他人の心を言い当てたりするくらいたやすいことだ。でもタネ明かしする訳にはいかないのだ」と手品師たちは言う。しかし、プロのだまし屋である手品師の言うことを信じなさい、というのは無理な話ではないか。
 とはいうものの、もしユリ・ゲラーに何日間か同行して観察した手品師が、その超能力を認めたとしたら、それは大きな意味を持つ。
 実際に、レオ・レスリーというデンマーク人の手品師がゲラーを観察し、一九七四年に『ユリ・ゲラー‥偽りか事実か』という本を出版したが、不当にも全く注目を浴びていない。その理由の一つは、まだ英訳ができていないこと、もう一つはこの著者の達した「ゆるぎない結論」のためであろう。

 手品師たちの証言

 レスリーは、デンマーク国立博物館のマジックアドバイザーであるが、一九七四年一月にコペンハーゲンでゲラーが出演した番組で、国営テレビ局の依頼により監督を務めた。彼はゲラーに知られないように、いくつもの制御装置を配備し、安直なトリックが通用しない環境を作った。中にはきわめて巧妙なものもあった。たとえば番組開始前から、スタジオに入ったゲラーを終始モニターカメラで監視し続けた。彼は「手品師は通常、生放送の直前に仕掛けの点検をするものだからだ」と説明した。
 数台のカメラのうち、一台が常にゲラーの手をクローズアップし続け、レスリーと三人の助手が、肉眼とモニターカメラとでショーの間中ゲラーを監視し続けたが、疑わしい行為は一切なかったという。その他にもレスリーは、ゲラーの付き人たちを一切スタジオに入れなかった。
 番組の中で、ゲラーはフォークを曲げたり折ったりしたが、レスリーはその流れを通しで見てはいなかったと言った。しかし、ショーの後で、事態はぐんと好転した。レスリーが自ら手品師であることを明らかにしたにもかかわらず、ゲラーは個人的に技を披露すると言い出したのである。
 まず、ゲラーはレスリーと背中合わせに座り、テレパシーテストを行った。レスリーの同僚が立ち合い、レスリーが花を思い浮かべ描き始めたとき、ゲラーも花を描いていることに気付いた。しかも、ゲラーのほうが先に描き始めたことを認めた。レスリーが納得するためには、これで十分だった。彼は「私の負けだった。ユリは私の心を読み取っていたようだ」と書いている。
 それからレスリーは、前もってエナメルとニッケルでメッキしておいた、酸におかされない鍵を取り出した。ゲラーは鍵をこすり始めたが、何か異常なものに気づいた。「何かしたね。金属に接触できない」と彼は言った。
 レスリーは、「私はしめた! と思った。しっぽをつかまえてやった。やはり薬品を使っていたのだと思った」と書いている。レスリーは鍵を手にとって観察してみた。「私が座って鍵を見ている間に、エナメルにひびが入り、一秒後にはニッケルの薄片がバナナの皮のようにめくれ上がって、その鍵は私の手の中で曲がり始めた。と同時に視聴者から電話が殺到した。病人が癒され、壊れた時計が動き始め、スプーンやフォークが曲がってしまった。ゲラーパニックが始まった」と彼は書いている。
 レスリーと助手たちの判断は、ゲラーの超能力を全面的に立証する結果となった。レスリーは、「ゲラーの金属を曲げたり、テレパシーを受信する能力は確かに立証されたと思った。まやかしの可能性は皆無である」と結論づけた。
 確認のため、レスリーは、その日テレビ局に電話をかけてきた人々の住所、氏名を聞き出し、後日訪問して事実を調べて回った。その結果、レスリーはこれらの人々の中に、ゲラーと同様、金属を曲げたり、テレパシーを受信できる人がいたことを知り、満足した。それから、彼の疑惑をすっかり打ち消すような出来事が起こった。
 レスリーの息子が、自分もスプーンを曲げることができると言い出し、実際に曲げてみせたのである。レスリーは友人にガイガーカウンターを持って来させた。レスリーの息子は、この見知らぬおじさんの前でスプーンを曲げることはできなかったが、スプーンをこすったときにはカウンターの目盛りが上がった。
 レオ・レスリーが一六回もゲラーに会い、その技を十分検討した後に出した結論は次のようなものである。「ユリ・ゲラーの調査中に私が見たり聞いたりしたことは、私が当初持っていた『彼にはある種の超能力が備わっている』という確信を変えるものは何一つなかったということを強調しなければならない」。
 もし、レスリーが否定的な結論を出していたら、間違いなく広く引用されていたことだろうが、彼の意見はほとんど無視されることになった。四年後、『タイムズ』紙にジョン・ウォロール博士が、ゲラーの能力に関するテストにプロの手品師が立ち合ったことはない、と書いたが、実際には少なくとも四人の手品師がすでに立ち合っていたのであり、その四人(レスリー、ウィリアム・E・コックス、アブ・ディクソン、アルトゥール・ゾルカ)による報告書も出版されていたのである。
 コックスは、アメリカマジシャン協会の準会員であり、四〇年の経験を持つが、中にアルミホイルを詰め込んで動きを止めた懐中時計を二重に裏打ちして実験したときのことを書いている。ゲラーがさわると、この時計は間もなく動き始めた。中を開けてみると、ホイルもレギュレータも動いていた。もちろんゲラーは時計の中味には触れていない。
 アトランタマジシャン協会のオカルト調査委員会議長を務めるゾルカは、ディクソンと共に、彼らの考案した状況下でゲラーをテストしたときのことを協会あての公式報告書にまとめている。ゾルカは、強化ナイロンの柄のついたフォークがゲラーの手の中で破裂するのを目の前で見たのである。また、ゲラーはゾルカがイメージした犬の絵を描いてみせたが、その大きさと輪郭は一致していた。
「われわれが持つ知識を結集して検討しても、ユリ・ゲラーがおかれていた状況下では、いかなるトリックも不可能である」と、ゾルカは書いている。ディクソンは、ゲラーと出会った翌日の一九七五年六月三日、ゲラーあての丁重な手紙の中で、今後のテストにおける協力を申し出た。彼は、「あなたは私に、あなたの能力を立証してみせた。あなたを偽物と呼ぶ人こそ偽物であり、売名行為をしているのだと確信するようになりました」と書いた。
 ディクソンとゾルカに対する手品師たちの反応は興味深いものであった。ジェームズ・ランディは、出版したばかりの“反ゲラー本”の宣伝のために各地を巡り、声明文を発表した。それは、ゾルカによれば、一九行の文の中に九つも事実に反したことが書かれていた、という代物であった。ランディは、ゾルカの作った報告書が、実はゲラー自身の手によるものだと申し立てたのである。
 これに対し、ゾルカは手紙を公表(一九七六年一月六日)し、その中でランディの申し立てを厳しく非難した。彼の結論は少し長いが次に引用する。なぜなら、この意見は他の多くの反ゲラー派の人々にあてはまるものだからである。
 「ランディは、論争が金になるものだと思っているのだ。『ランディ対ゲラー』の論争が盛り上がれば、自分の本がもっと売れるだろうと思ったのだ。
  私は、ランディの言い分と、私の信用を彼が傷つけようとしたことについて論じてきた。それは少しも難しいことではなかった。彼の声明は実体を欠いている。それはランディが実体を探そうとしなかったからではなく、もともとそんなものがなかったからである。
  ランディが、超心理学分野で真の答を探している私を含む真剣な科学者や調査員を、営利目的のために攻撃していることに対して、私は賛同しかねる。
  ゲラーの件に関して彼が行った行為には、超自然現象への真剣な調査に対する敬意が欠けている。これは特に、ユリ・ゲラーを調べた科学者たちの名誉にかかわることである。ランディはまた、超心理学に携わったことのある科学者全般をバカにしたのである。
  ランディは自らを『誤った情報に惑わされる哀れな民衆』を救う十字軍である、と認められようとしているが、それが事実かどうかは疑問である。
  ランディ一流の営利主義は私の趣味に合わない。私は、正確な記録を残したいと願う多くの人々の中の一人である。ランディは、自説の矛盾によって自分の正体を暴露したようなものであり、彼のえせ論評は事実上根拠がないに等しい。これによって彼はいっそう、信用のおけない情報提供者と見られつつある」
 ランディにとって踏んだりけったりだったのは、ゾルカの属する協会の会員六人が、個人的にゲラーに送った手紙の中で、同報告書の内容は、「比較的経験の浅い調査員の意見にすぎない」と書いたことであった。折しもこの同じ協会は、ゾルカを最優秀マジシャンに選んだところだったのである。
「もし、ディクソン氏と私が、ゲラーが何らかのトリックを使っているところを発見し、それを発表したとしても、誰も気にもとめなかっただろう。矛盾しているではないか」と、ゾルカは言った。
 彼とディクソンは、ゲラーを真剣に調査する人なら遅かれ早かれ感じたであろうことを感じていたにすぎない。この感情は、事情は少し異なるが、一九世紀のラテン・アメリカの改革者、シモン・ボリバールの言葉にあるものに似ている。「革命のために身を捧げた者は、海を押し分けて進んだのである」。


  14 魔女狩り

 米国のゲラー迫害運動──サイコップの超能力つぶし

 イスラエルと同様、米国においても、ゲラー出現と同時に反ゲラーの迫害運動が始まった。主張もまた同様なもので、ゲラーを科学研究の対象とさせないということと、人々がゲラーの影響を受けないようにする、ということだった。
 迫害初期の様子は、『スーパーマンを探して』の著者であるジョン・L・ウィルヘルムが明らかにしており、彼は、その主謀者をマーチン・ガードナー(『サイエンティフィックアメリカン』コラムニスト)、ジェームズ・ランディ(マジシャン)、レオン・ジャロフ(『ディスカバー』編集長)だと指摘している。
 ガードナーは、「オカルト信仰はデマを広めデマが広まる素地を作る。これはヒトラーの率いるナチスドイツが台頭した時の状況に似ている」と主張し、ステファン・カンファー(一九七四年に『タイム』三月のカバーストーリー『超能力者』を掲載)も、超自然現象の研究を行った組織の撲滅を訴えた。
 そんな中でウィルヘルムは、ゲラーに対する論理的批判と、「反モラル的中傷」との区別が、ゲラーを支持する主張を評価するのと同じくらい困難であることに気づいた。どちらの意見も個人的偏見に基づいていたからである。
 たとえばランディは、SRIでパソフとターグが行った実験結果を否定し、自分自身は実験現場に立ち合っていないのにもかかわらず、「厳密な条件設定ができていなかったに違いない」と言ったのである。
 米国でのゲラー狩り本格化のきっかけとなったのは、レオン・ジャロフが一九七三年三月一二日付『タイム』に掲載した記事である。そしてその記事が書かれた背景には迫害者たちの意図がある。ウィルヘルムは、ガードナー、ランディ、ジャロフらがゲラーにまつわる情報交換をひんぱんに行っていたことを指摘している。
 一九七五年に超常現象科学調査委員会(CSICOP)が設立されると、「オカルトの害からアメリカを救え」という運動が新たな盛り上がりを見せた。
 CSICOPの代表は、心理学者ポール・クルツと社会学者マルセロ・ツルッチであるが、設立者として、ガードナー、ジャロフ、ランディ、さらにアイザック・アシモフやカール・セーガンらが名を連ねた。
 CSICOPにとって最初のとりくみは、ミシェル・ゴークラン(フランスの心理学者であり統計学者でもある)の「成功する人と、その誕生日における星の位置との間には、重大な関連性がある」という主張を追跡調査することだったが、結果はゴークランの主張と同じものになってしまった。
 この事実は公表されなかったが、後にメンバーの一人に暴露されることになる。そんな中で、少なからぬ人々がCSICOPを去った。
 やがてCSICOPの活動は、科学的調査活動から、超能力研究に対する妨害工作へと変わっていく。ランディは、故ジェームズ・S・マクダネル氏が設立した超心理学研究所に二人の若いマジシャンをもぐり込ませ、二年近くもの間、超能力者のふりを続けさせ、研究員がだまされたことを公表して、その研究所を閉鎖に追い込んだのである。
 CSICOPは、学問的団体というよりも、アメリカヒューマニスト協会と結びついた政治的組織といえよう。ヒューマニスト協会とのパイプになっているのは、心理学者ポール・クルツであり、彼は協会の理事と機関誌の編集員とを務める。CSICOPとアメリカヒューマニスト協会の基本的思想は「広範に広がったオカルトへの興味はファシズムへとつながる」というものである。

 東側諸国の超能力研究

 ヒューマニスト協会やCSICOPがアメリカ社会から超能力を駆逐しようとしている一方で、皮肉にも共産圏の国々では事情が全く異なる。
 ソ連では、太陽生物学という、太陽と宇宙からの放射線が生命体に与える影響についての研究がすすんでおり、その媒体となり得るものすべてが関心の対象になっている。したがって学術用語も、テレパシー透視「バイオインフォメーション・トランスファー」念力「バイオフィジカルエフェクト」超能力者「エキストラセンサー」と表現し直すなどの変化がみられる。また、ユリ・ゲラーと同じように、超能力を生業とする人々もいる。その他、ポーランド、ブルガリアなどの東欧諸国でも、超能力研究は積極的に行われている。
 東側諸国での超能力に対する態度が「何か面白そうなことがある。どんなものか調べてみよう」というのに対して、西側諸国では「何か危険なことが起こりつつある。つぶしてしまえ」という態度が多いのである。
 すでに挙げたような攻撃が一五年続いた現在、「ユリ・ゲラーは偽物である」という意見が一般的になってしまった。しかし、多くの人々はその情報の真偽や出所さえ知らないのである。
 何か新しい仮説が立てられると、科学的に証明するというのが通常の手順だった。条件を変えて実験した結果を公表するのである。
 最近の例では、「DNAの二重らせん構造」や「ジョセフソン効果」のように、歴史上最新の発見は、技術革命に貢献したものとしてすみやかに受け容れられる。ノーベル賞も、結論をくつがえす発表がなければ、直ちに発見者に送られるのである。
 では、なぜゲラー効果を発見したパソフとターグには賞が送られないのか。これには多くの理由があるが、最大の理由は、ゲラー効果の正体が解明されていないことである。ターグ本人が著書『マインド・リーチ』に記したように、「科学の世界では“起こり得る”ことは関心の対象にならない。可能性だけでは不十分」なのである。

 超能力研究をはばむ理由

 人間の精神は、宇宙で最も複雑なものであり、研究室でマイクロチップやDNAの鎖のように予想どおりの反応を期待できない。超能力に関わる実験は、被験者と実験者の少なくとも二つの精神がからんでいる。であるから当然、超能力は微妙な刺激に影響され、条件が完全にそろったときにのみ発現すると考えられる。そして、被験者と実験者とが二人とも毎回同じ精神状態で実験を繰り返すことはまず不可能なのである。
 超能力研究が受け容れられない理由は他にもある。前述のように、超能力説に反対する人々は、純粋に疑問をもっている人々と、理由もなく疑っている人々とに分かれる。
 前者は、そういった現象があり得ないものとみなしているので、明確な証拠がない限り受け容れないのである。
 後者は、自ら閉じこもった世界で体験しなかったことは、どの世界でも絶対に起こらないと決めつけているので、それを否定するために証拠をつぶそうとするのである。
 三世紀前、ヨハネス・ケプラーは彼の弟子たちに占星術について「天文学が育てた娘」であるから、「赤子を湯舟の水といっしょに捨ててしまう」ことのないよう警告した。彼は、
「星座の及ぼす影響に対する信仰は経験の中から生まれ、説得力の高いものである。研究したことのない者は、それを否定するが、天が人に働きかけるのは明白で、ただどう働きかけるのかがわからないのである」
と記している。それを探し出すには、あらゆる仮説を試すことである。
 そして、これが超能力研究者の多くが採用している研究態度である。もちろん研究者たちは、ニセ超能力者やニセ研究者が残した弊害を承知している。
 歴史家ブライアン・イングリスは、『隠れた力』(一九八六年)の中で、ダニエル・ホームからユリ・ゲラーに至る超能力研究史上「暴露」と称した妨害が、ケプラーの言葉にあるベビーキラーによって行われてきたことを明らかにした。
 超能力にまつわる最近の二大スキャンダルは、いずれも内部告発である。故J・B・ライン博士の部下の一人が、コンピュータでニセのデータを作ろうとしているところをみつけられ、即刻解雇されたことが公表された。
 また、ベティ・マークィックは、一時は大御所とまでいわれたS・G・ソール博士を告発して、テレパシー研究の権威としての名声を地に落とした。このように超能力研究の世界には、自己復元力があるのだ。
 現在、ゲラー批判であればどんなことでも受け容れられる。『リーダーズ・ダイジェスト』さえも、科学者の声よりマジシャンの声をとりあげるといった具合である。同社が出版した『説明されない不思議』には、「ゲラーの術はすべてトリックと考えられる」と書かれている。この主張は、二人のマジシャンに端を発していた。一人は、『ヒューマニスト』誌に意見を掲載したものを引用していたが、もう一人は、シルボーン・クリストファーで、ゲラーは隠し持った磁石で時計を止めると主張した。しかし、ゲラーは時計を止めるパフォーマンスをやったことはないのである。
 しかし、超能力に関するすべての問題がゲラーにかかっているという訳ではないのだ。ウィリアム・ジェームズが言ったように、ゲラーの能力はありふれたレベルのものである。ゲラーと同じことができる人は他にもたくさんいた。しかし、彼はそのすべてを堂々とこなすという点において他の人々とは違っていた。そこで、結論を出す前に、他の人々の活動について一章をさこうと思う。


  15 超能力実用化の可能性

 超常現象の用途に関するシンポジウム

 一九八三年一一月三〇日、一二月一日の二日間、バージニア州リースバーグにおいて、「超常現象の用途」についてのシンポジウムが開かれた。これは、カリフォルニア州サンタバーバラにあるカマンサイエンスのシンクタンク的部門であるカマンテンポが主催したもので、「政府外の科学者グループから政府内の要人および科学者たちに詳細な研究内容と可能な用途を報告する」という名目で行われた。発表に立ったのは一九人で、中には有名大学の学部長もいた。ゲストは「科学者、民間人、軍からそれぞれ幹部が集まった」とされているが、ゲスト・リストは未公開である。
 科学者たちによる政府への情報報告会は、各国でひんぱんに行われているが、このシンポジウムはどこか異なっていた。主催者であるカマンテンポのスコットジョーンズ博士によれば「目的は幹部研究者たちをワシントンに招き、一九八三年現在の念力現象応用力について意見を交わして一九九〇年代を見通す」というものであった。
 議題はテレパシー、透視、予知能力から人と機械の相互作用システム(人がコンピュータ内部に影響を与えること)、輪廻転生にまでわたり、超常現象の軍事的利用も議論されたが、肝心なことは、議論の目的が念力現象の存在確認ではなく、応用例示にあったことである。
 リースバーグ・シンポジウムの経過報告には、ゲラーの名は出ていないが、スプーン曲げや、読心術による遺失物や行方不明者の捜索、天然資源の探索などの、ゲラーが得意とするものが多く議論された。それらを二つに分けると、以下のようになる。
 一、超常心理現象…テレパシー、透視、予知、遠距離探知(占い棒)
 二、超常物理現象…念力、微視的レベルから巨視的レベル全般における物体と精神の相互作用

 “透視能力はほとんどの人に備わっている”

 超常現象として最初に議論されたのは、透視であった。SRIインターナショナルではこれを「リモート・ビューイング」と呼ぶが、一九七三年五月二九日からプロジェクト・スキャネートに着手した。実験を担当したのは二人のレーザー物理学者、ハロルド・パソフとラッセル・ターグであり、彼らは前年にユリ・ゲラーについて超常現象の研究を開始していた。今回の実験対象になったのは、インゴ・スワンというニューヨーカーの芸術家兼作家だったが、彼は超心理学分野では多くの著書を持ち、自分の能力をテストするにも多くの自論を持っていた。そもそもこのプロジェクト着手のきっかけは、彼が、離れた場所から座標だけを頼りに有益な情報の調査を試みると発案したことにあった。だからスキャネートという名前もスキャン(調査する)に由来する。
 スワンはトランス状態に入るにあたって特異な行動を必要としなかった。ゆったりとくつろいだまま葉巻を吹かし、コーヒーを飲むと、与えられた座標をもとに、何千マイルも離れた土地のことをスラスラと描写し始めた。スワンが描写した正確な地図の中には、太平洋の孤島、ケグーレン島があった。表向きには気象研究所とされているが、実際にはソ連のミサイル探知基地になっていた。
 プロジェクト・スキャネートの対象地点は、その後新たに六地点が指定されたが、いずれもCIAの調査官として心理分野を調べていたロン・マクレーが指定した。彼の著書『マインドウォーズ』(一九八四年)によれば、後に彼自身も被験者となり、自分の描写がスワンその他の被験者たちと同じくらい正確なことに気づき、三回続けて成功した時に「これはいける!」と思ったとされている。
 プロジェクト・スキャネートは二年間続き、実験回数は百回以上に及んだ。CIAが選んだ対象は国家安全局との絡みから、ソ連の軍事機密基地をいくつか含んでいた。スキャネートの対象は、人工衛星によって後に確認され、中には非常に詳細なものもあった。その他の対象はもっと近くで、ワシントン近郊の基地など、外観ばかりか鍵のかかったファイルキャビネットの中味までも描写された。
 SRIのリモート・ビューイング調査報告の中で、パソフは、他にも同様の成果を上げた研究グループとして、ロバート・G・ジャン博士率いるプリンストン大学グループを指摘している。
 特に博士が「透視予知能力」と呼ぶ分野においてはとりわけ成功していた。ジャン博士の説明によれば、被験者たちは調査団が現地入りする数時間前、時には数日前に探知を完了してしまうという。そればかりか対象地点が選定される以前に探知してしまうこともある。
 SRIとプリンストン大学グループの研究から意外な事実が発見された。それはリモート・ビューイングの能力はほとんどの人々に備わっており、訓練によって伸ばすことができるということである。知覚した形の解釈にこだわりすぎる人々が多いのである。そのことをパソフはこう説明する。透視者は「何か飛ぶものが見える。羽根はあるが鳥ではない。虫から出てくるが、名前はわからない」というように表現し、それが蝶ではないかと言われるとそれに同意するのである。
 リモートビューイングに関する研究結果と脳半球の働きについての報告との間には驚くべき類似性がみられる。ロジャー・スペリは脳の分割研究でノーベル賞を受賞したが、苦痛を抑える目的で脳を左右に分けてしまったとき、各半脳が外からの情報に対して全く異なった反応を示すことを発見した。
 左脳だけを使うと物事を言葉で表現することはできるが、物の形や感覚がつかめないのである。右脳だけを使うと形態や印象はつかめるが、それに名前をつけることができない。完全な脳をもつ正常な人が左右の脳を別々に使っているという考え方は全く間違っている。人間の脳は一つの統合体である。それでも、人間には二つの思考形態があることを私たちは経験から知っている。一つは論理的、分析的思考であり、もう一つは直観的思考である。
 私は拙著『イフ・ジス・ビー・マジック』の中で、左マインド、右マインド、と名づけ、正常な脳は両方の形態を全面利用するはずのところを、むしろ片方がもう一方を妨害することがある、という点を指摘した。たとえば直観と論理的感覚が相反することは多い。また、直観を抑えて論理的に行動したとき、それが間違いで、正しい情報をつかんでいたのは直観側、すなわち右マインドであったことに気づくこともある。
 これは、リモートビューイング実験中に繰り返し起こった現象そのものである。透視者の中には目標物を驚くべき正確さで知覚する者がいるが、言葉や紙上に表現するときにひどい間違いを犯すのである。インゴ・スワンはこの現象を「分析上の重複」と呼ぶが、右マインド依存による左マインド麻痺といえよう。
 この問題を回避するためには、同時に二人以上に透視させる方法が考えられるが、この方法はロスアンゼルスのステファン・シュワルツモビアス・グループとが開発したものである。
 彼は、異なる分野から幅広く透視能力者を集めた。そのチームは写真家、銀行投資家、元狩猟ガイド、主婦からなるものだった。一つの脳よりも二つの脳、三つの脳から、より良い結果が得られることはすぐにわかった。彼はいくつかのプロジェクトで十一人に透視させたこともある。

 二人の透視能力者の実験

 彼は、自分にとって最も輝かしい功績について、リースバーグ・シンポジウムで発表している。
 彼は、ペンシルバニア州ランカスター郡の地方検事から、行方不明になっている十四歳の少女救出を依頼されたことがあった。彼は少女の写真と行方不明であるという事実だけを知らされた。彼にも同じ年の娘がいたので、彼は大いに意欲を燃やしたが、そのときは二人の透視能力者しか集めることができなかった。
 その二人は、どちらも少女は死んでいると告げ、一人は頭部殴打、一人は窒息死を理由にあげた。二人とも、少女は暴行されており、顔見知りによる犯行だと言った。これらはすべてこの種の事件では十分に考えられることだった。しかしモビアスの透視能力者たちは事件を詳細にわたって描写したので、警察も納得して該当地域を調査することになった。
「死体遺棄現場の描写は完璧であり、そのとおり死体は発見された」とシュワルツは報告した。
 その後ある男が裁判にかけられ有罪となった。彼にはもともと容疑がかけられていたが、死体がみつからないため証拠不十分になっていたのだった。シュワルツのチームの協力によって事件が解決したことは記録にも残っている。ちなみに、その少女は頭部を殴打されたうえ、窒息させられていた。

 超能力による犯罪捜査

 超能力による捜査を発展させた次の例は、ニューヨークにあるアメリカンソサエティ・フォー・サイキカル・リサーチ所長、カーリス・オシス博士である。ゲラーがサムの息子事件解決に協力していたとき、オシスもまた、独自に六人の透視能力者による捜査をすすめていた。しかし、そのうち五人の情報は全く役に立たず、最悪の結果だった。残った一人が描き出した詳細な情報をゲラーが描き出した情報と合わせていたら、早期逮捕につながっていたかもしれなかった。彼女は、犯人がある郵便局の職員だといい、車のナンバーの一部まで言いあてていた。
 オシスは郵便局員を調べようとしたが、名簿閲覧を拒否された。しかし超能力による捜査の見通しに対してはいぜん楽観的だった。「何をし、どの仮説を試し、どうやって効率をあげるのか、才能を見い出し、育てる方法や、必要な装置やソフトウェアなどは明らかである」と彼はリースバーグで発表した。「犯罪捜査に超能力採用が本格化すれば、もはや犯罪者の逃げ場所はなくなる。大切なのはこれをとり入れようとする姿勢だ」としめくくった。
 同じ頃、私はその「姿勢」に偶然出会った。
 ある日、ロンドンのソサエティ・フォー・サイキカル・リサーチの図書館で調べものをしていたとき、若い婦人警官研修生がやってきて、彼女の研究題材のために役立つ文献を教えてほしいと言ってきたのだ。警察業務における超能力利用というのが題材だった。現在、すべての警察学校図書館に、W.S.Hibbard, R.W.Worring共著の『犯罪捜査における超能力利用法』(一九八二年チャールズ・C・トーマス発行)があるよう願っている。
 私はまた、カナダ王立騎馬警察のある隊員に出会ったが、超能力をもつ女性を伴って行動し、彼女から殺人などの重要事件に関して正確で有益な情報を得ていた。このような姿勢はあちこちで見られる。
 リースバーグ・シンポジウムの参加者は、超常心理現象がかなりひんぱんに起こり、有効利用が可能であるばかりか、たやすく起こせるという結論に達したことだろう。

 実験装置を狂わす

 念力超常物理現象は、どちらも全く別の問題である。法則性がまるでわかっていないうえ、もともと予測できないものであるため、科学者たちが研究室へ持ち込みたがらないのである。次に挙げるのはその一例である。
 SRI施設で高価な実験装置を狂わせたのはユリ・ゲラーが初めてではない。最初にやったのはインゴ・スワンである。彼がかかわった実験は、ゲラーとD─ARPAコンピュータの一件よりも科学的に受け容れられやすいものだった。なぜならスワンは言われたとおりにやったからである。実験に使われた場所は、スタンフォード大学にヴァリアン物理館の地下室(SRIは現在独立している)で、実験担当者はハロルド・パソフ、一九七二年六月のことで、当時ラッセル・ターグはゲラー研究に携わっていなかった。
 パソフはまず、微量の磁気以外の外界からの刺激に無感覚の計量器を動かすよう、スワンに依頼した。この器材は通称スキッドという超電導の磁力計で、コンクリートの床下に埋められていた。
 スワンは、厚いコンクリートの下にある、見えない対象に働きかけなければならないと知ったとき、自分はだまされたのだと感じた。とっさにパソフの顔を殴って、ニューヨークに帰ろうとさえ思ったが、「失敗すればそれまでだが、うまくいけばもうけものだ」と考え直し、自分を錯乱状態においてから氷のように冷たい調子でパソフに何をすればよいのか尋ねた。パソフは、「コンクリートの中に下りていって磁場を妨害して下さい」と言った。成功すれば記録用紙に異常が認められるだろうということだった。
 スワンは以前にも人体遊離能力を披露したことがあったが、その間に物体に働きかけるというのは初めてだった。彼は「自分が何をしていたか覚えていないが、これが最後になってもみんなをアッと言わせてやろうと思っていた」と言った。彼はそれから、三人の科学者を前に、機械の仕組みがわかると言い、スケッチを描いてみせた。科学者のうち一人はスキッドの設計者であった。彼は「これは私が特許をとったばかりのもので、誰も知るはずのない仕組みなのに」といって驚いた。パソフもまた、記録用紙上の振動数が約三十秒間、二倍になったことを報告している。この用紙は、その部分にスワン、パソフ、マーティン・J・リー博士の署名入りで公開されている。
 神経質な笑い声で我にかえったスワンは、自分が何か意味のあることをしたのかと尋ねた。答えは「まあ、もしもう一度できればの話だが」ということだった。スワンは「もう一度やったら、私がやったと認めるのでしょうね」と言った。
 スキッドを考案したアーサー・ヘバード博士は、もしかしたら機械の具合が悪いのかもしれないが、スワンが機械を完全に止めることができたら認めると言い出した。
 五秒経過後に、磁力計も記録計も、どちらが先かはわからないが、作動不能状態になり、四五秒間続いた。記録計の針は安定したサイン波の上下動をやめ、直線を描き出したのである。実験者の一人が妙に笑い出し、スワン自身も笑い出した。しかし、実験者たちはまたも、もう一度やれないかと聞いた。
 スワンは辛抱強く試みたが、失敗した。実験者たちを見返してやろうとしてがんばると、必ず最高の結果が得られる、と彼は言う。しかし、自分のやりたいことを達成してしまうと、その力は消えてしまう。
 パソフは、記録用紙に直線で示された四五秒間が、スワンがトライしていた時間と一致しており、その後数分間、スワンの気をそらすために会話した時に記録用紙に正常なサイン波が戻ったと記している。

 一〇年にわたる超能力実験

 それから一〇年にわたって、超能力に関する実験は合計二八一件行われた。なかでも優れたものはSRIとプリンストン大学工学部のロバート・ジャン・グループによって行われた。SRIでは一九七六年に、パソフ、ターグの他に原子物理学者エドウィン・C・メイ博士が研究に加わった。
 リースバーグでも報告されているが、RNG(無作為数字発生器)を超能力研究に利用するのが最近の傾向である。RNGは放射性物質が崩壊するときに起こる分子の流れを、光や数字に転化させて表示するもので、数字の出方は予測がつかない。
 プリンストン大学グループは数カ月にわたって八名の被験者を対象にRNGを使って実験を行ったが、八名のなかには好結果を出したものもいる。
 離れた位置から分子の流れを変えられるなら、コンピュータを混乱させることもできるはずだが、実際に労もなくマイクロチップを狂わせる男の話が、一九八五年四月発行の『コンピューティング・ウィズ・アムストラッド』というあるメーカーの社内誌に掲載されている。
 ピーター・ストリックランドという職工は、「私が近よると、ほとんどのコンピュータはまちがいなく故障する」という悩みを抱えていた。ある工場見学に出かけたとき、生産管理のコンピュータが、彼が近づくたびに狂ってしまったために、混乱を起こしてしまった。彼は自分の電卓さえ正常に使えなかった。
 電気に関しては、低周波が人体に影響を与えることが明白である。ドーセット州フィッシュポンド村では、住民による送電線移設を求める運動が一〇年以上続いていた。心臓発作による死亡率の高さや、車の運転中に意識を失ったために起こる交通事故の数と、送電線との間には何らかの関係があり得た。
 同様の現象がグリーンハムコモン空軍基地にも起こっていた。NATOのミサイル基地で、反核運動グループの女性たちが座り込みを続けていたが、ここには妙なレーダーが設置されていた。通常のレーダーとは異なり、地面に水平に向けられているのである。一五マイルに及ぶ周囲に張りめぐらされた金網に近づくと、目の焦点がずれる感じがした。座り込みのメンバーたちはもっと悪化した症状を訴えていた。

 超能力コントロールのメカニズム

 電気が人体に与える影響については、それなりの解釈ができるが、人間が電気に与える影響となると、ずっと神秘的な問題になる。シラキュース大学のロバート・モリス教授は、事故にあいやすい人たちに共通する性格について、理論物理学者ウルフギャング・パウリの例をあげた。彼の同僚の手記によれば、パウリが研究室に入るだけで、器材が落ちたり、壊れたり、揺れたり、焼けたりしたという。
 モリスは「逆パウリ効果」として、故障した磁力計に近づくだけで直してしまう修理工の例を挙げた。彼が近づくと磁力計は作動し、離れると止まったという。モリスはこれらの現象について、「機械設備の異常故障は作動する人のストレスと関係がある」という仮説を立て、次のような実験を行った。
 大学生三十二人を二つのグループに分けた。一つは、スポーツや競技全般を楽しむ人のグループであり、もう一つはそうでない人のグループである。さらに二通りの指示文書を用意し、各々「努力型」「非努力型」とした。
 被験者は、全員、座ってコンピュータ画面をみつめることを依頼された。画面には点が不規則に散らばって上から下へと動いており、左右に少しずつずれている点を一方に寄せるように指示された。被験者の半数は「努力型」の指示を受けた。
 つまりムキになって作業にとりくんだのである。他の半数は「非努力型」の指示を受け、のんびりくつろいで楽に操作するのだった。
 結果を集計すると、「努力型」と「非努力型」に大きな違いはみられなかった。しかし、「努力型」の指示を受けた十六人のうち十三人は予想レベル以下の結果を出し、「非努力型」指示を受けた十六人のうち十四人は予想レベルを超え、結局、熱中した人ほどまずい結果を出したのである。
 次にモリスは学生の数を二倍に増やし、同様の実験を行ったが、今回は「非努力型」学生に軽い催眠術をかけ、前回以上にリラックスさせたところ、二つのグループ間に何の違いもみられなかった。ところが、この実験中にコンピュータが故障を繰り返す事態が起こった。
 これについてモリスは、被験者の性格と照らし合わせながら、故障を起こしやすい人々は自分の任務に対して懐疑的態度であり、操作段階で不安に陥りやすい、ということに気づいた。
 この視点から、ゲラーの東海大学でのスプーン曲げを考えると興味深い。ゲラーは競争心旺盛な「努力型」人間である。スプーン曲げの連写写真を調べると、「努力型」から「非努力型」への切替えの過程がわかる。彼は、初めのうち努力を集中してスプーンをこすり、ある時点でリラックスする。その時スプーンが曲がるのであり、手を離した後も曲がり続けることがある。
「非努力型」人間は、努力する時間を経るとPK(念力)テストで最も成功しやすいのに対し、「努力型」人間は、「非努力型」にモードを切替えた瞬間にだけ成功するようだ。さらなる探究を期待する。
 別の試みとして、リースバーグでは「スプーン曲げ講習会」が開かれた。参加者にスプーンが配られ、ジャック・ハウクの指導で次のような手順が示された。

 一、 心を一つに集中する
 二、 十分に緊張し、焦点をしぼる
 三、 念じたものを首、肩、腕、手を通して曲げようとする一点に注ぐ
 四、 曲がれと命じる
 五、 命令をやめ、自然に曲がらせる

 講習会が終わるまでに、二人の例外を除いた全員がスプーン曲げに成功した。例外の二人は、もともとスプーン曲げに興味のなかった女性と、監督に忙しくて集中できなかったジャック・ハウクである。これに成功した人々は、この能力によって環境や健康や将来もコントロールできるということを知った。
 ハウクは、スプーン曲げと同様のテクニックを使って大豆の種子を発芽させる実験も行った。種子を発芽させることは、当然起こるべきことの時期を早めたに過ぎないが、自然治癒に応用すれば大きな成果が得られる。
 テレパシー、透視、念力のような超常現象を、定着させ、実用化しようとする人も多い。この考え方のきっかけとなったのが、ユリ・ゲラーなのである。
 ハウクは「ユリ・ゲラーは人々に念力の可能性を示したことによって世界に大きく貢献した」と語った。これはまた、ゲラー自身が意図してきたことでもある。




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