【9】生き残った人々の運命

 
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投稿者 全文 日時 2000 年 7 月 03 日 23:01:54:

回答先: 「Rape Of Naning」日本語訳 投稿者 全文 日時 2000 年 7 月 03 日 23:00:06:

【9】生き残った人々の運命


南京大虐殺の学者の中には、IMFTEの終結後から戦犯裁判が少しずつ催され出した陰気なこの手段を批評する者がいます。南京市民を苦しめた日本人の多くが、日本政府から充実した軍事手当と恩恵をこうむっている間、何千人もの被害者たちは暗い貧困生活や恥辱生活や慢性の肉体苦痛や精神苦痛を与えられ、現在に至るまで苦しみ続けています。
この正義が反転する中枢瞬間は冷戦の到来と共にやって来ました。アメリカ合衆国は本来、人々を戦争に巻き込む日本の指導者たちを追放して、日本を民主主義国家にしようと考えていました。しかし戦後にソビエト連邦がヤルタ会談の規約を破り、ポーランドとドイツの一部を奪い取ったのを区切りに共産主義の「鉄のカーテン」が、東ヨーロッパ全体に降り掛かると、中国も毛沢東の共産党軍が1949年に蒋介石の軍を敗り、台湾へ政府ごと退却させ、「竹のカーテン」で包まれることになりました。そして1950年に朝鮮戦争が火ぶたを切り、最終的に100万人の朝鮮人と25万人の中国人と34,000人のアメリカ人の命が奪われました。そしてアメリカ合衆国は中国とソビエト連邦を戦後の新しい敵に見立てると、日本を急に戦略上、重要な国とみなし出しました。そしてワシントンはアジアの中で今まで以上に共産主義に対抗しようと、日本に安定した政府を維持する決定を下しました。アメリカ合衆国は日本の戦前官僚制度の大半をそのまま残し、戦争中の加害者たちの多くを処せずに許しました。従ってナチス政権が再検討された上に取り替えられ、大勢のナチス戦犯が追い詰められて裁判にかけられたのと違い、戦時中の日本上官役人の多くは再び力を取り戻し、繁栄を手に入れました。さらに1957年、かつてA級戦犯で投獄された男が日本で総理大臣に選任されることもありました。
これと同じ頃、南京大虐殺の生存者たちは、公共世界の視野から見えなくなっていました。冷戦と毛沢東が君臨する混乱した月日の期間、南京を含む中国全土が国際社会から孤立することになりました。そして中国共産党政府は西側諸国とのコミュニケーションを数十年間に渡り、断絶しただけでなく、南京安全地帯の管理者として何十万人に上る中国人の命を救った人々を含む南京に残っていた外国人たちを国外へ追放しました。
1995年の夏に私は南京大虐殺の生存者の口頭による供述をビデオテープに収録した最初の西洋諸国出身者になりました。今さら言っても仕方のないことですが、もう10年早く南京を訪れていれば、街はまだ歴史維持を形作り、1930年代の建築物も多く残っており、虐殺の形跡が損なわれていない状態で私は多くの事実を発見できたことでしょう。しかし1980年後半から1990年前半にかけて、南京は土地投機と建設の狂乱を受けて大半の古い景色が破壊され、濃いスモッグの下に新しい豪華なホテルや工場や高層ビルやアパートが建てられました。あの有名な南京の壁でさえ、観光用に残された数門を残して消滅してしまいました。
私が南京大虐殺の話を知らずにこの現在、非常に混雑して密集し、繁栄している街に訪れていたなら、街の人口が虐殺時の少なくとも10倍に膨れ上がっていることを感じることはなかったでしょう。しかしこの繁栄下の隠れた景色の中には、老いた南京虐殺の生存者のような過去に通じる人間のつながりが存在します。街にいる学者が私を南京全土に散在している数人の生存者たちのもとに案内してくれました。
そこで見たことは、私に衝撃と意気消沈を与えました。大半の生存者はカビが生え、湿度が高く、瓦礫の散らかった暗く汚いアパートで貧困の生活を送っていました。そして虐殺中に肉体に深刻な傷を受けて、何十年間も適切に生活を送れない者たちが存在することを知りました。その大半の者が日本からの最小賠償金で大きく生活状態を回復出来るかも知れないにもかかわらず、それさえも打ちひしがれて貧困の中で生活を送っていました。日本からたとえ100ドルでも賠償されて空調設備を購入できれば、彼らにとって大きく世界が変わるに違いありません。
戦後の生存者たちの中には、中国政府が日本に賠償金や公共謝罪を要求し、正当性を立証するという願望にしがみついている者たちがいました。しかし国際的法を広めるために日本との同盟結成を強く望んでいた中華人民共和国政府(PRC)があらゆる時代に渡り、日本人が犯したことを許すと公表し、この願望はいち早く打ち砕かれました。さらに1991年に中華人民共和国政府は日本の総理大臣を中国大陸に招くことも行ないました。このニュースを聞いた被害者たちは、二回目の虐殺を受けたように感じたり、中には自分自身を二重に裏切られた被害者と考えている者もいました。(最初は、南京が侵略される前に街から逃げ出した国民党兵士に裏切られ、二度目は、日本に彼らの運命を売り渡した中華人民共和国政府に裏切られました。)
国際人権弁護士のカレンパーカーによると、中華人民共和国政府はこのような日本との融和的な声明を確かに出しましたが、戦争犯罪の国民損害賠償金の要求を断念する条約を日本と結んだ訳ではありません。さらにパーカーは、たとえ条約が結ばれていたとしても、戦争被害の賠償金を要求する中国の人々それぞれが持つ権利を侵害することは、jus cogensの原則下では許されないとも主張しています。
しかし私が南京で話した生存者の大半は、国際法に関する複雑な事柄を知らずに、中華人民共和国政府は既に賠償金を求める権利を失ったと思い込んでいました。中国と日本政府の友好関係に関するニュースは、どれも彼らに無念な気持ちを抱かせました。南京大虐殺中に日本人の手で焼き殺されそうになった男性は、中華人民共和国政府が日本人の犯した過去の犯罪を許したと言う噂を聞くと、途方もなく涙を流したと言っていました。また南京虐殺中に父親を処刑された女性は、母親が日本の総理大臣訪中のニュースを聞いた途端に卒倒したと言っていました。


同じく南京安全地帯を組織した外国人たちはどのような運命をたどったのでしょうか?彼らは南京の中国人を救うために自らのエネルギーと健康を犠牲にしたにもかかわらず、多くの西洋人が人生や後世に当然、受けるに値する功績や処遇を全く手に入れられませんでした。第二次世界大戦のこの忘れ去られた英雄たちに捧げる有名な本や、シンドラーのリストのような強烈に世界社会の想像を捕らえる映画ももちろん存在していません。彼らの精神は、主に数少ない記事やベルリンからサニーベイルまでの屋根裏部屋の中や、そして彼らのことを単純に南京を救った生き仏として記憶しているわずかな中国の生存者たちの心の中などに生きています。
大半の南京の生存者たちは安全地帯のリーダーたちの行なった功績を知っていましたが、最終的にリーダーたちがどのような人生をたどることになったのかを知っている者はほとんどいませんでした。私が中国で会見した生存者たちは、この守護者の中には、最終的に中国から名誉を汚されて追放され、母国では尋問と疎外に合い、取り返しのつかない肉体的や精神的な傷を負って苦しんだ者たちがおり、中には自 殺を犯した者さえいることを知ると、深い悲しみを表しました。この外国人の英雄たちも南京大虐殺の行き遅れた犠牲者と言えるに違いありません。
マイナーシールベイツとルイススマイスの体験は、南京大虐殺中にした英雄行為の事実がどの様に政治に歪められたかをよく表しています。朝鮮戦争中に中華人民共和国政府はアメリカ人を、大虐殺時に日本人の援助をした悪党と描写する新聞記事を発行して、虐殺の事実を歪めました。ルイススマイスは、安全地帯の外国人が日本人に街を引き渡し、女性を何千人と売り渡したと非難している地方新聞記事を見ました。また国民新聞Xinhua Yuehao上の記事でも、1937年に南京に残っていたアメリカ人たちは、「アメリカ政府の帝国主義政策によく応じていただけでなく、中国の人々の血や骨で自分の会社や教会や学校や住居を保護していた。」と批評してありました。この記事の制作者は、国際安全地帯委員会のことを日本の侵略者と「深い共謀」を結んでいた帝国主義組織だと強調して、「アメリカの悪魔が名前を大声で呼び出し、日本の悪魔が呼ばれた者を連行して処刑していた。」という一人の中国人生存者の言葉を引用しました。
そして虐殺の写真と共に、「南京大虐殺を忘れるな。アメリカ人による日本の再軍国化を阻止しろ。」というスローガンが掲げられた記事が印刷されました。
このようなプロパガンダにスマイスは衝撃と恐怖を与えられ、彼の中国語教師が「スマイス先生、この街には貴方が人々のために行なった行為を知っている10万人の人々がいます。何も心配する必要はありません。」と言って安心させようとしましたが、結局、南京には幾ばくも残りませんでした。1951年、彼は南京大学の地位を離れ、後世を米国のケンタッキー州レキシントン神学校の教授として過ごしました。そしてベイツも共産主義者たちに自宅監禁されるはめになりましたが、同様に南京を去りました。
しかしスマイスとベルツは、他の仲間ほど苦しい目に合った訳ではありませんでした。委員会メンバーの中には、この虐殺事件によって人生を縮めることになった者もいました。ジョンマギー牧師の息子デビッドマギーは、日本兵に対処したストレスが父親の死を早めたのだと考えています。さらに他の地帯リーダーの中には、何年間も精神的な苦悩に苦しんだ者たちもいます。YMCA南京支部長のジョージフィッチの娘エディスフィッチスワップによると、父親ジョージフィッチは日本兵の虐殺行為によって精神的な衝撃を与えられ、全く記憶を喪失することがあることに悩んでいたらしいです。日中戦争についての講演をアメリカ合衆国にある大きな組織の前でしている時に、フィッチは少なくとも二回の記憶喪失になったそうです。
南京大学付属病院外科医だったロバートウィルソンは、南京で行なった代償と引き換えに自分の健康を払うことになりました。彼の未亡人は、地帯委員会の他の医者たちが自分に丁度良いペースを慎重に歩んで寝不足を回復しようと少なくとも週に一度の割合いで上海に行き、保養していたのに対し、ウィルソンは無謀に休まず、ノンストップで働いていたことがこの原因だと述べています。自宅にいる時は、強姦を止めて欲しいと願う電話が殺到し、夜間の睡眠さえも妨げられる日々での外科手術は彼にほとんどのエネルギーを使い果たせました。彼はアドレナリンだけで手術を行なっている様なものでした。結果的に肉体が耐えられなくなり、1940年にひどい発作と精神崩壊でウィルソンはアメリカ合衆国へ戻されることになり、米国サンタバーバラ市で一年間の休息を取りました。そしてそのまま生涯、中国へ帰ることも、過労を完全に回復することもありませんでした。また発作や悪夢に苦しんだだけでなく、朝方に目の焦点が合わせられない病気にも悩まされました。
ミニーヴォートリンは命を代償に支払いました。南京大虐殺は彼女に対して、他のリーダーや避難民たちが考えていたより遥かに深い精神犠牲を負わせました。神話に匹敵する伝説的行動の裏に、日本兵の乱暴に毎日、身をさらすことから肉体的にも感情的にも回復しなかった疲労した女性がいると悟っていた者はほとんどいませんでした。彼女が最後に記載した1940年4月14日付の日記には、当時の彼女の心理状態がよく表されていることが書かれています。「私の体力もこれまでの様です。両手に何かの支障が生じて、もう一歩先んじる計画を建てることができません。願うことならば休暇を取りたいが、誰がそんなことをわかってくれるのでしょうか?」
それから二週間後、彼女は神経麻痺に苦しみました。日記の最終ページの下部に、間違いなく他の誰かに書き記された一文があります。「1940年5月、ヴォートリン婦人の健康状態が悪化し、アメリカ合衆国へ戻ることになりました。」彼女の姪は、ヴォートリンの同僚が医療介護のために彼女をアメリカへ送り返す大平洋の横断航行中に、ヴォートリンが何度も自殺未遂をはかり、彼女が船から身を投げ出すところを同行していた友人が危機一髪で止めたらしいと供述しています。アメリカ合衆国に到着すると、ヴォートリンは直ちに米国アイオワ州の精神病院に入院し、電気ショック療法を受けました。そして退院後、インディアナポリス市のキリスト教宣教協会で働きだしました。米国ミシガン州シェパード市の家族がヴォートリンを訪問しようとすると、彼女はそれを拒み、近い内に自分の方から訪問すると返事を返しました。しかしそれから二週間後に彼女はこの世を去ることになりました。南京を去ったちょうど一年後にあたる1941年5月14日、ヴォートリンは家の戸や窓をテープで封鎖し、ガス自殺をはかりました。
そして歴史家たちに何十年間に渡り、余生が謎に包まれていたジョンラーベの運命はどうだったのでしょうか?ドイツへ呼び戻される前にラーベは、故国で日本人の虐殺行為を広告し、へルマングーリンやアドルフヒトラーとの謁見を求めることを南京の中国人たちに約束しました。南京の人々はラーベのこの掲示で、ナチス党指導者が日本政府に殺戮を止める圧力をかけてくれるように祈りました。一人の中国人の医者はラーベの出発前に、中国人は共産主義者でなく、他の国家と調和しながら暮らそうとする平和を愛する民族だとドイツで告げてもらうように頼みました。1938年2月に涙の別れの会が催された後にラーベは南京大虐殺を映したジョンマギーのフィルムコピーを持ってドイツへと出発しました。そしてこの時を最後に彼の存在は全ての記録上から消え失せ、何十年間にも渡り、その後の行く先を巡って学者たちをまごつかせました。
私は次の二つの理由から、何としてもこの男性のその後の人生を調査する決意を固めました。理由の一つは、日本兵からアメリカ人宣教師と共に中国人避難民を救ったこの心優しいナチス党員の皮肉な運命について無視できないほど好奇心がそそられました。そして二つ目はドイツへの帰国後にラーベに何かひどい事態が起きたに違いないと確信したからでした。やはりラーベは南京の恐怖について仲間と共に証言する極東国際軍事裁判の席に現れませんでした。またラーベの友人による口頭会見の歴史資料からは 、なぜかラーベがヒトラーの政府と衝突していた徴候が示されています。しかしこの友人は具体的な詳細事項を述べた訳ではなく、私がこの資料を読んだ時にはもう彼はこの世にはいませんでした。
数々の疑問が何度も私を悩ませました。ラーベはヒトラーにフィルムと報告書を見せたのでしょうか?あるいはドイツのナチス機関の中に深く吸い込まれ、ユダヤ人虐殺に寄与したのでしょうか?これは断じてなかったことを祈ります。(彼が南京で行なった英雄行為の記録を見る限り、これは断じて考えられないことですが可能性がない訳ではありません。)おそらく戦後に刑務所に投げ込まれたのかもしれません。または法からの逃亡者になって余生をラテンアメリカの国などで生き延び、誰も彼の行き先を知らなかったのかも知れません。さらに私は彼が南京大虐殺についての個人日記を書いていたかという事も疑問に思いましたが、たとえ彼が日記のような書類を書いていたとしても、おそらく戦時中に空襲爆撃で焼き払われて、既に破壊されているに違いないと考えました。そうでなければ、この資料は世界の公文書として、どこかに保管されているはずです。しかし私は行動することに差し障りはないと判断し、ドイツへ手紙を出すことにしました。
そして私はラーベについてのある重要な手掛かりを見つけました。世紀がちょうど変わる時期に彼はハンブルグで実習生として働いていました。おそらく彼はそこで生まれ育ち、家族と共に暮らしていたのでしょう。私はどうにかしてハンブルグでカギになる情報源を掴まなければなりませんでした。そしてある老いた友人に助けを求めました。「国宝」と呼ばれる学者ジョンテイラーは、ワシントンの国家記録保管所で半世紀以上も働き、世界中の名のある歴史家たちをよく知っている人物です。第二次世界大戦中の中国におけるドイツ人社会の歴史を研究している専門科がなんとかこの地球上に存在していれば、テイラーはその人物に心当たりがあるに違いありません。彼はカリフォルニア州フェルンデイル市にいる歴史家チャールズバーディックと接触するように指示してくれました。代わって、バーディックは友人であるハンブルグの街史家マルサベジマンの住所を与えて手紙を出すように薦め、彼女はよく街に通じているだけではなく、喜んで協力してくれる「すばらしい女性」だと安心させてくれました。それから数日以内に私はラーベの謎についての手紙をベジマンに出すと同時に、ハンブルグ最大手の新聞会社の編集部へも送り、後に調査の通知が返って来ることを望み、そしてどちらからも直ちに返信が来ることは期待せずにしばらく他の事柄に注意を払おうとしました。
しかし驚いたことにベジマンからの返事がすぐに返って来ました。彼女は偶然に調査が連鎖して既にラーベの家族の所在地を見つけていました。それには1996年4月26日付で次のように書き記しています。「貴方に協力できることを嬉しく思います。所在地を見つけることは、それほど困難ではありませんでした。私は初めに、過去に中国にいたことのあるドイツ人たちの所在を収集しているババリア在住のパスタ?ミューラーへ手紙を出しました。すると彼は早急に他日、電話をかけて来てジョンラーベの息子オットーラーベ博士と彼の姉妹マーガレットの名を与えてくれました。」そして彼女からの手紙には、ベルリンにいるラーベの孫ウルシュラレインハルドからの伝言も同封されていました。
この時を契機に調査は速やかに進みました。私が知った限りで、ウルシュラレインハルドは中国で幼い頃、生まれ育ち、南京陥落の数カ月前に街に訪れてもいました。彼女はラーベが特に気に入っていた孫娘でした。うれしいことにレインハルドは調査に役立つ情報を果てしなく提供する多くの長文の手紙を送ってくれました。レインハルドは手書きの文章や写真やニュース記事などでラーベの人生の欠けた詳細部分を埋めてくれました。
ラーベはドイツの権力者に南京の日本人による恐怖を知らせるという中国人たちへの約束を守り続けました。4月15日、彼と妻はドイツに戻り、業績に対する数々の賞賛を受けました。ベルリンでドイツ国務長官が公式に中国におけるラーベの働きを推賞しました。そして軍務十字章と赤十字勲章を授与し、シュッツガルトでは中国政府からドイツ軍務シルバーポスター賞と赤、白、青の首飾りを付けたダイヤモンド勲位賞とさらに多くの勲章を授かりました。5月に入ると、ラーベはベルリン中で講演会を催し、ジョンマギーのフィルムを公開して南京大虐殺を広告し、ジーメンス株式会社や外務省や極東協会や陸軍省などの満席の聴衆者の前で演説しました。またアドルフヒトラーに謁見することはできませんでしたが、6月8日にフィルムコピーとタイプした南京大虐殺に関する報告書を同封して総統宛に送りました。
しかしラーベがヒトラーからの同情的な応答を期待していたのであれば、それは大きな間違いでした。数日後、二名のゲシュタボメンバーが彼を逮捕しにやってきました。ウルシュラレインハルドは当時の現場に居合わせたそうです。当時7才だった彼女が戸の近くで新しいローラースケートを履こうとしていると、白い折り襟に黒い軍服を着た役人風の男性たちがラーベを待ちかまえている車へ連行しているところでした。「祖父は恥ずかしそうにしており、二人の男性は深刻な堅苦しい表情だったので、私は別れの抱擁さえ出来ませんでした。」
ゲシュタボ本部でラーベは数時間に渡り、尋問を受けました。ゲシュタボはラーベの雇用主カールフレデリックヴォンジーメンスが人柄を保証して、公然と日本人の話をすることをこれからは慎むと約束すると、彼を解放し、これから絶対ににこの件について講演したり、話したり、書いたりせずに、何よりもジョンマギーのフィルムを誰にも見せないように警告しました。解放後、ジーメンス株式会社はおそらく身の安全を懸念してラーベを直ちに海外へ送り、彼はそれからの数カ月間をアフガニスタンで過ごし、そこでトルコ経由で国を離れるドイツ国民を援助しました。10月になり、ドイツ政府が以前に提出した報告書を返却してきましたが、ジョンマギーのフィルムコピーはそのまま持ち続けられました。(現在、彼の家族は、ヒトラーがラーベの報告書を読み、このフィルムを見たと確信していますが、ラーベ自身は結局それを確認できませんでした。)そして報告書は政府の最高機関に読まれるであろうが、ドイツの日本に対する対外政策の変化を期待してはならないと知らせました。
それからの数年間はラーベにとり、悪夢のような月日でした。彼のアパートは爆破され、ベルリンへのロシア人侵入が家族を貧困の縁へ突き落としました。ウルシュラレインハルドは自分たちが生き残れたのは、ベルリンのソビエト地区ではなくイギリス地区に住んでいたからだと考えています。ラーベはジーメンス株式会社で散発的に働き続け、経済文書の英語翻訳をしました。しかし賃金が低くて、家族が辛うじて生活できる状態しか維持できませんでした。
戦後直後の時期はラーベにとり、怒涛の非難の連続だったに違いありません。まず最初に彼はソビエト人に逮捕され、クリーグ灯の強烈にまぶしい光の 前で三日昼夜に渡り、尋問されました。そして次にイギリス人に逮捕され、一日中、厳しく尋問されましたが、その後に労働許可を与えられました。(しかしこの許可はジーメンス株式会社がまだ彼に常任的な地位を提供していなかったので、ほとんど価値のないものでした。)さらにドイツ人の知人がラーベのことを公然と非難し、この時から長い歳月を費やして「非ナチ化」処理を駆り立てられて決定的な屈辱感を与えられました。彼は自分の法廷弁護投資を支払う過程で、労働許可を失い、貯蓄と活力を使い果たしました。小さな一つの部屋に家族を押し込み、飢えと寒さと闘いながら、ラーベは豆やパンや石鹸を仕入れるために、アメリカ軍へ最愛のコレクションの中国芸術品を一つ一つ売っていくことを余儀なくされました。栄養失調が皮膚病を引き起こし、遺憾の気持ちやストレスが健康の大部分を破壊しました。南京では彼は伝説的な存在でしたが、ドイツではただの衰えていく一人の男でした。
専門家がラーベの日記から1945年から1946年における彼の心理状態を明かしています。

ジーメンスでの私の働く口はありません。私は失業中です.........。軍事政府の方針に従い、私はSpandau(ベルリン北西地区)で登録されるために、生命保険金をStadtkontor銀行へ渡さなければなりません。多くの歳月を重ねて働き貯めた1027.19ポンド(5000の残余)を越す生命保険金はBundeにいるグレーテル(娘マーガレット)のもとにあります。とにかく間違いなくこのお金は今、まさに消え失せようとしています。

先週の日曜日に私はマミー(ジョンラーベの妻ドララーベ)と共にXantener StraBe(爆破されたラーベのアパート)へ行きました。地下室の戸が壊され、タイプライターやラジオやその他多くのものが盗難されていました。Meo fatze!

現在、マミーの体重は44キログラムしかありません。私たちはどんどんやせていっています。夏の終わりが来ます。冬は一体、何を持って来てくれるのでしょう?私たちはどこで燃料や食料や仕事を手に入れることが出来るのでしょう?私は現在、Timperley's What War Means(南京大虐殺に関する書籍)を翻訳しています。当座、これでは賃金を稼ぐことは出来ませんが、たぶんもう少しましな食料配給券を手に入れることは出来るでしょう.......。全ドイツ人が私たちのように苦しんでいます。

私たちは空腹に苦しめられ続けています。何も話すことがないので、もう書くこともありません。私たちは乏しい食事に加えてドングリ粉のスープを食べました。マミーが秋の期間中、密かにドングリを集めていました。そして食料支給が尽きた今では、毎日のようにほうれん草のような味のする刺々しい苛草の青葉を食べています。

昨日、「非ナチ化」するという私の嘆願書が却下されました。私は南京安全地帯国際委員会の委員長として25万人に上る中国人の命を救ったにもかかわらず、南京でNSDAPのOrtsgruppenleiterの地区リーダーをしていた任期が短かったことと、私の情報部員がこの党の会員を間違いなく捜索していないことが理由で依頼は拒否されました。私はこれからも嘆願し続けるつもりです......。SSW(ジーメンス株式会社、ラーベの会社)で仕事が出来なくなれば、どうやって暮らしていけばいいのでしょう?だから私は闘い続けなければなりませんが、疲労が甚だしいです。最近、毎日のように警察官に尋問されています。

もし中国でナチスによる虐殺行為があると聞いていれば、私は決してNSDAPには入会しておらず、また同様にドイツの一人の男としての私の考え方が南京の外国人たちの考え方と異なっていれば、南京のイギリス人やアメリカ人やデンマーク人やその他の人々は決して私を国際安全委員会の委員長には選ばなかったでしょう!南京では私は何十万人もの人々にとっての生き仏だったが、ここでは「追放者」の身です。ああ、この郷愁に対する気持ちだけでも癒してほしい!

6月3日、Chalottenburgでイギリス部門非ナチス化委員会がついに私を非ナチス化しました。

この判決によると「貴方はNSDAPの地区代表者だった上に、ドイツ帰国後もNSDAPの会員を辞任しませんでした(当時に辞任することは自殺行為に等しかったとウルシュラレインハルドは記述しています。)が、我々、委員会は貴方の中国での人道主義的行為を考慮し、異議を奨励することに決定しました。.......(以下省略)」ということでした。

これで精神的な悩みの種は終わりを遂げました。私はSSWの友人や管理職たちに祝ってもらい、会社から過労を回復する休暇をもらいました。

本日、マミーが中国木製偶像をもって、私たちに食料を与え続けてくれ、この偶像をこよなく愛しているクラーベ博士の元に出かけていきました。コンからプレゼントされた中国絨毯はポテトをくれたToepfer婦人にあげました。

1948年になると、ラーベの苦境に関するニュースが中国に届きました。そして南京政府が、ラーベに助けが必要だということを人々に公表すると、その反応はフランクカペラのクラシック映画「イッツ ア ワンダーフル ライフ」の結末を思い起こすような途方もなく大きなものになりました。実に数日以内に南京大虐殺の生存者たちが1948年当時では決して低額でない、およそ200アメリカドルに等しい100万中国ドルの援助金を調達しました。そしてその年の3月には、南京市長がスイスへ行き、大量なミルクパウダー、ソーセージ、茶、コーヒー、牛肉、バター、ジャムなどを仕入れて4個の巨大なパーケージに入れて、ラーベに寄付しました。さらに1948年6月から首都が共産党の手に陥る日まで、南京の人々は国際安全地帯の委員長を勤めていた彼の行為を心から感謝していることを表明しようと、食料のたばを毎月、郵送しました。またKuomingtang政府が、ラーベに対して中国に戻ってくれば無料の住居と生涯に渡る手当を提供すると申し出ました。
 中国から送られてくるパッケージはラーベ一家にとり、天からの贈り物のようでした。1948年6月、南京市はラーベから惜しみない感謝の意が述べられた数通の手紙を受け取り、彼がどれだけ窮しているかを知りました。この手紙は現在、中国公文書録の中に保管されています。パッケージが到着するまでラーベ一家は、荒野の雑草を集めて子供にスープと一緒に食べさせ、大人は乾燥パンで何とか生き延びている状態でした。しかしラーベが南京に手紙を出した当時はそのパンでさえベルリン市場から消え失せていたので、パッケージは本当に貴重な支給になりました。一家の者たちはこの援助に心から感謝し、ラーベ自身はこの意志表示が人生への信念を回復してくれたと書き記しました。
ラーベは1950年に動脈発作のために亡くなりました。そして亡くなる前に中国で自分がした仕事についてを記載した遺書を残しました。細心の気を払いながらタイプを打ち、数え、製本して、イラスト描写もしてある南京大虐殺に関するこの書類は結果的に2000ペ ージ以上におよび、その中には彼を含める外国人たちの目撃記録書や新聞記事やラジオ放送や電報や虐殺の写真なども含まれていました。この記録書に歴史的価値があるとラーベが考えていたのは言うまでもありませんが、彼は書類が将来、公表されることも予言していたのかもしれません。彼の死から十年後、ウルシュラレインハルドの母親が書類の中からラーベの数々の日記を発見して、それをレインハルドに与えようとしましたが、時期が悪く、彼女は当時、妊娠していた上に学校の試験にも没頭しており、そして何よりも日記に書かれている恐ろしい内容を読むのが怖くて、丁重にこの申し出を断りました。そして代わりにジョンラーベの息子オットーラーベ博士がこれを引き継ぎ、彼と共に半世紀に渡り、この日記は世界社会やドイツの歴史家たちに知られないまま埋もれることになりました。
この書類が秘密にされていたことには理由があります。レインハルドによると、ジョンラーベ自身が日記の存在を明かさないように息子に警告していたらしいです。ゲシュタボで苦しめられていた日頃の待遇が、彼を用心して行動させました。そして日記の存在を明かすことを家族がためらうもっと根本的な理由がありました。ラーベのナチスとしての前地位は当然、彼の家族に対しても関わり合いを持ち、戦後直後の数年間は政治的な理由で、書類にどれだけ価値があろうがナチスの書類を発行したり、ラーベの業績を讃えることは正しくないとされていました。
同様に他の南京国際安全地帯のナチスたちも、自分の記録に関して沈黙し続けました。ラーベの文書を発見後、間もなくして私は「デイズ オブ フェイト イン ナンキン」とクリスチャンクレーガーに題された南京大虐殺に関する他のナチスの日記が存在することを知りました。彼の息子ピータクレーガーが90才で父親がこの世を去った後、彼の机で日記の原稿を見つけました。彼は、この時期に私の手紙を受け取ったのは幸運だったと書いています。もし一ヶ月でも早く手紙を受け取っていれば、彼は父親のこの件に関する書類は数枚の新聞記事しかなかったと私に告げていたところでした。彼は、どうして父親が南京大虐殺やこの日記の存在について話してくれたことがなかったのか不思議に思っていますが、私はこれについて、ラーベがヒトラーに南京大虐殺に関する報告書を送った後に転落して、迫害されたことにつながっているのではないかと考えています。実際にこの日記の最後の部分には、間違いなくクレーガーの手で書かれた殴り書きがあり、そこには「これはヒトラー政府の現在の方針に反しているので、必然的によく注意を払わなければならない。」と書かれて警告してありました。
最終的にラーベの英雄的な業績を世界に告げたのはウルシュラレインハルドでした。私からの手紙を受け取ると、彼女はラーベの日記にもっと考察される価値があると感じました。彼女は叔父からこの書類を借りてこっそりと読みましたが、その内容は公然と日本兵に通り上で集団暴行を受ける女性たちや、南京で生きたまま焼き殺される中国人の犠牲者たちなどを描く予想を遥かに越えた暴力的なものでした。
数カ月後にあったPeople's Dailyの会見の席で、レインハルドは記者に対して、「南京で日本人が被害者に犯した拷問は、残忍性の上であのナチスさえも越えており、日本人はアドルフヒトラーよりもひどいことをした。」と間違いなく論争を巻き起こすであろう南京大虐殺に対する正直な気持ちを、祖父の残した恐ろしい記録書の内容がまだ頭にこびりついていたので、ためわずに打ち明けました。
レインハルドはこの日記を世界に公開して、紛争の渦中に巻き込まれることを心配していました。彼女は日中関係を壊す可能性のある政治的危険物のようなこの日記を見てしまいました。しかし私や、「紀念南京大屠殺受難者協会」の前代表であり国連でも働いている邵子平の説得で、日記を公開する決心を固めました。彼女は日記を写真複写するために15時間を費やしました。右翼の日本人が彼女の家に押し入って、日記を破棄したり、家族に大金を払って原本を買収する申し出をしたりすることを懸念した邵子平は、急いでウルシュラと彼女の夫をニューヨークへ呼び寄せ、記者会見の席で最終的に日記の原稿はイエール神学院の図書館に寄付することが発表されました。そして、まずニューヨークタイムズが大々的にこのことを紹介し、続いて南京陥落後の57回目の記念日にあたる1996年12月12日には、ABC TVのピータージェニングやCNNや他の世界のマスコミに報道されました。
そして歴史家たちもこの日記を公式発表する意義に同意しました。多くの歴史家たちがこの日記を、南京大虐殺が本当に起きたことを、さらに決定的にする証拠物件としてや、一人のナチス党員の眺望から述べている興味ある記録文書として目を通しました。ラーベのこの記録文書は、ナチス党員に虐殺行為の話を偽造する動機がきわめて薄かったことと、この報告書が英語からドイツ語に置き換えられた原本と一語一語、一致するアメリカ人の日記の翻訳文を含んでいたことから、虐殺に関するアメリカ人たちの記録書をさらに信憑性のあるものにしました。また中華人民共和国の学者たちには、Renming Zibaoでこの書類は中国人虐殺の事実を実証し、確証するものだと発表されました。アメリカ合衆国では、ハーバード大学の中国史学教授ウィリアムキルビイがニューヨークタイムズで「非常に興味を引く恐ろしい話で占められているこの書類には、大量な数に上る詳細事例やドラマが慎重に書かれています。この出来事を再び明るみに出して、人々が日々、この話をよく調査していき、一般的に知られるように100から200の話を加えていくことは重要なことです。」と述べました。
さらに日本の歴史家たちでさえ、このラーベの書類に関する重要性を公表しています。ウツノミヤ大学近代中国史学教授カサハラトクシは、アサヒシンブンでこのように言っています。「この記録書が持つ意義の重大さは、これが日本と同盟を組んでいたドイツ人によって編集されたと言うだけでなく、報告書を提出されたヒトラーが南京で起きている虐殺行為を知っていたと実証することにもあります。ナチス党副党首だったラーベは、日本の同盟国の最高指導者だったヒトラーに対して、大量虐殺の遺憾の意を表明する仲裁を懇願していました。」チバ大学近代日本史学教授ハタイクヒコもまた、「この記録書が意味する重大さは、日本と同盟を結んでいた国のドイツ国民が客観的に南京の虐殺行為を描写していたという点にあります。」とつけ加えています。この点において、この書類はアメリカ人牧師の証言よりも歴史的価値があります。当時、ドイツは日中のどちら側につくかをはっきり示していませんでいた。しかしRibbentropの外務大臣就任がドイツと日本の同盟を助長しました。このような時期にヒトラーへ南京の虐殺行為を知らせようとしたラーベがどれだけ勇敢だったか全く驚くばかりです。





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