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寺山修司へ―77年世代とは何か(2)
http://www.asyura.com/0304/dispute10/msg/141.html
投稿者 愚民党 日時 2003 年 4 月 28 日 19:24:34:

(回答先: 寺山修司へ―77年世代とは何か(1) 投稿者 愚民党 日時 2003 年 4 月 28 日 18:42:25)


--------------------------------------------------------(2)

77年世代と1992年とは何か? やはり彼らは意識覚醒期において
89年ドイツ・ベルリンの壁が打ち壊され東欧・旧ソ連邦スタ−リン全体シ
ステムが崩壊した世界同時革命を少年少女期に内在として経験した、崩壊と
いう過程をあらかじめ見据えた恐れるべき世代であったのである。わたしの
ライバルである村上龍は女子高校生援助交際などとつきあいその日本の物質
消費過程の豊饒とその破産を取材してきたが、それが東京デカダンスであり、
表層現象でしかない。真摯に生きてきた77年世代は深部からの声に突き動
かされ音楽・文学・美術・演劇/舞踏・映画に世代として登場した。文学に
おいても村上龍を越える人物が野望をもって登場する。「なさけない男たち
よさようなら」77年世代を象徴するのが女である。武装花嫁・革命花嫁そ
して野人花嫁は芸能の現場を建設する。現場こそがハイパ−テキストであり、
複合されたマトリックスへの没入なのである。

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人間としてのメディアへの手紙
1992年・春・現代演劇の記録
   新宿梁山泊公演「愛しのメディア」
          「それからの愛しのメディア」 
        

 前略  この手紙は現在の私の身体的知覚と意識たるカオス構造を、あり
のままに表出して、時間と意識が交錯し読みづらいとおもいます。

この六月に「愛しのメディア」の感想文を書いたのですが途中挫折をしてし
まいました。それは現在の私の全面的立場が敗北者として「逃亡」の構造に
規定されているからです。私は91年一月、己の主体の全面的破綻により、
この老母の住むアパートに逃亡してきた人間であり、いまだ実践の現場に戻
れません。

現場の登校拒否時となった私は、これまた中学校の登校拒否児である私のお
いである少年kと共に、演劇の観客体験を通して演劇人間のエネルギーを盗
みとり、何とかこの恐べき社会関係・人間関係の台風を生き抜く勇気と意志
を回復させる、ふとどきな野望をもっているのですが。

 演劇人間から私ども社会と学校の登校拒否児がエネルギーを盗みとり、再
度人間関係の実践の現場に復帰できれば、演劇人間からおさらばするつもり
です。それ迄は自分勝手に一方通行ではありますが、ある妄想のレベルでお
つきあいさせていだだきます。

 第一通信

 92年5月最終日、「愛しのメディア」を、兄の子である私のおいkと体
験しました。言語化できぬほどのある圧倒性を身体的知覚によって私は感受
できたと思います。

 演劇のもつ革命的な空間とは、制度化された平面的なわれわれの身体的知
覚をくつがえし、能動的な空間知覚を喚起してくれるのだと、今追憶してい
ます。

 人間としてのメディアである俳優の言葉、身体的言語、、総じてあのエネ
ルギーによって、われわれの多元的な知覚は根源的に呼び起こされていくの
だ、そう思いました。やはり私は演劇批評の内野儀が物語る「演劇の死」あ
るいは「思考する演劇」には同意できません。

 観客であるわれわれが、ある演劇の空間と時間を体験し、なおかつその演
劇を思考するとは、すでにその現場から時間が過ぎた、己の日常たる現在に
おいて、己の記憶を武器に、追憶し、己自信が能動的に受け止めた身体的知
覚その意味を探求し、なにものかの生成を発見することが、思考するという
経験であるあると思われるからです。

 さらに批評者の思考とは、演劇が社会的現在に規定され、なおかつ集団的
想像力の表出によって、この現在の時間と空間のそうを切り開き、過去と未
来の「現」の構造を人間としてのメディアが出力させる関係性としての社会
的出来事である以上、彼の思考はより対決性をもった「演劇の他者」として
磨ぎ澄まし純化する位置にあるのではないかと私は思うのです。

 こうした思考の格闘を欠落させた批評者の言語は、いくら彼が学問の体系
と知識・教養の伝導体制としてある大学制度やマスメディアの構成員であっ
たとしても、一回性の生身の「現」の空間構造と生身の物語の協働的世界形
成・その表出を実現させるための現場である演劇の実践の構造には及ばずた
ちうちできないと私には思えるのです。

 ある集団的想像力と個の訓練と反復が演劇の日常の実践的行為としてある
骨格であるならば、それは毛沢東の「持久戦論」に通じる試練と主体形成の
想像力あると私には大げさであるかもしれませんが思うのです。訓練と反復
をある対決性の現場としてくぐりぬく精神的緒力こそが、協働的世界形成と
してのある物語を生成させる。その空間とは跡形も亡くなる一回性にのみ表
出する。

 生成と死滅を同時的に孕んだ演劇の時間と空間に連環せんとする、専門的
な演劇批評者として己の肩書をもつものは、言説の唯我構造とそのかもしだ
すある悪意を出力させる政治的言語を孕ませてもよいから、己を徹底して演
劇の記録者として関係した方がよいのではないかと私は思います。

 新宿梁山泊の「愛しのメディア」五月公演の観客としての体験をかわきり
に、これまで回数は少ないのではありますが少年Kと演劇の会場に体を運び
ました。そこで手渡してもらうパンフレット・演劇公演の多さに驚嘆します。
それは演劇のある豊饒の「現」の構造にある。私は思いました。一体だれが
この様々な演劇公演の豊饒たる「現」の構造を記録するのか?

 さらに現在の演劇を支えているのは、十代後半から二十代前半といったと
りわけ若い世代であると思われます。人間の社会的出来事と「現」の構造に
おいて接点をもち、なおかつ「表」の時間と空間に過去の記憶を生身の「出」
として重層・複合的に生成させる、ある意味で前衛的想像の出力たる方法と
模索を具現化している現代演劇に己の身体を自ら動員する若い観客が少数者
であれといえ、そこに民衆的ジャーナリストとしての記録者である演劇批評
者が存在しないのであれば、私はひどく寒く貧しい分断化された演劇現象を
感じます。

 怠惰である私は演劇批評を読まないのでありますが、それでも朝日新聞夕
刊の演劇評や書店でペラペラと演劇誌を立ち見で読む限り、どうしようもな
いズレが置きているのではないかと思われるのです。その言葉の衰退はもは
や貧困のレベルをこえて批評者の感受能力さえ疑わしくなります。彼らは「
飼いならせられた死」として演劇を扱おうとしているのではないかと思われ
るのです。

 一方における多様な演劇公演の豊饒、他方における己の感受能力を立ち腐
らせ己の世界が転回し構造そのものが転換したにもかかわらず、一般世界に
しがみつくその批評根性は一度徹低的に思考せねばなりません。もちろん論
理はアトミズム唯我構造により、己の論理を破産させないために、自分に都
合が悪いあるなにものかを隠蔽するのですが、それが対決すべき対象として
の演劇人間がある劇空間と時間に表出させた世界を隠し、技術問題としての
み批評するならば、彼の批評基準がすでに崩壊を遂げたスターリン的近代合
理主義の規格たる「こうあるべきものに」という論理構造にあるからです。

 こうした批評基準はある怪物的な一般のトレンドのみに気配りするマスメ
ディアの編集規格にはぴったりと合うのですが、ある特殊世界が新しく生成
させた「現」の構造をひたすら隠蔽するわけです。生活形態と言語・歴史が
違う他者が存在する世界に認められる演劇・映画・文学とは、ある特殊世界
の人間の受苦と関係性を徹底的に「あばき」「さらし」根源的な人間の問い
を類的存在に押しはかり、己の受苦的関係としてあるこの「現」の構造がい
かなるものであるかの回答を、あるイメージの「表」と「出」の重層的複合
的構造によって接近させる。他者はそこに受苦的関係としての人間をおのれ
の「現」の構造によって受け止め世界同時的生成の人間としてある意識が共
鳴するのです。 この「現」の構造には新しい身体的知覚と新しい意識が常
に生成し、それをひきだし発見するものは受苦的存在としての人間と協働的
世界形成におのれを訓練し自己変革に挑戦する人間であります。彼ら訓練と
反復の集団的想像力とは、おのれの共同体の中におのれ自身が他者を発見し、
その他者から教えられることをもって人間そのものの存在を発見するのです。

 演劇人間がある時間ある空間に表出した「現」の構造世界を無視または隠
蔽する言説にもならない言説によって、おのれの言葉がスターリン機能主義
反映論の文体の圏内にあることを省察できない批評者はただ俳優の機能とあ
る演出技術のみが批評基準となるのはどういうことなのか?これは反面教師
として思考する価値があります。

 まんが少年であった私は始めてまんが評論を読んで以来、批評というもの
は「現」の構造を教えてくれて、おのれの対象世界を広げてくれるものであ
ることを理解していらい、七十年代後期であれば文芸評論・八十年代初期で
あれば演劇評論からこの「現」の構造をどう把握するかについて教えられて
きました。しかし八十年代という十年間は集団的想像力の現場と、その実践
的構想力の内部が新しい身体的知覚・新しい方法意識を誕生させながら、突
き進んでいったのであると思われます。それはある意味でこの日本の内部に
おいては空間とおのれたち共同体の時間たる物語を防衛し確保しない限り、
生き残ることはできないといった危機意識に逆規定されながら、論理・イデ
オロギー闘争を内包させた集団的想像力の「現」の構造であったわけです。

 新しい身体的知覚・新しい方法意識・新しい物語意識をめぐる論理・イデ
オロギー闘争を内包させ、自己批評・自己表現のベクトルをもった集団的想
像力の表出運動構造は協働的世界形成の想像力に突入しつつあるように思わ
れます。アジア映画・アジア演劇といったこの九十年代におけるダイナミッ
クな表出は、ある歴史的共同体の人間が他者を発見し、その他者の空間と時
間を知覚し人間そのものの存在を見出し世界同時性たるおのれの存在・空間
・時間を再発見していく「現」の構造をもったベクトルのような気がします。

 世界現代史としてのEC(ヨーロピアン・コミュニティ)経済統合から政
治統合への実践的構想力は、ヨーロッパ中心世界史観の具体的転回として古
代ローマ帝国の再興を二十一世紀世界に自己実現せんとする国家官僚システ
ムによる、民衆の協働的世界形成を先取りし、「現」の構造を支配せんとす
る地球政治戦略であることは間違いありません。私の動物的本能の知覚で言
えば、EC戦略は民衆の協働的世界形成の参加を排除する反革命の戦略であ
ります。

 しかしながらこの九十年代を準備した八十年代の十年間とは、国家官僚シ
ステム機構やマスメディア・知識・教養の体系的伝導体制としてある大学人
たちや知識人たちが依拠した「知」の構造のパラダイムがある場所へと転回
し、人間と空間の関係性をめぐる実践的構造としての街頭の文体と集団的文
体が知覚と思考の先端を生成してきたと言えるでしょう。

 たしかに知識と教養のアトミズム私的所有をめざす彼らの書斎の書物の数
量と、パーソナル・コンピュータのある圧倒性は驚嘆すべき「知」の構造に
生成している。しかし彼らの書斎はどこまでいっても、部屋という空間にと
ざされているのです。それら十九世紀的教養主義はこの八十年代の「現」の
構造にはたちうちできなかったのではないか? 八十年代のある先端的な「
現」の構造は、世界同時性をおのれの想像力に抱えた集団的文体と社会・人
間関係の交差点としてある街頭の文体にまぎれもなく存在していたからです。
それはアトミズム私的所有が人間関係の交差点である市民社会の論理では消
して見えない構造の生成であったのです。

 快楽というキー・ワードは「われ」の自立的個人たる近代的個人の身体的
知覚であり、労動力商品所有者の「夢」の私有化としてある ナルシズム・マ
スターベーション構造の内部に閉ざされているのです。この九十年代のキー
ワードである世界同時性を内包した街頭の文体・身体的知覚の表出は、受苦
的存在としての人間がその受苦的構造の内部に閉ざされたまま絶望し無力化
の地獄の部屋で、その精神世界と意志が打倒され、協働的世界形成の参加を、
その想像力のレベルにおいても制度機能としての国家官僚システム機構に奪
われテクノクラートにゆだね、おのれの存在をゼロの記号とするのか?

 ある意味でヨーロッパの民衆的想像力は、国家官僚システム機構とテクノ
クラートによる数理的手段の臨界点である実践的構想力のEC統合に先取り
され敗北しているのではないかと私は妄想しています。

 EC統合のテクノラートによる実践的構想力からUSAのテクノクラート
による九十一年中東・湾岸戦争、多国籍軍によるアラブ世界の分断と壊滅の
石油戦略の戦争発動はその新世界秩序の「現」の構造が民衆的想像力を壊滅
させ、想像力をめぐる階級闘争をねだやしにして、デジタル・ハイテクノロ
ジーを操作くするハイパー戦略兵器と核戦力をもって、民衆の協働的世界形
成への意志と想像力を粉々に打ち砕くことにありました。 現在、八十九年
に表出した東欧革命の民衆的想像力と街頭の文体は、ヨーロッパ・イデオロ
ギーに回収され、テクノクラートによるEC統合の実践的構想力に敗北して
いると言っても過言ではないでしょう。世界形成の中心としてあるヨーロッ
パ幻想の強力な内部に、おのれの主体が吸収されれば経済的に安定するとあ
る幻想に取り込まれてしまう、この「現」の構造は九十一年、アラブ世界の
分断壊滅から旧ソ連邦の内部自壊と到るのです。ECとUSA幻想こそが、
ある人間の世界イメージと人間イメージの崩壊と空洞の身体的知覚を埋めて
いるのです。

 現在のユーゴスラビア内戦は、ドイツとフランスの歴史的民族戦争とロー
マ帝国復活の回帰欲望が、第三世界非同盟運動の推進者であったチトー体制
を解体しながら、ドイツとフランスの保守勢力がユーゴスラビアを植民地化
することにあります。ドイツとフランスの軍事産業複合体と死の商人がいか
に第三世界に食い込んでいるかの事実は、イラクの軍事形成において明らか
になりましたが、そのようにユーゴスラビアの内戦は死の商人の草刈り場な
のです。こうした世界政治にいつもほんろうされ傷つき死んでいくのはいつ
も民衆なのです。昨日まで隣人であったものが今や武器を持って殺し合いを
する構造は、パルチザン闘争によりナチス・ドイツ軍に勝利して独立し、そ
の後はスターリン体制と闘いながら自主独立を形成しながら奮闘してきた、
第三世界非同盟運動の主体構造が世界システムの新世界秩序なるものによっ
て壊滅されたからに他なりません。

 薄っぺらとなったその感性と酸化し腐食していく精神世界の森は、おのれ
自身の想像力が世界システムのテクノクラートに奪われ剥奪されていく原光
景にあります。民衆的想像力は協働的世界形成の意志を奪われ、収容所・ゲ
ットーに「飼いならされた死」として囲いこまれてしまうのでしょうか?
 
 物語をめぐるこの「現」の構造は今もなを、想像力の階級闘争として表出
しているのであり、それを教えてくれた存在こそまぎれもなく、九十一年世
界システムによる新世界秩序戦略を中東・湾岸戦争として発動しアラブ世界
を分断壊滅したのち表出した、韓国の階級闘争でした。

 あのおのれ自身の身体を火だるまと化し、その死にざまによってわれわれ
に教えた世界同時性の思想とは何であったのか?  韓国の青年たちは、国家
官僚システム機構・テクノクラート・世界多国籍企業・帝国軍事力よる世界
形成に「否」と答え、民衆的創造力と実践的構想力による協働的世界形成の
意志を体現したのであると私は思います。

    第二通信

 演劇の死とはわれわれ観客の主体的な問題であり、ある革命的な空間と時
間が跡形もなく消え去り、その始源的な空間から外へ一歩でたときから始ま
るのです。その外とは日本の制度化された都市の強力な内部であり、われわ
れ観客は、すでに消え去ったその演劇の空間と時間を記憶し追憶せねば、わ
れわれの演劇体験は確実に日本の都市情報空間に取り込まれ、死んでいくの
です。

 この規格化され制度化された都市空間に対抗するかのように、ロック音楽
コンサートシーンは、B2・B3ほどの大きなパンフレットをコンサート会
場で売り、群がった観客を会場から都市に拡散させる。いやおうもなく大き
なパンフレットを抱えた少女たちは目立つ。コンサート会場から外へでた少
女・少年たちは都市を歩き交通機関に乗ることによって、確実にあるコンサ
ートの延長を制度化された都市に投げ落しているのです。 そのロック音楽
の差異戦略はおのれの規格の浸透力・現象化によって都市を異化しているの
です。その延長シーンが新興宗教に似ているとは言え、資金力を活用した彼
らなりの都市論・観客論の実践的構想力の具体的転回であると言えるでしょう。

 資金力には縁がない現代演劇の「現」の構造にはたして都市論・観客論は
存在するのか? 様々な演劇集団の公演の圧倒的量が、演劇の他者である 都
市と観客の思想的対象化を忘れ、「飼い」の構造にあるとしたら、舞台と物
語・役者の中心性を創出することができず「散」と「混」にある方法を譲り、
他者の中心性を発見することはできないばかりでなく、人間を卑下化するこ
とによって生成する現在の日本の市民社会文化たる「飼い」の構造を突破す
ることはできないと思います。

 <そこでは、現にあるものとありえるものとが出会い、歴史の現実と人生
の一回性が交叉し、「全世界が舞台」であると同時に、舞台が全世界となる。
 加藤周一>

 日本文学の歴史を多元的に総括した加藤周一が語る演劇とは、ある一点を
表出するのです。その一点とは詩ではなく、世界同時性なのです。ある舞台
とある俳優たちが創造する舞台の中心の一点はその原基が遠心力と求心力を
出現させ、演劇の他者である都市と観客の中心性を覚醒させる、観客の身体
に中心が誕生し、その中心から舞台は前方に広がり世界との対話が誕生する
のです。

 人間としてのメディアを媒介に観客は、世界舞台の中心との対話によって、
おのれの身体に中心を胎動させるのであります。現代演劇の都市論・観客論
の骨格は、電脳衛星通信回線都市とデジタル映像・デジタル音の一般化によっ
て、稀薄化され実感を喪失した身体の中心を奪還することにあると思います。
ある演劇ある舞台の体系が中心を現出させるとき観客はその対話によって、己
の動的世界の中心を胎動させるのです。

 新宿梁山泊の演劇「愛しのメディア」「それからの愛しのメディア」公演と、
韓国・全州中央舞台「欲」の上演と続く動的中心の移動は、おそらく体系の一
点にしぼり込んだ舞台と役者・観客こうした世界同時性の人間の中心を創造す
るエネルギーであったとおもいます。「愛しのメディア」では人間の反復的訓
練・鍛えられた身体関係を奪還し、「それからの愛しのメディア」ではさらな
る身体と それによる自然関係を奪還したのです。さらに全州中央舞台「欲」に
おいては東アジアの民衆による協働的世界形成の実践的構想力の棚芽を、その
舞台の中心において奪還したのであると思います。三つの舞台から私が他者と
して教えられたことは、いかに己の世界と身体に移動する動的中心をこれから
形成するのか? この問題意識でありました。

 「それからの愛しのメディア」は創造力と美の高まりに置いて最高であった
と思います。しかしその感想を言葉として表出すれば、私はあの幻想世界の森
林に入り込んでしまい、いつ脱出出来るかわからないのでまだ書けません。紫
陽花の花の山野の青空、あれほどの美しさを喪失せぬよういつまでも記憶して
いきたいと思います。 走りながら人間存在の根源を問う力もまた形成してい
きたいと思います。

                   1992. 夏         

2000年06月11日 12時06分03秒

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        寺山修司へ―77年世代とはなにか(2)愚民党

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