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「政治は、フィクションの塊であり連続」論の適用
http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1168.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 4 月 16 日 10:30:30:0iYhrg5rK5QpI
 

あっしらさん、おはようございます。

あししらさんの「政治は、フィクションの塊であり連続」論を早速適用させていただく。

もしも、悪魔崇拝主義者のあっしらさんが、コム・未来の山田宏(ペンネームだと思う)さんであるならば、あっしらさんの政治的言辞はどう解釈したらよいのか。

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http://www.asyura2.com/0401/dispute16/msg/1131.html
筋違いの警告や謝罪要求は、受け容れることも応えることもできません。


竹中:
>政治にフィクション(if、タラレバ)を持ち込むとは、あっしらさん、どうされたの
>ですか?


あっしらさん:
大笑いですね。
現実にはない国家社会の在り様を実現しようという「革命」にとどまらず、政治は、フィクション(if、タラレバ)の塊であり連続ですよ。

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あっしらさんが「地獄への道は善意で敷き詰められている」という格言を連発されているので、この格言をそのままコピーしてGoogleで検索したところコム・未来のサイトに出会った。


以下山田宏氏の論文を掲載する。文体が類似していることはお分かりいただける。
念頭にあっしらさんを置きながら読み進めると理解できた。

国際主義サイトへの批判・質問MAILと返事
http://www.ngy1.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol3-3/Q&A.htm

国際主義サイトへの批判・質問MAILと返事
政治的見解がよくわかりません Aさんより 2000年6月

久しぶりに読んでみましたが、いったいどのような政治的見解なのか、正確なところは理解できませんでした。

そして、たとえば、一部のNGOがグローバリゼーションに対する抗議活動をして逮捕されましたが、そういうのにはどういうふうに思っているのでしょうか。

あるいは、フィリピンにおけるムスリムの活動とかには言及はまったくないですね。(あまり関心がないのかもしれませんね)。

僕自身はフィリピンには関心がありますが、このHPは、フィリピンの共産主義運動、農民運動にたいして、いかなる見解なのかとかも、全然理解できませんでした。

スリランカがメインのHPなのかもしれませんが・・・・
Re: 政治的見解がよくわかりません

 Aさん、はじめまして。
 『国際主義』編集会議の山田 宏ともうします。
 今回は当サイトに意見をいただき有り難うございます。

> 久しぶりに読んでみましたが、いったいどのような政治的見解なのか、
> 正確なところは理解できませんでした。

 「政治的見解」をどのような意味で使われているのか理解しづらいのですが、あとの文脈と絡めれば、各闘争の評価、或いは、諸潮流の評価だと思われます。
 確かに、これは私たちの政治的弱さの現れであると思います。特に、私たちは具体的な闘争や社会の諸事象に対する分析・評価にまで立ち至って展開する力量を未だ持ち合わせてはおりません。
 私たちは、レーニンが指摘していたように、社会のありとあらゆる事象を、その相互関連として歴史的な一つの絵図のように提出する事が必要である事を認め、共産主義を目指すものはそうした力量を獲得する必要がある事を承認し、そうなりたいと思っています。
 こうした力を、今日の共産主義運動の四分五列状態の中で、如何に創りあげていくのかが求められています。日本だけでなく世界中の共産主義運動の積極的要素を取り出し、否定的要素を明らかにしていく作業を通じて、革命的理論と運動・組織を全世界的規模で、再建していくことが必要だと考えています。
 この作業は、私たち「国際主義」編集会議だけでできるものではなく、そうした作業が必要だと考える全ての共産主義者・活動家の共同の作業でなければならないと考えています。私たちは、こうした考えの下で、現在、「コム・未来」や「共産主義運動年誌編集委員会」などに積極的に参加し活動しています。
 ご指摘のように、私たちのHPをご覧になった方が、例えば、現在の焦眉の課題であるサミットや名護への米軍ヘリポート基地移設問題、或いは、この間のNGOなどの闘争の問題などで見解が一般論に留まっているとか、その評価がないという批判をもたれるのは当然のことだと思います。これらの点は、共産主義運動の基本である革命的な理論の形成と同時に相互補完的に追求しなければならない点であり、先ずは、基礎理論をそしてその後に具体的な諸問題・諸課題をという段階論を取っているわけではありません。あくまでも私どもの力量不足の所産であります。できる限りこうしたとの克服を追求していきたいと思っています。
 むしろ、貴兄の方から、例えばNGOの闘争の評価はこう捉えるべきだとか、「国際主義」のこの理解は正しくないなどの意見などをいただいて、論議を発展させられれば、私たちのためにも、また運動全体のためにも意義のあることだと思います。 以下、貴兄が指摘された点について、私の意見を簡単に述べさせてもらいます。

> そして、たとえば、一部のNGOがグローバリゼーションに対する抗議活動
> をして逮捕されましたが、そういうのにはどういうふうに思っているのでしょうか。

 この間、NGOの闘争が世界の闘争の前面に躍り出てきた感があります。これは、帝国主義が生み出す民衆への抑圧に対抗する積極的な要素を持った運動です。先進諸国の運動体と発展途上諸国の民衆とが互いに結びついて帝国主義政府と国際資本に抗議を突きつけています。こうした運動に対して共産主義運動は決定的に立ち後れているます。これは、共産主義者の運動の限界を突き出すものであることを自覚する必要があると思います。これらの運動に共産主義者は、その内外から協力し、帝国主義と国際資本に対する闘いを発展させねばなりません。
 さて、このNGOのグローバリゼーションに対する闘いで、例えば、WTOにたいするシアトルの闘争では多くの逮捕者がでました。この多くの逮捕者の関係で、国際的なニュースともなったわけですが、申し訳ないのですが、率直に言ってこうした大量の逮捕者を出した戦術を評価できる資料を私は現在、持ち合わせていません。このシアトルでの対WTO閣僚会議闘争は、AFL・CIOとともに世界の運動諸組織によって方針、政策の違いを相互に討議しながら、その戦術が討議され、実行されたものであったようです。その中で、会場への実力行使を追求するグループが存在した事が、大量逮捕の引き金となったようです。会場への実力行使が適切であったかどうか、私は判断する材料を持ち合わせていないのですが、少なくとも、会場に対する闘争に自然発生的に参加した人々を道義的に責める権利は誰にもないだけでなく、こうした人々の潜在的な積極性を十分に引き出し得ない運動の弱さを総括することが必要ではないかと思います。マルクス主義的観点を持った勢力が、この運動に参加し得ていないことが決定的に深刻な点です。また、こうした闘争に対する、権力側の非常事態宣言の発動と弾圧に反対することは私たちの義務であると思います。
 この点は、私より 津村さんの方が遙かに詳しいので、彼にいずれかの機会に意見を書いてもらいたいと思っています。

(この闘争の関係資料が当サイトに掲載してあります)
http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol3-1/vol3-1.htm
http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol3-2/strategy.htm
http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol3-2/picis.htm

> あるいは、フィリピンにおけるムスリムの活動とかには言及はまったくない
> ですね。(あまり関心がないのかもしれませんね)。
>
> 僕自身はフィリピンには関心がありますが、このHPは、
> フィリピンの共産主義運動、農民運動にたいして、いかなる
> 見解なのかとかも、全然理解できませんでした。

 この点も、私たちの立ち後れを反省しなければならない点です。「『国際主義』インターネット・エディション Vol.2-4 33号 1999年秋」

http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol2-4/vol2-4.htm

でフィリピンの革命運動についての紹介と検討をはじめたのですが、途中で中断状態となっております。特に、CPPの分裂以降のフィリピン革命運動の評価が出し切れていない点は、申し訳ないことです。なお、その後、このフィリピンの問題は、当サイトの編集を引き継ぐ形で、「コム・未来」

http://www.ne.jp/asahi/com/f/index.htm

の左フレーム「共同紙未来」の4,5,6,7号に掲載してありますので是非そちらを参照していただきたいと思います。
 私たちは、この十年来、フィリピンの革命運動に注目し、CPPと十分でないにせよ交流を持ち、CPPの分裂以降も反シソン諸派との論議を追求しています。この間、当サイトに掲載できていない発行物が若干あります。これについては、別途、調べてまたご連絡します。また、ご希望でしたらコピーをお送りすることもできます。
 私たちが、当初、CPPに注目したのは、その戦闘性・大衆性・農民問題に対する原則性とともに何よりもこの党が、他の共産主義者と政治討議する事に積極的であった点です。この点は、CPPの分裂以降も、反シソン派(これまた、現在では幾つにも分裂してしまっていますが、)では概して変わっておらず、論議が積極的にできる相手となっています。私たちの力量不足で、この間、こちらから論議を提起するまでにいたっていないというのが実状です。
 CPPの当初の農民問題に対する政策は、原則的で、正しいものだと思います。フィリピンの特殊性は、島嶼国家という点ですが、ここでは、前近代的な土地の所有形態が陸続きの他の開発途上国とは違って、一層固定化される傾向にあります。かく島々は、政治的にも分権的傾向を持ち、支配階級は権力を直接に行使しやすくなっています。この為、帝国主義のプランテーションも部分的な位置にあり、民主主義的な土地解放の闘いは山岳地に拠点を置く武装闘争によって可能となる条件がありました。CPPとNPAの80年代までの前進は、こうした条件によって可能だったと思います。しかし、一方では、ルソン島をはじめとする資本主義の発展とマルコス独裁権力の打倒(これはCPPとNPAの闘いの前進なしには不可能であったでしょう)――都市部での政治的自由の拡大、他方では、80年代末から90年代初頭の東欧・ソ連の崩壊という歴史の展開が、CPPの思想と政策の再検討を求めていました。(特に、マルコス政権打倒の闘いにCPPが積極的に加わることができなかったことの総括顔翁位置を持っていたようです。)CPPの分裂をもたらした一般的条件はこうしたものでした。しかし、この分裂の直接の原因は、シソン派のスターリンなみの組織破壊(これまでのCPPの路線に無条件に忠誠を誓え)という方針でした。これは、シソン派による党の事実上の専制を意味していました。従って、CPPはこの党の中で革命路線を発展させる条件を自ら放り投げてしまったのです。このシソン派からたもとを分かった勢力は、路線的再検討の必要性を強烈に意識しつつも明確に対置する立場を持っているものではありませんでした。そのため、現在、反シソン派はいくつもの潮流に分岐し、真剣な路線闘争の中にあります。こうした、諸潮流の評価は、私たちにとって今後の課題となっています。先に紹介したRPM関係の紹介はその一環ですが、まだ手を着けたという段階です。

 現在、エストラーダ政府とムスリム解放勢力との武装闘争が激化しています。ムスリムの解放闘争についても関心がないわけではないのですが、それもこれからの課題です。

> スリランカがメインのHPなのかもしれませんが・・・・

 ご指摘どおり当サイトは世界の共産主義運動の中でもスリランカJVPに多くを割いています。この点では、JVPがもつ、スターリン主義への批判、国際共産主義運動の統一を追求する姿勢と努力など積極的な意義があると考えてそうなっているのですが、このJVPに対する政治評価を体系的に提起していないのは私たちの弱さでもあることを自覚しています。
 私たちは、革命運動の再統一を見据えた理論的な整理、つまり四分五列した共産主義運動の中で、それぞれの潮流が持っている積極性と限界とを相互に明らかにし、大衆の前で、公然と意見を表明し、思想的な一致点と相違点を明らかにする作業が、当面の環であると考えています。現在、「コム・未来」の中でも、また、「共産主義運動年誌編集委員会」の中でも、それぞれ個人の資格ではありますが、こうした活動を追求しています。そのための一助として、貴兄からも積極的な意見、批判を更にいただけたら幸いです。

 なお、今回の貴兄の批判メールと私の返事を、私たちのサイトで公開したいと思いますがいかがでしょうか。ご了承いただければ幸いです。もちろん、掲載の際は、貴兄の名前などは、ご希望のペンネーム、或いは匿名で考えています。

2000.06.27  『国際主義』編集会議  山田 宏
小林 和生さんからのバックナンバー注文+質問MAIL 2000年8月

こんにちは。
2ケ月ほど前「国際主義」のバックナンバーについて問い合わせた者です。その節は早速のご丁寧な返信ありがとうございました。せっかく返答いただいたにもかかわらずこちらからの連絡がおくれましたこと誠に申し訳ございませんでした。パソコンが職場にあるためなかなかまとまった時間がとれませんでした。大変失礼しました。

さて先日も問い合わせました「国際主義」の購入希望バックナンバーですが、以下の号が希望です。もし絶版でコピーを送っていただくという形でしたら全ページはあまりにお手数をおかけするので希望の論文を記しておきます。

○「マルクスレーニン主義をかかげて」 2号 83年3月
これはできれば全ページ希望です。

○「マルクスレーニン主義をかかげて」 10号 84年3月
革命運動と三里塚闘争のうち
・(二)革命運動と三里塚闘争 〈1〉〜〈3〉
・共産主義的党派性と分派闘争復権のために
  中核派のテロルを如何に批判すべきか
・84年春 三里塚をめぐる情勢 青共同現闘団

○「マルクスレーニン主義をかかげて」 12号 84年7月
・何故我々は連帯する会を脱退したか?に関する論文、資料

○「マルクスレーニン主義をかかげて」 13号 85年3月
・85年3月、三里塚闘争に何が求められていたか
・三里塚の分裂ーそれは如何に評価されるべきか
・各潮流は現状の突破方向をどのように提起しているか

○「マルクスレーニン主義をかかげて」 18号 87年2月
・ヴォルシェヴィキ派による三里塚闘争の協力体制構築呼びかけについて

○「マルクスレーニン主義をかかげて」 24号 92年10月
・各派見解要約

○「話し合い」の理論を克服するために 86年10月
全てお願いします。

以上大変お手数ですがよろしくお願いします。代金の明細、入金方法もお知らせください。また、こちらの住所ですがどのようにお知らせすればよいかあわせてご返答ください。
さてこの場をお借りしまして質問をさせていただきます。何分にも当方の勉強不足、知識不足から発生する疑問点ですので、内容的に稚拙な点はご容赦ください。

一般的な日本人の共産主義に対するネガティブなイメージの中でも最も多数を占めるのが「国民に自由がない」という点についてだと思いますが、多分に反共宣伝があるにせよかつての「社会主義」国に理不尽な国民に対する抑圧がなかったかと言われればやはりそれは大なり小なり「あった」と言わざるを得ないと思います。

既成の左翼諸党派は「それは共産主義が悪いのではなくスターリン主義がいけないのだ」という主張をしていますが果たしてスターリン主義とはいったい何なのでしょうか?
それはスターリンという指導者としてはちょっと問題のあった人物個人の問題なのでしょうか。もし(そんなことはありえないとしても)レーニンがあと20〜30年長生きしていれば(またはトロツキーが後継者になっていれば)起こりえなかったことなのでしょうか?

多くの共産主義諸党派が党是とする「民主主義的中央集権制」による党運営と、共産主義政党=大衆の前衛という概念を限りなく悪意に拡大解釈した場合、やはりスターリンのような人物に個人による専制政治が行われる危険性が内包されていると考えるのは素人考えでしょうか。

レーニン主義の「あるべき姿」を実践していこうと思うとそこには「それにふさわしい優れた人物」によって指導されなければならなく、結局は共産主義のシステムも個人の問題に帰結してしまうんではないかと思うわけです。そうなると全く本末転倒ですよね。

連合赤軍の敗北も(色々と解釈はあろうかと思いますが)一般的な市民社会でのネガティブな感覚とメダルの表裏でしかない「個」から発生するねたみや嫉み(おれはこんなに革命や党に献身的なのにあいつは化粧なんかしてやる気があるのか?といったような...)を全く克服できなかったからではないかと思うのですが、色々な党派の主張はその「連赤的なもの」のさじ加減がちょっとずつ違うくらいで根本的に「共産主義運動」の持っている陥穽を克服するのは容易なことではないんではないか、と思うのです。

「全体と個」という問題を「マルクス、レーニン主義のあるべき姿」から克服しようと思うと出口のない迷路に入るが如きな感があるような気がしてならないのです。近年色々な限界性からマルクスレーニン主義を捨ててしまった党派もあるようですが(それがいいかわるいかは私にはわかりませんが)その党派のとってはそこからしか活路が見出せなかったということなのでしょう。

こういった意見は「それはおまえに共産主義的主体がないからだ」と一蹴されてしまいがちですが、そういった切り捨て方そのものがスターリン主義というのではないのか?いやいや人類が未だ到達していない共産主義社会を実現するためにはその途上で様々な反革命と戦わなければならないので主体形成された活動家が、党のもと鉄の団結をしなくてはならない、う〜んそれは一理ある「色々な人の意見を参考にして」と「大衆に埋没」していくと結局は体制を利する社民政党にしかならないし..いやいやでもその「反革命」っていうのは誰が決めるの?極端な話「あいつ気に入らないから反革命」とならないと誰が言えるの?いやそんなことをするヤツはスターリン主義者で....???????という堂々めぐり...。

非常に不勉強で申し訳ないのですが、これが私の長年の疑問なのです。お忙しいところ大変申し訳ございませんがご返答いただければ幸いです。
小林 和生さんからのMAILへの返事

 小林さんからの質問に答えるに当たって、本来は小林さんの意見をまとめて整理した形で行うのが適切かもしれないのですが、今回は時間との関係で、質問に対して逐条的に私の意見を述べさせてもらうことにします。若干重複しているところもありますが、お許し下さい。
 また、今回の私の意見では、小林さんの「私の長年の疑問」に到底回答を与えることなどはできていないと思うのですが、その解決の糸口、あるいは一助になれば幸いです。
  (注{ }でくくったところが小林さんの質問で、★印が私の意見です。)

{スターリン主義とはいったい何なのでしょうか?
それはスターリンという指導者としてはちょっと問題のあった人物個人の問題なのでしょうか。}

★スターリン主義(ところでこの言葉は未だに左翼の間でも一致した意味を持っているとは思えないのですが)は、歴史的な共産主義運動が生み出した一種の日和見主義とみるべきだと思います。従って、もちろんスターリンの個人的資質(この点で、難点があるとしても)の問題であろうはずがありません。
 スターリン主義は、国際共産主義運動上の一種の日和見主義で、その特徴は、権力奪取後の労働者国家とその社会を未だ資本主義として変革の対象とするのではなく、主要な生産手段の国有化を持って資本主義から社会主義に転換した社会ととらえ、この体制の維持・防衛を「共産主義の建設」の名の下で自己目的とした思想と運動だと思います。
 ところで、マルクスが「ゴータ綱領批判」で述べているように、資本主義から共産主義への革命的転化の時期、即ちプロレタリア独裁の時期は、こう主張すると奇異に感じられるかもしれないのですが、国家独占資本主義の時期に他なりません。これまでの一般的了解は、労働者階級が権力を奪取し、主要な生産手段を国有化すれば過渡期の主要課題である生産様式の変革はほぼ終了し、後は、生産力の増大(これがスターリンの考え)や国家の死滅、あるいは「世界革命」の完遂(これがトロツキーの考え)であるとされていました。そして、レーニンも過渡期の中で、部分的に社会主義経済が成立すると考えていました。これは、当時のマルクス主義の弱点であったと思います。
 スターリンは、「ソ同盟における社会主義の経済的諸問題」の中で、社会主義社会であるとするソ連に商品と商品生産及び価値法則が存在することを公言し、価値法則の積極的な利用さえ呼びかけましたが、これは、ソ連が社会主義社会ではなく資本主義社会であることの自白以外の何者でもありませんでした。マルクス主義に立つならば、社会主義つまり共産主義の第一段階は、生産物が商品形態をとらない社会であり、価値法則の死滅した社会です。ところがスターリンは、工業生産の部門で生産手段が「全人民的」所有となり、すでに賃労働も搾取も存在しないことを理由にして社会主義社会であると主張しました。そして、商品と商品生産の不可避性を後発資本主義ロシアに規定されたコルホーズの存在に根拠付けました。しかし、スターリンが、商品は資本主義に特有のものではないといくら強弁しようとも、商品生産と価値法則が存在する移行過程の社会は資本主義社会です。そもそも土地及び工業部門の国有化もそれだけでは、社会主義社会に向かっての前進を意味していても社会主義社会の成立を意味しません。国有化された生産手段は、それだけでは国家資本に他ならず、賃労働も搾取もすぐにはなくなりません。労働者階級による国家と社会運動を通じた経済諸関係とりわけ分配の不平等の是正、就労先に関する選択のさいの労働者の自主性の拡大、労働者が、生産と分配について様々な決定に参加し、それを実行することなどによって生産様式の変革を追求していかなければなりません。
 こうして本来、社会主義社会に向かって国内での資本主義的生産様式の変革と国際的規模でのプロレタリアートの勝利(これについては、特別の重要性があります。社会主義は、その本性から言って一国で自足的に成立することは不可能です。少なくとも主要な帝国主義諸国を含めた多くの発展途上国の共同の行動がなくてはなりません。)を促進し、もって国家が死滅する条件を促して行くという過渡期の労働者階級の任務が、スターリンにあっては、ソ連という国家独占資本主義の防衛と維持に切り縮められてしまいました。
 
 そもそも過渡期はそれ自体で自分を自立的に再生産する経済体制ではありません。労働者階級の共産主義に向けた政治意識の発揚に支えられた変革のもとで、分配の不平等を是正し、多くの差別を克服し、資本主義としての性格を社会のあらゆる領域から払拭し、そうすることで益々多くの労働者が自主的に生産と分配に関与し、国家の仕事を社会の仕事に転化し、国家所有(つまり私的所有の一形態)である生産手段を社会的所有に転化するようにしなくてはならないのです。他方で、国有生産手段が共産主義的生産様式ではないと言うことは、共産主義でもなく資本主義でもない生産様式を編み出さない限り、その本性が資本であると言うことです。そこでは、労働は賃労働であり、また程度の差はあれ、剰余労働の他の人間による取得つまり搾取も存在します。社会の改造が進めば進むほどその性格が弱まるとはいえこれは避けられません。そして、もし、社会の変革が進まず、労働者の階級意識が後退するのであるならば、国家資本は、資本としての本質をむき出しのものにしていきます。そして、最後には、私的資本の復活を公然と要求することになります。
 こうした過渡期の国家資本主義としての本質を正しくとらえることができず、それを社会主義として維持しようとしたスターリン主義は、この資本の運動に抗して社会を維持するためにマルクス主義に基づく政治意識の高揚ではなく愛国主義など即時意識に訴え、また労働者を抑圧する方法に頼る以外にありませんでした。彼らによれば、共産主義に向かった社会の変革の任務はそもそも基本的に完了し、後は生産力の増大が最大の課題なのですからこうなるのは当然のことです。これが労働者の解放を掲げながら、逆に労働者の抑圧の檻にソ連などが転化した最深の根拠だと思います。
 ここからスターリン主義は、資本の復活に期待を寄せる右を弾圧するだけでなく、更に革命運動を前進させようとする積極的志向を持つ部分に対する弾圧を不可避とし、またソ連をラーゲリに象徴されるような労働監獄に転換させました。これと結びついて、労働者階級の解放に不可欠の万国の労働者の革命運動の前進 ―世界革命をお題目にしてしまい、逆に諸国の労働者の任務をソ同盟の防衛に従属させていまいました。

{もし(そんなことはありえないとしても)レーニンがあと20〜30年長生きしていれば(またはトロツキーが後継者になっていれば)起こりえなかったことなのでしょうか?}

★確かに、レーニンがもっと長生きをしていたのならと言う仮説は、歴史に「もし」という言葉が「禁句」であるとしてもなかなか魅力あるものです。私は、レーニンならこの問題を克服できたのではないかと(希望的に)その可能性を捨てきれないでいます。レーニンは先の過渡期の問題では、過渡期が国家資本主義であることを見抜いており、プロレタリア独裁の社会を社会主義とは言いくるめなかっただけではなく、スターリンの台頭も許しはしなっかと考えるからです。トロツキーは、この点では、可能性が厳しいものですが、彼は、病床のレーニンから、スターリンに党の書記長の職を与えてはならなず、トロツキー自身がが党の指導をとるべきだと言う委託を受けたにも拘わらず、党の指導部の問題を公開の論争として組織することを投げ捨て、これを反故にしました。これは、彼の自然発生性に対する拝跪を示しています。彼が古参のボルシェビキを差し置いて自分が党の指導を取ることに気後れしたかどうかはともかく、彼の思想には、後に現れるようにソビエトロシアが工業化に乗り出せばそれでスターリン主義の主導権はなくなると楽観主義的に考えていたことに共通する限界を持っていたことは確かです。しかし、トロツキーはスターリンとは違って、コミューン三原則、世界革命の擁護などスターリンが投げ捨てたマルクス主義の諸原則を対置してスターリンと闘っており、スターリン主義と同様の誤りに陥ることはなかったと思います。いずれにせよそれでソビエトロシアが結果的にどうなったかは、確定的なことは言えないと思います。
 ただ言えることは、社会主義に転化できる条件がない中でもプロレタリア独裁を維持し、国有生産手段を活用して、労働者の間の種種の差別を緩和し、社会主義に向けた生産様式の変革に手を着けることは可能であり、世界的な第二次帝国主義戦争後の国際共産主義運動の進展を考えれば、国際労働者階級の決定的な前進があり得た可能性も否定できません。ソ連・東欧の大崩壊から一〇年の今日、官僚的腐敗と労働者間の差別の克服に自覚的なキューバが、アメリカ帝国主義の執拗な経済封鎖にも拘わらず、総じて大衆的支持を得ていることは注目に値する経験だと言うべきでしょう。

{多くの共産主義諸党派が党是とする「民主主義的中央集権制」による党運営と、共産主義政党=大衆の前衛という概念を限りなく悪意に拡大解釈した場合、やはりスターリンのような人物に個人による専制政治が行われる危険性が内包されていると考えるのは素人考えでしょうか。}

★スターリンの専制政治が、例えばツァーリズムのような個人の専制かどうかはここでは立ち入らないとしても、「民主主義的中央集権制」による党運営と、共産主義政党=大衆の前衛という概念がスターリン主義のようなプロレタリア民主主義の破壊に転落し、労働者に対する命令者となることはあり得ることだと思います。それは、現実に起きたことだと言うだけでなく、先に見たように党の綱領と路線・政策と密接不可分の問題であるからです。

 私は、スターリンが何か権力欲の亡者であるかのような理解には反対です。逆に、スターリンは、自分の政治路線と思想にそれなりに忠実に従った人物ではないかと考えています。彼は、「悪意」からではなく、共産主義社会を実現するという「善意」から、彼の「独裁」を遂行していたのではないかと考えています。先に見たスターリンの共産主義に向けた路線、すなわち過渡期を社会主義ととらえこのソ連を防衛・維持する事を自己目的化したそうした路線と表裏一体のものではないかと考えています。有名な言葉で、「地獄への道は善意で敷き詰められている」というのがありますが、まさにこれだったと思います。
 当初、スターリンの「独裁」傾向は、M・レビンの「レーニン最後の闘争」にあるようにその専横さにおいて党の書記長としては我慢のならないものとなっていました。ここでレーニンは、分派活動を追求してトロツキーに同盟を申し込みますが、これは彼によって裏切られてしまいます。スターリンは、この後、このトロツキーを帝国主義のスパイとして追放したのを皮切りに、多くのボルシェビキ幹部を粛正にかけていきました。
 スターリンの「独裁」を党と政治制度の問題としてとらえるのは当然であるにしても、「民主集中性」「レーニン主義的前衛党論」などがスターリンの「独裁」の歯止めにならなかったことはその通りです。言葉の上で「民主主義的中央集権性」「レーニン前衛党論」は同じでも、スターリンのそれは民主集中性や党と大衆の問題においてレーニンのそれと内容的には、著しく違ったものとなっていました。(なぜそうなってしまったかと言う総括は重要で今後の課題ですが)その核心は、党論議の公開制と分派の問題です。スターリン主義の理解では、大衆は、党から政治思想と方針を受け取る遅れた存在として規定されています。従って党が指導し大衆がその指導を受けるものとして考えられています。これは党の指導の無謬性が前提となっているのですが、こうした考えは、弁証法的な人間認識の法則から言って正しくありません。対象世界の多様性に規定された人間認識が相対的真理を有効に獲得していくためには、党内外を問わず闘争方針や認識について相互に論争できなくては、真理の獲得も階級的な意識の成長も望みようがないからです。
 このためには、また、党の中に同意見者のグループ即ち分派の存在が承認されるべきです。確かに党はプロレタリア階級闘争の戦闘司令部であるのですから行動の一致は当然のことですが、党内で思想的・路線的な影響力を相互に拡大しあう分派の形成が必要です。ロシア社会民主党は言うまでもなくブレストーリトフスク条約を巡る党内闘争までのボルシェビキは党内の分派の権利を保障していました。これは一時的な措置として禁止が決議され、その後、解除されないまま、スターリン主義はこれを党内党として積極的に禁止してきました。
 ですから、第一に、スターリンの「独裁」を党組織や政治制度の内容で検討したときに、少なくともこれらの措置は、こうした「独裁」の歯止めとなることは確かです。また、第二に、この問題は、繰り返しになりますが、政治路線と密接不可分であると言うことです。よって立つ綱領や政策との相互関係で捉えなくてはならないと思います。

{レーニン主義の「あるべき姿」を実践していこうと思うとそこには「それにふさわしい優れた人物」によって指導されなければならなく、結局は共産主義のシステムも個人の問題に帰結してしまうんではないかと思うわけです。そうなると全く本末転倒ですよね。}

★「レーニン主義の『あるべき姿』」って何でしょう。ここは是非、小林さんに提起してもらいたい点です。この文章を読んだ限りでの感想で言いますと、小林さんにはすでに何らかのレーニン主義についての考えがあり、そしてまた同様に「優れた人物」のイメージもあるように思えます。これを正面から取り上げて提起してもらった方がいっそう論議が発展するのではないでしょうか。
 その際、「結局は共産主義のシステムも個人の問題に帰結してしまう」と言う主張をもう少し説明していただけると助かります。
 レーニン主義の「あるべき姿」を「優れた人物」が指導すると言うことが、どうして「共産主義のシステムも個人の問題に帰結してしまう」ことになるのか判りづらいのです。
 原理的に言って、共産主義のシステムは、自立した諸個人による自由な連合の社会システムです。従って、共産主義(この場合共産主義の第二段階、レーニンの言う高度に発展した共産主義社会に限定して言いますと)は、全体主義や集団主義とは全く異なった個人が主体となった社会であり、個人の個性を無限に発展させることが万人の発展の条件ともなる社会です。ですから、その意味では、共産主義は、本質的に社会の問題であると同時に個人の問題でもあります。
 小林さんの言いたいことは、この領域の問題ではなく、恐らく、共産主義運動は本来労働者階級の事業なのにそれが、「優れた人物」の指導を不可欠なものとすることを「本末転倒」と理解しているのでしょうか。そしてまた、その際、逆にスターリンのような「問題のある人物」が登場すると革命闘争敗北すると言う考えと共通しているように思えます。
 もしそうであるならばこの問題は、革命運動の指導者の資質の問題ではなく、「レーニン主義の『あるべき姿』」の思想的路線的内容の問題がやはり核心になると思います。革命運動にあって誰かが指導的位置につくことは、人間の認識の不均等性、あるいは個性そのものからして一般に避けられないことですが、やはり労働者階級の解放が階級に所属する一人ひとりの労働者の事業であることを考えるならば決して好ましいことではありません。それにしても、この指導者は、天上から降臨するのではなく労働者階級の現実の解放闘争の中で特徴づけられ、鍛えられ、成長し、あるいは時には堕落すると言うことです。つまり、これは、先験的に指導者の資質を持つ誰かが指導をとるのではなく、階級闘争の思想と路線がまた指導者を生み出し、これを規定すると言うことです。従って、核心的に重要なことは、この労働者階級の解放闘争の思想、路線の内容そのものなのです。その積極性と限界とを労働者が評価できるようになればなるほど、また指導者は鍛えられるだけでなく新たに指導を引き受けることのできる労働者が拡大します。党の内外に公開された路線論争だけがこのことを可能にします。ですから、ここでは、小林さんの考える路線=「レーニン主義の『あるべき姿』」の具体的内容に立ち至った論議がいっそう生産的になるのではないかと思います。
 私も、レーニンがプロレタリア階級闘争で何者にも代え難い業績を残したマルクス・エンゲルスと並ぶ偉大な革命家であると考えていますし、レーニン主義の核心点は、階級形成論、党理論、国家学説、帝国主義論、弁証法などいくつかあると思っていますが、その中で、一番に注目するのは、労働者階級の解放闘争にとって労働者人民の階級意識の発展がいっさいの鍵であり、従って、労働者大衆の政治的成長をいかに実現していくのかと言う彼の観点です。レーニンの「なにをなすべきか」にある「全人民的政治暴露」「全人民的政治闘争」の考えはその真骨頂ではないかと考えていますが、これからも労働者階級は多くのものを彼の業績から獲得できるしそうしなければならないと思います。しかし、レーニン主義と言う時、これにはいろんな理解があります。甚だしくは、スターリンのそれですし、また、右翼理論家からのそれもあります。私はここからもう一度再検討することが積極的ではないかと思います。

{連合赤軍の敗北も(色々と解釈はあろうかと思いますが)一般的な市民社会でのネガティブな感覚とメダルの表裏でしかない「個」から発生するねたみや嫉み(おれはこんなに革命や党に献身的なのにあいつは化粧なんかしてやる気があるのか?といったような...)を全く克服できなかったからではないかと思うのですが、色々な党派の主張はその「連赤的なもの」のさじ加減がちょっとずつ違うくらいで根本的に「共産主義運動」の持っている陥穽を克服するのは容易なことではないんではないか、と思うのです。「全体と個」という問題を「マルクス、レーニン主義のあるべき姿」から克服しようと思うと出口のない迷路に入るが如きな感があるような気がしてならないのです。}

★「共産主義運動」の持っている陥穽、これの正体は何でしょう。全体と個なのでしょうか。この文脈からははっきりしないのですが、もしそうだとするのであれば、私は、違う考えを持っています。私は「連合赤軍」の検討をしたことがないので、確定的なことはいえないのですが、「『個』から発生するねたみや嫉み」は恐らくどんな運動でも生じることではないかと思います。そしてこうしたことから団結が弱まり運動や闘争が限界につき当たるように見えることもあるかもしれません。しかし、問題をこのように捉えると、私には「共産主義運動」が何か宗教のようなものに思えてきます。
 つまりその組織の持つ思想や路線あるいは綱領や政策は先験的に正しいものとして神棚に祭り上げられ、問題はこれをどのような人格が担うのかと言う構造が想起させられます。こうした構造の中では、活動家が聖人君子となる以外に突破の方法はないという袋小路に入り込んでしまいます。
 そうではなく敗北の原因はその綱領・政策に求められるべきものではないでしょうか。また党の指導者もそもそも革命的な聖人などではなく革命闘争の中で鍛えられ成長するものであるはずです。
 そもそも「ねたみ嫉み」を率直に提起できない組織関係、恐らく連合赤軍の場合は、軍事組織としての上意下達関係とそれを生み出した軍事路線、さらには党の共産主義的純化の方針と不可分ではないかと思います。この領域にまず焦点を当てて総括することが必要ではないかと思います。それこそが唯一、敗北の原因を明らかにしてくれるものではないでしょうか。

{こういった意見は「それはおまえに共産主義的主体がないからだ」と一蹴されてしまいがちですが、そういった切り捨て方そのものがスターリン主義というのではないのか?}

★共産主義的主体てなんでしょう。要するにやる気がないってことでしょうか。そうした意味で切り捨てるのであるならば全く誤っていると思います。そして、問題はやる気一般ではありません。つまり運動の展望を確信できることが必要です。これは、とりもなおさず党の綱領や政策に現れるものです。そうした具体的内容の中で問題を検討することが必要なのではないかと思います。

{いやいや人類が未だ到達していない共産主義社会を実現するためにはその途上で様々な反革命と戦わなければならないので主体形成された活動家が、党のもと鉄の団結をしなくてはならない、う〜んそれは一理ある「色々な人の意見を参考にして」と「大衆に埋没」していくと結局は体制を利する社民政党にしかならないし..いやいやでもその「反革命」っていうのは誰が決めるの?極端な話「あいつ気に入らないから反革命」とならないと誰が言えるの?いやそんなことをするヤツはスターリン主義者で....???????という堂々めぐり...。}

★ここでは、基準が無くなっているのではないでしょうか。この主張の通り「反革命」といえるのは革命なるものがはっきりしているからですが、問題の核心は、この革命、反革命の内容ではないでしょうか。この問題の解答は、マルクス・レーニン主義一般からは決してでてきません。
 この点でも小林さんの「革命」の内容や先にも提起したように、小林さんの考える「マルクス・レーニン主義のあるべき姿」として考えている内容で討論するといっそう意義のあるものとなると思います。

(了) (2000年8月10日 山田 宏)

参考資料としてイターネットで閲覧できる私たちの文章をここに掲載しておきます。これらも併せてご検討いただければ幸いです。

「未来」8号ー11号 伊藤 一 (『国際主義』編集会議)
権力問題と広い社会変革 『未来』室井論文を一契機に体制変革・党組織論を考える
http://www.ne.jp/asahi/com/f/future/2000/n11-0006/ito4.htm

共産主義運動の危機と、過渡期―共産主義論(伊藤 一)(Aug.1997)
http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol1-1/cmcrisis.html

川村さんの質問への回答 伊藤見解との相違点−スターリン体制はプロ独ではない
(山田 宏)(Oct-Nov.1997)
http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol1-1/ydtokw.html

共産主義運動再構築の展望−党綱領原則部分の提起(1991)
http://www.ngy.1st.ne.jp/~ieg/ieg/inter/vol1-2/prospect.html
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