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4 戦時体制下の動き ―銃後の暮らし―:  国家総動員法の制定と物価統制
http://www.asyura2.com/0403/dispute17/msg/1102.html
投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 04:46:26:0iYhrg5rK5QpI
 

(回答先: 3 読谷飛行場(陸軍沖縄北飛行場)の建設と村民 投稿者 竹中半兵衛 日時 2004 年 5 月 29 日 04:43:26)

4 戦時体制下の動き ―銃後の暮らし―

http://www.yomitan.jp/sonsi/vol05a/chap02/sec01/cont00/docu031.htm

国家総動員法の制定と物価統制

 一九三七年(昭和十二)の日中戦争全面化以後、軍需生産のため民需が切りつめられ物価統制のもとで物不足が生じると生活必需品の配給が始まった。
 一九三八年(昭和十三)一月、近衛内閣は「(中国)国民政府を対手(あいて)にせず」と声明を発し、戦争の長期化が必至となった。
 この年二月、政府は戦争に必要な人員や物資を確保するため「国家総動員法」を提出し、三月十六日衆議院、二十四日貴族院で原案どおり成立、四月一日に公布した。
 全文五〇条からなる骨子は、その名の示すとおり戦時または「事変」に際し、国防目的達成のために人的・物的資源をすべて国家が統制、動員できるというものである。さらに、この法律は一九四一年(昭和十六)三月に改正され、政府のいっそうの権限強化がはかられ、罰則も厳しくなった。こうして戦争遂行の名目で国民生活のいっさいが統制下に置かれたのである。
 それが一九四一年(昭和十六)のアジア太平洋戦争の開戦により国民の多くは総動員態勢のもと生活のあらゆる場面で戦争への協力を強いられ、深刻さを増していった。
 政府は日中全面戦争下の一九三九年(昭和十四)、軍事インフレによる物価騰貴を抑えるため、あらゆる物資の価格や賃金、地代、家賃等を同年九月十八日の価格に凍結する「価格等統制令」を公布し実施した。しかし民需生産の減少が続いたうえ、一律に物資の価格を据置いたため、売り惜しみ、買いだめ等もあって、物の出回りがかえって悪くなり闇価格が上昇し国民生活はいっそう苦しくなっていった。
「物価」
 「価格等統制令」による物資の価格等を県内に周知徹底させようと沖縄県では『昭和拾五年 統制経済 物価便覧』を発行している。全体で三三〇頁におよぶ冊子の目次は、「関係法令」として国家総動員法(全五〇条)、価格等統制令(全二一条)等ほか六つの法令規則を全条記載している。続いて「公定価格、許可価格」が繊維品、燃料、化学工業品、金属製品、雑品、食料品の順で、一覧表形式で三九頁から三一一頁まで掲載されている。
 例えば「シャツズボン下」では一四種の生地名称をあげているが、そのうちの「台丸二〇」をみると、製造家売値が「一打ニ付」九円四〇銭、最終卸売価格が一〇円四〇銭、最高小売価格が「一枚ニ付」一円五銭となっている。これからすれば、卸元から一二枚を一〇円四〇銭で仕入れた商店は、一二枚売り上げて一二円六〇銭が手元に残るので、粗利益は二円二〇銭になる。製造元から卸商、末端商店までの利益を国で決めていることがわかる。
 布靴(黒ヅツク普通運動靴)卸売価格(単位一足)ではサイズ別に四種に分けているが、「十文ヨリ十二文迄」をみると、「上等品」で八三銭、「中等品」で七〇銭、並等品で六二銭となっている。
 清酒では、壜詰(一升詰一本ニ付)「日本盛」で卸売価格が二円五三銭、小売価格が二円七五銭となっている。なお、清酒の銘柄は他に「白鶴」、「菊正宗」、「月桂冠」などを含めて二〇種が記されている。中には時代を反映したのか「進軍」(小売二円四五銭)というのもある。(全国一律ということであろうか、泡盛の一覧表は見あたらない。)
 当時のご馳走の代表格であったであろう豚肉をみると、部位により一等から五等まであるが、一等(肩肉、棒肉、肝臓など)で一斤七〇銭となっている。ちなみに五等というのは「血液」で、一頭分三五銭となっている。
 それでは、当時の大人の日当はどのくらいであろうか。昭和十四年九月二十七日付「沖縄日報」によると、県が製糖期に派遣する「原料搬入立会人」の「給料は一日一円五十銭乃至二円を支給す」(『読谷村史』第二巻「戦前新聞集成」下巻、三〇一頁)とあるが、これは県派遣ということで、通常よりは高額だったと推定できる。ズボン下一枚の値段が一円を超え、清酒一本が二円五〇銭ほどというのはいかにも高値であったことがわかる。
(『昭和拾五年 統制経済 物価便覧』は、『戦時資料第1集 経済統制下の県民生活資料 〔物価編〕』久手堅憲俊、安仁屋政昭編集・あけぼの出版、一九九九年三月発行所収)

 翌一九四〇年(昭和十五)七月、「奢侈品等製造販売規則」(商工・農林省令、『いわゆる七・七禁止令』)が出され、「ぜいたくは敵だ!」とのスローガンのもとに生活の切りつめが強要された。
 こうした物価統制の混乱や物資不足への対応策として登場したのが配給制度であった。日常生活必需品の配給制は一九四一年(昭和十六)二月、東京で米の配給制が行われ、全国に波及した。東京では同年五月に家庭用木炭が、九月には砂糖、マッチ、小麦、食用油が配給制となった。翌四二年(昭和十七)一月には食塩の通帳配給制が実施され、六大都市では味噌、醤油の通帳割当制も実施された。二月には衣料点数制が実施された。その後も配給の範囲は広がり、ほとんど全ての物が統制下に置かれた。
 実際には通帳制にしろ、切符制にしろ、戦争の長期化に伴い、物が不足し配給が滞る中で国民は生活を守る「戦い」に追われた。生活必需品の絶対生産量が不足し、お金だけでは物が買えないようになった。配給品を手に入れるための“行列買い”、都市から郊外(農村)への食料品の買出し(通称・買出し部隊)の列車の雑踏ぶりは日常茶飯事となった。
 特に沖縄は生産県ではなく消費県で、しかも本土から離れているので、物の流通も滞り一層深刻であった。
家庭用米穀通帳制
 一九四一年(昭和十六)四月に六大都市で最初に実施され、年内にはほぼ全国に実施された米穀通帳配給を見ると、米の配給基準量が十一歳から六十歳の男女に一人一日三三〇グラム(二合三勺)と定められ(年齢別差、労働の強度による男女別の加配もあった)、世帯主に交付される米穀通帳に家族全員の名前・性別・年齢・配給量などを記入して配給所となる米屋を決め、そこから購入することとされた。通帳にしろ切符にしろ、配給制度の実施には町内会、隣組が大きく関与した。その後、一九四二年(昭和十七)二月からは、食糧営団が米麦を管理、貯蔵し、配給に関わるようになった。村内では、比謝矼の比嘉商店(※※)の一角に設置されていた。

衣料切符と衣料品点数表
 戦局の逼迫化に伴い、生活必需品の絶対生産量が不足し、お金だけでは物が買えなくなり、衣料切符が必要になった。基本的に生地(綿製品)を多量に使用するものほど多くの点数を必要とした。
 『昭和十八年六月現在 沖縄県経済便覧』から、昭和十八年一月十八日改正の「衣料品点数表」をみると、袷(あわせ)(…綿入および丹前を含む)一枚六〇点。「裏付コート」(被布を含む)が一枚五〇点。国民服、制服の「上下揃」が五〇点。婦人服の「ワンピース」が一着二〇点、「ツーピース」が一揃で三五点、「ブラウス」一〇点。学童服または子供服の「ワンピース」が一着一五点、「上下揃」が一揃二二点、ズボンまたはスカートが一着七点などとなっている。
 ちなみに衣料切符の裏面には注意事項の一つとして「今年度は衣料切符の点数も少なくなりましたので、皆さんは今一層衣料品の消費節約と手持品の補修活用に心掛けられ決戦下の衣生活を戦ひ抜いて下さい」とあった。
(『昭和十八年六月現在 沖縄県経済便覧』は、『戦時資料第1集 経済統制下の県民生活資料 〔物価編〕』久手堅憲俊、安仁屋政昭編集・あけぼの出版、一九九九年三月発行所収)

「衣料切符」(『戦時資料第1集 経済統制下の県民生活資料 〔物価編〕』あけぼの出版、一九九九年より)

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