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「産業主義近代」の終焉は、マルクスではなく、ケネーの正しさを実証する:重農主義者は「産業主義近代」の終焉を予感していた。
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/430.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 27 日 15:05:19:Mo7ApAlflbQ6s
 


「産業主義近代」の終焉をテーマに書き込みをしているが、「産業」に懐疑の目を向けていた人たちは近代的産業が興隆する前に既にいた。

それは、フランス絶対王政期に経済問題に取り組んだ重農主義と呼ばれる人たちである。
彼らの特長は、竹林の一愚人さんがシリーズで提起された「自生の秩序」と類似の「自然の秩序」である。その自然も、自然権などで使われる超歴史的な自然ではなく、人々が現実に生きている世界としての自然である。

重農主義者として名が知られているのはケネーとチュルゴーだが、より重農主義的と言えるのはケネーである。
彼は、「経済表」という現在の産業連関表の祖とも言える社会的再生産過程の考え方を提示した。

この「経済表」で扱われる経済部門は、生産階級・地主・不生産階級の三つである。

生産階級は、農業部門であり雇用主のみならず労働者も含む。
地主は、領主のみならず召使も含むもので、論理としては政府部門と考える。
不生産階級は、産業(加工)部門であり雇用主や職人・労働者を含む。

驚くことに、ケネーは、機械を造ったり、家具を作ったり、洋服をつくる労働を“不生産”だと考えていた。(当たり前だが、ケネーは、産業国家日本を支える自動車や電子機器の生産も“不生産”とするはずだ)

ケネーが農業部門を生産的とするのは、“自然の恵み”により一粒の種が数百倍の種(穀物)を生み出し、そのような余剰こそが地主や不生産階級の活動を支えると考えるからである。

アダム・スミスは重農主義に一定の評価を与えたが、以降の「近代経済学」は、経済表の考え方のみ延命させ、当然のように、産業部門を“不生産”と考える重農主義を過去の遺物としてしまった。
産業における技術革新や規模の拡大が、資本家の貨幣的富を増大させるだけではなく、幅広い国民生活の向上に貢献した「事実」を目の当たりにしてなお、産業部門は“不生産”であると主張し続けられる知的活動者はまずいないであろう。

しかし、「産業主義近代」の終焉は、経済論理的に言えば、重農主義の産業部門は“不生産”であるという考察が“真理”として甦ることを意味する。

ケネーが“不生産”と呼ぶ根拠は富(余剰)がないことだから、ある国民経済で産業資本総和が利潤(富:余剰)を生まない事態を“不生産”と呼べるからである。


ケネーが産業を“不生産”と呼ぶ論理を紹介する。(引用は、『私は、経済学をどう読んできたか』より)

「「人間論」の抜粋

 ・・・手工業で商品を製作する者は富を生産しない。なぜなら、彼らの労働は、土地の生産物から抽出されて彼らに支払われる賃金に等し分しか、商品の価値を増やすことはないからである。布を作る業者、衣服を仕立てる仕立屋、靴を作る靴屋は、主人の食事を作る料理人や木を切る木樵、演奏をする音楽家と同様に、富を創造はしない。彼らはすべて、ある一つの同じ賃金から、その仕事について割り当てられた報酬を支払われ、受け取った額を生活維持のために支出する。このように彼らは、自分が生産した分だけを消費する。彼らの労働の生産物は、その労働に等しいので、そこからは富の余剰は生じないのである。したがって、富を創出し、あるいは毎年収益を創造するのは、経費を超える価値を持つ生産物を土地から生じさせる人々しかいないのである。」(P.66)


どちらがわかりやすいかわからないが、“産業(加工)部門は、人の活動力によって自然を変形・変質させながら消費してしまうだけで新しい富(余剰)を生まない、変形・変質は人の活動力によってのみなされるものだから、それに従事していている人たちが生活するためだけのものでしかない。”と考えればわかる。

「おいおい、そんなことを言っても日本は産業国家としてここまで発展してきたではないか」という疑問は当然である。

その答えは、“日本の産業部門が発展できたのは、生産した財のある割合を外部国民経済(共同体)に販売できる状況が続き、貿易収支黒字(余剰)も確保してきたからに過ぎない”となる。

グローバリズムの行き着く先が「ワン・ワールド」であるのなら、貿易収支なる概念は消失することになる。(それは、長崎県と茨城県のあいだに貿易収支なる概念が成立しない(意味がない)のと同じである)
重農主義は「閉じた経済社会」で妥当かつ自然な論理であり、「ワン・ワールド」が地球レベルで「閉じた経済社会」をめざすものであるなら、産業の“不生産”性が否応なく浮かび上がってくる。
重農主義のほうが、近代経済学やマルクス「資本論」よりも歴史スパンが広く、適用性や通用力が高いと言えるのである。

あまりリアリティがないかもしれない「産業主義近代」の終焉を少しでもご理解いただくために、重農主義的観点を導入する試みをさせていただいた。

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★ 関連投稿

「米国支配層(世界支配層)は「産業主義近代」の終焉が近いことを知っていて、
その後の世界に向けて動いている。」
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/395.html

「「産業主義近代」の終焉で最大の打撃を受けるのは、世界で最も成功した産業主
義国家日本である。」
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