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「市場を司るものは神になる」のつづき >あっしらさんへ
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/671.html
投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 7 月 08 日 20:51:21:akCNZ5gcyRMTo
 

参照スレ
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/598.html
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/548.html
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あっしらさん レスありがとうございます。 バルタンです。

阿修羅へのアクセスも飛び飛びになりこの間の爆発的スレで書いたことも風化?して、ためらい
ますが、書き改める余裕がないので失礼とは思いますが投稿します。
なにかフェイズがずれているのか(私の思考怠惰とは思いますが)循環論になってきた
気がしますが、とりあえず本文にある「自然成長性」ということで続けさせていただきます。


>説明されている「協同組合」は近代概念のもので、マルクスは、全生産(労働者)
>者が加わるものとして「生産協同組合」を持ち出したと思いますよ。(そうでなければ、
>「交換はしない」という文言は出てこないはずです)

さすがにマルクスも当時のイギリスや世界を見ていたわけだしそこまで牧歌的だったかは保留しますが
「生産共同組合の連合」と言っていますし、自然的条件も含めてやっぱり差異は残る、社会的必要労働に
平準化されてもどうしても「余剰」が残る、その余剰がまさに自然=人間だという意識がマルクスに
あったんじゃないか。あと、なにせポスト・ヘーゲルの人だしサン・シモン主義者の設計主義も当然
知っていたし、そういうのではダメだというのは判っていたと思います。「人間の歴史を自然史的過程
としてとらえる」と言っているのは吉本隆明が言っているような「科学と取り扱うという立場」ではなく、
自然成長性にまかせるというかドゥルーズ=ガタリ言う「機械」のイメージではないかと勝手に解釈
しています。ご指摘の件ですが、逆に言えば近代概念で考えないとマルクスをいまさら読む意味など
ないわけです。(そこまでして読む必要があるか と言われると...とりあえず「脱・構築」と言う
しかないですが)

律さんへのあっしらさんのレス
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/626.html
>(経済活動が、個々人の思惑で自由に動かせるものではなく、否応なく論理的規定性を受けるもの
>になったからこそ、自然科学的な「経済学」が成り立つのです)

マルクスも「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」とかいっています。
それまでは英雄、豪傑の物語やポランニーの「社会に埋め込まれた経済」であったわけですから。
しかしそれは「関係の論理」であって例えば交換の現象形態まで全て説き起こせる「生成の論理」
ではないわけです。つまりデカルトの分析的方法ですよね。絶え間なく細分化(数値化)してモジュール
の動作原理は説明できるが、それを寄せ集めても全体の有機的連関は判らない。フッサールが
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で言っている「危機」とはそういうことなんじゃないかと。
「諸学の王」としての哲学の復権が解決となるかは置きますが。
(ちなみに「われ思う故に我あり」はカントが『純粋理性批判』でボロカスに批判してますけど、
証明にもなにもなっていない、ただの「私的決意表明」ですから。)

岩井の話に少し触れると、あっしらさんが慧眼にも見破ったように、「資本論」の価値形態論と
交換過程論の循環を確信犯的に「労働価値」を抜くことによって理論的に完結させようとしたわけ
です。商品の体系が貨幣を支え、貨幣が商品の体系を支える「宙吊り構造」という仮象を導入して
貨幣=金(きん)=「金の発掘に要する社会的労働」というマルクスの実体論を葬り去ろうという
ことです。「超歴史的な貨幣表象」というグライダーは動力なしに滑空できるわけですが、しかし
グライダーを引いて浮力をつける「最初の一撃」は始源の奇跡になるわけで柄谷が「経済学者として
しゃべっていないだろう」というのはそういうことです。(これについては新田滋が『恐慌と秩序』
でほぼ完璧な「批判」を展開しています、どうでもいい事ですが。)
あっしらさんが批判されている内容については同意します。今村さんは....いいでしょう。

>余剰生産物が贈与や交換の基礎にあるのですから、腐敗するものは贈与しても損はなく、よその
>共同体が不足のためにそれを求めればくれてやっただろうと思っています。
>そして、気候条件などから常にどちからが余剰生産物を保有していると決まっているわけではないので、
>それが「情けはひとのためならず」でもあったはずです。
それは現在でも生きています。たとえば『イーサンの百姓たち』でタイの老人が孫に「今日は食いきれない
ほど魚がとれた。残った魚をとっておくにははどうしたらいい?」と孫に聞くわけです。
孫は「売りに行って金に換える、塩漬けにする」とか考えるわけですが老人は「近所にわけるのさ。そしたら
誰かが魚を沢山取ったとき、また魚が食べられるだろう」と答えるわけです。
しかし逆に言えば贈与−互酬が成立する範囲が「共同体」なのではないでしょうか?共同体を集合概念
で考えれば部落、講、無尽とか様々なクラスがありメンバーは重なったり、ずれていたりするでしょうし
、空間的にしきられた実体的なものではないのではと思います。
西原理恵子の「毎日かあさん」じゃないけど「子どもが寝静まった夜中に蟹を貪り食う」贈与が成立する
「家族」の中で抜け駆けと経済主体としての「市民」が集まる社会−市場でのエンロンみたいな抜け駆け
とは同列ではないと思うわけです。社会、市場というのは共同体と共同体の間にあるものだと思って
いますから。(サイバラは子どもに「オカシャン、ずるい」とか言われも「カニはわたしのもの、ミソは
私のもの」と贈与しないのですが、これは「私有」というより親の裁量の範囲ですから。)


広松は「共同主観性」とかムツカシイことを言うけど様は顔見知りで言葉が通じる範囲です、見も蓋も
なく言えば。そういう自然的条件と密着し自足した共同体は前レスの「コンビナート」と同じで変わりよう
がない、藤沢周平の「たそがれ清兵衛」の世界です。何百年たっても変わらない。これ以上ない「設計思想」
ですから。そういう共同体(部族)間で略奪し合っても「交通」にはなりません。
別に「進歩」が良いなどと言いたいのではありません。今でも「未開人」たちは数百年変わらない生活を
していますが彼らが劣っているとか、知恵がないのではないわけです。彼らには完結した「世界観」や
宗教がありますが「外部=交通」がない。むしろ「情報」として農業を知っていたのかもしれない。
しかし「あんな隷属的な労働までして生きても意味がない」と積極的に「外部」を遮断したのではないか、
奥地に「逃亡」する事を選んだと思っているわけです。それは「伝承」や「宗教的禁忌」として痕跡を止める
けど、本来の意味は未開人たちにもたどれないのかもしれません。
一家族、あるいは群れで狩猟、採取生活が成り立つためには広大なテリトリーが必要になりますし、
「コンティキ号」や「インカ帝国」等の例を見てもいわゆる未開人たちの移動能力は弱っちい
現代人の想像を絶するものがあるわけです。

どうしても「バザール」というメタファーにこだわるのはそこに「情報=差異」があるからです。
肌の色、眼の色、言葉も違う有象無象が眼を奪うようなものから何に使うのか判らないような品物を
並べていますが、「これは何だ」と聞いても言葉すら通じない。、そばにいた教えたがりのオヤジが
「こうなんじゃないか」と言う訳です。ほんとかどうかもわからないけど。別にお買い上げにならなくても
見るだけでも情報があふれている。ギリシャのソフィストの様に「知恵」を売る人間もいるかもしれません。
それらを見て啓示に打たれたり、祭祀に使えるもの、実用?的なものを交換して所属する共同体に持ち帰った
のではないか。奇跡のように共同体内部でテクノロジーが発明されたとしても、それは自足した共同体を
崩壊させかねない「危険思想」であるのですから生き延びる確率はさらに低くなります。こうしたバザール
のように「他者」が交通する場では当然贈与−互酬が成立する余地はないわけですが。

ついでに言えば徳川幕府も自閉したから300年も政治経済体制を維持できたともいえます。
「武士道」はテクノロジー=鉄砲に対するカウンター(対抗)に他ならないわけで「飛び道具とは卑怯
なり」です。鉄砲は「市民的」な兵器で、強靭な体躯や技量、技能、修練を刀ほど必要としません。女子ども
でも全く敵と対等な兵器で武士など必要としないのです。事実、一向一揆に加担した浜村(雑賀)孫一の
鉄砲隊=「市民軍」が信長軍を苦しめたわけですし、当然こうした身分制度=共同体を崩壊させかねない
危険なテクノロジーは封印され、深遠で高尚な「武士道」というイデオロギーが取って代わりましたが。
(自閉して退行した共同体が明治以降近代国家に御して生き延びたのは一つの偶然と思いますが)

事実などと書いてしまいましたが、前述のように実証的に演繹したものでなくレヴィ=ストロースの
「数学的変換規則の発明」ですので「そんなの嘘だろう」と言われると「はい、ごめんなさい」に
なってしまいますが。バザールというのは「あらざるようにあるもの」、スピノザ的な「観念」で
しかないわけです。
当然あっしらさんのおっしゃるように「商人」が媒介したというのが実証的には正しいとは思っています。
この話を持ってきたのは冒頭の「共同組合」の話ですが、こういう外部性、偶然性=交通を持ってこないと
共同体というのは自閉する、必ず腐ると思っているからです。原始共産制でもエデンの園でもいいですが
太古に理想状態があり、堕落して失ったものをレコンキスタ(失地回復)するという物語は左翼思想
や宗教を問わず、すごく根深い。


>貨幣意識は、“古代”において、商人や支配層以外にはあまり醸成されなかったと考えています。

それは共同体内の贈与−互酬が主導的だったからではないかと。網野善彦氏の『異形の王権』を
どこまで実証的なものとするかは議論がありますが、貨幣経済--金融は「無縁」=宗教的アジールの
様な聖性を帯びた「あらざるようにある」場所から始まったわけです。贈与−互酬と貨幣経済が
決定的に異なるのは「利子」という時間性に関わる概念が導入されたことだと思います。
当然「利子が利子を生む」宙吊り構造には最初の一撃が必要なわけで、(あっしらさんがイスラムついて
語っておられましたが、)利子を取るという行為を悪と見る世俗的倫理観を神仏、天皇の聖性が超越した
わけです。しかしこれはパラドクスで、貨幣経済がアジールを超えて共同体に浸透したとき、その反倫理性
が金融を「聖から賤」に転落させる事になるわけですが。
(ユダヤ、キリスト教については実証的知識が弱いので保留します。)


>分業間の「労働生産性」の問題は、違う財を生産しているのですから問題になりません。
>(同じ財の「労働生産性」の違いは問題になるが、別の財の「労働生産性」の違いは無関係)

「価値形態論」では、異なる「使用価値」例えばコーヒーが10円、鉄が20円と貨幣を媒介にして自明の
ごとく数値に還元されますけど、分配の問題では「労働力の担い手」の差異がもう一回問われるので
はないかと思うのです。「共同性の復権」とか簡単に言うと地獄に落ちそうだし。

>資本の高度化が進んだ社会では、たんなる「労働時間」を分配の基準にしてもほとんど問題がありません。
はい、不均等性はありますが変化傾向として了解します。しかし全てをテクノロジーで解決不能なわけ
ですから真の意味での「労働力の担い手」の流動性、例えば籤引きとかジャンケンで仕事を決める
ような、具体的有用労働の差異が「けばけばしい隠喩」(ソンタグ)に取り憑かれないことが必要
だと思うわけです。

以前居住していた所で何軒かで纏まって畑を借りて百姓の真似事をやっていました。
その農家のご主人は地域での生協との契約農家第1号で「変人」で通っていたのですが「オメーラは口先
ばっか『除草剤はいけません』とか言いやがって、畑が草だらけじゃねーか。すぐに来い」とか
怒られてばっかだったのですが
「会社にして人も雇う。百姓はいつも汚い格好をしてだらだら仕事してるから、金勘定ができないんだ。
ネクタイ、背広で会社(畑)に通ってタイムレコーダー置いて5時にはサッサと帰るんだ。それができな
けりゃ百姓は俺の代で終わり」とおっしゃっていました。
「子どももやる気ないし夫婦養子になるか」とかお誘いもあったのですが「俺の借金聞いたら腰抜かすぞ」
と言われ(からかわれ?)引いてしまいましたが。

私は「業界」の第2世代?ぐらいだったのでフォーマットを作る「楽しい苦しみ」を味わったのですが、
今やっているのはルーチンワークで「差異」は場数の踏み方と集まった名刺の厚さだけです。
誰がやっても大して変わらないわけですし。それが本来の意味での「差異の全面的な開花」に向かえばいい
のですが「労働の担い手」まで平準化しているから、周りの若い人は非常に微細なところで、絶え間なく
「自己差異化」しようとしています。「資格」とか「英会話」とか「○○さんは一日6件案件処理しましたが、
僕は10件できました」とか。はたで見ていても物凄く息苦しい。

律さんご紹介のリチャード・ハーベイ・ブラウン『テクストとしての社会』で言えば「ものつくり」の現場でも
「シンボルや観念の操作」が深刻になっているんじゃないでしょうか。アルチザンを追放して表象に置き換えて
(ISO9000、マニュワル化)して平準化するという(レーニンではありませんが「大工場=学校=軍隊」です
から)シンボル化と生の生産過程とのズレが物凄く大きくなっています。某自動車部品メーカーなど始業前の
「チェックリスト」が膨大で、担当者が週末にまとめて家に持ち帰り、子どもや奥さんに頼んで「チョンチョン
(チェックマーク)を入れて、わざと靴で踏んで汚して、捏造」しているわけです。
生産現場の担当者ですが大手ほど「銀行員化」してますよ。書類の辻褄(社内規格に適合しているか)には異常に
うるさいけど、現物には全く興味をしめさないとか。

むりやり冒頭に戻すと、こうした「所与の条件」の批判としてしか「ありうべき社会像」はないという
事で終わりにします。

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