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(更新板) 鉄とガラスの遺跡を訪ねて【歴史倶楽部】丹後半島の旅:先史・縄文時代〜弥生時代
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投稿者 エイドリアン 日時 2004 年 7 月 04 日 13:22:11:SoCnfA7pPD5s2
 

(初版は、引用元のURL変更により、画像の殆どが表示不能となったので、管理人さんに削除して頂きました。今回、変更後のURLを引用して、更新版をUPします。)

★ 我がルーツを辿る_(1)遺跡概観_(1-1)丹後半島の旅:先史・縄文時代〜弥生時代


丹後半島の歴史(1)
[引用: 鉄とガラスの遺跡を訪ねて:丹後半島の旅 2002.6.29〜30(1)

■ 先史・縄文時代

丹後半島にも先史時代から人々が住み着いていたことは明らかであるが、確認されている遺跡としては縄文時代の草創期からである。
舞鶴湾の小さな入り江に「浦入(うらにゅう)遺跡」がある。入り江には 5000 年前の縄文海進でできた砂嘴が沖に伸びている。砂嘴の起点近くで、5300年前の丸木船が発見された。スギ材をくり貫いて作られており、全長8mと推測できる。近くからイカリと思われる石と杭が見つかり、日本で最古の「船着き場」と話題を呼んだ。日本の船と港の歴史上、画期的な発見だった。

最古の丸木船という言い方は、福井県小浜市の「鳥浜貝塚」から出土した丸木舟に対してもしばしば形容される。いずれも縄文前期と判定されただけで、「XX 年製造」と書いてあるわけではないので、いずれが最古かは断じられないが、両遺跡とも、ほぼ同じような状況にあったことは容易に想像できる。

浦入遺跡からは、各地の縄文前期の土器が多数発見されており、当時相当広い範囲に渡って交流があった事が窺える。またここから発見された「ケツ状耳飾」(ケツは玉偏に「夬」)と呼ばれる大型の土製耳飾りは、直径6.5cmもあり我が国最古級のもので、これは中国江南の、「中国・河姆渡(かぼと)遺跡」から出土したモノに酷似していて、遠く大陸との交流の可能性も取りざたされている。

沖あいを対馬海流が流れる丹後半島では、相当早くから大陸と密接な交流があったことが考えられる。今日この地方は、近代日本の発展からは置いて行かれたような鄙びた半島というイメージが強いが、弥生・古墳時代の遺跡を通じて見られる「鉄」と「ガラス」製品の夥しい数、およびそれらの製造に関する先進性は、この地方が大和政権に完全に組み込まれるまで、独自の文化を持ち、大陸・半島と相当密度の濃い交流をしていたことが考えられる。或いは、これらの技術をもたらしたのは、対馬海流に乗って、大陸・半島から渡来してきた人々そのものである可能性もあるのだ。峰山町「途中ヶ丘遺跡」出土の有舌尖頭器は、縄文時代の草創期に人々が狩りに明け暮れていたことを示しているし、網野町「浜詰遺跡」から出土した動物の骨を見ると、クジラなど共同作業でしか穫れないような獲物も多い。久美浜の「函石浜遺跡」は縄文時代の居住跡であるが、約2千年前の中国の貨幣「貨泉」が出土していて(「新」、西暦8〜23年)、弥生時代に入ってからも大陸との交流が行われていたことを示している。


■ 弥生時代

丹後地方や丹波地方では、弥生時代の集落の跡、さまざまの土器、弥生時代の人の顔をありありと伝える人面土器、王の巨大な墓と副葬品、鏡、剣、銅鐸などが出土する。
昭和56年11月21日の新聞に、「日本最古の高地性周濠遺跡」として峰山町の「扇谷遺跡」の記事が掲載された。平野から30〜40mの高さにある、竹野川流域を一望する丘陵に営まれた大環濠遺跡である。弥生前期末から中期にかけて(1世紀末〜2世紀初頭)、の高地性集落で、二重の環濠が巡らされ、V字形の内濠は延長1km、最大幅6m、深さ4mという巨大な環濠であった。まさしく環濠とは防御の為の施設であることを証明しているような遺跡で、自力では這い上がれないような深さである。
この環濠から、鉄滓(てっさい)、ガラス滓、紡錘車、玉造関連の遺物などが出土した。これらの遺物から、当時すでに製糸や鉄器、ガラスの製造が行われていたことが判明した。これらはその後、弥生の丹後の「特産品」とも言える地位を確立する。この時期、鉄製品やガラス玉生産は、近畿の他の地域では全く行われていない。

弥栄町の弥生中期後葉の「奈具岡遺跡」は、日本で一番古い水晶玉作りの工房跡である。2世紀後半の遺跡で、弥生時代中期の大規模な玉作り工房跡として有名である。この遺跡からは、水晶をはじめとする玉製品の生産工程の各段階を示す未製品や、加工に使われた工具類などが多数出土した。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉で、ここでは、原石から製品までの一貫した玉作りが行われており、国内有数の規模と古さを誇る。しかしこの遺跡が衝撃的だったのは、鉄器生産の遺跡としてのその規模である。小さな谷に面した建物跡から8sをこえる鉄片が出土したのだ。同時期の遺跡の中では、日本で最大の量である。谷の斜面につくられた建物の半分は流失しているから、元々遺跡全体に残されていた鉄の量はこの2倍程度だったのではと推測される。水晶玉に孔を開けるための鉄錐も製造していたようだ。

観光地として有名な天橋立(あまのはしだて)がある京都府岩滝町。宮津湾はこの天橋立で、内海の阿蘇海とに分断されている。その阿蘇海の西側に「大風呂南遺跡群」がある。弥生時代後期後半の遺跡で、携帯電話の中継アンテナ塔を建設するための工事中に発見された。尾根上に築かれた1号墓の巨大な墓壙(ぼこう:7.3m X 4,3m X 2m)から、98年9月、これまで我が国では出土例がないガラスの釧(くしろ:腕輪)が出土した。透き通るようなブルーの鮮やかさと、断面が5角形のコンパクトな腕輪で、たちまち全国的な話題になった。他にも勾玉、青銅の鉤付き釧、11本の鉄剣などが出土したが、鉄剣はうち9本が初めから柄が付けられておらず、これは剣ではなく、何か他の鉄製品を作るための材料、即ち鉄塊だったのではないかという意見もある。

また、我々が訪れている間にも発掘調査が続いていた赤坂今井墳丘墓も、弥生後期のやや特異な墳丘墓として注目を集めている。

弥生時代、丹後半島一帯が日本海鉄器文化の主要拠点の1つであった事がほぼ判明した。その丹後を起点にするかのように、鉄器文化の遺跡が日本海沿岸を東西へ伸びている事も指摘されている。

西へ向けて、兵庫県豊岡市の妙楽寺墳墓群(弥生後期)−鳥取県青谷町の青谷上寺地遺跡(弥生中・後期)−同県淀江町・大江町の妻木晩田遺跡(弥生後期)−島根県安来市の塩津山遺跡群(弥生後期後半)。
東に向かっては、福井市の林・藤島遺跡(弥生後期後半)−金沢市の塚崎遺跡(同)−富山県魚津市の佐伯遺跡(同)−新潟県上越市の裏山遺跡(同)。

これらの遺跡からは、鉄剣・ヤリガンナ・鉄器・鉄片・鍛冶炉跡・鉄製工具・鍛冶遺構・鍬や鍬の破片等々、弥生後半期の鉄器文化の普及を示すさまざまなものが出土している。近畿地方において鉄器の普及を見るのは古墳時代に入ってからなので、日本海沿岸地域における鉄器の普及は、大きく大和に先駆けていた事になる。また、時期を同じくして日本海沿岸のみならず、「鉄の道」は信濃を経由して南関東にも達し、また近江を経由して東海地方にも影響を与えていたことがわかっている。つまり、弥生時代後半においては、近畿圏は日本海沿岸に端を発する「鉄のネットワーク」からは完全にはずれていたのである。この事は、大和地方が権力を保持し、やがてこの国を中央集権国家としていく基礎を築いたのは、弥生時代以降すなわち古墳時代になってから、と言うことを強く示唆している。

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