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二様の礼拝_羊飼いの子とマギの子【絵画に見る二人の子供イエスA】シュタイナー人智学と東方の密教
http://www.asyura2.com/0406/bd37/msg/907.html
投稿者 傍らで観る者 日時 2004 年 11 月 15 日 07:44:18:ayjHlPlEsGXTU
 

(回答先: 序説【絵画に見る二人の子供イエス@】シュタイナー神智学と東方の密教 投稿者 傍らで観る者 日時 2004 年 11 月 15 日 07:42:10)

引用: 絵画に見る二人の子供イエスA

 ルネサンス以前、中世の多くの画家は明らかに異なる2つの少年イエスを描いたが、彼らがルカとマタイの両福音書の記述に正確に依拠しようと努めたということ以上、このことからは推量できない。しかし彼らは確かにタイプにおいて全く異なる2つの子供−羊飼いに礼拝されている子供とマギに礼拝されている子供−を描いている。ルカ伝はマギについて、マタイ伝は羊飼いについて全く何も語っていないのである。多くの画家はただ一方の、即ちマタイかルカの物語を採用するか、同じ子供の前に羊飼いと王(マギ)を一緒に描くかした。しかし、少なからぬ画家がこの混合をさけ、1つの祭壇の中に、むしろ多くの場合1つの絵の中に2つの礼拝光景を別々に分けて描いている。


 2つの礼拝を別々の図板に描いている例としては、ハンブルグのトマスまたは英国船乗りの祭壇(1424年)〔左図〕がある。作者マイスター・フランケは、ルカ伝のマリアを寂しい山の中で彼女の子供の前にひざまずかせている。彼女の他に人はいない。ただ2人の天使が守るように彼女のマントをつかんでおり、牛とロバが洞窟から飼葉桶に首を伸ばしている。子供は地面に直に置かれ光を放っている。ヨセフはいないが、父なる神が天上に見えている。神がその子を地上に送ったかのように、神の口から子供へ光の束が伸びている。若いマリアはブロンドの髪をさらし、黄金緋色の縁のついた白い衣装を着て子供の誕生を拝している。

 これに対して、王の礼拝を受けているマリア〔右図〕は赤い衣装−青いマントにくるまって−を着て座っている。頭にはヴェールを巻いている。肘掛けに用いている赤いふしどには2つの枕が置いてある。王達が来ており、ヨセフは贈り物をしまうために、長持ちを開けている。天上には神ではなく、星がある。牛やロバはおらず、マリアの立派なベッドの上には小屋があることが示されている。
 前者〔左図〕においては、マリアと子の頭の光輝は繊細で放射状をしているのに対して、後者〔右図〕においては平板な円形のアウラとなっている。


 2つの礼拝とヨルダン洗礼を描く美しい3枚絵がフロレンスのサンタ・マリア・ノベラにある〔左図〕。ヨルダン川での洗礼はずっと後におきるものであるにもかかわらず3者は一緒にされている。ここで我々は、3つの誕生図を並列して見るのである。即ち、ルカ伝の子・マタイ伝の子と世界ロゴス〔キリスト〕の人間の身体への誕生−それはヨルダン洗礼において始めて生じた−である。(注)

(注) ルドルフ・シュタイナーは『ルカ福音書』第7講義において、次のように語っている。「ゆえにヨルダン川の洗礼のとき以来、ナタン・イエスはキリスト存在により占有される。これが、比較的古い福音書原本において、字義通りには『これは愛する子、今日、私は彼を産んだ。』(ルカ3.2)と訳される言葉の意味である。」(訳注)
(訳注) この引用部分は、今日では「あなたは私の愛する子、私の心にかなう子である」と訳されている(日本聖書協会版「聖書」)。後半部分の原文は、“σοι ευδοκησα=I am content with you(私はあなたに満足する)”であるが、これには“εγω σημερον γεγεννηκα σε=Today,I bore you(今日、私はあなたを産んだ)”という異文が存在する。

 キリストの器となりうる無原罪の人間は、ルカ伝のイエスであるこの子供のみである。彼は「キリストの子(Christkind)」、キリストに属する者である。

 フロレンスの三枚絵(右図)においても、ルカ伝のマドンナは白い衣装でひざまついており、マタイ伝のマドンナは青いマントに赤いドレスで ある。作者にとっては、白いドレスでもマリアの清純さ、神聖さが十分に表現されていないので、彼女の周りにアーモンド型の黄金の輝きが付け加えられている。更に、その上に天使たちがイエスを拝して取り囲んでいるのに対して、王の礼拝では、家の前の味気ない光景となっている。


 オルテンベルガーの祭壇画も二様の礼拝を示している。それは馬小屋と普通の家屋、一方は人里離れた自然の中、他方は望楼のそばの光景を暗示するものとなっている。

 上のような誕生図の二様の描写から、作者が、マタイとルカの叙述の違いを認識していたことは明らかであるが、二つの異なる家族がいたという考えがその根底にあったということまで言う事ができるかは確実ではない。むしろその矛盾は、時間を追って起きたこととしてとらえられることにより解決されている、即ち、羊飼いの訪問の後で王の訪問があり、その間により良い家屋が与えられたように描かれているようにも思われる。
 作者は本当に何も知らなかったのだろうか、それとも依頼主(教会)によって、その事実を隠蔽するように強いられていたのだろうか。

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