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兄さん、ええ度胸しとるやんけ、ほな素手で殴り合おか?凸(`_')
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/579.html
投稿者 こいけ 日時 2004 年 10 月 21 日 23:58:34:.czHagD0Wg4eY
 

(回答先: 「『お前の様なアホに判ってもらわなくて結構だ』ってか。上等じゃないか」というのがお子さまレスです。 投稿者 バルタン星人 日時 2004 年 10 月 21 日 20:56:08)

これはヤクザレスといいます。(▼▼)

頭の中身だけでいうと、私はアナーキストであり、リバタリアンとは見分けがつかないと思います。
アジビラ(〈帝国〉に対する)批評を沢山見せていただきましたが、どれも的外れに思えます。

過去が現在を規定する、のではなく。未来が、現在の意味を決定する。

と考えてはいただけませんか?
現在、「帝国」が行使している軍事力は、「治安出動」ともいうべき「警察権」の行使と見てはいけませんか?
使う武器は相手次第です。ガザでの虐殺はスティンガーを持たない敵にアパッチからミサイルを打ち込むというものです。だから「虐殺」なのです。
相手が地対空ミサイルを持っていれば、核兵器を打ち込もうと、それは「治安出動」と言っていいでしょう。
警察が、過去にどんな活動をしたかというような前例はこの際無意味です。

「自然をすべて人工で置き換える」という、「近代」の過程が終了し、本来の意味での「ポストモダン」
が始まっている、とすれば、我々も変わるべきじゃないでしょうか。
今まで受け入れて来た事を拒否し、今まで拒否して来た事を受け入れ、今まで考えた事も無い事を考え、今まで信じて来た事を疑い、今までの生活を放棄し、新しいなにか、まだ見ぬ、全く新しいなにかを受け入れる準備をしてもいいんじゃないでしょうか。
それが何なのか、あらかじめ確認することは不可能だとしても、信じて跳躍すべき時が来ているんじゃないでしょうか?

「アンチオイディプス」のなかばで挫折し、「千のプラトー」は未読です。
「アンチオイディプス」で引っかかったところを貼ります。(ご迷惑でしょうが・・・)

「アンチ・オイディプス」ノート

人間は宇宙のさまざまの機械を担当する永遠の係員なのである。
自然と人間とは、唯一の同じ一つの本質的な実在であり、…

〈分裂症患者において意味が変質する現象〉と〈産業社会の全ての段階において不協和が増大するメカニズム〉との間に平行関係が存在していることは、コードの破綻という見地からすればもはやきわめて明白である。・・・すなわち資本主義はその生産の過程において恐るべき分裂症の爆薬を生み出すものであり・・・

欲望する生産は純粋な多様性なのである。つまり統一体に還元され得ないものを端的に肯定するものなのである。

子供の生命をオイディプス・コンプレックスの中に閉じ込め、家庭的諸関係を幼年期における普遍的媒介項とみなすことによって、人は無意識そのものの生産の働きと、直にこの無意識に働きかける集団のメカニズムを見失うことを余儀なくされる。

オイディプス主義 ― 《自然》と《生産》という途方もない工場を内輪の私的な劇場にかえてしまうものであった。

無意識は、想像的でも象徴的でもなく、それ自身において《実在するものそのもの》である。つまり「不可能なる実在するもの」(ラカン)であり、またこうしたものの生産なのである。=機械的なるもの。

オイディプスは、まさに観念論への転回点なのである。― 欲望する諸機械の放棄。

集団幻想の革命的な極・・・諸々の機構[制度]そのものを可視的なものとして経験する能力の中において現れる。死の欲動を真の機構を創造する力とみなして欲動と社会野を連接させながら、諸々の機構を破壊あるいは改変する能力。

ひとつは、「財貨」の社会的生産がその規則を〈私〉を通じて欲望に押しつける道であり、いまひとつは、諸々の情動の欲望する生産がその規則を機構に押しつける道である。
クロソウスキー

この第三項としての器官なき身体は、生産されたものの中に再び生産の働きを注入して諸機械の種々の接続をさらに延長し・・・

オイディプス的精神分析に見られるような、無意識の諸総合の不当な使用を告発する。

・・・真実の問題に遭遇するために無意識の脱オイディプス化を目指しているのである。・・・精神分析機械を持って革命装置の不可欠の一部品とする可能性を信じている。

強度[内包]的感動(=情動)は種々の錯乱や幻覚の共通の根源であると同時に、これを錯乱と幻覚とに分化させる原理でもあるのだ。

「精神の病人が自分の医者の実在の人格の中に完全に疎外[譲渡]されるのに対して、その医者は精神の病気の実在を狂気という批判的概念の中に解消してしまう。」
フーコー

社会野が、もはや利害によってではなく、まさしく欲望によって備給されている限り、この社会野の中に亀裂と分離差別を受け入れさせるならば、無意識的備給は、支配階級への普遍的服従を確実ならしめることができるのだ。

テキストを読むということは、・・・文学機械の生産的使用であり、欲望する諸機械の組み立て工程である。つまりテキストからその革命的な能力を引き出し、分裂気質を養う訓練なのである。

言語作用の最も高度なる能力が発見されたのは、言語作品が、ある使用[用法]に従って何らかの効果を生産する機械とみなされた時である。

文学は、全く分裂症のようなものである。つまり〈過程〉であって目標ではなく、生産であって表現ではないからである。

社会的生産と欲望する生産(真の欲望)とは一体をなしているが体制を異にし、従って前者は後者に対して本質的な抑制を行使する・・・欲望する生産が、潜在的に社会形態を爆破するものをもっている。

オイディプスは厳密には決定しえないものなのである。・・・それだけにいたるところに見いだされるものである。この意味では、オイディプスは厳密には何の役にも立たないというのが正しい。
・・・オイディプスは、精神分析が世界の責任を逃れるために手を洗う泉である。・・・潜在的なるもの、反動的あるいは反作用的[反応的]なるもの。

現実因子 ― 欲望する生産と社会的生産との関係、この両生産の体制の相違あるいは葛藤、ならびに前者が後者の中で遂行する備給の様式。

(現代に見られる統合機能の疎外された形態を、われわれはむしろ正気と称しているのだ。)・・・精神の真の正気は、何らかの仕方で、いわゆる正常な自我を解消させることを前提としているのだ・・・。
レイン

芸術機械、分析機械、革命機械が、唯一の同じ欲望する機械を育てる種々の流れの中で、相互に部品となり歯車となってそれだけの数の発火物となるのか、互いに非本質的な外面的な関係に留まるのか。


肛門が一種の止揚Aufhebungの働きを通じてペニスを運びだし昇華してファルスを構成する・・・
オイディプスという概念全体は、肛門的なるものであり・・・

人間は積極的な忘却の能力によって生物学的な記憶を抑圧して人間となったのであるから、今度は共同の別の記憶を身に付けなくてはならないのだ。・・・それは、種々の記号を身体にじかに刻んで組織化することであり、まさしく残酷の体系である。
ニーチェ

文化[耕作]とは、人間あるいはその諸機関を、社会機構の種々の部品や歯車機構とすることである。

作動が阻止されることを通じて作動が再開されるという仕組みの臨界点・・・社会機械が欲望する機械と同一であることが露になるのはここにおいてである。・・・社会機械は、自らが巻き起こす矛盾、自らが招く危機、自らが発生させる不安、この社会機械自身を再生させる地獄の試練、こうしたものを持って身を養うことを常としているのである。

人が強度[内包]的なものから外延的なものへと移行することが本質的なことなのである。神話の助けが不可欠となるのは、ここにおいてである。・・・神話のみが、(生産の体系を含めて)体系の強度の状態を、野生人の思考や行動に対応させてはっきりさせているものであるからである。

コード化されうる可能性もなく、またコード化されることもないような一つの流れ。― 原始社会体の恐怖
抑圧されるもの。・・・近親相姦。オイディプスは罠の働きをするイマージュであり、欲望は自らの虜となるのだ。

人物を識別可能なるものとし、記号を一定の仕方で用い、離接的総合を排他択一的に使用して接続的総合を婚姻的[接合的]に使用することは、外延的に広がりを持った体系の中においてしか可能ではない。・・・近親相姦の禁制は、外延的な広がりを持つ自然体系の設立と考えられる・・・。

近親相姦は抑圧される〈表象表現〉に対して、抑圧する〈表象作用〉が及ぼす遡及効果であるに過ぎない。

欲望する生産から、社会的生産や再生産の中に移行しないものが、抑圧されるのである。抑圧されることになるものは、社会的生産や再生産の中に無秩序と革命を導入すると思われるものである。

器官なき身体は社会体の極限に存在する。・・・脱土地化した社会体であり、欲望の脱コード化した種々の流れが縦横に流れる荒地である。凄まじいこの世の終わり[アポカリプシス]である。― 絶対的な極限[境界線]。
相対的な極限[境界線]は、資本主義的社会組織体のことに他ならない。

極限を社会体の内部へ移行させること。・・・オイディプスはこの置き換えられた極限である。

無意識は欲望の機械という諸機械を構成しているのである。無意識は機械として作動する。それは表現あるいは表象の働きをするものではない。生産の働きをするものなのである。

構造を考えることが機械を考えることといかに異なるか。

専制君主の野蛮なる組織体は、原理的には、原始土地機械との対比において考えられなければならないものであり、この土地機械の廃墟の上に打ち立てられるものなのである。これが帝国の誕生である。

表象には二つの次元があり、ひとつは、その表層の組織であり、 〈音声 − 表記 − 眼〉の三つの要素を持っている。今ひとつは、その深層の組織であり〈欲望の表象表現〉―〈抑圧する表象作用〉―〈置き換えられた表象内容〉の三つの決定機関[審級]をもっている。

シニフィアンの帝国主義は〈それは何を意味するのか〉という問いの外にはわれわれを出させはしない。
それは専制君主の恐るべきアルカイズムである。
〈抑圧する表象作用〉としてのシニフィアンと、このシニフィアンが引きだしてくる新しい〈置き換えられた表象内容〉、あの有名なる隠喩と換喩。

近親相姦においては、シニフィアンがまさに自分のシニフィエと愛をかわすのである。

「軍事装置を動かしまた供給する人々のみが、反人間的な企てに関わっている唯一の人々なのではない。数百万の労働者が無用の財貨や仕事を(あるいは、こうしたものに対する需要を創りだすものを)生産して、度合いは種々に異なってはいるが同じく反人間的な企てに関わっている・・・」


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