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再び、協同組合について・・転載ばかりですみません。
http://www.asyura2.com/0411/dispute20/msg/926.html
投稿者 ジャン 日時 2005 年 4 月 23 日 09:14:48: tV9DFzLB7Zpg6
 

(回答先: 共産主義とは何か? 投稿者 ワヤクチャ 日時 2005 年 4 月 20 日 00:04:39)


 ワヤクチャさん、どうもです。
 協同組合については、ワーカーズが、かなり論じているようです。
 必ずしも、彼らの協同組合論とワヤクチャさんのいわれる協同組合とは同じではないでしょうが、
 果たして、共産主義が協同組合的社会なのかどうか、協同組合社会と企業の民主化による統制という考え方とどうちがうのか。・・プロレタリア独裁というイメージがきらいでそういった方向に流れているだけではないのか?

 余計なことかもしれませんが、転載しておきます。

 http://www.workers-2001.org/w295.htm#w295f

 以下ワーカーズ295号から転載
 
 〈商品生産の揚棄〉を考える@
――「単一の協同組合論」「一国一工場論」を素材として――

1,はじめに

 個々の企業を労働者自身が所有し、管理・運営し、自ら働く、という協同組合に変えること。私はこれまでそうした協同組合原理に基づいて全社会を造り替えることが社会主義だと述べてきた。このことは「共同所有の三形態」など、マルクス説の独自な解釈を展開してきた広西説を基礎として展望可能だと考えている。
 ただ広西説は社会主義を説明するに当たって、主として資本家的企業の内部編成を変革することに重点が置かれていて、社会全体の編成原理がどのように変わるかという事については具体性を欠くきらいがあった。
 社会主義とは広西氏によれば、企業の占有補助者としての労働者が占有者に格上げされることで、それまで利潤を独占していた株主や経営者とともに利潤の分配を獲得すること、これは上からの統括労働を連帯労働に変えることでもあり、これが社会主義であるという。
 他方で社会全体の編成原理については、平均利潤の成立を前提として、この平均利潤を株主と経営者が共通占有するのが資本主義であり、これを労働者まで含めた共通占有にすることが社会主義である、と説明してきた。この利潤分配制の社会、資本家的生産を揚棄した労働者まで含めた共通占有の社会=社会主義でも商品生産が行われ、それは共産主義の高度の社会に至るまで続く、というのが広西氏の主張だ。しかしこの主張は間違っていると思っている。
 広西説では、個々の企業内部や社会全体の抽象的な編成原理は語られてはいるが、個々の協同組合(アソシエーション)と他の協同組合の関係、いわば社会全体の編成原理については具体的に語られてこなかった。
 広西説は「利潤」というのは生産果実の「歴史的限定符」であると正確に把握する視点があるにもかかわらず、「商品」についてはそうした歴史的、概念的な解釈はない。これは商品生産が共産主義の高度な段階まで続くという広西氏の社会主義解釈から出てくるものだが、このことはそれだけ社会編成への関心が希薄だったことの結果かもしれない。逆に社会編成への関心が希薄な結果、そうした結論が出てくる背景にもなっているように思われる。この点は克服されるべき課題だと思っている。

2,「協同組合的社会」への二つの批判

 最近、ソ連型社会主義へのオルタナティブとして、協同組合型社会が社会主義であるとの主張が一つの潮流として形成されてきている。私もその一人であるが、この「社会主義=協同組合型社会」説に対する批判としていくつかの説がある。
 代表的なものが、協同組合型社会では個々の企業は協同組合原理で編成されても、社会全体では商品生産は無くならない、というものである。こうした見解は、カウツキーの見解を援用してなされるケースも多い。
 もう一つの代表的な見解は、協同組合型社会を含めて何らかの「計画経済」を志向する社会は、結局はすでにソ連などで破綻したような「一国一工場体制」に行き着かざるを得ないこと、それを回避するためには市場を前提とした社会主義をめざす必要がある、というもので、たとえば国分幸氏などの見解もその一つだ。
 これらの二方向からの批判に対して、私としては、基本的には広西説のマルクス解釈の立場に立ち、それを一貫させることでその欠陥と限界を是正し、ひいては社会主義の本来の姿の再構成を試みてみたい、というのが本稿の意図でもある。具体的には上記の二つの見解の批判的検討を通じて、協同組合型社会が一国一工場というスターリン体制を招来しないこと、なおかつその社会が商品生産を克服した、協同型、連帯型経済システムであることを考えていきたい。

3,カウツキーの協同組合論

 カウツキーの主張については、かつてワーカーズ内部でも協同組合型社会に関して論争があり、また新聞『Workers』紙上でも論争として紹介されたこともある。批判者の一人は明言はしていなかったがカウツキーの主張を念頭に置いて批判していたと思われる議論もあった。その批判者の一人はカウツキーが『エルフルト綱領解説』で展開していた協同組合型社会の批判を援用し、ほぼそれに自説を重ね合わせて議論を展開していたように思う。
 今回このテーマを今取り上げるのは、かつての論争をぶり返そうということではない。ただ私自身の自己了解の順序で、ここにきてたまたまその場面がきたと言うことにすぎない。
 はじめにカウツキーの見解から見ていくことにする。
 カウツキーの『エルフルト綱領解説』(改造車文庫復刻版1977年)では、一つの共同体の形成、すなわち労働者国家こそが商品生産を克服できる、としている。しかしカウツキーは30年後にはこうした見解を「監獄あるいは兵営」(国分氏の解説)のごとき野蛮なものとして否定するようになる。
 カウツキーの主張は次のようなものだ。

1)「自家用生産」説

 まずカウツキーは未来社会の姿について「生産手段に対する私有を廃して組合財産とする」(第4章)のが社会主義だというところから自説の展開を始めている。しかしそれだけでは資本主義的搾取はなくなるが、競争、生産過剰、恐慌、破産は依然として存続する、という。「破産した企業の労働者は」とカウツキーは続ける。「生産手段を失い、そうして再び――無産者となって、生き延びるためには労働力を売らなければならない事になるだろう。幸運なる組合の労働者は、そのときには自分で働くよりも賃金労働者を雇い入れるほうが利益な事に気がつくだろう。すなわち搾取者――資本家となるだろう。」そして「しばらくの後には元の状態、すなわち資本家的生産方法に立ち返る、と言うことで幕が下りるであろう。」
 「商品生産は私有財産を前提としており、私有財産を排除せんとする一切の努力を無効にする」と考えるカウツキーは、商品生産の廃止のための方策として「販売のための生産を廃して、自家用のための生産」を対置する。「自家用のための組合的生産は、共産主義的、又は今日の言葉で言えば社会主義的生産に他ならない。ただかかる生産方法によってのみ、商品生産を打破することができる。」
 カウツキーは、「市場」に対置するものとして「自家用のための生産」を対置する。ただし、かつて歴史上に現れた古い形態の「自家用のための組合的生産」をよみがえらせることにはもちろん否定的だ。カウツキーがいう古い形態の組合的生産というのは、ジョン・ペラーやフーリエなどが提案した200〜300人の組合や1800人規模のファランステールのことだ。カウツキーはそうした規模の経営は『エルフルト綱領解説』の時点ですでに事実として乗り越えられているという。時代は進み、機械の普及などによって全国規模の企業の誕生やそうした企業相互間の連携などが進んで「ついには資本主義諸国の全経済界を、唯一の機関に統括せんとしつつある」という。だから時代に合った「社会主義的組合の範囲となりうるものは現存の社会的機関の中でただ一つである。それはすなわち現代国家である。」という。また註では「社会主義的組合が繁栄するためには、組合の範囲はますます拡張さられなければなるまい。個々の社会主義的国民はついに、唯一の協同団体に融合し、全人類は唯一の社会をつくるであろう、と固く信じている。」と展望を語っている。

2)単一の協同組合

 上記のようにカウツキーは、商品生産を打破するには国家規模の協同組合が必要であるというが、それは国家と融合したもの、あるいは国家そのものだ。そういうと国家の廃絶を主張していたマルクスの主張と齟齬が生じるが、カウツキーはそうした観点についてはあまり頓着しない。むしろ次のような牧歌的な解説で満足する。今度はカウツキーの国家理解について簡単に見ていこう。
 カウツキーは「現代国家は、……かかる組合の唯一の自然的根拠である。」として、現実の歴史的発展の中で国家が経済的な機能を担ってきており、それが次第に拡大しつつある現実を振り返る。そして「現代国家の経済的活動は、社会主義的組合に向かって進む発達の、自然的出発点である。」とする。また国家の経済的機能が拡大すること自体が社会主義への接近ではないことにも注意を喚起する。国家社会主義などもあるからだ。カウツキーは続ける。「社会主義の出発点となるのは、労働者階級が国家において支配階級となった暁に於いて初めて国家は資本主義的企業たる性質を失うであろう。その時初めて国家を打倒して社会主義的組合とすることができるであろう。……すなわち社会民主党は労働者階級が政治上の権力を獲得し、これを用いて国家を打倒して完全に自足する一大経済組合とすることを欲するのである。」
 ここまでくれば、カウツキーがどんな協同組合を念頭に置いていたかがはっきりする。それは経済規模の発展によって個々に形成された協同組合、あるいは当初から大規模に形成された協同組合が、国家と融合、あるいは国家と一体化した協同組合になる。そして労働者階級が国家権力を獲得することによって、この全国規模の協同組合は「自足経済」を実現し、資本家的企業の性格を脱却し、搾取や商品生産を揚棄できる、というわけだ。
 こうしたカウツキーの立場は、商品生産を廃止するために、個々の企業による販売のための生産を廃止する方策として「一つの協同組合」「国家的な自足経済団体」を展望する。結局は一つの国営協同組合、国家協同組合という、いわば「一国一工場体制」に行き着くことになる。
 たしかに弱肉強食の競合企業による商品生産を廃止するために、全企業を一つの経済組織にしてしまえば、その生産物は販売する必要のない、内部で流通する単なる製品になるかもしれない。しかしカウツキーはその全国一つの協同組合がどのようにして全国的な生産を調整するのか、その調整のための何らかの機関が形成されないのか、その調整機関が果たして個々の労働者から自立して独自の機関、すなわち新たな国家機関にならないのか、という難題には言及していない。あのソ連が、生産手段の国家的所有と中央指令型の計画経済を進めたことと、その過程でゴスプランをはじめとした経済組織やその他の膨大な官僚組織の肥大化をもたらしたことを経験した私たちは、むしろその点こそが知りたいことなのだ。が、カウツキーはそうした疑問に踏み込む前で思考停止する。
 こうしたカウツキーの協同組合論はどう評価すればいいのだろうか。

3)協同組合と株式企業の同一視

 第一に目に付くのが、いわゆる『一国一工場論』である。これはあのレーニンも『国家と革命』の中でそう受け取られても仕方がないような記述をしているが、それもエンゲルスばかりでなくカウツキーなど18世紀後半のドイツの社会主義文献の影響もあったかもしれない。実際にカウツキーを日和見主義と断罪する以前には、レーニンもカウツキーを高く評価していたからである。
 この『一国一工場』論については後半の国分氏のところでも触れるが、近年の社会主義のオルタナティブ、アソシエーション論議の中ですでに克服された事柄だと思う。『一国一工場』体制は、結局は国家所有と国家=官僚組織の肥大化を招く、アソシエーション社会とは無縁なものだというのがアソシエーション論の基本的な了解になっているからだ。というのも、ソ連の実例を見るまでもなく、マルクスのアソシエーション論そのものが生産手段の国家所有を土台とするものと無縁であるばかりか、むしろ生産手段の国家所有や国有経済は共同所有の幻想形態、疎外体であって、協同形態的な私的所有の性格を持ったものである、というのがマルクスの考えだったからだ。
 それにカウツキーは、個々の協同組合が破産して生産手段を失う、あるいは破産した企業(協同組合)の労働者は再び労働力を売らなくては生きていけない、さらには成功した協同組合は賃金労働者を雇い入れる、などと想定している。これも協同組合原理とその原理で成り立つ協同組合的社会の内実を、あまりに粗雑に描いているとしか言いようがない。これでは資本主義の大海のなかでの私的企業の運命と何ら違わない。カウツキーは、破産や失業という概念を協同組合的社会で発生する当然の出来事として語ることで、市場経済と協同組合型社会を何の疑問もなく同一視しているわけだ。
 いうまでもなく、マルクスは「生産手段の共有を土台とする協同組合的社会の内部では、生産者はその生産物を交換しない。同様にここでは、生産物に費やされた労働が、この生産物の価値として、すなわちその生産物の有する物的特性として現れることもない。」『ドイツ労働者党綱領評注』(=『ゴータ綱領批判』)としているように、協同組合社会においては生産物が使用価値としてのみ現れ、交換価値としての物的特性を失っている、従って生産物は使用価値と交換価値の二つの性格を帯びた商品でもなく、従って商品でない生産物は市場で交換されることもない、というのがマルクスの協同組合社会についての把握だからだ。
 カウツキーは、マルクスがそう把握した協同組合的社会での個々の協同組合について安易に資本制社会での一企業と同列視する。それを前提として国家的協同組合、国家企業に行き着くのだが、そうした理解は前提から間違っていると言わざるを得ない。カウツキーがそうした理解に立つのも、そもそも所有と占有の区別さえなく、協同組合的社会が生産手段の所有権に土台を置く社会というよりも、労働を土台としている社会であることを見ないからだ。
 ここでマルクスが共同所有がどのように理解していたかについて考えてみたい。
 協同組合的社会がどのように生まれるのかについては固定的に理解することは避けなければならないが、少なくともマルクスは革命過程の中で労働者が株主や経営者を追放するか、あるいは株主や経営者が放棄した企業の管理・運営を労働者が担う、ことに見ていた(『フランスの内乱』)。この過程を別の角度から見れば、それは資本主義社会の中で潜在的には社会的な占有者の地位を獲得していた労働者が、「収奪者を収奪する」(『資本論』、『フランスの内乱』)ことで潜在的なものが表に現れる、いわば公然たる占有者になることだ。いわば占有補助者(経営者の指揮の下で用益を補助する者)が占有者(自らのものとして運用・用益すること)に格上げされることである(広西氏)。だから革命を成し遂げた段階で、すでに労働者は工場・企業の公然たる占有者になっている。これは無所有であった労働者が「株」や「持ち分」などの形で新たに企業の所有権を獲得するという意味ではない。新たに工場・企業の所有権を獲得することなど必要ではない。生産手段を共同で占有しているという現実が承認されればよい。これは工場・企業を「自らのものとして運用・用益する」ことで生まれる生産果実を、構成員が奪い合うことなく同等に取得することを含んでいる。こうした人と人との共同性を帯びた関係が、共同所有という性格を獲得するのである。
 繰り返すことになるが、協同組合的社会とは、工場・企業の所有権を基礎として、その所有権を根拠として分配がおこなわれる社会ではない。そうではなくて工場・企業の占有者であるという事実、いわば自らのものとして運用・労働しているという事実を基礎として分配がおこなわれる社会なのだ。
 ついでに言えば『エルフルト綱領解説』でも、原文はおおむねゲノッセンシャフトだと思われるが、共有とか共同財産とか、あるいは組合財産とかの訳語が無頓着に使われている。マルクスにとって所有というのは、一定の生産諸関係の中で取り結ぶ人と人の関係、人と生産諸条件との関係行為(『経済学批判要項』)についての概念であり、私的所有や共同所有という場合は、その関係の社会的な性格に着目した概念だと捉えるべきなのだ。そうした人と人との関係を権利関係に置き換える法的概念としての「所有権」や「財産」と区別しないのは、厳密には誤った理解だということになる。(次号へ続く) 、

 

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