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「九州王朝」や倭国政治史について    [シジミさんへのレス]
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/940.html
投稿者 あっしら 日時 2005 年 9 月 22 日 02:48:37: Mo7ApAlflbQ6s
 


シジミさんの『あっしらさんへの質問:「近畿天皇家は存在しなかった」ということでしょうか?』( http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/777.html )及び『追加の質問です:日本書紀の「天皇」とは何者ですか?』( http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/778.html )に対するレスです。

両方の質問事項を回答の便宜上順序を変えて再掲し、回答を記しています。


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シジミさん、どうもです。
「小泉解散」と夏休みのためにレスが遅くなり申し訳ありません。


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Q1:「近畿天皇家」がなかったとすると、『日本書紀』に登場する7世紀までの「天皇」はいったい何者ですか?九州王朝の大王ですか?
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A1:「日本書紀」に登場する“プレ天皇”は、韓(朝鮮)半島諸国家や大陸諸王朝から倭国の政治的支配者と受け止められていた人たちを中心に、8世紀から9世紀の支配層が自らの正当性を強化するために政治史を再構築(整理及び付加)するかたちで描かれた人たちだと考えています。
(実在しながら削除された支配者・実際とは違う意味づけを付与された支配者・支配者ではなかったのに支配者として付加された人などがいます。天皇号は7世紀末に始まったと考えています)

倭国の最高政治権力の所在地は九州(九州内で変遷)でしたが、“九州王朝”と呼ぶべきものではなく、倭国の単一最高政治権力と呼ぶべきと考えています。
(現在の日本の全領域が倭国の領域であったわけではありませんが、政治支配権の移行期を除き、倭国の領域に“九州王朝”と他の「近畿天皇家」が並存したことはないと考えています。倭国領域外の日本列島に別の王権があったことは否定しません)

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Q2:奈良県・大阪府には大山古墳(所謂「仁徳天皇稜」)を筆頭とする巨大古墳が数多く存在します。こうした巨大古墳が近畿地方に集中することから、古代史学界の多数派は、巨大古墳の建造が開始され始めた3世紀(あるいは4世紀)頃には、大和政権を盟主とする連合政権が西日本全域に成立した、と主張してきました(こうした主張をする人々は「前方後円墳体制」という言葉を使って説明します。)さて、近畿天皇家がなかったとするとこれら巨大古墳の被葬者はいったい何者とお考えでしょうか?この地方の有力豪族(あっしらさんの投稿から、銅鐸族の子孫など)でしょうか?それとももしかすると、九州王朝の王者が葬られているとお考えなのでしょうか?
後者とお考えであれば、何故九州の権力者が墓だけを近畿地方に作ったのでしょうか?
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A2:古墳を大きさで比較したベスト30のなかで奈良・大阪以外の府県に所在するものは、わずか4つしかありません。(旧吉備である岡山に2つ、宮崎県西都市に1つ、群馬県太田市に一つ)

私が倭国の政治権力所在地と考えている地域からは長さが150mを超える古墳さえ発見されていません。
前方後円墳の発祥地も九州だと考えていますが、九州地域の初期古墳は、人工的に盛り土を行うかたちではなく尾根など自然地形を利用したものが中心です。そして、それ以降も、大きさにこだわったものではなく、彩色古墳や石人像など意匠にこだわったものです。
前方後円墳の始まりは、早くても邪馬台国連合時代が終わった3世紀末のことだろうと考えています。


宮内庁が天皇陵とされる古墳の内部調査を認めないため手掛かりがほとんどありませんが、仁徳陵を代表とする堺・百舌の大古墳については二つの可能性があると考えています。

一つは、加羅・安羅を中心とした韓半島からの渡来者がその持てる土木技術を駆使して自分たちの直接的支配者を祀るために造営した。
(大きさでベスト4に入る吉備の造山古墳が吉備地域の支配者の墓であるように、墳墓の大きさが政治権力の強さを示すわけではないと考えています。倭国支配者が各地で造営される墳墓の大きさを規制するようになったのは古墳という墓制そのものが衰退に向かう6世紀中期以降のようです)

もう一つは、政治権力機構の所在地が九州から大和に移ったときに、その政治権力の中心にあったファミリーの祖霊を祀るために造営した。(移葬ということになりますが、王朝の交替があるので必ずしも過去のプレ天皇を祀っているわけではないと思っています)

奈良・大阪に巨大古墳が数多くあることから、多くは渡来系の支配者を祀るために造営された可能性が高いと考えています。
(政治権力を失って故地から離れた集団が巨大墳墓の造営に価値観的意味を求めたのではないかと思っています)


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Q3:別の投稿「万世一系思想を唱えた勢力自身が簒奪者であったたに沈められた真実http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/528.html」で、あっしらさんは「“蘇我”王朝=豊日政権は九州に政治権力機構の中心を置いていました。」と記載されています。蘇我氏をある時期の九州王朝の王者とお考えなのでしょうか?蘇我馬子も九州王朝の権力者だとすると、馬子の邸宅後とされる「島庄遺跡」(http://www.asyura2.com/0505/ishihara9/msg/203.html参照)は何故奈良県に存在するのでしょうか?
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A3:蘇我家についてはQ4でまとめて回答させていただきます。

日本の考古学が抱えている問題点の一つとして、古墳の編年に「日本書紀」を利用していることをあげることができます。
ある墳墓が「日本書紀」に書かれている天皇陵だと判断されると、そこから墳墓の造営時期が導き出され、同時に土器など埋葬品の時代も確定されてしまうという“罠”に嵌っています。(そして、それが基準となり、他の古墳の造営時期の判断にも使われています)

それはともかく、「島庄遺跡」とされている遺跡も、遺跡そのものから蘇我馬子の邸宅と言える物証が出たわけではなく、「日本書紀」に蘇我馬子が住んでいたと記述されている場所(地域)で見つかった大型構築物の遺跡だから蘇我馬子の邸宅の可能性が高いという話でしかありません。(そのような仮説の意義は認めています)


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Q4:あっしらさんの「五王朝交代説」を私の理解でまとめますと以下のようになりそうです。(これでいいでしょうか?)
第1王朝:倭奴国(銅鐸族)
第2王朝:邪馬台国連合
第3王朝:狗奴国(肥後・筑前連合)(「倭の五王」はこの王朝の後に出現していますが、あっしらさんは別王朝か否かは判断保留されているようです。)
第4王朝:?
第5王朝:天武朝
この中の第4王朝についてだけはご説明がないようです。この王朝への交代時期を「6世紀の前半」とされていますから、「継体王朝」をお考えではないかと推測します。そうだとすると「倭の五王」の末裔である磐井に対し、越の国出身の継体が反乱を起こし政権を奪取したとお考えですか?蘇我氏をこの時期の王者とお考えのようですから、継体王朝=蘇我王朝とお考えでしょうか?
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A4:大きなくくりとしてはそのように考えていますが、各王朝でも内部的な変動があったと思っています。
共同体様態や価値観の近似性・継承性という意味で王朝を区分しているだけであって、支配者ファミリーまでもが同一であるとは考えていません。

提示された倭国の政治史的まとめに補正を加えると、

第1王朝:倭奴国(銅鐸水田稲作):領域は九州北部

第2王朝:邪馬台国連合(有明海畑作):領域が九州中南部まで拡大、それとともに列島東方地域で支配地を獲得していく

第3王朝:肥後・筑後・遠賀川流域連合(水田稲作):「倭の五王」はこの王朝の系統と考えています。魏志倭人伝に書かれた狗奴国から鬼国・鬼奴国・邪馬国に中心地が移動しています。鬼国・鬼奴国は肥後北部で、邪馬国は筑後南部です。

第4王朝:阿蘇(肥後)・豊国(豊前・豊後)連合(水田稲作):隋や唐からの使者を迎えた“蘇我王朝”

(「壬申の乱」とされているが、対唐戦敗北処理後の内戦期)

第5王朝:大和新王朝:7世紀末から8世紀初頭に成立


「第4王朝」について簡単に回答します。

反乱者として描かれているイワイ氏が「第3王朝」すなわち「倭の五王」系統末期の王だったと考えています。
時代としては継体=イワイになりますから、越(前)の国からやってきたとされる継体なる王は存在しません。(そのような話は、王朝交替を示唆するエピソードとして造作されたと思っています)
継体に続く安閑・宣化は、イワイの家系もしくは豊前地域の支配者の祖を持ち込んだものだではないかと考えています。(安閑の宮である勾の金橋は福岡の香春町勾金だと推定しています。イワイが豊国に逃げたという風土記逸文の記述にも合うのでイワイ王権の可能性が高いと思っています)
イワイ氏敗北のあとに欽明=蘇我稲目が新王朝を樹立したと考えています。


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Q5:「百済最後の王・余豊章は、武王の子か?百済滅亡時の義慈王の子か?
http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/535.html」において、「天智天皇=余豊章」説をとっておられます。百済からやってきた余豊章が蘇我王朝を打倒して新政権を創始したということですか?(そうすると天智は第5王朝で、天武が第6王朝ということになりますか?)
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A5:天智の時代は「第4王朝」=蘇我王朝の最後期ですから、「日本書記」に書かれている天智も非実在の天皇です。天智の時代は、蘇我入鹿(=孝徳)の子か弟が倭国の王であったと思っています。

天智は、8世紀後半から9世紀以降の支配層の正統性を補強するために持ち込まれたと考えています。
(天智というより、藤原氏(藤原鎌足=鬼室福信)の権威を高めるための造作です。森鴎外が書いているように、天智というオクリナは“悪王”を示唆するものだからです。倭から百済に戻った余豊章は、自分を担いだ鬼室福信に不信の念を抱き殺し切り落とした首を塩漬けにして晒しています)

天武は、対唐戦敗北処理後に起きた“内戦”のリーダーではあっても、天皇(王)には即位していないだろうと思っています。
(長く壮烈だった“内戦”が、「日本書紀」に書かれているように、内戦ではなく皇族内部の主導権争いであり、ほんの数ヶ月の短いものであったとするために天武時代が置かれたのではないでしょうか)

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Q6:「万世一系思想を唱えた勢力自身が簒奪者であったたに沈められた真実http://www.asyura2.com/0505/bd40/msg/528.html」において、「天武天皇=筑紫君薩夜麻」説をとっておられます。古田氏は薩夜麻を九州王朝最後の天子と考えていますが、あっしらさんはどうお考えでしょか?
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A6:A5に関わる事柄ですが、白村江の役で唐の捕虜となった薩夜麻は、敗戦責任を負う「第4王朝」に叛旗を翻した人物であり、「大和王朝」という新王朝につながっていく勢力の中心にいたと考えています。


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Q7:これが最も知りたい疑問ですが、薩夜麻=天武であれば九州王朝の存在を歴史上から抹殺する理由がないということです。薩夜麻は堂々と九州王朝の後継者を名乗ればいい筈です。私には、薩夜麻が「近畿天皇家」を捏造し自らをその子孫とする理由が見つかりませんが如何お考えですか?
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A7:薩夜麻勢力は、倭国王権の後継者ではなく、反乱勢力であり、王権簒奪者グループです。

「日本書記」を編纂したグループは、そのような反乱や王権簒奪という“不幸”な政治闘争を以降できるだけ避けるため、「日本書記」的歴史観や天皇家の万世一系というフィクションを作り上げたと考えています。
また、古来より関東以西の日本列島広域を確固たる力で支配していたというフィクションも、支配者の権威を高める目的で作ったと思っています。そのためにも、「九州王朝」の継承という受け止め方をされる記述を避けたと推察しています。
(これは大国(中華)意識の表出であり対外的プロパガンダの役割が大きかったと思っています)

「日本書記」編纂グループが「近畿天皇家」を捏造したとは考えていません。
「日本書記」が編纂された時代は、当然のように、支配層の多くが“歴史の事実”を知っていました。
「日本書記」編纂グループは、ウソや捏造で満たしたわけではなく読む人が読めば歴史の大枠の流れがわかるように記述しており、後世の人たちが「近畿天皇家」の古い歴史性や万世一系性を信じるようなネタを振り撒いた程度の造作を行ったと考えています。

日本史学者は、「日本書記」や周辺諸国の史書を読み込まないまま、「日本書記」の表層的仕掛けに嵌っていると考えています。

溢れかえる日本史関連書籍や論文が「日本書記」に依拠して日本史を捏造していると考えたほうが正鵠を射ているような気がします。

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