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アイヌ儀式:「イヨマンテ」禁止通達を52年ぶりに撤廃(毎日新聞)
http://www.asyura2.com/0601/ishihara10/msg/478.html
投稿者 茶々 日時 2007 年 5 月 02 日 09:38:39: 6YmOfrLmcqc3Q
 

アイヌ儀式:「イヨマンテ」禁止通達を52年ぶりに撤廃
 アイヌ民族の伝統儀式「イヨマンテ」(クマ送り)を「野蛮な行為」として事実上禁じた1955年の北海道知事名の通達について、道は4月、52年ぶりに撤廃した。イヨマンテは、神とあがめるクマの魂を天上に送るための儀式で、撤廃により行政が初めてアイヌ文化の枢要をなす儀式を認めた形だ。北海道ウタリ協会の阿部一司副理事長は「(イヨマンテの禁止は和人とアイヌ民族との)同化政策の総仕上げの意味合いがあった。今後は力を入れて儀式を復活させていきたい」と話している。

 イヨマンテについて道は55年、支庁長と市町村長に対し、「アイヌ民族の宗教儀式として生活文化を形成する要素となっていることは是認されるが、社会通念上または教育上好ましくない」「野蛮な行為であり廃止されなければならない」とする通達を出した。通達に法的拘束力はないが、近年の開催は極めて少なくなっていた。道自然環境課は「どういう目的、経過で出されたのか今となっては分からない」と説明する。

 同協会は05年、道に対して通達撤回を求め、道は国に動物愛護管理法との兼ね合いで正式な見解を出すよう要請。環境省は昨年10月、同法に基づく基本指針で、動物を利用した祭式儀礼について「正当な理由をもって適切に行われる限り法律に抵触しない」と初めて示した。これを受け、道は今年3月、環境省に改めて照会し「イヨマンテは祭式儀礼に該当する」との回答を得たため、4月2日付で通達の廃止を通知した。

 阿部副理事長は「通達の廃止は評価するが、今後どれだけ徹底していくかが重要。多民族、多文化の共生と、アイヌ文化の復活につなげていきたい」と話している。

【横田愛】

  ◇  ◇  ◇

 イヨマンテ アイヌ民族は、クマを「人間の世界に姿を変えてやってきた神」と位置付けており、大切に育てたクマの魂を天に返すことで謝意を示し、再び人間の世界に恵みがもたらされることを願う儀式。古くは近隣の村から大勢を招いて執り行われ、生け捕りにして2年ほど飼い育てた子グマに矢を放ち、肉をふるまった。近年は胆振管内白老町、日高管内平取町、旭川市などで数年に1度行われている。

毎日新聞 2007年5月2日 1時04分
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20070502k0000m040162000c.html

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コメント
1. 中川隆[-13578] koaQ7Jey 2018年11月12日 17:46:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20560] 報告

0-0. 日本人の源流考 _ アイヌ人の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

2. 中川隆[-13580] koaQ7Jey 2018年11月12日 17:49:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20563] 報告

アイヌのシャーマニズム


アイヌのシャーマンの治療分野として大きく以下のジャンルがある。

1.ウェインカラ(透視・千里眼)
霊的障害(サイキック・アタックなど)、心的要因、具体的要因を透視して呪術を施したり、その障害の具体的な治療方法で対応するもの。「空」の境地に入るといわれる。

2.トゥス
治療師のトレンカムイ(憑き神)や患者の先祖などを降ろし、トゥスクル(トゥスする人)の肉体をそれらに支配させ、病因や治療の方法を託宣いただくもの。 いわゆる「トランス状態」に持っていくため、トゥスクルの神憑りの間の記憶はないらしい。

3.ウェポタラ
祈祷師による呪術に準すると考えられる。魔実的要素が濃い。

4.フッサラ
悪霊の嫌う薬草や植物などをを用いて祈りと共に病人に憑く悪霊を追い払うもの。 ウェンカムイ(悪霊)払い。

6.薬物療法(単品・複数のアレンジの治療法)
多くは、民間伝承によるが、霊的なアドバイスにより薬草は個別性に応じて配合するらしい。 筋骨格系、神経系に働きかけ、歪みの矯正、身体のバランス保持やリラクセーションをはかる。 カイロ、整体、指圧、マッサージなどのボディワークの概念を含むとされる。

9.テクマウ(手当て療法)
カムイへ祈り、行う手当て療法。外気功に対応するらしい。

これらの秘儀の継承は家系的に受け継がれるのもと、臨死体験し、魂が持っている要素を引き出し秘儀を授かることが多い。


REF034 二風谷アイヌのウェポタラ 1     Ainu
Exorcism Rites Uepotara in Nibutani, Hokkaido: 1         N.G.Munro D-2
13'00" 1933 白黒サイレント
94011001 (ORG・RETAKE)(Hi8), 92090202 93052603 (AGFA版・字幕無・チセノミと混)(Hi8), 96030801 (非復元版・日本語字幕・チセノミ混)(β-CAM)     

帰化スコットランド人医師N.G.マンローは、第二次大戦前、二風谷アイヌへの医療と健康改善につくしながらアイヌ研究を続けた。その中で撮影され、生前未完成に終った悪霊払いの儀礼の記録、オリジナル版その1(原版16mm)。エカシの祈祷(アッツシ、イナウ)、儀礼(庭先、家の脇:樹の枝)、治療(庭先・川岸、数種類のイナウ)、樹に祈祷(刀、着物を治療に使用)、火のついた草束を患者がくぐる、エカシの踊り(イナウ、刀の使用)、女性の踊り


REF048 二風谷アイヌのウェポタラ 2      Ainu
Exorcism Rites Uepotara in Nibutani, Hokkaido: 2     N.G.Munro D-2
15'00" 1934 白黒 サイレント
92090202 93052603 (チセノミと混じっている)(Hi8)     

N.G.マンローの悪霊払いの儀礼の記録、オリジナル版その2(原版35mm)   

川辺での治療、家の脇での呪い・治療、織物(糸紡ぎ、アットゥシを織る)、揺り篭の子供をあやす、赤ん坊を背負う、頭にのせたものを運ぶ、炉端の周りに集まり食事をする、女性の踊り、輪舞(男女)

http://tokyocinema.net/far-eastlist.htm

不思議なアイヌの超能力


アイヌの霊の世界 (小学館創造選書 56)を取り上げたいと思います。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%AE%E9%9C%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C-%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E9%A4%A8%E5%89%B5%E9%80%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-56-%E8%97%A4%E6%9D%91-%E4%B9%85%E5%92%8C/dp/4098200562


著者の藤村さんは、アイヌ研究の第一人者で、
現在は北海学園大学の名誉教授ですが、
以前、開拓記念館の研究員をなさっていたときに
主に道東各地のアイヌ文化に関してフィールドワークを実施し、
さまざまな長老の方々と語り合う中で徐々に受け入れられ、
その本質に触れていくことができるようになったということでした。

この本の中で「憑き神」について述べられているところを要約しますと、


・誰にでも憑き神は憑いている。

・憑き神は人が生まれるとともにこの世にやってきて、
 その人が死ぬとその霊共々あの世に返っていく。

・先天的に憑いて来る霊には2種類あり、1人から最大3人で-ある。

・後天的に憑く霊は4種類ある。
 非常事態(たとえば病気)などのときに助けに来たりする霊もいれば、わるさする霊もいる。

・個人以外に人間の集団に憑く神もある。家系や村などの集団組織ごとにいる。

・同じ憑き神が複数の人を渡り歩くことはない。

・その人の動きやしぐさを観察すると、その人の憑き神がわかったりする。

・憑き神を知るためには「トゥス(シャーマン)」のところへ言ってみてもらうと判明する。

・その個人が成長するとともに憑き神も成長し、老化する。


…などなど、という感じですね。

現代スピリチュアリズムで言うところ「守護霊」とは同じ雰囲気のところもあれば、
そうでないところもありますが、大きな差異が見られるわけではない、とも思います。
「わるさする神もいる」、ということですから、それは「憑依霊」として分類されますね。

「守護霊」というと、なんでもかんでも守ってくれるもの、と勘違いしそうですが、
「その人(集団)の成長を助けてくれる見えない存在・神さま」と考えるほうがあっているようですね。


そして、それらの憑き神などの存在を、
普段は意識できないように、この世界もできているわけですが、
どうもこれはちゃんといるんだなーと感じる体験ができるのが、
上記にもあったシャーマン的な特異能力を発揮するような人に出会ったときですね。

http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/023/


本の中に「不思議なアイヌの超能力」という章があり、
そこには巫術行為(トゥス)の系統について述べられています。


 ・トゥスは世代世襲制である。家系をはずれてトゥスができるようになる人はいない。

 ・母親がトゥスをする人であって、子供が誰もできない場合、
  母方の兄弟の子供にできる人が現れたりする。

 ・例えば、姉がトゥスをよくする人で、その姉が急死した場合、
  ぜんぜんできなかった弟が代行する場合などもある。


ということで、霊能力には家系が非常に大切と言うことも分かります。

そういえば有名な霊能者さんのお話を聞くと、ご先祖様が霊能者をやっていた方もいらっしゃいますし、
そのままでなくても、お医者さんだったり神主さんお坊さんだったり、という方が多いような気も致します。

そうするとその方の拝む対象や、浄化の仕方なども自然とその系統を受け継いでいくようです。


また「ノイポロイクシ」と呼ばれる能力もあるそうで、
著者の藤村さんがご存知でそれができるという方はお二人いて、まずある古老の方は、


 ・あるときに「頭痛」がして、そうすると五分以内に来客が来ることがわかる。

 ・その来客も遠方から来る見知らぬ人に限って起こる。

 ・必ず頭痛する部位が、頭の右か左に偏り、
  左の場合は位の高いような大切なお客であるし、右の場合は並の人である。

 ・「はげしい頭痛」がある場合は、とてつもなく偉い人の来客である。


ということであり、もう一人のおばあさんの場合は、


 ・来客する1時間か30分くらい前に頭痛が走る。

 ・荒々しい頭痛の場合は女性の来客で、緩やかなときは男性の来客である。

 ・訪問理由の概略と来客の年齢まで分かる。


という感じで、来客に関して分かるという共通点はあるものの、
細部の情報の伝わり方はそれぞれ違うようなのですね。


それで、「どうして分かり方がちがうのか?」というのは、
私の考えでは、おそらく頭痛が走るようなやり方で、その方々の「憑き神」、
つまり「守護霊」さんたちが教えているのからなのではー?と思うわけですね。
つまり、憑き神さんたちとその受け取る人の能力差によって、
サインの受け渡し方法が違うのだろうと思うのです。

ですから、いろいろ便利そうだからと
若い人などが興味本位で超能力を伸ばそうとしてもそうならないのは、
きちんとそれぞれの憑き神さんが受け取る人の能力や人格を配慮して、
受け取る準備ができている人のみに、お知らせを送っているためと思われます。


ちなみに後のおばあさんの場合は、嫁いだ先のお姑さんがそういう能力があった方で、
離婚した後、自分の故郷に帰ってからご自分にも能力が出てきた、ということですから、
霊能力には実際の血のつながりだけでなく、さまざまなご縁も非常に大切なのかもしれませんね。


そのほか、この本にはカラスの鳴き方でもって来客や死別、
向かいの家でご馳走がある、それが自分の家に回ってくるか、こないか(笑)、
天気のよしあし、豊漁の有無などもわかる、ということですから、
カラスさんもいろいろ考えておしゃべりしているものなのだなーとも思いますが、
今ではすっかり忘れられている以心伝心的なコミュニケーションがあったおかげで、
昔の人々も厳しい自然の中で生き延びて来られたのかもしれないと思いましたね。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/024/


アイヌ文化の中のスピリチュアル的な行為の代表としては、
ツス(降霊現象)とウエインカラクル(観自在・千里眼能力)が挙げられるかと思います。

要するに、恐山のイタコさんのような力のある方が村の中にいて、
何か問題が起こるとお伺いを立ててことなきをえた、ということですね、
いわゆる「シャーマン」がいたわけです。

具体的にはどのような感じだったかということで、
今でも活躍中の方がいらっしゃればよいのですが、
なかなか「アイヌ式」などと謳っておやりになっていらっしゃる方は居ないようなので、参考文献として


『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ―伝承の知恵の記録』
 青木愛子 述 長井博 記録
   樹心社 1983年 新版2001年 ¥2000+税

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4795224803/reborn0a-22/250-1298541-7861852

の記述をお借りしますね。

『ウエインカラをするためのカムイノミ等の儀式形式は何もない。
対座する相手と話をしながら、相手の過去や未来のことが見えてしまうのである。

これは目の前にいる相手でなければならないということはなく、
電話に出ている1千キロ離れた相手であってもかまわないし、
今どこに居るかわからない人のことであってもかまわない。
想うと見えてしまうのである。

…病人が来て愛子の治療を受ける。
治療の謝礼として金子(きんす)を包みに入れて差し出す。

開封せずに中の金額がわかる。その金子を借金してきたこともわかる。
貧しい家庭の様子まで見える。財布の金額もわかってしまう。
こうなると貧しい人からは謝礼を受け取れないということになる。

牧場主が1〜2ヶ月後に出産予定の子馬の性別を知りたがる。
生まれる時の様子が見えるので、雄か雌かわかる。

商売の運勢を見てもらいに人が来る。
その商売で動くおかねの様子が見える。
ついでにその人の浮気の様子まで見えてしまう。』


…ということで、この本に出て来る青木さんも、
なかなかお見通しな方だったようですねー。
見たくなくても見えてきてしまう、とのことですから、
とても霊感がおありの方だったようです。

それで、そのような能力というのも、
青木さんの場合は、若い頃に死の淵を彷徨ったことから始まったようですね。

臨死体験をして、あちらの世界へ行きかけたのだが、
「お前はまだやりのこしたことがある!」とかなんとか
守護天使さんのような方に言われて舞い戻ってきたら、
いつのまにかそのような能力が付いていた、という体験談も良く聞きますよね。

また強制的に臨死体験をするようなことをして霊感を高める修行は、
各地の伝統宗教などにも良く見られますね。

ネイティブアメリカンの方などでは
呪術師見習いがひとりで少しだけの食糧を持って荒野をさまよい、
精霊の声の導きを待つ、といういわゆる「ヴィジョンクエスト」などもあり、
ほんとに命がけで行なったようです。

ただ共通しているのは、「見える」ようになるということは、
自分ひとりの力で行なっているわけではないと言うことですね。
ただ、聴きに来る方は「その人自体がエライ先生」と言う風に祭り上げやすくなってしまうので、
霊能者自身も勘違いしやすい、道を誤りやすい、という弱点もあるようです。

そのような能力があっても青木さんのようにずっと謙虚な姿勢を保つというのは
霊能者自身にとっても難しいでしょうから、様々な人にできるだけ救いの手を差し伸べると言う事と共に、人間的にバランスを保つというのは、この世に学びにきている大きなテーマかもしれません。
http://www.donavi.com/contents/column/spiritual_nonaka/020/


アイヌ最後のシャーマン_青木愛子フチは「ウエインカラ」ができたそうです。

それは何かというと「千里眼」ですね。

「陰部まで見える」って書いてありましたから、よっぽど見えたそうです、でも見たくない人のも見えて困ったと思いますが。それはがんばってようやっと女湯覗けたらおばあちゃんだらけだった(小6の修学旅行にて)、という感じでしょうか?(^^;)

まぁつまり彼女は数少ない本物のアイヌ霊能者「ウエインカラクル」だったのですね。


たとえばある方が見てもらいに来て、封筒にお金をいただく、そうするとあける前に金額がわかる、そしてそのお金は借金したものだということが見える、だとするとなかなか受け取れない、というような感じだったそうです。

この方は10年位前までご存命だったそうですから、なかなか現代の神人のようだったんだなぁーって思いますね。

あとは「ツス」といって神がかりになることですね、イタコさんのようになることがおできになったようです。

それでその「イタコ」という言葉の語源もアイヌ語にあるようで「イタック(言葉)オイナ(宣託)」の変化だそうです。

それでははー出てきました、アイヌ語で「守護霊さん」というのは「トレンペヘ」って言ったそうです、「憑き神」っていうことですね。

だいたいどんなに凡人でも3人くらい憑いていて、守っているようです。自分の子供の憑き神は大体見ていれば親がわかったそうですが、わからん場合はこういう人に頼んでみてもらったそうです。ご先祖様がどうとかもですね、沖縄ではユタさんがそうですね。

そして書いてあります。


『一人ひとりが持っている光(注:オーラ?)が見える。

明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人が多い。

何も見えないほど暗い人もある。

暗い人の過去現在をウエインカラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚せい剤、物欲の強い様子等が見える。


ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。

現在財宝をたくさん所有しているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。』


ということですね。自分なんかは細かいことは見えないですが、おそらくこの光の量というのは良くわかるんだと思うんですね、ですから、自分が遠くから見ていてもそれは結構良くわかるので占いができるんだと思いますし、あまりはずさないのかな?って思うんです。でももっとはっきりわからないとあかんなぁーっては思いますね(^^)。
http://blogs.yahoo.co.jp/fy3on3/6770078.html

ウテキアニ(育みわかちあう愛) 青木愛子ババの一周忌に思う

1989年の秋、日本列島の「気の文化」を考える上で、また日本人の生き方を見つめ直す上でも国内の先住民族・アイヌの伝統文化を学ぶことが最も重要なことだと考えた津村喬さんから、「アイヌ自然医学を訪ねて」という研修名で私と連れ合いにコーディネートをしてほしいという要請があった。 

その前年、私は一年近くアイヌの人達と仕事をしたおかげで、道内のかなりの数のアイヌの人達と知り合っていた。とりわけアイヌ語でカムイノミ(神事)のできるエカシ(長老)や伝統的な女の手仕事を身に付けているフチ(おばあさんの尊敬語)との出会いは強烈で、北海道で生まれ育ってはいたものの今まで実際には知る機会がなかった目に見えない世界・魂の領域を私が意識するようになれたのもこの頃からだった。

 ぜひ年内に第一回目を実施したいという津村さんからの要請を引き受けてはみたものの具体的な提案はなく、全てこちらにおまかせ方式。これは大変な課題を背負ってしまったと悩みつつも、自分が出会い感動したアイヌのコスモロジーをなんとか他の人達にも伝えたいという気持ちがいわば私のエネルギーになっていた。

 アイヌの伝統文化の根幹に学ぼうとするならばシャーマニズムは不可欠なものだが、沢山出会ったアイヌの人達から今もシャーマンがいるという話は一度も聞いたことがなかった。よく考えてみれば、和人がいっきにおしよせた明治以降、厳しい同化政策が一方的に進む中でアイヌの信仰やシャーマニズムの世界は特に差別の対象にされてきたのだから、私が知り合ったアイヌの年輩者達がそれらの事を今でもそう簡単に口にすることはできなかったのだろう。

はたして薬草や呪術的な世界に精通したシャーマンは今も存在しているのだろうか。

どういう組み立て方にしようかと考えあぐねた私は、「アイヌ自然医学」というテーマの研修をするならばやはりこの本しかないと思ったのが『アイヌお産ばあちゃんのウパシクマ(樹心社)』だった。

これは札幌在住の写真家で伝承医学研究家の長井博さんが記録した本で、アイヌの伝統医術の世界、とりわけ人間の誕生・出産に関するコスモロジーが青木愛子ババを通して驚くほど豊かに語られていた。

アイヌに関する書籍は次々出版されていたが、この本のように一人の実在するシャーマンの口から伝承医術が具体的に語られている内容のものは当時これ一冊といってよかった。

 表紙の言葉をそのまま紹介すると

「青木愛子はアイヌコタンに代々続いた産婆の家に生まれ、古代から継承されて来た産婆術(イコインカル)、診察・治療のための特殊な掌(テケイヌ)、薬草(クスリ)、整体手技、あるいはシャーマンとしての技量をも駆使して(ウエインカラ ツス ウエポタラ)、地域住民の心身健康の守り役、相談役として活躍している。

本書は十年にわたって愛子の施療の実際を見、その言葉の一つ一つを丹念に記録して、アイヌの信仰と文化の実態に迫った伝承の知恵の書。」

と書かれていた。

 研修の核となりうる存在はこの人だと思ったもののいっさいの噂を耳にしたことがなかった当時の私は、もしかしたら亡くなっているのではという不安をいだきながら大急ぎで愛子ババ探しを始めた。しかし、意外にも出会いは短距離で実現した。ババは二風谷に健在で、親しくしていた樺さんの母方の叔母さんにあたるというのだ。

「連れては行くが、それから先の話は自力でやるように。」と樺さんに念をおされながら私達が訪ねて行ったのは研修実施一ヶ月前の事だった。

初めて訪ねて行った時の愛子ババは、すでに産婆としての現役時代を終えてはいたものの、鋭い眼光でいきなり「アイヌのモンキー見物に来たのか!」と煙草をふかしながら言った。

参ったなあと思うほどこちらを見透かすような強い眼力と迫力で、こういう人には素直にしなくてはと思った途端、

「なしてそんな青っちょろい顔してる。」とババは連れ合いに向かって言いながら自分の近くに手招きした。

私達がそばににじりよるとババはポイと煙草をほおってよこした。

「いいから二回吸ったらババさよこせ。」。

連れ合いが言われるままに煙草を吸いババに戻すと、今度はババがまたその煙草を一口大きく吸い、薪ストーブの焚き口を開けて火の神様にアイヌ語でなにやら祈りはじめた。私達にはアイヌ語は解からなかったが、何か連れ合いのために神々にお願いしてくれているということはよく伝わりありがたい気持ちになった。


 この時、愛子ババは私達と初めて会ったのにもかかわらず、連れ合いが帝王切開かつ仮死状態で生まれ、決して丈夫とはいえない体で育ち、一ヶ月前に母親を癌で亡くしたせいで身も心も疲れており、父親も病弱で心配の種であることなどを瞬時にして感じとっていた。

質問などいっさいなしで、ババの心の中には連れ合いのことが色々観えてしまっていた。ババはこういうふうにいろいろ観えてしまうことを“胸の知らせ”と言っていたが、初対面で私達はいきなりシャーマンが持つウエインカラ(千里眼)の力を思い知らされた。

 祈り終わるとババはすぐに

「ババのこと信じるか。」

とたずね、私達が信じますと心からそう思って答えると、

「ババのことを信じてこの薬草がなくなるまで煎じて飲めば丈夫になる。間違いないから。」

と言いながら部屋中にぶら下がっている薬草の中から連れ合いに必要なものを選び、無造作に渡してよこした。そして何度も

「あんたのためにやる薬だから他の人には絶対やるんじゃないよ。信じて飲めば効くんだから。」

と言った。

その時ババが連れ合いのために選んだ薬草は、ヤマニンジンとシケレベ(きはだの木の実)、キトピロ(行者ニンニク)だった。

この日、私達はアイヌのシャーマンがウエインカラ(千里眼)と薬草術によって人を癒やすことを身をもって体験した。そしてババは一ヶ月後に研修で訪ねて来る人達にも会うことを約束してくれた。

 再び二風谷を訪れるまでの間、連れ合いはババの薬草を毎日煎じて飲み、どのくらいからか記憶はさだかではないが一ヶ月後には慢性的な下痢が止まり、血色の良い顔になっていた。

生まれつき胃腸が弱いせいか下痢状態の便があたりまえだった彼にとってこれは画期的なことで、どんなに沢山食べても痩せていた体に少しづつ肉がつきはじめていた。


■89年12月、慌ただしい師走の隙間をぬうようにして「アイヌ自然医学を訪ねて」の第一回研修ツアーは実施され、冬〜夏〜秋〜春と季節を変えながら4年続き、5年目は京都気功会の企画として、さらに翌年は春なお寒い道北の白樺樹液採集の森を訪ねつつ通算6年間行なわれ、延べ120人余りの人達が参加した。

 研修内容は毎回かならず二風谷を訪ねて愛子ババと歓談することをはじめ、大長老の葛野エカシや亡くなった織田フチ、木幡エカシ、当時まだ国会議員ではなかった萱野茂さん、杉村京子フチ、千歳コタンのフチ達、その他多くのアイヌの人達の様々な協力に支えられた。チプサンケ(舟おろしの祭り)やラォマップ・カムイノミ(伝統漁法による鮭迎えの儀式)にも参列させてもらった。

また、不治の病いを愛子ババに助けられ、それ以後伝承医学の研究をライフワークにされている長井博さんには、ほとんど毎回お話を聞かせていただいた。


しかしなんといってもこの研修の核となったのは愛子ババである。回を重ねるごとに急速に体調を崩していったババは、入退院を繰り返し、こんどは無理かなと思っていても不思議に研修ツアーの時は自宅に戻っていて皆に会い続けてくれ、毎回参加者とババとの間にはなにかしらのドラマが生まれた。

 ババはウエインカラでその人の不幸や心の傷を観てとると、「かぁわいそうにぃ〜。」と独特の言い方と眼差しでその人を包んだ。いきなりとも言えるその愛の癒しに沢山涙を流した人達がいた。

「いつまでも空家(独身)にしとかないで、もっと素直になれ。幸せになんないばだめだ。」と言われた人。

「真っ直ぐいけ。真っ直ぐいってどんとぶつかれ。」と言われた人。

「あとはここ(胸のチャクラを指差して)、ここの窓を開けばいいだけ。すぐそこまできてるんだから。」と言われた人。

「今のこの人と一緒になれば幸せになるから。」と言われて翌朝すぐに相手の所に行って結婚を決めた人。


ババは終始一貫して皆に最愛の人を見つけ、結婚して幸せな家庭を育むようにと言っていたが、大宇宙の法則からしてそれが自然な営みなのだから自然に逆らわずに生きることが一番だと説いていた。

 また、ババは参加者の何人かの手を握り、ほんの少し手相を観てはその人の不幸や具合の悪さをいったん自分に引き受けその人を癒した。

「なんともない。だいじょうぶだから頑張って。」とババに言われた人は、手を握られている間に悪い手相が消えていた。不思議な話だが本当だ。

ババの説明によるとその人を癒そうとする時、その人の病いや悩みをババはいったん我身に引き受け、その後自力あるいは自分の憑き神様達の力で、引き受けた悪いものを自分の外に祓い落とすのだそうだ。 

皆と歓談しているうちにフゥーフゥーと肩で大きく息を吐きながら、水をがぶがぶ飲むこともしばしばで、

「憑いてた悪いもん引き受けてやったしょ。したから火照って、火照ってどうもなんないしょ。」

と私に耳打ちしながら着ている物を次々脱いで肌着一枚になったこともあった。


こうした“いったん我身に引き受ける癒し”の行為にはものすごいエネルギーを必要とし、歳をとり体が弱ってきたババにはだんだんそれがしんどくなっていた。それにもかかわらずババは自分に助けを求める人が傍らにいれば、たとえ相手が無意識でもつい手を差し伸べ悪いものを引き受けてしまっていた。

 愛子ババは、優れたイコインカラクル(助産婦)であり、ツスクル(降霊能力者)であり、ウエインカラクル(観自在者)であり、薬草や整体を含める各種療術師であった。カムイノミ(神儀)やウエポタラ(まじない)も行ない、さらにはウェプンキネ(看取り)も行なっていた。その人がさわやかにあの世へと旅立つことができるようにその人のトゥレンペヘ(憑き神)と話し合ったりしながら臨終に立ち会うこともしていた。

 これについては昨年9月に出版された『女と男の時空: /ヒメとヒコの時代(藤原書店)』という本の中で、旭川医科大学助教授の松岡悦子さんが「魂を見守る人」というタイトルで愛子ババのことを書いている。84年から88年までの4年間に松岡さんが愛子ババのもとに通って話を聞いたもので、これを読むと愛子ババを通して知るアイヌのシャーマンの役割とは、総じて「魂を見守る」ということなのがよく解る。

助産を意味するイコインカルは見守るという意味であり、臨終を看取るウェプンキネということばも見守るという意味なのだそうだ。

つまり愛子ババは直接的には生まれてくる赤ちゃんや死にゆく人を見守りながら、この世とあの世とを行き来する魂を見守る役目をはたしてきた。そしてこれまでアイヌのコタン(共同体)には、愛子ババのようなシャーマンがかならずいて人々の健康と生と死を見守ってきたのだ。


■私達が「アイヌ自然医学を訪ねて」という研修ツアーをきっかけにして愛子ババと出会った時、ババはすでに現役時代を終えて少しづつあの世へ旅立つ準備を始めていたともいえる。八人の子宝に恵まれ、皆無事に成人してはいたものの私と同じくらい歳の末の娘さんは不治の病いで病院生活が長く、どんなに他人を癒すことができても我が子にその力は効かないのだとババは時々シャーマンの運命を悲しそうに語った。

 私達は6年間、ババと一緒に食事をし、歓談し、研究者のような質問をさけ、ただただ一年に一度皆でババに会うのを楽しみとした。「たまげたなあ。皆、心のきれいな人ばっかしでないの。」とババは大きな目を見開いて言い、かならず皆のためにアイヌ語で祈ってくれた。津村さんが愉気をしてあげるととても気持ちが良いと喜び、「先生こんどいつ来る?。ババの生きてるうちにもう来ないっしょっ。」とわざとだだっ子のように言うのが口癖だった。

 そんなババが第4回目春の時には一緒に山に入り、子供の時よく遊んだというカンカンの沢まで行った。途中茂みの中に生まれてまもなく亡くなったお父さんの霊が姿を現わし、ババはうわさ通りの立派な風貌だとすごく喜んだ。その日の夕方、ババは今まで自分が祝い事の儀式の際、神々と交信するために用いてきたトゥキ(お椀)とトゥキパスイ(捧酒箸)を参加者全員の前で津村さんに贈った。

唐突にお祈りを始め「このトゥキをシサムのツムラに贈るのでカムイよどうかそれを許して祝ってください。」というような内容の祈りが終わると、なんの説明もなしにいきなり津村さんにあげるから持って帰れと言った。津村さんが驚いて「こんな大事なものはいただけない。」と断わると、「甥っこや娘らが持つよりも先生んとこさいくほうが生きる(トゥキが)から。祝い事にしか使ってこなかったんだよ。なしてさっさとしまわない。」とババは相変わらず乱暴な口のききかたをし、隣りにいる私になぜ津村は受け取らないのかと目で言った。ババは津村さんを代表にこうして自分のもとに集い、自分からの一方的な愛だけでなくお互いに癒し合う交わりを本当に喜んでくれていたのだ。

そしてこれから先も手渡した神器が愛と幸せを祝う働きをなしていくようにとババは願っていた。恐縮している津村さんをうながしてババからの贈り物を受け取ってもらいながら、私は全員がこの神器と共に大事な心をババから託されたという実感を抱いた。


■ババがあの世へ旅立ってからも、時々私にはあの独特な話し声が聞こえてくる。

「自分が今までこうして生きてこれたのも、愛のおかげさ。こんな田舎の、それもうんと昔に、なしてババに愛子なんて名前ついたのさ。“愛”でしょ。愛のために生きる人になれって、愛をみんなさ伝える人になれって、どっか上の方(神様)でババの親にそういう名前をつけさせたのさ。

アイヌもシャモ(和人)も全国世界中、神の道は一つなんだよ。“ウテキアニ(註:ウ・互いに テク・手 イ・それを アニ・執る)”さ。解かるかい。

こうやって(自分の両脇にすわった人の手を握り)あんたもあんたも(目で一同に手をつなぎ合うよううながす)ほらこうすれば伝わってくるっしょ。これがウテキアニ。これが愛でしょ。」。研修ツアーで遠くから訪ねて来た皆にババが一番伝えたかった話だ。

 癒しにおいて大切なのは超能力や技術よりもむしろ愛だということは、愛子ババだけでなく多くのヒーラーが語っていることで、気功でもそれは同じことだろう。世界が健康でなければ個人の健康もないという立場も愛を基にしてこそ成り立つものだ。

自分では何も書き残すことのなかった愛子ババは直接触れ合った私達に、大切なものの伝え方、遺し方を教えてくれた。ババの愛に包まれた者は、また自分が出会った人にその愛を手渡していけば良いのだと思う。今は神戸で暮らすババの神器が、協会のこれからの活動の中で、津村さんのそして私達の人生の中で、愛と幸せを祝うことができるようにと祈りたい。
http://www2.comco.ne.jp/~micabox/grugru/aiko1.html


青木愛子の人となりを簡単に紹介するならば、収入になるかどうかの問題は置くとして、アイヌ世界のプロフェッショナルとしてのイコインカルクル(助産婦)であり、ツスクル(降霊能力者)であり、ウエインカラクル(観自在者)であり、クスリや生体を含める各種療術師であるといえよう。

…巫女の側面としては、ツス(降霊現象)とウエインカラ(千里眼)がある。ツスは昭和二十一年五月(三十二歳)に始まり、ウエインカラは章は三十年(四十一歳)、癌の手術で死にかけた時から始まっている。

例えば人生相談のものが来て、すでに他界している先祖の霊にお伺いしたいというようなことで、愛子の肉体に死者の霊を降ろして語らせる現象をツスと呼ぶ。

ウエインカラ、いわゆる千里眼で何でも見えるようになると、人生相談の者が来てもツスをする必要がなくなり、もっぱらウエインカラして見るようになる。巫女として、他の種々のカムイノミ(神儀)やウエポタラ(まじない)等も行う。


というわけで、愛子さんも小さいころから能力があってということではなく、途中からよくわかるようになって来た方のようですね、さらに、女系の方は代々そのような能力をお持ちの方のようです。

では実際にはどのような感じでわかったかというと、

距離と時間を越えて見える

ウエインカラをするためのカムイノミ等の儀式形式は何もない。対座する相手と話をしながら、相手の過去や未来のことが見えてしまうのである。

これは目の前に居る相手ではなければならないということはなく、電話に出ている一千キロ離れた相手であってもかまわないし、今どこに居るかわからないある人のことであってもかまわない。想うと見えてしまうのである。

…病人が来て愛子の治療を受ける。治療の謝礼として金子(きんす)を包みに入れて差し出す。開封せずに中の金額がわかる。その金子を借金してきたこともわかる。貧しい家庭の様子まで見える。財布の金額もわかってしまう。こうなると貧しい人からは謝礼を受け取れないということになる。

牧場主が1〜2ヵ月後に出産予定の子馬の性別を知りたがる。生まれるときの様子が見えるのでオスかメスかわかる。
商売の運勢を見てもらいに人が来る。その商売で動くお金の様子が見える。ついでにその人の浮気の様子まで見えてしまう。

…例えば、一緒に居る人たちには見えないのだが、愛子にだけは大蛇が沼に居るのが見える。

死者の霊が見える。例えば愛子の親しい友人が交通事故で死亡した。死亡してから四十九日目の間は、その友人の例が愛子のところに遊びに来るのが見えて、対話する。愛子にとっては日常的なことなので恐ろしいという気持ちは起きない。

四十九日が来ると、すでに死亡しているその友人の親族の霊が友人の霊と一緒に現われて歌をうたったりする様子が見え、その声も聞こえる。これは四十九日で終わる場合である。


またオーラはこのように見えていたようで、大変興味深いですねー。


一人一人が持っている光が見える。明るい人、非常に明るい人はごく少なく、暗く見える人が多い。何も見えないほど暗い人もある。

暗い人の過去現在をウエインカラしてみると、詐欺、泥棒、異性関係の乱れている様子、売春や覚醒剤、物欲の強い様子等が見える。

明るく見える人をウエインカラしてみると、他人に対して尽くしている様子が見える。ウテキアニ(愛)の精神で生きようとしている人は明るく、無慈悲な人、愛のない人は暗く見えると解釈している。現在財宝をたくさん所有しているかどうかということとは関係なく、その光の量が見えてしまう。


と、なるほど、私も光の量が違うということは良くわかるようで、くすみが内ない人ほど良い人ですよね、しかし、もともと心が温かい人でも、さまざまなストレスがたまっているとその周りにくすみがたまっていってしまって、そのストレスを発散できていない状態が長い間続くと、もともと明るい朗らかな方もふさぎ込むようになってしまったり、ガンコになってお酒に走ったりというわけで、オーラの明るさというのはまず非常に重要かつわかり易いその方の性格、状況の指標になったりしますよねー(^-^)。

ですので、まずスピリチュアルなこと学び、またそれを人生上で活用していくときに、オーラがわかるのとわからないのでは結構差がつくような感じも、実は致しますね。

「そんなオーラなんて普通の人がわかるようになるはずがな〜い!レインボーブリッジも封鎖できませ〜ん!」

とあきらめてしまうのは簡単なのですが、まぁ自分としては自分が一応わかるようになったということは、もっと霊感体質で、かつ慈善的な活動なさっているような人はたくさんいらっしゃるわけですから、そのような方もうまくその能力を特に難しいことを学ばなくても活用できるようになる時代が来ると思うのですね。
http://www.uranaiblog.net/user/fy3on3/fy3on3/62550.html

歴代継承者について 本書より引用


この本の原稿締めきり間近になって、愛子からこれまでになかった伝承記憶を思い出して語られ、また筆者が再度フィリピンを訪れて確認した事実により、これまでの原稿をそのままにした上で、更に歴代継承者の項を設けたい。この部分を加えることによって歴代の輪郭がよりはっきりしてくるかと思う。


初代の産婆は1756年(宝暦6年)頃、現在のフィリピン共和国・バギオシティー、ラクナムの地、ルソン島北部山岳地方を支配したイゴロット族の聖地アシュラムで生を享けている。

この初代に産婆や薬草等の治療の技術、及び信仰について授けたのは、アシュラムの開祖である

ティエンチンイー(天静一)という名前の男性であった。ツスの中で初代の霊が名乗っている

天静一の名は、実は初代その人の名前ではないことがはっきりした。初代は降霊現象(ツス)の中で、自分の名前を名乗っていないというのが事実である。


天静一は、中国人名のようだが、現在までの筆者の調査によっても、その出身地は不明のままになっている。現在までに判明していることは、船でルソン島に渡りついた異国人である。

薬草その他の治療の技術にすぐれた男で、彼が瞑想の地と定めて住みついた場所が、後にアシュラムと呼ばれるようになったようだ。この地方はイゴロット族の居住域で、天静一はイゴロット族を中心にして周辺の少数民族の畏敬を集めた人物であったようだ。

初代の産婆はそのアシュラムから北海道まで渡って、シトシというアイヌレヘ(アイヌ語名)のシャモと結婚している。シトシはコタン(村)の人々をトバットミ(強盗集団)から護る役目等を持ち、初代の方は産婆や子育ての技術、薬草等の治療術を生かしながら、夫婦で北海道各地のアイヌコタン(村)を巡回した。

初代81歳の時に訪れたヤマモンベツコタン(現・沙流郡門別町庫富)が最後の地となる。初代は、アトイサムという名のシャモの老婦人のチセ(家)に身を寄せている内に急に容体が変化し、おせわになったその老婦人にテケイヌ(診療・治療のための特殊な能力を持つ掌)を継承して他界した。

この時、初代を追って来ることになっていた夫のシトシは、まだコタンに到着していな
かった。この時の老婦人、シャモの女性が二代目継承者になるのであるが、初代との間には血縁関係のないことを、念を押しておきたい。

この二代目アトイサムは出生地不明、1775年頃に生を享け、1855年頃に他界したようだ。

初代からの教育的伝承はほとんど受けておらず、カムイノミ(神儀)の儀式的な継承のみであった。アトイサムは自分の子供に継承せずに、1851年頃に生れたまだ幼ない孫に三代目するカムイノミを行ない、他界している。やはり実践教育的な継承の期間が、ほぼなかったといえる。

三代目ハイネレの夫はアイヌ語名・門別アンリケチュウという名で、比較的若くて他界したと伝えられている。シャモであったようだ。

四代目は、三代目ハイネレの第二子長女・ウコチャテクが継承して、20歳頃に13歳年上の貝沢ウトレントクと結婚している。ウトレントクの父親はウカリクン、母親はシュトラン、祖母カシテクン、二風谷地方の古いニシバの家系であったようだ。

五代目継承者の愛子は父ウトレントク、母ウコチャテクの第七子四女である。以上を簡単に整理すると、青木愛子に伝わるアイヌイコインカル(助産術)やテケイヌ等は、ルソン島のイゴロット族のアシュラム(聖地)から運ばれていることになる。

アシュラムの方にはヒーリング(心霊技術)が歴代継承され、既に他界したが、トニー・アグパオアが現れて、その手術の真偽が世界的な話題になったようだ。

真偽の問題を論ずる趣味は筆者にはないが、聴診器も注射もメスも使わずに手当てを
行なう特殊な掌をアイヌ語でテケイヌと呼ぶことを報告しておきたい。

二代目、三代目はヤマモンベツコタンに、四代目、五代目は二風谷に定住した。初代以降五代目まで、アイヌの信仰と文化の中で人生を送っている。

しかし、アイヌと結婚した者は、現在までの調査では四代目ウコチャテク一人が判明しているだけである。

http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeWorld/Books/Upashikuma.html


青木愛子さんについては

アイヌ民族 (朝日文庫) (文庫)
本多 勝一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E6%97%8F-%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9C%AC%E5%A4%9A-%E5%8B%9D%E4%B8%80/dp/4022613572

でも詳細に紹介されています。


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

3. 中川隆[-13579] koaQ7Jey 2018年11月12日 17:55:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20563] 報告

アイヌの信仰


アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。

 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。

 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。


__________


アイヌとカムイ

アイヌ民族の伝統的な世界観では、カムイは動植物や自然現象、あるいは人工物など、あらゆるものにカムイが宿っているとされる。一般にカムイと呼ばれる条件としては、「ある固有の能力を有しているもの」、特に人間のできない事を行い様々な恩恵や災厄をもたらすものである事が挙げられる。そして、そういった能力の保持者或いは付与者としてそのものに内在する霊的知性体がカムイであると考えられている。

カムイは、本来神々の世界であるカムイ・モシリ (kamuy mosir) に所属しており、その本来の姿は人間と同じだという。例えば下記のアペ・フチ・カムイ (ape huci kamuy, 火の老婆のカムイ) なら赤い小袖を着たおばあさんなど、そのものを連想させる姿と考えられている。そしてある一定の使命を帯びて人間の世界であるアイヌ・モシリ (aynu mosir) にやってくる際、その使命に応じた衣服を身にまとうという。例えばキムン・カムイ (kim un kamuy, 山にいるカムイ)が人間の世界にやってくる時にはヒグマの衣服(肉体)をまとってくる。言い換えれば我々が目にするヒグマはすべて、人間の世界におけるカムイの仮の姿ということになる。

名称ではキムン・カムイ、コタン・コロ・カムイ (kotan kor kamuy, 集落を護るカムイ、シマフクロウ) 、レプン・カムイ (rep un kamuy, 沖にいるカムイ、シャチ) のように、「ーカムイ」などのように用いられる。

また、カムイの有する「固有の能力」は人間に都合の良い物ばかりとは限らない。例えば熱病をもたらす疫病神なども、人智の及ばぬ力を振るう存在としてカムイと呼ばれる。このように、人間に災厄をもたらすカムイはウェン・カムイ (wen kamuy, 悪しきカムイ) と呼ばれ、人間に恩恵をもたらすピリカ・カムイ (pirka kamuy, 善きカムイ) と同様に畏怖される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%82%A4


原始宗教


1) アニミズムとアニマティズム


山崎
「アニミズムとは、動植物から、山や川や海といった無生物、 雨や風や雷などといった自然現象に至る万物に、霊的存在〔霊魂・神霊・精霊・妖精など〕を認める信仰だ」。


ルナ
「つまり自然の万物、万象を生命化するのがアニミズムなのね」。


山崎
「そうだね。もっとも原始的な宗教で、神の観念はこのアニミズムから生じたとされるよ」。


ルナ
「やがて、太陽、山、海、風などが が神格化されて多神教の神になったのね」。


山崎
『アニミズムより以前に、アニマティズム(プレ・アニミズム)が存在したという説もある。

アニマティズムとは、万物に内在する生命力や活力に対する信仰で、ここから神の観念が生じたとも言われている。山や海や太陽などといった人間の力を超える存在に対し、おそれかしこむ心情を抱くこと。火や水の浄化力を信じて禊(みそぎ)したり火祭を行うこと。鏡や剣に霊力がそなわるという考え。これらはアニマティズムに通じていると言えるんじゃないかな。

なお、呪術さらには宗教そのものが、超自然的存在を動かすことを目的としていて、アニマティズムの発展と考えられるよ』。


ルナ
「いずれにしても、かつて人間は、人智を超えた自然神秘や驚異を神と見なしたということね」。
「最初にアニミズム説を唱えた人は?」。


山崎
『エドワード・バーネット・タイラー(1832〜1917・オックスホード大学初代人類学教授)というイギリスの人類学者だ。タイラーは主著「原始文化」で、神や霊魂の観念、呪術、祖霊崇拝などといった宗教現象となっている人間の意識をアニミズム〔ラテン語のアニマ(霊魂・生命・気息の意)から〕と定義し、これこそが最も原始的な宗教の形で、ここから死霊崇拝などを経て多神教へと発展し、さらに一神教へと進化したと述べたそうだ』。


ルナ
「当然、一神教の立場の人たちから激しい批判を受けたでしょうね」。山崎「そのとおりだ」。


山崎
『なお、タイラーは最初に「文化」の概念を明らかにした人としても知られている。彼は、文化や文明は、人間が獲得した知識、信仰、芸術、慣わしなどといった能力や習慣の複合体であるとしている。また、世界各地に同じような神話が見られることから、文化は伝播すると主張したようだね。のちには、世界の諸文化を、野蛮、未開、文明の3つに分け、文化の進化主義をとったというよ』。


ルナ
「アニマティズムを主張した人は?」。


山崎
『タイラーの弟子の マット〔1866〜1943・イギリスの人類学者。オックスフォード大学学長〕だ。彼によると、人類が霊魂や精霊の観念をもったのは、智恵がかなり発達してからだという。例えば「雨よ。やんでくれ」と雨に呼びかけるのは、雨に霊魂が存在していると見ているのではなく、雨を生命そのものとみなしているというのがマットの主張だ』


ルナ
「なるほど」。


山崎
『それからマットは、メラネシアやポリネシアといったオセアニアの島々の原住民が持つ「マナ」の観念を自説の裏付けとしていて、アニマティズムは、マナイズムともいうよね』。

B、マ ナ

ルナ
「マナって?」。

山崎
「自然、人工物、人間、神、祖霊、死霊などあらゆる存在が持つと考えられている超自然的な力だ。広く太平洋諸島にみられる観念だという」。


山崎
『例えば「彼が勇士なのは、マナを有する槍を持っているからだ」とか「彼の土地に作物がよく育つのは、マナを有する石を持っているからだ」とか「マナを持てば家畜が増える」とか「酋長は多くのマナを所有している」などと言われるものだね。

マナの特徴は、その人やそのものに固有な力ではなく、付け加えたり、取り除くことができるということ、また勝手に他のものに伝わっていくということにある。だから、槍や網などの道具類、また病人や疲労した人に、マナを注入することで、望ましい状態にすることができると考えられている。

マナを得ることが利益ももたらすので、人々は強力なマナを得ようと様々な努力をするというよ。
マナの観念は、イギリスの人類学者・カトリックの宣教師 コドリントン(1830〜1922)の著書「メラネシア人」によって世界に紹介されている。彼は、マナとは“転移性を有する超自然力”と定義している。このマナが学会の注目を集めたのは、マナのような超自然力こそが、宗教の原初であり、あらゆる宗教の本質であると考えられたことからなんだ』。


ルナ
「“超自然力を獲得するための努力”なら、修験道では、山岳を霊力が強い場所とみなし、そこで修行すれば霊験(れいげん)を得るとしている。この霊験という超自然力を得て、加持祈祷を行なう人が修験者だわ」。


山崎
『修験道には“転移性を有する超自然力”の観念もみられるよね。
密教では、宇宙の根本仏の大日如来と合一することで即身成仏を目指す。これも超自然力を手にするための努力だ。
護摩木や供物を火の中に投じ、煩悩を焼き尽くす「護摩」という修法には、火を超自然的な浄化力とみなす観念がみられるね。
また日蓮系においては、日蓮の著した曼荼羅にはすごい功力(くりき)があるとされていて、これを拝み題目(南無妙法蓮華経)を唱えることで、自己の仏性が顕現され、大変な功徳が得られると信じられている。

古神道では「禊」(みそぎ)は、身削ぎ(心身の浄化)だけでなく、霊注ぎ(みそぎ)の意味もあるなんて言われる。水の持つ超自然的な浄化力やエネルギーを信じるものだね。
「神籬」(ひもろぎ・巨木)や「磐座」(いわくら・巨岩石)に、神が依りつくという考えは、超自然力の転移だ。
神道では、巫女(みこ)や神輿(みこし)に神霊が宿ったり(転移)するし、お祓(はら)いなんていうのは、まさに超自然的な力で災いを除く呪術だよ』。


ルナ
「一神教の神も超自然力をそなえた全知全能の神だわ」。


山崎
『一神教においては、人間が神の力を獲得することは説かれないけど、生前に奇跡をなした人を「聖人」という称号を与えて崇めるカトリックの「聖人崇拝」なんてのは、特定な人間に超自然的な力を認めるものだし、
「教会には神より聖霊が与えられていて、秘蹟(サクラメント)の効果は、聖職者に聖霊が宿るから可能である」なんていうカトリックの教義にもマナ的観念がみられる』。


ルナ「カリスマ(ギリシャ語。神の賜物の意)という語も、本来、キリスト教の言葉で、神から与えられた奇跡、呪術、予言などを行なう力をさすというわ」。


山崎『イスラム教神秘主義のスーフィズムでは、すぐれたスーフィー(神秘主義者)は、人々の願望をかなえるバラカという特別な呪力を得ていて、聖者として崇拝の対象となる。


バラカは死後も存続し、ムハンマドや聖者たちの遺体、遺品、墓石などにバラカがあり、これらを拝んだりすると様々な功徳があるとされている』。


ルナ『スーフィズムの聖者崇拝は、カトリックの「守護聖人」(特定の職業や地域などを守護すると崇められる聖人や天使)に対する信仰と近いわね』。


山崎『こうした宗教の源となったアニマティズムというのは、おそらく人類が超自然的な力を恐れ、危害を避けたいと願うと同時に「その力を味方にしたい」と考えたことから生まれたのかもしれないよね』。ルナ「はい」。

C、呪 術


ルナ『「呪術」も超自然的な力を動かすことで目的を達成しようとするものでしょ』。


山崎『呪術は、雨乞いのように人や社会に有益なことを目的とする「白呪術」と、人や社会に災いが起きることを目的とする「黒呪術」に分けられ、黒呪術には、密教の「調伏」〔ちょうぶく・明王などを本尊として、怨敵や魔障を降伏(ごうぶく)させる修法〕や「丑(うし)の時参り」なんかがよく知られている』。


ルナ『丑三つの刻(午前2時半頃)、社寺の樹に、呪う相手のわら人形を取り付けて、呪文を唱えながら五寸釘を打ち込むのが「丑の時参り」ね。よく白衣に身をまとった女性が、わら人形に釘を打つ姿が漫画に描かれたりするわ。


釘を人形の頭に打てば、相手の頭を痛めつけ、手足に打てば手足を痛めつけられる。満願の日までに人に見られると効果がないとか、目撃されたらその者を殺さないと自分が死ぬとか言われているわよね』。


山崎「黒呪術には、この他、写真に針を刺したり、相手の名前を書いた板に釘を打って海に流したり、足跡に釘を打ったり、相手の髪の毛を手に入れて呪うなどの方法があるようだね」。


ルナ『「お百度参り」は、白呪術になるのかしら?』。


山崎『そうだね。百度参りは、平安時代にはじまり、中世以降に一般に浸透したそうだ。特定の社寺に100回参詣し祈願するものが、のちに1日に100度参詣する形式となったそうだよ。


拝殿で祈願すると、そこからお百度石に戻り、そこからまた拝殿に行き祈願することを100回繰り返す。これを、お百度を踏むと言うんだけど、数を間違えないように、小石や小枝や竹べらが用意されていたり、お百度石の壁面にそろばんのようなものが備え付けられていたりするよね』。


ルナ「宗教がどちらかというと、超自然的な存在への帰依や服従であるのに対して、呪術は人間の力によって超自然的な力を動かそうという意識が強いようね」。

D、シャーマニズム T


ルナ「シャーマンが、トランス(恍惚)状態、神がかり状態となって、神や霊といった超自然的存在の言葉を語るシャーマニズムも古いタイプの宗教でしょ。邪馬台国の女王 卑弥呼もシャーマンだったというし」。


山崎『シャーマンは、ツングース語(シベリア東部・中国東北部に住むツングース系諸民族の言語)のシャマン(霊媒師)に由来するという。


日本のシャーマンの代表が、民間巫女(みこ)の「イタコ」(東北)と「ユタ」(沖縄)だね。巫女は、神社で神に仕える神社巫女〔かつては処女をあてた〕と、民間巫女に大別されるんだけど、民間巫女は、口寄せをするところに特徴がある』。


ルナ「巫女の語源は?」。山崎「不明だが、神の子を意味するみかんこの転、貴人の子を敬って称したものなどと言われているよね」。


ルナ「口寄せって、死霊を招いて神がかり状態となり霊の意志を語るのよね」。


山崎『口寄せには、ルナの言った「死口」(しにくち)の他、神霊を寄せる「神口」(かみくち)、生霊を寄せる「生口」(いきくち)があるそうだ。個人によってどれを得意とするかがあるみたいだね』。


ルナ『神や死者・さらには未来人・宇宙人など交信する「チャネリング」は、現代版の口寄せといったところね』。


山崎『シャーマンは、口寄せ(霊との交信)ばかりでなく、とり憑いた悪い霊を除く「除霊」。さまよっている霊を浄化(成仏)させる「浄霊」。またそれらにより、病気を治したり、災いを除くこと。


さらには、予言、占い、前世や過去世をいいあてること。悩み事相談なんかもするよね。悩み事相談の答えは「現在の不幸は、○代目前の先祖への供養が足りないために、その先祖が苦しんでいるのが原因です」とかいうものだ』。


ルナ「最近では、スピリチュアルカウンセラーなんていう連中が登場したど、彼らのしていることは、民間巫女と基本変わらないわね」。


山崎『それから未開社会では、青年期に夢や幻覚で見た鷲や熊などの動物霊を、個人の精霊(守護霊)としたり、日本のように祖霊信仰を持つ社会では、先祖の霊が子孫を加護するという思想があるようだけど、シャーマンは、守護霊と関係が深いようだ。


世界的に見てシャーマンになるには三つの型があるとされるよ。1つは、代々シャーマンの家系で守護霊が継承される世襲型。


1つは、召命型。これは、守護霊に選ばれた者が、巫病(ふびょう)にかかり、夢や幻覚で守護霊を見たり、幻聴で守護霊の声を聞くなど心身に異常をきたす。選ばれてしまったら本人の意志で拒絶することは困難で、拒否すると異常が激しくなり死ぬこともある。先輩シャーマンの指導によりシャーマンになると異常は消え、守護霊に守られるというもの。


もう一つは、修行型といって自分の意志や親族などのすすめにより師のシャーマンのもと修行し、呪文やトランス状態になることなどを学び、最後に守護霊を依り憑かせる儀式をうけてシャーマンになるというもので、このとき陶酔や幻覚のなかに現れた霊体が守護霊となるというものだ。


守護霊は、神霊であったり、先祖の霊であったり、精霊(鷲や熊などの動物霊)であったりするらしい。シャーマンと守護霊が夫婦や主従の関係とされたり、守護霊に眷属(けんぞく・家来)がいて、シャーマンは守護霊の力により眷属を使うことができるとされている場合もあるというよね』。

E、シャーマニズムU〔イタコ〕


山崎「イタコは、東北の津軽、南部〔岩手県と青森県下北半島と北秋田にまたがる地域。狭義には盛岡をさす〕の民間巫女だ。語源は、アイヌ語のイタク(語る)に愛称のコが付いたという説や、戒名を板に書いて祀るので板コである等の説がある。下北半島の恐山〔おそれざん・879mの火山。宇曾利山(うそりざん)ともいう〕を聖地とするよね」。


ルナ「恐山?」。


山崎『恐山は、862年に 慈覚大師 円仁(延暦寺3代座主。天台宗山門派の祖)が地蔵尊を祀ったことに始まると伝承される。菩提寺(円通寺地蔵堂)があり、比叡山、高野山とともに日本三大霊場とされるよ。


菩提寺は1536年に 聚覚(じゅかく)が再建して以来、山腹の円通寺〔曹洞宗。1522年、宏智聚覚(こうちじゅかく)の開山。南部氏の開基(資金的な開山)。本尊 釈迦如来〕の管理となっている。


宇曾利湖というカルデラ湖を中心に、周囲に朝比奈岳、円山、大尽山、釜臥山などの山々がある。周囲の山々は、八葉(はちよう・8つの花弁)蓮華の花弁をあらわしているとされる。いたるところに硫気孔があり、音を立てて硫気を吹き出していて、三途の川、賽の河原、八大地獄などもあり、死霊信仰と地蔵信仰が習合した霊場だ。


死者の集まる山として7/20〜24日の大祭には、参詣や観光でにぎわい、数珠を手にしたイタコによる口寄せが境内のいたるところで行われる。こ2恐山の大祭や、津軽半島 金木町川倉の地蔵盆には、沢山のいたこが集まるという』。


ルナ「イタコには盲目の女性が多いと聞くけど?」。


山崎『天台宗の寺院でも養成しているところがあるそうだが、普通、盲目の女性が少女のときに師のもとに弟子入りし、経文、祈祷、筮竹(ぜいちく)による占いなどを学ぶことが多いというよね。


独立のときにカミ憑(つ)けという神婚式を行い自分を守護する神や仏をもらうらしい。彼岸や盆に死者の供養として口寄せをする他、病気治しのオッパライ(お祓い。猫や馬や蛇などが描かれているイタコ絵馬を用いて病気の原因を占ってオッパライの祈祷を行う)をしたり、オシラサマを祀ったりするというよ』。


【 オシラサマ… 東北地方の民間信仰の神様。多くは30pほどの桑の木2本に男女や馬の顔などを彫ったり書いたりして、おせんたくと呼ぶ布を着せ、家の神、農耕神、養蚕神としたもの。神棚の祠におさめる。春秋の祭の日には祠から出しておせんたくを着せ替えたり、本家の老婆が祭文(さいもん・祭のときに神にささげる祈願や賛嘆の心を表したことば)を唱えるという。


イタコが行う土地も多くオシラサマを両手で持って舞わせながら祭文を唱える。イタコがオシラサマを舞わせたり、少女がオシラサマを背負って遊ばせることをオシラアソバセという。】

F、シャーマニズム V〔ユタ・御杖代〕


ルナ「ユタというのは、聞いたことがないけど…」。


山崎『ユタは、沖縄本島を中心に南西諸島で活動する民間巫女で、女性がほとんどだが男性もいるというよ。語源は不明だが、左右にゆためくことからとか、あらぬことを口ばしるので、ゆた口やゆたゆん(よくしゃべる意)からきたなどと考えられている。


ノロ〔祝女。地域の祭祀を取りしきり、御嶽(うたき)を管理する女性神官。世襲制で、かつては琉球王国より任命された〕が神官であるのに対し、ユタはシャーマン(霊媒師)だ』。


ルナ「沖縄では、女性が祭祀の中心なのね」。山崎「そうだ」。


山崎「ユタは、多くは幼少から病弱で霊能力を持つ者がなる。宿命によってなるのであり一般人はなれないとされるよ」。


ルナ「イタコが修行型であるのに対し、ユタは召命型なのね」。


山崎『幼児期に不思議な精神体験をし、その後、神ダーリ(巫病・神よりユタになるよう与えられる病気)にかかり、精神的に不安定な状態となり、死者と交信したり、予言を語ったり、異常な行動をするという。神の指示に従うことで精神が安定し、異常行動はなくなり、ユタとしての能力が現れてくるというよ。


その後、御嶽(うたき)を巡り、自分の守護神を見つけこれをのり移りさせて、最終的には弟子入りして学ぶという』。


【 御嶽… うたき・おたけ・沖縄県において、神社および鎮守の森に相当する聖地。多くは森の空間。山そのものや島そのものであることもある。


宮古(宮古島など)や八重山地方(石垣島・西表島・竹富島など)では、過去に実在したノロの墓が御嶽となっているものも多く。そのノロは地域の守護神として祀られているという。


社殿はなく、本殿にあたる最も神聖な場所をイベ、イビ、ウブ等と呼び、イベ石という自然石を祀る。イベ石は、古神道の磐座(いわくら)にあたり、神が降臨する場である。


イベには、香炉、線香、ロウソクなどが置かれ、酒や供物が供えられる。琉球王国時代、御嶽は完全に男子禁制で、現在でも、イベには、ノロ(祝女)・ニーガン(根神)・ツカサ(司)等の女性神役しか近づくことはできないという御嶽も多い。


≪ ニーガン… 村の草分け的な家を ニーヤ(根屋)と呼び、その主人(村の長)が ニーンチュ(根人)、主人の姉妹が ニーガン(根神)である。ニーガンは ノロの支配下にあり、村の祭祀を行った。


ツカサ… 宮古、八重山地域には ノロの名称はなく、ノロに代わって村落の祭祀を司る神女。≫


また、大きな御嶽では、人々が御嶽の神を歓待して歌ったり踊ったりするための「神あしゃぎ」(神が足をあげる場=腰を下ろす場の意味という)と呼ばれる四方が吹き抜けの建物が設けられていることもある。


鳥居がある御嶽も見られるが、これは明治の「皇民化政策」による結果。明治初期には、宗教政策の一環として御嶽を神社化する動きもあったが、影響は一部にとどまっている。


御嶽に祀る神は、村落共同体の祖霊神、太陽神、土地神、水神、火の神、農耕神、鍛冶の神、航海神、竜宮神、英雄神など様々。普通、それぞれの御嶽には、これを崇拝する集団がいて、代表者の女性神役を中心に定期的に豊作祈願や悪霊払い等がなされている。


現在でも新しい御嶽が出来たり、逆に統合されたり、放置されるなどしているという。なお、村落や地域の人々が、加護や繁栄を祈願する場所を「うがんじゅ」(拝所)と総称する。うがんじゅの多くは御嶽であるが、他に霊石や洞穴などの場合もある。】


ユタを守護する神(守護霊)は、多くは何代か前の先祖が多いが、観音菩薩などとする者もいるらしい。ユタは、自分の守護神が他人のそれより霊力が強いことを誇りとするそうだ。


ユタによる死霊の口寄せを「マブイワカシ」(マブは霊魂の意。本来は守護する意)という。人により、琉球王朝時代の死霊を呼び出すのを得意としたり、死んで間もない者の霊を得意とするなどの違いがあるらしい。この他、身体から抜け出した生霊を戻して病気を治す「マブイグミ」なんかを行うそうだ。


また、教義も戒律もないことから、ユタの祭壇には、仏教、神道、キリスト教などの偶像なんかが一緒に並べられているそうだ。また、副業としてユタを行なっている者も多いというよね。


また沖縄には、沖縄県には「医者半分、ユタ半分」ということわざがあり、ユタが千〜2千人(5千人とも)いて、多くの人たちがユタと関わりを持ち、結婚相手、結婚の日取り、運勢、転居、ノロなどの神役の選定、家庭の不和などの悩み事について占ってもらうそうだ。


さらに明治以後、移民によりブラジル、アルゼンチン、ペルーなどにも広がり、当地のユタの判示(占いの答え)を受け、沖縄に祈願にくる人もいるというよ。


しかし、不安を煽るような事を言っては、お金を騙し取るユタも多く、社会問題になることも多い。


また、中央集権化や近代化を目指す支配者層は、ユタの存在は、脅威や障害とみなされ、琉球王国以来「世間を惑わす」として、幾度も弾圧、摘発を受けている。近代以降も、明治期のユタの禁止令、大正期のユタ征伐運動、昭和10年代(戦時体制下)のユタ弾圧といった迫害を受けている』。


ルナ「日本初の統一王朝とされる邪馬台国〔初代神武天皇が創始した大和朝廷以前に存在。3世紀半ば頃〕の女王 卑弥呼(ひみこ)は、鬼道(幻術、妖術)に通じた巫女(シャーマン)であったとされるでしょ」。


山崎「飲食を給し、用件を伝えるただ一人の男子と婢(ひ・女の奴隷)千人が仕えていたとされ、弟が卑弥呼の神託に従って政治や軍事を担当していたというよ」。


ルナ「古代の祭祀って女性が中心だったのかしら?」。


山崎『古代の祭祀では、未婚の女性(処女)を神聖視したそうだ。神の妻とされた女性が神がかりして、神の言葉を伝えてきたようだね。例えば、斎宮〔さいぐう・斎王(さいおう・いつきのみこ)〕は、天皇の代わりに伊勢神宮に入り、天照大神に仕えた内親王(未婚の皇女)や 女王(じょおう・天皇の2世(孫)以下の女子)で、天皇即位のさいに選ばれたという。10代 崇神(すじん)天皇のときにはじまり96代 後醍醐天皇(在位・1318〜1339)のときまで続いたとされる。


〔崇神の年代についてはよく分かっていない。3〜4世紀とする説もある。また、崇神天皇を初代天皇とする説や、神武(初代)=崇神とする説、神武=応神(10代)=崇神とする説もある〕


皇祖神の天照大神(あまてらすおおみかみ・太陽の女神)の御神体である「八咫鏡」〔やたのかがみ・「天の岩戸開き」の神話に由来する鏡〕は、天皇のもとにあったが、崇神天皇のとき、恐れ多いとして、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に移して、皇女 豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)が仕えた。


しかし、その後も天照の霊魂(みたま)が荒ぶったことから、姫が「御杖代」(みつえしろ・自らが天照の霊魂が宿る者)となり、丹波(京都中部)、大和(奈良)、木乃国(和歌山)、吉備国(岡山)を21年間巡っている。


さらに11代垂仁天皇のとき、年老いた豊鍬入姫命に代わり、垂仁の皇女 倭姫命(やまとひめのみこと)が、御杖代となり、新たな鎮座の地を求め、伊賀、淡海(おうみ)、美濃、尾張を巡り、伊勢の五十鈴(いすず)川のほとりに来たとき、天照が「常世(とこよ)の浪(なみ)が重浪(しきなみ)帰(き)する国なり」といたく気に入ったとして神殿が建てられた。これが伊勢神宮だよ。


天照の霊魂が皇居を出て、最終的に伊勢神宮に鎮座するまでに、25ヶ所もの社(宮)に祀られたとされ、これらの場所は「元伊勢」と呼ばれているよ。〔1つの元伊勢に、現在あるいくつかの神社が候補地としてあげられていたりする〕


また、日本武尊〔やまとたけるのみこと・12代景行天皇の第3皇子。14代仲哀天皇の父。小碓命(おうすのみこと)〕は、東北征討の途中、伊勢神宮に立ち寄り、おばで斎宮の倭姫命より、草薙剣を授かっているよ』。


【 草薙剣… 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)ともいう。八咫鏡、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに、歴代天皇の三種の神器、皇位継承の証とされる。天照の弟の須佐之男命(すさのおのみこと)が、八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに、大蛇のしっぽから出てきた剣。】


このような女性中心の祭祀形態は、神の言葉を伝えるという巫女の役割が形骸化されてゆき、巫女が男性神職の補助的存在になって失われていったと考えられているよね。だから沖縄の祭祀は、古代日本の宗教形態を最もとどめていると言えるかもしれないね』。

G、フェチニズム


山崎『マナの観念と似るものに「フェチニズム」というのがある。アニミズムやアニマティズムとともに宗教の原初形態の1つとされている。現在では、自然崇拝やアニミズムが宗教の原初であるという説が有力だが、かつては、フェチニズムから、アニミズム、多神教へと発展したという説も唱えられたそうだよ』。


ルナ『「フェチ」と言うと、異性全体ではなく、髪の毛とか、足とか、耳とかいった身体の一部や、靴下とか、下着とかといった所持品に、愛着を示すことでしょ』。山崎「そうだね。下着どろぼうや、毛皮(異性の象徴となるモノ)を着ていない女性とは、性交できないなんてのがいい例だ」。


山崎「フェチニズムは、もともとは特定の自然物や人工物に神秘的な力、超自然的な力が内在すると信じ、崇拝するものだよ。アフリカの未開社会をはじめ各地でみられるというよ。物神(フェティシュ)崇拝とか、呪物崇拝と訳される。


語源は、フェチコに由来する。15世紀後半、西アフリカと交易をしたポルトガルの航海者たちが、西アフリカの海岸地域で、原住民が、歯や爪、木片や貝殻や石などを、髪の毛に包んでお守りにして身に付けていたり、剣や鏡や玉、首飾り、臼などを崇拝しているのを見て、


カトリック信者が、聖者たちの遺物や護符をフェチコ(呪符や護符の意)として崇拝しているのと同じとみたところからきているそうだ。


フェチニズムの語を最初に使ったのは、フランスの比較民俗学者で思想家(ヒューマニスト)の シャルル・ド・ブロス(1709〜77)の著書「フェティシュ諸神の崇拝」だとされるよ』。


ルナ「偶像(仏像やキリストの画像)や十字架、曼荼羅、御札やお守り…。これらは広い意味で、フェチニズムと言えるわね」。

H、トーテミズム


山崎「ルナは、トーテムポールを知っているかな?」。ルナ「学校の校庭にあったわ。公園にもみられるわよね。鳥とか動物とか、人間の顔などが彫刻されている柱でしょ」。


山崎『トーテムポールは、カナダ西海岸部から北西アメリカのネイティブ(インディアン)諸族が製作するもので、トーテム〔家系をあらわす紋章。動植物など〕や、彼らのもつ伝説や物語の登場人物を表現したものというよ。


家屋から独立して建てられる独立柱、家屋の正面に建てられる入り口柱、家を支える柱また家の内部の飾りとして建てられる家柱、墓地に特定の個人を記念するために建てる墓標柱、特別な出来事(戦いなど)を記念して建てられる記念柱などがあるようだ。但し、これらは、崇拝の対象ではないというね』。


ルナ「トーテムって何?」。


山崎『氏族の先祖として崇拝する特定の動植物だね。動植物ばかりでなく、自然物、人工物、自然現象などの場合もあるようだ。


トーテムという語は、オジブワ族〔アメリカおよびカナダのネイティブの部族。アメリカでは3番、北米全体でも4番の人口〕の「彼は私の一族の者だ」という言葉に由来する アルバート・ギャラティン〔1761〜1849・アメリカの民俗学者。言語学者。政治家(財務長官を務めた)。アメリカ民族学会の設立者〕の造語だと言われているよ。


トーテミズムは、トーテムを崇拝する信仰だ。この信仰は、はじめネイティブアメリカン(アメリカインディアン)で発見され、のちに世界各地、とくにオーストラリア、オセアニア諸島、アフリカ、インドなどにも見られることが明らかになったそうだ。


オーストラリアには、各氏族のトーテムをあわせると、その数4千にもなる部族があったり、日、月、雲、雪、雨、火、水、季節などもトーテムとなっている部族があったり、安眠、下痢、嘔吐、性交などがトーテムとなっている部族があったり、男がコウモリで、女がキツツキというように、氏族でなく性によるトーテムを持つ例がみられたりするそうだ。


また、メラネシアには、各氏族が、鳥1種、樹木1種、動物1種というように複数のトーテムを持つ部族があったり、インドには、短刀、割れた瓶、トゲの付いた棒、腕輪、パン切れなどもトーテムとなっている部族があったり、


アフリカには、トーテムは牛だけで、各氏族のそれは、赤牛とか乳牛といった牛の種類や、舌、腸、心臓といった身体の部位で区別する部族があったり、アメリカ北西部には、個人が特定のトーテムを持つ例(但しこれは守護霊であるとする考えもある)もみられるというよ。


ほとんどの場合、トーテムとトーテム集団との結びつきの由来を物語る神話が存在するそうだ。また、トーテムは部族や氏族の先祖として畏敬され、殺したり食べたりしてはいけないとされていて、触れたり、見たりすることもタブー(禁忌)とする例もあるという。


一方で、禁忌をともなわない例も多く、トーテム動物は、トーテム集団の者に好意を持っていて、撃たれて食べられることを望んでいるとする例もあるそうだ。トーテム集団の人たちの姿や性格は、トーテム動物に似ているなどとも言われるらしい。


また、同じトーテムを持つ氏族の者同士の結婚は許されないというよね』。

I、アニミズムと神道


ルナ「日本の神道って、アニミズム的要素を割合と濃くとどめていると言えるような気がするけど…」。


山崎『そうだね。経済先進国において、純粋にアニミズム的要素を濃く残している宗教は、日本の神道以外にないかもしれないよ。


アニミズムとは自然の万物に、精霊や霊魂(みたま)が宿るという信仰だね。巨樹、森、山、太陽、月、あるいは、雨や風などの自然現象に精霊が宿るといった信仰だ。


前述したとおり、山、太陽、月、雨、風、雷などが神格化されて、神道のような多神教の神になったとされる。


インドのヒンズー教も多神教ではあるけど、仏教同様、輪廻や解脱を説き哲学性が強いうえ、カースト制度をも包含し、社会への影響は計り知れない。また中国の道教も多神教であるけど、まじない的要素が強いし、人間神も多いからね』。


山崎「ルナはどんなところに、神道にアニミズム的要素が色濃く残っていると感じたのかな?」。


ルナ「そうね-。仏教では仏像が本尊とされたりするけど、神道では神像がほとんど見らないわ。もちろんこれは一神教のような偶像崇拝の禁止とは違うでしょ…」 。


山崎「そこに、神道が自然崇拝を残している感じを持たせるわけだね。ルナにそう感じさせるのは、おそらく社(やしろ)が、本尊を拝む場ではなく、万物、自然を対象とする拝殿って感じがするからかもしれないね」。ルナ「確かにそうね」。


ルナ「鏡や玉や剣が御神体とされるところにもアニミズムの要素が感じるけど…」。


山崎『なるほど。おじさんが、神道がアニミズム的要素を色濃く残すと思うのには、神道がタマ(魂)とカミ(神)の観念が結びついた信仰だからというのもある。


古代の日本人は、言葉には言霊(ことだま)、木には木霊(こだま)、人には人霊(ひとだま)、稲には稲霊(いなだま)、船には船霊(ふなだま)が存在すると考えたそうけど、


天照大神の御神体(ごしんたい・神霊を象徴するもの)=御霊(みたま)を「八咫鏡」(やたのかがみ)とするのなんかは、まさにタマとカミの結びつきを示していよね。


さらに、神道の神、つまり日本神話の神には、ギリシア神話でみられる理念神〔勝利、自由、秩序、愛などの理念を神格化した神。日本神話ではこれといった理念神は登場しない〕がみられず、自然神が多いことも、神道にアニミズム的要素が色濃く残っている根拠の1つになると思うよ』。


ルナ『秩序の神という理念神がみられないのは、古代の日本人が、天体の運行から、花の一生に至るまでの全ての自然現象に、規則性や秩序性を感じ、


自然の摂理こそが、全ての秩序であり、理念であるとみていたからかもしれないわね』。山崎「なるほど」。


山崎「それから、例えば、八幡神社の祭神の八幡神は、応神天皇(15代天皇。5世紀頃)のことだとされている。このように神社の祭神はみな自然神なわけではない。でも、一般の人は、地域の神社は、その祭神に関わりなく、そこの地域や住民を守る 産土(うぶすな)神、鎮守神、氏神であると認識しているよね。ここにもアニミズム的要素がみられるだろうね」。

J、多神教と一神教


山崎『アニミズムやアニマティズムの信仰の対象が、やがて神格化されて、自然神が誕生した。自然神の誕生は、多神教の誕生でもある。


自然神とは、山や川、太陽や月、雷や風といった自然、天体、気象現象を神格化したものだ。アイヌの熊など神聖視される動物も自然神の一種と言える。


その後、人間神や文化神や理念神も誕生する。人間神とは、民族や氏族の統合の象徴で、祖先神や氏神といったものだ。


例えば、奈良の春日大社の祭神 天児屋根命〔あねのこやねのみこと・天照大神(あまてらすおおみかみ)が、天の岩屋にかくれたとき、祝詞(のりと)を奏して出現を祈った。のちに邇々芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨につきしたがった神の1人。祝詞の神。子孫は大和朝廷の祭祀を司った〕は、


朝廷の祭祀を司った中臣(なかとみ)氏と、中臣氏から分れた藤原氏〔中臣鎌足が大化の改新の功により藤原姓を賜ったことにはじまる〕の氏神だ。


【 春日大社… 710年の平城京への遷都後まもなく、藤原不比等が、武神の建御雷神(たけみかづちのかみ)を春日山の浮雲峰に祀ったのにはじまり、786年に、称徳女帝の命で、藤原永手(ながて・不比等の孫。左大臣)が山麓に移し、建御雷神とともに、祖神の天児屋根命をあわせて祀った。この他、祭神は、武神の経津主神(ふつぬしのかみ)、比売神(ひめがみ)。】


祖先神や氏神は、子孫に律法をさずけたり、子孫を守護する神だね。


歴史や伝説の英雄なども神格化されている。家康は、日光東照宮に、東照大権現〔権現とは、権(かり)に現れた神の意。神仏習合思想で、インドの仏・菩薩が、日本の衆生を教化するために、仮に神の姿をとって現れたという意味〕として祀られている。


この他、人間神の例として、明治神宮は、明治天皇を祭神としている。天満宮の祭神の天神さんは、菅原道真だね。


文化神は、屋敷神、かまどの神、音楽神、学芸神といった生活や文化を司る神だ。


理念神は、勝利、秩序、自由、愛などの理念が、神格化されたものだ。アメリカの自由の女神。ギリシア神話の秩序と正義の女神 テミスや、運命の3女神 モイライ。


最高神のゼウスも雷神であると同時に、人間社会の秩序を支配している。また、バラモン教の宇宙の根本原理ブラフマン(梵)を神格化した ブラフマー(梵天)は、自然神と理念神の性格をもっていると言えるよね。


多神教では、時代がすすむにつれ、神の間に上下関係や支配被支配関係が生まれ、多くの神のなかから最高神が誕生したり、主要な神がトリオで最高神の位置を占めるようになってくる。


3神トリオの例としては、ギリシア神話で世界を3分する ゼウス(天)、ポセイドン(海)、ハデス(冥府)の兄弟。ヒンズー教の ブラフマー(創造)、ビシュヌ(維持)、シバ(破壊)。


古事記の最初に登場する造化3神〔天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神御産巣日神(かみむすひのかみ)〕。


黄泉(よみ)の国から帰った伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が海で禊(みそぎ)して生まれた三貴子〔天照大神(あまてらすおおみかみ)、月読命(つくよみのみこと)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)〕などがあげられる。


多神教には、特定の最高神は存在せず、祭儀の目的(福徳・病気平癒・長寿・悪霊退散・和合・祈雨など)にかなった神を最高神とするものもある。


つまり、その場に適した神を、交替で最高神とする信仰で、これを交替神教というそうだ。


リグ・ヴェーダ(バラモン教の聖典ヴェーダの最初部)時代のバラモン教はこれにあたる。密教の別尊曼荼羅〔 密教U 曼荼羅T 分類 〕もこれに属すると言えるよ。


また、多神教でも特定の一神をとりわけ強く信仰するもの、多神教と一神教の中間に位置するものもあるらしい。


一神教の成立については、多神教より発展したという説や、一神教こそ宗教の原初の形態で、多神教は一神教が退化して誕生したという説もあけど、これらはほとんどかえりみられない。


最も支持されているのが、創唱者によって創造されたという説だ。一神教にも、他の集団が崇拝する神を容認するが、自分たちは特定の神しか拝まないというものと、他の神は一切認めないという立場があり、古代イスラエルのヤーウェへの信仰は、前者だね』。

K、汎神論。理神論


ルナ『アニミズムって、一切が神、宇宙や自然すべてが神という「汎神(はんしんろん)論」に通じているわよね』。


山崎「そうだね。ただ汎神論に2種類あるんだよ」。ルナ「2種類?」。


山崎「一切が神というのと、神が一切というやつだ」。ルナ「同じように思えるけど…」。


山崎「一切が神となると、ルナもおじさんも、そこに転がっている石も、あそこに立っている木も神ということだね。すると神という言葉は飾りものにすぎない。形容詞にすぎないってことになる。これは神がいないのと同じだというので“無神論”というんだよ」。ルナ「なるほど」。


山崎「これに対して、神が一切というと、ルナも私も、そこの石も木も、宇宙のすべてが、じつは神の影のような存在で、実際は、本体の神しか存在しないことになるね。だからこっちは“無宇宙論”というのさ」。


ルナ『無神論は多元論。無宇宙論は一元論ね。一神教は「神」と「神の創造物の宇宙」の二元論にあるから、一切が神という多元論や、神が一切という一元論は否定されるでしょ』。


山崎「そうだね。汎神論を、無神論、無宇宙論と立て分けて論じるようになったのも、一神教の立場から、汎神論を否定するためになされたことと想像できる」。


ルナ「いつ頃から汎神論について色々論じられるようになったの?」。


山崎『スピノザが“神即自然”(即はそのままの意)という「理神論」を説いてからだというよね』。


ルナ「理神論?」。


山崎『17〜18世紀のヨーロッパに登場した神学だ。世界の根源としての神の存在は認めるが、これを人格的な神とは考えない立場さ。理神論者たちは、イギリス国教会(聖公会)の説く、神の啓示(おつげ)、神の奇跡、秘儀(サクラメント)などの神秘的要素、超自然的要素を否定し、


神による天地創造以後の世界においては、自然に内在する法則を把握することは可能であり、宗教的真理は自然から理性によって把握できると主張したんだよ。このため、理神論は、自然宗教や理性宗教と呼ばれているんだ』。


ルナ「理性宗教と自然宗教って反対のような感じだけど、キリスト教の世界観では同じなのね」。


山崎『イギリスの思想家 トーランド〔1670〜1722・論争をまきおこす多くの著書のため、迫害され諸国を放浪。貧困のうち死去。「キリスト教は神秘ならず」は処女作〕が「キリスト教は神秘ならず」(1696)を公刊すると、それに反論する国教会側とのあいだに論争が起きたというよ。


トーランドは、信仰が理性に反してはならず、キリスト教の教義は理性に反しないと主張し、教会の伝統的な秘儀を厳しく攻撃したそうだ」。


ルナ「でも、キリスト教の教義を、理性で把握できるという主張もおかしいわよね」。山崎「結局そこが一神教の世界で育った思想家の限界ということなんだろうね」。

L、スピノザ。必然と偶然


山崎「理神論者で最も有名なのが、オランダの哲学者・神学者の スピノザ(1632〜77)だ」。ルナ「スピノザ?」。


山崎『スピノサの両親はポーランドからオランダに移住した裕福なユダヤ商人で、スピノザは、ユダヤ人学校でヘブライ語や聖書を学び、その後、ユダヤ教の神学を研究したそうだ。


しかし批判的な見解をもつに至り、ユダヤ教会から永久的に破門され、学問の研究に生涯を終えたようだね』。ルナ「そうなんですか」。


山崎『スピノザは、まず神を万物の内在的原因と考え、超越的原因ではないとして“神即自然”と主張したんだ」。ルナ「汎神論ね」。


山崎『そして、神は唯一無限の実体である。精神界、物質界の全ての事物、事象は、神の諸様態である。


神の本性は、絶対・無限で、属性を無限に持つ。精神も身体も神の属性の1つにすぎない。と考えたんだ』。


ルナ「これは汎神論の無宇宙論ですね」。


山崎『そうだね。神による一元論さ。さらに、一切は神に内在する必然性(必ずそうなる)によって生成されるので、人間の自由意志や偶然(たまたまそうなる)は全く存在しないとしているよ。


スピノザによると、自由意志と理解されている心像や言語は、じつは単なる身体の運動にすぎないというよね』。


ルナ「決定論、運命論ね」。


山崎「但し、彼は、個の本質に、自己保存の衝動(コナトゥス)を認めている。その上でこのコナトゥスを乗り越えるには、神による必然性を理性によって認識し、この認識を他者と共有する必要があると唱えているよ」。


ルナ「ここに理神論的な思想があるのね」。


山崎『スピノザの真の自由とは、理性を通して、自己を含む全ての存在が、神の必然性の中にあることを洞察し、人間が神を通して思考できていることを知ることだという。


そして、これが最高の善であり道徳あるというのが、彼最大の主張で、これを「神への知的愛」と呼んでいるよ』。


ルナ『デカルト(1596〜1650)の「我思う、ゆえに我あり」を、根拠のない宗教的信念から否定しているわね』。


山崎『さらに「神への知的愛」とは、神が、神の一様態である人間を介して、自分(神)自身を愛することであり、人間は神の一様態であるから、神への愛は人間への愛でもある。


人間は、神が、自分自身を認識し、愛し、満足する行為に参与することで、最高の満足を得ることができると主張するよね』。


ルナ「感情については?」。


山崎『感情には、感覚的な受動感情と、理性的な能動感情があり、欲望の決定が、不完全な受動感情でなされたとき、人間は自らの環境にふりまわされ支配されている状態にある。能動感情により決定されているとき、人間は自由であるとしているよ』。ルナ「なるほど」。


山崎「そして、以上のような理神論の立場から、聖書はあくまで民衆を導く信仰の書であり、科学や哲学の書ではない。聖書にある奇跡を現実の出来事として教えるのは、信仰を迷信におとしめる行為であると主張したそうだ」。


ルナ「スピノザも色々と考えたようだけど、結局、センスのない服をおかしくアレンジしたみたいになっちゃってるわね」。


山崎「もともとオカルトにすぎないものに、色々と理屈をつけたからおかしなものになってしまったということだね」。ルナ「はい」。


山崎「無宇宙論や唯心論〔全ての事物、事象は、心という本体よりあらわれた影であり、本来 心の他に存在しない〕は、神あるいは心を唯一の真理とする一元論だ。一元論の場合、1つの存在だけが真理なんだから、その1つがよほどしっかりとした根拠を持たないと、スピノザみたいに哲学ではなく神学みたいになっちゃうよね」。


ルナ「全てに仏性があるという仏教の立場は、一切が神という無神論と同じだと思うけど…」。山崎「そうだね。仏教は無神論的宗教と言えるね」。


ルナ『スピノザが「全ては必然」という運命論の立場にあるのに対して、仏教はそうではないですよね。すると、仏教って全ては偶然だというの?」。


山崎「仏教でも偶然はあり得ないとみるよ。但し、それは全てを必然とみるからではなく、全ての結果に原因があるという因果の法則の立場からだ」。


ルナ「なるほど。まず因果の法則によって偶然は否定されるわけね」。


山崎『それから一神教では、宇宙は唯一絶対の神によって創造されたとするけど、これに対して仏教では、全ては、因(結果を生じさせる直接的な因。原因)と縁(因を助けて果を生じさせる間接的な因。助因)が、一瞬一瞬 和合して成り立っているという「縁起」を説く』。


ルナ「全てが関係性によって成り立っている。全てが相互依存の関係にあるということね。全ては神の御心という運命論とは違うわ」。


山崎『仏教における、森羅万象の本質は変化だよ。変化しないものはないという「空」だ。空は、縁起と表裏一体の関係にあり、あらわれた果にまた新たな因と縁が加わると、たちまち変化するので、新たな因や縁をつくってゆくことで、未来はいくらでも変えてゆけるという可能性の哲学でもあるんだよ』。


ルナ「空は可能性の哲学なのね。運命論や決定論、つまり全ては必然で決まっているというのとは逆の立場ね。すると、偶然でもなく必然でもないというのが仏教の立場になるわ」。山崎「そういうことだ。 全てが関係性によって成り立っているというのが仏教だ」。

M、アイヌの信仰 T〔アイヌ人〕


ルナ「アイヌの意味は?」。山崎「アイヌ語で人間を意味するそうだ」。


ルナ「そもそもアイヌ人とは?」。山崎「東アジアの古種族で、歴史的には、北海道を中心に、樺太南部、千島列島、本州の東北部を生活圏にしていた人たちだ」。


山崎『現在では、日本とロシアという2つの国に分断されて生活する少数民族で、日本では北海道を中心に、東京他の都市部でも生活しているというよ。その数3万人を超えるとも、北海道内には2万3千人がいるともいうが実際のところ正確な数はよく分かっていないようだ。


これはアイヌと名乗ることができない人がいるからだというよね。またこれらの人たちのほとんどが、日本人との混血によって人種的な特質は薄れているらしい。


なお、アイヌは、他のモンゴロイドに比べて、彫りが深かったり、体毛が濃かったりといった身体的特徴から、コーカソイドに近いという説が広かった時期があったそうだ。のちに、アイヌ=縄文人近似説が主流となっている』。


ルナ「縄文人近似説?」


山崎『この説によると、≪縄文時代、日本列島を含む東アジア一帯には、南方系の人々が住んでいた。およそ5千年前、シベリアの北方系の人々が東アジアに拡大をはじめた。2300年前には、九州北部から日本列島に侵入してきた。彼らが弥生人である。本土の大部分は弥生人によって占められ、わずかに北海道に残った縄文人がアイヌの人々になった。現代日本人は、平均として、およそ北方弥生系7〜8割、南方縄文系2〜3割の比率で混血している≫ということらしい。


〔縄文時代… 今から約1万6500年前(前145世紀)〜約3千年前(前10世紀)。弥生時代… 前10世紀中頃(異論もある)〜3世紀中頃〕


室町中期から江戸後期にかけては、和人(アイヌの立場から日本人を指す語)の抑圧に対して、しばしばアイヌの武装蜂起が起きている。秀吉、家康から松前氏が蝦夷の支配権を認められた後にも、大規模な蜂起が起き、これを収拾することで、松前氏は実質的な支配権を確立したそうだ。


アイヌ人は、食糧や生活に必要な素材のほとんどを狩猟〔エゾシカ・ヒグマ・アザラシ・トド・オットセイなど〕、漁労〔サケ、マス、ニシン、シシャモなど〕、植物採集により得ていたんだ』。


【 シシャモという言葉はアイヌ語のスサム(柳の葉の意)に由来する。神の国の柳の葉が人間の世界に落ちて魚になったとされる。サケは、カムイ・チップ(神の魚)と呼ばれ、サケの回帰性を神が与えてくれたものとみなした。】


ルナ「木の皮の繊維で織った和服に似たアイヌの民族衣装をアツシ(アットゥシ)というわよね」。山崎「アツシには、オヒョウあるいはシナノキの内皮を使うそうだ」。


山崎『しかし明治政府が成立し、多くの和人が移住してくると、森林は伐採され、原野は耕作地となり、狩猟や漁労の権利も奪われてしまったという。これにより彼らは、採集民としての生活が維持できなくなったという。


明治政府は、アイヌの農民化とともに、皇国臣民化を図ったというよ。以来、政策によって日本文化への同化を強いられ、固有の文化を失っていったそうだ。とくにアイヌ語は、日常の会話で全く使われなくなったそうだ。


近年までアイヌに対する根強い差別や偏見があったが、現在では、物質的、精神的ともに、日本人と全く同じ生活を営んでいて、民族としてのアイヌはすでになく、せいぜいアイヌ系日本人となっているともいう人もいるよね』。


ルナ「北海道や東北を、蝦夷地(えぞち)と言うでしょ」。山崎「蝦夷とは、大和朝廷によって異族視されていた北方に住む土着民に対する呼称で、蝦夷地は、時代によりその地域は変化しているよね」。


山崎『アイヌも、近世には、蝦夷(えぞ)と呼ばれたそうだ。アイヌという言葉が一般化したのは明治以降だという。蝦夷は、古代には「えみし」と読み「毛人」とも書かれたらしい。また「えみし」の転訛から「えびす」とも読まれたそうだ。えぞと読むようになったのは平安中期以降だというよ。


えみし、えぞの語源については様々な説があるが、一説によると、アイヌ語の雅語(日常語に対して文章語をいう)の「エンチュ」(人間の意)に由来するという。他には、本来の意味は「田舎(辺境)の勇者」であったという説などがあるようだ』。

N、アイヌの信仰 U〔カムイ〕


ルナ「アイヌの信仰ってどのようなものなの?」。


山崎『まず、ユーカラという神話的叙事詩がある。ユーカラは吟唱するもので、「カムイ・ユーカラ」(神謡)と「人間のユーカラ」(英雄叙事詩)の2つに大別される。また、鳥獣、植物、火、風などの神々が自らの身の上を語るカムイ・ユーカラ(神謡)、人間の祖先神が自らの功績を語るオイナ(聖伝)、人間の英雄(主にポンヤウンペという少年)の戦闘や愛などの体験記であるユーカラ(英雄詞曲)、主人公が女性のマト・ユーカラ(婦女詞曲)の4つに分けられたりする。


カムイ・ユーカラやオイナによれば、アイヌ神話の国造りの神は、コタン・コル・カムイ〔コタンは村や里や集落。カムイは神や神霊の意〕で、この神は巨人神で鯨を串刺しにしてあぶったりする。妹神とともに、大海に陸地をつくり、山や川、人間、動物、植物などを創造し、天上界に帰ったとあるそうだ。


天上界は神々の生活の場〔カムイ・モシリ〕で、ここの支配者は、カント・コル・カムイ〔雷神カンナカムイと同一とする説もある〕で、この神の指示によって、地上世界の創造されたという。


アイヌの世界観には、神々の世界(カムイ・モシリ)、人間の世界(アイヌ・モシリ)、死後に行く(ポクナ・モシリ)があり、死後に行く世界は、地上と同じ様相をしていると考えられていて、主神的な存在は見られないそうだ。


天上界から人間界〔アイヌ・モシリ〕に、生活の知恵や文化を授けた神は、アイヌラックル(人間的な神の意)という始祖神(アイヌ人の祖)で、オキクルミ、アエオイナカムイ、オイナカムイ、オキキリムイの別名を持つ。


この神は、脛(すね)の中に、稗(ひえ)の種を隠して、地上に降り、人間に穀物を授け、狩猟、漁労、耕作、薬草につていの知識、家や舟の作り方、彫り物、機織り、刺繍、神の祀り方や祈りの詞(ことば)などの信仰の儀礼、争いごとの解決法など生活の全てを教えたという。また地上の悪神を退治している』。


ルナ「日本語の神とカムイ〔神威や神居と当て字する〕は関係あるの?」。山崎「共通の祖先語から生まれたという説もあるようだよ」。


山崎「そのカムイ(神霊)が、動植物や自然現象、さらには人工物など、あらゆるものに宿っているというのがアイヌの世界観だね」。ルナ「アニミズムね」。


ルナ「他はどのような神がいるの?」。


山崎『太陽(チュプカムイ)、雨乞い(ホイヌサバカムイ)、雷(カンナカムイ)、狩猟(ハシナウックカムイ)、幣柵(ヌサコルカムイ)、月、風、雪、山、川、湖、草木、鳥獣、魚、虫、火、舟、疱瘡などの神々が祀られるという。


カムイ・ユーカラでは、これらの神々が、自分の来歴や体験などを語り、人間に対する位置づけや祀られるゆえんなどを明らかにしているそうだ。


水の神(ワッカ・ワシ・カムイ)や、魚(チェプコルカムイ)を与えてくれる川の神(ペトルンカムイ)はとくに重要で、また多くの祭儀では、火の神(アぺ・カムイ)がとくに尊ばれるというよ。火の神は人間の言葉を神の言葉に変えて、諸神に伝えてくれるため、どんなカムイに祈りを捧げる場合でも、原則としてアペ・カムイへの礼拝がともなうそうだ。


舟や家をつくる材料となるシランパ・カムイ〔樹木の神霊。樹木の集合である山をも意味した〕には、材料となる良い樹木には良いカムイが、ならない樹木には悪いカムイがいるとみなしたそうだ。


家にも、家の守護霊(チセコロカムイ・家の東北角に存在)、囲炉裏の霊〔アペ・フチ・カムイ。アペは火、フチは老婆の意味で、老婆の姿をした神〕、夫婦の霊(エチリリクマッ・家に入って入口すぐ右の柱に存在)などがいるとされたという。


また、陸、海、空のそれぞれに、最も重要な動物神がいる。陸ではキムン・カムイ(山にいる神)であるヒグマ、海ではレプン・カムイ(沖にいる神)であるシャチ、空ではコタン・コル・カムイ(集落を護る神)であるシマフクロウだ。他には、鹿の霊(ユッコルカムイ)、狐の霊(キムンシラッキ)なども信仰されたようだ。


さらに、人間に幸をもたらすピリカ・カムイ(善きカムイ)と、人間に災をもたらすウェン・カムイ(悪しきカムイ)がいる。流行病や天災は、悪しきカムイとされる。疱瘡(天然痘)や流行病を司る神は、パヨカカムイまたはパイカイカムイといい、この神の射た矢の音を聞いた者が疱瘡になるそうだ』。

O、アイヌの信仰 V〔イオマンテ〕


ルナ「イオマンテ(熊神送りの祭儀)ってよく聞くけど…」。


山崎『イは「それ(神霊)を」、オマンテは「行かしめる」の意味で、飼育した子熊(ヒグマ)を殺し、その霊魂であるカムイを神々の世界(カムイ・モシリ)に送り届ける祭儀だというよ。なお、親熊を狩りで殺した場合、その場で解体し、霊を送るけど、これはカムイ・ポプニレ(カムイを発動させる意)というそうだ。


カムイ・ポプニレは、祭壇を設えてヒグマの頭部を祀る。これは、殺された直後の獣(熊以外の動物も)のカムイ(霊魂)は、両耳の間に留まっているので、これを神々の世界に送り返すからだというよ。


但し、人間を傷つけたり殺したりした熊は、細かく刻んで大地にまいたり、ゴミと一緒に燃やしてしまい、ポプニレを行わないため、こうした熊の霊魂は神の世界に帰れないそうだ。


春先、まだ冬眠から目覚めない熊を狩ると、冬ごもりの間に生まれた子熊がいる場合がある。この子熊を集落に連れ帰って飼育する。はじめは、人間の子供と同じように家の中で育てるそうだ。1、2年ほど育てた後に、集落をあげての盛大な祭儀(イオマンテ)を行う。


花矢(木を装飾的に削ってつくった矢)を射かけ、最後に本物の矢を心臓に打ち込み、さらに丸太の間に首を挟んで屠殺するそうだ。遺骸は一定の様式に従い、頭だけを残して解体される。頭部はポプニレ同様、イナウ(木幣)や酒を供え、祈りを捧げて、霊魂を神々の世界に送り返す。肉は人々にふるまわれるそうだ。


アイヌの人たちは、イオマンテを行うことにより、再び熊神が、自然の恵み(毛皮や肉)をもって、人間の世界に訪れてくれると考えたらしい。


なお、熊神の他、主要な動物神〔シマフクロウ・キツネ・タヌキ・カラスなど〕を送る場合もイオマンテと呼ばれ、クジラやシャチを対象とするイオマンテもあるそうだ。一部の地域では、シマフクロウ〔北海道には130羽しかいない。日本では1971年に国の天然記念物。93年に希少野生動植物種に指定〕のイオマンテが重視されるという』。


翔「イオマンテは、生贄(いけにえ)を神に捧げて守護を願うというものや、人間の罪を動物に着せてあながわせるといった贖罪信仰とも違うみたいだね」。


山崎『アイヌの信仰は、アニミズム的な側面が強い。自然物、人工物、人間に関わるものであれば全てに神霊(カムイ)が存在すると信じられていた。神と霊との関係は、樹を切るときには、その霊を森の神に送り返すといったもので、同様に、使わなくなった食器は、捨てずに特定の場所にもっていき、器や皿の霊を神の世界へ送り返す。葬式では、死者の霊とともに副葬品の霊が他界へ行くように、副葬品を壊したり破ったりするそうだ。イオマンテもこうしたところからきていることが分るよね。


カムイは、カムイ・モシリという神々の世界からやってくる。このカムイ・モシリは、天上界にあると考える場合と、山の獣であれは山の奥に、鳥であれば天界にあるといったように生活の場から想定される場合とがあるようだ。


カムイ・シモリでは、カムイは、人間と同じ姿で、人間と同じように、料理をしたり、彫り物をしたり暮らしているが、人間には見ることができないという。カムイが人間界になにかの理由(シマフクロウなら村を護るため)でやってくる場合、人間に見える衣装を身に付ける。火のカムイなら赤い衣装を、クマなら黒い衣装を身に付ける。これが人間には炎に見えたり、毛皮に見えたりするそうだ。


クマは毛皮と肉という土産をもって、気に入った人間の家を訪れる。狩猟はこれを迎える行為だというよ。本人が心が美しいと熊が好意をもって訪問してくる。猟運とはこれをいうそうだ。


なお、熊やキツネを先祖とする家も多いそうだけど、これをトーテムの残存とするかどうかについては考えが分かれているらしい』。

P、アイヌの信仰 W


翔「偶像は作られたの?」。


山崎『アイヌの信仰は、神殿やら神の像やらは作らない。祭儀では、イナウを用いる。例えばイオマンテでは、熊神の祭壇を中心に、森の神、水の神、狩猟の神、氏神、農業神、祖霊などの祭壇が設けられるそうだけど、祭壇とは、イナウを立てる並べる柵だというよ。

また祭壇は、家の脇にも設けられていて、祭儀ごとに酒を供え、祈りを捧げるそうだ。


【 イナウ… 木幣(もくへい)。通常は、ヤナギを使用。ミズキや、キハダ(ミカン科)で作られたものは上等とされ、肌が白いミズキのイナウは天界で銀に、黄色いキハダのイナウは金に変るとされる。捧げる神によって種々の形がある。

一例をあげると、直径が3センチほどのヤナギやミズキの枝を採集し、70センチほどの長さに切り、皮を剥ぎ、乾燥させる。乾燥したら、表面を削り、先端部あたりにふさふさと飾りたらす。イナウ作りはアイヌの男性の大切な仕事とされ、イオマンテなど重要な祭儀には、泊りがけで集い、イナウを作成したという。】


また、アイヌには神官のような人は存在せず、成人男性であれば誰でもカムイへの儀礼ができなければならないという。一方、女性はふつう火の神以外には祈りを捧げられないそうだ。参加できない祭儀も多いようだ』。

Q、アイヌの信仰 X〔コロボックルと日本人の起源〕


翔『「コロボックル」ってアイヌの説話に登場する小人だよね』。


山崎『地面を50センチくらい掘って屋根をかけた竪穴住居に住むというよね。また、コロボックルとはフキの葉の下に住む人の意味で、フキの葉の下に2〜3人(10人とも)入れる大きさだそうだ。


漁が得意で、笹の葉を合わせて作った舟で漁に出て、多くの舟が力を合わせてニシンなどを捕り、クジラも捕るそうだ。北海道の原住民で、アイヌの家にやってきて物品を交換したりするという。


人類学者の 坪井正五郎〔1863〜1913・東大理学部教授。日本人類学会の創設者〕が、1887年(明治20)に「コロボックルは日本列島の先住民で、アイヌに追われた」と主張し、「日本人の先住民はアイヌである」(当時の主流の説)と主張した 小金井良精〔よしきよ。1858〜1944・東大解剖学部教授。日本解剖学会の創設者〕と激しい論争を展開したそうだ。


これを「コロボックル論争」「アイヌ・コロボックル論争」という。この論争によって、日本人の起源の研究が飛躍的に進歩したというよ。


小金井は、人骨の実証的研究から坪井の間違えを証明し、彼の「アイヌ先住民説」は、修正をなされながらも現在に至っている。つまり、アイヌは縄文人の血を最も直接的に引き継いでいるとみられている。沖縄の人たちも、縄文人の血を濃く受け継ぐ民族だといわれている。


しかし小金井は、縄文時代の先住民のアイヌは、弥生人(日本人)が海外から渡来したことによって、北へと追いやられたと考えたが、これはその後の研究によって、弥生人も基本的には縄文人に由来することが分り、間違えのようだ。


縄文人は、本州では、大陸から農耕文化が入ることによる生活の変化や、西からの遺伝的影響によって体質を大きく変えて弥生人となったが、北日本では、北からの遺伝的影響を受けながらも、漁猟採集を中心とした生活が続き、本州ほど体質を変化することなくアイヌとなったというのが現在の見方のようだね。


なお、縄文人は、2〜3万年前(後期旧石器時代)に、アジア大陸から陸橋を渡ってやってきたモンゴロイド系の集団が、海面が上昇したことで、日本列島に長期に亘って閉じ込められ、その結果、特殊化したものだというよ』。
http://shinri809.com/sono13.html



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4. 中川隆[-13578] koaQ7Jey 2018年11月12日 17:58:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20563] 報告

癌に効くアイヌの薬草
アイヌ民族の薬草

@原因不明の病気に冒された人(中川註 長井博さん)がいた。

その人は色々な方法での治療を受けたが効果が見られなかった。

そこでからはアイヌの産婆で治療も上手な不思議な霊能力のあるおばあさん(中川註 青木愛子さん)の治療を受けることにした。


その治療とは自然のリズムと一体になる生活を送るというものだった。

日の出前に起床、徒歩一分程の沢の湧き水で顔を洗い、散策する。

家に戻るとおばあさんが処方した煎じ薬を飲む。


それに用いられた薬草はキハダの実(シケレペ)と、フッキソウ(ユクトパキナ)が主であった。そして甚だしい苦痛が訪れた時にはおばあさんの先祖に当たる紙や水野神に祈りながら手当を行う。すると不思議にも苦痛は去るのだという。そのようにして彼は徐々に回復した。

彼の回復はすべての薬草のお陰とは言えないが、おばあさんのところへ来なかったら彼は死んでしまっていただろう。


Aアイヌ民族伝承の薬草で抗ガン剤を作ろうとのことで研究が進められている。

131種の植物のエキスを抽出し、培養した人の肺ガン細胞3種で抗ガン活性を検査した。3種類のガン細胞すべてに強い抗ガン活性を示したのは、ナナカマドやチシマアザミなど4試料。2種類に効いたのはオニシモシケなど2試料。1種類にも43試料が有効だった。しかし、植物の部位や獲る時期、場所によって効き目は全く異なるため、まだまだ研究が必要である。

※抗ガン活性=ガン細胞を殺す働き
http://www.hokuyo-h.kushiro.ed.jp/j/08/04/pair%20project/ainu.html


アイヌの薬草治療は、同じように風邪の症状を発症していても、その方達の身体を観て、薬草も同じものを与えなかった。 つまり、ほとんど同じ症状であるにも関わらず、使用する薬草は、それぞれにほとんど異なっていたそうです。

しかも、それほど時間をかけずに回復し、症状の部分の回復だけではなく、身体全体の体力が上がっていくのも同時進行だったそうです。
http://yumikosan.biz/column/column001.html


アイヌ民族の知恵 薬草に抗がん作用 道立衛生研と北大が共同研究班

北海道新聞 2004/03/24


★アイヌ民族の知恵 薬草に抗がん作用 道立衛生研と北大が共同研究班

 アイヌ民族が食料や薬などに用いてきた植物のうち、四十七種類に、がん細胞を殺す(抗がん活性)作用があることを二十三日までに、道立衛生研究所(札幌)と北大の共同研究班が突き止めた。

特に高い抗がん活性を示したチシマアザミとナナカマドについて活性物質を特定する分析作業を進めており、がん治療の新薬開発につながる可能性もあるという。

 抗がん剤開発では、植物などから抗がん活性のある物質を探す試みも盛んで、共同研究班は、アイヌ民族が薬などに利用してきた植物ならば、有益な物質を見つけられる確率も高いとみて二年前、研究を始めた。

 文献などからアイヌ民族が薬などに用いた百八十三種類の植物を選び、葉や根などの部位に分けてエキスを抽出。これを培養したヒトの肺がん細胞三種類にそれぞれを加え、がん細胞を死滅させるかどうかで、抗がん活性の有無を判断した。

 三種類のがん細胞すべてに抗がん活性を示したのは、アイヌ民族が薬に使ったというチシマアザミの葉と茎、解熱剤として使われたナナカマドの若葉、それにエゾノサワアザミの根とシャクの根。このうち抗がん活性物質がほかの研究者によって突き止められているシャクと、希少種のエゾノサワアザミの二種類を除いた二種類について、今夏ごろまでに活性物質の特定を終える予定だ。


アイヌの薬草で抗がん剤を 49種に効き目確認

 アイヌ民族伝承の薬草で抗がん剤をと、札幌市の北海道立衛生研究所と北海道大が、研究を進めている。既に49種の薬用・食用植物に抗がん活性(がん細胞を殺す働き)を確認。来年3月末までに物質を特定するが、新抗がん剤の誕生につながる可能性もある  

3種類の肺がん細胞すべてに強い抗がん活性を示したのはナナカマドの若葉、チシマアザミの茎など4試料。
 
アイヌは、ナナカマドをかゆや茶に入れて解熱剤に、チシマアザミはかっけ治療薬として服用した。ほかは下痢やせき止め、止血など幅広いが、植物を採る時期や場所で効き目は全く異なる。  

北大大学院の井上勝一助教授は「高齢者向けに穏やかで有効なものを開発したい」と話している。
2004/04/02 19:20 【共同通信】


薬草として知られるオニシモツケとクサノオウは二種類のがん細胞に、ハマナスなどは一種類のがん細胞に効き目があったといい、研究班は、これらのなかにも有望な活性物質が含まれている可能性があるとみて、今後、分析を行いたいとしている。
http://www.ikkando.com/saisin-jyoho/saisin-jyoho1.html
http://www.iph.pref.hokkaido.jp/Kankobutsu/Shoho/annual55/n02.pdf

幸霊 奇霊 祓へ給へ 清め給へ 守り給へ
幸はへ給へ 照らし給へ 導き給へ

掛けまくも畏き 伊邪那岐の大神  ◇       ミ ◇     祓へ給ひ清め給へと
筑紫の日向の橘の          ◇◇   / ̄| ◇◇.   まをすことを聞こし召せと
小戸の阿波岐原に        ◇◇ \  |__| ◇ ◇    恐み恐みもまをす。
禊ぎ祓へ給ひし時に           彡 O(,,゚Д゚) /.       
なりませる祓へ戸の大神たち       (  P `O      
諸々の禍事・罪・穢れあらむをば    /彡#_|ミ\    
                           

春からの贈り物 -行者ニンニクを採りに-
http://www.youtube.com/watch?v=pQFSAATJDAU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=qMMmyG5H81Q&feature=related

奥深い源流に生えるギョウジャニンニク
http://www.youtube.com/watch?v=KomsIsmJh6M&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=cpZGklBhz6g&feature=related

「行者ニンニクは生活習慣病の予防効果が高い」2009年2月18日(水) 10:40

先日とはまた別に農学博士 西村弘行教授よりいただきましたレジュメをここで紹介させていただきます。

今回も行者ニンニクの薬効のすばらしさが研究報告されています。

報告の中には、

•インフルエンザなどへの抗菌作用
•胃潰瘍や十二指腸潰瘍、ガンの予防・改善
•脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化症の予防効果
•血糖値を低下させる作用
•ダイエット効果
•高脂血症や動脈硬化、糖尿病、また脳梗塞から回復
•発ガン予防効果や各種のアレルギー症状の解消

など数多くの効能が報告されています。


北海道は薬効高い野草の宝庫
「行者ニンニクは生活習慣病の予防効果が高い」

北海道東海大学工学部教授 西村弘行


清冽な水と寒暖の差の大きい北海道は薬効高い野草の宝庫 

 春(といっても、北海道では三月の末ごろからですが)、山野で雪が融け始め、春の陽光がさんさんと地面を照りつけるようになると、これまで眠っていた野草が一斉に目を覚まします。北海道の冬は厳しいですが、北方系の植物たちにとっては事情が違います。冬の間は植物たちの多くが眠っていますから、雪の下の大地も眠っています。植物たちが眠り、大地も休息している間に土の中では微生物たちが活躍します。微生物たちは、秋に落ちた枯れ葉や枝を分解して土にかえします。この分解物こそが植物たちにとって最高の栄養源になります。

 雪の下のほぼ半年間、微生物たちによってこの作業が繰り返され、春の陽光で目覚めるころの大地は、たっぷりの栄養源とたっぷりの雪解け水とで大きくふくらんでいます。そこへ暖かな春の陽光が降り注げば、その温度で雪解け水が水蒸気化し、水蒸気の上昇とともに土がほぐされ軟らかくふっくらしてきます。これが微生物や陽光によって作られた滋養豊富な大地なのです。

 北海道は自然に恵まれ、植物の種類も多く、食べられる山菜がたくさんあります。私たちが食べるフキノトウ、カタクリ、ウド、モミジガサ、タランボ、行者ニンニクなどの山菜は香りが高く、各種の健康機能を持っています。

 牛肉や豚肉、卵、牛乳、お茶、野菜、果物…これらの食物は、人間が改良して作ったもので、本来ある野生の原種ではありません。山菜は数億年の昔から命をつないできた生命力あふれる気の強い食物です。「春の味覚」、山菜を食すことは健康を維持するばかりではなく、季節の食生活にうるおいを与えてくれます。

 北海道は野草の宝庫ですが、その中でも、人気度、味、薬理効果などの面からみても北海道を代表する野草で、まさに「健康野草の王様」行者ニンニクについてお話しましょう。


行者ニンニクの血液浄化、代謝改善作用はすごい!

 行者ニンニクはユリ科ネギ属の多年草で、その仲間にはタマネギ、ニンニク、ニラ、長ネギ、ラッキョウなどがあります。見るとスズランのような茎葉部の形をしており、根はノビルやアサツキの根に似ています。日本では北海道に多く自生し、修行僧、すなわち行者が隠れて食べては体力をつけていた…という逸話と、匂いがニンニクに近いことから「行者ニンニク」の名が付けられたといわれています。

 主要成分は各種の硫黄を含んだ化合物(含硫化合物)で、二次代謝産物として薬効が豊富です。まず、非常に強力な抗菌作用が判明しており、インフルエンザ、膣炎などの炎症を抑制あるいは防止する効果があるとされています。さらにアリシン及びアリシン由来の関連物質には、腫瘍細胞の増殖を抑制したり、アルコールによる胃粘膜の損傷を予防したりする効果があることが明らかになっています。

つまり、アリシンは細胞の再生に寄与し代謝を活性。胃潰瘍や十二指腸潰瘍、ガンの予防・改善に有効と認められています。アリシンから由来する成分、トルスルフィド類やビジルジチイン類も注目の生理活性物質でしょう。これら含硫化合物は、血液を濁らせる酸化型悪玉コレステロールや血栓の生成を抑制するなど血液の浄化作用に優れています。すなわち脳梗塞や心筋梗塞など動脈硬化症の予防効果が高いと考えられます。

 また、行者ニンニクの匂い成分である含硫化合物のなかには血糖値を低下させる作用を持っています。同じ薬効は行者ニンニク中に元々含まれる含硫アミノ酸にもあることが確認されています。

 さらにこれら含硫化合物には脂質代謝改善効果があり、行者ニンニクを食べることにより体脂肪の燃焼効果によって、運動持続性を増したり、ダイエット効果も期待されます。

 これは行者ニンニクの強力な血液浄化力を裏づけるエピソードなのですが、あるとき少年が行者ニンニクを十五本食べて鼻血をだしてしまいました。なぜかといえば、血液がサラサラとなり勢いよく流れすぎたため。そのときは、いや、さすがに行者ニンニク、もの凄い血液浄化力だと感心したものです。

 行者ニンニクは生でよし、煮てよし、焼いてよしの山菜です。お花見のジンギスカンに入れると最高ですが、食べる量は五本以下が最適です。これだけでも、かなりの効果が期待できるでしょう。事実、行者ニンニクをよく食べるようになったことで、高脂血症や動脈硬化、糖尿病、また脳梗塞から回復した例があると聞きます。また、免疫賦活活性や抗アレルギー活性が高いため、行者ニンニクを食べると発ガン予防効果や各種のアレルギー症状の解消に役立つケースも多いそうです。

 こうした薬効も二次代謝産物という北の大地からの贈り物があればこそ。「北海道の野草には薬となる成分がぎゅーっと詰まっている」との評判から、近年、行者ニンニクを筆頭に北の野草の病理学的研究や機能性食品の開発が盛んです。新たな「薬食同源」の供給地として、今後、北海道への関心、注目が高まることは間違いありません。
http://www.mytokachi.jp/ktpr/entry/8


西村弘行

 私とギョウジャニンニクとの出会いは、1969(昭和44)年4月に北海道大学農学部農芸化学科の助手として札幌に赴任して以来でした。

 私には、神奈川県で寺の住職をしている叔父がいまして、その叔父は俳人でもあり全国の文学者とお付き合いがありました。その叔父から、北海道へ行くならと、今は亡き詩人・アイヌ民族研究家の更科源藏氏を紹介いただいたのです。

 更科先生は、私が植物学を勉強していることを聞き、アイヌ民族の植物に対する考え方などを詳しく話してくださいました。

 私は感動し拝聴しましたが、アイヌ民族が食用にする珍しい野草にひかれました。「アイヌネギ」と言っていましたが、どんな野草なのかわかりませんでした。さっそく大学の図書館へ行って牧野富太郎先生の植物図鑑で調べました。しかしその時は、その野草の実態がわかりませんでした。

 結局、山菜の本で調べたところ、正式な名称を「ギョウジャニンニク」ということがわかりました。その名の由来は、昔、修行僧である行者たちが雪解けの頃、山野で修行中にこっそり食べて体力をつけたといわれており、行者が食べるニンニクに近い匂いのする植物にちなんで、牧野富太郎先生が付けられたのだそうです。

 このようにしてギョウジャニンニクと出会った私は、その後もギョウジャニンニクを中心に、北海道に自生する薬効性のある植物について研究を続けてきました。1986(昭和41)年には、北大農学部の八鍬利郎名誉教授を会長に、私と北大付属農場の中嶋博教授が事務局を担当し、「ギョウジャニンニク研究会」を発足しました。その二年後に、広く北海道内に自生する薬効性のある野草、あるいは北方冷涼地域に適した外来作物についても扱うことにして、名称を「北方系機能性植物研究会」に変更しました。

 この「北方系機能性植物研究会」は、超高齢化社会を迎える今日的状況から、一般消費者が望む「安くて」「安全で」「おいしい」健康維持食品の開発が大きな課題になるという視点で、産学官が総合的に取り組んでいるものです。北海道の一次産業にどう付加価値をつけるか、生産者と加工業者が一体となった一・五次産業の確立に貢献することを目的としています。

 さて、北海道は自然に恵まれ、植物の種類も多く、食べられる山菜がたくさんあります。一説によると、その種類は600種以上あるだろうと言われ、現在はそのうちの一割弱40〜50種類ぐらいは食べているようです。

 このように豊富な野草の中で、北海道を代表する山菜はどれかと問いますと、北海道の人たちなら、ためらうことなく「ギョウジャニンニク」と答えます。

 ギョウジャニンニクは数ある野草の中でも、人気度、味、薬理効果などの面からみても、北海道を代表する健康野草で、まさに「健康野草の王様」といっても過言ではありません。

 ギョウジャニンニクの薬効をあげていけば、まず脳梗塞・心筋梗塞などの動脈硬化症の予防です。血液をサラサラにしたり、血管を丈夫にする働きがあります。中性脂肪・コレステロールの低下、血糖値の上昇を抑制する効果も明らかになっています。

 これは、臨床実験でも明らかで、毎日100gのギョウジャニンニクを食べさせて3日おきに採血して検査したところ、抗酸化力が高まっていました。動脈硬化症の予防だけでなく、一度こうした病気になった人の病後食としてもいいでしょう。

 ギョウジャニンニクの主要成分は、におい成分のもとになっている含硫アミノ酸で、特に量的に多いのが、エネルギー代謝に重要なアリインです。含硫アミノ酸のアイリンは、酵素アリナーゼの作用でアリシンが作られ薬理活性物質に変化していきます。アリシンは強い抗菌作用があり、その抗菌性によって肺結核、インフルエンザなどを防止する効果があるとされています。

 さらにニンニクやギョウジャニンニクのがん予防効果が注目されています。新鮮なニンニクには、胃がんに対する予防あるいは胃のがん細胞の増殖を阻害することが科学的に明らかにされています。アリシンをはじめとした硫化アリル類が、発がんを予防したり、がん細胞の増殖を抑えることは、さまざまな研究によって報告されています。

 昔から言われている疲労回復・滋養強壮作用は、ビタミンB1と結合することによってさらに効果が高まるので、肉や卵と合わせるとさらに効果を持続させます。
 滋養強壮はもちろん、がんの予防・抑制にも効果があるギョウジャニンニクは、まさに驚異の野草といえるでしょう。
http://www.genki-e.jp/prevention/prevention03.html


行者にんにく(キト、プ草)

『キトは食糧、背骨といってトゥレプと共にアイヌにとって大事な食べ物です。

体にとにかく様々な効能効果があります。
虚弱体質の方にはたくさん食べさせます。
また風邪薬にもなるし、便秘、脚気、肺病、なでも効ききます。

山のものは神さんが人間のために地上に降ろされた食べものであり、薬なんです。だから神様に感謝して、食べる分だけいただき、 また来年もここに授けてくださいってお祈りして、根は必ず残して撮るんですよ。』

日当たりのよい斜面のキトは、太くておいしいのです
生で食べたり子のみの長さに切って おハウ(お汁)にいれ、塩味で食べます
青葉のない冬の保存食としても最高です。

クキが少し固くなった五月の下旬〜六月にかけて花も葉も根元から一緒に大量にとり、洗わずにザクザクと1.5cmくらいに刻みます
1.5cmぐらいに切ったキトを乾燥させてサラニャにいれてブに蓄えておきます
起用するときはざるにいれて一晩水につけて戻し、おハウに放つのです

またご飯を炊いたとき後に上にのせ、まぜるときに熊の油をいれるのはイオマンテに欠かせない大御馳走なのです

キトは別名プ草と呼びますが、キト、キトビロは北海道北部および樺太でのことですが、日本語でいう『祈祷びる』からきているともいわれています

また、和名を『行者にんにく』となづけたのは植物学者牧野富太郎博士で、行者が荒行に耐えるため食べたと解するのかもしれません

キトの別名フラルイキナ(烈しい匂い)とは独特のにおいのあるところから来ています。実際のこれを食すると2日間はニンニク臭の強烈版の匂いで周囲の方を圧倒してしまいます。

アイヌの人々は、キトの強くて烈しい刺激臭に病魔も近づけぬと信じ、伝染病が流行したときに、必ず戸口や窓につるしたのです

癌予防、冷え、感染症予防にとても効果があると言われています。

今回のアイヌ薬草採りで、死ぬ思いをしたのは、このキトの群生がほとんど断崖絶壁にあるためだったのです
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/11-a586.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/12-7d9b-1.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/13-df85.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/14-fad7.html
http://wagoiryou.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/15-5023.html


行者にんにくのレシピ 210品
http://cookpad.com/search/%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%8F

ギョウジャニンニクの選び方と保存方法や料理
http://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/vegitable/Gyoujyaninnniku2.htm

行者にんにく ネット販売


【楽天市場】 行者にんにく
http://search.rakuten.co.jp/search/mall/-/%E8%A1%8C%E8%80%85%E3%81%AB%E3%82%93%E3%81%AB%E3%81%8F-304653/p.1-s.1-sf.0-st.A-v.2


北海道下川町近郊産天然行者にんにく のーすもーる北海道の森
天然行者にんにく(アイヌネギ)
500g入 3,080円(税込・配送料無料)
http://www.northmall.jp/ainunegi/index.htm

行者にんにく  300g
2,400円 消費税込・送料別
http://www.sansaiya.com/sansai/gyouja.html

単価 4000円/1kg
http://www.sansaikinoko.com/ninniku-index.html


ぷくさ 行者にんにく焼酎 標茶町 By酒匠&北海道ソムリエ 鎌田孝
http://www.youtube.com/watch?v=KkKyZxQ9QUs


乙類焼酎 ぷくさ
原材料:米、米麹、行者にんにく
内容量:720ml
定 価:1,575円税込(送料別)


北海道標茶町産
行者にんにく(冷凍)
1パック(250g入真空パック)
定価:1,400円税込(送料別)
※時期により商品の無い場合がありますので、ご注文の際にご確認ください。


ご購入方法は電話・ファックスにてお問い合せ下さい。

(株)小野商店
〒088-2301 北海道川上郡標茶町旭2丁目2番5号
TEL 015-485-1345
FAX 015-485-1346
http://www9.plala.or.jp/pukusa/pukusa.html
http://www9.plala.or.jp/pukusa/gyoujya.html


強烈!行者にんにく焼酎「ぷくさ」

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「行者にんにく」は臭くて苦手と言っても我慢!(笑)
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札幌市白石区南郷通15丁目北6-18 TEL 011-864-3131
製造元:落合酒造 宮崎県宮崎市大字田吉348 TEL 0985-51-6636
http://dosyocyu.exblog.jp/7554728


エント茶 ネット販売 宮本酋長売店

アイヌの人たちが日常お茶のように飲んでいた薬草茶です。

日常のお茶や粥の香り付けにも使われていた薬草で、解熱や発汗、利尿作用があるとされ、風邪や二日酔いの薬としても効果があると言われています。

アイヌの人たちは山猟や沖漁に行く時、徳利の栓をこの茎ですると何日たっても水の味が変わらないということで利用していました。


エント茶 540円
原材料 シソ科のナギナタコウジュ(アイヌ語で”エント”)
内 容 ティーパッグ10個入り(説明書付)
http://www.shiraoi.net/net-shop/91_161.html


アイヌ伝統食研究グループ・ポロトの母さんの会 代表 大須賀るえ子さん(北海道食づくり名人)により、”キハダの実のクッキー”と”エントのミルクティー”づくり、また、昔話風にアイヌの食文化について語られました。


”キハダ”は、落葉広葉樹の高木です。

黄色い内皮は黄柏と呼ばれ、苦味のある健胃整腸薬として古くから有名ですが、アイヌも多く利用してきた重要な植物の一つです。

写真上がエント、下の黒い実がキハダの実

”エント”はナギナタコウジュ(シソ科の植物)のことで、解熱や発汗、利尿の効果があることから、風邪や二日酔いの薬として全草を煎じて飲むほか粥に炊いても食べたという。また、強い臭いが病魔を遠ざけると考えられていました。


エント茶はハーブティーのようでとても香りがよく、美味しいお茶で、来会されるお客様にも好評です。

昨年の我々の観光商品モニターツアー時にも、ポロトの母さんの会のエント茶とおにぎりが振る舞われましたが、おにぎりもエントで炊いたもので、絶品でした。
http://ameblo.jp/shokokai-shiraoi/entry-10057856143.html

詳細は


『アイヌの食事・アイヌの自然療法』

食物によし悪しなし! 柴田流健康長寿の14か条  健康リスクを回避する、食肉生活のススメ (PRESIDENT )へのコメント  
http://www.asyura2.com/09/health15/msg/550.html


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

5. 中川隆[-13577] koaQ7Jey 2018年11月12日 17:59:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20563] 報告

アイヌの食文化


今の日本では、お金を出しさえすれば、世界中のどんな食べ物でも手に入れることができます。しかし私たちの置かれた環境に感謝し、そこから得られる糧に満足して生きてきたアイヌの人々の暮らしと、 今の暮らしを比べると、アイヌの人々の暮らしのほうがずっと豊かであったのではないかと思えます。

ここでは、アイヌの人々の食文化をご紹介したいと思います。

アイヌの食文化


アイヌの人たちには、主食にあたるものはありません。

一汁一菜といえば、和食であれば汁物・おかず1品にご飯ですが、アイヌ料理では、そのまま汁物1品とおかず1品のことを指します。お米は日常食ではなく、儀式の際に大量に使われるおさけを作るための大切な材料として利用されていました。


神(カムイ)の自然と生きる生活


アイヌの人たちは自然のすべてのものを、神(カムイ)としてあがめ、日々信仰の中に生きてきました、したがって儀式に欠かせないお酒は大変貴重なものでした。
その原料となる米も大変大切にされ、普段の食を満たすために使われることはほどんどありませんでした。

食事の回数は1日に2〜3回、で季節や労働の内容によって変わることもありました。

アイヌの人たちにとって、大地は神(カムイ)の肌であり、大地にはえている草や木は神の衣服にあたります。むやみやたらと木を切り倒したり、大地をけずって畑を耕すということはしませんでした。

農耕をおこなわなくとも、ふんだんにある自然の木の実や植物を自分たちが必要な分採取し、食していたのではないかと思われます。

厳しい北海道の自然の中で生き抜く食の知恵


厳しい北海道の気候のなかで生活していたアイヌの人々は寒さに大変強い民族だといわれています。 冬の期間、ビタミンなどの補給に必要な植物の補給ができません。そのためアイヌの人々は、タラなどの魚の肝臓から「魚油」をとり、保存食として利用していたようです。

「魚油」はビタミンを大量に含む優れた栄養食品であり、植物が採れない期間、利用されていたようです。

その他に、ビタミンが豊富ですぐに熱に変わる脂肪をたくさんとっていたこと、
細ンしておいた山菜をふんだんに使っていたこと、そして何よりも、食事は大変うす味で、減塩食だったことがきびしい冬も元気に過ごせた理由だといわれています。

アイヌの食の紹介


チェプオハウ(魚汁)


アイヌの人たちには、私たちのご飯やパンのような 「主食」にあたるものはありません。

一汁一菜といえば、和食であれば汁物・おかず1品にご飯ですが、アイヌ料理では、そのまま汁物1品とおかず1品のことを指します。

お米は日常食ではなく、儀式の際に大量に使われるお酒を作るための大切な材料として利用されていました。
http://www.town.shiraoi.hokkaido.jp/ka/sankei/syokuzai/ainu.html#ainu2

オハウ ohaw(煮込み汁)

獣肉や魚肉、山菜、野菜を鉄鍋で煮込んだ汁物。単なるスープに留まらず、鍋料理とも言えるほど具沢山の汁物で、「主食」が存在しない狩猟・漁労民族であるアイヌの食生活の中心を成す料理だった。現在、北海道の郷土料理として名高い石狩鍋、三平汁の起源とも言われている[2]。

具材に特に決まりはないが、大体以下の様な方法で調理される。


1.鍋に水を張り、獣骨や小魚の焼き干しを入れて火にかけ、出汁を取る。

2.大まかに切り分けた肉、魚を入れて煮る。乾肉、乾魚の場合は時間をかけて煮る。この際、アクは取り除かない。

3.野菜は根菜などの煮えにくいものから入れ、つぎに繊維の多い山菜、そして葉物野菜を入れる。それらが柔らかくなるまで煮込む。

4.動物性脂肪、魚油、少量の塩で味を整え、最後に風味付けとして焼き昆布の粉末、乾燥させたプクサ(ギョウジャニンニク)をふりかける。


※肉のアクが気になるようであれば、後から入れる野菜や薬味に吸わせる。


中心となる具材からそれぞれ

「チェプオハウ」(cep ohaw 魚汁)、
「カムオハウ」(kam- 肉汁)、
「カムイオハウ」(kamuy- 熊汁)、
「キナオハウ」(kina- 野菜汁)

などと呼ばれていた。ニリンソウは汁と相性が良いため「オハウキナ」(ohawkina 汁の草)と呼ばれ、具材として特に好まれていた。

ラタシケプ rataskep(野草による煮物や和え物)
直訳すれば「混ぜたもの」。山菜や野菜、豆類を柔らかく汁気が無くなるまで煮込み、軽く潰してから獣脂、魚油、少量の塩で味を整えた料理。 日常食としても作られるが、儀式の供物や振る舞いには欠かせない、ハレ食である。


使用する材料によって限りない種類がある。


シケレペキナラタシケプ sikerpekina rataskep
乾燥させたシケレペキナ(ヒメザゼンソウ)を湯で戻してから、弱火で数時間、汁気が無くなるまで炊く。食べやすい大きさに刻み、獣脂と塩少量で味を整える。


プクサラタシケプ pukusa rataskep
豆を柔らかくなるまで炊き、プクサ(ギョウジャニンニク)の茎を加えてさらに炊く。獣脂と塩で味を整える。 チスイェラタシケプ cisuye rataskep 初夏に採集したチスイェ(アマニュウ)で作る。豆を炊いて柔らかくなったところにチスイェを加えてさらに炊き、獣脂と魚油で味を整える。


かぼちゃラタシケプ kampoca rataskep
豆を柔らかくなるまで炊き、切干にして保存しておいた南瓜を水で戻して入れ、さらに炊く。南瓜が煮崩れたところで、塩と魚油で味を整える。香辛料としてシケレペ(キハダ)の実をふりかける。


チポロラタシケプ cipor rataskep
「チポロイモ」とも呼ばれる料理。馬鈴薯は皮ごとゆでる。別の鍋にチポロ(筋子)を入れ、弱火で潰しながら半煮えにする。茹で上がった馬鈴薯は皮をむいて厚切りにし、先ほどの煮えたチポロを入れ、塩を加えてよく混ぜる。


ニセウラタシケプ nisew rataskep
ニセウ(どんぐり)は殻を取り、渋皮つきのまま数回ゆでこぼしてアクを抜く。ここにあらかじめ水戻ししておいた豆を水と共に入れ、沸騰したら煮汁を捨てる。再度水を注いで全体が柔らかくなるまで煮込み、玉蜀黍の粒を入れてさらに煮る。好みの柔らかさになったら米の粉を入れ、全体を練り上げる。塩と脂で味を整え、出来上がり。


サヨ sayo(粥)

ピヤパ(稗)やシアマム(米)で炊いた薄い粥。大抵は穀物のみで炊かれるが、山菜などを炊き込む場合もある。農耕民族のような「主食」としての粥ではなく、脂こい汁物や焼肉、焼き魚で腹を満たしたのち、「口直し」として茶のようにすすられるものである。そのため脂気が混じらないように、それ専用の小鍋で炊かれる。盛り付けの際も、掬うカスプ(お玉杓子)は汁用とは別のサヨカスプ(粥杓子)を用い、汁の味が混ざらないよう気を配った。


このサヨには、以下の種類がある。


トゥレプサヨ turep sayo
トゥレプ(オオウバユリ)から澱粉を採集した際の澱粉滓を醗酵させた保存食オントゥレプ(on turep)を入れた粥。まず硬く乾燥したオントゥレプを臼で搗き砕き、水で戻す。水の沈殿物で直径3センチほどの団子を作り、稗の薄い粥に入れてさらに炊く。

トゥレプの球根の鱗茎を入れた粥も、同じ名前で呼ばれる。


イルプサヨ irup sayo
オオウバユリのイルプ(澱粉)を団子にして入れた粥。


エントサヨ ento sayo
山菜の一種であるエント(ナギナタコウジュ)を入れた粥。独特の香気が好まれる。


サッシラリサヨ satsirari sayo
トノト(どぶろく)を作ったときにできるシラリ(酒粕)を、粥に入れる。


キキンニサヨ kikinni sayo
キキンニ(エゾノウワミズザクラ)の皮を入れた粥。


チポロサヨ cipor sayo 米で粥を炊き、チポロ(イクラ)を入れる。生イクラを使ったチポロサヨは、秋にしか食べられないごちそうである。それ以外の季節は、サッチポロ(sat cipor 乾燥筋子)を入れた粥を作る。

シト sito(団子)


チセ内部に飾られた漆器類。儀礼の際はシトやトノト(どぶろく)を盛り付ける。(北海道開拓記念館)

団子。名称の「シト」は、大和言葉でペースト状にすりつぶした生の穀物や団子をさす「しとぎ」と同系統とされている[1]。かつて穀物の精白や製粉を臼による手作業でこなしていた時代は、その手間ゆえに贅沢な食品。日常の食品としてよりも、イオマンテ(熊送り)やイチャルパ(祖霊祭)その他、ハレの日の供物やご馳走して作られることが多かった。


材料はメンクル(黍)、ムンチロ(粟)、シアマム(米)。時代が下がればエモ(馬鈴薯)、カンポチャ(南瓜)も材料として加わった。日本の草餅と同じく、ノヤ(ヨモギ)を混ぜ込んだ「ノヤシト」も春の味として好まれていた。


作り方は以下の通り

1.精白された穀物を一晩水に漬ける。水から上げたのち、一晩水を切る。

2.穀物を臼に入れ、数人でイウタウポポ(杵搗き歌)を唄い調子を取りながら搗いて粉にする。

3.出来上がった粉を湯で練上げ、直径7、8センチ、厚さ1センチほどの大きさに丸める。

4.大鍋に沸かした湯で、鍋底に焦げ付かないように注意しながら茹で上げる。


茹で上がったシトは、供物にするならばそのままシントコ(sintoko 漆塗りの桶)、パッチ(patci 木鉢)、オッチケ(膳)に盛り付けるか、ミズキの串に刺した巨大な串団子「ニッオシト」にして神前に捧げる。

人間が食べる際は、チポロ(イクラ)を半潰しにしたものか、焼いた昆布を砕き、脂で練ったタレをつける。

チタタプ citatap(肉や魚のたたき)

チタタプというアイヌ語を訳すれば、「チ・タタ・プ」(ci-tata-p 我々が・たくさん叩いた・もの)。その名の通り、魚のたたきである。


以下は、代表的な作り方。

1.鮭のアラ、頭、白子をイタタニ(丸太を輪切りにして作った俎板)に乗せ、鉈のような重みのある刃物で刻み、叩く。

2.ペースト状になるまで叩いたら葱、メンピロ(ノビル)、プクサ(ギョウジャニンニク)のみじん切りを薬味として加える。

3.焼き昆布と塩で味を整える。


鮭以外でも、スプン(ウグイ)、ウッタプ(カスベ)、イチャニウ(マス)、チマカニ(カジカ)などあらゆる魚、さらにユク(鹿)、キムンカムイ(ヒグマ)、モユク(狸)、イソポカムイ(兎)、さらにルオプ(シマリス)などの獣肉も刻んで薬味を加え、チタタプに加工された。老いた獣の肉は固いことが多いので、チタタプに加工すれば食べやすい。


これらのチタタプの鮮度が落ちた場合は、つみれのように汁に入れる。


イオマンテ(iomante)の際は、熊の脳のたたき、「チノイペコタタプ」が作られる。

材料は熊のほほ肉、脳味噌、葱、塩。儀式で飾り付けた熊の頭から脳味噌を取り出し、あらかじめゆでて刻んだ熊の頬肉と混ぜる。薬味として葱を効かせ、塩で味付けする。熊送りの際しか作られない貴重な料理なので、量も少ない。儀式を司るコタンの有力者から、掌に直に下賜される[2]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%96%99%E7%90%86


40. 2012年9月22日 15:38:29 : IXP8eKUhLM
朝は食べない=> まだ体が排出の準備をしているから。
おなかがなるまで食べない=> それが本当の体のサインだから。

自炊・粗食をつづける=> そのほうが体が元気になるから。

日本食を見直す=> 田舎の本物の味と本当に元気な老人たちを知っているから。

体の芯を強くして、体をいつも動かす=> ご飯を本当においしい、ありがたいと感じるから。

自然と触れ合う=> 自然の大切さが食の大切さを教えてくれるから。

早寝早起きをする=> 太陽と月が体のリズムを支配しているから。

笑う=> 心が疲れていると体は元気になれないから。

41. 中川隆 2012年9月22日 15:49:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


アイヌ民族の「食」


かつて、アイヌ民族の暮らしを支える営みは、森や川、海などの自然を基盤とした狩猟、漁労、採集、農耕であり、それで得た産物を使いおこなわれた交易でした。
季節を通して暮らしに必要なものを入手します。

北の地に長い冬が終わりを告げるころ、森では雪解けの水をたっぷりと吸い込んだ木々が芽吹き、ギョウジャニンニクやニリンソウ、フキなどの山菜を採り、川ではイトウ漁がはじまります。

森の緑が濃くなる頃、畑にはアワやヒエを蒔き、初夏、オオウバユリの鱗茎からデンプンを採取する。真夏の沖ではメカジキ漁、川ではマス漁がおこなわれます。

秋、川では遡上する鮭を迎える祈りとともにサケ漁が解禁され、森ではキハダやクルミなどの木の実やきのこを採取しました。

一面を雪に覆われる冬は山猟の季節、シカやキツネ、テンなどを追い、それらの良質の毛皮は交易品としても利用されてきました。


「かつて」という時間は結構あいまいでひとりひとり微妙にイメージする時代が違います。例えば100年とか150年前のことなのか、つい10年前のことなのか、個々の時間軸の捉えかたでイメージされる時代はさまざまです。しかし、アイヌ民族の文化を紹介する様々な冊子やインターネットなどで得られる情報の多くが、上記のような生活でありますが、これは現代のアイヌの人々の生活ではなく、いわゆる私たちアイヌ民族にとって一番身近な伝統の時代の文化なのです。

食に関していえば、食材も豊富で、和食からフレンチ、イタリアン、中華などいろいろな食文化に溢れた時代現代であるにも関わらず、ことアイヌ民族の食文化に関しては、ある一定の時代の枠のなかに閉じ込めた、今なお何の変化もしていないかのようなイメージで語られることは少なくありません。

文化を考える時、その時間軸を外してしまうことでさまざまな誤解や偏見を生むことがあるので気を付けたいものですね。


(1)料理のアイヌ語名

・オハウ(ルル) 汁もの

アイヌ料理の中で一番ポピュラーというか基本的なメニューに「オハウ」や「ルル」と呼ばれる、塩と油(脂)で味付けをした、具のたくさん入ったスープがあります鹿肉を使ったものは「ユク(鹿)オハウ」「ユクル」、山菜がたくさん入っているものは「キナ(野草)オハウ」、「キナルル」などと呼ばれます。


・ラタシケプ(ボツボツ) 煮込み?あえもの?

山菜類、野菜類や豆類などからつくる料理で、数種類の材料を混ぜ合わせて煮るものが多く、味付けには油脂や塩が用いられます。ほとんど汁気のない料理で、「オハウ・ル(汁もの)」「サヨ(粥)」「チサッスイェプ(ご飯)」以外の料理のほとんどが「ラタシケプ」に相当します。

ラタシケプ種類も多く、その素材は地域や家庭によっても違いがあります。日常食として食べたり、儀礼など祭事のごちそうとしてもつくられます。

・ その他 ・チタタプ(たたき?) ・サヨ(粥) ・シト(団子)

・チサッスイェプ(飯) ・ルイペ(解けるもの) ・フイペ(生のもの)他
(2)調味料について(甘み、しょっぱみ、酸味、からみ、薬味)

・油=脂:タラ、イワシ、サメ、アザラシ、シカ、クマ、※(甘いもの)

・海水(を使用したという事例もあった)、

・塩

・昆布、魚の焼き干し、骨、※(だしをとる際に多く使われる)

・植物=キハダの実、チョウセンゴミシ、ヒメスイバ、サンショウ、ヤマブドウ
ヒメザゼンソウ、ミツバ、ギョウジャニンニク、ナギナタコウジュ等々)

・その他 樹液(イタヤカエデ、クルミ、樺)
みそ、しょうゆ


(3)スム(油)

アイヌの料理に油は欠かすことのできない調味料のひとつです。甘みをだすために使われるほか、ビタミンが豊富なので栄養のバランスやエネルギー源としても大切なものです。陸獣、海獣、鳥、魚など植物以外のいわゆる動物性の脂(油)が使われました。油の常温での形は、固形、液体のものがあります。


●魚油の形状:常温で液体。

魚油の種類:イワシ油、ニシン油、タラ油、サメ油、マンボウ油
油の採取:


@肝臓だけを煮る。空鍋に肝臓を入れじっくり焦げないように弱火で煮る。脂分がしみだしたら、ザルや晒布などで濃す。何度か繰り返すことできれいな油が取れる。

A湯を沸かした鍋に肝臓を入れ煮る。油が浮いてきたら、上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。

B魚全体を鍋で煮る。油が浮いてきたら上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。


●陸獣油の形状:常温で固形、又は半固形

油を採る陸獣の種類:クマ、シカ、タヌキ、

油の採取:

@ 脂身だけを煮る。空鍋に薄切りにした脂身を入れ、焦げないように
火にかける。油分がしみだしたら、別容器にとる。

A湯を沸かした鍋に骨(骨は割って髄が溶け出しやすいようする)や脂身などを入れ煮る。油が浮いてきたら、上の部分を杓子ですくい、息を吹きかけながら油と水分をわける。


(4)食材の確保について

・狩猟 ・漁撈 ・採集 ・農耕 ・交易

※江戸時代すでに栽培されていた作物
粟、稗、黍、麦、大豆、小豆、などの雑穀及び豆類
蕪、ジャガイモ、大根、葱、カボチャなどの野菜類
※移入品 米、塩、みそ、糀 等


(5)食材の保存法

@乾燥 (茹でて乾燥、焼いて乾燥、生で乾燥、発酵させて乾燥、寒干)
A燻製 (乾燥に関連する)
B塩蔵 ほとんどされなかた
C冷凍 冬の一定期間
D土に埋ける 冬の一定期間(凍れないよう)


例えば:

肉の保存 茹でて乾燥
魚の保存 寒干、焼いて乾燥
山菜の保存 生で乾燥、茹でてから乾燥、醗酵させて乾燥
木の実の保存 生のまま乾燥
穀類の保存 乾燥
根菜類 乾燥、凍れさせて粉にして乾燥
油の保存 海獣や陸獣の内臓(胃、膀胱 など)


・当日のメニュー

1)チェプオハウ(鮭のスープ)
2)チマチェプ(焼き鮭)
3)メンクルチサスイェプ(イナキビご飯)
4)ペネコショイモ(凍れ芋)
5)エントウセイ(ナギナタコウジュのお茶)


・チエプオハウ(魚汁)の作り方

材 料:・サケ ・ジャガイモ ・大根 ・昆布 ・人参 ・長ネギ ・他山菜
・ギョウジャニンニク ・塩 ・タラの油

作り方

1)大根、人参、ジャガイモは皮をむいて適当な大きさに切り、鍋に入れて煮る。

2)野菜が煮えたらサケを適当な大きさに切って入れる。この時、肝臓などがあれば一緒に入れる。

3)サケが煮えたら塩と油で味付けする。(内臓が入る場合は油をあまり入れなくてよい。)

4)昆布はカリカリに火にあぶって揉み砕いたものを入れ、乾燥したギョウジャニンニク、ネギも鍋に入れ、蓋をして蒸す程度にさっと煮たせて出来上がり。


・メンクルチサスイェプ(イナキビご飯)の作り方

材 料:・米 ・イナキビ ・塩 ・油

作り方1)米とイナキビをといで、塩、油を適量いれて炊く。

※水量はふつうにご飯を炊くよりも少し多めが良い。


・ペネコショイモ

材 料:・ペネコショイモ ・片栗粉 ・砂糖 ・塩 ・油


作り方

1)冬の間外で凍れさせたジャガイモを乾燥させたペネコショイモを水にもどし、何度か水を取り替え、晒しの袋などに入れ水切りをしておく。

2)水切りをしたペネコショイモに、片栗粉を混ぜて練り、砂糖と塩で味を調え適当な大きさの団子にし、フライパンに油をひき、焼く。

http://www.coleman.co.jp/event/winter/bbw_0903.pdf?PSID=o3jdhodr7852t7umu9quo1j6h6


42. 中川隆 2012年9月22日 15:53:52 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


2010.2.12 アイヌの伝統食をまるごと体験!オントウレプ食べてみよう 


昨年7月に手稲山でオオウバユリの根を採取し、みんなでデンプン作りをしました。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2009-11-13-5


オオウバユリのアイヌ語名を「トウレプ」といいます。デンプンをとったあとのオオウバユリの根の繊維を発酵させ、乾燥させたものを「オントゥレプ」といいます。アイヌで保存食として利用されていました。

今回も安田千夏さんに講師をお願いしました。


「昔のアイヌの冬の暮らし」についてクイズを交えてお話いただきました。つくづくアイヌは究極のサバイバル術のエキスパートだと感心するエピソードばかりでした。アイヌの男性のたくましさは素敵だなあ〜〜とうっとり・・・なかでも「クマにであったらどうするか?」の本の紹介とエピソードはびっくりでした


このドーナツ型の物体が繊維を発酵させたものです。これから乾燥させるのです。


実は乾燥させたものは3個あったのですが、(かちかちに乾燥したものはなんとも動物の糞のようないでたちなのですが)2個紛失してしまいました。これは乾燥したものを細かく削っているところです。


本当は削ったものを水に浸しておくとボウルの底にデンプンが沈殿するのです。それをスプーンなどでお粥に落とすとトゥレプサョ(ウバユリ粥)になる・・・はずでした・・

1個では少なすぎてデンプンは取れなかったので今回は急遽、イナキビ入りのお粥、アイヌの人が食べていた「魚の汁」(チェプオハウ)と「シバレイモ」(ペネコショイモ)団子をつくることになりました。


「魚の汁」(チェプオハウ)です。今回は鮭を使用した三平汁です。鱈なども内臓ごと使っていたようです。

当時、塩は交易で手に入れなければならなかったので貴重だったようです。実際食べていたものはかなりの薄味だったようです。私達は現代風にアレンジしたいただきました。ポイントはギョウジャニンニク」(プクサ)とあぶった昆布を砕いていれるところです。


調理風景です。


これが「シバレイモ」(ペネコショイモ)です。真冬に外に出しておき凍ったジャガイモを水で何度もアクだししたものです。みなさん少し凍ってしまったジャガイモを食べたことがありますか?すこしクセのある匂いがします。

あんな感じです。


砂糖を少し加えて団子状にしてホットプレートで焼きます。これはとても美味しかったです!もちもちっとしていて焼くと香ばしくほんのり甘く・・また食べてみたいです。


完成しました


いただきま〜〜す

前回のオオウバユリの採取から7ヶ月、採取→加工→調理の過程をみんなで学ぶことができました。

昔のアイヌの人たちは食べ物を粗末にすることなく最後の最後まで智恵をしぼり使い切る究極のエコの精神を持っていたんだなあ・・と尊敬します。そして食べ物になる植物の子孫が絶えることがないようにルールをつくって採取していたことも学ぶことができました。自然、食べ物、いのちに感謝する気持ちが自然にわきあがってきます。

いのちを身近に感じ、感謝し生きていきたいです。
http://teinesato.blog.so-net.ne.jp/2010-05-07


43. 中川隆 2012年9月22日 16:07:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


アイヌの人々は肉を食べる場合には動物の新鮮な内臓を例外として、生で食べることはあまりありませんでした。

肉を食べる場合にはほとんどの場合、汁ものに入れて煮たものや焼いたものを食べていました。

魚類を食べる場合には串に刺したものを焼いて食べたり、天日などで乾燥させたりしたものを汁ものに入れて煮たものを食べていました。獲ったサケを冬期に屋外で凍らせてそのまま食べることもありました。


ラタシケプは山菜や蔬菜、豆類などを汁気が無くなるまでしっかりと煮込んで魚脂や獣油、海水などを使って味付けを施して鳥獣肉、魚肉は使いません。

カッコウの初鳴きを合図として、一年分の山菜を採って乾燥させて収蔵し終えたところに、夏がやってきて畑仕事が始まります。昔のアイヌには稲作は行われていなかったのですがアワやヒエあるいはイナキビのような穀類と豆類、蕪などを昔から栽培していました。

山の物ではヤマブドウやクロミノウグイスカグラ(ハスカップ)のような果実は生で食べましたが、山菜類は魚や肉などと一緒に汁に入れて煮込んだり、お粥やご飯などと一緒に炊いたりして食べるものでした。

雑穀類を焚いたチサッスイェプや雑穀類を焚いて焦がして作ったスウケプ、シト(団子)などはイオマンテのように大きな儀礼の時に食べられる特別料理であって祖先や神々も一緒に食べて、楽しむとされていました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/


アイヌ語でオハウもしくはルルという魚や鳥獣肉、山菜などの具が沢山入った汁ものを主食としていました。

入れる材料によって多くのバリエーションをもっています。

副食として食べられていたものはアイヌ語でサヨというお粥でその種類もヒエ粥、アワ粥、ギョウジャニンニク、ウバユリの繊維質、イクラ入りの粥などのバリエーションがあったそうです。

他にはアイヌ語でラタシケプという山菜や野菜の煮込んだもの、焼き魚、穀物の団子のように多くの種類の料理があります。

調味料に使われるのは、メインは塩でしたが、寒冷地であることからカロリー補給や味を柔らかくすることを目的として油脂を多用しました。
http://www.islanddistinctiveoccasions.com/hokkaidob/hokkaidoba.html


平取町 アイヌ料理 
http://www.youtube.com/watch?v=LruBb1DBPFI


44. 2012年9月22日 17:00:58 : HNPlrBDYLM

アイヌ人の食事は汁ものが主食で、その具は殆ど山菜や雑穀類。
要するに、完全菜食では味付けが難しいので、肉や魚を少しだけ入れて山菜や雑穀類を食べ易くしたという事ですね。

アイヌ人の様な狩猟民は牧畜民の欧米人の様には肉を沢山食べないのです。

アラブ人の様な遊牧民もミルク、ヨーグルトが主食で肉はハレの日にしか食べません。

従って、毎日肉を食べる欧米人や日本人は「人類本来の食生活」から大きく離れています。アメリカ人に極端な肥満が多いのはホルモン剤で育てた牛の肉を食べるからですね。

45. 2012年9月22日 21:34:27 : HNPlrBDYLM

アイヌ料理 画像
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C+%E6%96%99%E7%90%86&hl=ja&lr=lang_ja&tbs=lr:lang_1ja&prmd=imvns&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=_K9dUL-fGIOdmQXF94DwBQ&ved=0CC4QsAQ&biw=1030&bih=892


46. 2012年9月22日 23:18:52 : HNPlrBDYLM

【アイヌ料理】オハウを作ってみた
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10293618


47. 中川隆 2012年9月23日 00:16:40 : 3bF/xW6Ehzs4I : HNPlrBDYLM


アイヌ生活文化再現マニュアル
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/bunka_main.html


 私たちのいう「自然」に食糧(しょくりょう)を求めていたアイヌの人たちは、一年の多くを食糧採取(しょくりょうさいしゅ)に費(つい)やしました。特に、野生植物は、一度で取り尽くしてしまうようなことはせず、必ず「根」を残し、次の年の分を確保(かくほ)しながらの採取でした。四季折々(しきおりおり)にとれる野生植物や動物、魚介類(ぎょかいるい)は家族の食卓(しょくたく)にのぼるとともに、長い冬の間の食糧(しょくりょう)として、また、飢饉(ききん)などに備(そな)えるために蓄(たくわ)えられました。

 調理(ちょうり)には、「煮(に)る」「焼(や)く」「炊(た)く」という方法が用いられました。主食として、山菜をベースに、動物の肉や魚を入れて煮(に)たオハウ、ルルがありました。オハウは、用いる材料によって、チエプオハウ(サケを入れた汁)、プクサオハウ(ギョウジャニンニクを入れた汁)、カムオハウ(動物の肉を入れた汁)などと呼ばれました。

 副食(ふくしょく)には、アワやヒエなどの穀物(こくもつ)を煮たサヨ、山菜を汁(しる)気がなくなるまで煮込(にこ)んだラタシケプがあり、生の動物の肉や魚は、串にさして焼いて食べました。また、季節によっては、「生で食べる」こともありました。


プクサ(ギョウジャニンニク)

焼(や)いて干(ほ)したウグイ。夏にとれた魚は、焼いて天日(てんぴ)で干(ほ)し、貯蔵(ちょぞう)した(新ひだか町アイヌ民俗資料館蔵)。

儀礼(ぎれい)の際(さい)の食事

   クマやシマフクロウの霊送(れいおく)りや祖先供養(そせんくよう)、婚礼(こんれい)や葬礼(そうれい)などのときには、普段(ふだん)の食事に加えて、雑穀類(ざっこくるい)を炊いたもの、団子(だんご)など特別な料理がつくられました。一年に数回しか味わうことのできないこの特別な料理は、人間だけでなく、祖先(そせん)や神々もともに食べ、ともに楽しむものでした。


いまに伝える

   江戸時代の終わりころになると、アイヌの人たちも野菜(やさい)をつくるようになり、多くの料理に用(もち)いられました。また、明治以降(めいじいこう)、本州からの移住者(いじゅうしゃ)の増加(ぞうか)とともに、アイヌの人たちを取り巻(ま)く環境(かんきょう)も大いに変化し、食生活もまた大きく変化しました。その一例として、調味料(ちょうみりょう)の使用などがあります。現在、北海道内各地でつくられる料理もこのころにつくられたものを基本としています。チエプオハウやラタシケプなどといった料理の多くは、日常の料理として、あるいは儀礼(ぎれい)の際(さい)の料理として盛(さか)んにつくられており、その伝統(でんとう)はいまに伝わっています。


食事の様子(『蝦夷嶋図説』函館市中央図書館蔵)


チエプオハウ
ラタシケプ
 

クマの霊送(れいおく)りのときにつくられる料理。神とともに人間も楽しむ(財団法人アイヌ民族博物館蔵)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/hito/taberu/taberu.html


アイヌ料理 春〜夏
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono.html

アイヌ料理 秋〜冬
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono.html


アイヌは人間の力が及ばないもの、自然の恵みを授(さず)けてくれるもの、生きていくうえで欠かせないものなどを、神[カムイ]として敬っていました。自然界の神々―火の神、水の神、山の神、集落の神、森の神、狩猟の神、穀物(こくもつ)の神等―に感謝し、神々が与えてくれた恵みとして、食材を必要な分だけいただきます。

 秋は豊かな実りの季節でした。川では遡上する鮭を捕え、山では木の実を採集し、狩りで動物の肉を手に入れて食べました。冬や飢饉(ききん)に備えて保存食も加工しました。

 動物からとった油脂(ゆし)や、塩などを調味料として使い、肉や魚、山菜などを入れた汁物[ルル]、ヒエ・アワなどのおかゆ、煮物(にもの)などが食べられていました。

 今回は、料理を作る場所として、『旭川市博物館分館アイヌ文化の森 伝承(でんしょう)のコタン チセ』を使用しました。アイヌの伝統的な住居には、炉(いろり)が切られており、火種を絶やさなかったといわれています。

 古くから集落のあった石狩川の周辺には、豊かな自然があり、食材は、家の周りで容易に調達できました。現在では都市化の影響もあり、身近で手に入れることが難しくなっています。今回、食材を調達するにあたり、旭川近郊の山々はもとより、遠方まで出かけて集めたものもあります。

 本マニュアルは、杉村京子さんが、親の世代から学んだ、秋から冬にかけての食材を用いた料理を紹介します。

 自然に抱かれ、チセで暮した時代に培われた習慣や知恵は、様々な社会変化の影響を受けながら、独自の文化として生き続けています。

 なお、食材を採集する時期は、旭川地域を目安にしています。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono/tabemono_hajimeni.html


杉村さんが子供の頃、大人に連れられて山へ出かける時、弁当は持ちませんでした。器と塩を持って行き、その場で材料を調達(ちょうたつ)しておつゆを食べたと言います。

「アイヌのおつゆには、肉か魚介類が欠かせない。」

と杉村さんは言い、山菜だけではなく、カワシンジュガイ(カラスガイ)などを捕(と)って入れました。

家では秋から冬にかけて獲(と)った鹿や熊の肉、鮭なども乾燥保存しておき、
夏でも山菜と一緒におつゆに入れて食べました。

アイヌの料理では、このような汁物が主食でした。

 これは、キト、セリ、ニリンソウなどの山菜と、乾燥保存した鮭を入れた塩味のおつゆです。

 杉村さんが親達から聞いた話では、かつて塩は交易(こうえき)[ウイマム]で手に入れていたので貴重品でした。濡(ぬ)らした箸(はし)の先にわずかな塩をつけ、器に盛ったおつゆに混ぜて食べたと言います。

 アイヌは素材の味を活(い)かした料理を作り、あまり濃い味付けをしませんでした。
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono_column_02.html


現在では、一年中、新鮮な食材を入手できるようになり、採集や保存に手間をかけなくても良い時代になりました。

 また、身近に自然が少なくなったことも影響(えいきょう)して、杉村さんも昔ながらの料理を作って食べる機会が減りました。

 しかし、杉村さんが親達から学んだ料理は、ほかに代え難(がた)いものとして、現在も杉村さんの心に刻まれています。 杉村さんは言います。

 「あるおばちゃんが、おれらは小さい時から、おつゆに魚でも肉でもたくさん入れて食べたもんだけど、今の人はそういうことができない。おれらはうまいものばかり食ったもんだと言ってたけど、ほんとにそうだわ。

今、これだけのおいしいもの毎日食べられないよ。まずおいしい、昔のものは。自然のものを自然のまま、こしらえて食べる。体にはいいし、おいしいし。」


 神々を敬(うやま)い、自然に抱かれて暮らしてきたアイヌにとって、物がない時代にこそ味わうことのできた豊かさもあったのです。  
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/tabemono2/tabemono_owarini.html


 「ウタリの食べものはね、ほとんどが薬。自然のものを食べるから、体に良いものばかりだった。戦争中、終戦後、(食料が乏しい時代でも)ウタリには栄養失調の者はいなかった。」

 杉村さんは、アイヌのことを、仲間・親戚(しんせき)を意味するウタリという言葉で表現するのを好みます。病人や高齢(こうれい)で山へ行けない家庭のためにも食べものを集めて分け与え、集落全体がひとつの家族のようにして、助け合って生きて来たと言います。

 食材の採取にあたっては、昔ほど身近に自然がなくなり、山奥へ行かなければ採れなくなったものもあります。 杉村さんは、その原因のひとつに乱獲(らんかく)を挙げて言います。

 「ウタリは、山へ行って物をいただいて来る時、10本しかなかったら、7本だけいただいて、あとの3本は残してくる。動物も虫も魚もいる、人間だけではない。そういう習慣が一番大切だと思います。

ウタリは山から余分に持ってきて捨てることは一切しなかった。それをみんなに教えたいと思う。分かって欲しい。」


 食は、親子や地域のコミュニケーションに欠かせない要素でもありました。特に熊送りの時などは近所の人達も集まって、大勢で楽しく料理をしたり、食事をしました。そうした中で、アイヌの伝統文化は、親から子へと語り継がれてきたのです。
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イオマンテ−熊の霊送り[料理編]
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 狩猟採集(しゅりょうさいしゅう)を生業(せいぎょう)としていたアイヌは、狩猟(しゅりょう)の対象など生活の中で深い関わりを持つ動物をカムイ(神)として敬(うやま)い、その魂を大切に取り扱ってきました。

 「イオマンテ」とは「動物の魂をカムイモシリ(神の国)へ送る」という意味で、広く動物神の霊送りの名称として使われる場合がありますが、一般的には「飼い熊の霊送り儀礼」を指す言葉として知られています。春先のヒグマ猟(りょう)で、母熊と共に生まれたばかりの子熊を手に入れると、人々はカムイから養育を任された名誉あることと考え、授(さず)かった子熊を大切に育てました。そして1〜2年ほど飼育した後には、その魂をカムイモシリへ送り帰す盛大な儀式が、集落をあげて営(いとな)まれてきたのです。

イオマンテは、カムイを敬(うやま)い、日常生活の中で常にカムイの存在を意識してきた人々が、たくさんのお土産を持たせて子熊の魂を送ることでその再訪(さいほう)を願い、食料の安定供給を求めるという、アイヌにとって最も重要な伝統儀式のひとつです。イオマンテは、明治以降の同化政策による生活環境の変化などにより、次第(しだい)に行われなくなりました。

 今回のイオマンテの料理の再現は、道南の白老地方に伝わる儀式の際の特別な料理です。アイヌ民族博物館が平成元年から数回にわたり実施したイオマンテの料理を参考に制作します。(写真1)
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イオマンテの儀式は寒い時期に行われるため、料理の材料はそれまでに採取(さいしゅ)され、プとよばれる食料庫に保存されてきたものが中心となります。イオマンテでは

「熊が神の国へ土産として持ち帰るためのごちそうの数々」、また

「宴(うたげ)の際、神と一緒に来客が食べるごちそう」

と、普段にない種類と量を女性たちが用意することになります。

 イオマンテの儀式において、アイヌの人たちは熊を「殺す」という観念(かんねん)は全くありません。熊の毛皮をまとい、肉を身につけ、

「神の国から、人間の国へ遊びにきた神を、もとの神の国へ送り返す」

という考えから、祭儀(さいぎ)が行われてきました。その神をもてなすためのごちそうとして料理が作られるのです。(写真155、156)
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カムイオハウ

イオマンテでつくられる料理には、あらかじめ儀礼の前に作られるものと儀礼の進行に伴って作られるものとがあります。このカムイオハウは、儀礼のなかで熊の解体が終わると、その肉の一部を使用して作られます。(写真2)

 カムイオハウには熊肉、ギョウジャニンニク、ダイコン、ニンジン、ネギ、塩を使います。(写真3)

 熊肉を適当な大きさに切り、湯通しをして、熊肉のアクを取り除きます。(写真4)
 
 熊肉に火が通ったところで一度鍋から取り出します。これで熊肉の下準備が完了しました。(写真5)
 
 野菜の下準備です。火が通りやすいように適当な大きさに切り、煮込みます。(写真6)
 
 茹(ゆ)でてアクを取り除いた熊肉は、食べやすいように一口大に切ります。(写真7)
 
   野菜の火の通り具合をみて、鍋に熊肉を入れます。全体をかき混ぜながら、材料に火が通ったところで塩を入れて味付けます。(写真8) 

 刻(きざ)んだネギと、乾燥したギョウジャニンニクの葉を入れて仕上げます。ギョウジャニンニクはアイヌ語でプクサとよばれ、保存する際は、茎と葉に分けて細かく切って乾燥させます。(写真9、10)  

材料が全部入ったところで、強火でひと煮立ちさせて完成です。(写真11、12)  
 カムイオハウは供物として祭壇(さいだん)の前に供えられるほか、宴(うたげ)の席で客にふるまわれます。

 この他、熊肉などを使ってつくる重要な料理にチノイペコタタプ(熊の頬の肉と脳のあえもの)があります。この料理は、他の料理と違い男性の手で作られます。作られる量も少量のため、皿などに盛り付けず、エカシなど主だった男性だけに配られます。材料は、熊の脳、熊の頬肉、ネギ、塩です。作り方は、頬肉をあらかじめゆでておき、まな板の上でみじん切りにして脳と混ぜ合わせます。これに、細かく刻(きざ)んだネギを入れ、塩で薄く味付けします。
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 トノト

 トノトは、神々に捧(ささ)げる御神酒(おみき)です。酒もイオマンテには欠かせず、1週間から10日ほど前から仕込み始めます。(写真13)

 仕込みには、魔よけのため、マキリ、イナウル、チエホロカケプを用意します。

右からマキリ、イナウル、チエホロカケプ(写真14)

 酒はトノトカラシントコとよばれる樽に仕込まれます。(写真15)

 酒樽を包むための毛布やキナとよばれるゴザ、そしてキナを縛るタラという縄を用意します。

 こうじ(麹(こうじ)・カムタチ)を混ぜるためにサカエナムテプという器とエンピリという道具を用意します。

 酒の材料にはヒエと麹(こうじ)を使います。ヒエはアイヌにとって最も古い作物で酒の原料として重要なものです。麹(こうじ)はヒエとほぼ同じ量を用意します。
麹(こうじ) (左)とヒエ(右) (写真18)


 最初にヒエのお粥(かゆ)を作ります。
 鍋に湯をわかし、用意したヒエを入れます。
 ヒエを鍋の中でゆっくりとかき混ぜながら、火を通します。(写真21)

 鍋にヒエを入れ終わったら、蓋(ふた)をしてお粥(かゆ)を作ります。お粥(かゆ)といっても柔らかすぎないように、ほんの少し水分が残るくらいに炊き上げます。(写真22)

 炊き上がったヒエをサカエナムテプに移し替えます。(写真23)
 ヒエをサカエナムテプ全体にのばし、人肌になるまで冷まします。(写真24)
 ヒエが冷めてから、麹(こうじ)を入れます。(写真25)

 発酵がうまく進むように、ヒエと麹(こうじ)をムラなくまんべんに混ぜ合わせます。(写真26)

 麹(こうじ)と混ざり合ったヒエを樽に移します。樽に移しながら、さらに混ぜ合わせます。(写真27、28)

 火の神に祈りを捧(ささ)げます。

 「火の神よ 今日の仕込みのため お移しいたしますのを どうぞ お許しください」

という言葉を述べながら、真っ赤になったオキを2つとりあげます。(写真29、30)

 オキを仕込んだヒエの上にのせます。


 「火の神よ あなたの力で このヒエが よいお酒になりますよう どうぞ お守りください」

と祈ります。(写真31)

 オキを移し、火の神への祈りを終えた後、樽にふたをしてヒエを寝かせます。
 発酵(はっこう)をうながすため、毛布で一度樽を包み込んでからゴザを巻きます。(写真32)

 ゴザを巻きつけます。(写真33、34)

 樽のふたの上にイナウルを巻きつけたマキリをのせます。 これは仕込んだ酒に魔物が近づかないように、という願いが込められています。(写真35)  

       
 最後にゴザの上部をすぼめてタラで縛り付けます。
 樽の上部にはチエホロカケプをさします。これも魔よけのためです。(写真36)
 樽は、神窓の近くの左座(ひだりざ)に置きます。ヒエが発酵(はっこう)して酒になるのを待ちます。(写真37)

仕込みの終わった樽を前に、火の神においしいお酒ができますよう守護(しゅご)してくださいと再び祈りを捧(ささ)げます。(写真38)

仕込み終わったヒエは、イオマンテの前日まで何度か状態をみながら樽の中をかき混ぜ、発酵(はっこう)を促します。タラを解き、ゴザを外して樽の中を静かにかき混ぜます。(写真39、40)

こうしてイオマンテが行われる前日を待つのです。(写真41)

まつりの前日、酒漉(さけこ)しをします。ゴザを解いてふたを取り、仕込みの際に入れたオキを取り出します。(写真42、43)

取り出したオキは、炉の中へもどし、火の神に立派な酒が出来るよう見守ってくれたことへの感謝をあらわす祈りを捧(ささ)げます。(写真44)

酒漉(さけこ)しをするため、別の樽にサケヌンパニとよばれる棒を4本「井桁(いげた)」に組んだものを置きザルをのせます。仕込んだ酒をサケピサツクといわれる柄杓(ひしゃく)でザルにあけていきます。(写真45)

仕込んだ酒はもろみの状態です。

ザルにあけたもろみを、手で擦(す)り込むようにして漉(こ)します。ザルをゆすったり、ザルの底をこすったりもします。(写真46)

こうしてザルで漉(こ)されたもろみはトノト、ヒエで作った酒になります。(写真47、48)

酒漉(さけこ)しの過程で、パッチとよばれる器を用意します。(写真49)

酒漉(さけこ)しでザルに残る酒粕(さけかす)をシラリといいます。シラリはパッチに盛られ、神への祈りであるカムイノミに使われます。(写真50)

酒漉(さけこ)しが終わったザルは洗わずに戸口に持っていき、戸口のそばの守り神であるアパサムシペカムイに祈りを捧げながら、ザルを当てて、付着した酒粕(さけかす)を落とします。シラリを戸口の神の方へ飛び散らせます。

 シラリを神に捧げ、実りの多い年であるようにという願いがこめられています。(写真51)

 酒漉(さけこ)しに使ったザルなどの道具を洗い終わったタライの水は玄関先にまき、

「戸口の神様も、近くを往来する神様も飲みたい神様がいたら、どうぞみんなで分けて飲んでください」

と言葉を添(そ)えます。

イオマンテの前日、トノトがこうして出来上がります。(写真53)

再(ふたた)び樽をゴザで覆(おお)い、神窓(かみまど)の左座(ひだりざ)に置き、翌日のイオマンテを待つのです。(写真54、55)
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シト

シトは米やイナキビなどで作る団子です。(写真56)

材料は米、イナキビ、もち米の粉(つなぎ用)です。
米、イナキビを研いで水に一晩漬け置き、ザルに上げ、水切りしておきます。

米 (写真57)
イナキビ (写真57)
 
 米とイナキビをそれぞれ臼(うす)に入れて杵(きね)で搗(つ)き、粉にします。
 イウタといわれる杵搗(きねつ)きは、2〜3人で唄で拍子をとりながら交互に搗(つ)いていきます。(写真58)
   
ある程度搗(つ)いたところで、搗(つ)いた米を器に移します。(写真59)
 
杵搗(きねつ)きと同時に、搗(つ)いた米やイナキビは、順次ふるいにかけ、粉状になったものと、まだ粗(あら)いものにふるいわけます。(写真60)
 
まだ粗(あら)いものは再び臼(うす)にもどし、さらに搗(つ)いて粉にしていきます。

 こうして全てが粉になるまで杵搗(きねつ)きが繰り返されます。(写真61)  
米の粉にお湯を注ぎます。

 ヘラで混ぜ合わせてから、じっくりと手でこねていき、耳たぶほどのかたさに練(ね)り上げます。

イナキビも同様にお湯を注いで混ぜ合わせ手で練(ね)っていきます。(写真64)
練(ね)り上げる際、つなぎとしてもち米の粉を使います。イナキビに混ぜ、ほどよいかたさに練(ね)り上げていきます。(写真65)
 
練(ね)った米やイナキビで団子を作ります。(写真66)  

団子の形は用途(ようと)によって違います。

 直径3〜4cmに丸めたシトは、イオマンテの時、撒(ま)くものです。(写真67)  
 平たい円盤状に作るシトは、直径6cmほどのものと10cmほどの大きめのものとがあります。(写真68)
 
大きめの円盤状のシトには中央に穴をあけるものとそうでないものがあります。(写真69)
 
鍋でお湯を沸かし、シトを入れ、茹(ゆ)でていきます。
シトは茹(ゆ)であがると湯に浮いてきます。  

 茹(ゆ)であがりまでおよそ15分です。

 ザルに上げ、冷まして米とイナキビのシトの完成です。(写真71)

 直径6〜7cmの小さい方の円盤状のシトはパッチに盛り付けます。パッチに山盛りになるように盛り付けていきます。

 これは、家の中へ招きいれた熊の神や先祖への供(そな)え物とするシトです。(写真72、73)

 丸いシトも同様にパッチに盛り付けていきます。このシトはイオマンテのとき、エカシたちによるカムイノミが終わった後、神(熊)の上にクルミなどと一緒に撒(ま)かれ、皆で拾(ひろ)います。

「みなが楽しんで拾(ひろ)いあえば、神もまた楽しい」

とされているのです。(写真74、75)

ひと回り大きめの円盤状のシトは、その両側を切り、オツチケとよばれるお膳(ぜん)に積んでいきます。

 切ったシトは、縦と横方向交互(こうご)になるように積みます。このシトも供(そな)え物として使われます。(写真76、77)

穴をあけたシトは串に刺して神に持たせるお土産(みやげ)となります。串はミズキを削って作られたものを使い、12個のシトを通します。(写真78、79、80)

串のダンゴをイナウルで包みます。(写真81)
 
 包み込んだあと両端と中央を縛り、さらに両側にイナウルを撚(よ)りあわせた紐(ひも)を結んで完成させます。この串のダンゴは、祭壇(さいだん)に飾り付け、神へのお土産(みやげ)とするのです。(写真82、83)
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スケトウダラの利用

 タラは干して食べるほか、肝を煮詰めて脂(あぶら)をとり、料理の時の調味料として用います。(写真84)

 タラをさばいて肝臓を取り出します。(写真85、86)

 身の方には切り込みを入れておきます。(写真87)

 切り込みに紐(ひも)を通して、2尾をつなげ、竿に干して乾燥させます。(写真88、89)

 タラの脂(あぶら)の作り方です。取り出した肝を鍋に入れます。(写真90)

 鍋を火にかけ肝を煮詰めます。(写真91)

 煮詰めていくと黄金色のエキスがしだいに出てきます。

 肝が焦げ付かない程度に弱火でじっくり煮詰めます。(写真92)

 脂(あぶら)が出きったところで、ザルで濾(こ)します。

 濾(こ)した脂(あぶら)はビンなどに移し替えて保存します。タラの脂(あぶら)は調味料として料理に使います。(写真94、95、96)
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スケトウダラの塩煮

干したタラで塩煮を作ります。(写真97)

 3〜4週間干したタラは、背びれなどを切り落とし、下ごしらえをします。(写真98)

 下ごしらえしたタラを鍋に入れ、たっぷりの水で煮込みます。(写真99)
 いったん沸騰させた後、塩で味付けをし、弱火にして時間をかけじっくりと煮込んでいきます。

 じっくり煮込んだタラは骨まで軟らかくなります。(写真100、101)

 出来上がったスケトウダラの塩煮を、お膳(ぜん)に盛り付けます。干したスケトウダラの味が十二分に生かされた料理です。白老地方のイオマンテでは必ず作られてきた料理のひとつです。(写真102、103)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_04_suketoudara_02.html


ボツボツ

ボツボツの材料はカボチャ、マメ、トウモロコシ、シケレペ(キハダの実)、砂糖、塩、タラの脂(あぶら)です。(写真104、105)

シケレペはキハダの実で、秋に黒く熟したものを採取します。胃痛、喘息(ぜんそく)などの薬として用いられることもあります。(写真106)
 
マメとシケレペはあらかじめ煮込んでおきます。

材料のカボチャは生のものがあればそれを使うが、多くはリンゴの皮を剥(む)くようにかんぴょう状にしたものを乾燥させ保存しておいたものを使います。(写真108)
 
生のカボチャは皮を剥(む)き適当な大きさに切って、水から煮ます。(写真109)  
 カボチャに火が通り柔らかくなったところで、下ごしらえしたマメとシケレペをカボチャに加え、さらに煮込みます。(写真110)
 
ゆでておいたトウモロコシも加え、かき混ぜながら煮込んでいきます。

 調味料として砂糖とタラの脂(あぶら)を入れ、味付けをします。十分にかき混ぜながら味を馴染(なじ)ませます。最後に塩を少し加えて味を調え、かき混ぜながら水が無くなるまで弱火で煮続けます。(写真111、112)
 
ボツボツ、又は「カンポチヤラタシケプ」とよばれ、白老地方の代表的なラタシケプのひとつです。(写真113)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_05_botubotu.html

チポロラタシケプ

チポロラタシケプは筋子、ジャガイモ、塩を使います。(写真114)

カムイチエプとよばれるサケは、アイヌにとってもっとも重要な食料です。秋に大量に捕獲(ほかく)したサケは冬を越すための保存食にされます。(写真115)

生の筋子を用いたラタシケプは、サケが遡上(そじょう)する時期限定の料理で、上等なごちそうといえます。

 チポロとは筋子のことです。(写真116)
 
 取り出した筋子は、お湯と塩を使い筋をとります。(写真117)  

 お湯に塩を入れてかき混ぜた後、筋子をその中に入れ、ほぐしていきます。(写真118、119)

 ほぐした筋子を、一度ザルにあけます。(写真120)
 
 再度お湯に塩を入れかき混ぜ、ぬめりなどを取りきれいにします。こうして筋子の下ごしらえをしておきます。(写真121、122)
 
 ほぐした筋子を鍋に入れて火にかけます。焦げ付かないようにゆっくりとかき混ぜながら火を通します。(写真123)

 塩で味付けし、さらにじっくり火を通します。
 
 筋子をすりつぶすのには、チポロニマというすりこぎ棒付きのこね鉢(ばち)を使います。(写真124)
 
火が通った筋子をチポロニマに移し、すりこぎで押し付けるようにしながらすりつぶしていきます。(写真125)
 
ジャガイモは皮をむいてふかしておきます。ふかしたジャガイモを鍋の中でつぶします。(写真126)

 ジャガイモを十分につぶしたところで、鍋に筋子を入れて和えると、チポロラタシケプの完成です。(写真127、128、129)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_06_tiporo.html


シケレペキナラタシケプ

シケレペキナラタシケプには乾燥させたシケレペキナ、塩、タラの脂(あぶら)を使います。 
シケレペキナとはヒメザゼンソウのことです。山で採取したあと茹(ゆ)でて、乾燥させ保存しておきます。(写真130、131)

 いったん水にもどしたヒメザゼンソウを洗い、鍋に入れ火にかけます。初めは中火で、その後は弱火で数時間かけてじっくりと煮込みます。(写真132)

 煮汁を十分に吸収させ、水気がほとんど無くなるまで煮込みます。
 
煮込んだヒメザゼンソウを鍋から取り出します。

 イタタニとよばれるまな板の上で、適当な長さに切っていきます。(写真134)  
 切ったヒメザゼンソウを再び鍋にもどし、味付けにタラの脂(あぶら)、塩を入れ、かきまぜながら火を通します。(写真135)
 
 できあがったシケレペキナのラタシケプをパッチに入れ、神に供(そな)えます。(写真136)
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シケレペラタシケプ

 シケレペラタシケプは、シケレペ(キハダの実)、マメ、塩、タラの脂(あぶら)を使ったラタシケプです。

 乾燥させ保存しておいたシケレペ(キハダの実)を、水に浸(ひた)して戻し、火にかけて煮込みます。

 煮えたところで、あらかじめ煮ておいたマメを鍋に入れます。(写真140)
 
 塩、タラの脂(あぶら)を加えて味を整えます。(写真141)
 
 火が通ったら鍋をおろし、キハダの実とマメをいっしょにすりつぶしていきます。(写真142)
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いなきびご飯、ひえご飯

かつて、アイヌにとって農耕による生産物は貴重な食料で、特に米をふんだんに使うのはイオマンテなど儀式のときの特別なごちそうでした。

 いなきびご飯には、イナキビ、米、マメ、塩を使います。(写真144、145)

 マメをあらかじめかために煮ておき、鍋にイナキビと米を入れて混ぜ合わせ、塩とマメを加えます。

 鍋を火にかけ、最初は強火で炊き上げていきます。(写真147)

 沸騰したら弱火にします。
 
 弱火でじっくり炊き込みます。(写真148)
 
 炊き上がったご飯にタラの脂(あぶら)を適量入れ、混ぜ合わせて味付けし、完成です。(写真149、150、151)
 
ひえご飯も同様に作ります。(写真152、153、154)
http://www.frpac.or.jp/kodomo/html/bunka/ryouri/ryouri_09_inakibigohan.html

アイヌ料理「ハルコロ 」


今年(2011年)の5月22日開店の北海道以外では唯一のアイヌ料理の専門店です。「ハルコロ」とは「お腹いっぱい食べれる」という意味のアイヌ語です。

2009年11月7日に赤字のため閉店した中野区新井にあったアイヌ料理店「レラ・チセ」のコンセプトを受け継ぎ一部のスッタッフが開店させたお店です。テーブル3つにカウンターという小さなお店ですが、木調で手作りのぬくもりが感じられるお店です。アイヌ民族の情報発信基地にもなっているようでいろいろなパンフレットやポスターが貼ってあります。

場所は新大久保のコリアンタウンや渚総研からもほど近いJR総武線大久保駅南口から徒歩1分の焼き鳥屋の跡地。以前はこのあたりには屋台村もあり飲食店街として栄えていたのに最近はすっかり寂れてしまいました。

今回の注文は「鹿丼」¥900-と「オハウ」(鮭汁、チェプ汁)¥200-です。

アイヌ料理を食べるのは白老に行ったとき以来なので何年ぶりだろうか。。。

鹿肉。。。久しぶりに食べるジビエ料理(獣肉料理)です。

「鹿丼」は、やや固めの牛肉のような味わい。以外と油分が多い。寒い地方の料理なせいか味付けは濃い目です。

「オハウ」は(鮭の切り身、タマネギや人参、大根、長ネギなど鮭がちょっと少ないのが気になったけど、野菜が豊富で塩味であっさりしています。これは安いです。


鹿肉料理はちょっと高い気がしますが、食材としての入手のいにくさを考えるとまぁこんなところでしょうか。。。

鹿肉や鮭、行者にんにく、コマイなどの食材を使った料理が多いのですが、ぜひ熊肉のレパートリーも増やして欲しいですね。

お客の入りがすごく少なかったのがちょっと気になります。

せっかく復活させたアイヌ文化の東京の拠点です。前身の「レラ・チセ」のように赤字や経営不振を理由に閉店させないよう活発なイベントスペースとしての機能やワークショップなど情報発信基地としての機能を期待したいです。

琉球王国の沖縄料理店は東京にたくさんあるのに、アイヌ民族のアイヌ料理店はなぜ東京には一軒しかないんだぁ!
なぜ、北海道出身者にアイヌ民族のことを聞いても何にも知らんのかぁ〜という素朴な疑問が以前からありました。

アイヌ民族の文化は少数民族とはいえ日本の貴重な文化遺産です!日本人として絶対に守っていかなければなりません!


::::::::::::::::::::::::以下リンク先からの転載です:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

大久保にオープンしたその名は「ハルコロ」。「お腹いっぱい食べれる」という意味のアイヌ語です。

JR総武線大久保駅南口から徒歩1分のところに開業。カウンター席と浦川治造さんお手製のテープル席が3つ。木の温もりが感じられる素敵なお店です。鹿肉やキトピロ(行者ニンニク)、鮭の料理を味わうことができます。レラチセの閉店から1年半、東京ではアイヌ料理を食べれるお店はなかったので、今日は久しぶりに行者ニンニクを味わった。

レラチセでも働いていた照代さん、レラチセの創業にも関わっていたお母さんのタミエさんを囲みいい時間。子どもたちが輪唱をし、千葉さんのトンコリが鳴り、タカハシは気持ちよく酔い粗相をしました。ごめんなさいだったけど、嬉しい酔いでした。


レラ・チセは、日本の東京都内にかつて存在したアイヌ料理店。
店名はアイヌ語で「風の家」の意味である。

1993年の「国際先住民年」を契機として、全国からの募金で、1994年に東京都新宿区の西早稲田で開業する。2000年に東京都中野区新井に移転する。

アイヌ料理の店であるが、エゾ鹿のステーキ「ユク」や鮭の背わたの塩漬け「メフン」、いも団子「ムニニイモ」がメニューにあった。鹿肉カレーや鮭カレー、熊肉の焼肉を食べられることもあった。アイヌ語教室の開催など、首都圏のアイヌ文化継承の拠点となった。ライブもあった。中野区新井の店は三階建てであった。かつては、昼と夜の営業が行われときもあったが、全体を通して午後6時からの営業となっていた。不況の中で売上が減少し赤字経営が続いた。2009年11月7日閉店した。
http://blogs.yahoo.co.jp/nagisa_aoi21/60786274.html


「ハルコロ 」(HaruKor)

・住所: 東京都新宿区百人町1-15-3
・電話: 03-3366-6400


JR大久保駅南口より徒歩1分
JR新大久保駅より徒歩3分
大久保駅から120m


地図
http://www.mapion.co.jp/m/35.69657318_139.70171817_8/v=m2:%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AD/
http://tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/dtlmap/


営業時間
[月〜金]17:00〜24:00(L.O.23:00)
[土・日]16:00〜24:00

ランチ営業、夜10時以降入店可、夜12時以降入店可、
不定休 日曜営業
http://r.tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/


ハルコロは、日本の東京都内に2011年5月に開店したアイヌ料理および北海道料理の店。 2009年11月に閉店したアイヌ料理の店『レラ・チセ』の共同経営者の女性の一人とレラ・チセでも働いていた娘が、閉店した焼き鳥屋の後を借り受け、2011年5月22日に開業する。

メニューに、鹿肉料理が含まれ、アイヌ料理もいくつかある。居酒屋もかねている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%AD

新宿「ハルコロ」 母の志継ぎ、店きりもり
2011.10.01 朝日新聞朝刊

この夏、東京・新宿でアイヌ民族の女性が亡くなった。宇佐タミエさん。69歳。北海道外で唯一とされるアイヌ料理店を三女の照代さん(39)と再開させた矢先だった。「民族の文化と誇りを守りたい」。料理を通して伝えてきた母の志は、娘が受け継ぐ。

JR大久保駅近くの新宿区百人町の一角。約8坪の店のメニューには、ジャガイモやカボチャの団子「シト」や「鹿天」などアイヌ伝統の料理や創作料理が並ぶ。カウンターのすみに、孫に囲まれてほほえむタミエさんの写真があった。

 北海道釧路市で生まれ育ったタミエさんは40歳のころ、離婚を機に一男四女の子供をつれて上京。ビルの清掃や店員など、時には三つの仕事を掛け持ちして育て上げた。首都圏のアイヌ民族の団体「レラ(風)の会」に子どもをつれて参加し、歌や踊りを学ぶうち活動にものめり込んだ。

 1994年、同会がアイヌ料理店「レラ・チセ」(風の家)を早稲田に開いた。タミエさんは仕込みを受け持ち、照代さんも店に立った。アイヌの味を伝え、広げる。「アイヌであることに誇りを持っている」と語っていた。

 だが、店はその後、中野に移転し、2009年には経営難で閉店した。沈み込むタミエさんを見て、照代さんは「母の生きがいを取り戻し、みんなが集う場をもう一度つくろう」と決意。閉店した焼き鳥屋の後を借り受けた。店名の「ハルコロ」はアイヌ語でハル(食べ物)コロ(持つ)という意味。「食べ物に困らないように」という願いを込めた。

 開店前日の今年5月21日。タミエさんは店で5人の子どもと9人の孫、1人のひ孫に囲まれた。アイヌ語で「サザエさん」を輪唱する孫たちに、タミエさんは目を細めた。サケを具にした「オハウ」(汁)などで腕もふるった。

 しかしタミエさんは6月30日夕、突然、脳出血で倒れ、息を引き取った。照代さんは「母の分も長く、店を続けたい。やがてはアイヌ語やムックリ(口琴)などを学ぶ場にもしていきたい」と話している。

 ハルコロについて北海道アイヌ協会は、道外で唯一のアイヌ料理店ではないかという。
http://blogs.yahoo.co.jp/nagisa_aoi21/60786274.html


やはり「レラ・チセ」の後継店だった「ハルコロ」 2012-04-15

 夏頃にマイミクさんから教わったのか、大久保駅南口に鹿肉などが食える「北海道料理の店」があるとのことで、
大久保「ハルコロ」
(http://r.tabelog.com/tokyo/A1304/A130404/13126529/)
へ。


 まずは鹿煮込みと鹿肉の餃子。

 それから、から揚げのような「鹿天」。

 鹿肉のジンギスカン風。

あと鹿から離れて秋鮭のルイベ。

次の水タコ刺ともども、冷凍だけど口の中で解かすと地味が美味しい。

最後は「オハワ」というアイヌ風野菜汁。


 店内にはアイヌの人達が常連客として集っているし、昔早稲田に開業していた「レラ・チセ」について書かれた本もあるので、退店後に調べてみたら案の定、この店はかつて「北海道以外では日本唯一のアイヌ料理店」として斯界に著名だった「レラ・チセ」の後継店でした。資料

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%81%E3%82%BB

によると、「レラ・チセ」は、1994年に西早稲田で開業、2000年に早稲田界隈では惜しまれつつ中野区新井に移転するまで、「早稲田グルメ」の有名店として早大学内雑誌や学生媒体にも数多く掲載。移転直前の頃にσ(^^)も食べには行きましたが、すぐ足が不自由になり正座が困難になったσ(^^)にとって、土間の店は狭苦しくて快適な食事場所とは言えず、常連の座に就くほど通うには至りませんでした。
 リーマンショックなどの不況による赤字のため2009年11月閉店、しかし昨年5月、「レラ・チセ」の共同経営者が大久保に現在の「ハルコロ」を開店するも6月に急逝。現在店は「レラ・チセ」時代から店に出ていた娘が後を継いで切り盛りしているとのこと

 「レラ・チセ」時代には熊肉も入荷があればメニューに乗っていたが、今夜直接聞いた所では現在は扱っておらず、また客単価もよくある通り「食べログ」平均予算より高く5000円越えでしたが、内容を考慮すればコスパは許容範囲だと思いました。人数が集まれば鍋なども受注してくれるでしょう。職場から近い?ので思いつきで再訪も可能性高そうです。
http://ameblo.jp/armarius/entry-11223435985.html


日本人の様な農耕民よりインディアンやアイヌの様な狩猟採集民の方が味覚が発達しているんだよね。

欧米人は氷河時代に氷河に閉じ込められて腐った肉ばかり食べていたから味覚ゼロなのさ。

世界の料理ではアイヌ料理が飛びぬけた No.1だというので間違い無い。


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