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わが国の核政策史 その1
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投稿者 きすぐれ真一 日時 2006 年 10 月 31 日 22:35:21: HyQF24IvCTDS6
 

http://sun.ap.teacup.com/souun/50.html

2006/3/4
「わが国の核政策史 その1」  原子力・核問題
我が国の核に関する政策と施策の実態は一般国民にはほとんど知られておりません。
核兵器所有の得失、技術的、経済的、社会的な能力について冷静に検討し理解しておくことは、核武装を否定する側にとっても、肯定する側にとっても必須のことです。
ここでは「核開発に反対する物理研究者の会通信」から藤田祐幸氏の記事を紹介し参考に供したいと思います。


わが国の核政策史 ― 軍事的側面から ―


平和利用三原則

 1951年9月8日、サンフランシスコ講和が調印され、翌52年4月28日に対日平和条約と日米安保条約からなる講和条約が発効し、GHQによる支配から日本は開放された。
 その直後の5月に吉田茂率いる自由党は科学技術庁設立案を明らかにした。その付属機関は核兵器を含む科学兵器、原子力の開発研究を目的とする、ことが明記されていた(原子力年表・原産会議編)。わが国の政権党は広島・長崎の惨禍からわずか七年後に、米国占領の終結を待ちかねたように、核保有の意思を表明した。
 この動きに対し、竹谷三男は52年10月の雑誌「改造」に「日本の原子力研究の方向」と題する論文を発表し、原子力平和利用開発の三原則(民主・自主・公開)を提唱した。この提案を受ける形で開かれた10月24日の学術会議の総会で、原子力委員会の設置を求める茅・伏見の提案が、会場からの強い抵抗に会い撤回されるなど、研究者側の足並みに乱れが見られた。
 改進党の若き代議士中曽根康弘を中心にした保守三党による原子力予算が54年3月2日に提案され、これが電撃的に成立し、日本の原子力開発への道が切り開かれた。中曽根予算案提出の前日の3月1日に、焼津のマグロ漁船第五福竜丸がビキニ環礁で、米国の水爆実験により被災していたが、14日の帰港まで国民はそのことを知らなかった。
 研究者の意思を無視した予算成立に対し、学術会議は4月23日に抗議の意思を明らかにすると同時に、平和利用三原則を改めて表明した。政府は学術会議の要請を受けて、平和利用三原則を盛り込んだ原子力基本法(資料1)を55年12月19日に成立させた。
 基本法成立に伴い、政府は正力松太郎を委員長に据えた原子力委員会と、これも正力松太郎を長官とする科学技術庁を56年4月までに相次いで発足させた。
 学術会議派の科学者は、自由党の核開発の目論見を水泡に帰し得たのか、その後の推移を見なければならない。


原子力時代の始まり

 この間、1955年11月には自由党と民主党が合同し、鳩山一郎自民党政権が成立し、両院原子力合同委員会委員長を務める中曽根康弘が自由民主党副幹事長に就いた。中曽根は自由民主党憲法調査会理事も兼務していた。中曽根・正力がこの時代の原子力政策を牽引することになる。50年代前半のこの国の原子力は強力な政治主導で行なわれた。
 国と産業界の動きはにわかに慌しくなる。55年12月には藤岡由夫を団長とする初の調査団が欧米の原子力事情調査のため出発する。調査団が帰国するのは翌56年の3月であった。同年4月には通産省工業技術院に原子力課を新設、経団連は「原子力平和利用懇談会」(藤原銀次郎会長)を発足させ、財界も原子力に乗り出す。藤原調査団は5月に報告書を提出し、天然ウラン重水型の多目的原子炉の建設と、ウラン・重水・黒鉛の国産を提言した。6月には日米原子力協定が締結され、米国から原子炉と濃縮ウランが提供される道が開かれた。米国は日本に提供するウランについて「いかなる場合にも、U235を最大限20パーセントまで濃縮したウランの中に含まれるU235の量において6キログラムを超えないものとする」(第三条A項)として兵器転用に歯止めをかけることを忘れなかった。
 原子力委員会は茨城県東海村に原子力研究の拠点をおくことに決めたのが56年の4月、同年8月には運輸省も原子力船建造に意欲を見せ、同じ頃、三菱金属鉱業の高橋孝三郎を理事長に原子燃料公社が設立された。この原子燃料公社が後の動燃の母体となる。
 56年までに政府の方針は、米国の協力を得ながらも、ウランと原子炉の自力開発を目指すものであった。原子燃料公社は精力的に国内のウラン鉱の探査を行なった。原子炉の開発は東海村の原子力研究所(原研)の研究者の手に委ねられた。そこには平和利用三原則を基本法に盛り込むことに奔走した科学者達が結集していた。
 第五福竜丸の被災と、南太平洋の核実験の放射性物質が国内にまで降下したことにより、杉並区の主婦が始めた原水爆禁止署名運動が、54年8月に全国協議会(会長安井郁)にまで成長し、戦後最大の反核平和運動が組織されて行く。もちろん、平和利用三原則を提唱した科学者達も、何の違和感もなくそこに合流して行くことになる。
 国主導で爆発的な勢いで展開される原子力推進路線には、当初電力業界は懐疑的であったように見える。57年になって、電力九社はそれぞれ原子力発電計画の策定に入るが、当面は国策会社である日本原子力発電(資本金40億円、電源開発20%、民間80%出資、社長安川第五郎)を受け皿として設立(57.11)し、様子を見ることになった。日本原電は、東海村にガス冷却黒鉛炉であるコールダーホール型原発と、敦賀にBWR型原子炉を建設して、受け皿としての役割を終えることになる。


核兵器保有は合憲 ― 岸発言

 1957年2月に政権の座についた岸信介は、5月7日の参議院で、自衛権の範囲内であれば核保有も可能であると答弁し、59年3月2日の参議院予算委員会でも、防衛用小型核兵器は合憲であるとの判断を明らかにした。日本政府が核武装合憲論を強調するのは、後の佐藤政権の時もそうであるように、日米安保改訂時に時期的に重なることに着目する必要がある。
 60年に岸内閣は日米安保を巡り混乱を極めるさなか、「自衛のための必要最少限度を越えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されておらない。したがって、右の限度に止まるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わずこれを保持することは禁ずるところではない」として、核兵器保有は合憲との判断を政府見解として確立し、今日まで(村山内閣時代を経ても)変更されていない。
 しかし岸内閣時代までの日本の核政策は、ただひたすらウラン探査を行い、原子炉を建設し、原子力船を建造するなど、国家政策としての原子力開発には、一貫した具体的展望は確立されていなかったように見える。


佐藤栄作の核武装カード

 岸信介の実弟、佐藤栄作は隠れもなき核武装論者であった。岸内閣の後を継いだ池田内閣時代に佐藤栄作は頭角をあらわす。1961年7月に発足した第2次池田内閣に通産大臣として入閣し、63年12月に成立した第三次池田内閣では科学技術庁長官に就任した。そして、64年11月9日、佐藤栄作は首相に就任することになる。沖縄返還を最大の政治課題であるとして登場した佐藤内閣は、同時に、日本の原子力政策を大きく転換させることになる。
 首相就任直後の65年1月、訪米した佐藤は、ジョンソン大統領との会見の後、別室であったラスク国務長官や椎名悦三郎外相らのアジア情勢の協議に合流した時、ラスク国務長官からから、「中国が核武装したことに日本はどのように対応するか」と問われ、「日本人は日本が核を持つべきではないと思っている」と答えたあと「一個人として佐藤は、中国共産党政権が核兵器を持つなら、日本も持つべきだと考えている。しかし、これは日本の国内感情とは違うので極めて私的にしか言えないことだ」と答えた(2001年9月23日、朝日新聞)。
 沖縄返還交渉を始めるその最初の段階で、佐藤栄作は日本の核武装を外交カードとして使ったことになる。そして、これが単なる“はったり”ではなかったことも後に明らかになる。当時のアメリカ政府は日本の核武装を容認してはいなかった。


非核三原則への道筋

 1965年8月、佐藤は戦後の首相として始めて沖縄の土を踏んだ。沖縄返還が不動の政策であることを内外に誇示するのが目的だった。そこで「沖縄の祖国復帰なくして日本の戦後は終らない」との名せりふを残した。
 当時のマクナマラ国防長官は「問題は返還ではなく米軍基地にある」(「楠田實日記」・中央公論社)と発言し、中共(当時中国はしばしばこう呼ばれていた)の脅威に対する沖縄基地の役割を強調し、施政権の返還は容認しつつも核を含めて基地の存続を強く求めた。佐藤は、沖縄が返還されれば国内法と日米安保が沖縄においても適用されることになるとして、核抜き・本土並返還を国民に約束した。しかし同時に佐藤は、もし米軍が沖縄から撤退すれば日本は独自に核武装する道を選択肢として残していた。米国はそれを熟知していた。
 交渉は難航を極めた。施政方針演説原案を審議した68年1月26日の閣議で、中曽根運輸大臣から、核保有せぬだけではなく持ち込みなど非核三原則をはっきり書くべきだと強い要請があり、その結果「保有せず」のあとに「持ち込み許さず」を追加したと、楠田日記は記している。
 2月3日の楠田日記には『「非核決議案に反対の理由」をまとめる。若泉敬氏が核政策四本柱(日米安保条約、非核三原則、核エネルギー平和利用、核軍縮)を考えてくれた。すっかり若泉氏に頼る昨今だ』とある。この段階で、佐藤は国会での非核決議には反対の立場をとっていたようだ。その答弁の内容は未だ入手していない。その後日米間の密使として活躍する若泉敬(当時京都産業大教授)の政策決定過程への関与もここに如実に描かれている。
 68年9月16日の楠田日記には、『「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てと言う者がいてもいい。いっそ核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」、楠田「それはちょっと早いですよ」、重大な会話となった。』とある。外部には「核抜き本土並み」と言いつつ、背後で核持込密約を、また表向きは非核三原則を言いつつ、実は核武装プログラムを遂行するなど、佐藤栄作の政治の表と裏の乖離ははなはだしい。料亭に向かう車の中という私的空間で、信頼厚い秘書に向かってのこの発言は、佐藤の本心が顔をのぞかせたものとして興味深い。
 69年1月20日に政権についたニクソン米大統領は、アメリカの直接的な対外軍事介入をひかえて、同盟国の協力をうるとともに東側諸国とも積極的に交渉や取り引きをおこなおうとする新方針をうちだした(ニクソン-ドクトリン)。日本政府はこの新たな交渉相手の方針に困惑した。ベトナム北爆停止が日程に上り、米軍の沖縄からの撤退の可能性も論議された。
 交渉が大詰めを迎えた69年6月には、佐藤は若泉に信任状を作成し、秘密の個人特使としてホワイトハウスに送り込んでいる。ここで表向きは核抜き・本土並み返還を表明しつつ、背後では基地の核付き現状維持の密約が成立することになる。ニクソン-ドクトリンを沖縄にも適用し、基地を引き上げれば日本は独自に核を持つことになるという日本側の主張に対し、米国は、日本を米国の核の傘の中に位置付げることを保証して、核武装を思いとどまらせようとした。
 米国の核持込密約(有事の際は米軍の核の傘で日本を守る)と、日本核武装放棄が取引され、公の場で日本の非核政策を鮮明にすることが求められ、その結果が非核三原則の表明につながったと見ることができる。69年11月19日に佐藤ニクソン会談が行なわれ、沖縄返還の基本合意が成立した。この時の楠田日記には「沖縄問題は核を含めて決着したが、米側の議会工作のため、厳重な緘口令。いわゆる核抜き・本土並みが貫かれた」と記している。帰国後の11月26日、佐藤は改めて非核三原則の堅持を国会で表明した。
 71年11月24日、社会党の欠席の元に沖縄返還協定が成立し、同時に非核三原則が付帯決議として衆議院で採択された。吉田茂以来日本政府は一貫して核保有は合憲であると言い続けてきたが、佐藤政権は初めて国策としての非核を鮮明にした。
 アメリカは日本の核武装断念に安堵し、その結果が、74年の佐藤栄作ノーベル平和賞受賞に結実した。ところが、ノルウェーのノーベル賞委員会は2001年に出版した「ノーベル平和賞・平和への百年」の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」などとし、「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」であったとして当時の選考委員会を批判している(2001年9月5日、朝日新聞)。

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