★阿修羅♪ > 議論27 > 616.html
 ★阿修羅♪
日本の教育制度は(政治全体をリセットしなければ)回復不可能です。
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/616.html
投稿者 tk 日時 2008 年 3 月 16 日 14:04:11: fNs.vR2niMp1.
 

(回答先: Re: そうですね。意欲があると認められた子は偏差値が高いクラスに入れるという事ですね。 投稿者 彼岸楼 日時 2008 年 3 月 16 日 02:59:56)

教育というのは子供の能力を高める、ということであり、そのためには自由な空気と教員(の知識的、人格的、指導力などにおける能力)への尊敬の念が不可欠です。

しかし、現在の日本の教育制度は、文部官僚の強い意思の下で、権力主義的組織の一環として組み込まれてしまっており、あれこれの部分を改善してもどうにもならない。決してフィンランドのような自由な教育にはならないような仕組みに出来上がっているのです。

歴史を振り返ってみれはこうなります。

江戸時代には庶民の教育には関与せず、寺子屋などで、庶民の自発的な学習意欲、教育意欲によって高い水準(当時で言えば識字率、計算力)を誇ってきました。

明治政府は、それを基礎として義務教育制度に発展させました。(※1)

ところが、それ以降の政府は一貫して国民教育(権力にとって都合のよい人材、すなわち権力に対しては従順で、かつ技術的能力はある人材を形成するための教育)への改変を試みてきました。(※2)

敗戦後、教育の民主化が占領軍によってなされた。(※3)

しかし、この改革はただちに骨抜きにされた(※4)。

フィンランド型の(というか民主主義型の、というか、江戸時代型の)教育の根本に在るのは、地域住民が教育のあり方を決めていく、ということなのですが。文部官僚たちはこれに激しく反発した。かれらが最初にやったのが、フィンランド型の教育の根本にあたる教育委員会を民選から首長による任命制に変えてしまったのである。教員の人事権・予算配分権を民衆の手から権力の手に取り戻すこと、が、まず第一だったのです。

その当時の状況はよくわからないのですが、資料の中で問題点としてあげられている「首長のライバルの教育委員への立候補・当選」というのは何をか言わんやである。これを理由にあげるということは、首長の任命と異なるような民選をさせたくない、という意思がはっきりしていることを示しているといえるでしょう。

民選を廃止する意図があるなら「低投票率」などは選挙への行政の関与によっていくらでも低下させることができる。「教職員組合を動員した選挙活動」は、何がいけないのか分からない(国民として選挙活動をするのは当然の権利だろう、教育の現場の人間が発言するのは有益だろう)が、教職員が有権者たる父兄に圧力をかけるといった事例があったのなら公職選挙法等で取り締まればよいだけだ。それを理由に公選制度そのものを廃止しようというのであるから、(賄賂が無くならないから刑法を廃止しよう、というのと同じで)、要するに、公選廃止、首長による任命制=政治的任命=に改変したいという意思が先にあることがみえみえだったのです。

任命制の「教育委員会」など、有害無益である。任命権者の責任逃れの隠れ蓑に過ぎないではないか。

そのことを、経済界も批判した。(※5)

「教育委員会が公選制でないために、文部行政の末端となっていること、更に、教育委員会の強大な権限と官僚的な組織が、学校の主体性の発揮を阻害している」。この批判はもっともである。経済界は、国家権力による教育介入が学校の自主性を阻害していると批判しているのである。つまり、もっと自由な空気のなかで教育を行ってくれ、(もっと自由に発想できる企業に役に立つ人材を作ってくれ)と要求したのである。

ところが、狡猾なる文部官僚たちはそれを逆方向、要するに、彼らの望む権力主義的教育の方向に向けた要望と看做して、権力主義的教育への改革をさらに押し進めていった。

教育基本法の「改正」などは権力主義的教育へのさらなる前進のなかの一歩に過ぎないのである。

その結果として、公教育は、子供たちと向き合う教員たちは、権力組織の末端としての位置づけられ職員会議での採決も禁止され、いわば手足を縛られた状態でしか、子供たちと向き合うことができなくなってしまったのである。自由なき教員にどうして、子供たちの個性や能力に応じた教育ができるのだろうか?

権力主義的教育への意思を一貫して持ち続けている文部官僚たちの権力の下では、部分的な「改良」が、さらなる権力主義化につながる可能性は非常に高い。(次に彼らが狙っているのは、教科書検定制度の『欠陥』を理由とした国定教科書化だろう。道徳的腐敗を理由とした『心のノート』の強化と権力主義的内容への改変だろう)。

ちなみに、彼岸楼さんが心配しておられる、「こうした教育制度改革の、さらにその先にどんな社会があるのか」については、戦前型の、戦争のできる国、戦争をする政府を支持する人々の社会、を、少なくとも、文部官僚たちは夢見ているのだと思います。そして、そのために着々と駒を進めている、という現状です。

人民は分断して支配せよ、という教育の復活を目指している、ということです。(※6)

−−−−

※1:明治政府は、民間の寺子屋教育を基礎として義務教育制度に発展させました。

http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou22/07kimura.pdf

豊橋創造大学短期大学部研究紀要 第22号

明治5年,新政府は「学制」を発布した.文明開化の名のもとに欧米列強の教育制度をモデルにし,旧弊を砕き,近代的な教育制度を樹立することを施策の中心とした.

その目標は知識主義の原則に立って,教育の個人的利益は,即ち立身出世のためであるとし,かつ近代化した教育を国家富強の条件としたのである.

江戸末期まで長年続いた「五倫の道」をもって正学とした伝統的道徳主義の教学から,人智の開発を目指す知識主義=主知主義=教育への一大転換であったと言える.

言い換えれば,寺子屋制度から近代の学校制度への転換とも言える.

−−−−

※2:それ以降の政府は一貫して国民教育(権力にとって都合のよい人材)への改変を試みた。

http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou22/07kimura.pdf

豊橋創造大学短期大学部研究紀要 第22号

明治5年の学制下における小学校の教科の中で,伝統的教学の中心であった道徳は,下等小学校の第6番目の科目に「修身」として位置づけたに過ぎなかった.しかし明治13年の教育令改正において「修身」を教科の筆頭に格上げした.その後も「修身」の授業時数を増やすなどの施策をとった.元田も,その後,勅撰修身書「幼学綱要」を著し,それを一般に頒布し,道徳教育の儒教主義化に努力を傾けた.

・・

明治18年,第1次伊藤博文内閣が成立しドイツ国権主義の憲政を手本に,天皇制国家の体制化が進んだ.総理大臣伊藤博文は,初代内閣の文部大臣に同志「森 有礼」を任命し,国家主義的な国民教育制度の樹立を手がけさせた.森が着手した四つの学校令(小学校令・中学校令・帝国大学令・師範学校令)は教育を国家目的に奉仕させる体制を構築するのに貢献をした.

・・

主権者である天皇の名において勅語が制定される背景の一つには,維新以後の教育の動きと人心の状況を見る中で,何らかの確固たる指針を示す必要があったものと思われる.

その直接的な誘因になったのが,明治23年地方長官会議において,各府県知事総代であった東京府知事名で『徳育涵養ノ義ニ付建議』として,文部大臣に提出したことである.

・・後半で「且師範学校ヨリ中小学校ニ至ルマデ其倫理修身ノ学科時間ヲ増シ,盛ンニ徳育ヲ興スベシ.然ルトキハ,冀クハ今日猶狂瀾頽波ノ勢ヲ挽回シ以テ我国固有ノ元気ヲ維持スルコトヲ得ベシ.…………」と論じ,昨今の人心の状況を報告し政府にその対策を要望建議したものである.【教育ニ関スル勅語】は,この建議を契機として,最終的には,元田永孚の意見と修文を加え,国体の粋美を説き,それを教育の淵源とする井上毅の案が取り入れられ,天皇に上程された.そして,明治23年10月30日,勅語として発布されたのである.

・・

教育勅語の発布後,文部省は「小学校修身教科用図書検定標準」を定めたり,その後,修身を始め,国語・地歴など国体にかかわる教科書の著作権を掌握し,国定教科書の発行制度を確立した.

−−−−

※3:敗戦後、教育の民主化が占領軍によってなされた。

占領下の日本に,連合国最高司令官の要請を受けてアメリカ教育使節団が派遣された.
その報告書は,自由主義・民主主義を基調とする,日本の民主的教育改革の方向と内容を示すものであった.教育の地方分権と住民参加,単線型の「六・三・三」制の学校体系,教育の機会均等と男女共学,成人教育の重視等の理念は,「教育刷新委員会」の審議を経て昭和の教育改革として結実した.

これに基づいて『教育基本法』や『学校教育法』など,今日の教育法制の根幹をなす法律が制定された.六・三制の実施,社会科の新設,教育委員会制度の発足等,戦後の新教育の体制づくりが進められた.

−−−−

※4:この改革はただちに骨抜きにされた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

1948年(昭和23年)に設置された教育委員会制度は、教育行政の地方分権、民主化、自主性の確保の理念、とりわけ、教育の特質にかんがみた教育行政の安定性、中立性の確保という考え方の下に、教育委員会法によって創設された。地方自治体の長から独立した公選制・合議制の行政委員会で、予算・条例の原案送付権、小中学校の教職員の人事権を持ち合わせていた。

しかし、「教育委員選挙の低投票率、首長のライバルの教育委員への立候補・当選、教職員組合を動員した選挙活動」(文部科学省、2004)などにより、教育委員会は発足直後から廃止が主張される。

1956年(昭和31年)には、教育委員会に党派的対立が持ち込まれる弊害を解消するため、公選制の廃止と任命制の導入が行われ、教育長の任命承認制度の導入、一般行政との調和を図るため、教育委員会による予算案・条例案の送付権の廃止を盛り込んだ地方教育行政法が成立した。教育行政に対する首長の影響力が増したといえる。

−−−−

※5:任命制の教育委員会を経済界も批判した

教育委員会の廃止解体・縮小を真っ先に強く主張したのが、新自由主義経済改革を推進する社会経済生産性本部であった。同会は、1999年(平成11年)に、『教育改革に関する報告書―選択・責任・連帯の教育改革』を発表。その中で、小中学校と高校が市町村と都道府県という別レベルの教育委員会にゆだねられている意味が無いことや教育委員会が公選制でないために、文部行政の末端となっていること、更に、教育委員会の強大な権限と官僚的な組織が、学校の主体性の発揮を阻害していることなど、現行の教育委員会制度を厳しく批判し、社会教育・生涯学習部門の可能な限りの民間委託と学校教育に関する権限の校長への移管により、教育委員会の大幅な整理縮小を大胆に主張した。

−−−−

※6:人民は分断して支配せよ、という教育の復活を目指している。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E5%A4%89%E9%81%B7

大正〜太平洋戦争初期の学制

師範学校令(1886年)、実業学校令(1899年)、中学校令(1899年)、専門学校令(1903年)、小学校令改正(1907年)、高等学校令(1918年)、大学令(1918年)によって確立された学制が以下のものである。戦前の教育課程は、概ね以下の4段階からなる。現在の学制とは異なり複線型教育の特色がかなり強い。

  拍手はせず、拍手一覧を見る

 次へ  前へ

▲このページのTOPへ      HOME > 議論27掲示板

フォローアップ:

このページに返信するときは、このボタンを押してください。投稿フォームが開きます。

 

  拍手はせず、拍手一覧を見る


★登録無しでコメント可能。今すぐ反映 通常 |動画・ツイッター等 |htmltag可(熟練者向)
タグCheck |タグに'だけを使っている場合のcheck |checkしない)(各説明

←ペンネーム新規登録ならチェック)
↓ペンネーム(2023/11/26から必須)

↓パスワード(ペンネームに必須)

(ペンネームとパスワードは初回使用で記録、次回以降にチェック。パスワードはメモすべし。)
↓画像認証
( 上画像文字を入力)
ルール確認&失敗対策
画像の URL (任意):
投稿コメント全ログ  コメント即時配信  スレ建て依頼  削除コメント確認方法
★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。