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一般物象論 超概略
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投稿者 松浦 日時 2008 年 6 月 21 日 12:54:37: nX3mGLaD7LQUY
 

>人間は理念として、高みを目指すであろう存在だとは思いますが、それは、衣食住満ち足りた上で「一部の人が進む方向」だろうと考えます。
その過程において「ほとんどの人は脱落していく」のでしょうが、現実的に歴史を作り出すのは「脱落した大多数の人たち」だろうと思いますよ。
まあ、何を持って「聖賢」と差し、何を基準に「聖人」とするのか?という部分もありますが「性欲」という欲望を卑しいものと否定し、「食欲」というものを無理に押さえつけるような方向なら「歴史は流れを止める」のでしょう。

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歴史総体とは、物象化の不可逆過程である。

物象化の不可逆的プロセスは始まりと終わりが最初から明確に設定されている。
具体的には、人が人を所有し生態系には存在しない余剰が発生した時。この時、個物・因果律・一次元線形時間・経済・権力・階級が生まれ歴史が始まる。そして、全ての人間が相互所有の関係に置かれる時、すなわち全ての事象が市場の商品として現れる時、歴史は終わる。

これは、個物相互の相対関係の集積によっては全体は構成できないという存在論的原則に則っている。
(この原則を歴史上初めて明らかにしたのが古代ギリシャのエレア派。
要するに個物間の線形相対関係をいくら集積しても、構造はネズミ講の形にしかならないので拡大の終焉が構造の終わりとなるという原則。
歴史構造の全てがこれのみで構成されている。歴史に存在する制度が例外なく、常に内からの拡大圧力に晒されていることに気付ければ理解は一歩前進というところ。
なぜ、市場経済は拡大しなければ終わるのか。なぜ、科学は停滞は許されないのか。なぜ、ローマ帝国は滅びたのか・・・と、続いてゆく。)

さらに、これには厳格な、時空論が付随する。歴史世界には共有空間が存在しないこと。有るとすれば個物毎の虚空以外はないこと。時間が点に属し、一般空間には任意の時間が存在すること。点と点の線形関係が因果律を生み出すこと。そこに夫々の点に属する一次元線形時間が発生し不可分に関与すること。それは、個物の変化量のみによって表されること。そしてこれらが全て物象現象であるため、現実には存在しない虚構であること。それゆえに全体を構成できないこと。
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(現象には個的存在はあっても全体はない。厳格には個物相対関係論で、因果律を原則とし個物に属する一次元の線形時間が介在する。これが、近代科学。時間は空間に属するのではなく、個物毎に独立して存在する。そもそも、現象世界には共有空間など存在しない。あるとすれば、個物毎の虚空だけだ。エルンスト・マッハとアインシュタインの言葉を借りれば、「物理学に空間は存在しない。在るのは点と点の関係の総体だけだ。」そして、因果律は点を基点にして発生し、必然的に時間は点に属する。物理方程式で表現されるとは、この事を意味している。したがって、日常的な空間に幾つの時間が存在しているかという問いの答えは、任意の数となる。)

(実は、生物学との方がもっと分かりやすい、例えば、ラ・マルクの生得形質の遺伝説は、生物学(ダーウィニズム)にはなぜ包摂できないのか。それは、DNAが逆転写しないことによるのではなく、根元的に生物学を科学として成立させている因果律の単位制の問題が関与している・・・)
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それが、全てを体系とは無関係な超越的個物にしてしまった虚構から生じた結果であり、代償であること。
それは、人が人を所有する次元でのみ現れること。
それ故に、個物相対運動論を存在論上の基底とする科学は、現実の体系たる自然とは無関係に、究極的に完全に例外無く、余剰(厳格な定義:他者に所有される人間労働力)の加工技術にしかならないこと。科学が階級的技術なのは、利用の仕方に問題があるのではなく、存在論前提からのア・プリオリな原理的性質であって、修正の可能性は全くないこと。など
(ここは最重要部ですが、さらっと流し過ぎて理解は無理ですね。)

この存在論的物象化の土台の上で、全ての事象の物象化がシンクロしながら進行してゆく。

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物象化の法則は、第一法則が、不可逆法則。
これは、存在論的原則に基づいて、始まりと終わりが明瞭にあるということ。

第二法則が、レベル均衡法則。
これは、第一法則の物象化の進行は、最も物象化の進んだレベルに全体が同調して進んでいくということ。
歴史的現象では、例えば先住民社会が僅か数十年で体系文化を失い市場化していく現象がこれの現れ。だから、物象化は熱力学の第二法則のエントロピーの増大よりも進行が早いといえる。

この第二法則を利用することで、世界のどんな小さな断片からも全体を構成できるようになる。異なる物象化レベルにある事象は共時的に存在せず、全ては同一の物象レベルにあるという原則から、例えば文学作品から、法制度、経済体制、自然学の方法論、政治体制、その世界における人の内面、数学の形態、音楽の楽理、宗教の内容、その他全てのものが再構成できる。それはどんな事象からでも、全て。DNAの断片から全身を構成するよりも確実に。もちろん私にはそれができます。

そして、一番重要なのが、この第三法則、消滅法則。
これが意味するところは、物象化現象は宇宙が消滅していくプロセスだということ。事実は何も生まれていない、唯、消滅しているに過ぎない。
歴史は宇宙が消滅している不可逆のプロセス以外の何ものでもない。何かが生まれている様に見えても、厳格には、前の事象の引き算だけで全てが構成できる。付加史ではなく、減算史なので恣意性が入る余地がない。
(比喩としては、加水分解によって炭水化物が分解してアルコールが生じ、それから酢酸、終には水と二酸化炭素になっていくのに似ているが、物象化の過程がこれと決定的に異なるのは、前者は物質そのものは保存される(総質量は変化しない)のに対して、物象化は、いかなる保存則もない真の消滅だということ。)

実はこれだけで、最良の教師が教育して20年以上はかかるが、通常一生では足りないので世代継承的教育が必要。
でも、何も説明しないのでは意味がないので、例を挙げるなら、

『言語』
コスモロジー>体系的言語(例、14世紀以前のドイツ語)>単位構成の言語(近代ヨーロッパ言語、日本語他)
これは、体系から単位構成に物象化する過程で意味がどんどん失われていくことを明らかにしている。最大の意味は体系に属するので、体系が崩壊する過程で意味そのものが、世界から消滅してゆくことになる。このことを、ルソーは『言語起源論』の中で、商人や公証人の言葉の前に詩人の言葉があったと表現した。

14世紀以前のドイツ語が現代ドイツ語に翻訳不可能なのに対して、現代英語が現代ドイツ語に翻訳できるという、一見不可解な事が起きるのもこの法則のため。つまり、体系と個物は繋がりがなく、個物同士は交換可能ということ。
これは、ソシュール記号学のいうラングの共約不可能と、現代言語の単位交換性の間の原理的な齟齬を説明してくれる。
そして最後には、全ての意味が空疎に消滅してゆくことを示している。

以下、(>は減算 欠落、喪失、解体、消滅を表す)
コスモロジー>伝統法>ラント法(ゲルマン法)>ローマ法 
コスモロジー>天文幾何学>幾何学>近代数理数学
コスモロジー>スコラ哲学>定性理論>定量理論(近代科学)
コスモロジー>ヴェーダ・ウパニシャド>個的内観論(仏教、自然と人為を区別できないのが特徴)

絶対価値(現象学的な志向対象の無い概念で構成される)>相対価値(現象学的存在で構成される)

歴史の全ての事象は宇宙体系から生まれ、その体系の消滅過程に姿を現すものでしかない。

(だが上記の内容を具体的に正確に理解しなければ意味はない。上記の記述は不十分。それが、最良の教師が教育して20年以上は掛かるとした理由。
それはこれが、一つの表現ではなく、物事全ての本質の理解を可能にするからです。

正しい選択をするために、いずれ人類は事実を理解する必要があります。
この事業にはこの体制が終焉して後、世代交代を繰り返しながら千有余年かかることになります。)

当然、このなかに生態系>経済>歴史消滅の過程も含まれる。

これら全ての、物象論を統べるのが、一般物象論としての『体系>個物>消滅』を包摂する存在論的物象論。
存在論形式の物象性を扱う物象論こそが、世界の一般学となります。形式とはいっても存在論形式の差異の中に世界の本質の全てが包摂され、何一つとしてその範疇から漏れるものはなく、本質を例外なく明らかにできます。

これは、歴史的事象にとって、物象性を超える意味などないからです。

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理解できれば良いのだが、もう分かっただろうとは言いませんが、

価値の相対化、価値の多様化といわれる現象も、実体は価値の解体、消滅に過ぎません。

「生活主義」と言うのは、全ての社会倫理精神の消滅のプロセスで最後に表れるドン詰りの墓場に過ぎないということです。

消滅する寸前の最後は敗北のみです。未来には届きません。

あなた方こそが、人類史の物象化過程、即ち、宇宙の消滅プロセスに最後に現れる姿なのだということを意味しています。

人本来の姿ではないというのは、このことを示します。

それは、自然に最も遠いことを意味します。
もし、生活主義が自然の原点もしくは、それに近いとでも考えるなら、その精神の中では、自然は絶望的に不毛であることが分かります。
自然観の空虚は、そのまま世界基底の闇につながります。

文化として究極の不毛から思考することを疑うことも無く、何度も言い聞かせながら行うことが行為者の全面的責任で無いとしたら。
既に、倫理的精神的禁治産者にこれ以上、何を求められるのか。
これは構造そのままの結果だから、必然的に個体数は多い。だが同時に、構造の決めるままに、死すべき者であることも決まっている。

それなら、これ以上は問いますまい。

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古代古典の聖人は既にそのことを知っていました。だからこそ二千数百年前、今、世界と闘わなければ全てが失われことになるという悲壮な決意で闘い続けたのです。
如何にその世界の中で孤立しようとも。ザラツストラも、孔子も、未来に暗黒だけを見ていました。
それが理解するのが、古典と、世界理解の一歩です。

したがって、一般物象論は決して特殊な理論ではなく、古代古典の精神を厳格な学問として精錬したものです。
特にその中心の存在論形式の物象原則は、グレコ・ローマンの文化伝統の中で唯一、至上の人格を意味する立法者(ルソーの一般意思の体現者)とされたパルメニデスの認識と同一です。それは、アリストテレスも含め彼以降理解されることのなかったゼノンのテーゼそのものなのです。

多が理解できることに特別な意味などありません。それを基準に評価しようとすること自体が、終わってゆく末期資本主義社会の悲しき過ちです。

これは誰の言葉でもいいのです。ヴェーダにもアヴェスタにも(これは、傍流ですがスッタニパータにも)アボリジニーの伝統の中にも、そしてルネ・ゲノンの言葉にも見出せます。今さら誰の承認を必要としましょう。

全ては我流ではなく、伝統的精神の表現です。重要なのは最高の英知を血肉にできるかです。

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手を、胸に当てて考えてみれば分かること。我々は、歴史と言う暴力が自然から延々と何もかも奪い尽くした後に生まれた、文字通りのロスト・ワールドの最後の世代なのです。

既に全人類史のあらゆる事象が、絶対理論である一般物象論の掌中にあります。

それならなぜ、一般物象論が永遠の世界の始まりなのか。
それは、人が初めて歴史を超えることを可能にし、歴史総体の全てを平然と掌に乗せることを可能にするから。
そして同時に、全ての正当性を、歴史から完膚なきまでに剥奪し、
全ての価値を宇宙に取り戻すから。
そして、自然、宇宙存在こそが「何もないこと」の対極、すなわち、全てが存在する原点であることを教えるからです。

それが、小さな人の世界のことに過ぎないとしても、全一なる宇宙は等しく求めている。

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