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量子力学と物象化プロセス  シュレーディンガーの線形劇場を通して
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投稿者 松浦 日時 2008 年 6 月 27 日 16:55:00: nX3mGLaD7LQUY
 

量子力学の基礎方程式は、系の時間変動を記述する状態方程式であり、次のように表される。
(注意: 以下における +,‐ は状態記号を表し、加算記号の〈+〉とは区別する。)

Ψ(t)=Ut[Ψ(0)]  時刻 t における系の状態Ψ(t)、 Ut[・]は各々の系に固有

これは、不特定の状態ψ1,ψ2と任意の時刻 t に対して
Ut[ψ1〈+〉ψ2]=Ut[ψ1]〈+〉Ut[ψ2] が成立することからも判るように線型方程式である。

いわゆる重ね合わせの状態は、期待される干渉効果の各々の状態をψ+(t),ψ‐(t)として、

ψ(t)≡ψ+(t)〈+〉ψ‐(t) とおけば、

ψ+(t) と ψ‐(t) がそれぞれシュレーディンガー方程式を満たし、シュレーディンガー方程式の線形性によってψ(t)も同様にシュレーディンガー方程式を満たすことになる。

・問題は、このψ(t)の表す線形結合状態が、シュレーディンガー方程式の線形性によって、どのレベル(macroscopic)にまで拡大しうるかということだ。

このシュレーディンガーの『線形劇場』の内容を簡潔にまとめるなら、

原子核の重ね合わせの状態のうち、崩壊していない状態をψ+,崩壊している状態をψ‐とし、
時刻 t における生きている猫の状態をΨ+,死亡した猫の状態をΨ‐とし、時刻0の猫の状態をφとして以下のように表す。

Ψ+=Ut[ψ+φ], Ψ‐=Ut[ψ‐φ]

原子核と猫を合わせた全系の初期状態Ψ(0)は、以下に与えられ、

Ψ(0)=(ψ+〈+〉ψ‐)φ=ψ+φ〈+〉ψ‐φ

基礎方程式の線形性と上記の式によって、時刻 t の全系状態Ψ(t)は以下のようになる。

Ψ(t)=Ut[(ψ+〈+〉ψ‐)φ]=Ψ+〈+〉Ψ‐

これが例の、猫にどうかお許しを。で、始まる寸劇の意味するところで、シュレーディンガーは巨視的線形結合の典型として、猫の生きている状態Ψ+と死んでいる状態Ψ‐の重ね合わせを描いた。

この論理は以上に示したように、シュレーディンガー方程式の線形性のみを論拠として成立したのものである。
一般に、観測問題も同様に、量子力学の重ね合わせから実在論への移行、TAO(Transition from AND to OR)と解釈されている。

それでは上記を踏まえたうえで、シュレーディンガーを始めとしてホーキングの量子宇宙論にも共通する重大な欠落について、物理学の持つ物象化の問題を指摘することにより、ここに示してみよう。

まず指摘しなければならないのは、波動方程式の収縮は不可逆ということだ。
このことは、シュレーディンガー方程式の線形性は単純に拡大できないことを意味している。
凅・凾吹”(hはプランク定数)で知られる位置と運動量の不確定性原理も含めて、量子力学の原則は系にしか適用できない。

そもそも量子力学においては、存在確立密度の時間的変動を表す時間幅冲とエネルギー幅僞との間に冲・僞=hの不確定性関係は成立しても、時間という力学量はなく、位置と運動量の不確定性関係の位置測定に対置できるような時間測定は存在しない。

これは、既に位置、運動量などの物理量の確定した存在、すなわち固有の時間の張り付いた個物(まさに、この『線形劇場』に登場する猫)と、シュレーディンガー方程式はいかなる関係も持つことができないことを示している。
したがって、上のΨ(0)=(ψ+〈+〉ψ‐)φは、端から成立しないことになる。

問題は、微視的か巨視的かではなく、系か個物かということだ。

要するに、波束の収縮の原因は、シュレーディンガー方程式の線形性の拡大範囲という、それこそ原理的に境界のあるはずもない線形連続性の中にはなく、時間という物理量の存在しない「系」から、固有の時間なくしては存在の定義さえできない「個物」の間の存在論的不連続性、まさに厳格な物象化のプロセスの中にある。

それが、波動方程式の収縮の不可逆性に唯一の根拠を与えてくれる原理だ。

しかし、量子宇宙論についても驚くべきことに、虚数時間界から実数時間界への個物の移動を描くのみならず、逆行も可能という出鱈目を平然とやってのけている。これは、既に位置と運動量の確定した存在が量子論的系に化けるというに等しく、ひたすら概念的理解の不全が招いた結果である。(数理的には等価に見える。)

この概念的理解の不全は、成立時から今日まで一貫して科学という学問を深く特徴付けるもので、体系を持たず、現象を追いつつ細分化と拡大を続けなければ終わってしまう、それ自体が物象化した存在であることが決定付けられている風俗の必然的特質といえる。

殊に第二次世界大戦後は、科学制度の徹底した経済化の中で、数理的形式を追うことのみで概念理解が覚束ない職業実務者ばかりが量産されるに及んで、この欠陥は、もはや科学の決定的な属性となって固定されてしまった。
また、これら職業科学者を含む大衆は、科学の方法は過去において一度も定義されたことがなく、それが如何に困難なのかということの根拠を知るところからは更に遠い状態に置かれている。

「コペンハーゲン的解釈は、あまりに概念的に汚い。純粋経験論などあるはずはないのだから。」という、量子論の黎明期から一貫して概念的不整合性に苦悩し続けた老物理学者の最晩年の学問的良心に、いずれ終わりが確実に約束されている科学界は耳を傾けることはなかった。

-------
以上は、科学の物象性に触れる重要性を考慮して私の学問に対する誠実を果たすことを目的に記したもので、世間に対するそれとは自ずと異なるのはいうまでもない。

量子力学の観測問題についても、原理的に世界を網羅する物象論をもって初めて事実を明らかにできるのであり、専門家でない人に付け加えるなら、上記のような論は今日まで、その片鱗も姿を見せたことはない。

理論は全て理解してはじめて意味を持つのであり、イメージや解釈で済ますことができる文学とは違うが、現時点では最良の研究者を想定してもなお困難な理解を求めることは期待すべきではないだろう。
例えば、前稿のソシュール言語学についても、ソシュール言語学が一般言語学になりえない理由を予め知っていることを前提とした説明であり、現状のみに目を向けるのなら世界の中でその対象は数人に限られてしまうのだが、それを無視しなければ質が確保できず、構造概念を明確にする上で避けて通ることはできない。
学問的創造は未来の精神のためにあるのであって、眼前の時代のためにあるのでは価値は限られる。
まして、既に終わりが見えている末期資本主義社会に同床していては、共に消えることになる。それでは、普遍精神の名には値しない。

原理的に物象性は蓋然性を持たぬ絶対概念であり、仮説とは無縁であるために、純粋な物象論が仮説になる可能性も等しく存在しないのだが、そもそも絶対存在と歴史的にも縁がなく、そのうえに物象性が全く解らない人に説明しても意味がないのは自明であり、本当に物象性が理解できれば、少なくともマルクスやソシュールのように、それを目的とした人生を生きているはずであるから自ずと数は限られる。
これが最後の稿となる。
 

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