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小説「親鸞」連載記念 親鸞聖人750回忌記念企画 親鸞展開催中(@JR名古屋高島屋 12月28日〜2011年1月16日)-c
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/454.html
投稿者 上葉 日時 2010 年 12 月 29 日 00:23:57: CclMy.VRtIjPk
 

(回答先: 親鸞 激動篇 最後の新聞小説として ― 五木寛之-c 投稿者 上葉 日時 2010 年 12 月 28 日 19:48:58)

中日新聞:親鸞展特別企画:日刊県民福井から(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/shinran/shinran1.html


【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月01日

◆1◆ 親鸞聖人修行の絵図 (部分、伝鎌倉時代、茨城・阿弥陀寺蔵)
山中で自らと向き合う姿

 貴族社会から武士台頭の世へと移り変わる動乱の時代、親鸞は承安三(一一七三)年、京都の下級武士・日野有範の三男として誕生します。一説では家の事情によって九歳で出家し、範宴(はんねん)と名乗って比叡山で約二十年間の修行生活を送りました。そこでは念仏をとなえて修行する堂僧を勤めていたとされます。

 この間、さまざまな厳しい修行を積んだようですが、自己の煩悩を打ち破れず、悩みもがき、苦しみ続けていました。そんな状況を打ち破ろうと、二十九歳の時、比叡山を下って京都の六角堂で百日間の参籠(さんろう)を決意します。

 ここで紹介する「親鸞聖人修行の絵図」は、山中で修行をする山伏のような姿で描かれた肖像画で、親鸞が自らと向き合あう姿を描き出していると考えられます。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

※この欄では生涯を通じて親鸞という名前で表記します。その生涯は不明な点や、いくつかの説があります。

    ◇

 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は十一月二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。展示品の中から注目の七点を紹介する。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489。




中日新聞:親鸞展特別企画:日刊県民福井から(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/shinran/shinran2.html

【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月02日

◆2◆ 阿弥陀如来立像 (鎌倉―南北朝時代、京都・東本願寺蔵)
南無阿弥陀仏に道 見出す

 親鸞はかねて信仰していた聖徳太子が創建したとされる京都の六角堂に籠(こ)もり、本尊の観音菩薩(ぼさつ)の夢告に今後の身の処し方を求めました。

 参籠(さんろう)から九十五日目に見た霊夢によって、自らが極楽浄土に生まれることを確信した親鸞は、これをきっかけに、生涯の師となる法然上人と出会います。

 法然は、東山・吉水の地で「阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願によって念仏すれば、みな浄土に往生できる」と説く専修念仏を布教しており貴族から民衆まで広く信者を集めていました。

 親鸞は法然のもとに百日間通いつめ、「阿弥陀仏にすべてを任せて念仏を行う」ことに自分の道を見出し、法然の弟子となりました。

 親鸞は「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依しますという意味)という名号そのものを阿弥陀如来とみなして念仏(名号をとなえること)を行いました。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

    ◇

 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は十一月二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。展示品の中から注目の七点を紹介する。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489。




中日新聞:親鸞展特別企画:日刊県民福井から(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/shinran/shinran3.html

【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月3日

◆3◆越後御教化旅立の立像 (新潟・光源寺蔵)
建永の法難で越後へ流罪

 自らの生きる道を確信した親鸞は綽空(しゃくくう)と名を改め、法然上人の元で研鑽(けんさん)を積みます。そして、限られた弟子のみが許される法然の著作『選択本願念仏集』の書写や、法然の肖像画を描くことを許可されるまでになりました。そのころ、専修念仏の教えは多くの人々の信仰を集めていたため、従来の仏教各派から激しい反発を受けていました。

 そんな中、建永元(一二〇六)年、後鳥羽上皇が寵愛(ちょうあい)していた女官二人が、法然の門弟主催の法会に参加して無断で出家するという事件が起こりました。上皇は専修念仏停止の院宣を発し、当事者四人を死罪、法然と親鸞を含む八人を流罪としました。これを建永(承元)の法難と呼びます。法然は土佐へ、親鸞は越後へ流されることとなります。

 「越後御教化旅立の立像」は、旅姿をした親鸞の木像で、右手に杖(つえ)を左手に念珠を持っています。像高五十九センチと小ぶりながら、細部まで表現されています。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

    ◇

 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489




中日新聞:親鸞展特別企画:日刊県民福井から(CHUNICHI Web)
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/shinran/shinran4.html

【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月5日

◆4◆筑波山餓鬼済度の御影 (江戸時代、茨城・常福寺蔵)
貴賤の別なく念仏の教え

 建永(承元)の法難によって流罪となり、還俗(げんぞく)させられた親鸞は、越後で流人生活を送ります。

 藤井善信(よしざね)という俗名を与えられますが、このころから非僧非俗の自分を表現した名前、愚禿(ぐとく)親鸞と名乗りました。四年後に赦免された後も京都へ戻らず、数年後に関東へ赴きます。妻子を伴って現在の茨城や栃木両県など各地を布教しながら、二十年暮らしました。その間、親鸞は念仏者として、念仏の教えを広く伝え、分かち合うことに力を注ぎました。

 親鸞の元には貴賤(きせん)の別なく、その教えに共感した人々が集まりました。親鸞は彼らを念仏する仲間ととらえていましたが、親鸞が京都へ戻った後、各地で門徒集団が生まれます。

 「筑波山餓鬼済度(がきさいど)の御影」は、親鸞が筑波山に詣でた時、餓鬼の世界に落ちた人々を救ったという伝承を描いています。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

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 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489




中日新聞:親鸞展特別企画:日刊県民福井から(CHUNICHI Web)
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【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月6日

◆5◆親鸞聖人伝絵(でんね) (部分、16世紀後半、茨城・光明寺蔵)
生涯閉じ荼毘に付される

 親鸞は六十歳のころ、三十年ぶりに京都へ戻ります。『教行信証』を完成させるためとも言われます。京都では専修念仏への迫害が続いており、親鸞は著書の執筆に専念したと考えられています。

 念仏往生に関する記述を、経典や高僧の著述から抜き出して注釈を加えた『教行信証』、庶民にわかりやすく念仏を広めるための『三帖(じょう)和讃』、関東の門弟との手紙のやりとりなど、読む人にふさわしい形でさまざまな記述を残しました。

 念仏をすることで阿弥陀仏(あみだぶつ)に救われるという他力の教えが、間違った解釈で伝わらないよう、親鸞は自らの著述で示し続けたのでしょう。そして弘長二(一二六二)年、親鸞は九十年の生涯を閉じました。

 こちらは『親鸞聖人伝絵』に描かれている、親鸞の遺体を荼毘(だび)に付す場面です。親鸞の葬儀は、京都・鳥辺野の南の延仁寺で営まれました。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

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 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489




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【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月8日

◆6◆恵信尼公坐像  (新潟・光源寺蔵)
ふっくらして柔和な表情

 親鸞は僧侶の肉食妻帯が戒律で禁止されていた時代に、初めて公に妻帯しました。師である法然が「念仏の妨げになるものはやめるべきで、妻帯しないことが妨げになるなら、妻帯して念仏するべきだ」と述べたのを受けて、妻帯を決意したとされます。

 親鸞の妻である恵信尼は、一説には中流貴族・三善為教(為則)の娘と言われています。親鸞は恵信尼と子供たちを伴って、越後から関東で布教生活を送りました。その後、理由は諸説ありますが、親鸞が京都へ戻った際に恵信尼は同行せず、越後で晩年を過ごしています。

 京都で親鸞の世話をしていた娘の覚信尼へ宛(あ)てた手紙「恵信尼文書」(恵信尼書状類)には、若かりしころの親鸞の行状が詳しく記されており、親鸞を研究する上で、貴重な資料となっています。

 「恵信尼公坐像(ざぞう)」は、高さ三十センチの小さな木像で、ふっくらとしていて柔和な表情を浮かべています。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

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 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489




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【親鸞展特別企画 親鸞をたどる】

2010年11月8日

◆7◆善鸞上人御影 (江戸時代、鯖江市・證誠寺(しょうじょうじ)蔵)
問題を収められず絶縁に

 親鸞には六人、または七人の子どもがいたとされ、その一人が善鸞です。親鸞と善鸞については、次のような話が伝わっています。

 親鸞が晩年に京都へ戻った後、関東の門弟らの中に、教義について誤った解釈や論争が起こるようになっていました。それをただすために、親鸞は善鸞を派遣しました。

 しかし、善鸞は問題を収めることができず、親鸞は善鸞と親子の縁を切らざるを得なくなり、義絶の手紙を送ったとされます。善鸞が五十歳ごろの出来事と言われています。その真相を巡ってはいくつかの説があり、現在も研究が続けられています。

 「善鸞上人御影」は、今回の「親鸞展」の中で唯一、福井から出展されている寺宝です。江戸時代の作とされ、現存する善鸞の肖像画として貴重な作品です。 (福井市立郷土歴史博物館学芸員・高瀬裕美)

  =終わり

    ◇

 「親鸞展」(日刊県民福井、中日新聞共催)は二十九日まで、福井市立郷土歴史博物館(同市宝永三丁目)で開かれている。会期中無休。一般八百円、高校・大学生六百円。(問)同博物館=電0776(21)0489




親鸞展 | 親鸞聖人 750回忌記念企画 公式サイト
http://www.shinranten.jp/
10階 催会場 | JR NAGOYA TAKASHIMAYA
http://www.jr-takashimaya.co.jp/event/
小説「親鸞」連載記念 親鸞聖人750回忌記念企画 親鸞展 チラシ(PDF 1.5MB)
http://jr-takashimaya.jp/event_pdf/shinran.pdf
「親鸞展」 | 弐代目・青い日記帳
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=2122  

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