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『天使の分け前』失業中のスコットランド人の若者に関する、余り厳しくないお話
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/815.html
投稿者 グッキー 日時 2013 年 4 月 13 日 13:49:40: Cbr3d6O9vj7Mc
 

『天使の分け前』失業中のスコットランド人の若者に関する、余り厳しくないお話
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-97a1.html
wsws.org

リチャード・フィリップス

2012年8月10日

ベテランのイギリス人映画監督ケン・ローチと彼の長年の脚本家ポール・ラヴァティによる『天使の分け前』は、グラスゴーの労働者階級の失業中の若者集団が直面する厳しい現実に関する心あたたまるとはいえ、やや特殊な物語だ。

天使の分け前

高級な蒸留酒が熟成する際、毎年蒸発してゆく少量のウイスキーのことを題名にした映画は、統合失調的な作品だ。労働者階級の主要登場人物は正確に描かれ、何人かの素人俳優達、特にポール・ブラニガンは良い演技をしているが、映画の穏やかな結末は、もっともらしく思えず、映画中でそれまでに描かれた鋭い社会観察を鈍らせてしまっている。

話はグラスゴーの多くの虐げられた労働者階級地域の一つの出身、失業中の若者ロビー(ポール・ブラニガン)を巡って展開する。映画は、暴行に対して判決を受ける、裁判所の審問場面で始まる。かつて少年院生活もしたことのある彼は、監獄行きか、最後のチャンスである、地域社会の作業奉仕に行くかの選択に直面する。

ロビーのガールフレンド、レオニー(シヴォーン・ライリー)は最初の子供の出産を間近に控えており、裁判官は彼を作業奉仕に送ることに決める。そこで彼は三人の友人、アルバート(ゲーリー・メイトランド)、リノ(ウイリアム・ルアン)と、モー(ジャスミン・リギンズ)と出会い、熱烈なウイスキー愛好家の指導者ハリー(ジョン・ヘンショー)に親身に扱われる。

ロビーは、ハリーに励まされ、自分には繊細な識別力があり、高級スコッチ・ウイスキーの地域別の複雑な味や、他の微妙な違いを正確に判断することができるのに気がつく。ハリーは後に地域社会の作業奉仕集団を、ハイランドの蒸留酒製造場見学に連れて行く。

厳しい経済状況、ほとんどない仕事の見込み、かつての近隣の敵による殺すという脅し等に直面して、ロビーは、よその蒸留酒製造場に押し入り、数百万ドルでオークションにかけられようとしている樽から数リットル盗み、それを、いかがわしいウイスキー販売業者に売る計画をたてる。ピーター・カッタネオの“良い気分にさせてくれる”映画『フル・モンティ』(1997)風の趣に加え、ウイスキー窃盗の話題が、明らかに映画のかなりの部分を占め、ありきたりなキルトにまつわるジョーク、どじな警官、そして明るい結末を含めて、物語の調子を設定している。

ローチとラヴァティは明らかに、登場人物の性格を理解し、すっかり共感しており、彼らの多くの映画と同様、マスコミや、イギリスの支配層による、労働者階級の若者達の際限のない非人間化に対抗しようとつとめている。

ラヴァティが、あるジャーナリストに説明した様に、『天使の分け前』のアイデアは“フラストレーションと、それだけでなく、若者達の扱われ方に対する憤激からきている。彼らの多くが今や、一生仕事無しと宣告されるのです。‘お前の人生は無意味だ、お前は数に入らない、お前は我々にとっては重要ではない、という終身刑のようなものです。…’[こうした若者達の]生命力の一部を捉えてみたいと思ったのです。彼らの機知、彼らの楽しみ、彼らのフラストレーションや弱さを。”

多くの映画監督にとって、こうした心情は稀だが、『天使の分け前』を支えている社会問題に、より忠実な、より劇的に複雑な結末であれば、喜劇的で、本当に人間味のある要素が一層強化されたろう。いずれもスコットランドを舞台にして、それぞれアルコール依存症やヘロイン中毒を扱った、ローチとラヴァティの『マイ・ネーム・イズ・ジョー』(1998) や『Sweet Sixteen』 (2002)の方が、より力強い作品だ。

Sydney Film Festival-Part 3: Some naturalistic and mostly credible depictions
By Richard Phillips 10 August 2012から、この映画に関する部分のみ抜粋。

記事原文のurl:http://www.wsws.org/en/articles/2012/08/sff3-a10.html
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非自発的失業は、政治の犯罪か無能だとどうして考えられないのだろう。

分業化社会は生産した商品の交換で成り立っている。
交換が出来なければ自給自足経済の方がましだ。

交換が出来なければ非自発的失業者が発生し、困窮者が発生する。
この交換をスムーズに行わせるのが政治の役割です。
国民に充分なマネーが行き渡れば交換がスムーズに行われます。
マネーが偏れば交換が止まってしまい、非自発的失業者と困窮者が
発生します。

そして政治はマネーを偏らせるような政策ばかり取ります。
これは犯罪か無能の証明です。
しかし国民に非自発的失業は政治の犯罪、無能の証明という自覚が無い。
非自発的失業があるのが当然と考える馬鹿ばかりが増えてしまった。
これでは政治の変わりようも有りません。

そして政治の選択も、犯罪、無能政党と、犯罪、無能政党との
選択というように国民に選択の余地も無くなってしまった。

バブルまでは非自発的失業など、本人に何らかの欠陥が無ければ
見た事が無かった。
労働需給はタイトで企業は従業員の確保に汲々とし、毎年、賃金は
上がって行き、それで個人消費も毎年増え経済成長してきた。
まともな経済政策をすればこれが当然なのです。
労働需給がタイトなら最低賃金などというものは必要ないくらいです。

『リデンプション』 大都市の片隅で空き缶回収で暮らす人々
http://democracynow.jp/video/20130131-3

最高学府を出て企業で表彰されるような人でも、
大量リストラが起きれば町で空き缶を拾うようになる。

非失業なんて簡単に無くせるのに、非失業が発生するのが
当然のように装い、非自発的失業を発生させる。
すべては資本と企業が儲けるため。

これを政府の犯罪、無能と認識できない国民では
どうにもならない。
 

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コメント
 
01. 2013年4月13日 15:52:08 : OIxNYWfJog
訂正
「非失業なんて簡単に無くせるのに、非失業が発生するのが」

非自発的失業です。自発的が抜けてました

非自発的失業=職を探しても職がないということ。


02. 2013年4月14日 20:36:44 : RtHpc6Pa3U
この記事はめちゃくちゃ注目すべき記事なのに
閲覧数は伸びようとしない、このことが日本社会の現実です。
投稿者の主張は理解できるが、おそらく、
人々の「政府の犯罪、無能と認識できない」ありさまには理由がある。
無数に理由と口実が積み重なり壁となっている。
かりに人々がむしろ、このことをよく理解しているとして、
じゃあどうすればいいのだろうか、というところで躓いている。
単純だ。声を上げればいい。そうだ。
無数の人々があちこちでこの非自発的失業をうみだす政策ばかりの政治の無能、
犯罪を断罪するようになれば、、、
いいのだ、ろう。

03. 2013年4月14日 23:53:27 : TUPxsc98ho
小泉内閣の時代自己責任と云う言葉がテレビなどで頻繁に使われていました。とても嫌な言葉で何か違うとは思っていてもその時には気づきませんでした。非自発的失業は自己責任にさせられてしまうことを。


04. 2013年4月15日 02:48:07 : q931E3NW4E
政治に信頼を置き続けるほか無いと考えるからではないでしょうか。もうそれはギャンブル性にも似ているようにも感じうけるのですが、これ迄に国民性といった人々の意識は、そうした経済主体の政治に全体主義的なモノの見方から随分と遠ざかる事へと誘導されて来た様に感じられます。
これまで競争に命を削って懸命に生きてきたと主張する方々には頭が上がりませんが、確かにそれは人として生きた証故の正論ともお見受けいたします。ですが、それはまたそこに、各人の自己犠牲の上に政治が成り立っているのだとすれば、これは社会がそれを人に強いる必要性といったものがあるのかどうかを今は議題に挙げるべきものである様にも思えます。何故なら、そこには今ではまったく人として看做せない、非人道的とも取れる残忍性としてのものを隠していることを公認することになるのであり、社会の暗部や歪みとしてのものを助長させ、子供たちの生活に迄影響を及ぼすものになるからです。(勿論こんないいぶりは立て前であるのですが)これは立て前として国民の為にと政府が掲げる社会性の在り方として大いなる矛盾を示すものになる筈です。経済の発展に適度として憚らない競争主義社会をこれ迄以上に推進するからには、それなりの脱落者に対する受け皿としての機構もが必要である筈ではないでしょうか。

エネルギー革命が全てを分つだろうと考えても居ます。要は最低限の文明レベルを落とさずに、人が生きる術を手にしさえすれば、皆が納得する訳であるのですから。
何かにやきもきしている間にも、新しい革命的な手腕を持つものは確実に現れて来ていて、今既に農地でのメタン生成による独立したエネルギー循環型社会が各地方に芽吹き始めているようです。
ひとつのモデルが成功を見せたからでしょう。
そこには、人々の意識が変化するにも段取りが必要だと言えます。
継続してそうした新たなエネルギー産業などへと意識が注がれ、中央主権に寄り掛からない生き方を模索出来る様にもなれば良いのですが、まずはその為のニュースをどう起こすか、作るか、その力をどう集めるか。それがここでの議論とはならないでしょうか。
そう簡単にはいかないという事を一方では了承しているからこそ、ただ安易な批判に帰着するのではないでしょうか。それは自分をそう感じて責めている事にも似ていると思えるのですが。
私もそのように人をつっつくだけしてこの場を去りたいとは思いませんが、いかんせん書きたい事に歯止めが利かないのでここで切り上げたいと考えます。ご無礼つかまつります。

私の場合、(脈絡は無いのですが)仮に今後各地方に中央から力の遷移が起こったとしても、人々の意識が変わらなければ、そこでもまた同様にこれまでの社会全体の縮図通りの事が起こり続けるだろうという予測が立つので、社会と云った枠組みが変わるだけではけして、人々は満足した生き方を手に入れる事は無いのだろうと考えてしまいます。すると現在のままでも、人々の生き方と云うものは各個人ごとに見つけられるべきものであるような気がしてしまいます。
何よりも先ず、人々の意識が如何にして全体に変化をもたらすかと云う事に関心を持って頂きたいと考えています。
勿論、社会が人にとって優しいものであれば、人々はこの地上を楽園とするだろう事は知っているし、またそれを実現する事が、人々の、本来の、「社会を必要とする理由」であると言えるのではないかと考えます。それを妨げるものは自然な文明の発展途上には本来現れるべくもないのではないでしょうか。
争いの続いた歴史を土台として人と云うものを捉える間は、私は理想郷的な満足した社会など生まれる筈が無いと考えています。
マネーの持つ求心力はこうした社会の在り方、そこでの人の働きぶりから生まれているものであるとも言え、それはエネルギーとして絶大なものであり、それが正当化されうる限り、つまりこれまでの社会観を築き上げて来たものの中心にそれが在る限り、そのシステムを悉く分解してしまうことは難しいと言ってしまえるものです。大きな変化を期待するには、それを上回る余程のことが起きるほかないと考えてしまいます。金が命を繋ぐものとしての同義的な扱いを受けている間は、易々とそこから外れる動きを採るものはやたら現れはしないでしょう。そしてまたそもそも金があることが悪いのではなく、その生き物としての扱い方を知らないままに人々が在るのだと云う事はあなたの仰る所と等しく一致するものです。
そこに全体に流れる筈の意識もまた閉ざされて行くからです。金の使い方と同時に、意識的な開き方も学ばなければならないとも言えるのではないでしょうか。それより、それをする前にこの社会は崩壊してしまうでしょうかね。
個人感としては、既存社会に適合できない人々を基準にして社会を作り治さなければ、私は全体としてその社会は成り立っているとは認められないと感じます。人々は根本的にそれぞれに目指すものは尚も多様性の一途を辿ると考えられ、それは自然のリズムと適合していると考えた方がよく、それをまたひとつの枠組みに押込んで、そこに従わせようとしても良い結果は生まれない筈です。
これ迄の官庁主導型の社会から切り離された人々の生活が、この国内で部分的にでも成功すれば、全体的にも新たな人々の生き方が見えてくるかも知れません。そんな夢をまだ見てしまいますが、あとは人の意識の高まり次第であり、それに対してはやはりこれからも個人の働きぶりが問われる事になると考えます。
理想なのは、資本を持ち、農を中心とした企業的な成り立ちの中に、衣食住の揃うムラを作る事が出来れば、多くの者がそこで"ただ"生きて行くのに困らない状況をすぐに作る事が出来ないかとも
考えるのですが、根本的に、ボランティア中心で成り立つ社会の外に、資本的企業の在り方も認められる新たなムラ社会のようなものが出来上がり、全体主義的社会(国体としての中に棲息するものは全て人体の細胞と看做す)が生まれるのが当然だと考えています。そこでは何よりも理に適ったと言える考えだけが生み出される筈だと信じています。
こうした考えは意識が余程高まらなければ起きないでしょうが不可能ではないと信じて居るからこそ、こうして熱く語ることもできているのでしょう。しかしもしそれが出来るとすれば、世界的に見て日本がそれを為すのに最適な国民性として挙げられるのは言う迄もない所でしょう。国民性をひとつの人格として捉えると日本は大部分完成されていると感じます。敢えて押し付けなくても、基本的には頑固な迄の正直さや、譲り合い、そしておもてなしと云った豊かな感性を人に伝える喜びを心地良さに知って居り、そしてまたそこにあらゆる人が染まるものだという事を肌を通してよく理解しているからです。
自然と誰もがそうであるものを敢えて今日本独自のものであるかの様に振舞い、それを押し付けようとする事などもが不要であるのです。

>02
そのような社会であっても、それでも生きて行くのだという「気概」というものをもまた無視出来はしないでしょう。人としての道なるものから外れる事を好まないのは、それは好む好まないに関係しないからであって、恐怖に縛られて生きると云う事に如何に慣れ親しむかと云う事にも係っているのであって、その根本的な美徳的価値観を新しいものに捉え直すのには時間がかかるでしょうね。古い価値観が優勢な内は、人はまだまだ闘いを通じて、生きている事の意味を見出そうとするでしょう。
世の中が実力主義、評価主義であると信じて居る人々にとっては、自身への評価や周囲から投げかけられる期待から外れたりすることは恐怖であり、そこからは容易に抜け出す事は出来ないままでしょう。
生きている事の実感や必要とされることの喜びをそうした苦境の中にこそ感じることもあるでしょうしね。
敵といったものを作り上げてそれを攻撃出来たとしても、それでは部分的な再生をただ繰り返すことになり、そうしたやり方での勝利も全体としてのものを変える事にはならず、やはり長くは続かないでしょうね。
閲覧数が伸びない場所であることは、知っていて、ここに投稿する事に意味を感じているのでしょうし言う事も特にありませんが、投稿者の力量を考えれば、こんな場所に燻っているのは勿体ない逸材であるとも言えますね。


05. グッキー 2013年4月15日 10:04:16 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>02. RtHpc6Pa3Uさん

>人々の「政府の犯罪、無能と認識できない」ありさまには理由がある。
無数に理由と口実が積み重なり壁となっている。

共感力、感受性が無くなって来ているのだと思います。
人の心が理解できない。

アメリカでは自分より下の階層の人は、愚かで怠け者だからだと考え、
自分より上の階層の人は親の遺産だからだと考える人が多いと聞きます。
(こうやって現在の自分を自己正当化する)
日本もこれに近づいて来ているのでしょう。
長引く不況で他者のことを考えるゆとりが無くなり、自分のことしか
考えられなく成って来ているのでしょう。
貧すれば鈍するです。

自分に仕事があれば失業など他人事だと思い関心を持たない。
非自発的失業者が多いから、労働需給が悪く、賃金が下がってくる
のだということに気が付かない。
リストラに合って初めて愕然として考えるというのが一般的でしょう。

>無数の人々があちこちでこの非自発的失業をうみだす政策ばかりの政治の無能、
犯罪を断罪するようになれば、、、
いいのだ、ろう。

そうですね。奴隷制度は何で無くなったのか、多くの人が
それを悪いことだと認識したからです。
多くの人が非自発的失業は政府の犯罪、無能と認識すれば、
政治家は無い知恵を絞って非自発的失業が起きないようにするでしょう。
でなければ自分の生活が脅かされますからね(政治家失業)

非自発的失業を無くすのは簡単です。
国民に通貨発行という負債と、通貨という資産を両建てで増やせば
良いことです。
国民にお金が増えれば需要が増え、生産が増え、労働需要が生まれます。
ごく簡単なことです。

国民に通貨発行という負債を増やし、銀行に通貨という資産を増やすのは
詐欺だからいけません。


06. グッキー 2013年4月15日 10:27:12 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>03. TUPxsc98hoさん

>小泉内閣の時代自己責任と云う言葉がテレビなどで頻繁に使われていました。とても嫌な言葉で何か違うとは思っていてもその時には気づきませんでした。非自発的失業は自己責任にさせられてしまうことを。

マクロ経済では求職が求人より多ければ確実に非自発的失業が生まれます。
枠組みとして非自発的失業が生まれるものを自己責任だと
言うのは詭弁でしょう。

小泉は最初から胡散臭いと思ってたんですよ。
郵政が改革の本丸だ何て、言葉だけ踊って内容が何も無い。
マスコミの宣伝に国民が騙されましたね。
バブル崩壊以来続いた不況に国民が疲れていたから、
改革という言葉に上手く騙されてしまいました。

現在の社会はほとんどの人がチェンジしたいと願っていると
思います。
しかしどうチェンジすれば良いのか分からない。合意が成立しない
という状況です。
アメリカのティーパーティ、オキュパイ運動にそれが端的に現われています。

やがてどん底まで落ちれば嫌でも方向が定まります。
どういう方向に定まるのが良いか、色々みんなに考えて欲しいのです。


07. 2013年4月16日 13:34:43 : q931E3NW4E
小泉発言の中で言われる「自己責任」とは定義内容が違っていても
すべての行動は自発的で尚かつ「自己の責任」であることからは免れません

でなければ政府におんぶにだっこの感覚で、日々を過ごすだけの惰性の毎日の中で、やりがいや生き甲斐を見つけて行かねばならないという新たな問題が起こるかもしれません
完全なシステムを構築すると云うなら、そのアイデアは生まれるでしょう
しかしそこにも人々の本気の姿勢で、社会全般を支える為の知恵がすべての国民から生まれなければなりません

非・自発的失業といいますが、現行のシステムに依存している段階でそれは当然起こりうる未来であり、政府に依存する時点で甘んじて納得している事が前提のシステムです。政府が我々を救済すべき義務があるのだいうならば、人々にも本気の社会への積極的な関わりの姿勢が必要であるはずでしょう。自己にそのシステムを変える力をも含んでいる事を理解し、自分の行動の力を信じて居る事が大事です。それは完全に自分の力としての(行動の責任を含む)責任の所在を理解し取り戻すと云う事です。なんら大層な責任を被いたくないとするあまり、その力そのもの(としての責任)を他に転嫁したり放棄することに何割もの力が注がれています。そうある限り、その実現は遠のくだけです。勿論もともとそれも官僚の公務機関が自身の責任逃れ、責任転嫁ばかりが目立ち、一向に本気が見えない為に、民間もまたそれにならって伝染してったようなものです。

多くの人と同様に私も以前の小泉発言である「自己責任」という言葉には、
その文字通りの意味ではないからこその違和感を覚えたのは間違い在りません。
つまりそれは政治の側の責任の転嫁でありました。ですがそれで、民間の側、個人の側が反発して、あらゆるものへの責任がゼロだと云う事にはなりません。我々国民はただの弱者でも、囲われなければならない家畜でもないのです。
生きると云う事への世間全般の考え方の方向転換も必要です。ただ生きる事以上の目的を個々人が最優先させることができるようにシステムが構築されなければ、社会は衰退して行くでしょう。いつでも各個人の力が絶対的に必要です。政府をただ侮辱し続ける姿勢に力を注ぐ事なく、それを変える力に意識を向けて行かなくては本当の意味での成功は無いと云う事になります。

既存のシステムを大きく外れる循環型の新たなサイクルをこの既存の枠組みの外に作れれば良いのですが。そこには信頼による人の繋がりが不可欠です。血液を流れるバイパスを新たに作って弱った機関を補填して、その間に腐ったものを排除するというような事です。


08. グッキー 2013年4月16日 14:27:48 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>07さん

>小泉発言の中で言われる「自己責任」とは定義内容が違っていても
すべての行動は自発的で尚かつ「自己の責任」であることからは免れません

マクロとミクロを混同するのは間違いだと思います。
求人数より求職数が多ければ、働く意思を持ちいかに能力が高かろうと
必ず誰かが非自発的失業者に成るのです。
個人の責任で自分が就職でき、かつ他者もすべて就職させることが出来る
というのなら別ですが、そのようなことは出来ません。

非自発的失業者というのは、政府の政策で増えたり減ったりするものです。
それをミクロの話に切り替えて、個人の自己責任とするのは
騙しのテクニックです。

マクロ経済という視点から見れば、政府が非自発的失業が増える政策を
取れば、誰がどんなに頑張ろうが、能力が有ろうが、非自発的失業者は
増えるのです。
個人の努力というのはミクロ的な話で、非自発的失業者が増える中で
自分だけ就職できるという話に過ぎません。
自己責任というのは政府はどんどん非自発的失業を増やすが、個人は
自分だけ努力で就職しろと言っていることです。

>既存のシステムを大きく外れる循環型の新たなサイクルをこの既存の枠組みの外に作れれば良いのですが。そこには信頼による人の繋がりが不可欠です。血液を流れるバイパスを新たに作って弱った機関を補填して、その間に腐ったものを排除するというような事です。

論点が多すぎたのでレス出来ませんでした。

社会構造は部分が自立したフラクタル構造が良いのではないかと
思います
http://www.asyura2.com/09/dispute30/msg/796.html

人間性に合った社会構造というものを考えなければ
成らないと思います。
大きいことは腐敗と無責任、非人間性を生み悪いことだと
思います。
分業化社会が必要とする組織、コミュニティの大きさと、
大きくなることによる腐敗、無責任、非人間性のデメリットとの
兼ね合いが重要なことだと思います。

これを両立させるには部分が自立したフラクタル構造が
最適だと思います。


09. 2013年4月17日 02:01:23 : q931E3NW4E
>08
勿論この「責任」という言葉は、社会での重みや、人の立場に依ってどうとでも変化する言葉の解釈の多彩さを考えれば、この多面的とも言える言葉の括りによるやりとりでは、私の伝えたいことはこの「責任」という言葉を用いては、巧く伝えきれないと感じていました。(言葉は便利だと言うのは間違いです!)ところが本日、おかげで「責任」という言葉に伝えたかった感覚的理解へと誘導する為の説明を言葉にして伝えられそうな予感をつかみ取る事が出来ました。
今日は遅いので、時間を見てそのことを近いうちにどこかに投稿したいと思っています。

そして、くどくなるようでいい忘れてましたが、あなたの考え方と言い分を私は全面的に支持しています。あなたの考え方が世間に浸透することを祈っています。が、もっとも批判的な態度がその建設的なエネルギーを奪うことになり、自らの足を引っ張るという事にも気づいて欲しいと思っています。やり方としては色々在るという所なのでしょうが、いろいろ在るからこそ、どうまとまる事がもっとも良い結果を生むのかをも一緒に考えて行けたらなと思います。


10. 2013年4月17日 06:35:37 : TUPxsc98ho
リーマンショックの時投資していた人たちの多くが財産を失ってほんのひと握りの人たちのところにその財産が行ったのだと思います。投資の世界自己責任の世界といいます。証券会社から勧められて買う場合でも自己責任。
勧めた証券会社の人もリーマンショックのあとリストラにあっていると思います。セーフテイネットの完備されていない世界に非自発的失業は増えていくと思うと負のスパイラルに巻き込まれて出口がわからない状態です。

11. 2013年4月17日 14:17:00 : q931E3NW4E
>10
その点についてはそれ以上悩んでも仕方ないと思います。チャレンジをもって様々な経験を積んで行くのが人生なのですから。ここに書くべき事ではないかもしれませんが、「膿み」は今にすべて出しておくべきだと思っています。ここから一年と数ヶ月の間にすべて出し切って、新たな切り替えを始めればいいだけの事です。ですから私は静観しつつ、今やりきりたいと考える事に力を注ぐ事にしています。

リスクを強く感じるからこそ魅力に映り、目先の金を追って持ち金を投入するというのは、投資家とは名ばかりのギャンブラーであると言えるでしょう。それは実際起業家の想いに同化してそこに投資するという事とは訳が違います。つまり問題は、それが純粋な投資ではなくギャンブル目当ての資金投入である事を認めないという所です。ギャンブル視される名ばかりの投資と、一般的な事業への投資とされるものとは、別ものです。企業家の想いと一体となれるかどうかだけが投資するかどうかの判断の指針となるべきです。
成功の喜びを感じたければ、リスクの無い世の中はつまらないと感じるでしょう。他と比較してそこに勝利を見たいと考える者は、人よりも絶対的に有利なポジションを常に確保したいと画策するでしょう。リスクを負ってそれを被害だとして訴えて、その都度誰かに文句を言えば片付くものだろうと考える人も居ます。そうした人々は早く気づくべきです。投資という名目のもとで、財産を殖やそうとする人の心理とは、それらを一向にギャンブルとは割り切れない筈です。投資とするからには安全策なるものがあると信じて居るからです。言葉とはこわいもので、原発だってそのように安全策(裏返せば危険であるということ)だと称されるものに人々の心は緩んで、作らせては行けないものを全員一致で承諾してしまいました。しかし、そのように、詐欺被害に遭う人の心理とそれとはまったく類似するものです。見えない神の力においすがるだけして新興宗教に金をつぎ込むのも似たような話です。何かを学ぶ学費であるとするなら別ですが。
どうした世の中の困った状況もそうした人の価値観の上で納得して作られているものです。これまでの慣れ親しんだ概念に誘導されるままに同じ価値観に辿り着く限り、そうしたいざこざは今後も後を絶たないでしょう。

チャレンジには必ずペナルティとしてのものが不可欠であるなどとは思いません。リスクを感じる事とはチャレンジの経験の中に同質のものであると考えます。つまり純粋なチャレンジそのものとは、それ自体がペナルティとしての働きと常に被るものであると考えられます。そしてうまくいけば、やりがいや喜びと云ったものをそこに生み出しもします。命を脅かすほどのリスクは何をも生み出しません。一定のラインにそうしたセーフティネットを張ればよろしいかと思います。成功に安定を見たものは、次の投資家として、ほどほどのリスクを求めればよいのです。そのようにしてほどほどのセーフティネットに依って、人との繋がりを生み出して行ければ、この世は安泰だったろうにと思います。


12. グッキー 2013年4月18日 00:17:29 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>09さん

>が、もっとも批判的な態度がその建設的なエネルギーを奪うことになり、自らの足を引っ張るという事にも気づいて欲しいと思っています。やり方としては色々在るという所なのでしょうが、いろいろ在るからこそ、どうまとまる事がもっとも良い結果を生むのかをも一緒に考えて行けたらなと思います。

私は人々が認識することにより社会が変わっていくのだと考えています。
奴隷制度が悪いと人々が認識したからこそ、奴隷制度が無くなったのだと。

人は知識を遺伝する生き物だと言います。
色々な人が色々と発信し、それが良いと思えば取り入れ、
間違いと思えば捨て去れば良いことだと思います。
そうやって知識は遺伝していく。
ネットの普及が知識の遺伝を飛躍的に早めたと思います。
その分、社会の変化も早くなると考えています。

しかしお魚さんは言った。
「俺たちに観測出来ないものは存在しない」と
人間という体、頭脳を通してしか観測、認識、思考をできないのが
もどかしいです。


13. グッキー 2013年4月18日 01:15:12 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>10. TUPxsc98hoさん

>リーマンショックの時投資していた人たちの多くが財産を失ってほんのひと握りの人たちのところにその財産が行ったのだと思います。投資の世界自己責任の世界といいます。証券会社から勧められて買う場合でも自己責任。

投資判断は個人が行うものであり、社会から強制されるものでは有りません。
よって自己責任です。
非自発的失業は経済の枠組みによって発生するもので、個人の行動で無くせる
ものでは有りません。
よって自己責任というのは間違いなのです。

>勧めた証券会社の人もリーマンショックのあとリストラにあっていると思います。セーフテイネットの完備されていない世界に非自発的失業は増えていくと思うと負のスパイラルに巻き込まれて出口がわからない状態です。

経済危機、天変地異が発生しモノが無くなったわけでは有りません。
人間が発生させたものですから、人間が変われば簡単に解決できる
ものです。

はっきり言ってこれは富の分配の問題から発生しています。
人間はことお金のことに成ると冷静さを失い、まともに
思考することが出来なくなります。

「蜘蛛の糸」状態に社会が陥っているのです。
みんなで俺だけはと思って蜘蛛の糸をよじ登ろうとする。
それを整理する政府自体が餓鬼状態に陥っているのだから
どうにも成りません。蜘蛛の糸は切れてしまいます。

商品の供給数量を多くすれば、社会は物質的に豊かに成ります。
しかし商品の供給数量を多くすれば、商品価値が下がり資本価値が
下がります。
だから商品の供給数量を減らし、社会を物質的に貧しくし儲けようと
考える者が出てくるわけです。

商品の余っている市場では、商品価値、資本価値が労働価値と比較して
下がるのが当然の市場原理なのです。
商品価値と資本価値と比較しての労働価値が重要なのです。

デフレでもインフレでもかまいません、商品価値、資本価値に比べて
労働価値が上がって行くことが社会が物質的に豊かに成ることなのです。
しかしそれでは資本は儲からないので、資本は資本力、市場支配力、
政治力、あらゆるものを使い、労働価値より商品価値、資本価値を
高くしようと市場原理に逆らったことを行い、社会を物質的に
貧しくしようとします。
これが経済危機が起きる本質的な原因なのです。
この構造自体を改善すれば経済的問題は解消します。

100円の商品を生産したら100円の需要を創らなければ
商品は100円で売れない。
循環するのが市場原理なのです。
ところが100円の商品を生産し、50円の需要しか創らず、
商品を100円で売ることを欲する。
あらゆる詐術(ファイナンス)を使い、100円の商品を生産し
50円の需要しか創らず100円で売ろうと考える。
しかしファイナンスには限界が有り崩壊してしまうのです。


14. 2013年4月18日 01:21:03 : P2of04Z692
あえていうが、こいつらは日本の若者に比べれば恵まれてるね。

格差社会での現実的な対応が中程度の福祉国家である社会民主主義国家ということになるのだけど、それも理想には程遠い。

しかし、何十年後か後には格差社会アメリカを引き離してヨーロッパモデルが世界の先端になっているんだろう。

新自由主義は社会の現実を直視せず、19世紀の格差階級社会の轍を踏んだが、リバタリアニズムも強大な支配階級を叩きのめすまでは現実的な回答たり得ない。リバタリアニズムが社会民主主義の代案たりえるような現実的な政策を兼ね備えるのはいつの日だろう。


15. 2013年4月18日 09:49:06 : TUPxsc98ho
グッキー様ありがとうございます。わかりやすく教えていただいて感謝しています。
マスコミの報道なので違和感を感じたり違うのではないかと思っても、根拠なく感じていたことに明確な答えがわかりやすく得られてネット素晴らしいですね。

自己責任にされ追い詰められて自殺する若者がこれ以上でないようにするためにも13で書かれていることを実行できる人を見つけて選挙で選びたいと思います。


16. グッキー 2013年4月18日 09:53:09 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>14さん

>あえていうが、こいつらは日本の若者に比べれば恵まれてるね。

こいつらという貴方は何様なんですか。
貧困には絶対的貧困率と相対的貧困率が有ります。
そりゃ、アフリカの貧困層、あるいは原始時代の洞窟生活から比べれば、
何処でもまだましということになります。
しかし人は不公正による格差に不幸を感じるものなのです。
「戦後、みんな腹をすかせていた。しかしみんな幸せだった(五木寛之)」
相対的貧困率が問題なのです。

>しかし、何十年後か後には格差社会アメリカを引き離してヨーロッパモデルが世界の先端になっているんだろう。

ユーロは崩壊しようとしています。EUも結束を保てるか不明です。
ヨーロッパモデルとは新自由主義以前の福祉国家のことですね。
福祉国家は腐敗と無責任により失敗しました。
大きな国で福祉国家にしても腐敗と無責任が生まれます。

>新自由主義は社会の現実を直視せず、19世紀の格差階級社会の轍を踏んだが、リバタリアニズムも強大な支配階級を叩きのめすまでは現実的な回答たり得ない。リバタリアニズムが社会民主主義の代案たりえるような現実的な政策を兼ね備えるのはいつの日だろう。

現実の市場とは不公正なものです。
経済主体間の拮抗力がすべて等しく成らなければ公正にはなりません。
公正でない市場を自由にしたら、搾取、争いが繰り返されることに成ります。
公正を保つためには政府の介入は必要なことです。
また公正でなければ経済は破綻します。
リバタリアニズムというのは幻想です。
みんな自由という言葉に酔いしれて幻想を見ているのです。
他者のものを奪う自由は有りません。


17. 2013年4月18日 14:25:51 : q931E3NW4E
>12
所謂、「批判精神」は、罵倒と他者差別の批難無くして成立するものと私は思っています。言葉にして「批判」の部分だけを取り出してみても、良い印象が在る訳ではない事から、私は批判自体を好みません。しかしながら、人間として正統な行為だとされる所謂「批判精神」とは、実質的には、「観察からうまれる判別とその感想」であって、「互いの立場を持ち出して主張し合う事」とは違う筈です。そう思いつつも、人によってそれらはすべて、他方から自分の立場を牽制する目的で為される行為と看做され、「批判」とほぼ同質の内容として受けとられてしまいます。

よって、本来の目的を成就する為には、そうした無益な衝突を避け、その為にも、相手の立場を越えた所に伝わる言葉を用意しなければならない筈です。慣習的に、人がそうしているから自分もそうしていいのだと思い込み、相手に対して軽んじた批判を繰り返す様になれば、真に相手に伝えたい物事の内容は極めて薄められ、歪められて伝わることになると考えます。しかし、それもまたあなたの言うように「意識」を変化させることで解消されるものです。
まずはじめに、現在の人間のこうした言葉に偏ったコミュニケーションは、そもそもが不完全なツールだと捉えたいと存じます。そうすれば、そこに生まれる"認識"が全般においてその助けになります。そこで、より慎重な言葉選びと、精密な情報に変換する為の数段高い意識が育まれる事が理解出来る事でしょう。

文化の定着の中に確立したか見える人間のコミュニケーションもまた、正当性を主張合う争いを肯定する中に退化しつづけてきたものだとも考えられます。
既存の言葉のツールはその特性上、内面的感性に直結した所謂ウェットな付き合いも同時に伴わなければ、非常に歪んだ関係性を築いてしまう怖れさえあることが理解出来ます。そうもどかしさを感じる前に、時折冗句も取り交ぜられたら、互いの気も紛れ、通じるものを見出せるものと思われます。

度々あなたのおっしゃる、「人々の認識(意識)が変化すれば社会が変わる」、という簡潔なメッセージは、あなたの説明でより人々の前に、解しやすくなったものとしてあるのではないでしょうか。そして、奴隷制度が崩壊に至った時のように、未だ段階的に人々の意識は、実際にはより上の目的地に向けられた途上に在り、人の本分としての適切な場所へと立ち返るステップは現段階に於いて無限に続いているような気がします。そう考えると、まだまだ人々は、より自然な喜びに触れることのできる過程に在ると言え、「柔らかな感性」を取り戻していく過程に在るとも理解出来るような気がします。
「自然な意思」を制止するような力を誇示し、現在まで代わらず続いた社会の在り方に疑念を抱き、そこでの人との交わり方にも異を唱えるという事が出来てはじめて、「人々の認識(意識)に変化が起こっていく」、と言えると思います。

私はそこで、あなたの人々に伝搬したいと考えるメッセージ(意識)の本質が、大事なことに気づきましたので、そのメッセージに伝えられるエネルギーが僅かも、不要な批判的態度によってそぎ落とされない様、当初の純粋な思惑から本質が逸れて伝わっていないかを考えて頂きたく思ったのです。世間に伝わるべき大切な意図と内容の本質が、あなたの本意とする所ではなく、「社会に対する単なる憤り」にすり替わって伝わる事を危惧したのです。それは私にとっても、社会全体としての損益にもなる事だと感じたからこそ、こうして繰り返しそのような想いを伝えたのです。勿論あなたにその意識は無いでしょうが、他の人々がなかなか介してくれないもどかしさは、それが原因であるとも言えるのです。

かの吉田松陰はそうしたもどかしさと諦念をもって「我が至誠未だ至らざる所なり」と表現しました。「人々が理解出来ない事を私は理解出来ない!」と憤りを込めてしまえば、そこに伝えるべきもの(意識)の本質もまた変化してしまう事になります。

これはあなたのメッセージを受けとる側、読み手全体に対するメッセージでもあります。
様々な人々の思惑によりひとつの言葉は、いとも簡単に分解され、その者の手に依って如何様にも組み直されいしまいます。そして人を介して解釈が一人歩きします。
人間の中に意識の差別をなくすと云う事は、私はそのような誰に対しても誠実な態度で働きかけつづける事で果たされるような気がしているのです。

そして人というものは、あなたの仰る、「知識を遺伝する生き物」であることは、まさにその通りだと思います。そこに言われる「知識」とは、社会に遍く伝搬し浸透した概念、そして常識と云った通念上の物事の考え方、価値観、総称してそれらを私はひとつの言葉「観念」として括っています。

そしてまた人は、「"伝染する観念"に支配される生き物」という言い方もできます。
"蜘蛛の糸"に垂れ下がろうとする人々の持つ観念は、「奪わなければ奪われてしまう」、という恐れの感情を生み出す観念に縛られている、というだけのことです。

言葉の性質である二元性によって、文字に起こされた「観念」は両極を備えます。そこに働く「意識」の変化とは、方向性の変化、即ち物事の捉え方の変化、考え方、取り組み方の"方向転換"のことです。物事が新たな局面へ向かう「変化へ向けた方向性」とは、エネルギーの停滞、若しくは塞ぎ込んだ様に見える所から、エネルギーの流れを取りもどそうとする働きであり、その際に「方向性の転換」として捉える事の出来るものです。それは全ての物理的な物事の中に表裏一体として備わっている転換点であり分岐です。ですから、常に意識的な変化に左右される生き物である我々は、意識的にそのように自分のポイントを切り替え、その感性にエネルギーの流れを敏感に感じ取り、意図的にその流れに沿い続けることが大事だと言えるのではないでしょうか。
現在悪い局面として捉えられているものもまた、それ無しに良い変化が起こりえなかったと振り返る段階に至っては、すべては意識の流れのままに物事は進んでいるのだと達観して看做す事もできます。停滞を強く感じるという段階に於いては、それはコントラストのはっきりした経験としての場(転換のポイント)に自分が在る事を感じ取る事も出来ます。

「奪われる」という意識が、「与える」という意識に転換すれば、物事はやがて回り出します。自然は常に一元的なエネルギーから生じているのに対し、人々の思考は言葉の付与する特性に絡めとられて、停滞としての感情をも生じさせます。「与えれば与えられる」ということがすべての物事の本質であることを理解出来れば、そうした停滞の感情を転換して、物事が回り出す事前段階にあたることを意識的に了承する事が出来る筈です。言葉にすれば「奪えば奪われる」ものは、実際的には「"奪われる経験"を与えれば、"奪われる経験"が与えられる」、に変換できます。意味は同じです。言い方の違いで理解に真逆とも言える大きな差が生じます。人々はそのような概念に影響を受け、単なる同じ内容の言葉の意味にも惑わされてしまいます。例えば、安心感を「求め」て、そこに停滞を感じ続け(ることを結果的に「求め」)てしまっていたりするのです。

そのように「意識」的に、物事によりよい影響を与える、望ましい関係性へ向けた変化、つまり「停滞」から脱出を試みるのであれば、その「求め」は、「憤り」の感情から求められるものではないことは言う迄もありません。
望ましい未来をつかみ取ろうとする行動の動機となるものは、純粋に「望み」であり、それが叶わない事による副次的な産物としての「憤り」では無い筈です。むしろそうした憤りは何度も言う様に、停滞に向かわせる働きであり、足を引っ張るだけのものです。それが出来ない、怒りを溜め込んで発散したいと考えるのは、「エネルギー」を「力」と見て、人によっては「力」を権力や暴力と混同視すると云った具合に、言葉に被せられたそれぞれの持つ解釈である観念の支配的影響によるものなのです。勿論生まれながらの好奇心や行動力、動物的な攻撃性、チャレンジ精神は自然な闘争心であると言えます。ですが、動物は怒りを溜め込んでしまう事は在りません。常にその都度、発散させて解消します。受け容れている観念がその人を支配しているのです。その観念を換える意識的な転換点を誰しもが持っているのです。

変化を万物に促す自然のエネルギーが我々のすべての自然環境の土台であるものです。それは、個人の内奥とも当然結びついており、エネルギーはその結びつきから生じます。人は不自然な停滞に耐える様には出来ていません。苦痛が伴うからです。それには意識的に、望ましい「求め」に直結する観念だけを探し当てて手にすればいいだけです。長々とまとまりなく大変失礼いたしました。


18. グッキー 2013年4月19日 08:03:29 : Cbr3d6O9vj7Mc : OIxNYWfJog
>>17さん

文章が長すぎて、主張が多岐にわたるので頭の悪いわたしには、
論点を整理するのが困難です。
もう少し短い文章で、論点を絞ってくれると助かるのですが。

>所謂、「批判精神」は、罵倒と他者差別の批難無くして成立するものと私は思っています。言葉にして「批判」の部分だけを取り出してみても、良い印象が在る訳ではない事から、私は批判自体を好みません。

批判を悪いと思ったことは有りません。
批判が無ければ進歩も無ければ気づきも無い。
批判は大いに歓迎するところです。
しかし批判のための批判(論理性が無くなる)悪罵、罵倒の類を
批判と思っている人は困りものですけど。

>まずはじめに、現在の人間のこうした言葉に偏ったコミュニケーションは、そもそもが不完全なツールだと捉えたいと存じます。そうすれば、そこに生まれる"認識"が全般においてその助けになります。そこで、より慎重な言葉選びと、精密な情報に変換する為の数段高い意識が育まれる事が理解出来る事でしょう。

人間の情報伝達の手段は言葉で伝えているようで、言葉以外のもので
伝えている部分が70%くらいを占めるという話を聞いたことが有ります。

>私はそこで、あなたの人々に伝搬したいと考えるメッセージ(意識)の本質が、大事なことに気づきましたので、そのメッセージに伝えられるエネルギーが僅かも、不要な批判的態度によってそぎ落とされない様、当初の純粋な思惑から本質が逸れて伝わっていないかを考えて頂きたく思ったのです。世間に伝わるべき大切な意図と内容の本質が、あなたの本意とする所ではなく、「社会に対する単なる憤り」にすり替わって伝わる事を危惧したのです。それは私にとっても、社会全体としての損益にもなる事だと感じたからこそ、こうして繰り返しそのような想いを伝えたのです。勿論あなたにその意識は無いでしょうが、他の人々がなかなか介してくれないもどかしさは、それが原因であるとも言えるのです。
かの吉田松陰はそうしたもどかしさと諦念をもって「我が至誠未だ至らざる所なり」と表現しました。「人々が理解出来ない事を私は理解出来ない!」と憤りを込めてしまえば、そこに伝えるべきもの(意識)の本質もまた変化してしまう事になります。

御忠告感謝します。表現の仕方は難しいもので、人によって色々な
捉え方をします。
まずい点が有るなら、まだまだ私に至らぬところが有るからでしょう。

>そしてまた人は、「"伝染する観念"に支配される生き物」という言い方もできます。

人は本来の心を持っていると思います。それは暖かい陽射しのような愛です。
しかし生まれてから身に付いた経験、知識、諸々の燻習により、
本来の心が覆われてしまいます。
本来の心を見失わなければ観念に支配されることもないと思います。

>"蜘蛛の糸"に垂れ下がろうとする人々の持つ観念は、「奪わなければ奪われてしまう」、という恐れの感情を生み出す観念に縛られている、というだけのことです

臆病、恐怖心です。何万年も雑食動物をやってるのだから臆病が身に付きます。
自分ばかり見ないで、他者を見ていれば他者も臆病だということが分かり、
臆病、恐怖心が薄められます。

>現在悪い局面として捉えられているものもまた、それ無しに良い変化が起こりえなかったと振り返る段階に至っては、すべては意識の流れのままに物事は進んでいるのだと達観して看做す事もできます。停滞を強く感じるという段階に於いては、それはコントラストのはっきりした経験としての場(転換のポイント)に自分が在る事を感じ取る事も出来ます。

ものごとには対象性が有ります。不幸があって幸せがある。不味いものが
有って美味しいものがある。
人は青い鳥が捕まえられないと分かっていて、青い鳥を追いかける
生き物だと理解しています。
それを論じても仕方が無いと思います。

>「奪われる」という意識が、「与える」という意識に転換すれば、物事はやがて回り出します。自然は常に一元的なエネルギーから生じているのに対し、人々の思考は言葉の付与する特性に絡めとられて、停滞としての感情をも生じさせます。「与えれば与えられる」ということがすべての物事の本質であることを理解出来れば、そうした停滞の感情を転換して、物事が回り出す事前段階にあたることを意識的に了承する事が出来る筈です。言葉にすれば「奪えば奪われる」ものは、実際的には「"奪われる経験"を与えれば、"奪われる経験"が与えられる」、に変換できます。意味は同じです。言い方の違いで理解に真逆とも言える大きな差が生じます。人々はそのような概念に影響を受け、単なる同じ内容の言葉の意味にも惑わされてしまいます。例えば、安心感を「求め」て、そこに停滞を感じ続け(ることを結果的に「求め」)てしまっていたりするのです。

心の本性は愛です。愛は与えられるなどという見返りは期待しません。
ボランティアに行くのに見返りなど期待するでしょうか。

>望ましい未来をつかみ取ろうとする行動の動機となるものは、純粋に「望み」であり、それが叶わない事による副次的な産物としての「憤り」では無い筈です。

怒りとは人と人に近いものへの欲求と理解しています。
電信柱に怒る人は居ない。
欲求であれば、欲求の手段として適当であるか判断できます。
子供が危険なことをすれば怒る。緊急性、強制性が必要な時は
怒ります。
むやみに怒るのは幼児性が抜けていないからだと思います。
また怒りはエネルギーにも転化します。

>変化を万物に促す自然のエネルギーが我々のすべての自然環境の土台であるものです。それは、個人の内奥とも当然結びついており、エネルギーはその結びつきから生じます。人は不自然な停滞に耐える様には出来ていません。苦痛が伴うからです。それには意識的に、望ましい「求め」に直結する観念だけを探し当てて手にすればいいだけです。

私は人が人本来の心を知ることが大事だと思います。
暖かい陽射し、光のようなものです。
犬と猫は仲良し(my dog and cat)
http://www.youtube.com/watch?v=4IwCnkk7ZN4
↑まあ、こんなものです

本来の心を知れば、どうすれば良いか見えてくると思います。
諸々の燻習に惑わされるのは好きではありません。


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