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ジョン・ル・カレ原作 映画「裏切りのサーカス」(ティンカー・テーラー・ソルジャー・スパイ)
http://www.asyura2.com/09/geinou2/msg/547.html
投稿者 BRIAN ENO 日時 2017 年 1 月 06 日 21:09:26: tZW9Ar4r/Y2EU QlJJQU4gRU5P
 

注意!本稿はいわゆる「ネタバレ」記事です.必ず映画をご覧になってからお読みください

よくわかる 『裏切りのサーカス』 全解説 【再改訂版】

トーマス・アルフレッドソン監督・2011年・イギリス・フランス合作

参照:ハヤカワ文庫/ジョン・ル・カレ著『ティンカー・テーラー・ソルジャー・スパイ』新訳版/村上博基訳(早川書房2012)

作成者:伊藤敏朗 ito@rsch.tuis.ac.jp

バージョン:2014.3.26

1.1973年の秋:ロンドン・コントロールの自宅

ロンドン。あるアパートメントのドア。

スウェーデンの歌手、ユッシ・ビョルリングの歌声が流れている(BDのオーディオ・コメンタリーによる)。

イギリス秘密情報部(SIS:Secret Intelligence Service)=通称「サーカス」のチーフであるコントロール(ジョン・ハート)の自宅に、情報部員ジム・プリドー(マーク・ストロング)が呼ばれてやってくる。

コントロールが、「尾行されてないか?」と心配して言う。

彼が「誰も信じるな、ジム。特に主流の連中は」と言うときの「主流の連中」とは、この作品の主人公であるジョージ・スマイリーをはじめ、パーシー・アレリン、ビル・ヘイドン、ロイ・ブランド、トビー・エスタヘイスという5人のサーカスの幹部のことだ。

そしてジム・プリドーは、この5人組の一人、ビル・ヘイドンのオックスフォード時代の同窓生にして彼の愛人でもある。

コントロールはジム・プリドーに、ハンガリーのブタペストに行ってくれと命じる。

原作では、彼が行かされる先はチェコなのだが、本作は「映画製作で20%のリベートがある」ハンガリーで撮影されたという(Wikipedia)。

チェコでもハンガリーでもよいが、要はそれが東欧の小国であるということが、物語の根幹に関わる大事なところだ(後述)。

2.1973年10月21日:ブタペスト

ハンガリーの首都、ブタペストの空を2機のミグ戦闘機が飛んでいく。

街を歩くジム・プリドーの姿に、コントロールが、「ハンガリーの将軍が亡命したがっているので会ってこい」と言う台詞が重なる。

将軍は重要な情報を持っている、それはサーカスの幹部にソビエトの二重スパイが潜りこんでいるというもので、それが誰なのかを聞き出して自分に知らせろというものだった。

以前から、サーカスが重ねてきた諜報戦における敗北・しくじりの原因を考えてみると、サーカス内部の情報がソビエト側に漏れていたと思われるフシがあって、二重スパイ=「もぐら」の存在はかねて疑われていた。

これまで、その尻尾を掴むことができずにいたコントロールは、今回の一件が、「もぐら」に迫る端緒となるのではないかと考えたのだ。

ブタペストの街角のカフェで、ブタペストのエージェントとジム・プリドーが座って、将軍が来るのを待つ。

だが、この亡命話は、実はKGBの大物スパイ、カーラが仕掛けた罠だった。

しかも、ジム・プリドーはロンドンを発つ前、自分がコントロールの命令を受けてブタペストに行くということを、当の「もぐら」に話してしまっていたために、KGB側は準備万端で待ち構えていたのだ。

カフェの周囲はKGBとハンガリー情報部員たちでとり囲まれている。

一軒のカフェの中で、素人バンドが「愛の挨拶(Salut d'amour)」を下手糞に演奏している。この曲の作曲者のエドワード・エルガーはイギリス人だが、この時代のこの街角で流れていて不自然ではない曲ということか。このバンドの連中も情報部員であることが後のカットで示唆される。

張り詰めた空気の中、ウェイターに扮したハンガリー情報部員の流した冷や汗がテーブルに滴る。

偶然2階の窓を開けて通りを覗きこんだ老婆がただならぬ表情をしていることで、ジム・プリドーは、この街角が日常の状態ではなくなってしまっていることを知る。罠と気がつき、プリドーは椅子を倒して席を立つ。

これに焦ったハンガリー情報部員のウェイターが飛び出してくる。

発砲第一射で乳飲み子を抱えた女性の頭部に誤射してしまう。

スポーツのようなアクション映画を見慣れている日本の観客には、こんな至近距離で弾が逸れることが奇妙に思われるかもしれないが、(国外の観光地などで)短銃の射撃体験のある人なら、片手で短銃を撃てばこれくらい外れるのは無理ないとも思えるだろう。

とはいえ、この情報部員は下手すぎだ。

潜んでいたKGBの要員が出てきて、二人の会話をモニターしていたヘッドフォンを路上に叩き捨てながら、ロシア語で「何やってる!銃を降ろせ!」と怒鳴る。

ジム・プリドーは自分がとり囲まれているのだから、ここで慌てても意味がないと観念したのだろう。KGB要員が「銃を降ろせ!」と叫んだロシア語もジム・プリドーは理解でき、ここで自分が動けば、ハチの巣にされかねないと立ちすくんだのだろう。

だが、ハンガリー情報部員のウェイターはそのロシア語が理解できないのか、よほど動転したかで二発目を撃ってしまう。ジム・プリドーは倒れる。

周りからKGBやらハンガリー情報部員らが湧き出てくる。ジム・プリドーの体から血が溢れ出す。

しかし彼は一命をとりとめることになる。

KGBはジム・プリドーを捕らえ、コントロールがどこまで「もぐら」のことを知っているのかを把みたい、さらにはハンガリーにおける西側情報部のネットワークをあぶり出して一網打尽にしたいというのがこの罠の狙いだったから、「死なれては困る」とわめいている。

すべては焦った「ハンガリーの素人野郎」のしくじりだった。

実は、この現場にはカーラも立ち会っていて、一部始終を見守っていた。

カーラの手元には、スマイリーの妻・アンがスマイリーに贈り、その後にスマイリーからカーラに渡されたライターがあるが、そのカットは後に出現する。

3.1973年11月14日:ロンドン・MI6=サーカスのチーフの部屋

ロンドンのケンブリッジ・サーカスにあることから、通称「サーカス」と呼ばれる英国情報部。

チーフのコントロールが5人の幹部、すなわち長年コントロールの右腕であったジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン。以下、彼については原則スマイリーという)のほか、ビル・ヘイドン(コリン・ファース)、パーシー・アレリン(トビー・ジョーンズ)、ロイ・ブランド(キーラン・ハインズ)、トビー・エスタヘイス(デヴィッド・デンシック)の4人組を集めている。

この会議室は盗聴防止のための防音材で囲まれている。

コントロールが、自分が辞職する旨の書類にサインする。日付は1973年11月14日。

「コントロール」は本名ではないが、緑のインクのペンでサインは「C」。

コントロールはいつも緑のペンでサインをするというのは、原作者ジョン・ル・カレのアドバイスによるらしい(BDのオーディオ・コメンタリーによる)。

歴代のサーカスのチーフは、「コントロール」と呼ばれるならわしがあるようだが、この映画では、後釜となったパーシー・アレリンのことを「新しいコントロール」とは呼ばないので、本作におけるコントロールとは、このジョン・ハートが演じるコントロールのことを指す。

コントロールの辞任は、ブタペストのジム・プリドーの事件の責任をとらされた格好である。

コントロールが「君も署名してくれ」とスマイリーに促し、彼も辞職することになる。

ここでスマイリーが署名するカットがなく、次のカットのスマイリーはサインの動作をしていないので、このつながりは少しわかりにくい。

まだ登場人物の整理がついていない観客には、「君も署名してくれ」と言われた相手が誰なのか、もうこのあたりでわからなくなってくる。

だがどうも、こうしたマッチしていない編集が、妙に本作の魅力的なリズムを編み出しているのだから不思議なものだ。

パーシー・アレリンがコントロールに、「力になれず残念だ」などと言うが、パーシー・アレリンにとっては、長年、目の上のたんこぶだったコントロールの辞職は、せいせいすることなので、この台詞はわざとらしい。

そしてパーシー・アレリンは、コントロールのサーカスの新しいチーフに就くことになる。

4.1973年11月14日:退職してサーカスを去るコントロールとスマイリー

トビー・エスタヘイスが、2人の後ろ姿に「バイバイ」とやるのを「ひどいやつだ」とビル・ヘイドンが諌める。

トビー・エスタヘイスは、コントロールに拾ってもらった義理があることが後のシーンでわかる。

その恩人にそのしぐさは何だとビル・ヘイドンが諌めたわけだが、これこそわざとらしい。実はビル・ヘイドンこそ、コントロールをサーカスから追い出した張本人なのだ。

「もぐら」の存在を疑いだしたコントロールを体よく放逐できたことで、ビル・ヘイドンは内心ほっとしているのである。

ビル・ヘイドンは、ここの場面に限らず、自分がいちばん当事者から遠いようにふるまって自らの素性をカムフラージュし続けるので、観客にも彼の正体はわかりにくい。

5.1973年11月14日:タイトルバック

コントロールやスマイリーのことを慕っていた、サーカス職員のコニー・サックスやジェリー・ウェスタビー、ピーター・ギラム(ベネディクト・カンバーバッチ)らが、暗然とした表情で、二人の後ろ姿を見送る。

屋上からは、パーシー・アレリンとロイ・ブランドが建物を出て行く二人を見送る。

この屋上からのカットで、サーカスの建物の中庭に、もう一つのガラス天井を持つ建物が建っている構造がわかる。

この中庭内の建物はCGなのだそうだが(BDのオーディオコメンタリーによる)全く違和感がない。

後のカットで、この中庭内の建物の最上階に先ほどの会議室などがあり、そこから光窓が見上げられること、書類エレベータで保管庫と上下につながっている構造であることなどが理解できる。

その書類エレベータで文書が上がってきて書類庫に収納される。「ブタペストの一件は、こうしてサーカスに新たな失敗史を加えて仕舞い込まれたのだった」というような意味に見える。

スマイリーはベッドでべっこう柄(のように僕には見えるので、以下もそういう)の縁の眼鏡をかけて起き上がり鏡を見る。

「俺も老けたなぁ」とも、「スパイ人生からオサラバする潮時だ」とも、「眼鏡の度があわなくなったなぁ」とも言っているようだ。

病院でコントロールが死ぬ。病死のようでもあり、KGBの手にかかったようでもある。

スマイリーは、眼鏡屋で眼鏡を黒縁に作り替える。

退職を機に眼鏡を作り替えるというのはわかりやすいが、この後スマイリーが出現する場面が、過去の回想ではべっこう柄、現在進行形の場面では黒縁の眼鏡になる。現在と過去がしばしば入れ替わるこの映画の中で観客が区別しやすいように視覚的な小道具を与えているわけだ。

スマイリーは新しい眼鏡をかけた自分の顔をショーウィンドウに写してみる。眼鏡をなおすしぐさひとつがサマになっている。

スマイリーが自宅に帰ってくる。

彼はアパートのドアに木片を挿んでいる。退職したのに用心深いことだが、原作では退職後も自分の脳を退化させないためと、妻・アンが前触れもなく帰宅していることに備えてという理由があるらしい。

スマイリーの美貌の妻・アンは、今も誰かほかの男のもとに走り、家を空けているのだ。

彼女の相手は、スマイリーと同じサーカスの幹部の1人、ビル・ヘイドンのこともあればほかの男たちのこともあり、とにかく奔放な女である。

原作では、「すらりとして、気まぐれで、息をのむほど美しく、本質的に他人の女。」と書かれている(ハヤカワ文庫新訳版536頁)。

スマイリーが何通かの手紙をもって部屋に入ってくる。

原作によれば、これらの多くは、アンが不倫相手と旅先で使い散らかしているクレジットカードの請求書などらしい。

映画では、スマイリーが自分宛の手紙とアン宛ての手紙を分けて、アン宛てのものを丁寧に重ねてペーパーウエイトを置く。

壁に絵が飾ってある。

これはビル・ヘイドンが描いてアンに贈ったものだ。

原作では、ビル・ヘイドンは、素人画家ながら個展を開いたりする男で、アンとは遠縁の“いとこ”でもあるようだが、そうした説明は映画では省かれている。

ビル・ヘイドンがこの絵をアンに渡しに来た夜、スマイリーがベルリンから帰ってきて、二人は家の中で出くわした。

その時ビル・ヘイドンが置いていった絵を、今もこうして壁に飾っているというのは、スマイリーの、アンやビル・ヘイドンに対する想いをぐっと呑み込んでいることを象徴していて泣ける場面だ。

そんな悄然としたスマイリーの後ろ姿に、トーマス・アルフレッドソン監督の名前がクレジットされることで、監督のこのカットへの思いも伝わってくるようだ。

しかし、まだこの時点でこの絵が何かを知らない観客としては、この絵が何なのかがまるでわからない。

そして、二度目の鑑賞のとき、「あっ、この絵だったのか」と息を呑むことになる。

6.現在(1974年・以下同):イギリス政府外務英連邦省・レイコン次官の部屋

4人組のうちの二人、パーシー・アレリンと、ロイ・ブランドがイギリス政府外務英連邦省(サーカスを所管する官庁)のレイコン次官を訪れる。

二人は、“ウィッチクラフト作戦”のための経費の直談判に来たのだ。

この予算でウィッチクラフト作戦の隠れ家を設ける必要性について、パーシーは、「ソ連側の情報提供者を匿うため」と説明している。

具体的には、在ロンドン・ソビエト大使館の文化担当官、アレクセイ・ポリヤコフと安心して接触できる場所が欲しいというのである。

この怪しげなソ連側との情報交換は、以前からビル・ヘイドンがやっていたようだが、いつしか、それもコントロールの在任中からパーシー・アレリンやロイ・ブラントを巻き込んでいったものらしい。

彼らはそれをウィッチクラフト作戦と呼んで悦に入っていた。

それは、自分たちがKGBの二重スパイのようにふるまい、たいした価値のない又は偽装した情報をKGBに渡してソ連側を攪乱したり、その見返りとしてソ連の最高度の機密情報を入手するための作戦行為なのだとパーシー・アレリンは信じきっていて、嬉々としてこの「作戦」に取り組んでいたのだ。

しかし、実はこの「作戦」で得られるソ連側の情報というのは、KGBのカーラが仕掛けたものだったのだ。

ビル・ブランドがカーラの手先となって、パーシー・アレリンらを逆利用していたというのが真の姿なのだ。

この後も、パーシー・アレリンらは、サーカスがアメリカ情報部と情報を共有することを推進していくが、それこそがKGBの最も望むところで、つまり、ソ連からの対米情報戦において、英国情報部・サーカスがいいカモにされていたというのが真相なのである。

しかしパーシー・アレリンらにはその自覚がなく、まんまとカーラ、そしてビル・ヘイドンの術中に墜ちてしまっているのだ。

ややこしい話だが、こういう冷戦時代のスパイ合戦を仕掛けたり仕掛けられたり、騙しているつもりで騙されていたりという二重三重にひっくりかえった構造−それは史実として本当にあったことなわけだが―を理解して観ていくのでないと、この映画はまことにわけのわからない話になってしまう。

レイコン次官は、パーシー・アレリンの弁にはいささか不審もあって、「アメリカに言わせれば、君らは水漏れ船なのだ。」と言う。

だがレイコン次官と大臣は、結局、このウィッチクラフト作戦のための隠れ家の経費を認めてしまうのだった。レイコン次官がトーストを囓る音がとてもいい。

このレイコン次官の部屋のシーンは、クランクアップしてから半年後に、追加撮影した場面だという。「状況説明的な場面がないと、観客がわかりづらいから」と考えてのことだったというようなことを、BD版のオーディオ・コメンタリーで、トーマス・アルフレッドソン監督が語っている。

作り手たちも、この映画のわかりにくさには手を焼いていたというか、観客にどこまでを説明しどこを説明しないか、それで観客にどのようなメッセージやイメージが伝わるかということを考え抜いて、シーンを削除したり増やしたりの修正を重ねたということであろう。

ロイ・ブランドが「我々が25年間最前線で戦ってきたことで、第3次世界大戦を防いできた」と言う台詞は、物語の全体的な背景を説明しているのとともに、彼らのプライドの高さと、その実ただの水漏れ船であることのギャップのおかしさも描いている。

加えて、編集段階でロイ・ブランドの出番のあるシーン(ピーター・ギラムとランチをするシーン)が削除された(後述)ことで、この追加撮影では彼に出番を作ってあげたという事情もあるような気がした。

7.現在:公衆電話

サーカスの“首狩人”(スカルプハンター)であるリッキー・ター(トム・ハーディ)が、街角の公衆電話からレイコン次官に電話をかけてくる。

リッキーは、「俺の身元は、サーカスのピーター・ギラムだけに聞いてくれ」と言う。

あるサイトでは、“首狩人”は、“首斬人”としている。

「スカルプハンター、正式呼称は<トラベル>、冷戦初期に設立。殺人・誘拐・脅迫などを担当」するという解説がある。

http://homepage1.nifty.com/a-la-carte/meisaku1/mei001b.html

映画の最初にブタペストに派遣されて撃たれたジム・プリドーも、東欧におけるほぼ同じような役目を担っていた。

要は汚れ仕事屋で、殺人でもなんでもやるという役回りらしい。

ピーター・ギラムは、このスカルプハンターの責任者、リッキー・ターは原作では「東南アジア担当の首狩人」なのだが、映画ではトルコ方面の首狩人ということになったわけだ。

8.現在:サーカスの建物の前

ピーター・ギラムがサーカスの建物に入ってくる。

実はピーター・ギラムは男の愛人(リチャード先生というらしい)と同棲しているのだが、街角では若い女に振り向いたりする。

9.現在:サーカスの建物の中

室内を自転車でやってくるビル・ヘイドン。

ピーター・ギラムが「許可を得ました?」と聞くと、「外には置けない」とビル・ヘイドンは言う。彼がすでに、この組織で我がもの顔に振舞っていることがわかるし、それを周囲が許していることもわかる。

二人で女子職員をめぐってセクハラまがいな会話もする。

ビル・ヘイドンもピーター・ギラムも両刀使いであるわけだ。

10.現在:ピーター・ギラムのオフィス

ピーター・ギラムに、外務英連邦省のレイコン次官から「話しがある」と電話がかかってくる。

ここで省略があるが、ピーター・ギラムはレイコン次官に呼ばれ、この件の解決のために退職したスマイリーを引っ張り出してくるように命じられたのだ。

11.現在:スマイリーの自宅

スマイリーが自宅でテレビを見ている。

大戦中のロンドン空襲の際に、チャーチルに助けられたと言っているらしきメイドの女性のインタビューのようなものが聞こえる。いかにもスマイリーが1人で見ていそうな番組という気がする。

玄関のドアをノックする者がある。

ピーター・ギラムが呼びに来たのだが、それも省略表現になっている。

12.現在:ピーター・ギラムの車の中

ピーター・ギラムがスマイリーを自分の車(シトロエンDS)に乗せて移動する。

ピーター・ギラムは、「コントロールが死んだとか」と言う。

スマイリーは表情を動かさない。コントロールの死因を彼がどう思っているのか、この表情からは伺えない。

原作では、スマイリーはコントロールは病死だったと一応は思っていたようだ。

13.現在:レイコン次官のオフィスの一つの部屋

レイコン次官は、スマイリーに対して、「サーカスの幹部の中にもぐらがいるらしい。もう何年も前から」と言い、「君がそれを探り出して欲しい。君が適任だ。」と命じる。

スマイリーは、「俺は引退した。君(レイコン)が俺を首にした」と言う。

この映画の初めてのスマイリーの台詞だ。なんとこの主役は、ここまでの20分間無言であったのだ。

レイコン次官は、「実はサーカスにもぐらがいるという話を、コントロールからも聞かされていた。コントロールの右腕だった君が聞いていなかったとは」と逆に怪訝な顔をされる。

スマイリーは聞かされてはいなかった。

コントロールはスマイリーも「もぐら」の可能性はあると疑っていたのだから。

レイコン次官は、コントロールからその話を聞いたとき、「それは被害妄想だろう」と言い返してしまったという。

その被害妄想がブタペストの事件を引き起こし、結果的に彼は辞職に追い込まれたとレイコン次官は考えていたようだが、ここへきてリッキー・ターからの電話を受け、すこし真面目に調べてみなくてはと思い直したわけである。

レイコン次官から、この件は「コントロールとスマイリーの時代の遺産なのだから、君が真相を追求するべきだ」と言われ、スマイリーとしては引き受けざるを得なくなる。

スマイリーは、パーシー・アレリン、ロイ・ブランド、トビー・エスタヘイスの4人組の顔を思い浮かべる。誰が「もぐら」だというのか。

スマイリーは、ピーター・ギラムと、警視庁のメンデル元警部とチームを組みたいと言って、この件を引き受ける。

14.現在:メンデル元警部の家〜車で移動

メンデル元警部が養蜂に精を出しているところへ、スマイリーとピーター・ギラムが訪れる。

蜂が車の中までついてくる。

スマイリーは、落ち着き払ってわずかに窓を開け、蜂を外に逃がす。そういう冷静な男なのだという表現である。

ちなみに蜂はCGだ。

(メンデル元警部がなぜ蜂を飼っているのか、これが、趣味なのか職業としてなのか、僕はわかっていない。ジョン・ル・カレによる本作の原作につながるシリーズの読者には、メンデル警部がどういう人物なのかは自明であるらしい。)

15.現在:ホテル・アイレイの根城

スマイリー、ピーター・ギラム、メンデル元警部のチームは、リバプール・ストリート駅の傍の、線路を見下ろす小さなホテル、ホテル・アイレイの一室を借りて、ここを彼らの根城として事務所開きする。

スマイリーは、ピーター・ギラムに「ピーター、コントロールの家の鍵は手に入れたか?」と聞くことで、次はコントロールの家の場面となることが説明される。

この台詞がないと、次の場面がどこだかわからないからだ。

16.現在:コントロールの自宅

スマイリーとピーター・ギラムが、コントロールの自宅にやってくる。

ひどい匂いがするらしく、二人とも閉口する。

スマイリーは、コントロールが「もぐら」ではないかと疑っている人間の顔写真をチェスのコマに貼っていたことを知る。

パーシー・アレリン、ビル・ヘイドン、ロイ・ブランド、トビー・エスタヘイスの顔写真が貼られ、それぞれティンカー、テイラー、ソルジャー、プアマンの暗号で示されている。

コマを見つめるスマイリーに、コントロールが自分のことを「ジョージ(スマイリー)」と呼ぶ声が聞こえて回想となる。

17.回想:サーカスの会議室

ジョージ・スマイリー(べっこう縁眼鏡)が、コントロールに呼ばれて部屋に入ってくる。

パーシー・アレリン、ビル・ヘイドン、ロイ・ブランド、トビー・エスタヘイスの4人組がすでに揃っている。

コントロールがここで問題としているのは、パーシー・アレリンが「ウィッチクラフト作戦」によって入手したというソ連の黒海艦隊の演習の報告書だ。

タイミングや内容からして、いかにも西側が欲しがっているような情報なので、かえってその真偽が怪しいとコントロールは疑っているし、スマイリーも同感だ。

その二人の反応を見て、ビル・ヘイドンも、「タイミングが良すぎる。だが本物かも」などと言って中立を装う。

パーシー・アレリンは、これがウィッチクラフト作戦の成果だと威張ってみせる。

パーシー・アレリンの言う新しい情報源=ソ連大使館の文化担当官、アレクセイ・ポリヤコフの身元は秘密だとして隠している。彼は、上司のコントロールを飛ばして大臣や次官に直談判し、アレクセイ・ポリヤコフの身元を最高機密にする了解を得てこの作戦をすでに実行しており、さっそくその成果が出たと主張しているわけで、コントロールにしてみれば当然、面白くない。

パーシー・アレリンは、「大臣が、サーカスこそ秘密が漏れる場所だと言っている。アメリカの情報もサーカスから漏れてしまうことが問題視されている。だから自分はサーカスの中でも機密扱いにした情報源から、真に価値ある情報を引き出しているのだ」と主張する。

これにコントロールが怒りだすとトビー・エスタヘイスが、おためごかしを言う。

もともとハンガリー人のトビー・エスタヘイスは、コントロールに“拾われて”これまでのサーカス内でのポジションを得た男だが、今ではすっかりパーシー・アレリンの提灯持ちになっている。

コントロールは、「お前を拾ってやったのが間違いだった」と罵倒し、「お前らみんな出て行け」と叫ぶ。

ビル・ヘイドンははじめ、自分も出ていけと言われたとは思わずに座っているが、空気を読んで席を立つ。

18.現在:コントロールの自宅

回想が終わり、コントロールの部屋で我に返るスマイリー。

チェスの5つ目のコマに、自分の顔写真が貼ってあることを知る。

信頼し合っていたと思っていたコントールから自分も容疑者の1人として扱われていたことに心穏やかでないスマイリー。

ピーター・ギラムが、これらのコントロールの自宅の書類などをホテル・アイレイの根城に運ぼうかと聞く。

前のシーンの台詞で、次の場面がどこになるかを示唆し、そこでは「ここはどこそこです」という説明を省くという演出は、さきほどの「ピーター、コントロールの家の鍵は手に入れたか?」と聞いて、コントロールの家の場面にまたぐのと同じ手法で、必要以上の説明過多にはしたくない、しかし、話は観客に理解してもらいたいという時の、ひとつの映画的解法だ。

19.現在:ホテル・アイレイの根城

ホテル・アイレイの根城に、コントロールの自宅で見つけた書類やら何やらが運びこまれてくる。

スマイリーは、デスクの上にチェスのコマを持ち込んでいる。

そこには、まだ姿を見せない敵・KGBの大物、カーラのコマも置かれている。ス

マイリーは、この一連の事件の背後に、カーラの大きな存在を感じ、このコマを作ったということのようだ。

スマイリーはピーター・ギラムに、サーカスの退職者のリストを調べるように指示する。ほかに、サーカスの新しいチーフとなったパーシー・アレリンが、現在はどのような組織を作っているのか、ウィッチクラフト作戦の経費がどう使われているのかなどの情報も入手せよと命じる。

20.現在:サーカスのオフィス

ピーター・ギラムがサーカスのオフィスを家捜しして必要な情報収集にあたる。

退職者リストや組織図、経費支出の記録などだ。

21.現在:サーカスのオフィス

ビル・ヘイドンが、トビー・エスタヘイスの部屋のドアを開けると、トビー・エスタヘイスがハンガリー語で、誰かとアルバートホールの角のカフェで会おうなどという電話している。

その様子をビル・ヘイドンが見て、「陛下はどこかな?」と聞く。

「陛下」とは、コントロールの後でチーフになったパーシー・アレリンのことだ。

ビル・ヘイドンは自分が黒幕であるくせに、パーシー・アレリンを上司(陛下)と奉って、その蔭に隠れているわけだ。

トビー・エスタヘイスがあわてて電話の口を隠すような仕草をするから、映画の観客は、「もぐら」は彼なのか?などと思うかもしれない、そんな演出だ。

トビー・エスタへイスは「陛下(パーシー・アレリン)は屋上にいる」と答え、ビル・ヘイドンは、「ハラショ(ありがとう)」と応える。お前はハンガリー語でしゃべっていたなというような意味だろうか。

この時のパーシー・アレリンの肩書きは「サーカス全体のチーフ」、ビル・ヘイドンは、「サーカスのロンドン本部長」、また、トビー・エスタヘイスは、「サーカスの“点灯屋”の責任者」ということである。これは新訳版文庫本のカバーのかえしに、説明されている。

点灯屋(ランプライター)とは、「主流業務に対する支援・援助・監視・盗聴・輸送・隠れ家維持などを担当」する役割だそうだそうである。(http://homepage1.nifty.com/a-la-carte/meisaku1/mei001b.html

22.現在:サーカスの屋上

ロイ・ブランドが屋上に上がってくる。

ピーター・アレリンとロイ・ブランドが何か内緒話をする。

彼らにはいくらでも内緒話の種は尽きないだろうが、後のシークエンスから考えると、この時は、「どうも、ピーター・ギラムの奴がちょろちょろしてないか?」というような相談だったのかもしれない。

23.現在:サーカスから出るエレベータ

 ピーター・ギラムがエレベータから外に出ようとすると、ロイ・ブランドが「災難だったそうだな。」と声をかけてくる。

ギラムが「机で手を切った。新しいのに代えてくれ」と応えると、ロイ・ブランドが、「重要事項としてエスタヘイスに話す」と言う。

これはロイ・ブランドがピーター・ギラムに対して、「お前が何か、ちょこちょこと嗅ぎ回っていることを告げ口しとくぞ=俺たちでお前を監視しているぞ」と警告しているように見える。

この後もロイ・ブランドは、ピーター・ギラムを「お前を監視しているぞ」と威嚇する場面が出てくる。

ロイ・ブランドは4人組の中でも、コントロールからソルジャーと命名された武闘派で、こういう役回りであるわけだ。

ロイ・ブランド本人にしてみれば、任務に忠実なだけなのだが、ピーター・ギラムや観客にしてみると、ロイ・ブランドは恐い相手に見える。

ここでロイ・ブランドが、ピーター・ギラムをランチに誘う。

映画では次にスマイリーたちのホテル・アイリスの根城のシーンになってしまうが、BD版の特典映像を見ると、このピーター・ギラムとロイ・ブランドが一緒にランチをするシーンが撮影されて、後でまるまる削除されていたことがわかる。

このカットされてしまったシーンについて、特典映像をもとに少し述べる。

このカットされたランチ・シーンでは、ロイ・ブランドがビールを飲みながら、「職場に戻りたくない。(サーカスの)年増の秘書たち(マザー)は、コントロールを恋しがって、パーシーをコケにしている。当分は期待できないな。」とこぼす。

ピーター・ギラムが、「何を(期待できないって)?」と尋ねる。

ロイ・ブランドはそれに、「忠誠心」と答える。

コントロールのようなカリスマ性に欠けるパーシー・アレリンや自分に対して、サーカスの女性秘書たちが忠誠心を示してくれないと嘆いているのである。

本作を最初に見たときには、こんな会話があることは知らなかったから、後の飛行場の場面で初めて「忠誠」というキーワードが出現したと思っていたが、この特典映像を見て、最初のシナリオでは、ここですでに「忠誠心」というキーワードを出して伏線とする仕掛けがあったことがわかった。

このことで本作の一つのテーマが「裏切りと忠誠」というものではないかという僕の仮説というか主張が、よりあたっているように思えてきた。

この会話に続いて、ロイ・ブランドが、「タバコをくれ」と言って、椅子の背に掛けてあったピーター・ギラムのコートのポケットに手をつっこんでくる。

ピータ・ギラムが、サーカスから何かを盗み出したのではないかと疑ってのことのように見え、ピーター・ギラムを一瞬ヒヤリとさせる。

重ねて、ロイ・ブランドは、「ダットサンが好きか?俺は女房にせがまれて買ったが、我ながら運転してる姿がジジくさく見えたよ」とも言う。

さらに「お前は何に乗ってる」とピーター・ギラムに問い、「シトロエンDS」と答えると「フランスの車か」と応じる。

愛国者集団であるはずのサーカスの面々が、日本車やフランス車に乗らざるを得ないことを憂いているということだろうか。

このあたりのロイ・ブランドのしつこい絡みや、彼からの疑いのまなざしに辟易するピーター・ギラムの表情が上手い。

このように、この未公開シーンにも見せ場が多いし、これをカットしてしまったことで、本作中のロイ・ブランドの存在感がだいぶ軽くなってしまったことは否めない。ロイ・ブランドを演じたキーラン・ハインズとしてもきっと不満だったろう。

とはいえ、このランチ・シーンがなくても、同じ内容のことは前のシーンや後のシーンでも描かれているという点でいえば無ければ無いでよいし、あるとしつこい感もなくはない。それで、ここで出番をカットしたぶん、追加撮影となった外務英連邦省の場面では、ロイ・ブランドの出番と台詞を作ってやったという事情もあったかもしれないと僕は考えた(前出)のだが、どうだろう。

BD版には、その他の未公開シーンもたくさん収められている。

中には、「スマイリーが、いささか年寄りくさい動作で自分で目玉焼きを焼いて食べる」というシーンがあって面白いのだが、やや年寄りくさすぎて魅力に欠ける。

このシーンもカットしてよかったと思う。

このように本作のもともとのシナリオでは、より多くのシーンが考えられ、そのいくつかは撮影前に、いくつかは撮影まで済ませながらもカットしたということのようである。

BD版の予告編集を見ても、こんな映像は本編にあったっけ?というようなカットが散見される。

全体の編集がひととおり終了した後でも余計なシーンはどんどん割愛していくことで、本作全体にリズムが生まれ、意図的により謎めいたところを増やし、ぎりぎりのところで話がつながるように練りあげていったということだろう。

「一回見ただけではわけのわからない映画」になるハズだし、それがいかに確信犯的にやっていたのかよくわかる。原作をいったんバラバラにして、ここまで練り上げた脚色もたいしたものだし、編集段階で一つずつのカットの有無や順番からシーンまるごとの取捨まで、慎重に仕上げていった映画であることがよくわかる。

この手にまんまと乗って、本作を「わけのわからない映画」と決めつけてコキおろす観客こそいいカモにされているといった体で、作り手としてはニンマリであろう。

本作の脚色はブリジット・オコナーとピーター・ストローハン。

ブリジット・オコナーは、本作の撮影直前に亡くなった。

彼女は本作を新たに創作したといえるような大きな功績を残したということで、エンドクレジットではまず、「ブリジット・オコナーに捧ぐ」と出てくるのである。

24.現在:ホテル・アイリスの根城〜パディントン駅

スマイリーとピーター・ギラムが、退職者リストをチェックすると、古参の女性職員、コニー・サックスが、1973年11月28日に退職していたことがわかる。

同年11月14日にコントロールとスマイリーが辞職した2週間後のことだ。

これは何かあるなと匂ったスマイリーは、コニーが住むオックスフォードへと列車で向かうことにする。

パディントン駅で「オックスフォード片道」と言って、駅員から切符を買うスマイリー。

自動販売機に慣れた日本人には、ずいぶん遠くまで旅する切符の買い方に見えるが、ロンドンとオックスフォードは列車なら1時間程度でさほど遠いところではない。

僕が1984年にロンドンに行った時にも、鉄道の切符はこういう買い方をしたものだが(地下鉄はもっと簡単に買ったような記憶もある)、もしかすると現在はパディントン駅ではオックスフォード行きを自動販売機で買えるようになったかもしれないし、そうだとすればイギリスの映画観客にとっては、こういう切符の手売りの場面から70年代を懐かしく思い起こす演出なのかもしれない。

BD版のオーディオ・コメンタリーによれば、このパディントン駅のスマイリーの背景は合成だそうだから、現在ではこういう風景そのものが様変わりしてしまっているのかもしれない。最近のロンドン事情に詳しい方に教えてもらいたい。

25.現在:スマッシュコート・更衣室

外務英連邦大臣とレイコン次官がスマッシュで汗を流しているところへ、サーカスのチーフ、パーシー・アレリンが現れる。

パーシー・アレリンは、「このウィッチクラフト作戦で、たいして価値のないアメリカの情報を、さももっともらしくソ連側に流すように見せかけて、ソ連側の重要機密を引き出します。ソ連側の情報がどれだけ本物かを見極めるためにも、アメリカの情報をソ連側に流す高等戦術なのです。」というような意味のことを言う。

だからサーカスとしても、米国の情報機関に積極的に接触し、情報共有をすべきだと主張する。「ウィッチクラフト作戦なら、何だって不可能はないのです」とも。

パーシー・アレリンの提案に、大臣は「キャリオン(続けろ)」と言って、アメリカとイギリスの情報機関が情報を共有する方向へ進むことを了承してしまう。

こうしたパーシー・アレリンの提案も、実はKGBのカーラが描いた絵に沿って、ビル・ヘイドンが操っていることに、まんまと乗せられているに過ぎないのだが、パーシー・アレリン自身は、自分が逆利用されているという自覚がなく、この作戦で自分がソ連の連中を手玉にとっていると本気で信じている。

それがますます嵩じて、アメリカとの情報共有まで始めてしまうとあっては、西側の諜報システムの根幹を揺るがすような事態である。

この更衣室のシーン、奥でシャワーを浴びている全裸の男性の後ろ姿の右半分が、エロティックに画面に写る。

この映画は全体的にホモセクシャルな香りをふんぷんとさせていて、ここでもサービスしているわけだ。そういう男色趣味がこの画面からよくわかる。

これを演繹していくと、この映画の大きな構造も、要はスマイリーとカーラの男性愛の物語に収斂するということなのだろうかというところまで考えてしまう。

それにしてもイギリス紳士諸君は、このシャワーシーンにきゅんとなるものなのだろうか。BD版のオーディオ・コメンタリーでは、それまで雄弁だった監督が、この男性ヌードについてはまったく触れず、微妙な沈黙の後に、ロケ場所はどこだったというようなつまらない話題にすりかえてしまっているのがおかしい。かえってここの見せ場はこの男性ヌードだと言っているような気がした。

スカッシュが、二人が密室で一緒に汗を流すことによって怪しい雰囲気になるスポーツだというのは、『エマニュエル夫人』かなにかでも描かれていたような気がするが、そんな性的匂いがとにかく強いところが、この映画の独自性のひとつということなのかもしれない。

26.現在:オックスフォードのコニー・サックスの家

スマイリーは町の酒屋で手土産のウィスキーを買うと、退職したコニー・サックスの家を訪れる。

この家では、コニー・サックスが若者たちを集めて教育活動をしている。

若者たちは芝居の練習をしたり、いちゃついたりしている。

医者からアルコールは止められているというコニー・サックスのティーカップにウィスキー(ジョニー・ウォーカーのようだ)をとぷとぷと注いでやるスマイリー。

打ち解けた親切のようでいて、彼女は酒が入るとよくしゃべるということを知っての手口だ。そういう点でスマイリーはあざとい。

コニー・サックスも少しエロティックなことを言った後、スマイリーの妻・アンがまた家を出たそうね(別の男のところに行ってるそうね)という話をする。

アンはスマイリーにはふさわしくない女だとも言う。スマイリーはその話を遮る。アンのことには触れられたくない、アンのことになると感情が揺さぶられるのがスマイリーの唯一の弱点だということが、この場面から察せられる。

コニー・サックスに、なぜ君はサーカスを辞めたのかと尋ねる。

彼女は、自分は辞めたのではなく、解雇されたのだと言う。

27.コニー・サックスの回想:サーカスの調査室

コニー・サックスは、ベルリンのメーデーのニュースフィルムを分析中に、在ロンドン・ソビエト大使館に15年前に着任したアレクセイ・A・ポリヤコフという文化担当官が、軍人から敬礼を受けているカットを発見して、アレクセイ・ポリヤコフは文官ではなく軍人で、カーラから送り込まれた人間だと断定する。

カーラが元軍人ばかりで秘密組織を作り、各国の情報機関には「もぐら」を潜り込ませて操るという作戦を実施している−そんな噂は、やはり本当だったと彼女は確信したのだ。

彼女は、このことをトビー・エスタヘイスとパーシー・アレリンに報告するが、当然彼らは、ウィッチクラフト作戦におけるパイプ役のアレクセイ・ポリヤコフの存在を知られては困るので、「ポリヤコフに構うな」と言って、彼女の報告を封殺する。

そして、コントロールとスマイリーが辞職したのにあわせて彼女も解雇してしまったのだ。

コニー・サックスが操作しているステーンベック社のフィルム編集機(BD版のオーディオ・コメンタリーでは、編集台=エディティング・テーブルと呼んでいる)だが、ここにある機械は、ランプを切った後もファンでランプを冷却してからでないと電源を落としてはいけないタイプらしい。

この部屋の壁に、赤マジックで「コンセント抜くな!(DO NOT DISCONNECT!)」と落書き風に書かれてあるのが、この編集機を使ったことのある者にはリアルに見える。

部屋の窓の外から見えているコニー・サックスの顔の高さと、部屋のこちら側にカメラが入ってからの窓−編集機のビューワー−コニー・サックスの頭の高さは、どうもマッチしていないように見える。

窓外からはコニー・サックスの頭は首ひとつビューワーより高いのに、部屋の中ではビューワーより頭のほうが低い。

カメラが高い位置からだからこう見えるというイクスキューズはあり得るが、窓外からの彼女の顔がこれだけ見えるためには、カメラ位置がもっと高くないとおかしい。

しかし窓外のカメラは水平にドリーインしているわけで、やはり合っていない。

つまり、窓の外からはコニー・サックスの顔がよく見えるように彼女の頭の高さを椅子の高さ調整などで“盗んで”(チートして)こういう撮り方をしているわけだ。

少し不自然なつながりになってしまっているのだが、本作に限らず映画にはこうした“コンテュニティ・ミス”とぎりぎりの、ポジションのチートはつきものなのである。

28.現在:オックスフォードのコニー・サックスの家

このシーンでスマイリーが、「アレクセイ・A・ポリヤコフ」の顔写真を見つめているようなカット割りになっているが、目の前にそういう新聞紙があるという意味ではなく、スマイリーが、「ありありとアレクセイ・ポリヤコフの顔を思い起こしている」という表現なのだろう。

コニー・サックスは、古き良き時代のサーカスの思い出の写真を取り出す。

ジム・プリドーとビル・ヘイドンがクリケットのユニフォームで肩を抱き合っている写真だ。

二人はオックスフォードでクリケットの仲間だった。

だから映画の最後のほうでも、ビル・ヘイドンは「モスクワにはクリケットはないな」と嘆くのだ。

この二人の写真は、「この二人は学生時代から出来ていた」という意味で後にまた出てくる。コニー・サックスは「ジム・プリドーとビル・ヘイドンはいつも一心同体だった」と言っている。

若い頃のコントロールの写真。コントロールは気骨の軍人だった。

いい時代だったというコニー・サックス。

スマイリーは、それは戦争中のことだと言う。

コニー・サックスは、「あの頃の(大戦中の)イギリス人は誇りを持てた」と言う。

今の米ソ冷戦の狭間でのイギリスの立ち位置には嘆息しているわけだ。

まして、サーカスの中に「もぐら」がいて、サーカスを通じてアメリカの情報がソ連にだだ漏れになっているなど、彼女のイギリス人としてのプライドが泣くのだ。

去り際のスマイリーに、「悪い結果ならもう来ないで。昔の思い出を大切に」と言い放つコニー・サックス。

自分の愛したサーカスの男たちの中に、そんな腐ったリンゴがいるなどという話は、彼女にとって受け入れがたい悪夢なのだ。

29.スマイリーの回想:サーカスのクリスマス・パーティの会場

「昔の思い出」という台詞をきっかけに、スマイリーは、かつてのサーカスのクリスマス・パーティのことを思い出す。

コントロールは荒っぽい上司で、パーシー・アレリンはその下っ端風情だ。

コントロールから「ドケチのスコットランド人」と満座で罵られ、パーシー・アレリンがそれを逆恨みしたかのような場面になる。

これだけが原因ではないだろうが、この頃からパーシー・アレリンには、コントロールを出し抜いてやりたいという野望が芽生えたということがよくわかる。

コントロールが「サルでも酔えない」と、ウオッカか何かをポンチに(?)ダボダボと注いでいる後ろで、アウトフォーカスながらパーシー・アレリンが激昂して、隣の女性に八つ当たりしている演技から、「男の恥と怒り」の生理がよく伝わってくる。

パーシー・アレリンのこの醜い所作から、観客は、この男は最後には功を焦って大失敗をやらかすだろうと容易に想像がつく。

こんな男たちのちまちまとした野望・嫉妬・愛憎が交錯して作り上げていた冷戦時代の諜報戦の悲喜劇を嗤うような懐旧するようなところが本作の視点である。

こんなアウトフォーカスの画面から、物語の構造や人間造形を理解して話しについていかなくてはいけない観客もご苦労なことだが、本作を2度見ると、こういう所作にまで目がいく余裕が生まれ、全体としての演出意図が浮かびあがってくるという仕掛けが実に面白く、本作の魅力の深さとなっている。

ビル・ヘイドンとジム・プリドーの交わす表情、ことにジム・プリドーの幸せそうな笑顔も、全体をわかってから見ると、つまり2度目に観ると実に切ない。

べっこう縁眼鏡のスマイリーは、ここでは妻・アンに首ったけだ。

しかしアンは、「彼にいちころ」の歌詞にあわせてビル・ヘイドンにウィンクかなにかをしたようだ。

スマイリーがその視線を追って振り向くと、ビル・ヘイドンと目が合う。

ビル・ヘイドンがスマイリーに手で挨拶し、満面の笑顔を返してしまう間抜けなスマイリー。

この「世界で二番目に優秀な秘密諜報員、彼にいちころ」と歌われているのは、サミー・デイビス・ジュニアの“The Second Best Secret Agent In The Whole World”で、1965年のイギリス映画『Licensed To Kill』の米国公開版の映画『The Second Best Secret Agent In The Whole World』の主題歌だそうだ。

「(こちらの)映画はいかにも007風なB級アクション・スパイ・コメディだが、主題歌はジミー・ヴァン・ヒューゼン&サミー・カーンの黄金コンビ作品・・・」とのことで、本作のこの場面で皆が楽しんで聞くのによくマッチしている。

この歌も含めて、以下のサイトで本作に使われている音楽についての詳しい解説が読める。

こんな素晴らしい情報にたちまちアクセスできるのもネットの威力か。

http://d.hatena.ne.jp/LessThanZero/20120427/1335534526

原作には、このクリスマス・パーティの回想という場面はないが、原作の構造のかなりの部分を、このパーティ場面にぎゅっと凝縮して説明してしまう手際のよさもたいしたものである。

こうでもしないと映画の時間の中に全体の話が収まりもしないからだろうが、下手をすれば説明のため説明になってしまうところを、人間関係を描く必然的な場面にしているのが見事だ。

30.現在:サーカスの書類エレベータ〜書類を盗み出す誰か

何の書類がエレベータを上がってきたのかはわからないが、おそらくこれはアメリカと共有している重要情報という意味だろう。

深夜、それを誰かが(書類を持ち出していたのは4人組の全員だが、この場面はトビー・エスタヘイスのようだ)サーカスの外へ持ち出している。

31.現在:ウィッチクラフト作戦の隠れ家

ウィッチクラフト作戦の隠れ家には、世話役のマックレイグ夫人が待機している。

盗み出された書類を接写用カメラで複写している。

ソ連大使館の文化担当官を装ったKGBのカーラの手下、アレクセイ・ポリヤコフが、上機嫌でその頃流行のクレムリン・ジョーク(フルシチョフ失脚ネタ)を発している。

32.現在:ホテル・アイリスの根城

スマイリーがアレクセイ・ポリヤコフの顔写真を切り抜いて、チェスのコマに貼る。

33.現在:ホテル・アイリスの根城

メンデル元警部が出勤してくる。

スマイリーが徹夜で書類を精査していた中から、1973年10月21日にハンガリーのブダペストで殺されたとされる(そして、その事件のためにコントロールと自分が辞職に追い込まれた)ジム・プリドーの偽名・エリスに対して、彼が死んだはずの2ヶ月後、サーカスから1000ポンド支出されていることを突き止めていた。

ジム・プリドーは死んでおらず、サーカスから金まで支払われているというのだ。

34.回想・1973年10月21日:ブタペストの街角

撃たれて倒れたジム・プリドー。

35.現在:サースグッドの学校:ジム・プリドーの勤務先

転校生のビル・ローチ(愛称・ジャンボ)が戸外を見ていると、ジム・プリドーが、トレーラー・ハウスを牽いた車(アルヴィス)でやってくる。

ジム・プリドーは死んではいなかった。

ジム・プリドーの車は、原作では真っ赤な古いアルヴィスだが(ハヤカワ文庫新訳版18頁)、映画のアルヴィスは青である。

このカット、カメラは真正面からビル・ローチ少年を撮っていて、ガラスに反射したジム・プリドーの車が重なっている。

この角度では、本来ならカメラがガラスに反射して写ってしまうから、カメラ位置が非常に難しい。

昔なら反射してしまうカメラに暗幕を被せ、レンズだけ突き出して撮るとか(それでもレンズの先が反射してしまうが)、苦労するところだ。

本作のこのカットはよほど上手くカメラ位置を工夫したか、あるいはガラスの反射に見せた合成と思われる。ビル・ローチ少年と車との両方によくピントがあっていることから推察してもおそらくは合成であろう。

こうした特殊効果の技術が本作のような渋い映画でさりげなく使われているところが心憎い。

ジム・プリドーは、密かに生きて帰国していて、この学校でフランス語の臨時教師の職を得ていた。

原作では、この学校は「私立小学校」(ハヤカワ文庫新訳版17頁)なのだが、日本とイギリスの学制はかなり異なっており、学校ごとにも違いや特色がある。

映画の中のこの学校の生徒たちは、日本でいえば中学生相当に見える。

ジム・プリドーは、撃たれた後遺症で体に障害が残り、生徒たちにからかわれている。

生徒に配る教科書の表紙にエッフェル塔が一瞬見え、これがフランス語の授業であることがわかる。

エッフェル塔がフランス(パリ)の記号だとすぐ理解しないといけない場面は後にも出てくる。

ジム・プリドーが黒板にフランス語で、「私の名前はエリスです」と書いている。

自分の偽名・エリスを自分で書いているわけだ。

ジム・プリドーはスパイ時代から、ハンガリー語やフランス語に堪能だったことで、この職にありつけたらしいが、暖炉から飛び出してきた梟を一撃でたたき落とす怖ろしい面も、つまりスパイ時代の凶悪さもいまだ体内に宿しているようだ。彼はいつでも弾き金を弾けるのだ。この梟のCGは、あまり出来は良くないけれど。

ジム・プリドーが、ビル・ローチの名前を聞いて、「ビルを何人も知ってる。いい奴ばかり。」という「ビル」の一人は、もちろん、自らの愛しい人、ビル・ヘイドンのことだ。いまでもジム・プリドーはビル・ヘイドンのことを愛しているということである。

ジム・プリドーとビル・ローチ少年の間に不思議な心の交流が生まれる。

原作では、この物語は、ビル・ローチ少年から見たジム・プリドーという構成で一本の筋になっていて、少年の視点から書き始められ最後も少年の視点で終わる。

36.現在:アメリカ大使館ないし領事館のようなところ

パーシー・アレリンがアメリカ大使館ないし領事館のようなところの部屋(星条旗が立てられていることで、そう理解しないといけない)の、おそらくはCIAの職員に、ウィッチクラフト作戦で入手した情報を渡し、アメリカ側もそれを喜んで受け取っているという場面だ。

パーシー・アレリンもCIAもご満悦なのだが、その実彼らはKGBのカーラの思う壺にまんまと嵌っているというわけだ。

37.現在:スマイリーの自宅

スマイリーが帰宅すると、ドアに挿んであった木片が落ちている。

自分より先に誰かが侵入した証拠だ。

BD版のオーディオ・コメンタリーでは、スマイリーには、それがアンであってくれればいいという期待もあって部屋に入ったのだが、テーブルの上のナイフを見て、それがリッキー・ターだと知る。

リッキー・ターは、ナイフをテーブルの上に置くことで、自分が武装解除していることをアピールしているわけだ。

スマイリーは、リッキー・ターに勝手に家に入ってこられたことに腹を立てている。

スパイにとって、自分の日常生活の場を他人に見られるのは耐えがたいことだと、オーディオ・コメンタリーではそんな話をしている。

スマイリーが部屋の内部を勝手に触られていないかを気にし、ことにアンへの手紙がいじられていないか、ほんの一瞬確認する小さな芝居に、そこまでアンのことが気になってしょうがないスマイリーの哀れさがよく表現されている。

ほんのちょっと手を伸ばすだけなのに、そういう気持まで観客に伝わってくるという見事な演技だ。

リッキー・ターは、自分の身はサーカスからもKGBからも追われていて危険だ。自分には女(イリーナ)がいるが、彼女は今、KGBに囚われの身となってしまった。カーラと交渉して、スパイ同士の身柄交換の折に、彼女を救出して欲しいのだという。

スマイリーが部屋に入ってきたときに、テーブルの上に飲みさしのジョニー・ウォーカーが置いてあるのがわかる。

これはコニー・サックスの家で差し出したボトルをスマイリーが自宅まで持ち帰ったというようにも見える。

あの時、酒はお土産として置いてきただろうからここにあるのとは違うと考えるほうが普通かもしれないが、コニー・サックスから、「自分は医者にアルコールを止められている。あれば飲んでしまうのも怖い。子供たちを教えている家だからアルコールは置いておきたくない。持って帰ってちょうだい」などと強く言われて持ち帰ってきたという可能性も考えられる。そういうやりとりがあの場面であったと想像するほうが楽しい。

二つのシーンの酒びんが同じジョニー・ウォーカーなのかどうかは無論わからないけれども、瓶の中の残りの酒の量がうまくあっているように見える。そう思って見るとそう見えてくる。

38.リッキー・ターの回想・1973年11月:トルコ・イスタンブール

リッキー・ターがスマイリーに説明する。

リッキー・ターはサーカスではピーター・ギラムの部下である。

ピーター・ギラムの命令で、イスタンブールに赴き、サーカスの現地工作員セシンジャーの手も借りて、KGBの「使節」のボリスに接触して様子を見ると、どうも中身のない男のようだったので、ピーター・ギラムに「取引中止」と打電し、そのまま帰国するつもりだった。

ところが、リッキー・ターはボリスの内縁の妻のイリーナ(スヴェトラーナ・コドチェンコワ)に惹かれ、彼女と恋仲になってしまう。

リッキー・ターが望遠鏡でボリスの情事やイリーナへの暴力を目撃する場面、こういうときに部屋のカーテンが丸開きというのはちょっと無理があるが、この覗きのカットは、窓から見えている室内の部分はロンドンで撮影し、ビルの外側や町の夜景はイスタンブールで撮影したもので、後で合成(コンポージット)したのだと、BD版のオーディオ・コメンタリーで語っている。

リッキー・ターとイリーナが逢瀬を重ねる。リッキー・ターがイリーナの顔にコンパクトで光を当てる場面や、窓枠に“しな”を作ってもたれかかるイリーナの後ろ姿など、紅一点の彼女の魅力と存在感をうまく描いて、リッキー・ターが惚れ込んでしまったということを短時間で観客に同感させる鮮やかな演出だ。

この監督、ゲイの心情も異性への恋愛も描ける人のようだが、BD版のオーディオ・コメンタリーによれば、トーマス・アルフレッドソン監督はこのシーンの撮影の2〜3週間前に、恋人の脚にコンパクトで光を当てて、いちゃついていたカップルを、ストックホルムで見かけたことがあって、この演出を思いついたという。

映画の演出のアイデアが、そういう日常観察から生まれるというのはよくわかる。

監督がストックホルムに出向いたのは、オーディオ・コメンタリーから判断すると、本作の合成処理などを行ったストックホルムのプロダクションを訪問したときのことではないかと思われるが、どうだろう。

イリーナはサーカスの中に潜り込んだ「もぐら」の秘密を知っているらしく、自分の持つ情報と引き換えに、西側に亡命させて欲しいとリッキー・ターに頼む。

そっちのほうが主目的でリッキー・ターにすり寄ったのかもしれない。

原作ではこの一連の出来事の舞台は香港である。

リッキー・ターとイリーナは、ケーブル・カーに乗ってビクトリア・ピークに上がったりするのだが、映画ではそれがイスタンブールになっている。

イスタンブールの方が旅費やロケ費が安いとか、オリンピック立候補地として(イスタンブールは2000年夏季オリンピックから立候補していた)映画のロケの招致にも熱心で、リベートも出たからではないかとなどという推察も成り立つだろう。

いずれにしても1970年代の風景というのは、現在の高層ビルだらけの香港では、もはや撮影し難いであろう。

39.1973年11月20日:イスタンブールの現地支部・セシンジャーの貿易事務所

リッキー・ターは、セシンジャーの事務所から、サーカス宛に、「サーカスの安全にとって重要な情報」があると打電する。

手柄を焦って「二重スパイに関する情報」と書いてしまったことがアダになる。

リッキー・ターからの打電をビル・ヘイドンが先に知ってしまい、先手を打たれたことで、リッキー・ターとイリーナには最悪の結果がもたらされることとなる。

「二重スパイがいるかもしれない」という情報を、当の二重スパイがいるかもしれない本部に打電したのだからこれは愚かだ。

スマイリーの目が、「この馬鹿が」と呆れている。

リッキー・ターがサーカスにこの打電をしたのが、1973年11月20日であったことが、この後、保安日誌の記録を確認する場面でわかる。

それはブタペストでジム・プリドーが撃たれた事件(1973年10月21日)の1ヶ月後である。コントロールとスマイリーが辞職した日(1973年11月14日)からは一週間後だ。

こうして日付をつけて順番に見てみるとよくわかるのだが、最初は僕もこのあたりの時間軸とエピソードとの関係がわかりにくかった。

サーカスに潜り込んでいたもぐら、すなわちビル・ヘイドンはこの打電の記録の日誌の頁を(後に)切り取るいっぽうで、状況をKGBのカーラにただちに報告したのだと思われる。

カーラはすぐさま、リッキー・ターやイリーナらの抹消にかかる。

サーカスの現地工作員セシンジャーは瞬く間に惨殺される。

これがサーカス側には、リッキー・ターの仕業と誤認され、加えてカーラがリッキー・ターの口座に3万ポンドを振り込むという工作をしたことで、彼はサーカスからも追われる身となる。

セシンジャーの惨殺体の周りを飛ぶ蠅はCGだが、これは梟とは違ってよくできている。

いっぽう、イリーナの内縁の夫のボリスも浴槽の中で(KGBに)惨殺され、イリーナもオデッサ行きの船で連れ去られてしまう。

リッキー・ターが電話をかけるのは町の中の精肉店からである。

店員が肉を解体しているカットの次に、ボリスが浴槽の中で腸を浮かべている惨殺体のカットになる。ボリスが殺害される場面そのものは出てこないが、それと同じことを意味するモンタージュだ。

「俺はイリーナに心底惚れてしまった。彼女を救いだしたい」と、スマイリーに懇願するリッキー・ター。

スマイリーは、「カーラが君を捜すだろう」と言って、リッキー・ターの行く手にカーラが立ちふさがってくること、つまりはカーラと自分の対決が迫りつつあることを感じ始めている。

40.現在:サーカス

リッキー・ターが脱出用のパスポートを使って、パリ経由でイギリスに戻って来ているということを電話で会話しているトビー・エスタヘイスとビル・ヘイドン。

このテープ録音が、パーシー・アレリンにもたらされる。

彼ら4人組も盤石の仲間ではなく、互いに監視しあっているということか。

そういうヒリヒリした空気はよく伝わってはくるものの、僕はこの場面の意味するところは、まだよくわかっていない。

41.現在:ロンドンの公園の池

池で泳ぐスマイリー。

二人の男が仲良く泳ぐのとすれ違う。

池から上がったスマイリーが、ピーター・ギラムに、「1973年11月の保安課の記録を盗み出せ」と命じる。「もし捕まっても、私の名前は出すな」と念を押して。

本作の主要な撮影は2010年10月7日から12月22日までに行われたが(Wikipedia)、この水泳シーンを撮影したのは10月で、ゲーリー・オールドマンはずいぶん寒い想いをしたようだ(BD版のオーディオ・コメンタリーによる)。

ちなみにこの池は、後の時代に、「ゲイが集う池」として有名になってしまった「ロンドン北部にある市内最大の公園ハムステッドヒース。面積3・2平方キロの広大な敷地の一角」にある池である。http://london2012.nikkansports.com/column/ishii/archives/p-cl-tp0-20120802-993840.html

本編では削除されているが、BD版特典映像の「未公開シーン」の中には、スマイリーが池の縁で休憩していると、水中から別の紳士がふいに上がってきて、スマイリーにこんな台詞を言う場面がある。

「念のために教えておく。ここで俺たちが何をするかは警官に監視されている。あそこの茂みから、あれでも隠れているつもりだ」。

BD版のオーディオ・コメンタリーでは、それは何かの取引(麻薬などの?)をするのを監視しているといった意味のことを言っているが、本当はこの台詞は、ゲイの男たちがここで何をしでかすか警官が監視しているという意味だろう。

つまりこの池が、当時においても知る人ぞ知る「ゲイ池」で、当時のゲイは警官から見張られるような異端のマイノリティだったということだ。

イギリスの観客には時代性を感じさせる場面なのだろうと思う。

しかしこの会話が本編に残ってしまうと、スマイリーもゲイなのかもしれないという表現にもなってしまい、本作全体としてのスマイリー像がバラけてしまう。

だからここを本編からはカットしたのだと僕は考える。

BD版のオーディオ・コメンタリーは、このあたりのことを少し誤魔化してしゃべっているように聞こえる。

42.現在:サーカスの書類保管庫と自動車修理工場

ピーター・ギラムが保安課の日誌を盗み出しにやってくる。

入口でカバンを預ける。

女子職員がピータ・ギラムに秋波を送るが、ピーター・ギラムはとりあわない。

時刻を示し合わせてメンデル元警部が自動車工場から自動車修理工を装って電話をかけ、ピーター・ギラムは鞄の中に日誌を突っ込むことに成功する。

ここまで危険を冒さず、特定の日だけ記録が抜かれていることを確認して帰ってくれば目的は達せられそうな気もするが、今後の展開のなかで動かぬ物証を入手したいというスマイリーにとっては、これが不可欠だったのだ。

ピーター・ギラムにしてみれば命がけの盗みである。

この書類保管倉庫の映像の大半がCGなのだが、実によくできていて雰囲気もある。YouTubeで、このVFXのメイキング映像を見ることができる。

http://www.youtube.com/watch?v=FmKaIAB3ouU

メンデル元警部からピーター・ギラムにかかってきた電話は録音され、ロイ・ブランドにも盗聴されていることが後でわかる。

自動車修理工場で流れていた歌「ミスター・ウー どうしよう」を、記録係のサーカスの女性職員が口ずさむ。

ジョージ・フォームビー(George Formby)の“Mr.Wu's a Window Cleaner Now”という曲だそうだ。

http://d.hatena.ne.jp/LessThanZero/20120427/1335534526

後でロイ・ブランドも、ピータ・ギラムの前で「ミスター・ウー どうしよう」を口ずさんでみせる。

ロイ・ブランドはピーター・ギラムに、「お前のことを監視しているぞ」と恫喝しているわけで、ピーター・ギラムは大いに肝を冷やすのだった。

43.現在:サーカス・チーフのアレリンの部屋

パーシー・アレリンが日誌を盗んだ直後のピーター・ギラムを呼びつけ、「リッキー・ターが密かに帰国しているようだが、お前は奴とどんな話しをしているんだ」と問い詰める。

ピーター・ギラムが「リッキー・ターとは毎日お茶を飲んでます」と洒落た冗談を言うのが観客としてはわかりにくいが、ピーター・ギラムは本当にリッキー・ターが帰国していることを知らないので、このような冗談を堂々と言えたということだ。

そのおかげで彼はパーシー・アレリンたちの嫌疑から、ひとまず逃れることができるのである。

もしスマイリーが全てをピーター・ギラムに話していたり、リッキー・ターとピーター・ギラムがこれより前に会っていたのなら、ピーター・ギラムはこの場面でパーシー・アレリンの追求にしどろもどろになっていたかもしれない。

スマイリーはそう考え、つまりはピーター・ギラムの身の安全に配慮したというと聞こえがよいのだが、要はピーター・ギラムが捕まって白状されては困るため、彼に全てを明かしてはいなかったのだ。

スマイリーにとっては、今やピーター・ギラムもリッキー・ターも重要なパートナーであるのだが、情報を統制しつつ彼らをコキ使っているわけだ。スマイリーの頭のよさと同時に冷酷さがわかるところだ。

パーシー・アレリンによれば、リッキー・ターの口座に最近、3万ポンドが振り込まれた、リッキー・ターはKGBに寝返ったと言う。

振り込み人の名義に「K・G・B」とか「カーラより」とは書かれてはなかったろうが、そのくらいのことはサーカスにもわかったということだ。

というよりKGBとしては、そうサーカスにわかるよう、わかりやすく振り込んだということで、しかしサーカスは自力でそれがKGBの秘密の名義人からの送金だが、そういうことを探知できるサーカスの能力に、KGBはまだ気づいていないと信じているからそう言えるのだが、実はそれこそが手玉に取られているわけで・・・と考えれば考えるほどこみいった構造になっていて、説明するのもあぁしんどい。

ピーター・ギラムは内心、ここでは十分ショックを受けている。

さらに退出しようとした際に、ピーター・ギラムはロイ・ブランドから、「ミスター・ウー どうしよう」と口ずさまれて―つまり恫喝されて―フラフラになってしまう。

メンデル元警部を乗せると、スマイリーはホテル・アイリスの根城から移動しているという。

44.現在:スマイリーの別の根城

ピーター・ギラムとメンデル元警部が戻ってくると、リッキー・ターがいる。

ピーター・ギラムは、こいつのせいで今日俺は怖ろしい目にあってきたのだと激昂して、リッキー・ターに殴りかかる。

「こいつはカーラから3万ポンド貰っている。これはカーラの罠だ。もぐらなんていない!」

しかし、リッキー・ターがイスタンブールから、「サーカスの安全にとって重要な情報」と打電した1973年11月20日の記録だけが、日誌の頁から切り抜かれているという物証を見せられ、「誰かが痕跡を消したな。これは偶然か?もぐらを守るのに3万ポンドは安い。」とスマイリーに言われては、ピーター・ギラムも納得せざるを得ない。

「ぎゃふん」という感じであり、そればかりか、このスマイリーの優れた采配ぶりにその後のピーター・ギラムは心酔していったようですらある(後述)。

とにかくもこの日誌は、「もぐら」がサーカスに中で蠢いていることの明白な証拠だ。

だからこそスマイリーは、ピーター・ギラムに命がけで盗み出させたのだ。

45.現在:ホテル・アイリスの根城

ホテル・アイリスの根城に戻ってきたスマイリーとピーター・ギラム。

ピーター・ギラムは、「なぜ、リッキー・ターが帰国していることを自分に教えてくれなかったのか」とスマイリーに聞きながら、考えてみれば、「俺が捕まった時のためか・・・」と、納得するほかない。

やれやれ少し休みたいというギラムの腕を、スマイリーがとって部屋に誘う。

その夜、スマイリーは酒を飲みながら、ピーター・ギラムに自分とカーラとの出会いを語る。

ここで、スマイリーが回想するわけだが、カーラは映像には出て来ず、スマイリーの語りだけで説明される。

スマイリーがカーラに説得するところで、カメラは左に首を振って構図にスペースをつくる。

そこに居るかのようなカーラに、スマイリーが話しかけるようにして。

「1955年のことだった」とスマイリーが語る。

それはスターリンが死んだ年で、ソビエトではフルシチョフ体制の下、反スターリン主義の大粛清の嵐が吹きまくった時だ。

おかげで、世界中のKGBの人材が大バーゲンに出されるような事態となり、スマイリーは世界各地で、こうした連中に接触しては脅したりすかしたりして、彼らを西側にひっぱりこむ仕事をしていた。

その中にスマイリーにとって忘れ難い男、カーラがいた。カーラ・シリーズ三部作の影の主役だ。ここで、スマイリーとカーラの最初の出会いが語られる。

カーラはKGB工作員としてソビエト国外で活動していて、アメリカで逮捕され拷問されて指の爪を全部はがされていた。

モスクワへ送還される途中、インドのデリー空港にいた(原作では、デリーの刑務所)。そこへスマイリーが接触し、カーラと一晩話し込んで、西側への寝返りを説得する。カーラがこのままソビエトに帰国したら処刑される運命にあることをスマイリーもカーラも承知している。

スマイリーはカーラに、「いまなら西側に逃げられる。君の妻も救える。」と説得する。

説得しながら、スマイリーはカーラの不思議な人間的魅力に男惚れしてしまい、本気でカーラの命を救おうと考え、煙草を与え、ライターを与える。

そのライターは、妻・アンからのプレゼントで、「アンからスマイリーへ 全ての愛をこめて」と彫ってある。

スマイリーは、当時、アンと「揉めに揉め」ていて、「そんな自分の姿を投影しながら」カーラの説得にあたった。

そして、「どちらの体制であれ、たいした価値はないと認める潮時だろう」とも言い、これにはカーラも一瞬、心を動かされたらしきフシがあった。

このときの対話で、スマイリーとカーラには、ある種の友情とも反目ともつかない奇妙な感情が生まれた。

そしてまた、スマイリーはカーラの弱点を、カーラはスマイリーの弱点を見抜いてしまうのだった。

スマイリーは、命を賭して帰国しようとするカーラのその狂気こそがカーラの最大の弱点だと言うし、いっぽうのカーラは、スマイリーはとても頭が良く手強い奴だが、心には惰弱な一点がある。こいつの場合、それが妻・アンに対して出てきてしまっていることを見抜く。

あるいは、カーラはそこでアンにある種の嫉妬をして、その矛先が転じてスマイリーに終生の嫌がらせをする情熱へと奇妙に転化したのだろうか。

そのあたりがカーラ・シリーズ三部作の中心軸ということなのではないかと想像する(僕は「ティンカー・・・」以外の三部作をまだ読んでいないので、もの知り顔でこの解説を書く資格は本来ないのだが、本作の続編を観るまで、あえて原作は読むまいと思っている)。

カーラは煙草には手をつけず、かわりにスマイリーのライターを持って帰国してしまう。スマイリーは、カーラはこれで死んでしまうだろう、惜しい奴だったと思い、やがては顔も忘れる。

だが、今回の一連の事件を通じて、これはやっぱりあのカーラが仕掛けてきたことだったのかと、まざまざ思い知りつつあるというわけだ。

驚くべきことにソビエトに帰国したカーラは処刑されないどころか、自分の上司を売ったのか(原作では、そのあたりの事情もある程度書かれてある)、その後KGBの中で大出世していったらしい。まさに怪物的な男なのだ。

そんなカーラの心の奥には、おそらくスマイリーへのなんらかの想いが残っている。スマイリーに男惚れしたというだけではなく、自分が背負ってきた共産主義の大義を一瞬でも放り出したくなった、そんな自分の心の揺れをスマイリーに見透かされたという羞恥心のようなものを一生抱えてしまったのかもしれない。

カーラにとっては、まさに愛するけれど死ぬほど憎い男がスマイリーということか。

映画でそこまでは明快に説明されてないが、大筋においてデリー空港の一夜で築かれたスマイリーとカーラの関係性には、こういう奇妙で宿命的なものがあったということのようだ。

そして、カーラはソ連に居ながら、その後長年にわたって執拗にスマイリーにひと泡吹かせようとしていたわけだが、そんなカーラの狂気に不思議にシンクロしたのが、ビル・ヘイドンという男だったというわけだ。

ビル・ヘイドンはカーラの意を体してスマイリーの妻であるアンをたらしこむのだ。

カーラがビル・ヘイドンに憑依してアンへの魔手をのばしたとも言える。

この夜、スマイリーは、ピーター・ギラムへのこの昔語りの最後に、「これからは君も、監視されていると思え、整理すべきことはやっておけ」と忠告する。

「お前の愛人のことだ」と言わんばかりの目で見つめられて、ピーター・ギラムは従うしかない。

もともと、サーカスの職員の身元調査をしてあったから、その個人情報を上役であるスマイリーは知っていたのだ。

46.現在:ロンドン・ピーター・ギラムの部屋

ピーター・ギラムが自宅に帰る。

同棲相手の男の愛人(リチャード先生)が、生徒の答案の採点をしている。

リチャード先生は、「好きな人がいるなら言え。僕は理解する。」と言って出ていき、ピーター・ギラムは涙にむせぶ。

リチャード先生がこの場面で言う、「好きな人」とは、どう考えても「別の男」のことだから、この映画はとことんホモセクシャル礼賛だ。

こんな男どうしの愛憎がさまざま繰り出されるので、映画全体としてもカーラとスマイリーの男同志の偏愛というものを言いたいのではないかと思わざるを得ないわけだが・・・。

なお、BD版のオーディオコメンタリーで、トーマス・アルフレッドソン監督は、「このシーンを撮ったのは僕の友人で、スウェーデンの監督、ミカエル・マルシメインだ」と言っている。

映画作品において、中心となる監督は基本的には1人だが、半々で分担する共同監督ということもあるし、スケジュールやその他の関係から、限られたシーンについて「別班撮影」という形で別の監督が演出して撮ってくることもよくあることだ。

このシーンもなかなかの名場面だが、トーマス・アルフレッドソン監督の全体の演出と違和感なく収まっている。

このカットの窓に映っている煙突は、ロンドンのバターシー発電所(Battersea Power Station)のそれであり、映像は合成である。

http://www.artofvfx.com/?p=2326

バターシー発電所は、ピンクフロイドのLPレコード「Animals」(1977)のジャケットなどに使われた有名なランドマークで、ピーター・ギラムたちのこの家がどこにあるのか、その周辺の環境などもあわせて監督が彼らをどのような暮らしをしているか設定しているのかがわかる(当然、高級住宅街というわけではない土地柄だ)。

原作では、ピーター・ギラムがホモセクシャルであるという設定はなく、彼の部屋の窓からバターシー発電所が見えるというような記述もなかった(と思う)。

ただし原作では、別の場面でバターシー発電所について言及している個所(ハヤカワ文庫新訳版450頁)がある。

その翻訳は、「全員が長いボンネットの先の対岸に目をやって、バターシー発電所の霧にかすむ鉄塔を眺めていた。」となっている。

しかし、バターシー発電所の景観の特徴はなんといってもこの煙突なのだから、ここを「鉄塔」と訳しているのは奇妙である。

ここの原文は、<…across the river to the foggy towers of Battersea Power Station.>なのだが、ここの“towers”を、「発電所だから鉄塔だろう」と簡単に訳してしまったとすれば問題ではないか―という丁寧な指摘が、「aki’s STOCKTAKIG」http://landship.sub.jp/stocktaking/archives/003526.htmlでなされている。

僕もロンドンを訪問したとき、列車の中からこの発電所をすぐに「あれだ!」とわかった。「鉄塔」など印象に残らない。ここは「煙突」とすべき箇所だ。

発電所としての操業停止後も伝統的保存建物として残され、世界的に有名で、僕ですら知っているこの発電所を、翻訳者が知らないということがあるのだろうか?

47.スマイリーの回想:サーカスのクリスマス・パーティの会場

クリスマス・パーティの2番目の場面である。ここには原作者のジョン・ル・カレもカメオ出演している。

その役どころは、「サーカスで長年勤務してきたことのご褒美にパーティへの出席が許されたゲイの司書」だそうである。

レーニンの面をつけたサンタクロースが現れて皆でソ連の国歌を合唱する。

ロシア語教育の初歩で勉強するのだろうか、皆で元気に声を張り上げる。

ビル・ヘイドンはスマイリーの目の前で(隠れてというよりは、これ見よがしに)、スマイリーの妻・アンをたらしこみ、スマイリーはたわいもなく動揺してしまう。

こうして陽に影にスマイリーを苦しめようというわけだ。

ビル・ヘイドンは、それは「賢いスマイリーの判断力を曇らせるため」だったと後に説明しているが、それもスマイリーに対するカーラのいやがらせ、屈折したストーカー行為の延長ということになる。そのどこまでをビル・ヘイドンが自覚的だったのかという問題は残るにしても。

いっぽうで、ビル・ヘイドンは、ジム・プリドーとも愛人関係にある。これも同じパーティの中で、互いが意味深に目を交わす場面で説明される。ジム・プリドーにとって、ビル・ヘイドンは一番大切な人だ。

ここで述べておくと、ビル・ヘイドンという男は、自分のこんな両刀使いの性癖すらも頽廃した西側文化のせい、自分の優れた才能や能力が報われないのも資本主義のせいだと不満をくすぶらせながら成長してきたような人物であるようだ。

そんな自分の審美眼に叶い、自分が報われ名声を獲得するのは共産主義の下でのみふさわしいと信じきってしまった一種の狂人ということなのだろう。

48.現在:ホテル・アイリスの根城

苦い回想を終えたスマイリーが線路を見つめる。

49.現在:カジノバーのような場所

スマイリーとピーター・ギラムが、サーカスを退職した(解雇された)元職員のジェリー・ウェスタビーを尋ねる。

ジェリー・ウェスタビーは、ブタペストでジム・プリドーが撃たれた日の夜、コントールに命じられて当直をしていた。

原作では、ジェリー・ウェスタビーは新聞記者なのだが、映画ではサーカス職員を解雇されて、いまはカジノの店員みたいなことをしているようだ。

50.回想:1973年10月21日、サーカス

1973年10月21日、ジェリー・ウェスタビーは「イギリス情報部員撃たる」の連絡をただちにコントロールに上げるが、コントロールはあまりの大失態に声を失ってしまう。

ジェリー・ウェスタビーは、他の幹部たちに次々に連絡する。

ジェリー・ウェスタビーにしてみれば有り難いことに、ビル・ヘイドンが真っ先に駆けつけてくれ、テキパキと指示を出してくれる。

ビル・ヘイドンのサーカス幹部としての力量の高さが描かれる。

映画でくわしくは描かれていないが、ビル・ヘイドンは、その能力と人間性でサーカスの職員たちの尊敬を一身に集めている存在でもあったのだ。

原作の中で、「われらがアラビアのロレンスの再来」と評する者もあるほどだ(ハヤカワ文庫新訳版46頁)。

それだけに彼が「もぐら」だったことには強い意外性と衝撃があるのだが、スマイリーもそういうビル・ヘイドンの能力には舌を巻いていたということが、原作の次の一節からもわかる。

じっくり発揮する天性の工作員運用者(エージェント・ランナー)の技量、敵工作員を転向させて国に送り返すときや、欺瞞作戦展開において、彼我の均衡を失わない絶妙のバランス感覚。他のさまざまな忠誠を守る気質とは矛盾するが、人の心のなかに好意を、どうかすると愛情をすら育む能力。

自分の妻がいい証人だ。

スマイリーはまだ均衡の感覚にこだわりながら、所詮ビルはケタはずれなのだと、なげやりに似た気持ちになった。(ハヤカワ文庫新訳版236頁)

「自分の妻がいい証人だ。」というところが泣ける。

ビル・ヘイドンは、「ジム・プリドーが死んだら、復讐してやる」といきまいているが、この台詞には自分の愛人であるジム・プリドーが死んだら呪ってやるという本気と、自らの正体が暴露されかけた焦りを、怒りまかせに隠蔽しようとしている芝居とが重なっているということだろうか。

ビル・ヘイドンは、ジム・プリドーがコントロールの命令で、ブダペストに行ったことを知っていた(ジム・プリドーが出発前に「警告」に来ていたことが、後で明らかになる)のだが、それがこんなことになるとは、と心に激震が走っているように見える。

51.回想:1973年10月21日、ジム・プリドーの家

ビル・ヘイドンは、ジム・プリドーとサーカスの関係の痕跡を消すためと言って、ジェリー・ウェスタビーを伴って一緒にジムの家に行く。

彼が一番消したかった痕跡は、自分とジム・プリドーの関係だ。

部屋でコニー・サックスが持っていたのと同じ時に前後して撮られた、クリケットのユニフォームで肩を組む自分とジム・プリドーとの写真を見つけると素早く隠す。

コニー・サックスの家でスマイリーが見せられたのは、写真の中の二人がカメラを見ている写真だったが、こちらの写真はビル・ヘイドンがジム・プリドーを見つめている(逆だったかな?)。

52.現在:ファーストフード店(WIMPY)

スマイリーとピーター・ギラムが推理している。

ビル・ヘイドンは、クラブ・サヴィルから駆けつけたというが、それが嘘であることは明白だ。

ではどこから、といぶかるピーター・ギラムに、スマイリーが言う。

「ビル・ヘイドンは、私の家にいたのだ」。

53.スマイリーの回想:1973年10月21日、スマイリーの家

その夜、ビル・ヘイドンは、ベルリンに出掛けたスマイリーの留守を盗んで家にあがりこみ、アンとの情事に耽っていたのだ。

スマイリーはこの時、コントロールの命によってベルリンに行かされたのだが、それはコントロールに「厄介払いされた」フシがある(ハヤカワ文庫新訳版340頁)。

家に帰って来たスマイリーに、ビル・ヘイドンは言い訳がましく言う。

「絵を描いてアンに持って来た」と。

しかし、彼の足もとは寝室用の履き物で、直前まで何をしていたかは明らかだった。

BD版の特典映像の「未公開シーン」には、ベッドの上の上半身裸のビル・ヘイドンの隣で、アンがジェリー・ウェスタビーからの電話をとるというカットがある。

いかにもあからさまな不倫ベッドシーンで、これもカットした方が映画全体の気品を保ったといえよう。

このカットがあれば、映画の中の人間関係はずっとわかりやすいものになったともいえるし、カットしたことで映画の謎めいた雰囲気が増したともいえる。

それにしても、BDの特典映像を観客が観ることを見越したうえで、撮っておいてカットしたのだろうかと邪推したくなるような場面だ。

ビル・ヘイドンが持って来た絵は、タイトルバックでスマイリーの家の壁に飾ってあったあの絵だ。それをアンが出て行った後も飾っているスマイリーの心境とはどういうものか。

スマイリーが、アンとビル・ヘイドンに抱く想いは、映画の中だけでは観客には理解し難い。この奇妙な三角関係について、原作には次のような一節がある。

とつぜん(スマイリーの脳裏に)、およそ無関係な光景がはいりこんだ。コーンウォルの崖の上を行く自分とアンの姿だ。それはコントロールが死んだ直後、ふたりの長い疑問だらけの結婚生活のなかで、スマイリーが記憶する最悪の時だった。海辺の丘、ラモーナとポスカーノウの中間のどこかだった。<中略>

夫婦仲の円満は、もはやつゆかけらもなかった。いっしょにいるときの心の平安は、すっかり失われていた。たがいが謎のような存在で、なんでもない会話が変な方向へ進んで、収拾がつかなくなったりした。<中略>(アンが)なにかよほどの傷みか不安を葬り去ろうとしているのだとはわかったが、手をのばしてもとどくはずはなかった<中略>。不意に彼女が聞いた。「あなた、いまビルをどう思うかしら。」

スマイリーが返事を考えているうちに、彼女は言葉をつないだ。「ときどき思うの、あたしはあなたが彼に悪感情を持つのを防いでいるんじゃないかって。そんなことって、あるかしら。あなたたちふたりを、あたしがつなぎとめてる―そんなことって、ある?」(ハヤカワ文庫新訳版220頁)。

このアンの台詞は、どこか村上春樹の小説の中の女性たちの台詞を彷彿とさせる。

村上春樹の書いたもののなかでも、ジョン・ル・カレの名前はたしか聞き覚えがある。

村上春樹は、この「カーラ・シリーズ」の第2部にあたる『スクールボーイ閣下』を、ジョン・ル・カレの最高傑作と断じ、“僕は三度読んで、三度興奮した”と「絶賛」したと、ハヤカワ文庫新訳版解説548頁には書かれている。

「ジョン・ル・カレの中では最高傑作」と言っているだけだが、とにかく「絶賛」はしているわけで、ジョン・ル・カレは村上春樹に、あきらかな影響を及ぼしているらしい。

けれども原作では、同じ場面を、スマイリーが次のように思い出す場面もある。

・・・コーンウォルの崖道で交わした絶望的に噛み合わなかった会話を思った。人と人のあいだに、なんらかの自己欺瞞を支えにせぬ愛情なんてあるのだろうか。(ハヤカワ文庫新訳版497頁)

「人と人のあいだに、なんらかの自己欺瞞を支えにせぬ愛情なんてあるのだろうか」という、スマイリーのシニカルな孤独感は、村上春樹の登場人物とはちょっと違う気がする。

村上春樹の登場人物はどこか他者への淡いもたれかかりのような幻想の中で甘ったるく浮遊している―などと書いては気取り過ぎだろうが、いつか誰かがきっと自分を救い上げてくれることだけは信じて目に星を浮かべて待っている―ように感じる。

しかし、スマイリーの抱く孤独感というのは鍛錬を重ねた職業人的な他者との隔絶で、誰も自分を救けになんかこないし俺も他人を救ける気はさらさらないという冷たい絶望を感じる。この冷ややかさは村上春樹の世界にない。

よくも悪くも村上春樹のほうが甘美で純文学的で、ジョン・ル・カレのスマイリーの心情の描写はビジネス実用書のようだ。

地上に他者への真の愛なんてないんだよ、はいおわり。みたいな感じだ。

54.現在:サースグッドの学校:ジム・プリドーの勤務先

校庭のようなところで、ジム・プリドーが、ビル・ローチに車の運転をさせてやっている。

ジム・プリドーが、スマイリーの後ろ姿を見つける。

ビル・ローチ(愛称ジャンボ)を呼んで、「あれは誰だ?ベガーマン(乞食)か?」とすぐにスマイリーの暗号名を言う。イギリスで一番の我らの車、アルヴィスを盗む気か?

ジム・プリドーのトレーラー・ハウスの中。

スマイリーが、ジム・プリドーがハンガリー(ブタペスト)に派遣されたときのことを尋ねる。コントロールの自宅の場面の回想を挿んでジム・プリドーとスマイリーが話を続ける。

ジム・プリドーは、ここでハンガリーの諜報活動の仲間たちの安否がどうなったか、みんな無事に逃げおおせたかと聞くが、スマイリーは、「みな、捕まったよ」と語る。

映画の中では、これ以上の説明がないが、ジム・プリドーにしてみれば、自分がKGBに捕えられながらも、その拷問に耐えたのは、仲間たちを安全に逃亡させるための努力だったはずだった。

それが無為なものであったこと、仲間に多大な犠牲を強いたということをジム・プリドーはこの時知った。

原作では、この仲間たちが払った「犠牲」について、より多くのことが書かれている。

それでも、この時点でのジム・プリドーは、自分が生きて還って来られたのは、ビル・ヘイドンの必死の交渉努力のおかげだったと、ビル・ヘイドンへの感謝の気持ちに溢れていただろう。

仲間に多大な犠牲を出したことも、自分がこのような障害を負ったことも、それはサーカスという組織の機関員としての当然の業だと従容として受け入れていたことだろう。

そのようなジム・プリドーにとっては、組織や仲間たちへの誇りと愛とは、ビル・ヘイドンへの尊敬や思慕の念と一体のものであって、むしろ今回の体験によって、その気持ちはより深いものになっていたかもしれない。

それほどに、ジム・プリドーにとっては、愛するサーカスとは愛するビル・ヘイドンのことなのだ。

だからこそ、すべての真相が明らかになったとき、すなわちビル・ヘイドンが「もぐら」であったということが明らかになったとき、ジム・プリドーは激しく慟哭し、すべてが、すべてが裏切られたということを知ったのだ。

だから、その彼がラストでとるべき行動は、ただ一つだった。

ジム・プリドーはスマイリーに、コントロールが自分に、ハンガリーの将軍と接触して、誰が「もぐら」なのかを聞き出し、それを暗号で自分に教えろと命じたという経緯についても説明する。

コントロールは、チェスのコマに、パーシー・アレリン、ビル・ヘイドン、ロイ・ブランド、トビー・エスタヘイス、そしてスマイリーの顔写真を貼って、彼らをティンカー、テイラー、ソルジャー、プアマン、ベガーマンの暗号で呼んだのだった。

この「ティンカー、テイラー、ソルジャー・・・」という言葉については、すでに広く知られるところではあろうが説明しておこう。

これは、イギリスの童謡、マザー・グースのCounting Cherry Stonesという歌の、「Tinker, Tailor, Soldier, Sailor, Rich Man, Poor Man, Beggar Man, Thief.=鋳掛け屋、洋服屋、兵士、水夫、金持ち、貧乏人、乞食、泥棒」をもじったものだ。

イングランドでは子供たちが、Cherry Stones(サクランボの種)やボタンなどを数えながらこの唄を口ずさみ、自分や結婚相手の職業を占ったりするものらしい。

これが女の子なら、「Lady, Baby, Gypsy, Queen, Elephant, Monkey, Tangerine=レディ、赤ちゃん、ジプシー、女王、象、猿、ミカン」であるようだ。

本作が女スパイものであったなら、「レディ・ベイビー・クイーン・スパイ」という原題だったわけだ。

http://forum.wordreference.com/showthread.php?t=1042927

画面で見ると、コントロールは、パーシー・アレリンの写真はチェスの駒の中で白のルーク(Rook:城)に、ビル・ヘイドンは白のビショップ(Bishop:僧正)に、ロイ・ブランドは黒のキング(King:王)に、トビー・エスタヘイスは黒のルークに、そしてスマイリーの写真は黒のクイーン(Queen:女王)に貼ってあるようだ。

その後スマイリーは、ポリヤコフの顔写真を黒のビショップに貼り、カーラの名前を白のクイーンに貼った。スマイリーは自分とカーラを同格の色違いにしたわけだ。

それぞれの人物とコマの意味(盤面で動ける力)にどのような意味あいを持たせたのかはわからない。

ただ本作は、複雑なストーリーながら、スマイリーの眼鏡の色を変えるとか、人物をチェスの駒に見立てるというように観客の理解を助ける視覚上の工夫もちゃんとされている映画なわけであって、わかりにくいことをよしとして作っているわけではないことは理解される。

指令を受けたジム・プリドーにとって、このブタペスト行きは実に気が重い。

「5人のうちの誰かが裏切りものなんて、ばかげている。話にならない。」と言い、実際そう思っていたのだが、ジム・プリドーには、「コントロールがこんな狙いで自分をブタペストに派遣しようとしている」と「警告」に行く。

ジム・プリドーにしてみれば、彼はビル・ヘイドンが「もぐら」だという可能性をどこまで本気で考えていたか、よくわからないが(薄々感じていたようでもある)、とにかもくコントロールがこんな動きをしています、あなたは疑われないように身辺に注意しておいてください、というような「警告」をしたということだろう。

ともかくも、ジム・プリドーには愛する人を守りたいという意識が強かったのだろう。

そしてビル・ヘイドンは、ただちにこの状況をカーラに伝え、ブタペストで万全の体制でジム・プリドーを迎える準備をさせることになる。

「ハンガリーの将軍」の話じたいが、ビル・ヘイドンから撒かれた種であったろうから、「うまく獲物がひっかかりました」と経過報告したのかもしれないし、「そこに出かけていく男(ジム・プリドー)は絶対に殺さないでほしい」という懇願も含んでいたかもしれない。

ビル・ヘイドンの、あるいはカーラの狙いとは、こうしておびき出した情報部員を捕えて、ハンガリー国内の英国情報機関ネットワークを一網打尽にすること、その結果としてそして気骨あるサーカスの大ボス、コントロールを失墜させることであったろう。

それは狙い通りにいったわけだが、その役割にコントロールがジム・プリドーを指名したことについてもビル・ヘイドンの最初の目論見通りなのかどうかはわからない。

仮に目論見通りとしても、ジム・プリドーが撃たれて傷つくことになるということはビル・ヘイドンにとっては予想外だったかもしれない。

しかし、こういう仕事ではジム・プリドーが死んだり拷問を受けることがあるかもしれないという想定もしていただろうから、その時点で、ビル・ヘイドンは心の一番底ではジム・プリドーのことを裏切り、切り棄ててもいたのかもしれない。

あるいはジム・プリドーが傷つくことは本当に想定外で、後に必死になってKGBからジム・プリドーを奪還したのかもしれない。

55.ジム・プリドーの回想:KGBに囚われたジム・プリドー

KGBに捕まったジム・プリドーは、そこで拷問を受け、カーラも登場する。

ジム・プリドーの目の前に、イリーナが引っ張りだされてきて、「この女を知っているか」と聞かれる。「いや」と答えると、イリーナはジムの目の前で射殺される。

「知っている」と答えても同じだったろうが。

吹き飛ばされたイリーナの脳漿の破片が壁にこびりつき、カメラが寄っていく途中でポトリと落ちるのがまことに恐ろしい。

眼前のイリーナの射殺にジムは心底怯えきる。背中がそういう演技になっている。

「女は死んだとアレリンに言え」と言われる。

密かにイギリスに送り返されたジム・プリドーが、パーシー・アレリンにイリーナの死を報告した場面はないが、おそらく報告しただろう。

そしてジム・プリドーは、トビー・エスタヘイスから車と1000ポンドと車(アルヴィス)を渡されてサーカスからおはらい箱になり、表面的にはしがない臨時教師としてこの学校に流れ着いたのだ。

56.現在:サースグッドの学校:ジム・プリドーの勤務先

教室に入ってくるジム・プリドーとスマイリー。

スマイリーは、壁にかかった梟のはく製を見る。

BD版のオーディオ・コメンタリーによれば、このはく製は、ジム・プリドーがたたき落としたあの梟の「なれの果て」だというが、あんなに執拗に殴りつけた鳥の死体はボロボロになっていたと思うので、それをこんな奇麗なはく製にできるのかな、という疑問を感じた。

ジム・プリドーが言うには、自分の前に現れたカーラは、目立つようにライターを持って見せつけたという。

スマイリーは、そのライターが自分からカーラに渡したものだと理解する。

ジム・プリドーが撃たれたブタペストの街角にカーラもいて、この捕り物を見守っていたのだ。

ここでライターがアップになり、「スマイリーにアンより、すべての愛を込めて」と彫ってあるのが大写しになる。

このライターを大事に持っていたというその一点で、カーラがスマイリーに抱き続けた情念というものがわかる。

単なる思い出や戦利品といったようなものではない、もっと深い執念の象徴だ。

57.現在:ピーター・ギラムの車の中

ピーター・ギラムとスマイリーが話している。

スマイリーは「トビー・エスタヘイスは、ジム・プリドーに、1000ポンドと車を渡すとともに、全て忘れろと言ったそうだ。ティンカー、テイラー、ソルジャー・・・の暗号は忘れろと。なぜエスタヘイスは、この暗号のことを知っているのだ、奇妙だ」という。

58.現在:スマイリーの思案

スマイリーが、4人組の誰が「もぐら」なのかを思案する。

「モスクワセンター(KGB本部)は崩壊、カーラは大笑い」とか、「モスクワからの情報はデッチ上げ」という録音の声が響くなか、スマイリーが推理を重ねる描写が続く。

この録音の声がなにを意味しているのか、僕はいまひとつわからない。

スマイリーが思案しているのは、「なぜ、エスタヘイスは、ティンカー、テイラー、ソルジャー・・・の暗号のことまで知っているのだろう、奇妙だ」のことだ。観客にとっても、ここはシンキングタイムだ。

この暗号を口走ったトビー・エスタヘイスは、とにかく疑わしい。

しかし、トビー・エスタヘイス自身は「もぐら」というタマではない、せいぜいその使い走りというところだろう。

では「もぐら」は誰だ?そんな思案をめぐらし、なにかを掴んだようなタイミングで、線路のポイントがカチンと切り替わる。

「考え方を切り替えてみよう」、とか「わかったぞ」というような表現だ。この線路のカットもCGである。

59.現在:ロンドン市庁舎の屋根裏

スマイリーが、外務英連邦大臣とレイコン次官に面会する。

窓の外にはビッグベンが見える。

スマイリーは、大臣に「あなたが予算を認めたウィッチクラフト作戦のための隠れ家が、この町のどこかにある」と詰め寄る。

大臣は、最初のうち、ウィッチクラフト作戦は成果をあげているとして、スマイリーにとりあわないのだが、スマイリーはソ連大使館文化担当官のアレクセイ・ポリヤコフの名前を出し、あなたはコントロールを追い出してカーラを引き寄せてしまった。そして米国情報部との提携を開始したことで、イギリスがアメリカの情報をKGBに“だだ漏れ”させるシステムが出来上がってしまったと指弾する。

あなた方が、ウィッチクラフト作戦で得られた成果と信じ込んでいる情報はカーラに操作されたものにすぎない。それは人目を惹くように輝いて見せているだけだ。カーラが求め、手に入れているのはイギリスのではなくアメリカの情報である。このようなことがイギリスにとって名誉なことなのか?と大臣を責める。

「どうしたらいい?」と動揺する大臣に、スマイリーは、「我々はひとつモノを持っている。もぐらが欲しいものが」と応える。

それが何かは、次のカットでリッキー・ターのアップとなることで示される。

前のシーンで仕掛け、次のシーンで「これです」と明かすいつもの場面展開である。

60.現在:リッキー・ターとスマイリー

スマイリーはリッキー・ターを囮に使って、「もぐら」を炙り出そうと考える。

そしてスマイリーは、この囮作戦のため、リッキー・ターをパリに行かせる指示をする。

リッキー・ターは、自分がパリに行くなら、必ずイリーナを交換で救い出せ、それで自分は満足して手を引く、と意気盛んだ。

そんな彼に、スマイリーは「努力はする」とだけ応じる。

スマイリーは、イリーナがすでに死んでいることをジム・プリドーから聞いて知っているが、ここではリッキー・ターを利用するために黙っている。なんとも食えないおやじである。

61.現在:サーカスのエレベーター〜飛行場

これまでの推理からすると、疑わしき最初の人物は、とにかくトビー・エスタヘイスである。彼を糸口にして「もぐら」に迫ることができるはずだ。

サーカスから退出するトビー・エスタヘイスがエレベータから降りてくると、ピーター・ギラムが待ち伏せをしている。

このタイミングで独りでエレベータを下りてくることを、ピーター・ギラムがなぜ察知できたのかの説明はないが、建物の内部に協力者がいて、その人物が、「いま、トビー・エスタヘイスがエレベータで降りて行った」という合図をしたということだろう。

携帯電話もない時代だから、ハンカチを振るとかの合図だっただろうか。それは若い女子職員の誰か(ブロンドのベリンダか、書庫の女の子か)だろうか。

この後、飛行場でタイミングよく飛行機が降りてくることからしても、映画ではあまり描かれていないが、スマイリーたちの陣営もこの頃になると、だいぶ組織的な活動ができる状態になっていたということだろう。

飛行場に着くとスマイリーが、トビー・エスタヘイスの腕をとって車から降ろし、「忠誠心の話をしよう。トビー」と切り出す。迫力満点だ。

スマイリーは、お前はサーカスの情報を、ウィッチクラフト作戦の隠れ家で、ソ連大使館員に渡していたろうとトビー・エスタヘイスを責める。

トビー・エスタヘイスは混乱し、「俺を送還しないでくれ」と狼狽しながら、ワケもわからずペラペラと喋る。

ビル・ヘイドンも、ロイ・ブランドも、パーシー・アレリンも、みんなでやっていたことだと。それがウィッチクラフト作戦というものであって、サーカス側から取るに足らない情報をアレクセイ・ポリヤコフに渡し、彼を通じてソ連の情報機関を攪乱したり、ソ連の重要情報を入手する作戦を実行していたのだと言い訳する。

そんなことはスマイリーも先刻承知だが、それをあえて重大なスパイ行為だと言いたてて、「お前をこれから(ハンガリーに?)送り返してやる」と恫喝しているのだ。

ここへ飛行機が下りてきて、いかにもこのまま国外へ送還してやるぞというそぶりを見せるが、この飛行機はスポットでチャーターしただけのもので、本当に国外へ飛ぶわけではなさそうだ。トビー・エスタヘイスを脅すためだけの小道具である。この渋すぎる映画の中で、ほとんど唯一の大仕掛けだ。

僕が見る限り、この機体は米国パイパー社製、PA-31ナバホ(Piper PA-31 Navajo)に見える。

ナバホの初飛行は1964年で、1967年から1984年にかけて3942機が製造され、広く世界中で使われていたというから、外務英連邦省が持っているか、チャーターしたとしてもおかしくない。

撮影時点では、機体年齢が30年くらいの旧い飛行機のはずなのだが、画面ではピカピカの最新鋭機に見える。

http://en.wikipedia.org/wiki/Piper_PA-31_Navajo

BD版のオーディオ・コメンタリーでは、監督は、「ここの撮影は大変だった。2000mmのレンズだったかな。何度もやりなおした」と言っている。1日かけても終わらなかったという。2000mmの長焦点レンズを使って、ひとつの構図のなかにこうもぴたりと決めるのは、さぞ大変だった筈だが、苦労の甲斐はあった。

長焦点レンズの特性によってパースペクティブ(遠近感)が極端に減殺され、シトロエンDSの車体や着陸してくるナバホの機体が前後にぎゅっと圧縮された張りのある画面になっている。

ピーター・ギラムがナバホの脇で、ステップを下ろすなどテキパキ働いているのが印象的だ。

使い捨てにされるかもしれないようなコキ使われ方をしたのに、スマイリーの指揮ぶりに心酔してしまったのか(惚れてしまったのかもしれない。

そんな男関係ばかりだから、そう邪推してしまう)。

スマイリーは動転しているトビー・エスタヘイスに畳みかけるように問い質す。

「ティンカー、テイラー・・・の暗号のことは誰から聞いたのだ?」と聞くと、ビル・ヘイドンだという。

そして、トビー・エスタヘイスは、とうとうウィッチクラフト作戦の隠れ家の住所を明かす。

この空港の場面で、スマイリーは、「忠誠」という言葉を出してトビー・エスタヘイスを追い詰める。

スマイリーは、トビー・エスタヘイスに「お前には忠誠心のカケラもないが、それは戦争中の君の体験がそうさせるのだろう。味方を自在に替えることで生きのびてきた。誰の配下にもつく」というようなことを言う。この台詞はとても重要だと僕は思う。

スマイリーはここでは、トビー・エスタヘイス個人を非難しているわけだが、これは第2次世界大戦はもとより、ヨーロッパ大陸であくことなく繰り返された戦乱、大国のはざまで翻弄され続けた東欧の小さい国々が、そうせざるをえなかったふるまいの哀しさを突く言葉に僕には聞こえるのだ。

それらの地は今も冷戦の最前線となって、トビー・エスタヘイスのような人間が生まれてくるのだし、物語の冒頭「ハンガリーで亡命したがっている将軍がいる」という偽情報を、コントロールが本当らしく考えてしまったというのとも同根の話だ。

ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランド、ルーマニア、リトアニアなどなどの東欧小諸国をエピソードの舞台にしてこそ、この物語は成り立つのである。

そのような小国の人々が生存のため苦しみぬいた末に、日和見的なふるまいをしたとして、それを「裏切り」などと責められるものだろうか。

ことにイギリス(人)にはそれを言われたくもない気がする。

そこで、自らもスパイであるスマイリーが「忠誠」などという言葉を口にして、トビー・エスタヘイスを恫喝しているこの場面は、まことに戯画的で悪辣で寒気がする。

イギリス人でない監督には、「この場面では、そういう大英帝国の欺瞞性と厭らしさをぷんぷんと匂わせてくれ」とゲイリー・オールドマンにリクエストしたのではないだろうか、ゲイリー・オールドマンも、「よしきた」という具合に、嬉々として悪辣に演じたということではないかと僕は想像する。

上に述べたような本作のこうした地政学的なテーマを、作り手の監督や俳優が十分に理解して撮影現場に臨むことで、物語としての首尾一貫した表現が可能になるのだと僕は考える。

多くの凡作が、「要は何を言いたいのだ」と観客にフラストレーションを残すのに対して、本作が観るほどに深い意味を感じ考えさせるのは、たとえばこの飛行場のシーンという部分における演出や演技というものが、物語全体、世界の歴史館全体の大きなテーマとも、きちんと響きあっているからだと思われる。

そして、歴史上のさまざまな英雄的行為と裏切り行為は表裏一体であり、裏切りがあるからこそ忠誠という概念、忠誠心という虚構が築かれる。

スパイという存在自身が、そういう地政学的、歴史的ゲームの必然的な申し子なのだ。

こうしてみると、本作のテーマを考えるうえで、「裏切りと忠誠」というのが、重要なキーワードとなってくるということがわかる。

それこそがスパイの本質なのだ。

だから、この映画の邦題は、一昔前であれば、『裏切りと忠誠』になっていてもおかしくなかったろう。

さらに、「裏切りと忠誠」という言葉は、スマイリーにとって、「妻・アンの奔放なふるまいと、それに対する自身の献身」というものとも透かし絵のように重なってもいるはずで、つまり全体的な物語構造のなかで、大きな物語とスマイリーの心の中の小さな物語が、実は互いに反射しあっている、という映画のようにも見えるのだ。

こうした入れ子構造は、優れた物語にしばしば見受けられるものだ。

少なくとも、スマイリーは自分としては組織にも妻にも忠誠を貫いている、自分はそういう人間なのだという自負があるはずで、それが良くも悪くもスマイリーの哀しい性なのである。

62.現在:ウィッチクラフト作戦の隠れ家

スマイリーらは、ウィッチクラフト作戦の隠れ家に踏み込む。

中にいたマックレイグ夫人は、スマイリーたちの質問に素直に答える。

ここに入ってきても安全かどうかは、マックレイグ夫人が換気扇を開閉して合図すること、換気扇が開いていれば入ってきてよし、閉めてあれば入るなという意味だ。

隠れ家の中はテープレコーダーや隠しマイク、接写用カメラなどでものものしい。

2階が書類を複写するなどの作業場なのだが、この部屋の会話は、1階の奥にある(階段を下がったり上がったりするので、わかりにくいが)もう一つの隠し部屋のようなところで盗聴できるようになっていることもわかる。

スマイリーは、ピーター・ギラムになんでもいいからしゃべってみろと指示する。

映画の中では「ピーター!」と、ほとんど叱りつけるような口調だが、ピーターは言われた通りに諾々と従うといった感じで、「燃える甲板に少年は立つ。炎は屍を照らし出す。麗しき少年、嵐の統治者たる姿、幼き子なれど誇り高く、炎から逃げようとせず・・・」という詩を吟じ続ける。

ピーター・ギラムが暗唱するのは、Felicia Hemansの「カサビアンカ<Casabianca>〜忠誠のうた」という詩である。

この船からはけして下りてはいけないと父親に命じられた少年が、その父の言葉を守り、燃え沈み始めた船の甲板から下りない忠誠心のことを詠んだ詩であるようだ。

前出の飛行場の場面で、トビー・エスタヘイスを締め上げたときにスマイリーが言った「忠誠」の言葉に掛けてピーターは吟じているのだ。

原作では、この場面ではピーター・ギラムは歌を唄うのだが、この「忠誠」に掛けた詩を吟じるほうが、本作のテーマがきっちりと伝わってくる。脚色家たちの教養に感服する。

長くなってしまうが、ここでこの原詩らしいものが見つかったので引用しておきたい。

ネットで接することのできる情報が、いつまにかリンク切れして二度と拝めなくなることがあるから、こういう大事なものは今のうちに取り込んでおかないといけないと思うので。

http://literaryballadarchive.com/PDF/Hemans_1_Casabianca.pdf

Felicia Hemans (1793-1835)

“Casabianca”

The boy stood on the burning deck

Whence all but he had fled;

The flame that lit the battle’s wreck,

Shone round him o’er the dead.

Yet beautiful and bright he stood,

As born to rule the storm;

A creature of heroic blood,

A proud, though child-like form.

The flames roll’d on — he would not go,

Without his Father’s word;

That Father, faint in death below,

His voice no longer heard.

He call’d aloud: — “Say, Father, say

If yet my task is done?”

He knew not that the chieftain lay

Unconscious of his son.

“Speak, Father!” once again he cried,

“If I may yet be gone!

And” — but the booming shots replied,

And fast the flames roll’d on.

Upon his brow he felt their breath,

And in his waving hair,

And look’d from that lone post of death,

In still, yet brave despair

And shouted but once more aloud,

“My Father! must I stay?”

While o’er him fast, through sail and shroud,

The wreathing fires made way.

They wrapt the ship in splendour wild,

They caught the flag on high,

And stream’d above the gallant child,

Like banners in the sky.

There came a burst of thunder sound —

The boy — oh! where was he?

Ask of the winds that far around

With fragments strew’d the sea! —

With mast, and helm, and pennon fair,

That well had borne their part —

But the noblest thing which perish’d there

Was that young faithful heart!

1826(From The Poetical Works of Mrs. Felicia Hemans.Philadelphia, 1873)

スマイリーに「ピーター!」とどやされて、きっと「もういい」といわれるまでは律儀に詩を吟じつづけるであろうピーター・ギラムのスマイリーに対する忠勤ぶりには目を見張るものがある。

どうもこの頃のピーター・ギラムは、スマイリーに対して、男惚れしてしまったかのような、ひれ伏すような忠誠ぶりが見てとれる。

「忠誠」というものの一面には、どこかセクシャルな感情がへばりついてもいる。

男どうしが作る友情、あるいは支配と服従、畏怖と思慕という関係性に、いつもということはないが、ともすれば漂うホモ・セクシャルな香りが、この映画からはぷんぷんと匂う。

そんな匂いを漂わせる映画、映画というものを通じてそういう香りを匂いたたせる力量もただものではない気がする。

映画にはゲイ・レズビアン映画というジャンルがあるけれど、僕は不明にもそういうジャンルへの造詣は持っていないので、そんなジャンルの中での本作の相対的評価が、どういうことになるのかはわからない。

イギリス在住の方がメールで教えてくださったのによれば、「オックスフォード、ケンブリッジ、MI6と言えば、ゲイばかりというのは本当です。」ということだそうだから、本作をとりたててゲイという要素に着目した映画だととらえてしまうのは、僕の感覚が古いだけなのかもしれない。

63.現在:パリのサーカスの現地事務所

パリの街角。画面にくすんだエッフェル塔とか、車の車種やナンバープレートから、ここはパリなのだと即座に理解しないと、この展開について行けない。

リッキー・ターは、クリーニング屋から出てきたサーカスのパリ支部の部員に短銃を突きつけ、支部事務所に乗り込む。

リッキー・ターは、このパリ支部からロンドンのサーカス本部へ、ある打電をさせる。「ターが情報を持っている。サーカスの安全に関わる情報」と。

64.現在:ロンドンのサーカス本部

サーカスのファクシミリが、リッキー・ターからの打電を打ち出す。

正面のビルから、メンデル元警部が監視していて、スマイリーに電話で報告している。ティンカー(パーシー・アレリン)、テイラー(ビル・ビル・ヘイドン)、ソルジャー(ロイ・ブランド)らが駆けつけ、「フルハウス」になったことが知らされる。

向かいのビルに簡単に陣取られて、人の出入りが見張られてしまう秘密情報部の本部というのはいかがなものかという気もするが、ここはメンデルさんが頑張ったということだろう。

65.現在:パリのサーカスの現地事務所

パリで返電を受け取るリッキー・ター。

「ター本人宛 アレリンより 要求に応じる前に詳細説明を求める。サーカスの安全に関わる重要情報というだけでは、判断できない。詳しい説明を送れ」。

リッキーはしてやったりと叫ぶ。

あの時と同じだ。「時間稼ぎだ。こいつらは最悪だ。」

66.現在:ウィッチクラフト作戦の隠れ家

スマイリーは、ウィッチクラフト作戦の隠れ家の隠し部屋に潜んで、メンデル元警部からの電話報告を受けている。

聞きながら、スマイリーが靴を脱ぐ。その時に備えて自分の足音を消すためだ。

戸外では、ピーター・ギラムが警戒している。

スマイリーは、ジッパーバッグからピストルを取り出す。

メンデル元警部は、サーカスでのミーティングが終わったと知らせてくる。

そのメンバーの中から、誰が駆けだしてこの隠れ家にやってきて、アレクセイ・ポリヤコフと会うのか―それによって、「もぐら」の正体が明らかになる。

スマイリーは、「来るぞ」という合図を、戸外のピーター・ギラムに卓上灯の明滅で知らせる。

ピーター・ギラムもピストルを構えて身を潜める。

果たして隠れ家にやってきたのは、アレクセイ・ポリヤコフとビル・ヘイドンだった。

ここの演出に少しわかりにくいところがあるのだが、僕の理解はこうだ。

スマイリーが待機していると、1人が車でやってきて、2階へ上がって、換気扇を開く。「入って来い」の合図だ。これをしたのは、たぶんビル・ヘイドンだと思う。

それに従って、次に入ってきたのがアレクセイ・ポリヤコフ。

二人が2階で合って会話が始まる。

それをスマイリーが、マイクを通じて隠れ部屋で聞いている。

「換気扇は閉めてあるな」と言っているのは、後からパーシー・アレリンやロイ・ブランドが入ってこないよう、合図の換気扇を閉めたなという意味だ。

アレクセイ・ポリヤコフが、ビル・ヘイドンに、「ターとの会合を設定してくれ。そこにターが近づいたところで、我々がターを捕らえる」と言う(この台詞の話し手と聞き手が僕にはわかりづらいのだが、たぶんそうだと思う)。

これで「もぐら」が誰かがはっきりした。

暗闇の中でじりじりと歩を進めるスマイリー。

ここは映画的にも十分にサスペンスフルに描かれていていい場面なのだが、原作のこの箇所は、これまた飛び上がるほどしびれる。

このじりじりと歩を進める刻々にスマイリーの心に去来しているのは、またしてもアンへの想いなのだ。

では、アンはどうか。アンは知っていたのか。あの日、コーンウォルの崖道で、ふたりにふっとさした影、あれがそうだったのか。

しばしスマイリーは、悄然と立ちすくんだ。アンならいうだろう。太っちょの、靴を脱いだスパイが、愛に欺かれ、憎しむ力もうせて、片手に拳銃、片手に細紐をつかんで、闇のなかで待っている、と。(ハヤカワ文庫新訳版497頁)。

「太っちょの、靴を脱いだスパイが、愛に欺かれ、憎しむ力もうせて、片手に拳銃、片手に細紐をつかんで・・・」。

男が銃を構えて身構えるという場面など、古今の小説や映画の中で何万回出てきたことか知れないが、これほどに悲惨で自虐的に想い描かれる主人公の自画像は、そうそう出現するものではなかろう。

そんな心情がこのクライマックスで唐突に湧き上がり、それを必死に抱えながら男は自身に課せられた公務を為すのだという、そんな場面を、こんなスパイ小説の中で読まされるとは知らずに読んでいたこちらとしては、まったくしびれてしまった。

この心境こそ、どこの国のいつの時代にも敷衍的なる男の仕事の感覚ではないかと同調してしまうのだ。

男が大事な仕事を為すとき、重要な判断をくだすとき、いつも胸中にふっと去来する思いというのは、たいていこんな呆けた感覚だろう。

少なくとも僕は、眼前の仕事が肝心であったり危機的であればあるほど、それと脈絡のない想いを微かに並行して頭の片隅に想い出し、そっちを追いかけながら、もう一方の頭で判断や発言をしてしまう。

たぶんそのことでその場の心の平衡を保っているという作用もあるのかもしれない。

そして僕がそういう局面で想い出す場面というのは、どこか苦い残痛感を伴うそれであることが普通だ。

だから、この小説のこういう描写には男の仕事ぶりというものの敷衍性が、実によく書けているということを僕は言いたいわけなのだが、さてこういう感覚は僕だけか?

他の皆さんは目の前の仕事にもっと集中しているものなのか?

でもそれならば、ジョン・ル・カレのこんな小説の書き方など成立しないわけで、この小説が多くの読者の胸に迫るということは、世のなかの多くの男も女性も、こういう自分の心理の動き方は身に覚えがあるということではないか。

この映画が非常に優れて魅力的な作品であることに疑いの余地はないが、原作におけるこうしたスマイリーの心の痛さ、深く震えるものにまでは届いてはいないと言わざるを得ない。

視覚的な表現である映画にとっては、やはりここは難しいところだろう。

それが物足りないといっているのではない。そんな映画を見たいとも思うものかどうか。

観客としては、そんな痛々しいところはするっとすり抜けて、いぶし銀の格好良い男たちをスクリーンに見たいではないか。

だからそこまで映画でやらなくても良いのだが、原作のこの複雑な人間造型のどこにスポットして、どこまで視覚化・映像化するのか、これが原作ものの映画化におけるさじ加減の最も難しくも面白いところだ。

この視覚化・映像化の工程における本作の判断は良い模範であると僕は評価したい。

ここでは原作の描写はいったん忘れて映画に戻ろう。

原作でもそうなのだが、ここで視点は、戸外のピーター・ギラムのほうへ行くので、スポンと省略されている具合になるが、その間にスマイリーはアレクセイ・ポリヤコフとビル・ヘイドンの前にスマイリーがピストルを持って踏み込んだのだ。

スマイリーは、ついにビル・ヘイドンの正体を暴き出したのだ。

アレクセイ・ポリヤコフは、スマイリーに、「自分は外交官だから、そのように扱え。」などと言っている。

自分の正体が露見したショックで言葉もなく座り込んでいるビル・ヘイドンにむかって、アレクセイ・ポリヤコフは、「君は元気を出せ。(君はこれまでの功績で)勲章と、モスクワに部屋が貰えるよ」などと慰めを言い、「自分は(この失態で)シベリヤ送りだ。」と言って立ち去る。

ピーター・ギラムが部屋の中に入ってみると、スマイリーから銃を突きつけられて座らされているのはビル・ヘイドンだった。

ビル・ヘイドンが「もぐら」だったのかと、ピーター・ギラムと観客は遂に知るのである。

この場面の演出では、映画のある観客には「やっぱり!」と思わせ、ある観客には「意外!」と思わせ、そして少なくはない小説を先に読んでいた観客にも「これでよろしい」と納得してもらわなくてはならない。なんと難しい映画づくりに挑んだものだが、まずは上手にケリをつけたということだと思う。

ただし、日本での公開に際してこの映画のここまでの状況を負ってくることができた観客には、すでにここまでの描写で「もぐら」は、ビル・ヘイドンだとわかってもいたことだろう。

論理的にそう推察されるというより、スクリーン上に息づく人物を観れば、ビル・ヘイドン以外、スマイリーに拮抗し得る悪役として立っているキャラが彼の外にないからで、そう見ていた観客にとっては「意外」ではなかろう。

いっぽうで、初見の、けして少なくはない観客にとって、この映画はすでにここまでで、もはや誰が誰だか、何が何やらワケがわからなくなっていたはずだから、ここは「やっぱり」でも「意外」でもなく、「きょとん」だったのではないか。

それほどに、この「もぐら」の正体露見の場面は、本来のストーリーの謎解きの最大の山場であるにも関わらず、この場面はおよそハラハラドキドキの「山場」という演出になっていないのである。

僕はイギリス在住の方からメールをいただいて、あぁそうかとも思ったのだが、この「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」は、原作小説がひろく読まれているうえに、BBC(英国放送協会)によって、1979年にテレビドラマ化され(主演のジョージ・スマイリーを演じたのは、アレック・ギネス)、その意味では、ストーリーも「もぐら」の正体も、ひろく英国民が常識的に知るところ-という側面もあるらしい。

だから僕のような日本人が、本作の“わかりにくさ”を面白がっている見方(だから、自分がわかった!と思ったことを、ぐだぐだ解説文にしてしまう)というのは、そもそも鑑賞のアプローチとして最初から間違っているのかもしれない。

たとえは変だが、坂本竜馬を描いた映画で、竜馬が暗殺されるかされないか知らずにハラハラしながら映画を見る日本人がいないように、本作が「もぐら」は果たして誰なのかということは、本作においては、もはや山場でもなんでもないということなのかもしれない。

英国民にはひろく自明な物語ながら、映画として独自の世界をいかに創造し得たかというところに本来の鑑賞のポイントがあるのだろう。

ゲイリー・オールドマン渋いな!コリン・ファース素敵だな!セットや衣装がカッコいいな!というような、もっとずっと本能的な映画の楽しみの中で語りあうべき作品ということなのかもしれない。

67.現在:ビル・ヘイドンが拘束されている刑務所(のような施設)

スマイリーが、収監されているビル・ヘイドンの元を訪れる。

今日までここに身柄を拘束され、ついさっきまでさんざん尋問されていた末に釈放されたとおぼしきパーシー・アレリンとすれ違う。

パーシー・アレリンはすっかり憔悴している。当然、彼は罷免され、この先の人生はない。

スマイリーとビル・ヘイドンが面談する。

ビル・ヘイドンは「自分は数日後にモスクワに移送される」と言っている。

そしてそれまでは、厳しい尋問を受けることになる。

「尋問官のやり口は知っている。それは僕が教えたのだから」と、ビル・ヘイドンは強がりを言う。

そうして彼が知る限りの情報を吐きださされたうえで、何日か後にはモスクワに送りつけられるという段取りのようだ。

ビル・ヘイドンをモスクワに追放するということは、サーカスにしてみれば、KGBに囚われている西側の工作員を救出する意味がある。

逮捕されたスパイというのは、死刑や終身刑にすることもあるが、返したり返されたりする“駒”でもあるわけだ。

将棋は、取られた駒が寝返る。チェスは取った駒の再利用はできないが、なにがしかの象徴ではあろう。

ビル・ヘイドンは、自分が送還された後は、モスクワで隠居生活ができるようなことも言っている(「モスクワではクリケットはないな」などと)が、さてソ連はそんなに甘いものか。

ビル・ヘイドンは、自分の二人の愛人(女と男)に金を渡してやって欲しいとスマイリーに頼み、スマイリーは引き受ける。(これが、アンとジム・プリドーのことかとも一瞬思えたのだが、そういうわけではないことは原作を読むとわかる。)

スマイリーは、「君に聞きたいことがあった。ジム・プリドーが生きて帰れたのは、君のおかげだろう」と言う。「カーラが、ジム・プリドーを殺さなかったのが驚きだ。(愛人である)君への心遣いから、殺さなかったのかな。」

このスマイリーの言葉に対するビル・ヘイドンの表情は、肯定とも否定ともよくわらかないが、僕の理解では、ビル・ヘイドンは、ジム・プリドーが生きて帰国できるように、カーラにかけあい、カーラもそれを承諾したという経緯があったのだと思う。

スマイリーは、ジム・プリドーがブタペストに発つ前、ビル・ヘイドンに会いに来たかと聞き、ビル・ヘイドンは認める。自分への「警告」のために来たと。

ジム・プリドーはビル・ヘイドンが「もぐら」ではないかとうすうす感じていた節もあったようであるが、あるいは少し怪しいかなと思いつつも心の底ではまさかそんなはずはないと信じていたのか、よくわからないところがある。

いちおう本稿としては、ジム・プリドーは自分の敬愛するビル・ヘイドンへの信頼と、サーカスへの組織愛はほぼ同一のもの、だから裏切りを知ったとき、ビル・ヘイドンの全てが許せなかった-というロジックで書いている。

ビル・ヘイドンは続ける。

彼は、自ら「もぐら」になった動機として、「道徳的かつ審美的判断で東側を選んだ。西側はとても醜くなった。自分が信じる共産主義のために身を投げ出したのだ」というようなことを言う。

スマイリーが、「カーラは(パーシー・アレリンではなく)君をサーカスのチーフに据えるような工作はしなかったのか」と聞くと、ビル・ヘイドンは「自分は、カーラの雑用係ではない」と反駁する。

ここでスマイリーは、この映画の中で最も声を張りあげて叫ぶ。

「じゃあ何なのだ!」。

スマイリーは、アンが寝取られたことにも声を荒げなかったのに、ビル・ヘイドンが自分の意志で共産主義を選んだなどという「美学」を披瀝されたことに、そんなビル・ヘイドンの増長に、これまでは「しょせんお前(ビル・ヘイドン)はカーラの操り人形ではないか」と見下げることでスマイリーは自分を保ってきたのに、彼から「自分はカーラの使い走りではない」などと一人前な口をきかれたことに、とうとう激昂した。

全編を通じてこの一言だけ怒鳴ったのだ。

この弱々しさの演出がまた見事で、このスマイリーの怒声はとてもよくわかる。

なぜ僕がこれを「弱々しさ」「見事だ」と書くのかというと、けして感情を表に出さないことをモットーにしているスマイリーが、本来ならばもっと怒鳴りたい、叫びたい苦しみは、この男がアンを寝とったことであるはずだ。

しかし、スマイリーはそのことに対しては正面切って怒鳴りつけることができない、その自分の心を、こっちの余計なほうに持ってきて爆発させている。

そういう屈折した、だがリアルな社会生活者であり一人のしがない男であるわれわれ誰しもに生じる心と肉体の動きとして、不思議なほど観客の側に伝わってきて理解できるから見事な演出と僕は思うのだ。

アンのことになると、アンに対しても、その間男に対しても、正面きって怒鳴りつけることができないスマイリー。

アンはかつて自分を愛していたはずなのに、そうでなくなったのは自分のせいなのだろうかとか何とか、そういうメメしい想いをスマイリーはじくじくと長年にわたって抱えて生きてきたのだ。

せめて、その間男が、カーラの操り人形にすぎない中身がカラッポな男だと矮小化して考えることで、スマイリーはなんとか自分の心の平安を保とうとしてきた。

その男の口から、「私はカーラの雑用係ではない」などと一人前に生意気なことを言われて、スマイリーは心のバランスを一瞬崩した。

そういう複雑な心境が、こういうふうに映画から伝わってくるということに、僕はほとほと感心してしまう。

このあたりは僕の勘違いということでもいいのだが、僕はそういう思いでこのシーンを見た。

それに対する、ビル・ヘイドンの「僕は名を残す人間だ」という反論も“すごい”というか、まことに“くだらない”。

スマイリーもこの空疎な言葉には唖然とするほかない。

「こいつは所詮こんな程度の男だったか」と思ったのと同時に、これでスマイリーの心は再び落ち着きを取り戻すことができたのだ。

こう見てみると、結果的に、スマイリーとビル・ヘイドンとは、男と男のプライドがぶつかり合っているというより、完全にすれ違った人種で、闘いにもならないような闘いをしていたようだ。

原作では、こんなふうに書かれている。

(スマイリーは)ビル・ヘイドンがとりとめもなく自己を語ったあの話を思えば思うほど、矛盾が多いのに気がついた。<中略>きっとビルのマルキシズムは、芸術的才能の不足と、愛にめぐまれなかった少年時の埋め合わせだったのではないかと想像した。むろん後年その思いが薄れたとしても、もうかまいはしなかった。すでにビルの進路は決まっていて、あとはカーラが、そこから逸脱させぬようにすればいいだけだった。バイウォーター・ストリートの床にビルが寝そべり、アンがプレイヤーで音楽をきかせている光景が脳裏によみがえると、所詮裏切りは習慣の問題だなとスマイリーは思った。(ハヤカワ文庫新訳版220頁)

「所詮裏切りは習慣の問題だな」という切り捨て方も凄い。

スマイリーは「自分はそういう習慣にはなかった。自分には別の美学がある」と言っているわけで、そういう自負があるわけだろう。

それにしても、「バイウォーター・ストリートの床にビルが寝そべり、アンがプレイヤーで音楽をきかせている光景が脳裏によみがえる」という、こちらの空想のほうが切ない。

この悲しみに溶かされるような切なさ苦しみをいったい何と言おうか。この焼けただれるような嫉妬と絶望感。

相手の男が床で、いまにも女を受け入れられるような余裕綽々の態度で寝そべっていて、自分の妻は彼のために微笑んで音楽をきかせてやっている―この甘美で息も絶えるほどに苦しい光景を想像することを、言葉では何と言うのだろう。

スマイリーは「アンに伝えてほしいことはあるか?」と、これは穏やかに聞く。

ビル・ヘイドンは「君に対して悪気があったわけではない。カーラが、君(スマイリー)は優秀で危険な存在だ、しかし奴(スマイリー)の弱点は妻だ、そこを突けと言われた。」というようなことを答える。

「僕がアンの愛人になれば、(スマイリーの)判断が曇ると思った。その通りだった。」とビル・ヘイドンは言う。

これに対して、スマイリーは「ある時点までは、そうだった」と認める。

しかしそれは、「ある時点までは」であって、「今は違う」とスマイリーは言っているのだ。

たしかに、アンのことで、自分の心は一時かきむしられた。

しかし今はその暗闇から抜け出し、自分の目と頭脳は明晰になったという自負が今のスマイリーにはあるようだ。スマイリーおじさん、見事に復活である。

68.現在:サースグッドの学校:ジム・プリドーのトレーラー・ハウス

この学校で、ジム・プリドーと唯一、心通わせる生徒、ビル・ローチ少年(愛称・ジャンボ)が、彼のトレーラー・ハウスを訪れる。

ビル・ローチは、これを作りましたと、なにかの木工細工を見せる。

この木工作品がいったい何なのか、僕にはわからなかったのだが、本稿をお読みくださった方からメールをいただき、あれは「bootjack」ではないかと教えていただいた。

これはいわば「楽チン靴脱ぎ器具」とでもいうべきもので、「片足で台座を踏みながらカカトをU字のところにひっかけてブーツを脱ぐもの」であるそうだ。

https://www.google.co.jp/search?q=bootjack&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=z8UrU53SOMHJkgXozoHABA&sqi=2&ved=0CDUQsAQ&biw=942&bih=443

足の不自由なジム・プリドーに、ローチ少年からの心を込めたプレゼントと考えると辻褄もあうし、心情表現としてもぐっとくるので、このご意見はきっとあたっているのに違いない。

ジム・プリドーは、ビル・ヘイドンの逮捕を知って激しく動揺しており、そんなローチ少年を、ジム・プリドーは泣きじゃくりつつ怒って追い返してしまう。

人にはしばしば、自分の心の怒りに負けて、自分にたいして心を寄せてくる者に対して、嵩に懸かったように怒鳴りつけるという態度に出てしまうことがある。

相手が心寄せてくるほどに、それに甘える弱い心の叫び。これもよくわかる。

ジム・プリドーもそうした普通の、あるいは普通よりもっと純粋で無垢なところの大きい人間であることもわかる。

BD版のオーディオ・コメンタリーでは、ジム・プリドーはビル・ローチに次世代のスパイとしての資質を見出していて、そうさせたくないために大声で追い払ったという解説をしている。なるほど、それも面白い。

ビル・ローチ少年こそ、暗闇に潜む絶望した太っちょのスパイにより似つかわしいかもしれない。

どうやら、ジム・プリドーはいつの時点かにおいて、ライフル銃を密かに所有しているところを、ビル・ローチ少年に目撃されていたらしく、原作の最後の一行は、「あの銃はやっぱり夢だったんだ。ようやく、ビル・ローチは、そう得心することができた。」で終わっている(小説の全体が、ローチ少年の視点から始まり、ローチ少年のこの述懐で終わる)。

映画ではそこらへんはまったく省かれていて、ジム・プリドーは次にはライフル銃を背負っている。

純情なるジム・プリドーとしての「落とし前」をつける時が迫っていた。

彼がいま想いだすのは、愛しいひと、ビル・ヘイドンとの心溶ける眼差しの交わりであった。

69.ジムの回想:サーカスのクリスマス・パーティ

ビル・ヘイドンとジム・プリドー。見つめ合う二人。

70.現在:ビル・ヘイドンが拘束されている刑務所のような施設

ジム・プリドーがライフルを抱えてやってくると、ビル・ヘイドンに狙いをつける。

ビル・ヘイドンが、ジム・プリドーの方を向く。

ジム・プリドーは涙ながらにビル・ヘイドンの顔を撃ち抜く。

なぜジム・プリドーはビル・ヘイドンを殺したのか。

この点に関するすっきりとした回答は本作からは得られない。

BD版のオーディオ・コメンタリーでは、ジム・プリドーがビル・ヘイドンを射殺する理由は、「復讐かもしれないし、愛ゆえかもしれない」というような曖昧なことを言っている。

原作でも、ビル・ヘイドンの死はKGBの関与によるものかという見解に対し、「いや、奴ら(KGB)は自分の駒を取り戻すことを何よりも栄誉にしている」としてKGB犯行説を翻す言葉も述べられていて、明快でない。(原作では射殺ではなく首の骨をへし折るような殺し方のようにも読める)。

ライフルを構えたジム・プリドーとビル・ヘイドンは、しばらく見つめあっている。

このときのビル・ヘイドンはすっかり覚悟しているようにも見えるし、「これは心外だ」と言っているようにも見える。

あるいはその両方の気持ちが一瞬で往来しているように見える。

ビル・ヘイドンの前のシーンまでの発言を聞いていると、モスクワに送られた後の自分の人生のことを本気で楽しみにしている節があり、ここにジム・プリドーが現れるとは思っていなかったようだ。

だから、僕はビル・ヘイドンの最期の表情は、「なるほど俺(ビル・ヘイドン)は、君(ジム・プリドー)を裏切った、君が捕えられ、拷問されるかもしれないハンガリーへと赴かせた。しかし君を遣ったのはコントロールで、生きて還らせたのは俺だ。命の恩人ではないか。なぜ俺を殺すことがある、そんなに俺が許せないか」と言っているようにも見えるのだ。

ジム・プリドーの気持ちはどんなものだろう。

ジム・プリドーは、一人の純粋な情報機関員として、サーカスの組織を愛し、機関員たちを愛し、その体現であるかのようなビル・ヘイドンを、英雄として愛情の対象として心から慕ってきた。

アラビアのロレンスの再来、すべての思慕をささげ得る対象、その人と自分が愛人であるということの秘めた歓びこそが彼の生きることの全てであったのだろう。

自分が彼を信じてきたことで、自分はかくも傷つき、仲間たちに膨大な犠牲を強いた。だからこそ、ビル・ヘイドンの決定的な裏切りが、どうしても許せなかった。

つまり、ビル・ヘイドンにとってジム・プリドーは個人的な恋の遊び相手、ないしはゲームの駒である。

彼にとっては東西の情報戦もゲームであり、そこで戦う者たちの命すらただの駒にすぎない。

いっぽう、ジム・プリドーにとっては、ビル・ヘイドンとは自らの世界のすべての愛の偶像、裏切られれば命を賭してでも復讐すべき対象だった。

こう考えてくると、僕には、ビル・ヘイドンはすっかり覚悟を決めて撃たれたというよりも、ジム・プリドーに対して、「こんなことで、そんなに本気で怒るなよ。これだから頭の悪い奴には困ったものだ」というような顔をしているようにも見える。

そういう選民意識のようなものがビル・ヘイドンの頭をずっと占めていて、本当の他者への愛など微塵も持ち合わせていないグロテスクな個人主義者というのが、この人物の本質であるような気がする。

その最期の最期に、もしも彼の脳裏に「わかった。それならいいよ、撃てよ。」という気持ちが刹那によぎったとすれば、救いだろう。

最期の彼の数駒の表情は、そんなふうにも見える。そんなこんなの感情が瞬時にスクリーンの上に交錯しているように感じさせる素晴らしい編集だと思う。

わずか数駒のフィルムをどう繋ぐかで、この心の交錯が観客に伝わるか否かがまったく異なる。映画編集とはそういう技術である。

以上のように考えてくると、ジム・プリドーの一撃には、個人的復讐というよりも神聖なるサーカスを裏切った者への正義の鉄槌という意味あいが出てくる。

それが、物語全体としてのカタルシスにもなっている。

その意味ではこのオチは必須であって、つまりは「愛憎の落とし前として殺した」という理解でよいはずである。

そのことで、この物語は血の通ったものということになる。だから、本作はクールでスタイリッシュな映画なのだが、意外にオチは浪花節でケリをつけているとも言える。

教師に身をやつして暮らすジム・プリドーが、どこからこのような高性能の狙撃銃を入手したのかというところは、疑問に思えないわけでもない。

あるいは、ビル・ヘイドンの正体が曝され、その施設に収容されたことをなぜ知っているのか、そもそもなぜ彼は生きて還されたのかなどの点、僕にはすべてクリアには説明できない。

ある時期には、ジム・プリドーはカーラに洗脳され、ビル・ヘイドンの正体が露見した際にはこれを抹殺する密使となった、それゆえ情報や武器がKGBから提供された−という推察も成り立つのではないかと考え、本稿でもしばらくそのように書いていたことがあるが、それは誤った考え方だとのご指摘を受けて自説を翻した(あと書き参照)。

ビル・ヘイドンの正体が露見したことは報じられたのだろうし、狙撃銃の入手など手練れの元情報機関員には容易いことだったろう。狩猟用に市販されているものかもしれない。

KGBからのジム・プリドーの生還はビル・ヘイドンの骨折りの甲斐あってのことで、ビル・ヘイドンにしてみればそれだけでジム・プリドーへの義理は果たしたつもりだったろう。

結果的には、そしてビル・ヘイドンが心底冷血であれば、ジム・プリドーを生きて還させてはいけなかった。

しかし、それをしなかったところに彼の人間性があるし、救いのある話しにもなっているわけである。

71.現在:街角・雨に濡れるリッキー・ター

リッキー・ターが何を期待して待っていても、イリーナが戻ってくることはない。

72.現在:コニー・サックスの自宅

煙草をふかすコニー・サックス。

73.現在:スマイリーの自宅

スマイリーが家に帰ってくると、妻・アンが戻っている。大きく感情を揺さぶられるスマイリー。

このよろめき方ひとつの演技で、こうまで動転ぶりが伝わってくるかというくらい、この芝居もすごい。

アンの表情は、画面からはさっぱりわからないが、それでもアンが久々に戻ってきたのだ、そのことでスマイリーが腰がくだけるほど胸いっぱいになっているのだ、ということが観客にきちんと伝わる。

本作の中で、アンをほとんど画面に出さないというのは成功していると僕は思う。

そうではないという意見もあろう。ネットを渉猟していると、原作のファンの皆さんの面白い意見がいろいろある。

回想のパーティシーンで一瞬だけ見えるアンに対して、「原作のアンのイメージはあんな安っぽい女ではない。あんな女に振り回されるスマイリーではない」というようなものがあった。

たしかに、ちょっとあのシーンのアン夫人は、さほど美しいとか妖艶という姿ではない。

原作のアンは、もっと美しく賢く気高く、神々しいほど奔放だ。

だからこそ、スマイリーはこれほどまでにアンに心奪われ、彼女への「忠誠」を貫いてきたのだと、一応そういうことになってはいる。

ただ僕は、案外、アンというのは、本当はそんな美女でもなんでもない、ふつうの女性でいいと思うのだ。

そういう平凡な女性に心と人生をワシ掴みにされているというのが、ふつうの男だろう。

男にとっては、惚れた女性を見れば、いつでもはっと息をのむほど美しく見えているわけだし、ややもすれば気まぐれにしか見えない他人である。

そうではなく、女性と本当に心ひとつに溶け合うことのできる幸福な男もいるだろう。

けれども、スマイリーの世界というのは誰がその妻や恋人であったとしても、そこへは開かれてはいかず、最初から自分で閉じてしまっているのだ。

その資質が、たまたまスパイとしての天才を彼に与えるものではあったが、彼の幸福や夢はそこで行きどまりで、それ以上のどこにも行き場がない性質のものだ。

スマイリーはそんなふうに国家と歴史の申し子としてその職に、ないしは自身の理想、というよりは夢想に殉じた哀れで幼稚な男なのであって、男の人生というのはそれでよいのだ。

つまりは、こういう男にとって実のところ本当は女なんてどうだっていいのであるが、彼の場合、ちょっと過ぎたる女が奥さんになってしまったものだからパニくっているという、それだけのことなのである。

僕はそこが、まさに男らしい愚かさを活写していて、そこがこの作品のいいころだと思っているのだが、このあたり、世の女性からすれば「アホじゃなかろか」というような話であろうか。

迷惑なのはアンのほうこそだ。

この原作や映画のなかでは、奔放すぎるアンに裏切られ翻弄され、さも被害者然としているスマイリーだが、そんな一方的なものであるはずがない。

スマイリーの世界がアンを拒み、彼女の夢と希望を奪い、結果として彼女をかのようにふるまわせた、そうさせたのは自分だということに、スマイリーはどれほどの自覚があるだろう。

この点、スマイリーは男の馬鹿さ加減の象徴のような男で、ことアンの問題になると、彼の頭脳はとたんに曇り、歪み、誤ちを重ね続け、それがアンに反射して彼女をますます遠い存在、霞のかかったような存在へと追いこんでいくのである。

要はスマイリーにとって、アンというのはきわめて観念的、不可知かつ漠然とした「女なるもの」であるにすぎず、また彼自身にとっては、それで必要十分なのである。

だから本作では、アンその人を具体的に描く必要がないだけでなく、むしろそれを意図的に排除することで、スマイリーが、“スパイごっこ”に夢中になって、妻=女性というものをついに理解し得なかった憐れな男だったのだということを鮮かに浮かび上がらせる効果をあげている、だからこそスマイリーが腰くだけになるこの場面に、観客はじゅうぶんついていくことができるのだと思う。

だいたい本作が、アンをリアルで血の通った人物として描いてしまえば、映画の尺数(再生時間)が収まりきらないというだけでなく、スマイリー自身の人物造型や、本作の「男の世界」というものを揺るがせにしてしまいかねない。

スパイ合戦などというものも、あるいは実際の戦闘・戦争さえ、しょせんは幼稚な男の子の遊びや喧嘩の延長にすぎず、実は国家だのヘゲモニーだのも男の夢想の産物にすぎず、ましてや「忠誠」などという空疎なものに命を賭けて恍惚となってしまう、そういう未熟で空想的で破滅的な性としての「男」たち。

生命の本質を継続する現実的で生産的な性としての「女」たちとの、この交わらなさ。

だから監督は、ゲイこそが男の性の進化と成熟の方向であることを示唆している、などとは言いたくもないが、どうも映画化された本作には、凋落していく大英帝国情報部の男たちの“スパイごっこ”やら、“忠誠”やら “大義”とやらを苦笑しているとういか、ほとんど哄笑しているかのような皮肉な視線が透けて見えてならない。

美貌の妻・アンのことなどさしおいて、いぶし銀の素敵な、しかし十分に惰弱で歪んだ心を病んだ中年紳士たちの怪しげな視線の交わりをうっとりと描きつつ、彼らの殉じる帝国の大義の凋落を嗤う――原作の単なる視覚化というのではない、そんな新たな深さと味わいを加えるためにこそ、フランス人監督トーマス・フレッドソンは起用されたということではないだろうか。

映画の監督というのは、その中で明示的に描かれるものごとの何倍も何十倍も、物語や台詞や人物造型を裏の裏まで考え尽くし、そこに自分のメッセージや人生観を幾重にも重ね、それを役者やクルーに論理的かつ合理的に説明し、納得してもらって、現場を指揮し編集で練り上げていくものだ。

トーマス・フレッドソン監督が、本作の制作現場や役者たちとの打ち合わせの場で、彼らに何をどう語りかけて、この奇妙キテレツなる演出意図を伝え、この複雑かつ魅力溢れる作品世界を牽引し得たのか、それを想像すると僕は唸ってしまう。

74.現在:サーカス

スマイリーがサーカスに出勤し、かつてはコントロールが、次には罷免されたアレリンが座っていたサーカスのチーフの椅子に座る。

もはや崇拝する存在となったスマイリーの大出世に思わず笑みがあふれ出るピーター・ギラム。

スマイリーの複雑な表情の中にも、「やったぞ」というような満足がかいま見える。

それはアンが戻ってきたことの悦びか、サーカスでの地位を極めたことの達成感か、カーラとの戦いに辛勝したという安堵か、さぁこれからゲームの始まりだという高揚感か、いろいろに見える。

このエンディングの山場で盛り上がっていた音楽、フリオ・イグレシアスの「ラ・メール」のマッチングの加減はすごいものだ。

スマイリーのアップでドンと終わり、この歌がライブ録音なので拍手まで湧く。

この瞬間が、歌舞伎の「いよ!なんとか屋!」というような掛け声をかけたくなるほど決まっているとブログに書いている人がいたが、素晴らしい感想だと思う。

「映画の最後には、製作チームがスマイリーが一人で居る時に聴くだろうと推測したフランスの曲 "La Mer" が使われ、フリオ・イグレシアスが演奏した。スマイリーが曲を聴く場面も撮影されたが、結局それがあまりにも多くの意味を与えることを避けるためにカットされた」(Wikipedia)そうである(フリオ・イグレシアスは演奏ではなく歌っている)。

この“La mer”(ラ・メール:「海」「海を越えて」などの邦題でいわれるようだ)の編曲も、フリオ・イグレシアスの能天気な歌声も、本作のこの場面に震えるほどぴったりだ。

YouTubeで聴き比べると、この曲は普通、もっとゆったりムーディに歌うものらしいのだが、この映画ではこの歌い方が見事に合っている。

やけっぱちな感もなくはないが、これしかないという使い方、映画を観終わった後まで頭の中でエンドレスに鳴り続けてしまって困るほどだ。

最後にこの歌の歌詞を転載しておきたい。

これは「Chantefable<歌物語> Nonchalanteによる、シャンソン歌詞徹底翻訳」というサイトからのコピーである。

Nonchalanteさんは、この頁の最後の注で、「(4番では)それまで、現在形で、「ごらん」といった感じで、臨場感のある表現をしていたのに、ここで突然、過去形の表現に変える。」と書いている。

ここからは僕の解釈というか想像だが、つまりこの歌は1-2-3番では、「ごらん 入江で太陽と波が戯れているよ」と、まぶゆい波と光のさんざめき、人生の素晴らしさを高らかに歌いあげているのだが、4番で、「あぁそれも昔のことだった」というオチになっているという、そういう意味なのだろうと思う。

つまりスマイリーは、昔のサーカス(あるいは、アンとの生活か)は、太陽と海がきらめくごとく素晴らしかったのに、あぁそれも昔のことだと過去を詠嘆して一人で聴いているという意味ではないかと理解した。

もっとも、Nonchalanteさんの注には続きがあって、「(これは)見てきた海の姿を胸に焼き付け回想し、未来につなげる視点である。これからも続く人生というニュアンスを残したいので、pour la vieを「生涯」として過去形で訳すことは避けた。」と書いておられる。

ならば僕もここでは「過去形」は避け、というのは、これでこの映画を観終わったことにはしたくない、というほどの意味なのだが、ここはスマイリーの今後の闘い、すなわち続編に乞ご期待という意味だということにして、本稿を終えることにしたい。

ここまでの僕の独りよがりな文章を読んで下さった皆様、ありがとうございました。

La mer       ラ・メール

Charles Trenet        シャルル・トレネ

(訳:Nonchalanteさん)

La mer

Qu' on voit danser le long des golfes clairs

A des reflets d' argent

La mer

Des reflets changeants sous la pluie

海が 明るい入り江に沿ってダンスしているのが見える

銀色に照り輝いて 海は雨のもとでは輝きがうつろう

La mer

Au ciel d' été confond ses blancs moutons

Avec les anges si purs(注1)

La mer

Bergère d' azur infinie

海は 夏の空のもとでは 空の白い羊たちを 清らかな天使たちに見まごう

海よ 久遠の碧空の羊飼いの娘よ

Voyez

Prés des étangs ces grands roseaux mouillés

Voyez

Ces oiseaux blancs et ces maisons rouillées

ごらん 潟のそばの湿った葦の群生を

ごらん あの白い鳥たちとあの錆びた家々を

La mer

Les a bercé le long des golfes clairs(注2)

Et d' une chanson d' amour

La mer

A bercé mon cœur pour la vie

海は 明るい入り江に沿って それらを優しく揺すっていた

そして 愛の歌に乗せて 海は いつまでも私の心を揺すってくれた

〔注〕

1 夏空の雲を白い羊になぞらえ、さらにそれが、天空の天使たちに見まがうような情景をあらわしている。そして、海はその空の羊たちを飼う羊飼いの娘(海は女性名詞だから)となる。

2 それまで、現在形で、「ごらん」といった感じで、臨場感のある表現をしていたのに、ここで突然、過去形の表現に変える。見てきた海の姿を胸に焼き付け回想し、未来につなげる視点である。これからも続く人生というニュアンスを残したいので、pour la vieを「生涯」として過去形で訳すことは避けた。

http://blogs.yahoo.co.jp/alfonsinayelmal/3877676.html

あとがき

傑作だ。そして、のめりこんでしまって困る映画だ。

この映画、観る人によってはワケがわからないという方もいて、それも無理からぬ作品と思う。

だが一度見てわからないところがあっても、二度目に見ると、これまた驚くほどよくわかるように出来ている。

物語の本質が暗闇から浮かび上がるようにわかってくるプロセスはとても感動的だ。

だから「一度目、あなたを欺く。二度目、真実が見える」というコピーはうまいと思う。というより、そういうふうに作ってある。

日本での封切時には、二度目の入場料を割り引く「リピーター割引」があったほどだ。だから僕の生半可な解説など本来無用なのだが、それでも「それはね」とついおせっかいなことを書きたくなるのは、僕の弱さにすぎない。

僕は、映画を観てから原作をざっくり読んでみたが、感動はさらに深まった。

原作も素晴らしい。が、映画はそれに新たに加えた価値と魅力で、もうひとつの立派な作品世界を作り上げてしまっていることがよくわかった。

だから映画と原作のここが同じでこれは違うという指摘も、ほとんど意味をなさないが、それでいて両者は互いが互いを参照することで、さらに奥深さが増す優れたサブテキストとして働くのだ。

こんな幸福な関係は珍しいのではないか。原作と映画のどちらもお見事という稀な好事例と思う。

映画的省略のテンポが効いた筋の運びかたや、いぶし銀の男たちの洗練された立ち居振る舞いがたまらなく素敵だということは言うまでもない。

そのうえで、国家と歴史の必然として生じる諜報戦争の現場で働く人々の悲しさや哀れさが、スパイの端くれですらない僕たち自身にとっても、わがことのように伝わり心を揺さぶってくるのが驚きだ。

そう伝わるように実に丁寧に作りこまれているところに、本作の語り尽くせぬ魅力はある。

それをしつこく語りあいたくなって、といってそういう相手もたいしていないものだから僕は本稿を書きはじめた。

内容には、僕の独りよがりな解釈と想像がかなり入っているし、理解の浅さや錯誤もあろうかと思われ、これをもって全て正しい解説だなどとは思っていない。「よくわかる『裏切りのサーカス』全解説」というタイトルは、ちょっと大きく出すぎてしまったが、ものの弾みだ。

今後とも修正と更新を重ねるということで許して頂きたい。

文中にはネットで見つけた雑多な情報を参考にしたり触発されてその尻馬に乗っているに過ぎないところもあり、その参照元も全ては示せていないことをお詫びする。

それにしてもネットには種々雑多な情報が溢れていて、何が本当なのかもよくわかない。わからなくてもこの映画をめぐるファンの活発な議論が飛び交っている感じが実にいい。皆で、「わからない」「それはこうなんだよ」と言いあって楽しんでいる感じがいい。

本作の魅力は「わかる」ことより、この「わからなさ」に身を委ねつつ作品世界に浸るところにあるのかもしれない。

本作の成功によって、続編のプロジェクトも始まったと聞く。

どうか続編もあまりわかりやすくならないで、この楽しみが永遠に続いてくれますようにと願うばかりだ。

この「あと書き」に大事なことをつけ加えなくてはならない。

僕が本作をDVDで見たのは2013年の2月頃で、その後に原作をざっと読んで、3月から4月にかけて本稿を自分のホームページの中にアップロードした。

とくに誰かに読んでもらうというつもりもなかったが、次第にネット検索にひっかかるようになったらしく、その後時折、本作のファンと思しき複数の方から、ご丁寧なメールを頂戴するようになった。

どなたも本作の原作シリーズを含めて内外の小説や映画や音楽や歴史に造詣が深く、どなたもたいへん紳士的で、僕が本作について錯誤している点についてもきちんと指摘してくださった。

少し文通のようなかたちで交流させていただいた方もおり、感謝にたえない。

僕自身は、本作の映画に対しての興味から入ったので、自分がジョン・ル・カレの一連のシリーズについても何ひとつ理解していないことは分かっていたが、これほど奥が深かったとは、と驚き、僕の理解の浅さもおかげさまでだいぶ埋まってきた。本作の本物のマニア諸兄は、オリジナルのシナリオも入手してお読みになっているようだし、同人誌も出されているらしい。

僕の研究はとてもその域には届いておらず、本稿の「解説」にはまだまだ僕の独りよがりの部分が多いことを重ねてお詫びしておきたい。

僕自身の身辺が2013年4月以降慌ただしくなり、その間、メーラーを交換したら過去メールが全部消えてしまうという不手際などもあり、せっかくの交流が途絶えてしまったまま本稿の改めるべき点も手つかずで放置してしまっていた。

メールをくださった皆様への不義理はまことに申し訳なく、しかしメール以外では存じ上げない方なのでご連絡の方法がない。

不躾をお許しいただけるのなら、またメールをいただけないでしょうか、すみません。

それでも僕は自分がネットに放置していた本稿は、それほど多くの方の目に触れるものでもなかろうと、たかをくくっていた。

だがそのうち、いくつかの検索サイトで「裏切りのサーカス」のキーワードでひくと、「公式サイト」や「Wikipedia」などに続いて、本稿が3位4位に出現するようになっていることに気がついてびっくりした。

検索サイトの表示順位がどのような基準によるものか僕は知らない。

類似のサイトの中では長文のほうであるという理由だけなのではないかとも思うが、アクセス数や被リンク数が僕の想像よりだいぶ多い可能性もあるかもしれない(僕は自分のHPへのアクセス数をカウントする方法を知らない)。

これは大変だと焦った。その時の版の中には、いくつも書き改めるべき点が残っていたからだ。

ことにジム・プリドーがビル・ヘイドンを射殺した理由についての僕の錯誤。後半にかけて展開したスタイリーの情けない男の本質うんぬんについての持論(これらはまったく頓珍漢な記述だと自分でも思う)。

これらが、想像していた以上に多くの皆さまに読まれてしまったのかもしれないというところに、とてつもなく恥ずかしさを感じた。

ネットに公開した以上、多数の人の目に触れたからといって慌てるのは愚かだ。アルバイト先の冷蔵庫に入った記念写真をツィートして、こってりしぼられる若者と同類だ。

それはいいとして、改めるべき点は改めなくてはならない。2013年9月になって、最初の「改訂版」に着手、本文を少しずつ直し始めた。現在のものは2014年3月版である。

このバージョンでは、行替えを多くして、行間も設けた。

実はそれまでのバージョンでは、プリントアウトして読んでもらうことを前提に書いていたので(僕自身が紙の上の文字しか読めないので)、できるだけプリント枚数を減らすために、あまり行替えのない文章を載せていた。

これがはなはだ読みづらいとご批判を頂戴したので、この改訂で改めた。少しは読みやすくなったはずである。

最初のバージョンから大きく改訂したのは、「ジム・プリドーがビル・ヘイドンを射殺した理由」についてである。最初、僕はこれを、「KGBに囚われたジム・プリドーが洗脳され、その手先として送還されてきた。そしてビル・ヘイドンの正体が暴かれた時点で、彼を暗殺するよう指示されていた。」と書いていた。

我ながら自信がなかったので、「僕も実のところはよくわからないが」と曖昧なニュアンスで。

だがこれはまったくの珍説に過ぎないとことを複数の方から指摘され、修正した。改訂したとおり、「ジム・プリドーがビル・ヘイドンを射殺した理由は、彼の愛憎の落とし前であった」とするほうが、より正解により近いはずだ。

「スタイリーの情けない男の本質うんぬん」のところは、そのどこが間違いだという指摘を受けたわけではないが、本作の解釈としては頓珍漢というか関係のない個人的思いを述べているだけだ。削除したほうが、解説文としては良いのだろうが、なんとなくそのままにしている。いずれ書き改めたい。

いずれにいたしましても、これまで本稿につきまして、ご親切なメールをお寄せくださいました皆様、重ねて御礼申し上げます。

今後ともお気づきのことがございましたら、どうかお教えください。ご指導をよろしくお願い申し上げます。


http://www.rsch.tuis.ac.jp/~ito/research/TTSS_description/TTSS_description.htm


 

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