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邪馬台国の謎を解く (気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板)
http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/825.html
投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 11 月 24 日 23:32:37: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: なぜ、八百万(やおよろず)の神々は11月に出雲大社に集まるのか? (気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板) 投稿者 五月晴郎 日時 2010 年 11 月 23 日 00:33:01)

http://www.snsi-j.jp/boards/past.cgi?room=sample1&mode=find&word=%BC%D9%C7%CF%C2%E6%B9%F1&cond=AND&view=10
「気軽にではなく重たい気持ちで書く掲示板」の[ワード検索:邪馬台国]より

『[1445] 邪馬台国の謎を解く(その1) 岡田英弘氏が描く古代日本』
『[1446] 邪馬台国の謎を解く(その2) 卑弥呼がつかえた鬼道とは五斗米道のことである 』
『[1450] 邪馬台国の謎を解く(その3) 五斗米道が日本にもたらしたもの』
『[1452] 邪馬台国の謎を解く(その4) 秦人(はたびと)が作った国が邪馬台国である 』

を、下記に転載投稿します。

=転載@開始=

今年(といってもあと数時間ですが)《投稿者記2009年》、奈良県の桜井市で纒向(まきむく)遺跡という大型建物跡が見つかりました。すぐ近くに女王卑弥呼の墓との説がある箸墓(はしはか)古墳があるため、一気に、「邪馬台国が近畿地方にあったことがはっきりした」というふうに新聞がかき立てています。
ここからわかるように、邪馬台国に示す日本人の興味は異常なものがあります。しかし、その場所を書いてある三国志の東夷伝(魏志倭人伝)の記述がはっきりしないために、未だにその場所を特定できません。

ここでは、岡田英弘氏の「日本史の誕生」および「倭国とその時代」の2つの本と、副島先生が以前書いたぼやき340「聖徳太子は蘇我入鹿と同一人物である」を参考に、私の考えもいれて、この邪馬台国とはいったいどういう国であったのかというのを、数回にわけて解説してみたいと思います。


<岡田英弘氏による「倭国」>
岡田英弘氏という人は、アルタイ学を専門とする歴史学者です。5年前くらいはこのサイトで頻繁(ひんぱん)に取り上げられました。最近はあまり話題にならないので、新しい会員の方はご存じないかもしれません。

岡田英弘氏は専門のモンゴルに関する本(『世界史の誕生』)とあわせ、日本の古代史に関していくつかの本を書いています。(『日本史の誕生』『倭国』『倭国の時代』)。その特徴は、中国、韓国、日本のあらゆる古代の文献を読み込むことにより、古代の日本の姿を明らかにしようとしたことです。つまり、古代日本史を中国史から明らかにしていったということです。ほとんどの日本の古代史研究者が、「日本書紀」や「古事記」を中心として古代史を明らかにしようとしているのとは、一線を画します。

実際、岡田英弘氏はすらすらと実感を持って、これらの古文書を読めるようです。「倭国の時代」「日本史の誕生」を読むと、「この漢字はこう解釈されているがそれは間違いである」という記述がたくさんあります。

副島先生も、アメリカ政治の権力構造を理解することにより、そのカンターパートである日本政治のしくみを次々と明らかにしています。学問的なアプローチとして同じと考えていいでしょう。


さて、この岡田氏の日本古代史を一言で、述べればつぎのようになります。「紀元667年に日本が誕生する前にあった「倭国」とは、様々な華僑(overseas Chinese)がつくった連合国のことである」。ちなみに、ここで言う華僑とは、漢字を使って商売・交易をした商業者のことを意味します。

副島先生が、岡田説を正確に要約した文章があるので引用します。

<引用開始>
ここで古代の華僑とはどういう人々であったかについて、岡田説に従って簡単に説明する。

華僑たちは、中国と周辺の国々の間で交易を繰り返すうちに現地の良港に居留するようになり、やがて現地人の女と結婚して子供をつくる。ところがこの混血の二世たちは、中国人としての強烈な誇りを失わず、自分のことを中国人だと思い続ける。たとえ何代続いても自分たちを中国人だと規定し、現地人に同化しない。文化習俗もそのまま中国式である。ところが現地で生活する以上、話し言葉だけは現地語化していき、しだいに中国語ができなくなってくる。しかしそれでも現地語には文字や文献はないので、もっぱら中国文(漢文)の書物を読み、中国語を書く。

岡田説によれば、紀元前一世紀頃から日本に来るようになった華僑たちは、瀬戸内海沿岸に自分たちの「国」をたくさん建設した。この国というのは文字どおり口の形をしており、周囲をインディアン砦のように板や丸太で囲んで防御壁とし、自分たちはその中に居住した。現地人はそこに作物や産物を持って押し寄せ、交易を行ない、やがて華僑の砦を中心に現地人の村が生まれる。「魏志倭人伝」に記された倭国の二十九カ国はすべて、華僑との交易のために生まれたこうした集落である。邪馬台国の女王・卑弥呼が「三十余国を従え」というのは、私たちが思い込んでいるような西欧的な武力による支配服属のことではなく、中国船と交易をする際の倭人側の代表として大きな権限をもっていた代表者のことであって、周りの小国は、この邪馬台国に友好商社代表として交易の仲介をしてもらうことで恩恵をこうむっていた、という意味である。

私たちは東アジアの古代史を考える際に、西欧のイメージで武力制圧ばかりを想像してはいけない。人間が生きていくうえでは、商業(交易)=経済こそが重要だ。政治的な統治支配の形態よりもまず、どのようにその王国は経済活動を営んでいたか、を見なければならない。だから、当時の中華帝国から見れば、倭王を含めた周辺属国の国王たちは「三井物産タイ支店長」 のような立場の人々であったのだ、と岡田教授は言う。
(ぼやき320より引用)
<引用終了>

この文章を、さらに現実感をもって書いたところが『倭国の時代』の中にもあります。紀元400年頃(仁徳天皇のころ)の難波(なにわ)の町がどんな様子であったかを想像して描いた文章です。以下に引用します。

<引用開始>
そして難波の湊は、堀江も湖も水面は船でぎっしりと蔽(おお)われ、波止場、傭兵として任那(にんな)に出稼ぎにいく倭人(わじん)たちや、縁故をたよって倭国へ働きに来た秦人(はたびと)の移民や、江南から山東半島・百済経由で仕入れた中国製品を運び込む漢人(あやひと)の商人でごった返す。難波京の大道では、おりしも奥地の王宮から到着した倭国大王とその護衛兵の一行が、隊列組んで高津宮の門をくぐり、それを倭人のお上りさんたちが、人垣をつくり口をあんぐり開いて眺めている。さらに難波京の南門を出ると、そこは柵に囲まれた広大な広場で、中国人や倭人が、それぞれ反物や、金属製品や、穀物や、果物や、山菜や、猪肉、鹿肉、魚などを足の踏み場もないほど地面にひろげ、声をからして客を呼び、食べ物を売る屋台店では、ほろ酔い機嫌の倭人の将校が、売り子の中国娘と軽口をたたき合う。まずそう言った、今日の東南アジアの都市ならどこでも見られる風景だった。
<引用終了>

上にでてくる秦人(はたびと)というのが、辰韓・弁辰という韓半島から移ってきた古い華僑、一方、漢人(あやひと)というのが帯方郡(たいほうぐん)から逃げてきた当時としては新しいタイプの華僑です。

我々が想像する倭人または原日本人とは、農耕を営み、神社にお参りする、素朴に神道を信じる人たちです。ところが、ここには、それとまったく違う日本人が描かれているわけです。

当然、日本人のアイデンティーを日本書紀・古事記に求めている日本の歴史学者には受け入れられません。

以下続く。

=転載@終了=

=転載A開始=

皆様、新年明けましておめでとうございます。昨日のつづきです。
<女王卑弥呼と鬼道>
前回、倭国における華僑の重要さを指摘しました。じつは邪馬台国の卑弥呼も、この華僑のネットワークが大きな役割を演じています。

『日本史の誕生』から引用します。

<引用開始>
卑弥呼は単なる倭人の女シャマンなどではなく、中国商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司だったのであり、倭人の諸国の市場を横に連ねる華僑のネットワークのうえに乗っていたからこそ、中国皇帝の後ろ盾なしでも何とか秩序を保てたのだ。しかしそれは、倭人の酋長たちのあいだに、他を圧倒する実力者が誰もいなかっただけの話で卑弥呼自身には政治力はなかった。
(『日本史の誕生』より引用)
<引用終了>

つまり、いわゆる「倭国大乱」のあったときに、それを治めるため、華僑のネットワークが持ち込んだのが卑弥呼という調停役の司祭だったということになります。

さて、三国志の東夷魏志倭人伝の卑弥呼の紹介のところに次のような文章があります。

<引用開始>
其の国、もと亦(また)男子を以て王となす。住(とど)まること七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること年を歴(へ)たり。乃(すなわ)ち一女子を共立して王となし、名づけて卑弥呼と曰う。鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。年已(すで)に長大なるも、夫婿(ふせい)無し。
<引用終了>

この中に「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす。」ということばがあります。女王卑弥呼が鬼道をつかったということですが、日本の歴史書では、この鬼道というのは呪術であり、卑弥呼がシャーマンであったというふうに解説されています。

しかし、実は、この鬼道とは五斗米道(five pecks of rice movement)のことです。岡田英弘氏がはっきり指摘しています。上の文章の「秘密結社組織」のことです。

岡田英弘氏も、『倭国』という本では「鬼道とは五斗米道のように思える」と書いていました。ところが、『日本史の誕生』でははっきりと「鬼道とは五斗米道である」と言い切っています。『倭国』を書いたあとにさらに文献を読み込んで、この当時、陳寿(ちんじゅ、魏志倭人伝の作者)が「鬼道」と記したなら、それは五斗米道のことしかないと確信したのでしょう。

五斗米道とは、181年に張陵(ちょうりょう)が四川省および陝西省あたりで広がった道教の元祖です。後に天師道、正一教と名前を変えています。

この「鬼道とは五斗米道のことである」という事実の重大さは、実は副島先生がしつこいくらい何度も指摘していることです。以下ぼやき340より引用します。

<引用開始>
このように邪馬台国は、華僑が大きな経済的・文化的影響をもっていた社会であった。卑弥呼が「鬼道に仕え、よく衆を惑わし」たというのは、べつに神秘的な妖術や魔法で国を支配したという意味ではなくて、三国時代の魏で流行し「五斗米道」(ごとべいどう)という宗教を奉じていた、ということである。この五斗米道は、道教と仏教が混ざって土俗化した宗教だったようだ。のちの中世の陰陽道(陰陽五行説、易学)もこれに類似していることから、この五斗米道がその後、日本の神道になっていったと考えたほうが理屈に合う。日本人の民間信仰の多くも、この五斗米道起源であろう。

平安から室町まで公式に栄えたのは仏教だが、一歩裏に回ると、陰陽道(おんみょうどう。風水 ふうすい )のほうが民衆だけでなく武家や貴族たちにさえ信じられていたようだ。これは江戸時代まで続き、たとえば東京浅草の浅草寺(せんそうじ)というのは、徳川家が京都から招来した公式には天台宗の密教寺院だが、表面のつくりは民衆がお参りする陰陽寺に変質している。
(ぼやき340より引用)
<引用終了>

つまり、五斗米道こそが神道の源流であり、さらに日本では陰陽道として発展していったということになります。

よく、道教由来の日本の行事がとりあげられます。お守り、山開き、還暦、七草がゆ、みそぎ、七夕、端午の節句、地鎮祭、これらはみんな道教由来です。しかし、どうやって、いつ入ってきたのかという説明はありません。仏教とかキリスト教は、きちんと日本に入ってきたプロセスが明らかになっているのに、道教はわからないのです。

上にはこれについての答えがはっきりと書いてあります。つまり、邪馬台国の頃、卑弥呼とそれをサポートする華僑が持ち込んだということです。

続く

=転載A終了=

=転載B開始=

前回、卑弥呼のつかえた鬼道とは五斗米道のことであり、それは神道と陰陽道の源流だろうということを書きました。
そこでさらに、五斗米道が日本にもたらしたものを見てみたいと思います。

「老子想爾注」(ろうしそうじちゅう)という、五斗米道で実際に使われた老子の解釈テキストがあります。このテキストは20世紀に敦煌で発見されたものです。

日本語訳は出版されていないようですが、一部を解説した本(『道教の経典を読む』)があるのでそこから引用します。

<引用開始>
それと同時に複雑なことには、道を具象化することに「想爾注」は強く反対する。例えば、老子十四章の本文「それらは状(すがた)なき状(すがた)、ものとは見えない象(かたち)と呼ばれる」に、次のように解釈する。

『道は非常に尊いものである。微かであり、よく隠れる。道には状貌(じょうぼう)や形象(けいしょう)はないのである。ただ道の誡(いまし)めに従えばよいのであって、道を目で見て知ろうとしてはならない。今の俗世において、ことさらに他とは異なった宗教技法を主張しようとするものは、ある形をさして、これが道であると名前をつけて、服装の色や本名と字(あざな)顔の形、背丈の大小などを作り上げているが、そうしたものを間違っている。どこもよこしまな作り事にすぎない。』

この記述だけでは歴史的にどんな宗派が批判対称とされているのかを特定するのは実は困難だが、道を視覚化する技法への批判が見られる。そうした技法よりも、道の誡めに従って、道の規範に則した行動を取って欲しいという主張が繰りかえされる。このように、道の規範に従って人や社会を変えようという考え方から著述された内容が「想爾注」には一貫して多く見られる。

(道教の経典を読むp55)
<引用終了>

ここから、五斗米道の解釈した「道」とは、我々日本人が「道」とか「天道」とか呼んでいるものに、非常に近いことがはっきりわかります。

また、この五斗米道の根本思想というべきものが「気(qi)」です。昔、副島先生が指摘していましたが、日本というのは「気の国」です。陽気、陰気、空気、天気、気分、殺気、気が狂う、気が晴れる、気に入る・・・と、「気」が入ったことばが無数にあります。これが、多分、小室直樹氏がいうニューマ(空気)が支配する日本につながっているのでしょう。

つまり、ここから文天祥(ぶんてんしょう)の『正気の歌』(せいきのうた)につなげることができれば、日本の思想を一本の線(丸山正男のささら型)で描くことが出来ます。


さらに、五斗米道がもたらしたのは思想だけではありません。

例えば、日頃我々が用いている春分、秋分、夏至、冬至。これらは実は24あり、合わせて二十四節気(にじゅうしせっき)と呼びます。当時これらの呼び名をつかっていたかわかりませんが、五斗米道は1年を24に分けていました。これは事実上の太陽暦の導入です。(通常は太陽太陰暦と呼ばれる)

農作物をつくるには、この暦が欠かせなかったはずです。

この二十四節気を正確に見積もるためには天体観測が必須です。太陽がでている日中は明るすぎて見えませんが、実際は太陽の背景には星があるわけです。そして、太陽は1年かけて星図の中を一周するのですが(これを黄道といいます)、この星図の中の太陽の位置を知ることで、二十四節気がわかります。

つまり暦(こよみ)を知ることは正確な天体観測が必要なわけです。ここには陰陽道の天文博士の萌芽があります。

また、後述しますが、五斗米道として持ち込んだらしい植物があります。例えば、子安の木(こやすのき)という木がありますが、これは中国と播磨地方にしかない木で、どうみても華僑がもたらしたものです。文字通り、この木の幹の皮を煎じて飲むと安産になるという言い伝えのある木です。

ここからみると、どうやら、五斗米道は漢方や薬学、すなわち当時の最先端医学も日本にもたらしたのではないかと考えられます。

続く

=転載B終了=

=転載C開始=

さて、前回まで、五斗米道(ごとべいどう)が日本に持ち込まれたと書きました。
ところが、話を混ぜっ返すようですが、日本でこの五斗米道があること自体は実に不思議なことです。なぜなら、五斗米道は、中国の沿岸ではなく、四川省、陝西(せんせい)省など、中国のきわめて内陸部で栄えた宗教だからです。陝西省とは西安があるところですから、日本からは2000kmぐらいあります。

だから、日本に五斗米道があるというのは、ちょうどチベットの山奥にいったら日本の神社があったようなものなのです。

したがって、これは、四川省、陝西省出身の華僑が日本に移住して、そのまま持ち込んできたとしか考えられません。卑弥呼が五斗米道を持ち込むというのは、聖パトリックがアイルランドにキリスト教を持ち込んだようなものです。

すると日本に、五斗米道を持ち込んだのは秦人(はたびと)と呼ばれる陝西省あたりの中国語を話していた華僑と考えられます。実際、『日本史の誕生』では岡田英弘氏は、隋の煬帝(ようだい)の使者の裴世清が「途中、秦王国があった」と言い残している場所(下関付近)を邪馬台国と特定しています。この秦王国とは、陝西省の中国語を話していた華僑が多数住んでいた国のことです。

最近、『謎の渡来人 秦氏 』(文春新書 水谷 千秋著)という本がでました。どのあたりに、この秦人と呼ばれる人たちが住んでいたかが書いてありますが、全国いたるところにいたようです。


<日本における秦人>
さて、ふじむら掲示板に最近書きましたが、私の住んでいる兵庫県の播磨(姫路、赤穂)から岡山にかけては、秦人が住んでいたところです。例えば、秦氏で有名な秦河勝の墓があります。また、その秦河勝と縁の深い大避(おおさけ)神社がいたるところにあります。

そこで、地元の利を生かして、秦人が日本で何をしていたのかを想像してみましょう。

ちなみに、ここ播磨・備前は陰陽道のメッカです。ちかくに佐用町というところがありますが、ここには安倍晴明を祭った清明塚、芦屋道満を祭った道満塚があります。このあたりで天体観測をしていたようです。また、ちょっと行った岡山にも、天体観測していた様子が残っています。五斗米道が陰陽道の源流であるという副島先生の指摘がありますが、そういう意味では整合性がとれているわけです。


@さて、まず、秦人は、大きな川沿いに町または国を作っていたようです。播磨には、千種川、揖保川、加古川などの大きな川がありますが、そこに沿ってたくさんの古墳があります。日本でいちばん古墳があるのは確か兵庫県で、大阪府や奈良県ではありません。ただし、みんな小型で、前方後円墳はほとんどありません。

これは、瀬戸内海をメイン航路として、川をつたって荷をつんだ船を入港させ貿易や商売をしていたことを意味します。ただ大きな船は入れませんので、多分、瀬戸内海の港で荷をつみかえていたと思います。それらが、室津、牛窓、家島などの古い漁港ではないかと推察しています。


A前述しましたが、秦人は薬草または薬木を持ち込んできたあとがあります。前回述べた子安の木です。

また、ここにはシリブカガシという木が群生しています。群生しているのは珍しいらしいのですが、調べると、この木の群生地の近くが、秦人が住んでいたところのようです。秦人あるいは秦氏の本拠地は京都の太秦(うずまさ)と言われていますが、その近く(保津峡)にも群生しています。

シリブカガシのどんぐりは苦みがないので食べられるそうです。すると、これを非常食として育成したのではないかと考えられます。

これらから推察すると、当時の最先端医学だけでなく、農学または農業技術をも持ち込んできたことがと考えられます。


Bさらに、秦人は金(きん)や砂金を探していたことがわかります。地元の人にきいたら、このあたりは、昔は金がよくでていたそうです。「昔と言っても、すっと大昔ですよ」といっていました。

この金(きん)をどうしたかというと、ローマ帝国やペルシャ帝国(アケメネス朝)まで運んでいたのではないかと思います。とんでも説とかいわれるかもしれませんが、まじめです。

秦人というのは、新羅という国もつくった民族です。実際、魏志倭人伝のころは新羅は「秦韓」とも呼ばれていました。そして、この新羅はローマ帝国と強いつながりがあります。『ローマ文化王国‐新羅 』 (由水 常雄著)という本がでています。内容はきわめてまともです。

どうやって金をヨーロッパまで運んだかというと、シルクロードではなく、川を利用することができます。地球儀をみてください。日本からウラジオストックに行き、そこからハンカ湖まで歩くと、アムール川(黒龍川)にでます。ここをのぼりケルレン川に行くとウランバートルにでますが、そこから、バイカル湖まで行けます。さらに、ハンガラ川・エニセイ川・オビ川・ウラル川とのりかえていくと、カスピ海、黒海です。

これは岡田英弘氏が別の歴史本で指摘した行路で、ここを使えば、一万キロのほとんどの行程を船でいくことができます。また地図上では遠回りに感じますが、地球儀上では、ほぼ最短の距離であることもわかります。

ちなみに、この行路沿いには、日本人に似た人がたくさんいます。


C秦人のつくった都市というのは北緯35度に集中しています。列挙すると、咸陽(秦の首都)−泰山−釜山−西播磨−京都−名古屋−静岡−三島−副島先生の熱海の仕事場、となります。

この北緯35度になにがあるかと言えば、なにもありませんが、この北緯35度からは北斗七星の剣先星といわれる先端の星が地平線すれすれに見え、沈みません。今では沈んでしまうのですが、当時はぎりぎり沈まなかったと思います。今でも北緯40度のところなら沈みません。

伊勢神宮の宮中行事で神嘗祭(かんなめさい)というのがあります。この行事をする旧暦9月の中旬の真夜中0時に、剣先星が真北で地平線にタッチダウンします。

なんらかのマニフェストデスティニー(Manifest Destiny)があったのかもしれません。


<出自を消した秦人(はたびと)たち>

この秦人は胡散霧消していなくなってしまいました。というよりは、自分の過去を消したというとほうが正しいでしょう。それは紀元670年の頃の日本の国際情勢が緊迫したものだったからです。

ぼやき340より引用します。

<引用開始>
岡田説によれば、それまで瀬戸内海各地の主要な良港やその終点である難波に華僑(代表地が今の四天王寺。ここは、飛鳥の法隆寺と並んで蘇我氏の生活拠点である)として居住していた中国人たちが、この経済的・軍事的危機に際して、自らの権益と安全を守るために、天智天皇という倭人(土着日本人)を頭に戴いて日本という国を建国させた。

そして自らは官僚・技術者・商人群として天皇に服従し、自分たちの素性である中国人性を意図的に消滅させて、建国の秘密を歴史の闇に葬ったのである。
(ぼやき340より引用)
<引用終了>

この「自分たちの素性である中国人性を意図的に消滅させ」た時にできたのが『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』と『古事記』です。

『倭国の時代』から引用します。

<引用開始>
秦人・新羅人は、新しい日本政府の実権を握る漢人・百済人の圧迫を避けるために、倭人の社会・文化に同化しようと必死になり、宮廷につてのある連中は、それぞれ架空の天皇の後裔(こうえい)と自称して、いわゆる皇別の氏族になっていく。
(倭国の時代355ページ)
<引用終了>

つまり秦人・新羅人は昔から住む倭人の貴族ということになったわけです。

副島先生が中国旅行の報告で、第二次世界大戦後にたくさんの日本人が中国に残り、今でもそういう人たちがたくさんいる町があると書いていました。それと、まったく同じ環境で、彼らは自分の出自を変え、天皇などの貴族直系の人たちであると偽装したわけです。

だから邪馬台国の場所がなぜわからなくなったかと言えば、このことが大きな影響をおよぼしているわけです。日本に多くあった秦人の都市は、このとき書き換えられ、由緒正しい伝統の町となってしまったからです。

終わり

=転載C終了=  

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コメント
 
01. 2010年11月27日 10:31:29: VSWiinopjA
秦氏については多くの点で賛成できませんが(秦氏が何者であるかぐらい貴方ほどの方が判らないはずは無いのでは?ミスリードですか?)五斗米道について面白い解釈をしてらっしゃる方がいます。邪馬台国や卑弥呼についてもです。
始めは「そんな事あるかよ」と思って読んでいましたが、今は「案外そうかもしれない」と思うようになりました。少なくとも根拠(探索ツール)が明快である為、古代史職業学者の妄言よりは見る価値があるかも知れません。

http://bloghistorygallary.blog10.fc2.com/
もしかしたら既に知ってらっしゃるかも知れませんが。

ただサイトで使われている文字が日本人なら絶対しない誤変換があったりするので要注意。例:沖縄→紳縄(ちゅうなわ?)石→右 等。


02. 五月晴郎 2010年11月27日 14:34:26: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>1
サイトの紹介まで有難うございます。
門外漢で、秦氏について、一般的に言われている渡来した氏族であったろうという漠としたイメージ以上を持っていません。最近色々少しずつ読みだしました。日本の古代史が世界史の例外であるわけがないだろう、という視点で読んでいます。

03. 2010年11月27日 17:26:36: dBwbXFgk96
>岡田説によれば、紀元前一世紀頃から日本に来るようになった華僑たちは、
>瀬戸内海沿岸に自分たちの「国」をたくさん建設した。
>この国というのは文字どおり口の形をしており、周囲をインディアン砦のように板や丸太で囲んで防御壁とし、
>自分たちはその中に居住した。
それは国ではなく城とか塞ではないでしょうか?少なくとも、紀元前一世紀の漢の時代であるならば
城や塞そのものを国と呼び慣わすことはないと考えます。

>現地人はそこに作物や産物を持って押し寄せ、交易を行ない、やがて華僑の砦を中心に現地人の村が生まれる。
漢の行政区分で考えると、これは県もしくは郡となるでしょう。
それを県とか郡ではなく、国としているのは、
自分達は基本的には独立していると認識している主がいたからではないかと考えます。

>「魏志倭人伝」に記された倭国の二十九カ国はすべて、華僑との交易のために生まれたこうした集落である。
(この部分を書かれた方は魏書の当該記述をを読んでいないのではないでしょうか?)
倭人条で漢に使者などを通じている倭人の国は30カ国です。
邪馬台国に明らかに服していないが漢に使者を出したことがある国が狗奴国で、
これを引くと一応29カ国にはなります。
しかし、それよりさらに後ろに3カ国記載されています。つまり倭人の国は魏書では33カ国となるわけです。
また「倭国」は卑弥呼登場以前を述べている部分にも
こうなると、
>「倭国」とは、様々な華僑(overseas Chinese)がつくった連合国のことである」。
>ちなみに、ここで言う華僑とは、漢字を使って商売・交易をした商業者のことを意味します。
という文章が崩れ去ってしまいます。
正確には「国」は「華僑がつくった連合国のことである」という断定口調が崩れ去るだけですが。


04. 2010年11月27日 17:29:31: dBwbXFgk96
×また「倭国」は卑弥呼登場以前を述べている部分にも
○また「倭国」は卑弥呼登場以前を述べている部分にも出てきます。

×正確には「国」は「華僑がつくった連合国のことである」という断定口調が崩れ去るだけですが。
○正確には「国」は「華僑がつくった(連合国のことである)」という断定口調が崩れ去るだけですが。


05. 2010年11月27日 18:10:54: lcPUa1Onr6
五月晴郎さん、私も古代史は門外漢ですが、この岡田説というのはどうかなと思います。(本を読んでもいないのに言うなとは言わないでね)

古代の東アジアが中華の強い影響下にあったことは確かでしょう。しかし、岡田説の視点がそこばかりを見ていて、やや偏狭かなと思えます。

魏志倭人伝は伝聞記であると聞きますが、他国でシャーマン的、呪術的なものがあると知れば、作者は自国の文化的視点でそれを「鬼道」と書いてしまうでしょうし。
それをもって、「鬼道」→「五斗米道」、ましてや卑弥呼を「中国商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司」と結論付けては、あまりにも論理の飛躍と言えないでしょうか。

中華の影響をどう見るかで、古代史のとらえ方は大きくかわると思いますが、当時の日本列島が、単なる未開人の住処であると見れば、岡田説のようになるのでしょうか。

私は、縄文時代の人々が世界最先端の技術を持っていたことと、漢字を導入したものの結局は「和語ー日本語」が残ったことから、そう単純な見方は出来ないと思っています。


06. 2010年11月27日 18:31:50: dBwbXFgk96
>魏志倭人伝は伝聞記であると聞きますが、他国でシャーマン的、
>呪術的なものがあると知れば、作者は自国の文化的視点でそれを
>「鬼道」と書いてしまうでしょうし。
>それをもって、「鬼道」→「五斗米道」、
>ましてや卑弥呼を「中国商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司」と
>結論付けては、あまりにも論理の飛躍と言えないでしょうか。

自分もそう思います。
五斗米道自体が秘密結社でもなんでもなく、国家としては潰されましたが、
その後、魏で弾圧されたわけでもなく、むしろ広まっているようですし。
わざわざ秘密結社と書く意味もわかりません。


07. 2010年11月27日 21:09:05: fFXyPZphjT
魏志倭人伝の頃って新羅まだないんだけど。

08. 2010年11月27日 23:00:47: fFXyPZphjT
アケメネス朝もアレキサンダー大王に滅ぼされたんじゃ?
時代考証滅茶苦茶すぎないか?

09. 五月晴郎 2010年11月28日 01:36:32: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>3 >>4 >>6
dBwbXFgk96さん

投稿記事の文脈から、そのコンセプトをどう呼称し記述したかは、仰るような本質的な問題ではないと思いますが。

>>5
lcPUa1Onr6さん
>縄文時代の人々が世界最先端の技術を持っていたことと、漢字を導入したものの結局は「和語ー日本語」が残ったこと

ここいら辺を御存じでしたら伺いたく存じます。これは仰る通りだとしたら、結構ポイントだと思います。

>>7 >>8
fFXyPZphjTさん
ヘレニズム世界に就いても、新羅の成立に就いても教科書的な御理解がないかと存じます。門外漢と申しましたが一般の学校教育での理解以前の所謂「2次元的」理解、物語は、歴史解釈から一番遠い昔の人の謂う婦女子のなんとかで、お気持ちを否定する積りは毛頭御座いませんが、ちょっと付き合えないです。


10. 2010年11月28日 09:52:45: NDqBZWrDM6
教科書的な理解をしろ、するな。
教科書的な知識をもて、それではだめだ。

どれを言いたいのかわかりませんが
まず教科書を見てもらえませんか?
しかる後、国名がどう書いてあるか明らかにしてみてください。
おそらく教科書では地域を区切り先行き後戻りしつつ教えるから
五月晴郎さんの元投稿のような状況に気付かれないのでしょうが。


11. 五月晴郎 2010年11月28日 18:37:07: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>10
NDqBZWrDM6さん

>>7 >>8のfFXyPZphjTさんへのリプライを、NDqBZWrDM6さんの勝手な文脈で(何を言おうとしているのかも不明ですが)どうこう言われても。

それに↓でしょ。貴殿との遣り取りは謝絶申し上げます。
そんなことやっていて楽しいんですか。


フォロー元記事の貴殿のコメント以下@Aに対し私はBCで返信申し上げています。
@  http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/821.html#c18
A  http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/821.html#c25

B  http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/821.html#c27
C  http://www.asyura2.com/09/idletalk38/msg/821.html#c28


12. 2010年11月28日 18:52:30: tGzUP2CDhE
教科書的年代で考えると、元投稿の歴史観が滅茶苦茶であることがわかります。

紀元前330年  :アケメネス朝滅亡
紀元前3〜2世紀:辰国が朝鮮南部に存在?
紀元前200年頃 :三韓(馬韓、辰韓、弁韓)が朝鮮に成立?
紀元前221年  :秦、中国地域統一
紀元前206年  :秦、滅亡
紀元前200年頃 :(自称)燕出身者により衛氏朝鮮成立
紀元前108年  :衛氏朝鮮滅亡
紀元1世紀前後 :中国へ仏教伝来
紀元180年頃? :五斗米道成立
紀元215年   :五斗米道国家制圧される。
紀元238年   :卑弥呼、魏と通じる
紀元290年頃  :陳寿が三国志編纂
紀元297年   :陳寿死去
紀元3世紀半ば :新羅、百済、任那、歴史に名が出る。

>隋の煬帝(ようだい)の使者の裴世清が「途中、秦王国があった」と言い残している場所(下関付近)を
>邪馬台国と特定しています。
>この秦王国とは、陝西省の中国語を話していた華僑が多数住んでいた国のことです。
果たしてそうでしょうか?
「途中、秦王国があった」は、ほぼ間違いなく隋書から採っていると思われますが、
隋書では、こう続きます。
『その住民は「中国人と同じ、だからここは夷洲である」と言っているが、本当のことであるかわからない』。
中国人であるということに疑いをもったのか、夷洲であるということに疑いをもったのかはわかりませんが
夷洲は既に三国志の時代において、概ね台湾を指していると考えられています。
華僑による通商ネットワークがあったとして、いや逆にあったならば、いくらなんでも隋の時代に、
下関を台湾と疑うことはないと考えますので、中国人ということを疑ったのが正しいのではないでしょうか?
それだけ倭人と同化していたという考え方もできますが、この場合でも華僑による通商ネットワークは
とっくに滅んでいた、あるいは元々存在しなかった、というのが妥当ではないでしょうか?

また秦王国=秦がつくから秦の華僑が多数住んでいた国、というのもどうでしょうか?
大秦国王(後漢書)が秦が付くから秦の華僑が多数住んでいる大国の王であると言っているようなものです。

このように、どうも元投稿は引っ張りだしてきた書物を、きちんと読んでいるのか甚だ疑わしいと考えます。


13. 五月晴郎 2010年11月28日 19:25:51: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
辰韓が新羅になったのではなかったでしたっけ?大昔の山川の高校の教科書の記憶ですけど。
朝鮮半島南部に秦の人々が居住していた。それは辰韓と呼ばれる国になり後に新羅と呼ばれる国になったで、歴史的な連続性に問題ないと思いますが。


14. 2010年11月28日 19:43:33: tGzUP2CDhE
辰韓が紀元前200年頃、秦の滅亡が紀元前206年頃。
まぁなくはないかも知れませんが、
魏書東夷伝においては、辰韓は昔の辰国であるとされているんですな。
辰韓の一部が新羅になったっていうのは教科書どおりかと。

15. 2010年11月28日 19:53:45: tGzUP2CDhE
自言古之亡人避秦役來適韓國←これか。

役を、始皇帝統一下での賦役とみるか、
始皇帝以前の数度の秦の隆盛期で課された小国の民への賦役とみるかでまた違ってきますな。


16. 五月晴郎 2010年11月28日 20:41:20: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>14 >>15
そういうことでしょうね。
秦が滅亡し人々が辰韓に移ったのではなく、滅亡以前より秦の人々が辰韓12国の都市同盟の都市に居たと云う文脈で、投稿記事及び元記事は述べられていると思います。また、そう考えるのが自然かなと私は思います。


17. 2010年11月28日 22:03:31: tGzUP2CDhE
>>16
あ、なんか見解に齟齬があるわけですが・・・・・
自分の言ってるのは、辰韓はいわゆる秦の人ではない、ってことです。

辰韓者、古之辰國也
・辰韓は辰国の人だったことがわかります。
 つまり始皇帝の頃にやってきた人達ではない。

辰韓在馬韓之東。其耆老傳世自言古之亡人避秦役來適韓國
・伝えるには、秦の賦役を避けるために韓国に来たという。
 これは秦に国を滅ぼされたため、秦下に入るよりはと逃げて来たことを示すと考えます。

相呼皆爲徒、有似秦人、非但燕、齊之名物也。
・お互いを呼ぶのに徒を使うのは秦の人に似ている。燕や斉の人とは違う。
 これは秦の人に似ているというだけであり、当時、朝鮮に最も近い二国の人とは
 似てなかったことを指すと考えます。

上の理由から、自分は辰韓者は秦の国のものではなく、
燕や斉以外で秦に滅ぼされた国から逃げて来た者だと考えています。
時代的には孝公とか恵文王の頃ではないでしょうか。


付け加えて言うなら、辰韓が秦の国の者であろうがなかろうが、
五斗米道による祭祀ネットワークというのは一切関係がない、と考えます。
時代が違いすぎるだけでなく、漢中と辰韓、瀬戸内海地方、気候が違いすぎます。
二十四節気も気温の上下傾向だけならともかく、降水時期とか全く違うので、
そのままでは使い物になりません。
そういう意味で、元投稿は否定をすることになります。
※日本書紀と古事記を中心に日本史を構築するのがおかしいというのは正しい姿勢だとは思います。
 もっとも、下手に魏書だけを信じると、古代天皇長寿説も肯定することになりますがね。


18. 五月晴郎 2010年11月28日 22:21:39: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>17
成程、おっしゃること理解出来ます。
ありがとう御座います。

19. 2010年11月29日 21:30:37: UCk6uZiCQI
五月晴郎さん、5)です。

残念ながら私は古代史についてアレコレ言えるほどの知見はないんですよ。
興味はあるのでいろいろ妄想しているだけです(笑)。
的確なコメントは、12)、17)様がなされているので、私のは適当に読み流してください。

初めに、前コメントで「世界最先端の技術」なんて書きましたが、度が過ぎた表現でしたので撤回します。
ただ、世界最古の完成された土器が縄文土器で、エクアドルで同じ文様の土器破片が発見されており、当時の人々が丸木舟で大洋を渡ったのか、と言われてますよね。
そこまで行かなくとも、縄文人は、ある程度の航海術を持っていたはずで、気候変動などがあったとしても、そのまま消滅するはずはなく、陸と海を伝って各地へ移住していったはずだと思いますね。

ですから、縄文から弥生にかけても、朝鮮半島と日本列島は、これらの人達や大陸からの人達が、ゴッチャになっていたと見るのが自然ではないでしょうか。
当時は国境なんてものは無かったし、住みやすい所に住むだけで、ただ、何かと紛争の多い大陸より海を隔てて安全な日本列島に移ってきた人は多かったのでしょうね。

そんな人々の中には列島から出て行った人の子孫もいたはずで、結局、彼らは、海を往還しながら同化したり移住したりを繰り返し、当然それは商業活動を伴っていたはずと思います。

岡田説には中華商人しか出てこないですが、いったい倭人の商人はいなかったということだろうかと疑問をもってしまいます。
岡田説は当時の倭人は商業活動をするほどの文明レベルになかったという思い込みがあるのかなと思いました。

弥生期に、鉄、水稲技術が入ってきましたが、それを導いた人々は、何も中華商人とは限らず、むしろ地理的情報に長けていた、これらの往還する人々もいたと思うんですよ。

それと言語構造で言えば、半島、列島は中華圏と異なりますよね。元をたどれば、アイヌ語、縄文語に繋がり、縄文文明が影響を及ぼしたと見れなくはないですね。

縄文時代が狩猟採集の原始的なものだというのは、かなり古い固定観念だと思うのですが、最近いろいろ見直されてきているのではないでしょうか。
古代史の書物を読んでいると、一つの視点に偏重した解釈で強引に推理したりするものがありますが、もっと多角的にアプローチした面白い本はないでしょうかね。


20. 五月晴郎 2010年11月30日 00:44:24: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>20
私も同じように考えます。

ただ、商業というのは抽象的な概念を記録しないと営めないので、記録する記号は所謂漢字を使っていたんでしょうかね?きっと、そういうことだと思います。
文明の中心側の記号になるんでしょうね。室町以降から江戸期の中国の大陸との交易はお坊さんが漢文で文書を作っていたというし、明治以降の海外交易の記号は英語ですし・・じゃ、呂宋助左衛門や山田長政(は商人じゃないが)は何語?現地の華僑と漢字で?と漠と思ったりするのですが(笑)

おっしゃるような古代の倭人の商人も記事文脈では中国商人の範疇に入っているような気がします。地中海の商人は何族かというより地中海商人としか表現出来ないみたいな感じなんでしょうか。同じように陸でも、岡田説によると商業を営む都市の中で混血を重ねていって成立したのが漢族だということでしたし。


21. 五月晴郎 2010年11月30日 00:47:13: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
すいません。

20の>>20>>19の間違いです。


22. 2010年11月30日 22:48:48: dmn3G7pzTc
>ただ、商業というのは抽象的な概念を記録しないと営めないので、
>記録する記号は所謂漢字を使っていたんでしょうかね?きっと、そういうことだと思います。

それ以前に、商業は貨幣(あるいはそれに類する一定の価値が担保されたもの)がないと
成り立たないのではないでしょうか?

自分にとって余分な物を、自分にとって不足する物と直接取引する
つまり生産者 対 生産者における取引においては、商業じゃなく交換となるかと考えます。
抽象的な概念の記録が必要であるということにはならないことは明白です。
お互い同士が納得した上での現物交換ですから。

(例)
漢の商人が倭に入って来ました。
漢の商人は倭人から倭の産物(倭錦)を手に入れたいと思っています。
漢の商人は倭錦を購入するために、貨幣を差し出します。
A.倭人は貨幣を知らないため、倭錦と交換することを拒否します。
  漢の商人は倭人が納得するような別の物を差し出すことになります。
B.倭人は貨幣を知りませんが、珍品と考え倭錦と喜んで取引します。
  倭人にとって漢の商人は貨幣という珍品の生産者なのです。

この場合、倭人が抽象的な概念を記録する必要があるとは思えません。
五月晴郎氏の言われる「商業というのは抽象的な概念を記録しないと営めない」という
観点でいけば、倭人にとって、それは商業にはならないわけです。

となれば、交換が商業となった時点で、記録のための漢字使用ということになるわけですが、商業を行うためには貨幣が必要であり、貨幣がその価値を発揮するためには
危険を冒さないで移動できる地域に大きな権力が必要になる。
それは祭祀ネットワーク程度では賄えないものであると考えます。


わかりづらいな・・・・・


23. 五月晴郎 2010年11月30日 23:15:47: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>22さん
物資のバーターでも双方諸々の記録をする能力(記号)が無いと・・と話す前に・・貨幣って抽象的な記号でしょ。そうでしょ?(笑)

24. 2010年11月30日 23:53:00: VlflzVLIU2
おもしろいお話、お邪魔します。ーーー「商人」とは!

列島に来た大陸系のわれらが先祖の一部が、「華僑」のようなひとびとであったろうというのは、おもしろいです。「子安の木」の存在は興味深い指摘です。特異分布をする植物は、特異な理由による人力運搬でしょう。(熊本の相良飛び葛、大分の蒲江葛、愛媛の三崎神社のガジュマル・・・もしかしたらあちこちの神社の蘇鉄や銀杏も? )

卑弥呼が、煬帝に献上したのは、「生口」であったので、古田武彦氏は、奴隷貿易をしていたのではないかと指摘してましたので、びっくりです。

日本語の「クニ」は、楽浪郡帯方郡の「郡」が百済語か高句麗語に転化したものだそうで、キミ(君)もそうだというから、おどろきです(gun-i/kun-i)。列島にそれまでなかった支配者として臨んだのでしょう。日本語のなかに、大陸系の言葉が、それとは意識されずに、化石として、ほかにも残っているとおもわれます。(言語「化石」学?のホーメンから失礼)

では、攻め込まれた側の、もっと前からいたわれらが御先祖は、何を残しているか? 日本語の成立と関わるところで、小生おもしろしは、<清水清次郎氏(アイヌ語地名研究) 2003.12.15 >の所説です。

 「イカ」とは、アイヌ語では溢れるとか越えるという意味だそうです。ところが 静岡にある方言では、「いかまる」とは潮が、高潮などで、溢れることをいうの だそうです。そして日本の関東以西にも、地名としてこの意味の「イカ」がある のだとか。

「斑鳩の里」はたしかに、大和川に竜田川ほか、川が何本も合流する箇所で、大雨の時はさぞやの地形です。

「怒る」とは、わが感情が高まってきて、ある一線を越え出て、溢れる出すことと 解すれば、まさにぴっったり。  (以上、清水清次郎氏の説)
 碇とは、船縁を越えて、よっこらしょと越えさせる者か。(軟体動物の烏賊は、 碇に似た形からか?)
 峠の名前として「いかり」「かる」「かり」「かれ」/<kar->のつく地名が  関西にも、かなりあるようです。)

若い現代人の日本語のなかにも、共通のものが、脈うっているかと 考えられます。

 草が風に吹かれて、バサバサするのを、アイヌ語で<sepsep>と擬態して言うそ
 うですが、それがもっと強く、しげくおこなわれるのを表現するためには、<-a
 tuk/あつい>をつなげてとするーーーまた、風がヒュウーと吹く擬
 態語は,それがもっと強く、しげくおこなわれるのを -atukをつけて、
 <hummatki>というそうです。(知里真志保のアイヌ語入門 の67頁(あた
 り?)の、ユーカラ<i-u-kar / それ(神)ーみずからーする(言う)>の、
  「虎杖丸」の一節)

(ひところの女子高生は、「あのセンコー、むかつくー」など言ってたそうです  が、「むかつく」とは、擬態語のムカムカのムカに、「あつし」を繋げた形。意 味も文法もそっくりです。フラフラするのが、しょっちゅうだと、【フラ+あ  つし】でフラツクで、これも同じ。)


アイヌ文化は、日本の鎌倉期ごろ成立したとされてるそうです。が、古アイヌ語は縄文時代の言葉の直系子孫と考えれば、日本語の成立と、切っても切れない深い関係があるはずです。

(「知る」とは知覚するの意味だけでなく、知行するー支配するー年貢をピンはねるの意味をも派生した、ヤマト語に対し、アイヌ語の<sir>はそうではなく、世界・大地・天気・雰囲気・容貌をも表す語として、今日まで伝世しました。ヒトを階級支配する制度を採用したか否かが、分かれ目と考えると、人間性と階級性と言葉と、文化と・・・意味深いものがあります。)

七は、ヤマト語: nana ですが、アイヌ語ではちがいます。ところが樺太(アイヌ語 kar-hut/越えるー口)(唐/から/kar)のアイヌの北に隣接・交流・対峙したウィルタ族は、nada が7だそうです。
ウラル・アルタイ諸族やシベリアの諸族では、7は nadan ですから、そっくりです。

これら nana や nadan は、同時に、方向の北、北斗七星をも、意味するそうです。日本語でも「七つ星」と言えば北斗七星のことです。数字と方角とが同一の言葉で現されるわけです。北斗七星が北天に輝きだしたころ成立した文化とともに、そういう先祖たちが列島に来たということでしょう。(12000年まえごろ、縄文時代の幕あけのころ、こと座ベガが北極だったそうなので。)

(とすれば、日本語の中に、「なな」/「なだ」と表現しながら、じつは「北」を意味する用例が、必ず、あるはずと、小生にらんでますが・・・。伊丹のそばの灘は、もしかしたら、応神王朝の聖地/淡路島の北岸だったから? 〈 鹿島灘以外の 〉灘は陸地の北側の渡海のこと?)

アイヌ語は、まわりの諸族とは、ずいぶんと違う数詞をたもったということです。


その独特の民族と、大陸系の諸族との、対決が、日本人の成立が、歴史のなか(には勿論)というよりも、”歴語”のなかに、もしかして、補う形で、なまなましく
残って居ることもありはしないか、
と考えられるので、各地の「方言」や民俗は”宝” ・で ・ し ・た。

ながながと、曲げてしまってごめんなさい。

((漢字の中の”貝”は、中国ではとれない宝貝だ、石垣島・宮古島あたりまで採取に来た・・・とすると、先日の「尖閣」の島々にも来たはずで、日本人が鰹節云々よりはるかに早く、かつ、何百という貝を含む漢字がその先取先達先利用を、証明しているーーーとも言うことができます。

もっとも、そもころ「日本人」なんていなくって成立してなくて、その貝取り商売行為が、一部、列島移住民−−のち民族ーーを形成する原動力となったわけでした。民族も文化も、相互に形成されたという一面があります。
なればこそ、魔術をばらまいて戦争屋が画策するなんぞ、とんでもねー行為です。))



25. 五月晴郎 2010年12月01日 00:13:40: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>24
曲げるも何も雑談版だし。違和感なくというか、そうだろうなぁと。いやぁ、おもしろいです。有難うございます。

26. 2010年12月01日 00:16:01: kdRmT8K0Kg
五月晴郎 さん、

漢字を使用していたから、「中華商人」という表現になったというのは、どうかなと思いますね。
今の貿易業務は、英語中心でなされていますが、○○商事、○○物産が後の歴史書で「US商人」と記されたら、ちょっと待てよ!ということになると思いますし。

岡田氏の書籍が何時ごろ書かれたものか存じませんが、底流に縄文から弥生期の列島は非文明的野蛮人の住処であったという観念があると思いますね。
通説的なものもそういう見方になっているのでしょうが、そうなると中華の影響力からの歴史観しか出てこないと思いますね。
まぁ、それはそれで大部分正しいのでしょうか゛。
もう少し、きめ細かな考察がほしいと思いますね。


27. 五月晴郎 2010年12月01日 00:38:15: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>26さん、
先ず、
>今の貿易業務は、英語中心でなされていますが、○○商事、○○物産が後の歴史書で「US商人」と記されたら、ちょっと待てよ!ということになると思いますし。

国民国家が成立した近代と古代は違うと思います。

で、
>漢字を使用していたから、「中華商人」という表現になったというのは、どうかなと思いますね。

そんな粗っぽいこと言ってないです。
相当に中国語が出来て漢文も出来たなら、「陸でも、岡田説によると商業を営む都市の中で混血を重ねていって成立したのが漢族だということでしたし。(>>20)」そうした文脈で記事は書かれているのじゃないかしらん、とも>>19の御指摘で思ったわけです。

あと、蛮族だったとしても別に構わんじゃないですか。古代ローマの時代のゲルマン人なんて「非文明的野蛮人(>>26)」じゃないですか。それで今のゲルマン系を「非文明的野蛮人」なんて言う人いないし、日本人に対してもそうじゃないですか。ドイツ人はローマ文明とは別の文明を同時代に持っていたなんて言わないですよ。


28. 五月晴 2010年12月01日 00:56:28: 7iLEts9f9MhUY : ZMbmXo037I
そもそも漢字って、中国古代では貴族や城壁に囲まれた都市に住む商人しか出来なかったんじゃないの・・何かの小説で読んだことあるけど。
えらい難しい漢文の大宝律令とか、中臣鎌足や不比等って日本の現地人ではないような気がする。

29. 2010年12月01日 23:26:05: qY8peQYilQ
>23
やはり解りづらかったようですね。と、言っても、ここまで解釈違いされるとは思わなかった(笑)

>物資のバーターでも双方諸々の記録をする能力(記号)が無いと・・
沈黙交易というものをご存知ですか?
カルタゴ人がよくやっていたようですが、カルタゴのほうにはもちろん文字はありました。
しかし交易相手には文字があったかは不明ですし、少なくとも言葉は通じずともやっていたようです。
これで、お互いの文字の有る無しに関わらず、物資交換の場合では文明の中心側の文字が必要である
ということはなくなります。


>と話す前に・・貨幣って抽象的な記号でしょ。そうでしょ?(笑)
ここで、解釈を間違われないように例をだしてみたのですが。

まぁ、まずは貨幣の話からしましょう。
五月晴郎氏が、貨幣を抽象的な記号と考えているのは、現在、貨幣と呼び習わされている
硬貨や紙幣が、それを用いて購入できるものと同価値ではないからです。

しかし、元々の貨幣である本位貨幣は、同価値の貴金属で作られています。質の悪い悪貨はありましたが。
同価値の貴金属で作られる貨幣は抽象的な記号ではありません。
それ自体が、同じ価値を持つ産物であるのですから。
その貴金属の価値を知るもの同士であれば、同じ大きさの粒で十分なのです。

そして例としてあげたBのパターン。倭人は貨幣を知らないが珍しい産物として受け取っていた場合。
これは貨幣として流通している状態と言えるでしょうか?あくまで珍しい産物としての交換である状態です。

倭人が貨幣を珍品とみて交換している間はよいのですが、消耗品ではない貨幣はいずれだぶつき
倭人は自分の産物と貨幣を交換することはなくなるでしょう。

これは本位貨幣でも同じです。仮に倭の一部に金が珍しくない土地があったとして、
そこに、漢の商人が金貨を持っていったとします。漢で通用した価値観が通用するでしょうか?
おそらく通用しないでしょう。

しかし倭の全部がそういう土地ではありません。金が重宝がられる土地、金がほとんど価値がない土地、
そこに貨幣を一般化させるには、ある程度一定の価値を保証できるだけの権力の存在が必要です。
また、貨幣を一般化させるためには数多くの貨幣を発行するだけの、あるいは発行できないなら、
発行する国と必要量を交換できるだけの資財が必要になります。
一定の価値を保証する、必要量を計算し交換する、ここでやっと抽象的な概念が必要と
なってくると考えます。

故に、商業を行うためには貨幣が必要であり、貨幣がその価値を発揮するためには
危険を冒さないで移動できる地域に大きな権力が必要になる。
それは祭祀ネットワーク程度のものでは賄いきれないもので、倭人としての権力の持ち主がいて、
その権力の持ち主またはその取り巻きから漢字を記録用として使い始めたのではないか?
と考えるわけです。

う〜ん、これでも端折ってて解ってもらえない気がします。

>28
大宝律令と、その流れを継いだ養老律令、ともに原文は存在しませんが、復元された養老律令は
そこまで難しい文ではないと思いますよ。
もっとも、自分はイメージが読み取れる程度の読解力しかないですが。


30. 五月晴郎 2010年12月02日 00:29:09: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>29
先ず、交換と商業を等しく見ていませんか?という以前に

>貨幣を抽象的な記号と考えているのは、現在、貨幣と呼び習わされている
>硬貨や紙幣が、それを用いて購入できるものと同価値ではないからです。

沈黙貿易でも、双方にとり、自らが出した物資より交換して得る物資の効用が高いと思うから交換するのであって、同価値と双方とも考えないから交換するんでしょ。概念は同じじゃないですか。

あと、誰も貨幣が不必要だなんて言ってないでしょ。
商業は、抽象的な概念を記録しないと営めないと言ったんですが。
抽象的な概念を記録する以前に貨幣が必要だという貴方の論の説明が、抽象的な概念を記録出来ない方にとって貨幣とは「あくまで珍しい産物として」だ、っていうなら、片方にとって、それは貨幣ではないじゃないですか(笑)
御自分の説明が、御自分の主張の反論になっていて、なんだか良く理解出来ないです。

>危険を冒さないで移動できる地域に大きな権力が必要になる。

これこそ、抽象的な記号無しに構築出来るのですか?

>う〜ん、これでも端折ってて解ってもらえない気がします。

御自分の考えたことを御自分が解からないのでは?
それを読むほうは、もっと解からないです。
これは解かってください。


31. 2010年12月02日 20:23:35: wNG33v7VbI
24)さん、面白いです!もっと投稿してくださいな。

五月晴郎さん、

>国民国家が成立した近代と古代は違うと思います。

大国が周辺地域に及ぼす影響力という視点では、変わらないか、逆と思いますね。技術の進歩(通信、交通、軍事)や基軸通貨がある現代の方が、はるかに巨大な影響力がおよんでいるでしょう。
後年の歴史書で、「国民国家」は幻想であったという認識の下、「US金融・軍産複合商人が翼下の日経連商人と、天皇教を利用し、首相の指名から報道のあり方まで差配していた」と、日本を説明するかもしれません。
国民国家など消滅していれば、USとは言わないまでも、まとめて「○○商人」と書かれるかもしれませんよ。

冗談はさて置き、結局、私は岡田説の「卑弥呼=中国商人が日本列島に持ち込んだ秘密結社組織の祭司」という推理が無理があること、その背景の岡田説の歴史観が少し狭いのではと、言いたかっただけです。
古代の列島の部族は、今の日本よりはるかに独立心に溢れていたと思うのです。
今の日本の商人に向かって「US商人」と呼べば文句を言われるのなら、古代の安曇族あたりを「中華商人」と呼べは「ふざけるな!」と言われるかもしれません。
漢族の生成過程と、列島界隈を縄張りとしていた商人をすべて「中華商人」と表現することの適否は別問題だと思うのですが。

巻向遺跡の年代測定は卑弥呼の時代に近接するそうです。
この時代に巻向に列島各地から部族が集結し、宗教施設を伴った高度な都市国家(ヤマトの原型)を建設したわけです(記憶が曖昧ですが、水洗トイレもあったとか・・・)。
ヤマトは地政学的には外(大陸も)からの攻撃に対しての防御に適した場所で、このような場所に建設したということは、いわゆる「中華商人」の関与とは別の視点からみるべきでしょう。
中華商人ならコントロールし易い北部九州に拠点を置いたでしょうから。
無論、巻向が邪馬台国であるかどうかは、結論も出ていないし別問題です。
言える事は、卑弥呼の時代、列島は既に中華の影響力から独立的な勢力(ヤマトの原型)が台頭していたということです。

>あと、蛮族だったとしても別に構わんじゃないですか。

後の歴史が今のような展開になるのなら、むしろ蛮族であった方が幸せかもしれませんね。


32. 五月晴郎 2010年12月02日 21:32:40: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>31
うん、分かります、論旨は勿論、気持ちもです。
有難うございます。

33. 2010年12月02日 23:09:36: 362SXc7t7s
おっしゃるとおり、論点がよくわからないコメントになるよりは
元の投稿に対するコメントをします。

=転載@=より
>華僑たちは、中国と周辺の国々の間で交易を繰り返すうちに現地の良港に居留するようになり、
(中略)
>ところが現地で生活する以上、話し言葉だけは現地語化していき、しだいに中国語ができなくなってくる。
>しかしそれでも現地語には文字や文献はないので、もっぱら中国文(漢文)の書物を読み、中国語を書く。
中国文を読むこと、書くことができて、話し言葉としての中国語ができなくなってくるという理屈は不思議です。
ましてや、現地人に同化しないコミュティが存在するなら、
話し言葉は両方操ることになるのではないでしょうか?

>岡田説によれば、紀元前一世紀頃から日本に来るようになった華僑たちは、
>瀬戸内海沿岸に自分たちの「国」をたくさん建設した。この国というのは文字どおり口の形をしており、
それは城や防塞であって国ではありません。漢では都城のことを国と言わないのと同じです。
中国人という意識が強いというのに、なぜそれが城を国と呼んだと考えるのでしょうか。

>周囲をインディアン砦のように板や丸太で囲んで防御壁とし、自分たちはその中に居住した。
わかりやすい意味で、インディアン砦という言葉を使ったのでしょうが、
その方式は砦としては基本的なものであり、ガリア人や日本人も使用していますし、
インディアンよりは、むしろ大航海時代の初期移住者がよく使った形式といったほうが適切です。

>現地人はそこに作物や産物を持って押し寄せ、交易を行ない、やがて華僑の砦を中心に現地人の村が生まれる。
>「魏志倭人伝」に記された倭国の二十九カ国はすべて、華僑との交易のために生まれたこうした集落である。
これはただの想像ですね。そもそも、倭と漢の渡航成功率を高く見積もりすぎではないでしょうか?

>邪馬台国の女王・卑弥呼が「三十余国を従え」というのは、
そのような記述はありません。

>私たちが思い込んでいるような西欧的な武力による支配服属のことではなく、中国船と交易をする際の
>倭人側の代表として大きな権限をもっていた代表者のことであって、周りの小国は、
>この邪馬台国に友好商社代表として交易の仲介をしてもらうことで恩恵をこうむっていた、という意味である。
魏書において、邪馬台国よりの使者の回数は、わずかに3回です。
交易の仲介者としての役割を期待するのは、あまりにも少ない回数です。
そもそもが倭人には朝鮮に狗邪国もあることですから、中国船と直接交易するよりは
狗邪国が倭人を代表して中国と交易し、その交易結果を倭にもたらしていたと考えるほうが、
邪馬台国が中国商人と直接交易をしたというより納得しやすいのではないでしょうか?

>私たちは東アジアの古代史を考える際に、西欧のイメージで武力制圧ばかりを
(中略)
>倭王を含めた周辺属国の国王たちは「三井物産タイ支店長」のような立場の人々であったのだ
そんな想像をしなくても、魏書において、共に一女子を立て王とした、とあります。
また、女王国より北には軍をおいて諸国を監視した、諸国これに畏怖したともあります。
武力制圧ではないにしても、倭人国内ではかなりの武力を擁していたことがわかります。

>この文章を(中略)今日の東南アジアの都市ならどこでも見られる風景だった。
ここはコメントする必要がありません。想像の産物ですから。

>上にでてくる秦人というのが(中略)新しいタイプの華僑です。
この部分に関しては>17で示したとおりです。

>当然、日本人のアイデンティーを日本書紀・古事記に求めている日本の歴史学者には受け入れられません。
魏書、後漢書、隋書を中心にしても、これだけの疑いが出てきます。


34. 五月晴郎 2010年12月03日 00:23:15: ulZUCBWYQe7Lk : ZMbmXo037I
>>33

>中国文を読むこと、書くことができて、話し言葉としての中国語ができなくなってくるという理屈は不思議です。

これが漢文が出来るということでしょ。

上記以下の貴コメントも、すいませんが同様に「一般の学校教育での理解以前の所謂「2次元的」理解、物語は、歴史解釈から一番遠い昔の人の謂う婦女子のなんとかで、お気持ちを否定する積りは毛頭御座いませんが、ちょっと付き合えないです。(>>9)」ので、悪しからず。


35. 2010年12月04日 10:54:47: d5y1l9I3a6
さて、>33では、如何に元投稿が怪しいかを述べたのですが、
今回はその続き=転載A=です。

>しかし、実は、この鬼道とは五斗米道(five pecks of rice movement)のことです。
>岡田英弘氏がはっきり指摘しています。上の文章の「秘密結社組織」のことです。
岡田氏が指摘しているのかも知れませんが、それが事実かどうかは不明な上、
五斗米道は「秘密結社組織」ではありません。
年会費数千円と言われ、そのうえ住所まで世間に曝しているフリメーソンを相変わらず
「秘密結社組織」と言ってるようなもんですね。
これが「秘密結社組織」ならLCやRCも「秘密結社組織」でしょう。

>岡田英弘氏も、『倭国』という本では「鬼道とは五斗米道のように思える」と書いていました。
>ところが、『日本史の誕生』でははっきりと「鬼道とは五斗米道である」と言い切っています。
>『倭国』を書いたあとにさらに文献を読み込んで、この当時、陳寿(ちんじゅ、魏志倭人伝の作者)が
>「鬼道」と記したなら、それは五斗米道のことしかないと確信したのでしょう。
陳寿が記した三国志には、国を治めるための宗教はほとんど出てきません。
それこそ、太平道と五斗米道くらいなもの。
太平道にしたところで賊名として黄巾、自称黄天泰平と出てくるくらいです。
(太平道は、三国志より後に成立した後漢書のほうが詳しい)
張魯伝にはやや詳しく鬼道(張陵の自称は米賊)の祭祀というか教えが少しでてきますが、それにしても
「鬼道を民に教える。」「教えは黄巾に似る」「義舎を設け、行き倒れが出ないようにしたが、
必要以上に貪ったものについて、鬼道ではこれを病とす」と書かれている程度。
これをもって、陳寿が「鬼道」と記したならこれは「五斗米道」であると確信するのは、
よほどシンプルな思考の仕方をしたとしか思えません。

>五斗米道とは、181年に張陵(ちょうりょう)が四川省および陝西省あたりで広がった道教の元祖です。
>後に天師道、正一教と名前を変えています。
五斗米道以前より以前から道教的考え方は、大衆階級には存在しましたので、道教の元祖とは言えません。
また宗教団体としてという意味であっても、同時期あるいはそれ以前に太平道がありますので、
やはり元祖とは言えないでしょう。

>この「鬼道とは五斗米道のことである」という事実の重大さは、実は副島先生がしつこいくらい
>何度も指摘していることです。
副島先生とやらには、まず陳寿の書いた魏書をきちんと読んでいただく必要があるかと思います。

>このように邪馬台国は、華僑が大きな経済的・文化的影響をもっていた社会であった。
上で述べたように、おそらく華僑(いたとして)の影響は微々たるものと考えます。

>卑弥呼が「鬼道に仕え、よく衆を惑わし」たというのは、べつに神秘的な妖術や魔法で国を支配したという意味ではなくて、
神秘的な妖術や魔法で国を支配したなどと考えるのは子供くらいでしょう。

>三国時代の魏で流行し「五斗米道」(ごとべいどう)という宗教を奉じていた、ということである。
>この五斗米道は、道教と仏教が混ざって土俗化した宗教だったようだ。
>のちの中世の陰陽道(陰陽五行説、易学)もこれに類似していることから、この五斗米道がその後、
>日本の神道になっていったと考えたほうが理屈に合う。
>日本人の民間信仰の多くも、この五斗米道起源であろう。
魏書をよく読んで、その考え方を確認したほうがよいかと思われます。
ここでいう魏書とは陳寿が記述された部分のみを読みこむ、ということです。当たり前ですが。

>平安から室町まで公式に栄えたのは仏教だが(中略)さらに日本では陰陽道として発展して
>いったということになります。
鬼道=五斗米道という論自体が以上のように怪しいので、それを広げたこの部分に触れると論点がぶれそうなので
この部分には触れません。

>よく、道教由来の日本の行事がとりあげられます。お守り、山開き、還暦、七草がゆ、みそぎ、七夕、
>端午の節句、地鎮祭、これらはみんな道教由来です。
原始宗教には、わりとありがちなものばかりですがね。

>仏教とかキリスト教は、きちんと日本に入ってきたプロセスが明らかになっているのに、道教はわからないのです。
仏教は、一時期国教同等扱いされていました。
キリスト教はわずか500年前です。
土俗宗教が母体の道教が入ってきたとして、明確なプロセスが明らかでないのは、ごく自然なことです。

>上にはこれについての答えがはっきりと書いてあります。つまり、邪馬台国の頃、
>卑弥呼とそれをサポートする華僑が持ち込んだということです。
最初で疑問点が多い以上、はっきり答えてあっても、正しいかどうかは別の話です。


36. 2010年12月04日 13:38:31: NDqBZWrDM6
ちくま文庫版の「日本史の誕生」チラ見してみた。

>>。リ日本史の誕生』でははっきりと「鬼道とは五斗米道である」と言い切っています。

鬼道とは五斗米道教団の神々のことである、が正しいな。
ミスリード引用とは投稿者に誠実さが欠けていると言っていいだろう。

これを大意は変わらないと言う奴は、
大黒様が祀られていた。→ヒンドゥー教の祭祀があった証拠だ。
ザビエルがデウスを拝みなさいと言っていた→ザビエルは多神教徒であった。
と言い出しても違和感がないのだろう。


37. 2010年12月05日 14:53:08: qod1s9NH9M
さて、>35に続き=転載B=です。

>前回、卑弥呼のつかえた鬼道とは五斗米道のことであり、それは神道と陰陽道の源流だろう
>ということを書きました。
とりあえず、>35では元投稿の、卑弥呼の鬼道=五斗米道はほとんど根拠がないことを書きました。
そして>36氏の言われる
『鬼道とは五斗米道教団の神々のことである、が正しいな。』は本日、確認しました、ありがとうございます。
元になった投稿が、自分の主張のために恣意的引用をしたことは、ほぼ間違いないでしょう。

>「老子想爾注」(ろうしそうじちゅう)という、五斗米道で実際に使われた老子の解釈テキストがあります。
>このテキストは20世紀に敦煌で発見されたものです。
東に広がった物が西の敦煌でみつかるのは、結構微妙な気がしますが、交流があればそれもあることでしょう。
五斗米道で実際に使われた老子の解釈テキストかどうかは触れません。いや自分の知識では触れられません。

以下〔道教の経典を読むp55〕まで略

>ここから、五斗米道の解釈した「道」とは、我々日本人が「道」とか「天道」とか呼んでいるものに、
>非常に近いことがはっきりわかります。
はっきりわかるためには「老子想爾注」が五斗米道のテキストであったことが、はっきりわからないといけません。
道教の経典を読む、にそう書かれており、道教の経典を読む、では何を根拠にしているのでしょうか?

>また、この五斗米道の根本思想というべきものが「気(qi)」です。
>昔、副島先生が指摘していましたが、日本というのは「気の国」です。陽気、陰気、空気、天気、気分、
>殺気、気が狂う、気が晴れる、気に入る・・・と、「気」が入ったことばが無数にあります。これが、
>多分、小室直樹氏がいうニューマ(空気)が支配する日本につながっているのでしょう。
五斗米道の根本思想が「気」というが果たしてどうか。
陳寿は、五斗米道も含めて鬼道という言葉を使っています。
中国での鬼とは、死人の魂を指していると聞きます。祖先の霊を祀る、これは原始宗教的なものです。
祖先の霊がいつもみている、人が歩むべき正道に背くことはしてはいけない。
これが道教なのではないでしょうか。
五斗米道はむしろ、新しい宗教技法を用いると言う点で「老子想爾注」において
非難されている立場の道教の一派ではないかと考えます。
老子の教えにおいては「小国寡民」というものがあったかと思います。
そこから考えると張魯の五斗米道は、それに反したものです。

以下に続く二十四節期については>17のとおりです。
ただし、二十四節期はそこまで正確に見積もるものではありません。
概ねこの辺りが、この時期ということで二十四節期になっているのですよ。
(いや、中国の暦学者などは血道を挙げてやっていたでしょうが。日食を予測できなくて文字通り首がとんだ学者もいたようですから。)

今回のラスト、子安の木(こやすのき)
中国に行った日本人が持ち込んだという考え方とか、
元々自生していたが追いやられたという考え方はできないのでしょうかね。

基本、関係ないのですが、四不像がベドフォード公爵領で飼われていました。
これは華僑が持ち込んだものです、と言い出すのと話的にはそう変わらないのですが。


38. 2010年12月07日 20:10:34: AXc6BBAGtY
さて=転載C=ですが。

これまたツッコミどころ多いですね。
>さて、前回まで、五斗米道(ごとべいどう)が日本に持ち込まれたと書きました。
>ところが、話を混ぜっ返すようですが、日本でこの五斗米道があること自体は実に不思議なことです。
>なぜなら、五斗米道は、中国の沿岸ではなく、四川省、陝西(せんせい)省など、中国のきわめて
>内陸部で栄えた宗教だからです。陝西省とは西安があるところですから、
>日本からは2000kmぐらいあります。
>だから、日本に五斗米道があるというのは、ちょうどチベットの山奥にいったら日本の神社が
>あったようなものなのです。
100歩譲って五斗米道が日本に持ち込まれたとして・・・・・
ネストリウス派なんか1万q程度は動いてます。なにが不思議なことなんでしょうか?
どうも投稿者は教科書的知識すら欠けすぎているように思えます。

>したがって、これは、四川省、陝西省出身の華僑が〔中略〕キリスト教を持ち込んだようなものです。
とりあえず卑弥呼と五斗米道が、おそらく関係ないであろうことは上で示しました。

>すると日本に、五斗米道を持ち込んだのは秦人〔中略〕中国語を話していた華僑が多数住んでいた国のことです。
これも裴世清自身が疑いを持っていることは上で示したとおりです。

>最近、『謎の渡来人 秦氏 』(文春新書 水谷 千秋著)という本がでました。どのあたりに、
>この秦人と呼ばれる人たちが住んでいたかが書いてありますが、全国いたるところにいたようです。
逆に言えば自称秦人が渡来人か怪しいってことですがね。

><日本における秦人>
>さて、ふじむら掲示板に最近書きましたが〔中略〕また、ちょっと行った岡山にも、天体観測していた様子が
>残っています。五斗米道が陰陽道の源流であるという副島先生の指摘がありますが、
>そういう意味では整合性がとれているわけです。
五斗米道に天文学が関係あるというのは、一体何の文献からとったんでしょうね。

>@さて、まず、秦人は、大きな川沿いに町または国を作っていたようです。〔以下略〕
根拠が薄弱すぎます。秦人が古墳を作っていたという話があるのでしょうか?
また、秦人が秦の人物であったとして、秦から400年も経ってまだ古墳を作るでしょうか?
秦の文化は古墳以上の物を作っていました。

>A前述しましたが、秦人は薬草または薬木を持ち込んできたあとがあります。前回述べた子安の木です。〔以下略〕
例えが悪いですが、上で記載しました四不像の話を考えてみてください。

シリブカガシ、群生でなければ近畿以西にはよく見られる木だそうです。単に気候的に合ったと考えるのが妥当でしょう。
ちょっと前の文章でに全国いたるところに秦人がいたという説を披露したのを忘れたのでしょうか?
秦人が持ちこんだ理由が、有益樹木であるからであれば、いたるところにシリブカガシの群生ができるはずですね。
それができていないのは、自生していて、気候があったところに群生したとみるのが普通でしょう。

まだ続く


39. 2010年12月11日 11:27:00: ALpPUaRyKk
=転載C= 続き

>Bさらに、秦人は金(きん)や砂金を探していたことがわかります。
>地元の人にきいたら、このあたりは、昔は金がよくでていたそうです。
>「昔と言っても、すっと大昔ですよ」といっていました。
地元の人の大昔って1800年も遡った口伝でもあるのでしょうか?
ただ地元の人に漠然と聞くのではなく、地元の歴史研究者に何年頃の話であると書かないと
全く意味がありません。大昔の基準は人によって様々ですので。

>この金(きん)をどうしたかというと、ローマ帝国やペルシャ帝国(アケメネス朝)まで
>運んでいたのではないかと思います。とんでも説とかいわれるかもしれませんが、まじめです。
アケメネス朝は紀元前300年には滅んでいます。投稿者は教科書的知識にすら欠けているとしか
いいようがありません。

>秦人というのは、新羅という国〔中略〕もつくった民族です。実際、魏志倭人伝のころは
>新羅は「秦韓」とも呼ばれていました。
魏書の頃は辰韓であり、別記載で秦韓です。
この秦韓の人が本当に秦人であったかどうかというのは、既に疑問として呈しました。

>どうやって金をヨーロッパまで運んだかというと、シルクロードではなく、川を利用することができます。
>地球儀をみてください。〔中略〕カスピ海、黒海です。
>これは岡田英弘氏が別の歴史本で指摘した行路で、ここを使えば〔中略〕ほぼ最短の距離であることもわかります。
川を利用する場合、急流や滝の部分を避けては通れません。この場合は川沿いの急流近辺に集落が存在
(そうでないと超えられないとは言わないが川運が相当量あれば存在するのが当然)すべきですが、
そういう痕跡があるのでしょうか?おそらくないと思われます。
水運は陸運より安く、安全な場合が多いのですが、それでもシルクロードが主流であったのは
水運で直接行き来するには、陸運以上の障害が多かったからであると考えます。

>ちなみに、この行路沿いには、日本人に似た人がたくさんいます。
中国人や朝鮮人、モンゴル人には似ないのでしょうか?全く参考にならない話です。

>C秦人のつくった都市というのは北緯35度に集中しています。列挙すると、咸陽(秦の首都)−泰山−釜山−
>西播磨−京都−名古屋−静岡−三島−副島先生の熱海の仕事場、となります。
>この北緯35度になにが〔中略〕(Manifest Destiny)があったのかもしれません。
明らかに北緯35度のラインにある都市を拾ってきただけですねコレ。

>>最近、『謎の渡来人 秦氏 』(文春新書 水谷 千秋著)という本がでました。どのあたりに、
>>この秦人と呼ばれる人たちが住んでいたかが書いてありますが、全国いたるところにいたようです。
そうでないと、これに矛盾します。

><出自を消した秦人(はたびと)たち>〔以下略〕
これまで見てきた通り、元投稿者は教科書的知識にすら欠け、魏書すら読んでいない。
ただ、自分の読んで気に入った本のみにて論を組み上げ書き散らしただけのように思えます。
以降の文章については、教科書的知識に欠けた妄想の類の一言で片付けて十分かと思います。
この、ぼやきというのが誰の何か知りませんが、コピペして投稿するには値しない論であることは
間違いないでしょう。


40. 2011年2月13日 18:48:52: EXhIxZR9ZA
上記で、ぼやきへのツッコミを入れたものですが、
今更ながら、岡田英弘氏の「倭国の時代」を読んでいます。

最初の4頁(12頁)までは、いいことを書いていると思いました。
日本史における記紀だけでは、曖昧な部分が多い。
ただ他国の資料とつき合わせるだけでもダメ。
他国の当時の政治状況を加味しながら解釈しないといけない。

素晴らしい!と思いました。

が、危機が国史をつくる(31頁)以降ちょっとおかしくなり、
第二章は、三国志関連の記述でさらに怪しくなり、
(まぁ40年近く前の本なので仕方がないと言えば仕方がないのですが)
第三章は、すでに最初の4頁の記述なんて忘れたかのように物語仕立てで
 自説に都合のいい話をつくっていっているように見受けられます。

まだ途中ですが880円+税はもったいなかったかなと感じています。


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