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藻谷浩介さん、長野市の善光寺かいわい、歩いて魅力発見/信濃毎日新聞 07月05日
http://www.asyura2.com/09/ishihara13/msg/576.html
投稿者 仁王像 日時 2012 年 7 月 21 日 15:50:47: jdZgmZ21Prm8E
 

長野市の善光寺かいわい、歩いて魅力発見/信濃毎日新聞 07月05日(木)
http://www.shinmai.co.jp/news/20120705/KT120704SJI090001000.php

 日本総合研究所主席研究員で地域振興が専門の藻谷浩介さん(48)=東京都=が4日、長野市の善光寺の僧侶や地元の商店主など25人ほどを案内して同寺門前を歩いた。同市大門町の飲食店「門前茶寮弥生座」の常連客たちでつくる「座の会」や善光寺などが企画。全国の街を歩いてきた藻谷さんが、次々と参加者に問い掛けながら、信州や善光寺門前の魅力を引き出した。

 一行は、大門町の複合商業施設「ぱてぃお大門」から善光寺本堂まで歩いた。藻谷さんは、観光客は地元の人からも支持されている店で飲食や買い物をしたい―と指摘し、「この店は住民も利用しているか」「表参道の景観は非常に美しいが、夜の人通りはどうか」などと質問していった。

 また、歩道脇の花壇、並木の根元に植えられた山野草を指して「手入れは大変だが、これを見ただけで住民たちが街を大切にしていることが分かる」と話した。仁王門近くに立つ火の見やぐらを見ると、「長野の人には見慣れた風景だが、全国から見ると、こんなに多いのは珍しい」とも紹介した。

 その後の懇談会では、全国の門前町や観光地を例に挙げながら、今後のまちづくりを議論した。参加者たちは「宿坊はキーワードの一つになる」「街全体で観光客をもてなす心を育てたい」などと提案。藻谷さんは「足を運ぶ価値のある観光資源は豊富。街の人たちが一生懸命取り組んでいることを上手にPRすることが必要」と話していた。

 常連客が月1回集まって議論を交わす「座の会」が100回目を迎え、一般公開の藻谷さんの講演会を企画。講演前に門前を案内すると打診したところ、藻谷さんが「私が案内する」と提案したという。藻谷さんは同日夜、「長野のポジショニング―超高齢化社会と善光寺町」と題して講演した。

・「日本を襲うのは二千年に一度の現役世代の減少と高齢者の激増である」/藻谷浩介『デフレの正体』から
 http://www.asyura2.com/12/hasan76/msg/528.html
 投稿者 仁王像 日時 2012 年 6 月 13 日 20:27:59: jdZgmZ21Prm8E  

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コメント
 
01. 2012年7月31日 07:38:24 : opuSlfFAh2
【善光寺の由緒はご存知ですか?】これこそ日本のルーツ!諏訪大明神絵詞の渡海図と調査すべし!古代史ミステリーの宝庫が信州だ!
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東大弓術部の夏期白馬合宿で信州に来出して42年、『ロンドンっ子並みの平日社宅で週末リゾートハウス』を会社から『軽井沢別荘?!ふざけるな!行けると思っているのか!毎晩24時終電終業で!人事評価が怖くないの?どうでも付けられるんだよ!』と虐められながら軽井沢に家建て24年。信州人の不思議さが慰め・魅力だった。

何回も善光寺に行き、2009.3にソウルに行き、全く同じ寺院の作りと分かった。もう、確信だ。

百済の禅(善?)光王子が倭国に人質=信頼の証で来ていて、百済が滅亡し、風土が似ている信州を天皇家から賜った。だから、奈良、尾張、飯田から奥地に移動し、善光寺平に落ち着いた。

決して難波の川で庶民僧飯田の善光が見つけたのではない。当時の庶民の名が歴史に留められるだろうか!!由緒を聞いても理解出来なかった。だから、いつかは韓国へ行ってみたかった。偶然、韓国スタッドレスタイヤのソウル旅行販促で軽井沢と同じ気候で買ったら、1万名で2組が当選し、3泊4日でキムヨナ凱旋帰国翌日に行き6日帰国。親日ムードで安心した。丁度、結婚30周年だった。神に感謝!
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【ご参照:抜粋】
西丸薫『古代天皇家と日本正史』と金容雲『日本=百済説』で明確に小沢冤罪謀略事件の日本民族の闇が見えた!
http://www.asyura2.com/12/senkyo129/msg/821.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 5 月 08 日 16:47:52: UiY46YlCu.Moc

庶民を苦しめる酷税:消費【増】税を進める日本人政治家が居ること自体、信じれなかったが、日本民族の闇が明確に晴れて、日本民族の2面性が分かった。

それを知らない日本人が多いのは渡来系子孫の官僚・マスコミ支配階層が自分が朝鮮か?!と悩んだための妨害だと思う。隠したのだ。諏訪大明神絵詞の渡来絵が明治以降に消えたとソウル博物館の老紳士に言うと一番気にしていた。全く同じ反射的仕業・所業で真実を消して支配継続を画策しているのだ。それが小沢冤罪事件にも通じている。

国民が今、政府に殺されようとしている!!
何故だ!!


国の借金とは誰かどこかの国民・企業の所得資産に化けているのだ!!
国から一銭も特別に貰ったこともない庶民から消費税で取る物ではない!!
資産家・大企業から回収すべきものだ!!
庶民は餓死寸前だ!!
生活保護は恥と歯を食いしばっているのだ!!

それが分からない野ブタ!!言うだけ嘘つき番長!!謀略赤軍派!!いい加減にしろ!!万一、議員歳費を国民平均所得にしたら許す、出来ない御身大切野郎が!!許せん!!

消費税もインボイス付きの物品税にすれば納得するが、納税者番号だけでは嘘のやり放題だ。
日本独自は絶対ダメだ。世界で評判の良い納税者番号や運用をすべきだ。

憧れのデンマークや北欧の納税者番号機能要件に韓国の最新システムでやればイカサマを官僚にやられない安心感も有り。小沢冤罪事件を見せられ、戦前の日本や北朝鮮並みの恐怖政治国家になったのだ。日本は同一民族に有らず。5〜6%の渡来系が今も支配するから平等感が無いので今上天皇・美智子皇后も心配して居られるのだ。それが病気を押しても国民に寄り添いたいとの御心になるのだ。亡国の官僚は恥を知れ!!東大の京極純一政治学が納得出来たか?!あれは民俗学にも成っていない。人民支配学だった。早稲田経由で私学と東大の視点が全く違っていた。野田は早稲田で東大カブレか?!

子ブッシュ兄が弟フロリダの票数疑惑が出てから、日本も権力者が何でもアリになったようだ。ブッシュでなく米民主党が勝っていれば、9.11もイラク戦争もなかっただろう。ブッシュになりイスラムが怒ったのだろう。大変残念だ。オーメン?の大統領の息子(頭に9?6?が3つ)は子ブッシュだったのかと思うこともある。子ブッシュはテキサス州空軍パイロットでベトナム行き直前、親ブッシュのコネでコロンビア?大学院進学?おかしいだろう。戦地行きを逃げた男だ。それが戦争起こし、米庶民の子弟を殺す。

子ブッシュに小泉が頼んで、小泉次男が関東学院でコロンビア大学院卒!!!?箔をを付けたものだ。
小泉本人が何浪か?飯島秘書官も国民年金未納で返答できず!
いつ慶応に入学したか?

クラスに居たと言った明治教授は晴れて自民公認参議院転進。可笑しいだろう。ロンドン大学の語学研修?コースで留学か?それ以来、慶応が世界最大の学歴ロンダリング教育機関と思っている。皆さんそう思いませんか???

小泉と偽装民主党クーデター派は同じ精神構造と思いませんか?嘘も平気で吹けば平気なんでしょう!!小泉本人に一番似ている三男が嫁側にいて元嫁さんも複雑でしょう。彼の性癖を書いてジエンドにさせてあげて下さい。子供3人と一緒に暮らせますよ。

これらの日本人の不思議は日本人の顔と鼻から分かった。

シュメール=スメル人のウル・ラガシュはイラクのサマワ近くだ。偶然か?小泉は馬鹿だが皇室・宮内庁が派遣するなら、皇室のルーツの地に行って住民を支援して欲しいとの内意が有ったと推測する。 水1リットル千円の給水をしてまでやったのは、皇室の内意があったからだ。だから、自衛隊の行く所はどこでも非戦闘地区だったのだ。
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スメル人はヒッタイトやヘブライになり、アブラハムはハランからパレスチナへ。ヘブライ人はユダヤ人になりバビロン捕囚され、一部は帰郷、大半は近隣抗争を疎い、北の平原に逃走。

西に行きフン族、ハンガリーへ。
東に行き匈奴、契丹、高句麗、百済、日本(出雲)に。

高句麗から以降が『日本=百済説』に書いてある。その著者:金容雲さんの写真を今探している。

2009.3.6の午前にソウル歴史博物館に行き、老紳士に昔の日本語のイントネーションで話された。午後ここで講演するから来なさいと言われた方だと思っている。
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ダビデ・ソロモンの後継のヘブライ人王は、南ユダ王国滅亡前に三種の神器を携行亡命、アカバ湾・紅海・イエメン・インド・タイ・ベトナム・中国・沖縄・鹿児島・日向に行き、出雲族が先住と分かり、国譲りを要求。同じ宗教・文化・価値観だから戦争せず、大国主命は国を譲ったが、反対の次男=越国の王女のと子=は出雲崎から諏訪湖、守屋山へ逃げた。

善光寺の由緒はご存知ですか?信州に来出して42年、家建て24年。信州人の不思議さが魅力だった。

何回も善光寺に行き、2009.3にソウルに行き、全く同じ寺院の作りと分かった。もう、確信だ。

百済の禅(善?)光王子が倭国に人質=信頼の証で来ていて、百済が滅亡し、風土が似ている信州を天皇家から賜った。だから、奈良、尾張、飯田から奥地に移動し、善光寺平に落ち着いた。

決して難波の川で庶民僧飯田の善光が見つけたのではない。当時の庶民の名が歴史に留められるだろうか!!由緒を聞いても理解出来なかった。だから、いつかは韓国へ行ってみたかった。偶然、韓国スタッドレスタイヤのソウル旅行販促で同じ気候で買ったら、1万名で2組が当選し、3泊4日でキムヨナ凱旋帰国翌日に行き6日帰国。親日ムードで安心した。
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日本人はもっと日本の歴史をネットで研究しよう!!
安倍政権の時、中国の首相か外相が【日本人はもっと歴史を勉強して下さい!】をテレビで聞き、憤慨。東大入試で世界史Bと日本史Bで可笑しいと思っていたことが噴出した。

渡来人が原日本人を殺すか奴隷にし、産ませた子供が庶民日本人だ。だから、支配層=大蔵財務官僚は自分たちを守るために平気で庶民を生かさぬよう殺さぬように消費増税が出来るのだ。橋本五郎並みファウストだった厚顔野田は原日本人顔だが、同胞を悪魔に売り総理の座を射止めたのだ。そう言う抜けがけ最高峰が昔は秀吉?や角栄?だったが、21世紀でも抜けがけ這い上がりは居るのだ。

これを阿修羅に投稿し、ソウル歴史博物館経由で金容雲さんに送りたいと思う。
日本古代史の闇が完全に晴れた。嬉しい。45年振りだ。気持ち良い!!  


02. 2012年7月31日 17:58:32 : opuSlfFAh2
藻谷 浩介(もたに こうすけ、1964年6月18日 - )は、日本総合研究所調査部主席研究員、地域エコノミスト。山口県周南市出身。
目次 [非表示]
1 経歴2 人物3 まちづくりの考え方4 『デフレの正体』5 裁判5.1 問題となった書き込み6 著作7 出典8 関連項目経歴

1964年 - 山口県周南市(旧・徳山市)出身
1983年 - 山口県立徳山高等学校理数科卒業、東京大学文科T類入学
1988年 - 東京大学法学部第1類(私法コース)卒業
1988年 - 日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)入行、営業第三部配属
1990年 - 同上 地域開発調査部
1992年 - コロンビア大学経営大学院(派遣留学)
1994年 - コロンビア大学経営大学院卒業(経営学修士=MBA)
1994年 - 財団法人 日本経済研究所 調査局研究員(派遣出向)
1997年 - 日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)情報・通信部 副調査役
1999年 - 日本政策投資銀行地域企画部調査役
2000年 - この頃より(社)日本青年会議所 まちなか創造推進委員会 年間アドバイザー、国土交通省地域振興局、中小企業総合研究機構、中心市街地活性化推進室等の委員、徳山JC、豊橋JC、常総JC等の年間アドバイザー、内閣府観光カリスマ百選選定委員会委員、山形県ふるさとアドバイザー、文部科学省生涯学習まちづくりモデル事業選定委員会委員など公職多数歴任
2003年 - 日本政策投資銀行地域企画部参事役
2007年 - 日本政策投資銀行地域振興部参事役
2011年 - 東北大震災後、内閣官房「東日本大震災復興構想会議専門委員会」委員、国交省「社会資本整備審議会」臨時委員、朝日新聞「ニッポン前へ委員会」委員
2012年 - 日本総合研究所調査部主席研究員
人物

日本全国のほとんどの都市を旅行した経験を持ち、現地を歩いて回り、また市町村関係の統計数字や地域特性を詳しく把握した上で、その都市の抱える問題点を解析し、現場の実例も紹介しながらその都市の中心市街地活性化などまちづくりのあり方を提言している。[1]
開通している日本の鉄軌道(JR・民鉄・公営交通)全線を完乗(2007年3月現在)。ただ乗ることに興味があるわけではなく、鉄道というシステムやどんな人が乗っているのかに興味がある。[2]
都市の起源や歴史、盛衰に関しての興味を持ち、受験生時代には受験科目に関係ない「地理」の独学に励み、すでに彼の出身地である山口県、中国地方での高速道路や鉄道整備によるストロー現象を発見していたという。全国の都市への訪問はそうした好奇心が動機となって始まったものであり、当初はほとんどが私費旅行であったという。この経験が彼のまちづくりの考え方の原点になっている。
全国各地に無数の定点観測点を持ち、市町村関係の最新の統計数字や地域特性を踏まえた上で分析するのが最大の特徴である。全国各地で年間400回以上の講演会をこなしている[3]。
長兄は藻谷俊介(スフィンクスインベストメント代表取締役)
まちづくりの考え方

2000年代には中心市街地活性化について活発に活動していた。その主張の特徴は、生産人口が激減するという時代の大きな変わり目にあっても、なおバブル時代に夢みた高地価を前提にまちづくりを考えていては、失敗は避けられないことを喝破した点にある。
中心市街地に必要なのは、まず人が住んでいること、次に職場があること、それから公共施設あるいは病院といったコミュニティー機能があることであり、最後に商業があることだとし、そのためには住居を好き放題に郊外に分散させてきたやり方を改めるだけではなく、地権者自らが家賃を下げ新しい住人を受け入れていけるような仕組みをつくり、商売を続ける意欲のない商店主は、むしろ割り切って若者が住み、新しい商売をできるようにすることが大切だと主張している[4]。
『デフレの正体』

2010年6月に出版された著書『デフレの正体』は2010年新書大賞2011ベスト5の2位(主催:中央公論新社[5])、経済学者・経営学者・エコノミスト162人が選んだ2010年の『ベスト経済書』3位となり、販売部数も50万部を超えた。[6]。
その主張は、15-64歳の生産年齢人口が1996年を境に縮小しはじめ、好景気下でも内需縮小が避けられないという点にある。また『実測 ニッポンの地域力』で主張されているが、東京を中心とする大都市は元気で地方は衰退といった見方も一面的で、実態としては首都圏のジリ貧も明らかだとしている。
高齢者の激増と生産年齢人口の縮小という当面避けられない現実にたいして、インフレ誘導や公共投資といった従来型の政策は成果を上げていない。発想を変えなければならないとし、高齢富裕層から若者への所得移転、女性就労と経営参加、外国人観光客・短期定住者の受入を提言し、とくに年金について、高所得者が高額の年金を貰える現在の仕組みを変え、生年別共済や、生活保護の充実を主張している。
子どもと生産年齢人口が減り、高齢者が激増するという中期的には確度の高い予測から説きおこし注目を集めたが、「「景気さえ良くなれば大丈夫」という妄想が日本をダメにした!」といった挑戦的な言い方は反発も呼んだ[7]。
筆者自身が後から語ったところによれば、「デフレ」の意味は、耐久消費財などの個別品目の価格の下落を意味しているという[8]。
裁判

2011年5月、藻谷にブログへの書き込みで名誉を傷つけられたとして、札幌市在住の高校教諭の男性が60万円の損害賠償を求めた。訴状によると、男性は2010年7月、自身のブログで藻谷の著書『デフレの正体』について「経済学的にみて間違いがある」とする批判を掲載し、発行元の角川書店に通知。その後、藻谷が「あたまでっかち」「自慢できるのは理論だけ」「死んで子供に財産でも残せ」などと書き込んだことにより精神的苦痛を与えたとしている[9]。
裁判では「男性がブログ上で『デフレの正体』を批評したことに対する藻谷氏の「早く死んで子供に財産を残せ」としたコメント[10]が、名誉毀損に当たるかどうかが争われた」[11]。
2011年9月21日、札幌地裁の「石橋裁判官はコメントは学問上の論評を超え、ことさら男性を侮辱するもので不法行為を成立する」と指摘[12]。藻谷氏側の「経済学的な論争で、名誉を傷つけられたことへの反論」とした主張を退け」[13]、藻谷被告に10万円の支払いを命じ確定した[14]。
問題となった書き込み
人口減少デフレ論の問題点 藻谷浩介氏への回答 菅原晃 シノドスジャーナル 2010年10月27日を参照。
著作

『IT革命とモバイルの経済学』 東洋経済新報社、2000年。(共著)
『海外の中心市街地活性化』 日本貿易振興会、2000年。(編著)
『自立する地域』 ぎょうせい、2000年。(共著)
『中心市街地活性化のポイント』 ぎょうせい、2001年。(編著)
山崎朗共著 『クラスター戦略』 有斐閣、2002年8月。ISBN 9784641280755
『ニッポンの地域力』 日本経済新聞出版 2007年9月 ISBN 9784532352622
『デフレの正体』 角川書店 2010年6月 ISBN 9784047102330
『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』学芸出版社 2012年7月(共著)ISBN 9784761513092
出典

^ 第173回都市経営フォーラム『デフレ時代と中心市街地』(講師:藻谷浩介氏)2002年5月23日(木)の記録 http://www.nikken-ri.com/forum/173.htm(2012年4月11日)、藻谷浩介著『実測 ニッポンの地域力』日本経済新聞出版社、2007年9月20日
^ 全国町並みゼミ飛騨市大会講演「土地本位制から町並み本位制へ」
^ 藻谷浩介『実測 ニッポンの地域力』「まえがき」日本経済新聞出版社、2007年9月20日
^ 第173回都市経営フォーラム『デフレ時代と中心市街地』(講師:藻谷浩介氏)2002年5月23日(木)の記録 http://www.nikken-ri.com/forum/173.htm(2012年4月11日)
^ http://www.chuko.co.jp/special/shinsho_award/
^ http://www.kadokawa.co.jp/sp/201102-01/
^ 『デフレの正体』7刷、カバー表4
^ 日本のデフレは人口減少が原因なのか 人口増減と「物価」は実は関係がないダイヤモンドオンライン 2011年1月13日
^ “札幌の教員が藻谷氏を提訴 「ブログで中傷」”. 北海道新聞. (2011年5月12日) 2011年9月22日閲覧。
^ “デフレの正体」藻谷浩介さんに賠償命令 ブログコメントで名誉毀損”. J-CASTニュース. (2011年9月22日) 2012年6月1日閲覧。
^ 産経ニュース(2012年4月12日閲覧) http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110921/trl11092119470006-n1.htm
^ “デフレの正体」藻谷浩介さんに賠償命令 ブログコメントで名誉毀損”. J-CASTニュース. (2011年9月22日) 2012年6月1日閲覧。
^ 産経ニュース(2012年4月12日閲覧) http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110921/trl11092119470006-n1.htm
^ “デフレの正体」藻谷浩介さんに賠償命令 ブログコメントで名誉毀損”. J-CASTニュース. (2011年9月22日) 2012年6月1日閲覧。
関連項目


03. 2012年12月26日 10:26:06 : RZg3uY30MQ
アサマタロー夫婦の偶然結婚30周年:韓国スタッドレスタイヤ3泊4日ソウル旅行は2010.3.3〜6でした。キムヨナ冬季五輪凱旋帰国翌日だったので、日本人に対し愛想が良かった。2012年がロンドン五輪だったから、1年ボケました。


04. 2013年1月10日 09:40:27 : RZg3uY30MQ
最近の善光寺ウイキペディアの由来記事:

白雉5年(654年)より絶対秘仏とされている善光寺の本尊、「善光寺式阿弥陀三尊」は、欽明天皇の時代552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、紆余曲折を経て推古天皇の命により【本田(本多)善光】の手で初め飯田市に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。「善光寺」の名はこの本田善光の名から付けられたと伝えられ、また初めに遷座したとされる場所には元善光寺が現在も残っている。
善光寺に関する縁起については、院政期に書かれたとされる『伊呂波字類抄』にその引用があり、その記述には日本の仏教公伝の旧説とされる552年から丁度50年後の602年(推古天皇10年)に若麻績東人(本田善光)が仏像を入手して信濃に持ち帰り、更に166年を経た768年(神護景雲2年)に至ったことが記されている。『伊呂波字類抄』が参照した原典は、768年に書かれた善光寺の「古縁起」であったと見られている。田島公は推古天皇の時代、信濃国の大部分はヤマト王権(大和朝廷)の支配下にあって他の東国諸国とともに貢納を行っていたと推定されること(「東国の調」)、768年前後には称徳天皇・道鏡の下で仏教振興政策が取られており、既存寺院の把握も行われていたことから、【本田善光】の説話は全くの創作ではなく、768年に作成された善光寺の「古縁起」のモデルとなった伝承が存在したと唱えている[4]。善光寺のものと確証が得られている訳ではないが境内の遺跡から古代寺院の古瓦が出土しており9世紀の物と鑑定されている[5]。


05. 2013年1月10日 09:43:51 : RZg3uY30MQ
本田善光(ほんだぜんこう)は、信濃国の人物。善光寺を建立した。
略縁起 [編集]

欽明天皇13年(552年、一説に538年とも)、百済(朝鮮半島南西部)の聖明王が献上した天竺の月蓋長者造仏の阿弥陀如来像が、疫病流行のために物部氏によって難波(現在の大阪とも奈良県明日香村とも言われる)に捨てられた。
推古天皇8年(600年)、上洛していた本田善光がそこを通りかかるとその阿弥陀如来像(のちに長野市善光寺の古来から絶対秘仏として伝わる本尊となる)が水中から出現して背に乗った。
信濃国に戻り家に安置し、その後阿弥陀如来の霊告で、信濃国水内郡芋井郷(現在の長野市)に移座し、如来堂を建立して祀ったという。
善光寺阿弥陀如来 [編集]

舟形光背の阿弥陀三尊像で、単一の光背に三尊が納まる一光三尊如来と考えられる。
関連項目 [編集]

元善光寺
善光寺
甲斐善光寺


06. 2013年1月10日 09:46:20 : RZg3uY30MQ
ウィキペディアから削除された「百済王善光」
 Wikipediaから「百済王善光」が知らない間に削除されていた。藤原氏の仕業に違いないと思う。光仁天皇が善光の嫡流子孫であることを隠蔽するために削除させたのだろう。Wikipedia以外にも、多くの辞書サイトから「百済王善光」が削除されているようである。2012年10月29日今日現在においては、「goo Wikipedia (ウィキペディア)(http://wpedia.goo.ne.jp/)」、「暇つぶしWikipedia(http://yomi.mobi/wiki_search)」にもなかった。
@同じく、消されたと思われるサイト
百済王善光 - Yahoo!検索(人物)(魚拓)
http://megalodon.jp/2012-1029-2221-50/talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp296672
 Wikipedia同様に、消されてしまったのか、「百済王善光(不明)」となっている。
A2008年8月18日のWikipediaとほぼ同じ内容のサイト
百済王善光とは - はてなキーワード(魚拓)
http://megalodon.jp/2012-0919-2313-48/d.hatena.ne.jp/wikipediamobile/%2595S%258Dω%25A4%2591P%258C%25F5
 藤原氏に削除されず、残っていたサイトのようである。百済王善光のことが詳しく書いてあってよい。
B善光は豊璋の弟であると書いてあるサイト
百済善光 とは - コトバンク(魚拓)
http://megalodon.jp/2012-1029-2158-17/kotobank.jp/word/百済善光
 出典は書籍版『講談社 日本人名大辞典』。収録人物のデータは2009年1月20日現在のもの、とのこと。
 AやBも、藤原氏に見つかれば削除されてしまうのだろうか? 藤原氏は天皇制の支配者なだけあって、日本中に言論弾圧・思想弾圧の網の目を張り巡らせているようである。
C文章量が多いだけで分かりにくく、大事な情報(豊璋の弟 等)をあえて書いていないサイト
百済王善光 とは - コトバンク(魚拓)
http://megalodon.jp/2012-0919-2329-50/kotobank.jp/word/百済王善光
 「7世紀に亡命した百済の王族。」で始まる、書き手の頭の悪さが窺える、酷い文章。(佐藤信)(藤原氏の手の者?)が書き手の名前らしいが、出典さえ書かれていない。言うまでもなく、すぐ上の同じコトバンクの「百済善光とは」の方が遥かによい。「百済善光 とは」の存在に気付かずに、以前の「百済王善光 とは」の内容を破棄して、書き換えたのではないか、と推量される。

07. 2013年1月10日 10:04:15 : RZg3uY30MQ
=======最近は自公政権の復活で隠蔽が横行している。ウイキペディアも削除されていた!それでここに転写する。長野信州人のルーツは天皇家と同じ百済・伽耶系で、だから敗戦時に松代に自分達のルーツの百済人を半島から追い出した朝鮮人を強制労働させ塹壕を作らせた。これがアサマタロー私論だ!=======
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
百済王氏

本姓 百済王
家祖 百済王善光=======百済からの人質の王子:親戚の子===
(百済国第31代義慈王の王子)
種別 諸蕃
主な根拠地 河内国難波
北河内交野郡中宮郷
支流、分家 菅野朝臣===東北に多い名前で皆目鼻立ちが良いはず!==
和朝臣 など
凡例 / Category:日本の氏族
百済王(くだらのこにきし)氏は、百済最後の王である義慈王の子である善光[1]を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。

目次 [非表示]
1 概説
2 歴史
3 人物
3.1 飛鳥時代の人物
3.2 飛鳥時代から奈良時代初期の人物
3.3 奈良時代の人物
3.4 奈良時代末期から平安時代初期の人物
3.5 平安時代前期の人物
3.6 平安時代中期の人物
4 系譜
5 脚注
6 関連項目
7 関連文献

概説 [編集]

氏として「百済」を称する氏族は複数ある(百済朝臣、百済公、百済連、百済宿禰)が、王という特殊な姓の示すとおり、かつての百済を象徴する存在であったと思われる[2]。また延暦9年(790年)菅野朝臣の改姓上表で、当事者である菅野真道だけでなく百済王仁貞らが後見者然と名を連ねている[3]ことより、百済系渡来氏族の宗家的地位にあったことが知られる。
百済王氏の本拠地は当初難波にあったが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し[4]、この地に百済王の祀廟と百済寺[5]を建立した。百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。
歴史 [編集]

百済最後の国王義慈王は倭国と同盟し、===その王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に献上した。===しかし、660年百済は唐の進攻によってあっけなく滅び、百済王室は唐の都に連行された。百済復興のため倭国から朝鮮半島に戻った豊璋王も白村江の戦いに敗れ、高句麗に亡命するも、やがて唐に捕らえられ流刑となったため、日本に残った禅光王が百済王族の血統を伝えることとなった。
奈良時代末期には俊哲が陸奥守・鎮守将軍・征夷副使などに任じられ、武鏡は出羽守となるなど、敬福以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続した。
===平安時代初期には、桓武天皇の母(高野新笠)が百済系渡来氏族の和氏出身であったため天皇の外戚とみなされ[6]厚遇を受けた。一族の娘を桓武天皇・嵯峨天皇らの後宮の宮人とし、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得た。===本貫地河内国交野への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られる。
百済王神社の旧神主家である三松氏は百済王氏の後裔を称した。
なお、俊哲が坂上田村麻呂の副将軍として日高見国へ遠征したことから、百済王氏の一部かその縁者が北上盆地に定住し、岩手県南部各地に現在でも百済姓を名乗る者が散見される。全体としては近畿から福岡にかけての瀬戸内海沿岸に多い。[要出典]
人物 [編集]

飛鳥時代の人物 [編集]
扶余豊璋:善光の兄で、善光と共に倭国の人質となっていたが、鬼室福信ら百済遺臣に迎えられて帰国する。白村江の戦いの後に高句麗に逃れたが、唐に捕らえられて流罪となる。
百済王善光(601年 - 687年):持統天皇より百済王の氏姓を賜る。正広肆(従三位相当)、贈正広参(正三位相当)
百済王昌成(? - 674年)
飛鳥時代から奈良時代初期の人物 [編集]
百済王遠宝
百済王朗虞(661年 - 737年):従四位下摂津亮
百済王南典(666年 - 758年):備前守
奈良時代の人物 [編集]
百済王慈敬
百済王孝忠
百済王敬福(697年 - 766年):従三位刑部卿。『公卿補任』天平廿一午条百済王敬福の尻付には「南典弟也」とある。
奈良時代末期から平安時代初期の人物 [編集]
百済王理伯
百済王武鏡:出羽守
百済王明信(? - 815年):藤原継縄室。尚侍
百済王俊哲:陸奥鎮守将軍征夷副使
百済王仁貞:備前守
百済王教法:桓武天皇女御
百済王教仁:桓武天皇後宮
百済王教徳
平安時代前期の人物 [編集]
百済王教俊
百済王貴命:俊哲の娘。嵯峨天皇女御
百済王慶命:嵯峨天皇後宮。尚侍
平安時代中期の人物 [編集]
百済王勝義(779年 - 855年7月)
百済王貞連(くだらのこにきし ていれん/さだつら)
系譜 [編集]

(『続日本紀』天平神護2年6月壬子条百済王敬福薨伝による系図)
    義慈王
    ┣━━━━━━┓
    善光     扶余豊璋
    ┃
    昌成
    ┃
    朗虞
    ┃
    敬福
なお、百済王氏は詳しい系図が伝わっておらず、系譜関係が不明な人物も多い。『続群書類従』系譜部に「百済王氏系図」が収録されていたことが知られるが、現在伝わっていない。また百済王氏の後裔を自称する三松氏の系譜『百済王三松氏系図』[7]が存在するが、その史料価値には疑問を呈する意見[8]があり、『国史大辞典』等主要な辞典類でも採用していないものが多い。

(参考 『百済王三松氏系図』による系図)
         義慈王(第31代百済王)
           ┣━━━━━━━┓
           百済王善光 扶余豊璋
           ┃
           昌成
       ┏━━━━━━━━━━━┻━━━┳━━━━━━━━━━━━━━━┓
      朗虞 南典 遠宝
   ┏━━━┻━━━━━━━┳━━━┓    ┃    ┃
  孝忠 全福 敬福 麿 慈敬
   ┣━━━┳━━━┓    ┃    ┣━━━┳━━━┳━━━━━━━┓   ┣━━━┳━━━┓
  元忠 三忠 孝法 仁貞 理伯 利善 玄鏡 武鏡 英孫 仙宗 貞孫
   ┃     ┃   ┣━━━┳━━━┳━━━┓   ┃   ┃
  玄風 善貞 俊哲 明信 恵信 明本 教仁 淳仁
   ┣━━━┳━━━┓    ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓  
  勝義 安義 善義 聡哲 教徳 教俊 教法 貴命
   ┃    ┏━━━┳━━━┫    ┣━━━┳━━━┳━━━┳━━━┓   
  教福 鏡仁 貞香 真徳 豊俊 慶仲 慶世 慶命 永慶
脚注 [編集]

^ 『旧唐書』列伝34劉仁軌伝に「扶余勇者、扶余隆之弟也、是時走在倭国、以為扶余豊之応、故仁軌表言之」とある扶余勇と推定する説がある。
^ 「こにきし」という読みの由来については百済#王を参照。
^ 『続日本紀』延暦9年7月17日条
^ 河内国への移住は百済王敬福が陸奥で黄金を発見し河内守に任命されたことが契機になっていると言われるが史料上の根拠はなく、移住時期については異説もある。
^ 2006年の百済寺跡発掘調査により、これ以前から同所に何らかの建物が存在していたことが明らかとなった。出土遺物等から同所に建物が造営された時期は白鳳文化期と推定されている。(2006年4月11日:読売新聞朝刊 関西発「大阪・百済寺跡 百済王氏の邸宅か 大型建物跡が初の出土 壊した後に建立」 )
^ 「百済王等者朕之外戚也。」『続日本紀』延暦9年2月27日条
^ 藤本孝一「史料紹介 三松家系図」(『平安博物館研究紀要』第7輯 1982年)を参照。
^ 上野利三「『百済王三松氏系図』の史料価値について -律令時代帰化人の基礎的研究-」(慶應義塾創立125年記念論文集 慶應法学会政治学関係 1983年)
関連項目 [編集]

百済
義慈王
白村江の戦い
百済郡
百済寺
百済王神社
関連文献 [編集]

大坪秀俊: 「光仁朝における百済王氏」, 龍谷史壇, NO. 113, pp.19-52, 1999.
大坪秀俊: 「桓武朝における百済王氏」, 龍谷史壇, NO. 119/120, pp.118-177, 2003.
間瀬智広: 「「百済王」姓の成立と百済王氏の楽舞奏上」, 歴史研究 51, pp. 89-110, 2005.
田中史生: 「「王」姓賜与と日本古代国家」,日本古代国家の民族支配と渡来人, pp. 40-71, 1997.
田中史生: 「桓武朝の百済王氏」, 日本古代国家の民族支配と渡来人, pp. 72-109, 1997.


08. 2013年1月10日 10:15:29 : RZg3uY30MQ
義慈王(ぎじおう、599年 - 660年)は、百済の第31代、最後の王(在位:641年 - 660年)で、諱の義慈のままに義慈王と記される。第30代の武王の嫡男である。『旧唐書』などには扶余義慈(扶余または余は百済王族の姓)として現れる。
高句麗と共同し新羅を攻めていたが、逆に唐・新羅同盟を成立させてしまい、660年に唐に滅ぼされた。孝、泰、隆、演、豊(豊璋)、勇[1](百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた[2]。
目次 [非表示]
1 生涯
2 百済の滅亡後
3 子孫
4 脚注
5 参考文献
生涯 [編集]

幼い頃から父母を非常に敬って、兄弟と親しく過ごしたから臣民らが彼を「海東曽子」と呼んで 称頌をした。また太子の名前を「孝」と付けたほど親孝行を強調した。632年に太子に立てられ、641年の先代の武王の死と共に即位し、唐からは「柱国・帯方郡王・百済王」に封ぜられた。
義慈王は即位すると直ちに貴族中心の政治運営体制に改革を行った。642年に王族翹岐とその母妹女子4人を含んだ高名人士40人を島で放逐した。すると貴族らの権力が弱化されて王権が強化された。しかし王権強化のための義慈王の極端な措置のため、王族と貴族の間に対立が深刻になって、百済支配層の分裂が発生するようになった。またこのころは日本に朝貢もしており、===王子豊璋王と禅広王(善光王)===を人質として倭国に滞在させていた[3]。
642年7月に単独で新羅に親征し、獼猴など40城余りを下した。8月には将軍の允忠に兵1万を率いさせて派遣し、大耶城(慶尚南道陜川郡)を攻撃した。この攻撃は大勝に終わり、降伏してきた城主を妻子ともども斬首し、男女1千人を捕虜とし百済の西部に移住させた。また643年に高句麗と同盟(麗済同盟)して新羅の党項城(京畿道華城市)を奪おうとしたが、新羅が唐に救援を求めたため、新羅攻撃は中止することとなった[4]。
この間も唐に対して朝貢を続けており、新羅を国際的に孤立させて追い詰めようとしていたところが、新羅と唐との接触を招くこととなった。このとき唐からは百済・新羅の両国に対して和平を進めた。しかしこの後も644年から649年にかけて新羅との間に激しく戦争が行われた。はじめこそ一進一退であったが、徐々に金庾信の率いる新羅軍に対して敗戦気味となり、649年8月に道薩城(忠清北道槐山郡)付近で大敗した。
651年に唐に朝貢した折には、高宗から新羅との和睦を進める璽書を送られたが、その後も新羅との争いは止まらず、655年には高句麗・靺鞨と組んで新羅の30城を奪っている。しかしこの頃から連戦連勝で驕慢になった義慈王は酒色に走り、既に朝政を顧みなかったという。また、これを厳しく諫めた佐平の成忠(あるいは浄忠)を投獄したため、この後諫言するものはいなくなった。
660年、唐の高宗は詔をして蘇定方に大軍13万を率いて海路より進ませ、新羅の武烈王・金庾信の軍5万と連合(羅唐同盟)して百済を攻めることとなった。百済の側では迎撃と籠城とで意見が分かれたが、白江(錦江の支流)に引き込んで迎撃することとなり、結果として大敗を続けた。唐・新羅軍が首都の泗沘城(忠清南道公州市)まで迫ると、義慈王はいったん太子[5]とともに北方へ逃れた。このときに王の第2子の泰が自ら王を名乗って泗沘城を固守したが、太子の子の文思が隆に相談して、唐軍が去ったとしても自立した泰に害せられることを恐れて投降した。これを見た泰も開城して投降し、逃げのびていた義慈王も諸城をあげて降伏し、ここに百済は滅んだ。
義慈王は妻子とともに長安に送られ、そのまま唐で病死し、「金紫光禄大夫・衛尉卿」の爵号を贈られた。また、隆には司稼卿の爵号が贈られた。
百済の滅亡後 [編集]

百済滅亡後、子の一人豊璋が倭国と軍事援助を受け復興戦争を行うが、白村江の戦いで大敗し、失敗に終わった。また唐は、百済旧領を熊津都督府を置いて羈縻州としたが、百済遺民を慰撫するため、665年、義慈王の王子の扶余隆を熊津都督・百済郡公・熊津道総管兼馬韓道安撫大使として旧百済王城の熊津城に入れ、その統治に当たった。その後新羅の勢力が強くなり、都督府は撤退を余儀なくされた。高句麗、===百済の地は新羅、渤海、靺鞨に分割され、===百済の影響は朝鮮半島から完全に消滅する。===677年2月、唐は扶余隆の封爵をかつての百済国王と同じ光禄大夫・太常員外卿・熊津都督・帯方郡王に格上げし熊津都督府を回復しようとしたが、既に百済旧領は新羅領となっており、隆は熊津城に帰ることが出来なかった。682年、隆は洛陽に没し、輔国大将軍の爵号を追贈された。則天武后が隆の孫扶余敬に衛尉卿を授けて帯方郡王に封じたが、旧領の回復は全く出来ず、子孫も断絶した。1920年、扶余隆の墓誌が洛陽で出土し、中国正史や『三国史記』等には記載されていない隆の経歴や爵号、生没年などが判明した。
子孫 [編集]

子の一人善光の子孫は百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、日本の貴族として続いた。また、朝鮮の扶餘(プヨ)徐氏は義慈王の子孫であるといわれている。


09. 2013年1月10日 11:33:48 : RZg3uY30MQ
 信州人の上流階級は天皇家や藤原家と同じ人種で古代ヘブライ系・高句麗百済系だ。藤原の血塗られた日本史を見れば解る様に、謀略・陰謀の天才集団血統だ。
人相を見ると直ぐ分る様になった。美智子さんが皇室に入る以前の皇族の顔です。

私は美智子さんの系統が続く限りの皇室存続支持者です。


10. 2013年1月11日 14:20:37 : RZg3uY30MQ
松代大本営塹壕の根拠は信州人が百済・伽耶時代から最も天皇家に近い人種だからだだった。最後まで天皇家・天皇制を裏切らないと彼らに信じられたからだ。

『夜明け前』等の小説でも分かる様に大和朝廷の最前線が信州だった。関東や山梨はアテルイ系の国だったから、天皇の奴隷=部落民は居なかった。東日本は平等社会だった。


11. 2013年2月09日 21:21:19 : RZg3uY30MQ
田原の朝まで生テレビの再放送:元日分を2013.2.9(土)午前中に見たが、
藻谷さんは余り頭が良くない様だ。隣の慶応商学部卒の女に窘められていた。
人口減少がデフレの正体も馬鹿げている。自分の言葉でしゃべれない。あのメンバーでは最下位か?!!大した事を言っていない。

私は地方板に善光寺が有ったので、信州人に自分のルーツを考えて欲しくて、コメント寄生した者。  アサマタロー


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