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日航ジャンボ123便 墜落直後に自衛隊が誤報を何発も流し、警察と連携して、地元民による捜索の足を食い止めた。
http://www.asyura2.com/09/lunchbreak27/msg/1222.html
投稿者 愉快通快 日時 2012 年 2 月 17 日 08:05:08: aijn0aOFbw4jc
 

(回答先: 日航ジャンボ123便 生存者は自衛隊員がアーミーナイフで殺害していた 投稿者 愉快通快 日時 2009 年 9 月 10 日 20:39:29)

和順庭の四季おりおり
私たちの庭:和順庭の四季おりおりを写真と随筆でつづります。
日航機墜落:慰霊祭に参列して2011/08/11(木) 16:00:47
 「急な話ですが、日航機が墜落事故を起こした、8月12日(金)、また御巣鷹山の慰霊登山を行い、追悼慰霊祭にも主婦のジャーナリストとして参加してみようと思っています。またそれまでの過程も含めてUSTREAMで中継したいと思います。

 ただ御巣鷹山や上野村の電波環境はまだわかりませんので、中継がどうなるか実際に行ってみるしかありません。
 なおガイガーカウンタをお持ちの方はあるブロガーの方がおっしゃるような中性子爆弾を搭載されたミサイルなどの影響が残っているか検証してくださればありがたいかと思います。日航機墜落事故では無関係かと思われますが、もし検知された場合はこのブログのコメントでご紹介していただければありがたいかと思います。
 
 ただ一般の原発事故以上の放射線量が検出されるかどうかがポイントかと思いますが。なお検知された現場の写真などもございましたら、このブログの秘密のコメント欄にメールアドレスをお知らせいただければ、私のメールアドレスなどをお知らせしますので、添付してお送りください。匿名でご紹介いたします。」

と書きましたが、御巣鷹山に行ってきました。


 2011年(平成23年)8月12日(金)御巣鷹山慰霊登山・慰霊祭


 御巣鷹山を目指して


山道に入る。この山を日航機に乗っていた乗客もあの日眺めていたと思うと、厳粛な気持ちになる。


上野村慰霊の園で

御巣鷹山頂で


昇魂の碑

焦げた木の幹に若木が生えていて、私が初めてこの山に登ったとき、山が「このまま事故のことをうやむやにしないで!」とすすり泣いていて、何かを訴えていると思えたのだが、この若木を見たとき、しだいに真実が明らかになり始めて、しだいに安らかな山になっているように思えました。

慰霊祭ろうそく供養

 

 なお「日航機墜落の真実を求めて」の服部順治さんがはじめた、

http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/
リアルタイム推理Wiki小説「9.11ネクスト 〜次なる危機の回避にむけて〜」 で書かれた、

http://www16.atwiki.jp/911next/
「中曽根康弘元首相のつぶやき」

http://www16.atwiki.jp/911next/pages/15.html
を下記に紹介いたします。

 著作権フリーなので、ご自由にご利用ください、とのことです。

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
「中曽根康弘元首相のつぶやき」  日航機墜落事故などについて


「ふぅー」
迎え火の煙の行き先をぼんやりながめながら、中曽根は大きなためいきをついた。


またあの8月12日が訪れようとしている。


 「あの時代は、あー、するしかなかったんだよ」と何度も自分に言い聞かせるように心の中でつぶやくのだった。


 共産主義国家のソ連や中国の脅威から日本を守るには、日米安保の強化しかなかった。「日本を浮沈空母とする」と私がさもアメリカ側に約束したかのごとく揶揄して言われたが、実際、その道しか残されていなかったのだ。現に今の日本でさへアメリカの支配を間接的に受けていて、鳩山君があんな沖縄の小さな普天間基地さへ移転できなかったぐらいだから。


 アメリカの力は強大だ。こんな強い国を相手に、なぜ我々、日本民族は戦いを挑んでしまったのか。当時の海軍はかなり客観的にアメリカや自国の軍隊の力を把握していたが、陸軍は感覚的に動き、統率力に欠ける部分が多かった。
 まあ、こんな過去の話をしても仕方ないが、とにかくアメリカの力だけは見くびらないほうがいい。橋本君も周囲の知人にもらしていたが、アメリカほど怖い国はない、と言うのは本当だ。
 
 いまだに日航機墜落のときの原因となった誘導ミサイルの衝突は我々のコントロールミスによる事故だったのだろうか、疑問が残ったままだ。
今となっては真実を解明することすらできない。
証拠はもう御巣鷹山のダムの下に眠ってしまっているのだから。
相模湾から引き上げた尾翼もいっしょに。


 あの日航機のパイロットも非常に優秀だった。自衛隊機の誘導どおりに私の選挙区の群馬県上野村で墜落してくれた。そのおかげで近くの秘密基地にいた自衛隊の特殊部隊がすぐに出動できて、夜明けごろまでには証拠隠滅をはかることができた。
 
 中国の鉄道事故での証拠隠滅をあきれている日本人がいるが、日本ではそれらを影でやってて、ただ一般の人たちに見えないようにやってるだけだ。
 まあ、中国のようにあからさまにやらず、巧妙に裏にまわってやっている、というわけだ。


 事故当時はアイソトープ積載などいくつか理由をつけ、わざと間違った場所を教えて、救助隊の到着を遅らせたりしたからな。
 ただこれも長野県警のヘリコプターが正確な位置を知らせてしまって焦ったこともあったが。
 
 また救助に向かおうとした自衛官を射殺してすまないことをしたと思うが国の体制を保つことを優先させるのが首相の仕事だ。


 また日本のマスコミはよほどアメリカの気分を害した政治家以外には、後から真相を追及しないのが暗黙の了解だ。日本のマスコミには政府が言ったことをなるべく正確に伝える通信者はいるが真実を探るジャーナリストはいない。いや、そんなことをする記者が出ては困るのだ。あくまでも政府や警察の言うとおりのことを伝え、時々、順番に記者クラブを通じてちょっとしたリーク記事のネタをあげるようにしているだけだ。
そうしないと彼らマスコミも商売にならないからな。
 
 最近はネットの普及で、そのへんのからくりもさらけだされるようになってしまったが、それもごく一部の目覚めた人たちでしかないようだ。
 日本のサラリーマンはいわゆる社畜の状態だから、上の機嫌や周りの空気を読んで合わせる人間が圧倒的に多い。そうしないと社会や会社で生き続けるのは大変だろうからな。
 
 出る杭は打たれる。政治家では小沢君がいい例だ。世界では3番目に優秀な政治家ともてはやされている彼でさへ、マスコミは「政治と金」と言うキーワードだけで、こぞって彼を叩いている。朝日新聞の最高の編集主幹であった船橋洋一君がCIA協力リストに挙げられていたことからもわかるように、進歩的だと思わされていた朝日さへアメリカのコントロール下にはいっていた。
 
 まあ小沢君の政治的な現在の状況は、本当は、日本にとって非常に不幸で残念なことだ。
 元々、アメリカ側が小沢君を無視して、菅君や岡田君に直接、接触するようになった時点で、すでに相当、小沢君はアメリカを怒らせてしまったことがわかった。
 
 アメリカの軍隊はもう第7艦隊だけでいい、とか、民主党の若い連中を何百人も率いて中国に訪問なんてやっていたからな。
 小沢君ももっと柔軟にうまくやればいいのに、あの頑として譲らない強気の性格がつい出てしまうのだろう。政権交代を果たし、さあ、これからは思い通りの政治ができる、と舞い上がってしまった所もあるのだろう。角さん譲りだなー、あの性格は。
 
 ただ鳩山君ほどのんきな人ではない。
あの鳩山君ほど政治家としての苦労をあまり知らない人もめずらしいだろう。
だからアメリカの本当の怖さを知らないんだ。お坊ちゃんで育ってしまった結果だろう。

小泉君もその傾向が強く、あまりにもアメリカを過信しすぎていた。
あまり根拠のない信念に自分で酔っていたようだ。
まあ2世議員の弱点だろう。
その点、菅君ほど総理大臣に執着心をもった人間も見たことがない。
それほど若いときから憧れ、野心を燃やし続けてきた結果だろう。
その執着心だけは2世議員は見習わないといけないかも知れん。

 ただ彼は左翼ぶった改革者のつもりかもしれないが、本質的には体制側の人間だったことは確かだ。東工大でも大学改革でもりあがっていたストライキを自分の就職事情もあってか「ストライキをやめさせた、いわゆるスト破りの人間だ」と聞いたとき、なんだ、改革を途中でやめさせるリーダだったのか、と合点したぐらいだから。

 時代の潮目を見る目をもってるだけで、いわゆる波乗りが上手な政治のサーファーだ。そこには何ら信念や責任感は見えてこない。
その場、その場をなんとか乗り切ってやり過ごすことしか頭にないからだ。
橋本君がその彼の性格をうまく利用して、厚生省の改革をやっていた。
ビジネスでもそこをうまく利用すれば、彼ならすぐに乗ってしまう。
孫君はそのへんうまく使っている。

 ただアメリカ側も原発対応でここまでひどい首相だとは想定していなかったようで、対日戦略上の見直しをやっているようだ。
 この想定外が何なのか、私にはよくわからない。ただ本来なら原発事故が起こった当初、すぐアメリカ側の言うとおりに処置するるはずが、逆に専門家の言うことを聞き入れず、国民にとって悪い方向にどんどん進めてしまった、と言うことらしい。

 その想定外のことが、今後の彼らの計画上、どう影響を与えるのかわからない。
わかっていることは、今までどおり、わが国や中国など、BRICsを巻き込んで、壮大な量のお金をアメリカに舞い戻らせように仕組んでいることだ。
 
 あの国のドルはもう数年で限界点に達するのは誰の目にも明らかで、その結果を予想することはアメリカのみならず世界の経済を誰も予想もしたくない未知の混乱に陥れることになってしまうから、マスコミでも徹底して議論されることはない。
 ただその混乱に乗じてか、その混乱を故意に起こしてか、第2の9.11やCO2犯人の温暖化詐欺が一斉にはじまるような予感がするのだ。

 どちらにしても二大政党制で内輪で争っている場合でないことだけは確かだ。 渡辺君もそのへんを察知してか、大連立などをぶちあげたけど、ぽしゃってしまった。

世の中の裏の動きを解析できるジャーナリストを育てず、世の中の上っ面の情報を伝達するだけの通信社機能しかもたないマスコミを維持・経営してきた渡辺君の因果応報でもある。

 「福島の放射能汚染はいますぐ健康被害はない」と書いている東大出身の一流記者に、本気でこんなこと思っているのか、聞いたことがあったが、「えぇ、そこにも小さくのっているように枝野官房長官の記者会見で、そう言ってました。私はその事実を書いているだけです。」と、胸をはっていた。そうか、マスコミとは通信社のことだったのか、と合点した。
 
逆に、これでないと我々、統治している政治家にとって都合が悪いのだ。
マスコミに考える人間、疑いをもつ人間がいてはまずいのだ。


 まあ、それにしても、今後のアメリカの動きが気になるこのごろだ。

日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(0)山全体からの水蒸気は何を意味するのか?2010/12/01(水) 10:25:02
日航機の救助にあたった第一空挺団は、墜落場所が特定されず、かなり時間が経過してから救助にあたったが、この時、山全体から水蒸気が上り続け、地面が熱せられて歩いていても足の裏が熱くなっていたと証言している。

遭難場所がわかっていながら誤報を流し続けたり、米兵が救助寸前で命令により引き返したり、待機命令が出され救助隊がすぐに救助にあたれなかったりということから、放射性物質による汚染などということも取りざたされているが、水蒸気と歩くのも熱いほどの地面から、中性子爆弾とか水爆とかといった説もでてくるのであろう。真偽のほどはわからない。にわかに中性子爆弾とか水爆とかといった説を認められるほどの確証もない。しかし、このことが何を意味するのだろうかという疑問は残る。

 墜落の速報と同時に、NHKニュースで「待機命令に違反した自衛隊員を射殺!」という字幕が流れたのも、ひっかかる。なぜ、待機命令なのか?このことが日航機が放射性物質を積んでいたとか、撃墜するのにこの種の爆弾がつかわれたというような説につながるのだろう。

また、御巣鷹の「神流川地下発電所」は、地下500m(標高1380mの山なので実質的に880m程度のところ)につくってあり、 御巣鷹発電所の地下空洞を拡張すると、高レベル放射性廃棄物の投棄場になるということもわかっている。

今わかっているのはこれだけで、これ以上は推測の域を出ない。しかし、これらのこともやがてわかってくるのかもしれない。

日航ジャンボ123便 第一空挺団「足の裏があつくなる」 (山体全体から立ち登り続けていた水蒸気と密接な関連か?


浜岡原発パンフによれば、高レベル放射性廃棄物地層処分は地下500mと書いてあります。  御巣鷹の発電所は地下500mです。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/868.html
以前、なんだかどうしても浜岡原発にいかなければならないような気がしまして、掛川の友人の案内で浜岡原発を見学しました。

その頃は気がつかなかったのですが、2010年11月10日の日航ジャンボ123便静岡県内航路めぐり取材で見た浜岡原発PRパンフの『F原子燃料サイクル』のところに「高レベル放射性廃棄物 地下500m」と書いてあります。

そういえば、御巣鷹の「神流川地下発電所」は、地下500m(標高1380mの山なので実質的に880m程度のところ)につくってあります。

御巣鷹発電所の地下空洞を拡張すると、高レベル放射性廃棄物の投棄場になるということです。
分水嶺地帯の水源地に高レベル放射性廃棄物処分場が建設されれば、東京、埼玉、千葉、茨城、長野、新潟、の各県の飲料水は軒並みダメージを受け、日本人弱体化に拍車がかかりかねません。


日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(2)日航ジャンボ123便 生存者4名に貢献「長野県警レスキュー隊」と事故機残骸は調布宇宙関連施設へ2010/11/19(金) 20:11:29
 「阿修羅」に、中曽根全員死亡命令で動けなかった群馬県警に対して、他県への越境救助を無理やり敢行して、生存者4人を救助したのは長野県レスキュー隊だったという事実が出ていた。
また、「未納入自衛艦「まつゆき」は、JAL123便の破片を拾っている。そして、この破片をマスコミの目の行き届かない館山港に陸揚げした。見つかっていないと思われていた尾翼の部分は実は陸揚げされ、その引き上げられたばかりの尾翼の写真(週刊文春の元ネタ写真参考)を自殺した自衛官は友達に託していた。」という情報があるがhttp://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-887.html、事故機の残骸の多くは、調布の宇宙関連施設へ運ばれたということで、運輸省航空事故調査委員会123便報告書のJA8119号機報告書205ページ残骸写真57に 「調布行き」のマジックの文字が見られることが、下記の「阿修羅」の引用写真からも明らかである。


阿修羅 
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/364.html
日航ジャンボ123便 生存者4名に貢献したのは「長野県警レスキュー隊」であった。群馬側の人間を大変に威圧し全員死亡を回避
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak43/msg/364.html
投稿者 愉快通快 日時 2010 年 10 月 22 日 02:21:19: aijn0aOFbw4jc

1985年8月13日当時、朝10:00頃に御巣鷹スゲの沢に入った写真記者から話を聞けたのだが、「長野県警レスキュー隊は大変高圧的威圧的な態度であった」
ということなのである。

全員死亡目前に、人道的な見地から、他県への越境救助を無理やり敢行した長野県警レスキュー隊の動きにより、生存者が出たのが実態である。

警察が越境するということがどれほど大変な事態かおわかりいただけるだろうと思う。中曽根大勲位からの全員死亡命令で動けなかった群馬県警だが、中曽根大勲位を恐れず人命優先で動いた長野県警レスキュー隊はもっと評価賞賛されるべきである。


群馬県上野村のJAL123便における生存者4名に貢献したのは「長野県警レスキュー隊」であった。群馬側の人間を大変に威圧し全員死亡を回避した。


<参考>必死に生存者 落合由美氏 を背負って尾根に向かう長野県警レスキュー隊
http://img.asyura2.com/us/bigdata/up1/source/2412.jpg  
コメント
01. 17 2010年10月23日 10:56:51: vQDUeEHob2Pro : iE8f4U9IqM
人命第一の長野県警レスキュー隊、賞賛すべき決断と行動力です!

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日航ジャンボ123便 航空機事故の残骸が『宇宙関連施設』に運ばれていたというのは意味深です。 205ページに「調布行き」。
http://www.asyura2.com/10/lunchbreak44/msg/176.html
投稿者 愉快通快 日時 2010 年 11 月 17 日 14:03:45: aijn0aOFbw4jc

(回答先: 日航ジャンボ123便 日航ジャンボ123便 米軍横田基地「サムライサージ」(牡丹→ウンモマーク 向上訓練→シンポジウム) 投稿者 愉快通快 日時 2010 年 11 月 13 日 09:07:33)

運輸省調査報告書写真の「調布行き」は調布航空宇宙センター行きだった。


運輸省航空事故調査委員会123便報告書のJA8119号機報告書205ページ残骸写真57に
「調布行き」のマジックの文字が見られます。
http://jtsb.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/pdf/62-2-JA8119-07.pdf
これは近隣の「調布宇宙航空センター」行きだったのです。1985年末の123便についてのNHK特集に、調布航空宇宙センターが出てきます。昨日、調布航空宇宙センターに行ってきました。
http://www.youtube.com/user/123ja8119osutaka#p/u/6/7Mq4MmD9f48
「航空機事故」の残骸が、宇宙関連施設に運ばれていたというのは意味深です。
1985年末に放映された123便に関するNHK特集に調布の宇宙施設が出てきます。
http://img.asyura2.com/us/bigdata/up1/source/2712.jpg
また「疑惑JAL123便」の書籍の「角田氏」という名前ですが、「角田航空宇宙センター」と同じ字を書きます。

昨日、角田宇宙センターまで行ってきました。
すると、「角田宇宙センター」は海軍の弾薬庫跡につくられていました。
 http://www.youtube.com/user/123ja8119osutaka#p/u/10/S676foiuZ18

日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(0)19  日航機墜落の真相は?  *事故機乗客 小川 哲氏撮影の写真 と ニュース速報 は何を意味するのか?2010/08/19(木) 10:55:42

 事故発生時のニュース速報の中で、「右側ドアが故障したので緊急降下」という事故機からの第一報が伝えられている。

 また、事故機に乗っていた小川哲氏の撮影した写真は、R5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚で、。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える。

画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます。」ということだった。

 このオレンジの物体ミサイル(標的機)だとすると、迫り来るその物体を撮影し、真相の究明を我々に残して亡くなったともいえる。

 ニュース速報では、すでに7時頃には墜落機を住民が目撃し、また、アメリカ軍も墜落現場を把握していたことがわかる。それなのに、なぜ翌朝まで墜落現場が特定されず、救助されなかったのか?隠ぺい工作が行われたと疑念をもたれるのも当然だと思われる。

 もし、この事故が今言われているようなミサイルの誤射だとすると、加害者の立場に立たされた日航職員もまた被害者ということになる。遺族との交渉中に亡くなられた日航職員をはじめとして、多くの方々の人生がこの事故によって失われたも同然のものとなったということになる。

「墓場までもっていく」ことでは、この事故で亡くなられた乗客の命やご遺族の願いは何ら報いられない。真実を知る者は、語るべきである。いや、その時が来たのだと思う。

 また、「ーJAL123便墜落事故25年目の記録ー」というよくまとめられているブログがありました。これから事故原因についてどのようにまとめられるのか楽しみです。
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-6.html


日航事故機乗客 小川 哲氏の残した写真は何を語るのか? 

「日航機墜落の真実を求めて 」 ブログ
http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/
「一部引用:『週刊現代』8月14日号は、この点に関する本書の問題提起を4頁にわたって大きく取り上げている。タイトルは「JAL機墜落25年後の真実」。本書のグラビアにも掲載されている写真で、父母と妹の3人を失ったA氏から提供されたものである。そこに「何か」が写りこんでいる。

これはA氏の父親がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚である。最初の方は、窓の外の普通の風景で、これを撮影したのはA氏の妹で、旅の思い出として撮ったものとされる。だが、その次(10枚のうちの5枚目)から不思議な写真が続く。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える(『週刊現代』の著者インタビューより)。

青山さんはパソコン上でこの写真を拡大していったところ、オレンジ色に変色していったという。画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます」という。

ネガを直接鑑定すれば、この「オレンジ」の正体も分かるだろう。123便は「横」からのG(圧力)によって機体が揺れている。「後部圧力隔壁損壊」では横揺れは起きないという。この「オレンジ」が右方向から123便に接近しているとすれば、この「オレンジ」と123便墜落との間に重要な関連があるとは言えまいか。」

小川哲氏撮影の写真 
http://file.ascensionnote.blog.shinobi.jp/uhguihiu.jpg

日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(4)18 日航機墜落の真相は? *事故当時の管制官が思いを語る2010/08/18(水) 19:32:01
 日航機墜落当時、東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として上空の航空機と交信していた管制官が沈黙を破り、事故墜落時の悲鳴が忘れられないと書いている記事を紹介したい。事故を風化させないとの思いで、ここへ来て多くの人々が、知っていることを語ったり、事故当時の事が書かれているのをブログに抜粋したりして、自分のできることをしはじめた。この気持ちが何かを動かすことになるのかもしれないと思いながら。

asahi・com http://www.asahi.com/national/update/0810/TKY201008100270.html
墜落前の悲鳴「今も耳に」 日航機の管制官、沈黙破る(1/3ページ)
2010年8月10日16時48分

「夏になると当時に引き戻されるんですよ。(日本航空のジャンボ機の)墜落直前にヘッドホンを通じて耳に届いた、パイロットの『ああっ』という悲鳴のような声が忘れられない」

 西日本のある空港で、男性(54)は言葉を選び、語り出した。

 25年前の夏。東京航空交通管制部(埼玉県所沢市)の管制官として、上空の航空機と交信していた。8月12日も普段と変わらない一日だった。

 当時29歳。管制官になって8年目だった。先輩管制官らと「関東南セクター」という空域を担当する勤務に夕方からつき、管制卓に着席した。羽田への到着便が増える時間帯。「そろそろ忙しくなるぞ」と思った矢先だった。

■午後6時24分47秒

 「ブーッ」。管制室内にブザー音が鳴り響く。レーダー画面の日航123便の機影に、緊急事態(エマージェンシー)を示す「EMG」の文字が点滅し始めた。乗客と乗員計524人。午後6時12分に羽田空港を離陸し、大阪(伊丹)空港に向かっているボーイング747型機だった。部屋の隅から、上司が近づいてきた。

■同25分21秒

 「日航123便、トラブル発生。羽田への帰還を求める。2万2千フィート(高度約6700メートル)に降下したい」。機長の声が英語でヘッドホンから流れてきた。

 「了解」。そう答えながら「おかしいな」と感じた。エンジン出力が低下した、客室内の気圧が下がったなどと、普段ならトラブルの中身を伝えてくるはずだが、機長は何も言わない。

 心が騒いだ――。

     ◇

 東京航空交通管制部に「羽田へ戻りたい」と告げた日本航空123便は、旋回することなく、ふらふらと伊豆半島上空を西に向かっていた。

■午後6時27分2秒

 「123便、確認しますが緊急事態を宣言しますね」

 「その通り」

 「どういった緊急事態ですか」

 やはり応答はない。「とんでもないことが起きているのでは」


■同28分31秒(地図上の1)

 「レーダー誘導のため90度(東)へ飛んでください」

 「しかし、現在アンコントロール(操縦不能)」

 衝撃的な言葉だった。普段はオフのスピーカーがオンになり、123便とのやり取りが管制室中に響いた。

■同31分2秒(同2)

 「降下できますか」

 「今、降下しています」

 「名古屋に降りますか」

 「いや、羽田に戻りたい」

 「何とかしたい」。そう思うと、とっさの呼びかけが口をついた。「これから日本語で話していただいて結構ですから」

 パイロットと管制官とのやり取りは、近くを飛ぶ航空機でも聞き取れるよう、通常は英語を使う。でも今は、パイロットの負担を少しでも減らし、事細かにやりとりしたかった。

 123便は北に向かう。すでに隣の空域に移っており、無線の周波数を切り替え、別の管制官に移管するところだが、そういう指示はしなかった。「切り替えたはずみで無線がつながらなくなるかもしれない。そうしたら日航機は命綱がなくなってしまう」

 じりじりとしながら画面をにらんだ。他機が近づかないよう、航路から退ける指示を続けた。

 富士山をかすめた123便は、羽田のある北東に向かい始めた。「戻れるかもしれない」。かすかに期待も芽生えたが、周囲は山。機体の高度は5分間で一気に3500メートルも下がっていた。

■同47分17秒(同3)

 「現在コントロールできますか」

 「アンコントローラブルです」。もはや管制官はまったく役に立っていなかった。ヘッドホンから「ああっ」という声も聞こえてきたが、機内で何が起きているのかは、わからなかった。

 「おれはどうしたらいいんだ」。絶望が襲う。その頃、機長らが必死に山を避けて操縦を試みていたことは、後で知った。


■同53分28秒(同4)

 「えーアンコントロール。ジャパンエア123、アンコントロール」

 「了解しました」

 これが最後の交信になった。

 3分後、糸の切れたたこのように画面上を点滅しながら漂っていた機影が止まった。その場で十数秒間点滅した機影は突然、消えた。

 体に電気のようなしびれが走った。薄暗い管制室は静まりかえった。背中越しに指示を送っていた上司も、先輩も黙っていた。30秒ほどして、上司に促されて呼びかけてみた。「ジャパンエア123、ジャパンエア123」。応答はなかった。

 ヘッドホンを外し、席を立った。別室で報告書を書いた。妻には「いつ帰れるか分からない」と電話で告げた。頭の中で何度も、交信した「最後の30分」を繰り返していた。

 朝方に帰宅して、墜落した機体をテレビで見た。ショックを気遣った上司に数日、休みを与えられた。事故原因を調べる国の航空事故調査委員会や警察から、事情を聴かれることはなかった。

   ◆  ◆

 管制官の仕事を続け、最近までいた部署では事故防止の対策づくりに取り組んできた。今は管理職として空港事務所で管制関連業務に携わっている。だが、123便と交信していたことは、家族や一部の同僚しか知らない。

 事故から数年後に御巣鷹の尾根に立った。その後も、遺族や報道陣が多い8月を避けて、仲間や家族とたびたび登ってきた。

だが、尾根へと向かう険しい道のりや、事故で傷ついた山肌を見るたび、あの時のつらい思いが呼び起こされた。無理だったと分かっていても「自分が何とかできなかったか」という思いはぬぐえず、表に出て話す気持ちになれずにいた。

 最近になって、 「事故を風化させないため、今ならできることもあるのでは」との考えが頭をよぎるようにもなった。世界各地で飛行機事故が起きるたび、原因は分かっているのか、管制官はどう対応したのかと気になる。

管制の現場には、御巣鷹の後に生まれた管制官も出てきた。航空会社の経営はどこも厳しく、安全よりもコスト削減ばかりが取りざたされるのが気がかりだ。

 25年前の「あの夏」のことを伝える時期なのかもしれない、と思いはじめている。

     ◇

 日航123便墜落事故 1985年8月12日午後6時12分に羽田空港を離陸した大阪(伊丹)行きの日本航空のボーイング747型(ジャンボ)機が、12分後に相模湾上空で操縦不能になり、同56分に群馬県上野村の山中(御巣鷹の尾根)に墜落した。乗客509人と乗員15人のうち乗客4人を除く520人が死亡した。

スペイン・カナリア諸島の空港で77年にジャンボ機同士が衝突し、583人が死亡した事故に次ぐ惨事で、単独機の事故としては現在も世界最悪。

 国の航空事故調査委員会は87年、機体後部の圧力隔壁の亀裂が広がって破壊され、一気に噴き出した客室内の空気が尾翼などを吹き飛ばしたとする調査報告書を公表。

この機体は事故の7年前に伊丹でしりもち事故を起こして隔壁を損傷しており、この際にボーイング社が行った修理が不適切だったことが破壊につながったと結論づけた。

 御巣鷹以降、日本の航空会社は乗客を死亡させる事故を起こしていない。


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Author:熊木和枝:東京都練馬区
 和順庭という庭のガーデニングを趣味としてやっています。高校教師をやめて、ガーデニングのブログを書いていたのですが、小沢問題から真実を調べているうちに、マスコミや検察自体がおかしくなってきていることに気づき、ブロガーたちと検察の捏造や冤罪を追究し、ついに村木局長事件では無罪判決を得ることができました。最近は、市民の立場で真実を追究する政治的内容が多くなってきています。


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しかし、これらのこともやがてわかってくるのかもしれない。 日航ジャンボ123便 第一空挺団「足の裏があつくなる」 (山体全体から立ち登り続けていた水蒸気と密接な関連か?... テキストに移動 »
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和順庭の四季おりおり
私たちの庭:和順庭の四季おりおりを写真と随筆でつづります。
17 日航機墜落の真相は? *「スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜」から見る日航機事故2010/08/17(火) 11:37:03
「スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜」として書かれている「ロブノール」ブログには、当日の事故からその後の様子が描かれている。

この事故の流れがよくわかるので、紹介していきたい。(パイロット名などが間違っている : 高濱機長→進路の巡視、クルーへの指示など・佐々木副操縦士→操縦桿操作、エンジン出力調整など・福田航空機関士→エンジン出力調整、クルーのサポートなど)

ロプノール
http://lopnur01.dtiblog.com/blog-entry-1.html

スコーク77〜日 航 機 墜落事故 に捧ぐ〜
2008/02/17(日) 01:11:52


 秋晴れのお台場は家族連れや若いカップルたちでにぎわっていた。学生だった頃10数年前は確かここには何もなかった。時の流れはこの場所を放送局やイベント施設の立ち並ぶ一大観光スポットへと変えていた。ふと空を見上げると数分ごとに大小さまざまな旅客機がお台場上空をかすめ羽田へと着陸してゆく。それはまるで華麗に現れては舞台のそでに返ってゆくファッションショーのようだった。

 その中でひと際目をひくのはジャンボと呼ばれるボーイング747の機影であった。その巨大な機体は大海をゆうゆうと往くくじらのようでもあった。息子は「ジャンボ!ジャンボ!」とおおはしゃぎだった。妻は「よくあんな大きいものが宙に浮くわね。何人くらいのれるのかしら?」「うーん確か500人くらい乗れるんじゃなかったっけ」ふと自分のなかにある数字が蘇ってきた。「500、、、500・・・524だ!」

20数年前に起こったある事故の紙面である。
『羽田発大坂行きJAL123便、乗客乗員524人を乗せてレーダーから消える。長野・群馬県境の山岳地帯に墜落・・・』

1985年8月12日、羽田発大坂行きJAL123便は、乗客509人、乗員15人、合計524人を乗せて、午後6時12分に羽田を離陸したが、午後6時56分30秒、群馬県側の山岳地帯である高天原山に墜落―乗客のうち重傷4名は8月13日に救出されたものの、520人は還らぬ人となった。

**********************************
事故から20数年経っていた。高天原山のあの尾根に来ていた。時折雨が降りしきり地上とは異なる別の世界を感じていた。

 上野村には子供のころ家族旅行で訪れていた。鍾乳洞があってイノブタの郷土料理を食べた記憶がある。神流川に沿う国道299は当時来た頃も今もほとんど変わらない気がした。

ただし上野村に入った頃からは見違えるような新しい道路と整備されたトンネルが現れた。そして浜平地区から御巣鷹の尾根へと続く道も途中のダムまではまるで有料道路のように整備されていた。しかしダムから先は落石注意の看板が現れ、一転して狭い山道になった。結局国道299より車止め(新)まで車で40分くらいかかった。

少し前までは旧車止めからの登山ルート(2k)があり見返り峠を経て約2時間かかっていた。今はもう少し上に車止め(新)ができたおかげでそこから徒歩で700m沢を上ると尾根に付く(約20分)。それでもかなりの急騰で、決してハイキングコースのようなものではない。

尾根に近づくと1D,2Eとか場所を区切る標識がでてきてそこには遭難者の墓標が散在した。尾根への道も急騰で平均傾斜30度の斜面だ。息せき切ってやっとのことで上りきった先がぱっと開けた。わずかな平らなスペースに昇魂の碑が現れた。花を手向け鐘の音とともに祈りをささげた。と同時に思わず涙が溢れた。不時着などでなくこの急峻な尾根に激突したのだ!そうあの時ここは地獄だった。−−−−−

<自衛隊/警察/消防団>
そこはまさに地獄だった。おびただしい残骸のなかに手や足や肉片が飛び散っていた。一瞬のうちに人間が物体と化す。屈強な男性も美しい女性も子供も老人も一瞬で肉片に変わる。理由など何もなく。こげたにおいは鼻をつきやがて強烈な腐臭に変わる。かつて感じたことのない臭いの恐怖であった。佐久間ニ槽は樹木にひっかかった人間に皮や黒く焦げた遺体をまのあたりにした。ホバリングするヘリは生い茂る樹木と燃料の匂いと肉片のスエタ臭いを一気にかき混ぜた。

人間の恐怖とは、得たいの知れない恐怖、不安、絶望感、理解しがたいものに恐れを感じる。明確なもの簡潔なものには恐怖を感じない。人は事実(死)を受け入れるまで恐怖と不安に苦しむ。昨日まで元気だったあの人がなぜ…という理解できない絶望感に、残された人々は突き落とされる。衝突時のスピードは263.7ノット(およそ480km/h)数百Gという衝撃に人間は死というより一瞬に原型を失う。事実機体前方部の遺体は地中深くまで埋まっていた。−−−−−

尾根を少し上に行くとトタンばりの小さな小屋があってその中に色あせた故人の写真や思いでの品が置いてあった。巨大な岩(X岩)があってそこから先にすすめない。道を迂回しまた少し登っていくと今度はおびただしい数の墓標の前に出た。上にも下にも前にも後ろにも細い道におおいかぶさるように墓標で埋め尽くされていた。520の墓標が立つこの山全体が墓なのだ。

<奇跡の生還者>
オチアイユミ、ヨシザキヒロコ、ヨシザキミキコ、カワカミケイコ。
当時非番でJAL123に乗り合わせたアシスタントパーサーだった落合さんの証言は極限状況、および事故原因を探る上で貴重な文章だ。ぜひ全文を読んでいただきたい。吉岡忍「墜落の夏」より
リンク http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm


<ディパーチャー>
その日の羽田ロビーはお盆前ということもあり帰省客やビジネス客でごった返していた。18時4分、123便は18番スポットを離れゆっくりと15番滑走路へ向かった。機内は帰省客やビジネス客でほぼ満席状態だった。

<パイロットたち:高原機長、佐々本副操縦士、福沢航空機関士>
クルーはその日は最後のフライトだった。(注1)
機長昇格を控えた佐々本(副操縦士)は左側(通常機長の座る位置)に座っていた。

JA8119機は離陸後羽田沖180度方向(南)に順調に高度を上げ館山沖で200度方向(南南西)に進路を変えていた。天候は快晴。いつになく夕日がまぶしかった。18時24分(離陸から12分後)、大島上空を過ぎ徐々に水平飛行へと入りつつあった。高度24000フィート(7200m)(注2)。

(注1:実際は航空機関士は前2回JA8119に、副操縦士は別の機に乗務し、機長は当日最初のフライトだった)
(注2:巡航高度の24000ft(7200m)へ向け上昇中、23900ft(7170m))

突然スチュワーデスからの内線が入った。
「・・・たいという方がいらっしゃるのですが、よろしいでしょうか?」
「気をつけて、じゃ気をつけてお願いします、手早く、気をつけてください」
〜ドーンという衝撃音〜(伊豆下田上空)

「なにか×××たぞ!」「ギアみてギア」高原はとっさに“スコーク77”を発信した。パイロットとしての直感だった。航空上での最高度のエマージェンシーコールである。果敢にACC(東京航空管制)との交信をおこなう。

高原は飛行時間3900時間を越えるの優秀なパイロットだった。”多少のことでは動じない肝っ玉の据わったパイロット”と慕われ、同僚や後輩たちと飲んでいるときでもパイロットにとって一番大切なのは技術や知識よりも経験感だと説いていた。

ジャンボはハイテク機であるがゆえ必ずそのフライト時の総重量を入力する。飛行距離による燃料や乗客数によりそのつど重心位置が変わり操縦に影響を与えるからだ。ある時チェックリストをみてこの乗客数と燃料にしては軽いなあと不審に感じた。気になって整備部に問い合わせたところキロとポンドを間違えて報告していたのだ。もし軽い重量をもとにフライトしていたら人為的な事故になっていたかもしれなかった。

そして今また悪い予感は当たっていた。「ハイドロ全部ダメ!?」

<リターンバックトゥーハネダ>
JAL123「アー、東京管制部、こちらJAL123便、緊急・・トラブル発生、羽田に戻りたい、22000フィートまで降下する、どうぞ」
管制部「22000フィートまで降下ですね。了解、要求通り承認します」
JAL123「大島へのレーダー誘導をお願いします」
管制部「右旋回しますか、それとも左旋回?」
JAL123「右旋回に移っています。どうぞ」
管制部「右旋回して、磁方位90度(真東)、大島レーダー誘導します」
――山崎豊子著『沈まぬ太陽/御巣鷹山篇』(新潮社刊)より――

<アンコントローラブル>
その時すでに垂直尾翼の2/3が脱落していた。ハイドロプレッシャー(油圧操縦)システムの4系統全てに損傷が及んで、エレベータ(昇降舵)やエルロン(補助翼)は殆ど操作不能となってしまった。

もはや飛行機の艇をなしていなかった。垂直尾翼のないJA8119機は出来損ないの紙飛行機のように飛行し激しいダッチロールやフゴイドを繰り返した。舵は全くきかない。エンジンスロットルのみで機体を操縦していた。「これはだめかもわからんね」すでに手は尽くしたとわかったとき。しかし奇跡はおこるかもしれない・・・。−−−−−
−−−−−
パワーマックス!フラップアップ、フラップアップ、あたま上げろ、パワーー。ああだめだ。ー衝撃音ー。
ACC(東京航空管制)は必死に呼びかけていたが、18時56分02秒レーダー上にEMG点滅するJAL123の輝点がスッーと消えた。


<遺書/河口博次さん>
河口さんは異様な機体の飛び方に恐怖を感じた。「マリコ、津慶、千加子どうか仲良く。もう飛行機には乗りたくない。こんなことになるとは残念だ。さようなら。子供たちのことをよろしく頼む。今六時半だ。飛行機はまわりながら急速に降下中だ本当に今迄は幸せな人生だったと感謝している」

<坂本九さん>
この事件に巻き込まれた一番の有名人とえば坂本九さんこと大島九氏である。彼は東京大阪間は通常全日空を利用していた。お盆前の混雑から全日空が取れなくJAL123に乗ってしまった。遺体には結婚式を挙げた笠間稲荷神社のペンダントが胸に突き刺さっていたことで身元が判明する。

<乗客/Kさん>
吉岡忍氏の「墜落の夏」にKさんのことが語られていた。落合さんを手伝い一緒にライフベストの装着の仕方を乗客の方に指導した会社員の方だ。吉岡氏の文章にもあるとおり極限状況の中で他人のために行動できるなんてできるもんじゃない。もし自分っだたらそんな勇敢に振舞えるだろうか。毛布かぶってブルブル震えるのがオチなんじゃないか。そんなことをふと考えた。

<生還>
落合由美、吉崎博子、吉崎美紀子、川上慶子
他に比べ比較的元気だった川上さんでもCPKという筋肉ダメージの数値は4万を超えていた(通常は数10cpk)。彼女らは数十Gという衝撃の中を奇跡的に生き抜いた。

生存した彼女らは遺書を書いていなかった。なぜ書かなかったのか?自分はふと疑問に思った。吉崎さんにしても「どこかに不時着するのだろうか」ぐらいにしか思っていなかったらしい。落合さんの見た機内でも泣きそうになってるのは男性ばかりだったとある。そこに女性の精神的・生物学的な強さを垣間見ないだろうか。

この事故後飛行機は後方部の方が安全だという話を聞いた。でもこれには全く根拠がない。なぜならこの事故の場合衝撃で機体が分断し機体後方部はちぎれて尾根を飛び越えている。そのとき植林樹の上をまるで歯ブラシの上を沿うように沢まで落ちた。

これが衝撃を吸収できた要因らしいが自然樹なら堅いため衝撃吸収にならなかったかもしれないし、500Km/h以上で飛んできた鉄の塊の衝撃を吸収する角度やタイミングとはまさに奇跡でしか起こりえない。この奇跡と女性の精神的・生物学的な強さが生還につながったのではないだろうか。


<日航お客さま世話役(井上美代子さん)>
緊急に召集された乗客名簿520の一人の名前があてがわれた。
「こちらのお客様のご家族及びご親類の対応を頼む」井上さんはシュチュワーデスの教官だった「最悪の事態を想定して対応にあたってくれ」井上さんは××さんのご家族に藤岡市の対策本部前で始めて会った。

「今後対応に当たります井上です。何かありましたら遠慮なく申しつけてください」困惑した家族は事の詳細を必死に聞き出そうとした。遺族は時にはかなり厳しい要求をぶつけることもあった。「不謹慎だ、スリッパを脱げ・・・」
井上さんは困惑していた。家族と鰻料理を食べにいったとき突然倒れ、そのまま意識不明になり亡くなった。

<検死医>
事故現場から少し離れた藤岡市民体育館の中でもうひとつの戦いが始まっていた。前代未門500人を越す遺体の検死作業である。盛夏である8月の体育館の中は摂氏30度を越す。恐るべき劣悪な環境の中検死医たちはもくもくと作業を続けた。「先生、チョットきてください」ある一角から声があがった。三つ目も頭部だった!あまりの衝撃のため別人の頭部がめりこんでいたのだ。体育館の裏の側溝には体長2.5センチにも達した蛆虫の死骸で埋まっていた。それにオーバーラップし当分の間白米の飯が食べられなかったという。


<上野村/仲沢勝美さん> 、
通称ナラカツ。そのあたりでは知る人ぞ知る人物であった。豪放磊落。若い頃は人を殺めてしまったこともある。トレードマークの鉢巻にとにかく声がでかい。でも日航の事故をきっかけに彼の人生も変わる。

月命日の12日には必ず御巣鷹の尾根に上っていた。登山道を整備したり、高齢で山に登れない遺族のためにかわりに尾根の写真をとって送ってあげたり、遺族のために尽くされた。そんな彼も2006年1月脳梗塞のため倒れかえらぬ人となった。

<ラーメン風の子>
街道沿いにはコスモスが咲きほこる。もう少しすると群馬は厳しい冬を迎える。藤岡の古い町並みをすこしいくとラーメン風の子があった。当時と変わらない内装のようで自分はテーブル席に座っておもむろに中華そばを注文した。少しして家族ずれ4〜5人が来て奥の座敷を占有した。

母親らしき人が携帯で「今風の子にいるんだけどさぁ、来る?」と上州なまりでしゃべっていた。店は古いがなじみの客がつく味自慢の店のようだ。無愛想に出て来たラーメンは手打ちでおいしい。20数年前飯塚さん等検死医スタッフは道をはさんだ体育館で戦っていた。

ふと新聞のテレビ欄に目をやると思わず食べていた箸が止まった。その夜偶然にもクライマーズ・ハイの再放送の予定があったのだ。新しく立て替えられた市民ホールは時のながれを感じさせたが、日航機事故の碑とラーメン風の子はあの頃のままだった。

**あとがき**
世界最大の航空機事故は周知のようにボーイング社の圧力隔壁の補修ミスが原因で機体後部の圧力隔壁の破壊による機内与圧空気の急激な噴流により、垂直尾翼を噴き飛ばし、JAL123便は操縦不能となり、高天原山に墜落したということです(運輸省航空事故調査委員会の報告書より)

しかしそれでも今なお解明できない部分が多く残り、特に生存者の証言などからはこの圧力隔壁破壊説が正しいとは決していいきれません。それゆえ無人標的機ファイア・ビーなどによる外部破損説、フラッター現象説などさまざまな要因が信憑性を生み、20数年経ったむしろ現在の方がこの事故に関する関心の強さを感じます。

先日羽田空港の周りを歩いてきました。巨大航空産業が林立するあの一体には我々庶民には入り込めない独特の雰囲気があります。“ボーイングは国家なり”とあるように一機200億とも300億とも言われる航空機のハイテク技術及び政治的な駆け引きは永遠にこの事故を覆い隠すのでしょうか。この度のブログは事故原因についての究明ではありません。

事故をきっかけにさまざまな人々が巻き込まれてしまったという事実をもう一度考えていただきたかったのです。あの日一晩中ラジオから流れる乗客名簿の読み出しを忘れることができません。ショックで一睡もできませんでした。もうこのような事故を繰り返してはなりません。

JAL123便乗客乗員の方々、その御遺族の方達に心から哀悼の意を表します。そして自衛隊、消防、警察、検死医、日航職員、上野村、藤岡市の方々、その他この事故に人生を巻き込まれていった方々、その御尽力に敬意を表します。

2008年2月 横田タカン

<参考文献>
日航機墜落123便、捜索の真相 河村一男 イーストプレス
日航ジャンボ機墜落  朝日新聞の24時 朝日新聞社会部編 朝日新聞社
墜落の夏  日航123便事故全記録 吉岡 忍 新潮社
疑惑  JAL123便墜落事故 角田四郎 早稲田出版
墜落遺体  御巣鷹山の日航機123便 飯塚訓 講談社
墜落現場 遺された人たち―御巣鷹山、日航機123便の真実 飯塚 訓
JAL123便墜落「事故」真相解明 (御巣鷹山ファイル) 池田 昌昭
JAL123便は自衛隊が撃墜した (御巣鷹山ファイル) 池田 昌昭
沈まぬ太陽(三) 御巣鷹山篇 山崎豊子 新潮社
なにか云って 8・12日航機墜落事故26遺族の記録 池田知加恵
雪解けの尾根 日航機事故から11年 池田知加恵 ほおずき書房
クライマーズ・ハイ 横山秀夫 文藝春秋
御巣鷹の謎を追う 日航123便事故20年 米田憲司 宝島社
隠された証言 日航123便墜落事故 藤田日出男 新潮社
パイロットが空から学んだ危機管理術 坂井優基 インデックスコミュニケーションズ 2008/02/17(日) 01:11:52| 未分類| トラックバック:0| コメント:7


日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(0)16 日航機墜落の真相は? * 匿名掲示板が語る2010/08/15(日) 20:29:53

今年で日航機事故から25年。23年経った時から書かれている日航機墜落事故についての匿名掲示板がある。匿名ゆえに信憑性については何ともいえないが、守秘義務により縛られている者が匿名だから投稿するということもある。例えば、


「これはマジな話なんだが、友達の兄貴が当時自衛官で
●●隊情報●隊と言う部隊に所属していて
救助活動というか事故処理に参加したそうだ。

その兄貴と何年か前に酒を飲んだ時に聞いた話だが
以前から事故処理に従事したと言う事は弟から聞いていたので
興味本位でその時の事を聞いてみたら顔色が変わったので
その話はそこまでにして馬鹿話に切り替えた。

暫く飲み続けるうちに、その兄貴がポツリポツリと話だした。
誤射、国家機密、緘口令、事後処理の為の特殊部隊の編成
情報撹乱、ガス、火炎放射器...。
まさに地獄以下の有様だったそうだ。  」

隊員の中には精神状態がおかしくなる者や、生存者をかくまったために
拘束されて送り返された者も少なくなかったそうだ。
その兄貴もすぐに退官したが、その際に口外すれば家族にまで危害が
及ぶと言う事を暗にほのめかされ、自殺を考えた事も有ると
 (【あれから】JAL123便 墜落の真相【23年】3の550)


このような投稿をどのように判断するかは、読者に任せることとしたい。


  【あれから】JAL123便 墜落の真相【23年】 

http://www.unkar.org/read/love6.2ch.net/space/1210995456


NO.1
5 :NASAしさん:2009/08/21(金) 05:42:12
783 NASAしさん sage 2009/08/12(水) 01:54:23
44 名前:@ [2007/02/04(日) 18:11:34 ID:SOgG0y1e]
いやいや、自衛隊機が日航機を撃墜した以外は事実です。
ボイスレコーダ、フライトレコーダーに撃墜を受けたデータは記録されてないでしょう。
絶対に隠さなければならないのは尾翼に無人誘導機が当たったこと。
墜落後、自衛隊の情報操作により、墜落場所をかく乱させ、その間に
無人誘導機の塗料片がついた、尾翼を御巣鷹山で極秘裏に回収しています。
今なら、GPSで墜落場所の確定も容易ですが、あの当時は電波レーダーしかなく、
無人誘導機接触は米軍との申し合わせもあり、絶対機密のため二重遭難覚悟で隊員を、 尾翼回収のため現場に下ろしています。
関係者は上層部からのかん口令に従っています。(間接的に俺も含めて)
関係者は事実を隠している罪悪感を持っています。
自衛隊厚木にいましたが、11年前に退職いたしました。


6 :NASAしさん:2009/08/21(金) 05:43:49
784 NASAしさん sage 2009/08/12(水) 02:02:32
50 名前:@ [2007/02/04(日) 18:43:34 ID:SOgG0y1e]
(6) 日航元社員からの情報で、既にこれは知る人ぞ知る国家機密とも
「あの日最初の衝撃音がした海域では、米軍の極秘訓練が行われ、日航
機には撃墜訓練用のターゲット飛行物が尾翼に接触。米軍は民間機に危
害を与えたことをオンタイムで掌握しており、墜落現場にもいち早く到
着し、救出活動に入ろうとしたが、日本政府から『拒否』の連絡をした
」という。

確かに、米軍のC130輸送機も海軍ヘリも、墜落直後に現場で救援体勢
に入りながら、横田からの指令によって基地に引き返した。「その時、
上空には自衛隊機がいた」と、米軍の元大佐が事故から10年後に証言。
  
件の日航元社員は、「世論が米軍を日本から退去させるには充分な事
故、米軍撤退は当時の日本政府にとっては絶対に避けたい世界情勢のた
め、500人以上の命は見殺しにされた。当時、ボイスレコーダーの音
声が公表されなかったのは、あの最初の衝撃音が隔壁の破裂音ではない
と明らかになるのを恐れたからだ」という。

7 :NASAしさん:2009/08/21(金) 05:44:48
785 NASAしさん sage 2009/08/12(水) 02:07:33
82 名前:@ [2007/02/05(月) 17:03:52 ID:pXV7Eaqc]
伊豆の陸地の方から何か飛んでいって123便に当たったという目撃証言(テレビ)と、プロペラの痕跡の物証。(報告書)
オレンジ色のものが相模湾から引き上げられている様子(テレビ)

目撃者様の聞かれた「バシッという直近の落雷のような音」

墜落現場にあったロケットのような部品(テレビ)

「そんなことあるはずがない」ではなく「これらがなぜ発生したのか」を検討することが重要ではないでしょうか。


83 名前:@ [2007/02/05(月) 17:05:58 ID:pXV7Eaqc]
**山の上で・・記者「今、自衛隊が、整備団に何かを話しかけていま
す。ちょつと聞いてみましょう」「なにやら妙な事を話しています。
整備団が、墜落現場から、何かを運び出そうとしていますが、飛行機の
残骸ではなくて、ロケットの残骸見たいの様です」自衛隊指揮官「これ
は、飛行機ではなさそうだ。どうもロケットのみたいだな」自分も見て
いたが、当初は、何の疑念もなかった。

8 :NASAしさん:2009/08/21(金) 05:46:04
786 NASAしさん sage 2009/08/12(水) 02:16:57
77 名前:@ [2007/02/05(月) 16:54:32 ID:pXV7Eaqc]
本当は、海上自衛隊の艦対空ミサイルの誤射なんだよねー
標的曳航機接触話は「接触」しなかっただけで
誤射するくらい近くに飛んでいたから…

要は標的がニアミスして、ミサイルのロックオンがJAL123になっちゃったのに
誰も気づかなかった。
寸前で観測機(E-2だったかな)が自爆を促したが間に合わなかったらしい。
それもこれもJAL123がデパーチャーデレィで-12分出しちゃったからなんだ。
その報告が演習空域の管制に連絡されなかったからなんだよね…
定刻どおりだったらなー。
返す返すも残念です。

9 :NASAしさん:2009/08/21(金) 05:47:06
787 NASAしさん sage 2009/08/12(水) 02:20:25
105 名前:@ [2007/02/05(月) 17:59:16 ID:pXV7Eaqc]
18:40前後の空白の時間なのですが以下の未確認情報とつじつまがあうんですよね。

海自です。
標的曳航機がニアミスしたと言うデマがはびこっていますが、
もっとひどいです、誤射です。
追尾失策で逸れたのに気がついたのですが
自爆が遅く破片が123便の垂直安定板を直撃しました。

E-2Cのクルーです
うちらそれ、たまたま傍飛んでて
確認にやらされた…。
緘口令しかれ、暫くみんな地方の勤務地に
バラバラにされた。
監視もされてた。
今、殆どやめてるよ。
「誘導をやめろ」って命令されてその通りにしただけだよ。
http://neko-usa.s22.xrea.com/jal123/wav/jal123_5602.wav


14 :NASAしさん[sage]:2009/08/21(金) 07:38:53
103 名前:@ [2007/02/05(月) 17:53:38 ID:pXV7Eaqc]
最近読んだ本で、「黒いファントム」森村誠一著を思い出した。核兵器
を積んだ自衛隊機の墜落を隠すために自衛隊が、村民を皆殺しにする話
である

もう一つ中曽根元総理の別荘における盗聴されたとされる発言がありま
す。それが真実であるか否かは闇の中。その中の言葉に官邸からの矢の
催促の撃墜命令要請に対して。「私はこんな事のために総理大臣になっ
たわけじゃない」......総理がみぞうの都市部墜落の大惨事を恐
れて許可する条件として言い出した。「国民に撃墜を知られないように
できるなら許可しよう」、目撃者が出たらどうしますかに対して「何と
かしろ」「殺せという意味ですか」に対して「私をこれ以上人殺しにす
るつもりか」と怒鳴り「何とかしろは何とかしろという意味だと」怒鳴
っていた。


15 :NASAしさん[sage]:2009/08/21(金) 07:40:00
815 :通りすがりですが・・・:2009/08/12(水) 14:32:04
 ふぅ〜。今日も暑いですねぇ〜。
久しぶりにココに来た。
 
一応、もう結論は出ているんだよね。
事故原因の真相は、正直わからない。
(真相は当事者のみぞ知る事、また彼らも墓場まで持って行く ことでしょう)
 ただ、救出に時間がかかった原因は、数年前にハッキリしてるよ。
公共の電波(笑福亭鶴瓶の番組)で流れたからね。
 
番組は、笑福亭鶴瓶が中曽根元首相のお宅を訪問し、首相時代のことを
奥様を交え、懐古するというもの。
放送時間も深夜であったし、事故から20年以上経過して、もう話しても問題ないと 判断したんじゃないのかな。

それとも、中曽根元首相自身が、死ぬ前に話しておきたかったのか・・・
はたまた、ここで注目を集めて、政界で何かアクションを起こすつもりだったのか・・・


16 :NASAしさん[sage]:2009/08/21(金) 07:41:32
816 :通りすがりですが・・・:2009/08/12(水) 14:32:50
続き。

 結論は、だい〜ぶ前にも書き込んでいた方がいましたが、中曽根元首相に非があった。
当時、早い段階で米軍機が墜落機を発見し、現場まで急行、救助スタンバイはOKだった。 けど、中曽根元首相は断った。
 理由は、当時の日米関係、自衛隊の防衛費問題など複雑な要素が色々と絡み合っていた とのこと。

生存者の方のインタビューにもある通り、墜落直後は多くの生存者がいたことは知られていますよね。 中曽根元首相は、苦渋の決定ではあったが、罪悪感はず〜っと持っていた(今でも)。

(番組内で罪悪感という言葉は使わなかったが、それに近いニュアンスのことを言ってた) で、自分の事務所に、123便の犠牲者のためだけに、立派な神棚を設けた。
 自分は事故当時、中学生で、当時の日米関係はハッキリと把握してないけど、ニュースでは 頻繁に防衛費やGNPがどうこうと、放送していたのを覚えている。
 
笑福亭鶴瓶の番組も、事故直後なら大問題になっていたことでしょう。
このスレの書き込みが数年前から激減したのは、笑福亭鶴瓶の番組を見た人が、ある程度、納得 ・理解したからなんじゃないかな。

長文スマンかった。私ももう二度と、ココに書き込みすることはないでしょう。では。


17 :NASAしさん[sage]:2009/08/21(金) 07:44:29
829 :NASAしさん:2009/08/12(水) 17:53:01
日本が米軍救助を断ったことを認めたっていうのは大きいよね
断ったってだけなら、自衛隊は朝まで場所が分からず右往左往したってことにしないと話が成り立たないが
米軍が現場に到着してたことを認めた以上これは崩壊した。

  よって
自衛隊も最初から現場を知ってたことがこれで確定
報道に嘘の場所を教えてたことも確定
わざと翌朝まで時間を稼いだことも確定
時間を稼ぐ必要があったことをしちゃってたってことも確定
全部確定じゃんw


185 :NASAしさん[sage]:2008/07/08(火) 00:34:37
事故直後ニュースで、
「自衛隊の模擬弾が誤って接触し、、、」
と言っていたのを記憶している。
後に模擬弾の「も」の字もニュースで報じないことに
違和感を感じたよ。

「模擬弾があたって油圧が切れ、操縦不能で墜落した」
が真相だと俺は信じている。

旅客機も緊急脱出で落下傘という選択があればいいのにね


213 :NASAしさん:2008/07/08(火) 20:46:12
事故調査委員会の日最終事故調査報告書(1987年6月19)より

「本事故は、事故機の後部圧力隔壁が破損、引き続いて尾部胴体、垂直尾翼、操縦系統の 破損が生じ、飛行性の定価と主操縦昨日の喪失をきたしたために生じたものと推定される。

飛行中に後部圧力隔壁が破損したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂に ろって同隔壁の強度が低下し、非子s中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと 推定される。

疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、 それが同隔壁の破損に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかった ことも関与しているものと推定される。」


「推定される」の繰り返しだ。そして、この報告書の内容を裏付けるものは何もない。 相模湾に落ちた垂直尾翼や 尾部胴体 、その他多数の部品についても解析と調査を まったく行っていない。報告書としては非常に不完全なものだ。

もう一度言うが、 圧力隔壁の破損による急減圧が墜落の原因になったという証拠はどこにもない。


220 :NASAしさん[sage]:2008/07/08(火) 21:40:45
>>217
123便の事故の1年後に、タイ航空の飛行機が高度33000 フィートで
土佐湾上空を飛行中、123便と 「 同 じ よ う に 」 後部圧力隔壁が 損壊して急減圧が発生し、大阪空港に緊急着陸した。

着陸直後の乗客や乗員のインタビューの内容をまとめると、 操縦室では「乗員がビッグ・ラウド・ノイズと「インジケーターズにより 急減圧の発生を確認し、13000 フィートまで緊急降下を実施し、 空港への緊急着陸を要請した」

客室では「最後部のトイレの化粧台が倒壊し、圧力隔壁の後方に吹き飛ばされ、 与圧された客室内の空気が強い風となって機内を前から後ろに吹き抜け、 人が宙にまい上がり、物が飛び散った。客室内は一時パニック状態に陥った。
この急減圧によりほとんどの人が一時的に聴力を失い、多くの人が航空性中耳炎になった」

123便の減圧率はタイ航空機の場合の約3倍だったらしいが、3倍もの急減圧を
受けながら上記のような現象が起きていないのは何故だろう。


245 :NASAしさん:2008/07/09(水) 19:17:12
遺族側が再調査を望んだ直後に資料を廃棄した のはなんでだろうね?


270 :NASAしさん[sage]:2008/07/11(金) 02:04:36
議論になってる急減圧は、「尾翼破壊に至るほどの急減圧か」だがな。で、事故調 が調査したら「尾翼破壊にはかなりの急減圧が必要」と解ったが、そこで「尾翼が 破壊されたんだから、かなりの急減圧があった『はず』だ」と結論づけた。

一方、生存者の話、残った写真からすると、「そこまでの急減圧が起こったか疑問」 と言うことだろう。 なんか「尾翼破壊の原因は(隔壁破壊による)急減圧」という結論が先にあってねそ れに沿うように事故調の報告書が作られている印象がぬぐえない。これが未だに議 論がくすぶってる原因だろう。


368 :NASAしさん:2008/07/16(水) 21:47:05

「中曽根 康弘氏」が「死ぬまで言えない事がある。墓場までもっていく」
と言った事があり(これは事実らしい)

それが「日航ジャンボ機墜落に関する事」である!
というウワサを訊いた事があるんだけど、一体、何を中曽根氏は知っているんだろう?


374 :NASAしさん:2008/07/17(木) 19:52:53

中曽根氏の経歴をみても、何か知ってるよね。
国会で証人喚問できなのかな?
賛同してくれる国会議員、遺族らや一般人の署名運動なんかも必要かな?

川上慶子さんの証言で「ザック、ザックと足音がした」とか
近くの沢にきていた、ある大学の助教授や大学生が、自衛隊を見たと
いう証言があるんだよね。
375 :NASAしさん[sage]:2008/07/17(木) 21:39:44
戦後最大の国家関与の犯罪だから、証人喚問は不可能だと思う。
我々が語り続け、風化を止めるしかない。


384 :NASAしさん[sage]:2008/07/18(金) 13:52:59
648 :専守防衛さん:2008/07/09(水) 01:28:59
遺族は、調査再開要求を出しました(1999年)。
この要求を受けて、事故調査委員会は,1999年11月6日〜19日に、情報公開法施行を前にして、事故調査関係の資料を廃棄しました。

その重量は1160キログラムでした。


387 :NASAしさん[sage]:2008/07/18(金) 18:00:20
過疎ってるから夏休みのお勉強会でも開くかな。
最初のお題はいきなり「デコンプレッション」
まずは報告書否定派の言い分を整理しておこう。

・急減圧が起こったとすると機内の温度は氷点下数十度まで急激に降下するはずだが、 生存者の証言ではそんなことは起こらなかった。

・急減圧が起こったとすると乗員乗客は酸素欠乏により急速に行動力を喪失するはずであるが、 生存者の証言やボイスレコーダーの記録ではそんなことは起こらなかった。

・パイロットは急減圧時には反射的にマスクを装着するよう厳しく訓練されている。 しかしコクピットでマスクが使用されなかったことにより急減圧が起こらなかったのは明らかである。

・報告書では爆発音直後に「高度警報音」が鳴ったがすぐ停止したとするが、
 警報を止めるボタンはフライトエンジニアの席にしかなく、キャプテンの許可なしに操作することはありえない。

 これは事故調が急減圧があったと強弁するために別な警報を高度警報と決め付けているのに違いない。


392 :NASAしさん:2008/07/19(土) 04:03:38
>>374
>ある大学の助教授や大学生が、自衛隊を見た

そうそう。藤田日出男氏の本に書いてあった。たしか自衛隊と直接明言はしてなかったけども。

墜落直後に自衛隊が誤報を何発も流し、警察と連携して、地元民による捜索の足を食い止めた。
この罪は末代まで消えない。


405 :NASAしさん:2008/07/19(土) 15:20:32
無人の自衛隊機が誤って、123便にぶつかったという話を読んだ。
墜落後、そのオレンジ色の無人機を回収に、自衛隊員が現場に来ていたらしい。
でも全て回収しきれず、後になってオレンジ色の破片が見つかったという。

個人的に思うんだけど、慶子さんがマスコミに一切出ない理由の一つに、
「自衛隊が関わっていたとか、真実を何か感じ取っていて、
国家やを守る自衛隊への不信、両親が共産党員であったこと・・・」等、
も挙げられるのではないか?と思う。
国の嘘や陰謀、策略、マスコミに踊らされるとか、もろもろのものを
含めて、信じられるものがなかったんだろうと思う。


420 :415[sage]:2008/07/19(土) 20:21:04
弾道ミサイルが追いかけてきたから
ひたすら高度を上昇させていた(乗客シートベルト再装着)
よって18時25分時点の位置は
伊豆大島の北東(報告書より手前)
18時30分時点の位置は稲取あたり(タクシー運転手がドカーン音で目撃、遺書にも見られる18時30分時の変化)
音の原因は、小川哲氏が撮られた写真に写るものが、攻撃したから


448 :NASAしさん:2008/07/22(火) 20:39:34
>>446
隔壁は小さく壊れた程度だと思う。機長は急減圧が起こったとは考えてないとおもう。

なぜなら急減圧警報と自動操縦解除音は非常に似ているそうだ。事故調もあいまいに急減圧警報或いは自動操縦解除音としている。

だが圧力隔壁が壊れたことによる垂直尾翼の破壊論ならば、急減圧が起こったことにしないと理論が矛盾してしまう。
通常、急減圧警報が鳴った瞬間クルーは酸素マスクを着け、 安全高度まで機体を降下することが自然に出来るよう、体に教え込まれている。

しかし、誰もマスクをつけていない。
そして2万2000フィートで飛ぶことを希望した。 これなぜか。機長は急減圧は起きていないと判断したからだ。

また、機長は4系統ハイドロオールフェイルを信じなかったようだ。
なぜなら、乗務訓練では油圧1系統死んでも大丈夫、

油圧2系統死んだら緊急事態、空港に戻れという指導。
油圧3系統死んだ場合の訓練・・これは項目すらない。
乗務員たちには<起こらない・ありえない>と教えられているからだ。
油圧4系統が死んだという表示(つまり油圧全死)が出た場合、 乗務員は間違いなく計器板を疑うそうだ。だから高浜機長は操縦しようとした。
油圧2系統損失ならば少しは操縦機能が動くことを知っていたからだ。

しかし、未曾有の事態だった・・・計器盤は真実教えていたのだ。油圧は4系統、つまり全て死んでいた。


503 :NASAしさん[sage]:2008/07/24(木) 23:08:10
緊急信号スコーク77を発信して
自衛隊機2機が123便を捉えられていたんですよ

この2機が、爆破される123便を捉えているのだが
このことを隠滅や捏造している日本政府。


510 :自衛隊は墜落地点を隠蔽した:2008/07/25(金) 14:21:58
>>471
米軍は確実に捉えていました。
自衛隊もおそらく本当は正確に捉えていました。
にもかかわらず、防衛庁自衛隊はわざと誤報を連発し、墜落地点を明朝まで隠蔽しました。

詳細↓
http://www.alpajapan.org/kannkoubutu/jikobousi/JIKO1-1.HTM

墜落後、25分で米軍機Cー130が墜落地点と見られる火災を発見、それ から1時間近くも経過してから、 墜落地点から8 も離れたぶどう峠の長野県側が現場だとの怪情報が流されました。(資料1)

更に墜落から2時間15分後には、米軍情報に基づいて、朝日新聞社のヘリによって墜落現場が再確認され、写真撮影に 成功しています。その3時間後に自衛隊が運輸省や警察に通報した地点が約4 も北にずれた場所で、群馬県なのに、
なぜかその地点が、長野県側であるとの誤った情報までつけ加わっていました(自衛隊が発表したといわれる地点は、 緯度経度では群馬県側;(資料1)防衛庁情報1)。

 防衛庁からは13日の午前2時になっても、まだ墜落地点は「ぶどう峠から210°/3マイル」とか、「御座山(おぐらやま)の 南斜面、頂上から1 」(資料1 防衛庁情報3)などの情報が新聞社に流されていました。

13日の朝、明るくなって、 墜落地点が視認されてからも、まだ防衛庁は長野県とか、群馬でも5km北西の地点を通報していました(資料1  防衛庁情報4・5)。これらは理解しがたい誤りです。これについては、「単なる誤りとは考えにくい。現地に人を 近づけないようにしたのではないか?」との疑問の声が当時から出されていました。
 
そこへ、95年8月27日付の米軍の準機関紙である「スターズ アンド ストライプス」紙に発表された、MICHAEL ANTONUCCI氏の証言(資料2)が加わり、「米軍がなぜ現地に降下しかけていた厚木基地の救助ヘリや、最初に 現場上空に到着していたCー130輸送機に引き返しを命じたのか」「そのことをなぜ口止めしたのか」など、謎は一層 深まってきています。


11 :NASAしさん:2008/07/25(金) 14:31:59

「単なる誤りとは考えにくい。現地に人を近づけないようにしたのではないか?」

防衛庁・自衛隊の奇怪な行動を見て、現地の人々やマスコミからも、当然このような疑問が出るわけです。


防衛庁・自衛隊は、墜落現場から救助隊を遠ざけて、一体何をしようとしていたのか。

元日航パイロットの藤田日出男氏は、誰よりも真っ先に防衛庁幹部自身が、自衛隊による撃墜の可能性を念頭に置いて 先回りして調査したのではないか、としています。

防衛庁・自衛隊の許されざるエゴによって、墜落地点にかんする情報が執拗に隠蔽され、救助されていたはずの人命が失われた。
これは推論でもなんでもない、現実なわけです。

防衛庁自衛隊に対して、怒りを禁じえません。


802 :NASAしさん[sage]:2008/08/13(水) 11:47:26
別冊宝島1324  昭和・平成 日本「怪死」事件史  2006年08月01日発行 に
日航ジャンボ機墜落事故(1985年)━━特別インタビュー 安部譲二( 作家/元日航の客室乗務員で、単発エンジン小型機の操縦免許保有 )
「 陰謀でもなんでもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない 」
というインタビュー記事を改めて読んでみた。

上記 インタビュー内で安部氏が指摘した疑問点及び記事内で指摘された疑問点を、ここに改めて掲出する。

@ 当時1985年であっても、あれほど大きな旅客機が米軍−自衛隊のレーダー監視網から消えた状態( それも機体発見の翌日 9時まで )になるとは、考えられない。

A ヴォイスレコーダーがプライバシー保護を基に一部は公開されていないのは、事故の甚大さからいって不自然であり、 またオリジナルテープが既に廃棄処分されている点もこれまた不自然。

B 事故調が「 急減圧があった 」としているのに、パイロットが酸素マスクを装着していなかった理由を「 不明 」としているのは一貫性が無い。

C生存者の一人( 客室乗務員の落合由実さん )の証言によれば、どう解釈しても急減圧はなかったことを証明しており、 事故調でも証言しているのに、それを採用しなかった点には矛盾がある。 ( 客室乗務員は急減圧の訓練を受けているので、勘違いは有り得ない・・・安部氏 )

D 「ボーイング社がずいぶん早くに修理ミスから圧力壁の破壊を認めた」のは、どう考えても不自然。

E 御巣鷹山近くの複数の住人が日航 123便が炎をあげて墜ちてきた、光るものが飛んできたと証言しており、排気を炎と見間違えることはあるのだろうか?

F 当時の群馬県上野村村長黒沢丈夫氏( 海軍兵学校出身で、零戦でミッドウェイ海戦出撃歴有り )は、自己の経験と村民の証言からいちはやく墜落地点を御巣鷹山と推理していたが、
後にある座談会で事故対策室や日航・自衛隊が墜落地点をなかなか特定できなかったことに疑問を呈していた。

G 安部氏の推理・・・NHKが墜落地点を故意に誤報した( 当初は長野県北相木村辺りと報じる )。

インタビューでの安部氏の最後の言葉
「 ( 日本のマスコミは本当のことを言わないし書かない、調べようともしない )
だから、本当のことを言い続ける僕の仕事がなくなることはない。日航機の事故は必ず書く。これはライフワークだと公言しているんです 」
安部氏に期待したい。


803 :NASAしさん[sage]:2008/08/13(水) 11:48:23
>>802  を受けての
私なりに感ずる、事故以後の不自然さ

事故調査委員会は、事故の主要因として、ボーイング社による「 圧力隔壁の修理ミス 」としている。 ならば、ボーイング社は、メーカーとして致命的なミスを犯した━━と断罪されて良いはず。

日航は、当然 こんなメーカーの航空機には信頼おけない━━として、以後は他社製の航空機にリプレイスするでしょう。

しかし、日航は未だにボーイング社の航空機を使用し、今でも幹線を中心に旧ダグラス社製も含めて主力で使われている。
( 運送会社が、ミスの有ったAメーカーのトラックを使い続けるだろうか? )
モチロン 旅客機業界は寡占が進んでおり、トラックと同様のリプレイスは容易でないコトは百も承知だ。

だとしても、日航が積極的にボーイング社の航空機を採用し続ける理由は他に有るのでは?  と感じざるを得ない。


834 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 21:13:53
ところで「自衛隊・救助に向かった自衛隊員を射殺・NHK第一報」は、
勇気ある報道で、せめてもの慰めだ。この後全てのマスコミは、
「軍事中曽根」の前に沈黙を決め込む。まあ腰抜けといえば腰抜けだわな。

次に「奇跡的四人の生存」の件だが、これは現場自衛隊員による、
上官命令に逆らった「名誉ある反乱」の結果だろう。
軍事隠蔽からすれば「全員死亡」がシナリオだった筈だ。
御巣鷹山墜落現場に辿り着いた消防・救命救急及びアメリカ軍・
救命救急まで「軍事拒否」している訳だし。


835 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 21:16:40
53 名前:@ [2007/02/04(日) 18:51:10 ID:SOgG0y1e]
JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースの初報では発表してましたからね。

知らなかったです。酷い。
この命令を下した人物は逮捕されたのでしょうか?

自衛隊員とは、国家から見れば、やはり使い捨ての駒という存在であり、命令に従わない場合、粛清が待っているということなのでしょうね

勿論、逮捕されません。そのまた上の上官の命令に従っただけということでしょう。
彼らは、重症を負いながらも墜落時にはまだ生きていた乗客達に、真実を語られたくなかったので、墜落現場へ到着するまでの時間を引き延ばしたのでしょう(この手口は、ダイアナさんのパリでの自動車事故の時にも使われました)。
後日、ネット上にアップされた資料でも「自衛隊員1名射殺」に言及したものは幾つも見かけましたが、マスコミはそれっきり沈黙して、日本の未来を暗示しました。
あれから18年余の月日が経ちました。

840 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 22:35:17
61 名前:@ [2007/02/04(日) 19:07:00 ID:SOgG0y1e]
それは、この船が海上に落下した123便の尾翼の一部を回収しているのですが、 その時間が事故発生からおよそ24時間後です。
そして、その回収した地点というのは、きちんと測ったわけではないのですが
、相模湾のど真ん中、だいたい事故発生地点から40kmくらい離れているよう
です。

どうでしょうか?海流の流れなど、ある程度は事前に考慮して探索できるとは
言え、回収まで1日というこの時間が私にはちょっと早く感じるのです。

公務中で123便事故について情報をウォッチしていたのなら分かりますが(現
に「R5ドアブロークン」通報を受けて、機外に乗客が投げ出された可能性も
…と海上でも一旦は救助体制がしかれたそうです)、まだ未納入の船、引き渡
すまでは傷もつけたくないでしょうし、本来の業務でない破片の探索なんてや
っていたのでしょうか?乗員皆で海を眺めて…それも事故現場から40kmも離
れたところで。

であるとすれば、事故発生地点から40kmも離れたところで24時間後に数メー
トルの破片を見つける…ちょっと出来過ぎな気もします。
まるで、その事故の時の様子、そして破片の落ちてくるのを見ていたのではな
いか?なんて思わせるような…そんな素早い回収に思えたのです。

841 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 22:42:22
43 名前:朝まで名無しさん [2007/02/04(日) 17:47:48 ID:R/eTFamV]
http://gray.ap.teacup.com/applet/123ja8119/archive?b=75
JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、 当日のNHKニュースの初報では発表してましたからね。

ところで、テレビ取材の 農家主婦が「無人標的機」目撃証言をしたのですが、かかる農家の家人が注意して取り消させ、家の中に入ってしまいました。
また、日航整備員の先着部隊が無人標的機の一部と思われる赤色機材を回収して」持ち帰る途中に、 自衛隊曹官に「証拠隠滅の現行犯」として逮捕連行されるのが、テレビ画面に出ました。


842 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 22:44:37
46 名前:@ [2007/02/04(日) 18:26:33 ID:SOgG0y1e]
私は某事故調関係者の親族の一人です。
私の実家にはボイスレコーダー全編が録音されたオープンリールテープ
があります。

深くは語れません。また機密事項のためコピー等一切できませんが存在
するということだけお伝えします。真実がいつか明るみに出ることを
個人的に願っております。

事例の性質上一切を明記する事はできませんが一つだけ言える事はこれ
は事故ではなく「事件」だと言う事です


843 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 22:51:37
92 名前:@ [2007/02/05(月) 17:30:50 ID:pXV7Eaqc]
墜落場所を特定した後も防衛庁が(前代未聞の)わざわざマスコミに自ら電話して御座山に墜落したと誤報を流した事実がある。

事故後早い段階で地元の消防団や猟友会を事故現場であるスゲノ沢へ入らせないようにした自衛隊の存在。
数多くある不可解な自衛隊や県警機動隊の行動に隠された意味は何なのであろうか。


844 :NASAしさん[sage]:2008/08/14(木) 22:54:36
98 名前:@ [2007/02/05(月) 17:43:24 ID:pXV7Eaqc]
ある問題はアリの空けた一穴をきっかけとして発覚する。
問題が発覚して困る人はそのアリを殺そうとする。

日航ジャンボ機が墜落して16時間という殺人的時間を確保したのはそのアリを殺す為だったのではないかと疑われている。
事故調査委員会からしたら生存者は邪魔で仕方なかったであろう。

何しろ生存者の証言と事故調査報告書の大半は食い違うからである。
そして16時間の空白の時間の正当性を文芸春秋にて声高に主張した自衛隊幹部の主張も10年後在日米軍C130ハーキュリーズ輸送機に乗ったアントヌッチ中尉証言によって完全に否定されてしまった。

はっきり言おう。この事故の本当の真実を知る者がいるとしたら、彼らは4名の生存者もアントヌッチ中尉も「死んで欲しい」存在だ。
彼らが居なければこの事故の疑惑を語られる事は激減していたのは間違いない。
権力者にとって自分の名声や地位、利権に比べれば人の命など虫けら同然だ。

850 :NASAしさん[sage]:2008/08/15(金) 00:45:19
178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 23:56:32 ID:WRpDhpG6
そう言えば思い出したのが、当時俺の親父の友人の178 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/08/14(木) 23:56:32 ID:WRpDhpG6

そう言えば思い出したのが、当時俺の親父の友人の自衛隊小松基地の司令官だった人が、 家に来た時に言った言葉。

あの速報を聞いて部下に、当時小松基地には有った照明付きのヘリとタンカで救出できるヘリに 出動待機命令を出したそうだ。

しかし、当時の防衛庁からの命令が来なくてどうしても出動出来なかったと。
出動命令が下りてれば、うちの基地のヘリで何人かは助けられたかも知れないと悲しんでいた。


852 :NASAしさん[sage]:2008/08/15(金) 10:04:37
?差出人: まぐまぐ「タクシー運転手からの内緒話」 mag2 0000167798 (mailmag@mag2.com)
送信日時: 2008年8月14日 2:01:48
返信先: takachan1940@tbn.t-com.ne.jp
宛先: *************

*******************
  噂の情報
******************* 2008.8.13更新 No.212

この時期になりますと23年前の日航ジャンボ機墜落事故関連のニュースが毎年報道され航空機事故の恐ろしさを思い起こします。
 
この事故の原因はジャンボ機後部にある圧力隔壁の破損して操縦不能に陥り30分も迷走して山間部に激突したものと公表されております。
 
ところがです、私が数年前、ある国防関係に携わる筋の人からとんでもない話を聞いたのです。
あまりの衝撃で今日まで口をふさいでおりました。
 
その内容とは、JAL123便は事故当日、大阪に向けて羽田を離陸し高度を上げながら順調に飛行し相模湾上空にに来た時でした。
      「ボーン」
という大きな音がしました。国籍は申し上げられませんが飛行訓練中のジェット戦闘機がJAL機の垂直尾翼に激突して上部が破損したのです。
 
このJAL機とジェット戦闘機の状況を「横田ラブコン」と云う米軍横田基地の空域レータ゛ーが監視していたのです。衝突したジェット戦闘機のパイロットはパラシュートで緊急脱出し米軍の救難艇が救出したのです。
 
一方のJAL機は操縦不能の中、懸命に機体を立て直そうとふらふらと迷走しているのを「横田ラブコン」のレーダーは追い続け関東北部でJAL機の機影が消えたので米軍厚木基地から海軍の夜間偵察ヘリが現場へ向かい山間部で炎が確認されたというのです。
 
なぜ、この米軍救援ヘリが救出しなかったのかは今だに謎につつまれているそうです。
 事故で犠牲になられた方のお御霊に心から冥福をお祈り申し上げます。                             
                               合掌


854 :NASAしさん[sage]:2008/08/15(金) 12:42:12
53 名前:@ [2007/02/04(日) 18:51:10 ID:SOgG0y1e]
JAL123便墜落時には、「待機命令に反して御巣鷹山へ怪我人救助を急いだ自衛隊員1名が射殺された」旨、当日のNHKニュースの初報では発表してましたからね。

これが全てを語ってるな。
事実は最初から公表されてたってかw


855 :NASAしさん[sage]:2008/08/15(金) 15:05:36
>>854
つまり、マスコミは事故当初から裏を取らない電波報道を繰り返していたと。


902 :NASAしさん[sage]:2008/08/21(木) 02:10:32
@謎の緊急信号受信・12日
 今日の毎日新聞によりますと、12日の正午頃、 国土交通省の東京航空交通管制部のレーダーに 航空機からの緊急信号が突然表示されたとのことです。

信号は数分で消えましたが、遭難の可能性があることから 第3管区海上保安本部などが緊急信号が発信された 伊豆大島の北約37Kmの相模湾を巡視船やヘリコプターで捜索しましたが、機体の破片や油などの痕跡は全く発見されませんでした。

各空港事務所や自衛隊や米軍にも問い合わせましたが
該当する航空機はなく、誤信号と判断して捜索を打ち切ったそうです。


924 :NASAしさん[sage]:2008/08/24(日) 15:33:55
>>920

> 昔の週刊ポストにオレンジ色の物体の写真
その写真確かにあったのを覚えてる、
蛍光色に近いオレンジ色の物体が写ってた。
それと、救助とは明らかに違う、山肌を歩く3〜5名の写真もあった気がする。

あの頃は、救命胴衣か救命ボートの切れ端位にしか思わ無かったが…。

944 :NASAしさん:2008/08/25(月) 22:46:03
>>941
証言というのは生存者の落合さんのだと思うけど、彼女の証言には”白い霧”が出たとあって それは急減圧があったときの典型的な現象だから急減圧があった証明の一つになってる。

あと、エンジンが生きていて空気は供給されてたから減圧といってもいきなり事故があった 高度7000m近くの薄い空気になったわけじゃない。”急減圧が無かった”と主張してる人は その辺を混同してるだけ。 逆に教えてほしいんだけど、「急減圧が無かった」証言ってどこにあるのかな?

あと状況についてだけど、まず減圧警報音が記録されているし、隔壁には金属疲労による 破壊があった証拠も残ってるわけで、急減圧を示す証拠はある。
急減圧が無かった証拠、ってどういうのがあるのかな?
誤信号の原因は特定出来ていない、とのことです。

958 :NASAしさん:2008/08/26(火) 23:27:47
JA8119 は米空軍の戦闘機によって誤射された

1985年8月12日午後7時、羽田から大阪に向かっていた日本航空123便は、群馬県御巣鷹山の南斜面に墜落し、520名が死亡した。
事故調査委員会は大阪国際空港でしりもち事故を起こし、その修理した圧力隔壁が急減圧によって破損し、垂直尾翼と油圧系統を破壊し 操縦不能になった事が事故原因であると結論づけたが、いくつかの謎が残った !

米軍は墜落地点をいち早く知って、救助態勢を取りながらも突然引き上げた。 米空軍のアントヌッチ中尉が J A L 123便の緊急通信を キャッチして墜落現場を特定し、横田管制へ「ラージファイア(大火)フロムヨコタ305度34マイル」と報告した。 横田管制から厚木基地より 米海兵隊が救難に向かう準備をしていると聞いている。

防衛庁が5回も誤った墜落現場を発表して、現地対策本部を混乱させた。 人命に関わる事故なのに、J 隊の捜索はその日に行われなかった。 
現場発見に10時間、生存者発見に16時間もの時間がかかっている。 アントヌッチ中尉の報告の無線により、方角と距離が分かっているのに
こんなことは有り得ない。  減圧で圧力隔壁を破壊する力が加わったのなら、人間の鼓膜が無事では矛盾する。 また乗客が乗務員の指示によって酸素マスクを付けている写真が残っている。 そもそも、減圧が起きる理由が見当たらない。 

隔壁は胴体のギロチン試験に耐え得る強度を有している。 相模湾での垂直尾翼の捜索が徹底して行われなかった。  

横田空域管制(米軍が東京都の西部に、横田空軍基地を開設した時に設定された空域の独占権) これらのことを総合して推理すると 相模湾は横田空域の境界線を含んだ地形になっていて、その空域を侵した旅客機を米軍の戦闘機が攻撃した。 

日本政府はこの報告を受けて、この事実を抹殺するために、J 隊を使って証拠隠滅(着弾の痕跡を消す)を図った。防衛庁が5回も偽の墜落現場 を発表し、J 隊の救助活動が遅れたのはその証拠隠滅の為の時間稼ぎであり、米軍が救助態勢を取りながら引き上げたのは、真相を隠す為の 軍部の命令であり、アントヌッチ中佐にも口止めしていた。 

と以上の事からも JA 8119 ボーイング 747 SR - 100型 の J A L 123 便は米軍機に よって誤射された事は間違いない。 真実は闇に葬られてしまった。 


NO.2
http://www.unkar.org/read/love6.2ch.net/space/1220083247
185 :NASAしさん:2008/11/08(土) 23:11:21
語調や文脈だけで、不埒な連中が我が物顔でこのスレを、闊歩している事に
我慢がならないのです。
些細な事で構いませんから、ご意見を書き込んで下さい。

それ以外の皆さんへ、参考までに…

日本乗員組合連絡会議:英文名 Air Line Pilots'Association of Japan
http://www.alpajapan.org/

「日航123便に急減圧はなかった」日本乗員組合連絡会議パンフレット
http://www.alpajapan.org/kannkoubutu/genatsu/MOKUJI~1.HTM


371 :NASAしさん[sage]:2009/04/19(日) 01:17:48
当時首相官邸には在日米軍から123便を撃ったと報告が入っていた
しかし、米国命の自民党にとってそれは公にはできない
墜落地点の報告も入ったが、自民党としてはなんとしてでも米軍による撃墜を隠したかった
それにはまず生存者を出さないことだ
全員死なせて証拠隠滅しようとしたわけである

だからすぐに救助活を行わなかったのである

自民党にとって、日本国民の命などどうでもいい
英米の傀儡政権としての保障された地位と利権だけがすべてだ
だからそのまま放置したのが真相


446 :NASAしさん[sage]:2009/06/04(木) 07:23:28
この事故から10年経った1995年8月、当時の真相等が多く 発表される様になった。
そのひとつマイケル・アントヌッチ・ジュニア元米軍大尉の証言である。
(「週間文春」1995年9月28日号)

彼はその日、たまたま沖縄・那覇から横田基地米軍輸送機C130で飛んでいた。
日本側より14時間も前に墜落現場を発見した事実を公表した。 「あの飛行機事故のことは 10年経った今も脳裏に焼き付いて離れない。

JAL123便が管制塔に『緊急』を告げた時、 たまたま近くを飛んでいた。現場はすぐに発見出来た。墜落の2時間後にはアメリカ海軍の 救助ヘリが現場に着いた。あの時、救助にストップがかからなければ、もっとたくさんの人が 助かっていたに違いない。 日本の救助隊が現場に着いたのは、その14時間もたってからというではないか。」

「現場を確認後、グリフィン隊長は残骸の上空600メートルでそのまま旋回飛行を続けた。 私は横田基地 からの位置を測り、20分後には正確な位置を割り出して横田基地に知らせた。 やがて横 田基地から連絡 が入り、60キロ離れた厚木基地から海軍の救助隊が来ると知らされた。あと1時間で着くという。」

「彼ら(海軍ヘリ)は少し離れたところで、ラペル(ロープを使って懸垂降下すること)で二人 の乗員を地上に降ろし、検索しようとしている。ゲイリーがヘリと話している間に、私は司令部へ連絡を入 れた。 その時、司令部の命令はこうだった。 『日本の救助隊が向かっている。すぐ基地に戻るように。』
しかし私は次のように伝えた。 『海軍は救助に入りたいと言っています。』

447 :NASAしさん[sage]:2009/06/04(木) 07:24:16
すると司令部は次のように言った。 『繰り返す。すぐ基地に戻るように。海軍も同じだ。』 もはや私は『わかりました。帰還します』と答えるしかなかった。

降りかけていたヘリの乗員たちは、 再びロープを登っていった。 その時、我々の900メートル上空に、日本の 飛行機が旋回しているのを認めた。午後9時20分だった。これが現場に来た最初の日本の飛行機である。」
「横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団の副司令官ジョエル・シルズである。

グリフィン隊長が報告を終えると、シルズは 『よくやった。でもこのことは一切マスコミに話してはいけない』と言った。 理由はまったく説明されなかった。

しかし翌日のニュースは、もっと衝撃的だった。 日本の救助隊は現場を発見できず、やっと着いたのは墜落の14時間後だと言っているではないか。 私は焦って自分の地図を取り出し、墜落現場を正確に伝えたかどうか調べた。私には自信があった。 伝えた位置は正確だった。海軍のヘリは私の情報に従って現場に来たのだから、間違いない。

我々はあの時、現場の上空を飛んでいた日本の救援隊にを任せた。
それにしても、どうして墜落現場がわからなかったのか?一体、朝まで何をしていたのか?不思議でならなかった。

事故から2週間たって、私は『タイム』と『ニューズウィーク』で 生存者が4人いたことを初めて知った。 しかし残りの記事は、間違いだらけだった。生存者の一人の証言が私をぞっとさせた。

彼女は墜落後、数人の子供達の声を聞いたと言っていた。ヘリを見て手を振ったが、気づいてくれなかった
と語っていたのだ」・・・・・・と以上である。


448 :NASAしさん:2009/06/04(木) 09:10:28
元米軍は別に嘘をつく必要がないと考えると・・・

米軍の救助を拒否して、墜落後生存していた子供の命を見捨てる命令を
出したのは一体誰だ?という話に・・・

もっと子供がたくさん助かって欲しい事故だった 証言では子供の描写もあったから


456 :NASAしさん:2009/06/04(木) 22:51:15
あのね。米軍の援助を日本側が断ったってのは、当夜の内のNHKニュースで一度出たよ。 座間のヒューイ級のヘリが現場に接近していたってのは、それこそ10年以上経ってから聞いた。
ただし、ロープ降下中の要員が途中で止めてロープを上って行ったって記述は???だが。


770 :NASAしさん[sage]:2009/08/11(火) 17:31:59
原因なんて何だって良いじゃん。壊れちゃったものは仕方ないし、
山に激突させたのも、まぁ、ある程度仕方ない。

だが、現場に急行するのに14時間もかかったのは仕方ないじゃ済まないだろ。
明らかに、誰かのミスだ。
何で米軍は助けてくれなかったのだろうか。


771 :NASAしさん[sage]:2009/08/11(火) 17:52:24
米軍はすぐ現場に到着して助けようとしたが 日本政府が断ったため中止して引き返した
自衛隊も夜間に現場付近に到着済みだったが 朝まで待機していた
待機命令に逆らって救助に行こうとした隊員1名が射殺された とNHKで放送された
墜落後すぐにヘリが現場に着いていたことは生存者証言で証明されている


789 :NASAしさん[sage]:2009/08/12(水) 02:30:06
『疑惑/JAL123便墜落事故』(早稲
田出版刊)の著者、角田四郎氏は、御巣鷹山の現場登山に行ったさい、ある金属片(添 付ファイル)をひろって持ち帰り、事前説明なしで、友人の航空機の整備士(米国人)に 鑑定を依頼しています。結果はどうだったのでしょうか。結果について書かれた部分を ご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      彼の答えは、私のド肝を抜いた。「たぶん」と疑問視を付けて
      慎重に、しかし、はっきりとこう言った。
      「ミサイル」(This is missile.)
      「まさか!」(Not Really !)
      「たぶん、ミサイル」(Maybe missile.)
         ――角田四郎著、『疑惑/JAL123便墜落事故』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 もうひとつ角田氏はJAL123便が行方不明になったことがわかったとき、家族の 受付けカウンターのあった羽田東急ホテルに行ったそうです。そのとき、乗客・乗員の 家族から質問責めにあっていた日本航空の役員らしい紳士がいたというのです。
 
家族の質問は執拗で、かなり激しかったので、その紳士は相当感情的になって、次の ようなとんでもないことをいったというのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      うちの機は、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされたんだ。今はそ
      れしかわからん!!
         ――角田四郎著、『疑惑/JAL123便墜落事故』より
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


791 :NASAしさん[sage]:2009/08/12(水) 02:37:32
60 名前:@ [2007/02/04(日) 19:02:11 ID:SOgG0y1e]
祖父漁師だったが回収作業に協力させられたらしい。
さんざん船と人を拘束しておいて無報酬だったのが気に入らなかったんだと。

漁協に国の連中が来て舟と人員を半ば強制的に借りて 1週間タダ働きさせられてしかも協力者はその期間、外部との接触を禁じられた


NO.3

http://www.unkar.org/read/love6.2ch.net/space/1250788492

60 :NASAしさん[sage]:2009/08/25(火) 13:38:16
>>57
>誰もが風化を認識
以下の不謹慎スレの2009/08/12あたりを見れ。

【JAL】日航ジャンボ機墜落事故 8【123便】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/archives/1249897775/
【御巣鷹山】日航機墜落事故【JAL123便】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/cafe30/1215342573/
【日航機】 御巣鷹山登山 【墜落】 Part.3
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/out/1242655131/
【もう】日航機事故part34【だめだ】
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/occult/1247241520/
日航機墜落事故から24年
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/news2/1250113503/
【御巣鷹】日航機墜落事故から22年【123便】
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/tomorrow/1184970977/
日航機事故から20年
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/cafe50/1118255848/
【佐藤浩市】クライマーズ・ハイ 【横山秀夫】
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/natsudora/1200217323/
クライマーズ・ハイが俺には一番
http://anchorage.2ch.net/test/read.cgi/cinema/1235742311


65 :NASAしさん:2009/08/25(火) 21:25:15
じゃ63の通りだな。

結局、駿河湾上空で標的機絡みで垂直尾翼に損傷を受けたあと、
口封じ&都市部での墜落を避けるために墜落現場付近で撃墜されたんですね? 


66 :NASAしさん[sage]:2009/08/25(火) 21:28:44
標的機衝突ではなくて標的機を狙うはずだった艦対空ミサイルが命中・・
ですね


179 :NASAしさん[sage]:2009/08/29(土) 09:08:53
NHKアナ「ただいま長野県警から入った情報です。現地に救助に向かった自衛隊員数名が、何者かに銃撃され死者負傷者数名が出ている模様です。 続報が入り次第お伝えします」

181 :NASAしさん[sage]:2009/08/29(土) 09:42:26
NHKアナ「先ほど自衛隊員が何者かに襲撃され 死者が数名出たとお伝えしましたが、誤報だった模様です。」
 (ただし謝罪の言葉は一切なし)

333 :NASAしさん[sage]:2009/08/31(月) 04:30:38
一晩中偽の墜落現場情報を流し続けたのは何故ですか?
何故救助に向かおうとした隊員を射殺したのですか?
独自判断で救助隊を出動させた空挺団司令は何故謀反の疑い在りと言われて左遷させられたのですか?


491 :NASAしさん[sage]:2009/09/01(火) 03:03:02
<墜落現場隠蔽事件>

事故当夜、自衛隊が墜落現場が長野県側であるという情報をマスコミに流した
翌朝まで現場を特定できなかった理由を、 当時の航空機での測定精度では無理だった と言っていた
頑張ったけどどうしても到達できなかった、と言っていた。

10年くらい後、アントヌッチ元米軍大佐が
米軍は墜落直後現場に到着し救助活動を始めようとしていたが
日本政府からの要請で中止して引き返した
そのとき現場には自衛隊機も到着していたと証言
→ 隠蔽派には「大嘘」だと言われていた

が、>>15>>16
のように その後中曽根氏がTV放送でアントヌッチ証言を認めてしまった

これにより
自衛隊も本当は墜落直後から正しい墜落現場を知っていたのに
一晩中偽の現場情報を流して時間稼ぎした
ということが暴露されてしまったんじゃね?
というもの


550 :NASAしさん[sage]:2009/09/01(火) 14:11:37
495 名前:名無しさん@5周年:04/08/12 21:18 ID:jB9y0pGY
これはマジな話なんだが、友達の兄貴が当時自衛官で ●●隊情報●隊と言う部隊に所属していて 救助活動というか事故処理に参加したそうだ。

その兄貴と何年か前に酒を飲んだ時に聞いた話だが
以前から事故処理に従事したと言う事は弟から聞いていたので
興味本位でその時の事を聞いてみたら顔色が変わったので
その話はそこまでにして馬鹿話に切り替えた。

暫く飲み続けるうちに、その兄貴がポツリポツリと話だした。
誤射、国家機密、緘口令、事後処理の為の特殊部隊の編成
情報撹乱、ガス、火炎放射器...。
まさに地獄以下の有様だったそうだ。

隊員の中には精神状態がおかしくなる者や、生存者をかくまったために
拘束されて送り返された者も少なくなかったそうだ。
その兄貴もすぐに退官したが、その際に口外すれば家族にまで危害が
及ぶと言う事を暗にほのめかされ、自殺を考えた事も有ると


631 :NASAしさん[sage]:2009/09/02(水) 00:07:35
乗客がカメラでニアミス飛翔体を撮影
ttp://pds.exblog.jp/pds/1/200809/30/59/c0173159_13565941.jpg
建造中護衛艦が当日相模湾で公試中
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%86%E3%81%8D_%28%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6%29
標的機でレーダー性能試験?
or
処女捨島水域(処女捨島ミサイル試射場)or 訓練水域G(大島東方)にて武器発射試験?
ttp://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/tuho/index.html
墜落間際の機体からの出火目撃・CVRの火災警報音
ttp://tablet.my.coocan.jp/sound/FVR123.mp3
左翼がーっ!(犯人だっ・・・ ?)(CVRのCPの叫び)
ttp://neko-usa.s22.xrea.com/jal123/wav/jal123_5602.wav
不可解な墜落場所の隠蔽
ttp://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/db/0b3cc991be00b01d43c494a219cabba4.jpg
真っ先に回収されたオレンジ色の謎の物体
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現場で見つかったミサイルの破片
ttp://intec-j.up.seesaa.net/image/1A8FABB61A1A1A1A1A1A1A1A1A1A1A1A1A1A8FAAA51A1A1A1A1A1A1A1A1A-thumbnail2.jpg
アントヌッチ
中曽根(墓まで持っていく。神棚設置 → でもTVでちょっとしゃべっちゃた


652 :NASAしさん[sage]:2009/09/02(水) 00:33:06
144 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2001/02/03(土) 12:58
  産経新聞昭和60(1985)年8月13日朝刊に依れば、12日夜
 8時4分、日航の予約センターに男の声で過激派を名乗る団体名で電話 が掛かり、「我々は日航機を爆破した」と言って切った。直前の午後7 時48分にも東京・千代田区の国防会議事務局にも「中曽根」と名指し で、「日航機を爆破した」と電話をしていた。

 報道関係も政府も、昨年(昭和60年当時の話!忍)のグリコ・森永事件以来、ステージ犯罪として、種々の宣言や 声明を無視する傾向があり、今年の夏に大きな事を遣る、と言った同犯人の挑戦状を、過激派との関連が明らかであ
るのに軽視し、今回の事件との結び付きも頭に浮かばないらしいが、一連の犯行の延長。仲間との連係と見れば、謎 は直ぐ解ける筈です。

日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(0)15 日航機墜落の真相は? * 日航機墜落事故の悲劇を繰り返さぬためには(今までのまとめ)2010/08/13(金) 08:04:23
 

 下田沖に落ちたとみられる垂直尾翼(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-555.html )を探して倉庫に保管したのは(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-887.html)、オレンジ色の物体とその塗料がくっついていて、それはミサイル攻撃によることの証拠となるためで、それらの事実を目撃した自衛隊員は、守秘義務違反という名のもとに、自殺させられたりしたということが、今までの推測をまとめてみるといえる。

 乗客の救助を優先しようとしたり、隠蔽工作から真実を知らせようとした者が、殺されていった可能性もある。

真実を知らせようとする自衛官・警察官・日航職員が、隠蔽工作による守秘命令に縛られているとしたら、政権交代によりこれから解放することが、何よりも真実を究明することにつながるだろう。

 墜落時、まだ多くの乗客が生存していた(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-537.html)ことは墜落直後、現場を通りかかった民間人の証言からも明らかである。(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-540.html  )この吉野さんという民間人については、http://planz.blog62.fc2.com/blog-category-12.htmlに書かれており、貴重な目撃証言となっている。

多くの生存者の呻き声と指一本なくしただけで命に別状もなさそうな男の人。落合さんも墜落当時男の子の声が聞こえたと言っている。この男性や少年をはじめとして生存者はどうなったのだろうか?

この目撃証言が事実だとすると、特殊部隊(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-536.html)が救助を遅らせ、隠蔽工作するために、証拠となる機体の回収をし、焼き払ったということがわかる。あの呻き声が、朝の5時にはピタリとやんだという。声がやんでから発見したと速報が流れ、自衛隊が救助に向かったということになる。早くから墜落現場は特定されていたのに。(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-533.html

 つまり、乗客はダッチロールの恐怖と、墜落による死傷と、さらに生存者は生きながらえながらも放置されて息絶えるまで見殺しにされたり、さらには事実を知っていると思われる者は何らかの理由で葬られた可能性すら考えられるのである。

 生存していた女性4人、スチューワーデスの落合由美さん(http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-ochiai.htm)
川上慶子さん(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-537.html)・吉崎博子、美紀子さん親子は、いずれも後部座席に座っていて沢に投げ出されあまり気づかれない場所で気を失っていて助かり、最前部にあった機長室は激しく焼かれ(通常の火災ではこのようにならない)、特に高浜機長に至っては、歯しか残っていなかったという。

 墜落現場が特定されていながら救助に向かわせずに混乱させるような情報が流され(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-533.html)、救助しようとして命令により引き返したことは米軍機アントヌッチの証言(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-541.html)からもわかります。

 また、日航機墜落の当日の目撃者の証言(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-546.html)からも、これがミサイルによるものではないかと考えられていたが、現地で採取された破片の結果からも(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-545.html)そのように判定できる。

 当時の政府首脳の対応についても疑問はかなりあります。(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-547.html

 「考えてみれば、中曽根内閣のときに際立って前進したのが防衛問題でした。次期防衛計画、シーレーン防衛論、防衛費の対国民総生産(GNP)比1%枠の撤廃論――こういう動きの中で、日米共同でミサイルの開発が行われたのでしょうが、それがとんでもない事故を起こしてしまったというわけです。
 
何か問題が発覚しそうになると、組織として隠ぺい工作に走る――それが官僚の真骨頂ですが、中曽根内閣もそれと何も変わるものではなかったのではないか 」とも述べられています。

 横田基地に誘導されていたのに、なぜか御巣鷹山へ向い墜落した。その墜落現場は、中曽根首相の地元であり、権力を行使できるところだったということもあってあれこれ憶測を呼ぶことになったのでしょう。

 日航機を操縦していた高浜機長について(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-550.html)は、元自衛官パイロットとして最高の判断と技量を示し、懸命の撃墜回避行動をとったことが、今に至っての真相究明が可能になったと言われていますが、あるブログには、

「おそらく機長の魂は今もそこに留まり、多くの犠牲を出したことに苦しみつつ、私たちに真実の究明を訴えかけているに違いありません。

高濱機長の任務は事故から24年を経過した今も続いているのです。この辛い任務から一刻も早く解放して差しあげるためにも、1人でも多くの日本国民に真相を伝えていかなくてはならない、1人でも多くの祈りを届けなければならない、そう思いつつ、私の真上を飛び去る3つの大きな機影を目で追っていました。」
とも書かれている。

 また、スチュワーデス・乗務員の最後まで希望を捨てずに、不時着のさいの注意事項を落ち着いて切々と訴えている様子についても胸を打つものがあります。(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-533.html


 「ボ―イング社の修理ミスによる圧力隔壁の亀裂、急激な空気の流入による尾翼破損、操縦不能で墜落。これが最も知られている520人の命を奪った大事故の原因である。」という事故調査委員会の報告書には、25年経った今も
疑問視されています。

日航の従業員組合の組織、日航乗員組合連絡協議会は「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表し、また当時事故機に乗務していて助かった落合由美さんの証言からも明らかです。


いずれにしても救出が遅れたことは、アイソトープ搭載による放射能汚染があって待機させられた(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-553.html)という説も出たり、救助に向かおうとした自衛隊員が射殺されたというNHKニュース速報が流れたりした(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-539.html)ことが、ただの航空機事故ではないと何か意図的に隠蔽工作されていると思われることになるのですが、

「それは、無人標的機の残骸と、最後に123便にとどめを刺したミサイルの残骸とそれに傷つけられた機体を回収するためです。 シコルスキ―(自衛隊の大型ヘリコプタ―)を持っていってすぐ、生存者よりもなによりも早くそれを回収するため行ったんです。

なにかオレンジ色の大きなものを釣り上げている写真を新聞社か週刊誌は持っていたはずですよ」 オレンジ色の部品は123便にはない。無人標的機の塗装色である。

当時、日航の大株主は日本政府である。35%の株を持っていた。 」(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-550.html)ともうこの時点で持論を展開しているブログもあり、

今回の引き上げた標的機のオレンジの塗料のついた証拠となる垂直尾翼を倉庫に隠し、それを目撃した自衛官が自殺せられたりという事実を、いつかは自分も殺されるのではと、写真にとって真実を知らせた(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-887.html)ことが裏づけともなるのです。


 度重なる恐怖の末に亡くなられた日航機の乗客と、自衛官という職務と人間としての良心とのせめぎあいの中で真実を残そうとして亡くなった方々(真実を伝えようとしてなくなったのは自衛官だけではないように思われる)、今私は思うのです。

 まだ、事故の究明は終わっていないのだと。日航機とミサイル衝突の事故だけでなく、それを隠蔽しようとして第二・第三の悲劇が続いているのだと。

それには、日本における自衛隊の存在そのものに関わる何かがあるのだと。

 政権交代を果たしても、マスコミをはじめとして権力を行使しているものが代わらない限り、日航機の悲劇は繰り返されるのだと。小沢・鳩山攻撃も同じように思うのです。
 

 最後にやはりミサイル説を唱えていた抜粋を挙げておきたいと思う。(http://wajuntei.dtiblog.com/blog-entry-536.html

「それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説です。

あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、にわかには信じられない思いがあります。
 
しかし、仮にそうであったとするとツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや、自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、「自衛隊を動かしている存在」−つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあったのです。
 
それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘であるのに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼にぶつかってそれを破壊してしまったことです。
 
しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認されているのです。

もし、JAL123便が横田基地や羽田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら政府や自衛隊は持たないと考えて不思議はないのです。
 
この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL123便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して、機体がこなごなに破壊され、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。
 
そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹山付近の山岳地帯に誘導したのです。

しかし、JAL123便の機長は、それでも必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかというのです。
 
「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。

生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
 
生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であったとしたら、これほど人の道に外れる行為はないといえます。
 
仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。
 
とくにコックピット内は焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。

いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。
                   ・・・[御巣鷹山事故の謎/13」


 

 年月の経過と政権交代によって徐々に出始めた真実。マスコミが事実を語るようになり、あの御巣鷹の山に眠る多くの御霊が安らかに眠り、私があの山で感じたすすりなきが聞こえなくなるのは、いつの日だろうか?

日航機墜落の真相| trackback(1)| comment(1)14 日航機墜落の真相は? * 日航機墜落はミサイル攻撃によるもの 目撃自衛官は殺されることを恐れて証拠写真を残していた2010/08/10(火) 23:52:43

 また、あの日航機墜落の夏がやってくる。最近、日航機墜落の真実を追及するブログにより、新たな情報が書かれるようになった。

その中でも、「日航機墜落の真実を求めて」のブログが、「自衛隊員の自殺率の嘘」と題して書かれたブログを挙げ、

事故が起きた1985年の翌年1986年7月頃から日航機の真相を仲間や身内にばらした自衛官らは殺されているようで、自分も殺されると察したある自衛官は友達に2枚の自殺した同僚の航空自衛官(1986年7月)の現場写真と決定的な証拠写真を託して、その自衛官自身も2ヵ月後の9月12日に自殺させられたようだというのです。

 その写真は、自殺させられたと思われる写真と、倉庫にあった落ちた尾翼部分(資料AB)で、明らかにオレンジ色の物体とその塗料がくっついたままの状態の写真です。これは明らかにミサイルもしくはその標的機がぶつかったことを示す決定的な証拠です。

これらの出典となった「週刊文春」の記事を探しているところです。とりあえず、それを引用したブログを挙げてみました。

 これから推測すると、ミサイル攻撃を受けて垂直尾翼をなくした日航機は墜落。それを隠蔽するために目撃・処理した自衛官だけでなく、乗客などの命も奪われた可能性もあります。

 つまり、ミサイルが日航機に衝突して墜落しただけでなく、ミサイルが追突したとなれば、自衛隊の存在もアメリカとの関係にも支障をきたすという何らかの理由で、この事故を隔壁の亀裂による修理ミスとして処理するために、ま生きていた乗客も放置され、現場処理にあたった自衛隊員も自殺させられたというショッキングな出来事となります。


 真実を明らかにすることが、亡くなられた方々の霊に報いることになるのだと思います。

日航機墜落の真実を求めて

http://nvc.halsnet.com/jhattori/nikkou123/

最近の話題

「自衛隊員の自殺率の嘘」
http://plaza.rakuten.co.jp/topsecretx/diary/200802250000/「みつからなかった70% 」
http://plaza.rakuten.co.jp/topsecretx/diary/200802260000/
下記の写真a,bなどは「週刊文春」の記事から

(実際は事故が起きた1985年の翌年1986年7月頃から日航機の真相を仲間や身内にばらした自衛官らは殺されているようで、それをあたかも1981年から自殺率の調査をしたかのように1986年に急に「自殺する自衛官が年々、増加」と防衛庁は発表:防衛庁、自身が自衛官を自殺にみせかけて殺しておいて?)

この事故(事件?)の1年後から何人もの航空自衛官が自殺に見せかけられて殺されているようです。

自分も殺されると察したある自衛官は友達に2枚の自殺した同僚の航空自衛官(1986年7月)の現場写真と決定的な証拠写真を託して、

その自衛官自身も2ヵ月後の9月12日に自殺させられたようです。

殺された(?)自衛官はこの現場写真や証拠写真などから何を訴えたかったのか?

みつからなかった70%からもわかることは
1枚目の二人ならんだ首吊り自殺の現場写真aでは足場の土台もなく、自殺の状況でないことを示し、 2枚目のbの写真(右側では資料@)は倉庫にあった落ちた尾翼部分(資料AB)で、明らかにオレンジ色の物体とその塗料がくっついたままの状態の写真です。これは明らかにミサイルもしくはその標的機がぶつかったことを示す決定的な証拠です。

a 自殺した(?)2人の航空自衛官の現場の写真(足元に何もない不自然な自殺)b ぶつかったと見られるミサイル(標的機)の一部が付着したままの尾翼部(資料Bの赤部分)

ぶつかったと見られるミサイル(標的機)の一部が付着したままの尾翼部(資料Bの赤部分)


なお映画「クライマーズ・ハイ」は、謙虚に、静かに、本質を隠しつつ、日航ジャンボ機・JAL123便の墜落原因を訴えていました。


Watch The Climbers High 2008 part 1 in ��� | View More Free Videos Online at Veoh.com

http://nikkeiheikinsakimono.cocolog-nifty.com/nikkoujmbonosinnjitu/2009/01/post-5bb1.html
なお10分以上見る場合は1度だけ、WebPlayerをインストールする必要があります。


★★墜落日航機遺体は「二度焼き」されていたかのようだった
(『週刊現代』8月14日号JAL機墜落25年後の真実)

http://www.koubunken.co.jp/mizusima/main.html

 

著者がこだわったのは、「123便はなぜ墜落したのか」である。 著者は、驚くほど丁寧に、粘り強く調べた当時の新聞や、関係者への取材などをもとに、このテーマを執拗に追っている。客室乗務員としての青山さんの体験や亡くなった先輩・同僚についての叙述があまりにインパクトが強いため、「なぜ」の方が見えにくくなってしまう面があることは否定できないものの、「なぜ」にこだわる著者の執念と意志は十分に伝わってくる。ここでは、本書の問題提起のなかから、5つの「なぜ」について触れておこう。

 第1の「なぜ」は、墜落の原因とされた「後部圧力隔壁損壊」説をめぐってである。私自身が見聞きした範囲でも、「123便」墜落をめぐって、本当に多くの人がこの説に疑問を表明している。運輸省事故調査委員会報告書は、「後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の損壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される」という結論だったが、これは説得力がまったくなく、私が地方講演で出会った方によれば、航空整備関係では、「後部圧力隔壁損壊」説をまともに信じる人はいないという。

加えて、1986年10月26日のタイ航空機事故が、「なぜ」の一つの側面を明確にしている。タイ航空機は高知上空で機体後部の圧力隔壁が損壊し、大阪空港に緊急着陸した。その時、機内で何が起きたか。ドーンという爆発音とともに、機内与圧が急激に低下。白い水蒸気のような気体が充満し、乗員、乗客が一瞬で航空性中耳炎になった。だが、123便の場合は急減圧が起きず、白い水蒸気のような気体が生ずることもなかった。つまり、事故調査委員会の「後部圧力隔壁損壊」説は、タイ航空機事故により事実上破綻したと言えるだろう。詳しくは本書を参照されたい。

 第2に、「墜落現場の特定がなぜ遅れたか」である。本書によれば、墜落の20分後には、現場は特定されていたことになる。なのに、NHKニュースは墜落現場について二転三転する報道を行った。埼玉県三国山、長野県御座山、群馬県上野村小倉山、同ぶどう峠。これらは御巣鷹山から8〜10キロの円のなかに入る。当時の上野村村長、黒沢丈夫氏(元海軍少佐、零戦パイロット)は、青山さんの取材に対して、墜落地点の計測ミスに怒りを隠さなかった。零戦時代の知識でも特定可能なのに、現在の技術で墜落地点が特定できないはずはない、と。なぜ墜落現場の特定が遅れたのか。それは「遅らされていた」のではないか。救助隊を分散させ、数時間にわたって、御巣鷹山に誰も近づけないようにする何らかの「作為」が働いたのではないか。本書によれば、黒沢元村長をはじめ、救援にあたった地元の方々のなかには、この点についていまも疑問を抱いている人がいる。

第3の「なぜ」は、上記と関連するが、救助の遅れである。自衛隊が到着するのは12時間後である。これについて本書は、『星条旗新聞』1985年8月27日付に注目する。米空軍第345戦術空輸団所属の中尉が、C130輸送機で横田基地に向かう途中、123便の緊急無線を傍受。御巣鷹の尾根に煙があがるのを目撃している。すぐに米軍の救難チームのヘリが厚木基地から現場に向かい、午後9時5分に現場に到着。隊員が現場に降りようとしたのだが、在日米軍司令部から「日本側が現在現場に向かっているので帰還せよ」という命令を受け、救助活動を中止して帰還する。生存者の落合由美さんは、「救助ヘリコプターが上空で回っているのがわかった。手を振ったが気付いてくれなかった。自分の周りでは数人の子どもたちの声が聞こえたがそのうち聞こえなくなった」と述べている。なぜ、救難ヘリに帰投が命じられたのか。自衛隊は本当に夜間に到着していなかったのか。最も早く現場に到着したはずの地元消防団員たちは、彼らが朝9時頃現場に到着したところ、「自衛隊員がすでに山の上から降りてきた」という。彼らは一体、いつ現場に到着したのか。

 第4に、なぜ遺体は黒こげだったのか、である。ジェット燃料はJET-A/40という灯油の部類でケロシンというが、マイナス50度の上空でも凍結しないように、灯油よりも純度が高く、水分が少ない。燃料は主翼内の区切られたタンクに入っているが、大気中に出たケロシンはガス化しやすく、煤(すす)も出にくい。にもかかわらず、主翼の燃料タンクから遠いところに投げ出された遺体が炭化している。遺体が集まっていた所で黒こげ状態が激しかったという。

 当時、遺体の歯形で本人確認を行った大國勉氏(歯科医師、群馬県警察医会副会長)に、青山さんは何度もインタビューを試みている。「私は群馬県警察医として千体ほど焼死体を見てきたが、それでも歯は『すす』で黒くても、裏側や一部は白いままだし、骨もそこまで燃えていない。なのに、あの事故の時は骨の奥まで炭化するほど燃えていた。…二度焼きしたような状況だ」。周囲の木々が幹の中までは燃えていないのに、遺体だけが骨の芯まで焼かれているのはなぜか。群馬県の検視報告書において担当医が「二度焼き」という言葉を使ったことは、ただごとではない。詳細は本書に譲るが、遺体の惨状はジェット燃料の火力のせいだと思い込んでいた私は、この箇所を読んだとき鳥肌がたった。


第5に、123便墜落の決定的な「なぜ」である。『週刊現代』8月14日号は、この点に関する本書の問題提起を4頁にわたって大きく取り上げている。タイトルは「JAL機墜落25年後の真実」。本書のグラビアにも掲載されている写真で、父母と妹の3人を失ったA氏から提供されたものである。そこに「何か」が写りこんでいる。これはA氏の父親がR5(右側最後部)ドア近くの窓の外を連続撮影したうちの1枚である。最初の方は、窓の外の普通の風景で、これを撮影したのはA氏の妹で、旅の思い出として撮ったものとされる。だが、その次(10枚のうちの5枚目)から不思議な写真が続く。窓の外に異変を感じ取り、それを確かめるように何度もシャッターを押しているようにも見える(『週刊現代』の著者インタビューより)。

青山さんはパソコン上でこの写真を拡大していったところ、オレンジ色に変色していったという。画像処理の専門家にこの写真の検証を依頼したところ、「円錐もしくは円筒のようなものを正面右斜めから見たようなイメージで、この物体はオレンジ帯の方向から飛行機の進行方向に向かっているように見えます」という。ネガを直接鑑定すれば、この「オレンジ」の正体も分かるだろう。123便は「横」からのG(圧力)によって機体が揺れている。「後部圧力隔壁損壊」では横揺れは起きないという。この「オレンジ」が右方向から123便に接近しているとすれば、この「オレンジ」と123便墜落との間に重要な関連があるとは言えまいか。

これらが解明されるまでは、25年たってもなお、日航123便の520人に対して、「安らかに眠ってください」とは到底言えないのではないか。123便の右側から接近する「オレンジ」の正体をはじめ、いくつもの「なぜ」に対してきちんとした解明が求められている。メディアの真摯で本格的な取材が求められる所以である。


日航機墜落の真相| trackback(0)| comment(1)13 日航機墜落の真相は?爆発は相模湾上空。尾翼落下は下田沖2009/11/25(水) 13:14:31

 相模湾で垂直尾翼が発見されたということは、羽田を飛び立った123便が相模湾上空で何らかの衝撃を受け垂直尾翼を失い、制御不能のまま飛行していたということになる。
その後の捜索でこの垂直尾翼は相模湾で見つかり、尾翼落下は下田沖とみられている。 

 『日航機墜落事故 東京-大阪123便 「新聞見出しに見る20年間の記録」』 http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm

の事故直後の8月17日の新聞の見出しには、「 墜落日航機 垂直尾翼、空中で分解後 中央部だけで迷走 垂直尾翼落下 伊豆半島と大島間 発見漂流物は20ヵ所、30片 日米合同調査団が現地入り (毎日)」「 漂着した破片客室天井の一部 第四エンジンも発見(毎日) 」「尾翼落下は下田沖 海流で推定 (山陰)」とある。

また、この 「20年の記録」には、「在りし日のJA8119と、垂直尾翼を失って飛行する事故機 」として垂直尾翼を失った日航機 が秩父大滝上空を飛行しているのが写真に撮影されている。


埼玉県秩父市大滝は群馬県御巣鷹山とは直線距離にして両神山を挿み、すぐのところにある。

これは、8月16 日の新聞見出しの「写真に垂直尾翼なし 会社員撮影「動かぬ証拠」と断定 航空関係者 (読売)」とあるものと思われる。

相模湾上空で何らかの異状が発生した場合、機体のコントロールが利くようであれば当然羽田へひき返すか、最も近い横田へ緊急着陸するだろう。それがなぜ御巣鷹山の方へ向かったのか?

爆発後横田基地へ緊急着陸する手はずが整っていたのに直前に拒否されて御巣鷹山方面へ向かったとか、自衛隊機2機に誘導されて御巣鷹山へ向かったとか言われているが、なぜ相模湾から御巣鷹山へ行ったのかについてはいまだ不明である。

操縦不能になり機体を安定させるため車輪を下ろし、流れにまかせるように漂いながら着陸できる場所を探していたのだろうか?


爆発後から墜落まで 
 
 「123便は相模湾上空で垂直尾翼の大半を失い、同時に油圧4系統全ても切断されて徐々に操縦ができなくなっていった。もちろん、乗員は原因について知るよしもない。

焼津市上空を通過したあたりから次第にダッチロール(機首の横揺れと左右の傾き)が激しくなり、右に60度、ついで左に50度も傾いた機長は「バンクそんなにとるな」と注意するが、このときはすでにパイロットの思い通りの操縦ができなかったと推察される。

 ダッチロールによる機体の揺れで、風切り音が笛の音のように不気味に聞こえてくる。フゴイド運動(機首の上下運動)も加わり、15度から20度も機首が上向き、今度は10度から15度も機首下げの状態を繰り返した。

運行乗務員の思うように上昇、降下、旋回もできず、当初、東京航空交通管制部に要求した大島経由で羽田空港に引き返すこともできない状態になっていた。123便は右に大きく旋回し、北の富士山の方向へと飛行を続けていく。」


「操縦室では機体の操縦に次第に慣れ、左右のエンジンの操作がスムースになり、機体も安定し始めていく。このころ、乗員同士の会話では酸素マスクをつけるかどうかのやりとりがあるが、酸素マスクをつけないまま最後まで操縦を行う。乗員が酸素マスクをつけていなかったと考えられる理由は、酸素マスクをつければくぐもった声になるが、そうなっていないからである。

航空機関士と客室乗務員のやりとりでは、壊れた場所の確認と酸素マスクの話に移っていく。航空機関士は日航との会社無線(カンパニー)で「アールファイブ(R5=右側5番目)のドア、ブロークン」と報告している。これが当初、事故原因だとして発表された。

 機体の調整は左右のエンジンを噴かしたり、絞ったりしながら失速しないように飛行を続けるが、機体のダッチロール、フゴイド運動に対しては、車輪を下ろすことで安定させようと試みている。

一度、車輪を下ろせば油圧がないため、二度と上げることはできない。車輪が下ろされると空気抵抗が強くなり、速度が下がり、失速につながる可能性がある。それでも機体を安定させることが大事であったのだろう。

失速を防ぐためにはエンジンの推力を増加させる必要がある。大きな推力を出すと、左右のエンジンのバランスが難しくなり、山梨・大月市付近では大きな旋回をすることになる。

 7000フィート(2100m)あたりまで降下すると、今度は周辺の山に気をつけねばならない。周辺には雲取山(2017m)、甲武信ヶ岳(2475m)、八ヶ岳(2899m)がそびえている。゜山にぶつかるぞ」「ライトターン」と指示を出し、「マックスパワー」と最大限に推力を上げて危機を乗り越えていく。

 操縦室からは東京航空交通管制部に何度も「操縦不能」を伝えている。羽田空港の管制も加わって123便に周波数の変更を指示するが、123便は操縦操作に追われて自分自身の位置が分らなくなっていた。

羽田管制は「熊谷(埼玉県)の西、25マイルだ」と伝える。秩父山系の埼玉県大滝村あたりを飛行していた。

 123便には最期が刻一刻と近づいていた。長野県の川上村、南相木村に少し入ったところで右に旋回し、御座山をかすめて御巣鷹山方面へと向かっていく。川上村の梓山地区では農作業中の人たちが、頭上をゆっくり旋回していく123便を目撃していた。

目撃者は「何か変な感じだった」と123便の飛行状況について証言している。ただ、垂直尾翼を半分以上失い、車輪を出して飛んでいるところまでは、目撃者の多くは確認していない。

 機体は速度が変動し、エンジン推力も大きく変動している。もはや、乗員による操縦操作は不可能となっていた。墜落時には速度265ノット(時速490km)で、後に「U字溝」と名付けられた尾根の木々に翼端やエンジンが接触し、水平尾翼は脱落した。

この時点でボイスレコーダーの録音は終わっている。時間は「18時56分28秒」であった。

 残された機体は、北西に570m離れた谷向こうの蟻ヶ峰(神立山)の北北東にあたる無名の尾根に裏返しの状態で激突する。胴体後部が折れ、スゲノ沢に滑り落ちて行く。」

というのが、「日航機墜落事故 東京-大阪123便」に書かれている垂直尾翼を失ってから墜落までの様子を追った記述である。

日航事故機は、
◎機体記号 JA8119  ◎型式 ボーイング747SR-100 ◎製造年月日1974年1月30日  ◎製造番号 20783 耐空証明 第48-028 ◎総飛行時間 25,030時間18分 ◎総着陸回数 18,835回  ◎新規登録年月日 1974年2月19日

 事故当日の出発から爆発までは
 
 「1985年(昭和60年)8月12日、ボーイング747SR−100型機のJA8119号機は、日航の定期便として羽田〜千歳503便、504便、羽田〜福岡363便を経て、366便として福岡から17時12分に東京・羽田空港に到着している。18番スポットでその後の123便として大阪への飛行準備をしていた。

 乗客は夏休みを利用した家族連れやビジネスマンが目立ち、509人が搭乗していた。この中には元マネージャーの選挙応援で大阪に向かう歌手の坂本九さんや、21年ぶりのリーグ優勝を目前に控えた阪神タイガース球団社長・中埜肇さん、ハウス食品社長・浦上郁夫さん、元宝塚歌劇団の娘役で女優の北原遥子さんなどの著名人も乗り合わせていた。

 操縦席では左側の機長席には機長になるために訓練中の佐々木祐副操縦士が座り、教官の高濱雅己機長が右席に着いた。福田博航空機関士は、副操縦士席後方の定位置に着席していた。客室では12人の客室乗務員が職務についていた。

日航123便は18時4分にスポット18から移動を開始し、滑走路15に入った。 524人の乗客・乗員を乗せた123便は、燃料3時間15分ぶんを搭載して18時12分に羽田空港を離陸した。

123便は離陸後、機首を180度(真南)に向け、1万3000フィート(3960m)まで上昇をが許可された。このあと、2万4000フィート(7315m)への上昇が承認された。管制は羽田空港進入管制部から所沢にある東京航空交通管制部に移管され、大島の北を伊豆半島の下田市方面をめざして上昇していった。

 18時24分35秒。123便は伊豆稲取港の東約4Km沖の上空にあった。事故調は「ドーンというような音」としているが、ボイスレコーダーを聞いてみると「ドドーンドンドン」と聞こえる。

近くにいた生存者(落合由美さん)は「パーン」という乾いた高めの音だったと証言している。破壊音はジャンボ機の60mの胴体内を伝わっていく過程で、高音が減衰し、エコーも混じってコックピットのボイスレコーダー用のマイクに収録されていた。

衝撃音に続いて「ビー、ビー、ビー」と3回ブザーが1秒間鳴っている。この警報音は客室内の気圧が1万フィート(3000m)の高さの気圧以下になったか、離陸警報が作動したかのいずれかだと考えられている。

 操縦室では機長が「ギアみてギア」といい、続いて「スコーク77(セブンセブン)」と緊急事態を意味する信号の発信を指示している。通常の訓練なら異常事態を把握して、そのときの状況で必要なら「スコーク77」を発信することになっている。

それがいきなり「スコーク77」の発信指示したことは、よほど危険を感じるような振動であった可能性が高い。 」


この「よほどの危険」が何であったのか?出発から墜落までの軌跡をたどるとき、相模湾上空での爆発音が何なのか?なぜすぐに政府は救助に向かわせなかったのかなどいまだに謎とされていることは多い。

御巣鷹山に墜落して520人の身元確認作業の困難さについては、「沈まぬ太陽 御巣鷹山編」にあるとおりだが、真夏の猛暑の中遺体の確認は困難を窮めた。多くの医師・医学者や法歯学者の協力によるところが大きい。確認までには4ヶ月もの月日がかかったというが、それでも二人(うちアメリカ人一人)の身元は確認されなかったという。


この記録におけるその後の記述

「4人の生存者(落合由美さん、川上慶子さん、吉崎博子さん、吉崎美紀子さん母娘)はこの胴体後部の座席だった。事故調の認定した墜落時間は「18時56分ごろ」としている。

位置は北緯35度59分54秒、東経138度41分49秒で、群馬県多野郡上野村大字楢原字本谷3577番地国有林76林班内であった。
 墜落現場は黒沢丈夫上野村村長によって「御巣鷹の尾根」と命名される。御巣鷹山の南東2Kmの地点に当たる。

 墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、520人の犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた上に、猛暑という季節的な悪条件も加わって腐敗の進行も早いので、身元の特定は困難の連続だった。

また、この当時はDNA鑑定技術もまだ十分には確立されていなく、地元・群馬県の医師のほか、法医学者や法歯学者などが全国から駆けつけ、冷房施設のない体育館での猛暑と腐敗臭や遺体保存用のホルマリン臭など、劣悪な環境の中、多数の人々が協力しあって人海戦術で判別作業を進めた。

最終的な身元確認作業の終了にはおよそ4ヶ月間という時間と、膨大な人手を必要とした。しかし2名の乗客(うち1人はアメリカ人)の身元は遂に判明しなかった。

 事故調は、2年後の6月19日、事故報告書を当時の橋本運輸大臣に提出。事故原因について、1978年(昭和53年)6月、伊丹空港での「しりもち事故」で損傷した後部圧力隔壁のボーイング社修理チームによる修理がずさんだったため、圧力隔壁が金属疲労を起こして破壊され、急激な減圧とその時発生した衝撃波が垂直尾翼に流れ込み、JA8119号機は垂直尾翼の2/3とテールコーン(補助動力装置などが入っている)を失ってしまったとしている。

 しかし、この「圧力隔壁破壊説」には多くの矛盾が指摘され、事故から20年経っても本が出版され、航空機専門家、パイロットなど乗務員関係者、マスコミ関係者、そして遺族の方々らが真の事故原因解明を求めている。」
           

本文は主に『日航機墜落事故 東京-大阪123便 』(サイト管理人 祝部幸正) http://www.goennet.ne.jp/~hohri/n-index.htm
からの引用であるが、これは米田憲司著「御巣鷹の謎を追う」(宝島社刊)から祝部幸正が引用・加筆したものである。


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Author:熊木和枝:東京都練馬区
 和順庭という庭のガーデニングを趣味としてやっています。高校教師をやめて、ガーデニングのブログを書いていたのですが、小沢問題から真実を調べているうちに、マスコミや検察自体がおかしくなってきていることに気づき、ブロガーたちと検察の捏造や冤罪を追究し、ついに村木局長事件では無罪判決を得ることができました。最近は、市民の立場で真実を追究する政治的内容が多くなってきています。


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和順庭の四季おりおり
私たちの庭:和順庭の四季おりおりを写真と随筆でつづります。
12 日航機墜落の真相は? *アイソトープ(放射性物質)搭載情報は何を意味するのか2009/11/23(月) 11:54:49

 日航機墜落から24年という歳月が経ち、墜落原因としてかつて浮上したいくつかの説もかなり淘汰され、またこれだけ月日が経ったから言える証言や事実もでてきたのかもしれない。

自公政権のときに都合の悪いことは権力で抑えられていても、政権交代により明るみに出される事実もあるだろうと思われる。


 「2 日航機墜落の真相は? *私がなぜ御巣鷹山へ言ったのか?」の「8月12日事故発生から救助まで」のところへ書いたが、 その後のボイスレコーダーからわかるように日航機123便は「18時24分 ドーンという音が発生」している。そして、この時からバランスを失い、ダッチロールといわれている飛行に入る。

この音が何なのかである。機内での爆発か?それとも何かが衝突した音なのか?原因として現在まで残っているのが、ミサイル説ということになる。

 日航機が 18時56分「御巣鷹山の尾根」に衝突したが、地上でも行方不明の日航機の捜索を横田基地C−130に依頼し、19時19分C−130H墜落現場を発見、19時21分空自百里基地のF−4EJ2機も墜落現場を確認。19時26分NHK事故の速報を流している。

19時35分 長野県警警備二課に日航機墜落事故総合対策室設置。事故に関する情報の収集を各警察署に指示。19時50分 長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される。20時00分 群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置され、20時16分 政府対策本部の設置決定されている。

 ところが、墜落を知った日本アイソトープ協会から「事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた」と警察庁に届け出がでる。

このことと墜落現場が特定されながら救助されないことから、この放射性物質が搭載されていたのが原因で、墜落現場が放射能汚染されているので救助待機命令が出されたのだという情報も出回った。

たしかに、「9 日航機墜落の真相は?やはりミサイルか?当日の目撃」の「2007年09月19日 ●情報統制の4原則というものがある(EJ第1075号) 」にも新聞に載ったことが書かれている。
 
 『事故の翌日のことです。8月13日付朝日新聞に、「積荷に放射性物質」という記事が出ていたのです。事故翌日の朝刊のメーン記事は、事故現場特定の確認記事です。

読者の一番知りたいのは日の暮れかかった山間部にJAL123便がなぜ行ったのかという解明なのに、どの新聞もふれていないのです。
 
なぜ「積荷に放射性物質」なのでしょうか。記事の結論は、「人体への影響はない」と締められているのですが、あたかも、事故現場への早期立ち入りができなかったことへの言い訳を代弁しているようにも読み取れるのです。
・・・ [御巣鷹山事故の謎/22]』

 「放射性物質のために自衛隊員を現場に立ち入らせなかった。」という説と、ミサイルの誤爆を隠し証拠となる残骸を回収する時間稼ぎをするため人体に影響のない医療用のものを放射能を浴びるおそれがあるからと言って待機させこのような情報を発表したとする説がある。

いずれにしても救助に向かう隊員を待機させ、「5 日航機墜落の真相は?救助自衛官射殺というNHKニュース速報」で書いたように「待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺NHKニュース」の待機命令に反し救助に向かおうとした自衛官射殺が事実 かどうかは別としても、救助に向かおうとした自衛官との間で何らかの摩擦があったことは事実のように思われる。

 爆発物がしかけられたのではという説が出たのは、「爆発させた」という声明がだされたため、過激派や当時世間を騒がせた「グリコ・森永事件」の犯人が爆発物をしかけたのではとも推測された。(グリコ・森永事件で脅迫されていたハウス食品社長が123便に乗り合わせていたことからこのようなことも言われた。)

 24年経った現在もっとも墜落原因として有力なのがやはりミサイル説であり、墜落し現場が特定されていながら救助自衛隊を待機させ、墜落現場をわざと御巣鷹山から遠ざけるように誤情報を流したと思われている。

 権力を持つ者は、自分の権力の及ぶ範囲で権力を行使して処理しようと思うだろう。

 いずれにしても当時の中曽根総理が首相として地元でありながら墜落現場を訪れていないのも何かあるように思われる。

 もし、事実として原因究明するために隠されている何かがあるなら、「墓場まで持って行く」のではなく、520もの霊の眠るあの世に行く前にこの世ではっきりさせておかなければとても成仏などできないであろうと思ってしまう。

日航機墜落の真相11 日航機墜落の真相は? * 高浜機長の技量と安倍説2009/11/19(木) 23:37:20


「(新)日本の黒い霧(セミナー開催報告10月15日)」には、墜落日航機の高浜機長についての記述があります。

http://blog.goo.ne.jp/adoi/d/20091015

 
『セミナー翌日の10月11日(日曜日)、正午前に千葉県内を自動車で移動していたところ、海上自衛隊の対潜哨戒機 P3C が、サーチライトを点灯しながら美しい3機編隊を組み、低空飛行で上空を通過して行くのを目撃しました。ちなみに、この編隊飛行は非常に高い技量を要求するものです。

思い返せば、123便の高濱機長は元海上自衛隊の対潜哨戒機 P2J のパイロットであり、その腕前も5本の指に入るほど優秀なお方だったと聞き及んでいます。

本ブログでは、高濱機長のとった懸命の撃墜回避行動についてまだ触れていませんが、機長が元自衛官パイロットとして最高の判断と技量を示したことを先に皆様にお伝えしておきます。機長のこの奮闘があったからこそ、今に至っての真相究明が可能になったと言えるでしょう。

ただ残念なのは、結果的に悲劇は避けられなかったことです。おそらく機長の魂は今もそこに留まり、多くの犠牲を出したことに苦しみつつ、私たちに真実の究明を訴えかけているに違いありません。

高濱機長の任務は事故から24年を経過した今も続いているのです。この辛い任務から一刻も早く解放して差しあげるためにも、1人でも多くの日本国民に真相を伝えていかなくてはならない、1人でも多くの祈りを届けなければならない、そう思いつつ、私の真上を飛び去る3つの大きな機影を目で追っていました。』

また、作家 安倍譲二氏は別冊「宝島」の中でこのように述べています。

「陰謀でもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない」 日航ジャンボ機墜落事故(1985年)特別インタビュ―◎安部譲二 

http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/454.html
投稿者 黄昏時のパルチザン兵士 日時 2006 年 8 月 14 日 14:16:23: WCbjO5fYf.pMQ

ボ―イング社の修理ミスによる圧力隔壁の亀裂、急激な空気の流入による尾翼破損、操縦不能で墜落。これが最も知られている520人の命を奪った大事故の原因である。

全てが公開されなかったボイスレコ―ダ―、二転三転した事故調査委員会の文言・・・・・・・。事故から21年、まだ謎は解けていない。


作家・安部譲二氏は日航機の客室乗務員だったという時代がある。単発エンジン小型機の操縦免許も持っている。

その安部氏は1985年、日航ジャンボ機が群馬県の御巣鷹山に墜落した事故を、事故ではなく、事件だと確信している。

著書、『日本怪死人列伝』(02年、扶桑社文庫)で安部氏は、<無残に撃墜されたのだ>と断言している。

85年8月12日、羽田発大阪伊丹行きの日航機123便、ボ―イング747型機が墜落して520名という航空機単独の事故としては史上最大の被害者を出した。飛行機事故の歴史に残る大事故である。

この事故には、当時から数多くの疑問が投げ掛けられていた。
「墜落した日の夜中に日航のスチュワ―デスをしていたおばさんから電話があってね。日航のイチニイサン(123)便が行方不明≠ナ大騒ぎになっている、って言うんだ」

事故発生の時点で安部氏は首を傾げている。
「だってね、あんな大きい飛行機がいなくなっちゃったって言う。85年でしょ。その頃は日本全国、軽飛行機ですら行方不明になるなんてことはあり得なかった」

安部氏によると、この時代には米軍のレ―ダ―サイトが張り巡らされ、自衛隊のレ―ダ―監視網も日本の全ての空域をカバ―していた。さらに空港の管制塔はエリアごとにすべてをフォロ―していたという。

JAL123便を示す影が管制塔のレ―ダ―から消え、機体の消息を絶った、とされているのは18時56分。18時18分に羽田を離陸した約40分後である。18時24分に123便は緊急事態を告げるスコ―ク・セブンセブン≠ニいうサインを送っている。

このサインを送る直前、123便は操縦能力をほぼ完全に失い、関東上空を迷走したうえでのレ―ダ―からの消滅だった。

「行方がつかめなくなった末にどこに墜ちたかわからない、(自衛隊、米軍の防空能力が)そんなことだったら戦争なんかできないでしょ」

機体の発見まで長い時間がかかったことは事実である。国民はやきもきして臨時ニュ―スを夜通し流すテレビを観続けた。埼玉県と群馬県の県境にある御巣鷹山の山腹で123便の残骸が発見されたのは翌日の9時である。消息を絶ってから13時間が過ぎていた。

たしかにこれでは、例えば国籍不明機が侵入してきても、いったん機影を失えば半日間は発見できない可能性がある、というのに等しい。


★すべて公開しない謎

事故そのものが不測の事態だから、思いもつかぬことが重なって混乱したということは考えられるが、航空機事故という大事に、いったいこんなことがあり得るのか。

ともあれ、安部さんは事故発生のその日から深い疑問を抱く。

「その頃は、もう知っている人間は乗っていなかったけど、飛行機乗りってのは、(事故には)敏感なんですよ。まだプロペラの時代だけど、昔『木星号』という旅客機が墜ちた。大島の三原山に墜ちたんだけど、マスコミには相模湾に墜ちたとミスリ―ドして引きつけておいて、そのあいだに何かを回収した。ああ、またやってるなと」(略)

航空機事故で、事故原因の解明にきわめて重要な役割をもつのが操縦席の会話を録音したボイスレコ―ダ―だ。後年、テレビで123便のボイスレコ―ダ―が公開された。

「聴きました。それでプライバシ―に関わることなので一部は公開しないという。あれは犯罪じゃないですか」

安部さんが言う通り、ボイスレコ―ダ―の全ては公開されていない。
「520名が亡くなった事故だよね。コクピットで何を叫んでいようと、たとえ『お前のかあちゃんと寝た』と叫んでいようとも、公開しない理由にはならないでしょ」

テレビで公開されたのはダビングしたものだが、オリジナルは他の資料といっしょにすでに廃棄処分されている。

航空事故調査委員会はこの事故をボ―イング社の修理ミスに起因するものと結論ずけたが、当時からこの結論に疑問を呈する声、真っ向から否定するものは多かった。

事故調―――航空事故調査委員会が報告した事故原因を簡略化してまとめてみよう。

1、 該当の機体は事故の7年前に伊丹空港でしりもち事故を起こして客席と機体外壁を隔てる「圧力隔壁」が破損した。

2、「隔壁」の破損を米ボ―イング社で修理したが、修理ミスがあった。

3、以後の飛行による劣化で、事故当日、修理ミス部分から「隔壁」に亀裂が入った。

4、気圧差でその亀裂から客席の空気が吹き出し、圧力で尾翼を破損させた。

5、尾翼の破損で油圧系統がすべてダウンし、操縦の機能も失われた。

6、迷走の果てに墜落。

ということである。いったいそんなことで尾翼が吹き飛ぶのだろうかという疑問はあったが、事故調支持の学者は材料工学などを駆使して、「あり得る」とした。


★急減圧はなかった

であるとしても、そこには強烈な空気の移動があったことが前提になる。繰り返し議論になっている客席の「急減圧有無論争」である。

急減圧とは、どういう事態なのか、急減圧が起きたら、機内はどうなるのか。

「僕は、急減圧を経験したことはありません。だけど急減圧に対する訓練ってのはね、乗務員が不時着水よりも時間をかけてやることなんです。だからパイロットは急減圧があったら、それこそ急減圧のキュを聞いたら(酸素マスクが)落ちてこなくても落ちても反射的に手を伸ばすものなんです。

客室には客席分の酸素マスクのほかにバゲッジに10メ―トルごとに携帯用の酸素ボンベがあって、乗務員はとりあえず酸素を確保できるようになっているんです」

事故調は急減圧があったとしたうえで、パイロットが酸素マスクを装着しなかった理由については「不明」としている。

だが安部さんによると、あの高度、メ―トルで推定6000から8000くらいで急減圧があった場合であれば酸素マスクをつけなくても操縦は可能だという。

「エベレストの高さで酸素マスクをつけずに登ったって言う、それと同じでそれほどの高々度ではない」

しかし高度にかかわらず、エンジンの出力だけを操作して困難な飛行を数十分も続けることは超人的な技能なのだ。

生存者のひとり、客室乗務員の落合由美さんの証言は、どう解釈しても急減圧はなかったことを証明している。落合さんは急減圧を感じなかったと事故後の調査で証言している。繰り返し急減圧の訓練を受けている乗務員の彼女が、実際にはあった急減圧をなかったと勘違いすることはあるのだろうか。

それはあり得ない」(安部氏)

酸素マスクを装着していた遺体はひとつもない。

これらのことから、日航の従業員組合の組織、日航乗員組合連絡協議会は「急減圧はなかった」と結論したレポ―トを発表している。

だが事故調は急減圧があったと報告をまとめ、運輸省に提出し了承されている。

「事故調は急減圧はあったと言っているけど、どっちが正しいかと言うと100対0でこっち(日航乗員組合側)が正しい」


★修理ミスを認めた理由

事故調を支持する側の学者は、すると急減圧はなかったが、ゆるやかな減圧はあったのだとした。

しかし急減圧がなかったのなら、事故調が報告した隔壁の亀裂そのものが疑わしくなり、尾翼が急激な気圧で吹き飛んだという説が成り立たなくなるのである。つまり事故調の報告はまったくの虚妄ということになる。

「ボ―イングが、ずいぶん早くにまず修理ミスから圧力壁の破壊と言いだしたんだよね」

どうしてボ―イング社が、修理ミスを早々に言い始めたのか。ボ―イング社がそうする必要がどこにあったのだろうか。

「今、日本ではダグラスとかほかの社の飛行機はほとんど飛んでいないじゃないですか」

幹線を主にして、確かにボ―イング機がほとんどである。

「当時の日本の航空会社のトップはボ―イングっていう名前にアレルギ―があったんですよ。ボ―イングのB29からB17にさんざん爆撃されたからね。聞くのもイヤな名前で、だからダグラスばかりだったんです。

その隙をついて、ロッキ―ドとか売り込みにきて、ボ―イングは大苦戦だったんですよ」

戦後、日本の民間航空を再建したのは、旧陸海軍で航空に携わった者たちだった。

こうして日航、日本政府に貸しをつくったボ―イング社が、のちに日航をはじめとして日本の民間航空機の市場を制したという。

日航乗員組合連絡協議会の元日本航空のベテラン機長、藤田日出夫さんは、尾翼が壊れた原因として『新潮45』(00年8月号)で「フラッタ―説」を書いている。

フラッタ―とは、分りやすく言えば細かい震動である。航空機の場合、旗がはためくように震える現象を指し、機体の破壊につながる。

「藤田さんは、僕みたいな小説家と違って、専門家として冒険ができなかったんです。思うことはあったとしても、パイロットの立場としてはいえないことがあるんでしょう」

藤田氏は、ボ―イング機の構造的な欠陥によってフラッタ―が起こり、尾翼が破壊されたと、わずかな行数で遠慮がちに指摘している。

「航空機の尾翼は、戦闘と、(衝突の)事故以外で壊れたことは、プロペラ時代も含めて、ライト兄弟以来、一回もないんですよ。それくらい尾翼というのは堅牢な中でも堅牢なものなんです」

では安部氏が主張する事故原因、尾翼破壊の原因とはなんなのか。

それは、自衛隊の無人標的機が123便の尾翼に衝突して破壊したのだというのだ。

事故当時、新造された護衛艦「まつゆき」が相模湾で試運転中だった。その「まつゆき」艦上からテストで無人標的機が発射され、123便の尾翼に衝突した、というのである。

「ぶつけたんじゃなくて、ぶつかってしまったんでしょ。標的機はジェットエンジンで高速で飛ぶものだから、当てようとしてもなかなか当たらないものだそうです」


★民間機相手の訓練

この説を主張しているのは安部氏だけではない。
「雫石のあとでしょ。あの時は自衛隊機が全日空機を相手に戦闘訓練を勝手にやってて、それで後ろから突込んじゃった」

雫石事故とは71年、全日空機のジェット機727型機に航空自衛隊のF86F戦闘機が衝突した事件である。この時、自衛隊は全日空にも管制にも訓練を報せていなかった。

この時、ある疑いがもたれた。自衛隊機が民間機の全日空機を敵機に見立てて戦闘訓練をしていて誤って衝突したのではないかという疑惑である。

乗客乗員162名が死亡。この時は航空幕僚長の辞任で収まっている。運輸省管轄の航空事故調査委員会はこの事故をきっかけに誕生している。

日航機事故の当時は第二次中曽根内閣。中曽根康弘が内閣総理大臣、航空を含めた運輸行政を司る運輸大臣は山下徳夫、防衛庁長官は加藤紘一、内閣官房長官は藤波孝生だった。

もし安部説が正しいとしたら、この日航機事故の情報はどこまで上がっていて、誰が処理に関する全ての決定権を持っていたかということだ。
「それは中曽根でしょう」

安部氏は言う。

自衛隊機が民間航空機を仮想の敵機として訓練することは今もあると安部氏は睨んでいる。

「僕がいたときはしょっちゅうだった。米軍機だけだよ。やんないのは。ほかの国は日本を含めて予算がないから、民間機を相手に訓練するんだよ」

無人標的機が衝突したという話を最初に聞いたのは、いつ、どういう機会だったのか。

「いつだったかな。日航の仲間からだったと思うけどね。彼らが自費で船を調達して、発見されなかった尾翼の部分を探しているって聞いた時かな。見つからなかったけどね。もうとっくに海上自衛隊が回収したんでしょう」


★撃墜された日航機

安部さんは123便が山に向かって北上したことにも、疑惑を抱いている。
「機長は大阪行きなら、もし伊丹空港での着陸がなんかの事情で不能になったら、すぐ代わりにどこに着陸するか考えるものです。

123便は相模湾上空でなんだかわからないけどアネ―ブル・コントロ―ル(操縦不能)になった。あの場合、海に不時着することを考えるのが普通なんですよ」

操縦席では尾翼が壊れていることはまったく分かっていない。

「分かっていてもいなくても、操縦不能なんだから」

123便が海に向かわないで陸地に向かった理由は何だったのか。

「僕はね、最終的には撃墜するためだと思いますよ。本ではそこまで書けませんでしたけど。123便の操縦士は横田か福生に降りようとしていたと思うんですよ」

123便は海ではなく、山の方に故意に誘導されたと安部さんは主張する。では123便はいつ、どこで撃墜されたのか。

御巣鷹山近くの複数の住人が、123便が炎をあげて墜ちてきた、光るものが飛んできたと証言している。

例えば123便が機体を安定させようとエンジンを操作し、最大のパワ―でジェットエンジンを噴出したとして、その排気を炎と見間違えることはあるのだろうか。

エンジンからの排気、または金属の機体が折りからの夕日を反映したということも考えられはする。検証をせずに123便に炎があったと断じることは危険である。が、そういう目撃談があることは事実である。

「自衛隊の浜松基地から2機の戦闘機(F14)が発進してるんですよ。どの時点で撃墜するためのミサイルをぶっ放したか、僕は分かりません」


★NHKが故意に誤報した

自衛隊が、ダッチロ―ルで飛行している123便をなぜ撃墜する必要があったのか。

「あの機体が横田でも福生でも羽田でも、もしあのまま着陸してしまったら、内閣、吹っ飛びますよ」

安部さんはNHKが墜落地点を故意に誤報したとしている。NHKは翌日の朝まで墜落地点を長野県北相木村と報じた。これは報道陣をはじめとした人間たちを故意に違った地点に導くためだったとしている。

御巣鷹山は群馬県上野村にある。上野村の当時の村長は黒沢丈夫氏だった。のちに御巣鷹山に慰霊施設をつくり、登山道を整備した名物村長である。海軍兵学校を出た黒沢村長は戦争中は零戦のパイロットでミッドウェイ海戦にも出撃した勇士である。

その黒沢村長が飛行機乗りの経験者として村民の証言などから墜落地点を御巣鷹山だといちはやく推理している。

のちにある座談会で、事故対策室や日航、自衛隊が墜落地点をなかなか特定できなかったことに疑問を呈している。

安部氏は言う。
「(NHKを使って)積極的にミスリ―ドしたことは間違いありません。

それは、無人標的機の残骸と、最後に123便にとどめを刺したミサイルの残骸とそれに傷つけられた機体を回収するためです。

シコルスキ―(自衛隊の大型ヘリコプタ―)を持っていってすぐ、生存者よりもなによりも早くそれを回収するため行ったんです。

なにかオレンジ色の大きなものを釣り上げている写真を新聞社か週刊誌は持っていたはずですよ」

オレンジ色の部品は123便にはない。無人標的機の塗装色である。

当時、日航の大株主は日本政府である。35%の株を持っていた。

「日航ってお役所でしょう。僕の経験では、日航は政府にまるで頭があがらんでしょ。だって運輸省の下部組織みたいなものだったんだから」

安部氏は日航機事故をもう一度書きたいと言う。

「全日空にも日航にもエライさんに知っているのがいるんだけど、みな日航機事故のことをいうと黙るんだよね」

日本のマスコミは本当のことを言わないし書かない、調べようともしない。
「だから、本当のことを言い続ける僕の仕事がなくなることはない。日航機の事故は必ず書く。これはライフワ―クだと公言しているんです」


別冊宝島1324  
昭和・平成日本「怪死」事件史 疑惑の死≠ゥら見える日本の「闇」と「タブ―」』


日航機墜落の真相10 日航機墜落の真相は? 1* 墜落時の政府首脳の対応2009/11/18(水) 00:37:10

 

「INTEC JAPAN BLOG 」によると、この事故当時の行動についてはこのようにまとめられている。

 『それでは、そのとき政府首脳はどういう行動をとっていたのでしょうか。JAL123便には、500人を超える人が乗っているのです。

その飛行機が行方不明というのですから、これは政府にとって、一大事です。当然のことながら、中曽根首相に報告が上がり、政府として緊急対策がとられることになります。
 
JAL123便の事故の直前に、英国のマンチェスター空港で航空機事故が起こったときのことです。

当時の英国のサッチャー首相はオーストリアにいたのですが、急遽帰国し、事故現場に直行して指揮にあたっています。
 
それに対して中曽根首相は何をしたでしょうか。
 事故現場が地元の群馬県でありながら、本人は現場には行かず山下運輸大臣にまかせてしまっています。

山下運輸大臣は、事故の翌日、ヘリコプターで上野村を訪れています。
 
JAL123便墜落事故が発生した8月12日、中曽根首相は官邸にはおらず、事故の第一報は、今や有名人となっている平沢勝栄官房長官秘書官が受けています。

平沢秘書官は、直ちに藤波官房長官に連絡を入れています。
 
このあとの政府の対応については、明日のEJで詳細にお知らせしますが、その対応は疑惑に満ちたものであったのです。      ・・・[御巣鷹山事故の謎/24]           


●事件はどの時点で首相に伝えられたか(EJ第1078号)
 
JAL123便墜落事故が起こった8月12日、中曽根首相は身内と一緒に軽井沢で休暇を過ごしていたのです。

そして、軽井沢駅を17時11分に発車する特急「あさま22号」に乗り、東京に向っています。

大宮着18時52分、上野着は19時15分でした。この時点では首相はまだ事故を知りません。
 
18時52分といえば、JAL123便がレーダーから消える2分前です。

18時24分40秒には緊急信号を発信しているのですから、大宮駅で「日航機が迷走中」という情報を首相に知らせることはできたはずですが、首相の耳には届いていなかったのです。

上野に到着した19時15分には事故発生は確実で、「行方不明」になっているのに、ここでも中曽根首相には報告されていないのです。
 
上野駅から公邸まで、首相は自動車電話の付いている首相専用車に乗り、19時47分に公邸に到着しているのですが、車中の時間が約30分もあるのに、首相への報告はなかったとされています。

依田秘書官によると、「行方不明」という情報だけではどうしようもないので、報告しなかったというのですが、不思議な話だと思います。
 
そして、首相は公邸前で待ち受けている新聞記者からJAL123便事故のことをはじめて聞き、「ほぉー、どこで?」と驚いたというのです。

一国の首相が、これほどの大事件の情報を新聞記者からはじめて聞かされるというのは、この国の危機管理体制の欠如を物語っています。しかし、これにはかなりウラの事情がありそうです。
 
昨日のEJでも述べたように、官邸にいた平沢官房長官秘書官には19時頃――つまり、墜落直後に運輸省航空局、防衛庁、警察庁から相次いで報告が入っていたのです。

平沢秘書官は直ちに、藤波官房長官に連絡をとって第一報を入れています。このときは官房長官と連絡がとれたのです。

しかし、それから30分近く連絡がとれず、やっと連絡が取れて、平沢秘書官は藤波官房長官に2度目の報告を次のようにしているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      JAL123便の大坂着予定時間を過ぎました。事故発生は、
      ほぼ間違いないと思われます。大至急お戻りください。
                    ―――平沢勝栄官房長官秘書官
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そして、藤波官房長官は19時45分に官邸に戻り、すぐその2分後に中曽根首相は公邸に戻るのです。

首相が戻ると、依田秘書官は、はじめて事故の状況を立ち話で首相に伝えます。その間わずかに1分間。

その後首相は19時48分から予定に組まれてあった河本敏夫国務大臣との会談に入っています。
 
実はこの頃、三光汽船問題というのがあって、三光汽船の元社長である河本氏は苦境に立たされていたのです。首相との話はこれがテーマで辞任うんぬんがやりとりされたといわれています。そして、その会議が終ったのは、20時1分のことです。
 
そして20時16分――藤波官房長官と副長官が公邸に駆けつけて、16分間首相とJAL123便事故について報告が行われています。終了したのは20時32分です。
 
その後、官邸の大広間で事故対策本部の初会合が、23時から行われています。しかし中曽根首相がそこに顔を出したという記録はないのです。

そして、翌13日、午前5時30分に就寝中の首相に対して、墜落現場が中曽根首相の出身地の群馬県であることが伝えられていますが、とくに反応がなかったといいます。
 
しかし、以上はオモテの話です。中曽根首相は公邸に着く前にJAL123便墜落事故のことは知っていたと思うのです。それでは、その話はどの時点で首相に伝えられたのでしょうか。
 
事件が起こったとき、首相は東京に向かう特急「あさま」の車中にいたのです。ここで伝えられたとは考えにくいのです。

当時は、自動車電話はありましたが、今のように常時携帯電話を使える状況ではなかったからです。それに、首相のようなVIPは、セキュリティの関係から携帯電話は使用しないはずです。
 
そうなると上野から公邸に向かう車の中しかありません。すなわち、19時20分頃(上野着は19時15分)から、19時47分の間です。

相手は、藤波官房長官であると思います。この時間帯に平沢秘書官は官房長官と連絡がとれていないのです。
 
それでは藤波官房長官は、事故の連絡を何時頃受けたのでしょうか。平沢秘書官からの連絡は午後7時頃ですが、それよりも前に官房長官はJAL123便が墜落するいきさつについて、報告を受けていたと思うのです。

推測ですが、その時間はJAL123便が2機の自衛隊機とやりとりをして、横田基地を前にして御巣鷹山方向に旋回した頃――18時50分前後ではないかと考えられます。

その頃中曽根首相の乗る特急「あさま22号」は、大宮に到着する直前だったのです。
 
それでは報告者は誰でしょうか。それは加藤紘一防衛庁長官しかいないと思います。

2機の自衛隊機からの報告で、JAL123便の尾翼に実験用ミサイルの衝突の跡があることがわかって自衛隊幹部は、横田基地への着陸を阻止したのですがそのことについて、加藤防衛庁長官が首相に報告しないはずはないと思うからです。

そこで、加藤長官は官房長官に連絡したのです。
 
そこで、藤波官房長官は、上野から公邸に向かう車中で首相に報告し、指示を仰いでいるはずです。

その結果、首相はあくまで知らなかったということにし、できるだけ早く幕引きを図ることが話されたと思います。内閣存続の一大事であるからです。

上野から公邸まで異常に時間がかかっているのは、そういう話があったからではないでしょうか。
 
その後の中曽根首相のこの問題への対応は、口では「事故原因はできる限り迅速に徹底的にやらせる」といいながら、事故調からの調査のための特別予算の請求を一蹴するなど整合性がなく事件の隠蔽に全力を尽くしたとしかいえないのです。

そして、首相は最後まで墜落現場には行っていないのです。   ・・・[御巣鷹山事故の謎/25]

2007年09月26日

●賞賛されるべきスチュワーデスの沈着冷静さ(EJ第1079号)
 当時中曽根首相は、記者会見や国会答弁において、次のようにいっていたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
           1.事故原因は徹底的に究明する
           2.人命最優先でことに当ること
           3.遺体の捜索は最後の一体まで
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 しかし、中曽根首相は、これと正反対の姿勢でコトに当っているのです。


第1の事故原因の究明ですが、事故調査委員会は早期の海底調査を行う必要があるとして特別予算を計上したのですが首相は何のサポートもせず、却下されているのです。徹底的に調査されては困ることがあるからです。
 

 第2の「人命優先」ですが、事故が起きた当日の午後7時過ぎには、どこに墜落したか政府としては分かっているはずなのに、「行方不明」として朝まで発見を引き伸ばしています。

墜落直後には、相当の生存者がいたことが生存者の証言によって明らかになっているのですから、結局は彼らを見殺しにしたことになります。何が「人命優先」でしょうか。「政権維持優先」です。
 

 第3の「遺体の捜索」ですが、事件後9日にして、古屋国家公安委員長は、「全遺体の収容は困難、捜査の打ち切り」を首相に進言し、少しでも早く合同慰霊祭をして、事件の幕引きを図ろうとしているのです。

これに対して、首相は何らリーダーシップを発揮することなく、事故原因は隠蔽されたまま、事件は幕が引かれてしまったのです。日頃リーダーシップを売り物にしていた中曽根氏とは別人のようなやる気のなさです。
 
考えてみれば、中曽根内閣のときに際立って前進したのが防衛問題でした。次期防衛計画、シーレーン防衛論、防衛費の対国民総生産(GNP)比1%枠の撤廃論――こういう動きの中で、日米共同でミサイルの開発が行われたのでしょうが、それがとんでもない事故を起こしてしまったというわけです。
 
何か問題が発覚しそうになると、組織として隠ぺい工作に走る――それが官僚の真骨頂ですが、中曽根内閣もそれと何も変わるものではなかったのです。

もし、真相がEJのレポートの通りであるとすると、国家犯罪そのものです。』

日航機墜落の真相9 日航機墜落の真相は? *やはりミサイルか?当日の目撃2009/11/18(水) 00:19:22

「INTEC JAPAN BLOG」(2007年09月20日)もまたミサイル攻撃があったとしています。

『●JAL123便ミサイル撃墜の証拠と証言(EJ第1076号)
 それでは、JAL123便に対して、どのようにしてミサイルが撃ち込まれたのでしょうか。

そのあたりの状況について説明しましょう。
 JAL123便が墜落する前に、次の3機の自衛隊機が周辺を飛行していたのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
          F−4EJ戦闘機 ・・・・・ 2機
          F−15J戦闘機 ・・・・・ 1機
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 JAL123便を御巣鷹山方面に強引に誘導したのは、2機のF−4EJ戦闘機です。

しかし、JAL123便に対してミサイルを撃ち込んだのは、あらかじめ、在空していたとみられるF−15J戦闘機なのです。

F−4EJとF−15Jは、ともに米国が開発した要撃戦闘機ですが、F−15JはF−4EJの後継機です。添付ファイルに写真を付けてあります。
 
そのときJAL123便は、何とか山中に不時着しようとしていたと考えられるのです。

山への不時着ですから、ほとんどは絶望的ですが、かなり多くの生存者が出ることも考えての機長の判断であると思われます。

機長をはじめとする操縦クルーは、何が起こっているのかが一番よくわかっていたと思われます。

そのため、1人でも多くの生存者を出したいと考えたのでしょう。
 
 しかし、それを隠蔽しようと考える側からすると、少なくとも操縦クルーは生かしてはおけないと考えるはずです。

そこで、F−15J戦闘機は、JAL123便が稜線を越えて、人目につきにくい山かげに入るのを見極めて、2発のミサイルを発射したのです。

このとき要撃戦闘機とミサイルの航跡を地上から目撃されないように稜線を縫うように実に巧妙にJAL123便の後部にまわり、ミサイルを発射しています。
 ミサイルは、赤外線追尾方式であり、1発目はJAL123便のエンジン部分に命中したとみられます。

ミサイルの爆破エネルギーは機体の前部と中部を貫通し、その付近の乗客・乗員を機内で粉砕したのです。JAL123便は右旋回しながら、火に包まれながら、真っ逆様に急降下したのです。

これを確認して要撃戦闘機は、2発目のミサイルを発射し、とどめをさしています。
 
しかし、JAL123便の最後の様子は、地上からかなり多くの目撃情報があるのです。

墜落事故の翌日、8月13日の埼玉新聞の見出しは、「夕やみに“火の玉”」とあります。

埼玉県浦和市に住む住民と長野県の川上村住民は次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      マンションのベランダから西空を眺めていたところ、突然雲の
      透き間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た。双眼鏡
      で覗くと両側から青、真ん中から赤い光を発した大型機が北の
      方に消えた。       ――浦和市に住む住民の目撃証言

      
      埼玉方面から飛んできた飛行機が赤い炎をあげ、やがて黒い煙
      を残して南相木村の群馬県境に消えた。――長野県川上村住民

      
      ゴーンという音をさせながら、航空機が低く飛んでいた。長野
      山梨、埼玉県境の甲武信岳方面から飛んできて上空を右に旋回
      して北東の方に行った。まもなくして、雷が落ちるようなバリ
      バリという大音響がし、二度ほどパッパッと光った。そのうち
      ネズミ色のキノコ雲が上がった。墜落したなと思った。
                        ――長野県川上村住民
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 垂直尾翼を破壊されても、エンジンには支障のない飛行機が火を吹くはずはないのです。

しかし、「オレンジ色の閃光」「赤い炎」という証言があり、「パッパッと光る」という証言まであるのです。

ちょうど事故の日に、上野村の民宿に泊まっていた東京の会社員も「神流川上流の山あいがピカピカと二度光った」と証言しています。
 
「パッパッと光る」と「ピカピカと二度光った」については、ミサイル弾がJAL123便に命中したときの閃光と考えることができます。

ミサイルが空中で爆発するときは、ミサイルに装填されている火薬が一挙に爆発するために、空気中の分子と猛烈に衝突を起こすのです。

そのさいに空気と摩擦を起こし、ちょうど稲妻に似た放電現象が起きるのです。それが、ピカッと目撃された閃光と考えられます。

けっして、墜落したときの閃光ではないのです。
 
長野県南相木村中島地区の住人3人の証言に次のようなものがあります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      
      飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くを飛
      んでいるのが見えた。――長野県南相木村中島地区の住人3人
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 
 ここで「流れ星のようなもの」とは明らかにミサイルの航跡であると考えられます。
 

 機体がミサイルで爆破されたのではないかと思われるもうひとつの証拠と考えられるのは、乗客・乗員の遺体の損傷があまりにもひどかったということです。

 520人のうち、本当にきれいな遺体は10体程度といわれています。
 とくに機体の前部については、飛行機らしい形をとどめておらず、アルミホイルを千切ってばらまいたようになっているのですから、遺体もただの肉片になってしまっているのです。

山に激突したとはいえ、あれほどにはならない――と専門家もいっているの
です。

それでいて、機体後部の乗客・乗員のそれは粉砕されていないのです。生存者も機体後部から見つかっています。
 

 それに機体前部では、歯や肉片といえども遺体が発見されていないケースも多々あったといわれています。

おそらくミサイルの痕跡を示す遺体はすべて自衛隊の特殊部隊によって持ち去られたのではないかと考えられます。・・・[御巣鷹山事故の謎/23]

                      

2007年09月19日
●情報統制の4原則というものがある(EJ第1075号)
 
EJ1063号において、池田昌昭氏の説として自衛隊機によって御巣鷹山方向に誘導されたJAL123便は、自衛隊機の発射したミサイルによって撃墜されたと書きました。恐ろしい仮説です。
 
その痕跡を隠すため自衛隊−−−というより日本という国家がとっくに墜落場所が判明しているのにもかかわらず、「捜索中」ということにして、一晩時間を稼ぎ、その間に現場に特殊部隊を投入して都合の悪いものをすべて持ち去ったのです。

墜落後数時間は、多くの生存者がいたとされているのに・・・です。
 
このようにいったら「そんな馬鹿な!いくら何でもそんなことはあり得ない!」と多くの人はいうでしょう。

当然のことです。私も当初はそう考えました。

しかし、いろいろな資料を調べてみると、「そういうことがあってもおかしくない」と考えざるを得ないことが判明してきたのです。
 

JAL123便の場合、日本の自衛隊と米軍は、巡航ミサイルの共同開発を進め、こともあろうに、日本の上空でその飛行テストをしていたところ、その飛行物体(火薬の入っていないミサイル)が垂直尾翼に衝突してしまったと考えられるのです。
 
それが原因でJAL123便の機体は大きなダッチロールをしながらも、機長は何とか機体を立て直し、横田基地へ着陸態勢を整えたのです。

もし、このまま横田基地に着陸して垂直尾翼の破損の原因がわかってしまったら、自衛隊は大ダメージを受け、内閣は確実に吹き飛んでしまったでしょう。
 
そういうとき国家が何をやるかについては、JAL123便墜落事故以降の17年間にわたる日本国としてのさまざまな対応を見れば、われわれはよくわかっているはずです。

北朝鮮に拉致された日本人が大勢いるのに、長い間に何もしなかった外務省、責任をとることを恐れるあまり、たとえ国益を損なっても、ひたすら省益を守るために汲々としている官僚たち――そういう国家の対応を見ていれば、民間機JAL123便に対して行ってしまった大きなミスを何が何でも隠蔽しようとすることは、残念ながら、火を見るよりも明らかです。
 
国家の情報統制には、次の4原則があります。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
        第1原則:けっして分からないように巧妙に行うこと
        第2原則:核心を衝く情報については即座に否定する
        第3原則:本当に近い情報に対しては徹底無視をする
        第4原則:マスメディアを違った方向に誘導すること
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 第1原則は、当然のことですが、けっして証拠を残さないということです状況証拠でいくらいっても決め手にはならないからです。

そして、人から人へと「意図的」情報を、「意図的」であるとわからないかたちでひそかに流し、状況証拠を否定するよう務めることです。
 
第2原則は、核心を衝く情報が出てきたときには即座に否定しま「そんなバカな!」とか「イイエ、ソンナことは絶対にあり得ない」と即座に一蹴することです。そして、情報源に対して手が打てる場合はひそかに手を打つ努力をするのです。
 
第3原則は、第2原則を実施しながらも真相に近い情報が出てきたときは、徹底的に無視して、そのウワサが収まるのを待つということです。「人の噂は75日」を決め込むのです。けっしてまともに取り上げないのです。

第4原則は、事前に練りに練って作り上げておいたシナリオにしたがって、虚偽情報が節目、節目で登場するように情報操作を行うことです。そして、何種類かのダミー文書を流し、マス・メディアが「違った」ことをするように仕向け、ことを真相から遠ざけるようにするのです。
 

 JAL123便墜落事故に関する情報を分析すると、これらの4原則にぴったりと当てはまるのです。

まず、矛盾が多くある事故調査委員会の圧力隔壁破損説の押し付けがあります。
そして、一部報道機関の事故原因に関する報道の圧縮があり、また池田昌昭
氏をはじめとする、自衛隊関与説に関する主張への徹底的な無視の姿勢も第3原則に沿っています。事件が風化されることをひたすら待っているという姿勢が読み取れます。
 
また、生存者の事故当時の機内状況についての情報の少なさです。大勢の人が亡くなっているのですから、当時の機内の状況を知る生存者の声がもっと伝えられていいはずなのに、最小必要限の情報しか伝わってきていないのです。

これなども生存者に対してその筋から何らかの情報抑制が加わっている――というのは考え過ぎでしょうか。
 
事故の翌日のことです。8月13日付朝日新聞に、「積荷に放射性物質」という記事が出ていたのです。事故翌日の朝刊のメーン記事は、事故現場特定の確認記事です。

読者の一番知りたいのは日の暮れかかった山間部にJAL123便がなぜ行ったのかという解明なのに、どの新聞もふれていないのです。
 
なぜ「積荷に放射性物質」なのでしょうか。記事の結論は、「人体への影響はない」と締められているのですが、あたかも、事故現場への早期立ち入りができなかったことへの言い訳を代弁しているようにも読み取れるのです。
・・・ [御巣鷹山事故の謎/22]
  


2007年09月21日
●火を吹きながら飛んでいたことは事実か(EJ第1077号)
 
 JAL123便が火の玉となって墜落したという証言に対して事故調関係者は、それは山に激突したときの火の玉であるといっているようです。

ことの真相の判断に重要なので、墜落直前のJAL123便の様子を伝える証言を昨日と一部重複しますが、出典をより正確に記述して掲載しておきます。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
      「飛行機が飛んでいった後から、流れ星のようなものが近くを
      飛んでいくのが見えた」 ――南相木村中島地区住人3人――
      8月13日付、読売新聞朝刊

      「7時(19時)頃、真っ黒い煙をあげながら、群馬県境の山
      中へ墜落した」 ――川上村鶴田汪さん――13日東京新聞朝刊

      「飛行機が赤い炎を上げ、やがて黒い煙を残して南相木村の群
      馬県境に消えた」 ――川上村中島初代さん――13日朝日新聞

      「扇平山と神立山の交差する稜線の向こう側(南相木村側)に
      消えた。その直後、ピカッと閃光が上がり、続いて炎が燃え上
      がるのが見えた」 ――川上村井上薫さん――『週刊プレイボー
      イ』11月26日号

      「だれかが光るものが飛んでくる、と叫んだ(中略)山の向こ
      う側に真っ赤なキノコ雲が立ち上がった。それは数秒で消えて
      2つ目のキノコ雲が現れた」 ――川上村加藤隆志君――9月7
      日付、毎日新聞朝刊

      「西空をながめていたところ、突然、雲のすき間から太陽が射
      すようなオレンジ色のせん光を見た。双眼鏡でのぞくと、(中
      略)大型機が北の方へ消えた」――埼玉県浦和市吉岡功治さん
      ――8月13日朝日新聞朝刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これらの証言を見る限り、「火を吹きながら」飛んでいたことは間違いないと思われます。

少なくとも山に激突したときの閃光ではあり得ないのです。』
 


日航機墜落の真相8 日航機墜落の真相  *「沈まぬ太陽」御巣鷹山編を読んで2009/11/17(火) 20:43:59
 


「沈まぬ太陽(山崎豊子)」の御巣鷹編は、日航機墜落後の遺族とその人生の有り様を航空会社の遺族係という立場から描いているものです。

凄絶な遺体の検視、事故原因の究明、非常な補償交渉など、読み進むにつれ、航空史上最大のジャンボ機墜落事故が乗っていた520人の人生だけでなく、残された者の人生を変えていくことがよくわかります。

悲しみと絶望にさいなまれながらも、遺族たちは事故原因を究明することにより亡くなった者の命を無駄にせず昇華させていこうと立ち上がろうとしていきます。

戦争と同じように、今まであった当たり前の日常や家庭の幸せが一瞬にして奪われていくことに何ともやりきれない思いを覚えます。

この520の命を無駄にしないためにも、徹底して事故原因を追究することが私達に与えられた唯一できることだと思えるのです。

 私は、御巣鷹山へ行くまでは原因としてでてきている諸説はデマであると思っていました。

行って見て、書いたように言葉では説明できないあの「山のすすりなき」を感じたのです。

今までこんなことはありませんでした。

「何かある」というのは直感です。調べてみるだけ調べてみようと思いました。 

 今なぜこれだけ日航機墜落のことが問題になっているかといえば、それは墜落現場である御巣鷹山の尾根からジャンボ機の残骸だけでなく、ミサイルや米軍機のかなりの残骸が出てくることによるのだと思います。

この尾根やあたりの山は、この事故があるまではトンネルや道路も今のようにはないような所でした。

この事故後遺族が尾根に行くために道路などが整備されたのです。

そんな尾根から日航機の残骸が出てくるのは当然としても、ミサイルや米軍機の残骸まで出てくることが多くの憶測を呼ぶことにつながったのだといえるでしょう。

 「(新)日本の黒い霧」の「そしてミサイルは発射された(3)」では、

 角田四郎氏によるドキュメント「疑惑−JAL123便墜落事故−」は、本事故を語る上で欠かすことのできない資料ですが、その中でも、411ページから414ページに記された「金属片」の一節は、物証に基く証言として注目に値します。私の下手な説明よりご本人の文章を読まれた方が正確だと思いますので、下記に引用を掲載します。

-----------------------------(ここから)--------------------------------
私は8月18日の現場登山の帰り道、偶然一片のアルミ合金製と思える金属片を拾ってしまったことを前にも述べた。

その金属片を米軍の友人に何の説明もせず(日航機事故の件も伝えず)見せた。

彼は航空機の整備を担当している。

彼の答えは、私のど肝を抜いた。「たぶん」と疑問視をつけて慎重に、しかしはっきりとこう言った。
「ミサイル」(This is missile.)
「まさか!」(Not really !)
「たぶん、ミサイル」(Maybe, missile.)

思えば私にとってこの事故に接してから、この言葉は初めて耳にする言葉ではなかった。

最初は山に行く日(18日早朝)車の中で聞いた友人の羽田での体験記である。日航役員が乗客家族につめ寄られて、はきすてた言葉「うちのジャンボは、北朝鮮のミサイルに撃ち落された。

今はそれしかわからない」であった。気にもとめていなかったし苦しまぎれの讒言と思っていたが、日航社内上部には、なにかそんな情報でもあったのだろうか。

二度目にこの言葉を耳にしたのは・・・

(中略:「自衛隊撃墜説を斬る(1)」で否定した「たかちほミサイル説」についての記述)

そして、米軍人の口から三度目の「ミサイル」を聞かされたのである。やや不気味になった私は、その金属片を手元に置かないことにした。

未だその金属片についての科学的検証は行っていないが、すくなくとも吉原告一郎氏の言う「オレンジ色の破片」とは明確に別のものである。

しかし、私は一方でこれは米軍友人の見立て違いだと思ってもいる。何故なら、たとえ事故が国にとって重大な損失を生むからといっても、現実に空を飛ぶ一自衛隊員は我々の近くにいる普通の若者と変わるところはない。

いかに上官の命令であっても一般人が乗っている、民間航空機に向けてミサイルを発射撃墜するなどという行為をできるわけも、するわけもないからである。私はそう信じたいのだ。

他方、では一体あの墜落前の光や後をついていった流れ星のようなものや私の拾得した金属片、そして最後の異常な急降下どう説明すればよいのか、と思い悩んでしまう。

日航123便事故で亡くなった白井まり子さんは、元日航のスチュワーデスであった。その白井さんは遺書の中でこう訴えている。

「恐い・恐い・恐い。助けて。死にたくない、気持ちも悪い。」

恐い、恐い、恐い・・・・。この言葉を彼女はあと幾つ重ねたかったのであろう。

そしてこのものスチュワーデスの味わった恐怖の幾倍か幾十倍の恐怖を、一般乗客は味わったであろうか。

ミサイル説を考えるとき、期せずして白井さんと同じ言葉が胸中をうめつくす。

恐い、恐い、恐い・・・・と。
-----------------------------(ここまで)--------------------------------
引用文の中にはありませんが、角田氏はこの金属片を、岩の後ろに目立たないように置かれた数個のリュックサックの下、それも隠すように置かれているのを見つけて持ち帰ったと証言しています。

またそのリュックの中には着替えが詰まっており、そこから、事故現場で制服を着用している自衛隊・警察・日航技術者等が、実は偽者ではないかと疑念を抱いたことも正直に述べています。

上記の引用部分で、角田氏は「自衛隊説」を前提としているため、「自衛隊が同国の民間機を撃つはずがない」とその複雑な思いを吐露しておりますが、当ブログは「米軍説」、より正確には「米空軍説」に立っておりますので、この点については同様の疑念を抱く必要はないでしょう。

さて、ここで引用文中に挿入された、角田氏が拾い、米軍の友人に渡したとされる件の金属片の写真を以下に掲載します。


写真1:角田氏の拾った金属片

私もこの写真を国際軍事評論家のB氏にお見せして所感を尋ねたところ、B氏は一見して即座にこう答えました。
「あ、ミサイルですね」

また、そう判断した理由については以下のような回答を得ました

・まず金属(ジュラルミン=アルミ合金)の厚さが薄く、強度をそれほど必要としないミサイルの側面に使用されるものと同タイプである

・断片の大きさ、変形状態、燃焼した跡はまさに爆破後のミサイル側面の形状そのものである

ちなみにB氏は公的な軍事情報収集任務経験(これ以上は本人が特定されてしまうので書けません)の中で、ミサイル製造現場や実弾使用現場、整備マニュアル等を実際に目にしており、軍事知識に関しては市販のデータブックには絶対に載らないものまで広範囲にカバーされています。

そのB氏をして、この写真の金属片はミサイルのものに間違いないとのお墨付きを得ました。

実は、前回「そしてミサイルは発射された(2)」で掲載したミサイル弾頭と思われる写真、そしてこの金属片の写真、たったこれだけの材料からミサイルの製品系列までB氏は特定してしまったのですが、その情報については次回以降に説明したいと思います。


■オレンジ色の破片

上記引用部で「オレンジ色の破片」の記述が見られますが、それについては個人で現場調査(※)を行っているS氏から提供された次の写真が参考になるでしょう。今年10月になって現場付近で入手したものです。なお、B氏によると「ミサイル片と断定するには不十分」ということなので、あくまでも参考としてご覧ください。


写真2:S氏の拾ったオレンジ色金属片。オレンジというより赤に近い

※一見しただけでは気がつきませんが、事故現場周辺は厳重な監視下に置かれており、むやみに入山するとたいへん危険です。

S氏によると時々軍用機が谷間を飛行することがあり、それも曇天の日に限られるとのことなので、おそらく軍事偵察衛星で定点観測されている可能性も疑われます。

また、S氏自身が何度も危険な目に会ってます。絶対に軽い気持ちで登らないでください。


■そして、新たなミサイル部品

また、次に掲載する写真は、S氏から提供された現場(第3エンジンの近く)に落ちていた小さな金属片です。円形と四角形の薄片、何の変哲もない部品のようですが、実は、ミサイルが使用されたことを裏付ける決定的なものです。

ミサイルの製造・整備・運用に関っている方なら、どこで何の目的に使われているものか、もうお分かりになったでしょう。

また、10月10日の私のセミナーに参加された方も鮮明に覚えておいででしょう。


写真3:明らかなミサイル部品

もったいぶるつもりはありませんが、その時期が来るまでこの金属片についての当ブログでの解説は割愛したいと思います。

私の思いは過去の記事でも触れたように、何が何でも暴露することではありません。だからといって真実を隠したい訳でもありません。

私は悲劇を導いた当事者にこそ真実を告白し、懺悔していただきたいのです。そして、勇気を持って名乗り出たあなたを許したいと思っています。

日航の経営問題を巡って何やら騒々しいですが、日航職員の心ある皆さん、お願いですから日航機事故の秘密を政治的駆け引きに使うのは止めてください。

この事故はすでに秘密でなくなりつつあります。上の写真以外にも多くの証拠品が見つかり、命を掛けて真実を求める人々の元に届いています。

隠すことにもはや何の意味もありません。しかし、何より先に、人として、事故犠牲者の白井さんの書き残した遺書、そこに残された恐怖と苦しみを理解し、次に何を為すべきかを考えて欲しいのです。

そのための時間をもう少しだけ残しておきたいと思います。


 また、「オバマ大統領訪日に寄せて」にはこのようなことも書かれています。

それにしても、「そしてミサイルは発射された(5)」のRC-130の一件だけでも信じられないと思われる方がほとんどでしょうが、今回の報告はそれ以上に強烈です。しかし、これらは全て物証を元に掘り起こした事実なのです。

少なくとも事故調査報告書に比べてはるかに正確に、当時、御巣鷹の尾根周辺で何が起こっていたかを物語っています。


■何機落ちてるかわからない、米軍ヘリ

以下の写真1は全て、軍用ヘリコプターの部品と思われるものです。あまりにバラバラなので所属等までは判別できませんが、一部についてはベルUH-1H(米空軍)、ボーイングCH-46(米海兵隊)で用いられている部材であることが分かっています。それぞれの部品の説明についてはここでは割愛します。


写真1:軍用ヘリコプターの残骸


写真2:ボーイングCH-46(左)、ベルUH-1H(右)(Wikipediaより引用)


これらの残骸が夥しい数、事故現場周辺に散らばっています。写真を見ればお分かりのように、機体はバラバラです。

もっとも、一部にはレーザーカッターなどできれいに切断した跡のような切り口も見られるので、大きな部品で回収が難しい、時間的に間に合わないものは、現場で切断し、素人には判別が難しい他の小部品に混ぜ放置していったのだと考えられます。

機体の残骸の数、散乱範囲、また、粉々になったロケット弾やミサイルの破片から、米海兵隊、空軍を巻き込んだ凄まじい局地戦がこの地で勃発したことが予想されます。

そういえば、現場に朝4時に乗り込んだM氏も、尾根の上に出た時に聴こえて来るヘリ音を頼りに現地に向かったと証言していました。言い換えれば、現地の谷は深く、山を下ればわずか1,2キロ先の音も尾根に遮られて聴こえない状況であったと考えられます。これでは、麓の村落ではこの出来事に気が付かないでしょう。

しかし・・・ここで記載することではありませんが、アントヌッチ証言っていったい何だったのでしょうか?また、事故調査報告書も何だったのでしょうか?

例え手抜きの調査をしても、これだけの物が見つからない、目に付かないはずがありません。もはや、両者が全くの創作であり、証拠的価値など皆無であることが証明されたようなものです。

日本国民も世界の人々も、この24年間騙され続けてきたと言っても、まだ言い足りないぐらいです。


■本格的な偵察機も落ちていた

先を進めます。この他にも色々な物が落ちていました。


写真3:高品質の部品、測定器の一部他

(1)は'超'が付くくらいの高品質素材で製造加工された、油圧管の継ぎ手部分と思われるものです。

管は2重配管で24年間経過しても全く劣化したようなような痕跡がありません。民間機ではとても採算が合わない高級品です。

(2)はシールド材で、現場に大量に落ちており、おそらく機体内部全面を覆っていたと思われます。電子機材を満載した偵察機の仕様です。

(3)は高度な加工と被服が施されたケーブル。観測ドーム内で位相検波計のセンサーに使用されたと思われます。

(4)は機体破片で、米海兵隊の塗装と所属名の記載の一部が認められます。

これらは人が分け入るのが困難な薮の脇に在り、エンジンや機体破片などはおそらく薮の中にまだ回収されず残っていると思われます。

しかし、これら特殊部品の数々が、偵察機RC-135の装備品であることを示しており、同時に、同機がここで墜落、または撃墜されたことをも物語っています。

所属については写真(4)および状況からB氏は米海兵隊の可能性が高いと言っておられますが、(4)と他の部材との関連は不明ですので、とりあえず所属は不明であるとします(米空軍のものが一般では認知されていますが、同機材は米国4軍で広く運用されているので断定もできません)。


写真4:米空軍のRC-135


■謎の黒い戦闘機

まだまだ出ます。


写真5:戦闘機の機体表面(黒塗装)

写真5は、戦闘機の機体表面と思われる厚めのジュラルミンに直接黒い塗装を施した金属片です。黒色の塗装を施すこと自体がかなり特殊なことであり、その色同様、何か特殊任務を帯びて行動していた戦闘機ではないかと類推されます。

私はこの機体こそ、JAL123便を撃墜した米空軍戦闘機ではないかと見ています(なぜここに落ちているかは後日に)。

なお、特別なステルス加工等は見られないので、よくネットなどで噂されているF19などのステルス戦闘機ではなく、従来型機であったと判断されます。


■その他の航空機

実は、他にも上記に該当しない機材の破片が数多く発見されているのですが、まだ、それらを特定する段階に至っていません。あと2〜3種類はほぼ確実に存在していると予想しています。

そして、その中には謎の黒い戦闘機とはまた別の、おそらく電波吸収材であろうと思われる黒い破片も含まれています。

確実に言えるのは、想像を超えた戦闘がこの地で行われ、多くの米軍用機が墜落・撃墜されたこと。

また多くの死傷者が出たことも想像に難くありません。しかも、驚くことに、その争いが翌日の午前4時ころ(M氏が到着した時間)以前にはおおよそ決着しており、既に回収作業や土砂がけ、隠蔽作業などが始まっていたのです。

なぜ、こんなにも米軍機が落ちているのか?これは異常事態です。

また、首都東京から数十キロ圏内で発生したこれだけの異常を、全く報じない報道機関、事故調査委員会、日本国政府、こちらの方も輪をかけて異常としか言い様がありません。

この事実は私だけでなく、過去に各国軍の偵察機に乗り、戦場を何度も見てきたB氏をも、たいへん混乱させました。

B氏は御巣鷹の尾根一帯を「飛行機の墓場だ」と表現されましたが、見事に状況を言い得ていると思います。

これら証拠物の検証と平行して、B氏とは時間をかけてこの事実について協議検討し、私たちは全体を説明する一つのシナリオに辿り着きました。

次回以降はこのシナリオをブログで提示することになりますが、仮説部分が多くなり、間違いや考え違いも混じってくることは避けられないでしょう。

筋の通った読者からのご指摘は私たちも採用し、シナリオに変更を加えて行きたいと思っておりますが、まずは私たちのシナリオ全体をご確認いただいてから、細部についての修正のご指摘をいただきたいと考えております。

あまりに複雑な要素が絡んでおり、最初から細かいところに留まると、事故(もはや'事変'ですね)の全体像が見えなくなってしまう恐れがあるからです。

 また、「緊急報告」のところには、次のようにあります。

 なぜ、24年たった今頃、こんなに証拠物が出てくるのか?S氏は現地の地質について「周囲は岩の多い山なのに、なぜか事故現場近くは工事現場にあるような土砂ばかり」と言ってました。

これはどういうことか、つまり「事故当時拾い切れなかった不都合な破片は、上から土砂をかけて隠した」ということです。

急斜面と岩の多い山肌、そんな環境の中で、土砂は堆積せず流れ落ち、今頃になって当時の残骸を我々の目の前に晒すことになったのでしょう。

しかし、どんなに回収を進めようと、証拠物はこれからも際限なく出続けるでしょう、また、そのために大人数の公務関係者が御巣鷹の山に入れば、当然何をしているのかを世間に問われます。

もはや、悲劇の計画者たちは最後の悪あがきを始めたとすら言えそうです。


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Author:熊木和枝:東京都練馬区
 和順庭という庭のガーデニングを趣味としてやっています。高校教師をやめて、ガーデニングのブログを書いていたのですが、小沢問題から真実を調べているうちに、マスコミや検察自体がおかしくなってきていることに気づき、ブロガーたちと検察の捏造や冤罪を追究し、ついに村木局長事件では無罪判決を得ることができました。最近は、市民の立場で真実を追究する政治的内容が多くなってきています。


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記号 10000 番号 88352491

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和順庭の四季おりおり
私たちの庭:和順庭の四季おりおりを写真と随筆でつづります。
7 日航機墜落の真相は? *アントヌッチ証言2009/11/13(金) 23:42:26


 また、「JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(2)」には、救助しようとして命令により引き返した米軍機アントヌッチの証言について書かれています。

2009-09-06 03:14:34 | 日記■アントヌッチ証言全文

日航機事故から10年、米軍人コミュニティ向けの新聞「スターズ・アンド・ストライプス」の一面に突然表れたアントヌッチ証言とは何か?

この証言の全訳文を米田氏の著書「御巣鷹の謎を追う」から引用します。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。

本証言の検証は次回以降に行います。


・一部を除き漢数字はアラビア数字に置き換えてます
・カギ括弧([])内の数字は、私が付け加えた段落番号です

------------------------------(ここから)------------------------------
「スターズ・アンド・ストライプス」の証言報道 1995年8月27日
(前文)
撤退命令が出ていなければ東京近郊の山中に墜落した日航123便事故の2時間後に、米海兵隊は生存者を救出できただろう。

(経歴)
1982年から90年まで米空軍に在籍したマイケル・アントヌッチ氏。

現在はカリフォルニア州サクラメント市でインサイド・カリフォルニア誌の編集を行っているサクラメント・ビー紙とマイケル・アントヌッチ氏の許可を得て再録した。

[1]
10年前の1985年8月12日に、日航123便は本州中部の山間に墜落し、520人が死亡した。単独の航空機事故としては航空史上、最悪の犠牲者を出す結果となった。

日本の救助隊の現場への到達が遅れたのではないかとの論議が起こった。

最初の救助隊が日航機にたどり着いたのは墜落後12時間後だった。

実際、もし日本当局を困惑させまいとすることがなかったならば、最初の救助隊(米海兵隊チーム)は墜落後、2時間以内に墜落機の捜索ができていただろう。

生存者は4人だった。(しかし)それ以上の多くの人が助かったかもしれない。

[2]
123便墜落事故の余波(被害拡大)について、私は独自の見方をしている。

事故当時、私はそのことについて「他言無用」の命令を受けていた。

しかし、大事故から10年経過した今、私があの晩 、東京から西に35マイル離れた横田基地に向かう米空軍C130のナビゲーターとして見たこと、聞いたことを、話さずにはいられない。

(図:米軍のC130輸送機)

[3]
当時、私は横田基地の空軍中尉だった。

当日8月12日の午後6時30分ころ、我々は沖縄から横田に向け飛行中、大島上空にさしかかった。

われわれは最初、日航123便の機長が管制塔に緊急事態を宣言したときには、さして気にもしていなかった。

(なぜなら)軍では、緊急事態を宣言し、エンジンを止めて平穏無事に着陸することはよくあることだから。

しかし、6時40分ころ、再度、日航機長の声を聞いた。

その声は非常に動揺しており、管制とのやりとりは、航空の標準語である英語ではなく日本語だった。

こんなことは、几帳面な東京管制官の通常の離陸管制では考えられないほど異常なことだった。

[4]
ずっと後日になって知ったのだが、123便は(垂直)尾翼と下部方向舵の一部をなくしており、操縦不能であって、高濱雅巳機長はスロットルレバーの調整のみで操縦し、高度を変えようとしていた。

また123便は緊急降下が必要な緊急事態である急減圧が起きていた。同機は絶望的な状態だったのだ。

[5]
われわれは、周波数を横田基地に切り替え、オオクラでホールディングするよう指示された。

旋回中に、横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞いた。

このときから、われわれは事態を真剣に注視するようになった。

123便の緊急事態は相当に深刻で、目的地に到着できそうになかった。

だから、めったにないことだが、当該乗員は米軍基地への着陸を希望したのだった。

[6]
横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目だった。

われわれにも(横田基地への)進入許可を出したが、ちょうど7時過ぎに123便がレーダーから消えた、と伝えてきた。

そして123便を捜索できないかと聞いてきた。

われわれは、あと2時間は飛べる燃料を持っていたので機首を北に向け、捜索に向かった。

[7]
管制では123便がレーダーから消えた場所をよく分かっていなかった。

当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。

午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。

地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。

墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。

山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

[8]
当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。

私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。

墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。

横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしてることを聞いた。

1時間で到着できただろう。

[9]
副操縦士のゲーリー・ブレイは管制に「海兵隊に急ぐように伝えてくれ。

もっとも生存者がいるかどうかは疑問だがね]といった。管制官からは「生存者はいない様子。

了解」との返答があった。

「ここからでは生存者がいるかどうか分からないのに、あんなこというんじゃなかった」とゲーリーは無線を外して私にそういった。

当機は8時30分まで先回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。

8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

[10]
午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。位置を少し移動して二人の乗員をホイスト(ウインチで吊り下げ)で地上に降ろすつもりでいた。

われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

[11]
将校は「直ちに基地へ帰還せよ」「日本側が向かっている」といったので「司令部、海兵隊は救助続行をきぼうしている」といったが、「繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様」と命令された。

私は「了解。基地に帰還する」と応答した。

[12]
ブレイは渋々そのことを海兵隊に知らせた。海兵隊も了解しており、引き上げ始めていた。

われわれの到着から2時間経過した午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れた。

管制から日本の救難機だとの知らせを受けた。

日本側が現場に到着したことで、安心してその場を引き上げた。もっとも、我々の燃料もほとんど使い果たしていた。

[13]
横田基地に引き返し、着陸後直ちに司令部に報告するように指令を受けた。

我々を待っていたのは、第861戦術飛行隊副司令官、ジョエル・シルズ大佐であった。

グリフィン機長が経過を簡単に報告した後、大佐は「ご苦労だった。今回のことについてマスコミには一切他言無用」といった。

[14]
われわれは、緊張を強いられた17時間にも及ぶ飛行を終え、休息をとるために飛行中退のビルに向かった。

そのとき、日航123便が満席に近い500人以上もの乗客を乗せていたことを日本のテレビを見て知った。起こった事故の大きさに驚き、声も出なかった。

スケジューラーが翌日の午後、一週間の任務で沖縄へ出発するようにとの指令をわれわれに伝えたので、その静寂が終わった。乗務員はそのまま放置されたが、そんなことは通常ないことであった。

[15]
翌日のニュースや新聞を見て、われわれは愕然とした。

ニュースは、日本の捜索隊が墜落地点を発見するのが、いかに困難をきわめたかを伝える報道で溢れていた。事実、まだ事故機残骸に到着していなかった。

私はすぐに地図のところへ行って昨日の航跡を確認した。私には正確な位置を示した、という自信があった。

私は海兵隊のヘリコプターに墜落地点までの飛行を無線で誘導したのだし、日本の救難機が墜落現場上空に到着して旋回しているのを確認した後に、帰還したのだから。

あの事故機発見がそれほど困難をきわめるような問題が日本側にあったのだろうか?

[16]
墜落から2週間たって、タイの首都、バンコクにいたとき、私は墜落の写真が表紙になった『タイム』と『ニューズウィーク』を買った。これで4人の生存者がいたことを初めて知った。

4人のうちの落合由美さんの記事を読んでゾッとさせられた。彼女は墜落後、意識があったときのことを語っている。

残骸の下で動けなかったが、彼女はヘリコプターを発見し、手を振って合図したが、すぐには返答がなかった。「次第に私は眠くなった」「気がつくと男の人の話し声が聞こえ、もう朝だった」と彼女はいっている。

[17]
落合さんはまた、看護師に、数人の子どもたちの声を聞いたが闇の中でその声は次第に途絶えていった、と話している。

私は打ちのめされたような気がした。海兵隊が吊り上げによる救助を許可されていたならば、さらに数人の生存者を救出できたのにと考えざるを得なかった。

海兵隊のヘリコプターは、落合由美さんが見つけられるところまで接近していたのだ。

[18]
『ニューズウィーク』誌によると、日本の当局は、捜索開始命令が午後9時30分まで出されなかった、と述べている。

(しかし)その時刻はわれわれが墜落地点を確認した2時間後だった。最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分だった。

午前7時15分になって日本の捜索隊は、警察(自衛隊のこと)のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。

海兵隊のヘリコプターが同じことをやろうとして許可されなかったときから、11時間もたってのことだった。

[19]
こういう大惨事での米国の役割については、『タイム』や『ニューズウィーク』誌でも、われわれのC130や海兵隊の行動を報道することはなく、記者たちは日本の当局が公表したことを鵜呑みにしている。

『ニューズウィーク』は、日本のF4戦闘機が午後7時21分に山の中の炎上地点を確認したと伝えていた。当時の日本はF4を持っていなかったし、在日米軍基地にもF4は配備されていなかったという事実を除けば、これはよくできた話である。

[20]
また『タイム』は、日本の航空自衛隊が派遣した2機の航空機が、炎上地点を確認したと伝えている。このことは、午後9時30分まで捜索命令が出されなかった、という軍(自衛隊)の前述の言明と矛盾している。

夜から朝にかけて、いったい何が起こっていたのだろうか。日本の救助隊は、墜落現場から42マイル離れた上野村に対策本部を設置しつつあった。

後になって、日本の緊急事態対策問題に精通しているある人から、彼らが1機ではなく2機の米軍機が自分たちよりも2時間も早く現場に到着していたことに、びっくりしていた、と聞かされた。

この人物は「日本の乗員は、あなた方が行ったようにとっさに捜索を実行するなんてことは絶対できないだろう」「彼らの救助活動のやり方といえば、マニュアルなど文字になっているものでしかできないのだ。

しかし、あなたたち(空軍と海兵隊)はそれを見事にやってのけた」と私に語った。
(管理者註:42マイル(約65km)は4.2マイルの誤りか?)

[21]
私が日本に戻ってきたころには、この話は立ち消えになっていた。われわれ乗員たちは、ある連絡(承諾)を受け取ったが、われわれの期待とはずいぶん、かけ離れていた。

われわれは、日本の新聞に残骸の写真を売るための空軍特別調査活動の任務にあった、ということにされた。

しかし、この調査は、当然のことながらあっという間に終わった。なぜならフィルムを持っているものなどだれ一人いなかったし、写真を取れるような明かりも十分なかったのだから。

そのうえ、マスコミは、われわれがそこを飛んでいたことなど、誰も知らないのだから、報道されるはずもなかった。

[22]
1987年3月、私は横田基地を離れ、サクラメントのマザー空軍基地で航法教育に携わる大尉として着任したが、そのとき、空軍表彰メダルを授与された。そこにはこう書いてある

「アントヌッチ大尉とその乗務員は、日航機の捜索を決定し、直ちに捜索計画をたて、墜落現場を発見し、救助隊を現地に誘導した」

私は空軍が私たちの行動を認めてくれたことは嬉しかったが、表彰を喜ぶ気になれない。私は「まだ、生存していた人たちを救出できなかった」と付け加えたかった。

「23」
日航123便事故は、実際二つの惨事がある。第一は墜落事故の衝撃で人々が死亡したことである。第二には、遺体収容を援助した医師たちの証言に表れている。

つまり、もっと早く救助隊が到着していれば、負傷者、または致命的でなかった乗客を発見できただろうということだ。

ある医師の証言は私の体の心まで震え上がらせた。彼は「もし、発見がもう10時間早ければ、われわれはもっと多くの生存者を発見できたであろう」といっている 』

日航機墜落の真相6 日航機墜落の真相は? *事故現場を最初に訪れた民間人の証言 2009/11/13(金) 11:21:52
 


この日航機墜落について調べれば調べるほど疑問が沸き、また多くのブログの信憑性についての判断が難しくなる。

 そんな時、「(新)日本の黒い霧」と題するブログの中の9月10日付の「事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言」に、事故現場の様子が詳しく書かれていた。

『「(新) 日本の黒い霧」(日本航空123便ジャンボジェット機墜落事故の真相、その他の未解決事件、改竄された歴史について考える。)


JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(4)
2009-09-10 17:29:00 | 日記■事故現場を訪れた最初の民間人、M氏の証言

 このM氏については、8月4日付「情報源について」のところに

「ご実家に帰省中、たまたま事故のニュースを聞き事故現場を訪れた知人です。その方から、これまでマスコミに登場したことのない貴重な証言を得ました。本人の身の安全のため匿名といたします」とある。


それでは、お約束とおり、1985年の8月12日から翌日の8月13日にかけて、JAL123便の事故現場となった御巣鷹の尾根に向かった、M氏の証言をご紹介します。

なお、この証言は、本年6月、当ブログ管理者が講師を務めた小グループのセミナーにM氏をお招きし、その席上で証言いただいたものを筆録・編集したものです。発言主旨に誤りはないと思いますが、予めお断りしておきます。

-----------------------------(ここから)-------------------------------
司会:それでは、Mさんよろしくお願いします。Mさんは事故当夜、現場に向かわれたそうですが、まず、そのいきさつを教えてください。


M氏[1]:私の実家は、事故現場から見て西側、長野県の方にあります。当時は大学を卒業して社会人になったばかりで、事故当日はお盆ということもあり、たまたま実家に帰省していました。

事故の速報を知ったのが、12日夕方の7時過ぎ頃だったと思います。その時は墜落現場は(長野県の)北相木村付近という報道でした。

そこで、北相木村やもっと南に位置する川上村に住む知り合いに電話を掛けて様子を尋ねたところ、どちらも墜落は確認できてないとのことなので、残るは南相木村の山間部しかないと思い、そちらに向かいました。

たまたま高校時代の友人2名と一緒だったので、事故現場に行ってみようということになりました。まだ、若かったですから、その時はただ、何としても現場に1番乗りしてやるぞ、インタビューされてテレビに映ってやるぞ、ぐらいの本当に軽い気持ちしかありませんでした。

オフロードバイクにまたがり、友人2人(それぞれオフロードとオンロードバイクを使用)と共に南相木村に向けて出発し、おそらく21時頃までには南相木村からの林道に入っていたと思います。

ただし、オンロードバイクの友人は途中でこの行程から抜け、林道から先を進んだのは、オフロードにのったボクたち2人だけです。

司会:その時刻はまだ、墜落地点は判明してませんでしたよね(公式発表は翌朝5時以降)。そこからどこに進めばよいか、どう判断したのですか?


M氏[2]:そんなの訳ないですよ。上空で戦闘機が、それもおそらく2機がぐるぐる旋回している音がしてましたから、墜落現場はその(旋回)音の中心付近だなとすぐに分かりました。

そこで、バイクで可能な限り近くの林道を進んで、そこから先は徒歩で山に入ることにしました。

司会:ええっ?じゃぁもうその時点で墜落地点はわかっていたと・・・

M氏[3]:はい。当然、警察も分かっていたはずですよ

。だってボクたちが南相木村へ向かってるその後ろから、警察の白バイもついてきましたから。

でも、普通のバイクなので切返しの多い山道に難渋していて、オフロードに乗ったボクたちは簡単に振り切っちゃいましたけど(笑)。

林道の終点から山に入ってからは、途中、山の頂きへ登る度に、ヘリの音がする方向を探して、墜落地点を確認しました。

ヘリは同じところを一晩中飛んでいたので、墜落地点は当然分かっているものと思いました。

司会:すると、林道から先は、徒歩で夜の山に分け入ったのですか。危険だと思わなかったのですか?

M氏[4]:あの辺の山の持ち主(の息子)とか知ってますし、一緒に山に入って遊んでましたから、どんなところかは大体わかっていました。

松の木と岩が多い所なんですよ。もちろん、急峻で険しい所だとも知ってますから、この先へ進むのは中々たいへんだなと思いましたよ。

とにかく、墜落現場に向かってまっすぐ進むことしか考えていませんから、きつい傾斜や時にはオーバーハングを超えて、山道なんか関係なく、強引にいくつも尾根を跨いで行きました。

ですから、直線距離でわずか7,8キロの行程なのに、山に入ってから現場に着くまで6〜7時間くらいかかりました。

着いたのは、午前4時前後だったはずです。

司会:午前4時という時刻はどうやって確認したのですか?

M氏[5]:当時は、時計を身に付ける習慣はなかったのですか、着いた時に山の尾根付近が白み始めていたので、おそらくそれぐらいの時間だと思いました。
(管理者註:夏の山頂付近は明るくなるのが早い)

司会:そこで何を見ましたか?

M氏[6]:既に自衛隊員が7〜80人、いや100人位は来ていました。それを見て、自分たちは一番乗りできなかったと思いましたね。

同時に、事故犠牲者の呻き声が谷にこだまし、響き渡っているのがはっきりと聴こえました。

司会:ええっ?その時に生きて声を出している人が居たのですか!!どれくらいの人が生きていたのでしょう?

M氏[7]:全部を数えた訳ではありませんが、声の響き方からすると少なくても4〜50人は居たと思います。

実際に、苦しそうに声をあげている人を私も間近で何人か見ています。

自衛隊の人たちがいる以上、自分たちができることは、負傷者のいる場所を教え、早く救助してもらうことだと思い、呻き声のするあたりを探しては、その場所を隊員さんに伝え、早い手当を頼んでいました。

ただ、隊員さんの対応には不信感を覚えましたね。「へたに動かすと危険なので、後から来る部隊が手当することになっている」と言うだけで、何もしようとしない。

手にした4〜50cm 位の丸いバッグに、地面から拾った物を黙々と入れ続けている。

司会:自衛隊員は何を拾っていたのでしょう?

M氏[8]:まだ暗くてよく見えなかったので、それが何かまではわかりませんでした。ボイスレコーダーとか、何か貴重な物なんだろうと思っていました。

私が覚えている隊員さんの装備は、バッグの他に、片手に抜き身の大型アーミーナイフ、目には暗視ゴーグル、また、靴はつま先の短い短靴を履いており、傾斜のきついこの山のことをよく調べて入っているなと思いました。

ちょっとひどいなと思ったのは、斜面を登り、尾根の反対側に出たら、向こうの谷ではヘリコプターがホバリングしているじゃないですか、ヘリが来ているならさっさと救助しろよと思いましたね。

しかも、ヘリの下では、さっき隊員さんたちが何かを入れていたバックを10数個まとめ、ネットに入れて吊り上げていました。何度も吊り上げていたので、全部で70個くらいのバッグが回収されたと思います。

司会:現場にはどれくらい滞在したのですか?

M氏[9]:到着してから1時間後くらいに、自衛隊の次の部隊が続々と到着してきました。

また、暗視スコープを装着していた最初の部隊も引き上げる体制に移っていたので、もうこれで大丈夫と思い、この時に下山を始めました。

なお、次の部隊は、山で歩きにくいブーツ姿だったので、これでちゃんと歩けるのかな?と思いました。

セミナー参加者からの質問

Q1:4〜50人居たという、呻き声の人たちはどうなってしまったのでしょう?

M氏[10]:それはボクもずっと不思議に思っていたのですが、下山を開始する朝の5時過ぎ頃には、谷の呻き声がピタリと止んでいました。


Q2:この事故の生存者は4人の女性でしたが、その他にも助かりそうな人はいませんでしたか?

M氏[11]:ボクが見た負傷者の中に、指先が1本ちぎれただけの男の人がいました。「この程度なら死ぬことはないな」と思い、救助活動(隊員への声かけ)を後回しにしたのをはっきりと覚えています。

あの人がどうなったのか、ボクにも分かりません。

Q3:事故調査委員会が、当夜、墜落場所発見が困難だったと報告しています。しかし、Mさんは夜を徹して現場に到達している。

この報告をどう思いますか。

M氏[12]:日頃から遭難者の多い現地周辺にはCB無線による救助網が敷かれています。

無線機を持った人員を担当箇所に登らせて無線を交わせば、夜間に炎上しているような目立つものなら訳なく見つけ出せるはず。

どうしてこんなに時間がかかったのか分かりません。
(管理者註:というか、本当はとっくに見つけ出していますが・・)


Q4:大型アーミーナイフは何に使われていたのでしょう?

M氏[13]:それは見ていないので分かりません。

Q5:現場で身の危険を感じたり、二人を排除するような動きはありませんでしたか?

M氏[14]:そういうことは特に感じませんでした。

Q6:機体が激しく衝突し炎上した墜落現場に木立が残っているのは不自然だとよく指摘されるのですが、実際に見てどうでしたか?

M氏[15]:言われてみたら、確かに変ですよね。

林立している木の間に機体の破片や、遺体(の一部が)飛散していましたから。それに、あの辺りは針葉樹が多い山ですから、機体から火が出たらあっという間に周囲に燃え広がるはず。

それにしちゃ、あまり燃えてなかったなぁ、変だなぁ。

Q7:事故調査委員会が、生存者4人の発見を奇跡的だと報告しています。

しかし、Mさんは生きてきる何10人もの声を聞いている。この報告について改めて感想を聞かせてください。

M氏[16]:報告は嘘だと思います。

明らかにもっと多くの方の命を救うことができたはずです。

Q8:その他、現場で見て、何か変だと思ったことを教えてください。

M氏[17]:山で遭難して遺体になると、狐や狸など、山の動物にひどく食い荒らされるのですが、現場で見た遺体には、奴らが手をつけた痕跡がまるでない、それは山を知る者としてはたいへん不思議な事です。

司会:ありがとうございました。

-----------------------------(ここまで)-------------------------------


以上、M氏の証言でした。この証言からわかることを、以下箇条書きにします。

・13日午前4時、公式発表ではまだ発見されていないはずの墜落現場に
 自衛隊員が既に100名程度来ていた

・自衛隊員は人命救助よりも何かの回収を優先していた

・4〜50名の生存者の声が聴こえた

・1時間後には生存者の声が全く聴こえなくなった


JAL123便墜落事故−真相を追う− 闇夜に蠢くもの(5)

2009-09-13 21:26:21 | 日記今回は、前回の「闇夜に蠢くもの(4)」で紹介したM氏の証言について、検証を加えたいと思います。

読者の皆様においては、証言の内容が内容だけに、恐ろしい想像は避けられないとは思いますが、ここは何とか冷静になって、事実を見つめていただきたくお願い申し上げます。

なお、事故から24年経ってなぜ今頃こんな証言が飛び出してきたのかについては、事故後にM氏が長期に渡って海外赴任していたこと、最近まで大病を患っていたことなど、公の場で証言を行える状況になかったことを、本人に代わりお伝えしておきます。

■墜落現場は早期に特定されていた

M氏の証言からはっきりわかること、その一つは墜落現場がかなり早い段階で特定されていたことでしょう。

墜落地点の同定については、M氏からCB無線網が利用可能であったとの指摘がありましたが、それ以前に、本人がそうしたように電話で周辺町村に確認するという、最もシンプルな方法で墜落地点をかなり小範囲に絞ることができたのです。まさか、互いに連絡を取り合っている現地の警察や役所がそんなことに気がつかなかったとは言い訳できないでしょう。

もっと直接的な証拠として、12日の21時頃の上空の航空機(戦闘機およびヘリコプター)の動きから、自衛隊も墜落地点を正確に把握していたのは明らかです。

その音を頼りに現地に乗り込んだM氏の行動そのものが、その事実を正確に物語っています。また、白バイ隊の動きからは、警察へ墜落地点の情報が既に伝わっていた疑いが極めて濃厚と判断されます。

そして、「自衛隊に救助活動の主導権を渡した」とされるアントヌッチ証言も、この点では見事に裏付けられたように見えます。

■それは本当に自衛隊だったのか?

M氏の証言、および上記までの説明で、これまで私は、無条件に闇夜に飛行する航空機や現場で活動する人々を「自衛隊」と決めつけて話を進めてきました。

しかし、何を以ってそれが「自衛隊」だと特定できるのでしょうか?それを説明する一つの要素が、アントヌッチ証言です。

アントヌッチ氏が上官の命令で自衛隊に道を譲ったという言説以外には、彼らが自衛隊だと決め付ける理由はありません。

「M氏も自衛隊と認めたのだから、『自衛隊』なんじゃないのか?」と反論が聞こえてきそうですが、それについては、よく考えてみてください。

例えば自衛隊の制服を着ている人物をあなたは無条件に自衛隊員と認めるでしょうか?確かに普通はそう思うでしょう、しかしその人物の所属を聞き出して部隊に確認しない限り、当人が自衛隊員だと断定する理由は何一つありません。

角田四郎氏の著書「疑惑−JAL123便墜落事故」の中にも、公式記録上は事故処理に参加していない「神奈川県警」の詰所が存在したり、しかもその詰所の中の備品に「○○師団」等々、警察の所属名とは縁もゆかりもない記名の物品があったなど、公務関係者の偽装を疑う記述がありました。

ですから、M氏が見たという「自衛隊」という人々についても疑いを持って検証する必要があります。

■自衛隊の装備品ではない「アーミーナイフ」

M氏の証言について、国際軍事評論家のB氏に特に「自衛隊」員の装備について伺ったところ、次のような回答を頂きました。

・大型アーミーナイフは当時の自衛隊の装備品ではない。単純な武器のようでいて
 非常に高価なものなので、当時はまだ正式採用されていなかったはずだ。


・暗視スコープについても、当時の自衛隊レンジャー部隊に少量あったかないか
 だったはずなので、100人分も用意できたとは考えにくい。


・どちらも在日米軍の装備としてなら可能性は高い

つまり、装備品をみる限り、「自衛隊」である可能性は少なく在日米軍の疑いがあるとの見解です。

しかし、証言の中で、M氏が日本語で違和感なく活動中の人物と会話している場面もあるので、おそらく相手も日本人の外見をして、流暢に(普通に)日本語を話していたと考えられます。

その点をB氏にさらに尋ねたところ

・公にはされていないが、在日米軍には在日朝鮮人を集めた部隊が存在する

・通常は基地のガードなどを担当するが、優秀な人物を集めて急遽200人位の部隊を編成するなど造作もないことだ

・日本語もできるし、外見は日本人と区別がつかない。逆にそれが狙い目である

・ガード任務において白人が日本人を撃てば国際問題だし、日本人によるガードでは相手が日本人の時に発砲できない可能性がある。

そこで、在日の彼らが上手く利用される。このような処置は駐留する国の事情に合わせ当然のように行われている

・在韓米軍内にも韓国籍だけでなく在日朝鮮人籍の人員が採用されており、彼らは朝鮮半島の緊張の中で実戦を経験している戦闘プロ集団だ

と、外見からは日本人と全く区別のつかない、米軍所属の朝鮮人部隊が投入された可能性について強く指摘を受けました(*1)。

つまり自衛隊の偽装をした米軍兵士が事故現場に投入された可能性があるということです。

*1 本論では在日韓国・朝鮮人社会に属する人々を非難・中傷する意図は一切ありません。

彼らの中には私の良き友人もいます。しかし、世の中には痛々しいまでの現実があることも事実です。

この点をどうか冷静にご理解ください。いずれは、このような人の区別を口にしなくてよい世界が訪れることを私自身が強く望んでいます。

■呻き声はなぜ消えたのか?

証言に「アーミーナイフ」についての言及があったせいか、ネット上では早速、生存者がアーミーナイフで刺殺されたのだと断定している書き込みが見られます。

何を隠そう、証言を最初に聞いたとき、私も同じ想像をしました。

しかし、ナイフで致命傷を与えたとしたら、その傷跡は鮮明に残るはずで、飯塚訓氏の「墜落遺体」を読めばわかるように、群馬県藤岡市でとられた厳重かつ多数の医療関係者が関る検死体制の下では、医師の目に留まらないはずがありません。

切り口を焼き付けたりするなど、傷跡を目立たないように処置する方法もあったでしょうが、M氏が滞在していた1時間程度の短い時間で、4〜50人もの生存者に対してそこまでやれたとは到底考えられません。

M氏が目撃したのはプロの軍人です。

ナイフを用いなくとも、人を殺害する方法はいくらでもあったはずです。こんなことを考えるのは本当に不愉快なのですが、1990年代、長野県の松本市、東京の都心で発生したあのテロ事件を思い出してください。

小さな布に沁み込ませ、生存者の口元に当てるだけで絶命を誘う薬液など、この人たちとっては当たり前の道具であったはずです。

藤岡市での検死体制も、一人一人に化学的分析を施している余裕はなかったようですし、そのような事態を想定すらしていなかったでしょう。

M氏は指先を失った男性について印象深く語っておられましたが、後から聞かされたとはいえ、絶対に助かると思っていた人がその時この世から失われてしまったことに大きなショックを受けていたようでした。

M氏ならずとも、この証言を聞かされる我々の全てが、おそらく大きな衝撃を覚えたに違いありません。その手法は定かではありませんが、生存者が絶命に至った何かがそこでは起きていた、そのこと自体は間違いのない事実であります。

なお、仮に何らかの殺害行為がこの時行われたとしたならば、その実行者が多くの搭乗者と同じ日本国籍を持つ自衛隊員であったとは認めにくい話です。

それは自衛隊員の良心に期待しての推測ではなく、作戦を指示する立場として、同民族人に対して殺害行為を命令するリスクは、隊員の心変わりによる叛乱など、あまりに高いからです(*2)。

その意味でも外国人部隊の登用は可能性の高い推測と思われます。

*2 これは自衛隊機が日航機を撃墜したとする「自衛隊撃墜説」にも当てはまるロジックです


■自衛隊も無関係ではない

M氏が現場に到着して約1時間後、次の部隊が現れます。

M氏は彼らの履物に注目しています。最初に目撃した「隊員」が急峻な山岳地を見据えた短靴であったのに、その時から、山で不便なブーツの着用になっています。

また、この時刻近辺からは自衛隊が公式に救助に入ったことになっており、自衛隊が自分たちを「自衛隊」と名乗っても全く問題のないタイミングです。

これだけでは、必ずしも断定できませんが、大きな装備の違い、公式発表のできるタイミングであることを考え合わせれば、2次部隊が本物の「自衛隊」であった可能性は高いでしょう。

そこからさらに類推すると、M氏が最初に見た1次部隊と2次部隊の間で現場の引継ぎが行われたのは間違いありません。

だとすれば、両者の間で緊密な連携が取れていなければならないことになります。

「疑惑−JAL123便墜落事故」の中には、この後に入った公務関係者の偽装を疑う記述もあるのですが、仮に2次部隊、あるいはそれ以降の投入部隊が偽装集団であったとしても、それを防衛庁が「自衛隊」であると認めていたのであれば、やはり「最初の集団」と「自衛隊(防衛庁)」の間に何かの「示し合わせ」があったことを否定するものではありません。

簡潔に述べましょう。この救出劇は、米軍在日朝鮮人部隊と自衛隊による共同行為であった可能性が高いと考えられるのです

■再びアントヌッチ証言を問う

「自衛隊に救助の道を譲った」とするアントヌッチ証言。

そして「自衛隊に偽装」した米軍外国人部隊(ただし推定)。

この両者に共通するものは、仮に疑惑の目が救助の初動体制に向けられたり、M氏のような目撃者が現れたとしても、その矛先が自衛隊(当時の防衛庁)もしくは日本国政府に向くよう、つまり何か問題が起きても国内問題の範疇として処理されるよう巧妙に計算された仕掛けと読み解くことが可能です。

また、「自衛隊撃墜説を斬る(1)」で取り上げた、自衛隊の対空ミサイルが原因とするマスコミへの匿名電話と考え合わせると(この情報の間違いは既に指摘済み)、やはり、疑惑の拡大範囲を最悪でも国内問題に留め、在日米軍への波及を抑え込もうする、関係者の意図が見え隠れします。

以上、断定するのはまだ早いかもしれませんが、少なくとも在日米軍が関与し、情報工作を行っている可能性を頭の片隅に置きつつ、事実を検証していく必要がありそうです。


■今なお残る軍夫制度

偽装自衛隊員に関連して、「軍夫(ぐんぷ)」が関与した可能性についても触れておきます。

軍夫とは、辞書によると「軍隊に所属して雑役に従う人夫」とありますが、この軍夫の存在は先の世界大戦の敗戦とともに、日本では死語になったと思われるかもしれません。

しかし、B氏によると、戦後から今に至るまで、軍夫と同じ役割を担う組織が存在し続けているとのことです。彼らは、多くの死体が出る事故現場、放射能など有害物質の汚染が危惧される現場での危険作業など、いわゆる重度の汚れ仕事を公務員に代わって行う組織なのです。

公式の軍夫制度がない以上、それに取って代わる組織は、部落・在日・土建関係者(現場職)など、どちらかというと日本社会で被差別的な扱いをうける人々で、なおかつ、国の重要機密に関る可能性があることから、秘密を守れる組織、別の言い方をすれば統率者の下、組織として統制することが可能な一団であることが求められます(*3)。

要するに、角田氏が接触した謎の神奈川県警機動隊員、謎の日航技術者、ひいては、現場で救助活動を行っていた自衛隊員と思わしき人々の中に、このような軍夫が紛れ込んでいた可能性があるということです。

この説で問題になるのは、彼らがいったい何の目的で、そして誰の指揮下で、出動を要請されたのかという点でしょう。これについては、追って論証していく予定です。

*3 改めてお断りしますが、差別的な意味で彼らを名指しする意図は全くありません。

このような差別的関係を生むのは、彼らの問題ではなく、それを作り出す日本社会そのもの、私たち一般の日本人が責を負うべき問題であると私は考えます。

■回収物は何だったのか?

M氏の証言で次に重要なのは、謎の部隊が回収していた物、それも人命よりも優先される物とは何か?という点になります。

それは、マスコミ、日本国民、そして壮絶な機体の破壊から無事生き延びることができた生存者にすら絶対見られてはいけない物であるはずです。

ここでは、この証言部分が、次回からスタートする「そしてミサイルは発射された」での論証を裏付ける重要な資料であるとだけ、お伝えしておきましょう。』

日航機墜落の真相5 日航機墜落の真相は?  救助自衛官射殺というNHKニュース速報2009/11/11(水) 12:59:12
 


 昨日は、この季節とは思えない暖かな日で、母と和順庭へ行きました。

寒くなると母を連れて行くのは無理なのですが、厳しい冬が訪れる前に残された暖かな日だったのか、明日から雨の日が続くという天気予報に来年まで母を連れていくのは無理かもしれないという思いもあって、いつものようにおにぎりにお茶を持って行ってきました。

午後からは曇るということでしたが、帰りまでいいお天気で、まだきれいに咲いているコスモスの花を母は喜んで摘み、これが今年最後の野菜の収穫になるかもしれないなすと、木にたわわになっているみかんも摘んでもらいました。

戦争のおそろしさを経験し、お国のためにと闘って戦火の中を逃げ、肉親を亡くし生きてきた母は今八十歳をすぎました。

母だけでなく、苦しい思いをしたお年寄りがこの国を支えてきたのは事実で、そのあと残された人生がどれぐらいだろうかと自分の人生を思う歳になって、払った年金が未納扱いになるとか後期高齢者と区別してわずかな年金の中から徴収しようという国の政策はあまりに冷たかったと思えます。

政権が変われば、少子化対策として未来を担うこどもへの手当ての優遇とともに、高齢者への血の通ったあたたかな政策も期待できるでしょうか?

 この和順庭の自然を眺めていると、あの御巣鷹の尾根から見た樹々の紅葉を思い出します。日本が平和であることのありがたみを感じ、また自由にもの言えることの幸せを思います。日航機事故の悲しみを抱えるあの山の尾根で感じた悲しみはなんだったのでしょうか?

そんな時、日航機墜落事故について調べていて、日航機事故のNHKニュース速報に

「20:00上野村三岐待機自衛隊一群到着。待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺NHKニュース初報」

というテロップが流れたということがいくつかのブログに書かれていました。
http://ja8119.iza.ne.jp/blog/5/
http://gray.ap.teacup.com/applet/123ja8119/archive?b=75
http://yomi.mobi/read.cgi/news21/news21_news2_1168001922  の NO.53
http://unkar.jp/read/love6.2ch.net/space/1210995456 のNO.834 NO.835 NO.841


これは事実なのでしょうか?それとも誤報だったのでしょうか?
その後このニュースについてはいっさいふれられていないということですが、これが事実とすれば大変なことです。

ブログの中には、「この時代は当たり前のことだった」と書かれているものもありますが、そんなことはないはずです。

例え、自衛隊であろうと救助しようとする自衛官を射殺したとすると、それはたんに命令に従わなかったというだけでなく、すぐに救助に向かわせては困る事情があったということになります。

日航機墜落の真相の2の「自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか?」のところに書いたように、米自衛隊機は墜落場所を墜落25分後には特定し墜落2時間半後にはロープを投下し救助するところだったのに突然中止命令が出され、

しかもその間墜落現場を別の場所と報道する情報が多数流され、この御巣鷹山からわざわざ遠ざけるようにされ、すぐ救助できるはずなのに救助まで16時間もかかっているのです。


『同機のマイケル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時19分発見(墜落6時56分)、21分JAL123便の墜落現場を確認しています。


番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさ
      でした。燻る機体も炎も見えた。  ――アントヌッチ航法士
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米軍C−130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。
 
 午後8時30分になって、横田基地からC−130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH−1が、そちらに向かっている」と知らせてきたのです。
 
やがて救難ヘリUH−1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。

そのときC−130に横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。
 
しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して、横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。

繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を命じたのです。

時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。』


また、9時10分(墜落は6時56分)には、 朝日ヘリ「ちよどり」が現場撮影をしていたといいます。

墜落時には多くの生存者がいたことは、「日航機墜落の真相4」の所でも書いたように、落合・川上証言であきらかです。

なぜ、このように場所が特定されながらも、自衛隊を待機させ、墜落現場の誤情報が流されたのでしょうか?

この「待機命令に反して怪我人救助を急いだ自衛隊員1人射殺」というニュース速報が流れたのか?射殺というのが事実かどうかは別としても、

この救助にはどうしても時間かせぎしなければならない何かがあったとしか思えないのです。

日航機墜落の真相4 日航機墜落の真相は?  * 墜落時にはかなりの生存者がいた2009/11/07(土) 03:08:02

 墜落時にはかなりの生存者がいたという事実は、生き残られた川上慶子さんやスチュワーデスの落合由美さんの語っていることからもわかる。
 ところが事故調査委員会の報告書には4名以外はほぼ即死の状態と書かれていて、機長などが作る公式の乗員組合連絡会議でも疑問が上がり、事故に関する再調査が求められている。
 事故調査委員会の報告書の疑問点
http://www.alpajapan.org/kannkoubutu/genatsu/PART21.HTM

ーJAL 123便墜落事故25年目の記録   
御巣鷹の尾根に捧ぐ
http://jal123.blog99.fc2.com/blog-category-6.html

川上慶子さんの証言


生存者の証言 −川上慶子さんの証言−
−高崎国立病院での証言−

大社町(島根県)のおばあちゃんや大勢の人が、慶子ちゃんの元気になった声を聞きたがっているの。知っていることを話してね。飛行機の音とかあったでしょ?

あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。

飛行機の中で大きな音がした時何が起こったの?

左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。

慶子ちゃんが一番最初気がついた時、周りは暗かった?

暗かった。

真っ暗だった?

うん。

その時何も見えなかった?

見えなかった。

お父さんやお母さんや咲子ちゃんはその時どうだったか覚えている?

うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。

その時に何か思った?

うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。

明るくなった時何か見たものある?

木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に何かネジみたいな大きいものがあったの。隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。

左手が届いたところにいたわけね?

うん。

ヘリコプターでつり上げられた時何を考えていた?

出される時にね、咲子の何かベルトで縛られたところが見えたから、咲子たち大丈夫かなって思った。

助けられてから、一番うれしかったことは?

知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。

ほかに何かみんなに言いたいことは?

いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。

上記のインタビューは事故から一週間後の8月19日、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に質問したのに答えたもので、約5分間のテープが公開された。質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられたが、慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんのみ病室にテレビカメラが入った。下の映像はその時公開されたテープのダイジェストと思われる。

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−付き添い関係者への証言1−

・事故が起きたのは羽田離陸後、スチュワーデスがミッキーマウスのおもちゃを子供の乗客に配
 り始めたころ。

・機内後方上部でドーンという大きな音とメリメリという音がし、一・五メートル四方ぐらいの穴が
 開いて、プロペラの羽か扇風機の羽のようなものが舞い、機内は真っ白になった。

・墜落後、隣にいた父と妹も生存しており長い間(正確な時間は不明)話し合い励まし合った。

・最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。

・母和子さん(39)は即死状態だった。

上記の証言は、肉親や関係者に対しての証言。8月18日までに解ったものである。

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−付き添い関係者への証言2−

気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみても、みんな付いており、「生きている」と思った。

みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと父と咲子が返事した。母は答えなかった。「手や足を動かしてみ」と言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。

父は私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。

咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。

突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思い。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。

ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父のだと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。

顔の上の部品の一部をつかんで横からはい出そうとしたが、二度三度するうち部品がずり落ち、顔とのすき間が狭くなった。そこで今度は両足を当てがい押し上げようと踏んばった。「中学になってから慶子は根気がなくなった」と、日ごろから言われていた言葉を思い出し、頑張った。人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。

8月23日までに解ったもの。墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況を、付き添い関係者にさらに詳細に証言している。よくネットや書籍上で引用されているので、一番有名な証言ではないだろうか。

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−群馬県警・関係者への証言−

最後列左端の60D座席にいた慶子さんの左側上方、最後部担当のスチュワーデスが離着陸の際に座るジャンプシート(乗員用座席)の斜め上にある天井パネルが外れ、一・五メートル四方ぐらいの穴が開いた、との証言。

上記の証言は、群馬県警の事情聴取や関係者との会話の中での証言である。機内の写真を見ながら「ドーンという大きな衝撃音の直後に壊れたのは、ここだった」と、天井に開いた穴の位置を特定した。


また以下の「幸せを掴んだ川上慶子さん 」
のブログからもわかる。

http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3af1244c227aa673412f99309b8879fa
 
「幸せを掴んだ川上慶子さん 」

レスキュー隊が現場に到着出来たのは、墜落から一夜明けてからの事だった。現場の余りの惨状に、当初は全員死亡を誰もが疑わなかったと思う。

それ程酷い状況で在った。しかし、4人の命が救い出される事となる。その中の一人が川上慶子ちゃん、当時12歳だった。救出された時の姿は今でもハッキリと脳裏に刻まれている。あれから、もうすぐ20年を迎える事にる・・。

「週刊朝日(7月15日号)」に「育ての母が語った 川上慶子さん その後の人生」という記事が載っていた。

慶子さんの父親の姉、つまり伯母に当たる小田悦子さんが記者のインタビューに応じられての内容だ。”あの日”、慶子さんは父親(当時41歳)と母親(同39歳)、そして妹(同7歳)と共に123便に乗り合わせていた。当時大阪に在住していた小田さんの家を訪ねる予定だった。

待てど暮らせど来ない弟一家に気を揉んでいる中、日航機が行方不明になっている事を知ったという。

翌日になって現地に駆け付ける途中のTV画面で、姪っ子の慶子さんが救出されるシーンを目にする事となった小田さん。

慶子さんの逆立つ髪の毛にその恐怖心の凄まじさを感じ、又、近くに居た人から小声で「良かったですね。」と囁かれたものの、他の家族の安否を思うと手放しでは喜べなかったのだとか。

その後、生存者達の証言から明らかになっていったのが、墜落直後にはかなりの人が生存していたという事実。”その時”の話を小田さんも慶子さんから聞いたという。

****************************
「墜落した時は、大分多くの人が生きてはって、御父さんも咲子ちゃん(妹)も未だ生きてて、御話しててね。あっちでもこっちでも、がやがやと話し声が聞こえて来て・・・。」

「(残骸から)抜け出そうとして動くと足が痛くなる。そう言うたら御父さんは動かん様になった。段々動かなく、物を言わない様になった。咲子ちゃんも吐いた物が喉に詰まる様な感じになる。

『御婆ちゃんと、又皆で元気に仲良く暮らそうな。』と言って上げたけど、げえげえと言い出したと思ったら静かになって、咲子ちゃんも死んだみたいや・・・。廻りで皆が話してはった声も、段々聞こえなくなって・・・。」
****************************

事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、なかなか現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していたという。

日本のレスキュー隊が現場に到着する約12時間前には、在日米軍のヘリが既に現場に到着していたものの、「日本側が現場に向っているので帰還せよ。」という上官の指示で現場には降りなかったのだとか。(在日米軍による誤爆で、123便は撃墜されたという説も在る。)確かに、慶子さんもその事を語っている。

****************************
「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まってホバリングみたいにして・・・。

『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたら、ヘリは引き返した。『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。その内、皆話さなくなった・・・。」
****************************

「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたというが、本当にその通りだ。

日米間のセクショナリズムか、はたまた何等かの”意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(飛行機には乗り合わせていなかった)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って彼女等の面倒をみた。美少女と言っても良い慶子さんには、励ましの声と同時に好奇の目も集中したという。

ストーカーまがいの行為に長く悩まされたり、自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いたのだとか。

小田さんは、「今は色々な事故が在っても、被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、当時は全部個人でせなあかんかった。」と語っているが、当時の慶子さんは「こんな事されるんなら、あの時御母さん等と一緒に自分も死んでたら良かった。」と漏らした事も在ったのだそうだ。

被害者が、マスメディアの”煽り”で更なる心の傷を負わされる典型だろう。この構図は今になっても全く変わっていないのだから許せない話だ。

慶子さんが保健士だった母親の遺志を継いで、看護士となったニュースは聞き及んでいた。兵庫県の病院で働き始めた彼女は、1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走したという。

嘗て自らが大惨事の中に居た彼女が、同じ様な大惨事に直面し、その中でどの様な気持ちで職務を全うしたのかと思うと辛さが募る。

やがて、趣味のスキューバダイビングの為に訪れたアメリカの地で、夫となる男性と知り合った慶子さん。

中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた彼女が、その男性と結婚式を挙げたのは2002年の秋だった。

今は、会社員の夫と息子の3人で、西日本の地方都市で幸せな生活を送っている。

事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になったというが、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。

当然の事ながら、今でも心の傷は癒えていないのだろう。

事故の取材は一切受けたくないとしている慶子さん。廻り近所に”あの川上慶子さん”と知られる事も無く、愛する家族と共に送る”普通の生活”に幸せを感じている様だと小田さんは語っている。

最愛の父母と妹を一瞬の内に失ってしまった慶子さん。

そして、その後に彼女が歩んで来た苦難の道程。やっと幸せな生活を掴んだ事を知り、思わず頬が緩んだ。

これからも、亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。


日航機墜落の真相3 日航機墜落の真相は?  * 御巣鷹の山がすすり泣く2009/11/07(土) 01:57:23

 私が御巣鷹の山へ行ったとき、亡くなったところに墓標が立てられ山全体が墓のようになっているだけでなく、24年経った今でもその山がすすりないているように感じられたのです。

 行くまでこの事故原因について諸説があっても「まさかそんな」と信じられなかったのです。

 それでも実際に行ってみて、これは何か隠された事実があると思えるようになりました。

 墓標のひとつひとつが「無念であると訴えて泣いている」ようで、うまく言葉で説明はできないのですが、山全体からすすり泣きが聞こえるように思えたのでした。

JAL123便 パイロットの苦闘(総集編)オリジナルDVD60分

 そんなとき、このような記事を読みました。

http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html

2007年09月05日

●特殊部隊は墜落現場で何をしたか(EJ第1063号)
 

JAL123便が墜落したのは、午後6時56分です。それから約1時間後に、上野村三つ岐というところに自衛隊の一団が集結しはじめたのです。その数50人〜100人――彼らは何かの合図を待っているように静かに待機していたのです。

1985年8月12日のことです。
 
ちなみに、墜落現場から一番近い自衛隊の基地といえば、長野県松本市の陸上自衛隊第13普通科連隊、陸上自衛隊第12師団司令部のある群馬県相馬原の部隊です。

しかし、ここに集まってきていたのは、そのいずれでもないのです。
 
この上野村三つ岐は群馬県にあり、神流川主流に沿って浜平鉱泉・諏訪山方面から御巣鷹山付近へも、または長野県境のぶとう峠方面へもいける交通の要衝に当たります。

とくに群馬県側から御巣鷹山付近に行くには最適の待機地点といえます。
 
午後9時30分過ぎになって、JAL123便の墜落現場――御巣鷹山方向から信号弾が上がったのです。その信号弾に呼応して、上野村三つ岐に待機していたその自衛隊とおぼしき一団は整然と移動を開始したのです。

そして、御巣鷹山の墜落現場に入っていったというのです。
 
この時刻は、米軍のC−130と救難ヘリが横田基地からの連絡により、乗員・乗客の救出を断念して引き上げた時刻と一致するのです。

つまり、米軍が去るのを待っていて、信号弾を打ち上げたと思われます。彼らはそこで何をしたのでしょうか。

はっきりしていることは、救助ではないことです。
 
その一団の行動は整然として無駄がなく、特殊訓練を受けた部隊のように見えたといいます。

おそらくその一団は自衛隊の秘密部隊であると考えられます。

どこの国にもそういう部隊は存在し特殊任務を遂行するのです。
 
もうひとつ重要なことは、JAL123便が墜落した御巣鷹山一帯が、自衛隊特殊部隊の秘密訓練地帯になっていることです。

したがって、墜落場所からそう遠くないところにその秘密部隊の基地があったとしても不思議はないのです。
 
それにしても、2機の自衛隊機がJAL123便を強引に御巣鷹山付近へ誘導したことといい、墜落場所へ行く絶好の地点に少なくとも50人を超える人数を午後8時(墜落の1時間後)に集めていることといい、そこに何か意図的というか計画的なものを感じるのです。
 
池田昌昭氏によると、その秘密部隊は、墜落現場で、機体の前部・中部の様子を入念に調べ、何やら作業をしていたそうです。そして、スゲノ沢の機体後部付近で、無線交信妨害電波を出しながら、何かをやっていたといわれます。その時点ではかなりの生存者がいたと考えられますが、そういう生存者の救出は一切行ってはいないのです。

まさに見殺しです。
 
いったいこの特殊部隊は何をしていたのでしょうか。
 
JAL123便が御巣鷹山に墜落した直接の原因について、池田昌昭氏は恐ろしい仮説を立てています。

それは、自衛隊機のミサイル発射によってエンジン部分が破壊されたことによる墜落という仮説です。

あまりにも恐ろしい、考えられない推測であり、にわかには信じられない思いがあります。
 
しかし、仮にそうであったとするとツジツマが合ってくるのです。自衛隊――いや、自衛隊は一応軍隊組織であり、上の命令によって動く存在であるので、「自衛隊を動かしている存在」−つまり、政府としては、どうしても隠さなければならないものがあったのです。
 
それは、日米でひそかに開発を進めていた巡航ミサイル―――それ自体が極秘であるのに、こともあろうにその演習用ミサイルが、民間機であるJAL123便の垂直尾翼にぶつかってそれを破壊してしまったことです。
 
しかも、その痕跡がはっきりと破壊された尾翼の跡に残っているということが緊急発進した自衛隊機によって確認されているのです。

もし、JAL123便が横田基地や羽田空港などに着陸を試みたとして、大勢の人が亡くなるようなことになったら、その原因が白日の下に晒されることになる――そんなことになったら政府や自衛隊は持たないと考えて不思議はないのです。
 
この場合、「自衛隊を動かしている存在」によって一番都合が良いのは、JAL123便が、人が容易には近づけない険しい山岳地帯に激突して、機体がこなごなに破壊され、垂直尾翼の痕跡もろとも、すべてが隠蔽されることだと思います。
 
そのため、JAL123便を方向転換させ、自衛隊の特殊部隊の演習場である御巣鷹山付近の山岳地帯に誘導したのです。

しかし、JAL123便の機長は、それでも必死の不時着を試みようとしているので、ミサイルを発射して墜落させたのではないかというのです。
 
「自衛隊を動かしている存在」にとってさらに都合が良いことは、全員が死亡することでしょう。

生存者――とくにすべての事情を知る機長をはじめとする操縦クルーに生存者がいることは、「自衛隊を動かしている存在」にとって、致命的になります。
 
生存者はいない方が良い――これが米軍の救出の申し出をあえて断り、墜落場所が特定されているにもかかわらず、直ちに救出しようとしなかった理由であったとしたら、これほど人の道に外れる行為はないといえます。
 
仮にそうであったとしたら、墜落現場での自衛隊特殊部隊の任務は、機体の墜落状況の調査、ミサイルで粉砕されたあらゆる痕跡の回収――とくにミサイル痕が残っている遺体の回収、垂直尾翼の痕跡の除去などになります。
 
とくにコックピット内は焼き尽くされ、何もなかったし、操縦クルーの遺体はなく、ただ歯が残されているのみという状況であったといわれます。

いかに激しく地面にぶつかったとはいえ、遺体の一部は残るはずであるし、コックピット部分には燃料タンクはないのに焼け爛れていたといわれます。それは、まるで火炎放射器で焼いた跡のようであったといいます。

機首前部付近では「遺体がない」という声が相次いだといいます。
                       ・・・[御巣鷹山事故の謎/13]

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Author:熊木和枝:東京都練馬区
 和順庭という庭のガーデニングを趣味としてやっています。高校教師をやめて、ガーデニングのブログを書いていたのですが、小沢問題から真実を調べているうちに、マスコミや検察自体がおかしくなってきていることに気づき、ブロガーたちと検察の捏造や冤罪を追究し、ついに村木局長事件では無罪判決を得ることができました。最近は、市民の立場で真実を追究する政治的内容が多くなってきています。


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和順庭の四季おりおり
私たちの庭:和順庭の四季おりおりを写真と随筆でつづります。
2 日航機墜落の真相は? * なぜ御巣鷹山へ行ったのか?2009/11/05(木) 01:10:45

なぜ私が御巣鷹山へ行ったのかというと、最近この日航機墜落の原因について疑問視するブログが多くなっているからだ。

 そして、行ってみて発表されている事故原因と違うとすると  亡くなられた方々のためにも真相を究明せねばと思った。

 アメリカボーイング社の修理ミスということになっているが、実は日本の自衛隊のミサイル誤射によるものであり、自衛隊のミスを隠蔽するために救助隊を他の山に落ちたとの情報を流し、時間かせぎをしてすぐに救助に向かわせず、その間にミサイルなどの証拠をわからなくさせたというものである。

 実際に御巣鷹山へ行ってみてわかるのは、墜落現場となっていた尾根は、見晴らしがよく、ここに日航機が墜落したのなら、上空から飛行機やヘリコプターから見れば、すぐに発見できるということである。

 なおこの日航機の事故に関して、かなり詳しく書かれたサイトを見つけたので、ご紹介します。随時、そのサイトから引用させていただきます。
 そのサイトの先頭は下記で、この1051号

再現/御巣鷹山飛行機事故の真相(EJ第1051号)

から

賞賛されるべきスチュワーデスの沈着冷静さ(EJ第1079号)

まであります。

----------------------
 世間に出回っているこの事故の謎・疑惑

*公式的な事故原因である圧力隔壁破壊説に明らかにおかしい点がある
*日本側の救出部隊の動きがあまりにも遅かった
*救出隊を足止めした
*事故後すぐに現地に急行した在日米軍に日本政府が救出活動の許可を与えなかった
*ボーイング社の見解が事故直後と1ヶ月後とで大きく異なっていること
*ボイスレコーダーが非公開になっていること
*エンジンがバラバラになりすぎている
*乗客の遺体の損傷が激しすぎる
*事故直後に日航の技術者が現地入りしている
*何者かが偽装した捜索隊があった(?)
*生存者救出よりも先に自衛隊が事故現場から謎の物体をヘリで搬出していた
*墜落直後、4人の生存者の他にも生存者がいたのに死者は全員”即死”扱いになっていること
*ジャンボ機の部品にあるはずのないものが事故現場から発見されている(?)
*相模湾から見つかった垂直尾翼に衝突痕(オレンジ色付着)があった
*自衛隊が民間の救助隊を追い払った
*事故現場一帯を警察ではなく、自衛隊が支配していた
* 自衛隊所有の無人標的機の写真
http://cat.zero.ad.jp/~zak46939/_osutaka/osutaka5.html


 
墜落するまで

http://akiba.geocities.jp/hitumabusi6979/a-nittkouki.html
 
 1985年(昭和60年)8月12日午後6時24分、羽田発大阪行き日航123便(ボーイング747SR)機が、離陸してまもなく大島西方上空付近で機体の異常を訴え始めた。

以降、32分の飛行の後、午後6時56分すぎ、群馬県上野村の山中に墜落し大破炎上した。単独機の墜落事故では世界最大とされる。

当初は乗客・乗員524名全員が死亡したと思われていたが、女性4人が生存していた。
 
生存者の証言から、最後部では墜落直後かなりの人が生存していたと考えられている。

そのため、とりわけ正確な場所への到着に時間がかかり、地元猟友会・消防団の案内を無視した群馬県警、夜間降下命令のない自衛隊、在日米軍の援助拒否などの「現場到着・救出までの時間の空費」に批判が集中した(放射能汚染を警戒したことや命令系統の縦割りの問題もあったと見られる)。
 
事故原因を調査して1ヶ月、ボ社は1978年にしりもち着陸事故を起こした際の修理が不適切だったことを認めた。

運輸省航空事故調査委員会(事故調)は「ボ社の不適切な修理によって圧力隔壁が金属疲労で弱体化し機外に噴出、油圧装置や垂直尾翼が破壊されて操縦不能になった」と結論付けた。

その際、機内に急減圧が発生したとされるが、CVR記録や生存者の証言から急減圧が発生したのかについて当初から疑問を持つ声が多く、この結論に疑問を持つ専門家や遺族らは再調査を求めている。検察は業務上過失致死で捜査をしたが、「刑事責任を問うのは困難」として不起訴処分とした。

8月12日事故発生から救助まで

18時24分 ドーンという音が発生

18時25分 123便、東京ACC(東京航空交通管制部)にEMG(緊急遭難信号)を報告。東京ACC、123便の羽田帰還要求を承認

18時25分 空自峯岡基地第44警戒郡123便をレーダーで確認

18時27分 東京ACC、123便に緊急事態宣言を再確認。東京ACCの「どのような緊急事態か」の問いに対し123便は沈黙

18時28分 123便から「操縦不可能」と伝えられる→羽田空港航務課に航空機救難調整本部(RCC)が置かれ、緊急着陸の準備が始まる

18時30分 米空軍C―130H輸送機、123便のEMGを傍受

18時31分 日航オペレーションセンターに緊急連絡

18時40分頃 東京ACC、横田基地へ緊急着陸準備を連絡する。嘉手納基地から横田基地へ向かう途中の在日米軍所属C−130輸送機が123便緊急事態発生の無線を傍受

18時56分 123便、「御巣鷹山の尾根」に衝突する

18時56分2秒123便のレーダー機影消失。横田基地、C−130に捜索を依頼

18時57分 峰岡山基地の吉田勝一尉123便消滅を中部航空方面隊司令部防衛部長の大中康夫一佐を通じて松永貞昭司令官に伝達「北緯36度02分東経138度41分」

18時59分 羽田の航空機救難調整本部(RCC)123便消滅情報入手。その報は救難調整本部、自衛隊、警察庁外勤課、海上保安庁警備救難課、運輸省航空局管制保安部運用課に流される

19時1分 大中一佐、松永空将の了解を得てスクランブル発信命令。空自、自衛隊レーダーサイトの提案を受けて茨城県百里基地から捜索任務のため2機のF−4EJ戦闘機(第305飛行隊=式地豊司尉ら)が緊急発

19時13分 時事ファックス「東京発大阪行きの日航123便がレーダーから消えた」の至急報

19時15分 米空軍C―130H輸送機、雲の下に煙を発見

19時19分 C−130H、墜落現場を発見「1919 Large fire from Yokota, 305, 34.」(午後7時19分、横田から方位角305度方向、34マイルの地点で大きな火災を発見)

19時21分 空自百里基地のF−4EJ2機も墜落現場を確認「炎を確認。横田タカンから300度、32マイル」

19時26分NHK、事故の速報を流す

19時30分 中村守雄陸上幕僚長、東部方面総監部(増岡県総監)に災害派遣要請

19時35分 長野県警警備二課に日航機墜落事故総合対策室設置。事故に関する情報の収集を各警察署に指示。 臼田署が南佐久郡北相木村を中心に捜索を開始

19時45分 運輸省航空局長室に「JAL123便対策本部」が設置。藤波官房長官が首相官邸に戻る

19時47分 中曽根首相が軽井沢から公邸に戻る

19時50分 長野県警警備2課内に日航機墜落事故対策連絡本部、臼田署に日航機墜落事故対策本部、北相木村役場内に日航機墜落事故現地指揮本部が設置される

19時54分 空自百里救難隊のV−107ヘリ、正確な位置のため発進。災害派遣出動要請なし ※20時33分に災害派遣要請が出る

19時58分 空自百里MU2S発進

20時00分 群馬県警警備2課に日本航空機行方不明事故対策室が設置される

20時16分 政府対策本部の設置決定。日本アイソトープ協会から「事故機に医療用ラジオアイソトープ(放射性物質)が92個積載されていた」と警察庁に届け出がでる

20時21分 長野県と群馬県の県境にあるぶどう(武道)峠より200メートル群馬県側に入った長野県警臼田署のパトカーから「埼玉県と群馬県境あたりに黒煙が見える」との通報が長野県警本部に入る(地上からの最初の公的目撃報告)。長野県警、ぶどう峠・三国峠(ぶどう峠の南東方向・埼玉県、長野県の県境)付近で捜索・聞き込みを始める

20時30分 米空軍C―130H上空旋回、同空軍UH1救難ヘリを誘導。朝日新聞社のヘリ「ちよどり」羽田発進

20時30分すぎ日航対策本部に高木社長ら役員がそろう

20時33分 羽田の航空機救難調整本部(是枝孝空港長)から航空自衛隊中部航空方面隊司令部(入間)に災害派遣が要請される ↓
20時40分 中空司令松永空将、入間基地を非常召集、30人を先遣隊として出発

20時40分ごろ防衛庁内に対策本部が設置

20時42分 航空自衛隊百里救難隊のV−107ヘリが墜落現場上空に到達。「150〜200メートルにわたって山腹炎上、位置は横田タカンから299度、35.5マイル」と報告

20時50分 厚木米海軍航空隊基地からの海兵隊救難チームがUH−1ヘリで墜落現場上空に到着。墜落現場付近に海 兵隊員2人をラペリング(ロープを使った垂直降下)で降ろそうとするが横田基地司令部からの帰還命令(理由は「日本の救助隊が現地に向かっているから」)を受け中止。それまで上空で旋回していたC−130と共に基地へ帰投

21時0分 長野県警、群馬側と確信。群馬県警。上野村の藤村輔二郎猟友会会長に道案内を依頼

21時6分 朝日ヘリ「ちよどり」が墜落現場上空に到達 

21時10分 朝日ヘリ 「ちよどり」、現場撮影

21時20分日航、搭乗者名簿を発表。この間羽田東急ホテルに乗客の家族が集まる

21時25分 「日航救援隊」(日航現地派遣団)がバスで羽田を出発。しかしお盆の帰省ラッシュに巻き込まれる
↓ 
21時25分 「ちよどり」現場計測「羽田から304度方向60マイル群馬側」 

21時30分 群馬県警警備2課の日本航空機行方不明事故対策室、日本航空機行方不明事故対策本部に切り替え。陸上自衛隊に災害派遣出動要請が出る。12偵察隊、13連隊情報小隊が出動。航空自衛隊熊谷基地から地上部隊の先遣隊10人が出発 

21時30分 是枝空港長、東部方面総監部に災害派遣要請。陸自第12偵察隊(相馬原)と第13普通科連隊情報小隊(松本・小川二尉)計14名出発。読売ヘリ127号機、現場撮影

21時39分 長野・埼玉遼県警パトカー、三国峠西北西で赤い煙発見。NHK―TV「御座山中腹で煙を見た」とぶどう峠からの目撃談を報道→日航・警察に通達され、御座山へ移動開始 

21時50分 NHKが目撃証言として北相木村の御座山(長野県)に落ちたと報道。その一方で長野、埼玉両県警のパトカーが目撃情報から墜落地点は群馬側と判断する 

21時50分 空自百里MU2S現場写真撮影 

21時56分 自衛隊空幕が運輸省に運用課に峯岡山のレーダーから消滅した「北緯36度02分東経138度41分」の位置→御座山北斜面」と連絡

21時59分 自衛隊空幕が運輸省運用課へ「千葉県嶺岡山のレーダーから消えた位置は北緯36度2分、東経138度41分」と連絡する。「墜落現場の位置は長野県北相木村の御座山北斜面に確定した」という情報が自衛隊、日航、警察庁、長野県警に流され、現地付近で捜索していた警察は御座山へ移動

22時03分 NHK―TV「御座山北斜面で炎上中」と報道。日航も「御座山北斜面」と正式に発表 

22時05分 朝日「ちよどり」羽田格納庫で墜落地点の計測「三国山の北方5km群馬側」

22時15分日航職員の現地派遣団第3陣が羽田を出発 

22時30分 政府対策本部が設置される 

22時50分 日航、札幌・大阪地区にも対策本部を設置。朝日「ちよどり」羽田発進再度現場へ 

23時00分 首相官邸で政府対策本部の第1回会合現場未特定。群馬県警、上野村山間部の小倉山付近の民家に対して聞き込みを開始。群馬県警、上野村に1000人投入通知 

23時30分 長野県警「現場は群馬と特定している@御座山で残骸見つからずA上野村のほうへ飛んでいったby菊原孝雄氏」と報告。群馬県警「北偉36度02分東経138度41分by自衛隊」を頼りに船坂山東側の「マムシ岳」付近の捜索開始→群馬県警機動隊、御巣鷹山方面に向かって捜索を始める 

23時35分 朝日「ちよどり」現場到着 

23時45分 防衛庁に「御座山ではなく群馬県側の可能性」の情報が入る 

8月13日

0時00分 警視庁機動隊員200人と埼玉県警機動隊員222人が群馬県警に到着する

0時5分 防衛庁で山下徳夫運輸大臣主宰の第一回日航機事故対策会議が始まる。航空自衛隊のMU−2救難機及びV−107ヘリが再度出動する

0時36分 群馬県警、上野村役場に現地対策本部を設置。出動人員は他県からの応援を含んで1086人になる。空自入間V−107ヘリ(金子正博一尉)発進

1時00分 空自V−107墜落現場上空に到着し、位置を計測。「入間から291度、36.3マイ ル」と報告→長野県警のパトカー誘導をするも現場確認できず失敗。空自静浜から115人が基地出発

1時5分 羽田東急ホテルから乗客の家族300人を乗せた第1陣のバスが長野県小海町の日航現地連絡本部に向けて出発

1時15分 空自入間本隊548人が基地から出発

1時30分 陸上自衛隊第13普通科連隊情報小隊・第12偵察隊が北相木村に到着、御座山北斜面の捜索開始。中空司令部、空幕運用課に未確認情報として「ぶどう峠から210度3マイル御座山南斜部から1キロ」と連絡

1時35分 日航派遣団第1陣が長野県南牧村到着、北相木村に入る 

2時00分 市ヶ谷の東部方面総監部から陸上自衛隊大宮駐屯地の科学学校に災害派遣準備命令が下る

2時00分空自熊谷本隊91人が基地から出発

2時15分 朝日新聞最終確定版「群馬・長野県境で炎上」、読売新聞「御巣鷹山(群馬・長野県境)付近に墜落」の見出し

2時20分 防衛庁、在京社会部に電話で御座山南斜面頂上から1キロ」と連絡←ホントかよ・・・

2時30分 羽田の捜索救難調整部(RCC)から海上保安庁運用司令室に「ドアがはずれた場合乗客が機外に吸い出される可能性がある」と通報。その情報 は第3管区海上保安部に伝えられ、駿河湾で行動中だった巡視船「おきつ」・下田港にいた「まつうら」・清水港の「しずかぜ」が捜索を
開始

2時37分 陸自立川HU1、映像伝達装置付で相馬原へ向かう 

3時4分 群馬県警機動隊、船坂山南・中ノ沢林道行き止まり地点から長野県境へ向けて捜索を開始

3時25分 北相木村役場に日航現地派遣団の藤野団長が到着、長野県警と対策を協議する。陸自第13連隊の本隊第12戦車大隊、第12施設大隊到着、第12師団長・合原陸将「夜明けを待って行動開始」決定・陸幕了承する

3時30分  空自先遣隊10人北相木村到着 

3時40分 日航現地派遣団、北相木村役場内に現地対策本部を設置

3時45分 NHK―TV「御座山南斜面」と報道する 

3時49分 陸自立川HU1、映像伝達装置付で相馬原へ向かう 

3時50分 空自入間先遣隊北相木村小学校到着 

3時56分 空自V−107ヘリが入間基地を離陸する

3時59分 陸自OH6が駐屯地発進 

4時30分 北相木村役場付近に集結していた自衛隊約700人がぶどう峠から東へ移動する。朝日「ちよどり」三度羽田発進。地元消防団の一部が墜落現場に向かう 

4時39分 防衛庁発表「V―107三国山西約3キロ、扇平山北約1キロ」、V−107ヘリ、墜落現場上空に到着し123便の残骸を発見 

4時50分 科学技術庁「アイソトープは人体に支障なし」と発表
4時50分 空自入間本隊548人が基地から出発

4時55分 陸自立川HU1「三国山北西約2キロで機体視認」

5時5分 群馬県警藤岡署から藤岡市総務部長の自宅に遺体収容所や家族待機所の提供要請が入る 

5時10分 防衛庁発表「御座山東方約5q」。陸上自衛隊のOH−6ヘリが墜落現場を確認

5時33分 V−107ヘリの「三国峠の340度3〜4キロ3qで機体確認」と報告 

5時37分 長野県警のヘリ「やまびこ」が墜落現場を確認する。「御巣鷹山南南東約2q、県境から東方に700m。現場は群馬県側」と報告 

5時40分 空自熊谷本隊91人北相木村役場到着

5時45分 陸上自衛隊第12師団の発表「御座山東7q、南4qの地点に白い尾翼発見。さらに500メートル離れたところに黒こげ物体発見。12師団は1000名出動。長野県警の発表「御巣鷹山南南東2q、県境の東700mのところに墜落物体発見」。上野村消防団員に出動命令が流れる
↓ 
5時50分 空自百里RF4E偵察機2機、写真撮影で発進 

6時15分 陸自立川HU―1東部方面総監部に映像伝達

6時30分 陸自東部方面総監部に現場の画像が届く→ラペリング=垂直降下(地面に垂直なロープによって人員を降ろすこと)で降ろすことに決定、習志野駐屯地第1空挺団の編成開始
↓ 
6時40分 空自静浜115人北相木村小学校到着 

6時50分 日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろした方が得策」と現地派遣団から連絡が入る

7時00分 群馬県警機動隊40人が上野村猟友会会長の案内で本谷林道から現場へ向かう。上野村消防団の全8分団も中ノ沢と本谷の2つの林道に分かれて現場に向かう。松本連隊情報小隊14人が長野県側から入山する

7時10分 海上保安庁、航空機で海上捜索 

7時30分 日航対策本部に「遺体は群馬県側に下ろす。検死は上野村小学校で行い、遺体の安置は藤岡市民体育館、遺族休憩所は安置所付近」と警察庁の指示 ※結局全て藤岡市民体育館になった

7時54分 習志野第1空挺団(重高昭教一佐)73人ヘリで発進 

7時55分 長野県警ヘリ「やまびこ」に乗り込んだ長野県警レスキュー隊の隊員2人が現場から2,3q下流の沢にロープを使って降下

8時35分 警視庁ヘリ「おおとり」上野村からレンジャー8人乗せ現場へ

8時49分 第1空挺団、墜落現場に直接ラペリング降下を開始

9時00分 山下運輸大臣による第2回対策会議 

9時25分 長野県警レスキュー隊の2人が水平尾翼の落下現場に到着する 

9時30分 第1空挺団、陸幕に「降下地点、目下生存者なし」と報告。上野村消防団第5分団が墜落現場に到着。松本連隊情報小隊14人が墜落現場直前に到着

9時48分 藤岡公民館に日航対策本部が設置される

9時54分 第1空挺団73人の降下が完了 

10時00分 政府第二回対策本部会議 

10時15分 群馬県警機動隊が墜落現場に到着 

10時15分 立命館大学の深井教授一行4人が墜落現場に到着

10時20分 警視庁ヘリ「おおとり」のレンジャー部隊8人、遺体捜索 

10時40分 長野県警レスキュー隊の2人が墜落現場に到着する。スゲノ沢に降りる途中に上野村消防団5・6人と合流

10時40分 空自YS―11、現場上空で管制活動 

10時45分 第12師団第3次偵察部隊(関根貞夫二尉、小林幹夫一曹)の2人と第1次隊の2人が墜落現場に到着 ※報道陣らも「参入」

10時54分 長野県警レスキュー隊員が生存者を1人発見 

11時00分 第12師団偵察部隊、上野村消防団と合流し上方の空挺団に生存者発見を連絡 

11時3分 長野県警レスキュー隊員が生存者を2人発見 

11時5分 長野県警レスキュー隊、猟友会・上野村消防団が生存者を1人発見

11時30分 現場からのテレビ生中継が始まる。日航現地本部、北相木村から上野村へ移動 

11時45分 政府対策本部から日航に「運輸大臣、航空局管制保安部長、官房副長官らが現地に向かう予定」と連絡が入る

12時30分 日赤の医師1人、看護婦3人がヘリコプターで墜落現場の尾根に到着、生存者の応急処置を開始 

12時45分 運輸省から日航に「事故調査委員会12人をヘリで現地に派遣する」と連絡が入る 

13時29分 生存者4人の自衛隊ヘリつり上げ収容開始 

13時40分 高木日航社長が藤岡市公民館現地対策本部に到着する 

14時8分 生存者2人(吉崎博子さん、落合由美さん)を乗せた自衛隊のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸 

14時12分 生存者2人(川上慶子さん、吉崎美紀子さん)を乗せた東京消防庁のヘリがが藤岡市立第1小学校のグラウンドに着陸 

14時13分 先の生存者2人が多野総合病院に着く。後の2人も同じ病院に搬送され応急手当が始まる 

15時21分 川上さんが国立高崎病院に移送される

16時15分 遺体安置所が第1小学校体育館と藤岡市市民体育館に変更 

17時00分 山下運輸相、藤岡北中学校で遺族に対し陳謝。運輸省航空事故調査委員会、13日の調査を実施しないことに決定
 

 
 この救助が遅れたことについて、このように書かれているブログがあります。

自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)


http://intec-j.seesaa.net/article/53856463.html


2007年09月04日
●自衛隊はなぜ米軍の救助を断ったか(EJ第1062号)
 1994年9月25日のことです。テレビ朝日「ニュース・ステーション」では「米軍幻の救出劇」と題して、御巣鷹山日航機墜落事故関連の番組を放映しています。
 
1985年8月12日当日、沖縄嘉手納基地から横田基地に帰投中の米軍C−130輸送機は関東南A空域にさしかかっていたのです。

そのとき、同機のマイケル・アントヌッチ航法士(ナビゲーター)は、横田基地からJAL123便の探索命令を受けたので、一帯を捜索した結果、午後7時30分前にJAL123便の墜落現場を確認しています。


番組では、マイケル・アントヌッチ航法士が次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       あたりはちょうど夕暮れだったが、地面はまだ見える明るさ
      でした。燻る機体も炎も見えた。  ――アントヌッチ航法士
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米軍C−130のジョン・グリフィン機長は、JAL123便の残骸の上空600メートルで旋回飛行をし、横田基地からの位置を測定し、20分後には正確な墜落場所の位置を横田基地に知らせているのです。
 
 午後8時30分になって、横田基地からC−130に再び連絡が入り、「60キロ離れた米陸軍キャンプ座間から救難ヘリUH−1が、そちらに向かっている」と知らせてきたのです。
 
やがて救難ヘリUH−1は飛来し、乗員2人を下ろそうとして木の梢から15メートルのところまで降下したのです。

そのときC−130に横田基地からいきなり「直ちに基地に帰還せよ」という命令が入ったのです。
 
しかし、ヘリは「救助に入りたい」――と連絡。これに対して、横田基地の司令官は「日本側の救助隊が向かっている。

繰り返す直ちに基地に帰還せよ」と短兵急に帰還を命じたのです。

時刻は午後9時20分――地上に降りかけていたヘリの乗員も再びロープを登ってヘリに戻り、救難ヘリも去っていったのです。

そしてC−130は横田基地に帰還するのです。
 
横田基地で待っていたのは、第316戦術航空団のジョエル・シルズ副司令官――グリフィン機長が報告を終えると、シルズ副司令官は「良くやった。

しかし、このことは一切マスコミには話してはいけない」といったといいます。
 
 このヘリの音を生存者の落合由美さんは聞いており、次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       やがて真っ暗闇のなかに、ヘリコプターの音が聞こえたので
      す。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていまし
      た。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で 右
      手を伸ばし、振りました。けれど、ヘリコプターはだんだん、
      遠くに行ってしまうんです。このときもまだ何人もの荒い息遣
      いが聞こえていたのです。 ――――――― 落合由美さんの証言
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 このように、1994年9月25日の「ニュース・ステーション」は、日本側の都合による米軍救援活動中止要請が事実であることを報道しています。何ということでしょう。

米C−130は午後7時30分に墜落場所を特定し、20分後には横田基地に正確な墜落場所を知らせているのです。もちろん日本側にもその時点で伝えられています。
 
 それなのにテレビでは、次の日の朝まで墜落場所を特定できていないと報道しているのです。これは明らかに意図的です。

加藤紘一防衛庁長官(当時)にいたっては、12日の夜に墜落場所の上空までヘリで飛来しながら救援を指示せず、次の日の朝まで放置したのです。
 
 C−130の航法士、マイケル・アントヌッチ氏は『週刊文春』1995年9月28日号でも次のようにいっています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       あの飛行機事故のことは、10年経った今も脳裏に焼き付い
      て離れない。JAL123便が管制塔に『緊急』を告げたとき
      たまたま近くを飛んでいた。

       現場はすぐに確認できた。墜落2時間後には、アメリカ海軍      (陸軍?)の救助ヘリが着いた。

      あの時、ストップがかからなければ、もっとたくさんの人が助か      っていたに違いない。日本の救援隊が現場に着いたは、その14      時間も経ってからというではないか。 ――『週文春』1995年      9月28日号より。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して防衛庁は、米軍ヘリが墜落現場上空に到着し、救助寸前であったことについて次のように否定の見解を示しているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「米軍ヘリが現場上空に飛来した事実は認められない」
                        ―――― 防衛庁
       「当時の記録がないので、ノーコメント」
                      ―――― 米国防総省
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 そのうえ、自衛隊の松永貞昭中部航空方面司令官(当時)は次のようにコメントしているのです。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「夜間でしかも急斜面への降下は自殺行為である」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 これに対して、米陸軍救難ヘリのスタッフは次のように反論しています。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       「陸軍のヘリにはサーチライトはもちろん、1980年代
       から、夜間暗視装置を標準装備しており、夜間でも急斜面
       でも、救急隊員であれば、だれでも降下できる」
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 その頃、墜落場所付近では奇怪なことが起きていたのです。
                  ・・・[御巣鷹山事故の謎/12]

 
007年09月03日

●墜落場所は早くからわかっていた(EJ第1061号)
 
 JAL123便を御巣鷹山に誘導した2機の自衛隊機の存在はこの件に関するマスコミ報道では完全に伏せられています。

しかし、この2機の自衛隊機を目撃した人物がいます。その人物とは、角田四郎氏といい、事故当日大月付近でキャンプをしていて目撃したというのです。

後になって、角田氏は、JAL123便事件解明のため『疑惑/JAL123便墜落事故』という本を出しています。この本から、角田氏自身の目撃状況をご紹介します。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
       このとき私は日航123便を目撃していた。[山梨県大月市
      と神奈川県相模湖の中間地点の]東から南へ、南から西へ旋回
      しようとする地点である。18時42分頃になる。
       
       そして、44分か45分頃、ループ飛行を終えて東へ向かっ
      たであろう頃の日航機を追うように、東へ向かう2機の自衛隊
      機を私は見た。
       
       その時また飛行機が見える。木の間に見え隠れしていたが、
      私は「エッ」と驚きの思いで立ち止まって見つめた。しかし、
      今度はごく小さな機影で、北西に向かって夕焼けの中をどんど
      ん小さくなってゆく。

       「あれはさっきの飛行機[JAL12便]じゃないな」と思       い、ふたたびバンガローへの坂道を登ていった。この間5〜6分      の出来事である。――角田四郎著、
         『疑惑/JAL123便墜落事故』より。早稲田出版刊
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 2機の自衛隊機の目撃情報は角田氏だけですが、防衛庁側はこれに対して何もコメントしていません。

自衛隊機がこの付近の空を飛んでいても別に不思議ではないからです。

角田氏自身もあとでJAL123便の墜落を知って、自衛隊機とJAL123便とをはじめて結びつけたのです。

ところで自衛隊機はどのようにして、JAL123便の進路を変更させたのでしょうか。
 
 自衛隊機は無線で直接JAL123便と交信して旋回するよう指示したか、あるいは、航空基地を経由しての交信により横田基地に着陸しないよう伝えたはずです。
 
 おそらくJAL123便の機長は、あくまで横田基地着陸を訴えたはずです。機長が当初「羽田に戻りたい」といったのは、羽田空港の方が、救急医療体制が整っているからです。

 いずれにしても、まともな着陸はできないと考えていたのでしょう。
 
 しかし、機を完全にコントロールできないこともあり、この時点では横田基地しか選択肢はなかったはずです。とにかくボイスレコーダには、自衛隊機とのやりとりは記録されていないので、推測するしかないのですが、もしかしたら自衛隊機の指示を拒否したことも考えられます。
 
 このことを裏付けるようにJAL123便は横田基地に向けて高度を下げつつあったのです。そこで、自衛隊機はJAL123便の前方に出て、飛行進路を遮断するなど妨害し、埼玉・長野・群馬の県境の山岳地帯に向かうよう強引に左旋回飛行指示を出しているのです。
 
 これに対して、JAL123便の機長は、あくまで「ターンライト」を主張して抵抗しています。しかし、結局、横田基地から北方向に向かわされ、御巣鷹山に入っていくことになります。この2機の自衛隊機の存在を肯定すると、JAL123便はエンジンの出力調整によって何とか左旋回できたことになります。
 ここで奇妙なことは、JAL123便は何者かにミサイルなどで攻撃され、垂直尾翼を破壊された「被要撃機」になっているという事実です。
 
 この場合、既に述べたように、自衛隊による日本の防空上の規定では、スクランブルをかけられた領空侵犯機と同じ扱いになることです。もし、領空侵犯機がスクランブルをかけた軍用機の指示に従わないときは、攻撃してもよいことになっているのです。
 
 このようにして、JAL123便は、2機の自衛隊機によって御巣鷹山のある山岳地帯に入っていくのですが、どのようにして墜落したのかについては、あとで明らかにするとして、墜落直後の状況について述べることにします。
 
 墜落事故のあった1985年8月12日――私は今でも鮮明に覚えていますが、テレビでは夕方から大騒ぎになり、安否を気遣う乗客の家族や知人が続々と羽田の日航の事務所に押しかけて、ごった返していたのです。
 
 しかし、JAL123便の行方はわからず、つねに日航側の発表は「捜索中」の繰り返しだったのです。私は13日の午前2時頃まで起きていて、テレビを見ていましたが、とうとう朝になるまでわからなかったのです。
 
 しかし、今となって考えると、これは実に奇妙な話なのです。というのは、JAL123便は墜落直後からその場所は特定されており、自衛隊機をはじめ、米軍機もその墜落地点の上空までは行っているからです。
 
 当時の防衛庁長官であった加藤絋一氏は、当日夜、救難ヘリコプター・バートル107で現場上空に飛んでいるのです。

 これを受けて防衛庁では13日の午前0時5分から、緊急会議を開いています。出席者は、加藤長官以下、内局幹部、陸幕長、空幕長です。ですから、加藤長官はそれ以前の時間に――午後9時頃ではないかと考えられますが、墜落現場の上空までヘリで視察しているのです。しかし、少なくともそのとき、乗客・乗員の救助は行われていないのです。
 
 もちろんその間テレビでは相変わらず「捜索中」が繰り返されていたのです。なぜ、発表しないのでしょうか。

 なぜ、墜落場所が特定できていたのに、なぜ、いち早く救助に向かわなかったのでしょうか。
 
 こういう問いかけに防衛庁、政府関係者は完黙の構えです。だからこそJAL123便の墜落事故に自衛隊が深くコミットしていたと考えざるを得ないのです。


日航機墜落の真相1 日航機墜落の真相は?  御巣鷹山へ行って2009/11/03(火) 09:48:07
御巣鷹山昇魂の碑


 世界最大の航空機事故。あのジャンボ日航機が墜落した御巣鷹山へ行くことにしました。
途中、高坂サービスエリアでモーニング。雪をかぶった富士山がきれいに見えたので、記念撮影したのですが、あいにく写真にはうつっていませんでした。


風が冷たくて、寒い日です。


さらに車を走らせます。

空も山も秋から冬へ。
関越自動車道から上信越自動車道へ。「下仁田」で下りると景色のよいところがあったので、記念撮影。

下仁田ねぎが植えられています。

             

下仁田」といえば、ねぎとこんにゃく。南牧村で、下仁田ねぎを買いました。

川でひとやすみ。きれいな石が沢山ありました。

山も紅葉しています。

   

急に寒くなったので、いっきに紅葉したのかもしれません。
     

紅葉がきれいです。

山道を行くしたがって、山に雪が見えるようになりました。


上野村へ。慰霊の園と御巣鷹の尾根の場所を聞きました。

慰霊の園。520人もの乗客が亡くなられた慰霊碑にろうそくとお線香を。

誰もいないかと思ったのですが、私達の他にもお参りに訪れている人がいました。

      

 


 御巣鷹山の登り口。昨日雪が降ったとのことで、雪道を尾根まで行きました。

途中、アメリカ事故調査委員会のジム・バーネット氏の言葉が刻まれた碑がありました。

「御巣鷹の尾根登山で、私は霊感を受けました。途中、私達はいつも沢沿いに登りましたが、私には、何か水の流れが私達に語りかけ、登山をはげましてくれているような気がしました。そして私の願いは、あの御巣鷹の尾根で、又、他の、7つの大陸の全ての墜落現場で、亡くなられた方々への想いが、こんなことを二度と起こさせまいとする私達の努力に、いつまでも力を与えて下さることです。ジム・バーネット」
http://kobacho-niwaijiri.at.webry.info/200910/article_1.html

休みながら雪道を尾根へ。尾根へ近づくにつれ、山のいたるところに亡くなられた方の名と享年を刻む墓標が見受けられるようになり、しだいにこの山全体が520人の眠る悲しみの山であるということがわかると、胸にこみあげてくるものがあります。

尾根へでると、昇魂の碑が。


飛行機が突っ込んだところに、昇魂の碑と観音さまが。


遭難者遺品埋葬の碑


ヘリコプターの着陸のために平らになっているところがあり、休憩用のベンチが置かれています。その場所からの眺め


山を管理をされている地元の人と話し、さらに教えられたとおり沢のへ行くと、亡くなられたところに立てられた無数の墓標が。焼け焦げた木の幹もそのままあります。

この山は、祈りの山です。なんだか重苦しい気持ちになり、また昇魂の碑のところへ戻り、山を下りることにしました。

帰り道


来たときにはこの山がこれほど何かをものがたるような山だとは思わなかったのですが、幼い子供や若者、お年寄り、新婚旅行や家族旅行などなど520人もの亡くなった方々の人生や残されて慰霊登山されている者の気持ちを思うと、帰り道の雪道は何かやりきれない思いでいっぱいでした。


日航機事故のことについては、またあらためて書こうと思っています。

帰りにいくつものトンネルを抜けたのですが、そのトンネルとトンネルの間にダム湖がありました。

上野ダムです。

ウィキペディア(Wikipedia)によると
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E9%87%8E%E3%83%80%E3%83%A0

「上野ダム(うえのダム)は群馬県多野郡上野村、一級河川・利根川水系神流川の最上流部に建設されたダムである。

東京電力が管理する発電専用ダムで、高さ120.0メートルの重力式コンクリートダムである。全面稼動すれば日本最大の発電能力を持つ水力発電所・神流川発電所(かんながわはつでんしょ)の下部調整池として、上部調整池である南相木ダムと共に揚水発電を行うことで最大280万キロワットの電力を生み出す。ダムによって形成された人造湖は奥神流湖(おくかんなこ)と命名された。」

「ダムは神流川の最上流部、日本航空123便墜落事故の事故地点となった御巣鷹の尾根の直下流に建設された。ダムの名称は所在地である上野村より命名されている。」


あたりの山は紅葉していて、その山に囲まれるようにダム湖はひっそりしずまりかえっています。


上野ダム  御巣鷹山の地下500mにつくられたダム。
http://apu.blog.so-net.ne.jp/2009-10-17


このあたりは手つかずの自然が残っていたところでした。湖底に村は沈んでいないということです。


事故後道路整備やトンネルができただけでなく、ダムなどかなり上野村は開発されたようです。

日暮れた山道を車を走らせ、花園インター近くの「徳樹庵」で味噌ほうとうを食べて帰りました。

冷えた体があったまって、何かひと息ついた気になりました。

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Author:熊木和枝:東京都練馬区
 和順庭という庭のガーデニングを趣味としてやっています。高校教師をやめて、ガーデニングのブログを書いていたのですが、小沢問題から真実を調べているうちに、マスコミや検察自体がおかしくなってきていることに気づき、ブロガーたちと検察の捏造や冤罪を追究し、ついに村木局長事件では無罪判決を得ることができました。最近は、市民の立場で真実を追究する政治的内容が多くなってきています。


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コメント
 
01. 2014年3月28日 03:19:00 : jm211NA3PY
徳川家の本家さんのブログのようである。


明日のために
http://nanairomou77.blog.fc2.com/blog-entry-1644.html#end


W政府は2014年度から、自衛隊のパイロットに、民間航空会社への転身を促す制度を再開する方針を固めた。W

また、日本航空機123便の悲劇を繰り返す計画がありますね?

海上自衛隊の自衛官たちの定年は、40歳だという事を私は知っています。

日本航空機123便を操縦していたパイロットの方は、海上自衛隊から日本航空へ転身された方です。

そして、そのパイロットの方の脳内には電磁コイルが埋め込まれていた。

今もある岐阜県の海上自衛隊でありながら・・・航空自衛隊と名乗る部隊であり、防衛省が特別な場所として、自衛官たちの脳内に特殊な電磁コイルを埋め込んで行ってきた特殊部隊なのです。

つまり・・・1985年に起きた日本航空機123便の墜落事故は、日本政府の国家犯罪が遠隔操作でパイロットをコントロールして墜落させたという事実もそこにあるのです。

そして・・・その脳開発という国家犯罪用の改造人間として脳をいじられた自衛官たちが、日本政府から命じられた再就職先である民間航空会社で、大勢の乗客を道づれにして、飛行機での墜落事故を起こして死んでいくのです。

飛行開発実験団概要
http://www.mod.go.jp/asdf/gifu/adtw/gaiyou.html



2. 2015年6月12日 00:22:50 : G3QlIGFIpI
りいこのお部屋

〜〜フェラー日本支部からにらまれ中につき、〜〜フェラー関係の記事を下書きにしていっています。


遠隔操縦の事故機

2014-12-30 17:00:20 | 日航機墜落事故
http://blog.goo.ne.jp/ryouko70/c/d6d6061078f9023b91acbe75b7694193

_____________________________________

「陰謀でもなく、日航機は撃墜されたとしか思えない」 日航ジャンボ機墜落事故(1985年)特別インタビュ―◎安部譲二 
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/454.html
投稿者 黄昏時のパルチザン兵士 日時 2006 年 8 月 14 日 14:16:23: WCbjO5fYf.pMQ Tweet


3. 中川隆[-6301] koaQ7Jey 2017年9月23日 20:37:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年09月23日
JALとANAが機体整備を中国に外注 墜落事故の危険も

1985年8月12日に日航123便が御巣鷹山に墜落し、520名がなくなる事故がありました。

事故の原因は「尻もち事故」の修理で手抜きをした事で、ボーイング社が修理したため、日航は機体の状態を把握していませんでした。


日航と全日空は「反省しました」と言いながら30年後にまた同じ事をやり、整備と修理を丸投げにして、機体の状態を把握していません。


炎を吹きながら離陸する日航ボーイング777
引用:https://i.ytimg.com/vi/acAiSngY7NA/maxresdefault.jpg


全日空と日航の欠陥整備

最近国内航空会社の飛行中の故障が多発していて、特に大手の全日空と日航で深刻な故障が発生している。

その原因として考えられるのが、この2社は近年、機体整備を中国の会社に外注していた事です。

日航は3割、全日空も機体整備のかなりを中国の工場に外注していると報道されています。

9月21日には全日空ボーイング737が、油圧関係のトラブルで緊急事態を宣言し、伊丹空港に緊急着陸しました。

9月5日にはニューヨーク行きボーイング777のエンジンから、激しい衝撃と共に出火し、やはり緊急事態を宣言して羽田に着陸した。

緊急事態宣言とは機体が制御不能になったり墜落の恐れがある場合に、機長が宣言するもので、最終的な事態に至る直前に出される。


9月5日の日航機はエンジンタービンの羽根222枚が破損し、機長は火災などの危険を感じて、燃料を捨ててから成田に引き返していた。

9月18日には中部空港を離陸したボーイング737の機内に異臭が発生して引き返し、油漏れとみられている。

報道によると日航は機体整備の3割を中国の整備工場に発注し、年間数十件もの不具合を起こし、国交省には報告せず隠している疑いもあるという。


燃料漏れなど燃料系統の不具合が特に多いが、おそらく燃料や油圧油が漏れると外見や匂い、出火でばれてしまうため、隠せないだけではないか。

電気系統や他の機械的な不具合の多くは、報告しなければ誰にも分からないわけで、報告していない不具合が何件あるのか分からない。

全日空も同じで2009年に非常用酸素マスクの不具合を放置して2600回も飛行し、国土交通省から厳重注意を受けた。


手抜き整備で垂直尾翼が吹き飛んだ日航123便。
「墜落しなければ手抜きしてもばれない」という考えが根底にある
引用:http://blog-imgs-12.fc2.com/j/a/l/jal123/20070505224025.jpg


墜落しなければばれないという考え

報道によると日航は機体整備の3割を中国に外注し、他にも外注先があるので半数を人件費の安いアジアで整備していると推測できる。

全日空も同じで、整備費用を安くする為にアジアの安い整備会社に外注し、故障や不具合が続発している。

悪質なのは日航、全日空ともに発生した不具合のほとんどを国交省などに報告していないと考えられる事で、「墜落しなければばれない」の姿勢をうかがえる。


中国やアジアで整備する問題点は、中国人が適当に手抜き整備するというだけでなく、「整備をチェックするのも中国人」である点です。

整備する人も、正しく整備されているかをチェックすのも同じ会社の人で、酷い場合には同じ人が兼任している場合すらある。

世界ではこういういい加減な整備で墜落した例が多くあり、間違った整備が原因で発生した事故は非常に多い。


外国に整備を外注するので日航と全日空は自分の飛行機でどんな整備をしたのか把握しておらず、書類に記入したものしか見ていません。

1985年8月12日に日航123便が御巣鷹山に墜落し、520名がなくなる事故がありました。

事故の原因は「尻もち事故」の修理で手抜きをした事で、ボーイング社が修理したため、日航は機体の状態を把握していませんでした。


日航と全日空は「反省しました」と言いながら30年後にまた同じ事をやり、整備と修理を丸投げにして、機体の状態を把握していません。

仮に中国の整備企業が123便と同じ手抜きをやったら、日航は123便と同じように墜落させるかも知れない。
http://www.thutmosev.com/archives/72741051.html


[32初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数、規定違反多数により全部処理


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