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中欧 フランツ・リスト
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投稿者 五月晴郎 日時 2012 年 7 月 27 日 01:58:13: ulZUCBWYQe7Lk
 

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フランツ・リスト(ドイツ語:Franz Liszt, ハンガリー語:Liszt Ferenc, 1811年10月22日 - 1886年7月31日)は、ハンガリーに生まれ、ドイツやオーストリアなどヨーロッパ各国で活躍したピアニスト・作曲家。両親の血統、母語、もっとも長い活躍地のいずれもドイツに属し、当時中東欧に多数存在したドイツ植民の一人だが、自身生地のハンガリー(当時はオーストリア支配下の形式的独立国としてのハンガリー王国の版図内、現在はオーストリアに帰属している)を祖国と呼び、死後もドイツ人(オーストリア人)よりはハンガリー人と記載されることが多い。

ピアニストとしては演奏活動のみならず、教育活動においてもピアニズムの発展に貢献をした。演奏会形式としての「リサイタル」を初めて行った人物と言われている。また、作曲家としては新ドイツ楽派の旗手、および交響詩の創始者として知られる。ハンス・フォン・ビューローをはじめとする多くの弟子を育成した。

■生涯■

オーストリア帝国領内ハンガリー王国のライディング(ドボルヤーン、当時はショプロンに、現在はオーストリア共和国ブルゲンラント州に帰属)において、ハンガリーの貴族エステルハージ家に仕えていたオーストリア系ハンガリー人の父アーダム・リストと、オーストリア人(ドイツ人)の母アンナの間に生まれた。ドイツ人ヴァイオリン奏者フランツ・リストを叔父に、同じくドイツ人刑法学者フランツ・フォン・リストを従弟に持つのはこのゲルマン系の家系のためである(リスト自身も最終的にはドイツに定住した)。

家庭内においてはドイツ語が使われていたこと、またドイツ語およびドイツ系住民が主流の地域に生まれたため、彼の母語はドイツ語であった。しかし、後にパリに本拠地を移して教育を受けたため、後半生はフランス語のほうを多く使っていた。数ヶ国語に通じながら結局、生涯ハンガリー語だけは覚えなかった(説明必要)ことを疑問視する声もあるが、被征服民族の言語は使用機会が少なく、血統的にも生地的にもハンガリー人でありながらドイツ語しか話せない人が少なくなかった時代であり、必ずしも非難にはあたらない。歌曲は大部分がドイツ語(一部はフランス語)で書かれている。

家名の本来の綴りは List で、Liszt はそれをハンガリー語化した綴りである(ハンガリー語では sz の綴りで /s/ を表す)。ハンガリー名はリスト・フェレンツ(Liszt Ferencz; 現代ハンガリー語の表記ではLiszt Ferenc)で、彼自身はこのハンガリー名を家族に宛てた手紙で使っていたことがある。リストのハンガリーのパスポートではファーストネームの綴りがFerenczとなっていたのにも拘らず今日ではFerencと綴られるが、これは1922年のハンガリー語の正書法改革で苗字を除く全ての語中のczがcに変更されたためである。1859年から1867年までの公式の氏名はフランツ・リッター・フォン・リスト(Franz Ritter von Liszt)だったが、これは1859年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世によりリッター(騎士)の位を授けられたためであり、リスト自身は公の場でこのように名乗ったことは一度もなかった。この称号はカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタインと結婚する際、カロリーネを身分的特権の喪失から守るために必要だったが、カロリーネとの結婚が婚姻無効に至った後、1867年にリストはこの称号をおじのエードゥアルトに譲った。エードゥアルトの息子が法学者のフランツ・フォン・リストである。

父親の手引きにより幼少時から音楽に才能を現し、10歳になる前にすでに公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・ツェルニーおよびアントニオ・サリエリに師事する。1823年にはパリへ行き、パリ音楽院へ入学しようとしたが、当時の規定により外国人であるという理由で入学を拒否された(こうした規定が存在したのは学生数の非常に多いピアノ科のみであった。他の科においては、外国人であることを理由に入学を拒否された例はない)。そのため、リストはフェルディナンド・パエールとアントン・ライヒャに師事した。ルイジ・ケルビーニとパエールの手助けにより、翌年には歌劇『ドン・サンシュ、または愛の館』を書き上げて上演したが、わずか4回のみに終わった。

1823年4月13日にウィーンでコンサートを開いたとき、そこで老ベートーヴェンに会うことができ、賞賛されている。その時の石版画が1873年、リストの芸術家生活50周年の祝典が行われた際、ブダペストで発表されている(ただし無署名である)。

1827年には父アーダムが死去し、僅か15歳にしてピアノ教師として家計を支えた。教え子であったカロリーヌ・ドゥ・サン=クリック伯爵令嬢との恋愛が、身分違いを理由に破局となる。生涯に渡るカトリック信仰も深め、思想的にはサン=シモン主義、後にはフェリシテ・ドゥ・ラムネーの自由主義的カトリシズムへと接近していった。

1831年にニコロ・パガニーニの演奏を聴いて感銘を受け、自らも超絶技巧を目指した。同時代の人間である、エクトル・ベルリオーズ、フレデリック・ショパン、ロベルト・シューマンらと親交が深く、また音楽的にも大いに影響を受けた。1838年のドナウ川の氾濫のときにチャリティー・コンサートを行い、ブダペストに多額の災害救助金を寄付している。

ピアニストとしては当時のアイドル的存在でもあり、女性ファンの失神が続出したとの逸話も残る。また多くの女性と恋愛関係を結んだ。特に、マリー・ダグー伯爵夫人(後にダニエル・ステルンのペンネームで作家としても活動した)と恋に落ち、1835年にスイスへ逃避行の後、約10年間の同棲生活を送る。2人の間には3人の子供が産まれ、その内の1人が、後に指揮者ハンス・フォン・ビューローの、さらにリヒャルト・ワーグナーの妻になるコジマである。

マリーと別れた(1844年のこと。原因は「リストマニア」と呼ばれる熱狂的女性ファンと多数の情事にふけったことと言われる。[1])後、再びピアニストとして活躍したが、1847年に演奏旅行の途次であるキエフで、当地の大地主であったカロリーネ・ツー・ザイン=ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と恋に落ち、同棲した。彼女とは正式の結婚を望んだが、カトリックでは離婚が禁止されている上に、複雑な財産相続の問題も絡み、認められなかった。1848年にはヴァイマルから宮廷楽長として招かれた。カロリーネの助言もあって、リストはヴァイマルで作曲に専念した。

1859年にヴァイマルの宮廷楽長を辞任。1861年にはローマに移住し、1865年に僧籍に入る(ただし下級聖職位で、典礼を司る資格はなく、結婚も自由である)。それ以降『2つの伝説』などのように、キリスト教に題材を求めた作品が増えてくる。さらに1870年代になると、作品からは次第に調性感が希薄になっていき、1877年の『エステ荘の噴水』はドビュッシーにも影響を与えた。そして、1885年に『無調のバガテル』で無調を宣言したが、シェーンベルクらの12音技法へとつながってゆく無調とは違い、メシアンの移調の限られた旋法と同様の旋法が用いられた作品である。この作品は長い間存在が知られていなかったが、1956年に発見された。

リストは晩年、虚血性心疾患・慢性気管支炎・鬱病・白内障に苦しめられた。晩年の簡潔な作品には、病気による苦悩の表れとも言うべきものが数多く存在している。

1886年、バイロイト音楽祭でワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を見た後に慢性気道閉塞と心筋梗塞で亡くなり、娘コジマの希望によりバイロイトの墓地に埋葬された(ただしカロリーネは、バイロイトがルター派の土地であることを理由に強く反対した)。第二次世界大戦前は立派な廟が建てられていたが、空襲によりヴァーンフリート館(ワーグナー邸)の一部などともに崩壊。戦後しばらくは一枚の石板が置かれているのみだったが、1978年に再建された。

■ピアニストとしてのリスト■

リストは超絶的な技巧を持つ当時最高のピアニストで「ピアノの魔術師」と呼ばれた。演奏技術と初見に関しては、どんな曲でも初見で弾きこなしたと言われ、彼の死後100年以上経っている現在においても、いまだに彼を超えるピアニストは現れていないと言われている。その技巧と音楽性からピアニストとして活躍した時代には「指が6本あるのではないか」という噂がまともに信じられていた。

「6本指」は誇張であるが、幼少時から指を伸ばす練習をし、10度の音程も軽々と押さえられたとされる。彼の曲には両手を広げての4オクターブの音が多用された。また速いパッセージでも音数の多い和音を多用した。

そんな彼でも、ショパンの「12の練習曲 作品10」だけは初見で弾きこなすことができなかったという。その影響で彼はパリから突如姿を消し、数週間後に全曲を弾きこなしショパンを驚嘆させたことから、ショパンが同曲を献呈したという話がある。また高い演奏技術で万人受けしたリストの演奏に、はじめはショパンも「あんな風に弾いてみたい」と好意的であったが、あまりの技術偏重に呆れた後期は否定的だった。しかし、晩年のリストは技術よりむしろ表現力の追求にこだわった傾向が見られた。

当時無名であったエドヴァルド・グリーグが、書き上げた「ピアノ協奏曲イ短調」の評価をリストに依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、彼を褒め称えて激励したと伝えられている。同じような話はガブリエル・フォーレについても伝えられ、彼の「ピアノとオーケストラのためのバラード」を初見で弾き「手が足りない!」と叫んだという。またワーグナーのオペラを初見でピアノ用に編集しながら完璧に弾いたとも言われている。

リストの友人であったフェリックス・メンデルスゾーンの手紙にある話では、メンデルスゾーンが初めて出版された自分のピアノ協奏曲をもってリストの元を訪れたときに、リストはそれを初見で完璧に弾き、メンデルスゾーンは「人生の中で最高の演奏だった」とコメントをしたという。しかし、先のメンデルスゾーンの手紙には続きがあり「彼の最高の演奏は、それで最初で最後だ」とあったという。リストほどの技巧者にとってはどのような曲も簡単だったために、2回目以降の演奏時には譜面にない即興をふんだんに盛り込んでいた。このように、初見や演奏技術に関しては他の追随を許さなかったリストであったが、そのために彼は演奏に関しては即興に重点を置いていた。

リストの演奏を聴いた人々の文献によれば、繊細ながら非常に情熱的で力強い演奏をしていたとされ、演奏中に弦が切れたり、ピアノのハンマーが壊れることが度々あったという。そのため、最初から3台のピアノを用意して演奏をしたこともあった。1台が壊れたら次のピアノに移って演奏、といった形である。またピアノ製造会社であるベーゼンドルファーはリストの演奏に耐えた事で有名になった。

リストの演奏を聴いてあまりの衝撃に気絶する観客がいた話は有名だが、リスト自身も演奏中に気絶することがあったという。ほかにも、当時天才少女として名を馳せていたクララ・ヴィーク(のちのクララ・シューマン)がリストの演奏を聴いてあまりの衝撃に号泣したり、自分の演奏を聴かないニコライ1世に向かって「陛下が話しているうちは私も演奏が出来ない」と言い放ったというエピソードも見られる。

リストは即興に重点を置いていたため、楽譜はおろか鍵盤すら見ずに、絶えず生み出されるピアノの音に耳を傾けて演奏をしていたと言われている(演奏中のリストの写真や肖像画で鍵盤を見て弾いているものは1枚もない)。

また、リストの弟子達には非常に演奏技術が高いと評されるピアニストが多いが、その弟子達の誰もがこぞってリストの演奏を賞賛しており、誰一人貶していない。この事はリストが演奏家としての絶頂期には、今日超難曲と言われている曲々を(おそらくは即興により楽譜以上に音を足して)見事に弾きこなしていたことの間接的な証であると言える。

■作曲家としてのリスト■

音楽史的には、ベルリオーズが提唱した標題音楽をさらに発展させた交響詩を創始し、ワーグナーらとともに新ドイツ派と呼ばれ、絶対音楽にこだわるブラームスらとは一線を画した。

自身が優れたピアニストであったため、ピアノ曲を中心に作曲活動を行っていた。また編曲が得意な彼は自身のオーケストラ作品の多くをピアノ用に編曲している。膨大な作品群は殆ど全てのジャンルの音楽に精通していると言っていいほど多岐にわたる。彼の作曲人生は大きくピアニスト時代(1830年〜1850年頃)、ヴァイマル時代(1850年頃〜1860年頃)、晩年(1860年頃〜没年)と3つに分けられる。

ピアニスト時代はオペラのパラフレーズなどの編曲作品を始め、ピアノ曲を中心に書いた。このころの作品は現役のピアニストとしての演奏能力を披露する場面が多く含まれ、非常に困難なテクニックを要求する曲が多い。

一方ヴァイマル時代はピアニストとしての第一線を退いたが、作曲家としては最も活躍した時代である。彼の有名な作品の大部分はこの時代に作られている。ピアノ曲もテクニック的にはまだまだ難易度が高い。過去に作った作品を大規模に改訂することも多かった。また、ほとんどの交響曲や交響詩はこの時期に作曲されている。

晩年になると、以前彼がよく作っていた10分以上の長大なピアノ曲は減り、短く無調的になる。この時期の音楽はピアニスト時代、ヴァイマル時代にくらべ、深みのある音楽が増える。特に1880年以降、5分以上の曲はほとんどなく、しかもさらに音楽は深遠になっていく。最終的に彼は1885年に『無調のバガテル』で長年求め続けた無調音楽を完成させた。

またリストは自身のカトリック信仰に基づき、宗教合唱曲の作曲と改革に心血を注いだ。オラトリオ『聖エリーザベトの伝説』『キリスト』を始め『荘厳ミサ曲』『ハンガリー戴冠ミサ曲』などの管弦楽を伴う大曲や『十字架の道行き』といった晩年の無調的な作品、あるいは多くの小品など、その作風は多岐に渡る。これらの作曲は、当時のカトリック教会音楽の改革運動である「チェチリア運動」とも連動しており、リストの創作活動において大きな比重を占めている。

■評論家としてのリスト■

同時代に評論活動を活発に行ったシューマンほどではないが、リストも他人の評論を行っている。たとえばシューマンに「非芸術的」と酷評されたアルカンの「悲愴な様式による3つの思い出 作品15」については、シューマン同様に「細部が粗雑」と評価したものの、作品そのものは高く評価している。このほか、グリーグやメンデルスゾーンなどの作品の評価も積極的に行った。評論と平行して、スメタナを評価して資金援助を行うなど、才能を認めた作曲家に対しての援助を行ってもいた。

ブラームスとワーグナーの2派に別れていた当時のドイツ音楽界の中で、リストは弟子のビューローと供にワーグナー派につき、ブラームス派についたハンスリックと対立している。

■帰属にまつわる逸話■

父アーダムが自身を生まれ付いてのハンガリー人だと認識していたように、リストもまた同じように自らをハンガリー人だと認識していた。ハンガリー語がほとんど話せないことを後ろめたく思いながらも、11歳までを過ごしたハンガリーを祖国として愛しており、後年はブダペストに音楽院を設立するために尽力した。「ハンガリー狂詩曲」は、ロマによって編曲された演奏を取材し、それをハンガリーの古来の伝統的音楽と位置づけた。ロマへの偏見が根強かった一部の愛国的ハンガリー人(Magyarmania)には耐え難い混同であり、祖国での彼の評価に暗い影を落とすことになる。後にバルトークはこれを厳しく批判している。

今日ではハンガリー音楽の中興に尽くした功労を評価され、同国では名誉あるハンガリーの音楽家として位置付けられている。リストの名を冠した音楽院はブダペストとワイマールの両方に存在する。生地が現在帰属するオーストリアでは、両国に比べると自国の音楽家という意識はやや薄いようである。

(投稿者)
エステルハージ家については古山和男著「秘密諜報員ベートーヴェン」に詳しく書かれています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88

中央ヨーロッパ(ちゅうおうヨーロッパ、英: Central Europe、独: Mitteleuropa)は、ヨーロッパの中央部に位置し、西ヨーロッパと東ヨーロッパに挟まれた歴史的・文化的世界で、人口が大きくかつ社会資本も高いレベルで充実しており、ドイツのようにすでに経済大国となっているかあるいはポーランド、ハンガリーのように着実に経済大国化を進めている国々を含む非常に活発な地域である。中欧とも。以下の国が代表的な現代中央ヨーロッパの国々である。

ドイツ
オーストリア
スイス
リヒテンシュタイン
スロベニア
ポーランド
チェコ
スロバキア
ハンガリー

中欧のカトリック化はラテン語圏(具体的には神聖ローマ帝国)を通して行われ、西欧との一体性が強い。また近世にはオーストリアのハプスブルク王朝の支配下に置かれ特にドイツ語圏の影響が強くみられる。ウィーンは地理的にはハンガリー、チェコ、スロバキアからも中心に位置し、ハプスブルク王朝の領土そのものを指して中欧でありウィーンは中欧の首都の機能をもっていた。なお、比較的早く神聖ローマ帝国を離脱したルクセンブルクや、さらに早く分離したため言語、民族ともドイツとは別個に考えられるようになったオランダなどは、まず中欧に含まれることがなく、ウィーンを軸とするドイツ系民族の広がりと中欧はイコールではない。

第二次世界大戦後、これらの地域の多くはソ連圏に入り、東欧と呼ばれてきたので、この当時は中欧の概念は忘れられたかに見えるほどだったが、1989年から1991年にかけての東欧革命による共産党政権の崩壊による民主化によって中欧は再び蘇った。ベルリンの壁崩壊後はロシアの影響力が後退して西欧の影響力が復活し、2004年には中欧地域がすべてヨーロッパ連合に加盟するに至った。

東欧の印象は現在も強いが、以下のような文化的な違いがある。 ポーランドやチェコは民族や言語の区分ではスラヴ系に分類されるが、これら西スラヴ諸国は歴史的文化的区分では東スラヴのロシア世界とは一線を画している。 西スラヴの諸国は歴史的には古くからローマ・カトリックを受入れて政治的に西欧世界で発展してきたのであり、正教会とは区別される文化に属していた。また、法体系においても西スラヴ諸国は私法が公法から分離・発達したローマ法(西ローマ法)の体系を基礎として発展してきた社会であり、私法の発達が絶対に不可欠な民主主義と資本主義の考えが根付きやすく、この意味では西ヨーロッパ諸国に属する。いっぽう、正教会の社会は私法と公法が未分化であるビザンチン法(東ローマ法)の体系を基礎として発展してきた社会であり、この意味で東ヨーロッパ諸国に属する。 また、特にポーランドはその歴史において多民族共存主義・多文化主義の特殊な社会を維持していたこともあり、その国民であるポーランド人はスラヴ系言語であるポーランド語を母語とするものの、その民族的出自は非常に多岐にわたっており、血統的・文化的には一概にスラヴ系とは言い難い面がある。(ポーランド人あるいはシュラフタの記事を参照) 宗教がほとんどすべてを規定していた時代のためその影響は今日から考える宗教的なものにとどまらない。たとえば、ポーランド、チェコ、スロバキア、ハンガリーの文字はロシア系のキリル文字ではなくラテン文字である。 東ローマ帝国の領土であった南東欧(バルカン諸国)はビザンティン文化とよばれる中欧とは異なる文化的基盤を持っていたが、ポーランドなどは現代も熱心なカトリック国である。

■相対的な概念■

あらゆる地域的区分「アジア」や「アフリカ」なども実質は相対的、恣意的、便宜的なものであり、世界は歴史的にも地理的にもダイナミックな流動性を備えている。中欧の概念も必ずしも固定的ではなく、時代に応じて変動している。

歴史的には、中欧地域はヨーロッパの中心がローマであった古代ローマの時代からルネサンスの時代にかけては、中央ヨーロッパが"ローマから見て"「北方」であり、「北方地域」と呼ばれていた。当時は「北欧」というのはこの地域から北を指した。 中世には大国であったリトアニアはポーランドの影響の下にカトリック化しており、さらにポーランドと連合国家(ポーランド・リトアニア共和国)を形成するに至って中欧地域に入ったが、その後、ロシアの支配下に置かれることによって一時中欧からは離脱した。 エストニアやラトビアも中世にはドイツ騎士団に征服されたカトリック地域(現在はプロテスタント)であるが、リトアニアと合わせこれらバルト三国は中欧には含まれないこともある。また北欧とも関係が深く、北東ヨーロッパとも呼ばれる事もある。1991年のソヴィエト連邦崩壊後のバルト三国は北欧に含まれる事があるが、3国ともソヴィエト連邦の旧構成国であることから、一般には中欧でないのであれば東欧であるとみなされ、北欧とする扱いは一般的ではない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91


 

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