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スッタニパータ
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投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 20 日 20:59:19: .ZiyFiDl12hyQ
 

(回答先: 釈迦の本当の教え 投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 20 日 07:31:26)


【ブッダのことば】スッタニパータ<中村 元訳>


【 第一 蛇の章 】      

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■□■<1、蛇>■□■
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1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

3 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

4 激流が弱々しい葦のの橋を壊すように、すっかり驕慢を減し尽くした修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

5 無花果の樹の林の中に花を探し求めて得られないように、諸々の生存状態のうちに堅固なものを見いださない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

6 内に怒ることなく、世の栄枯盛衰を超越した修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

7 想念を焼き尽くして余すことなく、心の内がよく整えられた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

8 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、すべてこの妄想をのり越えた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

9 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「世間における一切のものは虚妄である」と知っている修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

10 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

11 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

12 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

13 走っても疾過ぎることなく、また遅れることもなく、「一切のものは虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

14 悪い習性がいささかも存することなく、悪の根を抜き取った修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

15 この世に還り来る縁となる<煩悩から生ずるもの>をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

16 ひとを生存に縛りつける原因となる<妄執から生ずるもの>をいささかももたない修行者はこの世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

17 五つの蓋いを捨て、悩みなく、疑惑を越え、苦悩の矢を抜き去られた修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

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■□■<2,ダニヤ>■□■
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18 牛飼いダニヤがいった、
「わたしはもう飯を炊き、乳を搾ってしまった。マヒー河の岸のほとりに、わたしは(妻子と)ともに住んでいます。わが小舎の屋根は葺かれ、火は点されている。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

19 師は答えた、
「わたしは怒ることなく、心の頑迷さを離れている。マヒー河の岸のほとりに一夜の宿りをなす。わが小舎(すなわち自身)はあばかれ、(欲情の)火は消えた。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

20 牛飼いダニヤがいった、
「蚊も虻もいないし、牛どもは沼地に茂った草を食んで歩み、雨が降ってきても、かれらは堪え忍ぶであろう。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

21 師は答えた、
「わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

22 牛飼いダニヤがいった、
「わが牧婦(=妻)は従順であり、貪ることがない。久しくともに住んできたが、わが意に適っている。かの女にいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

23 師は答えた、
「わが心は従順であり、解脱している。永いあいだ修養したので、よくととのえられている。わたしにはいかなる悪も存在しない。神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

24 牛飼いダニヤがいった、
「私は自活しみずから養うものである。わが子らはみなともに住んで健やかである。かれらにいかなる悪のあるのをも聞いたことがない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

25 師は答えた、
「わたしは何人の傭い人でもない。みずから得たものによって全世界を歩む。他人に傭われる必要はない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

26 牛飼いダニヤがいった、
「未だ馴らされていない牛もいるし、乳を飲む仔牛もいる。孕んだ牝牛もいるし、交尾を欲する牝牛もいる。牝牛どもの主である牡牛もいる。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

27 師は答えた、
「未だ馴らされていない牛もいないし、乳を飲む仔牛もいない。孕んだ牝牛もいないし、交尾を欲する牝牛もいない。牝牛どもの主である牡牛もここにはいない。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

28 牛飼いダニヤがいった、
「牛を繋ぐ杭は、しっかり打ち込まれていて揺るがない。ムンジャ草でつくった新しい縄はよくなわれている。仔牛もこれを断つことができないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

29 師は答えた、
「牡牛のように結縛を断ち、臭い臭いのする蔓草を象のように踏みにじり、わたしくしはもはや母胎に入ることはないであろう。神よ、もし雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ。」

30 忽ちに大雲が現われて、雨を降らし、低地と丘とをみたした。神が雨を降らすのを聞いて、ダニヤは次のことを語った。

31 「われらは尊き師にお目にかかりました、われらの得たところは実に大きいのです。眼ある方よ。われらはあなたに帰依します。あなたはわれわれの師となってください。大いなる聖者よ。

32 妻もわたしもともに従順であります。幸せな人(ブッタ)のもとで清らかな修行を行いましょう。生死の彼岸に達して、苦しみを滅しましょう。」

33 悪魔パービマンがいった、
「子のある者は子について喜び、また牛ある者は牛について喜ぶ。人間の執著(しゅうじゃく)する元のものは喜びである。執著する元のない人は、実に喜ぶことがない。」

34 師は答えた、
子のある者は子について憂い、また牛ある者は牛について憂う。実に人間の憂いは執著する元のもののない人は、憂うることがない。」

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■□■<3、犀(さい)の角>■□■
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35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

38 子や妻に対する愛著は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡むようなものである。筍が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。

39 林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

40 仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。

41 仲間の中におけば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。

42 四方のどこでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦痛に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

43 出家者でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者でも同様である。だから他人の子女にかかわること少し、犀の角のようにただ独り歩め。

44 葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを捨て去って、在家の束縛を断ち切って、健き人はただ独り歩め。

45 もしも汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。

46 しかしもし汝が、<賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者>を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。

47 われわれは実に朋友を得る幸を讃め称える。自分より勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。

48 金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金の腕輪を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

49 このように二人でいるならば、われに饒舌といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。

50 実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱する。欲望の対象にはこの患いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

51 これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。

52 寒さと暑さと、飢えと渇えと、風と太陽の熱と、虻と蛇と、──これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。

53 肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。

54 集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔<ブッダ>のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。

55 相争う哲学的見解を越え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。

56 貪ることなく、詐ることなく、渇望することなく、(見せかけで)覆うことなく、濁りと迷妄とを除き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。

57 義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽って怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。

58 学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁・明敏な友と交われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を去って、犀の角のようにただ独り歩め。

59 世の中の遊戯や娯楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。

60 妻子も、父母も、財産も穀物も、親類やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。

61 「これは執著である。ここは楽しみは少し、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。

62 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

63 俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

64 葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除き去って、出家して袈裟の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。

65 諸々の味を貪ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

66 こころの五つの覆いを断ち切って、すべてに付随して起こる悪しき悩み(随煩悩)を除き去り、なにものかにかたよることなく、愛念の過ちを断ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。

67 以前に経験した楽しみと苦しみを擲ち、また快さと憂いとを擲って、清らかな平静と安らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。

68 最高の目的を達成するために努力策励し、こころが怯むことなく、行いに怠ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具え、犀の角のようにただ独り歩め。

69 独座と禅定を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。

70 妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。

71 音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め。

72 歯牙強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。

73 慈しみと平静とあわれみと解脱と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。

74 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨て、結び目を破り、命の失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。

75 今の人々は自分の利益のために、交わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め。

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■□■<4、田を耕すバーラドブァージャ>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はマガダ国の南山にある「一つの茅」というバラモン村におられた。そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、種子を捲く時に五百挺の鋤を牛に結びつけた。

 そのとき師(ブッダ)は朝早く内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャが仕事をしているところへ赴かれた。ところでそのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは食物を配給していた。

 そこで師は食物を配給しているところに近づいて、傍らに立たれた。田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師が食を受けるために立っているのを見た。そこで師に告げていった、

「道の人よ。わたしは耕して種を播く。耕して種を播いたあとで食う。あなたもまた耕せ、また種を播け。耕して種を播いたあとで食え。」と

(師は答えた)、「バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う」と。

 (バラモンがいった)、「しかしわれらは、ゴータマさん(ブッダ)の軛も鋤も鋤先も突棒も牛も見ない。それなのにゴータマさんは『バラモンよ。わたしもまた耕して種を播く。耕して種を播いてから食う。』という」と。

そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは詩を以て師に呼びかけた。

76 「あなたは農夫であるとみずから称しておられますが、われらはあなたが耕作するのを見たことがない。おたずねします。──あなたが耕作するということを、われわれが了解し得るように話してください。」

77 (師は答えた)「わたしにとっては、信仰が種である。苦行が雨である。知慧がわが軛(くびき)と鋤(すき)きである。慚(はじること)が鋤棒である。心が縛る縄である。気を落ちつけることが鋤先と突棒とである。

78 身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたしは真実をまもることを草刈りとしている。柔和が私にとって(牛の)軛を離すことである。

79 努力がわが(軛をかけた牛)であり、安穏の境地に運んでくれる。退くことなく進み、そこに至ったならば憂えることがない。

80 この耕作はこのようになされ、甘露の果実もたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解き放たれる。」

 そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、大きな青銅の鉢に乳粥を盛って、師(ブッダ)にささげた。──「ゴータマさまは乳粥をめしあがれ。あなたは耕作者です。ゴータマさまは甘露の果実をもたらす耕作をなさるのですかから。」

81 詩を唱えて[報酬として]得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、このことは正しく見る人々(目ざめた人々)のならわしではない。詩を唱えて得たものを、目ざめた人々(諸のブッダ)は斥ける。バラモンよ、定めが存するのであるから、これが(目ざめた人々の)生活法なのである。

82 全き人である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪い行いを消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者のための(福)田であるからである。

「では、ゴータマ(ブッダ)さま、この乳粥をわたしは誰にあげましょうか?」

「バラモンよ。実に神々・悪魔・梵天とともなる世界において、神々・人間・道の人・バラモンを含む生きものの中で、全き人(如来)とかれの弟子とを除いては、この乳粥を食べてすっかり消化し得る人を見ない。だから、バラモンよ、その乳粥を青草の少いところに棄てよ、或いは生物のいない水の中に沈めよ。」

そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャはその乳粥を生物のいない水の中にうずめた。

さてその乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立てて、大いに湯煙りを立てた。譬えば終日日に曝されて熱せられた鋤先を水の中に入れると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出すように、その乳粥は、水の中に投げ棄てられると、チッチタ、チッチタと音を立て、大いに湯煙りを出した。

 そのとき田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは恐れおののいて、身の毛がよだち、師(ブッダ)のもとに近づいた。そうして師の両足に頭を伏せて、礼拝してから、師にいった、

──「すばらしいことです、ゴータマさま。すばらしいことです、ゴータマさま。譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを聞くように、方向に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで真理を明らかにされました。故にわたくしはここにゴータマさまに帰依します。また真理と修行僧のつどいに帰依します。わたしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)をうけましょう。」

そこで田を耕すバラモン・バーラドヴァーシャは、師(ブッダ)のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このバラモン・バーラドヴァーシャさんは独りで他の人々から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえたた。もはや再びこのような生存を受けることはない。」

とさとった。そうしてバーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。


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■□■<5、チュンダ>■□■
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83 鍛冶工のチュンダがいった、「偉大な智慧ある聖者・目ざめた人・真理の主・妄執を離れた人・人類の最上者・優れた御者に、わたしはおたずねします。──世間にはどれだけの修行者がいますか? どうぞお説きください。」

84 師(ブッダ)は答えた、「チュンダよ。四種の修行者があり、第五の者はありません。面と向かって問われたのだから、それらをあなたに明かしましょう。──<道による勝者>と<道を説く者>と<道において生活する者>と及び<道を汚す者>とです。」

85 鍛冶工チュンダはいった、「目ざめた人々は誰を<道による勝者>と呼ばれるのですか? また<道を習い覚える人>はどうして無比なのですか? またおたずねしますが、<道によって生きる>ということを説いてください。また<道を汚す者>をわたくしに説き明かしてください。」

86 「疑いを越え、苦悩を離れ、安らぎ(ニルヴァーナ)を楽しみ、貪る執念をもたず、神々と世間とを導く人、──そのような人を<道による勝者>であると目ざめた人々は説く。

87 この世で最高のものを最高のものであると知り、ここで法を説き判別する人、疑いを絶ち欲念に動かされない聖者を修行者たちのうちで第二の<道を説く者>と呼ぶ

88 みごとに説かれた<理法にかなったことば>である<道>に生き、みずから制し、落ち着いて気をつけていて、とがのないことばを奉じている人を、修行者たちのうちで第三の<道によって生きる者>と呼ぶ。

89 善く誓戒を守っているふりをして、ずうずうしくて、家門を汚し、傲慢で、いつわりをたくらみ、自制心なく、おしゃべりで、しかも、まじめそうにふるまう者、──かれは<道を汚す者>である。

90 (彼らの特長を)聞いて、明らかに見抜いて知った在家の立派な信徒は、『かれら(四種の修行者)はすべてこのとおりである』と知って、かれらを洞察し、このように見ても、その信徒の信仰はなくならない。かれはどうして、汚れた者と汚れていない者と、清らかな者と清らかでない者とを同一視してよいであろうか。」


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■□■<6、破  滅>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、<孤独なる人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころ、ジェータ林を隈なく照らして、師(ブッダ)のもとに近づいた。近づいてから師に敬礼して傍らに立った。そうしてその神は師に詩を以て呼びかけた。

91 「われらは、<破滅する人>のことをゴータマ(ブッダ)におたずねします。破滅への門は何ですか? 師にそれを聞こうとしてわれわれはここに来たのですが、──。」

92 (師は答えた)、「栄える人を識別することは易く、破滅を識別することも易い。理法を愛する人は栄え、理法を嫌う人は敗れる。」

93 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第一の破滅です。先生! 第二のものを説いてください。破滅への門はなんですか?」

94 「悪い人々を愛し、善き人々を愛することなく、悪人のならいを楽しむ。これは破壊への門である。」

95 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第二の破滅です。先生! 第三のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

96 睡眠の癖あり、集会の癖あり、奮励することなく、怠りなまけ、怒りっぽいので名だたる人がいる、──これは破滅への門である。」

97 「よく分かりました。おっしゃるとおりです。これが第三の破滅です。先生! 第四のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

98 「みずからは豊かで楽に暮らしているのに、年老いて衰えた母や父を養わない人がいる、──これは破滅への門である。」

99 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第四の破滅です。先生! 第五のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

100 「バラモンまたは<道の人>または他の<もの乞う人>を、嘘をついてだますならば、これは破滅の門である。」

101 「よくわかりました。おっしゃるとうりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

102 「おびただしい富あり、黄金あり、食物ある人が、ひとりおいしいみのを食べるならば、これは破滅への門である。」

103 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第六の破滅です。先生! 第七のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

104 「血統を誇り、財産を誇り、また氏姓を誇っていて、しかも已が親戚を軽蔑する人がいる、──これは破滅への門である。」

105 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第七の破滅です。先生! 第八のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

106 「女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るにしたがって得たものをその度ごとに失う人がいる、──これは破滅への門である。」

107 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第八の破滅です。先生! 第九のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

108 「おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる、──これは破滅への門である。」

109 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第九の破滅です。先生! 第十のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

110 「青春を過ぎた男が、ティンバル果のように盛り上がった乳房のある若い女を誘き入れて、かの女について嫉妬から夜も眠れない、──これは破滅への門である。」

111 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十の破滅です。先生! 第十一のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

112 「酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である。」

113 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第十一の破滅です。先生! 第十二のものを説いてください。破滅の門は何ですか?」

114 「クシャトリヤ(王族)の家に生まれた人が、財力が少いのに欲望が大きくて、この世で王位を獲ようと欲するならば、
これは破滅への門である。

115 世の中にはこのような破滅のあることを考察して
賢者・すぐれた人は真理を見て、
幸せな世界を体験する。」


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■□■<7、賤しい人>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──あるとき師(ブッダ)は、サーヴァッティーのジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき師は朝のうちに内衣を着け、鉢と上衣とをたずさえて、托鉢のためにサーヴァッティーに入った。

 そのとき火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャの住居には、聖火がともされ、供物がそなえられていた。さて師はサーヴァッティー市の中を托鉢して、かれの住居に近づいた。火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師が遠くから来るのを見たる

 そこで、師にいった、「髪を剃った奴よ、そこにおれ。にせの<道の人>よ、そこにおれ。賤しい奴よ、そこにおれ」と。

 そう言われたので、師は、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャに言った、「バラモンよ。あなたはいったい賤しい人しはなにかを知っているのですか? また賤しい人たらしめる条件を知っているのですか?」

 「ゴータマさん(ブッタ)。わたしは人を賤しい人とする条件をも知っていないのです。どうか、わたしが賤しい人を賤しい人とさせる条件わ知り得るように、ゴータマさんはわたくしにその定めを説いてください。」

「バラモンよ、ではお聞きなさい。よく注意なさい。わたくしは説きましょう。」

 「どうぞ、お説きください」、と火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは師に答えた。

師は説いていった、

116 「怒りやすく恨みをいだき、邪悪にして、見せかけであざむき、誤った見解を奉じ、たくらみのある人、──かれを賤しい人であると知れ。

117 一度生まれたものを(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対するあわれみのない人、──かれを賤しい人であると知れ。

118 村や町を破壊し、包囲し、圧制者として一般に知られる人、──かれを賤しい人であると知れ。

119 村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人、──かれを賤しい人であると知れ。

120 実際に負債ががあるのに、返済するように督促されると、『あなたからの負債はない』といって言い逃れる人、──かれを賤しい人であると知れ。

121 実に僅かの物を欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人。──かれを賤しい人であると知れ。

122 証人として尋ねられたとき、自分のために、他人のため、また財のために、偽りを語る人、──かれを賤しい人であると知れ。

123 或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人、──かれを賤しい人であると知れ。

124 己れは財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、──かれを賤しい人であると知れ。

125 母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、またはことばで罵る人、──かれを賤しい人であると知れ。

126 相手の利益となることを問われたのに不利益を教え、隠し事をして語る人、──かれを賤しい人であると知れ。

127 悪事を行なっておきながら、『誰もわたしのしたことを知らないように』と望み、隠し事をする人、──かれを賤しい人であると知れ。

128 他人の家に行っては美食をもてなされながら、客として来た時には、返礼としてもてなさない人、──かれを賤しい人であると知れ。

129 バラモンまたは<道の人>、または他の<もの乞う人>を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。

130 食事のときが来たのに、バラモンまたは<道の人>をことばて罵り食を与えない人、──かれを賤しい人であると知れ。

131 この世に迷妄に覆われ、わずかの物が欲しくて、事実でないことを語る人──かれを賤しい人と知れ。

132 自分をほめたたえ、他人を軽蔑し、みずからの慢心のために卑しくなった人、──かれを賤しい人であると知れ。

133 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、──かれを賤しい人であると知れ。

134 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。

135 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、──かれこそ実に最下の賤しい人である。
わたしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に<賤しい人>と呼ばれる。

136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

137 わたしは次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られた令名の高い人であった。

138 かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。

139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、情欲を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。

140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。

141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。

142 生まれによって賤しい人となるのではない、生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人となり、行為によってバラモンともなる。

このように説かれたときに、火に事えるバラモン・バーラドヴァーシャは、師にいった、
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者をおこすように、覆われたものを開くように方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。ですから、わたしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以降命の続く限り帰依します。」


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■□■<8、慈しみ>■□■
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143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。

144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。

145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。

146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、

147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。

148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。

149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。

150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。

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■□■<9、雪山に住む者>■□■
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153 七岳という神霊(夜叉)がいった、「今日は十五日のウポーサタである。みごとな夜が近づいた。さあ、われわれは世にもすぐれた名高い師ゴータマ(ブッダ)にお目にかかろう。」

154 雪山に住む者という神霊(夜叉)がいった、「このように立派な人のこころは一切の生きとし生けるものに対してよく安立しているのだろうか。望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制されているのであろうか?」

155 七岳という神霊は答えた、「このように立派なかれ(ブッダ)のこころは、一切の生きとし生けるものに対してよく安立している。また望ましいものに対しても、望ましくないものに対しても、かれの意欲はよく制されている。」

156 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?」

157 七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることができない。」

158 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」

159 七岳という神霊は答えた、「かれは嘘をつかない。粗暴なことばを発しな。また中傷の悪口を言わない。 くだらぬおしゃべりを言わない。」

160 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか? その心は濁っていないだろうか? 迷妄を越えているであろうか? 諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」

161 七岳という神霊は答えた、「かれは欲望の享楽に耽らない。その心は濁っていない。迷妄を越えている。目ざめた人として諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている。」

162 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは明知を具えているだろうか? かれの行いは全く清らかであろうか? かれの煩悩の汚れは消滅しているであろうか? かれはもはや再び世に生まれるということがないであろうか?」

163 七岳という神霊は答えた、「かれは明知を具えている。またかれの行いは清らかである。かれのすべての煩悩の汚れは消滅している。かれはもはや再び世に生まれるということがない。」

163a (雪山に住む者という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。明知と行いとを完全に具えているかれを汝が讃嘆するのは、当然である。」

163b 「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。明知と行いとを完全に具えているかれに、そなたが随喜するのは、当然である。」

164 (七岳という神霊がいった)、「聖者の心は行動とことばとをよく具現している。さあ、われらは明知と行いとを完全に具えているゴータマに見えよう。」

165 (雪山に住む者という神霊がいった)、「かの聖者は羚羊のような脛があり、痩せ細って、聡明であり、小食で、貪ることなく、森の中で静かに瞑想している、来たれ、われらはゴータマ(ブッダ)に見えよう。

166 諸々の欲望をかえりみることなく、あたかも獅子のように象のように独り行くかれに近づいて、われらは尋ねよう、──死の縛めから解き放たれる道を。」

167 (その二つの神霊がいった)、「説き示す人、説き明かす人、あらゆることがらの究極をきわめ、怨みと恐れを越えた目ざめた人、ゴータマに、われらは問おう。」

168 雪山に住む者という神霊がいった、「何があるとき世界は生起するのですか? 何に対して親しみ愛するのですか? 世間の人々は何ものに執著しており、世間の人々は何ものに悩まされているのですか?」

169 師は答えた、「雪山に住むものよ。六つのものがあるとき世界が生起し、六つのものに対して親しみ愛し、世界は六つのものに執著しており、世界は六つのものに悩まされている。」

170 「それによって世間が悩まされる執著とは何であるか? お尋ねしますが、それからの出離の道を説いてください。どうしたら苦しみから解き放たれるのでしょうか。」

171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

172 世間の出離であるこの道が汝らに如実に説き示された。このことを、われは汝らに説き示す、──このようにするならば、苦しみから解き放たれるのである。」

173 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」

174 「常に戒を身にたもち、智慧あり、よく心を統一し、内省し、よく気をつけている人こそが、渡りがたい激流を渡り得る。

175 愛欲の想いを離れ、一切の結び目(束縛)を越え、歓楽による生存を滅しつくした人──、かれは深海のうちに沈むことがない。」

176 (雪山に住む者という神霊がいった)、「深い智慧があり、微妙な意義を見、何ものをも有せず、欲の生存に執著せず、あらゆることがらについて解脱し、天の路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

177 世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

178 今日われわれは美しい[太陽]を見、美しく晴れた朝に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり越え、煩悩の汚れのなくなった<覚った人>にわれらは見えたからである。

179 これらの千の神霊どもは、神通力あり、誉れたかきものどもであるが、かれらはすべてあなたに帰依します。あなたはわれらの無上の師であります。

180 われらは、村から村へ、山から山へめぐり歩もう、──覚った人をも、真理のすぐれた所以をも礼拝しつつ。」


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■□■<10、アーラブァカという神霊>■□■
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 わたしか聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィー国のアーラヴァカという神霊(夜叉)の住居に住みたもうた。そのときアーラヴァカ神霊は師のいるところに近づいて、
師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出てきた。

(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって、師は入った。

ふたたびアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。「よろしい、友よ」といって師は出て行った。

(また神霊はいった)、「道の人よ、入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。三たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。よろしい、友よ」といって師は出てきた。

(また神霊はいった)、「道の人よ。入れ」と。「よろしい、友よ」といって師は入った。

四たびまたアーラヴァカ神霊は師にいった、「道の人よ、出てこい」と。

(師は答えた)、「では、わたしはもう出て行きません、汝のなすべきことをなさい」と。

 (神霊がいった)、「道の人よ、わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答できないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけよう。」

(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わか両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見出さない。友よ。

 汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け」と。そこでアーラヴァカ神霊は、師に次の詩をもって呼びかけた。──

181 「この世で人間の最高の富は何であるか? いかなる善行が安楽をもたらすのか? 実に味の中での美味は何であるか? どのように生きるのが最上の生活であるというのか?」

182 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中で美味である。知慧によって生きるのが最高の生活であるという」

183 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? いかにして苦しみを越えるのであろうか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」

184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみをを超え、知慧によって全く清らかとなる。」

185 「ひとはいかにして智慧を得るのであろうか? いかにして財を獲るのであるか? いかにして名声を得るのであるか? いかにして交友を結ぶのであるか? どうすれば、この世からかの世に赴いたときに憂いがないのであろうか?」

186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

187 適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。
誠実をつくして名声を得、
何ものかを与えて交友を結ぶ。

188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。

189 もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」

190 [神霊いわく、──]「いまやわたしは、どうして道の人、バラモンどもに広く問う要がありましょうか。わたしは今日<来世のためになること>を覚り得たのですから。

191 ああ、目ざめた方がア−ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。

192 わたしは、村から村へ、町から町へめぐり歩こう、──覚った人を、また真理のすぐれた所以を、礼拝しつつ。」

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■□■<11、勝利>■□■
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193 或いは歩み、或いは立ち、或いは坐り、或いは臥し、身を屈め、或いは伸ばす、──これは身体の動作である。

194 身体は、骨と筋とによってつながれ、深皮と肉とで塗られ、表皮に覆われていて、ありのまま見られることがない。

195 身体は腸に充ち、胃に充ち、肝臓の塊・膀胱・心臓・肺臓・腎臓・脾臓あり、

196 鼻汁・粘液・汗・脂肪・血・関節液・胆汁・膏がある。

197 またその九つの孔んらはねつねに不浄物が流れ出る。眼からは目やに、耳からは耳垢、

198 鼻からは鼻汁、口からは或るときは胆汁を吐き、或るときは痰を吐く。全身からは汗と垢とを排泄する。

199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

200 また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

201 犬や野狐や狼やは虫類がこれをくらい、鳥や鷲やその他の生きものがこれを啄む。

202 この世において知慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)の言葉を聞いて、このことを完全に了解する。なんとなれば、かれはあるがままに見るからである。

203 (かの死んだ身も、この生きた身のごとくであった。この生きた身も、かの死んだ身のごとくになるであろう)と内面的にも外面的にも身体に対する欲を離れるべきである。

204 この世において愛欲を離れ、知慧ある修行者は、不死・平安・不滅なるニルヴァーナの境地に達した。

205 人間のこの身は、不浄で、悪臭を放ち、(花や香を以て)まもられている。種々の汚物が充満し、ここかしこから流れ出る。

206 このような身体をもちながら、自分を偉いものだと思い、また軽蔑するならば、かれは(見る視力が無い)という以外の何だろう。

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■□■<12、聖 者>■□■
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207 親しみ慣れることから恐れが生じ、家の生活から汚れた塵が生ずる。親しみ慣れることもなく家の生活もないならば、これが実に聖者のさとりである。

208 すでに生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を<聖者>と名づける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。

209 平安の境地、(煩悩の起こる)基礎を考究して、そのたねを弁(わきま)え知って、それを愛執する心を長せしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

210 あらゆる執著の場所を知りおわって、そのいずれをも欲することなく、貪りを離れ、欲のない聖者は、作為によって求めることがない。かれは彼岸に達しているからである。

211 あらゆるものにうち勝ち、あらゆるものを知り、いとも聡明で、あらゆる事物に汚されることなく、あらゆるものを捨て、妄執が滅びて解脱した人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

212 智慧の力あり、戒と誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

213 独り歩み、怠ることのない聖者は、非難と賞賛とに心を動かさず、音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、他人に導かれることなく、他人を導く人、──諸々の賢者は、かれを(聖者)であると知る。

214 他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

215 梭のように真直ぐにみずから安立し、諸々の悪い行為を嫌い、正と不正とをつまびらかに考察している人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は(真の)<聖者>であると知る。

219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

220 両者は住所も生活も隔たって、等しくない。在家者は妻を養うが、善く誓戒を守る者(出家者)は何ものをもわがものとみなす執著がない。在家者は、他のものの生命を害って、節制することがないが、聖者は自制していて、常に生命ある者を守る。

221 譬えば青頸の孔雀が、空を飛ぶときは、どうしても白鳥の速さに及ばないように、在家者は、世に遠ざかって林の中で瞑想する聖者・修行者に及ばない。

   <蛇の章>第一 おわる

 まとめの句

 蛇とダニヤと[犀の]角と耕す人と、チュンダと破壊と賤しい人と、慈しみを修めることと雪山に住む者とアーラヴァカと、勝利とまた聖者と、──
 これらの十二の経が「蛇の章」と言われる。

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【 第2 小なる章 】

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■□■<1,宝>■□■
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222 ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、すべて歓喜せよ。そうしてこころを留めてわが説くところを聞け。

223 それ故に、すべての生きものよ、耳を傾けよ。昼夜に供物をささげる人類に、慈しみを垂れよ。それ故に、なおざりにせず。かれらを守れ。

224 この世または来世におけるいかなる富であろうとも、天界における勝れた宝であろうとも、われらの全き人(如来)に等しいものは存在しない。この勝れた宝は、目ざめた人(仏)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

225 心を統一したサキヤムニは、(煩悩の)消滅・離欲・不死・勝れたものに到達された、──その理法と等しいものは何も存在しない。このすぐれた宝は理法のうちに存在する。この真理によって幸せであれ。

226 最も勝れた仏が讃嘆したもうた清らかな心の安定を、「ひとびとは(さとりに向かって)間をおかぬ心の安定」と呼ぶ。この(心の安定)と等しい者はほかに存在しない。このすぐれた宝は理法(教え)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

227 善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せ人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

228 ゴータマ(ブッダ)の教えにもとずいて、堅固な心をもってよく努力し、欲望がなく、不死に投入して、達すべき境地に達し、代償なくして得て、平安の楽しみを享けている。この勝れた宝<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

229 城門の外に立つ柱が地の中に打ち込まれていると、四方からの風にも揺るがないように、諸々の聖なる真理を観察して見る立派な人は、これに譬えられるべきである、とわれは言う。この勝れた宝<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

230 深い智慧ある人(ブッダ)がみごとに説きたもうた諸々の聖なる真理をはっきりと知る人々は、たとい大いになおざりに陥ることがあっても、第八の生存を受けることはない。この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

231 [T]自身を実在とみなす見解と[U]疑いと[V]外面的な戒律・誓いという三つのことがらが少しでも存在するならば、かれが知見を成就するとともに、それらは捨てられてしまう。かれは四つの悪い場所から離れ、また六つの重罪をつくるものとはなり得ない。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

232 またかれが身体によって、ことばによって、またはこころの中で、たとい僅かなりとも悪い行為をなすならば、かれはそれを隠すことができない。隠すことができないということを、究極の境地を見た人は説きたもうた。このすぐれた宝が<つどい>のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

233 夏の月の初めの暑さに林の茂みでは枝が花を咲かせたように、それに譬うべき、安らぎに赴く妙なる教えを(目ざめた人、ブッダが)説きたもうた、──ためになる最高のことがらのために。このすぐれた宝が目ざめた人(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

234 勝れたものを知り、勝れたものを与え、勝れたものをもたらす勝れた無上の人が、妙なる教えを説きたもうた。このすぐれた宝が<目ざめた人>(ブッダ)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長する事を欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

236 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間のつかえるこのように完成した<目ざめた人>(ブッダ)を礼拝しょう。幸せであれ。

237 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<教え>を礼拝しよう。幸せであれ。

238 われら、ここに集まった諸々の生きものは、地上のものでも、空中のものでも、神々と人間とのつかえるこのように完成した<つどい>を礼拝しよう。幸せであれ。

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■□■<2、なまぐさ>■□■
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239 「稷・ディングラカ・チーナカ豆・野菜・球根・蔓の実を善き人々から正しいしかたで得て食べながら、欲を貪らず、偽りを語らない。

240 よく炊がれ、よく調理されて、他人から与えられた純粋で美味な米飯の食物を舌鼓うって食べる人は、なまぐさを食うのである。カッサパよ。

241 梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかも<わたしはなまぐさものを許さない>と称している。カッサパよ、わたしはあなたにこの意味を尋ねます。あなたの言う<なまぐさ>とはどんなものですか。」

242 「生物を殺すこと、打ち、切断し、縛ること、盗むこと、嘘をつくこと、詐欺、だますこと、邪曲を学習すること、他人の妻に親近すること、──これがなまぐさである。肉食することが<なまぐさい>のではない。

243 この世において欲望を制することなく、美味を貪り、不浄の(邪悪な)生活をまじえ、虚無論をいだき、不正の行いをなし、頑迷な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。

244 粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性で、なんびとにも与えない人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。

245 怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬、ほら吹くこと、極端の傲慢、不良の徒と交わること、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。

246 この世で、性質が悪く、借金を踏み倒し、密告をし、法廷で偽証し、正義を装い、邪悪を犯す最も劣等な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。

247 この世でほしいままに生きものを殺し、他人のものを奪って、かえってかれらを害しようと努め、たちが悪く、残酷で、粗暴で無礼な人々、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。

248 これら(生けるものども)に対して貪り求め、敵対して殺し、常に(害を)なすことにつとめる人々は、死んでからは暗黒に入り、頭を逆さまにして地獄に落ちる、──これがなまぐさである。肉食することが(なまぐさい)のではない。

249 魚肉・獣肉(を食わないこと)も、断食も、裸体も、剃髪も、結髪も、塵垢にまみえることも、粗い鹿の皮(を着ること)も、火神への献供につとめることも、あるいはまた世の中でなされるような、不死を得るための苦行も、(ヴェーダの)呪文も、供犠も、祭祀も、季節の荒行も、それらは、疑念を超えていなければ、その人を清めることができない。

250 通路(六つの機官)をまもり、機官にうち勝って行動せよ。理法のうちに安立し、まっすぐで柔和なことを楽しみ、執著を去り、あらゆる苦しみを捨てた賢者は、見聞きしたことに汚されない。」

251 以上のことがらを尊き師(ブッダ)はくりかえし説きたもうた。ヴェーダの呪文に通じた人(バラモン)はそれを知った。なまぐさを離れて、何ものにもこだわることのない、跡を追いがたい聖者(ブッダ)は、種々の詩句を以てそれを説きたもうた。

252 目ざめた人(ブッダ)のみごとに説きたもうた──なまぐさを離れ一切の苦しみを除き去る──ことばを聞いて、(そのバラモンは、)謙虚なこころで、全き人(ブッダ)を礼拝し、即座に出家することをねがった。

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■□■<3,恥>■□■
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253 恥じることを忘れ、また嫌って、「われは(汝の)友である」と言いながら、しかも為し得る仕事を引き受けない人、──かれを「この人は(わが)友に非ず」と知るべきである。

254 諸々の友人に対して、実行がともなわないのに、ことばだけ気に入ることを言う人は、「言うだけで実行しない人」であると、賢者たちは知りぬいている。

255 つねに注意して友誼の破れることを懸念して(甘いことを言い)、ただ友の欠点のみ見る人は、友ではない。子が母の胸にたよるように、その人によっても、他人のためにその間を裂かれることのない人こそ、友である。

256 成果を望む人は、人間に相応した重荷を背負い、喜びを生じる境地と賞讃を博する楽しみを修める。

257 遠ざかり離れる味と平安となる味とを味わって、法の喜びの味を味わっている人は、苦悩わ離れ、悪を離れている。

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■□■<4、こよなき幸せ>■□■
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 わたたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。

258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福わ説いて下さい。」

259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。

260 適当な場所に住み、あらかじめ功徳を積んでいて、みずからは正しい誓願を起こしていること、──これがこよなき幸せである。

261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。

262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。

263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

264 悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行をゆるがせにしないこと、──これがこよなき幸せである。

265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。

266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。

267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。

268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。

269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。

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■□■<5、スーチローマ>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はガヤー(村)のタンキク石床におけるスーチローマという神霊(夜叉)の住居におられた。そのときカラという神霊とスーチローマという神霊に言った、「かれは<道の人>である」と。(スーチローマという神霊は言った)、
かれは真の<道の人>であるか、或いは似而非の<道の人>であるかを、わたしが知らないうちは、かれは真の<道の人>ではなくて、似而非の<道の人>である。」

 そこでスーチローマという神霊は、師のもとに至り、そうして身を師に近づけた。ところが師は身を退けた。そこでスーチローマという神霊は師にいった、「<道の人>よ。汝はわたしを恐れるのか。」(師いわく)、「友よ。わたしは汝を恐れているのではない。しかし汝に触れることは悪いのだ。」(スーチローマという神霊はいった)、「<道の人>よ。わたしは汝に質問しよう。もしも汝がわたしに解答しないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけよう。」

 (師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、わが心を乱し、わが心臓を裂き、わが両足をとらえてガンジス河の向こう岸に投げつけ得るような人を、実にわたしは見ない。友よる汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け。」

 そこでスーチローマという神霊は、次の詩を以て、師に呼びかけた。──

270 貪欲と嫌悪とはいかなる原因から生じるのであるか。好きと嫌いと身の毛もよだつこと(戦慄)とはどこから生ずるのであるか。諸々の妄想はどこから起こって、心を投げうつのであるか?──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。

271 貪欲と嫌悪とは自身から生ずる。好きと嫌いと身の毛もよだつこととは、自身から生ずる。諸々の妄想は、自身から生じて心を投げうつ、──あたかもこどもらが鳥ほ投げて棄てるように。

272 それらは愛執から起こり、自身から現われる。あたかもバニヤンの新しい若木が枝から生ずるようなものである。それらが、ひろく諸々の執著していることは、譬えば、つる草が林の中にはびこっているようなものである。

273 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとずいて起こるかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかって渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。


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■□■<6、理法にかなった行い>■□■
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274 理法にかなった行い、清らかな行い、これが最上の宝であると言う。たとい在家から出て家なきに入り、出家の身となったとしても、

275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚れを増す。

276 争論を楽しみ、迷妄の性質に蔽われている修行僧は、目ざめた人(ブッダ)の説きたもうた理法を、説明されても理解しない。

277 かれは無明に誘われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

278 実にこのような修行僧は、苦難の場所に陥り、母胎から他の母胎へと生まれかわり、暗黒から暗黒へと赴く。死後には苦しみを受ける。

279 あたかも糞坑が年をへると糞に充満したようなものであろう。不潔な人は、実に清めることがむずかしい。

280 修行僧らよ。このような出家修行僧を、実は、<家にたよっている人、邪まな欲望あり、邪まな思いあり、邪まな行いをなし、悪いところにいる人>であると知れ。

281 汝らはすべて一致協力して、かれを斥けよ。籾殻を吹き払え。屑を取り除け。

282 次いで、実は<道の人>であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。

283 みずからは清き者となり、互いに思いやりをもって、清らかな人々と共に住むようにせよ。そこで、聡明な者どもが、ともに仲よくして、苦悩を終滅せしめるであろう。


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■□■<7、バラモンにふさわしいこと>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのときコーサラ国に住む、多くの、大富豪であるバラモンたち──かれらは老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達していたが──は師のおられるところに近づいた。そうして師と会釈した。喜ばしい思い出に関する挨拶のことばを交わしたのち、かれらは傍らに坐した。

 そこで大富豪であるバラモンたちは師に言った、「ゴータマ(ブッダ)さま。そもそも今のバラモンは昔のバラモンたちの守っていたバラモンの定めにしたがっているでしょうか?」[師は答えた]、「バラモンたちよ。今のバラモンたちは昔のバラモンたちの守ったバラモンの法に従ってはいない。」「では、ゴータマさそは、昔のバラモンたちの守ったバラモンの法をわれらに話してください。──もしもゴータマさまにお差支えがなければ。」「では、バラモンたちよ、お聞きなさい、よく注意なさい。わたしは話してあげましょう。」「どうぞ」と、大富豪であるバラモンたちは、師に答えた。

 師は次のことを告げた。──

284 昔の仙人たちは自己をつつしむ苦行者であった。かれは五種の欲望の対象をすてて、自己の(真実の)理想を行った。

285 バラモンたちには家畜もなかったし、黄金もなかったし、穀物もなかった。しかしかれらはヴェーダ読誦を財産ともなし、穀物ともなし、ブラフマンを倉として守っていた。

286 かれらのために調理せられ家の戸口に置かれた食物、すなわち信仰心をこめて調理せられた食物、を求める(バラモンたち)に与えようと、かれら(信徒)は考えていた。

287 豊かに栄えていた地方や国々の人々は、種々に美しく染めた衣服や臥床や住居をささげて、バラモンたちに敬礼した。

288 バラモンたちは法によって守られていたので、かれらを殺してはならず、うち勝ってもならなかった。かれらがかれらが家々の戸口に立つのを、なんびとも決して妨げなかった。

289 かれら昔のバラモンたちは四十八年間、童貞の清浄行を行った。知と行とを求めていたのであった。

290 バラモンたちは他の(カーストの)女を娶らなかった。かれらはまたその妻を買うこともなかった。ただ相愛して同棲し、相和合して楽しんでいたのであった。

291 (同棲して楽しんだのではあるけども)、バラモンたちは、(妻に近づき得る)時を除いて月経のために遠ざかったときは、その間は決して婬欲の交わりを行わなかった。

292 かれらは、不婬の行と戒律と正直と温順と苦行と柔和と不傷害と耐え忍びとをほめたたえた。

293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。

294 この世における聡明な性の或る人々は、かれの行いにならいつつ、不婬と戒律と耐え忍びとをほめたたえた。

295 米と玩具と衣服とバターと油とを乞い、法に従って集め、それによって祭祀をととのえ行った。かれらは、祭祀を行うときにも、決して牛を殺さなかった。

296 母や父や兄弟や、また他の親族のように、牛はわれらの最上の友である。牛からは薬が生ずる。

297 それから(牛から生じた薬)は食料となり、気力を与え、皮膚に光沢を与え、また楽しませてくれる。(牛に)このような利益のあることを知って、かれらは決して牛を殺さなかった。

298 バラモンたちは、手足が優美で、身体が大きく、容色端麗で、名声あり、自分のつとめに従って、為すべきことを為し、為してはならぬことは為さないということに熱心に努力した。かれらが世の中にいた間は、この世の人々は栄えて幸福であった。

299 しかるにかれらに誤つた見解が起こった。次第に王者の栄華と化粧盛装した女人を見るにしたがって、

300 また駿馬に牽かせた立派な車、美しく彩られた縫物、種々に区画され部分ごとにほど良くつくられた邸宅や住居を見て、

301 バラモンたちは、牛の群が栄え、美女の群を擁するすばらしい人間の享楽を得たいと熱望した。

302 そこでかれはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」

303 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、──馬の祀り、人間の祀り、擲棒の祀り、ヴァージャペッヤの祀り、誰にでも供養する祀り、──これらの祀りを行なって、バラモンたちに財を与えた。

304 牛、臥具、衣服、盛装化粧した女人、またよく造られた駿馬に牽かせる車、美しく彩られた縫物──、

305 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。

306 そこでかれらは財を得たのであるが、さらにそれを蓄積することを願った。かれらは欲に溺れて、さらに欲念が増長した。そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、再び甘蔗王に近づいた。

307 「水と地と黄金と財と穀物とが生命あるひとびとの用具であるように、牛は人々の用具である。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」

308 そこで戦車兵の主である王は、バラモンたちに勧められて、幾百千の多くの牛を犠牲のために屠らせた。

309 牛は、脚を以ても、何によっても決して(他のものを)害うことがなくて、羊に等しく柔和で、瓶をみたすほど乳を搾らせてくれる。しかるに王は、角をとらえて、刃を以てこれを屠らせた。

310 刃が牛におちるや、そのとき神々と祖霊と帝釈天と阿修羅と羅刹たちは、「不法なことだ!」と叫んだ。

311 昔は、欲と飢えと老いという三つの病いがあっただけであった。ところが諸々の家畜を祀りのために殺したので、九十八種の病いが起った。

312 このように(殺害の)武器を不法に下すということは、昔から行われて、今に伝わったという。何ら害のない(牛が)殺される。祭祀わ行う人は理法に背いているのである。

313 このように昔からのこのつまらぬ風俗は、識者の非難するものである。人はこのようなことを見るごとに、祭祀実行者を非難する。

314 このように法が廃れたときに、隷民(シュードラ)と庶民(ヴァイシヤ)との両者が分裂し、また諸々の王族がひろく分裂して仲たがいし、妻はその夫を蔑むようになった。

315 王族も、梵天の親族(バラモン)も、並びに種姓(の制度)によって守られている他の人々も、生れる誇る論議を捨てて、欲望に支配される至った、と。

 このように説かれたときに、大富豪であるバラモンたちは、師にいった、「すばらしいことです! ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです! ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われているものを開くように、方向に迷った者を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされた。ここで、われらはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、われわれを在俗信者として、受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」

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■□■<8、船>■□■
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316 ひとがもしも他人から習って理解を知るならば、あたかも神々がインドラ神(帝釈天)を敬うがごとくになすべきである。学識の深いその(師)は、尊敬されれば、その人に対して心からよろこんで、真理を顕示する。

317 思慮ある人は、そのことを理解し傾聴して、理法にしたがった教えを順次に実践し、このような人に親しんで怠ることがなとならば、識者・弁え知る者・聡明なる者となる。

318 未だことがらを理解せず、嫉妬心のある、くだらぬ人・愚者に親しみつかえるならば、ここで真理(理法)を弁え知ることなく、疑いを超えないで、死に至る。

319 あたかも人が水かさが多く流れの疾い河に入ったならば、かれは流れにはこばれ、流れに沿って過ぎ去るようなものである。かれはどうして他人を渡すことができるであろうか。

320 それと同じく、真理(理法)を弁え知らず、学識の深い人にことがらの意義を聞かないならば、みずから知らず、疑いを超えていない人が、どうして他人の心を動かすことができるであろうか。

321 堅牢な船に乗って、橈と舵とを具えているならば、操縦法を知った巧みな経験者は、他の多くの人々をそれに乗せて渡すように、

322 それと同じく、ヴェーダ(真理の知識)に通じ、自己を修養し、多く学び、動揺しない(師)は、実に(みずから)知っているで、傾聴し侍坐しようという気持をお越した他の人々の心を動かす。

323 それ故に、実に聡明にして学識の深い立派な人に親しめ。ものごとを知って実践しつつ、真理を理解した人は、安楽を得るであろう。


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■□■<9、いかなる戒めを>■□■
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324 いかなる戒めをまもり、いかなる行いをなし、いかなる行為を増大せしめるならば、人は正しく安立し、また最上の目的を達し得るのであろうか。

325 長上を敬い、嫉むな。諸々の師に見えるのに適当な時を知り、法に関する話しを聞くのに正しい時機を知れ。みごとに説かれたことを謹んで聞け。

326 強情をなくし謙虚な態度で、時に応じて師のもとに行け。ものごとと真理と自制と清らかな行いとを心に憶い、かつ実行せよ。

327 真理を楽しみ、真理を喜び、真理に安住し、真理の定めを知り、真理をそこなうことばを口にするな。みごとに説かれた真実にもとずいて暮らせ。

328 笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え。

329 みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには知慧も学識も増大することがない。

330 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、ことばでも、こころでも、行いでも、最上である。かれらは平安と柔和と瞑想とのうちに安立し、学識と智慧との真髄に達したのである。

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■□■<10、精励>■□■
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331 起てよ、座れ。眠って汝らに何の益があろう。矢に射られて苦しみ悩んでいる者どもは、どうして眠られようか。

333 神々も人間も、ものを欲しがり、執著にとらわれている。この執著を超えよ。わずかの時を空しく過ごすことなかれ。時を空しく過ごしたひとは地獄に堕ちて悲しむからである。

334 怠りは塵垢である。怠りによって塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け。


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■□■<11、ラーフラ>■□■
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335 [師(ブッダ)がいった]、ラーフラよ。しばしばともに住むのに慣れて、お前は賢者を軽蔑するのではないか? 諸人のために炬火をかざす人を、汝は尊敬しているか?」

336 (ラーフラは答えた)、「しばしばともに住むのに慣れて賢者を軽蔑するようなことを、わたくしは致しません。諸人のために炬火をかざす人を、わたくしは常に尊敬しています。」

以上、序の詩

337 「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。

338 善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。

339 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起こしてはならない。再び世にもどってくるな。

340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。

341 愛欲があれば(汚いものでも)清らかに見える。その(美麗な)外形を避けよ。(身は)不浄であると心に観じて、心をしずかに統一せよ。

342 無相ののおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るであろう。」

 実に尊き師(ブッダ)はこのようにラーフラさんにこれらの詩を以て繰返し教えられた。

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■□■<12、ヴァンギーサ>■□■
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 わたしがこのように聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はア−ラヴィーにおけるアッガーラウァ霊樹のもとにおられた。そのとき、ヴァンギーサさんの師でニグローダ・カッパという名の長老が、アッガーラウァ霊樹のもとで亡くなってから、間がなかった。そのときヴァンギーサさんは、ひとり閉じこもって沈思していたが、このような思念が心に起こった、──「わが師は実際に亡くなったんだろうか、あるいはまだ亡くなっていないのだろうか?」と。

 そこでヴァンギーサさんは、夕方に沈思から起き出て、師のいますところに赴いた。そこで師に挨拶して、傍らに坐った。傍らに坐ったヴァンギーサさんは師にいった、「尊いお方さま。わたくしがひとり閉じこもって沈思していたとき、このような思念が心に起こりました。──<わが師は実際に亡くなったのだろうか、或いはまだ亡くなっていないのだろうか?>」と。

 そこでヴァンギーサさんは座から立ち上がって、衣を左の肩にかけて右肩をあらわし、師に向かって合掌し、師にこの詩を以て呼びかけた。

343 「現世において、もろもろの疑惑を断たれた無上の智慧ある師におたずね致します。──世に知られ、名声あり、心が安らぎに帰した[ひとりの]修行者が、アッガーラウァ[霊樹のもと]で亡くなりました。

344 先生! あなたは、そのバラモンに『ニグローダ・カッパ』という名をつけられました。ひたすらに真理を見られた方よ。かれは、あなたを礼拝し、解脱をもとめ、つとめ励んでおりました。

345 サッカ(釈迦族の人、釈尊)よ、あまねく見る人よ。われらはみな、(あなたの)かの弟子のことを知ろうと望んでいます。われわれの耳は、聞こうと待ちかまえています。あなたはわれらの師です。あなたは、この上ない方です。

346 われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

347 この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無智を棚とし、疑いによって存するが、全き人(如来)にあうと、それらはすべてなくなくなってしまう。この(全き人)は人間のための最上の眼であります。

348 風が密雲を払いのけるように、[この人](ブッダ)が煩悩の汚れを払うのでなければ、全世界は覆われて、暗黒となるでありましょう。光輝ある人々も輝かないでありましょう。

349 聡明な人々は世を照らします。聡明な方よ。わたしは、あなたをそのような人だと思います。われらはあなたを<如実に見る人>であめと知って、みもとに近づきました。集会の中で、われらのために(ニグローダ)カッパのことを明かにしてください。

350 すみやかに、いとも妙なる声を発してください。白鳥がその頸をもたげて徐ろに鳴くように、よくととのった円やかな声を徐に発してください。われらはすべて、すなおに聞きましょう。

351 生死を残りなく捨て、悪を払い除いた(ブッダ)に請うて、真理を説いていただきましょう。諸々の凡夫は、[知ろうと欲し言おうと]欲することをなしとげることができないが、諸々の全き人(如来)たちは、慎重に思慮してなされるからです。

352 この完全な確定的な説明が、正しい智者であるあなたによって、よく持たれているのです。わたくしは、さらにこの合掌をささげます。(みずからは)知りながら(語らないで、われらを)迷わしたもうな。智慧すぐれた方よ。

353 あれこれの尊い理法を知っておられるのですから、(みずからは)知りながら[語らないで、われらを]迷わしたりなさいますな。励むことにすぐれた方よ。夏に暑熱に苦しめられた人が水をもとめるように、わたしは(あなたの)ことばを望むのです。聞く者に[ことばの雨を]降らしてください。

354 カッパ師が清らかな行いを行って達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」

355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。

356 [ヴァンギーサいわく、──]「第七の仙人(ブッダ)さま。あなたのおことばを聞いて、わたしは喜びます。わたしの問いは、決してむだではありませんでした。バラモンであるあなたは、わたくしをだましません。

357 目ざめた人(ブッダ)の弟子(ニグローダ・カッパ)は、ことばで語ったとおりに実行した人でした。ひとを欺く死魔のひろげた堅固な網を破りました。

358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

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■□■<13、正しい遍歴>■□■
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359 「智慧ゆたかに、流れを渡り、彼岸に達し、安全な安らぎを得て、こころ安住した聖者におたずね致します。家から出て諸々の欲望を除いた修行者が、正しく世の中を遍歴するには、どのようにしたらよいのでしょうか。」

360 師はいわれた、「瑞兆の占い、天変地異の占い、夢占い、相の占いを完全にやめ、吉凶の判断をともにすてた修行者は、正しく世の中を遍歴するであろう。

361 修行者が、迷いの生活を超越し、理法をさとって、人間及び天界の諸々の享楽に対する貪欲を慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

362 修行者がかげぐちをやめ、怒りと物惜しみとを捨てて、順逆の念を離れるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

363 好ましいものも、好ましくないものも、ともに捨てて、何ものにも執著せず、こだわらず、諸々の束縛から離脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

364 かれが、生存を構成する要素のうちに堅固に実体を見出さず、諸々の執著されるものに対する貪欲を慎しみ、こだわることなく、他人に誘かれないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

365 ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆らうことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

366 修行者が、『かれはわれを拝む』と思って高ぶることなく、罵られても心にふくむことなく、他人から食物を与えられたからとて驕ることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

367 修行者が、貪りと迷いの生存(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

368 修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

369 かれにとっては、いかなる潜在的妄執も存せず、悪の根が根こそぎにされ、ねがうこともなく、求めることがないならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

370 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

371 信念あり、学識ある賢者が、究極の境地に至る定まった道を見、諸々の仲間の間にありながら仲間に盲従せず、貪欲と嫌悪と憤怒とを慎しむならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

374 究極の境地を知り、理法をさとり、煩悩の汚れを断ずることを明らかに見て、あらゆる<生存を構成する要素>を滅しつくすが故に、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。」

375 「尊いお方(ブッダ)<さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」

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■□■<14、ダンミカ>■□■
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 わたくしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。そのときダンミカという在俗信者が五百人の在俗信者とともに師のおられるところに近づいた。そして師に挨拶し、かたわらに坐った。そこで在俗信者ダンミカは師に向かって詩を以て呼びかけた。

376 「智慧ゆたかなゴータマ(ブッダ)さま。わたしはあなたにお尋ねしますが、教えを聞く人は、家から出て出家する人であろうと、また在家の信者であろうと、どのように行うのが善いのですか?

377 実にあなたは神々とこの世の人々の帰趣と究極の目的とを知っておられます。奥深いことがらを見る方で、あなたに比ぶ人はいません。世人はあなたを、優れた目ざめた人(ブッダ) だと呼んでいます。

378 あなたはすっかり証りおわって、生けるものどもをあわれんで、智識と理法を説かれます。あまねく見る人よ。あなたは世の覆いを開き、汚れなくして、ひろく全世界に輝きたもう。

379 エーラーヴァナと名づける象王は、あなたが勝利者(ブッダ)であると聞いたので、あなたのもとに来ましたるかれもまたあなたと相談して、(あなたの話を)聞いて、『いいなあ』といって、喜んで去りました。

380毘沙門天王であるクヴェーラも、また教えを請おうとして、あなたに近づいてきました。賢者よ。かれに尋ねられたときにも、あなたは話をなさいました。かれもまた(あなたの話を)聞いて、喜んだ姿を示しました。

381 アージーヴィカ教徒であろうとも、ジャイナ教徒であろうとも、論争を習いとするこれらのいかなる異説の徒でも、すべて、智慧であなたを超えることはできません。立ったままでいる人が急いで走ってゆく人を追い越すことができないよえなものです。

382 論争を習いとするいかなるバラモンでも、老年であろうとも、あるいは(中年、あるしは青年の)バラモンであろうとも、またそのほか『われこそは論客である』と自負している人々でも、すべてあなたから<ためになることがら>を得ようと望んでいるのです。

383 先生! あなたがみごとに説きたもうたこの教えは幽微であり、また楽しいものです。あなたにお尋ねしますが、どうぞわれらにお説きください。最高の<目ざめた方>(ブッダ)よ。

384 これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、すべて、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。けがれなき人(目ざめた人)がさとり、みごとに説いた理法を聞け。──神々がインドラ神のことばを聞くように。」

385 (師は答えた)、「修行者たちよ、われに聞け。煩悩を除き去る修行法を汝らに説いて聞かせよう。汝らすべてはそれを持て。目的をめざす思慮ある人は、出家にふさわしいそのふるまいを習い行え。

386 修行者は時ならぬのに歩き廻るな。定められたときに、托鉢のために村に行け。時ならぬのに出て歩くな、執著に縛られるからである。それ故に諸々の(目ざめた人々)は時ならぬのに出て歩くことはない。

387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとをすっかり酔わせるものである。これらのものに対する欲望を慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ。

388 そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、ひとり退いて、ひそかに坐れよ。自己を制して、内に顧みて思い、こころを外に放ってはならぬ。

389 もしもかれが、教えを聞く人、或るは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かんげぐちや他の誹謗することばを発してはならぬ。

390 実に或る人々は(誹謗の)ことばに反発する。かれらは浅はかな小賢しい人々をわれは称賛しない。(論争の)執著があちこちから生じて、かれらを束縛し、かれらはそこでおのが心を遠くへ放ってしまう。

391 智慧のすぐれた人(ブッダ)の弟子は、幸せな人(ブッダ) の説きたもうた法を聞いて、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水とを、よく気をつけて用いよ。

392 それ故に、食物と住所と臥具と大衣の塵を洗い去るための水、──これらのものに対して、修行者は執著して汚れることがない。──蓮の葉に宿る水滴[が汚されない]ようなものである。

393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。

394 生きものを(みずから)殺してはならぬ。また(他人をして)殺さしめてはならぬ。また他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強剛な者どもでも、また怯えている者どもでも、すべての生きものに対する暴力を抑えて──。

395 次に教えを聞く人は、与えられていないものは、何ものであっても、またどこにあっても、知ってこれを取ることを避けよ。また(他人をして)取らせることなく、(他人が)取りさるのを認めるな。なんでも与えられていないものを取ってはならぬ。

396 ものごとの解った人は婬行を回避せよ。──
燃えさかる炭火の坑を回避するように。
もし不婬を修することができなければ、
(少なくとも)他人の妻を犯してはならぬ。

397 会堂にいても、団体のうちにいても、
何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。
また他人をして偽りを言わせてもならぬ。
また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。
すべて虚偽を語ることを避けよ。

398 また飲酒を行ってはならぬ。
この(不飲酒の)教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してもならぬ。──
これは終に人を狂酔せしめるものであると知って──。

399 けだし諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、
また他人の人々をして怠惰ならしめ、(悪事を)なさせる。
この禍いの起るもとを回避せよ。
それは愚人の愛好するところであるが、しかしひちを狂酔せしめ迷わせるものである。

400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。

401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。
苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。

402 そうしてそれぞれ半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。八つの項目より成る完全なウポーサタを、きよく澄んだ心で行え。また特別の月においてもまた同じ。

403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。

404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」


<小なる章>第二おわる

この章のまとめの句

 宝となまぐちと、恥と、こよなき幸せと、スーチローマと理法にかなった行いと、バラモンにふさわしいことと、船の経と、いかなる戒めを、と、精励と、ラーフラと、ヴァンギーサと正しい遍歴と、さらにダンミカと──
 これらの十四の経が「小なる章」し言われる。


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【 第3 大いなる章 】

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■□■<1、出 家>■□■
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405 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。

406 「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

407 出家されたのちには、身による悪行をはなれた。ことばによる悪行をもすてて、生活をすっかり清められた。

408 目ざめた人(ブッダ)はマガダ国の(首都)・山に囲まれた王舎城に行った。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人は托鉢のためにそこへ赴いたのである。

409 (マガダ王)ビンビサーラは高殿の上に進み出て、かれを見た。すぐれた相好にみちた(目ざめた)人を見て、(侍臣に)このことを語った。

410 「汝ら、この人をみよ。美しく、大きく、清らかで、行いも具わり、眼の前を見るだけである。

411 かれは眼を下に向けて気をつけている。この人は賤しい家の出身ではないようだ。王の使者どもよ、走り追え。この修行者はどこへ行くのだろう。」

412 派遣された王の使者どもは、かれのあとを追って行った。──「この修行者はどこへ行くのだろう。かれはどこに住んでいるのだろう」と。

413 かれは、諸々の感官を制し、よくまもり、正しく自覚し、気をつけながら、家ごとに食を乞うて、その鉢を速やかにみたした。

414 聖者は托鉢を終えて、その都市の外に出て、パンダヴァ山に赴いた。──かれはそこに住んでいるのであろう。

415 [ゴータマ(ブッダ)がみずから]住所に近づいたのを見て、そこで諸々の使者はかれに近づいた。そうして一人の使者は(王城に)もどって、王に報告した、──

416 「大王さま。この修行者はパンダヴァ山の山窟の中に、また獅子のように座しています」と。

417 使者のことばを聞き終るや、そのクシャトリヤ(ビンビサーラ王)は荘厳な車に乗って、急いでパンダヴァ山に赴いた。

418 かのクシャトリヤ(王)は、車に乗って行けるところまで車を駆り、車から下りて、徒歩で赴いて、かれに近づいて坐した。

419 王は坐して、それから挨拶のことばを喜び交わした。挨拶のことばを交わしたあとで、このことを語った。──

420 「あなたは若く青春に富み、人生の初めにある若者です。容姿も端麗で、生れ貴いクシャトリヤ(王族)のようだ。

421 象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受なさい。わたしはあなたの生れを問う。これを告げなさい。」

422 (釈尊がいった)、「王さま。あちらの雪山(ヒマーラヤ)の側に、一つの正直な民族がいます。昔からコーサラ国の住民であり、富と勇気を具えています。

423 姓に関しては<太陽の裔>といい、種族に関しては<シャカ族>(釈迦族)といいます。王さまよ。わたしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。

424 諸々の欲望に憂いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

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■□■<2、つとめはげむこと>■□■
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425 ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

426 (悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った、あなたは痩せてして、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をもなすこともできるのだ。

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火にに供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

429 つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい」・・・・

430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。
──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

431 わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

432 わたしには信念があり、努力があり、また知慧がある。このように専心しているわたしくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

434 (身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

435 わたしはこのように安住し、最大の苦痛をうけているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢餓であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、

438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

439 ナムチよ、これは汝の軍勢である。黒き魔(Kanha)の攻撃軍である。勇者でなければ、かれにうち勝つことができない。(勇者は)うち勝って楽しみを得る。

440 このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。わたくしは、敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。

441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、かれは赴くであろう。」

446 (悪魔はいった)、
「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、には、つけこむ隙をみつけることができなかった。

447 烏が脂肪の色をした岩石の周囲をめぐって『ここに柔かいものが見つかるだろうか? 味のよいものがあるだろうか?』といって飛び廻ったようなものである。

448 そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石ら近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマ(ブッダ)を捨て去る。」

449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気しょう沈してそこに消え失せた。

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■□■<3、みごとに説かれたこと>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。そのとき師は諸々の<道の人>に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。「尊き師よ」と、<道の人>たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。四つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、[T]みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、[U]理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、[V]好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、[W]真理のみを語って、虚妄を語らないならば、この四つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、<幸せな人>である師は、次のことを説いた。

450 立派な人々は説いた──[T]最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)[U]正しい理を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。[V]好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。[W]真実を語れ。偽りを語るな。これが第4である。

 そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。

451 自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。

452 好ましいことばのみを語れ。その言葉は人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。

453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上えに、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

454 安らぎに達するために、苦しみを終減させるために、仏の説きたもうおだやかなことばは、実に諸々のことばのうちで最上のものである。

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■□■<4、スタンダリカ・バーラドヴァージャ>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はコーサラ国のスンダリカー河の岸に滞在しておらめれた。ちょうどその時に、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、スンダリカー河の岸辺で聖火をまつり、火の祀りを行なった。さてバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、聖火をまつり、火の祀りを行なったあとで、座から立ち、あまねく四方を眺めていった、──「この供物のおさがりを誰にたべさせようか。」

 バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、遠からぬところで尊き師(ブッダ)が或る樹の根もとで頭まで衣をまとって坐っているのを見た。見おわってから、左手で供物のおさがりをもち、右手で水瓶をもって師のおられるところに近づいた。そこで師はかれの足音を聞いて、頭の覆いをとり去った。そのときバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは「この方は頭を剃っておられる。この剃髪者である」といって、そこから戻ろうとした。そうしてかれはこのように思った、「この世では、或るバラモンたとは、頭を剃っているということもある。さあ、わたしはかれに近づいてその生れ(素姓)を聞いてみよう」と。

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは師のおられるところに近づいた。それから師にいった、「あなたの生まれは何ですか?」と

 そこで師は、バラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャに詩を以て呼びかれた。

455 「わたしはバラモンではないし、王族の者でもない。わたしはヴァイシヤ族(庶民)の者でもないし、また他の何ものでもない。

456 わたしは家なく、重衣を着け、髭髪(ひげかみ)を剃り、こころを安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。
 バラモンよ。あなたがわたしに姓をたずねるのは適当でない。」

457 「バラモンはバラモンと出会ったときは、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」
「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
 (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

459 バラモンがいった、「わたくしはヴェーダの達人であるこのような立派な方にお目にかかったのですから、実にその方に対する(わたくしの)献供はきっと効果があるでしょう。(以前には)あなたのような方にお目にかからなかったので、他の人が献供の菓子(のおさがり)を食べていたのです。」

460 (師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところあってきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」

461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
 (師が答えた)、「では、バラモンよ、よく聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

462 生れを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば高貴のの人となる。

463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らか行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから慎んで、梭のよえに真直ぐな人々、──そのような人々にそこ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

465 貪欲を離れ、諸々の感官を静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。 466 執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのよえな人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような<全き人>(如来)は、お供えの菓子わ受けるにふさわしい。

468 全き人(如来)は、平等なるもの(過去の目ざめた人々、諸仏)と等しくして、平等ならざる者どもから遙かに遠ざかっている。かれは無限の智慧あり、この世でもかの世でも汚れに染まることがない。<全き人>(如来)はお供えの菓子を受けるにふさわしい。

469 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

470 こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

471 こころをひとしく静かにして激流をわたり、最上の知見によって理法を知り、煩悩の汚れを滅しつくして、最後の身体をたもっている<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

472 かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとらわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

474 欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異なった見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

475 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、へいう平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

476 煩悩の束縛と迷いの生存への生れかわりとが滅び去った究極の境地を見、愛欲の道を断って余すところなく、清らかにして、過ちなく、汚れなく、透明である<全き人>(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

477 自己によって自己を観じ(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

478 迷妄にもとづいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(タマシイ)は清らかとなる。──(全き人)(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。」

479 「あなたのようなヴェーダの達人にお会いできたのですから、わが供物は真実の供物であれかし。梵天こそ証人としてみそなわせ。先生! ねがわくはわたくしから受けてください。先生! ねがわくはわがお供えの菓子を召し上がってください。」

480 「詩を唱えて得たものを、わたくしは食うてはならない。バラモンよ、これは正しく見る人々(目ざめた人々、諸仏)のなすきまりではない。詩を唱えて得たものを目ざめた人々(諸仏)は斥けたもう。バラモンよ。このきまりが存するのであるから、これが(目ざめた人々、諸仏の)行いのしかた(実践法)である。

481 全き者である大仙人、煩悩の汚れをほろぼし尽し悪行による悔恨の消滅した人に対しては、他の飲食をささげよ。けだしそれは功徳を積もうと望む者(福)田であるからである。」

482 「先生! わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」

483 「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、

484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の特性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

485 かれに対して眉をひそめて見下すことをやめ、合掌してかれを礼拝せよ。飲食物をささげて、かれを供養せよ。このような施しは、成就して果報をもたらす。」

486 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、尊き師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方向に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどい帰依したてまつる。わたくしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」

 そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァーシャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァーシャさんは聖者の一人となった。


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■□■<5、マーガ>■□■
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 わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ) は、王舎城の<鷲の峰>という山におられた。そのときマーガ青年は師のおられるところに赴いた。そこに赴いて師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交したのち、かれらは傍らに坐した。そこでマーガ青年は師に言った、──
 「ゴータマ(ブッダ)さま。わたくしは実に、与える人、施主であり、寛仁にして、他人からの施しの求めに応じ、正しい法によって財を求めます。そのあとで、正しい法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、二人にも与え、三人にも与え、四人にも与え、五人にも与え、六人にも与え、七人にも与え、八人にも与え、九人にも与え、十人にも与え、二十人にも与え、三十人にも与え、四十人にも与え、五十人にも与え、百人にも与え、さらに多くの人にも与えます。ゴータマさま。わたくしがこのように与え、このようにささげるならば、多くの福徳を生ずるでしょうか。」

 「青年よ。実にあなたはそのように与え、そのようにささげるならば、、多くの福徳を生ずる。誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財わ求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」

487 マーガ青年がいった、「袈裟を着け家なくして歩む寛仁なるゴータマさまに、わたくしはお尋ねします。この世で、施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をめざして供物をささげ、他人に飲食物を与える人が、祀りを実行するときには、何者にささげた供物が清らかとなるのでしょうか。」

488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

489 マーガ青年はいった、「施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるに当って、<まさに施与を受けるにふさわしい人々>のことをわたしに説いてください。先生!」

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した<全き人>がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

491 一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささけよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

492 一切の結び・縛めから解き放たれ、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

497 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずから制して、梭のように真直ぐな人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

498 欲望を離れ、諸々の感官をよく静かにたもち、月がラーフの捕われから脱したように(捕われることのない)人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

499 安らぎに帰して、貪欲を離れ、怒ることなく、この世で(生存の諸要素を)捨て去ってもはや(迷いの生存)に行く道のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

501 自己を洲(よりどころ)として世間を歩み、無一物で、あらゆることに関して解脱している人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

502 『これは(わたしの)最後の生存であり、もはや再び生を享けることはない』ということを、この世で如実にしっている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

503 ヴェーダに通じ、安らいだ心を楽しみ、落ち着いて気を着けていて、全きさとりに達し、多くの人々に帰依されている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

504 (マーガがいった)、「実にわたくしの質問はむだではありませんでした。尊き師は、まさに施与を受けるにふさわしい人々のことを、わたくしに説いてくださいました。先生! あなたはこの世ですべてのことがらを如実にしっておられます。あなたはこの理法を知っておられるからです。」

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

506 尊き師(ブッダ)は答えた、「マーガよ。祀りを行え。祀り実行者はあらゆる場合に心を清らしめよ。祀り実行者の専心することは祀りである。かれはここに安立して邪悪を捨てる。

507 かれは貪欲を離れ、憎悪を制し、無量の慈しみの心を起して、日夜つねに怠らず、無量の(慈しみの)心をあらゆる方角にみなぎらせる。」

508 (マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊き師は、わたくしの<あかし>です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

509 尊き師は答えた、「マーガよ。三種の条件を具えた完全な祀りを実行するそのような人は、施与を受けるにふさわしい人々を喜ばせる。施しの求めに応ずる人が、このように正しく祀りを行うならば、梵天界に生まれる、と、わたくしは説く。」

 このように説かれたときに、マーガ青年は師にいった、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしを在家信者として受け入れてください。今日から命の続く限り帰依いたします。」


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■□■<6、サビヤ>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は王舎城の竹園林にある栗鼠飼養の所に住んでおられた。そのとき遍歴の行者サビヤに、昔の血縁者であるが(今は神となっている)一人の神が質問を発した、──「サビヤよ。<道の人>であろうとも、バラモンであろうとも、汝が質問したときに明確に答えることのできる人がいるならば、汝はその人のもとで清らかな行いを修めなさい」と。そこで遍歴の行者サビヤは、その神からそれらの質問を受けて、次の[六師]のもとに至って質問を発した。すなわちプーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサカンバリ、パクダ・カッチャーヤナ、ベッラーッティ族の子であるサンジャヤ、ナータ族の子であるニガタとであるが、かれは<道の人>あるいはバラモンであり、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められていた。

[しかるに]かれらは、遍歴の行者サビヤに質問されても、満足に答えることができなかった。そうして、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえって遍歴の行者サビヤに反問した。そこで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「これらの<道の人>またはバラモンであられる方々は衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。かれら、すなわちプーラナ・カッサパからさらについにナータ族の子であるニガンタに至るまで人々は、わたしに質問されても、満足に答えることが出来なかった。満足に答えることができないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわにしたのみならず、わたしに反問した。さあ、わたしは低く劣った状態(在俗の状態)に戻って諸々の欲望を享楽することにしょう」と。

 そのとき遍歴の行者サビヤはまたこのように考えた、「ここにおられる<道の人>ゴータマもまた衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。さあ、わたしは<道の人>ゴータマに近づいて、これらの質問を発することにしよう」と。

 さらに遍歴の行者であるサビヤは次のように考えた、「ここにおられる<道の人>・バラモンがたは、年老いて、年長け、老いぼれて、年を重ね、老齢に達しているが、長老であり、経験を積み、出家してからすでに久しく、衆徒をひきい、団体の師であり、有名で名声あり、教派の開祖であり、多くの人々から立派な人として崇められている。すなわちプーラナ・カッサパからさらにナータ族の子ニガンダに至るまでの人々であるが、かれらはねわたくしに質問それても、満足に答えることができなかった。満足に答えられないで、怒りと嫌悪と憂いの色をあらわしたのみならず、かえってそこでわたくしに反問した。<道の人>ゴータマはわたくしの発したこれらの質問に明確に答え得るであろうか。<道の人>ゴータマは生年も若いし、出家したのも新しいことだからである」と。

 次いで遍歴の行者サビヤはこのように考えた、「<道の人>は若いからといって侮ってはならない。軽蔑してはならない。たといかれが若い<道の人>であっても、かれは大神通があり、大威力がある。さあ、わたしは<道の人>ゴータマのもとに赴いて、この質問を発してみよう」と。

 そこで遍歴の行者サビヤは王舎城に向かって順次に歩みを進め、王舎城の竹園林にある栗鼠飼養所におられる尊き師(ブッダ)のもとに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。それから遍歴の行者サビヤは師に詩を以て呼びかけた。──

510 サビヤがいった、「疑いがあり、惑いがあるので、わたくしは質問しょうと願って、ここに来ました。わたくしのためにそれを解決してください。わたくしが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えてください。」

511 師は答えた、「サビヤよ。あなたは質問しようと願って、遠くからやって来ましたね。あなたのために、それを解決してあげましょう。あなたが質問したならば、順次に、適切に、明確に答えましょう。

512 サビヤよ。何でも心の中で思っていることを、わたくしに質問なさい。わたくしは一つ一つ質問を解決してあげましょう。」

 そのとき遍歴の行者であるサビヤはこのように考えた、「まことにすばらしいことだ。まことに珍しいことだ、──わたくしが他の<道の人>たち、バラモンたちのところでは機会さえも得られなかったのに、道の人ゴータマがこの機会を与えてくれた」と。かれは、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、師に質問した。

513 サビヤがいった、「<修行僧>とは何ものを得た人のことをいうのですか? 何によって<温和な人>となるのですか? どのようにしたならば、<自己を制した人>と呼ばれるのですか? どうして<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが<修行僧>である。

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない<道の人>、──かれは<温和な人>である。

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは(自己を制した人)である。

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を(目ざめた人)(ブッダ)という」

 そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

518 サビヤがいった、「何を得た人を<バラモン>と呼ぶのですか? 何によって<道の人>と呼ぶのですか? どうして<沐浴をすませた者>と呼ぶのですか? どうして<竜>と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

519 師が答えた、「サビヤよ。一切の悪を斥け、汚れなく、よく心をしずめ持って、みずから安立し、輪廻を超えて完全な者となり、こだわることのない人、──このような人は<バラモン>と呼ばれる。

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がきさにその故に<道の人>と呼ばれる。

521 全世界のうちで内面的にも外面的にも一切の罪悪を洗い落とし、時間に支配される神々と人間とのうちにありながら妄想分別におもむかない人、──かれを(沐浴をすませた者)と呼ぶ。

522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱している人、──このような人はまさにその故に<竜>とよばける。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

523 サビヤがいった、「諸々の目ざめた人(ブッダ)は誰を<田の勝者>と呼ぶのですか? 何によって巧みなのですか? どうして<賢者>なのですか? どうして<聖者>と呼ばれるのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

524 師が答えた、「サビヤよ。天の田・梵天の田という一切の田を弁別して、一切の田の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に<田の勝者>と呼ばれるのである。

525 天の蔵・人の蔵・梵天の蔵なる一切の蔵を弁別して、一切の蔵の根本の束縛から離脱した人、──このような人がまさにその故に(巧みな人)とよばれるのである。

526 内面的にも外面的にも二つながらの白く浄らかなものを弁別して、清らかな知慧あり、黒と白(善悪業)を超越した人はまさにその故に(賢者)と呼ばれる。

527 全世界のうちで内面的にも外面的にも生邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは<聖者>である。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

528 サビヤがいった、「何を得た人を<ヴェーダの達人>とよぶのですか? 何によって<知りつくした人>となるのですか? いかにして<勤め励む者>となるのですか? <育ちの良い人>とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、どうかわたくしに説明してください。」

529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、一切の感受を超えている人、←かれは<ヴェーダの達人>である。

530 内的には差別的<妄想とそれにもとづく名称と形態>とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<知りつくした人>と呼ばれるのである。

531 この世で一切の罪悪を離れ、地獄の責苦を超えて努め励む者、精励する賢者、──そのような人が<勤め励む者>と呼ばれるのである。

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に<育ちの良い人>と呼ばれるのである。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

533 サビヤがいった、「何を得た人を<学識ある人>と呼ぶのですか? 何によって<すぐれた人>となるのですか? またいかにして<行いの具わった人>となるのですか? <遍歴行者>とはそもそも何ですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

534 師が答えた、「サビヤよ。教えを聞きおわって、世間における欠点あり或いは欠点のないありとあらゆることがらを熟知して、あらゆることがらについて征服者・疑惑のない者・解脱した者、煩悩に悩まされない者を、<学識のある人>と呼ぶ。

535 諸々の汚れと執著のよりどころを断ち、智に達した人は、母胎に赴くことがない。三種想いと汚泥とを除き断って、妄想分別に赴かない、──かれを<すぐれた人>と呼ぶ。

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは<行いの具わった人>である。

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、偽りと慢心と貪欲と怒りと<名称と形態>(個体のもと)とを滅ぼしつくし、得べきものを得た人、──かれを<遍歴の行者>と呼ぶ。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座から起ち上って、上衣を一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌して、ふさわしい詩を以て目のあたり師を讃嘆した。

538 「智慧ゆたかな方よ。諸々の<道の人>の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたのたもうた。

539 あなたは苦しみを滅ぼし、彼岸に達せられた方です。あなたは真の人(拝まれる人)です。あなたは完全にさとりを開かれた方です。あなたは煩悩の汚れを滅ぼされた方だと思います。あなたは光輝あり、理解あり、智慧ゆたかな方です。苦しみを滅ぼした方よ。あなたはわたくしを救ってくださいました。

540 あなたはわたくしに疑惑のあるのを知って、わたくしの疑いをはらしてくださいました。わたくしはあなたに敬礼します。聖者の道の奥をきわめた人よ。心に荒みなき、太陽の末裔よ。あなたはやさしい方です。

541 わたくしが昔いだいていた疑問をあなたははっきりと説き明してくださいました。眼ある方よ。聖者よ。まことにあなたは<さとりを開いた人>です。あなたは、妨げの覆いがありません。

542 あなたの悩み悶えは、すべて破られ断たれています。あなたは清涼となり、身を制し、堅固で、誠実に行動する方です。

543 象の中の象王であり偉大な英雄であるあなたが説くときには、すべて神々は、ナーラダ、パッバタの両[神群]とともに随喜します。

544 尊い方よ。あなたに敬礼します。最上の人よ。あなたに敬礼します。神々を含めた全世界のうちで、あなたに比べられる人はおりません。

545 あなたは覚った人です。あなたは師です。あなたは悪魔の征服者です、賢者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから[彼岸に]渡りおわり、またこの人々を渡すのです。

546 あなたは生存の要因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます、あなたは獅子です。何ものにもとらわれず、恐れおののきを捨てておられます。

547 麗しい百蓮華が泥水に染まらないように、あなたは善悪の両者に汚されません、雄々しき人よ、両足をお伸ばしなさい。サビヤは師を礼拝します。」

 そこで、遍歴の行者サビヤは尊き師(ブッダ)の両足に頭をつけて礼して、言った、──「すばらしいことです、譬えば倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中で灯火をかかげるように、ゴータマさま種々のしかたで真理を明らかにされました。ここでわたくしはゴータマ(ブッダ)さまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいとに帰依したてまつる。わたくしは師のもとで出家したいのです。完全な戒律を受けたいのです。」

 (師はいわれた)、「サビヤよ。かって異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住む。四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせる。しかしこの場合は、人によって(期間の)差異のあることが認められる。」

 「尊いお方さま。もしもかつて異説の徒であった者が、この教えと戒律とにおいて出家しようと望み、完全な戒律を受けようと望むならば、かれは四カ月の間別に住み、四カ月たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧がかれを出家させ、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせるのであるならば、わたくしは(四カ月ではなくて)、四年間別に住みましょう。そうして四年たってから、もういいな、と思ったならば、諸々の修行僧はわたくしを出家させて、完全な戒律を受けさせて、修行僧となるようにさせてください。」

 さて遍歴の行者サビヤは(直ちに)師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、この長者サビヤは独りで他人から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、やがて無上の清らかな行いの究極──諸々の立派に人々はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証し、具現して日を送った。

「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてサビヤ長老は聖者の一人となった。

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■□■<7、セーラ>■□■
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 わたくしが聞いたところによると、──或るとき師は大勢の修行僧千二百五十人とともにアングッタラーパ[という地方]を遍歴して、アーバナと名づけるアングッタラーパの或る町に入られた。結髪の行者ケーニヤはこういうことを聞いた、「シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、修行僧千二百五十人の大きなつどいとともに、アングッタラーパを遍歴して、アーバナに達した。そのゴータマさまには、次のような好い名声があとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊い師であるといわれる。かれは、みずからさとり、体得して、神々・悪魔・梵天を含むこの世界や<道の人>・バラモン・神々・人間を含む生けるものどもに教えを説く。
かれは、初めも善く、中ほども善く、終りも善く、意義も文字もよく具わっている教えを説き、完全円満で清らかな行いを説き明かす、と。ではそのような立派な尊敬さるべき人ら見えるのは幸せ、みごとな善いことだ。」

 そこで結髪の行者ケーニヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した結髪の行者ケーニヤに対して師は法に関する話を説いて、指導し、元気づけ、喜ばされた。結髪の行者ケーニヤは、師に法に関する話を説かれ、指導され、元気づけられ、喜ばされて、師にこのように言った、「ゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 そのように告げられて、師は結髪の行者ケーニヤに向かって言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

 結髪の行者ケーニヤは再び師に言った、「ゴータマさま。修行僧の方々は大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」

 師は結髪の行者ケーニヤに再び言われた、「ケーニヤよ。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいます。またあなたはバラモンがたを信奉しています。」

 結髪の行者ケーニヤは三たび師に言った、「ゴータマさま。修行僧のつどいは大勢で、千二百五十人もいるし、またわたくしはバラモンがたを信奉していますが、しかしゴータマさまは修行僧の方々とともに、明日わたくしのささげる食物をお受けください。」師は沈黙によって承諾された。

 そこで結髪の行者ケーニヤは、師が承諾されたのを知って、座から起って、自分の庵に赴いた。それから、友人・朋輩・近親・親族に告げていった、「友人・朋輩・近親・親族の皆さん。わたくしのことばをお聞きなさい。わたくしは<道の人>ゴータマを修行僧の方々とともに、明日の食事に招待しました。だから皆さんは、身を動かしてわたくしに手伝ってください。」

 結髪の行者ケーニヤの友人・朋輩・近親・親族は、「承知しました」と、かれに答えて、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設けた。また結髪の行者ケーニヤはみずから(白い帳を垂れた)円い集会場をしつらえた。

 ところでそのときセーラ・バラモンはアーバナに住んでいたが、かれは三ヴェーダの奥義に達し、語彙論・活用論・音韻論・語源論(第四のアタルヴァ・ヴェーダと)第五としての史詩に達し、語句と文法に通じ、順世論や偉人の観相に通達し、三百人の少年にヴェーダの聖句を教えていた。そのとき結髪の行者ケーニヤはセーラ・バラモンを信奉していた。

 ときにセーラ・バラモンは三百人の少年に取り巻かれていたが、(長く坐っていたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばす散歩をし、あちこち歩んでいたが、結髪の行者ケーニヤの庵に近づいた。そこでセーラ・バラモンは、ケーニヤの庵に属する結髪の行者たちが、或る者は竈の坑を掘り、或る者は薪を割り、或る者は器を洗い、或る者は水瓶を備えつけ、或る者は座席を設け、また結髪の行者ケーニヤはみずから円い集会場をしつらえているのを見た。見てから結髪の行者ケーニヤに問うた、「ケーニヤさんは息子の嫁取りがあるのでしょうか? あるいは息女の嫁入りがあるのでしょうか? 大きな祭祀が近く行われるのですか? あるいはマガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招待されたのですか?」

 「セーラよ。わたくしには息子の嫁取りがあるのでもなく、息女の嫁入りがあるのでもなく、マガダ王セーニヤ・ビンビサーラが軍隊とともに明日の食事に招かれているのでもありません。そうではなくて、わたくしは近く大きな祭祀を行うことになっています。シャカ族の子・道の人ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、アングッタラーパ国を遊歩して、大勢の修行僧千二百五十人とともにアーバナに達しました。そのゴータマさまには次のような好い名声がおとずれている。──すなわち、かの師は、真の人・さとりを開いた人・明知と行いを具えた人・幸せな人・世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。わたくしはあの方を修行僧らとともに明日の食事に招きました。」

 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>(ブッダ)と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」
 「ケーニヤさん。あなたはかれを<目ざめた人>と呼ぶのか?」
 「セーラさん。わたくしはかれを<目ざめた人>と呼びます。」

 そのときセーラ・バラモンは心に思った。「<目ざめた人>という語を聞くことは、世間においてはむずかしいのである。ところでわれわれの聖典の中に偉人の相が三十二伝えられている。それを具えている偉人にはただ二つの途があるのみで、その他の途はありえない。[第一に]もしもかれが在家の生活を営むならば、かれは転輪王となり、正義を守る正義の王として四方を征服して、国土人民を安定させ、七宝を具有するに至る。すなわちかれは輪という宝・象という宝・馬という宝・珠という宝・資産者という宝・及び第七に指揮者という宝が現われるのである。またかれには千人以上の子があり、みな勇敢で雄々しく、外敵をうち砕く。かれは、四海の果てるに至るまで、この大地を武力によらず刀剣を用いずに、正義によって征服して支配する。[第二に]しかしながら、もしもかれが家から出て出家者となるならば、真の人・覚りを開いた人となり、世間における諸々の煩悩の覆いをとり除く」と。

 「ケーニヤさん。では真の人・覚りを聞いた人であられるゴータマさまは、いまどこにおられるのですか?」

 かれがこのように言ったときに、結髪の行者ケーニヤは、右腕を差し伸ばして、セーラ・バラモンに告げていった、「セーラさん。この方角に当って一帯の青い林があります。(そこにゴータマさまはおられるのです)。」

 そこでセーラ・バラモンは三百人の少年とともに師のおられるところに赴いた。そのときセーラ・バラモンはそれらの少年たちに告げていった、「きみたちは(急がすに)小股に歩いて、響きを立てないで来なさい。諸々の尊き師は獅子のように独り歩む者であり、近づきがたいからです。そうしてわたしが<道の人>ゴータマと話しているときに、きみたちは途中でことばを挿んではならない。きみたちはわたしの話が終るのを待て。」

 さてセーラ・バラモンは尊き師のおられるところに赴いた。そこで、師に挨拶した。喜ばしい、思い出の挨拶のことばを交わしたのち、かれは傍らに坐した。それから、セーラ・バラモンは師の身に三十二の<偉人の相>があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆んど具わっているのを見た。ただ二つの<偉人の相>に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(<目ざめた人(ブッダ)>)であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相とである。

 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰してしない」と。

 そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両耳孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。

 そこでセーラ・バラモンは思った、──「道の人ゴータマは三十二の偉人の相を完全に身に具えていて、不完全ではない。しかしわたしは、『かれがブッダであるか否か』ということをまだ知らない。ただわたしは、年老い齢高く師またはその師であるバラモンたちが『諸々の<尊敬さるべき人、完全な覚りを開いた人>は、自分が讃嘆されるときには、自身を示現する』と語るのを聞いたことがある。さあ、わたしは、適当な詩を以て、<道の人>ゴータマ(ブッダ)をその面前において讃嘆しましょう」と。そこでセーラ・バラモンはふさわしい詩を以て尊き師をその面前において讃嘆した。──

548 「先生! あなたは身体が完全であり、よく輝き、生れも良く、見た目も美しい。黄金の色があり、歯は極めて白い。あなたは精力ある人です。

549 実に、生れの良い人の具えるすがた・かたちは、すべて、偉人の相として、あなたの身体のうちにあります。

  550 あなたは、眼が清らかに、容貌も美しく、(身体は)大きく、真っ直ぐで、光輝あり、<道の人>の群の中にあって、太陽のように輝いています。

551 あなたは見るも美しい修行者(比丘)で、その膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして<道の人>となる必要がありましょうか。

552 あなたは転輪王(世界を支配する帝王)となって、戦車兵の主となり、四方を征服し、ジャンブ州(全インド)の支配者となるべきです。

553 クシャトリヤ(王侯たち)や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(ブッダ)よ。王の中の王としてね人類の帝王として、統治をなさってください。」

554 師(ブッダ)は答えた、「セーラよ。わたくしは王ではありますが、無上の真理の王です。真理によって輪をまわすのです。──(だれも)反転しえない輪を。」

555 セーラ・バラモンがいった、「あなたは<完全にさとった者>であると、みずから称しておられます。ゴータマ(ブッダ)よ。あなたは『われは<無上の真理の王>であり、法によって輪をまわす』と説いておられます。

556 では、誰が、あなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は、誰ですか? あなたがまわされたこの<真理の輪>を、誰が(あなたに)つづいてまわすのですか?」

557 師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の<真理の輪>(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは<全き人>につづいて出現した人です。

558 わたしは、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断ってしまった。それ故に、わたしは<さとった人>(ブッダ)である。バラモンよ。

559 わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。もろもろの<さとりを開いた人>に、しばしば見えることは、いともむずかしい。

560 かれは(さとりを開いた人々)が、しばしば世に出現することは、そなたらにとって、いとも得がたいことであるが、わたしは、その<さとった人>なのである。バラモンよ、わたしは(煩悩の)矢を抜き去る最上の人である。

561 わたしは神聖な者であり、無比であり、悪魔の軍勢を撃破し、あらゆる敵を降服させて、なにものをも恐れることなしに喜ぶ。」

562 (セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。眼ある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大な健き人である。あたかも、獅子が林の中で吼えるようなものである。

563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。

564 従おうと欲する者は、われにわれに従え。また従いたくない者は、去れ。わたしもすぐれた智慧ある人のもとで出家しましょう。」

565 (セーラの弟子どもが言った)、──「もしもこの<完全にさとった人>の教えを、 先生が喜ばれるのでしたら、わたくしたちもまた、すぐれた智慧ある人のもとで、出家しましょう。」

566 (セーラは言った)、──「これら三百人のバラモンたちは、合掌してお願いしています。『先生! わたくしたちは、あなたのみもとで、清らかな行いを実践しましょう。』

567 師(ブッダ)が答えた──「セーラよ。清らかな行いが、みごとに説かれている。それは目のあたり、即時に果報をもたらす。怠りなく道を学ぶ人が、出家して(清らかな行いを修めるのは)空しくはない」

 セーラ・バラモンは仲間とともに師のもとで出家して、完全な戒律を受けた。

 ときに、結髪の行者ケーニヤは、その夜が過ぎてから、自分の庵で味のよい硬軟の食物を用意させて、師に時の来たことを告げて、「ゴータマ(ブッダ) さま。時間です。食事の用意ができました」と言った。そこで師は午前中に内衣を着け、重衣をきて、鉢を手にとって、結髪の行者ケーニヤの庵に赴いた。そうして、修行僧のつどいとともに、あらかじめ設けられた席についた。それから結髪の行者ケーニヤは、ブッダを初め修行僧らに、手ずから、味のよい硬軟の食物を給仕して、満足させ、あくまでもてなした。そこで結髪の行者ケーニヤは、師が食事を終り鉢から手を離したときに、みずから一つの低い座を占めて、傍らに坐した。そうして結髪の行者ケーニヤに、師は次の詩を以て、喜びの意を表した。──

568 火への供養は祭祀のうちで最上のものである。サーヴィトリー[讃歌]はヴェーダの詩句のうちで最上のものである。王は人間のうちでは最上の者である。大洋は、諸河川のうちで最上のものである。

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳を望んで供養を行う人々にとって最上のものである。

 師はこれらの詩を唱えて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座から起って、去って行かれた。

 そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、独りで他人から遠ざかり、怠ることなく、精励し専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極を現世においてみずからさとり、得し、具現していた。「(迷いの生存のうちに)生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとったそしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

 そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて[右肩を洗わして]、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

570 「先生! 眼ある方よ。今から八日以前に、われらはあなたに帰依しましたが、七日のあいだに、われらはあなたの教えの中で身をととのえました。

571 あなたは覚った方(ブッダ)です。あなたは師です。あなたは悪魔を征服した聖者です。あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから渡りおわり、またこの人々を渡してくださいます。

572 あなたは生存の素因を超越し、諸々の煩悩の汚れを滅ぼしておられます。あなたは執著することのない獅子のようです。恐れおののきを捨てておられます。

573 これら三百人の修行僧は、合掌して立っています。健き人よ、足をお伸ばしください。諸々の竜(行者)をして師を拝ませましょう。」

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■□■<8、矢>■□■
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574 この世における人々の命は、定まった相なく、どれだけ生きられるかも解らない。惨ましく、短くて、苦悩をともなっている。

575 生まれたものどもは、死を遁れる道がない。老いに達しては、死ぬ。実に生ある者どもの定めは、このとうりである。

576 熟した果実は早く落ちる。それと同じく、生まれた人々は、死なねばならぬ。かれらにはつねに死の怖れがある。

577 たとえば、陶工のつくった土の器が終りにはすべて破壊されてしまうように、人々の命もまたそのとうりである。

578 若い人も壮年の人も、愚者も賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

579 かれらは死に捉えられてあの世に去って行くが、父もその子を救わず親族もその親族を救わない。

580 見よ。見まもっている親族がとめどもなく悲嘆にくれているのに、人は屠所に引かれる牛のように、一人ずつ、連れ去られる。

581 このように世間の人々は死と老いとによって害われる。それ故に賢者は、世のなりゆきを知って、悲しまない。

582 汝は、来た人の道を知らず、また去った人の道を知らない。汝は(生と死の)両端を見きわめないで、わめいて、いたずらになき悲しむ。

583 迷妄にとらわれて自己を害なっている人が、もしもなき悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

584 泣き悲しんでは、心の安らぎは得られない。ただかれにはますます苦しみが生じ、身体がやつれるだけである。

585 みずから自己を害いながら、身は痩せ醜くなる。そうしたからとて、死んだ人々はどうにもならない。嘆き悲しむのは無益である。

586 人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。

587 見よ。他の(生きている)人々はまた自分のつくった業にしたがって死んで行く。かれら生あるものどもは死に捕らえられて、この世で慄えおののいている。

588 ひとびとがいろいろと考えてみても、結果は意図とは異なったものとなる。壊れて消え去るのは、このとうりである。世の成りゆくさまを見よ。

589 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々すら離れて、この世の生命を捨てるに至る。

590 だから(尊敬されるべき人)の教えを聞いて、人が死んで亡くなったのを見ては、「かれはもうわたしの力の及ばぬものなのだ」とさとって、嘆き悲しみを去れ。

591 たとえば家に火がついているのを水で消し止めるように、そのように知慧ある聡明な賢者、立派な人は、悲しみが起こったのを速やかに滅ぼしてしまいなさい。──譬えば風が綿を吹き払うように。

592 已が悲嘆と愛執と憂いとを除け。已が楽しみを求める人は、已が(煩悩の)矢を抜くべし。

593 (煩悩の)矢を抜き去って、こだわることなく、心の安らぎを得たならば、あらゆる悲しみを超越して、悲しみなき者となり、安らぎに帰する。


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■□■<9、ヴァーセッタ>■□■
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わたくしが聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)はイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林に住んでおられた。そのとき、多くの著名な大富豪であるバラモンたちがイッチャーナンガラ村に住んでいた。すなわちチャンキンというバラモン、タールッカというバラモン、ポッカラサーティというバラモン、ジャーヌッソーニというバラモン、トーデーヤというバラモン及びその他の著名な大富豪であるバラモンたちであった。

 そのときヴァーセッタとバーラドヴァーシャという二人の青年が(久しく坐していたために生じた疲労を除くために)膝を伸ばすためにそぞろ歩きをあちこちで行っていた。

 かれらはたまたま次のような議論を始めた、「きみよ。どうしたらバラモンとなれるのですか?」

 バーラドヴァーシャ青年は次のように言った。「きみよ。父かたについても母かたについても双方ともに生れ(素姓)が良く、純粋な母胎に宿り、七世の祖先に至るまで血統に関しては未だかって爪弾きされたことなく、かって非難されたことがないならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 ヴァーセッタ青年は次のように言った、「きみよ。ひとが戒律をまもり徳行を身に具えているならば、まさにこのことによってバラモンであるのである。」

 [しかし]バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年を説得することができなかったし、またヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年を説得することができなかった。そこでヴァーセッタ青年はバーラドヴァーシャ青年に告げて言った、「バーラドヴァーシャよ。シャカ族の子である<道の人>ゴータマ(ブッダ)は、シャカ族の家から出家して、ここにイッチャーナンガラ[村]のイッチャーナンガラ林のうちに住んでいる。そのゴータマさまには次のような好い名声があとずれている。──すなわち、かの師は、尊敬さるべき人・目ざめた人・明知と行いとを具えた人・幸せな人。世間を知った人・無上の人・人々を調える御者・神々と人間との師・目ざめた人(ブッダ)・尊き師であるといわれる。バーラドヴァーシャさん。さあ行こうよ。<道の人>ゴータマのいるところに行こう。そこへ行ったら、<道の人>ゴータマにこのことがらを尋ねよう。そうして<道の人>ゴータマがわれわれに解答してくれたとおりに、われわれはそれを承認しよう。」「そうしましょう」と、バーラドヴァーシャ青年はヴァーセッタ青年に答えた。

 そこでヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは、師のいますところに赴いた。そうして、師に挨拶した。喜ばしい、思い出についての挨拶のことばを交したのち、かれは傍らに坐した。そこでヴァーセッタ・バラモンは次の詩を以て師に呼びかけた。──

594 「われら両人は三ヴェーダの学者であると、(師からも)認められ、みずからも称しています。わたくしはポッカラサーティの弟子であり、この人はタールッカの弟子です。

595 三ヴェーダに説かれていることがらを、われわれは完全に知っています。われわれはヴェーダの語句と文法とに精通し、ヴェーダ読誦については師に等しいのです。

596 ゴータマよ。そのわれわれが生れの如何を論議して、論争が起りました。『生れによってバラモンなのである』とバーラドヴァーシャは語りますが、わたくしは『行為によってバラモンとなるのである』と言います。眼ある方よ。こういうわけなのだと了解してください。

597 われら両人は互いに相手を説得することができないのです。そこで、<目ざめた人>(ブッダ)としてひろく知られているあなたさまにたずねるために、やって来ました。

598 人々が満月に向って近づいて合掌し礼拝し敬うように、世人はゴータマを礼拝し敬います。

599 世間の眼として出現したもうたゴータマに、われらはおたずねします。生まれによってバラモンであるのでしょうか。あるいは行為によってバラモンとなるのでしょうか? われわれには解りませんから、話してください、──われわれがバラモンの何たるかを知りうるように。」

600 師が答えた、「ヴェーダよ。そなたらのために、諸々の生物の生れ(種類の)区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生れは、いろいろと異なっているからである。

601 草や木にも(種類の区別のあることを)知れ。しかしかれらは(「われは草である」とか、「我等は木である」とか)言い張ることはないかれらの特徴は生まれにもとづいている。かれらの生まれはいろいろと異なっているからである。

602 次に蛆虫や蟋蟀から蟻類に至るまでのものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

603 小さいものでも、大きなものでも、四足獣にも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいているのである。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

604 腹を足としていて背の長い匍うものにも(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

605 次に、水の中に生まれ水に棲む魚どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異なっているからである。

606 次に、翼を乗物として虚空を飛ぶ鳥どもにも、(種類の区別のあることを)知れ。かれらの特徴は生れにもとづいている。かれらの生れは、いろいろと異っているからである。

607 これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろと異なっているということはない。

608 髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、

609 首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、隠所についても、交合についても、

610 手についても、足についても、指についても、脛につていも、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴(の区別)は(人類のうちには)決して存在しない。

611 身を禀けた生きものの間ではそれぞれ区別があるが、人間の間ではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみ。

612 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、かれは農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

613 人間のうちで、種々の技能によって生活する人があれば、かれは職人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

614 人間のうちで売買をして生活する人があれば、かれは商人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

615 人間のうちで他人に使われて生活する者があれば、かれは傭人であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

616 人間のうちで盗みをして生活する者があれば、かれは盗賊であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

617 人間のうちで武術によって生活する者があれば、かれは武士であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

618 人間のうちで司祭の職によって生活する者があれば、かれは司祭者であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

619 人間のうちで村や国を領有する者があれば、かれは王であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

620 われは、(バラモン女の)胎から生まれ(バラモンの)母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。かれは(きみよ、といって呼びかける者)といわれる。かれは何か所有物の思いにとらわれている。無一物であって執著のない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

621 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることのない人、──かれをわたしは<バラモン>と呼ぶ。

622 紐と革帯と綱とを、手綱ともども断ち切り、門をとざす閂(障礙)を減じて、目ざめた人(ブッダ)、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

623 罪がないのに罵られ、なぐられ、拘禁されるのを堪え忍び、忍耐の力あり、心の猛き人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

624 怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

625 蓮葉の上の露のように、錐の尖の芥子のように、諸々の欲情に汚されない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷をおろし、とらわれのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

627 明らかな智慧が深くて、聡明で、種々の道に通達し、最高の目的を達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

628 在家者・出家者のいずれとも交わらず、住家がなくて遍歴し、欲の少い人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

629 強くあるいは弱い生きものに対して暴力を加えることなく、殺さず、また殺させることのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

630 敵意ある者どもの間にあって敵意なく、暴力を用いる者どもの間にあって心おだやかに、執著する者どもの間にあって執著しない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

631 芥子粒が錐の尖端から落ちたように、愛著と憎悪と高ぶりと隠し立てとが脱落した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

632 粗野ならず、ことがらをはっきりと伝える真実のことばを発し、ことばによって何人の感情をも害することのない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

633 この世において、長かろうと短かろうと、微細であろうとも粗大であろうとも、浄かろうとも不浄であろうとも、すべて与えられていない物を取らない人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

634 現世を望まず、来世をも望まず、欲求もなくて、とらわれのない人、──かれをわたしはバラモンと呼ぶ。

635 こだわりあることなく、さとりおわって、疑惑なく、不死の底に達した人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

636 この世の禍福いずれにも執著することなく、憂いなく、汚れなく、清らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

637 曇りのない月のように、清く、澄み、濁りがなく、歓楽の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

638 この傷害・険道・輪廻(さまよい)・迷妄を超えて、渡りおわって彼岸に達し、瞑想し、興奮することなく、執著がなくて、心安らかな人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

639 この世の欲望を断ち切り、出家して遍歴し、欲望の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

940 この世の愛執を断ち切り、出家して遍歴し、愛執の生活の尽きた人、──かれをわたくしは<バラモン>と呼ぶ。

641 人間の絆を捨て、天界の絆を超え、すべての絆をはなれた人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

642 <快楽>と<不快>とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、全世界にうち勝った健き人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

643 生きとし生ける者の生死をすべて知り、執著なく、幸せな人、覚った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

644 神々も天の伎楽神(ガンダルヴァ)たちも人間もその行方を知り得ない人、煩悩の汚れを減しつくした人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

645 前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、すべて無一物で、何ものをも執著して取りおさえることのない人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

646 牡牛のように雄々しく、気高く、英雄・大仙人・勝利者・欲望のない人・沐浴した者・覚った人(ブッダ)、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

647 前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を減し尽くしに至った人、──かれをわたしは(バラモン)と呼ぶ。

648 世の中で名とし姓として付けられているものは、名称にすぎない。(人の生まれた)その時その時に付けられて、約束の取り決めによってかりに設けられて伝えられているのである。

649 (姓名は、かりに付けられたものにすぎないということを)知らない人々にとっては、誤った偏見が長い間ひそんでいる。知らない人々はわれらに告げていう、『生れによってバラモンなのである』と。

650 生まれによって(バラモン)となるのではない。生まれによって(バラモンならざる者)となるのでもない。行為によって(バラモン)なのである。行為によって(バラモンならざる者)なのである。

651 行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって商人となるのである。行為によって傭人となるのである。

652 行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者ともなり、行為によって王ともなる。

653 賢者はこのようにこの行為を、あるがままに見る。かれらは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いとを熟知している。

654 世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。−−進み行く車が轄に結ばれているように。

655 熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによって<バラモン>となる。
 これが最上のバラモンの境地である。

656 三つのヴェーダ(明知)を具え、心安らかに、再び世に生まれることのない人は、諸々の識者にとっては、梵天や帝釈[と見なされる]のである。ヴァーセッタよ。このとおりであると知れ。」

 このように説かれたので、ヴァーセッタ青年とバーラドヴァーシャ青年とは師に向って言った、「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです。ゴータマさま。譬えば、倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るように』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。いまわたくしはゴータマさまと真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまはわたくしたちを、在俗信者として受けいれてください。わたくしたちは、今日から命の続く限り帰依いたします。」

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■□■<10、コーカーリヤ>■□■
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 わたしか聞いたところによると、──或るとき尊き師(ブッダ)は、サーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者の園>におられた。そのとき修行僧コーカーリヤは師のおられるところに赴いた。そうして、師に挨拶して、傍らに坐した。それから修行僧コーカーリヤは師に向っていった、「尊き師(ブッダ)よ。サーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」

 そう言ったので、師(ブッダ)は修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガラーナとを信じなさい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは再び師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」

 師は再び修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなすい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 修行僧コーカーリヤは三たび師にいった、「尊き師よ。わたくしは師を信じてお頼りしていますが、しかしサーリプッタとモッガラーナとは邪念があります、悪い欲求にとらわれています。」

 師は三たび修行僧コーカーリヤに告げて言われた、「コーカーリヤよ、まあそういうな。コーカーリヤよ、サーリプッタとモッガラーナとを信じなすい。サーリプッタとモッガラーナとは温良な性の人たちだ。」

 そこで修行僧コーカーリヤは座から起って、師に挨拶して、右まわりをして立ち去った。修行僧コーカーリヤが立ち去ってからまもなく、かれの全身に芥子粒ほどの腫物が出てきた。(初めは)芥子粒ほどであったものが、(次第に)小豆ほどになった。小豆ほどであったものが、大豆ほどになった。大豆ほどであったものが、棗の核ほどになった。棗の核ほどあったものが、棗の果実ほどになった。棗の果実ほどあったものが余甘子ほどになった。余甘子ほどであったものが、未熟な木爪の果実ほどになった。未熟な木爪の果実ほどであっものが、熟した木爪ほどになった。熟した木爪ほどになったものが破裂し、膿と血とが迸り出た。そこで修行僧コーカーリヤはその病苦のために死去した。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれた。

 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、師のおられるところに赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました。」サハー世界の主・梵天はこのように言った。このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。

 さて、その夜が明けてから、師は、諸々の修行僧に告げて言われた、「諸々の修行僧らよ。昨夜サハー世界の主である梵天が、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、ジェータ林を隈なく照らして、わたくしのいるところに来た。それからわたくしに敬礼して傍らに立った。さうしてサハー世界の主である梵天は、わたくしに告げていった。『尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に生まれました』と。サハー世界の主である梵天はこのように言った。そうして、師を敬礼し、右まわりして、その場で消え失せた。」

 このように説かれたときに、一人の修行僧が師に告げていった、「尊いお方さま。紅蓮地獄における寿命の長さは、どれだけなのですか?」

 「修行僧よ。紅蓮地獄における寿命は実に長い。それを、幾年であるとか、幾百年であるとか、幾千年であるとか、幾十万年であるとか、数えることはむずかしい。」

 「尊いお方さま。しかし譬喩を以て説明することがでまるでしょう。」

 「修行僧よ。それはできるのです」といって、師は言われた、「たとえば、コーサラ国の枡目ではかつて二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)があって、それを取り出すとしょう、ついで一人の人が百年を過ぎるごとに胡麻を一粒ずつ取り出すとしよう。その方法によって、コーサラ国の枡目ではかって二十カーリカの胡麻の積荷(一車輌分)が速やかに尽きたとしても、一つのアッブタ地獄はまだ尽きるに至らない。二十のアッブダ地獄は一つのニラッブダ地獄[の時期]に等しい。二十のニラッブダ地獄は一つのアババ地獄[の時期]に等しい。二十のアババ地獄は一つのアハハ地獄[の時期]に等しい。二十のアハハ地獄は一つのアタタ地獄[の時期]に等しい。二十のアタタ地獄は一つの黄蓮地獄[の時期]に等しい。二十の黄蓮地獄は一つの白睡蓮地獄[の時期]に等しい。二十の白睡地獄は一つの青蓮地獄[の時期]に等しい。二十の青蓮地獄は一つの白蓮地獄[の時期]に等しい。二十の紅蓮地獄[の時期]に等しい。ところで修行僧コーカーリヤは、サーリプッタおよびモッガラーナに対して敵意をいだいていたので、紅蓮地獄に生まれたのである。」

 師はこのように言われた。幸せな人である師は、このことを説いてから、さらに次のように言われた。──

657 人が生まれたときには、実に口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を斬り割くのである。

658 毀るべき人を誉め、また誉むべき人を毀る者、──かれは口によって禍をかさね、その禍のゆえに福楽を受けることができない。

659 賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、まことに重いのである。

660 悪口を言いまた悪意を起して聖者をそしる者は、十万と三十六のニラップダの[巨大な年数のあいだ]また五つのアッブダの[巨大な年数のあいだ]地獄に赴く。

661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながら゜わたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはおの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。

662 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪(い報い)がもどってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。

663 種々なる貪欲に耽る者は、ことばで他人をそしる。──かれ自身は、信仰心なく、ものおしみして、不親切で、けちで、やたらにかげ口を言うのだが。

664 口穢く、不実で、卑しい者よ。生きものを殺し、邪悪で、悪行をなす者よ。不劣を極め、不吉な、でき損いよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に落ちる者だぞ。

665 お前は塵を播いて不利を招き、罪をつくりながら、諸々の善人を非難し、また多くの悪事をはたらいて、長いあいだ深い坑(地獄)に陥る。

666 けだし何者の業も滅びることはない。それは必ずもどってきて、(業をつくった)主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

667 (地獄に墜ちた者は)、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、(昔つくった業に)ふさわしい当然なことである。

668 (地獄の獄卒どもは「捕えよ」「打て」などといって)、誰もやさしいことばをかれることなく、(温顔をもって)向ってくることなく、頼りになってくれない。(地獄に墜ちた者どもは)、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。

669 またそこでは(地獄の獄卒どもは)鉄の網をもって(地獄に墜ちた者どもを)からめとり、鉄槌をもって打つ。さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。

670 また次に(地獄に堕ちた者どもは)火炎があまねく燃え盛っている鋼製の釜にはいる。火の燃え盛るそれらの釜の中で永いあいだ煮られて、浮き沈みする。

671 また膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。かれがその釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、(膿と血とに)触れて汚される。

672 また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。

673 また鋭い剣の葉のついた林があり、(地獄に墜ちた者どもが)その中に入ると、手足を切断される。(地獄の獄卒どもは)鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。

674 また次に(地獄に墜ちた者どもは)、超え難いヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪い事をして罪を犯しては、そこに陥る。

675 そこには黒犬や斑犬や黒烏の群や野狐がいて、泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。

676 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから人は、この世において余生のあるうちになすべきことをなして、忽せにしてはならない。

677 紅蓮地獄に運び去られた者(の寿命の年数)は、荷車につんだ胡麻の数ほどある、と諸々の智者は計算した。すなわちそれは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。

678 ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄にとどまらなねばならない。それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、常にことばとこころをつつしむべきである


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■□■<11、ナーラカ>■□■
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 [ 序 ]
679 よろこび楽しんでいて清らかな衣をまとう三十の神々の群と帝釈天とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ仙は日中の休息のときに見た。

680 こころ喜び踊りあがっている神々を見て、ここに仙人は恭々しくこのことを問うた、
「神々の群が極めて満悦しているのは何故ですか?
 どうしたわけでかれらは衣をとってそれを振り廻しているのですか?

681 たとえ阿修羅との戦いがあって、神々が勝ち阿修羅が敗れたときにもそのように身の毛の振るい立つぼど喜ぶことはありませんでした。どんな稀なできごとを見て神々は喜んでいるのですか?

682 かれは叫び、歌い、楽器を奏で、手を打ち、踊っています。須弥山の頂に住まわれるあなたがたに、わたくしはおたずねします。尊き方々よ、わたくしの疑いを速かに除いてください。」

683 (神々は答えて言った)、「無比のみごとな宝であるかのボーディサッタ(菩薩、未来の仏)は、もろびとの利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです、──シャカ族の村に、ルンビニーの聚落に。
 だからわれらは嬉しくなって、非常に喜んでいるのです。

684 生きとし生ける者の最上者、最高の人、牡牛のような人、生きとし生けるもののうちの最高の人(ブッダ)は、ゆがて<仙人(のあつまる所)>という名の林で(法)輪を回転するであろう。──猛き獅子が百獣にうち勝って吼えるように。」

685 仙人は(神々の)その声を聞いて急いで(人間世界に)降りてきた。そのときスッドーダナ王の宮殿に近づいて、そこに坐して、シャカ族の人々に次のようにいった、
 「王子はどこにいますか。わたくしもまた会いたい。」

686 そこで諸々のシャカ族の人々は、その児を、アシタという(仙人)に見せた。──溶炉で巧みな金工が鍛えた黄金のようにきらめき幸福に光り輝く尊い児を。

687 火炎のように光り輝き、空行く星王(月)のように清らかで、雲を離れて照る秋の太陽のように輝く児を見て、歓喜を生じ、昴まく喜びでわくわくした。

688 神々は、多くの骨あり千の円輪ある傘蓋を空中にかざした。また黄金の柄のついた払子で[身体を]上下に扇いだ。
 しかし払子や傘蓋を手にとっている者どもは見えなかった。

689 カンハシリ(アシタ)という結髪の仙人は、こころ喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。──その児は、頭の上に白い傘をかざされて白色がかった毛布の中にいて、黄金の飾りのようであった。

690 相好と呪文(ヴェーダ)に通曉しているかれは、シャカ族の牡牛(のような立派な児)を抱きとって、(特相を)検べたが、心に歓喜して声を挙げた。──「これは無上の方です、人間のうちで最上の人です。」

691 ときに仙人は自分の行く末を憶うて、ふさぎこみ、涙を流した。仙人が泣くのを見て、シャカ族の人々は言った、──
 「われらの王子に障りがあるのでしょうか?」

392 シャカ族の人々が憂えているのを見て、仙人は言った、──
「わたくしは、王子に不吉の相があるのを思いつづけているのではありません。またかれに障りはないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげてください。

393 この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いはひろく弘まるでしょう。

394 ところが、この世におけるわたくしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれるまえに)中途でわたくしは死んでしまうでしょう。わたくしは比なき力ある人の教えを聞かないでしょう。だから、わたくしは、悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。」

695 かの清らかな修行僧(アシタ仙人)はシャカ族の人々に大きな喜びを起させて、宮廷から去っていった。かれは自分の甥(ナーラカ)をあわれんで、比なま力ある人の教えに従うようにすすめた。──

696 「もしもお前が後に『目ざめた人あり、さとりを開いて、真理の道を歩む』という声を聞くならば、そのときそこへ行ってかれの教えをたずね、その師のもとで清らかな行いを行え。」

697 その聖者は、人のためをはかる心あり、未来における最上の清らかな境地を予見していた。その聖者に教えられて、かねて諸々の善根を積んでいたナーラカは、勝利者(ブッダ)を待望しつつ、みずからの感官をつつしみまもって暮らした。

698 <すぐれた勝利者が法輪をまわしたもう>との噂を聞き、アシタという(仙人)の教えのとおりになったときに、出かけていって、最上の人である仙人(ブッダ)に会って信仰の心を起し、いみじき聖者に最上の聖者の境地をたずねた。

 序文の詩句は終った。

699 [ナーラカは尊師にいった]、「アシタの告げたこのことばはそのとおりであるということを了解しました。故に、ゴータマよ、一切の道理の通達者(ブッダ)であるあなたにおたずねします。

700 わたくしは出家の身となり、托鉢の行を実践しようと願っているのですが、おたずねします。聖者よ、聖者の境地、最上の境地を説いてください」。

701 師(ブッダ)はいわれた、「わたくしはあなたに聖者の境地を教えてあげよう。これは行いがたく、成就し難いものである。さあ、それをあなたに説いてあげようるしっかりとして、堅固であれ。

702 村にあっては、罵られても、敬礼されても、平然とした態度で臨め。(罵られても)こころに怒らないように注意し、(敬礼されても)冷静に、高ぶらずにふるまえ。

703 たとい園林のうちにあっても、火炎の燃え立つように種々のものが現れ出てくる。
婦女は聖者を誘惑する。婦女をしてかれを誘惑させるな。

704 婬欲のことがらを離れ、さまざまの愛欲をすてて、弱いものでも、強いものでも、諸々の生きものに対してね敵対することなく、愛著することもない。

705 『かれもわたしと同様であり、わたしもかれと同様である』と思って、わがみに引きくらべて、(生きるものを)殺してはならなぬ。また他人をして殺させてはならない。

706 凡夫は欲望と貪りと執著しているが、眼ある人はそれを捨てて道を歩め。この(世の)地獄を超えよ。

707 腹をへらして、食物を節し、小欲であって、貪ることなかれ。かれは貪り食う欲望に厭きて、無欲であり、安らぎに帰している。

708 その聖者は托鉢にまわり歩いてから、林のほとりにおもむき、樹の根もとにとどまって座につくべきである。

709 かれは思慮深く、瞑想に専念し、林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いにみずから満足すべきである。

710 ついで夜が明けたならば、村里のほとりに去るべきである。(信徒から)招待を受けても、また村から食物をもらってきても、決して喜んではならない。

711 聖者は、村に行ったならば、家々を荒々しくガサツに廻ってはならない。話をするな。わざわざ策して食を求めることばを発してはならない。

712 『(施しの食べ物を)得たのは善かった』『得なかったのもまた善かった』と思って、全き人はいずれの場合にも平然として還ってくる。あたかも(果実をもとめて)樹のもとに赴いた人が、(果実を得ても得なくても、平然として)帰ってくるようなものである。

713 かれは鉢を手にして歩き廻り、唖者ではないのに唖者と思われるようにするためだ。施物が少なかったらとて軽んじてはならぬ。施してくれる人を侮ってはならない。

714 道の人(ブッダ)は高く或いは低い種々の道を説き明かしたもうた。重ねて彼岸に至ることはないが、一度で彼岸に至ることもない。

715 (輪廻の)流れを断ち切った修行僧には執著が存在しない。なすべき(善)となすべからざる(悪)とを捨て去っていて、かれは煩悶が存在はない。」

716 師がいわれた、
「「あなたに聖者の道を説こう。──(食をとるには)剃刀の刃の譬えのように用心せよ。舌で上口蓋を抑え、腹についてはみずから食を節すべし。

717 心が沈んでしまってはいけない。またやたらに多くのことを考えてはいけない。腥い臭気なく、こだわることなく、清らかな行いを究極の理想とせよ。

718 独り坐することと<道の人>に奉仕することを学べ。聖者の道は独り居ることであると説かれている。独り居てこそ楽しめるであろう。

719 そうすればかれは十方に光輝くであろう。欲望をすてて瞑想している諸々の賢者の名声を聞いたならば、わが教えを聞く者はますます恥を知り、信仰を起すべきである。

720 そのことを深い淵の河水と浅瀬の河水とについて知れ。河低の浅い小川の水は音を立てて流れるが、大河の水は音を立てないで静かに流れる。

721 欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。

722 <道の人>が理法にかない意義あることを多く語るのは、みずから知って教えを説くのである。

723 しかしみずから知って己れを制し、みずから知っているのに多くのことを語らないならば、かれは聖者として聖者の行にかなう。かれは聖者として聖者の行を体得した。」


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■□■<12、二種の観察>■□■
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 わたしが聞いたところによると、──或るとき尊師はサーヴァッティーの[郊外にある]東園にあるミガーラ(長者)の母の宮殿のうちにとどまっておられた。そのとき尊師(ブッダ)はその定期的集会(布薩)の日、十五日、満月の夜に、修行僧(比丘)の仲間に囲まれて屋外に住しておられた。さて尊師は仲間が沈黙しているのを見まわして、かれらに告げていわれた、──
 修行僧たちよ。善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理がある。そなたたちが、『善にして、尊く、出離を得させ、さとりにみちびく諸々の真理を聞くのは、何故であるか』と、もしもだれかに問われたならば、かれに対しては次のように答えねばならぬ。──『二種ずつの真理を如実に知るためである』と。しからば、そなたたちのいう二種とは何であるか、というならば、『これは苦しみである。これは苦しみの原因である』というのが、一つの観察[法]である。『これは苦しみの消滅に至る道である』というのが、第二の観察[法]である。修行僧たちよ。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。

 ──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないこと(不還)である。──

 尊師はこのように告げられた。そえして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

724 苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとを知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──

725 かれらは心の解脱を欠き、また智慧の解脱を欠く。かれらは(輪廻を)終滅させることができない。かれは実に生と老いとを受ける。

726 しかるに、苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──

727 かれらは、心の解脱を具現し、また智慧の解脱を具現する。かれらは(輪廻を)終滅させることができる。かれらは生と老いとを受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて素因に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら素因が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師(ブッダ)は、さらにまた次のように説かれた。

728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することがでまるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『どんな苦しみが生ずるのでも、すべて無明に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら無明が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存にもどらないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

729 この状態から他の状態へと、くり返し生死輪廻に赴く人々は、その帰趣(行きつく先)は無明にのみ存する。

730 この無明とは大いなる迷いであり、それによって永いあいだこのように輪廻してきた。しかし明知に達した生けるものどもは、再び迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなれけばならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら潜在的形成力が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種(の観察法)を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

731 およそ苦しみが生ずるのは、すべて潜在的形成力を縁(原因)として起るのである。諸々の潜在的形成力が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

732 「苦しみは潜在的形成力の縁から起るものである」と、この災いを知って、一切の潜在的形成力が消滅し、(欲など)相を止めたならば、苦しみは消滅する。このことを如実に知って、

733 正しく見、正しく知った諸々の賢者・ヴェーダの達人は、悪魔の繋縛にうち勝って、もはや迷いの生存に戻ることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用(識)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら識別作用が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はそらにまた次のように説かれた。

734 およそ苦しみが生ずるのは、すべて識別作用に縁って起るのである。識別作用が消滅するならば、もはや苦しみが生起するということはあり得ない。

735 「苦しみは識別作用に縁って起るのである」と、この禍いを知って、識別作用を静まらせたならば、修行者は、快をむさぼることなく、安らぎに帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて接触に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら接触が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」

師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

736 接触にとらわれ、生存の流れにおしながされ、邪道を歩む人々は、束縛の消滅は遠いかなたにある。

737 しかし接触を熟知し理解して、平安を楽しむ人々は、実に接触がほろびるが故に、快を感ずることなく、安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだれかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて感受に縁って起るものである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の感受が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待される。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

738 楽であろうと、苦であろうと、悲苦悲楽であろうとも、内的にも外的にも、およそ感受されたものはすべて、

739 「これは苦しみである」と知って、滅び去るものである虚妄の事物に触れるたびごとに、衰滅することを認め、このようにしてそれらの本性を識知する。諸々の感受が消滅するが故に、修行僧は快を感ずることにく、安らぎに帰している。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、妄執(愛執)に縁って起るのである』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら妄執が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せに師はさらにまた次のように説かれた。

740 妄執を友としている人は、この状態からの状態へと永い間流転して、輪廻を超えることができない。

741 妄執は苦しみの起る原因である、とこの禍いを知って、妄執を離れて、執著することなく、よく気をつけて、修行僧は遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて執著に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の執著が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

742 執著に縁って生存が起る。生存せる者は苦しみを受ける。生れた者は死ぬ。これが苦しみの起る原因である。

743 それ故に諸々の賢者は、執著が消滅するが故に、正しく知って、生まれの消滅したことを熟知して、再び迷いの生存にもどることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて起動に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の起動が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

744 およそ苦しみが起るのは、すべて起動を縁として起る。諸々の起動が消滅するならば、苦しみの生ずることもない。

745 「苦しみは起動の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の起動を捨て去って、起動のないことにおいて解脱し、

746 生存に対する妄執を断ち、心の静まった修行僧は、生をくり返す輪廻を超える。かれはもはや生存を受けることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて食料に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の食料が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、或いは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

747 およそ苦しみが起るのは、すべて食料を縁として起る。諸々の食料が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

748 「苦しみは食料の縁から起る」と、この禍いを知って、一切の食料を熟知して、一切の食料にたよらない、

749 諸々の煩悩の汚れの消滅の故に無病の起ることを正しく知って、省察して(食料を)受用し、理法に住するヴェーダの達人は、もはや(迷いの生存者のうちに)数えられることがない。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『およそ苦しみが生ずるのは、すべて動揺に縁って起るのである。』というのが、一つの観察[法]である。『しかしながら諸々の動揺が残りなく離れ消滅するならば、苦しみの生ずることがない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

750 およそ苦しみが起るのは、すべて動揺を縁として起る。諸々の動揺が消滅するならば、もはや苦しみの生ずることもない。

751 「苦しみは動揺の縁から起る」と、この禍いを知って、それ故に修行僧は(妄執の)動揺を捨て去って、諸々の潜在的形成力を制止して、無動揺・無執著で、よく気をつけて、遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『従属するものは、たじろぐ。』というのが、一つの観察[法]である。『従属しない者は、たじろかない』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

752 従属することのない人はたじろがない。しかし従属することのある人は、この状態からあの状態へと執著していて、輪廻を超えることがない。

753 「諸々の従属の中に大きな危険がある」と、この禍いを知って、修行僧は、従属することなく、執著することなく、よく気をつけて、遍歴すべきである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『物理的領域よりも非物質的領域のほうが、よりいっそう静まっている』というのが、一つの観察[法]である。『非物質的領域よりも消滅のほうが、よりいっそう静まっている』というのが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

754 物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。

755 しかし物質的領域を熟知し、非物質的領域に安住し、消滅において解脱する人々は、死を捨て去ったのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは真理である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは虚妄である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは虚妄である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは真理である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

756 見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真実である」と考えている。

757 或ものを、ああだろう、こうだろう、と考えても、そのものは異なったものとなる。何となれば、その(愚者の)その(考え)は虚妄なのである。過ぎ去るものは虚妄なるものであるから。

758 安らぎは虚妄ならざるものである。諸々の聖者はそれを真理であると知る。かれらは実に真理をさとるが故に、快をむさぼることなく平安に帰しているのである。

 「修行僧たちよ。『また他の方法によっても二種のことがらを正しく観察することができるのか?』と、もしもだけかに問われたならば、『できる』と答えなければならない。どうしてであるか? 『神々と悪魔とともなる世界、道の人(沙門)・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは安楽である>と考えたものを、諸々の聖者は<これは苦しみである>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』というのが、一つの観察[法]である。『神々と悪魔とともなる世界、道の人・バラモン・神々・人間を含む諸々の生存者<これは苦しみである>と考えたものを、諸々の聖者は<これは安楽である>と如実に正しい智慧をもってよく観ずる』──これが第二の観察[法]である。このように二種[の観察法]を正しく観察して、怠らず、つとめ励んで、専心している修行僧にとっては、二つの果報のうちのいずれか一つの果報が期待され得る。──すなわち現世における<さとり>か、あるいは煩悩の残りがあるならば、この迷いの生存に戻らないことである。」──

 師(ブッダ)はこのように告げられた。そうして、幸せな師はさらにまた次のように説かれた。

759 有ると言われる限りの、色かたち、音声、味わい、香り、触れられるもの、考えられるものであって、好ましく愛すべく意に適うもの、──

760 それらは実に、神々並びに世人には「安楽」であると一般に認められている。また、それらが滅びる場合には、かれらはそれを「苦しみ」であると等しく認めている。

761 自己の身体(=個体)を断滅することが「安楽」である、と諸々の聖者は見る。(正しく)見る人々のこの(考え)は、一切の世間の人々と正反対である。

762 他の人々が「安楽」であると称するものを、諸々の聖者は「苦しみ」であると言う。他の人々が「苦しみ」であると称するものを、諸々の聖者は「安楽」であると知る。解し難き真理を見よ。無知なる人々はここに迷っている。

763 覆われた人々には闇がある。(正しく)見ない人々には暗黒がある。善良な人々には開顕される。あたかも見る人々に光明のあるようなものである。理法がなにであるかを知らない獣(のような愚人)は、(安らぎの)近くにあっても、それを知らない。

764 生存の貪欲にとらわれて、生存の流れにおし流され、悪魔の領土に入っている人々には、この真理は実に覚りがたい。

765 諸々の聖者以外には、そもそも誰がこの境地を覚り得るのであろうか。この境地を正しく知ったならば、煩悩の汚れのない者となって、まどかな平安に入るであろう。

 師(ブッダ)はこのように説かれた。修行僧たちは悦んで師の諸説を歓喜して迎えた。実にこの説明が述べられたときに、六十人の修行僧は執著がなくなって、心が汚れから解脱した。

[二種の観察]まとめの句

 真理(諦)と、生存の素因と、無名と、諸々の形成力と、第五に識別作用と、接触と、感受されるものと、妄執と、執著と、起動と、諸々の食と、動揺における震動と、物質的領域と、真理と苦とで、十六である。


<大いなる章>第三おわる

まとめの句

 出家と、つとめはげむことと、みごとに説かれたことと、スンダリカと、マーガと、サビヤと、セーラと、矢と、ヴァーセッタと、コーカーリヤと、ナーラカと、二種の観察と──

 これらの十二の経が「大いなる章」と言われる。

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【 第4 八つの詩句の章 】

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■□■<1,欲望>■□■
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766 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

767 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように悩み苦しむ。

768 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世で執著をのり超える。

769 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴婢・傭人・婦女・親類、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

770 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

771 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

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■□■<2、洞窟についての八つの詩句>■□■
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772 窟(自体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、──このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである
773 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

774 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、──「ここで死んでから、われわれはどうなるのだろうか」と。

775 だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、そのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

776 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえたいるのを、わたしは見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

777 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。これを見て、「わかもの」という思いを離れて行うべきである。──諸々の生存に対して執著することなしに。

778 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

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■□■<3、悪意についての八つの詩句>■□■
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780 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起こっても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとにも心の荒むことがない。

781 欲にひかれて、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である。と真理に達した人々は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは<高貴な人>である、と真理に達した人々は語る。

784 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

785 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易ではない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。

786 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか?かれはもはやたより近づくものがないのである。

787 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの議論(誹り、噂さ)を受ける。(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろえか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

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■□■<4、清浄についての八つの詩句>■□■
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788 「最上で無病の、清らかに人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧である。
789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が知識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。

791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

792 みずから誓戒をたもつ人は、思いに耽って、種々多様なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(実践的認識)によって知り、真理を理解して、種々多様なことをしようとしない。

793 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

794 かれははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。

795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えていてる。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

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■□■<5、最上についての八つの詩句>■□■
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796 世間では、人は諸々の見解のうちで勝れているとみなす見解を「最上のも」のであると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

797 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

798 ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と<真実に達した人々>は語る。それが故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

799 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。

800 かれは、すでに得た(見解)[先入見]を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異なった見解に)分かれているが、かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

801 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

802 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのないそのバラモンを、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

803 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいすれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。


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■□■<6、老 い>■□■
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804 ああ短いかな、人の生命よ。百歳にたっせずせして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまってはならない。

806 人が「これはわがものである」と考える物、──それは(その人の)死によって失われる。われに従う人は、賢明にこの理を知って、わかものという観念に屈してはならない。

807 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛したひとでも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることはできない。

808 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

809 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(モノオシ)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行って安穏(アンノン)をみたのである。

810 遠ざかり退いて行する修行者は、独り離れて座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現さないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

811 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(モノオシ)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

812 たとえば蓮の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

813 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。


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■□■<7、ティッサ・メッテイヤ>■□■
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814 ティッサ・メッテイヤさんがいった、──「きみよ。婬欲の交わりに耽る者の破滅を説いてください。あなたの教えを聞いて、われらも独り離れて住むことを学びましょう。」

815 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。婬欲の交わりに耽る者は教えを失い、邪まな行いをする。これはかれのうちにある卑しいことがらである。

816 かって独りで暮していたのに、のちに婬欲の交わりに耽る人は、車が道からはずれたようなものである。世の人々はかれを『卑しい』と呼び、また『凡夫』と呼ぶ。

817 かってかれのもっていた名誉も名声も、すべて失われる。このことわりを見たならば、婬欲の交わりを断つことを学べ。

818 かれは諸々の(欲の)想いに囚われて、困窮者のように考えこむ。このような人は、他人からのとどく非難の声を聞いて恥いってしまう。

819 そうして他人に詰られたときには虚言に陥る。すなわち、[自らを傷つける]刃(悪行)をつくるのである。これがかれの大きな難所である。

820 独りでいる修行をまもっていたときは一般に賢者と認められていた人でも、もしも婬欲の交わりに耽ったならば、愚者のように悩む。

821 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り、独りでいる修行を堅くまもれ。婬欲の交わりに耽ってはならない。

822 (俗事から)離れて独り居ることを学べ。これは諸々の聖者にとって最上のことがらである。(しかし)これだけで『自分が最上の者だ』と考えてはならない。──かれは安らぎに近づいているのだが。

823 聖者は諸々の欲望を顧みることなく、それを離れて修行し、激流を渡りおわっているので、諸々の欲望に束縛されている人々はかれを羨むのである。」──

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■□■<8、パスーラ>■□■
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824 かれらは「ここにのみ清らかさがある」と言い張って、他の諸々の教えが清らかでないと説く。「自分が依拠しているもののみを善である」と説きながら、それぞれ別々の真理に固執している。

825 かれらは論議を欲し、集会に突入し、相互に他人を<愚者である>と烙印し、他人(師など)をかさに着て、論争を交わす。──みずから真理に達したものであると称しながら、自分が称賛されるようにと望んでいる。

826 集会の中で論争に参加した者は、称賛されようと欲して、おずおずしている。そうして敗北してはうちしおれ、(論敵の)あらさがしをしているのに、(他人から)論難されると、怒る。

827 諸々の審判者がかれの所論に対し「汝の議論は敗北した。論破された」というと、論争に敗北した者は嘆き悲しみ、「かれはわたしを打ち負かした」といっい悲泣する。

828 これらの論争が諸々の修行者の間に起ると、これらの人々には得意と失意とがある。ひとはこれを見て論争をやめるべきである。称賛を得ること以外には他に、なんの役にも立たないからである。

829 あるいはまた集会の中で議論を述べて、それについて称賛されると、心の中に期待したような利益を得て、かれはそのために喜んで、心が高ぶる。

830 心の高ぶりというものは、かれの害われる場所である。しかるにかれは慢心・増上慢心の言をなす。このことわりを見て、論争してはならない。諸々の熟達せる人々は、「それによって清浄が達成される」とは説かないからである。

831 たとえぱ王に養われてきた勇士が、相手の勇士を求めて、喚声を挙げて進んでゆくようなものである。勇士よ。かの(汝にふさわしい、真理に達した人の)いるところに到れ。相手として戦うべきものは、あらかじめ存在しないのである。

832 (特殊な)偏見を固執して論争し、「これのみが真実である」と言う人々がいるならば、汝はかれに言え、──「論争が起っても、汝と対論する者はここにいない」と。

833 またかれらは対立を離脱して行い、一つの見解を[他の]諸々の偏見と抗争させない人々なのであるが、かれらに対して、あなたは何を得ようとするのか? パスーラよ。かれらの間で、「最上のもの」として固執されたものは、ここには存在しないのである。

834 さてあなたは(「自分こそ勝利を得るであろう」と)思いをめぐらし、心中にもろもろの偏見を考えて、邪悪を掃い除いた人(ブッダ)と論争しようと、やって来られたが、あなたも実にそけだけならば、それを実現することは、とてもできない。

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■□■<9、マーガンディヤ>■□■
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835 (師((ブッダ))は語った)、「われは(昔さとりを開こうとした時に)、愛執と嫌悪と貪欲(という三人の悪女)を見ても、かれらと婬欲の交わりをしたいという欲望さえも起らなかった。糞尿に満ちたみの(女が)そもそも何ものなのだろう。わたくしはそれに足でさえも触れたくないのだ。」

836 (マーガンディヤがいった)、「もしもあなたが、多くの王者がもとめた女、このような宝、が欲しくないならば、あなたはどのような見解を、どのような戒律・道徳・生活法を、またどのような生存状態に生まれかわることを説くのですか?」

837 師が答えた、「マーガンディヤよ。『わたくしはこのことを説く』、ということがわたくしにはない。諸々の事物に対する執著を執著であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た。」

838 マーガンディヤがいった、「聖者さま。あなたは考えて構成された偏見の定説を固執することなしに、<内心の安らぎ>ということをお説きになりますが、そのことわりを諸々の賢人はどのように説いておられるのでしょうか?」

839 師は答えた、「マーガンディヤよ。『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」

840 マーガンディヤがいった、「もしも、『教義によっても、学問によっても、知識によっても、戒律や道徳によっても清らかになのことがではない』と説き、また『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができない』と説くのであれば、それはばかばしい教えである、とわたくしは考えます。教義によって清らかになることができる、と或る人々は考えます。」

841 師は答えた、「マーガンディヤよ。あなたは(自分の)教義にもとづいて尋ね求めるものだから、執著したことがらについて迷妄に陥ったのです。あなたはこの(内心の平安)について微かな想いをさえもいだいていない。だから、あなたは(わたしの説を)『ばかばかしい』とみなすのです。

842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣っている』とか考える人、──かれらはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、──かれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。

843 そのバラモンはどうして『(わが説は)真実である』と論ずるであろうか。またかれらは『(汝の説は)虚偽である』といって誰と論争するであろうか?『等しい』とか『等しくない』とかいうことのなくなった人は、誰に論争を挑むであろうか。

844 家を捨てて、住所を定めずにさまよい、村の中で親交を結ぶことのない聖者は、諸々の欲望を離れ、未来に望みをかけることなく、人々に対して異論を立てて談論をしててはならない。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。

846 ヴェーダの達人は、見解についても、思想についても、慢心に至ることがない。かれらの本性はそのようなものではないからである。かれらは宗教的行為によっても導かれないし、また伝統的な学問によっても導かれない。

847 想いを離れた人には、結ぶ縛めが存在しない。智慧によって解脱した人には、迷いが存在しない。想いと偏見とに固執した人々は、互いに衝突しながら、世の中をうろつく。」


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■□■<10、死ぬよりも前に>■□■
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848 「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか? ゴータマ(ブッダ)よ。おたずねしますが、その最上の人のことをわたくしに説いてください。」

849 師は答えた「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらすことがないならば、かれは(未来に関しても)特に思いわずらうことがない。

850 かの聖者は、怒らず、おののかず、誇らず、あとで後悔するような悪い行いをなさず、よく思慮して語り、そわそわすることなく、ことばを慎しむ。

851 未来を願い求めることなく、過去を思い出して憂えることもない。[現在]感官で触れる諸々の対象について遠ざかり離れることを観じ、諸々の偏見に誘われることがない。

852 (貪欲などから)遠ざかり、偽ることなく、貪り求めることなく、慳みせず、傲慢にならず、嫌われず、両舌を事としない。

853 快いものに耽溺せず、また高慢にならず、柔和で、弁舌さわやかに、信ずることなく、なにかを嫌うこともない。

854 利益を欲して学ぶのではない。利益がなかったとしても、怒ることがない。妄執のために他人に逆らうことなく、美味に耽溺することもない。

855 平静であって、常によく気をつけていて、世間において(他人を自分と)等しいとも思わない。また自分が勝れているとも思わないし、また劣っているとも思わない。かれは煩悩の燃え盛ることがない。

856 依りかかることのない人は、理法を知ってこだわることがないのである。かれには、生存の断滅のための妄執も存在しない。

857 諸々の欲望を顧慮することのない人、──かれこそ<平安なる者>である、とわたしは説く。かれには締めの結び目は存在しない。かれはすでに執著を渡り了えた。

858 かれには、子も、家畜も、田畑も、地所も存在しない。すでに得たものも、捨て去ったものも、かれのうちには認められない。

859 世俗の人々、または道の人・バラモンどもがかれを非難して(貪りなどの過)があるというであろうが、かれはその(非難)を特にきにかけることはない。それ故に、かれは論議されても、動揺することがない。

860 聖者は貪りを離れ、慳みすることなく、『自分は勝れたものである』とも、『自分は等しいものである』とも『自分は劣ったものである』とも論ずることがない。かれは分別を受けることのないものであって、妄想分別におもむかない。

861 かれは世間において<わがもの>という所有がない。また無所有を嘆くこともない。かれは[欲望に促されて]、諸々の事物に赴くこともない。かれは実に<平安なる者>と呼ばれる。」


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■□■<11、争 闘>■□■
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862 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳みと慢心と傲慢と悪口しは、どこから現われ出たのですか? これはどこから起ったのですか? どうか、それを教えてください。」 863 「争闘と争論と悲しみと憂いと慳(モノオシ)みと慢心し傲慢と悪口とは愛し好むものにもとづいて起る。争闘と争論とは慳みに伴い、争論が生じたときに、悪口が起る。」

864 「世間において、愛し好むものは何にもとづいて起るのですか。また世間にははびこる貪りは何にもとづいて起るのですか? また人が来世に関していだく希望とその成就とは、何にもとづいて起るのですか?」

865 「世の中で愛し好むもの及び世の中にはびこる貪りは、欲望にもとづいて起る。また人が来世に関していだく希望と成就とは、それにもとづいて起る。」

866 「さて世の中で欲望は何にもとづいて起るのですか? また(形而上学的な)断定は何から起るのですか? 怒りと虚言と疑惑と及び<道の人>(沙門)の説いた諸々のことがらは、何から起るのですか?」

867 「世の中で<快><不快>と称するものに依って、欲望が起る。諸々の物質的存在には正起と消滅とのあることを見て、世の中には<外的な事物にとらわれた>断定を下す。

868 怒りと虚言と疑惑、──これらのことがらも、(快と不快との)二つがあるときに現れる。疑惑ある人は知識の道に学べ。<道の人>は、知って、諸々のことがらを説いたのである。」

869 「快と不快とは何にもとづいて起るのですか? また何がないときにこれらのものが現れないのですか? また生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているものを、われに語ってください。」

870 「快と不快とは、感官による接触にもとづいて起る。感官の接触が存在しないときには、これらのものも起こらない。生起と消滅ということの意義と、それの起るもととなっているもの(感官による接触)を、われは汝に告げる。」

871 「世の中で感覚による接触は何にもとづいて起るのですか? また所有欲は何から起るのですか? 何ものが存在しないときに、<わがもの>という我執が存在しないのですか?

872 「名称と形態とに依って感官による接触が起る。諸々の所有欲は欲求を縁として起る。欲求がないときには、<わかもの>という我執も存在しない。形態が消滅したときには<感官による接触>ははたらかない。」

873 「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか? 楽と苦とはいかにして消滅するのですか? どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたくしに説いてください。わたくしはそれを知りたいものです。──わたくしはこのように考えました。」

874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。

875 「われらがあなたにおたずねしたことを、あなたはわれわれに説き明かしてくださいました。われらは別のことをあなたにおたずねしましょう。どうか、それを説いてください。
──この世における或る賢者たちは、『この状態だけが、霊(タマシイ)の最上の清浄の境地である』とわれらに語ります。しかしまた、それよりも以上に、『他の(清浄の境地)がある』と説く人々もいるのでしようか?」

876 「この世において或る賢者たちは、『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうち(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」

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■□■<12、並ぶ応答─小篇>■□■
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878 (世の学者たちは)めいめいの見解に固執して、互いに異なった執見をいだいて争い、(みずから真理への)熟達者であると称して、さまざまに論ずる。──「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ不完全な人である」と。

879 かれらはこのように異なった執見をいだいて論争し、「論敵は愚者であって、真理に達した人でない」と言う。これらの人々はみな「自分こそ真理に達した人である」と語っているが、これらのうちで、どの説が真理なのであろうか?

880 もしも論敵の教えを承認しない人が愚者であって、低級な者であって、智慧の劣った者であるならば、これらの人々はすべて(各自の)偏見を固執しているのであるから、かれらはすべて愚者であり、ごく智慧の劣った者であるということになる。

881 またもし自分の見解によって清らかとなり、自分の見解によって、真理に達した人、聡明な人となるのであるのならば、かれらのうちには知性のない者はだれもいないことになる。かれらの見解は(その点で)等しく完全であるから。

882 諸々の愚者が相互に他人に対していうことばを聞いて、わたくしは「これは真実である」とは説かない。かれらは各自の見解を真実であるとみなしたのだ。それ故にかれらは他人を「愚者」であると決めつけるのである。

883 或る人々が「真理である、真実である」と言うところのその(見解)をば、他の人々が「虚偽である、虚妄である」と言う。このようにかれらは異なった執見をいだいて論争する。何故に諸々の<道の人>は同一の事をを語らないのであろうか?

884 真実は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない。かれらはめいめい異なった真理をほめたたえあっている。それ故にもろもろの<道の人>は同一の事を語らないのである。

885 みずから真理に達した人であると自称して語る論者たちは、何故に種々異なった真理を説くのであろうか? かれは多くの種々異なった真理を(他人から)聞いたのであるか? あるいはまたかれらは自分の思索に従っているのであろうか?

886 世の中には、多くの異なった真理が永久に存在しているのではない。ただ永久のものだと想像しているだけである。かれらは、諸々の偏見にもとづいて思索考研を行って、「(わが説は)真理である」「(他人の説は)虚妄である」と二つのことを説いているのである。

887 偏見や伝承の学問や戒律や誓いや思想や、これらに依存して(他の説を)蔑視し、(自己の学説の)断定的結論に立って喜びながら、「反対者は愚人である、無能な奴だ」という。

888 反対者を(愚者)であると見なすとともに、自己を<真理に達した人>であるという。かれはみずから自分を<真理に達した人>であると称しながら、他人を蔑視し、そのように語る。

889 かれは過った妄見を以てみたされ、驕慢によって狂い、自分は完全なものであると思いなし、みずからの心のうちでは自分を賢者だと自認している。かれのその見解は、(かれによれば)そのように完全なものだからである。

890 もしも、他人が自分を(「愚劣だ」と)呼ぶが故に、愚劣となるのであれば、その(呼ぶ人)自身は(相手と)ともに愚劣な者となる。また、もしも自分でヴェーダの達人・賢者と称しているのであれば、諸々の、<道の人>のうちには愚者は一人も存在しないことになる。

891 「この(わが説)以外の他の教えを宣説する人々は、清浄に背き、<不完全な人>である」と、一般の諸々の異説の徒はこのようにさまざまに説く。かれは自己の偏見に耽溺して汚れに染まっているからである。

892 ここ(わが説)にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸々の異説の徒はさまざまに執著し、かの自分の道を堅くまもって論ずる。

893 自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何びとを愚者であると見ることができようぞ。他(の説)を、「愚者である」、「不浄の教えである」、と説くならば、かれはみずから確執をもたらすであろう。

894 一方的に決定した立場に立ってみずから考え量りつつ、さらにかれは世の中で論争をなすに至る。一切の(哲学的)断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。


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■□■<13、並ぶ応答─長篇>■□■
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895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。

896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。

897 すべて凡俗の徒のいだく、これらの世俗的見解に、智者は近づくことがない。かれは、見たり聞いたりしたことがらについて「これだ」と認め知ることがないから、こだわりがない。かれはそもそもどんなこだわりに赴くのであろうか?

898 戒律を最上のものと仰いでいる人々は、「制戒によって清浄が得られる」と説き、誓戒を受けている。「われわれはこの教えで学びましょう。そうすれば清浄が得られるでしょう」といって、<真理に達した者>と称する人々は、流転する迷いの生存に誘きこまれる。

899 もしもかれが戒律や誓戒を破ったならば、かれは(戒律や誓戒の)つとめにそむいて、おそれおののく。(それのみならず)かれは「こうしてのみ清浄が得られる」ととなえて望み求めている。たとえば隊商からはぐれた(商人が隊商をもとめ)、家から旅立った(旅人が家をもとめる)ようなものである。

900 一切の戒律や誓いをも捨て、(世間の)罪過あり或いは罪過なき(宗教的)行為をも捨て、「清浄である」とか「不浄であると」とかいってねがい求めることもなく、それらにとらわれずに行え。──安らぎを固執することもなく。

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。

903 或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか? ──かれはすべて自分らこそ真理に達した者である称しているのであるが。

904 かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。かれらはこのように互いに異った執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真実である」と説く。

905 もしも他人に非難されているが故に下劣なのであるというならば、諸々の教えのうちで勝れたものは一つもないことになろう。けだし世人はみな自己の説を堅く主張して、他人の教えを劣ったものだと説いているからである。

906 かれらは自分の道を称賛するように、自己の教えを尊重している。しからば一切の議論がそのとおり真実であるということになるであろう。かれらはそれぞれ清浄となれるからである。

907 (真の)バラモンは、他人に導かれるということがない。また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。それ故に、諸々の論争を超越している。他の教えを最も勝れたものだと見なすこともないからである。

908 「われは知る。われは見る。これはそのとうりである」という見解によって清浄になることができる、と或る人々は理解している。たといかれが見たとしても、それがそなたにとって、何の用があるだろう。かれらは、正しい道を踏みはずして、他人によって清浄となると説く。

909 見る人は名称と形態とを見る。また見てはそれらを(常住または安楽であると)認めるであろう。見たい人は、多かれ少かれ、それらを(そのように)見たらよいだろう。真理に達した人々は、それ(を見ること)によって清浄になるとは説かないからである。

910 (「われは知る」「われは見る」ということに)執著とて論ずる人は、みずから構えた偏見を尊重しているので、かれを導くことは容易ではない。自分の依拠することがらのみ適正であると説き、そのことがらに(のみ)清浄(となる道)を認める論者は、そのように(一方的に)見たのである。

911 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない。見解に流されず、知識にもなずまない。かれは凡俗のたてる諸々の見解を知って、心にとどめない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

912 聖者はこの世で諸々の束縛を捨て去って、論争が起こったときにも、党派にくみすることがない。かれは不安な人々のうちにあっても安らけく、泰然として、執することがない。──他の人々はそれに執著しているのだが。──

913 過去の汚れを捨てて、新しい汚れをつくることなく、欲におもむかず、執著して論ずることもない。賢者は諸々の偏見を離脱して、世の中に汚されることなく。自分を責めることもない。

914 見たり、学んだり、考えたりしたどんなことについてでも、賢者は一切の事物に対して敵対することがない。かれは負担をはなれて解放されている。かれははからいをなすことなく、快楽に耽ることなく、求めることもない。

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■□■<14、迅 速>■□■
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915 [問うていわく──]「・・・・修行者はどのように観じて、世の中のものを執することなく、安らいに入るのですか?」

916 師(ブッダ)は答えた、「<われは考えて、有る>という<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ。内に存するいかなる妄執をもよく導くために、常に心して学べ。

917 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らいであるとは真理に達した人々は説かないからである。

918 これ(慢心)によって『自分は勝れている』と思ってはならない。『自分は劣っている』とか、また『自分は等しい』とか思ってはならない。いろいろの質問を受けても、自己を妄想せずにおれ。

919 修行者は心のうちが平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内面的に平安となった人には取り上げられるものは存在しない。どうして捨てられるものがあろうか。

920 海洋の奥深いところでは波が起こらないで、静止しているように、静止して不動であれ。修行者は何ものについても欲念をもり上げてはならない。」

921[質問者はいわく]、「眼を開いた人は、みずから体験したことがら、危難の克服、を説いてくださいました。ねがわくは正しい道を説いてください。戒律規定や、精神安定の法をも説いてください。」

922 [師いわく]、「眼で見ることを貪ってはならない。卑俗な話から耳を遠ざけよ。味に耽溺してはならない。世間における何ものをも、わかものであるとみなして固執してはならない。

923 苦痛を感じるときがあっても、修行者は決して悲嘆してはならない。生存を貪り求めてはならない。恐ろしいものに出会っても、慄(フル)えてはならない。

924 食物や飲料や堅い食べものや衣服を得ても、貯蔵してはならない。またそれらがえられないからとて心配してはならない。

925 こころを安定させよう。うろついてはならないるあとで後悔するようなことをやめよ。怠けてはならなぬ。そうして修行者は閑静な座所・臥所に住むべきである。

926 多く眠ってはならぬ。熱心に努め、目ざめているべきである。ものぐさと偽りと談笑と遊戯と婬欲の交わりと装飾とを捨てよ。

927 わが徒は、アタルヴァーダの呪法と夢占いと相の占いとを行ってはならない。鳥獣の声を占ったり、懐妊術や医術を行ったりしてはならない。

928 修行者は、非難されても、くよくよしてはならない。称讃されても、高ぶってはならない。貪欲と慳みと怒りと悪口を除き去れ。

929 修行者は、売買に従事してはならない。決して誹謗をしてはならない。また村の人々と親しく交わってはならない。利益を求めて人々に話しかけてはならない。

930 また修行者は高慢であってはならない。また(自分の利益を得るために)遠廻しに策したことばを語ってはならない。傲慢であってはならない。不和をもたらす言葉を語ってはならない。 931 虚言をなすことなかれ、知りながら詐りをしないようにせよ。また生活に関しても、知識に関しても、戒律や道徳に関しても、自分が他人よりもすぐれていると思ってはならない。

932 諸々の出家修行者やいろいろ言い立てる世俗人に辱しめられ、その(不快な)ことばを多く聞いても、あらあらしいことばを以て答えてはならない。立派な人々は敵対的な返答をしないからである。

し 933 修行者はこの道理を知って、よく弁えて、つねに気をつけて学べ。諸々の煩悩の消滅した状態が「安らぎ」であると知って、ゴータマ(ブッタ)の教えにおいて怠ってはならない。

934 かれは、みずから勝ち、他にうち勝たれることがない。他人から伝え聞いたのではなくて、みずから証する理法を見た。それ故に、かの師(ブッタ)の教えに従って、怠ることなく、つねに礼拝して、従い学べ。」

──このように師(ブッダ) はいわれた。


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■□■<15、武器を執ること>■□■
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935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。

936 水の少ないところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が起った。

937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

938 (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

939 この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢を抜いたならば、(あちこちを)駆けめぐることもなく、沈むこともない。

940 そこで次に実践のしかたが順次に述べられる。──世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。諸々の欲望を究めつくして、自己の安らぎを学べ。

941 聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。

942 安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな。

943 虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。

944 古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。

945 わたくしは、(牽引する者のことを)貪欲、ものすごい激流と呼び、吸い込む欲求と呼び、はからい、捕捉と呼びね超えがたい欲望の汚泥であるともいう。

946 バラモンである聖者は、真実から離れることなく、陸地(安らぎ)に立っている。かれは一切を捨て去って、「安らぎになった人」と呼ばれる。

947 かれは智者であり、ヴェーダの達人である。かれは理法を知りおわって、依りかかることがない。かれは世間において正しくふるまい、世の中で何びとをも羨むことがない。

948 世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。

949 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。

950 名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない。

951 「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。

952 苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である。──動じない人について問う人があれば、その美点をわたくしは説くであろう。

953 動揺して煩悩に悩まされることなく、叡智ある人にとっては、いかなる作為も存在しない。かれはあくせくした営みから離れて、至るところに安穏を見る。

954 聖者は自分が等しい者どものうちにいるとも言わないし、劣った者のうちにいるとも、勝れた者のうちにいるとも言わない。かれは安らいに帰し、取ることもなく、捨てることもない。

 ──と師は説かれた。


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■□■<16、サーリプッタ>■□■
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955 サーリプッタさんが言った、──
「わたくしは未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。──このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来りたもうたことを。

956 眼ある人(ブッダ)は、神々及び世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで(法)楽をうけられた。

957 こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来りたもうた師・目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここに参りました。

958 修行者は世を厭うて、人のいない座所や樹下や墓地を愛し、山間の洞窟の中におり、

959 または種々の座所のうちにいるのであるが、そこにはどんなに恐ろしいことがあるのだろう。──修行者は音のしないところに坐臥していても、それらを恐れて震えてはならないのだが。

960 未到の地におもむく人にとっては、この世にどれだけの危難があることだろう。──修行者は辺鄙なところに坐臥していても、それらの危難にうち克たなければならないのだが。

961 熱心につとめる修行者には、いかなることばを発すべきか? ここでかれのふるまう範囲はいかにあるべきか? かれのまもる戒律や誓いはどのようなものなのですか?

962 心を安定させ気を落ち着けている賢者は、どのような学脩を身に受けて、自分の汚れを吹き去るのですか? ──譬えば鍛冶工が銀の垢を吹き去るように。」

963 師(ブッダ)は答えた、
「サーリプッタよ。世を厭い、人なき所に坐臥し、さとりを欲する人が楽しむ境地および法にしたがって実践する次第を、わたくしの知り究めたところによって、そなたに説き示そう。

964 しっかりと気をつけ分限を守る聡明な修行者は、五種の恐怖におじけてはならない。すなわち襲いかかる虻と蚊と爬虫類と四足獣と人間(盗賊など)に触れることである。

965 異った他の教えを奉ずる輩を恐れてはならない。──たといかれらが多くの恐ろしい危害を加えるのを見ても。──また善を追求して、他の諸々の危難にうち勝て。

966 病いにかかり、餓えに襲われても、また寒冷や酷暑をも耐え忍ぶべきである。かの<家なま人>は、たといそれらに襲われることがいろいろ多くても、勇気をたもって、堅固に努力をなすべきである。

967 盗みを行なってはならぬ。虚言を語ってはならぬ。弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ。心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。

968 怒りと高慢とに支配されるな。それらの根を掘りつくしておれ。また快いものも不快なものも、両者にしっかりと、うち克つべきである。

969 智慧をまず第一に重んじて、善を喜び、それらの危難にうち勝て。奥まった土地に伏す不快に堪えよ。次の四つの憂うべきことに堪えよ。

970 すなわち『わたしは何を食べようか』『わたしはどこで食べようか』『(昨夜は)わたしは眠りづらかった』『今夜はわたしはどこで寝ようか』──家を捨て道を学ぶ人は、これら(四つの)憂いに導く思慮を抑制せよ。

971 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ。かれは衣食に関して恣ままならず、慎しんで村を歩み、罵られてもあらあらしいことばを発してはならない。

972 眼を下に向けて、うろつき廻ることなく、瞑想に専念して、大いにめざめておれ。心を平静にして、精神の安定をたもち、思いわずらいと欲のねがいと悔恨とを断ち切れ。

973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。

974 またさらに、世間には五つの塵垢がある。よく気をつけて、それらを制するためにつとめよ。すなわち色かたちと音声と味と香りと触れられるものに対する貪欲を抑制せよ。

975 修行僧は、よく気をつけて、心もすっかり解脱して、これらのものに対する欲望を抑制せよ。かれは適当な時に理法を正しく考察し、心を統一して、暗黒を滅ぼせ。」
 ──と師(ブッダ)はいわれた。


<八つの詩句の章>第四おわる

まとめの句

 欲望と、洞窟と、悪意と清浄と、最上と、老いと、メッテイヤとバスーラと、マーガンディヤと、死ぬよりも前にと、争闘と、二つの<並ぶ応答>と、迅速と、武器を執ることと、サーリプッタの質問とで、十六になる。
 これらの経はすべて<八つの詩句の章>である。

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【 第5 彼岸にいたる道の章 】

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■□■<1、 序  >■□■
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976 明呪(ヴェーダ)に通じた一バラモン(バーヴァリ)は、無所有の境地を得ようと願って、コーサラ族の美しい都から、南国へとやってきた。

977 かれはアッサカとアラカと(両国の)中間の地域を流れるゴーダーヴァリー河の岸辺に住んでいた、──落穂を拾い木の実を食って。

978 その河岸の近くに一つの豊かな村があった。そこから得た収益によってかれは大きな祭りを催した。

979 かれは、大きな祭りをなし終って、自分の庵にもどった。かれがもどってきたときに、他の一人のバラモンがやってきた。

980 足を傷め、のどが渇き、歯がよごけ、頭は塵をあびて、かれは、(庵室の中の)かれ(バーヴァリ)に近づいて、五百金を乞うた。

981 バーヴァリはかれを見て、座席を勧め、かれが快適であるかどうか、健康であるかどうか、をたずね、次のことばを述べた。

982 「わたくしがもっていた施物はすべて、わたしが施してしまいました。バラモンよ。どうかおゆるしください。わたくしには五百金がないのです。」

983 「わたくしが乞うているのに、あなたが施してくださらないならば、いまから七日の後に、あなたの頭は七つに裂けてしまえ。」

984 詐りをもうけた(そのバラモン)は、(呪詛の)作法をして、恐ろしいことを告げた。かれのその(呪詛の)ことばを聞いて、バーヴァリは苦しみ悩んだ。

985 それは憂いの矢に中てられて、食物もとらないで、うちしおれた。もはや、心がこのような気持では、心は瞑想を楽しまなかった。

986 バーヴァリが恐れおののき苦しみ悩んでいるのを見て、(庵室を護る)女神は、かれのためを思って、かれのもとに近づいて、次のように語った。

987 「かれは頭のことを知っていません。かれは財を欲しがっている詐欺者なのです。頭のことも、頭の落ちることも、かれは知っていないのです。」

988 「では、貴女は知っておられるのでしょう。お尋ねしますが、頭のことも、頭の落ちることをも、わたくしに話してください。われらは貴女のおことばを聞きたいのです。」

989 「わたしだってそれを知っていませんよ。それについての知識はわたしにはありません。頭のことも、頭の落ちることも、諸々の勝利者(ブッダ) が見そなわしておられます。」

990 「ではこの地上において頭のことと頭の裂け落ちることとを、誰が知っておられるのでですか? 女神さま。どうかわたしに話してください。」

991 「むかしカピラヴァットゥの都から出て行った世界の指導者(ブッダ)がおられまするかれは甘蔗王のの後裔であり、シャカ族の子で、世を照す。

992 バラモンよ。かれは実に目ざめた人(ブッダ)であり、あらゆるものの極致に達し、一切の神通と力とを得、あらゆるものを見通す眼をもっている。あらゆるものの消滅に達し、煩いをなくして解脱しておられます。

993 かの目ざめた人(ブッダ)、尊き師、眼ある人は、世に法を説きたもう。そなたは、かれのもとに赴いて、問いなさい。かれは、それを説明するでしょう。」

994 <目ざめた人>という語を聞いてバーヴァリは歓喜した。かれの憂いは薄らいだ。かれは大いに喜んだ。

995 かのバーヴァリはこころ喜び、歓喜し、感動して、熱心に、かの女神に問うた。
「世間の主は、どの村に、またどの町に、あるいはとせの地方にいらっしゃるのですか?
そこへ行って最上の人である正覚者をわれわれは礼拝しましょう。」

996 勝利者・智慧豊かな人・いとも聡明な人・荷をおろした人・汚れない人・頭のおちることを知っている人・牛王のような人であるかのシャカ族の子(ブッダ)は、コーラサ国の都であるサーヴァッティーにまします。」

997 そこでかれは(ヴェーダの)神呪に通達した諸々の弟子・バラモンたちに告げていった、
「来たれ、学生どもよ。われは、そなたらに告げよう。わがことばを聞け。

998 世間に出現すること常に稀有であるところの、かの<目ざめた人>(ブッダ)として命名ある方が、いま世の中に現れたもうた。そなたらは急いでサーヴァッティーに赴いて、かの最上の人に見えよ。」

999 「では(師)バラモンよ。かれを見て、どうして<目ざめた人>(ブッダ)であると知り得るのでしょう? われらはどうしたらそれを知り得るか、それを教えてください。われらは知らないのです。」

1000 諸々の神呪(ヴェーダ)の中に、三十二の完全な偉人の相が伝えられ、順次に一つ一つ説明されている。

1001 肢体にこれらの三十二の偉人の相のある人、──かれには二つの前途があるのみ。第三の途はありえない。

1002 もしもかれが、<転輪王>として家にとどまるならば、この大地を征服するであろう。刑罰によらず、武器によらず、法によって統治する。

1003 またもしもかれが家から出て家なきに入れば、蔽いを開いて、無上なる<目ざめた人>(ブッダ)、尊敬さるべき人となる。

1004 (わが)生れと、姓と、身体の特徴と、神呪(習ったヴェーダ)と、また弟子たちと、頭のことと、頭も裂け落ちることとを、ただ心の中で(口に出さずに)かれに問え。

1005 もしもかれが、見るはたらきの障礙のない<目ざめた人>(ブッダ)であるならば、心の中で問われた質問に、ことばを以て返答するであろう。」

1006 バーヴァリのことばを聞いて、弟子である十六人のバラモン──アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、およびメッタグーと、

1007 ドーカタと、ウパシーヴァと、ナンダと、およびヘーマカと、トーデイヤとカッパとの両人と、賢者ジャトゥカンニンと、

1008 バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラというバラモンと、聡明なるモーガラーシャと、大仙人ピンギヤと、──

1009 かれらはすべて、それぞれ衆徒を率い、全世界に命名があり、瞑想を行い、瞑想を楽しむ者で、しっかりと落ち着いていて、前世に宿善を植えた人々であった。

1010 髪を結い羚羊皮をまとったかれは、すべてバーヴァリを礼し、またかれに右まわりの礼をして、北方に向って出発した。

1011 ムラカの(首都)パティターナに入り、それから昔の[都]マーヒッサティへ、またウッジェーニーへ、コ゜ーナッダ、ブェーディサへ、ヴァナサというところへ、

1012 またコーサンビーへ、サーケータへ、最高の都サーヴァッティーに行った。(ついで)セータヴィヤへ、カピラヴァットゥへ、タシナーラーの宮殿へ(行った)。

1013 さらに享楽の都市パーヴァーへ、ヴェーサーリーへ、マガダの都(王舎城)へ、またうるわしく楽しい(石の霊地)に達した。

1014 渇した人が冷水を求めるように、また商人が大きな利益を求めるように、暑熱に悩まされている人が木陰を求めるように、かれらは急いで(尊師ブッダのまします)山に登った。

1015 尊き師(ブッダ)はそのとき僧衆に敬われ、獅子が林の中で吼えるように修行僧(比丘)らに法を説いておられた。

1016 光を放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(ブッダ)をアジタは見たのであった。

1017 そこで(アジタは)師(ブッダ)の肢体に円満な相好のそなわっているのを見て、喜んで、傍らに立ち、こころの中で(ブッダにつぎのように)質問した。──

1018 「(わが師バーヴァリの)生年について語れ。(バーヴァリの)姓と特徴とを語れ。神呪(ヴェーダ)に通達していることを語れ。(師)バラモンは幾人に教えているのか?」

1019 (師はいわれた)、「かれの年齢は百二十歳である。かれの姓はバーヴァリである。かれの肢体には三つの特徴がある。かれは三ヴェーダの奥義に達している。

1020 偉人の特徴と伝説と語彙と儀規とに達し、五百人(の弟子)に教授し、自分の教説の極致に通達している。」

1021 (アジタいわく)、「妄執を断じた最高の人よ。バーヴァリのもつ諸々の特徴の詳細を説いてください。わたくしに疑いを残さないでください。」

1022 [師いわく]、「かれは舌を以てかれの顔を蔽う。かれの両眉の中間に柔い白い毛(百毫) がある。かれの隠所は覆いに隠されている。学生ょ、(かれの三つの特徴を)このように知れ。」

1023 質問者がなにも声を出して聞いたのでないのにね(ブッダが)質問に答えたもうたのを聞いて、すべての人は感激し、合掌して、じっと考えた。──

1024 いかなる神が心の中でそれらの質問をしたのだろか? ──神か、梵天か、またはスジャーの夫なる帝釈天か? ──また[尊師は]誰に答えたもうたのだろう?

1025 (アジタがいった)、「バーヴァリは頭のことについて、また頭の裂け落ちることについて質問しました。先生! それを説明してください。仙人さま! われらの疑惑を除いてください。」

1026 (ゴータマ・ブッタは答えた)、「無明が頭であると知れ。明知が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである。」

1027 そこで、その学生は大いなる感激をもって狂喜しつつ、羚羊皮(の衣)を(はずして)一方の肩にかけて、(尊師の)両足に跪いて、頭をつけて礼をした。

1028 (アジタがいった)、「わが親愛なる友よ。バーヴァリ・バラモンは、かれの弟子たちとともに、心に歓喜し悦んで、あなたさま(ブッダ)の足下に礼拝します。眼あるかたよ。」

1029 (ゴータマは答えた)、「バーヴァリ・バラモンも、諸々の弟子も、ともに楽しくあれ。
学生よ、そなたもまた楽しくあれ。永く生きよ。

1030 バーヴァリにとっても、そなたにとっても、もしも疑問が起って、心に問おうと欲するならば、何でも質問なさい。」

1031 <目ざめた人>(ブッダ)に許されたので、アジタは合掌して坐して、そこで真理体現者(如来)に第一の質問をした。

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■□■<2、学生アジタの質問>■□■
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1032 アジタさんがたずねた、
「世間は何によって覆われているのですか? 世間は何によって輝かないのですか? 世間をけがすものは何ですか? 世間の大きな恐怖は何ですか? それを説いてください。」

1033 師(ブッダ)が答えた、
「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」

1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気をつけることと名称と形態とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」

1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」

1038 「この世には真理を究め明らめた人々もあり、学びつつある人もあり、凡夫もおります。おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ。」

1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切の事物の真相に熟達し、よく気をつけて遍歴せよ。」

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■□■<3、学生ティッサ・メッテイヤの質問>■□■
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1040 ティッサ・メッテイヤさんがたずねた、
「この世で満足している人は誰ですか? 動揺することがないのは誰ですか? 両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されることがない、聡明な人は誰ですか? あなたは誰を<偉大な人>と呼ばれますか? この世で縫う女(妄執)を超えた人は誰ですか?」

1041 師(ブッダ)は答えた、「メッテイヤよ。諸々の欲望に関して清らかな行いをまもり、妄執を離れて、つねに気をつけて、究め明らめて、安らいに帰した修行者、──かれには動揺は存在しない。

1042 かれは両極端を知りつくして、よく考えて、(両極端にも)中間にも汚されない。かれを、わたしは<偉大な人>と呼ぶ。かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている。」


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■□■<4、学生プンナカの質問>■□■
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1043 プンナカさんがたずねた、
「動揺することなく根本を達観せられたあなたに、おたずねしょうと思って、参りました。仙人や常の人々や王室やバラモンは、何の故にこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのですか? 先生! あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1044 師(ブッタ)は答えた、
「プンナカよ。およそ仙人や常の人々や王族やバラモンがこの世で盛んに神々に犠牲を捧げたのは、われらの現在のこのような生存状態を希望して、老衰にこだわって、犠牲を捧げたのである。」

1045 プンナカさんがいった、
「先生! およそこの世で仙人や常の人々や王族やバラモンが盛んに神々に犠牲を捧げましたが、祭祀の道において怠らなかったかれらは、生と老衰をのり超えたのでしょうか? わが親愛なる友よ。あなたにおたずねします。それをわたしに説いてください。」

1046 師は答えた、
「プンナカよ。かれらは希望し、称賛し、熱望して、献供する。利得を得ることに縁って欲望を達成しようと望んでいるのである。供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。かれらは生や老衰をのり超えてはいない、とわたしは説く。」

1047 プンナカさんがいった、
「もしも供犠に専念している彼らが祭祀によっても生と老衰とを乗り越えていないのでしたら、わが親愛なる友よ、では神々と人間の世界のうちで生と老衰とを乗り越えた人は誰なのですか? 先生! あなたにお尋ねします。それをわたしに説いてください。」

1048 師は答えた、
「プンナカよ。世の中でかれこれ(の状態)を究め明らめ、世の中で何ものにも動揺することなく、安らぎに帰し、煙なく、苦悩なく、望むことのない人、──かれは生と老衰とを乗り越えた、──と、わたしは説く。」


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■□■<5、学生メッタグーの質問>■□■
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1049 メッタグーさんがたずねた、
「先生! あなたにおたずねします。このことをわたしに説いてください。あなたはヴェーダの達人、心を修養された方だとわたくしは考えます。世の中にある種々様々な、これらの苦しみは、そもそもどこから現われ出たのですか。」

1050 師(ブッタ)は答えた、
「メッタグーよ。そなたは、わたしに苦しみの生起するもとを問うた。わたしは知り得たとおりに、それをそなたに説き示そう。世の中にある種々様々な苦しみは、執著を縁として生起する。」

1051 実に知ることなくして執著をつくる人は愚鈍であり、くり返し苦しみに近づく。だから、知ることあり、苦しみの生起のもとを観じた人は、再生の素因(=執著)をつくってはならない。」

1052 「われらがあなたにおたずねしましたことを、あなたはわれらに説き明かしてくださいました。あなたに他のことをおたずねしますが、どうかそれを説いてください。どのようにしたならば、諸々の賢者は煩悩の激流、生と老衰、憂いと悲しみとを乗り越えるのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説き明かしてください。あなたはこの法則をあるがままに知っておられるからです。」

1053 師が答えた、
「メッタグーよ。伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、わたしはそなたに解いて明かすであろう。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えよ。」

1054 偉大な仙人さま。わたくしはその最上の理法を受けて歓喜します。その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えるでしょう。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

1056 このようにして、よく気をつけ、怠ることなく行う修行者は、わかものとみなして固執したものを捨て、生や老衰や憂いや悲しみをも捨てて、この世で智者となって、苦しみを捨てるであろう。」

1057 「偉大な仙人のことばを聞いて、わたくしは喜びます。ゴータマ(ブッダ)さま。煩悩の要素のない境地がよく説き明かされました。たしかに先生は苦しみを捨てられたのです。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのです。

1058 聖者さま。あなたが懇切に教えみちびかれた人々もまた今や苦しみを捨てるでしょう。
竜よ。では、わたくしは、あなたの近くに来て礼拝しましょう。先生! どうか、わたくしをも懇切に教えみちびいてください。」

1059 「何ものをも所有せず、欲の生存に執著しないバラモン・ヴェーダの達人であるとそなたが知った人、──かれは確かにこの煩悩の激流をわたった。かれは彼岸に達して、心の荒びなく、疑惑もない。

1060 またかの人はこの世では悟った人であり、ヴェーダの達人であり、種々の生存に対するこの執著を捨てて、妄執を離れ、苦悩なく、望むことがない。『かれは生と老衰とを乗り越えた』とわたくしは説く。」


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■□■<6、学生ドータカの質問>■□■
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1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」

1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」

1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」

1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」

1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」

1066 師は言われた、
「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」

1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」

1068 師は答えた、
「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。


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■□■<7、学生ウバシーヴァの質問>■□■
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1069 ウバシーヴァさんがたずねた、
「シャカ族の方よ。わたしは、独りで他のものにたよることなくして大きな煩悩の激流をわたることはできません。わたしがたよってこの激流をわたり得る<よりどころ>をお説きください。あまねく見る方よ。」

1070 師(ブッダ)は言われた、「ウバシーヴァよ。よく気をつけて、無所有をめざしつつ、<なにも存在しない>と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

1071 ウバシーヴァさんがいった、
「あらゆる欲望に対する貪りを離れね無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることがなく、そこに安住するでありましょうか?」

1072 師は答えた、「ウバシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の<想いからの解脱>において解脱した人、──かれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」

1073 「あまねく見る方よ。もしもかれがそこから退きあともどりしないで多年そこにとどまるならば、かれはそこで解脱して、清涼となるのでしょうか? またそのような人の識別作用(あとまで)存在するのでしょうか?」

1074 師が答えた、「ウバシーヴァよ。たとえば強風に吹き飛ばされた火炎は滅びてしまって(火としては)数えられないように、そのように聖者は名称と身体から解脱して滅びてしまって、(生存するものとしては)数えられないのである。」

1075 「滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? 或いはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか? 聖者さま。どうかそれをわたくしに説明してください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるからです。」

1076 師は答えた、
「ウバシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準が存在しない。かれを、ああだ、こうだと論ずるよすがが、かれには存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、あらゆる論議の道はすっかり絶えてしまったのである。」


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■□■<8、学生ナンダの質問>■□■
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1077 ナンダさんがたずねた、
「世間には諸々の聖者がいる、と世人は語る。それはどうしてですか? 世人は知識をもっている人を聖者と呼ぶのですか? あるいは[簡素な]生活を送る人を聖者と呼ぶのですか?」

1078 (ブッダが答えた)、
「ナンダよ。世のなかで、真理に達した人たちは、(哲学的)見解によっても、伝承の学問によっても、知識によっても聖者とは言わない。(煩悩の魔)軍を撃破して、苦悩なく、望むことなく行う人々、──かれらこそ聖者である、とわたしは言う。」

1079 ナンダさんがいった、
「おおよそこれらの<道の人>・バラモンたちは、(哲学的)見解によって、また伝承の学問によっても、清浄になれるとも言います。先生! かれらはそれにもとずいてみずから制して修行しているのですが、はたして生と老衰とを乗り越えたのでしょうか? ・・・・」

1080 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。これらの<道の人>・バラモンたちはすべて。(哲学的)見解によって清浄になり、また伝承の学問によっても清浄になると説く。戒律や誓いを守ることによっても清浄になると説く。(そのほか)種々のしかたで清浄になるとも説く。たといかれらがそれらにもとづいてみずから制して行っていても、生と老衰とを乗り越えたのではない、とわたしは言う。」

1081 ナンダさんがいった、
「およそこれらの<道の人>・バラモンたちは、見解によって、また伝承の学問によっても清浄になれると言います。戒律や誓いを守ることによっても清浄になれると言います。(そのほか)種々のしかたで清浄になれるとも言います。聖者さま。もしあなたが『かれらは未だ煩悩の激流を乗り越えていない』と言われるのでしたら、では神々と人間の世界のうちで生と老衰を乗り越えた人は誰なのですか? 親愛なる先生! あなたにおたずねします。それをわたくしに説いてください。」

1082 師(ブッダ)は答えた、
「ナンダよ。わたしは『すべての道の人・バラモンたちが生と老衰とに覆われている』と説くのではない。この世において見解や伝承の学問や戒律や誓いをすっかり捨て、また種々のしかたをもすっかり捨てて、妄執をよく究め明かして、心に汚れのない人々──かれらは実に『煩悩の激流を乗り越えた人々である』と、わたしは説くのである。」

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■□■<9、学生ヘ−マカの質問>■□■
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1084 ヘーマカさんがたずねた、
「かってゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来はこうなるであろう』といってわたしに説き明かしたことは、すべて伝え聞くにすぎません。それはすべて思索の紛糺(ふんきゅう)を増すのみ。わたしはかれらの説を喜びませんでした。

1085 聖者さま。あなたは、妄執を減しつくす法をわたくしにお説きください。それを知って、よく気をつけて行い、世間の執著を乗り越えましょう。」

1086 (ブッダが答えた)、「ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。

1087 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、常に安らぎに帰している。世間の執著を乗り越えているのである」と。


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■□■<10、学生トーデイヤの質問>■□■
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1088 トーデイヤさんがたずねた、
「諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──かれらはどのような解脱をもとめたらよいのですか?」

1089 師(ブッダ)は答えた、
トーデイヤよ。諸々の欲望のとどまることなく、もはや妄執が存在せず、諸々の疑惑を超えた人、──かれには別に解脱は存在しない。」

1090 「かれは願いのない人なのでしょうか?  あるいは何かを希望しているのでしょうか? かれは智慧があるのでしょうか? あるいは智慧を得ようとはからいをする人なのでしょうか?  シャカ族の方よ。かれは聖者であることをわたくしが知り得るように、そのことをわたくしに説明してください。あまねく見る方よ。」

1091 [師いわく]、「かれは願いのない人である。かれはなにものをも希望していない。かれは智慧のある人であるが、しかし智慧を得ようとはからいをする人ではない。トーデイヤよ。聖者はこのような人であると知れ。かれは何も所有せず、欲望の生存に執著していない。」

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■□■<11、学生カッパの質問>■□■
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1092 カッパさんがたずねた、
「極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のために、洲(避難所、よりどころ)を説いてください。あなたは、この(苦しみ)がまたと起こらないような洲(避難所)をわたしに示してください。親しい方よ。」

1093 師(ブッダ)は答えた、「カッパよ。極めて恐ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのうちにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々のたの洲(避難所)を、わたしは、そなたに説くであろう。

1094 いかなる所有もなく、執著して取ることがないこと、──これが洲(避難所)にほかならない。それをニルヴァーナと呼ぶ。それは老衰と死との消滅である。

1095 このことをよく知って、よく気をつけ、現世において全く煩いを離れた人々は、悪魔に伏せられない。かれらは悪魔の従者とはならない。」

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■□■<12、学生ジャトゥカンニンの質問>■□■
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1096 ジャトゥカンニンさんがたずねた、
「わたくしは、勇士であって、欲望をもとめない人がいると聞いて、激流を乗り越えた人(ブッダ)に<欲のないこと>をおたずねしようとして、ここに来ました。安らぎの境地を説いてください。生まれつき眼のある方よ。先生! それを、あるがままに、わたくしに説いてしださい。

1097 師(ブッダ)は諸々の欲望を制してふるまわれます。譬えば、光輝ある太陽が光輝によって大地にうち克つようなものです。智慧ゆたかな方よ。智慧の少いわたくしに理法を説いてください。それをわたしは知りたいのです、──この世において生と老衰とを捨て去ることを。」

1098 師(ブッダ)は答えた、
「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたに存在してはならない。

1099 過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来にはそなたに何ものもないようにせよ。中間においても、そなたが何ものにも執著しないならば、そなたはやすらかにふるまう人となるであろう。

1100 バラモンよ。名称と形態とに対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩は存在しない。だから、かれは死に支配されるおそれがない。」

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■□■<13、学生バドラーヴダの質問>■□■
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1101 バドラーヴダさんがたずねた、
「執著の住所をすて、妄執を断ち、悩み動揺することがなく、歓喜をすて、激流を乗り越え、すでに解脱し、はからいをすてた賢明な(あなた)に切にお願いします。

1102 健き人よ。あなたのおことばを聞こうと希望して、多数の人々が諸地方から集まってきましたが、竜(ブッダ)のおことばを聞いて、人々はここから立ち去るでしょう。かれらのために善く説明してやってください。あなたはこの理法をあるがままに知っておられるのですから。」

1103 師(ブッダ)は答えた、
「バドラーヴダよ。上にも下にも横にでも中間にでも、執著する妄執をすっかり除き去れ。世の中の何ものに執著しても、それによって悪魔が人につきまとうに至る。

1104 それ故に、修行者は明らかに知って、よく気をつけ、全世界においてなにものおも執してはならない。──死の領域に愛著を感じているこの人々を<取る執著ある人々>であると観て。」

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■□■<14、学生ウダヤの質問>■□■
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1105 ウダヤさんがたずねた、
「瞑想に入って坐し、塵垢を離れ、為すべきことを為しおえ、煩悩の汚れなく、一切の事物の彼岸に達せられた(師)におたずねするために、ここに来ました。無明を破ること、正しい理解による解脱、を説いてください。」

1106 師(ブッダ)は答えた、
「ウダヤよ。愛欲と憂いとの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨をやめること、

1107 平静な心がまえと念いの清らかさ、──それは真理に関する思索にもとづいて起るものであるが、──これが、無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、わたしは説く。」

1108 「世人は何によって束縛されているのですか? 世人をあれこれ行動させるものは何ですか?何を断ずることによって安らぎ(ニルヴァーナ)があると言われるのですか?」

1109 「世人は歓喜に束縛されている。思わくが世人をあれこれ行動させるものである。妄執を断ずることによって安らぎがあると言われる。」

1110 「どのように気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか? それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」

1111 「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が止滅するのである。」


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■□■<15、学生ポーサーラの質問>■□■
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1112 ポーサーラさんがたずねた、
「過去のことがらを説示し、悩み動揺することなく、疑惑を断ち、一切の事物を究めつくした(師)におたずねするために、ここに来ました。

1113 「物質的なかたちの想いを離れ、身体をすっかり捨て去り、内にも外にも『なにものにも存在しない』と観ずる人の智を、わたしはおたずねするのです。シャカ族の方よ。そのような人はさらにどのように導かれねばなりませんか?」

1114 師(ブッダ)は答えた、
「ポーサーラよ。すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、かれの存在するありさまを知っている。すなわち、かれは解脱していて、そこをよりどころとしていると知る。

1115 無所有の成立するもとを知って、すなわち『歓喜は束縛である』ということを知って、それをこのとうりであると知って、それから(出て)それについてしずかに観ずる。安立したそのバラモンは、この<ありさまに知る智>が存する。」


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■□■<16、学生モーガラージャの質問>■□■
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1116 モーガラージャさんがたずねた、
「わたくしはかってシャカ族の方に二度おたずねしましたが、眼ある方(釈尊)はわたくしに説明してくださいませんでした。しかし『神仙(釈尊)は第三回目には説明してくださる』と、わたくしは聞いております。 1117 この世の人々も、かの世の人々も、神々と、梵天の世界の者どもも、誉れあるあなたゴータマ(ブッダ)の見解を知ってはいません。

1118 このように絶妙な見者におたずねしょうとしてここに来ました。どのように世間を観察する人を、死王は見ることがないのですか?」

1119 (ブッダが答えた)、
「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」

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■□■<17、学生ビンギヤの質問>■□■
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1120 ビンギヤさんがたずねた、
「わたくしは年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。わたくしが迷ったままで途中で死ぬことのないようにしてください。どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるのですか、そのことわりを説いてください。それをわたくしは知りたいのです。」

1121 師(ブッダ)は答えた、
「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に、人々が害われるのを見るし、物質的な形態があるが故に、怠る人々は(病などに)悩まされる。ビンギヤよ。それ故に、そなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態にもどらないようにせよ。」

1122 「四方と四維と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず聞かれず考えられずまた識られないものもありません。どうか理法を説いてください。それをわたくしは知りたいのです、──どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることを。」

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

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■□■<18、一六学生の質問の結語>■□■
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 師(ブッダ)は、マガダ国のパーサーカ霊地にとどまっておられたとき、以上のことを説かれ、(バーヴァリの)門弟である一六人のバラモンに請われ問われる度ごとに、質問に対して解答をのべた。もしもこれらの質問の一つ一つの意義をしり、理法を知り、理法にしたがって実践したならば、老衰と死との彼岸に達するであろう。これらの教えは彼岸に達せしめるものであるから、それ故にこの法門は「彼岸にいたる道」と名づけられている。

1124 アジタと、ティッサ・メッテイヤと、プンナカと、メッタグーと、ドータカと、ウバシーヴァと、またヘーマカと、

1125 トーデーヤとカッパとの両人と、賢者なるジャトゥカンニンと、バドラーヴダと、ウダヤと、ポーサーラ・バラモンと、聡明なモーガラージャと、偉大な仙人であるピンギヤと、──

1126 これらの人々は行いの完成した仙人である目ざめた人(ブッダ)のもとにやってきて、みごとな質問を発して、ブッダなる最高の人に近づいた。

1127 かれらが質問を発したのに応じて、目ざめた人はあるがままに解答された。聖者は、諸々の質問に対して解答することによって、諸々のバラモンを満足させた。

1128 かれらは、太陽の裔である目ざめた人・眼ある者(ブッダ)に満足して、優れた智慧ある人(目ざめた人)のもとで清らかな行いを修めた。

1129 一つ一つの質問に対して<目ざめた人>が説かれたように、そのように実践する人は、此岸から彼岸におもむくことであろう。

1130 最上の道を修める人は、此岸から彼岸におもむくであろう。それは彼岸に至るための道である。それ故に<彼岸にいたる道>と名づけられる。

1131 ピンギヤさんは(バーヴァリのもとに帰って、復命して)いった、
「<彼岸に至る道>をわたくしは読誦しましょう。無垢で叡智ゆたかな人(ブッダ)は、みずから観じたとおりに説かれました。無欲で煩悩の叢林のない立派な方は、どうして虚妄を語られるでしょうか。

1132 垢と迷いを捨て去って、高慢と隠し立てとを捨てている(ブッダ)の、讃嘆を表わすことばを、さあ、わたくしは誉めたたえることにしましょう。

1133 バラモンよ。暗黒を払う<目ざめた人>(ブッダ)、あまねく見る人、世間の究極に達した人、一切の迷いの生存を超えた人、汚れのない人、一切の苦しみを捨てた人、──かれは真に<目ざめた人>(ブッダ)と呼ばれるにふさわしい人でありますが、わたくしはかれに近侍しました。

1134 たとえば鳥が疎な林を捨てて果実豊かな林に住みつくように、そのようにわたくしもまた見ることの少い人々を捨てて、白鳥のように大海に到達しました。

1135 かつてゴータマ(ブッダ)の教えよりも以前に昔の人々が『以前にはこうだった』『未来にはこうなるであろう』といってわたくしに説き明かしたことは、すべて伝え聞きにすぎません。それはすべて思索の紛糺を増すのみ。

1136 かれは独り煩悩の暗黒を払って坐し、高貴で、光明を放っています。ゴータマは智慧ゆたかな人です。ゴータマは叡智ゆたかな人です。

1137 即時に効果の見られる、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をわたくしに説示しました。かれに比すべき人はどこにも存在しません。」

1138 (バーヴァリがいった)、「ピンギヤよ。そなたはね智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができるのか?

1139 かれはまのあたり即時に実現され、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をそなたに説示した。かれに比すべき人はどこにも存在しない。」

1140 (ピンギヤがいった)、「バラモンさま。わたくしは、智慧ゆたかなゴータマ、叡智ゆたかなかのゴータマのもとから、瞬時でも離れて住むことができません。

1141 まのあたり即時に実現される、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の消滅>、をわたくしに説示されました。かれに比すべき人はどこにも存在しません。

1142 バラモンさま。 わたくしは怠ることなく、昼夜に、心の眼を以てかれを見ています。かれを礼拝しながら夜を過ごしています。ですから、わたくしはかれから離れて住んでいるのではないと思います。

1143 信仰と、喜びと、意と、念いとが、わたくしを、ゴータマの教えから離れさせません。どちらの方角でも、智慧豊かな方のおもむかれる方角に、わたくしは傾くのです。

1144 わたくしは、もう老いて、気力も衰えました。ですから、わが身はかしこにおもむくことはできません。しかし想いを馳せて常におもむくのです。バラモンさま。わたくしの心は、かれと結びついているのです。

1145 わたくしは汚泥の中に臥してもがきながら、洲から洲へと漂いました。そうしてついに、激流を乗り超えた、汚れのない<完全にさとった人>(正覚者)にお会いしたのです。」

1146 (師ブッダが現れていった)、「ヴァッカリやバドラーヴダやアーラヴィ・ゴータマが信仰を捨て去ったように、そのように汝もまた信仰を捨て去れ。そなたは死の領域の彼岸にいたるであろう。ピンギヤよ。」

1147 (ピンギヤはいった)、「わたくしは聖者のことばを聞いて、ますます心が澄む(=信ずる)ようになりました。さとった人は、煩悩の覆いを開き、心の荒みなく、明察のあられる方です。

1148 神々に関してもよく熟知して、あれこれ一切のことがらを知っておられます。師は、疑いをいだきまた言を立てる人々の質問を解決されます。

1149 どこにも譬うべきものなく、奪い去られず、動揺することのない境地に、わたくしは確かにおもむくことでしょう。このことについて、わたくしには疑惑がありません。わたくしの心がこのように確信して了解していることを、お認めください。」



<彼岸に至る道>の章おわる

八回にわたって誦える分量ある聖典のスッタニパータ終る。
http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  

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コメント
 
01. 2013年1月20日 23:56:13 : W18zBTaIM6

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正田大観 (2007年3月17日). “スッタニパータ” (日本語).

クリシュナムルティ学友会


阿羅漢にして 正自覚者たる かの世尊に 礼拝し奉る

 スッタニパータ

第一章 蛇

 第一経 蛇

1  広がった蛇の毒を諸々の薬で〔除く〕ように、生起した憤怒〔の思い〕を取り除く者——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
2  池に生えている蓮の花を〔水に〕入って〔折り取る〕ように、貪欲〔の思い〕を残りなく断ち切った者——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
3  激しく流れる〔渇愛の〕流れを干上がらせて、渇愛〔の思い〕を残りなく断ち切った者——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
4  大激流が極めて力の弱い葦の橋を〔押し流す〕ように、高慢〔の思い〕を残りなく壊し去った者——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
5  無花果[いちじく]の木々に花を探し求める者が〔花を得ない〕ように、諸々の〔迷いの〕生存(有)のうちに真髄(実:真実・本質)に到達しなかった者(迷いの生存を真実と認めなかった者)——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
6  彼に、諸々の怒りが〔心の〕内から存在しないなら、しかして、〔彼は〕それについての有る無し〔の思い〕が超克された者であり、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
7  彼の、諸々の思考が砕破され、内に、残りなく、善く整えられたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
8  行き過ぎず、戻り過ぎず、この戯論(分別妄想)の一切を超え行った者——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
9  行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、世において知って、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
10  行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、貪欲を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
11  行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、貪り(貪)を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
12  行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、怒り(瞋)を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
13  行き過ぎず、戻り過ぎず、「これは、一切が真実を離れたものである」と、迷い(痴)を離れた、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
14  彼に、何であれ、諸々の悪習(随眠)が存在せず、諸々の善ならざることが根元から完破されたなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
15  彼に、何であれ、〔迷いの〕此岸に帰り来ることの縁となる、諸々の懊悩から生じるものが存在しないなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
16  彼に、何であれ、〔迷いの〕生存の結縛の因たる諸々の妄想が〔存在せず〕、諸々の〔欲の〕下草から生じるものが存在しないなら、その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。
17  五つの〔解脱の〕妨害[さまたげ](五蓋:貪り・怒り・心の沈滞[おちこみ]と眠気・心の高揚[たかぶり]と悔恨・疑惑の思い)を捨てて、煩悶なく、疑惑を超え、矢を抜いた者——その比丘は、此岸と彼岸を捨てる——蛇が老化した旧皮を〔捨て去る〕ように。

 第二経 ダニヤ

18  牛飼いのダニヤが〔言った〕「わたしは、飯を炊き、乳を搾った者として、〔世に〕存しています。マヒヤー〔川〕の岸辺に、〔妻子や下僕たちと〕共に存する住居があります。小屋は〔しっかりと〕覆われ、火が焚かれています。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
19  世尊(ブッダ)は〔答えた〕「わたしは、怒りなく、鬱屈を離れ去った者として、〔世に〕存しています。マヒヤー〔川〕の岸辺に、一夜の住居があります。小屋(身体)は開かれ(その正体は暴露され)、〔貪欲の〕火は寂滅しています。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
20  牛飼いのダニヤが〔言った〕「諸々の蠅や蚊は、見い出されません。牛たちは、草が生い茂った沼地を歩み、たとえ、雨がやってきても、耐え抜くでしょう。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
21  世尊は〔答えた〕「まさに、筏[いかだ]は、結び縛られ、頑丈に作られました。彼岸に至った超渡者は、激流(渇愛の思い)を取り除くでしょう。〔もはや〕筏に、義(意味)は見い出されません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
22  牛飼いのダニヤが〔言った〕「わたしの牛飼い女(妻)は、従順で、〔心が〕動きません。長夜にわたり、共に住み、意に適う者です。何であれ、彼女についての悪しき〔話〕を、〔わたしは〕聞きません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
23  世尊は〔答えた〕「わたしの心は、従順で、解脱しています。長夜にわたり、完全に修められ、善く調御されています。そして、わたしに、悪は見い出されません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
24  牛飼いのダニヤが〔言った〕「わたしは、自己の稼ぎで〔自らを〕養う者として、〔世に〕存しています。そして、共に存するべき、わたしの子供たちも、無病〔息災〕です。何であれ、彼らについての悪しき〔話〕を、わたしは聞きません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
25  世尊は〔答えた〕「わたしは、誰の雇われでもなく、〔世に〕存しています。一切世〔界〕において、〔行乞で〕得たものによって、歩みます。〔もはや〕雇われることに、義(意味)は見い出されません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
26  牛飼いのダニヤが〔言った〕「〔わたしには〕子牛が存在します。乳牛(母牛)が存在します。〔子を〕宿した雌牛が〔存在します〕。〔子を〕宿したことのない雌牛もまた、存在します。さらには、牛たちの主[あるじ]たる雄牛もまた、存在します。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
27  世尊は〔答えた〕「〔わたしには〕子牛は存在しません。乳牛(母牛)は存在しません。〔子を〕宿した雌牛は〔存在しません〕。〔子を〕宿したことのない雌牛もまた、存在しません。ここには、牛たちの主たる雄牛もまた、存在しません。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
28  牛飼いのダニヤが〔言った〕「〔深く〕掘られた諸々の杭は揺るぎなく、ムンジャ〔草〕で作られた諸々の縄は新しく、善く綯[な]われています。まさに、乳牛たちでさえも、断ち切ることはできないでしょう。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
29  世尊は〔答えた〕「雄牛のように、諸々の結縛を断ち切って、象が蔦葛[つたかずら]を〔踏み敷く〕ように、〔諸々の束縛を〕踏み砕いて、わたしは、胎内へとふたたび近づき行くことはないでしょう。しかして、天よ、もし、望むなら、雨を降らせよ」と。
30  低地と高地とを潤しながら、まさしく、ただちに、大雲が雨を降らせた。天が雨を降らせるのを聞いて、ダニヤは、この義(意味)を語った。
31  〔牛飼いのダニヤが言った〕「わたしたちは、世尊を見ました。わたしたちの諸々の利得は、まさに、少からざるものです。眼[まなこ]ある方よ、あなたという帰依所へと、〔わたしたちは〕近づき行きます(覚者に帰依する)。偉大なる牟尼(ブッダ)よ、あなたは、わたしたちの教師に成ってください。
32  牛飼い女(妻)も、わたしも、従順です。善き至達者(ブッダ)のところで、梵行(禁欲清浄行)を行じおこないます。生と死の彼岸に至り、苦しみの終極[おわり]を為す者たちに成ります」〔と〕。
33  パーピマント悪魔が〔言った〕「子をもつ者は、子たちについて喜ぶ。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて喜ぶ。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の喜びである。依存〔の対象〕なき者——彼は、まさに、喜ぶことがない」と。
34  世尊は〔答えた〕「子をもつ者は、子たちについて憂う。まさしく、そのように、牛をもつ者は、牛たちについて憂う。まさに、諸々の依存〔の対象〕は、人の憂いである。依存〔の対象〕なき者——彼は、まさに、憂うことがない」と。

 第三経 犀の角

35  一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて、彼らの誰ひとりでさえも害さずにいる者は、子を求めぬもの。どうして、道友を〔求めよう〕。犀の角のように、独り、歩むもの。
36  〔異性との〕交わりが生じた者には、愛執〔の思い〕が有る。愛執〔の思い〕に従い、この苦しみが生起する。愛執〔の思い〕から生じた〔この〕危険を〔あるがままに〕見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
37  朋友や知人を慈しみながら(情をかけつつ)、〔その思いに〕心が縛られた者は、〔自己の〕義(道理)を失う。この恐怖を、親愛〔の情〕のうちに見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
38  子たちや妻たちにたいする期待〔の思い〕は、まさしく、〔枝や根が〕広く絡[から]みついた竹〔林〕のようなもの。〔まとわりつくものが何もない〕筍[たけのこ]のように執着なき者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
39  縛られていない〔野生の〕鹿が、林のなかで求めるままに餌場に行くように、識者たる人は、独存〔の境地〕を〔あるがままに〕見る者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
40  道友の中にいれば、家においても〔他の〕状況においても、〔外に〕行くにも〔道を〕歩むにも、〔余計なことで色々と〕呼び止められることが有る。〔人が〕望み求めない独存〔の境地〕を〔あるがままに〕見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
41  道友の中にいれば、遊興と喜悦が有る。また、子たちのうちにあれば、広大なる愛情が有る。愛しき者との別離を忌避する者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
42  また、四方(東西南北)に障碍[さわり]なき者と成り、いかなるものにても〔足ることを知り〕満足している者として、諸々の危難を打ち負かす驚愕なき者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
43  出家者たちでさえも、或る者たちは救い難く、また、家に住する在家の者たちも〔同様に救い難い〕。他者の子たちにたいする思い入れ少なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むもの。
44  落葉した黒檀のように、諸々の在家の特徴を取り去って、勇者は、諸々の在家の結縛を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むもの。
45  もし、賢明なる道友を得るなら、共に行じおこなう善き住者である慧者を〔得るなら〕、一切の危難を征服して、わが意を得た気づき(念)の者となり、彼とともに、歩むもの。
46  もし、賢明なる道友を得ないなら、共に行じおこなう善き住者である慧者を〔得ないなら〕、征圧した国を〔惜し気もなく〕捨てて〔顧みない〕王のように、犀の角のように、独り、歩むもの。
47  たしかに、〔わたしたちは〕道友の成就(獲得)を賞賛する。最勝の道友たち、〔自分と〕等しい者たちとは、親しくするべきである。これらを得ずして、罪なき〔独存の生活〕を享受する者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
48  金の細工師が見事に仕立てた、光り輝く二個〔の腕輪〕が、腕にあって相打つ(音を立てる)のを見て、犀の角のように、独り、歩むもの。
49  このように、第二者(連れの者)と共にあるなら、わたしには、雑談の言葉、あるいは、叱責〔の言葉〕が存するであろう。この恐怖を未来に見る者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
50  まさに、諸々の欲望〔の対象〕は様々で、蜜のように甘美で、意[こころ]が喜びとするものである。種々なる形態(色)でもって、〔凡夫の〕心を掻き乱す。〔この〕危険を、諸々の欲望の対象のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むもの。
51  これは、わたしにとって、疾患と、腫物と、禍と、病と、矢と、恐怖とである。この恐怖を、諸々の欲望の対象のうちに見て、犀の角のように、独り、歩むもの。
52  寒さと、暑さと、飢え、渇き、諸々の暴風と猛暑、そして、諸々の虻と蛇——これらの一切をもまた征服して、犀の角のように、独り、歩むもの。
53  肩が立派に生育した、蓮華〔の紋〕ある巨象のように、諸々の群れを避けて、喜びのままに、林に住み、犀の角のように、独り、歩むもの。
54  〔他者との〕社交[まじわり]を喜ぶ者には、〔彼が〕暫時の解脱に触れるであろうような、その状況は〔存在し〕ない。太陽の眷属(ブッダ)の言葉をこころして聞き、犀の角のように、独り、歩むもの。
55  諸々の見解の対立を超克し、〔解脱に至る〕決定[けつじょう](正しい実践方法)を得て、道を獲得した者は、「〔わたしは〕知恵(智)が生起した者として〔世に〕存している。他によって導かれることはない」〔と〕、犀の角のように、独り、歩むもの。
56  無貪で、虚言なく、無欲で、隠覆なく、汚濁と迷妄を取り払い、一切世〔界〕にたいし依存なき者と成って、犀の角のように、独り、歩むもの。
57  正しからざるものに固着し、義(道理)ならざるものを見る、悪しき道友は、遍く避けるもの。〔気づきを〕怠り、〔執着の対象を〕追い求める者とは、自ら、慣れ親しまぬもの。犀の角のように、独り、歩むもの。
58  多聞[たもん]にして法(教え)を保つ者と、応答自在〔の知慧〕ある秀[ひい]でた朋友と、親しくするもの。諸々の義(道理)を了知して、疑いを取り除き、犀の角のように、独り、歩むもの。
59  世における、遊興の喜悦と欲望の安楽を期待しない者は、〔見てくれを〕十分に作り為すことなくして、飾り立てという状況から離れた者となり、真理を説く者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
60  子と妻、父と母、諸々の財産、諸々の穀物と、諸々の眷属と、限りあるかぎりの諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、犀の角のように、独り、歩むもの。
61  「これは、執着〔の対象〕である。ここに、幸福[さいわい]は小さい。ここに、快楽[たのしみ]は少なく、苦痛[くるしみ]は、より一層のものである。これは、〔人を誘惑する〕釣針である」と知って、思慧ある者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
62  水のなかの魚が網を破って〔解き放たれる〕ように諸々の束縛を引き裂いて、炎が焼け跡に引き返さないように〔束縛に戻らず〕、犀の角のように、独り、歩むもの。
63  〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、また、〔物欲しそうに〕足を運ばず、〔感官〕機能(根)を守り、意を守り、〔煩悩が〕漏れ出ず、〔貪欲の炎に〕焼かれず、犀の角のように、独り、歩むもの。
64  葉が刈り払われたパーリチャッタ〔樹〕のように、諸々の在家の特徴を取り払って、黄褐色の衣[ころも](袈裟)をまとい、〔家を〕出て、犀の角のように、独り、歩むもの。
65  諸々の味(味覚の喜び)にたいし、貪り〔の思い〕を為さず、〔心が〕動かない者は、他者からの扶養なく、〔行乞のために〕歩々淡々と歩み、家々に縛られない心の者として、犀の角のように、独り、歩むもの。
66  心の〔有する〕五つの〔解脱の〕妨害(五蓋:貪り・怒り・心の沈滞と眠気・心の高揚と悔恨・疑惑の思い)を捨て去り、一切の付随する〔心の〕汚れ(随煩悩)を除き去って、依存なき者は、愛執という〔心の〕汚点を断ち切って、犀の角のように、独り、歩むもの。
67  楽と苦〔の両者〕に背を向けて、さらには、まさしく、過去における悦意と失意〔の両者〕に〔背を向けて〕、放捨(捨:分け隔てのない心)と寂止(奢摩他・止)と清浄〔の境地〕を得て、犀の角のように、独り、歩むもの。
68  最高の義(勝義:涅槃の境地)を得るため、精進に励み、心に陰鬱なく、怠惰な生活をせず、断固たる努力あり、強靱さと力量を具有した者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
69  坐禅と瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を捨てず、諸法(もの・こと)について、常に法(もの・こと)のままに行じおこなう者は、諸々の生存のうちに危険を触知した者(苦しみの生をあるがままに知り見る者)であり、犀の角のように、独り、歩むもの。
70  〔気づきを〕怠らず渇愛の滅尽を望み求める者、聾唖ならず聞あり気づきある者、法(真理)を究め〔正道を〕決定した〔刻苦〕精励の者は、犀の角のように、独り、歩むもの。
71  諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、犀の角のように、独り、歩むもの。
72  〔敵を〕打ち負かし、〔一切を〕征服して歩む、獣たちの王たる、牙むく獅子のように、諸々の辺境の臥坐〔所〕に慣れ親しみ、犀の角のように、独り、歩むもの。
73  慈愛[いつくしみ]〔の心〕(慈)、放捨[おのずから]〔の心〕(捨)、慈悲[いたわり]〔の心〕(悲)、解脱、そして、歓喜[わかちあい]〔の心〕(喜)を、〔正しい〕時に習い行ない、一切世〔界〕に遮られず、犀の角のように、独り、歩むもの。
74  貪り(貪)と怒り(瞋)と迷い(痴)を捨てて、諸々の束縛を引き裂き、寿命の消滅に動ぜず、犀の角のように、独り、歩むもの。
75  〔人々は〕義(利益)を動機として、〔他者と〕親しくし、そして、〔他者に〕仕える。今日[こんにち]、〔打算的〕動機なき〔真の〕朋友たちは、得難きもの。人間たちの、自己に依って立つ知識(自己本位の断片的知識)ある人間たちは、不浄である。犀の角のように、独り、歩むもの。


 第四経 耕作者バーラドヴァージャ

76  〔耕作者バーラドヴァージャが尋ねた〕「〔あなた(ブッダ)は、自らについて〕『耕作者である』〔と〕公言なさいます。しかしながら、〔わたしたちは〕あなたの耕作〔するところ〕を見ません。〔わたしたちが〕あなたの耕作を知りうるように、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしたちに、〔あなたの〕耕作を説いてください」〔と〕。
77  〔世尊は答えた〕「信が、種子です。苦行が、雨です。わたしのばあい、知慧(般若・慧)が、軛[くぶき]と鋤[すき]です。恥〔を知る思い〕(慚)が、轅[ながえ]です。意[おもい]が、結び紐です。わたしのばあい、気づき(念)が、鋤先と刺し棒です。
78  身体[からだ]が守られ、言葉が守られ、腹において食が自制された者として、〔わたしは〕真理という草刈りを為します。わたしのばあい、温和〔な心〕が、解き放ち(放牧)です。
79  わたしのばあい、精進が、束縛からの〔心の〕平安を運ぶ、荷駄牛です。〔その荷駄牛は〕引き返すことなく、行って憂い悲しまない所(涅槃)に行きます。
80  このように、これが、〔わたしの〕為した耕作です。それは、不死の果と成ります。この耕作を為して、〔人は〕一切の苦しみから解脱するのです」〔と〕。
81  〔さらに、世尊は言葉を続けた〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕(詩を唱えて得たもの)は、受けるべきものではありません。婆羅門よ、正しく見る者たちにとって、これは、法(正義)ではありません。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります(詩を唱えて得たものを拒否する)。婆羅門よ、法(正義)が存するなら、これが、生活〔のあり方〕です。
82  また、全一者たる偉大なる聖賢には、煩悩(漏)が滅尽し悔い〔の思い〕が止み静まった者には、他の食べ物と飲み物で奉仕しなさい。まさに、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成ります」〔と〕。

 第五経 チュンダ

83  鍛冶屋の子のチュンダが〔尋ねた〕「多き知慧ある牟尼(ブッダ)に、法(真理)の主[あるじ]たる渇愛を離れた覚者(ブッダ)に、最も優れた馭者たる最上の二足者(ブッダ)に、尋ねます。世に、沙門(修行者)たちは、どれほどいるのですか。どうか、それを説いてください」と。
84  世尊は〔答えた〕「チュンダさん、沙門たちは、四者います。第五〔の沙門〕は、存在しません。じかに〔問いを〕尋ねられた者(教え手)として、彼らについて、あなたに明らかにしましょう。〔すなわち〕道の勝利者、そして、道の説示者、道に生きる者、および、道を汚す者〔の四者〕です」と。
85  鍛冶屋の子のチュンダが〔尋ねた〕「覚者たちは、誰を、道の勝利者と説くのですか。道の教授者は、どのようにして、無比なる者と成るのですか。〔問いを〕尋ねられた者として、道に生きる〔者について〕、わたしに説いてください。また、道を汚す者について、わたしに明らかにしてください」と。
86  〔世尊は答えた〕「疑惑を超え、矢を抜き、涅槃〔の境地〕に喜びある、貪りなき者、天〔界〕を含む世〔界〕の導き手である、そのような者を、覚者たちは、『道の勝利者』と説きます。
87  この〔世において〕、最高のものを『最高のもの』と知って、まさしく、この〔世において〕、法(真理)を告知し区分する者——彼を、疑惑を断ち動揺なき牟尼(沈黙の聖者)を、比丘たちのなかの第二の者である『道の説示者』と言います。
88  見事に示された法(教え)の句(法句)という道に生きる、自制と気づきの者——諸々の罪なき句(境地)に慣れ親しむ者——〔彼を〕比丘たちのなかの第三の者である『道に生きる者』と言います。
89  善き掟[おこない]の者(出家者)たちの覆[おおい]を作り為して(善人のふりをして)、傲岸で、尊大で、家を汚す者——幻術[さぎ]師(偽善者)で、自制なく、籾殻[もみがら]〔のような者〕——〔いかにも〕それらしい形態で行じおこなう者——彼は、『道を汚す者』です。
90  しかして、在家の聖なる弟子である、聞[もん]あり知慧を有する者は、これらのことを理解しました。〔すなわち〕『〔比丘たちの〕全てが、このような〔道を汚す〕者たちではない』と知って、かくのごとく見て、彼の信は失うことなく、まさに、どのようにして、汚れた者と汚れなき者を、清浄の者と清浄ならざる者を、等しき者と為す(混同する)というのでしょう」〔と〕。

 第六経 滅びの者

91  〔天の神が尋ねた〕「滅びつつある人について、わたしたちは、ゴータマ(ブッダ)に尋ねます。〔わたしたちは〕世尊(ブッダ)に問い尋ねるため、やってまいりました。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
92  〔世尊は答えた〕「識知し易い者として、栄える者は〔世に〕有ります。識知し易い者として、滅びの者は〔世に有ります〕。法(真理)を欲する者として、栄える者は〔世に〕有ります。法(真理)を嫌う者として、滅びの者は〔世に有ります〕」〔と〕。
93  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第一の滅びの者です。世尊よ、第二の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
94  〔世尊は答えた〕「彼にとって、正しからざる者たちは、愛しき者たちとして〔世に〕有ります。正しくある者たちについて、愛しき者と為すことがなく、正しからざる法(もの・こと)を選ぶ——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
95  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第二の滅びの者です。世尊よ、第三の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
96  〔世尊は答えた〕「睡眠を戒[ならい]とし、集会を戒とし、かつまた、奮起することのない人——怠け者で、怒ることで知られる者——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
97  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第三の滅びの者です。世尊よ、第四の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
98  〔世尊は答えた〕「あるいは、母が、あるいは、父が、老いて、盛りが過ぎたのを、〔やれば〕できる者として存していながら、養わない者——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
99  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第四の滅びの者です。世尊よ、第五の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
100  〔世尊は答えた〕「あるいは、婆羅門を、あるいは、沙門を、あるいはまた、他の乞食[こつじき]者を、虚偽の論で騙す者——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
101  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第五の滅びの者です。世尊よ、第六の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
102  〔世尊は答えた〕「巨万の富があり、金を有し食を有する人が、諸々の美味なるものを独りで食べる——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
103  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第六の滅びの者です。世尊よ、第七の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
104  〔世尊は答えた〕「出生を強がり、財産を強がり、そして、氏姓を強がる人が、自らの親族を軽んじる——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
105  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第七の滅びの者です。世尊よ、第八の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
106  〔世尊は答えた〕「女について質[たち]悪く、酒について質悪く、さらには、博打について質の悪い人が、得たもの、得たものを、失ってしまう——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
107  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第八の滅びの者です。世尊よ、第九の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
108  〔世尊は答えた〕「自らの妻たちに満足せず、娼婦たちに見とれ、他者の妻たちに見とれる——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
109  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第九の滅びの者です。世尊よ、第十の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
110  〔世尊は答えた〕「盛りを超えた男が、ティンバル〔樹の果実〕のような乳房ある〔若い女〕を導き入れ、彼女への嫉妬で〔夜も〕眠らない——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
111  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第十の滅びの者です。世尊よ、第十一の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
112  〔世尊は答えた〕「酒乱の女や浪費する〔女〕、あるいはまた、そのような男を、権力あるところに置く——それが、滅びつつあるの者の入り口です」〔と〕。
113  〔天の神が尋ねた〕「かくのごとく、まさに、このことを識知します。彼は、第十一の滅びの者です。世尊よ、第十二の者について、説いてください。何が、滅びつつある者の入り口ですか」〔と〕。
114  〔世尊は答えた〕「財物が少なく、〔それでいて〕渇愛の大きい者が、士族の家に生まれ、彼が、この〔世において〕王権を切望する——それが、滅びつつあるの者の入り口です。
115  賢者は、世における、これらの滅びの者たちを観察して、〔あるがままの〕ものの見方を成就した聖者となり、彼は、至福の世〔界〕へと親しみ行くのです」〔と〕。

 第七経 賤民

116  憤怒の者、怨恨の者と、〔為した〕悪を隠覆する人と、堕落した見解の幻術[さぎ]師(偽善者)——彼を「賤民である」と知るように。
117  あるいは、一なる生まれのもの(胎生)、あるいはまた、二なる生まれのもの(卵生)など、この〔世において〕、生き物たちを害し、彼に、生き物にたいする憐憫〔の思い〕が存在しない者——彼を「賤民である」と知るように。
118  村々や町々を制圧し、占領し、圧制者として知られた者——彼を「賤民である」と知るように。
119  もしくは、村であろうと、林であろうと、他者たちがわたしのものとするもの(他者の私有物)を、盗みごころから、与えられていないのに取る者——彼を「賤民である」と知るように。
120  まさに、借金をしておきながら、叱責されるとなると、「あなたからの借金は、まさに、存在しない」と逃げる者——彼を「賤民である」と知るように。
121  まさに、微々たるものが欲しくて、道行く人を殺して、微々たるものを奪い取る者——彼を「賤民である」と知るように。
122  自己を因とし、他者を因とし、さらには、財を因とする、〔利己的な〕人が、じかに〔問いを〕尋ねられた者(教え手)として、虚偽を説く——彼を「賤民である」と知るように。
123  無理強いで、あるいは、了解したうえで、親族たちの、あるいは、友たちの、〔何であれ、他者の〕妻たちと相見える者——彼を「賤民である」と知るように。
124  あるいは、母が、あるいは、父が、老いて、盛りが過ぎたのを、〔やれば〕できる者として存していながら、養わない者——彼を「賤民である」と知るように。
125  あるいは、母を、あるいは、父を、兄弟を、姉妹を、姑を、言葉で傷つけ、悩ます者——彼を「賤民である」と知るように。
126  義(意味)を問い尋ねられた者として存しながら、義(意味)ならざることを教え、隠し事を告げる者——彼を「賤民である」と知るように。
127  悪しき行為(悪業)を為しておきながら、「〔他者が〕わたしのことを知ることがあってはならない」と求める、隠し事の行為(業)ある者——彼を「賤民である」と知るように。
128  まさに、他者の家に行って、御馳走を食べておきながら、〔客として〕やってきた者を歓迎しない者——彼を「賤民である」と知るように。
129  あるいは、婆羅門を、あるいは、沙門を、あるいはまた、他の乞食[こつじき]者を、虚偽の論で騙す者——彼を「賤民である」と知るように。
130  あるいは、婆羅門を、あるいは、沙門を、食事の時がやってきたのに、言葉で悩ませ、そのうえ、〔食を〕与えない者——彼を「賤民である」と知るように。
131  この〔世において〕、正しからざる者たちの〔論を〕説き、迷妄に包まれ、微々たるものを貪り求める者——彼を「賤民である」と知るように。
132  自らの高慢〔の思い〕によって、あるいは、自己を褒め上げ、あるいは、他者を見下す、下劣な者——彼を「賤民である」と知るように。
133  〔他者を〕悩ませ、かつまた、吝嗇[けち]で、悪を求め、物惜しみで、狡猾[あこぎ]で、恥知らずで(無慚)、〔良心の〕咎めなき者(無愧)——彼を「賤民である」と知るように。
134  覚者(ブッダ)を、あるいはまた、彼の弟子を、出家であれ、あるいは、在家であれ、誹謗する者——彼を「賤民である」と知るように。
135  まさに、阿羅漢(人格完成者)ならざる者として存在しながら、「阿羅漢である」〔と〕公言する、梵〔界〕を含む世〔界〕における盗賊——まさに、これは、最低の賤民である。わたしがあなたたちに明らかにした者たち——これらの者たちは、まさに、賤民と説かれた者たちである。
136  〔人は〕出生によって、賤民(非人)と成るのではない。〔人は〕出生によって、婆羅門(聖職者)と成るのではない。行為(業)によって、賤民と成る。行為によって、婆羅門と成る。
137  わたしの、〔以下に示す〕この実例のとおり、また、このことによっても、それ(賤民)について、知りなさい。
 チャンダーラ(旋陀羅:賤民、非人)の子で、「犬殺しのマータンガ」として〔世に〕聞こえた者がいる。
138  彼は、マータンガは、〔修行の結果、煩悩の滅尽という〕極めて得難いものたる、最高の福徳を得た者である。多くの士族たちや婆羅門たちが、彼の奉仕にやってきた。
139  彼は、天の乗り物に乗って、彼は、〔世俗の〕塵を離れた大いなる道を〔行き〕、欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を離染させて、梵世(梵天界)へと近づき行く者と成った。〔チャンダーラ族という〕出生は、彼を妨げなかった——梵世への再生から。
140  〔聖典〕読誦者の家に生まれた、呪文を眷属とする婆羅門たち——しかしながら、彼らは、諸々の悪しき行為(悪業)のうちに〔耽っているのが〕、一度ならず見受けられる。
141  あるいは、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において非難されるべき者たちであり、しかして、未来(来世)には悪しき境遇(悪趣)がある。〔婆羅門という〕出生は、彼らを妨げない——悪しき境遇から、あるいは、非難から。
142  〔人は〕出生によって、賤民(非人)と成るのではない。〔人は〕出生によって、婆羅門(聖職者)と成るのではない。行為(業)によって、賤民と成る。行為によって、婆羅門と成る。

 第八経 慈愛

143  〔まさに〕その、寂静の境地を知悉して、〔解脱という〕義(目的)に智ある者(出家修行者)が為すべきこと——
 有能で、なおかつ、真っすぐで、そのうえ、極めて正直で、かつまた、素直で、柔和で、増慢〔の思い〕なき者として、〔世に〕存するように。
144  また、〔足ることを知り、常に〕満ち足りている者として、なおかつ、〔他者を煩わせない〕扶養し易き者として、さらには、為すべきこと(世俗の義務)少なき者として、軽素な生活者として、かつまた、寂静なる〔感官〕機能(根)の者として、しかして、賢明なる者として、尊大ならず、〔行乞する〕家々に貪りなき者として、〔世に存するように〕。
145  また、他の識者たちが批判するであろうなら、どんなに小さなことであっても、行じおこなわないように。一切の有情(生きとし生けるもの)は、まさしく、安楽で、平安の者たちと成れ——自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。
146  何であれ、諸々の生き物たる生類が〔世に〕存するなら、あるいは、動くものたちも、あるいは、動かないものたちも、残りなく、あるいは、長いものたちも、あるいは、大きいものたちも、中くらいのものたちも、短いものたちも、微細や粗大のものたちも——
147  あるいは、〔かつて〕見たものたちも、あるいは、〔いまだ〕見たことがないものたちも、さらには、遠くに住むものたちも、遠からざるところに〔住むものたちも〕、あるいは、〔すでに世に〕有るものたちも、あるいは、〔これから〕生まれ来ることを求めるものたちも、一切の有情(生きとし生けるもの)は、自己〔自ら〕が楽しむ者たちと成れ。
148  他者が他者を欺くことがないように。どこにあろうと、誰であろうと、軽んじることがないように。怒りから、憤りの想い(想:表象・概念)から、互いに他の苦しみを求めることがないように。
149  母が自分の子を〔守るように、それも〕命がけで独り子を守るように、また、このように、一切の生類にたいし、無量なる〔慈愛の〕意[こころ]を習い修めるように。
150  しかして、一切世〔界〕にたいし、無量なる慈愛の意を習い修めるように。上に、また、下に、さらには、横に、隔てなく、怨みなく、敵なき〔意〕を〔習い修めるように〕。
151  立っていても、歩いていても、あるいは、坐し、あるいは、臥していても、眠気を離れ去った者として存するかぎりは、この〔行住坐臥の〕気づき(念)を〔瞬間瞬間に〕確立するように。この〔行住坐臥の気づき〕を、「この〔世における〕梵住〔の境地〕」と言う。
152  しかして、〔誤った〕見解へと近づき行くことなくして、〔正しい〕ものの見方を成就した、戒ある者は、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除いて、もはや、胎内へとふたたび至り行くことは、まさに、ない。


 第九経 ヘーマヴァタ

153  サーターギラ夜叉が〔言った〕「今日、十五〔日〕は、斎戒〔の日〕(布薩)です。〔神聖にして〕天なる夜が、やってきました。至上の名ある教師ゴータマ(ブッダ)に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです」と。
154  ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、そのような方(ブッダ)の意[こころ]は、一切の生類にたいし、善く向けられていますか。どうでしょう、彼の、諸々の〔思慮〕分別は、〔好ましいものとして〕求められたものや〔疎ましいものとして〕求められなかったものにたいし、〔分け隔てなく〕自在に為されていますか」と。
155  サーターギラ夜叉が〔答えた〕「たしかに、そのような方である、彼の意は、一切の生類にたいし、善く向けられています。しかして、彼の、諸々の〔思慮〕分別は、〔好ましいものとして〕求められたものや〔疎ましいものとして〕求められなかったものにたいし、〔分け隔てなく〕自在に為されています」と。
156  ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕与えられていないものを取ることはないですか。どうでしょう、生き物たちにたいし自制〔の思い〕ある者ですか。どうでしょう、〔気づきを〕怠ること(放逸)から遠く離れていますか。どうでしょう、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を捨てることはないですか」と。
157  サーターギラ夜叉が〔答えた〕「彼は、与えられてないものを取りません。しかして、生き物たちにたいし自制〔の思い〕ある者です。しかして、〔気づきを〕怠ることから遠く離れています。覚者(ブッダ)は、瞑想を捨てません」と。
158  ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕虚偽を語ることはないですか。どうでしょう、言葉の用途(正しい言葉づかい)が滅尽した者ではないですか。どうでしょう、陰口を言うことはないですか。どうでしょう、〔無意味な〕雑談を語ることはないですか」と。
159  サーターギラ夜叉が〔答えた〕「たしかに、彼は、虚偽を語りません。しかして、言葉の用途(正しい言葉づかい)が滅尽した者ではありません。しかして、陰口を言うことはありません。彼は、〔正しく〕思い考えて、義(道理)のあることを語ります」と。
160  ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕諸々の欲望〔の対象〕に染まることはないですか。どうでしょう、〔彼の〕心は混濁してないですか。どうでしょう、〔彼は〕迷いを超え行きましたか。どうでしょう、諸法(もの・こと)について眼ある者ですか」と。
161  サーターギラ夜叉が〔答えた〕「彼は、諸々の欲望〔の対象〕に染まりません。しかして、〔彼の〕心は混濁してません。〔彼は〕一切の迷いを超え行きました。覚者(ブッダ)は、諸法(もの・こと)について眼[まなこ]ある者です」と。
162  ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「どうでしょう、〔彼は〕明知の成就者ですか。どうでしょう、清浄の行ないある者ですか。どうでしょう、彼の、諸々の煩悩は滅尽しましたか。どうでしょう、〔彼に〕さらなる〔迷いの〕生存が存在することはないですか」と。
163  サーターギラ夜叉が〔答えた〕「まさしく、〔彼は〕明知の成就者です。しかして、清浄の行ないある者です。彼の、一切の煩悩は滅尽しました。彼に、さらなる〔迷いの〕生存が存在することはありません」と。
163A  〔ヘーマヴァタ夜叉が言った〕「牟尼の心は、〔正しい〕行為(業)と言葉の用途(言葉の正しい使用)を成就しました。明知と行ないの成就者である彼を、〔あなたは〕法(真理)ゆえに賞賛します」〔と〕。
163B  〔サーターギラ夜叉が言った〕「牟尼の心は、〔正しい〕行為と言葉の用途(言葉の正しい使用)を成就しました。明知と行ないの成就者を、〔あなたは〕法(真理)ゆえに随喜します。
164  牟尼の心は、〔正しい〕行為と言葉の用途(言葉の正しい使用)を成就しました。明知と行ないの成就者ゴータマ(ブッダ)に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです」〔と〕。
165  〔ヘーマヴァタ夜叉が言った〕「鹿のような脛をもち、痩せ細り、食少なく、〔味覚の対象に心が〕動かない慧者(ブッダ)に、林のなかで瞑想する牟尼ゴータマ(ブッダ)に、さあ、〔わたしたちは〕お目にかかるのです。
166  獅子や象のように独り歩む方に、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき方に、近しく赴いて、死魔の罠からの解放について、〔わたしたちは〕問い尋ねるのです」〔と〕。
167  〔サーターギラ夜叉とヘーマヴァタ夜叉が言った〕「〔真理を〕告知し〔真理を〕伝授する方に、一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方に、怨恨と恐怖〔の思い〕を超え行った覚者ゴータマ(ブッダ)に、わたしたちは問い尋ねるのです」〔と〕。
168  ヘーマヴァタ夜叉が〔尋ねた〕「何にたいし、世〔界〕の生起があるのですか。何について、〔人は〕親愛〔の情〕(愛着の思い)を為すのですか。何にたいし、世〔の人々〕は執取して、何について、世〔の人々〕は打ちのめされるのですか」と。
169  世尊は〔答えた〕「ヘーマヴァタよ、六つのもの(色・声・香・味・触・法)にたいし、世〔界〕の生起があります。六つのものについて、〔人は〕親愛〔の情〕(愛着の思い)を為します。まさしく、六つのものにたいし、〔世の人々は〕執取して、六つのものについて、世〔の人々〕は打ちのめされます」と。
170  〔ヘーマヴァタ夜叉が尋ねた〕「世〔の人々〕が打ちのめされる所〔である、六つのもの〕について、そのどれが、執取〔の対象〕なのですか。〔問いを〕尋ねられた者として、〔迷いの世界からの〕出離について、説いてください。どのようにして、苦しみから解き放たれるのですか」〔と〕。
171  〔世尊は答えた〕「世における五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)と、意〔の対象〕という第六のもの(法)が、〔あなたたちに〕知らされました。ここに、欲〔の思い〕を離染させて、このように、苦しみから解き放たれるのです。
172  このことが、あなたたちに真実のとおりに告げ知らされた、〔迷いの〕世〔界〕からの出離です。このことを、わたしは、あなたたちに告げ知らせます。このように、苦しみから解き放たれるのです」〔と〕。
173  〔ヘーマヴァタ夜叉が尋ねた〕「いったい、誰が、この〔世において〕、激流を超えるのですか。誰が、この〔世において〕、〔迷いの〕海を超えるのですか。誰が、足場なく基盤なき深み(迷いの海)に沈まないのですか」〔と〕。
174  〔世尊は答えた〕「一切時において戒を成就した者、〔心が〕善く定められた知慧ある者、内に〔正しい〕思弁ある気づきの者は、超え難き激流を超えます。
175  欲望〔の対象〕についての想い(想:表象・概念)を離れた者、一切の束縛を超え行く者、喜び〔の思い〕と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者——彼は、深み(迷いの海)に沈みません」〔と〕。
176  〔サーターギラ夜叉とヘーマヴァタ夜叉が言った〕「深遠なる知慧の方を、精緻なる義(道理)を〔正しく〕見る方を、無一物で欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存に執着なき方を、彼を、見よ——一切所に解脱した方を、天なる道を歩み行く偉大なる聖賢を。
177  至上の名ある方を、精緻なる義(道理)を〔正しく〕見る方を、〔解脱の〕知慧を与える方を、欲望と執着〔の対象〕に執着なき方を、彼を、見よ——一切を知る思慮深き方を、聖なる道を歩み行く偉大なる聖賢を。
178  すばらしい夜明けとすばらしい目覚めの今日、まさに、わたしたちは、すばらしいものを見ました。激流を超えた煩悩なき正覚者(ブッダ)を見たのです。
179  神通あり、福徳ある、これら、千の夜叉たちは、〔その〕全てが、あなたという帰依所に赴きます(覚者に帰依する)。あなたは、わたしたちにとって、無上の教師です。
180  そして、わたしたちは、村から村、山から山へと、渡り歩くでありましょう。正覚者(ブッダ)を、さらには、法(もの・こと)が見事に法(もの・こと)たることを、礼拝しながら」〔と〕。

 第十経 アーラヴァカ

181  〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、何が、人にとって、この〔世における〕最勝の富ですか。いったい、何が、善く行じおこなわれた安楽〔の境地〕をもたらすのですか。いったい、何が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものですか。どのように生きる生命を、〔賢者たちは〕『最勝のもの』と言うのですか」〔と〕。
182  〔世尊は答えた〕「信が、人にとって、この〔世における〕最勝の富です。法(教え)が、善く行じおこなわれた安楽〔の境地〕をもたらします。真理が、諸々の味のなかでは、まさに、より美味なるものです。知慧によって生きる生命を、〔賢者たちは〕『最勝のもの』と言います」〔と〕。
183  〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、どのようにして、激流を超えるのですか。いったい、どのようにして、〔迷いの〕海を超えるのですか。いったい、どのようにして、苦しみを超え行くのですか。いったい、どのようにして、〔人は〕遍く清まるのですか」〔と〕。
184  〔世尊は答えた〕「信によって、激流を超えます。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、〔迷いの〕海を〔超えます〕。精進によって、苦しみを超え行きます。知慧によって、〔人は〕遍く清まります」〔と〕。
185  〔アーラヴァカ夜叉が尋ねた〕「いったい、どのようにして、知慧を得るのですか。いったい、どのようにして、財を見い出すのですか。いったい、どのようにして、栄誉を得るのですか。どのようにして、朋友たちと〔交友を〕結ぶのですか。どのようにして、この世から他世へと、死してのち、憂い悲しまないのですか」〔と〕。
186  〔世尊は答えた〕「涅槃〔の境地〕を得るため、阿羅漢(人格完成者)たちの法(教え)に信を置き、〔法を〕聞くことを願う、明眼で〔気づきを〕怠らない者は、知慧を得ます。
187  適切なことを為し、重荷をにない、奮起する者は、財を見い出します。真理によって、栄誉を得ます。与える者は、朋友たちと〔交友を〕結びます。
188  彼に、信ある〔在家の〕家長に、真理と法(教え)と〔道心〕堅固と施与という、これら、四つの法(もの・こと)があるなら、まさに、彼は、死してのち、憂い悲しみません。
189  この〔世において〕、真理と調御と施与と忍耐よりも、より一層のものが見い出されるなら、さあ、他の沙門や婆羅門たちにもまた、広く問い尋ねてみなさい」〔と〕。
190  〔アーラヴァカ夜叉が言った〕「いったい、どのようにして、今や、〔他の〕沙門や婆羅門たちに、広く問い尋ねることができましょう。そして、わたしは、今日、覚知します——すなわち、未来(来世)における義(利益)となるものです。
191  まさに、わたしの義(利益)のために、覚者(ブッダ)は、アーラヴィー(地名)に住むべく、やってきたのです。そして、わたしは、今日、覚知します——すなわち、施したものが大いなる果となる所(布施をするにふさわしい対象)です。
192  そして、わたしは、村から村、町から町へと、渡り歩くでありましょう。正覚者(ブッダ)を、さらには、法(もの・こと)が見事に法(もの・こと)たることを、礼拝しながら」〔と〕。


 第十一経 勝利

193  もしくは、歩いていようが、立っていようが——あるいはまた、坐り、臥しているか——〔身体を〕伸ばし、〔身体を〕曲げる——これが、身体の動きである。
194  骨と腱で束縛され、皮と肉で塗装され、皮膚によって隠蔽された身体は、事実のとおりに見られない。
195  〔身体は〕腸で満ち、胃で満ち、肝臓、膀胱、心臓、肺臓、腎臓、脾臓と——
196  鼻水、唾液、汗、脂肪と、血液、髄液、胆汁と、膏とで〔満ちている〕。
197  また、この〔身体〕の九つの流れからは、一切時において、不浄物が流れ出る。目から目糞が、耳から耳糞が——
198  さらには、鼻から鼻水が〔流れ出る〕。或る時は、口から胆汁を吐き、あるいは、痰を吐く。身体から汗と垢が〔流れ出る〕。
199  また、この〔身体〕の空洞の頭蓋は、脳味噌で満たされている。〔この不浄の身体を〕偏重する愚者は、それ(身体)を、無明のゆえに、「美しい(価値がある)」と思いなす。
200  しかして、彼は、死んで〔地に〕臥し、膨張して青黒くなり、墓場に捨てられたとき、親族たちは、〔彼について〕期待なき者たちと成る。
201  彼を、犬たちや狐たちや狼たち、蛆虫たちが喰い、さらには、〔彼を餌にする〕他の生あるものたちが存在し、烏たちや鷲たちが〔彼を〕喰う。
202  覚者(ブッダ)の言葉を聞いて、比丘は、この〔世において〕、知慧ある者となる。まさに、彼は、それ(身体)について知り尽くす。なぜなら、事実のとおりに見るからである。
203  「この〔身体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔死体〕は〔存していた〕。この〔死体〕が〔そうである〕ように、そのように、この〔身体〕は〔成るであろう〕」〔と見て〕、内にも、外にも、身体についての欲〔の思い〕を離染させるであろう。
204  欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕が離染した、その比丘は、この〔世において〕、知慧ある者となる。不死なる寂静に、不死なる涅槃の境地に、〔彼は〕到達した。
205  この、二足の者(人間)は、不浄で、悪臭をはなち、〔諸々の香料によって、悪臭から〕守られている。種々の死骸(汚物)で遍く満ち、そこかしこから、〔汚物が〕流れ出ている。
206  このような〔不浄の〕身体によって、傲慢たるべく思いなし(他者に褒められたいと思い)、あるいは、他者を見下すなら、〔彼は〕見なき者より他の、何だというのだろう(盲者以外の何ものでもない)。

 第十二経 牟尼

207  親愛〔の情〕から、恐怖が生じた。家〔への思い〕から、塵が生まれる。家なく、親愛〔の情〕なきこと——まさに、これは、牟尼(沈黙の聖者)のものの見方である。
208  生じたもの(煩悩)を断ち切って、成長させないなら、〔もしくは〕その生まれつつあるものに〔成長の機会を〕与えないなら、彼を、〔賢者たちは〕「独り歩む牟尼」と言う。彼は、偉大なる聖賢として、寂静の境地を見た。
209  〔迷いの生存についての〕諸々の根拠を考究して、〔その〕種子を粉砕し、〔もしくは〕それについての愛執〔の思い〕に〔成長の機会を〕与えないなら、まさに、彼は、生の滅尽と終極を見る牟尼であり、〔邪[よこしま]な〕考えを捨てて、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことがない(名付けを離れた存在となる)。
210  諸々の〔妄執が〕固着する場の一切を了知して、それらのなかの唯[ただ]一つでさえも、欲さずにいるなら、まさに、彼は、貪り〔の思い〕を離れた無貪の牟尼であり、苦労することなく、まさに、彼岸に至った者として、〔世に〕有る。
211  一切を征服する者、一切を知る者、思慮深き者、一切の諸法(もの・こと)に汚されない者、一切を捨てる者、渇愛の滅尽〔という境地〕において解脱した者——まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
212  知慧の力あり、戒と掟を具有した者——〔心が〕定められ、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を喜ぶ、気づきある者——執着から解き放たれ、鬱屈なく、煩悩なき者——まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
213  〔気づきを〕怠ることなく、独り歩む牟尼——諸々の音に動じない獅子のように、〔鳥捕りの〕網に着[ちゃく]さない風のように、〔泥〕水に汚されない蓮華のように、諸々の非難や賞賛〔の声〕に〔心が〕動かない者——他者に導かれず、他者たちを導く者——まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
214  彼にたいし、他者たちが極端な言葉を説いても、水浴場にある柱のように〔どっしりと〕構えているなら、貪欲を離れ、〔感官〕機能(根)が善く定められた彼を、まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
215  まさに、梭[ひ](はた織りの道具)のように、真っすぐに自己を安立[あんりゅう]し、諸々の悪しき行為(悪業)を忌避し、差異と平等を〔あるがままに〕考察する者——まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
216  自己を自制し、悪を為さない者——青年であろうと、中年であろうと、自己を制した牟尼——彼は、〔何ものにも〕悩まされず、何ものをも悩ますことがない。まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
217  最初のものであれ、中程のものであれ、あるいは、残りもの(残飯)であれ、他者の施しに依拠して生きる者(出家者)として、〔行乞の〕食を得たなら、褒めようにも十分ならず、また、不平を説くでもない者(褒めもせず貶しもしない者)——まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
218  若くありながら、何ものにも縛られず、淫欲から離れて歩む牟尼——驕りと怠りから離れた解脱者——まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
219  世〔のあり様〕を了知して、最高の義(勝義:涅槃の境地)を見る者——〔貪りの〕激流と〔欲の〕海を超え渡って、拘束を断ち、依存なく、煩悩なく、そのような者である彼を、まさしく、彼をもまた、慧者たちは「牟尼」と知る。
220  〔在家と出家の〕両者は、等しくない。住居と生活は、遠く離れている。在家者は、妻を養う者である。そして、善き掟[おこない]の者(出家者)は、我執なき者である。在家者は、他の生き物を殺傷することに、自制なき者である。〔自己を〕制した牟尼は、常に、生き物たちを守る。
221  青首の孔雀が宙を行くなら、どんな時も、白鳥の速さには近づかないように、このように、在家者は、比丘には付いて行けない——林のなかで瞑想する、遠離の牟尼には。

第二章 小なるもの

 第一経 宝

222  ここに集いあつまった精霊たちよ、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、空中にあるものたちも、まさしく、一切の精霊たちよ、意[こころ]楽しく有れ。しかしてまた、〔わたしの〕語るところを、謹んで聞け。
223  それゆえに、まさに、一切の精霊たちよ、こころして聞け。人間たる〔世の〕人々のために、慈愛〔の心〕を為せ。それゆえに、まさに、昼も、夜も、〔あなたたちに〕供物を運ぶ者たちである、彼らを、怠りなく守れ。
224  あるいは、この〔世〕における、あるいは、あの〔世〕における、どのような富も、あるいは、諸々の天上における、妙なる宝も、如来(あるがまま行為者)と等しいものは、けっして、存在しない。これもまた、覚者(ブッダ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
225  〔心が〕定められた者である、サキャ〔族〕の牟尼(釈迦牟尼)が到達した、滅尽と離貪という、妙なる不死〔の境地〕——その法(教え)と等しいものは、何であれ、存在しない。これもまた、法(教え)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
226  最勝の覚者(ブッダ)が遍く褒め称えた、清らかさ——それを、〔賢者たちは〕「無間[むけん]なる〔心の〕統一(無間定:時を要さない、即時の禅定)」と言う。その、〔心の〕統一(定:三昧の境地)と等しいものは、〔どこにも〕見い出されない。これもまた、法(教え)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
227  正しくある者たちに賞賛された、これら四組の者たち八人(四双八輩:正覚に至る四階梯の各々において学びつつある者と学び終えた者の計八人)が〔世に〕有るなら、彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。これもまた、僧団(サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
228  堅固な意で〔心が認識の対象に〕しっかりと結び付けられ、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて〔心が欲望の対象に〕無欲なる者たち——彼らは、不死〔の境地〕に入って得るべきものを得た者たちであり、寂滅〔の境地〕を空手[くうしゅ]で得て享受している者たちである。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
229  インダ(インドラ神)の杭(城門に立てられた標柱)が大地に依拠して存し、四〔方〕の風に不動であるように、その喩えのような者を、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を的確に見る、正しい人と〔わたしは〕説く。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
230  深遠なる知慧の者によって見事に示された、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を分明する者たち——たとえ、何であれ、彼らが多く怠る者たちで有るとして、彼らは、第八の生存(有)を取らない(最高で七回までの輪廻のうちに解脱する)。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
231  まさしく、彼の、ものの見方の成就と共に、まさに、三つの法(もの・こと)が捨て去られたものと成る。〔すなわち〕何であれ、存在するかぎりの、身体が有るという見解(有身見:心身について「自己である」「自己のものである」と妄想し執着する実体論的見解)、および、疑惑〔の思い〕、あるいはまた、〔執着の対象になった〕戒や掟である。また、四つの堕所(地獄・畜生・餓鬼・阿修羅)から解脱し、かつまた、六つの極罪を為すこと(母を殺すこと・父を殺すこと・阿羅漢を殺すこと・覚者を傷つけること・僧団を分裂させること・異教の者を師とすること)は起こりえない。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
232  たとえ、何であれ、彼が、身体によって、言葉によって、あるいはまた、心によって、悪しき行為(業)を為すとして、彼が、それを隠し立てすることは起こりえない。「〔涅槃の〕境地を見た者には、〔そのようなことは〕起こりえない」と〔覚者によって〕説かれた。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
233  〔四つある〕夏の月の第一の夏(春先)に、先端が〔一斉に〕開花した林の茂みのように、その喩えのように、〔覚者は〕涅槃に至る優れた法(教え)を、最高の利益のために〔他に先駆けて〕示した。これもまた、覚者における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
234  優れた者、優れたものを知る者、優れたものを与える者、優れたものを運び来る者、無上なる方が、優れた法(教え)を示した。これもまた、覚者における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
235  古きもの(過去の業)が滅尽し、新しいものの生起が存在せず、未来における生存にたいし心が離染した者たち——慧者である彼らは、〔迷いの〕種子が滅尽し、成長の欲なく、この灯明のように、消え行く(涅槃に到達する)。これもまた、僧団における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
236  ここに集いあつまった精霊たちよ、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、空中にあるものたちも——〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、覚者(ブッダ)を、礼拝する——安穏成れ。
237  ここに集いあつまった精霊たちよ、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、空中にあるものたちも——〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、法(教え)を、礼拝する——安穏成れ。
238  ここに集いあつまった精霊たちよ、あるいは、地上にあるものたちも、あるいは、空中にあるものたちも——〔わたしたちは〕天〔の神々〕と人間たちによって供養された如来を、僧団(サンガ)を、礼拝する——安穏成れ。

 第二経 生臭

239  〔苦行者ティッサが尋ねた〕「諸々のサーマーカ(雑穀)やディングラカ〔草〕やチーナカ〔豆〕を、葉の果(野菜)や根の果(根菜)や蔓の果(果実)を、正しくある者たちの法(教え)によって得たもの(規則どおりに採取したもの)を、〔常に〕食べている者たち——〔彼らは〕欲を欲するままに偽りを語ることがありません。
240  〔しかしながら〕上手に作り為され、見事に盛り付けされたものを〔常に〕食べている者——他者たちによって布施され供与された妙なるものを、〔雑穀の混じらない〕米〔だけ〕の食べ物を、食べている者——カッサパ(迦葉:過去仏)よ、彼は、生臭[なまぐさ]ものを食べているのです。
241  梵〔天〕(ブラフマー神)の眷属であるあなた(過去仏カッサパ)は、上手に調理された諸々の鳥の肉とともに、〔雑穀の混じらない〕米〔だけ〕の食べ物を食べつつ、『生臭の者は、わたしには受け入れられない』と、まさしく、かくのごとく語ります。カッサパよ、この義(意味)について、あなたに尋ねます。あなたの〔説く〕生臭は、どのような流儀のものですか」〔と〕。
242  〔過去仏カッサパは答えた〕「生き物を殺すこと、〔生き物を〕打つことと切ることと縛ること、〔物を〕盗むこと、虚偽を説くこと、欺くこと、騙すことと、〔役に立たない〕学問に傾倒すること、他者の妻と慣れ親しむこと——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
243  この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕にたいし自制なき人たち、諸々の味にたいし貪り〔の思い〕ある者たち、不浄のものと交わる者たち、『〔何であれ〕存在しない』という見解(断見論)ある正しからざる者たち、捉えどころなき者(教え難き者)たち——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
244  粗野な者たち、凶悪な者たち、陰口を言う者たち、朋友を裏切る者たち、慈悲〔の心〕なく増慢の者たち、そして、施さないことを戒[ならい]とし、誰にたいしても施さない者たち——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
245  憤怒、驕慢、強情、そして、反抗、幻想[ごまかし]、嫉妬、あるいは、大言壮語、さらには、高慢と増慢、正しからざる者たちへの親愛——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
246  悪を戒[ならい]とし、借金を踏み倒し、告げ口をし、裁きにおいて奸計あり、この〔世において〕、それらしい形態[なり]をする者(偽善者)たち——この〔世において〕、罪障を作る、最低の人たち——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
247  この〔世において〕、諸々の生き物にたいし自制なき人たち——他者たちのものを取って、害することに専念する者たち——戒に劣り、凶暴で、粗暴で、礼を欠く者たち——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
248  これら〔の生き物たち〕にたいし貪り〔の思い〕ある者たち、〔行く手を〕遮り殺害する者(敵意を抱き、害を為す者)たち、常に〔正しからざることに〕専念する〔迷える〕有情たちは、死してのち、闇に赴き、頭を下にして〔真っ逆さまに〕地獄に堕ちる——これが、生臭です。まさに、肉を食べることではありません。
249  魚肉〔を食べないこと〕にあらず、断食することにあらず、あるいは、裸身でいること、剃髪すること、結髪すること、埃〔をかぶること〕、諸々の粗い鹿皮〔をまとうこと〕にあらず、あるいは、祭火の勤行にあらず、あるいはまた、世における多くの不死の苦行、諸々の呪文や供犠、諸々の祭祀や季節の勤行に〔あらず〕——疑惑を超えずにいる人間を清めるのは。
250  諸々の〔欲望の〕流れにたいし〔心が〕守られた者として、〔感官〕機能(根)を征圧した者として、歩むように。法(正義)に依って立ち、正直で柔和であることを喜び、執着を超え行き、一切の苦しみを捨て去った慧者は、諸々の見られ聞かれたもの(執着の対象になった認識対象)に汚されません」〔と〕。
251  かくのごとく、世尊(過去仏カッサパ)は、繰り返し、この義(意味)を告げ知らせた。呪文の奥義に至る者(苦行者ティッサ)は、それを知った。生臭なく、〔何ものにも〕依存せず、〔何ものによっても〕捉えどころなき牟尼は、様々な詩偈によって、〔それを〕明らかにした。
252  見事に語られた覚者の句を、生臭なく一切の苦しみを除き去る〔教え〕を聞いて、〔苦行者ティッサは〕謙虚な意[こころ]で如来を拝し、まさしく、その場において、ここに、出家することを選んだ。

 第三経 恥

253  恥〔の思い〕を超え(無視し)、忌避している者——「わたしは、〔あなたの〕友として存在する」と語りながら、諸々のできる行為(業)を引き受けずにいる者——彼のことを、「これは、わたしの〔友〕ではない」と、かくのごとく識知するように。
254  〔実行を〕伴わない愛しい言葉を、朋友たちのあいだで作り為す(語る)なら、賢者たちは、為すことなく語っている者を、〔あるがままに〕知り尽くす。
255  〔朋友にたいし〕常に〔警戒を〕怠らず、〔友情の〕破壊を危惧し、〔相手の〕欠点だけを観る者——彼は、朋友ではない。しかしながら、〔母の〕胸に子が臥すように彼のうちにあり、他者たちによって〔彼との友情が〕壊れないなら、まさに、彼は、朋友である。
256  果報と福利ある者は、人としての重荷を運びつつ、歓喜を作り為す境位(喜びの因となる精進努力)を、賞賛をもたらす安楽(涅槃へと導く精進努力)を、習い修める。
257  遠離の味わいを飲み干して、さらには、寂止の味わいを〔飲み干して〕、懊悩なく悪なき者と成る——法(真理)の喜びの味わいを飲み干しながら。

 第四経 大いなる幸福

258  〔天の神が尋ねた〕「多くの天〔の神々〕や人間たちは、安穏を望みながら、諸々の幸福について、思い考えました。最上の幸福について、説いてください」〔と〕。
259  〔世尊は答えた〕「愚者たちと慣れ親しまないことと、賢者たちと慣れ親しむことと、供養すべき者たちに供養することと——これが、最上の幸福です。
260  適切な地に住むことと、過去に作り為された功徳あることと、自己についての正しい誓願と——これが、最上の幸福です。
261  多聞[たもん](博識)と、技芸と、善く学ばれた律[りつ](規律)と、見事に語られた言葉と——これが、最上の幸福です。
262  母と父に奉仕すること、子と妻を愛護すること、行為(仕事)に混乱なきことと——これが、最上の幸福です。
263  布施と、法(教え)にかなう行ないと、親族たちを愛護することと、罪過なき諸々の行為(業)——これが、最上の幸福です。
264  悪から離れること、〔悪から〕去ること、酔う飲み物(酒)について自制あることと、諸法(もの・こと)にたいし〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)と——これが、最上の幸福です。
265  尊重と、謙譲と、知足と、知恩、〔正しい〕時に法(教え)を聞くこと——これが、最上の幸福です。
266  忍耐と、素直であること、沙門たちと相見[まみ]えることと、〔正しい〕時に法(教え)を論じること——これが、最上の幸福です。
267  苦行と、梵行(禁欲清浄行)と、〔四つの〕聖なる真理(四聖諦)を見ること、涅槃〔の境地〕を実証することと——これが、最上の幸福です。
268  世における諸々の法(もの・こと)に触れても、彼の心が動かず、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れ、平安であること——これが、最上の幸福です。
269  これらのようなことを為して、一切所で敗者ならず、一切所で安穏へと至る——それが、彼らにとっての最上の幸福です」〔と〕。

 第五経 スーチローマ

270  〔スーチローマ夜叉が尋ねた〕「貪り(貪)と怒り(瞋)とは、何を縁として〔生起したのですか〕。不満と喜悦(好悪の感情)、身の毛のよだつことは、何を〔縁として〕生じたのですか。諸々の思考は、何を〔縁として〕現起して、〔善き〕意[こころ]を〔投げ捨てるのですか〕——少年たちが〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように」〔と〕。
271  〔世尊は答えた〕「貪りと怒りとは、これ〔自身〕を縁として〔生起しました〕。不満と喜悦(好悪の感情)、身の毛のよだつことは、これ〔自身〕を〔縁として〕生じました。諸々の思考は、これ〔自身〕を〔縁として〕現起して、〔善き〕意を〔投げ捨てます〕——少年たちが〔足を縛った〕烏を〔遊び目的で〕投げ捨てるように。
272  〔それらは〕愛執〔の思い〕から生じ、自己から生起したものです——〔ニグローダ樹の葉が〕ニグローダ〔樹〕の幹〔それ自身〕から生じたものであるように。〔それらは〕広く、諸々の欲望〔の対象〕に絡[からみ]みついています——林のなかにはびこった蔓草のように。
273  それが何を縁として〔生起したのか〕を覚知する者たち——彼らは、それを取り除きます。夜叉よ、聞きなさい。彼らは、さらなる〔迷いの〕生存がないように、かつて超えられたことのない、この、超え難き激流を超えます」〔と〕。

 第六経 法にかなう行ない

274  法(教え)にかなう行ない(法行)と梵行(禁欲清浄行)——これを、〔賢者たちは〕「最上の富」と言う。たとえ、もし、家から家なきへと出家した者として〔世に〕有るとして——
275  もし、彼が、口悪き輩[やから]で、〔他者を〕害することを喜ぶ獣愚の者であるなら、彼の生は、より悪しきものとなり、自己の塵を増大させる。
276  紛争を喜ぶ比丘は、迷妄という法(性質)によって覆われた者であり、たとえ、覚者(ブッダ)によって示された法(教え)を告げ知らされても、知ることはない。
277  自己を修めた者たちを悩害し、無明によって〔特定のものを〕偏重する者は、〔心の〕汚れ(煩悩)が地獄に至る道であることを知らない。
278  悪所に堕した者は、胎から胎、闇から闇へと〔赴く〕。まさに、彼は、そのような比丘は、死してのち、苦を受ける。
279  糞坑[こえだめ]が年を経たものとして存するなら、〔汚物で〕満たされるように、このような形態の者として存するなら、穢れを有する者は、まさに、清め難い。
280  比丘たちよ、このような形態[なり]の者を、家〔の生活〕に依存する者(世俗の欲望に縛られた者)と知れ。悪しき欲求ある者、悪しき妄想ある者、悪しき行ないを境涯とする者と〔知れ〕。
281  全て〔の比丘〕は、和合の者たちと成って(一致団結して)、彼を厭い離れよ。殻を取り払え。屑を取り去れ。
282  それゆえに、沙門でないのに「沙門である」と高慢する、籾殻たちを除き去れ——悪しき欲求ある者たち、悪しき行ないを境涯とする者たちを取り払って。
283  〔あなたたちは〕気づきある、清浄の者たちとして、清浄の者たちと共に住むことを〔心に〕想い描け(その実現に努めよ)。それゆえに、〔あなたたちは〕賢明なる、和合の者たちとして、苦しみの終極[おわり]を為すであろう。

 第七経 婆羅門としての法あること

284  過去の聖賢たちは、自己を自制した〔真の〕苦行者たちとして、〔世に〕存した。五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨てて、自己の義(目的)を行じおこなった。
285  〔過去の〕婆羅門たちに、家畜たちは存在しなかった。黄金なく、穀物なく、読誦を財産とし穀物とする者たちとして〔世に〕存し、梵宝(心身における最高のあり方)を守った。
286  〔施者によって〕準備された門口[かどぐち]の食(供養のための食)は、彼らのために作られたものとして存在した。〔人々は〕それを、〔食を〕求める者たち(行乞者)のために施すべく、信によって作られたものと思い考えた。
287  種々なる〔色〕に染まった諸々の衣[ころも]や諸々の臥〔具〕、さらには、諸々の住居によって(それらを供物として)、地方や国々の富み栄える者たちは、彼ら、婆羅門たちを礼拝した。
288  婆羅門たちは、不可侵の者たちとして、不可伐の者たちとして、法(真理)に守護された者たちとして、〔世に〕存した。誰であれ、家々の戸口において、彼らを妨げることは、全くもってなかった。
289  彼らは、四十八年のあいだ、童貞の梵行(禁欲清浄行)を行じおこなった。過去の婆羅門たちは、明知と行ないの完全なる探求を行じおこなった。
290  婆羅門たちは、他者〔の妻〕のもとに行かなかった。また、彼らは、妻を買うこともなかった。まさしく、相愛の者と共に住むことを、一緒になって喜び合った。
291  〔適切な〕その時より他には、月経[つきのもの]で離れている〔妻〕に向かって、〔その〕間、婆羅門たちが淫欲の法(もの・こと)に赴くことは、けっしてない。
292  〔彼らの〕梵行と、戒と、実直、柔和、苦行、温和、不害と、さらにまた、忍耐を、〔人々は〕褒め称えた。
293  彼らのなかでも最高の者として存した、断固たる努力ある梵(婆羅門)——まさしく、彼は、夢の中でさえも、淫欲の法(もの・こと)に赴かなかった。
294  彼の行持[つとめ]に学ぶ者たち、この〔世において〕識者に属するとされる、或る者たちは、〔彼の〕梵行と、戒と、さらにまた、忍耐を、褒め称えた。
295  米と臥〔具〕と衣、そして、酥(バター)と油を、法(真理)によって乞い、集めて、そののち、祭祀を営んだ。準備された祭祀において、彼らが牛たちを殺すことは、けっしてなかった。
296  母や父や兄弟たちが、あるいはまた、他の親族たちとがそうであるように、牛たちは、彼らにおいて諸々の薬が生まれる、わたしたちにとって最高の朋友たちであり——
297  そのように、これら〔の牛たち〕は、〔わたしたちに〕食べ物を与え、そして、力を与え、色艶を与え、安楽を与えてくれる者たちである。この、義(道理)の支配あるところを知って、彼らが牛たちを殺すことは、けっしてなかった。
298  〔身のこなしが〕繊細で身体が大きく、容貌と福徳ある、〔過去の〕婆羅門たちは、自らの諸々の法(性質)によって、諸々の為すべきことや為すべきでないことに邁進する者たちであり、〔彼らの徳が〕世に転起したあいだ、この〔世の〕人々は安楽に栄えた。
299  〔しかしながら〕彼らに、転倒〔の想い〕が存在した(不実の思いが生まれた)。微細な〔欲の喜び〕から、〔まさにその〕微細なものを〔欲望の対象として〕見て、王の華麗さと、〔見てくれを〕十二分に作り為した女性たちとを〔見て〕——
300  善き生まれ〔の駿馬〕を繋ぎ見事に作られた諸々の車と、様々な〔彩りの〕刺繍を、等分に計量され区分された諸々の住居地や住居を〔見て〕——
301  牛たちの輪に囲まれ、美女の群れを擁する、巨万〔の富〕を、〔欲深い〕人間としての財物を、婆羅門たちは貪り求めた。
302  そこで、彼らは、諸々の呪文を編纂して、そのとき、オッカーカ〔王〕(甘蔗:古代の大王)のもとへと近づき行った。「〔あなたは〕多大なる財産と穀物をもつ者として〔世に〕存している。祭祀をしなさい。あなたには、多くの富がある。祭祀をしなさい。あなたには、多くの財がある」〔と〕。
303  しかして、〔このように〕婆羅門たちに説得された、車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる王は、それゆえに、馬の犠牲〔祭〕や人の犠牲〔祭〕、サンマーパーサ〔祭〕やヴァージャペイヤ〔祭〕やニラッガラ〔祭〕など、これらの祭祀を執り行なって、婆羅門たちに財を与えた。
304  牛たち、臥〔具〕と、衣と、〔見てくれを〕十二分に作り為した女性たちと、善き生まれ〔の駿馬〕を繋ぎ見事に作られた諸々の車と、様々な〔彩りの〕刺繍を——
305  しっかりと等分に〔計測され〕区分された諸々の喜ばしき住居地を、種々の穀物で満たして、婆羅門たちに財を与えた。
306  しかして、彼らは、そこにおいて財を得て、蓄積することを喜び合った。〔自らの〕欲求に沈んだ彼らの渇愛〔の思い〕は、より一層、増大した。そこで、彼らは、諸々の呪文を編纂して、ふたたび、オッカーカ〔王〕(甘蔗:古代の大王)のもとへと近づき行った。
307  「水と、大地と、黄金、財産や穀物のように、このように、牛たちは、人間たちのものである。まさに、それは、生ある者たちの必需品である。祭祀をしなさい。あなたには、多くの富がある。祭祀をしなさい。あなたには、多くの財がある」〔と〕。
308  しかして、〔このように〕婆羅門たちに説得された、車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる王は、それゆえに、幾百千の牛たちを、祭祀において屠らせた。
309  〔牛たちは、人にたいし〕足で〔害すること〕なく、角で〔害すること〕なく、何であろうと、〔人を〕害することは、けっしてない。牛たちは、羊と等しく温和で、瓶[かめ]いっぱいの乳〔を出してくれる〕。その〔牛たち〕を、王は、角を掴まえて、刃でもって屠らせた。
310  しかして、天〔の神々〕たち、先祖の霊、インダ〔神〕(インドラ神)、阿修羅や羅刹たちは、それゆえに、牛のうえに刃が落ちたことを、「法(正義)にあらず」と泣き叫んだ。
311  過去には、欲求(本能)と飢餓(空腹になること)と老化という、三つの病〔だけ〕が、〔人間に〕存在した。しかしながら、家畜たちの屠殺により、〔新たに〕九十八〔の病〕が起こった。
312  この、法(正義)ならざることが、諸々の棒(暴力)のなかの〔一つの〕現われとして、過去に有った。汚れなき者たちが殺され、祭祀をする者たちは、法(正義)から転落する。
313  このように、この、〔欲の思いという〕微細な法(もの・こと)が、過去〔に有ったこと〕であり、識者が非難するところのものである。このような〔供犠〕を見る所では、人は、祭祀をする者を非難する。
314  このように、法(正義)が失われたとき、隷民と庶民たちは分裂した。多くの士族たちが分裂し、妻は夫を軽蔑した。
315  士族たち、そして、梵〔天〕(ブラフマー神)の眷属たち、さらには、他の、氏姓に守られた者たち——〔彼らは〕出生の論(分相応の生き方)を無視して、諸々の欲望の支配へと近づき行った。

 第八経 舟

316  彼から、まさに、法(真理)を、人が識知するなら、彼を、天〔の神々〕たちがインダ〔神〕(インドラ神)を〔供養する〕ように、供養するように。供養された彼は、その〔人〕にたいし、清らかな心ある、多聞[たもん]の者として、〔その人のために〕法(真理)を明らかにする。
317  その〔法〕を義(目的)と為して、こころして聞き、慧者は、法(真理)を法(真理)のままに実践しつつ、しかして、〔彼は〕識者にして〔法を〕分明する精緻の者と成る——〔気づきを〕怠ることなく、そのような〔多聞の〕者と親しくするなら。
318  しかしながら、小なる愚者に仕え親しむ者は、あるいは、義(目的)に至らない者に〔仕え親しむ者は〕、あるいは、嫉妬〔の思い〕ある者に〔仕え親しむ者は〕、まさしく、この〔世において〕、法(真理)を分明せずして、疑惑を超えることなく、死へと近づき行く。
319  人が川に入って、〔それも〕水の流れ速き大水〔の川〕に〔入って〕、彼〔自身〕が〔流れに〕運ばれつつ、流れのままに行くなら、どうして、彼が、他者たちを超え渡すことができるであろう。
320  まさしく、そのように、法(真理)を分明せずして、多聞の者たちの〔説く〕義(道理)をこころして聞かずして、自ら知ることなく、疑惑を超えずにいるなら、どうして、彼が、他者たちを納得させることができるであろう。
321  また、櫂と舵を保有する者と成って、堅固な舟に乗り、そこ(舟)において、〔操舵の〕手段を知る、思慧ある智者として〔有る〕なら、彼は、そこにおいて〔はじめて〕、他の、多くの者たちをもまた超え渡すであろうように——
322  また、このように、〔真の〕知に至り、自己を修めた者として〔世に有るなら〕、多聞にして、不動なる法(真理)の者として〔世に〕有るなら、まさに、彼は、〔法を〕覚知している者であり、他者たちを、耳を傾け〔聴聞の〕縁を具有した者たちを、納得させるであろう。
323  それゆえに、まさに、正しい人と親しくするように——まさしく、思慮ある者と、多聞の者とに。義(道理)を了知して〔常に〕実践している彼は、法(真理)の識知者となり、安楽を得るであろう。

 第九経 何が戒か

324  〔比丘が尋ねた〕「何が、戒ですか。何が、正しい行ないですか。どのような諸々の行為(業)を育てつつ、人は、正しい〔自己〕確立者として存するのですか、そして、最上の義(目的)を得るのですか」〔と〕。
325  〔世尊は答えた〕「長上(年長の先達)を敬い、嫉妬〔の思い〕なき者として存するように。そして、導師と相見[まみ]えるための〔正しい〕時を知る者として存するように。法(真理)の話が発せられた時節を知り、諸々の見事に語られた〔法の話〕を謹んで聞くように。
326  〔正しい〕時に導師の現前に行くように。強情を捨てて、謙譲の生活者となり、義(道理)と法(真理)と自制と梵行(禁欲清浄行)について、まさしく、思念もし、実行もするように。
327  法(真理)を喜びとし、法(真理)に喜びあり、法(真理)において安立し、法(真理)の判別を知る者となり、法(真理)を汚す論を行じおこなうことが、まさしく、ないように。見事に語られた諸々の真実によって導かれるように。
328  笑い、呟き、嘆き、怒り、〔過去に〕為した幻想[ごまかし]、虚言、貪欲と高慢、激昂と粗暴と汚濁と耽溺を捨てて、驕りを離れ、自己を安立した者として歩むように。
329  諸々の見事に語られた〔法の話〕は、識知されることを真髄とします。聞かれたものと識られたものは、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を真髄とします。人が、〔気づきを〕怠り、〔物事を〕無理強いする者として〔世に〕有るなら、彼には、知慧も、所聞(学識)も、増えることはありません。
330  しかしながら、聖者によって知らされた法(教え)に喜びある者たち——彼らは、言葉によって、意[こころ]によって、そして、行為(業)によって、無上なる者たちです。彼らは、〔心の〕寂静と〔心の〕温和と〔心の〕統一(定:三昧の境地)を確立した者たちです。所聞(学識)と知慧の真髄に到達したのです」〔と〕。

 第十経 奮起

331  奮起せよ。坐せ(瞑想せよ)。眠ることで、あなたたちに、何の義(利益)があるというのだろう。まさに、病んでいる者たちに、矢に貫かれ苦しんでいる者たちに、何の眠りがあるというのだろう。
332  奮起せよ。坐せ(瞑想せよ)。〔心の〕寂静のために、断固として学べ。あなたたちに怠りあることを死魔の王が識知して、〔彼の〕支配下において〔あなたたちを〕迷わすことがあってはならない。
333  〔限定された特定のものを〕義(目的)とし、〔限定された特定のものに〕依存する、天〔の神々〕や人間たちが、そのために依って立つところの、この、執着〔の思い〕を超え渡れ。まさに、〔いかなる〕時節であろうが、〔あなたを〕超え行くことがあってはならない(瞬時でさえも、虚しく過ごしてはならない)。まさに、〔いかなる〕時節であろうが〔無駄に〕過ごした者たちは、地獄に引き渡され、憂い悲しむことになる。
334  怠ること(放逸)は、塵である。塵は、〔気づきを〕怠ることから生み落とされた。〔気づきを〕怠らないこと(不放逸)によって、明知によって、自己の矢を抜くように。

 第十一経 ラーフラ

335  〔ラーフラ(人名・ブッダの実子にして比丘)に、世尊は尋ねた〕「〔賢者サーリプッタと〕何度となく共に住んでいるがゆえに、賢者(サーリプッタ)を見下すことがないか、どうか。人間たちにとって松明[たいまつ]の掲げ手である者(サーリプッタ)は、おまえによって、敬われているか、どうか」〔と〕。
336  〔ラーフラが答えた〕「わたしは、〔賢者サーリプッタと〕何度となく共に住んでいるがゆえに、賢者(サーリプッタ)を見下すことがありません。人間たちにとって松明の掲げ手である方(サーリプッタ)は、わたしによって、常に敬われています」〔と〕。
 諸々の序の詩偈が〔終わる〕。
337  〔世尊は言った〕「五つの欲望の対象(五妙欲:色・声・香・味・触)を捨てて、意[こころ]が喜びとする、諸々の愛しい形態のものを〔捨てて〕、信によって家から出て、苦しみの終極[おわり]を為す者と成れ。
338  善き朋友たちと親しくせよ。そして、騒音少なく、辺境にある、遠離の臥坐〔所〕に〔慣れ親しめ〕。食について量を知る者と成れ。
339  衣料、〔行乞の〕鉢食と、日用品(薬品)、臥坐〔具〕——これらについて渇愛〔の思い〕を為してはならない。〔迷いの〕世に、ふたたび帰り来ることがあってはならない。
340  戒め(波羅提木叉:戒律条項)において〔自己が〕統御された者と〔成れ〕。そして、五つの〔感官〕機能(五根:眼・耳・鼻・舌・身)において〔自己が統御された者と成れ〕。おまえの身体の在り方について〔常に〕気づき(念)が存せ。〔迷いの世について〕厭離〔の思い〕多き者と成れ。
341  貪欲を伴った美しい相(世において「価値がある」と評価される事象)を遍く避けよ。〔身体について〕美しくない〔とする想い〕(不浄想)によって、一境に善く定められた心を習い修めよ。
342  また、無相〔の想い〕を習い修めよ。高慢〔の思い〕という悪習(随眠)を廃棄せよ。それゆえに、高慢〔の思い〕が寂止するがゆえに、〔おまえは〕寂静の者として、〔世を〕歩むであろう」〔と〕。

 第十二経 ヴァンギーサ

343  〔尊者ヴァンギーサが尋ねた〕「まさしく、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において、諸々の疑惑を断ち切る方である、至上の知慧ある教師(ブッダ)に、〔わたしたちは〕尋ねます。アッガーラヴァ(地名)で、〔或る〕比丘が、命を終えました。〔世に〕知られ、福徳ある者で、自己が寂滅した者です。
344  世尊(ブッダ)よ、『ニグローダ・カッパ』という、その婆羅門の名は、あなたによって付けられました。断固として法(真理)を見る方よ、彼は、あなたを礼拝しながら、解脱を期し、精進に励む者として、行じおこないました。
345  サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、一切に眼[まなこ]ある方よ、わたしたちは、〔その〕全てでさえもが、〔あなたの〕その弟子について了知することを求めます。わたしたちの〔両の〕耳は、〔あなたの答えを〕聞くべく、〔今か今かと〕待ち構えています。あなたは、わたしたちの教師です。あなたは、無上なる者として、〔世に〕存しているのです。
346  わたしたちの疑惑を、まさしく、断ち切ってください。それを、わたしに説いてください。広き知慧ある方よ、〔彼が〕完全なる涅槃に到達した者〔であるかどうか〕を、〔わたしたちに〕知らせてください。一切に眼ある方よ、まさしく、わたしたちの中において、語ってください——千の眼ある帝釈〔天〕(インドラ神)が、天〔の神々〕たちに〔語る〕ように。
347  何であれ、この〔世における〕、諸々の拘束、諸々の迷いの道、諸々の知恵なき徒、諸々の疑惑の状況——それらは、如来と会うと、〔もはや〕有りえないのです。人たちのなかの最高者、まさに、この、眼ある方と〔会うと〕。
348  もし、まさに、〔この〕人(ブッダ)が、風が層雲を〔吹き払う〕ように、諸々の〔心の〕汚れ(煩悩)を、しっかりと打ち払わないなら、一切世〔界〕は、まさしく、〔覆[おおい]に〕覆われた闇として存するでしょうし、光輝ある人たちでさえも、光り輝くことはないでしょう。
349  しかしながら、慧者たちは、灯火の作り手たちとして、〔世に〕有ります。慧者よ、わたしは、あなたを、まさしく、それ、そのとおりの方と思うのです。〔あるがままに〕観る者と知り、〔わたしたちは、あなたのもとへと〕近づき行ったのです。〔光なき〕衆たちのうちにあるわたしたちに、カッパのことを、明らかにしてください。
350  麗しき方よ、麗しき〔その〕言葉を、すみやかに発してください。白鳥たちが〔首を〕もたげて、おもむろに〔鳴く〕ように、美しく整えられた、まろやかな声で吟じてください。まさしく、〔わたしたちの〕全てが、行ないの真っすぐな者たちとなり、あなたの〔言葉を〕聞くでありましょう。
351  残りなく生と死を捨て去った清き方(ブッダ)に請い求めて、法(真理)を説いてもらいましょう。なぜなら、凡夫たちには、欲することを〔考究して〕為すことなく、いっぽう、如来たちには、〔是非を〕考究して為すことあるからです。
352  この〔問いの〕充全なる説明は、正しく真っすぐな知慧ある、あなたの把握するところです。この、〔あなたへの〕最後の合掌は、しっかりと手向けられました。至上の知慧ある方よ、〔答えを〕知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。
353  彼此[ひし]における、聖なる法(真理)を知って、至上の精進ある方よ、知っている者は、〔わたしたちを〕迷わせてはなりません。炎暑のさなか、炎暑に焼かれた者が水を〔待ち望む〕ように、〔わたしは、あなたの〕言葉を待ち望みます。聞かれたもの(声)の〔雨を〕降らせてください。
354  〔涅槃の境地を〕義(目的)として、カッパーヤナ(カッパ)は梵行(禁欲清浄行)を行じおこなったのですが、どうでしょう、それは、彼にとって、無駄ではないのですか。彼は、〔生存の依り所を残すことなく〕涅槃に到達したのですか、それとも、〔生存の〕依り所(身体)が有る者(有余依)〔として解脱したの〕ですか。〔彼が〕解脱者と成った〔経緯の〕とおりに、〔わたしたちは〕それを聞きたいのです」〔と〕。
355  世尊は〔答えた〕「〔カッパは〕名前と形態(名色:現象世界)にたいする渇愛を、この〔世において〕断ちました。長夜にわたり悪しき習いとなった、黒き者(悪魔)の流れを〔断ちました〕。残りなく生と死を超えました」と。
 かくのごとく、五者(ブッダが最初に説法した五人の修行者)にとっての最勝の者、世尊は説いた。
356  〔尊者ヴァンギーサが言った〕「第七の聖賢(ブッダ)よ、この〔わたし〕は、あなたの言葉を聞いて、〔心が〕清まります。まさに、わたしの問い尋ねは、無駄ではありません。婆羅門(ブッダ)は、わたしを騙しませんでした。
357  覚者(ブッダ)の弟子(カッパ)は、〔覚者の〕説くとおり、そのとおりに為す者として、〔世に〕有りました。死魔の幻術師が広げた堅固な網を断ち切ったのです。
358  世尊よ、カッピヤ(カッパ)は、執取の最初[はじまり]を見ました。まさに、カッパーヤナ(カッパ)は、極めて超え難い死魔の領域を超え行ったのです」〔と〕。

 第十三経 正しい遍歴遊行

359  〔化仏[けぶつ](ブッダの化身)が尋ねた〕「多き知慧ある牟尼(ブッダ)に尋ねます。〔激流を〕超え、彼岸に至り、完全なる涅槃に到達し、自己を安立した方(ブッダ)に〔尋ねます〕。家から出て、諸々の欲望を除き去り、比丘である彼は、〔迷える〕世において、どのようにして、正しく遍歴遊行するのですか」〔と〕。
360  世尊は〔答えた〕「彼にとって、諸々の幸福〔の占い〕、諸々の天変地異〔の占い〕、諸々の夢〔の占い〕と、諸々の特相〔の占い〕とが完破されたなら、彼は、幸福〔と不幸の価値判断〕という〔心の〕汚点を捨て去った者であり、比丘である彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
361  比丘が、人間たち〔の世界〕における〔諸々の欲望の対象にたいし〕、あるいはまた、諸天における諸々の欲望〔の対象〕にたいしても、貪り〔の思い〕を取り除くなら、〔迷いの〕生存を超え行き、法(真理)を行知して、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
362  比丘が、諸々の中傷〔の言葉〕に背を向けて、憤怒と吝嗇〔の思い〕を捨てるなら、〔他者にたいする〕共感と反感(好き嫌いの感情)を捨て去った者となり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
363  愛しいものも、愛しからざるものも、〔愛憎ともに〕捨てて、〔一切を〕執取せずして、どこにたいしてであれ、依存なき者は、諸々の束縛から解放された者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
364  彼が、諸々の依存〔の対象〕について、真髄に至らず(真実として認めず)、諸々の執取〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を取り除いて、依存なき彼は、他者に導かれない者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
365  言葉によって、そして、意によって、さらには、行為(業)によって、〔他者を〕遮ることなく(他者にたいし敵意なく)、正しく法(真理)を知って、〔常に〕涅槃の境地を望みながら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
366  比丘が、『〔彼は〕わたしを敬拝する』と傲慢にならず、たとえ罵られても、〔他者を〕怨まず、他者から食を得ても、驕り高ぶらないなら、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
367  貪欲〔の思い〕と〔迷いの〕生存とを捨てて、比丘である彼は、〔生き物を〕切ったり縛ったりすることから離れ、疑惑を超え、矢を抜いた者となり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
368  比丘が、自己〔のあり方〕について適切なことを知って、しかして、世において、誰であれ、害さないなら、真実なるままに法(もの・こと)を知って、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
369  彼に、何であれ、諸々の悪習(随眠)が存在せず、諸々の善ならざることが根元から完破されたなら、彼は、依存〔の対象〕なく、〔何ものも〕願い求めない者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
370  煩悩が滅尽し、高慢が捨棄され、一切の貪りの道を超克し、〔心身が〕調御され、完全なる涅槃に到達し、自己を安立した者——彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
371  信あり聞[もん]ある者、〔解脱に至る〕決定[けつじょう](正しい実践方法)を見る者、〔特定の〕党派に赴く者たちのなかにいながら〔特定の〕党派に走り行くことがない慧者——貪りと怒りと憤り〔の思い〕を取り除いて、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
372  清浄なる勝者、〔迷妄の〕覆が開かれた者、諸法(もの・こと)について自在なる者、彼岸に至る者、動揺なき者、形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)の止滅という知恵ある智者——彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
373  過去についての、そしてまた、未来についての、諸々の妄想を超え行き、〔計測され概念化した時間を〕超え行って、清浄の知慧あり、一切の〔認識の〕場所(処:認識対象)から解放された者——彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう。
374  〔涅槃の〕境地を了知して、〔迷妄の覆[おおい]が〕開かれた〔あるがままの〕法(真理)を行知し、諸々の煩悩の捨棄を見て、一切の依存〔の思い〕が完全に滅尽するがゆえに、彼は、世において、正しく遍歴遊行するであろう」と。
375  〔化仏が言った〕「まさに、たしかに、世尊よ、これは、まさしく、そのとおりです。彼は、このように住する、〔心身が〕調御された比丘は、しかして、一切の束縛が超克された者であり、彼は、世において、正しく遍歴遊行するでありましょう」〔と〕。

 第十四経 ダンミカ

376  〔ダンミカが尋ねた〕「広き知慧あるゴータマ(ブッダ)よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。あるいは、家から家なきに至る者、あるいはまた、家ある在俗の信者(優婆塞)たちがいます。どのように為す者が、善き弟子と成るのですか。
377  なぜなら、あなたは、天〔界〕を含む世〔の人々〕の赴く所を、そして、〔その〕行き着く所を、〔あるがままに〕覚知するからです。精緻なる義(道理)を〔あるがままに〕見る者として、あなたと比ぶべき者は、〔世に〕存在しません。まさに、あなたのことを、〔賢者たちは〕『最も優れた覚者』と説きます。
378  慈しみの者であるあなたは、一切の知恵と法(真理)を確たるものにして、有情たちに明らかにします。一切に眼ある方よ、〔あなたは〕覆[おおい]が開かれた者として〔世に〕存しています。〔世俗の〕垢を離れ、一切世〔界〕において、光り輝きます。
379  エーラーヴァナという名の象王(天人)が、〔あなたのことを〕『勝者である』と聞いて、あなたの現前にやってまいりました。〔あなたの教えを〕聞いて、『善きことである』と満足した気色で、彼もまた、あなたと話し合って、〔法に〕到達したのです。
380  毘沙門〔天〕の王クヴェーラもまた、法(真理)を遍く尋ねる者として、あなたのところに近づきます。慧者よ、あなたは〔問いを〕尋ねられた者として、彼にたいしてもまた、〔法を〕説きます。そしてまた、彼も、〔あなたの言葉を〕聞いて、満足した気色です。
381  誰であれ、これら、論〔争〕を戒[ならい]とする異教の者(外道)たちは、もしくは、アージーヴィカ(邪命外道)たちであろうと、ニガンタ(ジャイナ教徒)たちであろうと、〔その〕全てが、知慧によってあなたを超え渡ることはありません。立ち止まっている者が、行きつつある者を、急ぎ行く者を、〔追い越せない〕ように。
382  誰であれ、これら、論〔争〕を戒とする婆羅門たちは、そしてまた、〔世に〕存する年長の婆羅門たちも、誰であれ、あなたについては、〔その〕全てが、義(目的)に縛られた者(他者に問い尋ねる者)たちとして、〔世に〕有ります。あるいはまた、〔自らを〕論者と思いなしている、他者たちも〔同様です〕。
383  まさに、この法(教え)は、精緻なるものであり、かつまた、安楽なるものです。世尊よ、あなたによって、この〔法〕は、見事に説かれました。全ての者は、その〔法〕こそを、聞こうとしています。最勝の覚者よ、あなたは、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしたちに〔法を〕説いてください。
384  そして、これらの比丘たちは、〔その〕全てが、坐についています。さらにまた、在俗の信者たちも、まさしく、そこに、〔法を〕聞くため〔坐についています〕。〔さあ、みなさん〕聞いてください——〔真実の〕法(教え)を、〔世俗の〕垢を離れた方(ブッダ)によって覚られた〔法〕を、見事に語られた〔法〕を——天〔の神々〕たちがヴァーサヴァ(インドラ神)の〔言葉を聞く〕ように」〔と〕。
385  〔世尊は答えた〕「比丘たちよ、わたしの〔言葉を〕聞きなさい。あなたたちに聞かせよう——〔煩悩を〕払い落とす〔真実の〕法(教え)を。かつまた、全ての者は、その〔法〕を保ち持て。義(道理)を〔正しく〕見る、思慧ある者は、その〔法〕に、出家者に随順する振る舞いの道(出家者にふさわしい行為のあり方)に、慣れ親しむように。
386  比丘は、まさに、時ならざる〔時〕(午後)に〔村を〕渡り歩くことがないように。そして、〔正しい〕時(午前中)に、〔行乞の〕食のために村を歩むように。なぜなら、〔正しい〕時に歩まない者に、諸々の執着〔の思い〕がつきまとうからです。それゆえに、覚者たちは、時ならざる〔時〕には〔村を〕歩まないのです。
387  諸々の形態(色:眼の対象)と諸々の音声(声:耳の対象)と諸々の味わい(味:舌の対象)と諸々の香り(香:鼻の対象)と諸々の接触(触:身の対象)は、有情たちを夢中にさせます。これらの諸法(もの・こと)にたいする欲〔の思い〕を取り除いて、彼(比丘)は、〔正しい〕時に、〔すなわち、村人たちの〕朝食〔の時間〕に、〔村に〕入るように。
388  また、比丘は、〔行乞の〕食を〔正しい〕時に得て、独り、静所に戻って、坐すように。内に思念ある者は、自己を制御した状態となり、意[こころ]を外に放たないように。
389  また、もし、彼が、〔覚者の〕弟子と語り合うなら、あるいは、他者と、あるいは、比丘と、誰であれ〔語り合うなら〕、その、妙なる法(教え)を述べ伝えるように。中傷〔の言葉〕を〔発することが〕ない〔ように〕。また、他者にたいし非難〔の言葉〕を〔発することが〕ない〔ように〕。
390  まさに、或る者たちは、論にたいし反駁します。彼ら、知慧少なき者たちを〔わたしたちは〕賞賛しません。彼らに、そこかしこから、諸々の執着〔の思い〕がつきまといます。まさに、彼らは、そこにおいて、心を遠くに行かせる(妄想する)のです。
391  〔行乞で得た〕食、住まい、臥坐〔具〕と、大衣についた塵を洗い流す水とにたいし、優れた知慧ある〔覚者の〕弟子は、善き至達者(ブッダ)によって示された法(教え)を聞いて、〔正しく〕考究して、〔そのうえで〕慣れ親しむ(使用する)ように。
392  それゆえに、まさに、〔行乞で得た〕食、臥坐〔具〕と、大衣についた塵を洗い流す水とについて、これらの諸法(もの・こと)について、比丘は、蓮〔の葉〕にある水の滴のように、汚されません。
393  つぎに、そのように為す者が善き弟子と成る、在家者の行持[つとめ]について、あなたたちに説きましょう。なぜなら、この、比丘の法(教え)の全部は、執持〔の対象〕(所有物)を有する者(在家者)には、触れることができない(実行できない)からです。
394  〔第一に〕生き物を殺さないように。そして、殺させないように。また、〔生き物を〕殺している他者たちを認めないように。世における、動かないものたち、そして、動くものたち、〔すなわち〕一切の生類にたいし、棒(武器)を置いて〔害さずにいるように〕(不殺生戒)。
395  それから、〔第二に〕目覚めている弟子は、どこにあっても、何であれ、与えられていないものを遍く避けるように。〔他者をして他者から〕奪わせないように。奪っている者を認めないように。一切の与えられていないものを遍く避けるように(不偸盗戒)。
396  〔第三に〕識者は、燃える火坑を〔避ける〕ようにして、梵行(禁欲清浄行)ならざること(淫欲の行為)を遍く避けるように。また、梵行をできずにいる者は、他者の妻を犯さないように(不邪淫戒)。
397  〔第四に〕あるいは、集会に出たとして、あるいは、衆のなかに入ったとして、独りでいて、ただの一者[ひとり]にたいしても、虚偽を語らないように。〔他者をして虚偽を〕語らせないように。〔虚偽を〕語っている者を認めないように。一切の事実ならざることを遍く避けるように(不妄語戒)。
398  また、〔第五に〕酔う飲み物(酒)を嗜まないように。この〔不飲酒の〕法(教え)を喜ぶ在家の者は、それ(飲酒)について、『狂気という終極あるもの』と知って、〔他者に酒を〕飲ませないように。〔酒を〕飲んでいる者を認めないように。
399  なぜなら、愚者たちは、〔酒による〕驕りから、諸々の悪を為し、さらにまた、他の人たちをして、諸々の怠りある〔行為〕を為さしめるからです。愚者たちに欲せられ、〔世の人々を〕狂気と迷妄ならしむ、この、善ならざる場所(処:領域・範囲)を避けるように(不飲酒戒)。
400  〔第一に〕生き物を殺さないように。および、〔第二に〕与えられていないものを取らないように。〔第三に〕虚偽を語らないように。および、〔第四に〕酒飲みとして存さないように。〔第五に〕梵行ならざる淫欲〔の行為〕から離れるように。〔第六に〕夜に、時ならざる〔時の〕食を食べないように。
401  〔第七に〕花飾りを付けないように。そして、香を焚かないように。〔第八に〕大地にじかに広げた寝床で臥すように。苦しみの終極[おわり]に至る覚者(ブッダ)によって明らかにされた、まさに、この〔法〕を、『八つの支分の斎戒(布薩)』と言います。
402  また、それゆえに、半月〔ごと〕の十四〔日〕と十五〔日〕に、第八〔日〕に、斎戒に入って、さらには、半月のうちの特別な〔日〕(七日・九日・十三日・一日)には、清らかな意[こころ]で、八つの支分を具した、完全無欠な形態〔の斎戒〕を〔守るように〕。
403  また、それゆえに、斎戒に入った朝には、比丘の僧団に、食べ物と飲み物によって、清らかな意で随喜しつつ、識者は、〔自らの〕分[ぶん]のままに分け与えるように。
404  法(教え)によって、母と父を養うように。彼は、法(教え)にかなう商売に従事するように。この〔法〕を転じ行く、怠りなき在家者は、『自光』という名の天〔の神々〕たちのもとへと近づき行きます(自光天に再生する)」〔と〕。

第三章 大なるもの

 第一経 出家

405  〔尊者アーナンダが言った〕「〔覚者ゴータマの〕出家〔の経緯〕について、眼[まなこ]ある方(ブッダ)が出家したとおりのままに、〔あるがままに〕考察する彼(ブッダ)が出家を選んだとおりのままに、〔わたしの知るところを〕述べ伝えましょう。
406  『この、在家の住居[くらし]は煩わしく、塵の〔積もる〕場所(処:領域・範囲)である』と〔考察し〕、『しかしながら、出家は〔煩わしいことがなく〕、開かれたところである』と見て、〔覚者ゴータマは〕出家しました。
407  出家して、身体による悪しき行為(悪業)を避けました。言葉による悪しき行ないを捨てて、生き方を完全に清めました。
408  覚者(ブッダ)は、マガダ〔国〕のギリッバジャ(地名)に、〔すなわち〕ラージャガハ(王舎城:地名)に行きました。優れた〔聖者の〕特相を〔身体に〕ちりばめた方(ブッダ)は、〔行乞の〕食のために〔歩を〕運びました。
409  高楼に立ったビンビサーラ(人名・マガダ国王)は、彼を見ました。〔聖者の〕特相を成就した方を見て、この義(意味)を語りました。
410  〔王は言いました〕『諸君、このことを、こころして聞け。〔彼は〕形姿麗しく、偉丈夫で、清らかである。まさしく、また、行ないを成就し、かつまた、〔一〕ユガ(尋:長さの単位・約二メートル)ばかりを〔隙なく〕見ている。
411  〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、気づき(念)ある者である。この方は、卑しい家から〔出た者〕のようではない(人品卑しからぬ者である)。王の使者たちよ、走れ。比丘(ブッダ)は、どこに行くのだろう』〔と〕。
412  〔そのように〕命じられた、彼ら、王の使者たちは、〔覚者の〕後を追いました——『比丘(ブッダ)は、どこに行くのだろう。どこが住居[すまい]に成るのだろう』〔と〕。
413  〔感官の〕門が守られ、〔自己が〕善く統御された方(ブッダ)は、〔行乞のため〕歩々淡々と歩みながら、すみやかに、鉢を〔施物で〕満たしました——正知と気づきの者として。
414  牟尼である彼は、〔行乞の〕食のための歩行(托鉢)を行じおこない、町を出て、パンダヴァ〔山〕へと〔歩を〕運びました。ここが住居[すまい]に成るのでしょう。
415  〔覚者が〕住居に至ったのを見て、それから、使者たちは、〔覚者のもとに行き、一方に〕近坐しました。そして、使者の一者[ひとり]は、〔王宮に〕帰って、王に知らせました。
416  〔使者は言いました〕『偉大なる王よ、この比丘は、パンダヴァ〔山〕の東の山窟に、虎や雄牛のように、獅子のように、〔堂々と〕坐しています』〔と〕。
417  使者の言葉を聞いて、士族(ビンビサーラ王)は、立派な乗り物でもって、急ぎの気色でパンダヴァ山に出発しました。
418  その士族は、乗り物の〔行ける〕地まで行き、乗り物から降りて、歩行者となり、〔覚者のもとに〕近しく赴いて、彼のもとに至ると、〔一方に〕近坐しました。
419  王は、坐して、挨拶の言葉を喜び交わし、それから、彼は、〔覚者と〕言葉を交わして、この義(意味)を語りました。
420  〔王は尋ねました〕『さて、〔あなたは〕若く、そして、青年で、〔人生の〕最初[はじめ]を生きる若者として存しています。容貌の崇高さを成就し、出生よき士族のようです。
421  象の群れを先頭にした軍隊を美しく荘厳しつつ、〔わたしは〕諸々の財物を与えましょう。受けてください。そして、〔問いを〕尋ねられた者として、〔あなたの〕出生について、告げ知らせてください』〔と〕。
422  〔覚者ゴータマは答えました〕『王よ、〔この方角〕真っすぐに、ヒマヴァント(ヒマラヤ)の山麓に、財と勇を成就した地方があります。コーサラ〔国〕に家ある〔王〕のものです。
423  〔わたしの〕氏姓は、アーディッチャ(太陽)という名で、出生(種族)は、サーキヤ(釈迦)という名です。王よ、その家から出家した者として、〔わたしは〕存しています。諸々の欲望〔の対象〕を望み求める者ではありません。
424  諸々の欲望〔の対象〕のうちに危険を見て、出離〔の境地〕を「平安である」と見て、〔刻苦〕精励するため、〔出家の道を〕行くでありましょう。ここに、わたしの意は喜びます』〔と〕」〔と〕。

 第二経 精励

425  ネーランジャラー川に向かって〔坐し〕、精励することに自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)、〔まさに〕そのわたし(ブッダ)に——束縛からの〔心の〕平安を得るため、努力して瞑想する者(ブッダ)に——
426  ナムチ(悪魔)が、同情の言葉を語りながら、近づいてきた。
〔悪魔が言った〕「あなたは、痩せ細り、色艶の悪い〔瀕死の〕者として、存しています。あなたの死は、現前にあります。
427  死が千分[ぶ]なら、あなたの命は〔ただの〕一分[ぶ]。君よ、生きたまえ。命あることは、より勝っています。生きている者は、諸々の〔善き〕功徳を作るでありましょう。
428  また、梵行(禁欲清浄行)を行じおこなうあなたには、あるいは、祭火を捧げる〔あなた〕には、多大の功徳が積まれます。〔あなたは〕精励によって、何を為すというのでしょう。
429  精励への道は、行き難く、為し難く、征服し難きものです」〔と〕。
 悪魔は、これらの詩偈を語りながら、覚者(ブッダ)の現前に立った。
430  そのように説く、その悪魔に、世尊(ブッダ)は、このことを説いた。
〔世尊は答えた〕「怠りの眷属よ、パーピマント(悪魔)よ、〔世俗の功徳という、偽りの〕義(利益)によって、〔おまえは〕ここに来た。
431  功徳による義(利益)は、わたしには、微塵ばかりでさえも見い出されない。しかしながら、功徳による義(利益)が〔見い出される〕者たち(世俗の功徳に利を見る者たち)——悪魔は、彼らに説くのがふさわしい。
432  〔わたしには〕信が存在する。それゆえに、わたしには、精進と知慧が見い出される。このように自己を精励するわたしにまた、〔おまえは〕いかなる生を問い尋ねるというのだろう(刻苦精励以外の生に意味はない)。
433  この風(瞑想する覚者の呼吸)は、諸々の川の流れでさえも、干上がらせるであろう。ならば、自己を精励するわたしの、いかなる血が干上がらないというのだろう。
434  血が干上がっているとき、胆汁と痰は干上がる。諸々の肉が滅尽しているとき、心は、より一層、清まる。〔まさにその〕わたしの、気づき(念)と知慧と〔心の〕統一(定:三昧の境地)は、より一層、安立[あんりゅう]する。
435  このように住しつつ、最上の〔苦痛の〕感受(受:認識対象を感受し苦楽の価値づけをする働き)を得た、〔まさに〕そのわたしの心は、諸々の欲望〔の対象〕について、期待することがない。見よ——自己の清浄なることを。
436  おまえの第一の軍団は、『欲望』〔と呼ばれる〕。第二〔の軍団〕は、『不満』〔と〕呼ばれる。おまえの第三〔の軍団〕は、『飢えと渇き』〔と呼ばれる〕。第四〔の軍団〕は、『渇愛』〔と〕呼ばれる。
437  おまえの第五〔の軍団〕は、『〔心の〕沈滞[おちこみ]と眠気』〔と呼ばれる〕。第六〔の軍団〕は、『恐怖』〔と〕呼ばれる。おまえの第七〔の軍団〕は、『疑惑』〔と呼ばれる〕。おまえの第八〔の軍団〕は、『隠覆と強情』〔と呼ばれる〕。
438  利得、名声、尊敬、そして、誤って得た福徳——自己を褒め上げる者も、他者たちを見下す者も——
439  ナムチ(悪魔)よ、これは、おまえの軍団であり、黒き者(悪魔)の攻撃である。勇士ならざる者は、それに勝利することがない。しかしながら、勝利すれば、安楽を得る。
440  この〔わたし〕は、ムンジャ〔草〕(戦闘継続の意思表示に使う)を守り抜くであろう。ここに、〔わが〕命は、厭わしきものとして存せ。もし、敗者として生きるくらいなら、戦場で死んだほうが、わたしには、より勝[まさ]っている。
441  ここ(悪魔の攻撃)に沈んだ、或る沙門や婆羅門たちは、〔道が〕見えない。それによって、善き掟[おこない]の者たちが行く、〔まさに〕その道をも、〔彼らは〕知ることがない。
442  遍きにわたり旗をひるがえして待ち受けている、軍勢を有する悪魔を見て、〔わたしは〕戦いへと赴くのだ。わたしを、〔この〕状況から〔一歩でも〕動かすことがあってはならない。
443  おまえのその軍団を、天〔界〕を含む世〔の人々〕は打ち負かさない。おまえのその〔軍団〕を、〔わたしは〕知慧によって〔超え〕行くのだ——〔焼く前の〕生[なま]の鉢を石で〔打ち砕く〕ように。
444  〔思慮〕分別を自在に為して、また、気づき(念)をしっかりと確立し、〔わたしは〕国から国へと渡り歩くであろう——多くの弟子たちを教え導きながら。
445  〔気づきを〕怠らず、自己を精励する彼らは、欲なきわたしの教えを為す者たちである。彼らは、行って憂い悲しまない所(涅槃)に行くであろう」〔と〕。
446  〔ナムチが言った〕「〔わたしは〕七年のあいだ、歩から歩へと、世尊についてまわった。〔しかしながら〕気づきある正覚者(ブッダ)の弱点には、〔ついに〕到達しなかった。
447  〔愚かな〕烏が、脂肪の色をした岩〔の周り〕を、『はてさて、ここに柔らかい〔肉〕が見つかるであろうか。はてさて、美味なるものが存するであろうか』〔と〕歩き回ったようなもの。
448  そこに、美味なるものを得ずして、烏は、ここから去って行った。烏が岩に〔近づいた〕ように、〔わたしは〕ゴータマ(ブッダ)を襲って、〔結局は〕厭わしくなって、離れ去るのだ」〔と〕。
449  憂い悲しみに打ち負かされた彼の脇から、琵琶が落ちた。そののち、その夜叉(悪魔)は、まさしく、そこにおいて、失意の者となり、〔虚空の〕間に消え入った。

 第三経 見事に語られたもの

450  〔世尊は言った〕「正しくある者たちは言う。『見事に語られた〔法〕は、最上のものである』〔と〕——〔それが、第一である〕。法(真理)を語るように。法(真理)ならざることを〔語ら〕ない〔ように〕——それが、第二である。愛ある〔言葉〕(思いやりの言葉)を語るように。愛なき〔言葉〕を〔語ら〕ない〔ように〕——それが、第三である。真理を語るように。偽りを〔語ら〕ない〔ように〕——それが、第四である」〔と〕。
451  〔尊者ヴァンギーサが、詩偈で答えた〕「それがために自己を苦しめず、さらには、他者たちを害さないであろう、その言葉こそを、語るように。まさに、それは、見事に語られた言葉である。
452  〔皆に〕喜ばれる言葉——愛ある言葉(思いやりの言葉)こそを、語るように。諸々の悪しき〔言葉〕を取る(用いる)ことなくして、他者たちにとって愛ある〔言葉〕を語るのだ。
453  まさに、真理は、不死の言葉である——これは、永遠の法(真理)である。真理と義(道理)と法(教え)において〔自己が〕確立した、正しくある者たちは言う。
454  涅槃〔の境地〕を得るため、苦しみの終極[おわり]を為すため、覚者(ブッダ)が語る平安の言葉——まさに、それは、最上の言葉である」〔と〕。

 第四経 スンダリカ・バーラドヴァージャ

455  〔出生を尋ねるバーラドヴァージャ婆羅門に、世尊は答えた〕「〔わたしは〕婆羅門として存在するわけではありません。王子にあらず、庶民にあらず、あるいは、〔他の〕いかなる〔階級の〕者としても存在しません。凡夫たちの氏姓(迷いの者たちの生のあり様)を知り尽くして、無一物で、智慮ある者として、〔わたしは〕世を歩みます。
456  大衣を着け、家なき者として、髪を剃り、自己が寂滅した者として、〔わたしは〕歩みます——この〔世において〕、人々に汚されることなく。婆羅門よ、わたしに、氏姓についての問いを尋ねたのは、善ならざることです」〔と〕。
457  〔婆羅門が言った〕「君よ、まさに、婆羅門たちは、婆羅門たちに相対して、『いったい、〔あなたは〕尊き婆羅門なのでしょうか』と尋ねます」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「もし、あなたが、〔自らについて〕『婆羅門である』〔と〕説くなら、そして、わたしについて『婆羅門ではない』と説くなら、〔わたしは〕三句二十四字の、かのサーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)について、あなたに尋ねます」〔と〕。
458  〔婆羅門が尋ねた〕「聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、何に依存して、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのですか」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「『〔世の〕終極に至り、〔真の〕知に至る者が、祭祀の時に、彼への捧げものを得るなら、彼に〔捧げものをした祭祀は〕、うまくゆくであろう』と、〔わたしは〕説きます」〔と〕。
459  婆羅門が〔言った〕「そのような、〔真の〕知に至る者を、〔わたしは〕見ました。たしかに、彼に捧げものをした〔祭祀〕は、まさに、うまくゆくでしょう。まさに、あなたのようなお方に相見えることがないので、他の人が献菓を受けるのです」と。
460  〔世尊は答えた〕「婆羅門よ、それゆえに、かくのごとく、まさに、あなたは、〔正しい〕義(道理)を義(目的)とする者(真理の探究者)です。近しく赴いて、問い尋ねなさい。〔心が〕寂静で怒りを離れ、煩悶なく願望なく、思慮深き者を、まさしく、また、この〔世において〕、見い出すでありましょう」〔と〕。
461  〔婆羅門が尋ねた〕「君よ、ゴータマ(ブッダ)よ、わたしは、祭祀に喜びある者です。祭祀を執り行なうことを欲する者です。わたしは、覚知してません。尊き方として、わたしに、〔法を〕教示してください。捧げものをした〔祭祀〕がうまくゆく所、それを、わたしに説いてください」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「婆羅門よ、それなら、まさに、あなたは、耳を傾けなさい。あなたに、法(真理)を示しましょう。
462  出生を尋ねてはなりません。しかして、行ない〔こそ〕を尋ねなさい。まさに、火は、薪から生まれます。たとえ、卑しい家系の者でも、〔道心〕堅固な牟尼として、恥〔の思い〕で〔身を〕慎む者は、善き生まれの者と成ります。
463  真理によって調御され、〔心身の〕調御を具し、知の終極に至る、梵行(禁欲清浄行)の完成者——彼に、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
464  諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、家なき者として歩む者たち——自己が善く自制され、梭[ひ](はた織りの道具)のように、真っすぐな者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
465  ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれた月のように、貪欲を離れ、〔感官〕機能(根)が善く定められた者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
466  執着することなく世を渡り歩き、わがものと〔錯視〕された諸々のもの(執着の対象)を捨てて、常に気づきある者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
467  諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、〔一切を〕征服して歩む者——生と死の終極[おわり]を知った者——湖水のように、〔心が〕冷静[おだやか]で、完全なる涅槃に到達した如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
468  〔彼は〕同等の者たちとは等しくあり、等しからざる者(迷える者)たちとは遠く隔たり、終極[おわり]なき知慧ある如来として〔世に〕有ります。この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔何ものにも〕汚されることなき如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
469  彼のうちに、幻想[ごまかし]〔の思い〕が住みつかず、高慢〔の思い〕なき者——貪欲を離れ、我執なく、願望なく、怒りを除き、自己が寂滅した者——〔真の〕婆羅門たる彼は、憂いの垢を運び去りました。如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
470  意[こころ]の固着(執着の思い)を運び去って、彼に、何であれ、諸々の執持〔の対象〕(所有物)が存在しない者——この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、〔両者ともに〕執取せずにいる如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
471  激流を超え渡り、しかして、最高の見[まなざし]によって法(真理)を知った、〔心が〕定められた者(禅定者)——煩悩が滅尽し、最後の肉身[からだ]を保つ如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
472  彼の、諸々の生存(有)の煩悩と諸々の粗野な言葉が、砕破されて滅却に至り、存在しないなら、彼は、〔真の〕知に至る者であり、一切所に解脱した如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
473  彼に、諸々の執着〔の思い〕が存在しないなら、〔彼は〕執着を超え行く者であり、高慢の有情たちのなかにいながら、高慢の有情ならざる者であるなら、田畑や地所(苦しみの原因)と共に、苦しみ(苦しみそのもの)を知り尽くして、如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
474  願望〔の思い〕に依存せずして、遠離〔の境地〕を見る者となり、他者によって知られるべき見解を超克した者となり、彼に、何であれ、諸々の〔欲望や執着の〕対象(所縁)が存在しないなら、如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
475  〔あるがままに〕行知して、彼の、彼此[ひし]における諸々の法(もの・こと)が砕破されて滅却に至り、存在しないなら、執取の滅尽〔という境地〕において解脱した、寂静なる如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
476  束縛と出生について〔その〕滅尽と終極を見る者、貪りの道を残りなく除き去った者——清浄で、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)なく、〔世俗の〕垢を離れ、汚濁なき如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
477  自己によって自己を観ることなく、〔心が〕定められ、行ないが真っすぐで、自己を安立した者——まさに、彼は、動揺なく、鬱屈なく、疑惑なき者——如来は、献菓〔を受ける〕に値します。
478  彼に、何であれ、諸々の迷いの起因が存在しないなら——あるいは、一切の諸法(もの・こと)について知見ある者が、あるいは、無上にして至福の正覚を得た者が、しかして、最後の肉体を保つなら——これだけで、魂の清浄があります。如来は、献菓〔を受ける〕に値します」〔と〕。
479  〔婆羅門が言った〕「ならば、そのような、〔真の〕知に至る方(ブッダ)を得た、わたしの捧げものは、真理の捧げものとして、〔世に〕存せ。まさに、梵〔天〕(ブラフマー神)が証人です。世尊よ、わたしの〔献菓を〕納めてください。世尊よ、わたしの献菓を受けてください」〔と〕。
480  〔世尊は答えた〕「わたしにとって、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕(詩を唱えて得たもの)は、受けるべきものではありません。婆羅門よ、正しく見る者たちにとって、これは、法(正義)ではありません。覚者たちは、唱えられた詩偈〔に起因する利得〕を除き去ります(詩を唱えて得たものを拒否する)。婆羅門よ、法(正義)が存するなら、これが、生活〔のあり方〕です。
481  また、全一者たる偉大なる聖賢には、煩悩(漏)が滅尽し悔い〔の思い〕が止み静まった者には、他の食べ物と飲み物で奉仕しなさい。まさに、それは、功徳を期す者の田畑(福田)と成ります」〔と〕。
482  〔婆羅門が言った〕「世尊よ、善きかな、わたしは、〔彼を〕そのとおりに識知するでありましょう——わたしのような者の施物を受けてくれる者にして、あなたの教えを得て、祭祀の時に遍く探し求めつつ〔供養する〕ところの者です」〔と〕。
483  〔世尊は答えた〕「彼の諸々の激昂〔の思い〕が離れ去って、彼の心が濁りなく、彼の〔心の〕沈滞[おちこみ]が除かれたなら、しかして、〔彼は〕諸々の欲望から解き放たれた者であり——
484  諸々の〔善き〕境域の終極[はて]にあるもの(煩悩)を取り除く、生と死の熟知者にたいし——祭祀〔の場〕にやってきた、そのような、牟尼の資質を成就した牟尼にたいし——
485  〔見下すような〕渋面を取り除いて合掌し、礼拝しなさい。食べ物と飲み物によって、供養しなさい。このように〔すれば〕、諸々の施物は、うまくゆきます」〔と〕。
486  〔婆羅門が言った〕「尊き覚者(ブッダ)は、献菓〔を受ける〕に値します。無上なる功徳の田畑(福田)に〔値します〕。一切世〔界〕にとって、祭祀〔の対象〕となる方です。尊き方への施しは、大いなる果となります」〔と〕。

 第五経 マーガ

487  マーガ学徒が〔尋ねた〕「君に、ゴータマ(ブッダ)に、寛容なる方に、わたしは尋ねます。黄褐色〔の衣〕(袈裟)を着け、家なき者として歩む方に〔尋ねます〕。乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、祭祀をする者の捧げものは、どこに〔捧げたら〕、清まるのでしょう」と。
488  世尊は〔答えた〕「マーガさん、乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、そのような者(祭祀をする者)は、施与されるべき者たちによって、〔目的を〕達成するでありましょう(供養するにふさわしい者に施すことで、捧げものは清まる)」と。
489  マーガ学徒が〔尋ねた〕「乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、世尊よ、わたしに、施与されるべき者(施すにふさわしい者)たちについて、告げ知らせてください」と。
490  〔世尊は答えた〕「まさに、執着〔の思い〕なくして世を渡り歩く、無一物で、全一者たる、自己を制した者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
491  一切の束縛と結縛を断った、調御者にして解脱者たち、煩悶なく願望なき者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
492  一切の束縛から解き放たれた、調御者にして解脱者たち、煩悶なく願望なき者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
493  貪り(貪)と怒り(瞋)と迷い(痴)を捨てて、煩悩が滅尽した、梵行(禁欲清浄行)の完成者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
494  彼らのうちに、幻想[ごまかし]〔の思い〕が住みつかず、高慢〔の思い〕なき者たち——貪欲を離れ、我執なく、願望なき者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
495  まさに、諸々の渇愛のうちに陥ることなく、激流を超えて、我執なく歩む者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
496  また、この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、世において、どこであれ、彼らに、種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕が存在しないなら——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
497  諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、家なき者として歩む者たち——自己が善く自制され、梭[ひ](はた織りの道具)のように、真っすぐな者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
498  ラーフ(阿修羅の一類で日蝕や月蝕を引き起こすとされる)の捕捉から解き放たれた月のように、貪欲を離れ、〔感官〕機能(根)が善く定められた者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
499  貪りを離れ、怒りなく、〔心が〕静まった者たち——この〔世において〕、〔一切を〕捨てて、彼らに、〔もはや〕赴く所(来世)が存在しないなら——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
500  生と死を残りなく捨てて、一切の疑惑を超克した者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
501  自己を洲(依り所)として世を渡り歩き、無一物で、一切所に解脱した者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
502  『これが最後である。さらなる〔迷いの〕生存は存在しない』と、このことを、まさに、ここに、それそのとおりに知る者たち——彼らに、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら。
503  〔真の〕知に至り、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を喜ぶ、気づきある者——正覚を得て、多くの者たちの帰依所となる者——彼に、〔正しい〕時に、捧げものを献じるように。功徳を期す婆羅門が、祭祀をするなら」〔と〕。
504  〔マーガ学徒が言った〕「たしかに、わたしの、諸々の問い尋ねは、無駄ならざるものと成りました。世尊は、わたしに、施与されるべき者(施すにふさわしい者)たちについて、告げ知らせてくれました。あなたは、このことを、まさに、ここに、それそのとおりに知るのです。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
505  マーガ学徒が〔尋ねた〕「乞いに応じる者として、在家の施主が〔祭祀をするなら〕、功徳を義(目的)とし、功徳を期す者が、この〔世において〕、他者たちに食べ物と飲み物を施しながら、祭祀をするなら、世尊よ、わたしに、祭祀の成就について、告げ知らせてください」と。
506  世尊は〔答えた〕「マーガさん、祭祀をしなさい。祭祀をする者は、一切所で、心を清めなさい。祭祀は、祭祀をする者が対象(所縁)とするものです。〔彼は〕ここに〔心が〕確立して、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を捨てます。
507  貪り〔の思い〕を離れた彼は、〔心の〕汚点(怒りや憎しみなどの悪意)を追い払って、無量なる慈愛の心を〔常に〕習い修めています。夜に、昼に、常に〔気づきを〕怠らずに、無量〔なる慈愛の心〕を、全ての方角に満たし行きます」と。
508  〔マーガ学徒が尋ねた〕「誰が、清まり、解脱し、あるいは、結縛されるのですか。どのような自己によって、〔彼は〕梵世(梵天界)に行くのですか。牟尼よ、〔問いを〕尋ねられた者として、無知なるわたしに、説いてください。世尊よ、なぜなら、わたしは、今日、〔生き〕証人としての梵〔天〕(ブッダ)を見たからです。なぜなら、まさに、あなたは、梵〔天〕(ブラフマー神)に等しい方である、と真に〔思う〕からです。光輝ある方よ、どのようにして、〔彼は〕梵世に再生するのですか」〔と〕。
509  世尊は〔答えた〕「マーガさん、祭祀をする、そのような者は、施与されるべき者(施すにふさわしい者)たちによって、三種類の、祭祀の成就(祭祀の前後とその最中において、心が清まること)を達成するでありましょう。このように正しく祭祀をして、乞いに応じる者は、梵世に再生する、と〔わたしは〕説きます」と。

 第六経 サビヤ

510  〔遍歴遊行者〕サビヤが〔言った〕「疑いある者として、惑いある者として、〔わたしは〕やってきました。諸々の問いを問い尋ねることを、待ち望んでいる者です。〔あなたは〕わたしのそれら〔の問い〕の、終極[おわり]を為す者と成ってください。〔あなたは〕わたしの諸々の問いにたいし、〔問いを〕尋ねられた者として、順次に、法(真理)のままに、わたしに説き示してください」と。
511  世尊は〔答えた〕「サビヤさん、〔あなたは〕遠くからやってきた者として存してます。諸々の問いを問い尋ねることを、待ち望んでいる者です。〔わたしは〕あなたのそれら〔の問い〕の、終極を為す者と成りましょう。〔わたしは〕あなたの諸々の問いにたいし、〔問いを〕尋ねられた者として、順次に、法(真理)のままに、あなたに説き示しましょう。
512  サビヤさん、わたしに、問いを、何であれ、意のまま、〔あなたが〕求めるままに、尋ねてください。わたしは、あなたの、まさしく、その〔問い〕、その問いの、終極を為しましょう」と。
513  〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得る者を、『比丘』と言うのですか。何によって、『温和な者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『調御された者』と言うのですか。何ゆえに、『覚者』と呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と
514  世尊は〔答えた〕「サビヤさん、自己〔自身〕が作り為した道によって、完全なる涅槃に赴き、疑惑を超え、虚無(非有:無)と実体(有:存在)とを〔両者ともに〕捨てて、さらなる〔迷いの〕生存が滅尽した、〔道の〕完成者——彼は、『比丘』〔と呼ばれます〕。
515  一切所で、〔愛憎の思いを〕放捨し、気づきある者——〔激流を〕超えた、〔心に〕濁りなき沙門——彼は、誰であれ、一切世〔界〕において害することがありません。彼に、諸々の増長〔の思い〕が存在しないなら、彼は、『温和な者』〔と呼ばれます〕。
516  彼の、諸々の〔感官〕機能(根)が修められ、内と外に、一切世〔界〕において〔修められ〕、この〔世〕と他世を〔あるがままに〕洞察して、〔感官を〕修めた者となり、〔死の〕時を待つ——彼は、『調御された者』〔と呼ばれます〕。
517  全部[すべて]の妄想を〔あるがままに〕弁別して、輪廻を、死滅と再生の両者を〔あるがままに弁別して〕、〔世俗の〕塵を離れ去り、穢れなく、清浄なる者を、生の滅尽を得た彼を、『覚者』と言います」と。
518  〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得る者を、『婆羅門』と言うのですか。何によって、『沙門』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『沐浴者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『龍』と呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と
519  世尊は〔答えた〕「サビヤさん、一切の悪しき〔行為〕を拒否して、〔世俗の〕垢を離れ、〔心が〕善く定められ、自己を安立した者——彼は、輪廻を超え行って、全一者となります。〔何ものにも〕依存しない、そのような者——彼は、『梵(婆羅門)』〔と〕呼ばれます。
520  〔心が〕静まった者が、〔規範化した〕善悪を捨てて、〔世俗の〕塵を離れ、この〔世〕と他世を〔あるがままに〕知って、生と死を超克したなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『沙門』〔と〕呼ばれます。
521  一切の悪しき〔行為〕を洗い清めて(沐浴して)、内と外に、一切世〔界〕において〔洗い清めて〕、諸々の〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)のうちにある天〔の神々〕や人間たちのなかにいながら、〔計測され概念化した〕時間に至らない(輪廻しない・妄想しない)なら、彼を、『沐浴者』と言います。
522  世において、何であれ、罪悪を作らず、一切の束縛と諸々の結縛を捨て去って、解脱者となり、一切所で執着しないなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『龍』〔と〕呼ばれます」と。
523  〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「覚者たちは、誰を、『田畑の勝者』と説くのですか。何によって、『智者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『賢者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『牟尼』という名で呼ばれるのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と。
524  世尊は〔答えた〕「サビヤさん、天と人間のものたる〔田畑〕を、梵の田畑を、全部の田畑(認識の領域、行為のあり方)を〔あるがままに〕弁別して、一切の田畑の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『田畑の勝者』〔と〕呼ばれます。
525  天と人間のものたる〔蔵[コーサ]〕を、梵の蔵[コーサ]を、全部の蔵[コーサ](認識の領域、行為のあり方)を〔あるがままに〕弁別して、一切の蔵[コーサ]の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『智者[クサラ]』〔と〕呼ばれます。
526  清浄の知慧ある者として、内と外の両者における白きもの[パンダラ](認識の領域)を〔あるがままに〕弁別して、黒白(悪業と善業)を超克したなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『賢者[パンディタ]』〔と〕呼ばれます。
527  正しからざる者と、正しくある者と、〔両者の〕法(もの・こと)を〔あるがままに〕知って、内と外に、一切世〔界〕において〔あるがままに知って〕、彼が、天〔の神々〕や人間たちに供養されるなら、執着の網を超え行って、彼は、『牟尼』〔と呼ばれます〕」と。
528  〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得る者を、『〔真の〕知に至る者』と言うのですか。何によって、『随知者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『精進ある者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『善き生まれの者』という名が有るのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と。
529  世尊は〔答えた〕「サビヤさん、たとえ、沙門たちのものとして存しようが、婆羅門たちのものであろうが、全部の知[ヴェーダ]を〔あるがままに〕弁別して、一切の感受[ヴェーダナー](受:認識対象を感受し苦楽の価値づけをする働き)について、貪り〔の思い〕を離れたなら、一切の知を超え行って、彼は、『〔真の〕知に至る者[ヴェーダグー]』〔と呼ばれます〕。
530  名前と形態(名色:現象世界)という虚構(戯論:分別妄想)を〔あるがままに〕随知して、内と外に、病の根元を〔あるがままに随知して〕、一切の病の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『随知者』〔と〕呼ばれます。
531  この〔世において〕、一切の悪しき〔行為〕を離れた者——地獄の苦しみを超え行って、精進を住居[すまい]とする者——彼は、精進ある者にして精励ある者です。〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『慧者』〔と〕呼ばれます。
532  彼の、まさに、諸々の結縛が刈り取られ、内と外に、執着の根元が〔刈り取られ〕、一切の執着の根元の結縛から解き放たれたなら、〔まさにその〕真実ゆえに、そのような者は、『善き生まれの者』〔と〕呼ばれます」と。
533  〔遍歴遊行者〕サビヤが〔尋ねた〕「何を得る者を、『聞経者(婆羅門)』と言うのですか。何によって、『聖者』と〔言うのですか〕。また、何ゆえに、『行ないある者』と〔呼ばれるのですか〕。何ゆえに、『遍歴遊行者』という名が有るのですか。世尊よ、〔問いを〕尋ねられた者として、わたしに説き示してください」と。
534  世尊は〔答えた〕「サビヤさん、〔覚者の教えを〕聞いて、世における一切の諸法(もの・こと)を証知して——何であれ、〔世に〕存するもので、罪を有するものと罪なきものを〔証知して〕——〔それらを〕征服し、疑惑なく、解脱した者を、一切所で煩悶なき者を、『聞経者(婆羅門)』と言います。
535  諸々の煩悩と執着を断って、知ある彼は、胎内に近づかず、〔欲望と加害と悩害という〕三種類の想い(想:表象・概念)と〔欲の〕汚泥を除いて、〔計測され概念化した〕時間に至らない(輪廻しない・妄想しない)なら、彼を、『聖者』と言います。
536  この〔世において〕、諸々の行ないについて得るものを得た者、一切時において法(真理)を知った智者、一切所で執着しない解脱者——彼に、諸々の憤り〔の思い〕(敵対心)が存在しないなら、彼は、『行ないある者』〔と呼ばれます〕。
537  上に、また、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、苦なる報いある行為(業)が存するなら、〔それを〕遍く避け、遍知の者として〔世を〕歩み——幻想[ごまかし]を〔避け〕、高慢を〔避け〕、さらにまた、貪りと怒りをも〔遍く避け、遍知の者として世を歩み〕——名前と形態(名色:現象世界)の完全なる終極[おわり]を為したなら、得るものを得た彼を、『遍歴遊行者』と言います」と。
538  〔遍歴遊行者サビヤが言った〕「広き知慧ある方よ、〔あなたは〕六十と三とある〔諸々の異説を取り除いて〕——〔すなわち、迷える〕沙門の論争に依存し、『表象(想:概念)と文字』という〔迷える〕想い(想:表象・概念)に依存した、諸々の異説を取り除いて——激流と闇を〔超えて〕行きました。
539  〔あなたは〕苦しみの終極[おわり]に至る者として、彼岸に至る者として、存しています。〔あなたは〕阿羅漢(人格完成者)として、正自覚者として、存しています。〔わたしは〕あなたを、煩悩が滅尽した者と思います。〔あなたは〕光輝ある方、思慧ある方、多き知慧ある方です。苦しみの終極を為す方よ、〔あなたは〕わたしをして、〔わたしの疑惑を〕超えさせてくれたのです。
540  〔あなたは〕わたしの疑いを了知していました。〔あなたは〕わたしをして、〔わたしの〕疑惑を超えさせてくれたのです。あなたに、礼拝〔有れ〕。牟尼よ、諸々の寂黙の道において得るものを得た方よ、鬱屈なき方よ、太陽の眷属よ、〔あなたは〕温和な者として存しています。
541  眼[まなこ]ある方よ、かつて存した、わたしの疑惑——それを、〔あなたは〕わたしに説き示してくれました。たしかに、〔あなたは〕牟尼として、正覚者として、存しています。あなたにとって、諸々の〔解脱の〕妨害[さまたげ](蓋)は存在しません。
542  また、あなたにとって、一切の葛藤は、砕破され、分断されました。〔心が〕冷静[おだやか]に成った方、〔心身の〕調御を得た方です。〔道心〕堅固な方、真に努力する方です。
543  龍のなかの龍にして偉大なる勇者たる、〔まさに〕その、〔真理を〕語りつつあるあなたに、ナーラダ(神名)とパッバタ(神名)の両者、全ての天〔の神々〕たちは、随喜します。
544  善き生まれの人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。最上の人よ、あなたに、礼拝〔有れ〕。天〔界〕を含む世〔界〕において、あなたに対しうる人は存在しません。
545  あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超えさせてくれます。
546  あなたにとって、諸々の依存〔の思い〕は超え行かれ、あなたにとって、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき者として、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨て去った者として、存しています。
547  麗しき白蓮華が、〔汚〕水のなかにありながら、汚されることがないように、このように、あなたは、善と、悪と、〔その〕両者に汚されません。勇者よ、〔両の〕足を差し出してください。サビヤは、教師を敬拝します」〔と〕。

 第七経 セーラ

548  〔セーラ婆羅門が言った〕「世尊よ、〔あなたは〕完成された身体をもち、極めて好ましく、善き出生で、見た目が典雅で、黄金の色艶ある者として存しています。〔あなたは〕歯が純白で、精進ある者として存しています。
549  まさに、善き出生の人には、諸々の特徴が有ります。あなたの身体には、それらの全てが〔有ります〕。偉大なる人がもつ諸々の特相が〔有ります〕。
550  眼が清らかで、美しい顔立ち、偉丈夫で、真っすぐで、輝きある者として、〔あなたは〕沙門の僧団の中で、太陽のように、光り輝きます。
551  見た目が善く、黄金に似た肌をもつ比丘——このように、最上の容貌をもつ、あなたにとって、沙門として〔世に〕有ることが、何になるというのでしょう。
552  〔あなたは〕車上の雄牛(戦車隊の統率者)たる転輪王として、四辺を征圧したジャンブ洲(全インド)の支配者として、〔世に〕有るのがふさわしい。
553  士族たちは、地方の王たちは、あなたに付き従う者たちと成ります。ゴータマ(ブッダ)よ、王のなかの王として、人間〔界〕のインダ(インドラ神)として、王権を為されよ(統治せよ)」〔と〕。
554  世尊は〔答えた〕「セーラさん、わたしは、王として、〔世に〕存しています。〔わたしは〕無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転じます——〔誰も〕反転できない〔法の〕輪を」と。
555  セーラ婆羅門が〔尋ねた〕「〔あなたは、自らについて〕『正覚者である』〔と〕公言なさいます。ゴータマ(ブッダ)よ、〔あなたは〕『無上なる法(真理)の王として、法(真理)によって、〔法の〕輪を転じる』と語ります。
556  いったい、誰が、軍団の長ですか。〔誰が〕尊き方の弟子として、教師に従い行くのですか。あなたが転じた、この、法(真理)の輪を、誰が、〔後に続いて〕転じ行くのですか」と。
557  世尊は〔答えた〕「セーラさん、わたしが転じた〔法の〕輪を、無上なる法(真理)の輪を、如来に〔続いて〕生まれ来たサーリプッタ(舎利弗:人名・ブッダの高弟)が、〔後に続いて〕転じ行きます。
558  わたしによって、証知されるべきものは証知され、そして、修められるべきものは修められ、捨てられるべきものは捨てられました。婆羅門よ、それゆえに、〔わたしは〕覚者として〔世に〕存しているのです。
559  婆羅門よ、わたしにたいする疑いを取り除きなさい。〔わたしを〕信じなさい。正覚者たちと一度ならず相見[まみ]えることは、得難きこととして〔世に〕有るのです。
560  彼ら(正覚者たち)が一度ならず世に出現することは、あなたたちにとって、得難きことです。婆羅門よ、そして、わたしは、正覚者として、〔毒〕矢の治癒者にして無上なる者として、〔世に存しています〕。
561  〔わたしは〕梵(最高の人格者)と成り、〔他に〕比類なく、悪魔の軍団を撃破し、一切の朋[とも]ならざる〔敵〕を自在に為して、何ものも恐れず、〔自ら〕喜び楽しみます」と。
562  〔セーラ婆羅門が、自らの弟子たちに言った〕「諸君、このことを、眼[まなこ]ある方(ブッダ)が語るとおりに、こころして聞け——〔毒〕矢の治癒者にして偉大なる勇者が、林のなかで獅子が吼えるように〔語る、そのとおりに〕。
563  梵(最高の人格者)と成り、〔他に〕比類なく、悪魔の軍団を撃破する方(ブッダ)を見て、誰が、〔心が〕清まらずにいられよう。黒き生まれの者でさえも、〔心が清まるであろう〕。
564  求める者は、わたしに従え。あるいは、求めない者は、行け。ここに、わたしは、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するであろう」〔と〕。
565  〔弟子たちは答えた〕「もし、この、正自覚者(ブッダ)の教えが、尊き方(セーラ婆羅門)にとって、好ましきものとなるなら、わたしたちもまた、優れた知慧ある方(ブッダ)の現前で、出家するでありましょう」〔と〕。
566  〔セーラ婆羅門が言った〕「これら、三百の婆羅門たちは、合掌を為して、〔あなたに〕乞います。世尊よ、あなたの現前で、〔わたしたちは〕梵行(禁欲清浄行)を行じおこなうでありましょう」〔と〕。
567  世尊は〔言った〕「セーラさん、現に見られ、時を要さない、〔真の〕梵行は、善く告げ知らされました。そこにおいて、〔気づきを〕怠らずに学ぶ者の出家は、無駄ではありません」と。
568  〔出家したセーラに、世尊は言った〕「諸々の祭祀は、火への供え物を頂点とし、韻文の頂点は、サーヴィッティー(サーヴィトリー讃歌)です。人間たちの頂点は、王であり、諸々の川の頂点は、海です。
569  星々の頂点は、月であり、諸々の輝くものの頂点は、太陽です。功徳を望みながら祭祀をする者たちの頂点は、まさに、僧団(僧:サンガ)です」〔と〕。
570  〔尊者セーラが言った〕「眼[まなこ]ある方よ、あなたという帰依所に〔わたしたちが〕やってきてこのかた(覚者に帰依してから)、〔今日で〕第八〔日〕です。世尊よ、〔わたしたちは〕七夜で、あなたの教えにおいて調御された者たちとして、〔いまここに〕存しています。
571  あなたは、覚者です。あなたは、教師です。あなたは、悪魔を征服する牟尼です。あなたは、諸々の悪習(随眠)を断ち切って、〔激流を〕超えた者として、この〔世の〕人々を〔彼岸へと〕超えさせてくれます。
572  あなたにとって、諸々の依存〔の思い〕は超え行かれ、あなたにとって、諸々の煩悩は破り去られました。〔あなたは〕獅子として、執取〔の思い〕なき者として、〔あらゆる〕恐れと恐ろしさを捨て去った者として、〔世に〕存しています。
573  これら、三百の比丘たちは、合掌を為して、立っています。勇者よ、〔両の〕足を差し出してください。龍(比丘)たちよ、教師を敬拝せよ」〔と〕。

 第八経 矢

574  この〔世において〕、死すべき者(人間)たちの生命は、〔特定の〕相なく、了知されることなく、そのうえ、困難で、なおかつ、短く、しかして、それは、苦によって束縛されている。
575  それによって(それをすることで)生まれた者たちが死なずにすむ、その〔特別な〕行動(方策)は、まさに、存在しない。また、老を得ては、死がある〔だけのこと〕。このように、まさに、生ある者には、諸々の法(性質)がある。
576  諸々の熟した果実には、早く落ちるゆえの恐れがあるように、このように、死すべき者(人間)として生まれた者たちには、常に、死ゆえの恐れがある。
577  また、陶工の作った諸々の土器も、全てが破壊という結末あるように、このように、死すべき者(人間)たちの生命は、〔全てが破壊という結末あるものである〕。
578  青年たちも、大人たちも、愚者たち、賢者たちも——〔その〕全てが、死魔の支配に赴く——〔その〕全てが、死を行き着く所とする。
579  死魔に打ち負かされた彼らが行きつつある他世からは、父親が子供を救うことはなく、あるいはまた、親族たちが親族たちを〔救うこともない〕。
580  〔死に行く者を〕見ているだけで、個々に泣き叫んでいる親族たちを見よ。死すべき者(人間)たちの、まさしく、一者一者[ひとりひとり]が、屠殺される牛のように、〔死へと〕導かれる。
581  このように、世〔の人々〕は、老と死とによって、悩み苦しめられている。それゆえに、慧者たちは、世〔の人々〕の行く末を知って、憂い悲しまない。
582  来た者の、あるいは、去った者の、彼の道を、〔あなたは〕知らない。〔生と死の〕両極を正しく見ずに、〔あなたは〕義(意味)なく、嘆き悲しむ。
583  もし、迷乱して、自己を害し、嘆き悲しんでいる者が、〔嘆き悲しむことで〕何らかの義(意味)を引き出すなら、しかして、明眼の者は、これ(嘆き悲しむこと)を為すであろう。
584  まさに、泣き悲しむことで、憂い悲しむことで、心の寂静を得ることはない。まさに、より一層、苦しみが生起し、肉体が打ちのめされる〔だけのこと〕。
585  自己によって自己を害しつつ、痩せ細り、色艶の衰えた〔瀕死の〕者と成るが、それによって、亡者たちがどうにかなることはない。嘆き悲しむことは、義(意味)なきこと。
586  憂い〔の思い〕を捨てずにいる人は、より一層、苦を受ける。命の終わりを泣き悲しんでいる者たちは、憂いの支配に従ってきたのだ。
587  また、〔自己の作り為した〕行為(業)のままに近づき行き、〔他世へと〕行く、他の人たちをも、見よ。死魔の支配に帰り来て、この〔世において〕、震えているだけの生あるものたちを。
588  まさに、あれやこれや思い考えても、それは、その〔思い〕とは他のものと成る。見よ——世〔の人々〕の行く末を。このような、変じ異なる状態がある〔だけのこと〕。
589  たとえ、もし、若くある者が、百年のあいだ、生きるとして、あるいはまた、より一層〔生きるとして〕、親族の群れとは別れ別れに成り、この〔世において〕、生命を捨てる〔だけのこと〕。
590  それゆえに、阿羅漢(人格完成者)の〔教えを〕聞いて、嘆き悲しみ〔の心〕を取り除くように。命を終えた亡者を見て、「彼は、わたしには〔何も〕できない」と〔知るように〕。
591  燃える家を水で消し止めるように、また、このように、慧者にして知慧を有する者は、賢者にして智者たる人は、生起した憂い〔の思い〕を、すみやかに〔消し静めるように〕——風が、綿を吹き飛ばすように。
592  自己の、嘆き悲しみと渇望と失意〔の思い〕を〔引き抜くように〕。自己の安楽を求める者は、自己の矢を引き抜くように。
593  矢が引き抜かれた者は、〔何ものにも〕依存せず、心の寂静を得て、一切の憂いを超え行き、憂いなく、涅槃に到達した者と成る。

 第九経 ヴァーセッタ

594  〔ヴァーセッタ学徒が尋ねた〕「わたしたち(ヴァーセッタ学徒とバーラドヴァージャ学徒)は、両者ともに、〔他者も〕承認し〔自らも〕公言する、三つのヴェーダ〔の知〕ある者(ヴエーダ聖典の精通者)として、〔世に〕存しています。わたし(ヴァーセッタ学徒)は、ポッカラサーティ(人名)の、この者(バーラドヴァージャ学徒)は、タールッカ(人名)の学徒(弟子)です。
595  三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)について告げられたなら、そこにおいて、〔わたしたちは〕全一の者たちとして、存しています。〔わたしたちは〕詩句の者にして文法ある者(詩句と文法の精通者)たちとして、〔聖典の〕読誦については師匠と同等の者たちとして、存しています。
596  ゴータマ(ブッダ)よ、〔まさに〕その、わたしたちに、出生の論について論争が存在するのです。バーラドヴァージャは、『出生によって、婆羅門と成る』と語ります。しかしながら、わたしは、『行為(業)によって、〔婆羅門と成る〕』〔と〕説きます。眼[まなこ]ある方よ、このように知ってください。
597  〔まさに〕その、わたしたちは、両者ともに、互いに他を了解させることができません。『正覚者』として〔世に〕聞こえた尊き方に問い尋ねるため、〔わたしたちは〕やってきました。
598  合掌した人たちが、滅〔の期間〕を過ぎた月(満月)に向かって敬拝し、礼拝するように、このように、世において、〔世の人々は〕ゴータマ(ブッダ)を〔礼拝します〕。
599  世における眼として出現したゴータマ(ブッダ)に、わたしたちは問い尋ねます。出生によって、婆羅門と成るのですか、それとも、行為によって、〔婆羅門と〕成るのですか。無知なるわたしたちに、説いてください——〔わたしたちが〕婆羅門について、知りうるように」〔と〕。
600  世尊は〔答えた〕「ヴァーセッタさん、わたしは、〔まさに〕その、あなたたちに、生き物たちの出生の区分を、順次に、真実のとおりに、説き示しましょう。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
601  また、草や木々についても、知りなさい。さらにまた、公言しなくても、それらには、出生によって作られた徴表[しるし](種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
602  それから、蛆虫たちや蟋蟀[こおろぎ]たちについて、蟻たちに至るまで、〔それらについても、知りなさい〕。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
603  また、小さいものや大きいものなど、諸々の四足〔の動物〕についても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
604  また、足が腹で、胸で行き、長い背をもつ〔蛇〕たちについても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
605  それから、また、水にあって、水を境涯[すみか]とする魚たちについても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
606  それから、また、翼をもち、翼を乗り物として、宙を行く〔鳥〕たちについても、知りなさい。それらには、出生によって作られた徴表(種による差異)があります。諸々の出生は、まさに、互いを他とするもの(相異なる存在)です。
607  これら、諸々の出生(種)について、出生によって作られた徴表(種による差異)が別々であるように、このように、出生によって作られた徴表が別々のものとして存在することは、人間たちについては、ありません。
608  諸々の髪になく、頭になく、〔両の〕耳になく、〔両の〕眼になく、口になく、鼻になく、〔両の〕唇にも、あるいは、〔両の〕眉にもありません。
609  首になく、〔両の〕肩になく、腹になく、背になく、尻になく、胸になく、陰部になく、淫欲(性行為のあり方)にもありません。
610  〔両の〕手になく、〔両の〕足になく、〔両手の〕指にも、あるいは、〔両手の〕爪にもなく、〔両足の〕脛になく、〔両足の〕膝になく、色にも、あるいは、声にもありません。他の、諸々の出生についてのように、出生によって作られた徴表〔が別々のものとして存在すること〕は、〔人間たちについては〕まさしく、〔有りえ〕ないのです。
611  肉体を有するものたちにおいて各自それぞれに〔見い出される〕、この〔徴表〕は、人間たちについては見い出されません。そこで、〔それぞれの〕区別は、人間たちについては、呼称でもって呼ばれるのです。
612  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、牧畜に依拠して生きる者——彼は、耕作者であって、婆羅門ではありません。
613  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、種々の技能によって生きる者——彼は、技術者であって、婆羅門ではありません。
614  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、売り買いに依拠して生きる者——彼は、商人であって、婆羅門ではありません。
615  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、他者に仕えることで生きる者——彼は、下僕であって、婆羅門ではありません。
616  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、与えられていないものに依拠して生きる者——この者は、盗賊であって、婆羅門ではありません。
617  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、弓術に依拠して生きる者——〔彼は〕戦士として生きる者であって、婆羅門ではありません。
618  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、司祭職によって生きる者——彼は、祭祀者であって、婆羅門ではありません。
619  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。まさに、誰であれ、人間たちのなかで、村と国を領する者——この者は、王であって、婆羅門ではありません。
620  また、わたしは、〔婆羅門の〕胎から生じ、〔婆羅門の〕母から生まれる者を、『婆羅門』と説きません。まさに、彼が、〔執着ある〕所有者として〔世に〕有るなら、彼は、『ボーヴァーディン(「君よ」と呼びかける者)』という名で〔世に〕有る〔だけのこと〕。無一物で、無執取の者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
621  一切の束縛を断ち切って、まさに、思い悩むことがない者は、執着を超え行く者であり、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
622  紐(憤怒)を断ち切って、さらには、緒(渇愛)と綱(六十二邪見)を、手綱(煩悩)と共に〔断ち切って〕、閂(無明)を引き抜いた覚者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
623  罵倒を、さらには、殴打と結縛を、怒ることなく忍受する者は、忍耐力があり、力ある軍隊〔に匹敵する者〕であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
624  怒りなく、掟あり、戒あり、〔渇愛の〕増長なき者——最後の肉体ある、調御の者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
625  蓮の葉にある水〔滴〕のように、錐[きり]の先にある芥子〔粒〕のように、諸々の欲望〔の対象〕に汚されない者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
626  まさしく、この〔世において〕、自己の苦の滅尽を覚知するなら、〔生の〕重荷を降ろし、〔世の〕束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
627  深遠なる知慧の者、道と非道とを熟知する思慮ある者、最上の義(目的)を獲得した者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
628  在家の者たちと家なき者たち、〔その〕両者と交わらず、家なくして行く、求むこと少なき者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
629  動くものたちと動かないものたち、〔一切の〕生類にたいし、棒(武器)を置いて、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させない者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
630  〔道を〕遮る者たちのなかにいながら遮ることなき者(一切にたいし敵意なき者)、棒(武器)を取る者たちのなかにいながら涅槃に到達した者、執取〔の思い〕を有する者たちのなかにいながら執取〔の思い〕なき者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
631  芥子〔粒〕が錐の先から〔落ちる〕ように、彼の、貪り(貪)と怒り(瞋)と高慢(慢)と隠覆(覆)が打ち倒された者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
632  粗野でなく、〔はっきりと意味を〕識知させる、真理の言葉を話し、それ(言葉)によって、誰とであれ、面倒を起こさずにいる者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
633  また、あるいは、長き、あるいは、 短き、微細と粗大、美なると美ならざるもの(清浄と不浄)、〔何であれ〕世において与えられていないものを取らない者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
634  この世において、そして、他〔世〕において、彼に、諸々の願望(自己中心的な期待や思惑)が見い出されないなら、依存〔の対象〕なく、束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
635  彼に、諸々の執着が見い出されず、〔一切を〕了知して、疑惑なき者となるなら、不死への沈潜(涅槃の境地)を獲得した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
636  この〔世において〕、善も、悪も、両者ともに、執着〔の思い〕を超え行ったなら、憂いなく、〔世俗の〕塵を離れた、清浄の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
637  垢(汚れ)を離れた月(満月)のように、清浄で、〔心が〕清らかで、濁りなき者——喜びの生存(迷いの生存を喜びとする凡夫のあり方)が完全に滅尽した者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
638  この、障害と悪路と輪廻と迷妄を超え行った者——〔激流を〕超え、彼岸に至った瞑想者——動揺なく、疑惑なく、〔一切を〕執取せずして、涅槃に到達した者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
639  この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を捨て去って、家なき者として遍歴遊行するなら、欲望と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
640  この〔世において〕、渇愛〔の思い〕を捨て去って、家なき者として遍歴遊行するなら、渇愛と〔迷いの〕生存が完全に滅尽した者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
641  人間としての束縛を捨てて、天〔の神〕としての束縛を超え行ったなら、一切の束縛について束縛を離れた者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
642  喜悦も、不満も、〔両者ともに〕捨てて、依存〔の思い〕なく、〔心が〕冷静[おだやか]に成った者——一切世〔界〕を征服する勇者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
643  有情(生類)たちの死滅と再生を、全てにわたり知ったなら、執着なく、善き至達者たる、覚者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
644  天〔の神々〕たちが、ガンダッバ(音楽神)や人間たちが、彼の赴く所を知らないなら、煩悩が滅尽した者であり、阿羅漢(人格完成者)であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
645  彼に、過去も、未来も、〔その〕中間(現在)も、何ものも存在しないなら、無一物で、無執取の者であり、わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
646  〔勇猛果敢な〕雄牛、最も優れた勇者、偉大なる聖賢、〔一切の〕征圧者、不動の沐浴者(梵行終了者)たる覚者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
647  過去(前世)の居住[いきざま]を知った者、そして、〔死後に赴く〕天上と堕所(地獄)を〔両者ともに〕見る者、しかして、生の滅尽を得た者——わたしは、彼を『婆羅門』と説きます。
648  まさに、これは、世における〔ただの〕呼称であって、名前や氏姓は、〔そのようなものとして〕想い描かれた〔だけの〕ものです。慣習(世俗:社会通念)から生まれ来たものであって、そこかしこで〔そのように名づけられ〕想い描かれた〔だけの〕ものです。
649  無知なる者たちの、長夜にわたり悪しき習いとなった、悪しき見解があります。無知なる者たちは、わたしたちに説きます——『出生によって、婆羅門と成る』〔と〕。
650  出生によって、婆羅門と成るのではありません。出生によって、婆羅門ならざる者と成るのではありません。行為(業)によって、婆羅門と成るのです。行為によって、婆羅門ならざる者と成るのです。
651  行為によって、耕作者と成り、行為によって、技術者と成ります。行為によって、商人と成り、行為によって、下僕と成ります。
652  また、行為によって、盗賊と成り、また、行為によって、戦士として生きる者と成ります。行為によって、祭祀者と成り、また、行為によって、王と成ります。
653  このように、この〔道理〕を〔知り〕、事実のとおりに行為を見る、賢者たちは、〔物事が〕縁によって生起する〔道理〕(縁起:因果の道理)を見る者たちであり、行為の報いを熟知する者たちです。
654  世〔界〕は、行為によって転じ行き、人々は、行為によって転じ行きます。行為の結縛ある有情たちは、進み行く車の、諸々の楔(車軸に車輪を固定する部品)のようなものです。
655  苦行、梵行(禁欲清浄行)、自制、そして、調御——これらによって、婆羅門と成るのです。これが、最上の婆羅門〔の境地〕です。
656  ヴァーセッタさん、このように知りなさい。三つの明知(三明:三種類の超人的な能力、宿命通・天眼通・漏尽通)を成就し、寂静にして、さらなる〔迷いの〕生存が滅尽した者が、識者たちにとっては、梵〔天〕(ブラフマー神)であり、帝釈〔天〕(インドラ神)なのです」と。

 第十経 コーカーリヤ

657  まさに、生まれた人の口には斧が生え、それによって、愚者は、自己を断つ——悪しく語られた〔言葉〕(悪口)を語りながら。
658  非難すべき者を賞賛し、あるいは、賞賛すべき者であるのに彼を非難する者——彼は、口(言葉)によって、〔悪しき〕賽の目(罪過)を弁別する(選び取る)。〔彼は〕その賽の目によって、安楽を知ることがない。
659  諸々の博打において、自己さえも含む、まさに、一切の財を敗失することになる、この賽の目は、〔その罪悪の量は〕僅かばかりのもの。〔しかしながら〕善き至達者(覚者)たちについて意[こころ]を汚す(悪意を抱き非難する)なら、この賽の目こそは、〔その罪悪の量は〕より大きなものとなる。
660  百千(十万)と三十六のニラッブダ(数の単位・無限大)と五つのアブッダ(数の単位・無限大)〔年〕のあいだ、悪しき言葉と意[おもい]を向けて聖者を非難する者は、その〔終わりなき〕地獄へと近づき行く。
661  事実ならざることを説く者は、地獄へと近づき行く。あるいはまた、為しておきながら「〔わたしは〕為してない」と言う者も、〔地獄へと近づき行く〕。彼らは、死してのち、両者ともどもに、下劣な行為(劣業)の人間たちとして、他所(来世)において、等しきものと成る。
662  汚れなき人を汚し、清浄で穢れなき人を〔穢す〕者(怒りなき者に怒り、悪意なき者に悪意を抱く者)——まさしく、その愚者に、悪は戻り来る——風に逆らって投げられた微細な塵が〔投げた者自身に戻って来る〕ように。
663  貪欲の対象に束縛された者——彼は、言葉によって、他者たちを誹謗する。信なく、吝嗇で、不親切、物惜しみで、〔他者を〕中傷することに〔自ら〕束縛された者である。
664  口悪しき者よ、〔あるがままの〕事実を離れた聖ならざる者よ、生あるものを殺す悪しき者よ、悪行を為す者よ、人でなしの〔悪しき〕賽の目よ、劣悪な生まれの者よ、この〔世において〕、多く語ってはならない。〔おまえは〕地獄にある者として存しているのだ。
665  〔おまえは〕益なきことのために、塵を撒き散らし、罪障を作る者(罪人)となり、寂静の者たちを非難する。そして、多くの悪しき行ないを行じおこなって、まさに、長夜にわたり、深淵(地獄)へと赴くのだ。
666  誰のものであれ、〔為した〕行為(業)は、まさに、滅することがない。それ(行為)は、かならず、至り行き、〔行為の〕主[ぬし]が、まさしく、〔その報いを〕得る。罪障を作る愚か者は、他世において、自己のうちに、苦しみを見る。
667  〔彼は〕鉄の杭が打たれた状況(地獄)へと、鋭い〔刃の〕切っ先へと、鉄の串へと、近づき行く。しかして、〔地獄には〕熱せられた鉄の玉に似た食が存在する——〔彼に〕適した、そのとおり〔の食〕として。
668  まさに、〔獄卒たちは〕説くときは麗美に説かない。〔優しく〕駆け寄ってこない。救いに近づいてこない。〔地獄に堕ちた者たちは〕広げられた炭火のうえに臥し、遍く燃え盛る火のなかに入る。
669  また、〔獄卒たちは、地獄に堕ちた者たちを〕網で覆いながら、そこにおいて、鉄で作られた諸々の槌で打つ。まさしく、漆黒の暗所に、〔地獄に堕ちた者たちは〕入って行くが、まさに、それ(暗所)は、霧のように広がっている。
670  しかしてまた、遍く燃え盛る火の、銅で作られた大釜に入る。まさに、それらの、遍き火〔の諸々の大釜〕のなかで、〔地獄に堕ちた者たちは〕浮きつ沈みつしながら、長夜にわたり、煮られる。
671  しかして、罪障を作る者(罪人)は、膿と血が交ざり合った〔大釜〕のなかで、そこにおいて、何と、煮られるのだ。〔身体を〕臥す、その〔方向〕その方向で、そこにおいて、〔膿と血に〕触れる者は、〔膿と血で〕汚される。
672  罪障を作る者(罪人)は、蛆虫の住居[すみか]である水のなかで、そこにおいて、何と、煮られるのだ。まさに、〔出て〕行こうにも、縁さえも存在しない。なぜなら、釜は、どこも皆、全て等しく〔できている〕のだから。
673  また、鋭い剣の葉をもつ林——それに入ると、四肢が切り刻まれる。〔獄卒たちは〕釣針で舌を掴み取って、〔四肢を〕引き裂き、引き裂いては、打つ。
674  しかしてまた、渡り難きヴェータラニー〔川〕の鋭い切っ先へと、剃刀の切っ先へと、近づき行く。悪を為す愚か者たちは、諸々の悪を為して、そこに、堕ち行く。
675  まさに、そこにおいて、泣き叫ぶ者たちを、黒いまだらの犬たちが、さらには、大烏たちの群れが喰い、狐たち、大鷲たち、鷹たちが、そして、烏たちが啄む。
676  罪障を作る人(罪人)が見る(経験する)ものたる、ここ(地獄)の生活は、まさに、これは、苦難である。それゆえに、この〔世において〕、命の残りあるうちは、為すべきことを為す人として存するように。そして、驕り高ぶらないように。
677  紅蓮の地獄に連れて行かれた者たち——彼ら〔の寿命〕は、知者たちによって、積み荷のなかの胡麻〔の数に等しい〕と数えられた。まさに、五つの千万ナフタ(数の単位)と、他にまた、十二の百千万〔年〕に成る。
678  ここに説かれた、諸々の苦なる地獄があるかぎり、また、そこにおいて、それだけ長く住まねばならない。それゆえに、清らかで博愛なる善徳の者たちにたいし、常に、言葉と意[こころ]を、遍く守るように。

 第十一経 ナーラカ

679  歓喜を生じ満足している三十〔三天〕衆、インダ〔神〕(インドラ神)、そして、清らかな衣の天〔の神々〕たちが、恭しく衣を掴んで、あまりに賛嘆しているのを、アシタ聖賢は、〔天界での〕昼住(昼の休息)において見た。
680  こころ躍り、喜びの意[おもい]ある、天〔の神々〕たちを見て、そこで、〔アシタ聖賢は〕心〔からの思い〕を為して、このことを言った。
〔アシタ聖賢が尋ねた〕「天〔の神々〕の群れは、何を〔縁として〕、あまりに善き気色なのですか。何を縁として、〔あなたたちは〕衣を掴んで振り回すのですか。
681  阿修羅たちと戦いが存したときでさえも、〔天の〕神々たちに勝利があり、阿修羅たちが敗れた、そのときでさえも、このような、身の毛のよだつ〔歓喜〕はありません。どのような未曾有〔の出来事〕を見て、〔天の〕神々たちは歓喜したのですか。
682  〔天の神々たちは〕口笛を吹き、あるいは、歌い、あるいは、〔楽器を〕奏で、あるいは、〔両の〕手を打ち、あるいは、舞います。メール(須弥山)の頂きに住むあなたたちに、わたしは尋ねます。諸尊よ、わたしの疑惑を、すみやかに払い落としてください」〔と〕。
683  〔天の神々たちは答えた〕「菩薩である彼が、優れた宝である無比なる方が、〔人間たちの〕利益と安楽のために、人間世〔界〕に、サキャ(釈迦)〔族〕の者たちの村に、ルンビニーの里に、生まれたのです。それで、〔わたしたちは〕満足し、あまりに善き気色で存しているのです。
684  彼は、一切の有情のなかの最上者たる方、至高なる人、人のなかの雄牛、一切の人々のなかの最上者たる方です。『聖賢〔の集まる所〕』と名づけられた林で、〔法の〕輪を転じるでありましょう——獣たちの征服者たる力ある獅子が吼え叫ぶように」〔と〕。
685  その声を聞いて、彼(アシタ聖賢)は、急いで〔人間世界に〕降りて行った。そのとき、〔アシタ聖賢は〕スッドーダナ(浄飯:人名・ブッダの父親)の居所へと近づき行った。そこに坐して、サキャ〔族〕の者たちに、このことを言った。
〔アシタ聖賢が尋ねた〕「童子は、どこにおられますか。わたしもまた、〔童子に〕相見[まみ]えることを欲する者です」〔と〕。
686  それから、まさしく、溶炉の口のなかで名工によって精錬された黄金のように輝く童子を、吉祥なるがゆえに至上の容貌をもち光り輝いている子供を、サキャ〔族〕の者たちは、「アシタ」と名づけられた〔聖賢〕に見せた。
687  炎のように光り輝いている童子を見て、天空を行く、星のなかの雄牛(月)のように清浄で、秋に、雲から解き放たれた太陽のように輝いている〔童子〕を〔見て〕、歓喜を生じた〔アシタ聖賢〕は、広大なる喜びを得た。
688  無数の枝(骨)と千の円輪をもつ傘蓋[さんがい](王侯や貴人が使う日除けの大傘)を、〔天の〕神々たちは、空中に保持した。黄金の棒(柄)の諸々の払子[ほっす](柄の先に毛や布を束ねた虫除けの道具)が、〔童子を扇ぐため〕飛び交う。〔しかしながら〕払子や傘蓋を持つ者たちは、〔その姿が〕見えない。
689  「カンハシリ」と名づけられた結髪の聖賢(アシタ)は、黄色の毛布のなかの、黄金の円環のような〔童子〕を見て、また、頭上に白の傘蓋を保持されている〔童子〕を〔見て〕、心が躍り上がり、意[こころ]楽しく、〔童子を〕受け取った。
690  しかして、サキャ〔族〕の牛主(童子)を受け取って、〔聖者の〕特相と呪文の奥義に至る者(アシタ聖賢)は、〔童子の容貌に聖者の特相を〕探し求め、清らかな心で、言葉を発した。
〔アシタ聖賢は言った〕「この〔童子〕は、無上なる方です。二足の者(人間)たちのなかでは、最上の方です」〔と〕。
691  しかして、〔アシタ聖賢は〕自己の先行きを思い浮かべながら、〔何やら〕善からざる気色で涙を流す。〔それを〕見て、サキャ〔族〕の者たちは、泣いている聖賢に言った。
〔サキャ族の者たちが尋ねた〕「もしや、童子に、〔将来、何か〕障りでも有るのではないでしょうか」〔と〕。
692  善からざる〔気色の〕サキャ〔族〕の者たちを見て、聖賢は言った。
〔アシタ聖賢は答えた〕「わたしは、童子について、益ならざることを思い浮かべているのではありません。あるいはまた、彼に、障りが有るというのでもありません。この方は、劣れる者ではありません。〔あなたたちは、童子にたいし〕意を傾ける者と成りなさい。
693  この童子は、至高の正覚を体得するでありましょう。彼は、最高の清浄を見る者であり、この方は、多くの人の利益のために慈しみ〔の思い〕ある者として、法(真理)の輪を転じるでありましょう。彼の梵行(禁欲清浄行)は、広く知られるものと成りましょう。
694  しかしながら、この〔世において〕、わたしの残る寿命は、長くはありません。しかして、わたしのばあい、〔童子が正覚を得る〕中途で、命を終えることと成りましょう。そして、わたしは、忍耐強さでは同等の者なき方(成道後の童子、すなわち、ブッダ)の法(教え)を聞くことはないでしょう。それで、〔わたしは〕苦悩し、災厄に陥った、悩苦ある者として、〔いまここに〕存しているのです」〔と〕。
695  梵行者(禁欲清浄行の実践者)である彼(アシタ聖賢)は、サキャ〔族〕の者たちに広大なる喜びを生んで、〔王の〕内宮から去った。彼は、自ら、甥を慈しみつつ、忍耐強さでは同等の者なき方(成道後の童子、すなわち、ブッダ)の諸々の法(教え)〔を聞くこと〕を勧めた。
696  〔アシタ聖賢が言った〕「『覚者(ブッダ)が、正覚を得た者が、法(真理)の道を渡り歩く』という声を、後に、〔おまえが〕聞くとき、そこに行って、教義について遍く尋ねつつ、世尊である彼(ブッダ)のもとで、梵行を歩め」〔と〕。
697  そのような〔他者の〕利益に意[おもい]ある者、未来における最高の清浄を見る者である彼(アシタ聖賢)に教え示された、彼、ナーラカ(人名・アシタ聖賢の甥)は、功徳の積量を蓄積し、勝者(ブッダ)〔の出現〕を待ち望みながら、〔感官〕機能(根)を守って、住していた。
698  優れた勝者の〔法の〕輪の転起についての声を聞いて、〔そこに〕行って、聖賢のなかの雄牛(ブッダ)を見て、清らかな信ある者(ナーラカ)は、「アシタ」と名づけられた者の教えが実現したので、最勝の牟尼の資質について、最も優れた牟尼(ブッダ)に尋ねた。
 諸々の序の詩偈が終わる。
699  〔ナーラカが尋ねた〕「アシタ〔聖賢〕の、この言葉は、真実のとおりに、了知されました。ゴータマ(ブッダ)よ、それ(牟尼の資質)について、あなたに、一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方に、問い尋ねます。
700  牟尼よ、家なき〔身〕を具し、行乞の行を望み求めるわたしに、〔問いを〕尋ねられた者として、最上の境地たる牟尼の資質について、説いてください」〔と〕。
701  世尊は〔答えた〕「あなたに、牟尼の資質について、教え知らせよう。為し難く、征服し難い〔牟尼の資質〕について、さあ、それを、あなたに言い示そう。〔自らを〕堅く保て。断固たる者と成れ。
702  村において、罵倒されても敬拝されても、〔心を〕等しい状態に作り為すように。意[こころ]の怒りを守り押さえるように。寂静にして、傲慢ならずに、歩むように。
703  林においては、火炎の如き〔危険で避けねばならない〕高下諸々のことが現じ来る。女たちは牟尼を誘惑するが、まさに、彼女たちが彼を誘惑するようなことがあってはならない。
704  彼此[ひし]における、諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、淫欲の法(もの・こと)から離れた者となり——動くものと動かないものにたいし、〔一切の〕生き物たちにたいし、〔行く手を〕遮ることなく(敵意を抱かず)、執着しない者となり——
705  『わたしがあるように、そのように、これらのものたちはある。これらのものたちがあるように、そのように、わたしはある』〔と〕、自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。
706  〔迷える〕凡夫が執着する所である、欲求と貪欲とを捨てて、眼ある者は、〔法の道を〕実践するように。この地獄を超えるように。
707  腹を空かし〔正しく〕量られた食の者として、求むこと少なく〔味に心が〕動かない者として、〔世に〕存するように。まさに、彼は、〔心の〕欲求にたいし、無欲かつ無求なる者であり、涅槃に到達した者と成る。
708  彼は、〔行乞の〕食のための歩行(托鉢)を行じおこなって、林の外れへと〔歩を〕運ぶように。木の根元に立ち、坐〔所〕に着き、牟尼は——
709  彼(牟尼)は、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)を追求する慧者として、林の外れで喜びある者として、存するように。自己を楽しませつつ、木の根元で瞑想するように。
710  それから、夜の明け方には、村の外れへと〔歩を〕運ぶように。〔村の者の〕招きを、あるいは、村からの〔施物の〕提供を、喜ぶことがないように。
711  村に至って、牟尼は、家々を、無理強いで歩むことがないように。食を求めることに言を断ち、放埒[でまかせ]の言葉(食を得るためのほのめかしの言葉)を語ることがないように。
712  『〔施物を〕得たことは、これは〔これで〕善いことである。得なかったことは、〔これはこれで〕善いことである』と、まさしく、〔得ても得なくても〕両者ともどもに、彼は、そのような者であり、ただ、木〔の根元〕に戻る〔だけのこと〕。
713  彼は、鉢を手に〔家々を〕渡り歩きつつ、唖[おし]でもないのに唖と思われる。施しが少なくても、蔑まないように。施す者を見下さないように。
714  まさに、高下諸々の道が、沙門(ブッダ)によって明らかにされた。彼岸に二度行くことはないが、この〔道〕は、一度〔限り〕のものとは思われない。
715  しかして、彼に、執着〔の思い〕が存在しないなら、〔輪廻の〕流れが断ち切られた比丘に、為すべきことと為すべきでないことが〔両者ともに〕捨て去られた者に、苦悶〔の思い〕は見い出されない」と。
716  〔引き続き〕世尊は〔答えた〕「あなたに、牟尼の資質について、教え知らせよう。剃刀の切っ先にある如く、〔世に〕有るように(剃刀の切っ先に塗られた蜜を舐めるのが人間の生である、と自戒する)。舌を上顎に付けて、腹において〔食が〕自制された者として存するように。
717  また、心が陰鬱ならざる者として存するように。あるいはまた、多く思い考えないように。生臭[なまぐさ]ならず、〔何ものにも〕依存せず、梵行を〔自らの〕行き着く所(最終目標)とする者として〔存するように〕。
718  独り坐すことを学ぶように。そして、沙門の従事すること(瞑想)を〔学ぶように〕。独りあることは、寂黙〔の道〕である、〔と、覚者によって〕告げ知らされた。もし、独りあるなら、〔彼は、独りあることを〕喜び楽しむであろう。
719  しかして、〔彼は〕十方に光り輝くであろう。慧者たちの評判を聞いて、欲望を捨て去る瞑想者たちの〔評判を聞いて〕、それゆえに、わたしにしたがう者は、より一層、恥〔を知る思い〕と信〔の思い〕とを作り為すように。
720  それを、諸々の川〔の喩え〕によって識知するように。諸々の溝や峡谷などの小さな流れは、騒ぎ立てつつ行くが、大河は、沈黙なるままに行く。
721  不足のもの——それは、〔いたずらに〕騒ぎ立てる。満ちているもの——それは、まさしく、寂静なるまま。愚者は、〔ぴちゃぴちゃと音を立てる、中身が〕半分の瓶の如くある。賢者は、〔水が〕満ちた湖のようにある。
722  沙門が多く語るなら、〔その言葉は〕義(意味)を伴い、具している。〔あるがままに〕知る者として、彼は、法(真理)を示す。〔あるがままに〕知る者として、彼は、多く語る。
723  また、〔あるがままに〕知る者として、自己を制した者——〔あるがままに〕知る者として、多く語らない者——彼は、寂黙〔の道〕に値する牟尼である。彼は、寂黙〔の道〕に到達した牟尼である」と。

 第十二経 二種の随観

724  苦しみを覚知せず、しかして、苦しみの生起を〔覚知せず〕、さらには、苦しみが残りなく全てにわたり消滅する所〔である寂止の境地を知らず〕、しかして、苦しみの寂止へと至る、その道(八正道)を知らない者たち——
725  彼らは、心の解脱に劣る者たちであり、しかして、彼らは、知慧の解脱と〔苦しみの〕終極[おわり]を為すことができない。まさに、彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く者たちである。
726  しかしながら、苦しみを覚知し、しかして、苦しみの生起を〔覚知し〕、さらには、苦しみが残りなく全てにわたり消滅する所〔である寂止の境地を知り〕、しかして、苦しみの寂止へと至る、その道(八正道)を覚知する者たち——
727  〔彼らは〕心の解脱を成就した者たちであり、しかして、彼らは、知慧の解脱と〔苦しみの〕終極を為すことができる。彼らは、生と老〔の輪廻〕へと近づき行く者たちではない。
728  何であれ、世における、無数なる形態の、〔これらの〕苦しみは、依存という縁から生起する。まさに、〔あるがままに〕知ることなく、依存〔の対象〕を作る者——愚か者は、繰り返し、苦しみへと近づき行く。それゆえに、〔あるがままに〕覚知する者として、苦しみの発生の起源を観る者として、依存〔の対象〕を作らないように。
729  〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、生と死の輪廻へと、繰り返し赴く者たち——まさしく、無明によって、その赴く所がある。
730  なぜなら、この無明は、大いなる迷妄であり、それ(無明)によって、この、輪廻なるものは、長きものとなる。しかしながら、明知に至った有情たち——〔彼らは〕さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)。
731  何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)という縁から〔生起する〕。諸々の形成作用が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
732  「苦しみは、形成作用という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の形成作用が寂止するがゆえに、〔しかして〕表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)が破壊するがゆえに、このように、苦の滅尽が有る。このことを、真実のとおりに知って——
733  正しく見る者たちは、〔真の〕知に至る賢者たちは、正しく了知して、悪魔の束縛を征服して、さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)。
734  何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)という縁から〔生起する〕。識別作用が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
735  「苦しみは、識別作用という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、比丘は、識別作用が寂止するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
736  接触(触:感覚・経験)〔の喜悦〕に打ち負かされ、生存の流れ(輪廻)に従い行き、邪道を実践する彼らにとって、束縛の滅尽は、遠く離れている。
737  しかしながら、接触を知り尽くし、了知して、〔心の〕寂止に喜びある者たち——まさに、彼らは、接触〔の喜悦と、その危険〕を知悉するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
738  もしくは、楽しいことであろうが、苦しいことであろうが、苦でなく楽でないことと共に、内も、外も、何であれ、〔愛憎の対象として〕感受されたものが存在しないなら——
739  「これは、苦しみである。虚偽の法(もの、こと)である。壊れ崩れるものである」と知って、〔その〕接触〔その〕接触の衰滅を〔常に〕見ている者(瞬間瞬間の感覚が生じては滅するあり方をあるがままに見る者)は、このように、そこにおいて離染する。比丘は、諸々の感受作用(受:認識対象を感受し苦楽の価値づけをする働き)が滅尽するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
740  渇愛を伴侶とする人は、長時にわたり輪廻しつつ、〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、〔生死の〕輪廻を超克することはない。
741  この危険を知って、渇愛〔の思い〕を苦しみの生起と〔知って〕、比丘は、渇愛〔の思い〕を離れ、執取〔の思い〕なく、気づきの者として、遍歴遊行するであろう。
742  〔迷いの〕生存は、執取〔の思い〕という縁から〔生起する〕。〔作られたものとして〕有るものは、苦を受ける。生まれたものには、死が有る。これが、苦しみの生起である。
743  それゆえに、執取〔の思い〕が滅尽するがゆえに、賢者たちは、正しく了知し、生の滅尽を証知して、さらなる〔迷いの〕生存には帰り来ない(輪廻的あり方を超越する)。
744  何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、〔利己的な〕勉励という縁から〔生起する〕。諸々の〔利己的な〕勉励が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
745  「苦しみは、〔利己的な〕勉励という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の〔利己的な〕勉励を放棄して、〔利己的な〕勉励なき〔境地〕における解脱者にとって——
746  〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕が断たれた、寂静心の比丘にとって、生の輪廻は超えられた。彼に、さらなる〔迷いの〕生存は存在しない。
747  何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、食(迷いの生存の動力源となるもの)という縁から〔生起する〕。諸々の食が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
748  「苦しみは、食という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、一切の食を知り尽くして、一切の食について依存なき者となる。
749  無病〔の境地〕を正しく了知して、諸々の煩悩が完全に滅尽するがゆえに、〔食について正しく〕考究して、〔正しい食のあり方に〕慣れ親しむ者は、法(正義)に依って立ち、〔真の〕知に至る者となり、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことがない(名付けを離れた存在となる)。
750  何であれ、苦しみが生起するなら、一切は、動揺という縁から〔生起する〕。諸々の動揺〔の思い〕が止滅することで、苦しみの生起は存在しない(有りえない)。
751  「苦しみは、動揺という縁から〔生起する〕」〔と〕、この危険を知って、それゆえに、〔心の〕動揺を放棄し、諸々の形成作用(行:生の輪廻を施設し造作する働き)を破壊して、比丘は、〔心の〕動揺なく、執取〔の思い〕なく、気づきの者として、遍歴遊行するであろう。
752  〔何ものにも〕依存しない者は、動揺しない。しかしながら、〔何ものかに〕依存する者は、〔常に〕執取している。〔今〕この場の〔迷いの〕状態(現世)から他の〔迷いの〕状態(来世)へと、〔生死の〕輪廻を超克することはない。
753  「諸々の依存〔の対象〕のうちに、大いなる恐怖がある」〔と〕、この危険を知って、比丘は、〔何ものにも〕依存せず、執取〔の思い〕なく、気づきの者として、遍歴遊行するであろう。
754  あるいは、形態(色)に近づき行く有情たち(人間)——あるいは、形態なきところ(無色)に住む者たち(神々)——〔彼らは〕止滅〔の境地〕を覚知することなく、さらなる〔迷いの〕生存へと帰り来る者たちである。
755  しかしながら、諸々の形態を知り尽くして、諸々の形態なきもののうちに止まることなく、止滅〔の境地〕において解脱する者たち——彼らは、死を捨て去る人たちである。
756  見よ——自己でないものについて「自己である」と高慢し、名前と形態(名色:現象世界)のうちに〔思いが〕固着した、天〔界〕を含む世〔の人々〕を。「これは、真理である」と〔迷いのままに〕思いなす。
757  まさに、あれやこれや思い考えても、それは、その〔思い〕とは他のものと成る。まさに、それは、その〔思い〕にとっては虚偽なるものとして有る。まさに、移り行く、虚偽の法(もの・こと)として〔有る〕。
758  涅槃〔の境地〕は、迷妄ならざる法(もの・こと)であり、聖者たちは、それを「真理である」と知る。まさに、彼らは、真理を知悉するがゆえに、無欲の者となり、完全なる涅槃に到達した者となる。
759  諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、諸々の味わい(味:舌の対象)、諸々の香り(香:鼻の対象)、諸々の接触(触:身の対象)、諸々の法(法:意の対象)の全部と、諸々の求められ欲せられ意に適うものと、「〔世に〕存在する」と言われるかぎりのもの——
760  こられこそは、天〔界〕を含む世〔の人々〕にとって、「楽しみである」と思われたものである。さらには、これらのものが消滅する所——それは、彼らにとって、「苦しみである」と思われたものである。
761  身体が有る〔という誤った見解〕の破壊は、聖者たちによって、「楽しみである」と見られた。〔あるがままに〕見る者たちの、この〔ものの見方〕は、一切世〔界〕とは、正反対のものと成る。
762  他者たちが「楽しみである」と言うもの——それを、聖者たちは、「苦しみである」と言う。他者たちが「苦しみである」と言うもの——それを、聖者たちは、「楽しみである」と知る。見よ——了知し難き法(真理)を。ここに、迷乱の者たちがいる。無知なる者たちがいる。
763  〔迷妄に〕覆われた者たちには、闇が有る。〔あるがままに〕見ない者たちには、暗黒が〔有る〕。しかしながら、正しくある者たちには、〔迷妄の覆が〕開かれた〔あるがままの真実〕が有る——〔あるがままに〕見る者たちに、光明が〔有る〕ように。〔しかしながら〕法(真理)の熟知者ならざる獣愚の者たちは、〔法の〕現前にいながら〔法を〕識知しない。
764  〔迷いの〕生存にたいする貪り〔の思い〕に打ち負かされ、〔迷いの〕生存の流れ(輪廻)に従い、悪魔の領域に堕ちた者たちによって、この法(真理)が真に正覚されることはない。
765  聖者たちより他の、いったい、誰が、〔その〕境地を正覚するにふさわしいというのだろう——煩悩なき者たちが、正しく了知して、完全なる涅槃に到達する、〔まさに〕その境地に。

第四章 八なるもの

 第一経 欲望

766  欲望〔の対象〕を欲している彼にとって、もし、その〔願い〕が適うなら、たしかに、人は、求めるものを得て、〔その時だけは〕喜びの意[おもい]ある者と成る。
767  〔欲望の対象を〕欲している彼にとって、欲〔の思い〕が生じた人にとって、もし、それらの欲望〔の対象〕が衰え滅びるなら、〔彼は〕矢に貫かれた者のように、悩み苦しむ。
768  足で蛇の頭を〔避ける〕ように、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避ける者——〔常に〕気づきある彼は、世における、この執着を超克する。
769  田畑、地所、黄金、あるいは、牛馬、奴隷や下僕、婦女たち、眷属たちなど、種々なる欲望〔の対象〕を貪り求める人——
770  彼を、まさしく、諸々の力なきもの(時の流れ)が押しつぶす。彼を、諸々の危難が踏みにじる。それゆえに、彼に、苦しみが従い行く——壊れた舟に、水が〔浸み入る〕ように。
771  それゆえに、常に気づきある人は、諸々の欲望〔の対象〕を遍く避けるもの。それら(欲望の対象)を捨てて、〔貪欲の〕激流を超えるなら、〔人は〕舟〔に浸み入る水〕を汲み出して、彼岸に至る者となる。

 第二経 洞窟についての八なるもの

772  〔煩悩の〕洞窟(身体)に執着し、多く〔の迷妄〕に覆われた者——迷妄ならしむもの(欲望の対象)のうちに沈み、止[とど]まっている人——そのような類[たぐい]の者である彼は、まさに、遠離〔の境地〕から遠く離れている。まさに、世における諸々の欲望〔の対象〕は、まさに、捨て易きものではない。
773  未来、あるいはまた、過去について、〔あれこれと〕期待する者たち——あるいは、〔現前する〕これらの欲望〔の対象〕を、あるいは、以前〔に見た欲望の対象〕を、〔貪りの思いで〕渇望する者——彼ら、〔潜在的な心の〕欲求を縁とし生存(有)の悦[よろこび]に結縛された者たちは、解脱し難い。なぜなら、他のもの(他者・他物)〔を依り所とする〕解脱は、〔どこにも存在し〕ないのだから。
774  諸々の欲望〔の対象〕について、貪り、追い求め、〔心が〕迷乱した者たち——彼ら、しみったれで、〔世の〕不正に〔思いが〕固着した者たちは、〔いざ、死の〕苦しみ〔の前〕に連れて行かれたなら、〔うってかわって〕嘆き悲しむ。「死んだ〔わたしたち〕は、これから、いったい、どう成るのだろう」〔と〕。
775  それゆえに、まさに、人は、この〔世において〕こそ、学ぶように。何であれ、世において、「不正である」と知られるなら、それを因として、不正を行じおこなうことがないように。慧者たちは言う「その寿命は、まさに、僅かである」〔と〕。
776  〔わたしは〕見る——諸々の生存にたいする渇愛に陥り、世において、震えおののいている、この人々を。下劣な人たちは、〔死に瀕しても〕種々なる生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられず、死魔の門にて泣きわめく。
777  見よ——わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)に、震えおののいている者たちを——水少なく、涸れた流れのなかにいる、魚たちのような者たちを(彼らは、所有物を失う不安と恐怖で悩み苦しんでいる)。また、このことを見て、諸々の生存について執着〔の思い〕を為さずにいる者は、我執なくして、行じおこなうように。
778  〔種々に対立する〕両極について、欲〔の思い〕を取り除き、〔感官とその対象の〕接触(触:感覚・経験)を知り尽くして、〔欲望の対象を〕貪り求めない者は——自己を難じる者が〔為す〕こと、それを為さずにいる慧者は——諸々の見られ聞かれたもの(欲望の対象)に汚されない。
779  諸々の執持〔の対象〕(所有物)に汚されない牟尼(沈黙の聖者)は、〔心中の〕想い(想:表象・概念)を知り尽くして、〔貪欲の〕激流を超え渡るであろう。〔貪欲の〕矢が引き抜かれた者は、〔気づきを〕怠ることなく行じおこなう者は、この世と他〔世〕を、〔両者ともに〕願い求めない。

 第三経 邪悪についての八なるもの

780  また、或る者たちは、まさに、〔憎しみや怒りなどの〕汚れた意[こころ]で、〔自己の論を〕説く。しかしてまた、まさに、〔自説だけが〕真理である〔という、思い上がりの〕意で、〔自己の論を〕説く。しかしながら、牟尼は、〔論敵への憎悪と自説への固執から〕生じた〔悪意ある〕論に近づかない。それゆえに、牟尼は、〔他者にたいする〕鬱屈(偏見)が、どこにも存在しない。
781  欲〔の思い〕に導かれ、好みによって〔思いが〕固着した者は、まさに、どのようにして、自らの見解を超え渡るというのだろう。〔諸々の特定の見解について〕「〔それらは〕完全である」〔と〕自ら〔思いを〕為す者は、まさに、〔限定された自己だけの観点から〕知るであろうとおりに、そのように〔自説を独善的に〕説くであろう。
782  また、自己の〔保持する〕諸々の戒や掟について、〔他者から〕尋ねられていないのに、他者たちに説く人——まさしく、自ら、自己について、〔あれこれと〕説く者——智者たちは、彼を「聖ならざる法(性質)の者」と言う。
783  しかしながら、自己が寂滅した、寂静なる比丘は、「わたしは云々」と、諸々の戒について誇らずにいる。彼に、〔貪りや怒りなどの〕諸々の増長〔の妄想〕が、世において、どこにも存在しないなら、智者たちは、彼を「聖なる法(性質)の者」と説く。
784  彼に、〔執着の対象として〕想い描かれ〔妄想によって〕形成された諸々の法(もの・こと)が〔存在し〕、〔特別のものとして〕偏重された諸々の清浄ならざるものが存在するなら、〔彼は〕自己〔だけ〕に福利を見る者であり、その、動揺を縁とする〔虚妄の〕寂静に依存する者である。
785  諸々の見解にたいする固着は、まさに、超克し易きものではない。〔それゆえに、比丘は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕判別するように。それゆえに、人は、それら、諸々の〔妄執が〕固着する場において、法(もの・こと)を放棄し、かつまた、執取する。
786  清き者には、まさに、世のどこにおいても、種々なる生存にたいし、〔あらかじめ断定的に〕想い描かれた〔特定の〕見解は存在しない。幻想も、高慢も、〔両者ともに〕捨てて、清き者たる彼が、どうして、〔迷いの生存に〕赴くであろう。彼は、〔特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者である。
787  〔執着の対象に〕近づく者は、まさに、諸々の法(見解)について、〔特定の〕論に近づく。〔しかしながら、特定の見解や迷いの生存に〕近づかない者を、何によって、どのように説くというのだろう(彼は、論争の相手にはならない)。なぜなら、彼には、〔執着の対象として〕執取されたものと、〔排除の対象として〕放棄されたものが、〔両者ともに〕存在しないのだから(彼は、特定の見解を執着の対象として執取することもなく、排除の対象として放棄することもない)。彼は、まさしく、この〔世において〕、一切の見解を払い落としたのだ。

 第四経 清浄についての八なるもの

788  「〔わたしは〕見る——清浄で、無病で、最高なる者を。〔外に〕見られたものによって、人の清浄は有る」〔と〕、〔見てくれだけで〕清浄を観る(理解する)者は、これ(清浄)を〔自己だけの観点で〕証知しながら、「〔外に見られたものが〕最高である」と〔自分勝手に〕知って、〔形だけの知識を〕「〔正しい〕知識である」と盲信する。
789  もし、〔外に〕見られたものによって、人の清浄が有るなら、あるいは、〔形だけの〕知識によって、彼が苦を捨てるなら、彼は、〔見解や知識にたいする〕依存〔の思い〕ある者であって、〔自己でない〕他のものによって清まる〔ことになる〕。なぜなら、〔他のものである、彼の〕見解は、彼について、そのように〔形だけで〕説いている者と、〔自ら〕説くからである。
790  〔真の〕婆羅門(人格完成者)は、他のものから〔生まれた、虚妄の〕清浄を、〔清浄とは〕言わない。自己を捨てる者、この〔世において〕、〔執着の思いを〕為さずにいる者は、見られたものと聞かれたものと思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)に、あるいは、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)に、善と悪と(概念化され規範化した価値基準)に、〔何であれ〕汚されない者である。
791  前の〔教師や教義〕を捨てて他の〔教師や教義〕に依存する者たち——〔心の〕揺れ動くまま〔他のものに〕従い行く彼らは、〔自らの〕執着〔の思い〕を超えることがない。彼らは、〔特定の何かを、執着の対象として〕執持し、〔排除の対象として〕放棄する——猿が、枝を掴んでは放つようなもの。
792  自ら〔自分勝手に〕、諸々の掟を受持して、〔自分勝手な〕想い(想:表象・概念)に執着する人は、〔迷いのままに〕高下に赴く。しかしながら、知ある者は、諸々の知によって法(真理)を行知して、広き知慧ある者となり、高下に赴くことがない。
793  あるいは、見られたもの、あるいは、聞かれたものと思われたもの、何であれ、彼は、一切の諸法(もの・こと)にたいし、敵対という有り方を離れている。このように見る者である彼を、〔迷妄の覆[おおい]が〕開かれた者として行じおこなう者を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。
794  彼ら(知慧ある者たち)は、〔特定の何かを〕想い描かず、〔特定の何かを〕偏重せず、「〔これこそ〕究極の清浄である」と説かない。〔執着の思いで〕拘束された執取の拘束(欲望や執着の対象)を捨てて、世のどこにおいても、〔自分勝手な〕願望を作らない。
795  〔執着の対象として〕執持されたものを〔「執着の対象である」と〕、あるいは、〔あるがままに〕知って、あるいは、〔あるがままに〕見て、〔世の〕罪悪を超え行く婆羅門——彼には、〔執着の対象が〕存在しない。〔彼は〕貪り〔の対象〕を貪る者でもなく、離貪〔の思い〕に染まった者でもない。彼には、この〔世において〕、「〔これこそ〕最高である」〔と〕執持されたもの(執着の対象)が存在しない。

 第五経 最高についての八なるもの

796  諸々の見解のなかにおいて、「最高である」と〔独善的に固執し〕固着しながら、世において、人が、それをより上と為すなら、それより他のものについては、〔その〕一切を、「劣る」と言う。それゆえに、〔人は〕諸々の論争を超克しない。
797  見られたものと聞かれたものと思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)について、あるいは、戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)について、自己〔だけ〕に福利を見る者——彼は、そこにおいて、それ(自己の福利)だけに執持して、他者の一切を「劣る」と見る。
798  〔何ものかに〕依存する者が、他者を「劣る」と見るなら、たとえ、それ(「劣る」という思い)だけでも、智者たちは、拘束と説く。それゆえに、まさに、比丘は、あるいは、見られたものに〔依存せず〕、あるいは、聞かれたものと思われたものに〔依存せず〕、戒や掟に依存しないように。
799  あるいは、知識によって、あるいはまた、戒や掟によっても、世において、〔いかなる〕見解でさえも想い描かないように。自己を〔他者と〕「等しい」と見なさないように。あるいはまた、「劣る」「勝[まさ]る」〔と〕思いなさないように。
800  〔比丘である〕彼は、自己を捨てて、執取することなく、また、知識にも依存を為さない。まさに、彼は、相争う者たちのなかにいながら、〔特定の〕党派に走り行く者ではない。また、彼は、何であれ、〔特定の〕見解を盲信しない。
801  この〔世〕であろうと、あの〔世〕であろうと、種々なる〔迷いの〕生存のために〔あれこれと願い求めず〕、彼に、この〔世において〕、〔生と死の〕両極について、〔自分勝手な〕誓願が存在しないなら、彼に、諸々の〔妄執が〕固着する場は、何であれ、存在しない。〔比丘は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕判別するように。
802  彼には、この〔世において〕、あるいは、見られたものについて、あるいは、聞かれたものと思われたものについて、〔執着の対象として〕想い描かれた〔自分勝手な〕想い(想:表象・概念)は、微塵でさえも存在しない。〔特定の〕見解に執取しない、その婆羅門を、この世において、〔いったい、誰が〕何によって、想い描くというのだろう(執着の対象を想い描くことがない者は、執着の対象として想い描かれることもない)。
803  〔特定の見解を〕想い描かず、偏重しない者たち——彼らには、〔いかなる〕諸法(もの・こと)でさえも受容されない。〔真の〕婆羅門は、戒や掟によって導かれない。彼岸に至った、そのような者は、〔もはや、この世に〕戻らない。

 第六経 老

804  まさに、この寿命は、僅かである。百年にも満たずに、〔人は〕死ぬ。たとえ、もし、〔百年を〕超えて生きるとして、しかして、彼もまた、まさに、老[おい]によって死ぬ。
805  わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)について、〔世の〕人たちは憂い悲しむ。まさに、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、常住のものとして存在しない。「これは、変じ異なる状態として存在しているだけである」と見て、〔賢者は〕家に住み止まらないもの。
806  「これは、わたしのものである」と、人が思うもの——それは、死によってもまた、失われる。また、このように知って、賢者は、わたし(ブッダ)にしたがう者は、我執〔の思い〕に屈さないもの。
807  また、夢で一緒になった者を、目覚めた人が〔もはや〕見ないように、また、このように、〔かつて〕愛された人もまた、命を終えた亡者となっては、〔誰も〕見ない。
808  彼らのばあい、〔世俗の慣習にすぎない〕この名前で呼ばれ、〔かつては〕見られもし、聞かれもした、それらの人たちであるが、人が亡者となっては、名前だけが残り、告げ知らされる〔だけのこと〕。
809  わがものと〔錯視〕されたもの(欲望や執着の対象)を貪る者たちは、憂いや嘆きや物惜しみ〔の心〕を捨てない。それゆえに、牟尼(沈黙の聖者)たちは、執持〔の対象〕(所有物)を捨てて、〔無一物に〕平安を見る者たちとして、行じおこなった。
810  遠離の意[おもい]に慣れ親しみつつ、〔欲望の対象から〕退去して行じおこなう比丘——〔賢者たちは〕言う「彼にとって、それ(遠離の意)は、〔比丘として〕ふさわしいことである」〔と〕——彼が、〔迷いの〕生存域において、〔彼の〕自己を見せないようにするなら。
811  一切所で依存なき牟尼は、愛しきものを作らず、また、愛しからざるものも〔作ら〕ない。〔蓮の〕葉に水が着[つ]かないように、彼のうちに、嘆きや物惜しみ〔の心〕は〔存在しない〕。
812  また、蓮〔の葉〕に水滴が〔着かない〕ように、〔あるいは〕蓮華に水が着かないように、このように、牟尼は、〔世の人々が執着の対象とする〕この、見られ聞かれたもの、あるいは、諸々の思われたものに汚されない。
813  まさに、〔汚れを払った〕清き者は、〔世の人々が執着の対象とする〕この、見られ聞かれたもの、あるいは、諸々の思われたものに〔汚されず〕、それ(見られ聞かれたもの)によって〔あれやこれや〕思い考えることがない。〔彼は〕他のものによって、清浄を求めない。なぜなら、彼は、〔欲に〕染まらず、〔欲から〕離染することもないのだから。

 第七経 ティッサ・メッテイヤ

814  尊者ティッサ・メッテイヤが〔言った〕「尊師よ、淫欲に束縛された者の悩み苦しみについて、〔わたしたちに〕説いてください。あなたの教えを聞いて、〔わたしたちは〕遠離を学ぶつもりです」と。
815  世尊(ブッダ)は〔答えた〕「メッテイヤよ、淫欲に束縛されたなら、〔その時は、わたしの〕教えを忘れもするだけのこと。そして、誤って実践する〔だけのこと〕。〔淫欲に束縛された〕彼のうちには、この、聖ならざる〔悩み苦しみ〕があります。
816  かつては独り行じおこないながら、〔今は〕淫欲に慣れ親しむ者——迷走する乗り物のような彼を、〔賢者たちは〕『世における下劣な凡夫』と言います。
817  かつての福徳と栄誉が、彼にとっては、それが失われもするだけのこと。また、このことを見て、淫欲を捨てるべく、〔遠離こそを〕学ぶように。
818  諸々の妄想に打ち負かされた彼は、貧者のように思い惑います。そのような類[たぐい]の者は、他者たちの〔悪しき〕評判を聞いて、愕然と成ります。
819  しかして、他者たちの論によって叱責された者は、諸々の刃〔の如き悪しき行ない〕を為します。まさに、これは、彼にとっては、大いなる貪り。〔彼は〕虚偽の言葉に沈みます。
820  〔かつては〕『賢者』と知られ、独り行じおこなうことを確立した者が、しかしてまた、淫欲に束縛されたなら、愚か者のように引き回されます。
821  この危険を知って、牟尼は、この〔世においてこそ〕、過去と未来について、独り行じおこなうことを〔すなわち、遠離こそを〕、断固として為すように。淫欲に慣れ親しまないように。
822  遠離こそを、学ぶように。これは、聖者たちにとって、最上のもの。それによって〔自己を〕『最勝である』〔と、独善的に〕思いなさないなら、まさに、彼は、涅槃の現前にあります。
823  〔一切を〕捨てて〔遠離のままに〕行じおこない、諸々の欲望〔の対象〕について〔あれこれと〕期待せず、激流を超えた牟尼を、諸々の欲望〔の対象〕に拘束された人々は羨みます」と。

 第八経 パースラ

824  〔対話者パースラに、世尊は答えた〕「〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と〔執着の思いで、自説を〕説きます。〔けっして〕他者たちの諸々の法(教え)のうちに、清浄を言いません(認めない)。その〔自説〕に依存する者たちは、そこにおいて、〔その自説を〕『美しい(価値がある)』と〔独善的に〕説きつつ、各自の諸々の真理にたいし、個々〔それぞれ〕に固着しているのです。
825  彼ら、論を欲する者たちは、衆のうちに入って、互いに他と敵対し、〔他者を〕愚者と決め付けます。彼ら、賞賛を欲する者たちは、〔自らを〕『智者である』〔と〕説きながら、〔実際には〕他者〔の権威〕に依存して、論難の言葉を説きます。
826  衆の中で、〔論争の〕言葉に束縛された者は、賞賛を求めつつ、敗北を恐れる者と成ります。また、〔他者に〕排斥されたときは、愕然と成ります。彼は、〔他者の〕欠点を探し求める者であり、〔自分への〕非難には怒ります。
827  問〔答〕を審査する者たちが、彼の論について、『遍く劣る、排斥された』と言うなら、劣った論の者は、〔それを〕嘆き、憂い悲しみます。『〔彼は〕わたしを超え行った』と、泣き悲しむのです。
828  これらの論争が、沙門たちのあいだで生じたなら、これらのうちには、〔心の〕高揚と落胆が有ります。また、このことを見て、〔比丘は〕論難の言葉を離れるように。なぜなら、賞賛を得ることの他に、義(利益)は存在しないからです。
829  あるいはまた、衆の中で、〔自己の〕論を告げて、そこにおいて、賞賛された者に成るとして、彼は、意[こころ]が〔そう〕有ったとおりの、その義(利益)を得て(心に想い描いたとおりの結果となり)、それによって、狂喜し、そして、傲慢になります。
830  傲慢——それは、彼にとって、悩み苦しみの境地です。また、この者は、〔以前にも増して〕高慢と増慢〔の論〕を説きます。また、このことを見て、〔比丘は〕論争しないように。なぜなら、智者たちは、それによって、清浄を説かないからです。
831  王の食禄に養われた〔蛮勇の〕勇士が、雄叫びをあげつつ、敵の勇士を求めて行くように、勇士よ、まさしく、彼(敵)のいるところ、そこへと去り行きなさい。〔ここには〕戦いのための〔縁[よすが]である〕これ〔という思い、すなわち、『これだけが、真理である』と主張するための『これ』〕は、すでにもう、存在しないのです。
832  〔特定の〕見解を執持して論争し、そして、『これだけが、真理である』と説く者たち——彼らに、あなたは、〔このように〕説きなさい。『論が生じても、あなたにたいし、敵対〔の思い〕を為す者は、まさに、ここには存在しない』〔と〕。
833  また、〔一切にたいし〕敵対〔の思い〕を為すことなくして行じおこない、諸々の見解によって見解(ものの見方)を遮られない者たち——彼らのうちに、この〔世において〕、『〔これこそ〕最高である』〔と〕執持されたもの(特定の見解)が存在しないなら——パースラさん、彼らにたいし、あなたは、何を得るというのでしょう。
834  しかして、あなたは、意で諸々の悪しき見解を思い考えながら、〔わたしのところに、何ものかを〕尋ね求めにやってきました。〔そして、あなたは〕清き者(ブッダ)とともに〔論争という〕軛[くびき]を〔身に〕付けました。まさに、あなたは、〔それがために〕進み行くことができないでありましょう」〔と〕。

 第九経 マーガンディヤ

835  〔世尊は言った〕「渇愛、不満、貪欲と、〔これらの名をもつ三人の魔女を〕見て、〔わたしには〕淫欲(性交)にたいする欲〔の思い〕さえも、有りませんでした。この、糞尿に満ちたものが、まさしく、何だというのでしょう。足でさえも、それに触れることを求めません」〔と〕。
836  〔マーガンディヤが尋ねた〕「もし、〔あなたが〕このような宝を求めないなら、〔すなわち〕多くの人間〔界〕のインダ(インドラ神)たち(多くの国王たち)に切望された女性〔という宝〕を〔求めないなら〕、悪しき見解、戒や掟に生〔のあり方〕、そして、〔迷いの〕生存への再生について、〔あなたは〕どのようなものと説くのですか」〔と〕。
837  世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、『〔わたしは〕これを説く』という〔執着は〕、彼(ブッダ)には有りません。〔彼は〕諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕判別するでありましょう。また、諸々の見解について〔あるがままに〕見ている者は、〔それらを〕執持せずして、〔正しく〕弁別しつつ、内なる寂静を見たのです」と。
838  マーガンディヤが〔尋ねた〕「牟尼よ、〔前もって『こうである』と〕想い描かれた諸々の〔思い〕があり、〔それらにたいする〕諸々の〔断定的〕結論があります。まさに、それらを執持せずして、〔あなたは〕説きます。『内なる寂静』という、この義(意味)は、それは、慧者たちによって、いったい、どのように〔告げ〕知らされたのですか」と。
839  世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、〔慧者は〕見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知識によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知識なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。そして、これらを放棄し、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔迷いの〕生存を渇望しないのです」と。
840  マーガンディヤが〔言った〕「もし、〔あなたが〕言うように、見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知識によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わ〔ない〕なら、〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知識なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないなら、わたしは〔それを〕、まさしく、迷愚の法(教え)と思うのです。或る者たちは、見解によって清浄を〔認知し〕信受します」と。
841  世尊は〔答えた〕「マーガンディヤさん、つまり、〔あなたは〕見解(特定の主義・主張)に依存して尋ねているのです。諸々の執着のうちで迷妄へと陥り、そして、〔わたしが示した〕この〔法〕から、〔正しい〕想い(想:表象・概念)を、微塵でさえも見なかったのです。それゆえに、あなたは、〔わたしの法を〕『迷愚である』と決め付けるのです。
842  『等しい』『勝る』、あるいはまた、『劣る』〔と、種々に〕思いなす者——彼は、その〔思い〕によって〔他者と〕論争するでありましょう。〔しかしながら、これらの〕三種類について〔心が〕動かずにいるなら、彼には、『等しい』『勝る』という〔思いは〕有りません。
843  〔真の〕婆羅門たる彼は、『〔これこそが〕真理である』と、〔いったい〕何を説くというのでしょう。あるいは、彼は、『〔それは〕虚偽である』と、何によって論争するというのでしょう。さらにまた、彼のうちに、『等しい』『等しくない』〔という思い〕が存在しないなら、彼は、何によって論に関わるというのでしょう。
844  家を捨てて、家なくして行く者——牟尼は、村において、諸々の親愛〔の情〕(愛着の思い)を為しません。諸々の欲望〔の対象〕を捨て去った者は、〔もはや、それらを特別のものとして〕偏重しないのです。〔特定の見解に〕執持して、人に〔論争の〕言葉を為すことはないでしょう。
845  それら(諸々の悪しき見解)から遠離した者として、世を渡り歩くなら、龍(牟尼)は、それらを執持して説くことはないでしょう。汚水に生える、荊ある水蓮が、水や泥に汚されないように、このように、寂静〔の境地〕を説き、貪欲なき牟尼は、欲望〔の対象〕にも、世〔間〕にも、汚されないのです。
846  〔真の〕知に至る者は、見解によって、〔高慢の思いに至ることが〕ありません。彼は、思想によって、高慢〔の思い〕に至ることがありません。なぜなら、彼は、それに関わらないからです。〔特定の宗教的〕行為(業)によって〔導かれ〕ず、また、〔他者からの伝え聞きでしかない〕聞かれたものによっても導かれません。彼は、諸々の〔妄執が〕固着する場に連れて行かれないのです。
847  〔誤った〕想い(想:表象・概念)が離染した者には、〔人を縛る〕諸々の拘束は存在しないのです。知慧によって解脱した者には、〔人を惑わす〕諸々の迷妄は存在しないのです。〔特定の〕表象やら見解やらを掴み取った者たち——彼らは、〔互いに〕対立しながら、世を渡り歩くのです」と。

 第十経 破壊の前に

848  〔対話者が尋ねた〕「どのように見る者が、どのような戒ある者が、『寂静者』と呼ばれるのですか。ゴータマ(ブッダ)よ、〔問いを〕尋ねられた者として、その、最上の人について、わたしに説いてください」〔と〕。
849  世尊は〔答えた〕「〔身体の〕破壊(死)の前に、渇愛〔の思い〕を離れ、過去〔の記憶〕に依存せず、〔過去と未来の〕中間(現在)において〔虚妄の思いで〕形成されない者——彼には、〔特別なものとして〕偏重された〔表象や見解〕は存在しません。
850  憤怒なく、畏怖なく、誇らず、悔やまず、智慮によって語り、〔心が〕高ぶらない者——まさに、彼は、言葉を制した牟尼(沈黙の聖者)です。
851  未来について執着なき者は、過去を憂いません。諸々の接触(触:感覚・経験)や見解について遠離を見る者は、〔もはや、何ものにも〕導かれません。
852  〔欲望の対象から〕退去し、虚言なく、羨望〔の思い〕なく、物惜しみ〔の思い〕なき者は、尊大ならず、〔他者を〕忌避せず、また、〔他者の〕中傷に陥る者でもありません。
853  諸々の悦楽に溺れない者は、しかして、増慢に陥る者でもありません。また、こころ優しく、応答自在〔の知慧〕ある者は、信仰なく、離染しません(今に生きる者は、限定された特定の信仰を持たず、無執着の者には、離染という行為自体が存在しない)。
854  利得(行乞の施物)を欲して学ばず、また、利得がなくても怒りません。そして、〔他者の道を〕遮らない者(他者にたいし敵意なき者)は、諸々の味についても、渇愛の〔思い〕で貪りません。
855  〔愛憎の思いを〕放捨し、常に気づきある者は、世において、〔自己と他者について〕『等しい』と思いません。『勝る』〔とも思い〕ません。『より劣る』〔とも思い〕ません。彼には、諸々の増長〔の思い〕は存在しません。
856  彼に、〔他者に〕依存することが存在しないなら、法(真理)を知って、依存なき者となります。彼に、〔迷いの〕生存への〔渇愛の思い〕、あるいは、〔迷いの〕生存から離れることへの渇愛〔の思い〕が見い出されないなら——
857  〔わたしは〕彼を、諸々の欲望〔の対象〕について期待なき者を、『寂静者』と説きます。彼に、諸々の拘束は見い出されません。彼は、執着〔の思い〕を超えたのです。
858  彼に、子供たちや家畜たちは〔見い出され〕ません。あるいは、田畑や地所も見い出されません。あるいはまた、〔執着の対象として〕執取されたものも、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものも、彼においては、〔対象として〕認められないのです。
859  そこで、〔世の〕凡夫たちや、しかして、沙門や婆羅門たちが、彼のことを〔種々に〕説くであろうが、そのことは、彼にとって偏重されることではありません。それゆえに、〔世にはびこる〕諸々の論にたいし、〔いささかも〕動じないのです。
860  貪りを離れ、物惜しみ〔の思い〕なき牟尼は、増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)のうちに〔存在し〕ない者は、〔計測され概念化した〕時間に至らない(輪廻しない・妄想しない)のです。
861  世において、彼に、自らのもの〔という思い〕が存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、また、諸々の法(もの・こと)に〔思いが〕行かず、まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます」と。

 第十一経 紛争と論争

862  〔対話者が尋ねた〕「諸々の紛争と諸々の論争は、何を〔縁として〕生起したのですか。また、諸々の物惜しみ〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂い、そして、諸々の中傷と共にある諸々の高慢と増慢、それらは、何を〔縁として〕生起したのですか。どうか、それを説いてください」〔と〕。
863  〔世尊は答えた〕「諸々の紛争と諸々の論争は、愛しきもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)を〔縁として〕生起しました。また、諸々の物惜しみ〔の思い〕と共にある諸々の嘆きと憂い、そして、諸々の中傷と共にある諸々の高慢と増慢、〔それらもまた、愛しきものを縁として生起しました〕。諸々の紛争と諸々の論争は、諸々の物惜しみ〔の思い〕に束縛されたものであり、しかして、〔他者とのあいだで〕諸々の論争が生じたとき、〔諸々の物惜しみの思いが有るため、他者にたいする〕諸々の中傷と〔成ります〕」〔と〕。
864  〔対話者が尋ねた〕「世における諸々の愛しきもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)は、いったい、何を縁として〔生起したのですか〕。あるいはまた、世を渡り歩く諸々の貪欲は、〔何を縁として生起したのですか〕。未来〔という概念〕のために人に有るもの、〔すなわち〕諸々の願望と諸々の目標とは、何を縁として〔生起したのですか〕」〔と〕。
865  〔世尊は答えた〕「諸々の欲〔の思い〕を縁として、世における諸々の愛しきもの(自己中心的な愛着や愛執の対象)は〔生起しました〕。あるいはまた、世を渡り歩く諸々の貪欲は、〔欲の思いを縁として生起しました〕。未来〔という概念〕のために人に有るもの、〔すなわち〕諸々の願望と諸々の目標とは、これ(欲の思い)を縁として〔生起しました〕」〔と〕。
866  〔対話者が尋ねた〕「世における欲〔の思い〕は、いったい、何を縁として〔生起したのですか〕。あるいはまた、〔世の人々が下す〕諸々の〔断定的〕結論は、何を〔縁として〕生起したのですか。あるいはまた、〔世の迷える〕沙門によって説かれた〔悪しき〕諸法(もの・こと)である、怒りと虚偽の言葉と疑い〔の思い〕は、〔何を縁として生起したのですか〕」〔と〕。
867  〔世尊は答えた〕「『悦がある、悦ならざるものがある』と、世において〔人々が〕言うところの、その〔二者〕(快と不快の思い)に依存して、欲〔の思い〕は生起します。世において、人は、諸々の形態(色:妄想によって固定され実体化した形相)のうちに、〔表象として顕現した〕虚無(非有:無)と実体(有:存在)〔だけ〕を見て、〔断定的〕結論を為します。
868  怒りと虚偽の言葉と疑い〔の思い〕——これらの〔悪しき〕諸法(もの・こと)もまた、まさしく、〔悦と悦ならざるものの〕二者(概念的二項対立図式)を〔縁として〕存在しています。疑いある者は、知識の道(妄想によって固定され断片化した学問知識)に学ぶもの。〔このように〕知って、〔これらの悪しき〕諸法(もの・こと)は、〔世の迷える〕沙門によって説かれました」〔と〕。
869  〔対話者が尋ねた〕「悦、および、悦ならざるもの〔の二者〕は、何を縁として〔生起したのですか〕。何が存在していないとき、これらのものは、まさに、有りえないのですか。虚無、さらにまた、実体という、この義(無と有の概念的二項対立)は、何を縁として〔世に有るのか〕を、このことを、わたしに説いてください」〔と〕。
870  〔世尊は答えた〕「接触(触:妄想によって固定され断片化した感覚・経験)を縁として、悦と悦ならざるもの〔の二者〕は〔生起しました〕。接触が存在していないとき、これらのものは、まさに、有りえません。虚無、さらにまた、実体という、この義(無と有の概念的二項対立)は、これ(接触)を縁として〔世に有ること〕を、このことを、あなたに説きます」〔と〕。
871  〔対話者が尋ねた〕「接触(感覚・経験)は、世において、いったい、何を縁として〔生起したのですか〕。あるいはまた、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は、何を〔縁として〕生起したのですか。何が存在していないとき、我執は存在しないのですか。何が実体〔というあり方〕を離れたとき、諸々の接触(感官機能の対象)は、〔諸々の感官機能と〕接触しないのですか」〔と〕。
872  〔世尊は答えた〕「名前(名:妄想によって固定され概念化した言葉)と形態(色:妄想によって固定され実体化した形相)と〔その二者〕を縁として、諸々の接触(感覚・経験)は〔生起しました〕。諸々の欲求(潜在的な心の衝動)を縁として、諸々の執持〔の対象〕(所有物)は〔生起しました〕。欲求が存在していないとき、我執は存在しません。形態が実体〔というあり方〕を離れたとき、諸々の接触(感官機能の対象)は、〔諸々の感官機能と〕接触しません」〔と〕。
873  〔対話者が尋ねた〕「どのように行知した者の形態は消滅するのですか。楽、あるいはまた、苦は、どのようにして消滅するのですか。このことを、〔それが〕消滅するとおりに、わたしに説いてください。『それを知りたい』と、〔このように〕わたしの意[こころ]は成りました」〔と〕。
874  〔世尊は答えた〕「想いのままに想う者でなく、想いを離れて想う者でなく、また、想いなき者でなく、実体〔というあり方〕を離れて想う者でなく、このように行知した者の形態は消滅します。なぜなら、諸々の表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)を縁として、諸々の虚構(戯論:分別妄想)の名称(世界認識の道具として虚構された概念)が〔存在しているにすぎない〕からです」〔と〕。
875  〔対話者が尋ねた〕「〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことを、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、あなたが最後に説き示された形態の消滅というあり方とは〕他のものについて、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。
 まさに、或る賢者たちは、いったい、これだけで〔すなわち、形態の消滅というあり方だけでもって〕、この〔世において〕、魂の至高の清浄を説くのですか。あるいはまた、これ(形態の消滅)とは他のものを説くのですか」〔と〕。
876  〔世尊は答えた〕「まさに、或る賢者たちは、また、これだけで〔すなわち、形態の消滅というあり方だけでもって〕、この〔世において〕、魂の至高の清浄を説きます。いっぽうで、彼らのなかの或る者たちは、〔これとは他の〕教義を説き、〔生存の〕依り所(身体)が無い者たちを、『智者たちである』〔と〕説いています。
877  しかしながら、〔牟尼は〕これらの者たちを、『〔いまだ〕依存ある者たちである』と知って——〔すなわち〕考察者にして牟尼たる彼は、〔彼らの〕諸々の依存〔の思い〕を知って——〔しかして〕解脱者は、〔彼らの依存あるあり方を〕知って——〔無益な〕論争に至らず、〔そのように知り見る、真の〕慧者は、種々なる生存のために行知することがありません(彼は、輪廻を超脱する)」〔と〕。

 第十二経 小さなまとまり

878  〔対話者が尋ねた〕「互いに自ら〔各自の〕見解に固着している者たちは、〔自らの見解に〕種々に執持して、〔自らを〕『智者である』〔と〕説きます。『このように知るなら、彼は、法(真理)を知っている』『このことを非難している彼は、全一者ではない』〔等々と〕。
879  また、このように、〔世の自称智者たちは、自らの見解に〕固執して論争します。そして、『他者は、愚者である。智者ではない』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、〔その〕全てが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」〔と〕。
880  〔世尊は答えた〕「もし、他者の法(見解)を承認しないでいる者が、知慧の劣る愚者と〔成り〕、獣愚の者と成るなら、まさしく、全ての者は、知慧の極めて劣る愚者たちと〔成ります〕。まさしく、全ての者は、これらの見解に〔各人各様に〕固着しているのです。
881  いっぽうで、もし、自らの見解によって、清浄と〔成り〕、清浄の知慧ある者たちと〔成り〕、智者たちと〔成り〕、思慧ある者たちと〔成る〕なら、彼らのうちに、知慧の遍く劣る者は、誰もいなくなります。なぜなら、〔自らの見解という点で〕彼らの見解は、また、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです。
882  愚者たちは、互いに他と敵対して、〔『これは、真実である』と〕言うのですが、わたしは、〔断定的かつ限定された言い方で〕『これは、真実である』と説くことが、まさしく、ないのです。〔愚者たちは〕互いに自らの見解〔だけ〕を、真理と為したのですが、それゆえに、まさに、他者を『愚者である』と決め付けるのです」〔と〕。
883  〔対話者が尋ねた〕「或る者たちが、『真理である。真実である』と言うなら、それを、他者たちは、『虚妄である。虚偽である』と言います。また、このように、〔世の迷える沙門たちは、異なる見解に〕執持して〔互いに〕論争します。何ゆえに、沙門たちは、ひとつのことを説かないのですか」〔と〕。
884  〔世尊は答えた〕「それについて、覚知する者が覚知しつつ論争するなら、まさに、真理はひとつです。第二のものは存在しません。〔しかしながら、覚知していない〕彼ら(迷える沙門たち)は、諸々の真理を、種々に、自ら〔自分勝手に、『これこそは、真理である』と〕騒ぎ立てるのです。それゆえに、〔世の迷える〕沙門たちは、ひとつのことを説かないのです」〔と〕。
885  〔対話者が尋ねた〕「〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いている、論争好きの者たちは、いったい、何ゆえに、諸々の真理を、種々に説くのですか。いったい、それらの真理は、種々に多くあるものなのですか、あるいは、彼らが〔自己の〕考え(自説)を〔独善的に『真理である』と〕思い込む〔だけ〕なのですか」〔と〕。
886  〔世尊は答えた〕「種々に多くある〔それらの〕真理は、世における、諸々の常住なるものですが、〔それらは、『常住である』と盲信された虚妄の〕想い(想:表象・概念)より他には、まさしく、まさに、〔何ものでも〕ないのです(思い込みの産物でしかない)。しかして、〔彼らは〕諸々の見解のうちに〔自己の〕考え〔独善的に〕を想い描いて、『〔自説は〕真理である。〔他説は〕虚偽である』と、二つの法(見解)を言います。
887  〔他者を〕軽侮して見る者は、さらには、これら、諸々の見られたものと諸々の聞かれたものと諸々の思われたもの(我執の思いで対象化され他者化した認識対象)に〔依存し〕、あるいは、諸々の戒や掟(執着の対象に成り下がった宗教的行為)に依存して、〔他者を〕嘲笑しつつ、諸々の〔断定的〕結論(自己顕示の道具としての主義・主張)に立脚して、しかして、『他者は愚者である。智者ではない』と言います。
888  〔彼は〕他者を『愚者である』と決め付けるが、まさしく、それによって、しかして、自己を『智者である』と言います。自己によって、自ら、『智者である』〔と、独善的に〕説いている彼は、まさしく、そのように〔独善的に〕説き、〔一方的に〕他者を軽侮します。
889  錯誤ある見解によって、〔自らを〕『完全である』〔と見る〕彼は、高慢〔の思い〕で驕慢した者、〔自らについて〕『完成された』と高慢する者です。まさしく、自ら、自らについて、意[こころ]で灌頂[かんじょう]している(自らを自らの手で王位に就けている)のです。なぜなら、彼にとって、その見解は、そのように、〔彼にとってだけは〕完全であるからです。
890  もし、まさに、他者の言葉によって、〔人が〕劣る者と〔成る〕なら、〔その他者〕自身も、〔別の他者の言葉によって〕共に知慧の劣る者と成ります。また〔逆に〕、もし、自ら〔自分勝手に〕、〔真の〕知に至る慧者と成るなら、誰であれ、沙門たちのうちに、愚者は存在しなくなります。
891  『これ(自説)より他の法(見解)を宣説する者たち——〔彼らは〕清浄に違背し、全一者ではない』〔と〕、まさに、このように、異教の者たちは、個々〔それぞれ〕に〔自説を〕説きます。まさに、彼らは、自らの見解にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちです。
892  〔彼らは〕『ここ(自説)だけに、清浄がある』と説きます。諸々の他の法(見解)のうちに、清浄を言いません。また、このように、個々〔それぞれ〕に〔思いが〕固着した異教の者たちは、そこに、自らの道について、断固として〔自らの正しさを〕説いているのです。
893  あるいはまた、自らの道について、断固として〔自らの正しさを〕説いている者は、どうして、ここに、他者を『愚者である』と決め付けることができましょう。彼は、まさしく、自ら、〔他者とのあいだに〕確執をもたらすでありましょう——他者を、清浄ならざる法(見解)の愚者と説きつつ。
894  〔断定的〕結論に立拠して、自ら、〔独善的に〕思い量って、その上で、彼は、世において、〔無益な〕論争へと至るのです。〔しかしながら〕一切の〔断定的〕結論を捨てて、人は、世において、〔一切にたいし〕確執を為さないのです」〔と〕。

 第十三経 大きなまとまり

895  〔世尊は言った〕「誰であれ、これらの者たち——〔各自の〕見解に固着しながら、『これ(自説)だけが、真理である』と〔独善的に〕論争する者たち——彼らは、まさしく、〔その〕全てが、〔他者からの〕非難を招き寄せます。しかしてまた、そこに、〔一部の〕賞賛を得るにしても。
896  まさに、この〔賞賛〕は、僅かです。〔心の〕静けさ〔を得る〕には、十分ではありません。〔わたしは〕論争の結果を、〔非難と賞賛の〕二者〔だけ〕と説きます。また、このことを見て、無論争の境地を平安と観ている者は、〔無益な〕論争はしないものなのです。
897  何であれ、これら、諸々の凡俗なる主義(世俗:通念化した特定の世界観)は、まさしく、これらの全てに、知ある者は近づかないのです。見られたものと聞かれたものについて愛着〔の思い〕を為さずにいる者が、〔特定の見解に〕近づかない彼が、どうして、〔特定の見解に〕近づく者のところへと行けましょう。
898  〔与えられた〕戒を最上とし、〔守るべき〕掟を受持して、〔特定の宗教的行為に〕奉仕している者たちは、〔形だけの〕自制によって、清浄を言います。『この〔世において〕こそ、〔わたしたちは〕学ぶべきだ。しかして、〔いまここにこそ〕清浄は存すべきだ』〔などと、自らを〕『智者である』〔と〕説きつつ、〔結局は、迷いの〕生存へと連れて行かれたのです。
899  もし、戒や掟から離れた者と成るなら、彼は、〔為すべき宗教的〕行為(業)を失って、動揺します。彼は、〔皮肉にも、彼の言葉のとおり〕この〔世において〕清浄を渇望し、切望します——家から離れ、〔そのうえ、共に旅する〕隊商から捨てられた者のように。
900  あるいはまた、一切の戒や掟を捨てて、さらには、罪を有するものも罪なきものも、この、〔宗教的〕行為を〔捨てて〕、『〔これは〕清浄、〔あれは〕清浄ならざる』と切望せずにいる者は、〔一切の執着を〕離れた者となり、寂静について〔さえも〕執持せずして、行じおこなうでありましょう。
901  あるいは、苦行に依存して、〔排除の対象として〕忌避されたものを、しかして、あるいはまた、見られたものを、あるいは、聞かれたものを、あるいは、思われたものを、種々なる〔迷いの〕生存にたいする渇愛〔の思い〕から離れられない者たちは、声高に清浄と唱えます。
902  〔何ものかを〕切望している者には、まさに、諸々の渇望されたもの(欲望の対象)があります。さらにまた、諸々の想い描かれたもの(妄想)にたいする動揺があります。彼に、この〔世において〕、死滅と再生〔の両者〕が存在しないなら、彼は、何に動揺するというのでしょう。また、どこに、〔何を〕渇望するというのでしょう」〔と〕。
903  〔対話者が尋ねた〕「或る者たちが、〔自らの〕法(見解)を『最高である』と言うなら、いっぽうで、他者たちは、まさしく、その〔同じ法〕を『劣る』と言います。いったい、これらの者たちの、どの論が、真理なのですか。まさに、これらの者たちは、まさしく、〔その〕全てが、〔自らについて〕『智者である』〔と〕説いています」〔と〕。
904  〔世尊は答えた〕「まさに、〔彼らは〕自らの法(見解)を、完成されたものと言い、いっぽうで、他者の法(見解)を、劣るものと言います。また、このように、〔自らの法に〕執持して〔互いに〕論争し、互いに自らの〔各自の〕主義(世俗:通念化した特定の世界観)を、真理と言います。
905  もし、他者から誹られたことで、〔或る法が〕劣るものと〔成る〕なら、諸々の法(見解)のうちで、勝るものは、何であれ、存在しないでありましょう。なぜなら、〔彼らは〕個々〔それぞれ〕に、自ら〔の法〕について、断固として〔自らの正しさを〕説きつつ、他者の法(見解)を、『劣っている』と説くからです。
906  また、いっぽうで、〔彼らが〕諸々の自らの道を賞賛するように、まさしく、そのように、諸々の自らの法(見解)にたいする〔個々それぞれの〕供養(信奉)があるなら、まさしく、全ての論が、まさしく、そのように、〔賞賛されるものと〕成りましょう。なぜなら、彼らにとって〔自己の論は〕、まさしく、各自それぞれに清浄であるからです。
907  〔真の〕婆羅門(人格完成者)には、他者に導かれるということ〔自体〕が存在しないのです。諸々の法(もの・こと)のうちに、〔執着の対象として〕執持されたもの(悪しき法)を、〔正しく〕判別するでありましょう。それゆえに、〔彼は〕諸々の論争を超克した者となります。なぜなら、〔彼は〕他者の法(見解)を『勝る』と見ないからです。
908  『この〔清浄の境地〕を、まさしく、そのとおりに、〔わたしは〕知り、見る』〔などと、受け売りの〕見解によって、或る者たちは、〔外に見られた形だけの〕清浄を盲信します。もし、〔他者である彼が〕見たとして、そのことが、〔あなた〕自身にとって、まさに、何になるというのでしょう。〔道を〕外れて、〔彼らは〕他のもの(受け売りの見解)によって、清浄を説くのです。
909  〔貪欲の思いに眩まされて〕見ている人は、名前と形態(名色:現象世界)を〔『常住である』と〕見ます。あるいは、〔そのように〕見て、まさしく、それら(名前と形態)を〔『常住である』と〕了知するでありましょう。〔迷える者は〕欲するままに、多くを見よ——あるいは、少なくを。なぜなら、〔真の〕智者たちは、それ(誤ったものの見方)によって、清浄を説かないからです。
910  〔特定の見解に〕固着して説く者は、まさに、〔真の〕清浄へと導く者ではありません。〔執着の対象として〕想い描かれた〔特定の〕見解を偏重している者です。その〔見解〕に依存する者は、そこにおいて、〔その見解を〕『美しい(価値がある)』と〔独善的に〕説いているのです。〔自己だけの〕清浄を説く者として、彼は、そこにおいて、そのとおり、〔彼だけの清浄を〕見たのです。
911  〔真の〕婆羅門は、〔虚構の〕名称(概念)に〔近づかず〕(名付けを離れた存在となる)、〔計測され概念化した〕時間に近づきません(輪廻しない・妄想しない)。見解に走り行く者ではなく、また、知識の眷属(知識に結縛された者)でもありません。そして、彼は、諸々の凡俗なる主義(世俗:通念化した特定の世界観)を知って、〔それらを〕放捨します——他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持しているのですが。
912  牟尼(沈黙の聖者)は、この世において、諸々の拘束を捨てて、諸々の論争が生じても、〔特定の〕党派に走り行く者ではありません。彼は、寂静ならざる者たちのなかにいながら寂静で、〔諸々の主義や主張を〕放捨していて、〔特定の見解を〕執持することがありません——他者たちは、〔各自の見解に、各人各様に〕執持しているのですが。
913  過去の諸々の煩悩を捨てて、諸々の新しい〔煩悩〕を作らずにいる者——〔彼は〕欲〔の思い〕に行く者ではありません。また、〔特定の見解に〕固着して説く者でもありません。彼は、諸々の悪しき見解から解き放たれた、〔真の〕慧者です。自己を難じることなき者は、世において、〔何ものにも〕汚されません。
914  あるいは、見られたもの、あるいは、聞かれたものと思われたもの、何であれ、彼は、一切の諸法(もの・こと)にたいし、敵対という有り方を離れています。〔生の〕重荷を降ろした彼は、牟尼であり、〔生の〕束縛を離れた者です。〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)のうちになく、〔さりとて、まったくの〕滅止ではなく、〔何ものも〕切望しません」〔と〕。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 第十四経 迅速

915  〔対話者が尋ねた〕「太陽の眷属にして偉大な聖賢である、あなた(ブッダ)に、遠離について、そして、寂静の境地について、尋ねます。比丘は、どのように見て、涅槃に到達するのですか——何であれ、世において、執取することなく」〔と〕。
916  世尊は〔答えた〕「虚構(戯論:分別妄想)の名称(世界認識の道具として虚構された概念)の根元を、『〔わたしは〕存在する』という〔我執の〕一切を、智慮によって、破壊するように。何であれ、内に、諸々の渇愛〔の思い〕があるなら、それらを取り除くため、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。
917  内に、しかして、あるいはまた、外に、何であれ、法(もの・こと)を〔あるがままに〕証知するように。〔ただし〕それによって、強がり(力の誇示)を為さないように。なぜなら、それは、〔高慢の思いは〕正しくある者たちの説く、寂滅〔の境地、すなわち、涅槃〕ではないからです。
918  それによって、〔他者より〕『より勝る』〔と〕思わないように。『より劣る』〔と〕、しかして、あるいはまた、『等しい』〔と思わないように〕。〔自己について〕無数の形態で尋ねられても、自己について〔あれこれと〕想い描くことなく、〔自己を〕安立するように(自己を執着の対象として妄想しない)。
919  比丘は、内こそを、寂止するように。他のものから〔生起した、虚妄の〕寂静を求めないように。内に寂静なる者に、〔執着の対象として〕執取されたものは存在しません。あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、どうして、ありましょう。
920  海の中では波が立たず、〔全てが〕安立して有るように、このように、安立し、不動の者として存するように。比丘は、どこにおいても、増長〔の思い〕を為さないように」と。
921  〔対話者が尋ねた〕「開かれた眼[まなこ]の方よ、〔あなたは〕述べ伝えてくれました——自ら体現した、危難を取り除く法(教え)を。あなたに、幸せ〔有れ〕。〔幸いなる人よ、どうか、わたしに〕道を説いてください。戒め(波羅提木叉:戒律条項)を〔説いてください〕。しかして、あるいはまた、〔心の〕統一(定:三昧の境地)を〔説いてください〕」〔と〕。
922  〔世尊は答えた〕「諸々の眼〔で見られたもの〕による〔心の〕動転が、まさしく、存さないように(何を見ても心を動かさない)。村の言葉(卑俗な話)から、耳を遠ざけるように。また、味について、貪り求めないように。そして、世において、何であれ、わがものと〔錯視〕しないように。
923  〔病いに〕罹り〔飢えに〕襲われた者として存するとき、比丘は、どこにおいても、嘆き悲しみ〔の思い〕を為さないように。また、〔迷いの〕生存を渇望しないように。そして、諸々の恐ろしいことに動揺しないように。
924  しかして、諸々の食べ物や諸々の飲み物を〔得ても〕、しかしてまた、諸々の固形の食料や諸々の衣[ころも]を得ても、蓄積[たくわえ]を為さないように。また、それらを得ないでいても、思い悩まないように。
925  瞑想者は、〔物欲しそうに〕足を運ぶ者(必要以上の施しを望む強欲の者)として存さないように。悔い〔の思い〕を離れるように。〔常に気づきを〕怠らないように。しかして、比丘は、騒音の少ない諸々の坐〔所〕と諸々の臥〔所〕に住するように。
926  眠りを多く為さないように。熱情ある者として、〔眠ることなく〕起きていることに慣れ親しむように。倦怠、幻想、笑話、遊興、淫欲を、〔身を〕飾り立てることと共に、捨て去るように。
927  魔術、夢〔占い〕、特相〔占い〕、しかしてまた、星〔占い〕に関わらないように。また、わたしにしたがう者は、〔動物の〕叫び声〔による占い〕、懐妊術、医術に親しまないように。
928  〔他者の〕非難にたいし、動揺しないように。比丘は、〔他者から〕賞賛されて、傲慢にならないように。物惜しみ〔の心〕と共にある貪り〔の思い〕を〔除くように〕。〔他者への〕怒りと中傷〔の思い〕を除くように。
929  〔生活を〕売買[うりかい]に立脚しないように。比丘は、どこにおいても、非難〔の言葉〕を為さないように。また、村において、〔在家者たちと〕交際しないように。利得(行乞の施物)を欲して、人と話をしないように。
930  また、比丘は、自慢する者として存さないように。そして、放埒[でまかせ]の言葉を語らないように。尊大に学ばないように。争議[ののしりあい]の言葉を発しないように。
931  虚偽の言葉に導かれないように。正知の者は、諸々の狡猾[あこぎ]なことを為さないように。しかして、〔相手の〕寿命によって、知識によって、戒や掟によって、他者を軽んじないように。
932  種々の言葉ある者たちや〔迷える〕沙門たちの、多くの〔悪しき〕言葉を聞いて、傷つけられた〔比丘〕は、彼らにたいし、粗暴〔の言葉〕でもって言い返さないように。なぜなら、正しくある者たちは、〔他者にたいし〕敵対〔の思い〕を為さないからです。
933  また、この法(教え)を了知して、比丘は、〔法を、正しく〕弁別している者として、常に気づきある者として、〔怠ることなく〕学ぶように。寂滅〔の境地、すなわち、涅槃こそ〕を、『〔真の〕寂静である』と知って、ゴータマ(ブッダ)の教えにおいて怠らないように。
934  まさに、彼(ブッダ)は、〔自己を〕征服する者。〔他者に〕征服される者ではありません。〔彼は〕自ら体現した、伝え聞きでない、〔真実の〕法(真理)を見たのです。それゆえに、まさに、世尊である彼の教えにおいて、〔気づきを〕怠ることなく、常に〔彼を〕礼拝しながら、〔彼に〕学ぶように」〔と〕。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 第十五経 棒を取ること

935  〔対話者に、世尊は答えた〕「〔人を傷つける目的で〕棒を取ることから、恐怖が生まれました。見よ——確執ある人を。わたしが〔世の苦しみを〕畏怖したとおりに、〔まさにその〕畏怖〔の思い〕を、〔あなたに〕述べ伝えましょう。
936  水少なきところの魚たちのように震えおののいている人々を見て、互いに他の者たちと反対〔し合い、反目し合う〕者たちを見て、恐怖〔の思い〕が、わたしを侵しました。
937  世〔界〕は、どこも皆、真髄なく〔常住ならざるもの〕。一切の方角は、動揺し〔常住ならざるもの〕。自己の居所を求めつつ、〔苦しみに〕取り憑かれていないところを、〔ついに〕見ませんでした。
938  しかして、まさしく、最後には、〔互いに〕反対〔し合い、反目し合う〕者たちを見て、わたしに、満たされない〔思い〕が有りました。しかして、ここに、心を依り所とする、〔凡夫には〕見難き矢を見たのです。
939  矢に貫かれた者は、一切の方角へと走ります。まさしく、その矢を引き抜いて、〔貪りの思いで〕走らず、〔欲の激流に〕沈みません。
940  そこで、諸々の学び〔のあり方〕が、〔以下に〕随説されます。
 世における、諸々の拘束されたもの(欲望や執着の対象)——それらを追い求める者として存さないように。欲望〔の対象〕について、全てにわたり厭い離れて、自己の涅槃を学ぶように。
941  真理の者は、尊大ならず、幻想[ごまかし]なく、中傷〔の思い〕を捨てた者として存するように。怒りなき牟尼となり、貪りの悪と物欲〔の心〕を超え渡るように。
942  眠気、倦怠、〔心の〕沈滞[おちこみ]を打ち負かすように。怠り(放逸)と共に住まないように。涅槃の意ある人は、増慢〔の思い〕に安立しないように。
943  虚偽の言葉に導かれないように。形姿にたいし、愛執〔の心〕を為さないように。また、高慢〔という心のあり方〕を知り尽くすように。無理強いすること(暴力)から離れて行じおこなうように。
944  古いものを喜ばないように。新しいものに愛着〔の思い〕を為さないように。失われつつあるものを憂い悲しまないように。虚空[うつろなもの]に依存する者として存さないように。
945  〔わたしは〕貪欲〔の思い〕を、『大いなる激流』と説きます。〔欲望の〕奔流と渇望〔の思い〕を、〔欲望の〕対象(所縁:欲望の対象として想い描かれた認識対象)と〔対象の〕妄想(遍計:認識対象を欲望の対象として想い描く心の働き)を、『超え難き欲望の汚泥』〔と〕説きます。
946  牟尼は、真理から外れずして、〔真の〕婆羅門は、高き地に立ちます。彼は、一切を放棄して、まさに、彼は、『寂静者』と呼ばれます。
947  まさに、彼は、知ある者です。彼は、〔真の〕知に至る者です。法(真理)を知って、依存なき者と〔成ります〕。彼は、世において正しく振る舞う者です。この〔世において〕、誰をも羨みません。
948  この〔世において〕、諸々の欲望〔の対象〕を〔超え渡り〕、世における、超え難き執着〔の思い〕を超え渡った者——彼は、〔渇愛の〕流れを断ち、結縛なき者、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、悩みません。
949  過去にあるもの——それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
950  彼に、名前と形態(名色:現象世界)について、わがものと〔錯視〕されたもの(執着の対象)が、全く存在しないなら、しかして、〔彼は〕所有するものがないので、〔もはや、何ものにも〕憂い悲しまず、まさに、彼は、世において、〔何ものも〕失いません。
951  彼にとって、『これは、わたしのものである』という〔思いが〕、あるいはまた、『〔これは〕他者たちのものである』〔などの思いが〕、何ものも存在しない者——彼は、〔自らの心中に〕我執〔の思い〕を見い出さず、『わたしには、〔何ものも〕存在しない』と憂いません。
952  冷酷ならず、貪欲ならず、〔心が〕不動で、一切所で〔一切にたいし〕等しくあります。動揺なき者について、〔問いを〕尋ねられた者として、その福利を、〔あなたに〕説きましょう。
953  〔心が〕不動で、〔あるがままに〕識知している者には、何であれ、作為は存在しないのです。〔利己的な〕勉励から離れた彼は、一切所に平安を見ます。
954  牟尼(沈黙の聖者)は、等しい者たちのなかで〔論を説き〕ません。卑下している者たちのなかで〔論を説き〕ません。増長している者たちのなかで〔論を〕説きません。彼は、寂静の者です。物惜しみ〔の思い〕を離れた者です。〔特定の何かを、執着の対象として〕執取せず、〔排除の対象として〕放棄しません」〔と〕。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

 第十六経 サーリプッタ

955  尊者サーリプッタが〔尋ねた〕「かつてこのかた、わたしは、見たことがなく、あるいは、誰にも聞いたことがない——このように、麗しき声ある教師(ブッダ)を——兜率〔天〕からやってきた衆師たる方を。
956  眼[まなこ]ある方(ブッダ)は、天〔界〕を含む世〔の人々〕に〔はっきりと〕見えるように、一切の闇を取り除いて、まさしく、独り、〔真の〕喜悦に到達しました。
957  覚者(ブッダ)たる彼に、そのような、依存なく虚言なき方に、〔兜率天から〕やってきた衆師たる方に、この〔世における〕多くの結縛された者たちのために、問い尋ねることを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。
958  〔世俗の生活を〕忌避し、〔遠離の場所に〕慣れ親しむ比丘にとって——〔無用となり〕捨てられた坐〔所〕や木の根元、あるいは、墓場に〔慣れ親しむ比丘にとって〕——あるいは、山々の諸々の洞窟にある〔比丘にとって〕——
959  諸々の高下の臥〔所〕には、そこには、どれだけの恐ろしいことがあるのですか。比丘は、音のしない臥坐〔所〕において、それら〔の恐ろしいこと〕によって〔心が〕動揺しないものなのです。
960  不死の地(涅槃)に赴きつつある者にとって、世において、どれだけの危難があるのですか。比丘は、辺境の臥坐〔所〕において、それら〔の危難〕を征服するものなのです。
961  彼の、諸々の言葉の用途(言葉の用い方)は、どのように存するべきですか。彼の、諸々の境涯(行為のあり方)は、この〔世において〕、どのように存するべきですか。自己を精励する(全身全霊を挙げて刻苦精励する)比丘の、諸々の戒や掟は、どのように存するべきですか。
962  〔心を〕専一にし、賢明で、気づきある彼は、どのような学びを受持して、自己の垢を取り払うのですか——鍛冶屋が銀の〔垢を取り除く〕ように」と。
963  世尊は〔答えた〕「サーリプッタよ、〔世俗の生活を〕忌避しながら、〔無用となり〕捨てられた坐〔所〕と臥〔所〕に慣れ親しみつつ、正覚を欲する者にとって、もし、この、平穏〔の境地〕があるなら、法(真理)のままなるとおりに、それを、あなたに、〔わたしが〕覚知しているとおりに言示しましょう。
964  慧者たる気づきの比丘は、〔苦しみの〕完全なる終極[おわり]〔の道〕を歩む者たる彼は、五つの恐怖に恐怖しないように。〔すなわち〕諸々の虻と蛾の〔恐怖〕、諸々の蛇の〔恐怖〕、諸々の人間と接触することの〔恐怖〕、諸々の四足〔の動物〕の〔恐怖〕です。
965  また、他の法(教え)にしたがう者(異教徒)たちを畏怖しないように。また、彼らの〔有し、与える〕多くの恐ろしいことを見て〔その愚を知り〕、しかして、善を求める者は、他の諸々の危難を征服するように。
966  病いに罹り、飢えに襲われても、暑さ寒さを耐え忍ぶように。家なき者たる彼は、それら〔の危難〕に、多種多様に襲われても、〔道心〕堅固に努力して、精進を為すように。
967  盗みを為さないように。虚偽を語らないように。動くものと動かないものたち(一切の生類)にたいし、慈愛〔の心〕で接するように。意[こころ]の乱れを識知するなら、〔それを〕『黒き者(悪魔)の徒である』と、取り除くように。
968  憤怒と増慢の支配に赴かないように。また、それらの根を掘り尽くして、〔自己を〕安立するように。しかしてまた、あるいは、愛しきものを、あるいは、愛しからざるものを、〔この世に〕有る者は、確実に征服するように。
969  善を喜ぶ者は、知慧を尊んで、それらの危難を除き鎮めるように。辺境の臥〔所〕にあることの不満を打ち負かすように。〔以下に述べる〕四つの嘆き悲しみの法(もの・こと)を打ち負かすように。
970  〔すなわち〕『いったい、何を食べようか。あるいは、どこで食べようか。まさに、苦しみのうちに臥した(寝苦しかった)。今日は、どこで臥そうか』〔という、四つの法を打ち負かすように〕。家なくして行く、学びの者は、これら、嘆き悲しみに導く諸々の思考〔の働き〕を取り除くように。
971  食べ物と衣とを、〔正しい〕時に得て、彼は、この〔世における〕満足の義(意味)を、量を、知るように。彼は、それら(衣食)を守り、村を〔自己を〕制して歩み、たとえ、〔村人の言葉に〕傷つけられても、粗暴の言葉を説かないように。
972  〔生類を殺さぬように注意深く〕眼を落とし、また、〔物欲しそうに〕足を運ばず、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に専念し、〔眠らずに〕多く起きている者として存するように。放捨[おのずから]〔の心〕(捨:分け隔てのない心)に努めて、自己が定められた者は、〔自己の〕考え(自説)に依存することを、悔い〔の思い〕を、断ち切るように。
973  諸々の言葉をもって叱責された、気づきある者は、〔その言葉を〕喜ぶように。梵行(禁欲清浄行)を共にする者たちにたいする鬱屈〔の思い〕(嫉妬心)を壊し去るように。限度を超えず、〔常に〕善の言葉を放つように。〔世の〕人の〔迷える〕論という〔悪しき〕法(もの・こと)のために、〔あれこれと〕思い考えないように。
974  しかして、他に、世〔界〕には、気づきある者が、それらを取り除くために学ぶであろう、五つの塵があります。〔すなわち〕諸々の形態(色:眼の対象)、諸々の音声(声:耳の対象)、さらには、諸々の味わい(味:舌の対象)、諸々の香り(香:鼻の対象)、諸々の接触(触:身の対象)にたいする貪り〔の思い〕を打ち負かすように。
975  心が善く解脱した、気づきある比丘は、これらの諸法(もの・こと)にたいする欲〔の思い〕を取り除くように。彼は、〔正しい〕時に正しく法(もの・こと)を考察する者、彼は、〔あるがままの〕事実に専一なる者、〔世の〕闇を打ち払うでありましょう」と。
 かくのごとく、世尊は〔語った〕。

第五章 彼岸へと至るもの

 第一経 序の詩偈

976  呪文の奥義に至り、無所有〔の境地〕を切望する婆羅門(バーヴァリ)は、コーサラ〔国〕の喜ばしき町から、南の道へと赴いた。
977  彼は、アッサカ〔国〕とアラカ〔国〕が接する境域、ゴーダーヴァリー〔川〕の岸辺で、落穂やら果実やら〔を採取すること〕で、住していた。
978  そのすぐ近くに、広く大きな村も有った。その〔村〕から生まれた収益で、〔彼は〕大いなる祭祀を営んだ。
979  〔彼は〕大いなる祭祀を執り行なって、ふたたび、草庵に入った。そこに帰り戻ったところに、他の婆羅門がやってきた。
980  足が傷つき、〔喉が〕渇き、歯は泥だらけで、頭は塵まみれの、その〔婆羅門〕は、しかして、彼のところに近しく赴いて、五百〔金〕を乞う。
981  この〔ような姿の〕彼を見て、バーヴァリ(人名)は、坐〔所〕に招き入れた。〔体調が〕楽であるか、そして、〔具合が〕善いかを尋ね、この言葉を説いた。
982  〔バーヴァリは言った〕「まさに、わたしのもので、〔あなたに〕施されるべき法(もの・こと)は、〔その〕全てが、わたしによって捨て去られました(他に施した)。梵(婆羅門)よ、わたしを許してください。わたしには、五百〔金〕は存在しないのです」〔と〕。
983  〔婆羅門が答えた〕「もし、わたしが乞うているのに、貴様が施さないというのなら、〔今から〕第七の日には、おまえの頭は、七様に裂けてしまえ」〔と〕
984  虚言者のその〔婆羅門〕は、〔呪いの〕準備をして、〔このような〕恐ろしいことを述べ伝えた。バーヴァリは、彼の、その言葉を聞いて、苦悩の者と成った。
985  食もなく、憂いの矢に射抜かれた〔バーヴァリ〕は、打ち萎れ、しかしてまた、このような心では、瞑想(禅・静慮:禅定の境地)にあっても、意[こころ]は喜ばない。
986  恐れわななく苦悩の者を見て、〔彼の〕義(利益)を欲する天〔の神〕は、バーヴァリのところに近しく赴いて、この言葉を説いた。
987  〔天の神は言った〕「彼は、頭のことを覚知してません。彼は、財を義(目的)とする虚言者[くわせもの]です。彼には、頭について、あるいは、頭が落ちることについて、知識は見い出されません」〔と〕。
988  〔バーヴァリが尋ねた〕「それでは、尊き方(神)は、知っておられます。〔問いを〕尋ねられた者として、それを、頭と頭が落ちることを、わたしに告げ知らせてください。あなたの、その言葉を聞きましょう」〔と〕。
989  〔天の神は答えた〕「わたしもまた、これを知りません。わたしには、ここには、知識は見い出されません。頭と頭が落ちることは、まさに、これは、〔法を究めた〕勝者たちの見るところです」〔と〕。
990  〔バーヴァリが尋ねた〕「それでは、しかして、誰が、この、大地の圏域において、頭と頭が落ちることを知っているのですか。天〔の神〕よ、それを、わたしに告げ知らせてください」〔と〕。
991  〔天の神は答えた〕「カピラヴァットゥ(地名)の町から出家された、世の導き手がおられます。オッカーカ王(甘蔗王:古代の大王)の後裔にしてサキャ(釈迦)〔族〕の子である、光の作り手がおられます。
992  婆羅門よ、まさに、その方は、正覚者です。一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方です。一切を証知する力を得た方です。一切諸法(現象世界)について眼ある方です。一切諸法(現象世界)の滅尽を得た方です。依存〔の思い〕の消滅〔という境地〕における解脱者です。
993  その方は、覚者です。世尊です。眼ある方は、世において、法(真理)を示します。あなたは、行って、それ(頭と頭が落ちること)を尋ねなさい。その方は、あなたに、それを説き示すでありましょう」〔と〕。
994  「正覚者」という言葉を聞いて、バーヴァリは、こころ躍る者と成った。存する彼の憂いは些細なものとなり、しかして、〔彼は〕広大なる喜びを得た。
995  わが意を得て、こころ躍る者となり、感嘆〔の思い〕が生まれた彼、バーヴァリは、彼(正覚者)について、天〔の神〕に尋ねる。
〔バーヴァリが尋ねた〕「どこの村に、あるいはまた、町に、あるいは、どこの地方に、世の主(正覚者)はおられるのですか。そこに行って、正覚者に、最上の二足者に、〔わたしたちは〕礼拝したいのです」〔と〕。
996  〔天の神は答えた〕「コーサラ〔国〕の都サーヴァッティ(舎衛城)に、勝者はおられます。多き知慧ある方です。優れた、広き思慮ある方です。その方は、サキャ〔族〕の子で、〔人としての〕重荷を離れ、煩悩なく、〔頭と〕頭が落ちることを知る、人のなかの雄牛です」〔と〕。
997  それから、〔バーヴァリは〕呪文の奥義に至る婆羅門たる〔彼の〕弟子たちに呼びかけた。
〔バーヴァリは言った〕「来れ、学徒たちよ、〔わたしは〕告げ知らせるであろう。わたしの言葉を聞け。
998  その方が一度ならず世に出現すること、これは、得難きことだ。その方が、今日、世に生起した。『正覚者』として〔世に〕聞こえた方だ。すみやかに、サーヴァッティに行って、最上の二足者に相見[まみ]えよ」〔と〕。
999  〔学徒たちが尋ねた〕「婆羅門よ、それでは、〔わたしたちは〕どのようにして、〔その方を〕見て、『覚者』と知りうるのでしょう。〔その方を〕知らないわたしたちに、〔見分け方を〕説いてください。わたしたちが、その方を知りうるように」〔と〕。
1000  〔バーヴァリは答えた〕「まさに、諸々の呪文(ヴェーダ聖典)に伝えられて来た、偉大なる人の諸々の特相がある。そして、三十二の完全なる〔特相〕が、順次に説かれている。
1001  その方の四肢[からだ]に、これらの、偉大なる人の諸々の特相が有るなら、その方の赴く所は、二つだけである。第三は、まさに、見い出されない。
1002  もし、家に住み止[とど]まるなら、この大地を征圧するであろう。棒(刑罰)によらず、刃(武力)によらず、法(正義)によって統治する。
1003  また、もし、その方が、家から家なきへと出家するなら、〔迷妄の〕覆[おおい]が開かれた正覚者にして阿羅漢(人格完成者)たる、無上なる者と成る。
1004  〔わたしの〕出生、氏姓と、特相、〔わたしが通じている〕諸々の呪文(ヴェーダ聖典)、〔わたしの〕弟子たち、さらには、他に、頭と頭が落ちることを、〔言葉に出さず〕意によってのみ、問い尋ねよ。
1005  〔その方が〕妨げなく見る覚者として〔世に〕有るなら、意[こころ]によって尋ねられた諸々の問いに、言葉でもって答えるであろう」〔と〕。
1006  バーヴァリの言葉を聞いて、弟子である十六の婆羅門たち、〔すなわち〕アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、そして、メッタグー——
1007  ドータカ、ウパシーヴァと、ナンダと、そして、ヘーマカ、トーデイヤとカッパの両者、賢者たるジャトゥカンニと——
1008  バドラーヴダ、ウダヤと、さらには、ポーサーラ婆羅門と、思慮あるモーガラージャンと、偉大なる聖賢のピンギヤと——
1009  〔彼らの〕全ては、各自が衆師たる者たちであり、一切世〔界〕に〔名の〕聞こえた者たちである。瞑想(禅・静慮:禅定の境地)に喜びある瞑想者たちであり、過去(前世)〔に為した善き行為〕の残り香(薫習:過去の業の潜勢力)を香らせた慧者たちである。
1010  〔彼らは〕バーヴァリを拝して、そして、彼にたいし右回り〔の礼〕を為して、結髪と皮衣を〔身に〕付け、全てが北に向かって出発した。
1011  それから、アラカ〔国〕のパティッターナへ、昔の〔都〕マーヒッサティへ、そしてまた、ウッジェーニーへ、ゴーナッダへ、ヴェーディサへ、ヴァナサと名づけられたところへ——
1012  そしてまた、コーサンビーへ、サーケータへ、そして、最上の町サーヴァッティ(舎衛城)へ、セータヴヤへ、カピラヴァットゥへ、そして、クシナーラーの都へ——
1013  そして、パーヴァーへ、ボーガの城市へ、ヴェーサーリーへ、マガダの町へ、そして、意[こころ]が喜びとし、喜ぶべきところ、〔美しき〕パーサーナカ廟へと〔歩を進めた〕。
1014  〔喉が〕渇いた者が冷たい水を〔求める〕ように、商人が大きな利得を〔求める〕ように、炎暑に焼かれた者が影を〔求める〕ように、〔彼らは〕大急ぎで、山に登った。
1015  比丘の僧団の尊ぶところである世尊(ブッダ)は、しかして、その時、比丘たちに、法(真理)を示す——獅子が、林のなかで吼えるように。
1016  アジタは見た——光を放ち、太陽のような正覚者(ブッダ)を——十五〔夜〕の月のように、円満成就〔の境地〕に至り着いた者を。
1017  しかしてまた、彼の四肢[からだ]に、円満成就の特徴(偉大なる人の三十二相)を見て、一方に立ち、喜びあふれて、諸々の意による問いを尋ねた。
1018  〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師の〕生まれに関して、説いてください。氏姓を説いてください。有している特相を〔説いてください〕。諸々の呪文(ヴェーダ聖典)における最奥義〔に到達しているか〕を説いてください。婆羅門(バーヴァリ)は、どれだけ〔の数〕の者に教えていますか」〔と〕。
1019  〔世尊は答えた〕「百二十年の寿命、そして、彼の氏姓はバーヴァリ、彼の四肢[からだ]には三つの特相があります。三つのヴェーダ(ヴェーダ聖典)の奥義に至る者です。
1020  〔偉大なる人の〕諸々の特相を、そして、諸々の古伝を、語彙を含み活用を含めて、五百〔の弟子〕に教えます。自らの法(教え)における最奥義に至った者です」〔と〕。
1021  〔アジタが尋ねた〕「最上の人よ、渇愛を断つ方よ、バーヴァリの諸々の特相についての〔詳しい〕考究を明らかにしてください。わたしたちに、疑い〔の思い〕が有ってはなりません」〔と〕。
1022  〔世尊は答えた〕「〔バーヴァリは〕顔を舌で覆い隠します。彼の眉間には白毫があります。覆蔵された衣[ころも]の陰部(陰馬蔵)があります。学徒よ、このように知りなさい」〔と〕。
1023  まさに、何であれ、問いを〔言葉で〕聞かずに〔意で〕聞いて、〔正しく〕問いが説き示されたので、全ての人は、感嘆〔の思い〕が生まれ、〔世尊にたいし〕合掌を為して、〔このように〕考える。
1024  〔すなわち〕「あるいは、天〔の神〕が、あるいは、梵〔天〕(ブラフマー神)が、あるいはまた、スジャーの夫インダ(インドラ神)が、いったい、誰が、意によって、それらの問いを〔世尊に〕尋ねたのだろう。これを、誰に、〔世尊は〕答えるのだろう」〔と〕。
1025  〔アジタが尋ねた〕「〔わたしたちの師である〕バーヴァリは、頭と頭が落ちることを遍く尋ねます。世尊よ、それを説き示してください。聖賢よ、わたしたちの疑いを取り除いてください」〔と〕。
1026  〔世尊は答えた〕「『無明が、頭である』と知りなさい。明知が、頭(無明)を落とします。諸々の信と気づき(念)と〔心の〕統一(定:三昧の境地)に、〔涅槃の境地への〕欲〔の思い〕(意欲)と〔揺るぎない〕精進〔の心〕に、〔明知は〕結び付いています」〔と〕。
1027  そののち、学徒は、大いなる感嘆〔の思い〕で〔身を〕堅くし、皮衣を一方の肩に掛けて、〔世尊の両の〕足に、頭をもって、ひれ伏した。
1028  〔アジタが言った〕「尊師よ、眼[まなこ]ある方よ、バーヴァリ婆羅門は、弟子たちと共に、心が躍り上がり、意[こころ]楽しく、尊き方の〔両の〕足を敬拝します」〔と〕。
1029  〔世尊は答えた〕「バーヴァリ婆羅門は、弟子たちと共に、楽しみの者と成れ。そしてまた、あなたも、楽しみの者と成りなさい。学徒よ、長く生きよ。
1030  では、バーヴァリの、あるいは、あなたの、全ての者たちの、一切の疑惑にたいし、〔問い尋ねの〕機会を作りましたから、何であれ、〔あなたたちが〕意に求めるところ、〔それを〕尋ねなさい」〔と〕。
1031  正覚者(ブッダ)に〔問い尋ねの〕機会を作ってもらった者は、坐して、合掌し、そこにおいて、アジタは、第一の問いを、如来に尋ねた。

 第二経 アジタ学徒の問い(一)

1032  尊者アジタが〔尋ねた〕「世〔界〕は、まさに、何によって覆われているのですか。まさに、何によって光り輝かないのですか。〔あなたは〕何を、それ(世界)にとっての汚れと説くのですか。いったい、何を、それ(世界)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕大いなる恐怖と〔説くのですか〕」と。
1033  世尊は〔答えた〕「アジタさん、世〔界〕は、無明によって覆われています。物欲〔の心〕あるがゆえに、怠り(放逸)〔の心〕あるがゆえに、光り輝かないのです。〔わたしは〕渇望〔の思い〕を、〔世界にとっての〕汚れと説きます。苦しみを、それ(世界)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕大いなる恐怖と〔説きます〕」と。
1034  尊者アジタが〔尋ねた〕「諸々の〔欲望の〕流れは、一切所に流れ行きます。何が、諸々の〔欲望の〕流れの防護となるのですか。諸々の〔欲望の〕流れの統御となるものを説いてください。何によって、諸々の〔欲望の〕流れは塞がれますか」と。
1035  世尊は〔答えた〕「アジタさん、世〔界〕には、諸々の〔欲望の〕流れがあります。気づき(念)が、それら〔の流れ〕の防護となります。諸々の〔欲望の〕流れの統御となるものを説きましょう。知慧(般若・慧)によって、これら〔の流れ〕は塞がれます」と。
1036  尊者アジタが〔尋ねた〕「まさしく、しかして、知慧が〔諸々の欲望の流れの統御となり〕、さらには、気づきが〔諸々の欲望の流れの防護となるなら〕、では、尊師よ、〔つぎは〕名前と形態(名色:現象世界)についてです。〔問いを〕尋ねられた者として、これを、わたしに説いてください。どこにおいて、この〔名前と形態〕は消滅するのですか」と。
1037  〔世尊は答えた〕「アジタさん、〔あなたが〕尋ねたこの問いについて、それを、あなたに説きましょう。名前(名)と形態(色)とが残りなく消滅する所——識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)の止滅によって、ここに、この〔名前と形態〕は消滅します」〔と〕。
1038  〔尊者アジタが尋ねた〕「この〔世には〕、あるいは、法(真理)を究めた者たちが、あるいは、多くの学びの者たちがいます。尊師よ、〔問いを〕尋ねられた賢明なる者として、彼らの振る舞い(正しい行為のあり方)について、わたしに説いてください」〔と〕。
1039  〔世尊は答えた〕「諸々の欲望〔の対象〕を貪り求めないように。意[こころ]に濁りなき者として存するように。比丘は、一切諸法(現象世界)に気づきある智者として、遍歴遊行するように」〔と〕。

 第三経 ティッサ・メッテイヤ学徒の問い(二)

1040  尊者ティッサ・メッテイヤが〔尋ねた〕「この世において、〔常に〕満ち足りている者は、誰ですか。誰に、諸々の動揺〔の思い〕が存在しないのですか。両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、〔何ものにも〕汚されない、智慮ある者は、誰ですか。誰を、『偉大なる人である』と〔あなたは〕説くのですか。この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのは、誰ですか」と。
1041  世尊は〔答えた〕「メッテイヤさん、諸々の欲望〔の対象〕について、梵行ある者(禁欲清浄行の実践者)——渇愛を離れた、常に気づきある者——〔法を〕究めて、涅槃に到達した比丘——彼に、諸々の動揺〔の思い〕は存在しません。
1042  彼は、両極を〔あるがままに〕証知して、〔その〕中間において、〔何ものにも〕汚されない、智慮ある者です。彼を、『偉大なる人である』と〔わたしは〕説きます。彼は、この〔世において〕、貪愛〔の思い〕を超え行ったのです」と。

 第四経 プンナカ学徒の問い(三)

1043  尊者プンナカが〔尋ねた〕「動揺することがなく、〔ものごとの〕根元を見る方(ブッダ)への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、何に依存して、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1044  世尊は〔答えた〕「プンナカさん、誰であれ、これらの、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちが、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのは、プンナカさん、〔まさに、いま〕この場で〔彼ら自身が陥っている、迷いの〕状態を〔自ら〕願い求めている者たちが、〔自らの〕老に依存して、〔意味なき〕祭祀を営んできたのです」と。
1045  尊者プンナカが〔尋ねた〕「誰であれ、これらの、聖賢たち、人間たち、士族たち、婆羅門たちは、天〔の神々〕たちへの祭祀を、この世において、多く営んできたのですが、尊師世尊よ、はたして、いったい、祭祀の道に怠りなき彼らは、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1046  世尊は〔答えた〕「プンナカさん、〔彼らは〕願望し、賛嘆し、渇望し、供犠をします。〔しかしながら、実のところは〕利得〔という目的〕を縁として、欲望〔の対象〕を渇望します。彼らは、祭祀という束縛ある者たちであり、〔迷いの〕生存(有)にたいする貪り〔の思い〕に染まった者たちであり、『生と老を超えてはいない』と〔わたしは〕説きます」と。
1047  尊者プンナカが〔尋ねた〕「尊師よ、もし、彼らが、祭祀という束縛ある者たちであり、諸々の祭祀によって生と老とを超えていないなら、尊師よ、それでは、しかして、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1048  世尊は〔答えた〕「プンナカさん、世における彼此[ひし]〔のあり方〕を究めて、彼に、動揺〔の思い〕が、世において、どこにも存在しないなら、寂静にして怒りを離れ、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と〔わたしは〕説きます」と。

 第五経 メッタグー学徒の問い(四)

1049  尊者メッタグーが〔尋ねた〕「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。〔わたしは〕あなたを、〔真の〕知に至る方と、自己を修めた方と、思うのです。何であれ、世における、無数なる形態の、これらの苦しみは、いったい、どこから、生まれ来たのですか」と。
1050  世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、まさに、苦しみの起源を、〔あなたは〕わたしに尋ねました。それを、あなたに、〔わたしが〕覚知しているとおりに言示しましょう。何であれ、世における、無数なる形態の、〔これらの〕苦しみは、依存という縁から生起します。
1051  まさに、〔あるがままに〕知ることなく、依存〔の対象〕を作る者——愚か者は、繰り返し、苦しみへと近づき行きます。それゆえに、まさに、〔あるがままに〕知る者として、苦しみの発生の起源を観る者として、依存〔の対象〕を作らないように」と。
1052  〔尊者メッタグーが尋ねた〕「〔わたしたちが〕あなたに尋ねたことを、〔あなたは〕わたしたちに述べ伝えてくれました。〔今度は、それとは〕他のものについて、あなたに尋ねます。どうか、それを説いてください。
 慧者たちは、いったい、どのようにして、激流を超え渡るのですか。生と老を、そして、憂いと嘆きを〔超え行くのですか〕。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
1053  世尊は〔答えた〕「メッタグーさん、あなたに、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)のうちで、伝え聞きでない〔あるがままの〕法(真理)を述べ伝えましょう。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真実の法を〕」と。
1054  〔尊者メッタグーが言った〕「偉大なる聖賢よ、しかして、わたしも、その、最上の法(真理)を喜びます。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真実の法を〕」〔と〕。
1055  世尊は〔言った〕「メッタグーさん、何であれ、上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、〔あなたが〕正しく知るなら、これらにたいする喜悦〔の思い〕と固着〔の思い〕とを〔除き去って〕、〔さらには〕識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)を除き去って、〔迷いの〕生存のうちに止[とど]まらないように。
1056  このように住する者は、怠りなく〔常に〕気づきある比丘は、わがものと〔錯視〕された諸々のもの(欲望や執着の対象)を捨てて、〔あるがままに〕行じおこなう者です。知ある者は、この〔世において〕こそ、苦しみを捨て去るように。生と老を、そして、憂いと嘆きを〔超え行くように〕」と。
1057  〔尊者メッタグーが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕喜びます。ゴータマ(ブッダ)よ、依存なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。世尊よ、たしかに、まさに、〔あなたは〕苦しみを捨てました。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです。
1058  牟尼よ、あなたが、止まることなく教え諭すであろう者たち——しかして、彼らもまた、まちがいなく、苦しみを捨てるでありましょう。龍(ブッダ)よ、〔まさに〕そのあなたを、〔わたしも〕共に赴いて、礼拝します。世尊よ、まさしく、また、わたしも、〔彼ら同様〕止まることなく教え諭してください」〔と〕。
1059  〔世尊は答えた〕「無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着がなく、〔真の〕婆羅門にして〔真の〕知に至る者と〔あなたが〕証知するであろう者——たしかに、まさに、彼は、この激流を超えたのです。しかして、彼岸へと〔激流を〕超えた者は、〔心に〕鬱屈なく疑惑なき者です。
1060  また、その人は、この〔世において〕、知ある者であり、〔真の〕知に至る者です。種々なる〔迷いの〕生存にたいする、この執着を捨てて、彼は、渇愛を離れた者であり、煩悶なく願望なき者であり、『彼は、生と老を超えた』と〔わたしは〕説きます」〔と〕。

 第六経 ドータカ学徒の問い(五)

1061  尊者ドータカが〔尋ねた〕「世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください。偉大なる聖賢よ、〔わたしは〕あなたの言葉を待ち望みます。あなたの話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。
1062  世尊は〔答えた〕「ドータカさん、それなら、まさに、この〔世において〕こそ、賢明なる気づきの者として、熱く為しなさい(全身全霊をあげて気づきを実践する)。これから〔告げ知らせる、わたしの〕話を聞いて、自己の涅槃を学ぶのです」と。
1063  〔尊者ドータカが言った〕「わたしは、見ます——天〔の神々〕と人間たちの世において、〔正しく〕振る舞う、無一物の婆羅門を。一切に眼[まなこ]ある方よ、〔まさに〕そのあなたを、〔わたしは〕礼拝します。サッカ(釈迦)〔族〕の方よ、わたしを、諸々の疑惑から解き放ってください」〔と〕。
1064  〔世尊は答えた〕「ドータカさん、わたしは、誰であれ、世における疑惑者を解き放つために、赴くことはないでしょう(他者を解脱へと至らしめることはない)。しかして、最勝の法(真理)を了知している者として、このように、あなたは、〔あなた自身で〕この激流を超えるのです」〔と〕。
1065  〔尊者ドータカが言った〕「梵〔天〕(ブッダ)よ、慈悲ある者として、教えてください——わたしが識知しなければならないところの、遠離の法(教え)を。わたしが、虚空のように、〔他者に〕害を加えず、まさしく、この〔世において〕、寂静の者として、依り所なき者として、行じおこないうるように」〔と〕。
1066  世尊は〔答えた〕「ドータカさん、あなたに、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)のうちで、伝え聞きでない〔真の〕寂静を述べ伝えましょう。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真の寂静を〕」と。
1067  〔尊者ドータカが言った〕「偉大なる聖賢よ、しかして、わたしも、その、最上の寂静を喜びます。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真の寂静を〕」〔と〕。
1068  世尊は〔言った〕「ドータカさん、何であれ、上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、〔あなたが〕正しく知るもの——これを、『世における執着〔の対象〕である』と知って、種々なる生存のために、渇愛〔の思い〕を為してはなりません」と。

 第七経 ウパシーヴァ学徒の問い(六)

1069  尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)よ、わたしは、独りで、大いなる激流を、依り所なく、〔独力で〕超えることができません。一切に眼ある方よ、〔依存の〕対象(所縁)を説いてください。それを依り所にして、この激流を超えるであろう〔依存の対象を〕」と。
1070  世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、無所有〔の境地〕を見る、気づきの者となり、『〔何ものも〕存在しない』という〔思い、すなわち、無一物の境地を〕依り所にして、激流を超えなさい。諸々の欲望〔の対象〕を捨てて、諸々の言葉(論説)から離れた者となり、渇愛の滅尽を昼夜に観なさい」と。
1071  尊者ウパシーヴァが〔尋ねた〕「一切の欲望〔の対象〕にたいする貪りを離れた者、他のもの(他者・他物)を捨てて無所有〔の境地〕を依り所にした者、表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)の解脱という最高〔の解脱〕において解脱した者——いったい、彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて〔すなわち、解脱の境地において〕安立するのでしょうか」と。
1072  世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、一切の欲望〔の対象〕にたいする貪りを離れた者、他のもの(他者・他物)を捨てて無所有〔の境地〕を依り所にした者、表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)の解脱という最高〔の解脱〕において解脱した者——彼は、〔何ものも〕追い求めることなく、そこにおいて〔すなわち、解脱の境地において〕安立するでありましょう」と。
1073  〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「一切に眼ある方よ、もし、彼が、〔何ものも〕追い求めることなく、また、多くの年月を、そこにおいて安立するなら、まさしく、そこにおいて、彼は、〔欲の炎が消えた〕解脱者として、〔欲の炎なく〕冷静[こころおだやか]に存するのでしょうか。そのような類[たぐい]の者の識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)は、〔解脱後も〕有るのでしょうか」〔と〕。
1074  世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、風の勢いで飛び散った炎が滅却し去り行くと、〔もはや〕名称に近づかない(名づけようがない)ように、このように、名前と身体(名身)から解脱した牟尼(沈黙の聖者)は、滅却〔の道〕へと去り行き、〔虚構の〕名称(概念)に近づくことがありません(名付けを離れた存在となる)」と。
1075  〔尊者ウパシーヴァが尋ねた〕「その、滅却に至った者(解脱者)ですが、あるいはまた、彼は、〔もはや〕存在しないのですか。それとも、まさに、常恒であるため、無病の者(永遠不滅の存在)となるのですか。牟尼よ、どうぞ、わたしに、それを説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」〔と〕。
1076  世尊は〔答えた〕「ウパシーヴァさん、滅却に至った者(解脱者)には、量ることが〔すなわち、量るべき尺度(認識根拠)が〕存在しないのです。それによって、彼のことを〔あなたに〕説こうとしても、彼には、その〔量るべき尺度〕が存在しないのです。一切の諸法(もの・こと)が完破されたとき、一切の論の道もまた、完破されたのです」と。

 第八経 ナンダ学徒の問い(七)

1077  尊者ナンダが〔尋ねた〕「『〔この〕世には、諸々の牟尼が存在する』〔と〕、〔世の〕人たちは説きます。いったい、彼らは、このことを、どのように〔説くの〕ですか。いったい、〔彼らは〕知識を具有した者を、牟尼と説くのですか。それとも、まさに、〔正しい〕生き方を具有した者を、〔牟尼と説くのですか〕」と。
1078  〔世尊は答えた〕「ナンダさん、智者たちは、この〔世において〕、牟尼たちを、見解によって〔説か〕ず、伝承によって〔説か〕ず、知識によって説かないのです。煩悶なく願望なく、〔他者にたいし〕敵対〔の思い〕を為すことなくして行じおこなう者たち——彼らを、『牟尼(沈黙の聖者)たちである』と〔わたしは〕説きます」〔と〕。
1079  尊者ナンダが〔尋ねた〕「〔いっぽうで、わたしが知っている〕これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。尊師世尊よ、はたして、いったい、彼らが、そこにおいて、〔そのように〕行じおこなうとおりに、〔彼らは〕生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1080  世尊は〔答えた〕「ナンダさん、これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。たとえ、何であれ、彼らが、そこにおいて、〔そのように〕行じおこなうとおりに、『〔彼らは〕生と老を超えてはいない』と〔わたしは〕説きます」と。
1081  尊者ナンダが〔尋ねた〕「これらの沙門や婆羅門たちは、誰もが、〔外に〕見られたもののうちに〔清浄の境地を〕、さらには、〔他から〕聞かれたものによって清浄〔の境地〕を説きます。さらには、戒や掟によって清浄〔の境地〕を説きます。〔その他〕無数の〔外的な〕形態によって清浄〔の境地〕を説きます。牟尼よ、もし、〔彼らを〕激流を超えざる者たちと説くなら、尊師よ、それでは、しかして、誰が、天〔の神々〕と人間たちの世において、生と老とを超えたのですか。世尊よ、〔わたしは〕あなたに尋ねます。それを、わたしに説いてください」と。
1082  世尊は〔答えた〕「ナンダさん、わたしは、『全ての沙門や婆羅門たちが、生と老に覆われている』と説くのではありません。まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨てて〕、あるいは、聞かれたものと思われたものを〔捨てて〕、あるいはまた、一切の戒や掟を捨てて、さらには、一切の無数の〔外的な〕形態を捨てて、渇愛を知り尽くして煩悩なき者たち——まさに、彼らを、『激流を超えた人たちである』と〔わたしは〕説きます」と。
1083  〔尊者ナンダが言った〕「偉大なる聖賢の、この言葉を、〔わたしは〕喜びます。ゴータマ(ブッダ)よ、依存なき〔境地〕が、見事に述べ伝えられました。まさに、この〔世において〕、あるいは、見られたものを〔捨てて〕、あるいは、聞かれたものと思われたものを〔捨てて〕、あるいはまた、一切の戒や掟を捨てて、さらには、一切の無数の〔外的な〕形態を捨てて、渇愛を知り尽くして煩悩なき者たち——わたしもまた、彼らを、『激流を超えた者たちである』と説きます」〔と〕。

 第九経 ヘーマカ学徒の問い(八)

1084  尊者ヘーマカが〔言った〕「ゴータマ(ブッダ)の教え以前に、『〔これこれこういうもの〕として存していた』『〔これこれこういうもの〕と成るであろう』〔と〕、かつて、〔人々が〕わたしに説き示したことは、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔邪な〕考え(邪説)を増大させるものです。
1085  わたしは、そこに、〔いささかも〕喜ぶことはありませんでした。牟尼よ、しかして、あなたも、わたしに、渇愛の絶滅という法(教え)を告げ知らせてください。〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者が、それを知って、世における執着を超えるであろう〔真実の法を〕」と。
1086  〔世尊は答えた〕「ヘーマカさん、この〔世において〕、見られ聞かれ思われ識[し]られた、諸々の愛しい形態のものにたいする、欲〔の思い〕と貪り〔の思い〕を取り除くことが、不死なる涅槃の境地です。
1087  このことを了知して、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において涅槃に到達した、気づきある者たち——しかして、彼らは、常に寂静であり——世における執着を超えた者たちです」〔と〕。

 第十経 トーデイヤ学徒の問い(九)

1088  尊者トーデイヤが〔尋ねた〕「彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見い出されることなく、しかして、諸々の疑惑を超えた者——彼には、どのような解脱が〔存在するのですか〕」と。
1089  世尊は〔答えた〕「トーデイヤさん、彼のうちに、諸々の欲望が住みつくことなく、彼に、渇愛が見い出されることなく、しかして、諸々の疑惑を超えた者——彼には、他の解脱は〔存在し〕ないのです」と。
1090  〔尊者トーデイヤが尋ねた〕「彼は、依存なき者ですか。あるいは、願い求める者ですか。彼は、知慧ある者ですか。あるいは、知慧によって想い描く者(思量し分別する者)ですか。サッカ(釈迦)〔族〕の方よ、一切に眼ある方よ、わたしが、牟尼を識知できるように、それを、わたしに説明してください」〔と〕。
1091  〔世尊は答えた〕「彼は、依存なき者です。願い求める者ではありません。彼は、知慧ある者です。しかしながら、知慧によって想い描く者(思量し分別する者)ではありません。トーデイヤさん、また、このように、牟尼を識知しなさい——無一物で、欲望〔の対象〕と〔迷いの〕生存にたいする執着なき者と」〔と〕。

 第十一経 カッパ学徒の問い(十)

1092  尊者カッパが〔言った〕「尊師よ、大いなる恐怖を生む激流の〔まさにその〕流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を説いてください。しかして、あなたは、わたしに、洲を告げ知らせてください。他のものが存在すべくもない、このとおり〔の洲を〕」と。
1093  世尊は〔答えた〕「カッパさん、大いなる恐怖を生む激流の〔まさにその〕流れの中で立ちすくんでいる者たちのために、老と死に打ち負かされた者たちのために、〔依り所となる〕洲を、カッパさん、あなたに説きましょう。
1094  無一物にして無執取であること——これが、他のものが〔存在すべくも〕ない、〔このとおりの〕洲です。それを、老と死の完全なる滅尽を、『涅槃である』と〔わたしは〕説きます。
1095  このことを了知して、〔現に見られる〕所見の法(現法:現世)において涅槃に到達した、気づきある者たち——彼らは、悪魔の支配に従い行く者たちではありません——彼らは、悪魔の奴隷に堕す者たちではありません」と。

 第十二経 ジャトゥカンニ学徒の問い(十一)

1096  尊者ジャトゥカンニが〔言った〕「わたしは、欲なき〔あり方〕を欲する勇者(ブッダ)のことを聞いて、激流を超え行く方(ブッダ)に、欲なき〔あり方〕を問い尋ねるため、やってまいりました。〔わたしと〕生を共にする〔世の〕眼たる方よ、寂静の境地を説いてください。世尊よ、それを、わたしに、真実のとおりに説いてください。
1097  なぜなら、世尊は、光り輝く太陽が〔その〕輝きによって大地を〔征服する〕ように、諸々の欲望〔の対象〕を征服して、〔あるがままに〕振る舞うからです。広き知慧ある方よ、少なき知慧のわたしに、法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならないところの、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。
1098  世尊は〔答えた〕「ジャトゥカンニさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする貪り〔の思い〕を取り除きなさい。出離〔の境地〕を『平安である』と見て、〔執着の対象として〕執持されたものが、あるいは、〔排除の対象として〕放棄されたものが、あなたにとって、何ものも見い出されてはなりません。
1099  過去にあるもの——それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、〔その〕中間(現在)において、〔何ものも〕掴み取らないなら、〔あなたは〕寂静の者として、行じおこなうでありましょう。
1100  婆羅門よ、名前と形態(名色:現象世界)にたいする貪り〔の思い〕を離れた者には、彼には、諸々の煩悩は、全く見い出されません——それら(煩悩)によって、〔世の人々は〕死魔の支配に行き着くのですが」と。

 第十三経 バドラーヴダ学徒の問い(十二)

1101  尊者バドラーヴダが〔言った〕「家を捨て渇愛を断った動揺なき方、喜びを捨て激流を超えた解脱者、〔計測され概念化した〕時間(時計の時間・分別妄想・輪廻的あり方)を捨てる思慮深き方に、〔わたしは〕乞い願います。龍(ブッダ)の〔言葉を〕聞いて、〔ここに集いあつまった者たちは、満足して〕ここから立ち去るでありましょう。
1102  勇者よ、あなたの言葉を待ち望んでいる種々の人たちが、諸々の地方から〔ここにこうして〕集いあつまったのです。あなたは、彼らのために、どうか、〔真実の法を〕説き示してください。この法(もの・こと)は、まさに、あなたによって、そのとおり〔あるがままに〕知られたのです」と。
1103  世尊は〔答えた〕「バドラーヴダさん、一切の執取と渇愛を取り除くように。上に、下に、さらにまた、横に、〔その〕中間において、まさに、〔一切〕世〔界〕において、〔世の人々が、それぞれに〕執取するものともの——まさしく、その〔一つ一つ〕によって、人に、悪魔が従い行くのです。
1104  それゆえに、〔このことを〕覚知している、気づきある比丘は、一切世〔界〕において、何ものも執取しないでありましょう——死魔の領域において執着するこの人々を、『執取〔の対象〕に執着する者たちである』と〔あるがままに〕見ながら」と。

 第十四経 ウダヤ学徒の問い(十三)

1105  尊者ウダヤが〔言った〕「〔世俗の〕塵を離れ端座する瞑想者、為すべきことを為した煩悩なき方、一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方(ブッダ)への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。了知による解脱を、無明の破壊を、〔わたしに〕説いてください」と。
1106  世尊は〔答えた〕「ウダヤさん、諸々の欲望〔の対象〕にたいする欲〔の思い〕と諸々の失意〔の思い〕の両者を捨て去ること、そして、〔心の〕沈滞[おちこみ]を除き去ること、諸々の悔い〔の思い〕を防ぎ護ること——
1107  〔諸々の認識の対象にたいする〕放捨(捨)と気づき(念)という清浄〔の境地〕、〔あるがままの〕法(真理)という〔正しい〕考え方を先導とする〔解脱〕——〔これらを〕了知による解脱と、無明の破壊と、〔わたしは〕説きます」と。
1108  〔尊者ウダヤが尋ねた〕「いったい、何が、世の束縛なのですか。いったい、何が、それ(世)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕彷徨[さまよい]なのですか。何を捨棄することで、それ(世)にとって〔すなわち、世の人々にとって〕、『涅槃』と呼ばれるのですか」〔と〕。
1109  〔世尊は答えた〕「喜びが、世の束縛です。思考が、それ(世)にとっての〔すなわち、世の人々にとっての〕彷徨です。渇愛を捨棄することで、『涅槃』と呼ばれるのです」〔と〕。
1110  〔尊者ウダヤが尋ねた〕「どのようにして、〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者の、識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)は消滅するのですか。〔わたしたちは〕世尊に問い尋ねるため、やってまいりました。〔わたしたちは〕あなたの、その言葉を聞きたいのです」〔と〕。
1111  〔世尊は答えた〕「内も、外も、感受〔の結果〕(受:苦楽の知覚)を喜ばずにいる者——このように、〔あるがままに〕行じおこなう、気づきある者の、識別作用は消滅します」〔と〕。

 第十五経 ポーサーラ学徒の問い(十四)

1112  尊者ポーサーラが〔尋ねた〕「過去を〔過去として、あるがままに〕指し示し、動揺なく、〔一切の〕疑惑を断った方、一切諸法(現象世界)の彼岸に至る方(ブッダ)への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。
1113  実体〔というあり方〕を離れて形態を想う者(妄想によって固定され実体化された形相を捨象し、認識対象をあるがままに表象する者)、一切の身体を捨て去る者、『内も、外も、何であれ、存在しない』と見る者の知恵について、サッカ(釈迦)〔族〕の方よ、〔わたしは〕尋ねます。そのような類の者は、どのように導かれるのですか」と
1114  世尊は〔答えた〕「ポーサーラさん、一切の識別作用(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)の止住(固着・停滞)を証知している如来は、この、〔識別作用の〕安立を、解脱であり、彼の行き着く所と知るのです。
1115  無所有〔の境地〕の生起を知って、『喜びは束縛である』と〔知るのです〕。このように、このように証知して、それゆえに、そこにおいて、〔あるがままの無常を〕観るのです。〔梵行の〕完成者にして婆羅門たる彼に、この、真実[あるがまま]の知恵が〔成就するのです〕」と。

 第十六経 モーガラージャン学徒の問い(十五)

1116  尊者モーガラージャンが〔尋ねた〕「わたしは、〔かつて〕二〔度〕、サッカ(釈迦)〔族〕の方(ブッダ)に問い尋ねましたが、眼ある方(ブッダ)は、わたしに説き示してくれませんでした。しかしながら、『天の聖賢(ブッダ)は、三度目には説き示してくれる』と、わたしは聞きました。
1117  この世、他世、天〔界〕を含む梵の世〔界〕は、あなたの、福徳あるゴータマ(ブッダ)の、〔あるがままの〕見[まなざし]を証知しません。
1118  このように、崇高なる見者への問い尋ねを義(目的)として、〔わたしは〕やってまいりました。どのように、世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのですか」と。
1119  〔世尊は答えた〕「モーガラージャンさん、常に気づきある者として、世〔界〕を『空である』と観察しなさい。自己についての誤った見解を取り去って、このように、死を超え渡る者として存するように。このように、世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ないのです」〔と〕。

 第十七経 ピンギヤ学徒の問い(十六)

1120  尊者ピンギヤが〔言った〕「眼は清浄ならず、耳は平穏ならず、〔今の〕わたしは、無力で、生彩を欠き、老い朽ちた者として存しています。わたしが、中途半端なまま、迷愚の者として、消え行くことがあってはならないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならないところの、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」と。
1121  世尊は〔答えた〕「ピンギヤさん、〔気づきを〕怠る人たちは、諸々の形態〔の思い〕に悩み苦しみます。〔彼らが〕諸々の形態〔の思い〕に打ちのめされているのを見て、ピンギヤさん、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者として、さらなる〔迷いの〕生存がないように、形態〔の思い〕を捨て去りなさい」と。
1122  〔尊者ピンギヤが言った〕「四方(東西南北)、四維(四方の中間)、上に、下に——これら、十方〔世界〕で、あなたにとって、見られないもの、あるいは、聞かれ思われないものはなく、さらには、世において、識られないものは、何ものも存在しないのです。〔わたしに〕法(教え)を告げ知らせてください。わたしが識知しなければならないところの、この〔世における〕生と老の捨棄〔という法〕を」〔と〕。
1123  世尊は〔答えた〕「ピンギヤさん、渇愛〔の思い〕に囚われ、苦悩を生じ、老に打ち負かされた人間たちを見る者として、ピンギヤさん、それゆえに、あなたは、〔気づきを〕怠らない者として、さらなる〔迷いの〕生存がないように、渇愛〔の思い〕を捨て去りなさい」と。

 第十八経 十六学徒の問いの結語

1124  アジタ、ティッサ・メッテイヤ、プンナカ、そして、メッタグー、ドータカ、ウパシーヴァと、ナンダと、そして、ヘーマカ——
1125  トーデイヤとカッパの両者、賢者たるジャトゥカンニと、バドラーヴダ、ウダヤと、さらには、ポーサーラ婆羅門と、思慮あるモーガラージャンと、偉大なる聖賢のピンギヤと——
1126  これらの者たちは、覚者(ブッダ)のもとに、行ないを成就した聖賢のもとに、近づき行った。〔彼らは〕諸々の精緻なる問いを尋ねる者たちとして、最勝の覚者のもとへと近づき行った。
1127  諸々の問いを尋ねられた覚者は、真実のとおりに、彼らに説き示した。牟尼は、諸々の問いに〔正しく〕説明することで、婆羅門たちを満足させた。
1128  太陽の眷属によって、眼[まなこ]ある覚者によって、満足させられた彼らは、優れた知慧ある方の現前で、梵行(禁欲清浄行)を行じおこなった。
1129  一つ一つの問いに覚者が示したとおりに、そのとおり実践する者は、此岸から彼岸へと赴くであろう。
1130  最上の道を習い修める者は、此岸から彼岸へと赴くであろう。それは、彼岸へと至るための道であり、それゆえに、『彼岸へと至るもの』と〔呼ばれる〕。
1131  尊者ピンギヤは〔バーヴァリのもとに帰り、師に言った〕「〔わたしは〕『彼岸へと至るもの』を読誦するでありましょう。〔世俗の〕垢を離れた、広き思慮ある方(ブッダ)は、〔自らが〕見たとおりに、そのとおり告げ知らせました。無欲で、〔欲の〕林なく、〔世の〕主[あるじ]たる方が、何を因として、虚偽を語るでありましょう。
1132  〔煩悩の〕垢と〔思考の〕迷いを捨て去った方の、高慢(慢)と隠覆(覆)〔の思い〕を捨て去る方の、名誉を伴った〔真実の〕言葉を、さあ、わたしは述べ伝えるでありましょう。
1133  梵(婆羅門)よ、〔世の〕闇を除去する覚者にして一切に眼ある方、世の終極に至り一切の〔迷いの〕生存を超克した方、煩悩なく一切の苦を捨て去る方、『真理』と名づけられた方は、わたしによって近侍[きんじ]されたのです。
1134  鳥が、まばらな林を捨てて、多き果ある森に住むように、また、このように、わたしは、見少なき者たちを捨てて、白鳥のように、大海原に達し得たのです。
1135  ゴータマ(ブッダ)の教え以前に、『〔これこれこういうもの〕として存していた』『〔これこれこういうもの〕と成るであろう』〔と〕、かつて、〔人々が〕わたしに説き示したことは、その一切が、〔単なる〕伝え聞きであり、その一切が、〔邪[よこしま]な〕考え(邪説)を増大させるものです。
1136  彼は、独り、〔世の〕闇を除去し、端座する方、出生よき、光の作り手です。ゴータマ(ブッダ)は、広き知慧ある方です。ゴータマ(ブッダ)は、広き思慮ある方です。
1137  その方は、わたしに、現に見られ時を要さない〔即座[いまここ]の〕法(真理)を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を、示してくださったのです。その方には、どこにも喩えが存在しないのです」と。
1138  〔バーヴァリが言った〕「ピンギヤよ、それゆえに、〔おまえは〕いったい、どうして、寸時でさえも、広き知慧あるゴータマ(ブッダ)から、広き思慮あるゴータマ(ブッダ)から、離れて住むことがあろうか。
1139  その方は、おまえに、現に見られ時を要さない〔即座の〕法(真理)を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を、示してくださったのだ。その方には、どこにも喩えが存在しないのだ」〔と〕。
1140  〔ピンギヤは言った〕「婆羅門よ、それゆえに、わたしは、寸時でさえも、広き知慧あるゴータマ(ブッダ)から、広き思慮あるゴータマ(ブッダ)から、離れて住むことがないのです。
1141  その方は、わたしに、現に見られ時を要さない〔即座の〕法(真理)を、渇愛の滅尽を、疾患なき〔境地〕を、示してくださったのです。その方には、どこにも喩えが存在しないのです。
1142  婆羅門よ、〔わたしは〕彼を見ます——意[こころ]によって、あるいは、眼[まなこ]によって。昼夜にわたり、〔気づきを〕怠らず、夜は、〔ゴータマを〕礼拝する者として過ごし、まさしく、それによって、〔もはや、ゴータマから〕離れて住むことなき者と〔自らを〕思うのです。
1143  〔迷いなき〕信と〔真なる〕喜びと〔切なる〕意と〔怠りなき〕気づき(念)が、わたしを、ゴータマ(ブッダ)の教えから離れさせないのです。そして、わたしは、広き知慧ある方が行く、その方角、その〔方角〕に、まさしく、その〔場〕、その〔場〕に、礼拝者として存するのです。
1144  老い朽ち、力と強さに劣る、わたしにとって、まさしく、それによって、身体〔自体〕がそこに行くことはありません。常に〔思慮〕分別を傾けることで、〔そこに〕行くのです。婆羅門よ、まさに、わたしの意は、その方と結ばれているのです。
1145  汚泥に臥しつつ、震えおののく者として、〔わたしは〕洲から洲へと漂[ただよ]いました。しかして、激流を超えた、煩悩なき正覚者(ブッダ)を見たのです」〔と〕。
1146  〔その時、世尊がピンギヤの前に現われて言った〕「ヴァッカリ(人名)、バドラーヴダ(人名)、アーラヴィ・ゴータマ(人名)など、解き放たれた信ある者が〔そう〕有ったように、ピンギヤよ、あなたもまた、まさしく、このように、信を解き放ちなさい(信仰を依存の対象にしてはならない)。〔そうすれば〕あなたは、死魔の領域の彼岸へと至るでありましょう」〔と〕。
1147  〔ピンギヤは言った〕「この〔わたし〕は、牟尼の言葉を聞いて、より一層、〔心が〕清まります。〔迷妄の〕覆が開かれた正覚者(ブッダ)は、〔心に〕鬱屈なく、応答自在〔の知慧〕ある方です。
1148  〔牟尼は〕天のそのまた上をも証知して、彼此[ひし]の一切を知っておられます。教師(ブッダ)は、疑いありと公言する者たちの、諸々の問いの終極[おわり]を為す方です。
1149  それにたいし、どこにも喩えが存在しない、不動で、揺るぎない〔境地〕へと、〔わたしは〕確実に至るでありましょう。ここに、わたしに、疑いはありません。このように、わたしを、確固たる心ある者と認めてください」〔と〕。
http://web.archive.org/web/20091118020427/http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html


02. 中川隆 2013年1月21日 07:42:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


THE SUTTA-NIPÂTA

A COLLECTION OF DISCOURSES
BEING ONE OF THE CANONICAL BOOKS OF THE
BUDDHISTS

TRANSLATED FROM PÂLI
BY
V. FAUSBÖLL
Oxford, the Clarendon Press
[1881]
{scanned, proofread, and formatted by Christopher M. Weimer, March 2002}
Vol. X Part II of The Sacred Books of the East
translated by various Oriental scholars and edited by F. Max Müller

I. URAGAVAGGA.


1. URAGASUTTA.
The Bhikkhu who discards all human passions is compared to a snake that casts his skin.--Text and translation in Fr. Spiegel's Anecdota Pâlica.
1. He who restrains his anger when it has arisen, as (they) by medicines (restrain) the poison of the snake spreading (in the body), that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (1)

2. He who has cut off passion entirely, as (they cut off) the lotus-flower growing in a lake, after diving (into the water), that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (2)

3. He who has cut off desire entirely, the flowing, the quickly running, after drying it up, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (3)

4. He who has destroyed arrogance entirely, as the flood (destroys) a very frail bridge of reeds, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (4)

5. He who has not found any essence in the existences, like one that looks for flowers on fig-trees, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (5)

p. 2

6. He in whose breast there are no feelings of anger, who has thus overcome reiterated existence, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (6)

7. He whose doubts are scattered, cut off entirely inwardly, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (7)

8. He who did not go too fast forward, nor was left behind, who overcame all this (world of) delusion, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (8)

9. He who did not go too fast forward, nor was left behind, having seen that all this in the world is false, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (9)

10. He who did not go too fast forward, nor was left behind, being free from covetousness, (seeing) that all this is false, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (10)

11. He who did not go too fast forward, nor was left behind, being free from passion, (seeing) that all this is false, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (11)

12. He who did not go too fast forward, nor was left behind, being free from hatred, (seeing) that all this is false, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (12)

13. He who did not go too fast forward, nor was left behind, being free from folly, (seeing) that all this is false, that Bhikkhu leaves his and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (13)

p. 3

14. He to whom there are no affections whatsoever, whose sins are extirpated from the root, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (14)

15. He to whom there are no (sins) whatsoever originating in fear, which are the causes of coming back to this shore, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (15)

16. He to whom there are no (sins) whatsoever originating in desire, which are the causes of binding (men) to existence, that Bhikkhu leaves this and the further shore, as a snake (quits its) old worn out skin. (16)

17. He who, having left the five obstacles, is free from suffering, has overcome doubt, and is without pain, that Bhikkhu leaves this and the further shore. as a snake (quits its) old worn out skin. (17)

Uragasutta is ended.

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2. DHANIYASUTTA.
A dialogue between the rich herdsman Dhaniya and Buddha, the one rejoicing in his worldly security and the other in his religious belief.--This beautiful dialogue calls to mind the parable in the Gospel of S. Luke xii.16.
1. 'I have boiled (my) rice, I have milked (my cows),'--so said the herdsman Dhaniya,--'I am living together with my fellows near the banks of the Mahî (river), (my) house is covered, the fire is kindled: therefore, if thou like, rain, O sky!' (18)

2. 'I am free from anger, free from stubbornness,'--so said Bhagavat,--'I am abiding for one night near the banks of the Mahî (river), my house

p. 4

is uncovered, the fire (of passions) is extinguished: therefore, if thou like, rain, O sky!' (19)

3. 'Gad-flies are not to be found (with me),'--so said the herdsman Dhaniya,--'in meadows abounding with grass the cows are roaming, and they can endure rain when it comes: therefore, if thou like, rain, O sky!' (20)

4. '(By me) is made a well-constructed raft,'--so said Bhagavat,--'I have passed over (to Nibbâna), I have reached the further bank, having overcome the torrent (of passions); there is no (further) use for a raft: therefore, if thou like, rain, O sky!' (21)

5. 'My wife is obedient, not wanton,'--so said the herdsman Dhaniya,--'for a long time she has been living together (with me), she is winning, and I hear nothing wicked of her: therefore, if thou like, rain, O sky!' (22)

6. 'My mind is obedient, delivered (from all worldliness),'--so said Bhagavat,--'it has for a long time been highly cultivated and well-subdued, there is no longer anything wicked in me: therefore, if thou like, rain, O sky!' (23)

7. 'I support myself by my own earnings,'--so said the herdsman Dhaniya,--'and my children are (all) about me, healthy; I hear nothing wicked of them: therefore, if thou like, rain, O sky!' (24)

8. 'I am no one's servant,'--so said Bhagavat,--'with what I have gained I wander about in all the world, there is no need (for me) to serve: therefore, if thou like, rain, O sky!' (25)

9. 'I have cows, I have calves,'-- so said the herdsman Dhaniya;--'I have cows in calf and heifers, and I have also a bull as lord over the cows: therefore, if thou like, rain, O sky!' (26)

p. 5

10. 'I have no cows, I have no calves,'--so said Bhagavat,--'I have no cows in calf and no heifers, and I have no bull as a lord over the cows: therefore, if thou like, rain, O sky! (27)

11. 'The stakes are driven in, and cannot be shaken,'--so said the herdsman Dhaniya,--'the ropes are made of muñga grass, new and well-made, the cows will not be able to break them: therefore, if thou like, rain, O sky!' (28)

12. 'Having, like a bull, rent the bonds; having, like an elephant, broken through the galukkhi creeper, I shall not again enter into a womb: therefore, if thou like, rain, O sky!' (29)

Then at once a shower poured down, filling both sea and land. Hearing the sky raining, Dhaniya spoke thus:

13. 'No small gain indeed (has accrued) to us since we have seen Bhagavat; we take refuge in thee, O (thou who art) endowed with the eye (of wisdom); be thou our master, O great Muni!' (30)

14. 'Both my wife and myself are obedient; (if) we lead a holy life before Sugata, we shall conquer birth and death, and put an end to pain.' (31)

15. 'He who has sons has delight in sons,'--so said the wicked Mâra,--'he who has cows has delight likewise in cows; for upadhi (substance) is the delight of man, but he who has no upadhi has no delight.' (32)

16. 'He who has sons has care with (his) sons,'--so said Bhagavat,--'he who has cows has likewise care with (his) cows; for upadhi (is the cause of) people's cares, but he who has no upadhi has no care.' (33)

Dhaniyasutta is ended.

p. 6

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3. KHAGGA VISÂNASUTTA.
Family life and intercourse with others should be avoided, for society has all vices in its train; therefore one should leave the corrupted state of society and lead a solitary life.
1. Having laid aside the rod against all beings, and not hurting any of them, let no one wish for a son, much less for a companion, let him wander alone like a rhinoceros[1]. (34)

2. In him who has intercourse (with others) affections arise, (and then) the pain which follows affection; considering the misery that originates in affection let one wander alone like a rhinoceros. (35)

3. He who has compassion on his friends and confidential (companions) loses (his own) advantage, having a fettered mind; seeing this danger in friendship let one wander alone like a rhinoceros. (36)

4. Just as a large bamboo tree (with its branches) entangled (in each other, such is) the care one has with children and wife; (but) like the shoot of a bamboo not clinging (to anything) let one wander alone like a rhinoceros[2]. (37)

5. As a beast unbound in the forest goes feeding at pleasure, so let the wise man, considering (only his) own will, wander alone like a rhinoceros. (38)

6. There is (a constant) calling in the midst of company, both when sitting, standing, walking, and going away; (but) let one, looking (only) for freedom from desire and for following his own will, wander alone like a rhinoceros. (39)

7. There is sport and amusement in the midst of

[1. Comp Dhp. v. 142.

2. Comp. Dhp. v. 345.]

p. 7

company, and for children there is great affection; (although) disliking separation from his dear friends, let one wander alone like a rhinoceros. (40)

8. He who is at home in (all) the four regions and is not hostile (to any one), being content with this or that, overcoming (all) dangers fearlessly, let him wander alone like a rhinoceros. (41)

9. Discontented are some pabbagitas (ascetics), also some gahatthas (householders) dwelling in houses; let one, caring little about other people's children, wander alone like a rhinoceros. (42)

10. Removing the marks of a gihin (a householder) like a Kovilâra tree whose leaves are fallen, let one, after cutting off heroically the ties of a gihin, wander alone like a rhinoceros. (43)

11. If one acquires a clever companion, an associate righteous and wise, let him, overcoming all dangers, wander about with him glad and, thoughtful[1]. (44)

12. If one does not acquire a clever companion, an associate righteous and wise, then as a king abandoning (his) conquered kingdom, let him wander alone like a rhinoceros[2]. (45)

13. Surely we ought to praise the good luck of having companions, the best (and such as are our) equals ought to be sought for; not having acquired such friends let one, enjoying (only) allowable things, wander alone like a rhinoceros[3]. (46)

14. Seeing bright golden (bracelets), well-wrought by the goldsmith, striking (against each other when there are) two on one arm, let one wander alone like a rhinoceros. (47)

[1. Comp. Dhp. v. 328.

2. Comp. Dhp. v. 329.

3. Comp. Dhp. v. 61.]

p. 8

15. Thus (if I join myself) with another I shall swear or scold; considering this danger in future, let one wander alone like a rhinoceros. (48)

16. The sensual pleasures indeed, which are various, sweet, and charming, under their different shapes agitate the mind; seeing the misery (originating) in sensual pleasures, let one wander alone like a rhinoceros. (49)

17. These (pleasures are) to me calamities, boils, misfortunes, diseases, sharp pains, and dangers; seeing this danger (originating) in sensual pleasures, let one wander alone like a rhinoceros. (50)

18. Both cold and heat, hunger and thirst, wind and a burning sun, and gad-flies and snakes--having overcome all these things, let one wander alone like a rhinoceros[1]. (51)

19. As the elephant, the strong, the spotted, the large, after leaving the herd walks at pleasure in the forest, even so let one wander alone like a rhinoceros. (52)

20. For him who delights in intercourse (with others, even) that is inconvenient which tends to temporary deliverance; reflecting on the words of (Buddha) the kinsman of the Âdikka family, let one wander alone like a rhinoceros. (53)

21. The harshness of the (philosophical) views I have overcome, I have acquired self-command, I have attained to the way (leading to perfection), I am in possession of knowledge, and not to be led by others; so speaking, let one wander alone like a rhinoceros. (54)

22. Without covetousness, without deceit, without

[1. Comp. Gâtaka I p. 93.]

p. 9

craving, without detraction, having got rid of passions and folly, being free from desire in all the world, let one wander alone like a rhinoceros. (55)

23. Let one avoid a wicked companion who teaches what is useless and has gone into what is wrong, let him not cultivate (the society of) one who is devoted (to and) lost in sensual pleasures, let one wander alone like a rhinoceros. (56)

24. Let one cultivate (the society of) a friend who is learned and keeps the Dhamma, who is magnanimous and wise; knowing the meaning (of things and) subduing his doubts, let one wander alone like a rhinoceros. (57)

25. Not adorning himself, not looking out for sport, amusement, and the delight of pleasure in the world, (on the contrary) being loath of a life of dressing, speaking the truth, let one wander alone like a rhinoceros. (58)

26. Having left son and wife, father and mother, wealth, and corn, and relatives, the different objects of desire, let one wander alone like a rhinoceros. (59)

27. 'This is a tie, in this there is little happiness, little enjoyment, but more of pain, this is a fish-hook,' so having understood, let a thoughtful man wander alone like a rhinoceros. (60)

28: Having torn the ties, having broken the net as a fish in the water, being like a fire not returning to the burnt place, let one wander alone like a rhinoceros. (61)

29. With downcast eyes, and not prying[1], with his senses guarded, with his mind protected free from

[1. Na ka pâdalolo ti ekassa dutiyo dvinnam tatiyo ti evam ganamaggham pavisitukâmatâya kandûyamânapâdo viya abhavanto dîghakârika-anavatthakârikavirato vâ. Commentator.]

p. 10

passion, not burning (with lust), let one wander alone like a rhinoceros. (62)

30. Removing the characteristics of a gihin (householder), like a Pârikhatta tree whose leaves are cut off, clothed in a yellow robe after wandering away (from his house), let one wander alone like a rhinoceros. (63)

31. Not being greedy of sweet things, not being unsteady, not supporting others, going begging from house to house, having a mind which is not fettered to any household, let one wander alone like a rhinoceros. (64)

32. Having left the five obstacles of the mind, having dispelled all sin, being independent, having cut off the sin of desire, let one wander alone like a rhinoceros. (65)

33. Having thrown behind (himself bodily) pleasure and pain, and previously (mental) joy and distress, having acquired equanimity, tranquillity, purity, let one wander alone like a rhinoceros. (66)

34. Strenuous for obtaining the supreme good (i.e. Nibbâna), with a mind free from attachment, not living in idleness, being firm, endowed with bodily and mental strength, let one wander alone like a rhinoceros. (67)

35. Not abandoning seclusion and meditation, always wandering in (accordance with) the Dhammas[1], seeing misery in the existences, let one wander alone like a rhinoceros[2]. (68)

36. Wishing for the destruction of desire (i.e. Nibbâna), being careful, no fool, learned, strenuous, considerate, restrained, energetic, let one wander alone like a rhinoceros. (69)

[1. Dhammesu nikkam anudhammakarî.

2. Comp. Dhp. v. 20.]

p. 11

37. Like a lion not trembling at noises, like the wind not caught in a net, like a lotus not stained by water, let one wander alone like a rhinoceros. (70)

38. As a lion strong by his teeth, after overcoming (all animals), wanders victorious as the king of the animals, and haunts distant dwelling-places[1], (even so) let one wander alone like a rhinoceros. (71)

39. Cultivating in (due) time kindness, equanimity, compassion, deliverance, and rejoicing (with others), unobstructed by the whole world, let one wander alone like a rhinoceros. (72)

40. Having abandoned both passion and hatred and folly, having rent the ties, not trembling in the loss of life, let one wander alone like a rhinoceros[2]. (73)

41. They cultivate (the society of others) and serve them for the sake of advantage; friends without a motive are now difficult to get, men know their own profit and are impure; (therefore) let one wander alone like a rhinoceros. (74)

Khaggavisânasutta is ended.

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4. KASIBHÂRADVÂGASUTTA.
The Brâhmana Kasibhâradvâga reproaches Gotama with idleness, but the latter convinces him that he (Buddha) also works, and so the Brâhmana is converted, and finally becomes a saint. Compare Sp. Hardy, A Manual of Buddhism, p. 214; Gospel of S. John v. 17.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt in Magadha at Dakkhinâgiri in the Brâmana village Ekanalâ. And at that time the Brâmana Kasibhâradvâga's five hundred

[1. Pantânîti dûrâni senâsanânîti vasatitthânâni. Commentator.

2. Comp. Dhp. v. 20.]

p. 12

ploughs were tied (to the yokes) in the sowing season. Then Bhagavat, in the morning, having put on his raiment and taken his bowl and robes, went to the place where the Brâmana Kasibhâradvâga's work (was going on). At that time the Brâmana Kasibhâradvâga's distribution of food took place. Then Bhagavat went to the place where the distribution of food took place, and having gone there, he stood apart. The Brâmana Kasibhâradvâga saw Bhagavat standing there to get alms, and having seen him, he said this to Bhagavat:

'I, O Samana, both plough and sow, and having ploughed and sown, I eat; thou also, O Samana, shouldst plough and sow, and having ploughed and sown, thou shouldst eat.'

'I also, O Brâmana, both plough and sow, and having ploughed and sown, I eat,' so said Bhagavat.

'Yet we do not see the yoke, or the plough, or the ploughshare, or the goad, or the oxen of the venerable Gotama.'

And then the venerable Gotama spoke in this way:

'I also, O Brâmana, both plough and sow, and having ploughed and sown, I eat,' so said Bhagavat.

Then the Brâmana Kasibhâradvâga addressed Bhagavat in a stanza:

1. 'Thou professest to be a ploughman, and yet we do not see thy ploughing; asked about (thy) ploughing, tell us (of it), that we may know thy ploughing.' (75)

2. Bhagavat answered: 'Faith is the seed, penance the rain, understanding my yoke and plough, modesty the pole of the plough, mind the tie, thoughtfulness my ploughshare and goad. (76)

3. 'I am guarded in respect of the body, I am

p. 13

guarded in respect of speech, temperate in food; I make truth to cut away (weeds), tenderness is my deliverance. (77)

4. 'Exertion is my beast of burden; carrying (me) to Nibbâna he goes without turning back to the place where having gone one does not grieve. (78)

5. 'So this ploughing is ploughed, it bears the fruit of immortality; having ploughed this ploughing one is freed from all pain.' (79)

Then the Brâmana Kasibhâradvâga, having poured rice-milk into a golden bowl, offered it to Bhagavat, saying, 'Let the venerable Bhagavat eat of the rice-milk; the venerable is a ploughman, for the venerable Gotama ploughs a ploughing that bears the fruit of immortality.'

6. Bhagavat said: 'What is acquired by reciting stanzas is not to be eaten by me; this is, O Brâmana, not the Dhamma of those that see rightly; Buddha rejects what is acquired by reciting stanzas, this is the conduct (of Buddhas) as long as the Dhamma exists. (80)

7. 'One who is an accomplished great Isi, whose passions are destroyed and whose misbehaviour has ceased, thou shouldst serve with other food and drink, for this is the field for one who looks for good works[1].' (81)

'To whom then, O Gotama, shall I give this rice-milk?' so said Kasibhâradvâga.

'I do not see, O Brâmana, in the world (of men)

[1. Aññena ka kevalinam mahesim
Khînâsavam kukkukkavûpasantam
Annena pânena upatthahassu,
Khettam hi tam puññapekhassa hoti.
Cf. Sundarikabhâradvâga v. 28.]

p. 14

and gods and Mâras and Brahmans, amongst beings comprising gods and men, and Samanas and Brâmanas, any by whom this rice-milk when eaten can be properly digested with the exception of Tathâgata, or a disciple of Tathâgata. Therefore, O Brâmana, thou shalt throw this rice-milk in (a place where there is) little grass, or cast it into water with no worms: so said Bhagavat.

Then the Brâmana Kasibhâradvâga threw the rice-milk into some water with no worms. Then the rice-milk thrown into the water splashed, hissed, smoked in volumes; for as a ploughshare that has got hot during the day when thrown into the water splashes, hisses, and smokes in volumes, even so the rice-milk (when) thrown into the water splashed, hissed, and smoked in volumes.

Then the Brâmana Kasibhâradvâga alarmed and terrified went up to Bhagavat, and after having approached and fallen with his head at Bhagavat's feet, he said this to Bhagavat:

'It is excellent, O venerable Gotama! It is excellent, O venerable Gotama! As one raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma (has been) illustrated. I take refuge in the venerable Gotama and in the Dhamma and in the Assembly of Bhikkhus; I wish to receive the pabbaggâ, I wish to receive the upasampadâ (the robe and the orders) from the venerable Gotama,' so said Kasibhâradvâga.

Then the Brâmana Kasibhâradvâga received the

p. 15

pabbaggâ from Bhagavat, and he received also the upasampadâ; and the venerable Bhâradvâaga having lately received the upasampadâ, leading a solitary, retired, strenuous, ardent, energetic life, lived after having in a short time in this existence by his own understanding ascertained and possessed himself of that highest perfection of a religious life for the sake of which men of good family rightly wander, away from their houses to houseless state. 'Birth had been destroyed, a religious life had been led, what was to be done had been done, there was nothing else (to be done) for this existence,' so he perceived, and the venerable Bhâradvâaga became one of the arahats (saints).

Kasibhâradvâgasutta is ended.

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5. KUNDASUTTA.
Buddha describes the four different kinds of Samanas to Kunda, the smith.
1. 'I ask the Muni of great understanding,'--so said Kunda, the smith,--'Buddha, the lord of the Dhamma, who is free from desire, the best of bipeds, the most excellent of charioteers, how many (kinds of) Samanas are there in the world; pray tell me that?' (82)

2. 'There are four (kinds of) Samanas, (there is) not a fifth, O Kunda,'--so said Bhagavat,--'these I will reveal to thee, being asked in person; (they are) Maggaginas and Maggadesakas, Maggagîvins and Maggadûsins.' (83)

3. 'Whom do the Buddhas call a Maggagina?'--so said Kunda, the smith,--'How is a Maggagghâyin

p. 16

unequalled? Being asked, describe to me a Maggagîvin, and reveal to me a Maggadûsin.' (84)

4. Bhagavat said: 'He who has overcome doubt, is without pain, delights in Nibbâna, is free from greed, a leader of the world of men and gods, such a one the Buddhas call a maggagina (that is, victorious by the way). (85)

5. 'He who in this world having known the best (i.e. Nibbâna) as the best, expounds and explains here the Dhamma, him, the doubt-cutting Muni, without desire, the second of the Bhikkhus they call a maggadesin (that is, teaching the way). (86)

6. 'He who lives in the way that has so well been taught in the Dhammapada, and is restrained, attentive, cultivating blameless words, him the third of the Bhikshus they call a maggagîvin (that is, living in the way[1]). (87)

7. 'He who although counterfeiting the virtuous is forward, disgraces families, is impudent, deceitful, unrestrained, a babbler, walking in disguise, such a one is a maggadûsin (that is, defiling the way)[2]. (88)

8. 'He who has penetrated these (four Samanas), who is a householder, possessed of knowledge, a pupil of the venerable ones, wise, having known that they all are such,--having seen so, his faith is not lost; for how could he make the undepraved equal to the depraved and the pure equal to the impure?' (89)

Kundasutta is ended.

[1. Yo Dhammapade sudesite
Magge gîvati saññato satîmâ
Anavaggapadâni sevamâno
Tatiyam bhikkhunam âhu maggagîvim.

2. Comp. Gâtaka II, p. 281.]

p. 17

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6. PARÂBHAVASUTTA.
A dialogue between a deity and Buddha on the things by which a man loses and those by which he gains in this world.--Text by Grimblot, in Journal Asiatique, t. xviii (1871), p. 237; translation by L. Feer, in Journal Asiatique, t. xviii (1871), p. 309, and by Gogerly, reprinted in Journal Asiatique, t. xx (1872), p. 226.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî, in Getavana, in the park of Anâthapindika. Then when the night had gone, a certain deity of a beautiful appearance, having illuminated the whole Getavana, went up to Bhagavat, and having approached and saluted him, he stood apart, and standing apart that deity addressed Bhagavat in stanzas:

1. 'We ask (thee), Gotama, about a man that suffers loss; having come to ask, Bhagavat, (tell us) what is the cause (of loss) to the losing (man).' (90)

2. Bhagavat: 'The winner is easily known, easily known (is also) the loser: he who loves Dhamma is the winner, he who hates Dhamma is the loser.' (91)

3. Deity: 'We know this to be so, this is the first loser; tell (us) the second, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (92)

4. Bhagavat: 'Wicked men are dear to him, he does not do anything that is dear to the good, he approves of the Dhamma of the wicked,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (93)

5. Deity: 'We know this to be so, this is the second loser; tell us the third, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (94)

6. Bhagavat: 'The man who is drowsy, fond of society and without energy, lazy, given to anger,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (95)

p. 18

7. Deity: 'We know this to be so, this is the third loser; tell us the fourth, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (96)

8. Bhagavat: 'He who being rich does not support mother or father who are old or past their youth,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (97)

9. Deity: 'We know this to be so, this is the fourth loser; tell us the fifth, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (98)

10. Bhagavat: 'He who by falsehood deceives either a Brâmana or a Samana or any other mendicant,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (99)

11. Deity: 'We know this to be so, this is the fifth loser; tell us the sixth, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (100)

12. Bhagavat: 'The man who is possessed of much property, who has gold and food, (and still) enjoys alone his sweet things,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (101)

13. Deity: 'We know this to be so, this is the sixth loser; tell us the seventh, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (102)

14. Bhagavat: 'The man who proud of his birth, of his wealth, and of his family, despises his relatives,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (103)

15. Deity: 'We know this to be so, this is the seventh loser; tell us the eighth, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (104)

16. Bhagavat: 'The man who given to women, to strong drink, and to dice, wastes whatever he has gained,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (105)

p. 19

17. Deity: 'We know this to be so, this is the eighth loser; tell us the ninth, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (106)

18. Bhagavat: 'He who, not satisfied with his own wife, is seen with harlots and the wives of others,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (107)

19. Deity: 'We know this to be so, this is the ninth loser; tell us the tenth, O Bhagavat, what (is) the cause (of loss) to the losing (man).' (108)

20. Bhagavat: 'The man who, past his youth, brings home a woman with breasts like the timbaru fruit, and for jealousy of her cannot sleep,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (109)

21. Deity: 'We know this to be so, this is the tenth loser; tell us the eleventh, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (110)

22. Bhagavat: 'He who places in supremacy a woman given to drink and squandering, or a man of the same kind,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (111)

23. Deity: 'We know this to be so, this is the eleventh loser; tell us the twelfth, O Bhagavat, what is the cause (of loss) to the losing (man).' (112)

24. Bhagavat: 'He who has little property, (but) great desire, is born in a Khattiya family and wishes for the kingdom in this world,--that is the cause (of loss) to the losing (man).' (113)

25. Having taken into consideration these losses in the world, the wise, venerable man, who is endowed with insight, cultivates the happy world (of the gods).' (114)

Parâbhavasutta is ended.

p. 20

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7. VASALASUTTA.
The Brâmana Aggikabhâradvâga is converted by Buddha, after hearing his definition of an outcast, illustrated by the story of Mâtanga, told in the Mâtangagâtaka. Comp. Sp. Hardy, The Legends and Theories of the Buddhists, p. 49.--Text and translation in Alwis's Buddhist Nirvâna, p. 119.
So it was heard by me: At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî, in Getavana, in the park of Anâthapindika. Then Bhagavat having put on his raiment in the morning, and having taken his bowl and his robes, entered Sâvatthî for alms. Now at that time in the house of the Brâmana Aggikabhâradvâga the fire was blazing, the offering brought forth. Then Bhagavat going for alms from house to house in Sâvatthî went to the house of the Brâmana Aggikabhâradvâga. The Brâmana Aggikabhâradvâga saw Bhagavat coming at a distance, and seeing him he said this: 'Stay there, O Shaveling; (stay) there, O Samanaka (i.e. wretched Samana); (stay) there, O Vasalaka (i.e. outcast)!'

This having been said, Bhagavat replied to the Brâmana Aggikabhâradvâga: 'Dost thou know, O Brâmana, an outcast, or the things that make an outcast?'

'No, O venerable Gotama, I do not know an outcast, or the things that make an outcast; let the venerable Gotama teach me this so well that I may know an outcast, or the things that make an outcast."

'Listen then, O Brâmana, attend carefully, I will tell (thee).'

'Even so, O venerable one,' so the Brâmana Aggikabhâradvâga replied to Bhagavat.

p. 21

Then Bhagavat said this:

1. 'The man who is angry and bears hatred, who is wicked and hypocritical, who has embraced wrong views, who is deceitful, let one know him as an outcast. (115)

2. 'Whosoever in this world harms living beings, whether once or twice born, and in whom there is no compassion for living beings, let one know him as an outcast. (116)

3. 'Whosoever destroys or lays siege to villages and towns, and is known as an enemy, let one know him as an outcast. (117)

4. 'Be it in the village or in the wood, whosoever appropriates by theft what is the property of others and what has not been given, let one know him as an outcast. (118)

5. 'Whosoever, having really contracted a debt, runs away when called upon (to pay), saying, "There is no debt (that I owe) thee," let one know him as an outcast. (119)

6. 'Whosoever for love of a trifle having killed a man going along the road, takes the trifle, let one know him as an outcast. (120)

7. 'The man who for his own sake or for that of others or for the sake of wealth speaks falsely when asked as a witness, let one know him as an outcast. (121)

8. 'Whosoever is seen with the wives of relatives or of friends either by force or with their consent, let one know him as an outcast. (122)

9. 'Whosoever being rich does not support mother or father when old and past their youth, let one know him as an outcast. (123)

10. 'Whosoever strikes or by words annoys mother

p. 22

or father, brother, sister, or mother-in-law, let one know him as an outcast. (124)

11. 'Whosoever, being asked about what is good, teaches what is bad and advises (another, while) concealing (something from him), let one know him as an outcast. (125)

12. 'Whosoever, having committed a bad deed, hopes (saying), "Let no one know me" (as having done it, who is) a dissembler, let one know him as an outcast. (126)

13. 'Whosoever, having gone to another's house and partaken of his good food, does not in return honour him when he comes, let one know him as an outcast. (127)

14. 'Whosoever by falsehood deceives either a Brâhmana or a Samana or any other mendicant, let one know him as an outcast. (128)

15. 'Whosoever by words annoys either a Brâhmana or a Samana when meal-time has come and does not give (him anything), let one know him as an outcast. (129)

16. 'Whosoever enveloped in ignorance in this world predicts what is not (to take place), coveting a trifle, let one know him as an outcast. (130)

17. 'Whosoever exalts himself and despises others, being mean by his pride, let one know him as an outcast. (131)

18. 'Whosoever is a provoker and is avaricious, has sinful desires, is envious, wicked, shameless, and fearless of sinning, let one know him as an outcast. (132)

19. 'Whosoever reviles Buddha or his disciple, be he a wandering mendicant (paribbâga) or a householder (gahattha), let one know him as an outcast. (133)

p. 23

20. 'Whosoever without being a saint (arahat) pretends to be a saint, (and is) a thief in all the worlds including that of Brahman, he is indeed the lowest outcast; (all) these who have been described by me to you are indeed called outcasts. (134)

21. 'Not by birth does one become an outcast, not by birth does one become a Brâmana; by deeds one becomes an outcast, by deeds one becomes a Brâmana. (135)

22. 'Know ye this in the way that this example of mine (shows): There was a Kandâla of the Sopâka caste, well known as Mâtanga. (136)

23. 'This Mâtanga reached the highest fame, such as was very difficult to obtain, and many Khattiyas and Brâmanas went to serve him. (137)

24. 'He having mounted the vehicle of the gods, (and entered) the high road (that is) free from dust, having abandoned sensual desires, went to the Brahma world. (138)

25. 'His birth did not prevent him from being re-born in the Brahma world; (on the other hand) there are Brâmanas, born in the family of preceptors, friends of the hymns (of the Vedas), (139)

26. 'But they are continually caught in sinful deeds, and are to be blamed in this world, while in the coming (world) hell (awaits them); birth does not save them from hell nor from blame. (140)

27. '(Therefore) not by birth does one become an outcast, not by birth does one become a Brâmana, by deeds one becomes an outcast, by deeds one becomes a Brâmana.' (141)

This having been said, the Brâmana Aggikabhâradvâga answered Bhagavat as follows:

'Excellent, O venerable Gotama! Excellent, O

p. 24

venerable Gotama! As one, O venerable Gotama, raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma has been illustrated; I take refuge in the venerable Gotama and in the Dhamma and in the Assembly of Bhikkhus. Let the venerable Gotama accept me as an upâsaka (a follower, me) who henceforth for all my life have taken refuge (in him).'

Vasalasutta is ended.

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8. METTASUTTA.
A peaceful mind and goodwill towards all beings are praised.--Text by Grimblot in Journal Asiatique, t. xviii (1871), p. 250, and by Childers in Khuddaka Pâtha, p. 15; translation (?) by Gogerly in the Ceylon Friend, 1839, p. 211, by Childers in Kh. Pâtha and by L. Feer in Journal Asiatique, t. xviii (1871), p. 328.
1. Whatever is to be done by one who is skilful in seeking (what is) good, having attained that tranquil state (of Nibbâna):--Let him be able and upright and conscientious and of soft speech, gentle, not proud, (142)

2. And contented and easily supported and having few cares, unburdened and with his senses calmed and wise, not arrogant, without (showing) greediness (when going his round) in families. (143)

3. And let him not do anything mean for which others who are wise might reprove (him); may all beings be happy and secure, may they be happy-minded. (144)

p. 25

4. Whatever living beings there are, either feeble or strong, all either long or great, middle-sized, short, small or large, (145)

5. Either seen or which are not seen, and which live far (or) near, either born or seeking birth, may all creatures be happy-minded. (146)

6. Let no one deceive another, let him not despise (another) in any place, let him not out of anger or resentment wish harm to another. (147)

7. As a mother at the risk of her life watches over her own child, her only child, so also let every one cultivate a boundless (friendly) mind towards all beings. (148)

8. And let him cultivate goodwill towards all the world, a boundless (friendly) mind, above and below and across, unobstructed, without hatred, without enmity. (149)

9. Standing, walking or sitting or lying, as long as he be awake, let him devote himself to this mind; this (way of) living they say is the best in this world. (150)

10. He who, not having embraced (philosophical) views, is virtuous, endowed with (perfect) vision, after subduing greediness for sensual pleasures, will never again go to a mother's womb. (151)

Mettasutta is ended.

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9. HEMAVATASUTTA.
A dialogue between two Yakkhas on the qualities of Buddha. They go to Buddha, and after having their questions answered they, together with ten hundred Yakkhas, become the followers of Buddha.
1. 'To-day is the fifteenth, a fast day; a lovely

p. 26

night has come,'--so said the Yakkha Sâtâgira,--'let us (go and) see the renowned Master Gotama.' (152)

2. 'Is the mind of such a one well disposed towards all beings?'--so said the Yakkha Hemavata,--'are his thoughts restrained as to things wished for or not wished for?' (153)

3. 'His mind is well disposed towards all beings, (the mind) of such a one,'--so said the Yakkha Sâtâgira,--'and his thoughts are restrained as to things wished for or not wished for.' (154)

4. 'Does he not take what has not been given (to him)?'--so said the Yakkha Hemavata,--'is he self-controlled (in his behaviour) to living beings? is he far from (a state of) carelessness? does he not abandon meditation?' (155)

5. 'He does not take what has not been given (to him),'--so said the Yakkha Sâtâgira,--'and he is self-controlled (in his behaviour) to living beings, and he is far from (a state of) carelessness; Buddha does not abandon meditation.' (156)

6. 'Does he not speak falsely?'--so said the Yakkha Hemavata,--'is he not harsh-spoken? does he not utter slander? does he not talk nonsense?' (157)

7. 'He does not speak falsely,'--so said the Yakkha Sâtâgira,--'he is not harsh-spoken, he does not utter slander, with judgment he utters what is good sense.' (158)

8. 'Is he not given to sensual pleasures?'--so said the Yakkha Hemavata,--'is his mind undisturbed? has he overcome folly? does he see clearly in (all) things (dhammas)?' (159)

9. 'He is not given to sensual pleasures,'--so said the Yakkha Sâtâgira,--'and his mind is undisturbed;

p. 27

he has overcome all folly; Buddha sees clearly in (all) things.' (160)

10. 'Is he endowed with knowledge?'--so said the Yakkha Hemavata,--'is his conduct pure? have his passions been destroyed? is there no new birth (for him)?' (161)

11. 'He is endowed with knowledge,'--so said the Yakkha Sâtâgira,--'and his conduct is pure; all his passions have been destroyed; there is no new birth for him. (162)

12. 'The mind of the Muni is accomplished in deed and word; Gotama, who is accomplished by his knowledge and conduct, let us (go and) see. (163)

13. 'Come, let us (go and) see Gotama, who has legs like an antelope, who is thin, who is wise, living on little food, not covetous, the Muni who is meditating in the forest. (164)

14. 'Having gone to him who is a lion amongst those that wander alone and does not look for sensual pleasures, let us ask about the (means of) deliverance from the snares of death. (165)

15. 'Let us ask Gotama, the preacher, the expounder, who has penetrated all things, Buddha who has overcome hatred and fear.' (166)

16. 'In what has the world originated?'--so said the Yakkha Hemavata,--'with what is the world intimate? by what is the world afflicted, after having grasped at what?' (167)

17. 'In six the world has originated, O Hemavata,'--so said Bhagavat,--'with six it is intimate, by six the world is afflicted, after having grasped at six.' (168)

18. Hemavata said: 'What is the grasping by

p. 28

which the world is afflicted? Asked about salvation, tell (me) how one is released from pain?' (169)

19. Bhagavat said: 'Five pleasures of sense are said to be in the world, with (the pleasure of) the mind as the sixth; having divested oneself of desire for these, one is thus released from pain. (170)

20. 'This salvation of the world has been told to you truly, this I tell you: thus one is released from pain.' (171)

21. Hemavata said: 'Who in this world crosses the stream (of existence)? who in this world crosses the sea? who does not sink into the deep, where there is no footing and no support?' (172)

22. Bhagavat said: 'He who is always endowed with virtue, possessed of understanding, well composed, reflecting within himself, and thoughtful, crosses the stream that is difficult to cross. (173)

23. 'He who is disgusted with sensual pleasures, who has overcome all bonds and destroyed joy, such a one does not sink into the deep.' (174)

24. Hemavata said: 'He who is endowed with a profound understanding, seeing what is subtile, possessing nothing, not clinging to sensual pleasures, behold him who is in every respect liberated, the great Isi, walking in the divine path. (175)

25. 'He who has got a great name, sees what is subtile, imparts understanding; and does not cling to the abode of sensual pleasures, behold him, the all-knowing, the wise, the great Isi, walking in the noble path. (176)

26. 'A good sight indeed (has met) us to-day, a good daybreak, a beautiful rising, (for) we have seen the perfectly enlightened (sambuddham), who has crossed the stream, and is free from passion. (177)

p. 29

27. 'These ten hundred Yakkhas, possessed of supernatural power and of fame, they all take refuge in thee, thou art our incomparable Master. (178)

28. 'We will wander about from village to village, from mountain to mountain, worshipping the perfectly enlightened and the perfection of the Dhamma[1].' (179)

Hemavatasutta is ended.

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10. ÂLAVAKASUTTA.
The Yakkha Âlavaka first threatens Buddha, then puts some questions to him which Buddha answers, whereupon Âlavaka is converted.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Âlavî, in the realm of the Yakkha Âlavaka. Then the Yakkha Âlavaka went to the place where Bhagavat dwelt, and having gone there he said this to Bhagavat:

'Come out, O Samana!'

'Yes, O friend!' so saying Bhagavat came out.

'Enter, O Samana!'

'Yes, O friend!' so saying Bhagavat entered.

A second time the Yakkha Âlavaka said this to Bhagavat: 'Come out, O Samana!'

'Yes, O friend!' so saying Bhagavat came out.

'Enter, O Samana!'

'Yes, O friend!' so saying Bhagavat entered.

A third time the Yakkha Âlavaka said this Bhagavat: 'Come out, O Samana!'

' Yes, O friend!' so saying Bhagavat came out.

'Enter, O Samana!'

[1. Dhammassa ka sudhammatam.]

p. 30

'Yes, O friend!' so saying Bhagavat entered.

A fourth time the Yakkha Âlavaka said this to Bhagavat: 'Come out, O Samana!'

'I shall not come out to thee, O friend, do what thou pleasest.'

'I shall ask thee a question, O Samana, if thou canst not answer it, I will either scatter thy thoughts or cleave thy heart, or take thee by thy feet and throw thee over to the other shore of the Gangâ.'

'I do not see, O friend, any one in this world nor in the world of gods, Mâras, Brahmans, amongst the beings comprising gods, men, Samanas, and Brâhmanas, who can either scatter my thoughts or cleave my heart, or take me by the feet and throw me over to the other shore of the Gangâ; however, O friend, ask what thou pleasest.'

Then the Yakkha Âlavaka addressed Bhagavat in stanzas:

1. 'What in this world is the best property for a man? what, being well done, conveys happiness? what is indeed the sweetest of sweet things? how lived do they call life the best?' (180)

2. Bhagavat said: 'Faith is in this world the best property for a man; Dhamma, well observed, conveys happiness; truth indeed is the sweetest of things; and that life they call the best which is lived with understanding.' (181)

3. Âlavaka said: 'How does one cross the stream (of existence)? how does one cross the sea? how does one conquer pain? how is one purified?' (182)

4. Bhagavat said: 'By faith one crosses the stream, by zeal the sea, by exertion one conquers pain, by understanding one is purified.' (183)

p. 31

5. Âlavaka said: 'How does one obtain understanding? how does one acquire wealth? how does one obtain fame? how does one bind friends (to himself)? how does one not grieve passing away from this world to the other?' (184)

6. Bhagavat said: 'He who believes in the Dhamma of the venerable ones as to the acquisition of Nibbâna, will obtain understanding from his desire to hear, being zealous and discerning. (185)

7. 'He who does what is proper, who takes the yoke (upon him and) exerts himself, will acquire wealth, by truth he will obtain fame, and being charitable he will bind friends (to himself). (186)

8. 'He who is faithful and leads the life of a householder, and possesses the following four Dhammas (virtues), truth, justice (dhamma), firmness, and liberality,--such a one indeed does not grieve when passing away. (187)

9. 'Pray, ask also other Samanas and Brâhmanas far and wide, whether there is found in this world anything greater than truth, self-restraint, liberality, and forbearance.' (188)

10. Âlavaka said: 'Why should I now ask Samanas and Brâhmanas far and wide? I now know what is my future good. (189)

11. 'For my good Buddha came to live at Âlavî; now I know where (i.e. on whom bestowed) a gift will bear great fruit. (190)

12. 'I will wander about from village to village, from town to town, worshipping the perfectly enlightened (sambuddha) and the perfection of the Dhamma.' (191)

Âlavakasutta is ended.

p. 32

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11. VIGAYASUTTA.
A reflection on the worthlessness of the human body; a follower of Buddha only sees the body as it really is, and consequently goes to Nibbâna.--Comp. Gâtaka I, p. 146.
1. If either walking or standing, sitting or lying, any one contracts (or) stretches (his body, then) this is the motion of the body. (192)

2. The body which is put together with bones and sinews, plastered with membrane and flesh, and covered with skin, is not seen as it really is. (193)

3. It is filled with the intestines, the stomach, the lump of the liver, the abdomen, the heart, the lungs, the kidneys, the spleen. (194)

4. With mucus, saliva, perspiration, lymph, blood, the fluid that lubricates the joints, bile, and fat. (195)

5. Then in nine streams impurity flows always from it; from the eye the eye-excrement, from the ear the ear-excrement, (196)

6. Mucus from the nose, through the mouth it ejects at one time bile and (at other times) it ejects phlegm, and from (all) the body come sweat and dirt. (197)

7. Then its hollow head is filled with the brain. A fool led by ignorance thinks it a fine thing. (198)

8. And when it lies dead, swollen and livid, discarded in the cemetery, relatives do not care (for it). (199)

9. Dogs eat it and jackals, wolves and worms; crows and vultures eat it, and what other living creatures there are. (200)

10. The Bhikkhu possessed of understanding in this world, having listened to Buddha's words, he

p. 33

certainly knows it (i.e. the body) thoroughly, for he sees it as it really is. (201)

11. "As this (living body is) so is that (dead one), as this is so that (will be[1]); let one put away desire for the body, both as to its interior and as to its exterior." (202)

12. Such a Bhikkhu who has turned away from desire and attachment, and is possessed of understanding in this world, has (already) gone to the immortal peace, the unchangeable state of Nibbâna. (203)

13. This (body) with two feet is cherished (although) impure, ill-smelling, filled with various kinds of stench, and trickling here and there. (204)

14. He who with such a body thinks to exalt himself or despises others--what else (is this) but blindness? (205)

Vigayasutta is ended.

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12. MUNISUTTA.
Definition of a Muni.
1. From acquaintanceship arises fear, from house-life arises defilement; the houseless state, freedom from acquaintanceship--this is indeed the view of a Muni. (206)

2. Whosoever, after cutting down the (sin that has) arisen, does not let (it again) take root and does not give way to it while springing up towards him, him

[1. Yathâ idam tathâ etam
Yathâ etam tathâ idam.]

p. 34

the solitarily wandering they call a Muni; such a great Isi has seen the state of peace[1]. (207)

3. Having considered the causes (of sin, and) killed the seed, let him not give way to desire for it; such a Muni who sees the end of birth and destruction (i.e. Nibbâna), after leaving reasoning behind, does not enter the number (of living beings)[2]. (208)

4. He who has penetrated all the resting-places[3] (of the mind, and) does not wish for any of them,--such a Muni indeed, free from covetousness and free from greediness, does not gather up (resting-places), for he has reached the other shore. (209)

5. The man who has overcome everything, who knows everything, who is possessed of a good understanding, undefiled in all things (dhamma), abandoning everything, liberated in the destruction of desire (i.e. Nibbâna), him the wise style a Muni[4]. (210)

6. The man who has the strength of understanding, is endowed with virtue and (holy) works, is composed, delights in meditation, is thoughtful, free from ties, free from harshness (akhila), and free from passion, him the wise style a Muni. (211)

7. The Muni that wanders solitarily, the zealous,

[1. Yo gâtam ukkhigga na ropayeyya
Gâyantam assa nânuppavekkhe
Tam âhu ekam muninam karantam,
Addakkhi so santipadam mahesi.

2. Samkhâya vatthûni pamâya bîgam
Sineham assa nânuppavekkhe,
Sa ve munî gâtikhayantadassî
Takkam pahâya na upeti samkham.

3. Nivesanâni. Comp. Dutthaka, v. 6.

4. Comp. Dhp. v. 353.]

p. 35

that is not shaken by blame and praise, like a lion not trembling at noises, like the wind not caught in a net, like a lotus not soiled by water, leading others, not led by others, him the wise style a Muni. (212)

8. Whosoever becomes firm as the post in a bathing-place, in whom others acknowledge propriety of speech, who is free from passion, and (endowed) with well-composed senses, such a one the wise style a Muni. (213)

9. Whosoever is firm, like a straight shuttle, and is disgusted with evil actions, reflecting on what is just and unjust, him the wise style a Muni. (214)

10. Whosoever is self-restrained and does not do evil, is a young or middle-aged Muni, self-subdued, one that should not be provoked (as) he does not provoke any, him the wise style a Muni. (215)

11. Whosoever, living upon what is given by others, receives a lump of rice from the top, from the middle or from the rest (of the vessel, and) does not praise (the giver) nor speak harsh words, him the wise style a Muni. (216)

12. The Muni that wanders about abstaining from sexual intercourse, who in his youth is not fettered in any case, is abstaining from the insanity of pride, liberated, him the wise style a Muni. (217)

13. The man who, having penetrated the world, sees the highest truth, such a one, after crossing the stream and sea (of existence), who has cut off all ties, is independent, free from passion, him indeed the wise style a Muni. (218)

14. Two whose mode of life and occupation are quite different, are not equal: a householder maintaining a wife, and an unselfish virtuous man. A householder (is intent) upon the destruction of

p. 36

other living creatures, being unrestrained; but a Muni always protects living creatures, being restrained. (219)

15. As the crested bird with the blue neck (the peacock) never attains the swiftness of the swan, even so a householder does not equal a Bhikkhu, a secluded Muni meditating in the wood. (220)

Munisutta is ended.

Uragavagga is ended.

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II. KÛLAVAGGA.


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1. RATANASUTTA.
For all beings salvation is only to be found in Buddha, Dhamma, and Sangha.--Text and translation in Childers' Khuddaka Pâtha, p. 6.
1. Whatever spirits have come together here, either belonging to the earth or living in the air, let all spirits be happy, and then listen attentively to what is said. (221)

2. Therefore, O spirits, do ye all pay attention, show kindness to the human race who both day and night bring their offerings; therefore protect them strenuously. (222)

3. Whatever wealth there be here or in the other world, or whatever excellent jewel in the heavens, it is certainly not equal to Tathâgata. This excellent jewel (is found) in Buddha, by this truth may there be salvation. (223)

4. The destruction (of passion), the freedom from passion, the excellent immortality which Sakyamuni attained (being) composed,--there is nothing equal to that Dhamma. This excellent jewel (is found) in the Dhamma, by this truth may there be salvation. (224)

5. The purity which the best of Buddhas praised, the meditation which they call uninterrupted, there is no meditation like this. This excellent jewel (is

p. 38

found) in the Dhamma, by this truth may there be salvation. (225)

6. The eight persons that are praised by the righteous[1], and make these four pairs, they are worthy of offerings, (being) Sugata's disciples; what is given to these will bear great fruit. This excellent jewel (is found) in the Assembly (sangha), by this truth may there be salvation. (226)

7. Those who have applied themselves studiously with a firm mind and free from desire to the commandments of Gotama, have obtained the highest gain, having merged into immortality, and enjoying happiness after getting it for nothing. This excellent jewel (is found) in the Assembly, by this truth may there be salvation. (227)

8. As a post in the front of a city gate is firm in the earth and cannot be shaken by the four winds, like that I declare the righteous man to be who, having penetrated the noble truths, sees (them clearly). This excellent jewel (is found) in the Assembly, by this truth may there be salvation. (228)

9. Those who understand the noble truths well taught by the profoundly wise (i.e. Buddha), though they be greatly distracted, will not (have to) take the eighth birth. This excellent jewel (is found) in the Assembly, by this truth may there be salvation. (229)

10. On his (attaining the) bliss of (the right) view three things (dhammas) are left behind (by him): conceit and doubt and whatever he has got of virtue and (holy) works. He is released also from the four hells, and he is incapable of committing the six

[1. The Commentator: satam pasatthâ ti sappurisehi buddhapakkekabuddhasâvakehi aññehi ka devamanusehi pasatthâ.]

p. 39

deadly sins. This excellent jewel (is found) in the Assembly, by this truth may there be salvation. (230)

11. Even if he commit a sinful deed by his body, or in word or in thought, he is incapable of concealing it, (for) to conceal is said to be impossible for one that has seen the state (of Nibbâna). This excellent jewel (is found) in the Assembly, by this truth may there be salvation. (231)

12. As in a clump of trees with their tops in bloom in the first heat of the hot month, so (Buddha) taught the excellent Dhamma leading to Nibbâna to the greatest benefit (for all). This excellent jewel (is found) in Buddha, by this truth may there be salvation. (232)

13. The excellent one who knows what is excellent, who gives what is excellent, and who brings what is excellent, the incomparable one taught the excellent Dhamma. This excellent jewel (is found) in Buddha, by this truth may there be salvation. (233)

14. The old is destroyed, the new has not arisen, those whose minds are disgusted with a future existence, the wise who have destroyed their seeds (of existence, and) whose desires do not increase, go out like this lamp. This excellent jewel (is found) in the Assembly, by this truth may there be salvation. (234)

15. Whatever spirits have come together here, either belonging to the earth or living in the air, let us worship the perfect (tathâgata) Buddha, revered by gods and men; may there be salvation. (235)

16. Whatever spirits have come together here, either belonging to the earth or living in the air, let us worship the perfect (tathâgata) Dhamma, revered by gods and men; may there be salvatlon. (236)

17. Whatever spirits have come together here,

p. 40

either belonging to the earth or living in the air, let us worship the perfect (tathâgata) Sangha, revered by gods and men; may there be salvation. (237)

Ratanasutta is ended.

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2. ÂMAGANDHASUTTA.
A bad mind and wicked deeds are what defiles a man; no outward observances can purify him. Comp. Gospel of S. Matthew xv. 10.
1. Âmagandhabrâhmana: 'Those who eat sâmâka, kingûlaka, and kînaka, pattaphala, mûlaphala, and gaviphala (different sorts of grass, leaves, roots, &c.), justly obtained of the just, do not speak falsehood, (nor are they) desirous of sensual pleasures. (238)

2. 'He who eats what has been well prepared, well dressed, what is pure and excellent, given by others, he who enjoys food made of rice, eats, O Kassapa, Âmagandha (what defiles one). (239)

3. '(The charge of) Âmagandha does not apply to me,' so thou sayest, 'O Brahman (brahmabandhu, although) enjoying food (made) of rice together with the well-prepared flesh of birds. I ask thee, O Kassapa, the meaning of this, of what description (is then) thy Âmagandha?' (240)

4. Kassapabuddha: 'Destroying living beings, killing, cutting, binding, stealing, speaking falsehood, fraud and deception, worthless reading[1], intercourse with another's wife;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (241)

[1. Agghenakuggan ti niratthakânatthaganakaganthapariyâpunanam. Commentator.]

p. 41

5. 'Those persons who in this world are unrestrained in (enjoying) sensual pleasures, greedy of sweet things, associated with what is impure, sceptics (natthikaditthi), unjust, difficult to follow;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (242)

6. 'Those who are rough, harsh, backbiting, treacherous, merciless, arrogant, and (who being) illiberal do not give anything to any one;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (243)

7. 'Anger, intoxication, obstinacy, bigotry, deceit, envy, grandiloquence, pride and conceit, intimacy with the unjust;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (244)

8. 'Those who in this world are wicked, and such as do not pay their debts, are slanderers, false in their dealings, counterfeiters, those who in this world being the lowest of men commit sin;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (245)

9. 'Those persons who in this world are unrestrained (in their behaviour) towards living creatures, who are bent upon injuring after taking others' (goods), wicked, cruel, harsh, disrespectful;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (246)

10. 'Those creatures who are greedy of these (living beings, who are) hostile, offending; always bent upon (evil) and therefore, when dead, go to darkness and fall with their heads downwards into hell;--this is Âmagandha, but not the eating of flesh. (247)

11. 'Neither the flesh of fish, nor fasting, nor nakedness, nor tonsure, nor matted hair, nor dirt, nor rough skins, nor the worshipping of the fire, nor the many immortal penances in the world, nor hymns, nor oblations, nor sacrifice, nor observance of the

p. 42

seasons, purify a mortal who has not conquered his doubt[1]. (248)

12. 'The wise man wanders about with his organs of sense guarded, and his senses conquered, standing firm in the Dhamma, delighting in what is right and mild; having overcome all ties and left behind all pain, he does not cling to what is seen and heard.' (249)

13. Thus Bhagavat preached this subject again and again, (and the Brâhmana) who was accomplished in the hymns (of the Vedas) understood it; the Muni who is free from defilement, independent, and difficult to follow, made it clear in various stanzas. (250)

14. Having heard Buddha's well-spoken words, which are free from defilement and send away all pain, he worshipped Tathâgata's (feet) in humility, and took orders at once. (251)

Âmagandhasutta is ended.

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3. HIRISUTTA.
On true frendship.
1. He who transgresses and despises modesty, who says, 'I am a friend,' but does not undertake any work that can be done, know (about) him: 'he is not my (friend).' (252)

2. Whosoever uses pleasing words to friends without effect[2], him the wise know as one that (only) talks, but does not do anything. (253)

3. He is not a friend who always eagerly suspects a breach and looks out for faults; but he with whom he dwells as a son at the breast (of his mother),

[1. Comp. Dhp. v. 141.

2. Ananvayan ti yam attham dassâmi karissâmîti bhâsati tena ananugatam. Commentator.]

p. 43

he is indeed a friend that cannot be severed (from him) by others. (254)

4. He who hopes for fruit, cultivates the energy that produces joy and the pleasure that brings praise, (while) carrying the human yoke[1]. (255)

5. Having tasted the sweetness of seclusion and tranquillity one becomes free from fear and free from sin, drinking in the sweetness of the Dhamma[2]. (256)

Hirisutta is ended.

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4. MAHÂMANGALASUTTA.
Buddha defines the highest blessing to a deity.--Text by Grimblot in Journal Asiatique, t. xviii (1871), p. 229, and by Childers in Kh. Pâtha, p. 4; translation by Gogerly in the Ceylon Friend, 1839, p. 208; by Childers in Kh. Pâtha, p. 4; and by L. Feer in Journal Asiatique, t. xviii (1871), p. 296.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî, in Getavana, in the park of Anâthapindika. Then, when the night had gone, a deity of beautiful appearance, having illuminated the whole Getavana, approached Bhagavat, and having approached and saluted him, he stood apart, and standing apart that deity addressed Bhagavat in a stanza:

1. 'Many gods and men have devised blessings, longing for happiness, tell thou (me) the highest blessing.' (257)

2. Buddha said: 'Not cultivating (the society of)

[1. Pâmuggakaranam thânam
Pasamsâvahanam sukham
Phalânisamso[*] bhâveti
Vahanto porisam dhuram.

2. Comp. Dhp. v. 205.

*. Phalam patikankhamâno phalânisamso. Commentator.]

p. 44

fools, but cultivating (the society of) wise men, worshipping those that are to be worshipped, this is the highest blessing. (258)

3. 'To live in a suitable country, to have done good deeds in a former (existence), and a thorough study of one's self, this is the highest blessing. (259)

4. 'Great learning and skill, well-learnt discipline, and well-spoken words, this is the highest blessing. (260)

5. 'Waiting on mother and father, protecting child and wife, and a quiet calling, this is the highest blessing. (261)

6. 'Giving alms, living religiously, protecting relatives, blameless deeds, this is the highest blessing. (262)

7. 'Ceasing and abstaining from sin, refraining from intoxicating drink, perseverance in the Dhammas, this is the highest blessing. (263)

8. 'Reverence and humility, contentment and gratitude, the hearing of the Dhamma at due seasons, this is the highest blessing. (264)

9. 'Patience and pleasant speech, intercourse with Samanas, religious conversation at due seasons, this is the highest blessing. (265)

10. 'Penance and chastity, discernment of the noble truths, and the realisation of Nibbâna, this is the highest blessing. (266)

11. 'He whose mind is not shaken (when he is) touched by the things of the world (lokadhamma), (but remains) free from sorrow, free from defilement, and secure, this is the highest blessing. (267)

12. 'Those who, having done such (things), are undefeated in every respect, walk in safety everywhere, theirs is the highest blessing.' (268)

Mahâmangala is ended.

p. 45

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5. SÛKILOMASUTTA.
The Yakkha Sûkiloma threatens to harm Buddha, if he cannot answer his questions. Buddha answers that all passions proceed from the body.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Gayâ (seated) on a stone seat in the realm of the Yakkha Sûkiloma. And at that time the Yakkha Khara and the Yakkha Sûkiloma passed by, not far from Bhagavat. And then the Yakkha Khara said this to the Yakkha Sûkiloma: 'Is this man a Samana?'

Sûkiloma answered: 'He is no Samana, he is a Samanaka (a wretched Samana); however I will ascertain whether he is a Samana or a Samanaka.'

Then the Yakkha Sûkiloma went up to Bhagavat, and having gone up to him, he brushed against Bhagavat's body. Then Bhagavat took away his body. Then the Yakkha Sûkiloma said this to Bhagavat: 'O Samana, art thou afraid of me?'

Bhagavat answered: 'No, friend, I am not afraid of thee, but thy touching me is sinful.'

Sûkiloma said: 'I will ask thee a question, O Samana; if thou canst not answer it I will either scatter thy thoughts or cleave thy heart, or take thee by the feet and throw thee over to the other shore of the Gangâ.'

Bhagavat answered: 'I do not see, O friend, neither in this world together with the world of the Devas, Mâras, Brahmans, nor amongst the generation of Samana and Brâhmanas, gods and men, the one who can either scatter my thoughts or cleave my heart, or take me by the feet and throw me over

p. 46

to the other shore of the Gangâ. However ask, O friend, what thou pleasest.' Then the Yakkha Sûkiloma addressed Bhagavat in a stanza:

1. ' What origin have passion and hatred, disgust, delight, and horror? wherefrom do they arise? whence arising do doubts vex the mind, as boys vex a crow?' (269)

2. Buddha said: 'Passion and hatred have their origin from this (body), disgust, delight, and horror arise from this body; arising from this (body) doubts vex the mind, as boys vex a crow. (270)

3. 'They originate in desire, they arise in self, like the shoots of the banyan tree; far and wide they are connected, with sensual pleasures, like the mâluvâ creeper spread in the wood. (271)

4. 'Those who know whence it (sin) arises, drive it away. Listen, O Yakkha! They cross over this stream that is difficult to cross, and has not been crossed before, with a view to not being born again.' (272)

Sûkilomasutta is ended.

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6. DHAMMAKARIYASUTTA OR KAPILASUTTA.
The Bhikkhus are admonished to rid themselves of sinful persons and advised to lead a pure life.
1. A just life, a religious life, this they call the best gem, if any one has gone forth from house-life to a houseless life. (273)

2. But if he be harsh-spoken, and like a beast delighting in injuring (others), then the life of such a one is very wicked, and he increases his own pollution. (274)

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3. A Bhikkhu who delights in quarrelling and is shrouded in folly, does not understand the Dhamma that is preached and taught by Buddha. (275)

4. Injuring his own cultivated mind, and led by ignorance, he does not understand that sin is the way leading to hell. (276)

5. Having gone to calamity, from womb to womb, from darkness to darkness, such a Bhikkhu verily, after passing away, goes to pain. (277)

6. As when there is a pit of excrement (that has become) full during a number of years,--he who should be such a one full of sin is difficult to purify. (278)

7. Whom you know to be such a one, O Bhikkhus, (a man) dependent on a house, having sinful desires, sinful thoughts, and being with sinful deeds and objects, (279)

8. Him do avoid, being all in concord; blow him away as sweepings, put him away as rubbish. (280)

9. Then remove as chaff those that are no Samanas, (but only) think themselves, blowing away those that have sinful desires and those with sinful deeds and objects. (281)

10. Be pure and live together with the pure, being thoughtful; then agreeing (and) wise you will put an end to pain. (282)

Dhammakariyasutta is ended.

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7. BRÂHMANADMAMMIKASUTTA.
Wealthy Brâhmanas come to Buddha, asking about the customs of the ancient Brâhmanas. Buddha describes their mode of life and the change wrought in them by seeing the king's riches, and furthermore, how they induced the king to commit the sin of
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having living creatures slain at sacrifices. On hearing Buddha's enlightened discourse the wealthy Brâhmanas are converted. Compare Sp. Hardy's Legends, p. 46.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî, in Getavana, in the park of Anâthapindika. Then many wealthy Brâhmanas of Kosala, decrepit, elderly, old, advanced in age, or arrived at extreme old age, went to Bhagavat, and having gone to him they talked pleasantly with him, and after having had some pleasant and remarkable talk with him, they sat down apart. Sitting down apart these wealthy Brâhmanas said this to Bhagavat: 'O venerable Gotama, are the Brâhmanas now-a-days seen (engaged) in the Brâhmanical customs (dhamma) of the ancient Brâhmanas?'

Bhagavat answered: 'The Brâhmanas now-a-days, O Brâhmanas, are not seen (engaged) in the Brâhmanical customs of the ancient Brâhmanas.'

The Brâhmanas said: 'Let the venerable Gotama tell us the Brâhmanical customs of the ancient Brâhmanas, if it is not inconvenient to the venerable Gotama.'

Bhagavat answered: 'Then listen, O Brâhmanas, pay great attention, I will speak.'

'Yes,' so saying the wealthy Brâhmanas listened to Bhagavat. Bhagavat said this:

1. The old sages (isayo) were self-restrained, penitent; having abandoned the objects of the five senses, they studied their own welfare. (283)

2. There were no cattle for the Brâhmanas, nor gold, nor corn, (but) the riches and corn of meditation were for them, and theey kept watch over the best treasure. (284)

p. 49

3. What was prepared for them and placed as food at the door, they thought was to be given to those that seek for what has been prepared by faith. (285)

4. With garments variously coloured, with beds and abodes, prosperous people from the provinces and the whole country worshipped those Brâhmanas. (286)

5. Inviolable were the Brâhmanas, invincible, protected by the Dhamma, no one opposed them (while standing) at the doors of the houses anywhere. (287)

6. For forty-eight years they practised juvenile chastity, the Brâhmanas formerly went in search of science and exemplary conduct. (288)

7. The Brâhmanas did not marry (a woman belonging to) another (caste), nor did they buy a wife; they chose living together in mutual love after having come together. (289)

8. Excepting from the time about the cessation of the menstruation else the Brâhmanas did not indulge in sexual intercourse[1]. (290)

9. They praised chastity and virtue, rectitude, mildness, penance, tenderness, compassion, and patience. (291)

10. He who was the best of them, a strong Brâhmana, did not (even) in sleep indulge in sexual intercourse. (292)

11. Imitating his practices some wise men in this world praised chastity and patience. (293)

12. Having asked for rice, beds, garments, butter. and oil, and gathered them justly, they made sacrifices

[1. Aññatra tamhâ samayâ
Utuveramanim pati
Antarâ methunam dhammam
Nâsu gakkhanti brâhmanâ.]

p. 50

out of them, and when the sacrifice came on, they did not kill cows. (294)

13. Like unto a mother, a father, a brother, and other relatives the cows are our best friends, in which medicines are produced. (295)

14. They give food, and they give strength, they likewise give (a good) complexion and happiness; knowing the real state of this, they did not kill cows. (296)

15. They were graceful, large, handsome, renowned, Brâhmanas by nature, zealous for their several works; as long as they lived in the world, this race prospered. (297)

16. But there was a change in them: after gradually seeing the king's prosperity and adorned women, (298)

17. Well-made chariots drawn by noble horses, carpets in variegated colours, palaces and houses, divided into compartments and measured out, (299)

18. The great human wealth, attended with a number of cows, and combined with a flock of beautiful women, the Brâhmanas became covetous. (300)

19. They then, in this matter, having composed hymns, went to Okkâka, and said: 'Thou hast much wealth and corn, sacrifice thy great property, sacrifice thy great wealth.' (301)

20. And then the king, the lord of chariots, instructed by the Brâhmanas, brought about assamedha, purisamedha, sammâpâsa, and vâkâpeyya without any hinderance, and having offered these sacrifices he gave the Brâhmanas wealth: (302)

21. Cows, beds, garments, and adorned women, and well-made chariots, drawn by noble horses, carpets in variegated colours, (303)

p. 51

22. Beautiful palaces, well divided into compartments; and having filled these with different (sorts of) corn, he gave this wealth to the Brâhmanas. (304)

23. And they having thus received wealth wished for a store, and the desire of those who had given way to (their) wishes increased still more; they then, in this matter, having composed hymns, went again to Okkâka, and said: (305)

24. 'As water, earth, gold, wealth, and corn, even so are there cows for men, for this is a requisite for living beings; sacrifice thy great property, sacrifice thy wealth.' (306)

25. And then the king, the lord of chariots, instructed by the Brâhmanas, caused many hundred thousand cows to be slain in offerings. (307)

26. The cows, that are like goats, do not hurt any one with their feet or with either of their horns, they are tender, and yield vessels (of milk),--seizing them by the horns the king caused them to be slain with a weapon. (308)

27. Then the gods, the forefathers, Inda, the Asuras, and the Rakkhasas cried out: 'This is injustice,' because of the weapon falling on the cows. (309)

28. There were formerly three diseases: desire, hunger, and decay, but from the slaying of cattle there came ninety-eight. (310)

29. This injustice of (using) violence that has come down (to us), was old; innocent (cows) are slain, the sacrificing (priests) have fallen off from the Dhamma. (311)

30. So this old and mean Dhamma is blamed by the wise; where people see such a one, they blame the sacrificing priest. (312)

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31. So Dhamma being lost, the Suddas and the Vessikas disagreed, the Khattiyas disagreed in manifold ways, the wife despised her husband. (313)

32. The Khattiyas and the Brâhmanas and those others who had been protected by their castes, after doing away with their disputes on descent, fell into the power of sensual pleasures. (314)

This having been said, those wealthy Brâhmanas said to Bhagavat as follows:

'It is excellent, O venerable Gotama! It is excellent, O venerable Gotama! As one raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma has been illustrated; we take refuge in the venerable Gotama, in the Dhamma, and in the Assembly of Bhikkhus; may the venerable Gotama receive us as followers (upâsaka), who from this day for life have taken refuge (in him).'

Brâhmanadhammikasutta is ended.

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8. NÂVÂSUTTA.
On choosing a good and learned teacher.
1. A man should worship him from whom he learns the Dhamma, as the gods (worship) Inda; the learned man being worshipped and pleased with him, makes the (highest) Dhamma manifest. (315)

2. Having heard and considered that (Dhamma), the wise man practising the Dhamma that is in

p. 53

accordance with the (highest) Dhamma, becomes learned, expert, and skilful, strenuously associating with such a (learned teacher). (316)

3. He who serves a low (teacher), a fool who has not understood the meaning, and who is envious, goes to death, not having overcome doubt, and not having understood the Dhamma. (317)

4. As a man, after descending into a river, a turgid water with a rapid current, is borne along following the current,--how will he be able to put others across? (318)

5. Even so how will a man, not having understood the Dhamma, and not attending to the explanation of the learned and not knowing it himself, not having overcome doubt, be able to make others understand it? (319)

6. As one, having gone on board a strong ship, provided with oars and rudder, carries across in it many others, knowing the way to do it, and being expert and thoughtful, (320)

7. So also he who is accomplished, of a cultivated mind, learned, intrepid, makes others endowed with attention and assiduity understand it, knowing (it himself). (321)

8. Therefore indeed one should cultivate (the society of) a good man, who is intelligent and learned; he who leads a regular life, having understood what is good and penetrated the Dhamma, will obtain happiness. (322)

Nâvâsutta is ended.

p. 54

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9. KIMSÎLASUTTA.
How to obtain the highest good.
1. By what virtue, by what conduct, and performing what works, will a man be perfectly established (in the commandments) and obtain the highest good? (323)

2. Let him honour old people, not be envious, let him know the (right) time for seeing his teachers, let him know the (right) moment for listening to their religious discourses, let him assiduously hearken to their well-spoken (words). (324)

3. Let him in due time go to the presence of his teachers, let him be humble after casting away obstinacy, let him remember and practise what is good, the Dhamma, self-restraint, and chastity. (325)

4. Let his pleasure be the Dhamma, let him delight in the Dhamma, let him stand fast in the Dhamma, let him know how to enquire into the Dhamma, let him not raise any dispute that pollutes the Dhamma, and let him spend his time in (speaking) well-spoken truths[1]. (326)

5. Having abandoned ridiculous talk, lamentation, corruption, deceit, hypocrisy, greediness and haughtiness, clamour and harshness, depravity and foolishness, let him live free from infatuation, with a steady mind. (327)

6. The words, the essence of which is understood, are well spoken, and what is heard, if understood, contains the essence of meditation; but the understanding and learning of the man who is hasty and careless, does not increase. (328)

[1. Comp. Dhp. v. 364.]

p. 55

7. Those who delight in the Dhamma, proclaimed by the venerable ones, are unsurpassed in speech, mind and work, they are established in peace, tenderness and meditation, and have gone to the essence of learning and understanding. (329)

Kimsîlasutta is ended.

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10. UTTHÂNASUTTA.
Advice not to be lukewarm and slothful.
1. Rise, sit up, what is the use of your sleeping; to those who are sick, pierced by the arrow (of pain), and suffering, what sleep is there? (330)

2. Rise, sit up, learn steadfastly for the sake of peace, let not the king of death, knowing you to be indolent (pamatta), befool you and lead you into his power. (331)

3. Conquer this desire which gods and men stand wishing for and are dependent upon, let not the (right) moment pass by you; for those who have let the (right) moment pass, will grieve when they have been consigned to hell. (332)

4. Indolence (pamâda) is defilement, continued indolence is defilement; by earnestness (appamâda) and knowledge let one pull out his arrow. (333)

Utthânasutta is ended.

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11. RÂHULASUTTA.
Buddha recommends the life of a recluse to Râhula, and admonishes him to turn his mind away from the world and to be moderate.
1. Bhagavat said: 'Dost thou not despise the wise man, from living with him constantly? Is he

p. 56

who holds up a torch to mankind honoured by thee?' (334)

2. Râhula: 'I do not despise the wise man, from living with him constantly; he who holds up a torch to mankind is always honoured by me.' (335)

Vatthugâthâ.

3. Bhagavat: 'Having abandoned the objects of the five senses, the beautiful, the charming, and gone out from thy house with faith, do thou put an end to pain. (336)

4. 'Cultivate (the society of) virtuous friends and a distant dwelling-place, secluded and quiet; be moderate in food[1]. (337)

5. 'Robes, alms (in bowl), requisites (for the sick), a dwelling-place,--do not thirst after these (things), that thou mayest not go back to the world again. (338)

6. 'Be subdued according to the precepts, and as to the five senses, be attentive as regards thy body, and be full of disgust (with the world). (339)

7. 'Avoid signs, what is pleasant and is accompanied with passion, turn thy mind undisturbed and well composed to what is not pleasant. (340)

8. 'Cherish what is signless, leave the inclinations for pride; then by destroying pride thou shalt wander calm.' (341)

So Bhagavat repeatedly admomshed the venerable Râhula with these stanzas.

Râhulasutta is ended.

[1. Mitte bhagassu kalyâne
Pantañ ka sayanâsanam
Vivittam appanigghosam,
Mattaññû hohi bhogane.
Comp. Dhp. v. 185 and v. 375.]

p. 57

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12. VANGÎSASUTTA.
Vangîsa desires to know the fate of Nigrodhakappa, whether he has been completely extinguished, or whether he is still with some elements of existence left behind. He is answered by Buddha.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Alavî, in the temple of Aggâlava. At that time the teacher of the venerable Vangîsa, the Thera, by name Nigrodhakappa, had attained bliss not long before (akiraparinibbuta). Then this reflection occurred to the venerable Vangîsa, while retired and meditating:

Whether my teacher be blessed (parinibbuta) or whether he be not blessed. Then the venerable Vangîsa, at the evening time, coming forth from his retirement went to Bhagavat, and having gone to him he sat down apart after saluting him, and sitting down apart the venerable Vangîsa said this to Bhagavat:

'Lord, while retired and meditating, this reflection occurred to me here: Whether my teacher be blessed or whether he be not blessed.'

Then the venerable Vangîsa, rising from his seat, throwing his robe over one shoulder and bending his joined hands towards Bhagavat, addressed him in stanzas:

1. 'We ask the Master of excellent understanding: he who in this world had cut off doubt, died at Aggâlava, a Bhikkhu, well known, famous, and of a calm mind. (342)

2. 'The name "Nigrodhakappa" was given to that Brâhmana by thee, O Bhagavat; he wandered

p. 58

about worshipping thee, having liberation in view, strong, and seeing Nibbâna. (343)

3. 'O Sakka, thou all-seeing, we all wish to learn (something about) this disciple; our ears are ready to hear, thou art our Master, thou art incomparable. (344)

4. 'Cut off our doubt, tell me of him, inform us of the blessed, O thou of great understanding; speak in the midst of us, O thou all-seeing, as the thousand-eyed Sakka (speaks in the midst) of the gods. (345)

5. 'Whatever ties there are in this world (constituting) the way to folly, combined with ignorance, forming the seat of doubt, they do not exist before Tathâgata, for he is the best eye of men. (346)

6. 'If a man does not for ever dispel the sin as the wind (dispels) a mass of clouds, all the world will be enveloped in darkness, not even illustrious men will shine. (347)

7. 'Wise men are light-bringers, therefore, O wise man, I consider thee as such a one; we have come to him who beholds meditation, reveal Kappa to us in the assembly. (348)

8. 'Uplift quickly, O thou beautiful one, thy beautiful voice, like the swans drawing up (their necks) sing softly with a rich and well-modulated voice; we will all listen to thee attentively. (349)

9. 'Having earnestly called upon him who has completely left birth and death behind and shaken off (sin), I will make him proclaim the Dhamma, for ordinary people cannot do what they want, but the Tathâgatas act with a purpose[1]. (350)

[1. Pahînagâtimaranam asesam
Niggayha dhonam vadessâmi dhammam,
Na kâmakâro hi puthugganânam
Samkheyyakâro ka tathâgatânam.]

p. 59

10. 'This full explanation by thee, the perfectly wise, is accepted, this last clasping of the hands is well bent, O thou of high wisdom, knowing (Kappa's transmigration), do not delude us[1]. (351)

11. ' Having perfectly[2] comprehended the Dhamma of the venerable ones, do not delude (us), O thou of unsurpassed strength, knowing (everything); as one in the hot season pained by the heat (longs for) water, so I long for thy words; send a shower of learning. (352)

12. 'The rich religious life which Kappâyana led, has not that been in vain (to him), has he been (completely) extinguished; or is he still with some elements of existence (left behind)? How he was liberated, that we want to hear.' (353)

13. Bhagavat: 'He cut off the desire for name and form in this world,'--so said Bhagavat,--'Kanha's (i.e. Mâra's) stream, adhered to for a long time, he crossed completely birth and death,' so said Bhagavat, the best of the five (Brâhmanas, pañkavaggiyâ). (354)

14. Vangîsa: 'Having heard thy word, O thou the best of the Isis, I am pleased; not in vain have I asked, the Brâhmana did not deceive me. (355)

15. 'As he talked so he acted, he was a (true) disciple of Buddha, he cut asunder the outspread strong net of deceitful death. (356)

16. 'Kappiya (Kappâyana) saw, O Bhagavat, the beginning

[1. Sampannaveyyâkaranam tava-y-idam
Samuggupaññassa samuggahîtam,
Ayam añgali pakkhimo suppanâmito,
Mâ mohayi gânam anomapañña.

2. Parovaran ti lokuttaralokiyavasena sundarâsundaram dûre santikam vâ. Commentator.]

p. 60

of attachment, Kappâyana verily crossed the realm of death, which is very difficult to cross.' (357)

Vangîsasutta is ended.

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13. SAMMÂPARIBBÂGANIYASUTTA.
The right path for a Bhikkhu.
1. 'We will ask the Muni of great understanding, who has crossed, gone to the other shore, is blessed (parinibbuta), and of a firm mind: How does a Bhikkhu wander rightly in the world, after having gone out from his house and driven away desire?' (358)

2. 'He whose (ideas of) omens, meteors, dreams and signs are destroyed,'--so said Bhagavat,--'such a Bhikkhu who has abandoned the sinful omens, wanders rightly in the world. (359)

3. 'Let the Bhikkhu subdue his passion for human and divine pleasures, then after conquering existence and understanding the Dhamma, such a one will wander rightly in the world. (360)

4. 'Let the Bhikkhu, after casting behind him slander and anger, abandon avarice and be free from compliance and opposition, then such a one will wander rightly in the world. (361)

5. 'He who having left behind both what is agreeable and what is disagreeable, not seizing upon anything, is independent in every respect and liberated from bonds, such a one will wander rightly in the world. (362)

6. 'He does not see any essence in the Upadhis, having subdued his wish and passion for attachments,

p. 61

he is independent and not to be led by others, such a one will wander rightly in the world[1]. (363)

7. 'He who is not opposed (to any one) in word, thought or deed, who, after having understood the Dhamma perfectly, longs for the state of Nibbâna, such a one will wander rightly in the world. (364)

8. 'He who thinking "he salutes me" is not elated, the Bhikkhu who, although abused, does not reflect (upon it, and) having received food from others does not get intoxicated (with pride), such a one will wander rightly in the world. (365)

9. 'The Bhikkhu who, after leaving behind covetousness and existence, is disgusted with cutting and binding (others), he who has overcome doubt, and is without pain, such a one will wander rightly in the world. (366)

10. 'And knowing what becomes him, the Bhikkhu will not harm any one in the world, understanding the Dhamma thoroughly, such a one will wander rightly in the world. (367)

11. 'He to whom there are no affections whatsoever, whose sins are extirpated from the root, he free from desire and not longing (for anything), such a one will wander rightly in the world. (368)

12. 'He whose passions have been destroyed, who is free from pride, who has overcome all the path of passion, is subdued, perfectly happy (parinibbuta), and of a firm mind, such a one will wander rightly in the world. (369)

13. 'The believer, possessed of knowledge, seeing

[1. Na so upadhîsu sâram eti
Âdânesu vineyya khandarâgam
So anissito anaññaneyyo
Sammâ so.]

p. 62

the way (leading to Nibbâna), who is no partisan amongst the partisans (of the sixty-two philosophical views), wise after subduing covetousness, anger, such a one will wander rightly in the world. (370)

14. 'He who is pure and victorious, who has removed the veil (of the world), who is subdued in the Dhammas, has gone to the other shore, is without desire, and skilled in the knowledge of the cessation of the Samkhâras, such a one will wander rightly in the world. (371)

15. 'He who has overcome time (kappâtîta) in the past and in the future, is of an exceedingly pure understanding, liberated from all the dwelling-places (of the mind), such a one will wander rightly in the world. (372)

16. 'Knowing the step (of the four truths), understanding the Dhamma, seeing clearly the abandonment of the passions, destroying all the elements of existence (upadhî), such a one will wander rightly in the world.' (373)

17. 'Certainly, O Bhagavat, it is so: whichever Bhikkhu lives in this way, subdued and having overcome all bonds, such a one will wander rightly in the world.' (374)

Sammâparibbâganiyasutta is ended.

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14. DHAMMIKASUTTA.
Buddha shows Dhammika what the life of a Bhikkhu and what the life of a householder ought to be.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî, in Getavana, in the park of Anâthapindika. Then the follower (upâsaka) Dhammika, together with five

p. 63

hundred followers, went to Bhagavat, and having gone to Bhagavat and saluted him, he sat down apart; sitting down apart the follower Dhammika addressed Bhagavat in stanzas:

1. 'I ask thee, O Gotama of great understanding, How is a Sâvaka (disciple) to act to be a good one? is it the one who goes from his house to the wilderness, or the followers with a house? (375)

2. 'For thou knowest the doings of this world and that of the gods, and the final end; there is nobody like thee seeing the subtle meaning (of things); they call thee the excellent Buddha. (376)

3. 'Knowing all knowledge thou hast revealed the Dhamma, having compassion on creatures; thou hast removed the veil (of the world), thou art all-seeing, thou shinest spotless in all the world. (377)

4. 'The king of elephants, Erâvana by name, hearing that thou wert Gina (the Conqueror), came to thy presence, and having conversed with thee he went away delighted, after listening (to thee, and saying), "Very good!" (378)

5. 'Also king Vessavana Kuvera came to ask thee about the Dhamma; him, too, thou, O wise man, answeredst when asked, and he also after listening was delighted. (379)

6. 'All these disputatious Titthiyas and Âgîvikas and Niganthas do not any of them overcome thee in understanding, as a man standing (does not overcome) the one that is walking quickly. (380)

7. 'All these disputatious Brâhmanas, and there are even some old Brâhmanas, all are bound by thy opinion, and others also that are considered disputants. (381)

8. 'This subtle and pleasant Dhamma that has

p. 64

been well proclaimed by thee, O Bhagavat, and which we all long to hear, do thou, O thou best of Buddhas, speak to us when asked. (382)

9. 'Let all these Bhikkhus and also Upâsakas that have sat down to listen, hear the Dhamma learnt (anubuddha) by the stainless (Buddha), as the gods (hear) the well-spoken (words) of Vâsava.' (383)

10. Bhagavat: 'Listen to me, O Bhikkhus, I will teach you the Dhamma that destroys sin, do ye keep it, all of you; let him who looks for what is salutary, the thoughtful, cultivate the mode of life suitable for Pabbagitas. (384)

11. 'Let not the Bhikkhu walk about at a wrong time, let him go to the village for alms at the right time; for ties ensnare the one that goes at a wrong time, therefore Buddhas do not go at a wrong time. (385)

12. 'Form, sound, taste, smell, and touch which intoxicate creatures, having subdued the desire for (all) these things (dhammas), let him in due time go in for his breakfast. (386)

13. 'And let the Bhikkhu, after having obtained his food at the right time and returned, sit down alone and privately; reflecting within himself let him not turn his mind to outward things, (but be) self-collected. (387)

14. 'If he speak with a Sâvaka or with anybody else, or with a Bhikkhu, let him talk about the excellent Dhamma, (but let him) not (utter) slander, nor blaming words against others. (388)

15. 'For some utter language contradicting others[1]; those narrow-minded ones we do not praise. Ties

[1. Vâdam hi eke patiseniyanti = virugghanti yugghitukâmâ hutvâ senâya patimukham gakkhantâ viya honti. Commentator.]

p. 65

from here and there ensnare them, and they send their mind far away in that (dispute). (389)

16. 'Let a Sâvaka of him with the excellent understanding (Buddha), after hearing the Dhamma taught by Sugata, discriminately seek for food, a monastery, a bed and a chair, and water for taking away the dirt of his clothes. (390)

17. 'But without clinging to these things, to food, to bed and chair, to water for taking away the dirt of his clothes, let a Bhikkhu be like a waterdrop on a lotus. (391)

18. 'A householder's work I will also tell you, how a Sâvaka is to act to be a good one; for that complete Bhikkhu-dhamma cannot be carried out by one who is taken up by (worldly) occupations. (392)

19. 'Let him not kill, nor cause to be killed any living being, nor let him approve of others killing, after having refrained from hurting all creatures, both those that are strong and those that tremble in the world. (393)

20. 'Then let the Sâvaka abstain from (taking) anything in any place that has not been given (to him), knowing (it to belong to another), let him not cause any one to take, nor approve of those that take, let him avoid all (sort of) theft. (394)

21. ' Let the wise man avoid an unchaste life as a burning heap of coals; not being able to live a life of chastity, let him not transgress with another man's wife. (395)

22. 'Let no one speak falsely to another in the hall of justice or in the hall of the assembly, let him not cause (any one) to speak (falsely), nor approve of those that speak (falsely), let him avoid all (sort of) untruth. (396)

p. 66

23. 'Let the householder who approves of this Dhamma, not give himself to intoxicating drinks; let him not cause others to drink, nor approve of those that drink, knowing it to end in madness. (397)

24. 'For through intoxication the stupid commit sins and make other people intoxicated; let him avoid this seat of sin, this madness, this folly, delightful to the stupid. (398)

25. 'Let him not kill any living being, let him not take what has not been given (to him), let him not speak falsely, and let him not drink intoxicating drinks, let him refrain from unchaste sexual intercourse, and let him not at night eat untimely food. (399)

26. 'Let him not wear wreaths nor use perfumes, let him lie on a couch spread on the earth:--this they call the eightfold abstinence (uposatha), proclaimed by Buddha, who has overcome pain. (400)

27. 'Then having with a believing mind kept abstinence (uposatha) on the fourteenth, fifteenth, and the eighth days of the half-month, and (having kept) the complete Pâtihârakapakkha[1] consisting of eight parts, (401)

28. 'And then in the morning, after having kept abstinence, let a wise man with a believing mind, gladdening the assembly of Bhikkhus with food and drink, make distributions according to his ability. (402)

29. 'Let him dutifully maintain his parents, and practise an honourable trade; the householder who observes this strenuously goes to the gods by name, Sayampabhas.' (403)

Dhammikasutta is ended.

Kûlavagga is ended.

[1. Compare T. W. Rhys Davids, Buddhism, p. 141.]


III. MAHÂVAGGA.


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1. PABBAGGÂSUTTA.
King Bimbisâra feeling interested in Buddha tries to tempt him with wealth, but is mildly rebuked by Buddha.
1. I will praise an ascetic life such as the clearly-seeing (Buddha) led, such as he thinking (over it) approved of as an ascetic life. (404)

2. ' This house-life is pain, the seat of impurity,' and 'an ascetic life is an open-air life,' so considering he embraced an ascetic life. (405)

3. Leading an ascetic life, he avoided with his body sinful deeds, and having (also) abandoned sin in words, he cleansed his life. (406)

4. Buddha went to Râgagaha, he entered the Giribbaga in Magadha for alms with a profusion of excellent signs. (407)

5. Bimbisâra standing in his palace saw him, and seeing him endowed with these signs, he spoke these words: (408)

6. 'Attend ye to this man, he is handsome, great, clean, he is both endowed with good conduct, and he does not look before him further than a yuga (the distance of a plough). (409)

7. 'With downcast eyes, thoughtful, this one is not like those of low caste; let the king's messengers run off, (and ask): "Where is the Bhikkhu going?"' (410)

8. The king's messengers followed after (him, and

p. 68

said): 'Where is the Bhikkhu going, where will he reside? (411)

9. 'Going begging from house to house, watching the door (of the senses), well restrained, he quickly filled his bowl, conscious, thoughtful. (412)

10. 'Wandering about in search of alms, having gone out of town, the Muni repaired to (the mountain) Pandava; it must be there he lives.' (413)

11. Seeing that he had entered his dwelling, the messengers then sat down, and one messenger having returned announced it to the king. (414)

12. 'This Bhikkhu, O great king, is sitting on the east side of Pandava, like a tiger, like a bull, like a lion in a mountain cave.' (415)

13. Having heard the messenger's words, the Khattiya in a fine chariot hastening went out to the Pandava mountain. (416)

14. Having gone as far as the ground was practicable for a chariot, the Khattiya, after alighting from the chariot, and approaching on foot, having come up (to him), seated himself. (417)

15. Having sat down the king then exchanged the usual ceremonious greetings with him, and after the complimentary talk he spoke these words: (418)

16. 'Thou art both young and delicate, a lad in his first youth, possessed of a fine complexion, like a high-born Khattiya. (419)

17. 'I will ornament the army-house, and at the head of the assembly of chiefs (nâga) give (thee) wealth; enjoy it and tell me thy birth, when asked.' (420)

18. Buddha: 'Just beside Himavanta, O king, there lives a people endowed with the power of wealth, the inhabitants of Kosala. (421)

p. 69

19. 'They are Âdikkas by family, Sâkiyas by birth; from that family I have wandered out, not longing for sensual pleasures. (422)

20. 'Seeing misery in sensual pleasures, and considering the forsaking of the world as happiness, I will go and exert myself; in this my mind delights.' (423)

Pabbaggâsutta is ended.

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2. PADHÂNASUTTA.
Mâra tries to tempt Buddha, but disappointed is obliged to withdraw. Comp. Gospel of S. Matthew iv.
1. To me, whose mind was intent upon exertion near the river Nerañgarâ, having exerted myself, and given myself to meditation for the sake of acquiring Nibbâna (yogakkhema), (424)

2. Came Namuki speaking words full of compassion: 'Thou art lean, ill-favoured, death is in thy neighbourhood. (425)

3. 'A thousandth part of thee (is the property) of death, (only) one part (belongs to) life; living life, O thou venerable one, is better; living thou wilt be able to do good works[1]. (426)

4. 'When thou livest a religious life, and feedest the sacrificial fire, manifold good works are woven to thee; what dost thou want with exertion? (427)

5. 'Difficult is the way of exertion, difficult to pass, difficult to enter upon;' saying these verses Mâra stood near Buddha. (428)

[1. Sahassabhâgo maranassa,
Ekamso tava gîvitam,
Gîvam bho gîvitam seyyo,
Gîvam puññâni kâhasi.]

p. 70

6. To Mâra thus speaking Bhagavat said this: 'O thou friend of the indolent, thou wicked one, for what purpose hast thou come here? (429)

7. 'Even the least good work is of no use to me; and what good works are required, Mâra ought to tell. (430)

8. 'I have faith and power, and understanding is found in me; while thus exerting myself, why do you ask me to live[1]? (431)

9. 'This (burning) wind will dry up even the currents of the rivers; should it not by degrees dry up my blood, while I am exerting myself? (432)

10. 'While the blood is drying up, the bile and the phlegm are dried up; while the flesh is wasting away, the mind gets more tranquil, and my attention, understanding, and meditation get more steadfast[2]. (433)

11. 'While I am living thus, after having felt the extreme sensations, my mind does not look for sensual pleasures; behold a being's purity. (434)

12. 'Lust thy first army is called, discontent thy second, thy third is called hunger and thirst, thy fourth desire. (435)

13. 'Thy fifth is called sloth and drowsiness, thy sixth cowardice, thy seventh doubt, thy eighth hypocrisy and stupor, (436)

14. 'Gain, fame, honour, and what celebrity has

[1. Evam mam pahitattam pi
Kim gîvam anupukkhasi.

2. Lohite sussamânamhi
Pittam semhañ ka sussati,
Mamsesu khîyamânesu
Bhiyyo kittam pasîdati
Bhiyyo sati ka paññâ ka
Samâdhi mama titthati.]

p. 71

been falsely obtained; and he who exalts himself and despises others[1]. (437)

15. 'This, O Namuki, is thine, the black one's, fighting army; none but a hero conquers it, and after conquering it obtains joy. (438)

16. 'Woe upon life in this world! death in battle is better for me than that I should live defeated. (439)

17. 'Plunged into this world some Samanas and Brâmanas are not seen, and they do not know the way in which the virtuous walk. (440)

18. 'Seeing on all sides an army arrayed, and Mâra on his elephant, I am going out to do battle, that he may not drive me away from my place. (441)

19. 'This army of thine, which the world of men and gods cannot conquer, I will crush with understanding as (one crushes) an unbaked earthen pot with a stone[2]. (442)

20. 'Having made my thought subject to me and my attention firm, I shall wander about from kingdom to kingdom, training disciples extensively. (443)

21. 'They (will be) zealous and energetic, executing my orders, (the orders) of one free from lust, and they will go (to the place) where, having gone, they will not mourn.' (444)

22. Mâra: 'For seven years I followed Bhagavat step by step; I found no fault in the perfectly enlightened, thoughtful (Buddha). (445)

[1. Yo k' attânam samukkamse
Pare ka avagânati.

2. Yam te tam na-ppasahati
Senam loko sadevako
Tam te paññâya gakkhâmi[*]
Âmam pattam va amhanâ.

*. Instead of gakkhâmi I read bhañgâmi. Ba has vekkhâpi, Bi vegghâmi.]

p. 72

23. 'The crow hovered round the rock that looked like (a lump of) fat: "Do we here find something soft, is it something sweet?" (446)

24. 'Having obtained nothing sweet there, the crow went away from that spot. Thus like the crow approaching the rock, being disgusted, we shall go away from Gotama[1].' (447)

25. While overcome with sorrow the string of his lute slipped down; then that evil-minded Yakkha disappeared there. (448)

Padhânasutta is ended.

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3. SUBHÂSITASUTTA.
On well-spoken language.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî in Getavana. Bhagavat said this: 'O Bhikkhus, the speech that is provided with four requisites is well-spoken, not ill-spoken, both faultless and blameless to the wise.'

'Which four?'

'O Bhikkhus, the Bhikkhu speaks well-spoken (language), not ill-spoken; he speaks what is right (dhamma), not what is unrighteous (adhamma); he speaks what is pleasing, not what is unpleasing; he speaks what is true, not what is false. O Bhikkhus, the speech that is provided with these four requisites, is well-spoken, not ill-spoken, both faultless

[1. Kâko va selam âsagga[*].
Nibbiggâpema Gotamam[+].

*. Cb Ck âvagga, Ba assagga, Bi âssagga.

+. Instead of Gotamam I read Gotamâ.]

p. 73

and blameless to the wise.' This said Bhagavat. When Sugata had said this, then the Master spoke the following:

1. 'Well-spoken language the just call the principal (thing); let one speak what is right (dhamma), not what is unrighteous (adhamma), that is the second; let one speak what is pleasing, not what is unpleasing, that is the third; let one speak what is true, not what is false, that is the fourth.' (449)

Then the venerable Vangîsa, rising from his seat, throwing his robe over one shoulder and bending his joined hands towards Bhagavat, said this: 'It occurs to me, O Sugata!'

'Let it occur to thee, O Vangîsa!' said Bhagavat.

Then the venerable Vangîsa, standing before Bhagavat, praised him with appropriate stanzas:

2. 'Let one say such words by which he does not pain himself, nor hurt others; such words are truly well-spoken. (450)

3. 'Let one speak pleasing words which are received joyfully (by all), and which (saying) he, without committing sins, speaks what is pleasing to others. (451)

4. 'Truth verily is immortal speech, this is a true saying; in what is true, in what is good, and in what is right, the just stand firm, so they say. (452)

5. 'The words which Buddha speaks, which are sure to bring about extinction and put an end to pain, such (words) are truly the best.' (453)

Subhâsitasutta is ended.

p. 74

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4. SUNDARIKABHÂRADVÂGASUTTA.
Buddha shows to Sundarikabhâradvâga on whom to bestow oblations, and the Brâmana is finally converted.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt in Kosala on the bank of the river Sundarikâ. And during that time the Brâmana Sundarikabhâradvâga made offerings to the fire and worshipped the fire. Then the Brâmana Sundarikabhâradvâga, having made offerings to the fire and worshipped the fire, and having risen from his seat, looked about him on all sides towards the four quarters of the globe, saying: 'Who is to enjoy the rest of this oblation?' The Brâmana Sundarikabhâradvâga saw Bhagavat sitting not far off at the root of a tree, wrapped up head and body; and seeing him he, after taking the rest of the oblation with his left hand and the waterpot with his right hand, went up to Bhagavat. Then Bhagavat, on hearing the footsteps of Sundarikabhâradvâga, the Brâmana, uncovered his head. Then the Brâhmana Sundarikabhâradvâga thought: 'This man is shaved, this man is a shaveling,' and he wished to return again from there. Then this came to the mind of Sundarikabhâradvâga, the Brâmana: 'Some Brâmanas also here are shaved, I think I shall go up and ask him about his descent.' Then the Brâhmana Sundarikabhâradvâga went up to Bhagavat, and having gone up he said this: 'Of what family art thou?'

Then Bhagavat answered Sundarikabhâradvâga, the Brâmana, in stanzas:

1. 'No Brâmana am I, nor a king's son, nor any

p. 75

Vessa; having thoroughly observed the class of common people, I wander about the world reflectingly, possessing nothing. (454)

2. 'Dressed in a sanghâti[1] and houseless I wander about, with my hair cut off, calm, not intermixing with people in this world. Thou askest me an unseasonable question about (my) family, O Brâhmana!' (455)

3. Sundarikabhâradvâga: 'Sir, Brâmanas together with Brâmanas ask truly, Art thou a Brâhmana?'

Bhagavat: 'If thou sayest, I am a Brâmana, and callest me no Brâmana, then I ask thee about the Sâvitti that consists of three padas and twenty-four syllables[2].' (456)

4. Sundarikabhâradvâga: 'For what (reason) did the Isis, men, Khattiyas, Brâmanas make offerings to the gods abundantly in this world?'

Bhagavat: 'He who, perfect and accomplished at the time of offering, obtains the ear of one or the other (god), he will succeed, so I say.' (457)

5. 'Surely his offering will bear fruit,'--so said the Brâmana,--'because we saw such an accomplished man; for by not seeing such as you, somebody else will enjoy the oblation.' (458)

6. Bhagavat: 'Therefore, O Brâmana, as you have come here to ask for something, ask; perhaps thou mightest here find one that is calm, without anger, free from pain, free from desire, one with a good understanding.' (459)

[1. See Rhys Davids, Buddhism, p. 166.

2. Tam Sâvittim pukkhâmi
Tipadam katuvîsatakkharam.
(Rig-veda III, 62, 10.)]

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7. Sundarikabhâradvâga: 'I delight in offering, O Gotama, I desire to make an offering, but I do not understand it; do thou instruct me, tell me in what case the offering succeeds.' (460)

8. Bhagavat: 'Therefore, O Brâmana, lend me thy ear, I will teach thee the Dhamma. (461)

9. 'Do not ask about descent, but ask about conduct; from wood, it is true, fire is born; (likewise) a firm Muni, although belonging to a low family, may become noble, when restrained (from sinning) by humility. (462)

10. 'He who is subdued by truth, endowed with temperance, accomplished, leading a religious life, on such a one in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good works in view, offer. (463)

11. 'Those who, after leaving sensual pleasures, wander about houseless, well restrained, being like a straight shuttle, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good works in view, offer. (464)

12. 'Those whose passions are gone, whose senses are well composed, who are liberated like the moon out of the grasp of Râhu, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good works in view, offer. (465)

13. 'Those who wander about in the world without clinging (to anything), always thoughtful, having left selfishness, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good works in view, offer. (466)

14. 'He who, after leaving sensual pleasures, wanders about victorious, he who knows the end of birth and death, who is perfectly happy (parinibbuta),

p. 77

calm like a deep water, Tathâgata deserves the oblation. (467)

15. 'Just with the just and far from the unjust[1], Tathâgata is possessed of infinite understanding; undefiled both in this world and in the other, Tathâgata deserves the oblation. (468)

16. 'He in whom there lives no deceit, no arrogance, he who is free from cupidity, free from selfishness, free from desire, who has banished anger, who is calm, the Brâmana who has removed the taint of grief, Tathâgata deserves the oblation. (469)

17. 'He who has banished (every) resting-place of the mind, he for whom there is no grasping, he who covets nothing either in this world or in the other, Tathâgata deserves the oblation[2]. (470)

18. 'He who is composed, who has crossed over the stream (of existence) and knows the Dhamma by (taking) the highest view (of it), he whose passions are destroyed, who is wearing the last body, Tathâgata deserves the oblation. (471)

19. 'He whose passion for existence and whose harsh talk are destroyed, are perished, (and therefore) exist not, he the accomplished and in every respect liberated Tathâgata deserves the oblation. (472)

20. 'He who has shaken off all ties, for whom there are no ties, who amongst arrogant beings is free from arrogance, having penetrated pain together with its domain and subject, Tathâgata deserves the oblation. (473)

21. 'He who, without giving himself up to desire, sees seclusion (i.e. Nibbâna), who has overcome the view that is to be taught by others, to whom there

[1. Samo samehi visamehi dûre.

2. Comp. Dhp. v. 20.]

p. 78

are no objects of sense whatever, Tathâgata deserves the oblation[1]. (474)

22. 'He to whom all Dhammas of every description, after he has penetrated them, are destroyed, are perished, (and therefore) exist not, he who is calm, liberated in the destruction of attachment (i.e. Nibbâna), Tathâgata deserves the oblation. (475)

23. 'He who sees the destruction of bond and birth, who has totally evaded the path of passion, (who is) pure, faultless, spotless, undepraved, Tathâgata deserves the oblation. (476)

24. 'He who does not measure himself by himself, who is composed, upright, firm, without desire, free from harshness (akhila), free from doubt, Tathâgata deserves the oblation. (477)

25. 'He to whom there is no cause of folly, who has a supernatural insight in all Dhammas, who wears the last body, and who has acquired perfect enlightenment, the highest, the blessed, (for him) thus a Yakkha's purification (takes place)[2].' (478)

26. Sundarikabhâradvâga: 'May my offering be a true offering, because I met with such a one out of the accomplished; Brahman is my witness, may Bhagavat accept me, may Bhagavat enjoy my oblation.' (479)

27. Bhagavat: 'What is obtained by stanzas is not to be enjoyed by me, this is not the custom of the clearly-seeing, O Brâmana; Buddhas reject what is obtained by stanzas. While the Dhamma

[1. Âsam anissâya vivekadassî
Paravediyam[*] ditthim upâtivatto
Ârammanâ yassa na santi keki, &c.

2. Comp. Kalahavivâdasutta, v. 14.

*. Paravediyan ti parehi ñâpetabbam. Commentator.]

p. 79

exists, O Brâmana, this is the practice (of the Buddhas). (480)

28. 'With other food and drink must thou serve one that is perfect, a great Isi, whose passions are destroyed, and whose misbehaviour has ceased, for this is a field for one who looks for good works[1].' (481)

29. Sundarikabhâradvâga: 'Good, O Bhagavat, then I should like to know, who will enjoy a gift from one like me, and whom I shall seek at the time of sacrifice (as one worthy of offerings) after having accepted thy doctrine.' (482)

30. Bhagavat: 'Whosoever has no quarrels, whose mind is untroubled, and who has freed himself from lusts, whose sloth is driven away, (483)

31. 'Whosoever conquers his sins, knows birth and death, the Muni who is endowed with wisdom[2], such a one who has resorted to offering, (484)

32. 'Him you should worship and honour with food and drink; so the gifts will prosper.' (485)

33. Sundarikabhâradvâga: 'Thou Buddha deservest the oblation, (thou art) the best field for good works, the object of offering to all the world; what is given to thee will bear great fruit.' (486)

Then the Brâmana Sundarikabhâradvâga said this to Bhagavat: 'It is excellent, O venerable Gotama! It is excellent, O venerable Gotama! As one raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma has been illustrated; I take refuge in

[1. Comp. Kasibhâradvâgsutta, v. 7.

2. Moneyyasampannam = paññâsampannam. Commentator.]

p. 80

the venerable Gotama, in the Dhamma, and in the Assembly of Bhikkhus; I wish to receive the robe and the orders from the venerable Gotama.'

The Brâmana Sundarikabhâradvâga received the pabbaggâ from Bhagavat, and he received also the upasampadâ; and the venerable Bhâradvâga, having lately received the upasampadâ, leading a solitary, retired, strenuous, ardent, energetic life, lived after having in a short time in this existence by his own understanding ascertained and possessed himself of that highest perfection of a religious life for the sake of which men of good family rightly wander away from their houses to a houseless state. 'Birth had been destroyed, a religious life had been led, what was to be done had been done, there was nothing else (to be done) for this existence,' so he perceived, and the venerable Bhâradvâga became one of the arahats.

Sundarikabhâradvâgasutta is ended.

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5. MÂGHASUTTA.
Buddha on being asked tells Mâgha of those worthy of offerings and the blessing of offering.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Râgagaha, in the mountain (called) the Vulture's Peak (Gigghakûta).

Then the young man Mâgha went to Bhagavat, and having gone to him he talked pleasantly with him, and after having had some pleasant, remarkable conversation with him he sat down apart; sitting down apart the young man Mâgha spoke this to Bhagavat:

p. 81

'O venerable Gotama, I am a liberal giver, bountiful, suitable to beg of; justly I seek for riches, and having sought for riches justly, I give out of the justly obtained and justly acquired riches to one, to two, to three, to four, to five, to six, to seven, to eight, to nine, to ten, to twenty, to thirty, to forty, to fifty, to a hundred, I give still more. (I should like to know), O venerable Gotama, whether I, while so giving, so offering, produce much good.'

'Certainly, O young man, dost thou in so offering produce much good; he, O young man, who is a liberal giver, bountiful, suitable to beg of, and who justly seeks for riches, and having sought for riches justly, gives out of his justly obtained and justly acquired riches to one, to two, to three, to four, to five, to six, to seven, to eight, to nine, to ten, to twenty, to thirty, to forty, to fifty, to a hundred, and gives still more, produces much good.'

Then the young man Mâgha addressed Bhagavat in stanzas:

1. 'I ask the venerable Gotama, the bountiful,'--so said the young man Mâgha,--'wearing the yellow robe, wandering about houseless:' 'He who is a householder, suitable to beg of, a donor, who, desirous of good, offers having what is good in view, and giving to others in this world food and drink,--where (i.e. on whom bestowed) will the oblation of such an offerer prosper?' (487)

2. 'He who is a householder, suitable to beg of, a donor, O Mâgha,'--so said Bhagavat,--'who, desirous of good, offers having what is good in view, and giving to others in this world food and drink, such a one will prosper with those worthy of offerings.' (488)

p. 82

3. 'He who is a householder, suitable to beg of, a donor,'--so said the young man,--'who, desirous of good, offers having what is good in view, and giving to others in this world food and drink,--tell me (I being such a one), O Bhagavat, of those worthy of offerings.' (489)

4. Bhagavat: 'Those indeed who wander about in the world without clinging to anything and without possessing anything, perfect, self-restrained, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâhmana who has good (works) in view, offer. (490)

5. 'Those who have cut through all bonds and fetters, who are subdued, liberated, free from pain, and free from desire, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (491)

6. 'Those who are released from all bonds, who are subdued, liberated, free from pain, and free from desire on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (492)

7. 'Those who, having forsaken both passion and hatred and folly, have destroyed their desires and lead a religious life, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâhmana who has good (works) in view, offer[1]. (493)

8. 'Those in whom there lives no deceit, no arrogance, who are free from cupidity, free from selfishness, free from desire, on such in due time people should bestew oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (494)

9. 'Those indeed who without being lost in desire,

[1. Comp. Dhp. v. 20.]

p. 83

after crossing the stream (of existence), wander about free from selfishness, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (495)

10. 'Those in whom there is no desire for anything in the world, nor for existence after existence here or in the other world, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (496)

11. 'Those who, after leaving sensual pleasures, wander about houseless, well restrained, being like a straight shuttle, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (497)

12. 'Those whose passions are gone, whose senses are well composed, who are liberated like the moon out of the grasp of Râhu, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâhmana who has good (works) in view, offer. (498)

13. 'Those who are calm, whose passions are gone, who are without anger, and for whom there is no transmigration after having left here, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâhmana who has good (works) in view, offer. (499)

14. 'Those who, after leaving birth and death altogether, have conquered all doubt, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (500)

15. 'Those who wander about in the world with themselves for a light, not possessed of anything, in every respect liberated, on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (501)

16. 'Those who in this world rightly understand

p. 84

this: "This is the last (birth), there is no re-birth," on such in due time people should bestow oblations; let the Brâmana who has good (works) in view, offer. (502)

17. 'He who is accomplished, and delights in meditation, thoughtful, possessed of thorough enlightenment, a refuge for many, on such a one in due time people should bestow oblations; let the Brâhmana who has good (works) in view, offer.' (503)

18. 'Certainly my question was not in vain, Bhagavat has told me of those worthy of offerings; for thou truly knowest this in this world, as surely to thee this Dhamma is known. (504)

19. 'He who is a householder, suitable to beg of, a donor,'--so said the young man Mâgha,--'who, desirous of good, offers having what is good in view, and giving to others in this world food and drink,--tell me (I being such a one), O Bhagavat, of the blessing of offering.' (505)

20. 'Offer, O Mâgha,'--so said Bhagavat,--'and while offering make calm thy mind in all things; the object of the one that offers is the oblation, standing fast in this he leaves hatred behind. (506)

21. 'Such a one whose passion is gone will repress hatred, cultivating an unbounded friendly mind; continually strenuous night and day he will spread infinite goodness through all regions.' (507)

22. Mâgha: 'Who prospers? who is liberated and who is bound? In which way can one by himself go to Brahmaloka? Tell this to me who does not know, O Muni, when asked. Bhagavat is indeed my witness that Brahman is seen by me to-day, for thou art to us equal to Brahman, this is the truth; how can one attain Brahmaloka, O thou glorious one?' (508)

p. 85

23. 'He who offers the threefold blessing of oblation, O Mâgha,'--so said Bhagavat,--'such a one will prosper with those worthy of offerings; so, having offered properly, he who is suitable to beg of attains Brahmaloka, so I say.' (509)

This having been said, Mâgha the young man spoke as follows to Bhagavat: 'Excellent, O venerable Gotama! Excellent, O venerable Gotama! As one raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma has been illustrated; I take refuge in the venerable Gotama and in the Dhamma and in the Assembly of Bhikkhus. Let the venerable Gotama accept me as an upâsaka (a follower, me), who henceforth for all my life have taken refuge (in him).'

Mâghasutta is ended.

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6. SABHIYASUTTA.
Sabhiya, the Paribbâgaka, goes to the six famous teachers of his time to have his questions answered, but not having his doubts solved, he repairs to Gotama and asks him how one is to behave to become a Brâmana, a Samana, a Nahâtaka, a Khettagina, a Kusala, a Pandita, a Muni, a Vedagû, an Anuvidita, a Dhîra, an Âgâniya, a Sottiya, an Ariya, a Karanavat, a Paribbâgaka. Bhagavat answers his questions, and Sabhiya finally receives the robe and the orders from Buddha.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Râgagaha, in Veluvana, in Kalandakanivâpa. And at that time questions were recited to Sabhiya, the Paribbâgaka

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(wandering mendicant), by an old benevolent deity: 'He who, O Sabhiya, be it a Samana or a Brâmana, explains these questions to thee when asked, near him thou shouldst live a religious life.'

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, having learnt the questions from that deity, went to whatever Samanas and Brâmanas there were that had an assembly (of Bhikkhus), a crowd (of followers), and were well-known teachers, famous leaders, considered excellent by the multitude, as Pûrana-Kassapa, Makkhali-Gosâla, Agita-Kesakambali, Pakudha-Kakkâyana, Sañgaya-Belatthiputta, and Nigantha-Nâtaputta. Those he went to, and after going to them, he asked the questions. They, being asked the questions by Sabhiya, the Paribbâgaka, did not succeed (in answering them), and not succeeding, they showed wrath and hatred and discontent, and they also in return put questions to Sabhiya, the Paribbâgaka.

Then this came to the mind of Sabhiya, the Paribbâgaka: 'Whatever Samanas and Brâmanas there are that have an assembly (of Bhikkhus), a crowd (of followers), and are well-known teachers, famous leaders, considered excellent by the multitude, as Pûrana-Kassapa, Makkhali-Gosâla, Agita-Kesakambali, Pakudha-Kakkâyana, Sañgaya-Belatthiputta, and Nigantha-Nâtaputta, they, being asked questions by me, did not succeed (in answering them), and not succeeding they showed wrath and hatred and discontent, and they also in return put questions to me in this matter; surely I think I shall go back to what I have left, and enjoy sensual pleasures.

Then this came to the mind of Sabhiya, the Paribbâgaka: 'This Samana Gotama has both an

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assembly (of Bhikkhus) and a crowd (of followers), and is a well-known teacher, a famous leader, considered excellent by the multitude, surely I think I shall go to Samana Gotama and ask these questions.' Then this came to the mind of Sabhiya, the Paribbâgaka: 'Whatever Samanas and Brâhmanas there are that are decayed, old, aged, advanced in years, having reached old age, experienced elders, long ordained, having assemblies (of Bhikkhus), crowds (of followers), being teachers well-known, famous leaders, considered excellent by the multitude, as Pûrana-Kassapa, Makkhali-Gosâla, Agita-Kesakambali, Pakudha-Kakkâyana, Sañgaya-Belatthiputta, and Nigantha-Nâtaputta, they, being asked questions by me, did not succeed (in answering them), and not succeeding they showed wrath and hatred and discontent, and they also in return put questions to me in this matter; (I should like to know) whether Samana Gotama being asked these questions will be able to explain them to me, for Samana Gotama is both young by birth and new in ascetic life.'

Then this came to the mind of Sabhiya, the Paribbâgaka: 'Samana Gotama is not to be slighted because he is young; even if the Samana is young, yet he is mighty and powerful; surely I think I shall go to Samana Gotama and ask these questions.' Then Sabhiya, the Paribbâgaka, went on a journey to Râgagaha, and wandering on his journey in regular order he came to Râgagaha, Veluvana, Kalandakanivâpa, to Bhagavat, and having come to Bhagavat he talked pleasantly with him, and after having had some pleasant and remarkable conversation with him he sat down apart; sitting down apart

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Sabhiya, the Paribbâgaka, spoke to Bhagavat in stanzas:

1. 'Anxious and doubtful I have come,'--so said Sabhiya,--'longing to ask questions. Do thou put an end to these (doubts when) asked these questions by me, in regular order, and rightly explain them to me.' (510)

2. 'Thou hast come from afar, O Sabhiya,'--so said Bhagavat,--'longing to ask questions; I shall put an end to those (doubts when) asked those questions by thee, in regular order, and rightly I shall explain them to thee. (511)

3. 'Ask me, O Sabhiya, a question; whatsoever thou wishest in thy mind that question I (will explain, and) put an end to (thy doubt).' (512)

Then this came to the mind of Sabhiya, the Paribbâgaka: 'It is marvellous, it is wonderful indeed, the reception which I did not get from other Samanas and Brâhmanas has been given me by Gotama,' so saying he glad, rejoicing, delighted, and highly elated asked Bhagavat a question:

4. 'What should a man (necessarily) have obtained that people may call him a Bhikkhu?'--so said Sabhiya,--'how may they call him compassionate, and how subdued? how can he be called enlightened (buddha)? Asked (about this) do thou, Bhagavat, explain it to me.' (513)

5. 'He who by the path he has himself made, O Sabhiya,'--so said Bhagavat,--'has attained to perfect happiness, who has conquered doubt, who lives after having left behind both gain and goods, who has destroyed re-birth, he is a Bhikkhu. (514)

6. 'Always resigned and attentive, he will not hurt any one in all the world, the Samana who has

p. 89

crossed the stream (of existence, and is) untroubled; for whom there are no desires (ussada), he is compassionate. (515)

7. 'He whose senses are trained internally and externally in all the world, he who after penetrating this and the other world longs for death, being trained, he is subdued. (516)

8. 'Whosoever, after having considered all times (kappa), the revolution (samsâra), both the vanishing and re-appearance (of beings), is free from defilement, free from sin, is pure, and has obtained destruction of birth, him they call enlightened (buddha).' (517)

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, having approved of and rejoiced at the words of Bhagavat, glad, rejoicing, delighted, highly elated, asked Bhagavat another question:

9. 'What should a man (necessarily) have obtained that people may call him a Brâmana?'--so said Sabhiya,--'and how (may they call him) a Samana? and how a Nahâtaka? how can he be called a Nâga? Asked (about this) do thou Bhagavat explain it to me.' (518)

10. 'He who, after removing all sins, O Sabhiya,'--so said Bhagavat,--'is immaculate, well composed, firm-minded, perfect after crossing the Samsâra, such an independent one is called a Brâmana. (519)

11. 'He who is calm, having left behind good and evil, free from defilement, having understood this and the other world, and conquered birth and death, such a one is called a Samana by being so[1].' (520)

12. 'Whosoever, after having washed away all sins internally and externally in all the world, does

[1. Samano tâdi pavukkate tathattâ.]

p. 90

not enter time (kappa) amongst gods and men who are subject to time, him they call a Nahâtaka (cleansed)[1]. (521)

13. 'He who does not commit any crime in the world, who, after abandoning all bonds and fetters, clings to nothing, being liberated, such a one is called a Nâga (sinless) by being so[2].' (522)

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, having approved of and rejoiced at the words of Bhagavat, glad, rejoicing, delighted, highly elated, further asked Bhagavat a question:

14. 'Whom do the Buddhas call a Khettagina?'--so said Sabhiya,--'how (can they call any one) a Kusala? and how a Pandita? how can he be called a Muni? Asked (about this) do thou Bhagavat explain it to me.' (523)

15. 'He who, after examining all regions, O Sabhiya,'--so said Bhagavat,--'the divine and the human, and Brahman's region, is delivered from the radical bond of all regions, such a one is called a Khettagina (he who has conquered the regions) by being so. (524)

16. 'He who, after examining all treasures, the divine and the human, and Brahman's treasure, is delivered from the radical bond of all treasures, such a one is called a Kusala (happy) by being so. (525)

17. 'He who, after examining both kinds of senses, internally and externally, is endowed with a

[1. Devamanussesu kappiyesu
Kappan n' eti tam âhu nahâtako.

2. Âgum na karoti kiñki loke
Sabbasamyoge visagga bandhanâni
Sabbattha na saggatî vimutto
Nâgo tâdi pavukkate tathattâ.
But compare Pabbaggâsutta 17, Mâgandiyasutta 11, &c.]

p. 91

clear understanding and has conquered evil and good (kanhasukka), such a one is called a Pandita (wise) by being so. (526)

18. 'He who, having understood the Dhamma of the just and the unjust, internally and externally, in all the world, is to be worshipped by gods and men, he, after breaking through the net of ties, is called a Muni (sage).' (527)

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, having approved of and rejoiced at the words of Bhagavat, glad, rejoicing, delighted, highly elated, further asked Bhagavat a question:

19. 'What should one (necessarily) have obtained that people may call him Vedagû?'--so said Sabhiya,--'and how (may they call him) Anuvidita? and how Viriyavat? How does one become Âgâniya? Asked (about this) do thou, O Bhagavat, explain it to me.' (528)

20. 'He who, having conquered all sensations, O Sabhiya,'--so said Bhagavat,--'which are (known) to Samanas and to Brâmanas, is free from passion for all sensations, he is Vedagû (having passed sensation) after conquering all sensation. (529)

21. 'He who, having seen the delusion of name and form[1], internally and externally, the root of sickness, and is delivered from the radical bond of all sickness, such a one is called Anuvidita (well-informed) by being so. (530)

22. 'He who is disgusted in this world with all sins, is strong after conquering the pain of hell, is strong and powerful, such a one is called Dhîra ( = viriyavat, firm) by being so. (531)

[1. Anuvikka papañkanâmarûpam.]

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23. 'He whose bonds are cut off internally and externally, the root of ties[1], who is delivered from the radical bond of all ties, such a one is called Âgâniya (high-bred) by being so.' (532)

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, having approved of and rejoiced at the words of Bhagavat, glad, rejoicing, delighted, highly elated, further asked Bhagavat a question:

24. 'What should a man (necessarily) have obtained that people may call him a Sottiya?'--so said Sabhiya,--'how (may they call him) an Ariya? and how a Karanavat? how may he become a Paribbâgaka? Asked (about this) do thou, O Bhagavat, explain it to me.' (533)

25. 'Whosoever, after having heard and understood every Dhamma in the world, O Sabhiya,'--so said Bhagavat,--'whatsoever is wrong and whatsoever is blameless, is victorious, free from doubt, liberated, free from pain in every respect, him they call a Sottiya (learned in the revelation). (534)

26. 'Whosoever, after having cut off passions and desires, is wise and does not (again) enter the womb, having driven away the threefold sign, the mud (of lust), and who does not (again) enter time (kappa), him they call an Ariya (noble). (535)

27. 'He who in this world, after having attained the (highest) gain in the Karanas, is skilful, has always understood the Dhamma, clings to nothing, is liberated, and for whom there are no passions, he is a Karanavat (endowed with the obsrvances). (536)

28. 'Whosoever abstains from the action that has a painful result, above and below and across and in

[1. Yass' assu lutâni bandhanâni
Agghattam bahiddhâ ka sangamûlam.]

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the middle, who wanders with understanding, who has put an end to deceit, arrogance, cupidity and anger, name and form, him they call a Paribbâgaka (a wandering mendicant) who has attained the (highest) gain.' (537)

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, having approved of and rejoiced at the words of Bhagavat, glad, rejoicing, delighted, highly elated, having risen from his seat, and having put his upper robe upon one shoulder, bending his joined hands towards Bhagavat, praised Bhagavat face to face in appropriate stanzas:

29. 'Having conquered the three and sixty (philosophical) views referring to the disputations of the Samanas, thou hast crossed over the darkness of the stream[1]. (?) (538)

30. 'Thou hast passed to the end of and beyond pain, thou art a saint, perfectly enlightened, I consider thee one that has destroyed his passions, thou art glorious, thoughtful, of great understanding, O thou who puts an end to pain, thou hast carried me across. (539)

31. 'Because thou sawest my longing, and carriedst me across my doubt, adoration be to thee, O Muni, who hast attained the (highest) gain in the ways of wisdom; O thou who art a true kinsman of the Âdikkas, thou art compassionate. (540)

32. 'The doubt I had before thou hast cleared away for me, O thou clearly-seeing; surely thou art a Muni, perfectly enlightened, there is no obstacle for thee. (541)

[1. Yâni ka tîni yâni ka satthi
Samanappavâdasitâni bhûripañña
Saññakkhara saññanissitâni (?)
Osaranâni vineyya oghatam' agâ.]

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33. 'And all thy troubles are scattered and cut off, thou art calm, subdued, firm, truthful. (542)

34. 'All gods and both Nârada and Pabbata rejoice at thee, the chief of the sinless (nâganâga), the great hero, when thou art speaking. (543)

35. 'Adoration be to thee, O noble man, adoration be to thee, O thou best of men; in the world of men and gods there is no man equal to thee. (544)

36. 'Thou art Buddha, thou art the Master, thou art the Muni that conquers Mâra; after having cut off desire thou hast crossed over and hast carried across this generation. (545)

37. 'The elements of existence (upadhi) are overcome by thee, the passions are destroyed by thee, thou art a lion, free from desire, thou hast left behind fear and terror. (546)

38. 'As a beautiful lotus does not adhere to the water, so thou dost not cling to good and evil, to either; stretch forth thy feet, O hero, Sabbiya worships the Master's (feet).' (547)

Then Sabhiya, the Paribbâgaka, stooping with his head to Bhagavat's feet, said this to Bhagavat:

'It is excellent, O venerable! It is excellent, O venerable! As one raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma has been illustrated; I take refuge in the venerable Gotama, in the Dhamma, and in the Assembly of Bhikkhus; I wish to receive the robe and the orders from the venerable Bhagavat.'

'He who, O Sabhiya, formerly belonging

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another creed (aññatitthiyapubba), wishes to be adopted into this religion (dhammavinaya), and wishes to receive the robe and the orders, he serves for four months; after the lapse of four months Bhikkhus who have appeased their thoughts will give him the robe and the orders to become a Bhikkhu, (for) I also in this matter acknowledge difference of persons.'

'If, O venerable, those that formerly belonged to another creed and wish to be adopted into this religion and to receive the robe and the orders, serve for four months, and after the lapse of four months Bhikkhus who have appeased their thoughts give them the robe and the orders that they may become Bhikkhus, I will (also) serve for four months, and after the lapse of four months Bhikkhus who have appeased their thoughts shall give (me) the robe and the orders that I may become a Bhikkhu.'

Sabhiya, the Paribbâgaka, received the robe and the orders from Bhagavat, and the venerable Sabhiya, having lately received the upasampadâ, leading a solitary, retired, strenuous, ardent, energetic life, lived after having in a short time in this existence by his own understanding ascertained and possessed himself of that highest perfection of a religious life for the sake of which men of good family rightly wander away from their houses to a houseless state. 'Birth had been destroyed, a religious life had been led, what was to be done had been done, there was nothing else (to be done) for this existence,' so he perceived, and the venerable Sabhiya became one of the saints.

Sabhiyasutta is ended.

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7. SELASUTTA.
Keniya, the Gatila, invites Buddha with his assembly to take his meals with him on the morrow. Sela, the Brâmana, arrived at that place with his three hundred young men; seeing the preparations he asks what is going on, and is answered that Buddha is expected the next day. On hearing the word 'Buddha,' Sela asks where Buddha lives, goes to him, converses with him, and is converted; so are his followers.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat wandering about in Anguttarâpa, with a large assembly of Bhikkhus, with 1250 Bhikkhus, went to Âpana, a town in Anguttarâpa.

And Keniya, the ascetic, with matted hair (gatila) heard the following: 'The Samana, the venerable Gotama, the Sakya son, gone out from the family of the Sakyas, wandering about in Anguttarâpa with a large assembly of Bhikkhus, with 1250 Bhikkhus, has reached Âpana, and the following good praising words met the venerable Gotama: "And so he is Bhagavat, the venerable, the perfectly enlightened, endowed with science and works (viggâkarana), the happy, knowing the world, the incomparable, the charioteer of men that are to be subdued, the master, the enlightened of gods and men, the glorious; he teaches this world and the world of gods, of Mâras, of Brahmans, and beings comprising Samanas and Brâmanas, gods and men, having himself known and seen them face to face; he teaches the Dhamma (which is) good in the beginning, in the middle, and in the end, is full of meaning and rich in words, quite complete; he teaches a religious life, and good is the sight of such saints."'

Then Keniya, the Gatila, went (to the place) where

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Bhagavat was, and having gone there he talked pleasantly with him, and after having had some pleasant and remarkable conversation (with him) he sat down apart; and while Keniya, the Gatila, was sitting down apart, Bhagavat, by religious talk, taught, advised, roused, and delighted him. Then Keniya, the Gatila, having been taught, advised, roused, and delighted by Bhagavat through religious talk, said this to Bhagavat:

'Let the venerable Gotama accept my food tomorrow, together with the assembly of Bhikkhus.'

This having been said, Bhagavat answered Keniya, the Gatila: 'Large, O Keniya, is the assembly of Bhikkhus, one thousand two hundred and fifty Bhikkhus, and thou art intimate with the Brâmanas.'

A second time Keniya, the Gatila, said this to Bhagavat: 'Although, O venerable Gotama, the assembly of Bhikkhus is large, one thousand two hundred and fifty Bhikkhus, and I am intimate with the Brâmanas, let the venerable Gotama accept my food to-morrow, together with the assembly of Bhikkhus.'

A second time Bhagavat said this to Keniya, the Gatila: 'Large, O Keniya, is the assembly of Bhikkhus, one thousand two hundred and fifty Bhikkhus, and thou art intimate with the Brâmanas.'

A third time Keniya, the Gatila, said this to Bhagavat: 'Although, O venerable Gotama, the assembly of Bhikkhus is large, one thousand two hundred and fifty Bhikkhus, and I am intimate with the Brâhmanas, yet let the venerable Gotama accept my food to-morrow, together with the assembly of Bhikkhus.' Bhagavat assented by being silent.

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Then Keniya, the Gatila, having learnt the assent of Bhagavat, after rising from his seat went to his hermitage, and having gone there he addressed his friends and servants, his relatives and kinsmen (as follows): 'Let my venerable friends and servants, relatives and kinsmen hear me;--the Samana Gotama has been invited by me to (take his) food (with me) to-morrow, together with the assembly of Bhikkhus; wherefore you must render me bodily service.'

'Surely, O venerable one,' so saying the friends and servants, relatives and kinsmen of Keniya, the Gatila, complying with his request, some of them dug fireplaces, some chopped firewood, some washed the vessels, some placed waterpots, some prepared seats. Keniya, the Gatila, on the other hand, himself provided a circular pavilion.

At that time the Brâmana Sela lived at Âpana, perfect in the three Vedas, vocabulary, Ketubha, etymology, Itihâsa as the fifth (Veda), versed in metre, a grammarian, one not deficient in popular controversy and the signs of a great man, he taught three hundred young men the hymns[1]. At that time Keniya, the Gatila, was intimate with the Brâhmana Sela. Then the Brâmana Sela surrounded by three hundred young men, walking on foot, arrived at the place where the hermitage of Keniya, the Gatila, was. And the Brâmana Sela saw the Gatilas in Keniya's hermitage, some of them digging fireplaces, some chopping firewood, some washing the vessels, some placing waterpots, some

[1. Tena kho pana samayena. Selo brâhmano Âpane pativasati tinnam vedânam pâragû sanighanduketubhânam sâkkharappabhedânam itihâsapañkamânam padako veyyâkarano lokâyatamahâpurisalakkhanesu anavayo tîni mânavakasatâni mante vâketi.]

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preparing seats, and Keniya, the Gatila, on the other hand, himself providing a circular pavilion; seeing Keniya, the Gatila, he said this: 'Is the venerable Keniya to celebrate the marriage of a son or the marriage of a daughter, or is there a great sacrifice at hand, or has Bimbisâra, the king of Magadha, who has a large body of troops, been invited for to-morrow, together with his army?'

'I am not to celebrate the marriage of a son or the marriage of a daughter, nor has Bimbisâra, the king of Magadha, who has a large body of troops, been invited for to-morrow, together with his army, yet a great sacrifice of mine is at hand. The Samana Gotama, the Sakya son, gone out from the Sakya family, wandering about in Anguttarâpa with a large assembly of Bhikkhus, one thousand two hundred and fifty Bhikkhus, has reached Âpana, and the following good praising words met the venerable Gotama: "And so he is Bhagavat, the venerable, the perfectly enlightened, endowed with science and works (viggâkarana), the happy, knowing the world, the incomparable, the charioteer of men that are to be subdued, the master, the enlightened of gods and men, the glorious, he has been invited by me for to-morrow, together with the assembly of Bhikkhus."'

'Didst thou say that he is a Buddha, O venerable Keniya?'

'Yes, I say, O venerable Sela, that he is a Buddha.'

'Didst thou say that he is a Buddha, O venerable Keniya? ,

'Yes, I say, O venerable Sela, that he is a Buddha.'

Then this occurred to the Brâhmana Sela: 'This sound "Buddha" is (indeed) rare, but in our hymns

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are to be found the thirty-two signs of a great man, and for a great man endowed with these there are two conditions, and no more: if he lives in a house he is a king, a universal (king), a just religious king, a lord of the four-cornered (earth), a conqueror, one who has obtained the security of his people (and) is possessed of the seven gems. These are his seven gems, namely, the wheel gem, the elephant gem, the horse gem, the pearl gem, the woman gem, the householder gem, and the chief gem as the seventh. He has more than a thousand sons, heroes, possessing great bodily strength and crushing foreign armies; he having conquered this ocean-girt earth without a rod and without a weapon, but by justice, lives (in a house). But if, on the other hand, he goes out from (his) house to the houseless state, he becomes a saint, a perfectly enlightened, one who has removed the veil in the world. And where, O venerable Keniya, dwells now that venerable Gotama, the saint and the perfectly enlightened?'

This having been said, Keniya, the Gatila, stretching out his right arm, spoke as follows to the Brâmana Sela: 'There, where yon blue forest line is, O venerable Sela.'

Then the Brâmana Sela together with (his) three hundred young men went to the place where Bhagavat was. Then the Brâmana Sela addressed those young men: 'Come ye, venerable ones, with but little noise, walking step by step, for Bhagavats are difficult of access, walking alone like lions, and when I speak to the venerable Samana Gotama, do ye not utter interrupting words, but wait ye venerable ones, for the end of my speech.'

Then the Brâmana Sela went to the place where

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Bhagavat was, and having gone there he talked pleasantly with Bhagavat, and after having had some pleasant and remarkable conversation with him he sat down apart, and while sitting down apart Sela, the Brâhmana, looked for the thirty-two signs of a great man on the body of Bhagavat. And the Brâmana Sela saw the thirty-two signs of a great man on the body of Bhagavat with the exception of two; in respect to two of the signs of a great man he had doubts, he hesitated, he was not satisfied, he was not assured as to the member being enclosed in a membrane and as to his having a large tongue.

Then this occurred to Bhagavat: 'This Brâmana Sela sees in me the thirty-two signs of a great man with the exception of two, in respect to two of the signs of a great man he has doubts, he hesitates, he is not satisfied, he is not assured as to the member being enclosed in a membrane, and as to my having a large tongue.' Then Bhagavat created such a miraculous creature that the Brâmana Sela might see Bhagavat's member enclosed in a membrane. Then Bhagavat having put out his tongue touched and stroked both his ears, touched and stroked both nostrils, and the whole circumference of his forehead he covered with his tongue.

Then this occurred to the Brâhmana Sela: 'The Samana Gotama is endowed with the thirty-two signs of a great man, with them all, not with (only) some of them, and yet I do not know whether he is a Buddha or not; I have heard old and aged Brâhmanas, teachers and their previous teachers, say that those who are saints and perfectly enlightened manifest themselves when their praise is uttered. I think I shall praise the Samana Gotama face to

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face in suitable stanzas.' Then the Brâmana Sela praised Bhagavat face to face in suitable stanzas:

1. 'Thou hast a perfect body, thou art resplendent, well-born, of beautiful aspect, thou hast a golden colour, O Bhagavat, thou hast very white teeth, thou art strong. (548)

2. 'All the signs that are for a well-born man, they are on thy body, the signs of a great man. (549)

3. 'Thou hast a bright eye, a handsome countenance, thou art great, straight, majestic, thou shinest like a sun in the midst of the assembly of the Samanas. (550)

4. 'Thou art a Bhikkhu of a lovely appearance, thou hast a skin like gold; what is the use of being a Samana to thee who art possessed of the highest beauty? (551)

5. 'Thou deservest to be a king, a king of universal kings, a ruler of the four-cornered (earth), a conqueror, a lord of the jambu grove (i.e. India). (552)

6. 'Khattiyas and wealthy kings are devoted to thee; rule, O Gotama, as a king of kings, a leader of men.' (553)

7. 'I am a king, O Sela,'--so said Bhagavat,--'an incomparable, religious king (dhammarâgan), with justice (dhammena) I turn the wheel, a wheel that is irresistible[1].' (554)

8. 'Thou acknowledgest thyself (to be) perfectly enlightened (sambuddha),'--so said Sela, the Brâhmana,--'an incomparable, religious king; "with justice I turn the wheel," so thou sayest, O Gotama. (555)

[1. Compare Gospel of S. John xviii. 37.]

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9. 'Who is thy general, (who is thy) disciple, (who is) the successor of the master, who is to turn after thee the wheel of religion turned (by thee)? ' (556)

10. 'The wheel turned by me, O Sela,'--so said Bhagavat,--'the incomparable wheel of religion, Sâriputta is to turn after (me), he taking after Tathâgata. (557)

11. 'What is to be known is known (by me), what is to be cultivated is cultivated (by me), what is to be left is left by me, therefore I am a Buddha, O Brâmana. (558)

12. 'Subdue thy doubt about me, have faith (in me), O Brâmana, difficult (to obtain) is the sight of Buddhas repeatedly. (559)

13. 'Of those whose manifestation is difficult for you (to obtain) in the world repeatedly, I am, O Brâmana, a perfectly enlightened, an incomparable physician, (560)

14. 'Most eminent, matchless, a crusher of Mâra's army; having subjected all enemies I rejoice secure on every side.' (561)

15. Sela: 'O venerable ones, pay attention to this: as the clearly-seeing (Buddha) says, (so it is): he is a physician, a great hero, and roars like a lion in the forest. (562)

16. 'Who, having seen him, the most eminent, the matchless, the crusher of Mâra's army, is not appeased, even if he be, of black origin (kanhâbhigâtika). (563)

17. 'He who likes me, let him follow after (me), he who does not like me, let him go away; I shall at once take the orders in the presence of him of excellent understanding (i.e. Buddha).' (564)

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18. The followers of Sela: 'If this doctrine of the perfectly enlightened pleases thee, we also shall take the orders in the presence of him of excellent understanding.' (565)

19. These three hundred Brâmanas asked with clasped hands (to be admitted into the order): 'We want to cultivate a religious life, O Bhagavat, in thy presence.' (566)

20. 'A religious life is well taught (by me), O Sela,'--so said Bhagavat,--'an instantaneous, an immediate (life), in which it is not in vain to become an ascetic to one who learns in earnest[1].' (567)

Then the Brâmana Sela together with his assembly took the robe and the orders in the presence of Bhagavat.

Then Keniya, the Gatila, by the expiration of that night, having provided in his hermitage nice hard food and soft food, let Bhagavat know the time (of the meal): 'It is time, O venerable Gotama, the meal is prepared.' Then Bhagavat in the morning, having put on his raiment and taken his bowl and robes, went to the Gatila Keniya's hermitage, and having gone there he sat down on the prepared seat, together with the assembly of Bhikkhus. Then Keniya, the Gatila, satisfied and served with his own hands the assembly of Bhikkhus, with Buddha at their head, with nice hard food and soft food. Then Keniya, the Gatila, having gone up to Bhagavat who had finished eating and had taken his hand out of the bowl, took a low seat and sat down apart, and

[1. Svâkkhâtam brahmakariyam
Sanditthikam akâlikam
Yattha amoghâ pabbaggâ
Appamattassa sikkhato.]

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while Keniya, the Gatila, was sitting down apart, Bhagavat delighted him with these stanzas:

21. 'The principal thing in sacrifice is the sacred fire, the principal thing amongst the hymns is the Sâvitti[1], the king is the principal amongst men, and the sea the principal amongst waters (nadînam[2]). (568)

22. 'Amongst the stars the moon is the principal thing, the sun is the principal thing amongst the burning[3] (objects), amongst those that wish for good works and make offerings the assembly (samgha) indeed is the principal.' (569)

Then Bhagavat, having delighted Keniya, the Gatila, with these stanzas, rose from (his) seat and went away.

Then the venerable Sela together with his assembly leading a solitary, retired, strenuous, ardent, energetic life, lived after having in a short time in this existence by his own understanding ascertained and possessed himself of that highest perfection of a religious life for the sake of which men of good family rightly wander away from their houses to a houseless state; 'birth (had been) destroyed, a religious life (had been) led, what was to be done (had been) done, there was nothing else (to be done) for this existence,' so he perceived, and the venerable Sela together with his assembly became one of the saints.

Then the venerable Sela together with his assembly went to Bhagavat, and having gone (to him) he put his upper robe on one shoulder, and bending his joined hands towards Bhagavat he addressed him in stanzas:

[1. Sâvittî khandaso mukham.

2. Comp. Nâlakasutta v. 42.

3. Âdikko tapatam mukham.]

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23. 'Because we took refuge in thee on the eighth day previous to this, O thou clearly-seeing, in seven nights, O Bhagavat, we have been trained in thy doctrine. (570)

24. 'Thou art Buddha, thou art the Master, thou art the Muni that conquered Mâra, thou hast, after cutting off the affections, crossed over (the stream of existence) and taken over these beings. (571)

25. 'The elements of existence (upadhi) have been overcome by thee, the passions have been destroyed by thee, thou art a lion not seizing on anything, thou hast left behind fear and danger. (572)

26. 'These three hundred Bhikkhus stand here with clasped hands; stretch out thy feet, O hero, let the Nâgas worship the Master's feet.' (573)

Selasutta is ended.

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8. SALLASUTTA.
Life is short, all mortals are subject to death, but knowing the terms of the world the wise do not grieve, and those who have left sorrow will be blessed.--Text in the Dasaratha-Gâtaka, p. 34.
1. Without a cause and unknown is the life of mortals in this world, troubled and brief, and combined with pain. (574)

2. For there is not any means by which those that have been born can avoid dying; after reaching old age there is death, of such a nature are living beings. (575)

3. As ripe fruits are early in danger of falling, so mortals when born are always in danger of death. (576)

4. As all earthen vessels made by the potter end in being broken, so is the life of mortals. (577)

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5. Both young and grown-up men, both those who are fools and those who are wise men, all fall into the power of death, all are subject to death. (578)

6. Of those who, overcome by death, go to the other world, a father does not save his son, nor relatives their relations. (579)

7. Mark! while relatives are looking on and lamenting greatly, one by one of the mortals is carried off, like an ox that is going to be killed. (580)

8. So the world is afflicted with death and decay, therefore the wise do not grieve, knowing the terms of the world. (581)

9. For him, whose way thou dost not know, either when he is coming or when he is going, not seeing both ends, thou grievest in vain. (582)

10. If he who grieves gains anything, (although he is only) a fool hurting himself, let the wise man do the same. (583)

11. Not from weeping nor from grieving will any one obtain peace of mind; (on the contrary), the greater his pain will be, and his body will suffer. (584)

12. He will be lean and pale, hurting himself by himself, (and yet) the dead are not saved, lamentation (therefore) is of no avail. (585)

13. He who does not leave grief behind, goes (only) deeper into pain; bewailing the dead he falls into the power of grief. (586)

14. Look at others passing away, men that go (to what they deserve) according to their deeds, beings trembling already here, after falling into the power of death. (587)

15. In whatever manner people think (it will come to pass), different from that it becomes, so great is

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the disappointment[1] (in this world); see, (such are) the terms of the world. (588)

16. Even if a man lives a hundred years or even more, he is at last separated from the company of his relatives, and leaves life in this world. (589)

17. Therefore let one, hearing (the words of) the saint, subdue his lamentation; seeing the one that has passed away and is dead, (let him say): 'He will not be found by me (any more).' (590)

18. As a house on fire is extinguished by water, so also the wise, sensible, learned, clever man rapidly drives away sorrow that has arisen, as the wind a tuft of cotton. (591)

19. He who seeks his own happiness should draw out his arrow (which is) his lamentation, and complaint, and grief. (592)

20. He who has drawn out the arrow and is not dependent (on anything) will obtain peace of mind; he who has overcome all sorrow will become free from sorrow, and blessed (nibbuta). (593)

Sallasutta is ended.

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9. VÂSETTHASUTTA.
A dispute arose between two young men, Bhâradvâga and Vâsettha, the former contending man to be a Brâmana by birth, the latter by deeds. They agreed to go and ask Samana Gotama, and he answered that man is a Brâmana by his work only. The two young men are converted.--Text (from Magghimanikâya) and translation in Alwis's Buddhist Nirvâna, p. 103.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Ikkhânamkala, in the Ikkhânamkala forest. At that time many distinguished,

[1. Etâdiso vinâbhâvo.]

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wealthy Brâmanas lived at Ikkhânamkala, as the Brâmana Kamkin, the Brâmana Târukkha, the Brâmana Pokkharasâti, the Brâhmana Gânussoni, the Brâmana Todeyya, and other distinguished, wealthy Brâmanas.

Then this dialogue arose between the young men Vâsettha and Bhâradvâga while walking about:

'How does one become a Brâmana?'

The young man Bhâradvâga said: 'When one is noble by birth on both sides, on the mother's and on the father's side, of pure conception up to the seventh generation of ancestors, not discarded and not reproached in point of birth, in this way one is a Brâmana.'

The young man Vâsettha said: 'When one is virtuous and endowed with (holy) works, in this way he is a Brâmana.'

Neither could the young man Bhâradvâga convince the young man Vâsettha, nor could the young man Vâsettha convince the young man Bhâradvâga. Then the young man Vâsettha addressed the young man Bhâradvâga: 'O Bhâradvâga, this Samana Gotama, the Sakya son, gone out from the Sakya family, dwells at Ikkhânamkala, in the forest of Ikkhânamkala, and the following good praising words met the venerable Gotama: "And so he is Bhagavat, the venerable, the enlightened, the glorious, let us go, O venerable Bhâradvâga, let us go (to the place) where the Samana Gotama is, and having gone there let us ask the Samana Gotama about this matter, and as the Samana Gotama replies so will we understand it."'

'Very well, O venerable one;' so the young man Bhâradvâga answered the young man Vâsettha.

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Then the young men Vâsettha and Bhâradvâga went (to the place) where Bhagavat was, and having gone, they talked pleasantly with Bhagavat, and after having had some pleasant and remarkable conversation (with him) they sat down apart. Sitting down apart the young man Vâsettha addressed Bhagavat in stanzas:

1. 'We are accepted and acknowledged masters of the three Vedas[1], I am (a pupil) of Pokkharasâti, and this young man is (the pupil) of Târukkha. (594)

2. 'We are accomplished in all the knowledge propounded by those who are acquainted with the three Vedas, we are padakas (versed in the metre), veyyâkaranas (grammarians?), and equal to our teachers in recitation (gappa)[2]. (595)

3. 'We have a controversy regarding (the distinctions of) birth, O Gotama! Bhâradvâga says, one is a Brâmana by birth, and I say, by deeds; know this, O thou clearly-seeing! (596)

4. 'We are both unable to convince each other, (therefore) we have come to ask thee (who art) celebrated as perfectly enlightened. (597)

5. 'As people adoring the full moon worship (her) with uplifted clasped hands, so (they worship) Gotama in the world. (598)

6. 'We ask Gotama who has come as an eye to the world: Is a man a Brâhmana by birth, or is he so

[1. Anuññâtapatiññâtâ
Teviggâ mayam asm' ubho.

2. Teviggânam[*] yad akkhâtam
Tatra kevalino 'smase,
Padak' asmâ veyyâkaranâ,
Gappe[+] âkariyasâdisâ.

*. Teviggânam = tivedânam. Commentator; but compare v. 63.

+. Gappe = vede. Commentator.]

p. 111

by deeds? Tell us who do not know, that we may know a Brâmana.' (599)

7. 'I will explain to you, O Vâsettha,'--so said Bhagavat,--'in due order the exact distinction of living beings according to species, for their species are manifold. (600)

8. 'Know ye the grass and the trees, although they do not exhibit (it), the marks that constitute species are for them, and (their) species are manifold. (601)

9. 'Then (know ye) the worms, and the moths, and the different sorts of ants, the marks that constitute species are for them, and (their) species are manifold. (602)

10. 'Know ye also the four-footed (animals), small and great, the marks that constitute species are for them, and (their) species are manifold. (603)

11. 'Know ye also the serpents, the long-backed snakes, the marks that constitute species are for them, and (their) species are manifold. (604)

12. 'Then know ye also the fish which range in the water, the marks that constitute species are for them, and (their) species are manifold. (605)

13. 'Then know ye also the birds that are borne along on wings and move through the air, the marks that constitute species are for them, and (their) species are manifold. (606)

14. 'As in these species the marks that constitute species are abundant, so in men the marks that constitute species are not abundant. (607)

15. 'Not as regards their hair, head, ears, eyes, mouth, nose, lips, or brows, (608)

16. 'Nor as regards their neck, shoulders, belly, back, hip, breast, female organ, sexual intercourse, (609)

p. 112

17. 'Nor as regards their hands, feet, palms, nails, calves, thighs, colour, or voice are there marks that constitute species as in other species. (610)

18. 'Difference there is in beings endowed with bodies, but amongst men this is not the case, the difference amongst men is nominal (only)[1]. (611)

19. 'For whoever amongst men lives by cowkeeping,--know this, O Vâsettha,--he is a husbandman, not a Brâmana.' (612)

20. 'And whoever amongst men lives by different mechanical arts,--know this, O Vâsettha,--he is an artisan, not a Brâmana. (613)

21. 'And whoever amongst men lives by trade,--know this, O Vâsettha,--he is a merchant, not a Brâmana. (614)

22. And whoever amongst men lives by serving others,--know this, O Vâsettha,--he is a servant, not a Brâhmana. (615)

23. 'And whoever amongst men lives by theft,--know this, O Vâsettha,--he is a thief, not a Brâhmana. (616)

24. 'And whoever amongst men lives by archery,--know this, O Vâsettha,--he is a soldier, not a Brâmana. (617)

25. 'And whoever amongst men lives by performing household ceremonials,--know this, O Vâsettha,--he is a sacrificer, not a Brâmana. (618)

26. 'And whoever amongst men possesses villages and countries,--know this, O Vâsettha,--he is a king, not a Brâmana. (619)

[1. Pakkattam sasarîresu,
Manussesv-etam na viggati,
Vokârañ ka manussesu
Samaññâya pavukkati.]

p. 113

27. 'And I do not call one a Brâmana on account of his birth or of his origin from (a particular) mother; he may be called bhovâdi, and he may be wealthy, (but) the one who is possessed of nothing and seizes upon nothing, him I call a Brâhmana[1]. (620)

28. 'Whosoever, after cutting all bonds, does not tremble, has shaken off (all) ties and is liberated, him I call a Brâmana. (621)

29. 'The man who, after cutting the strap (i.e. enmity), the thong (i.e. attachment), and the rope (i.e. scepticism) with all that pertains to it, has destroyed (all) obstacles (i.e. ignorance), the enlightened (buddha), him I call a Brâmana. (622)

30. 'Whosoever, being innocent, endures reproach, blows, and bonds, the man who is strong in (his) endurance and has for his army this strength, him I call a Brâmana. (623)

31. 'The man who is free from anger, endowed with (holy) works, virtuous, without desire, subdued, and wearing the last body, him I call a Brâhmana. (624)

32. 'The man who, like water on a lotus leaf, or a mustard seed on the point of a needle, does not cling to sensual pleasures, him I call a Brâhmana. (625)

33. 'The man who knows in this world the destruction of his pain, who has laid aside (his) burden, and is liberated, him I call a Brâmana. (626)

34. 'The man who has a profound understanding, who is wise, who knows the true way and the wrong way, who has attained the highest good, him I call a Brâmana. (627)

[1. Comp. Dhp. v. 396, &c.]

p. 114

35. 'The man who does not mix with householders nor with the houseless, who wanders about without a house, and who has few wants, him I call a Brâhmana. (628)

36. 'Whosoever, after refraining from hurting (living) creatures, (both) those that tremble and those that are strong, does not kill or cause to be killed, him I call a Brâmana. (629)

37. 'The man who is not hostile amongst the hostile, who is peaceful amongst the violent, not seizing (upon anything) amongst those that seize (upon everything), him I call a Brâmana. (630)

38. 'The man whose passion and hatred, arrogance and hypocrisy have dropt like a mustard seed from the point of a needle, him I call a Brâmana. (631)

39. 'The man that utters true speech, instructive and free from harshness, by which he does not offend any one, him I call a Brâmana. (632)

40. 'Whosoever in the world does not take what has not been given (to him), be it long or short, small or large, good or bad, him I call a Brâhmana. (633)

41. 'The man who has no desire for this world or the next, who is desireless and liberated, him I call a Brâmana. (634)

42. 'The man who has no desire, who knowingly is free from doubt; and has attained the depth of immortality, him I call a Brâmana. (635)

43. 'Whosoever in this world has overcome good and evil, both ties, who is free from grief and defilement, and is pure, him I call a Brâmana. (636)

44. 'The man that is stainless like the moon, pure, serene, and undisturbed, who has destroyed joy, him I call a Brâmana. (637)

p. 115

45. 'Whosoever has passed over this quagmire difficult to pass, (who has passed over) revolution (samsâra) and folly, who has crossed over, who has reached the other shore, who is meditative, free from desire and doubt, calm without seizing (upon anything), him I call a Brâmana. (638)

46. 'Whosoever in this world, after abandoning sensual pleasures, wanders about houseless, and has destroyed the existence of sensual pleasures (kâmabhava), him I call a Brâmana. (639)

47. 'Whosoever in this world, after abandoning desire, wanders about houseless, and has destroyed the existence of desire (tanhâbhava), him I call a Brâmana. (640)

48. 'Whosoever, after leaving human attachment (yoga), has overcome divine attachment, and is liberated from all attachment, him I call a Brâhmana. (641)

49. 'The man that, after leaving pleasure and disgust, is calm and free from the elements of existence (nirupadhi), who is a hero, and has conquered all the world, him I call a Brâmana. (642)

50. 'Whosoever knows wholly the vanishing and reappearance of beings, does not cling to (anything); is happy (sugata), and enlightened, him I call a Brâmana. (643)

51. 'The man whose way neither gods nor Gandhabbas nbr men know, and whose passions are destroyed, who is a saint, him I call a Brâmana. (644)

52. 'The man for whom there is nothing, neither before nor after nor in the middle, who possesses nothing, and does not seize (upon anything), him I call a Brâmana. (645)

53. 'The (man that is undaunted like a) bull, who

p. 116

is eminent, a hero, a great sage (mahesi), victorious, free from desire, purified, enlightened, him I call a Brâmana. (646)

54. 'The man who knows his former dwellings, who sees both heaven and hell, and has reached the destruction of births, him I call a Brâmana. (647)

55. 'For what has been designated as "name" and "family" in the world is only a term, what has been designated here and there is understood by common consent[1]. (648)

56. 'Adhered to for a long time are the views of the ignorant, the ignorant tell us, one is a Brâmana by birth. (649)

57. 'Not by birth is one a Brâmana, nor is one by birth no Brâmana; by work (kammanâ) one is a Brâmana, by work one is no Brâmana. (650)

58. 'By work one is a husbandman, by work one is an artisan, by work one is a merchant, by work one is a servant. (651)

59. 'By work one is a thief, by work one is a soldier, by work one is a sacrificer, by work one is a king. (652)

60. 'So the wise, who see the cause of things and understand the result of work, know this work as it really is[2]. (653)

61. 'By work the world exists, by work mankind

[1. Samaññâ h' esâ lokasmim
Nâmagottam pakappitam,
Sammukkâ samudâgatam
Tattha tattha pakappitam.

2. Evam etam yathâbhûtam
Kammam passanti panditâ
Patikkasamuppâdadasâ
Kammavipâkakovidâ.]

p. 117

exists, beings are bound by work as the linch-pin of the rolling cart (keeps the wheel on)[1]. (654)

62. 'By penance, by a religious life, by self-restraint, and by temperance, by this one is a Brâmana, such a one (they call) the best Brâmana. (655)

63. 'He who is endowed with the threefold knowledge[2], is calm, and has destroyed regeneration,--know this, O Vâsettha,--he is to the wise Brahman and Sakka.' (656)

This having been said, the young men Vâsettha and Bhâradvâga spoke to Bhagavat as follows:

'It is excellent, O venerable Gotama! It is excellent, O venerable Gotama! As one raises what has been overthrown, or reveals what has been hidden, or tells the way to him who has gone astray, or holds out an oil lamp in the dark that those who have eyes may see the objects, even so by the venerable Gotama in manifold ways the Dhamma has been illustrated; we take refuge in the venerable Gotama, in the Dhamma, and in the Assembly of Bhikkhus; may the venerable Gotama receive us as followers (upâsaka), who from this day for life have taken refuge (in him).'

Vâsetthasutta is ended.

[1. Kammanâ vattatî loko,
Kammanâ vattatî pagâ,
Kammanibandhanâ sattâ
Rathasânîva yâyato.

2. Tîhi viggâhi sampanno.]

p. 118

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10. KOKÂLIYASUTTA.
Kokâliya abuses Sâriputta and Moggallâna to Buddha; therefore as soon as he has left Buddha, he is struck with boils, dies and goes to the Paduma hell, whereupon Buddha describes to the Bhikkhus the punishment of backbiters in hell.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî, in Getavana, in the park of Anâthapindika. Then the Bhikkhu Kokâliya approached Bhagavat, and after having approached and saluted Bhagavat he sat down apart; sitting down apart the Bhikkhu Kokâliya said this to Bhagavat: "O thou venerable one, Sâriputta and Moggallâna have evil desires, they have fallen into the power of evil desires.'

When this had been said, Bhagavat spoke to the Bhikkhu Kokâliya as follows: '(Do) not (say) so, Kokâliya; (do) not (say) so, Kokâliya; appease, O Kokâliya, (thy) mind in regard to Sâriputta and Moggallâna: Sâriputta and Moggallâna are amiable[1].'

A second time the Bhikkhu Kokâliya said this to Bhagavat: 'Although thou, O venerable Bhagavat, (appearest) to me (to be) faithful and trustworthy, yet Sâriputta and Moggallâna have evil desires, they have fallen into the power of evil desires.'

A second time Bhagavat said this to the Bhikkhu Kokâliya: '(Do) not (say) so, Kokâliya; (do) not (say) so, Kokâliya; appease, O Kokâliya, (thy) mind in regard to Sâriputta and Moggallâna: Sâriputta and Moggallâna are amiable.'

A third time the Bhikkhu Kokâliya said this to Bhagavat: 'Although thou, O venerable Bhagavat, (appearest) to me (to be) faithful and trustworthy,

[1. Pesalâ ti piyasîlâ. Commentator.]

p. 119

yet Sâriputta and Moggallâna have evil desires, Sâriputta and Moggallâna have fallen into the power of evil desires.'

A third time Bhagavat said this to the Bhikkhu Kokâliya: '(Do) not (say) so, Kokâliya; (do) not (say) so, Kokâliya; appease, O Kokâliya, (thy) mind in regard to Sâriputta and Moggallâna: Sâriputta and Moggallâna are amiable.'

Then the Bhikkhu Kokâliya, after having risen from his seat and saluted Bhagavat and walked round him towards the right, went away; and when he had been gone a short time, all his body was struck with boils as large as mustard seeds; after being only as large as mustard seeds, they became as large as kidney beans; after being only as large as kidney beans, they became as large as chick peas; after being only as large as chick peas, they became as large as a Kolatthi egg (?); after being only as large as a Kolatthi egg, they became as large as the jujube fruit; after being only as large as the jujube fruit, they became as large as the fruit of the emblic myrobalan; after being only as large as the fruit of the emblic myrobalan, they became as large as the unripe beluva fruit; after being only as large as the unripe beluva fruit, they became as large as a billi fruit (?); after being as large as a billi fruit, they broke, and matter and blood flowed out. Then the Bhikkhu Kokâliya died of that disease, and when he had died the Bhikkhu Kokâliya went to the Paduma hell, having shown a hostile mind against Sâriputta and Moggallâna. Then when the night had passed Brahman Sahampati of a beautiful appearance, having lit up all Getavana, approached Bhagavat, and having approached and saluted Bhagavat,

p. 120

he stood apart, and standing apart Brahman Sahampati said this to Bhagavat: 'O thou venerable one, Kokâliya, the Bhikkhu, is dead and after death, O thou venerable one, the Bhikkhu Kokâliya is gone to the Paduma hell, having shown a hostile mind against Sâriputta and Moggallâna.'

This said Brahman Sahampati, and after saying this and saluting Bhagavat, and walking round him towards the right, he disappeared there.

Then Bhagavat, after the expiration of that night, addressed the Bhikkhus thus: 'Last night, O Bhikkhus, when the night had (nearly) passed, Brahman Sahampati of a beautiful appearance, having lit up all Getavana, approached Bhagavat, and having approached and saluted Bhagavat, he stood apart, and standing apart Brahman Sahampati said this to Bhagavat: "O thou venerable one, Kokâliya, the Bhikkhu, is dead; and after death, O thou venerable one, the Bhikkhu Kokâliya is gone to the Paduma hell, having shown a hostile mind against Sâriputta and Moggallâna." This said Brahman Sahampati, O Bhikkhus, and having said this and saluted me, and walked round me towards the right, he disappeared there.'

When this had been said, a Bhikkhu asked Bhagavat: 'How long is the rate of life, O venerable one, in the Paduma hell?'

'Long, O Bhikkhu, is the rate of life in the Paduma hell, it is not easy to calculate either (by saying) so many years or so many hundreds of years or so many thousands of years or so many hundred thousands of years.'

'But it is possible, I suppose, to make a comparison, O thou venerable one?'

p. 121

'It is possible, O Bhikkhu;' so saying, Bhagavat spoke (as follows): 'Even as, O Bhikkhu, (if there were) a Kosala load of sesamum seed containing twenty khâris, and a man after the lapse of every hundred years were to take from it one sesamum seed at a time, then that Kosala load of sesamum seed, containing twenty khâris, would, O Bhikkhu, sooner by this means dwindle away and be used up than one Abbuda hell; and even as are twenty Abbuda hells, O Bhikkhu, so is one Nirabbuda hell; and even as are twenty Nirabbuda hells, O Bhikkhu, so is one Ababa hell; and even as are twenty Ababa hells, O Bhikkhu, so is one Ahaha hell; and even as are twenty Ahaha hells, O Bhikkhu, so is one Atata hell; and even as are twenty Atata hells, O Bhikkhu, so is one Kumuda hell; and even as are twenty Kumuda hells, O Bhikkhu, so is one Sogandhika hell; and even as are twenty Sogandhika hells, O Bhikkhu, so is one Uppalaka hell; and even as are twenty Uppalaka hells, O Bhikkhu, so is one Pundarîka hell; and even as are twenty Pundarîka hells, O Bhikkhu, so is one Paduma hell; and to the Paduma hell, O Bhikkhu, the Bhikkhu Kokâliya is gone, having shown a hostile mind against Sâriputta and Moggallâna.' This said Bhagavat, and having said this Sugata, the Master, furthermore spoke as follows:

1. 'To (every) man that is born, an axe is born in his mouth, by which the fool cuts himself, when speaking bad language. (657)

2. 'He who praises him who is to be blamed or blames him who as to be praised, gathers up sin in his mouth, and through that (sin) he will not find any joy. (658)

p. 122

3. 'Trifling is the sin that (consists in) losing riches by dice; this is a greater sin that corrupts the mind against Sugatas. (659)

4. 'Out of the one hundred thousand Nirabbudas (he goes) to thirty-six, and to five Abbudas; because he blames an Ariya he goes to hell, having employed his speech and mind badly. (660)

5. 'He who speaks falsely goes to hell, or he who having done something says, "I have not done it;" both these after death become equal, in another world (they are both) men guilty of a mean deed[1]. (661)

6. 'He who offends an offenceless man, a pure man, free from sin, such a fool the evil (deed) reverts against, like fine dust thrown against the wind[2]. (662)

7. 'He who is given to the quality of covetousness, such a one censures others in his speech, (being himself) unbelieving, stingy, wanting in affability, niggardly, given to backbiting. (663)

8. 'O thou foul-mouthed, false, ignoble, blasting, wicked, evil-doing, low, sinful, base-born man, do not be garrulous in this world, (else) thou wilt be an inhabitant of hell[3]. (664)

9. 'Thou spreadest pollution to the misfortune (of others), thou revilest the just, committing sin (yourself), and having done many evil deeds thou wilt go to the pool (of hell) for a long time. (665)

[1. Comp. Dhp. v. 306.

2. Comp. Dhp. v. 125.

3. Mukhadugga vibhûta-m-anariya
Bhûnahu[*] pâpaka dukkatakâri
Purisanta kalî avagâta
Mâ bahubhâni dha nerayiko si.

*. Bhûnahu bhûtihanaka vuddhinâsaka. Commentator.]

p. 123

110. 'For one's deeds are not lost, they will surely come (back to you), (their) master will meet with them, the fool who commits sin will feel the pain in himself in the other world[1]. (666)

11. 'To the place where one is struck with iron rods, to the iron stake with sharp edges he goes; then there is (for him) food as appropriate, resembling a red-hot ball of iron. (667)

12. 'For those who have anything to say (there) do not say fine things, they do not approach (with pleasing faces); they do not find refuge (from their sufferings), they lie on spread embers, they enter a blazing pyre. (668)

13. 'Covering (them) with a net they kill (them) there with iron hammers; they go to dense darkness[2], for that is spread out like the body of the earth. (669)

14. 'Then (they enter) an iron pot, they enter a blazing pyre, for they are boiled in those (iron pots) for a long time, jumping up and down in the pyre. (670)

15. 'Then he who commits sin is surely boiled in a mixture of matter and blood; whatever quarter he inhabits, he becomes rotten there from coming in contact (with matter and blood). (671)

16. 'He who commits sin will surely be boiled in the water, the dwelling-place of worms; there it is not (possible) to get to the shore, for the jars (are) exactly alike[3]. (?) (672)

[1. Comp. Revelation xiv. 13.

2. Andham va Timisam âyanti.

3. Pulavâvasathe salilasmim
Tattha kim pakkati kibbisakârî,
Gantum na hi tîram p' atthi
Sabbasamâ hi samantakapallâ.]

p. 124

17. 'Again they enter the sharp Asipattavana with mangled limbs; having seized the tongue with a hook, the different watchmen (of hell) kill (them). (673)

18. 'Then they enter Vetaranî, that is difficult to cross and has got streams of razors with sharp edges; there the fools fall in, the evil-doers after having done evil. (674)

19. 'There black, mottled flocks of ravens eat them who are weeping, and dogs, jackals, great vultures, falcons, crows tear (them). (675)

20. 'Miserable indeed is the life here (in hell) which the man sees that commits sin. Therefore should a man in this world for the rest of his life be strenuous, and not indolent. (676)

21. 'Those loads of sesamum seed which are carried in Paduma hell have been counted by the wise, they are (several) nahutas and five kotis, and twelve hundred kotis besides[1]. (677)

22. 'As long as hells are called painful in this world, so long people will have to live there for a long time; therefore amongst those who have pure, amiable, and good qualities one should always guard speech and mind.' (678)

Kokâliyasutta is ended.

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11. NÂLAKASUTTA.
The Isi Asita, also called Kanhasiri, on seeing the gods rejoicing, asks the cause of it, and having heard that Buddha has been born, he descends from Tusita heaven. When the Sakyas showed the child to him, he received it joyfully and prophesied
[1. Nahutâni hi kotiyo pañka bhavanti
Dvâdasa kotisatâni pun' aññâ.]
p. 125

about it. Buddha explains to Nâlaka, the sister's son of Asita, the highest state of wisdom.--Compare Lalita-vistara, Adhyâya VII; Asita and Buddha, or the Indian Simeon, by J. Muir, in the Indian Antiquary, Sept. 1878.
Vatthugâthâ.

1. The Isi Asita saw in (their) resting-places during the day the joyful, delighted flocks of the Tidasa gods, and the gods in bright clothes, always highly praising Inda, after taking their clothes and waving them. (679)

2. Seeing the gods with pleased minds, delighted, and showing his respect, he said this on that occasion: 'Why is the assembly of the gods so exceedingly pleased, why do they take their clothes and wave them? (680)

3. 'When there was an encounter with the Asuras, a victory for the gods, and the Asuras were defeated, then there was not such a rejoicing. What wonderful (thing) have the gods seen that they are so delighted? (681)

4. 'They shout and sing and make music, they throw (about their) arms and dance; I ask you, the inhabitants of the tops of (mount) Meru, remove my doubt quickly, O venerable ones!' (682)

5. 'The Bodhisatta, the excellent pearl, the incomparable, is born for the good and for a blessing in the world of men, in the town of the Sakyas, in the country of Lumbinî. Therefore we are glad and exceedingly pleased. (683)

6. 'He, the most excellent of all beings, the preeminent man, the bull of men, the most excellent of all creatures will turn the wheel (of the Dhamma) in the forest called after the Isis, (he who is) like the roaring lion, the strong lord of beasts.' (684)

p. 126

7. Having heard that noise he descended from (the heaven of) Tusita. Then he went to Suddhodana's palace, and having sat down there he said this to the Sakyas: 'Where is the prince? I wish to see (him).' (685)

8. Then the Sakyas showed to (the Isi), called Asita, the child, the prince who was like shining gold, manufactured by a very skilful (smith) in the mouth of a forge, and beaming in glory and having a beautiful appearance. (686)

9. Seeing the prince shining like fire, bright like the bull of stars wandering in the sky, like the burning sun in autumn, free from clouds, he joyfully obtained great delight. (687)

10. The gods held in the sky a parasol with a thousand circles and numerous branches, yaks' tails with golden sticks were fanned, but those who held the yaks' tails and the parasol were not seen. (688)

11. The Isi with the matted hair, by name Kanhasiri, on seeing the yellow blankets (shining) like a golden coin, and the white parasol held over his head, received him delighted and happy. (689)

12. And having received the bull of the Sakyas, he who was wishing to receive him and knew the signs and the hymns, with pleased thoughts raised his voice, saying: 'Without superior is this, the most excellent of men.' (690)

13. Then remembering his own migration he was displeased and shed tears; seeing this the Sakyas asked the weeping Isi, whether there would be any obstacle in the prince's path. (691)

14. Seeing the Sakyas displeased the Isi said: 'I do not remember anything (that will be) unlucky for the prince, there will be no obstacles at

p. 127

all for him, for this is no inferior (person). Be without anxiety. (692)

15. ' This prince will reach the summit of perfect enlightenment, he will turn the wheel of the Dhamma, he who sees what is exceedingly pure (i.e. Nibbâna), this (prince) feels for the welfare of the multitude, and his religion[1] will be widely spread. (693)

16. 'My life here will shortly be at an end, in the middle (of his life) there will be death for me; I shall not hear the Dhamma of the incomparable one; therefore I am afflicted, unfortunate, and suffering.' (694)

17. Having afforded the Sakyas great joy he went out from the interior of the town to lead a religious life; but taking pity on his sister's son, he induced him to embrace the Dhamma of the incomparable one. (695)

18. 'When thou hearest from others the sound "Buddha," (or) "he who has acquired perfect enlightenment walks the way of the Dhamma," then going there and enquiring about the particulars, lead a religious life with that Bhagavat.' (696)

19. Instructed by him, the friendly-minded, by one who saw in the future what is exceedingly pure (i.e. Nibbâna), he, Nâlaka, with a heap of gathered-up good works, and with guarded senses dwelt (with him), looking forward to Gina (i.e. Buddha). (697)

20. Hearing the noise, while the excellent Gina turned the wheel (of the Dhamma), and going and seeing the bull of the Isis, he, after being converted,

[1. Brahmakariyam = sâsanam. Commentator.]

p. 128

asked the eminent Muni about the best wisdom, when the time of Asita's order had come. (698)

The Vatthugâthâs are ended.

21. 'These words of Asita are acknowledged true (by me), therefore we ask thee, O Gotama, who art perfect in all things (dhamma). (699)

22. 'O Muni, to me who am houseless, and who wish to embrace a Bhikkhu's life, explain when asked the highest state, the state of wisdom (moneyya).' (700)

23. 'I will declare to thee the state of wisdom,'--so said Bhagavat,--'difficult to carry out, and difficult to obtain; come, I will explain it to thee, stand fast, be firm. (701)

24. 'Let a man cultivate equanimity: which is (both) reviled and praised in the village, let him take care not to corrupt his mind, let him live calm, and without pride. (702)

25. 'Various (objects) disappear, like a flame of fire in the wood[1]; women tempt the Muni, let them not tempt him. (703)

26. 'Let him be disgusted with sexual intercourse, having left behind sensual pleasures of all kinds, being inoffensive and dispassionate towards living creatures, towards anything that is feeble or strong. (704)

27. 'As I am so are these, as these are so am I, identifying himself with others, let him not kill nor cause (any one) to kill[2]. (705)

[1. Ukkâvakâ nikkharanti
Dâye aggisikhûpamâ.

2. Yathâ aham tathâ ete
Yathâ ete tathâ aham
Attânam upamam katvâ
Na haneyya na ghâtaye.
Comp. Dhp v. 129.]

p. 129

28. 'Having abdoned desire and covetousness let him act as one that sees clearly where a common man sticks, let him cross over this hell. (706)

29. 'Let him be with an empty stomach, taking little food, let him have few wants and not be covetous; not being consumed by desire he will without desire be happy. (707)

30. 'Let the Muni, after going about for alms, repair to the outskirts of the wood, let him go and sit down near the root of a tree. (708)

31. 'Applying himself to meditation, and being wise, let him find his pleasure in the outskirts of the wood, let him meditate at the root of a tree enjoying himself. (709)

32. 'Then when night is passing away let him repair to the outskirts of the village, let him not delight in being invited nor in what is brought away from the village. (710)

33. 'Let not the Muni, after going to the village, walk about to the houses in haste; cutting off (all) talk while seeking food, let him not utter any coherent speech[1]. (711)

34. '"What I have obtained that is good," "I did not get (anything that is) good," so thinking in both cases he returns to the tree unchanged[2]. (712)

35. "Wandering about with his alms-bowl in his

[1. Na vâkam payutam bhane.

2. Alattham yad idam sâdhu
Nâlattham kusalam iti,
Ubhayen' eva so tâdi[*]
Rukkham va upanivattati.

*. Tâdi = nibbikâro. Commentator.]

p. 130

hand, considered dumb without being dumb, let him not blush at a little gift, let him not despise the giver. (713)

36. 'Various are the practices illustrated by the Samana, they do not go twice to the other shore, this (is) not once thought[1]. (?) (714)

37. 'For whom there is no desire, for the Bhikkhu who has cut off the stream (of existence) and abandoned all kinds of work, there is no pain. (715)

38. 'I will declare to thee the state of wisdom,'--so said Bhagavat,--'let one be like the edge of a razor, having struck his palate with his tongue, let him be restrained in (regard to his) stomach. (716)

39. 'Let his mind be free from attachment, let him not think much[2] (about worldly affairs), let him be without defilement, independent, and devoted to a religious life. (717)

40. 'For the sake of a solitary life and for the sake of the service that is to be carried out by Samanas, let him learn, solitariness is called wisdom[3]; alone indeed he will find pleasure. (718)

41. 'Then he will shine through the ten regions, having heard the voice of the wise, of the meditating, of those that have abandoned sensual pleasures, let my adherent then still more devote himself to modesty and belief. (719)

42. 'Understand this from the waters in chasms

[1. Ukkâvakâ hi patipadâ
Samanena pakâsitâ,
Na pâram digunam yanti,
Na idam ekagunam mutam.

2. Na kâpi bahu kintaye.

3. Ekattam monam akkhâtam.]

p. 131

and cracks: noisy go the small waters, silent goes the vast ocean[1]. (720)

43. 'What is deficient that makes a noise, what is full that is calm; the fool is like a half-(filled) water-pot, the wise is like a full pool. (721)

44. 'When the Samana speaks much that is possessed of good sense, he teaches the Dhamma while knowing it, while knowing it he speaks much[2]. (722)

45. 'But he who while knowing it is self-restrained, and while knowing it does not speak much, such a Muni deserves wisdom (mona), such a Muni has attained to wisdom (mona)[3].' (723)

Nâlakasutta is ended.

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12. DVAYATÂNUPASSANÂSUTTA.
All pain in the world arises from upadhi, aviggâ, samkhârâ viññâna, phassa, vedanâ, tanhâ, upâdâna, ârambha, âhâra, iñgita, nissaya, rûpa, mosadhamma, sukha.
So it was heard by me:

At one time Bhagavat dwelt at Sâvatthî in Pubbârâma, Migâramâtar's mansion. At that time Bhagavat on the Uposatha day[4], on the fifteenth,

[1. Tan nadîhi vigânâtha
Sobbhesu padaresu ka:
Sanantâ yanti kussobbhâ
Tunhî yâti mahodadhi.

2. Yam samano bahu bhâsati
Upetam atthasamhitam
Gânam so dhammam deseti
Gânam so bahu bhâsati.

3. Yo ka gânam samyatatto
Gânam na bahu bhâsati
Sa munî monam arahati
Sa munî monam agghagâ.

4. See Rhys Davids, Buddhism, p. 140.]

p. 132

it being full moon, in the evening was sitting in the open air, surrounded by the assembly of Bhikkhus. Then Bhagavat surveying the silent assembly of Bhikkhus addressed them (as follows):

'Whichever Dhammas there are, O Bhikkhus, good, noble, liberating, leading to perfect enlightenment,--what is the use to you of listening to these good, noble, liberating Dhammas, leading to perfect enlightenment? If, O Bhikkhus, there should be people that ask so, they shall be answered thus: "Yes, for the right understanding of the two Dhammas." "Which two do you mean?" "(I mean), this is pain, this is the origin of pain," this is one consideration, "this is the destruction of pain, this is the way leading to the destruction of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly[1], is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

1. 'Those who do not understand pain and the origin of pain, and where pain wholly and totally is stopped, and do not know the way that leads to the cessation of pain, (724)

2. 'They, deprived of the emancipation of thought

[1. . . . kâ upanisâ savanâyâ,'ti iti ke bhikknave pukkhitâro assu te evam assu vakanîyâ: yâvad eva dvayatânam dhammânam yathâbhûtam ñânâyâ 'ti, kiñka dvayatam vadetha? 'idam dukkham, ayam dukkhasamudayo' ti ayam ekânupassanâ, 'ayam dukkhanirodho, ayam dukkhanirodhagâminî patipadâ' ti ayam dutiyânupassanâ; evam sammâdvayatânupassino . . .]

p. 133

and the emancipation of knowledge, are unable to put an end (to samsâra), they will verily continue to undergo birth and decay. (725)

3. 'And those who understand pain and the origin of pain, and where pain wholly and totally is stopped, and who know the way that leads to the cessation of pain, (726)

4. 'They, endowed with the emancipation of thought and the emancipation of knowledge, are able to put an end (to samsâra), they will not undergo birth and decay. (727)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of the upadhis (elements of existence)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the upadhis, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

5. 'Whatever pains there are in the world, of many kinds, they arise having their cause in the upadhis; he who being ignorant creates upadhi, that fool again undergoes pain; therefore being wise do not create upadhi, considering what is the birth and origin of pain. (728)

'"Should there be a perfect consideration of the

p. 134

Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of aviggâ (ignorance)," this is one consideration, "but from the complete destruction of aviggâ, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

6. 'Those who again and again go to samsâra with birth and death, to existence in this way or in that way,--that is the state of aviggâ. (729)

7. 'For this aviggâ is the great folly by which this (existence) has been traversed long, but those beings who resort to knowledge do not go to rebirth. (730)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of the samkhâras (matter)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the samkhâras, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state

p. 135

of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat; (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

8. 'Whatever pain arises is all in consequence of the samkhâras, by the destruction of the samkhâras there will be no origin of pain. (731)

9. 'Looking upon this pain that springs from the samkhâras as misery, from the cessation of all the samkhâras, and from the destruction of consciousness will arise the destruction of pain, having understood this exactly, (732)

10. 'The wise who have true views and are accomplished, having understood (all things) completely, and having conquered all association with Mâra, do not go to re-birth. (733)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of viññâna (consciousness)," this is one consideration, "but from the complete destruction of viññânana, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

11. 'Whatever pain arises is all in consequence of viññâna, by the destruction of viññâna there is no origin of pain. (734)

p. 136

12. 'Looking upon this pain that springs from viññâna as misery, from the cessation of viññâna a Bhikkhu free from desire (will be) perfectly happy (parinibbuta). (735)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of phassa (touch)," this is one consideration, "but from the complete destruction of phassa, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

13. 'For those who are ruined by phassa, who follow the stream of existence, who have entered a bad way, the destruction of bonds is far off. (736)

14. 'But those who, having fully understood phassa, knowingly have taken delight in cessation, they verily from the comprehension of phassa, and being free from desire, are perfectly happy. (737)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of the vedanâs (sensations)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the vedanâs, through absence of passion, there

p. 137

no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

15. 'Pleasure or pain, together with want of pleasure and want of pain, whatever is perceived internally and externally, (738)

16. 'Looking upon this as pain, having touched what is perishable and fragile, seeing the decay (of everything), the Bhikkhu is disgusted, having from the perishing of the vedanâs become free from desire, and perfectly happy. (739)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of tanhâ (desire)," this is one consideration, "but from the complete destruction of tanhâ, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

17. 'A man accompanied by tanhâ, for a long time transmigrating into existence in this way or

p. 138

that way, does not overcome transmigration (samsâra). (740)

18. 'Looking upon this as misery, this origin of the pain of tanhâ, let the Bhikkhu free from tanhâ, not seizing (upon anything), thoughtful, wander about. (741)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of the upâdânas (the seizures)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the upâdânas, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

19. 'The existence is in consequence of the upâdânas; he who has come into existence goes to pain, he who has been born is to die, this is the origin of pain. (742)

20. 'Therefore from the destruction of the upâdânas the wise with perfect knowledge, having seen (what causes) the destruction of birth, do not go to re-birth. (743)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in

p. 139

consequence of the ârambhas (exertions)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the ârambhas, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

21. 'Whatever pain arises is all in consequence of the ârambhas, by the destruction of the ârambhas there is no origin of pain. (744)

22, 23. 'Looking upon this pain that springs from the ârambhas as misery, having abandoned all the ârambhas, birth and transmigration have been crossed over by the Bhikkhu who is liberated in non-exertion, who has cut off the desire for existence, and whose mind is calm; there is for him no re-birth. (745, 746)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of the âhâras (food?)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the âhâras, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still

p. 140

remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

24. 'Whatever pain arises is all in consequence of the âhâras, by the destruction of the âhâras there is no origin of pain. (747)

25. 'Looking upon this pain that springs from the âhâras as misery, having seen the result of all âhâras, not resorting to all âhâras, (748)

26. 'Having seen that health is from the destruction of desire, he that serves discriminatingly and stands fast in the Dhamma cannot be reckoned as existing, being accomplished[1]. (749)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "Whatever pain arises is all in consequence of the iñgitas (commotions)," this is one consideration, "but from the complete destruction of the iñgitas, through absence of passion, there is no origin of pain," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

27. 'Whatever pain arises is all in consequence of the iñgitas, by the destruction of the iñgitas there is no origin of pain. (750)

28. 'Looking upon this pain that springs from

[1. Samkham nôpeti vedagû.]

p. 141

the iñgitas as misery, and therefore having abandoned the iñgitas and having stopped the samkhâras; let the Bhikkhu free from desire and not seizing (upon anything), thoughtful, wander about. (751)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "For the nissita (dependent) there is vacillation," this is one consideration, "the independent (man) does not vacillate," this is the second consideration; thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

29. 'The independent (man) does not vacillate, and the dependent (man) seizing upon existence in one way or in another, does not overcome samsâra. (752).

30. 'Looking upon this as misery (and seeing) great danger in things you depend upon, let a Bhikkhu wander about independent, not seizing (upon anything), thoughtful. (753)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "The formless (beings), O Bhikkhus, are calmer than the rûpas (for ruppa, i.e. form-possessing)," this is one consideration, "cessation is calmer than the formless," this is another consideration, "thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers

p. 142

the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

31. 'Those beings who are possessed of form, and those who dwell in the formless (world), not knowing cessation, have to go to re-birth. (754)

32. 'But those who, having fully comprehended the forms, stand fast in the formless (worlds), those who are liberated in the cessation, such beings leave death behind. (755)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "What has been considered true by the world of men, together with the gods, Mâra, Brahman, and amongst the Samanas, Brâmanas, gods, and men, that has by the noble through their perfect knowledge been well seen to be really false," this is one consideration; "what, O Bhikkhus, has been considered false by the world of men, together with the gods, Mâra, Brahman, and amongst the Samanas, Brâmanas, gods, and men, that has by the noble through their perfect knowledge been well seen to be really true," this is another consideration. Thus, O Bhikkhus, by the Bhikkhu that considers the Dyad duly, that is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one that does not return).' This said Bhagavat,

p. 143

(and) when Sugata had said this, the Master further spoke:

33. 'Seeing the real in the unreal, the world of men and gods dwelling in name and form[1], he thinks: "This is true." (756)

34. 'Whichever way they think (it), it becomes otherwise, for it is false to him, and what is false is perishable[2]. (?) (757)

35. 'What is not false, the Nibbâna, that the noble conceive as true, they verily from the comprehension of truth are free from desire (and) perfectly happy[3]. (758)

'"Should there be a perfect consideration of the Dyad in another way," if, O Bhikkhus, there are people that ask so, they shall be told, there is, and how there is: "What, O Bhikkhus, has been considered pleasure by the world of men, gods, Mâra, Brahman, and amongst the Samanas, Brâmanas, gods, and men, that has by the noble by (their) perfect knowledge been well seen to be really pain," this is one consideration; "what, O Bhikkhus, has been considered pain by the world of men, gods, Mâra, Brahman, and amongst the Samanas, Brâhmanas, gods, and men, that has by the noble by their perfect knowledge been well seen to be really pleasure," this is the second consideration. Thus, O

[1. Nâmarûpasmim, 'individuality.'

2. Yena yena hi maññanti
Tato tam hoti aññathâ,
Tam hi tassa musâ hoti,
Mosadhammam hi ittaram.

3. Amosadhammam nibbânam
Tad ariyâ sakkato vidû,
Te ye sakkâbhisamayâ
Nikkhâtâ parinibbutâ.]

p. 144

Bhikkhus, by the Bhikkhu who considers the Dyad duly, who is strenuous, ardent, resolute, of two fruits one fruit is to be expected: in this world perfect knowledge, or, if any of the (five) attributes still remain, the state of an Anâgâmin (one who does not return).' This said Bhagavat, (and) when Sugata had said so, the Master further spoke:

36. 'Form, sound, taste, smell, and touch are all wished for, pleasing and charming (things) as long as they last, so it is said. (759)

37. 'By you, by the world of men and gods these (things) are deemed a pleasure, but when they cease it is deemed pain by them. (760)

38. 'By the noble the cessation of the existing body is regarded as pleasure; this is the opposite of (what) the wise in all the world (hold)[1]. (761)

39. 'What fools say is pleasure that the noble say is pain, what fools say is pain that the noble know as pleasure:--see here is a thing difficult to understand, here the ignorant are confounded. (762)

40. 'For those that are enveloped there is gloom, for those that do not see there is darkness, and for the good it is manifest, for those that see there is light; (even being) near, those that are ignorant of the way and the Dhamma, do not discern (anything)[2]. (763)

[1. Sukhan ti dittham ariyehi
Sakkâyass' uparodhanam,
Pakkanîkam idam hoti
Sabbalokena passatam.

2. Nivutânam tamo hotî
Andhakâro apassatam,
Satañ ka vivatam hoti
Âloko passatâm iva,
Santike na vigânanti
Magadhammass' akovidâ.]

p. 145

41. 'By those that are overcome by the passions of existence, by those that follow the stream of existence, by those that have entered the realm of Mâra, this Dhamma is not perfectly understood. (764)

42. 'Who except the noble deserve the well-understood state (of Nibbâna)? Having perfectly conceived this state, those free from passion are completely extinguished[1].' (765)

This spoke Bhagavat. Glad those Bhikkhus rejoiced at the words of Bhagavat. While this explanation was being given, the minds of sixty Bhikkhus, not seizing (upon anything), were liberated.

Dvayatânupassanâsutta is ended.

Mahâvagga, the third.

[1. Ko nu aññatra-m-ariyehi
Padam sambuddham arahati
Yam padam samma-d-aññâya
Parinibbanti anâsavâ.]


IV. ATTHAKAVAGGA.


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1. KÂMASUTTA.
Sensual pleasures are to be avoided.
1. If he who desires sensual pleasures is successful, he certainly becomes glad-minded, having obtained what a mortal wishes for. (766)

2. But if those sensual pleasures fail the person who desires and wishes (for them), he will suffer, pierced by the arrow (of pain). (767)

3. He who avoids sensual pleasures as (he would avoid treading upon) the head of a snake with his foot, such a one, being thoughtful (sato), will conquer this desire. (768)

4. He who covets extensively (such) pleasures (as these), fields, goods, or gold, cows and horses, servants, women, relations, (769)

5. Sins will overpower him, dangers will crush him, and pain will follow him as water (pours into) a broken ship. (770)

6. Therefore let one always be thoughtful, and avoid pleasures; having abandoned them, let him cross the stream, after baling out the ship, and go to the other shore. (771)

Kâmasutta is ended.

p. 147

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2. GUHATTHAKASUTTA.
Let no one cling to existence and sensual pleasures.
1. A man that lives adhering to the cave (i.e. the body), who is covered with much (sin), and sunk into delusion, such a one is far from seclusion, for the sensual pleasures in the world are not easy to abandon. (772)

2. Those whose wishes are their motives, those who are linked to the pleasures of the world, they are difficult to liberate, for they cannot be liberated by others, looking for what is after or what is before, coveting these and former sensual pleasures. (773)

3. Those who are greedy of, given to, and infatuated by sensual pleasures, those who are niggardly, they, having entered upon what is wicked, wail when they are subjected to pain, saying: 'What will become of us, when we die away from here?' (774)

4. Therefore let a man here[1] learn, whatever he knows as wicked in the world, let him not for the sake of that (?) practise (what is) wicked[2]; for short is this life, say the wise. (775)

5. I see in the world this trembling race given to desire for existences; they are wretched men who lament in the mouth of death, not being free from the desire for reiterated existences. (776)

6. Look upon those men trembling in selfishness, like fish in a stream nearly dried up, with little water; seeing this, let one wander about unselfish, without forming any attachment to existences. (777)

[1. Idheva = imasmim yeva sâsane. Commentator.

2. Na tassa hetu visamam kareyya.]

p. 148

7. Having subdued his wish for both ends[1], having fully understood touch without being greedy, not doing what he has himself blamed, the wise (man) does not cling to what is seen and heard[2]. (778)

8. Having understood name[3], let the Muni cross over the stream, not defiled by any grasping; having pulled out the arrow (of passion), wandering about strenuous, he does not wish for this world or the other. (779)

Guhatthakasutta is ended.

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3. DUTTHATTHAKASUTTA.
The Muni undergoes no censure, for he has shaken off all systems of philosophy, and is therefore independent.
1. Verily, some wicked-minded people censure, and also just-minded people censure, but the Muni does not undergo the censure that has arisen; therefore there is not a discontented (khila) Muni anywhere. (780)

2. How can he who is led by his wishes and possessed by his inclinations overcome his own (false) view? Doing his own doings let him talk according to his understanding[4]. (781)

3. The person who, without being asked, praises

[1. Comp. Sallasutta, v. 9.

2. Ubhosu antesu vineyya khandam
Phassam pariññâya anânugiddho
Yad atta garahî tad akubbamâno
Na lippatî ditthasutesu dhîro.

3. Saññam = nâmarûpam. Commentator.

4. Sakam hi ditthim katham akkayeyya
Khandânunîto rukiyâ nivittho,
Sayam samattâni pakubbamâno
Yathâ hi gâneyya tathâ vadeyya.]

p. 149

his own virtue and (holy) works to others, him the good call ignoble, one who praises himself[1]. (782)

4. But the Bhikkhu who is calm and of a happy mind, thus not praising himself for his virtues, him the good call noble, one for whom there are no desires anywhere in the world[2]. (783)

5. He whose Dhammas are (arbitrarily) formed and fabricated, placed in front, and confused, because he sees in himself a good result, is therefore given to (the view which is called) kuppa-patikka-santi[3]. (?) (784)

6. For the dogmas of philosophy are not easy to overcome, amongst the Dhammas (now this and now that) is adopted after consideration; therefore a man rejects and adopts (now this and now that) Dhamma amongst the dogmas[4]. (785)

7. For him who has shaken off (sin) there is nowhere in the world any prejudiced view of the different existences; he who has shaken off (sin), after leaving deceit and arrogance behind, which (way) should he go, he (is) independent[6]. (786)

[1. Yo âtumânam sayam eva pâvâ = yo evam attânam sayam eva vadati. Commentator.

2. Yass' ussadâ n' atthi kuhiñki loke.

3. Pakappitâ samkhatâ yassa dhammâ
Purakkhatâ santi avîvadâtâ
Yad attanî passati ânisamsam
Tam nissito kuppapatikkasantim.

4. Ditthînivesâ na hi svâtivattâ,
Dhammesu nikkheyya samuggahîtam,
Tasmâ naro tesu nivesanesu
Nirassatî âdiyati-kka dhammam.
Comp. Paramatthakasutta, v. 6.

5. Dhonassa hî n' atthi kuhiñki loke
Pakappitâ ditthi bhavâbhavesu,
Mâyañ ka mânañ ka pahâya dhono
Sa kena gakkheyya, anûpayo so.]

p. 150

8. But he who is dependent undergoes censure amongst the Dhammas; with what (name) and how should one name him who is independent? For by him there is nothing grasped or rejected, he has in this world shaken off every (philosophical) view[1]. (787)

Dutthatthakasutta is ended.

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4. SUDDHATTHAKASUTTA.
No one is purified by philosophy, those devoted to philosophy run from one teacher to another, but the wise are not led by passion, and do not embrace anything in the world as the highest.
1. I see a pure, most excellent, sound man, by his views a man's purification takes place, holding this opinion, and having seen this view to be the highest he goes back to knowledge, thinking to see what is pure[2]. (788)

2. If a man's purification takes place by (his philosophical) views, or he by knowledge leaves pain behind, then he is purified by another (way than the ariyamagga, i.e. the noble way), together with his upadhis, on account of his views he tells him to say so[3]. (789)

[1. Upayo[*] hi dhammesu upeti vâdam
Anûpayam kena katham vadeyya
Attam nirattam na hi tassa atthi
Adhosi so ditthim idh' eva sabbam.

2. Passâmi suddham paramam arogam,
Ditthena samsuddhi narassa hoti,
Et' âbhigânam paraman ti ñatvâ.
Suddhânupassiti pakketi ñânam.

3. Ditthîhi nam pâva tathâ vadânam.
Comp. Garâsutta, v. l0; Pasûrasutta, v. 7.

*. Upayo ti tanhâditthinissito. Commentator.]

p. 151

3. But the Brâhmana who does not cling to what has been seen, or heard, to virtue and (holy) works, or to what has been thought, to what is good and to what is evil, and who leaves behind what has been grasped, without doing anything in this world, he does not acknowledge that purification cornes from another[1]. (790)

4. Having left (their) former (teacher) they go to another, following their desires they do not break asunder their ties; they grasp, they let go like a monkey letting go the branch (just) after having caught (hold of it). (791)

5. Having himself undertaken some (holy) works he goes to various (things) led by his senses, but a man of great understanding, a wise man who by his wisdom has understood the Dhamma, does not go to various (occupations). (792)

6. He being secluded amongst all the Dhammas, whatever has been seen, heard, or thought--how should any one in this world be able to alter him, the seeing one, who wanders openly[2]? (793)

7. They do not form (any view), they do not prefer (anything), they do not say, 'I am infinitely pure;' having cut the tied knot of attachment, they do not long for (anything) anywhere in the world. (794)

[1.Na brâhmano aññato suddhim âha
Ditthe sute sîlavate mute vâ
puññe ka pâpe ka anûpalitto
Attañgaho na idha pakubbamâno.

2. Sa sabbadhammesu visenibhûto[*]
Yam kiñki dittham va sutam mutam vâ
Tam eva dassim vivatam karantam
Ken' îdha lokasmim vikappayeyya?

*. Mârasenam vinâsetvâ thitabhâvena visenibhûto. Commentator.]

p. 152

8. He is a Brâhmana that has conquered (sin)[1]; by him there is nothing embraced after knowing and seeing it; he is not affected by any kind of passion; there is nothing grasped by him as the highest in this world. (795)

Suddhatthakasutta is ended.

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5. PARAMATTHAKASUTTA.
One should not give oneself to philosophical disputations; a Brâhmana who does not adopt any system of philosophy, is unchangeable, has reached Nibbâna.
1. What one person, abiding by the (philosophical) views, saying, 'This is the most excellent,' considers the highest in the world, everything different from that he says is wretched, therefore he has not overcome dispute[2]. (796)

2. Because he sees in himself a good result, with regard to what has been seen (or) heard, virtue and (holy) works, or what has been thought, therefore, having embraced that, he looks upon everything else as bad[3]. (797)

3. The expert call just that a tie dependent

[1. Katunnam kilesasîmânam atîtattâ
Sîmâtigo bâhitapâpattâ ka brâhmano.

2. Paraman ti ditthîsu paribbasâno
Yad uttarim kurute gantu loke
Hînâ ti aññe tato sabbam âha,
Tasmâ vivâdâni avîtivatto.
Properly, 'others (are) wretched.'

3. Yad attanî passati ânisamsam
Ditthe sute sîlavate mute vâ
Tad eva so tattha samuggahâya
Nihînato passati sabbam aññam.]

p. 153

upon which one looks upon anything else as bad. Therefore let a Bhikkhu not depend upon what is seen, heard, or thought, or upon virtue and (holy) works[1]. (798)

4. Let him not form any (philosophical) view in this world, either by knowledge or by virtue and (holy) works, let him not represent himself equal (to others), nor think himself either low or distinguished. (799)

5. Having left what has been grasped, not seizing upon anything he does not depend even on knowledge. He does not associate with those that are taken up by different things, he does not return to any (philosophical) view[2]. (800)

6. For whom there is here no desire for both ends, for reiterated existence either here or in another world, for him there are no resting-places (of the mind) embraced after investigation amongst the doctrines (dhammesu)[3]. (801)

7. ln him there is not the least prejudiced idea with regard to what has been seen, heard, or thought; how could any one in this world alter such a Brâhmana who does not adopt any view? (802)

[1. Tam vâpi gantham kusalâ vadanti
Yam nissito passati hînam aññam,
Tasmâ hi dittham va sutam mutam vâ
Sîlabbatam bhikkhu na nissayeyya.

2. Attam pahâya anupâdiyâno
Ñâne pi so nissayam no karoti,
Sa ve viyattesu na vaggasârî,
Ditthim pi so na pakketi kiñki.

3. Yass' ûbhayante panidhîdha n' atthi
Bhavâbhavâya idha vâ huram vâ
Nivesanâ tassa na santi keki
Dhammesu nikkheyya samuggahîtâ.]

p. 154

8. They do not form (any view), they do not prefer (anything), the Dhammas are not chosen by them, a Brâhmana is not dependent upon virtue and (holy) works; having gone to the other shore, such a one does not return. (803)

Paramatthakasutta is ended.

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6. GARÂSUTTA.
From selfishness come grief and avarice; The Bhikkhu who has turned away frorn the world and wanders about houseless, is independent, and does not wish for purification through another.
1. Short indeed is this life, within a hundred years one dies, and if any one lives longer, then he dies of old age. (804)

2. People grieve from selfishness, perpetual cares kill them, this (world) is full of disappointment; seeing this, let one not live in a house. (805)

3. That even of which a man thinks 'this is mine' is left behind by death: knowing this, let not the wise (man) turn himself to worldliness (while being my) follower[1]. (806)

4. As a man awakened does not see what he has met with in his sleep, so also he does not see the beloved person that has passed away and is dead. (807)

5. Both seen and heard are the persons whose particular name is mentioned, but only the name

[1. Maranena pi tam pahîyati
Yam puriso mama-y-idan ti maññati,
Evam pi viditvâ pandito
Na pamattâya nametha mâmako.]

p. 155

remains undecayed of the person that has passed away[1]. (808)

6. The greedy in their selfishness do not leave sorrow, lamentation, and avarice; therefore the Munis leaving greediness wandered about seeing security (i.e. Nibbâna). (809)

7. For a Bhikkhu, who wanders about unattached and cultivates the mind of a recluse, they say it is proper that he does not show himself (again) in existence[2]. (810)

8. Under all circumstances the independent Muni does not please nor displease (any one); sorrow and avarice do not stick to him (as little) as water to a leaf. (811)

9. As a drop of water does not stick to a lotus, as water does not stick to a lotus, so a Muni does not cling to anything, namely, to what is seen or heard or thought[3]. (812)

10. He who has shaken off (sin) does not therefore think (much of anything) because it has been seen or heard or thought; he does not wish for

[1. Ditthâpi sutâpi te ganâ
Yesam nâmam idam pavukkati
Nâmam evâvasissati
Akkheyyam petassa gantuno.

2. Patilînakarassa bhikkhuno
Bhagamânassa vittamânasam[*]
Sâmaggiyam âhu tassa tam
Yo attânam bhavane na dassaye.

3. Udabindu yathâpi pokkhare
Padume vâri yathâ na lippati
Evam muni nôpalippati
Yad idam dittthasutam mutesu vâ.

*. Bi has vivitta-.]

p. 156

purification through another, for he is not pleased nor displeased (with anything)[1]. (813)

Garâsutta is ended.

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7. TISSAMETTEYYASUTTA.
Sexual intercourse should be avoided.
1. 'Tell me, O venerable one,'--so said the venerable Tissa Metteyya,--'the defeat of him who is given to sexual intercourse; hearing thy precepts we will learn in seclusion.' (814)

2. 'The precepts of him who is given to sexual intercourse, O Metteyya,'--so said Bhagavat,--'are lost, and he employs himself wrongly, this is what is ignoble in him. (815)

3. 'He who, having formerly wandered alone, gives himself up to sexual intercourse, him they call in the world a low, common fellow, like a rolling chariot. (816)

4. 'What honour and renown he had before, that is lost for him; having seen this let him learn to give up sexual intercourse. (817)

5. 'He who overcome by his thoughts meditates like a miser, such a one, having heard the (blaming) voice of others, becomes discontented. (818)

6. 'Then he makes weapons (i.e. commits evil

[1. Dhono na hi tena maññati
Yad idam ditthasutam mutesu vâ,
Nâññena visuddhim ikkhati,
Na hi so raggati no viraggati.
Comp. Suddhatthakasutta, v. 2.]

p. 157

deeds) urged by the doctrines of others, he is very greedy, and sinks into falsehood[1]. (819)

7. 'Designated "wise" he has entered upon a solitary life, then having given himself up to sexual intercourse, he (being) a fool suffers pain. (820)

8. 'Looking upon this as misery let the Muni from first to last in the world firmly keep to his solitary life, let him not give himself up to sexual intercourse. (821)

9. 'Let him learn seclusion, this is the highest for noble men, but let him not therefore think himself the best, although he is verily near Nibbâna. (822)

10. 'The Muni who wanders void (of desire), not coveting sensual pleasures, and who has crossed the stream, him the creatures that are tied in sensual pleasures envy.' (823)

Tissametteyyasutta is ended.

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8. PASÛRASUTTA.
Disputants brand each other as fools, they wish for praise, but being repulsed they become discontented; one is not purified by dispute, but by keeping to Buddha, who has shaken off all sin.
1. Here they maintain 'purity,' in other doctrines (dhamma) they do not allow purity; what they have devoted themselves to, that they call good, and they enter extensively upon the single truths[2]. (824)

[1. Atha satthâni kurute
Paravâdehi kodito,
Esa khv-assa mahâgedho,
Mosavaggam pagâhati.

2. Idh' eya suddhim iti vâdiyanti
Nâññesu dhammesu visuddhim âhu
Yam nissitâ tattha subham vadânâ
Pakkekasakkesu puthû nivitthâ.]

p. 158

2. Those wishing for dispute, having plunged into the assembly, brand each other as fools mutually, they go to others and pick a quarrel, wishing for praise and calling themselves (the only) expert. (825)

3. Engaged in dispute in the middle of the assembly, wishing for praise he lays about on all sides; but when his dispute has been repulsed he becomes discontented, at the blame he gets angry he who sought for the faults (of others). (826)

4. Because those who have tested his questions say that his dispute is lost and repulsed, he laments and grieves having lost his disputes; 'he has conquered me,' so saying he wails. (827)

5. These disputes have arisen amongst the Samanas, in these (disputes) there is (dealt) blow (and) stroke; having seen this, let him leave off disputing, for there is no other advantage in trying to get praise. (828)

6. Or he is praised there, having cleared up the dispute in the middle of the assembly; therefore he will laugh and be elated, having won that case as he had a mind to. (829)

7. That which is his exaltation will also be the field of his defeat, still he talks proudly and arrogantly; seeing this, let no one dispute, for the expert do not say that purification (takes place) by that[1]. (830)

8. As a hero nourished by kingly food goes about roaring, wishing for an adversary--where he (i.e. the philosopher, Ditthigatika) is, go thou there, O

[1. Yi unnatî sâssa vighâtabûmi,
Mânâtimânam vadate pan' eso,
Etam pi disvâ na vivâdayetha
Na hi tena suddhim kusalâ vadanti.
Comp. Suddhatthakasutta, v. 2.]

p. 159

hero; formerly there was nothing like this to fight against[1]. (831)

9. Those who, having embraced a (certain philosophical) view, dispute and maintain 'this only (is) true,' to them say thou when a dispute has arisen, 'Here is no opponent[2] for thee.' (832)

10. Those who wander about after having secluded themselves, without opposing view to view--what (opposition) wilt thou meet with amongst those, O Pasûra, by whom nothing in this world is grasped as the best? (833)

11. Then thou wentest to reflection thinking in thy mind over the (different philosophical) views; thou hast gone into the yoke with him who has shaken off (al1 sin), but thou wilt not be able to proceed together (with him)[3]. (834)

Pasûrasutta is ended.

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9. MÂGANDIYASUTTA.
A dialogue between Mâgandiya and Buddha. The former offers Buddha his daughter for a wife, but Buddha refuses her. Mâgandiya says that purity cornes from philosophy, Buddha from 'inward peace.' The Muni is a confessor of peace, he does not dispute, he is free from marks.
1. Buddha: 'Even seeing Tanhâ, Arati, and Ragâ (the daughters of Mâra), there was not the least wish

[1. Sûro yathâ râgakhâdâya puttho
Abhigaggam eti patisûram ikkham--
Yen' eva so tena palehi sûra,
Pubbe va n' atthi yad idam yudhâya.

2. Patisenikattâ ti patilomakârako. Commentator.

3. Atha tvam pavitakkam âgamâ
Manasâ ditthigatâni kintayanto,
Dhonena yugam samâgamâ,
Na hi tvam pagghasi sampayâtave.]

p. 160

(in me) for sexual intercourse. What is this (thy daughter's body but a thing) full of water and excrement? I do not even want to touch it with my foot.' (835)

2. Mâgandiya: 'If thou dost not want such a pearl, a woman desired by many kings, what view, virtue, and (holy) works, (mode of) life, re-birth dost thou profess?' (836)

3. '"This I say," so (I do now declare), after investigation there is nothing amongst the doctrines which such a one (as I would) embrace, O Mâgandiya,'-- so said Bhagavat,--'and seeing (misery) in the (philosophical) views, without adopting (any of them), searching (for truth) I saw "inward peace[1]."' (837)

4. 'All the (philosophical) resolutions[2] that have been formed,'--so said Mâgandiya,--'those indeed thou explainest without adopting (any of them); the notion "inward peace" which (thou mentionest), how is this explained by the wise?' (838)

5. 'Not by (any philosophical) opinion, not by tradition, not by knowledge, O Mâgandiya,'--so said Bhagavat,--'not by virtue and (holy) works can any one say that purity exists; nor by absence of (philosophical) opinion, by absence of tradition, by absence of knowledge, by absence of virtue and (holy) works either; having abandoned these without adopting (anything else), let him, calm and independent, not desire existence[3]. (839)

[1. Idam vadâmîti na tassa hoti--Mâgandiyâ ti Bhagavâ--
Dhammesu nikkheyya samuggahîtam
Passañ ka ditthîsu anuggahâya
Agghattasantim pakinam adassam.

2. Vinikkhaya, placita?

3. Na ditthiyâ na sutiyâ na ñânena--Mâgandiyâ ti Bhagavâ--
Sîlabbatenâpi na suddhim âha
Aditthiyâ assutiyâ añânâ
Asîlatâ abbatâ no pi tena,
Ete ka nissagga anuggahâya
Santo anissâya bhavam na gappe.]

p. 161

6. 'If one cannot say by (any philosophical) opinion, or by tradition, or by knowledge,'--so said Mâgandiya,--'or by virtue and (holy) works that purity exists, nor by absence of (philosophical) opinion, by absence of tradition, by absence of knowledge, by absence of virtue and (holy) works, then I consider the doctrine foolish, for by (philosophical) opinions some return to purity.' (840)

7. 'And asking on account of (thy philosophical) opinion, O Mâgandiya,'--so said Bhagavat,--'thou hast gone to infatuation in what thou hast embraced, and of this (inward peace) thou hast not the least idea, therefore thou holdest it foolish[1]. (841)

8. 'He who thinks himself equal (to others), or distinguished, or low, he for that very reason disputes; but he who is unmoved under those three conditions, for him (the notions) "equal" and "distinguished" do not exist. (842)

9. 'The Brâhmana for whom (the notions) "equal" and "unequal" do not exist, would he say, "This is true?" Or with whom should he dispute, saying, "This is false?" With whom should he enter into dispute[2]? (843)

10. 'Having left his house, wandering about

[1. Ditthiñ ka nissâya anupukkhamâno
Samuggahîtesu pamoham âgâ
Ito ka nâddakkhi anum pi saññam
Tasmâ tuvam momuhato dahâsi.

2. Sakkan ti so brâhmano kim vadeyya
Musâ ti vâ so vivadetha kena
Yasmim samam visamañ kâpi n' atthi
Sa kena vâdam patisamyugeyya.]

p. 162

houseless, not making acquaintances in the village, free from lust, not desiring (any future existence), let the Muni not get into quarrelsome talk with people. (844)

11. 'Let not an eminent man (nâga) dispute after having embraced those (views) separated from which he (formerly) wandered in the world; as the thorny lotus elambuga is undefiled by water and mud, so the Muni, the confessor of peace, free from greed, does not cling to sensual pleasures and the world. (845)

12. 'An accomplished man does not by (a philosophical) view, or by thinking become arrogant, for he is not of that sort; not by (holy) works, nor by tradition is he to be led, he is not led into any of the resting-places (of the mind). (846)

13. 'For him who is free from marks there are no ties, to him who is delivered by understanding there are no follies; (but those) who grasped after marks and (philosophical) views, they wander about in the world annoying (people)[1].' (847)

Mâgandiyasutta is ended.

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10. PURÂBHEDASUTTA.
Definition of a calm Muni.
1. 'With what view and with what virtue is one called calm, tell me that, O Gotama, (when) asked about the best man?' (848)

2. 'He whose desire is departed before the dissolution (of his body),'--so said Bhagavat,--'who

[1. Saññâvirattassa na santi ganthâ,
Paññâvimuttassa na santi mohâ,
Saññañ ka ditthiñ ka ye aggahesum
Te ghattayantâ vikaranti loke.]

p. 163

does not depend upon beginning and end, nor reckons upon the middle, by him there is nothing preferred[1]. (849)

3. 'He who is free from anger, free from trembling, free from boasting, free from misbehaviour, he who speaks wisely, he who is not elated, he is indeed a Muni who has restrained his speech. (850)

4. 'Without desire for the future he does not grieve for the past, he sees seclusion in the phassas (touch), and he is not led by (any philosophical) views. (851)

5. 'He is unattached, not deceitful, not covetous, not envious, not impudent, not contemptuous, and not given to slander. (852)

6. 'Without desire for pleasant things and not given to conceit, and being gentle, intelligent, not credulous, he is not displeased (with anything). (853)

7. 'Not from love of gain does he learn, and he does not get angry on account of loss, and untroubled by desire he has no greed for sweet things[2]. (854)

8. 'Equable (upekhaka), always thoughtful, he does not think himself equal (to others)[3] in the world, nor distinguished, nor low: for him there are no desires (ussada). (855)

[1. Vîtatanho purâ bhedâ
Pubbam antam anissito
Vemagghe n' ûpasamkheyyo
Tassa n' atthi purekkhatam.

2. Rasesu nânugigghati

3. Na loke maññate samam
Na visesî na nîkeyyo.
Compare Tuvatakasutta, v. 4; Attadandasutta, v. 20.]

p. 164

9. 'The man for whom there is nothing upon which he depends, who is independent, having understood the Dhamma, for whom there is no desire for coming into existence or leaving existence, (856)

10. 'Him I call calm, not looking for sensual pleasures; for him there are no ties, he has overcome desire. (857)

11. 'For him there are no sons, cattle, fields, wealth, nothing grasped or rejected is to be found in him, (858)

12. 'That fault of which common people and Samanas and Brâhmanas say that he is possessed, is not possessed by him, therefore he is not moved by their talk. (859)

13. 'Free from covetousness, without avarice, the Muni does not reckon himself amongst the distinguished, nor amongst the plain, nor amongst the low, he does not enter time, being delivered from time[1]. (860)

14. 'He for whom there is nothing in the world (which he may call) his own, who does not grieve over what is no more, and does not walk amongst the Dhammas (after his wish), he is called calm[2].' (861)

Purâbhedasutta is ended.

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11. KALAHAVIVÂDASUTTA.
The origin of contentions, disputes, &c. &c.
1. 'Whence (do spring up) contentions and disputes, lamentation and sorrow together with envy;

[1. Vîtagedho amakkharî
Na ussesu vadate muni
Na samesu na omesu,
Kappam n' eti akappiyo.

2. Comp. infra, Attadandasutta, v. 16, and Dhp. v. 367.]

p. 165

and arrogance and conceit together with slander, whence do these spring up? pray, tell me this.' (862)

2. 'From dear (objects) spring up contentions and disputes, lamentation and sorrow together with envy; arrogance and conceit together with slander; contentions and disputes are joined with envy, and there is slander in the disputes arisen.' (863)

3. 'The dear (objects) in the world whence do they originate, and (whence) the covetousness that prevails in the world, and desire and fulfilment whence do they originate, which are (of consequence) for the future state of a man[1]?' (864)

4. 'From wish[2] originate the dear (objects) in the world, and the covetousness that prevails in the world, and desire and fulfilment originate from it, which are (of consequence) for the future state of a man.' (865)

5. 'From what has wish in the world its origin, and resolutions[3] whence do they spring, anger and falsehood and doubt, and the Dhammas which are made known by the Samana (Gotama)?' (866)

6. 'What they call pleasure and displeasure in the world, by that wish springs up; having seen decay and origin in (all) bodies[4], a person forms (his) resolutions in the world. (867)

7. 'Anger and falsehood and doubt, these Dhammas are a couple[5]; let the doubtful learn in the way of knowledge, knowingly the Dhammas have been proclaimed by the Samana.' (868)

8. 'Pleasure and displeasure, whence have they

[1. Ye samparâyâya narassa honti.

2. Khanda.

3. Vinikkhaya.

4. Rûpesu disvâ vibhavam bhavañ ka.

5. Te pi kodhâdayo dhammâ sâtâsâtadvaye sante eva pahonti uppagganti. Commentator.]

p. 166

their origin, for want of what do these not arise? This notion which (thou mentionest), viz. "decay and origin," tell me from what does this arise.' (869)

9. 'Pleasure and displeasure have their origin from phassa (touch), when there is no touch they do not arise. This notion which (thou mentionest), viz. "decay and origin," this I tell thee has its origin from this.' (870)

10. 'From what has phassa its origin in the world and from what does grasping spring up? For want of what is there no egotism, by the cessation of what do the touches not touch? ' (871)

11. 'On account of name and form the touches (exist), grasping has its origin in wish; by the cessation of wishes there is no egotism, by the cessation of form the touches do not touch.' (872)

12. 'How is one to be constituted that (his) form may cease to exist, and how do joy and pain cease to exist? Tell me this, how it ceases, that we should like to know, such was my mind[1]?' (873)

13. 'Let one not be with a natural consciousness, nor with a mad consciousness, nor without consciousness, nor with (his) consciousness gone; for him who is thus constituted form ceases to exist, for what is called delusion has its origin in consciousness[2].' (?) (874)

14. 'What we have asked thee thou hast explained

[1. Katham sametassa vibhoti rûpam,
Sukham dukham vâpi katham vibhoti,
Etam me pabrûhi, yathâ vibhoti
Tam gâniyâma, iti me mano ahû.

2. Na sannasaññî na visannasaññî
No pi asaññî na vibhûtasaññî
Evam sametassa vibhoti rûpam
Saññânidânâ hi papañkasamkhâ.]

p. 167

unto us; we will ask thee another question, answer us that: Do not some (who are considered) wise in this world tell us that the principal (thing) is the purification of the yakkha, or do they say something different from this[1]?' (875)

15. 'Thus some (who are considered) wise in this world say that the principal (thing) is the purification of the yakkha; but some of them say samaya (annihilation), the expert say (that the highest purity lies) in anupâdisesa (none of the five attributes remaining)[2]. (876)

16. 'And having known these to be dependent, the investigating Muni, having known the things we depend upon, and after knowing them being liberated, does not enter into dispute, the wise (man) does not go to reiterated existence[3].' (877)

Kalahavivâdasutta is ended.

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12. KÛLAVIYÛHASUTTA.
A description of disputing philosophers. The different schools of philosophy contradict each other, they proclaim different truths, but the truth is only one. As long as the disputations are going on, so long will there be strife in the world.
1. Abiding by their own views, some (people), having got into contest, assert themselves to be

[1. Comp. Sundarikabhâradvâgasutta, v. 25.

2. Ettâvat' aggam pi vadanti h' eke
Yakkhassa suddhim idha panditâse,
Tesam pun' eke samayam[*] vadanti
Anupâdisese kusalâ vadânâ.

3. Ete ka ñatvâ upanissitâ ti
Ñatvâ munî nissaye so vimamsî
Ñatvâ vimutto na vivâdam eti
Bhavâbhavâya na sameti dhîro.

*. Ukkhedam. Commentator.]

p. 168

the (only) expert (saying), '(He) who understands this, he knows the Dhamma; he who reviles this, he is not perfect[1].' (878)

2. So having got into contest they dispute: 'The opponent (is) a fool, an ignorant (person),' so they say. Which one of these, pray, is the true doctrine (vâda)? for all these assert themselves (to be the only) expert. (879)

3. He who does not acknowledge an opponent's doctrine (dhamma), he is a fool, a beast, one of poor understanding, all are fools with a very poor understanding; all these abide by their (own) views. (880)

4. They are surely purified by their own view, they are of a pure understanding, expert, thoughtful, amongst them there is no one of poor understanding, their view is quite perfect! (881)

5. I do not say, 'This is the reality,' which fools say mutually to each other; they made their own views the truth, therefore they hold others to be fools. (882)

6. What some say is the truth, the reality, that others say is void, false, so having disagreed they dispute. Why do not the Samanas say one (and the same thing)? (883)

7. For the truth is one, there is not a second, about which one intelligent man might dispute with another intelligent man; (but) they themselves praise different truths, therefore the Samanas do not say one and the same thing)[2]. (884)

[1. Sakam sakam ditthi paribbasânâ
Viggayha nânâ kusalâ vadanti
Yo evam gânâti sa vedi dhammam
Idam patikkosam akevalî so.

2. Ekam hi sakkam na dutîyam atthi
Yasmim pagâno vivade pagânam,
Nânâ te sakkâni sayam thunanti,
Tasmâ na ekam samanâ vadanti.]

p. 169

8. Why do the disputants that assert themselves (to be the only) expert, proclaim different truths? Have many different truths been heard of, or do they (only) follow (their own) reasoning? (885)

9. There are not many different truths in the world, no eternal ones except consciousness; but having reasoned on the (philosophical) views they proclaim a double Dhamma, truth and falsehood[1]. (886)

10. In regard to what has been seen, or heard, virtue and (holy) works, or what has been thought, and on account of these (views) looking (upon others) with contempt, standing in (their) resolutions joyful, they say that the opponent is a fool and an ignorant person[2] (?) (887)

11. Because he holds another (to be) a fool, therefore he calls himself expert, in his own opinion he is one that tells what is propitious, others he blames, so he said[3]. (?) (888)

12. He is full of his overbearing (philosophical) view, mad with pride, thinking himself perfect, he is in his own opinion anointed with the spirit (of genius), for his (philosopbical) view is quite complete. (889)

[1. Na h' evâ sakkâni bahûni nânâ
Aññatra saññâya nikkâni loke,
Takkañ ka ditthisu pakappayitvâ
Sakkam musâ ti dvayadhammam âhu.

2. Ditthe sute sîlavate mute vâ
Ete ka nissâya vimânadassî
Vinikkhaye thatvâ pahassamânâ
Bâlo paro akusalo ti kâhu.

3. Yen' eva bâlo ti param dahâti
Tenâtumânam kusalo ti kâha,
Sayam attanâ sa kusalâ vadâno
Aññam vimâneti, tath' eva pâva.]

p. 170

13. If he according to another's report is low, then (he says) the other is also of a low understanding, and if he himself is accomplished and wise, there is not any fool amongst the Samanas[1]. (890)

14. 'Those who preach a doctrine (dhamma) different from this, fall short of purity and are imperfect,' so the Titthiyas say repeatedly, for they are inflamed by passion for their own (philosophical) views. (891)

15. Here they maintain purity, in other doctrines (dhamma) they do not allow purity; so the Titthiyas, entering extensively (upon details), say that in their own way there is something firm. (892)

16. And saying that there is something firm in his own way he holds his opponent to be a fool; thus he himself brings on strife, calling his opponent a fool and impure (asuddhadhamma). (893)

17. Standing in (his) resolution, having himself measured (teachers, &c.), he still more enters into dispute in the world; but having left all resolutions nobody will excite strife in the world[2]. (894)

Kûlaviyûhasutta is ended.

[1. Parassa ke hi vakasâ nihîno
Tumo[*] sahâ hoti nihînapañño,
Atha ke sayam vedagu hoti dhîro
Na koki bâlo samanesû atthi.

2. Vinikkhaye thatvâ sayam pamâya
Uddham so lokasmim vivâdam eti,
Hitvâna sabbâni vinikkhayâni
Na medhakam kurute gantu loke.

*. So pi ten' eva. Commentator. Ved. tva (?).]

p. 171

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13. MAHÂVIYÛHASUTTA.
Philosophers cannot lead to purity, they only praise themselves and stigmatise others. But a Brâhmana has overcome all dispute, he is indifferent to learning, he is appeased.
1. Those who abiding in the (philosophical) views dispute, saying, 'This is the truth,' they all incur blame, and they also obtain praise in this matter. (895)

2. This is little, not enough to (bring about) tranquillity, I say there are two fruits of dispute; having seen this let no one dispute, understanding Khema (i.e. Nibbâna) to be the place where there is no dispute. (896)

3. The opinions that have arisen amongst people, all these the wise man does not embrace; he is independent. Should he who is not pleased with what has been seen and heard resort to dependency[1]? (?) (897)

4. Those who consider virtue the highest of all, say that purity is associated with restraint; having taken upon themselves a (holy) work they serve. Let us learn in this (view), then, his (the Master's) purity; wishing for existence they assert themselves to be the only expert[2]. (898)

5. If he falls off from virtue and (holy) works, he trembles, having missed (his) work; he laments, he

[1. Yâ kâk' imâ sammutiyo puthuggâ
Sabbâ va etâ na upeti vidvâ,
Anûpayo so, upayam kim eyya
Ditthe sute khantim[*] akubbamâno?

2. Sîluttamâ saññamenâhu suddhim,
Vatam samâdâya upatthitâse,
Idh' eva sikkhema ath' assa suddhim,
Bhavûpanîtâ kusalâ vadânâ.

*. So all the MSS.]

p. 172

prays for purity in this world, as one who has lost his caravan or wandered away from his house. (899)

6. Having left virtue and (holy) works altogether, and both wrong and blameless work, not praying for purity or impurity, he wanders abstaining (from both purity and impurity), without having embraced peace. (900)

7. By means of penance, or anything disliked, or what has been seen, or heard, or thought, going upwards they wail for what is pure, without being free from desire for reiterated existence. (901)

8. For him who wishes (for something there always are) desires[1], and trembling in (the midst of his) plans; he for whom there is no death and no re-birth, how can he tremble or desire anything? (902)

9. What some call the highest Dhamma, that others again call wretched; which one of these, pray, is the true doctrine (vâda)? for all these assert themselves (to be the only) expert. (903)

10. Their own Dhamma they say is perfect, another's Dhamma again they say is wretched; so having disagreed they dispute, they each say their own opinions (are) the truth. (904)

11. If one (becomes) low by another's censure, then there will be no one distinguished amongst the Dhammas; for they all say another's Dhamma (is) low, in their own they say there is something firm[2]. (905)

[1. Gappitâni.

2. Parassa ke vamhayitena hîno
Na koki dhammesu visesi assa,
Puthû hi aññassa vadanti dhammam
Nihînato samhi dalham vadânâ.]

p. 173

12. The worshipping of their own Dhamma is as great as their praise of their own ways; all schools would be in the same case, for their purity is individual[1]. (906)

13. There is nothing about a Brâhmana dependent upon others, nothing amongst the Dhammas which he would embrace after investigation; therefore he has overcome the disputes, for he does not regard any other Dhamma as the best. (907)

14. 'I understand, I see likewise this,' so saying, some by (their philosophical) views return to purity. If he saw purity, what then (has been effected) by another's view? Having conquered they say that purity exists by another[2]. (?) (908)

15. A seeing man will see name and form, and having seen he will understand those (things); let him at pleasure see much or little, for the expert do not say that purity exists by that. (909)

16. A dogmatist is no leader to purity, being guided by prejudiced views, saying that good consists in what he is given to, and saying that purity is there, he saw the thing so[3]. (910)

17. A Brâhmana does not enter time, (or) the

[1. Sadhammapûgâ ka panâ tath' eva
Yathâ pasamsanti sakâyanâni,
Sabbe pavâdâ tath' ivâ bhaveyyum
Suddhi hi nesam pakkattam eva.

2. Gânâmi passâmi tath' eva etam
ditthiyâ eke pakkenti suddhim
Addakkhi ke kim hi tumassa tena
Atisitvâ aññena vadanti suddhim.

3. Nivissavâdî na hi suddhinâyo
Pakappitâ ditthi purekkharâno
Yam nissito tattha subham vadâno
Suddhim vado tattha, tath' addasâ so.]

p. 174

number (of living beings), (he is) no follower of (philosophical) views, nor a friend of knowledge; and having penetrated the opinions that have arisen amongst people, he is indifferent to learning, while others acquire it. (911)

18. The Muni, having done away with ties here in the world, is no partisan in the disputes that have arisen; appeased amongst the unappeased he is indifferent, not embracing learning, while others acquire it. (912)

19. Having abandoned his former passions, not contracting new ones, not wandering according to his wishes, being no dogmatist, he is delivered from the (philosophical) views, being wise, and he does not cling to the world, neither does he blame himself. (913)

20. Being secluded amongst all the doctrines (dhamma), whatever has been seen, heard, or thought, he is a Muni who has laid down his burden and is liberated, not belonging to time (na kappiyo), not dead, not wishing for anything. So said Bhagavat. (914)

Mahâviyûhasutta is ended.

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14. TUVATAKASUTTA.
How a Bhikkhu attains bliss, what his duties are, and what he is to avoid.
1. 'I ask thee, who art a kinsman of the Âdikkas and a great Isi, about seclusion (viveka) and the state of peace. How is a Bhikkhu, after having seen it, extinguished, not grasping at anything in the world?' (915)

p. 175

2. 'Let him completely cut off the root of what is called papañka[1] (delusion), thinking "I am wisdom;"'--so said Bhagavat,--'all the desires that arise inwardly, let him learn to subdue them, always being thoughtful. (916)

3. 'Let him learn every Dhamma inwardly or outwardly; let him not therefore be proud, for that is not called bliss by the good. (917)

4. 'Let him not therefore think himself better (than others or) low or equal (to others); questioned by different people, let him not adorn himself[2]. (918)

5. 'Let the Bhikkhu be appeased inwardly, let him not seek peace from any other (quarter); for him who is inwardly appeased there is nothing grasped or rejected. (919)

6. 'As in the middle (i.e. depth) of the sea no wave is born, (but as it) remains still[3], so let the Bhikkhu be still[3], without desire, let him not desire anything whatever.' (920)

7. He with open eyes expounded clearly the Dhamma that removes (all) dangers; tell (now) the religious practices; the precepts or contemplation[4]. (921)

8. Bhagavat: 'Let him not be greedy with his eyes, let him keep his ears from the talk of the town, let him not be greedy after sweet things, and let him not desire anything in the world. (922)

9. 'When he is touched by the touch (of illness),

[1. Aviggâdayo kilesâ. Commentator.

2. Nâtumânam vikappayan titthe.

3. Thito.

4. Akittayi vivatakakkhu sakkhi
Dhammam parissayavinayam,
Patipadam vadehi, bhaddan te,
Pâtimokkham athavâpi samâdhim.]

p. 176

let the Bhikkhu not lament, and let him not wish for existence anywhere, and let him not tremble at dangers. (923)

10. 'Having obtained boiled rice and drink, solid food and clothes, let him not store up (these things), and let him not be anxious, if he does not get them. (924)

11. 'Let him be meditative, not prying, let him abstain from misbehaviour[1], let him not be indolent, let the Bhikkhu live in his quiet dwelling. (925)

12. 'Let him not sleep too much, let him apply himself ardently to watching, let him abandon sloth, deceit, laughter, sport, sexual intercourse, and adornment. (926)

13. 'Let him not apply himself to practising (the hymns of) the Âthabbana(-veda), to (the interpretation of) sleep and signs, nor to astrology; let not (my) follower (mâmaka) devote himself to (interpreting) the cry of birds, to causing impregnation, nor to (the art of) medicine. (927)

14. 'Let the Bhikkhu not tremble at blame, nor puff himself up when praised; let him drive off covetousness together with avarice, anger, and slander. (928)

15. 'Let the Bhikkhu not be engaged in purchase and sale, let him not blame others in anything, let him not scold in the village, let him not from love of gain speak to people. (929)

16. 'Let not the Bhikkhu be a boaster, and let him not speak coherent[2] language; let him not learn pride, let him not speak quarrelsome language. (930)

[1. Virame kukkukkam.

2. Payuta; comp. Nâlakasutta, v. 33.]

p. 177

17. 'Let him not be led into falsehood, let him not consciously do wicked things; and with respect to livelihood, understanding, virtue, and (holy) works let him not despise others. (931)

18. 'Having heard much talk from much-talking Samanas let him not irritated answer them with harsh language; for the good do not thwart[1] others. (932)

19. 'Having understood this Dhamma, let the investigating and always thoughtful Bhikkhu learn; having conceived bliss to consist in peace, let him not be indolent in Gotama's commandments. (933)

20. 'For he a conqueror unconquered saw the Dhamma visibly, without any traditional instruction[2]; therefore let him learn, heedful in his, Bhagavat's, commandments, and always worshipping.' (934)

Tuvatakasutta is ended.

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15. ATTADANDASUTTA.
Description of an accomplished Muni.
1. From him who has seized a stick fear arises. Look at people killing (each other); I will tell of grief as it is known to me. (935)

2. Seeing people struggling like fish in (a pond with) little water, seeing them obstructed by each other, a fear came over me. (936)

3. The world is completely unsubstantial, all quarters are shaken; wishing for a house for myself I did not see (one) uninhabited. (937)

4. But having seen (all beings) in the end obstructed, discontent arose in me; then I saw in

[1. Patisenikaronti.

2. Sakkhi dhammam anîtiham adassî.]

p. 178

this world an arrow, difficult to see, stuck in the heart. (938)

5. He who has been pierced by this arrow runs through all quarters; but having drawn out that arrow, he will not run, he will sit down (quietly). (939)

6. There (many) studies are gone through; what is tied in the world let him not apply himself to (untie) it; having wholly transfixed desire, let him learn his own extinction (nibbâna). (940)

7. Let the Muni be truthful, without arrogance, undeceitful, free from slander, not angry, let him overcome avarice. (941)

8. Let the man who has turned his mind to Nibbâna conquer sleepiness, drowsiness, and sloth; let him not live together with indolence, let him not indulge in conceit. (942)

9. Let him not be led into falsehood, let him not turn his affection to form; let him penetrate arrogance, let him wander abstaining from violence. (943)

10. Let him not delight in what is old, let him not bear with what is new, let him not grieve for what is lost, let him not give himself up to desire[1]. (944)

11. (This desire) I call greed, the great stream, I call (it) precipitation, craving, a trouble, a bog of lust difficult to cross[2]. (945)

12. The Muni who without deviating from truth

[1. Âkâsam na sito siyâ ti tanham nissito na bhaveyya. Commentator.

2. Gedham brûmi mahogho ti
Âgavam brûmi gappanam
Ârammanam pakappanam
Kâmapamko durakkayo.]

p. 179

stands fast on the firm ground (of Nibbâna, being) a Brâhmana, he, having forsaken everything, is indeed called calm. (946)

13. He indeed is wise, he is accomplished, having understood the Dhamma independent (of everything); wandering rightly in the world he does not envy any one here. (947)

14. Whosoever has here overcome lust, a tie difficult to do away with in the world, he does not grieve, he does not covet[1], having cut off the stream, and being without bonds. (948)

15. What is before (thee), lay that aside; let there be nothing behind thee; if thou wilt not grasp after what is in the middle, thou wilt wander calm[2]. (949)

16. The man who has no desire at all for name and form (individuality) and who does not grieve over what is no more, he indeed does not decay in the world[3]. (950)

17. He who does not think, 'this is mine' and 'for others there is also something,' he, not having egotism, does not grieve at having nothing[4]. (951)

18. Not being harsh, not greedy, being without desire, and being the same under all circumstances (samo[5]),--that I call a good result, when asked about an undaunted man. (952)

19. For him who is free from desire, for the

[1. Nâggheti = nâbhigghati (read nâbhigghâyati). Commentator.

2. Comp. infra, Gatukannin's question, v. 4, and Dhammapada, p. 308.

3. Comp. infra, Gatukannin's question, v. 5.

4. Yassa n'atthi 'idam me' ti
'Paresam vâpi kiñkanam'
Mamattam so asamvindam
'N' atthi me' ti na sokati.

5. = upekhako. Commentator.]

p. 180

discerning (man) there is no Samkhâra; abstaining from every sort of effort he sees happiness everywhere[1]. (953)

20. The Muni does not reckon himself amongst the plain, nor amongst the low, nor amongst the distinguished; being calm and free from avarice, he does not grasp after nor reject anything[2]. (954)

Attadandasutta is ended.

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16. SÂRIPUTTASUTTA.
On Sâriputta asking what a Bhikkhu is to devote himself to, Buddha shows what life he is to lead.
1. 'Neither has before been seen by me,'--so said the venerable Sâriputta,--'nor has any one heard of such a beautifully-speaking master, a teacher arrived from the Tusita heaven. (955)

2. 'As he, the clearly-seeing, appears to the world of men and gods, after having dispelled all darkness, so he wanders alone in the midst (of people). (956)

3. 'To this Buddha, who is independent, unchanged, a guileless teacher, who has arrived (in the world), I have come supplicatingly with a question[3] from many who are bound in this world. (957)

4. 'To a Bhikkhu who is loath (of the world) and affects an isolated seat, the root of a tree or a cemetery, or (who lives) in the caves of the mountains, (958)

[1. Anegassa vigânato
N' atthi kâki nisamkhiti,
Virato so viyârambhâ
Khemam passati sabbadhi.

2. Comp. supra, Purâbhedasutta, vv. 15, 20 {sic., vv. 8, 13}.

3. Atthi pañhena âgamim = atthiko pañhena âgato 'mhîti atthikânam vâ pañhena atthi âgamanañ kâ ti. Commentator.]

p. 181

5. 'How many dangers (are there not) in these various dwelling-places at which the Bhikkhu does not tremble in his quiet dwelling! (959)

6. 'How many dangers (are there not) in the world for him who goes to the immortal region[1], (dangers) which the Bhikkhu overcomes in his distant dwelling! (960)

7. 'Which are his words, which are his objects in this world, which are the virtue and (holy) works of the energetic Bhikkhu? (961)

8. 'What study having devoted himself to, intent on one object[2], wise and thoughtful, can he blow off his own filth as the smith (blows off) that of the silver[3]?' (962)

9. 'What is pleasant for him who is disgusted (with birth, &c.), O Sâriputta,'--so said Bhagavat,--'if he cultivates a lonely dwelling-place, and loves perfect enlightenment in accordance with the Dhamma, that I will tell thee as I understand it. (963)

10. 'Let not the wise and thoughtful Bhikkhu wandering on the borders[4] be afraid of the five dangers: gad-flies and (all other) flies[5], snakes, contact with (evil) men[6], and quadrupeds. (964)

11. 'Let him not be afraid of adversaries[7], even having seen many dangers from them; further he

[1. Gakkhato amatam disam.

2. Ekodi = ekaggakitto. Commentator.

3. Comp. Dhp. v. 239.

4. Pariyantakâri.

5. Damsâdhipâtânan ti pingalamakkhikânañ ka sesamakkhikânañ ka, sesamakkhikâ hi tato adhipatitvâ khâdanti, tasmâ adhipâtâ ti vukkanti. Commentator.

6. Manussaphassânan ti korâdiphassânam. Commentator.

7. Paradhammikânam.]

p. 182

will overcome other dangers while seeking what is good. (965)

12. 'Touched by sickness and hunger let him endure cold and excessive heat, let him, touched by them in many ways, and being houseless, make strong exertions. (966)

13. 'Let him not commit theft, let him not speak falsely, let him touch friendly what is feeble or strong, what he acknowledges to be the agitation of the mind, let him drive that off as a partisan of Kanha (i.e. Mâra). (967)

14. 'Let him not fall into the power of anger and arrogance; having dug up the root of these, let him live, and let him overcome both what is pleasant and what is unpleasant. (968)

15. 'Guided by wisdom, taking delight in what is good, let him scatter those dangers, let him overcome discontent in his distant dwelling, let him overcome the four causes of lamentation. (969)

16. 'What shall I eat, or where shall I eat?--he lay indeed uncomfortably (last night)--where shall I lie this night? let the Sekha who wanders about houseless subdue these lamentable doubts. (970)

17. 'Having had in (due) time both food and clothes, let him know moderation in this world for the sake of happiness; guarded in these (things) and wandering restrained in the village let him, even (if he be) irritated, not speak harsh words. (971)

18. 'Let him be with down-cast eyes, and not prying, devoted to meditation, very watchful; having acquired equanimity let him with a composed mind cut off the seat of doubt, and misbehaviour. (972)

19. 'Urged on by words (of his teachers) let him be thoughtful and rejoice (at this urging), let

p. 183

him break stubbornness in his fellow-students, let him utter propitious words and not unseasonable, let him not think detractingly of others. (973)

20. 'And then the five impurities in the world, the subjection of which he must learn thoughtfully,--let him overcome passion for form, sound and taste, smell and touch. (974)

21. 'Let the Bhikkhu subdue his wish for these Dhammas and be thoughtful, and with his mind well liberated, then in time he will, reflecting upon Dhamma, and having become intent upon one object, destroy darkness.' So said Bhagavat. (975)

Sâriputtasutta is ended.

Atthakavagga, the fourth.

V. PÂRÂYANAVAGGA.


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1. VATTHUGÂTHÂ.
To the Brâhmana Bâvarî, living on the banks of the Godhâvarî, in Assaka's territory, comes another Brâhmana and asks for five hundred pieces of money, but not getting them he curses Bâvarî, saying, 'May thy head on the seventh day hence cleave into seven.' A deity comforts Bâvarî by referring him to Buddha. Then Bâvarî sends his sixteen disciples to Buddha, and each of thern asks Buddha a question.
1. From the beautiful city of the Kosalas (Sâvatthî) a Brâhmana, well versed in the hymns, went to the South (Dakkhinâpatha) wishing for nothingness[1]. (976)

2. In Assaka's territory, in the neighbourhood of Alaka, he dwelt on the banks of the Godhâvarî, (living) on gleanings and fruit. (977)

3. And close by the bank there was a large village, with the income of which he prepared a great sacrifice. (978)

4. Having offered the great sacrifice, he again entered the hermitage. Upon his re-entering, another Brâhmana arrived, (979)

5. With swollen feet[2], trembling, covered with mud, with dust on his head. And he going up

[1. Âkiñkañña.

2. Ugghattapâdo ti maggakkamanena ghattapâdatalo panhikâya vâ panhikam gopphakena vâ gopphakam gannukena gannukam âgantvâpi ghattapâdo. Commentator.]

p. 185

to him (i.e. the first Brâhmana) demanded five hundred (pieces of money). (980)

6. Bâvarî, seeing him, bade him be seated, asked him whether he was happy and well, and spoke as follows: (981)

7. 'What gifts I had are all given away by me; pardon me, O Brâhmana, I have no five hundred.' (982)

8. 'If thou wilt not give to me who asks, may thy head on the seventh clay cleave into seven.' (983)

9. So after the usual ceremonies this impostor made known his fearful (curse). On hearing these his words Bâvarî became sorrowful. (984)

10. He wasted away taking no food, transfixed by the arrow of grief, but yet his mind delighted in meditation. (985)

11. Seeing Bâvarî struck with horror and sorrowful, the benevolent deity (of that place) approached him and said as follows: (986)

12. 'He does not know (anything about) the head; he is a hypocrite coveting riches; knowledge of the head and head-splitting is not found in him[1].' (987)

13. 'If the venerable (deity) knows it, then tell me, when asked, all about the head and head-splitting; let us hear thy words.' (988)

14. 'I do not know this; knowledge of it is not found in me; as to the head and head-splitting, this is to be seen by Buddhas (only).' (989)

15. 'Who then, say, in the circumference of the

[1. Na so muddham pagânâti,
Kuhako so dhanatthiko,
Muddhani muddhapâte ka
Ñânam tassa na viggati.]

p. 186

earth knows the head and head-splitting, tell me that, O deity?' (990)

16. 'Formerly went out from Kapilavatthu a ruler of the world, an offspring of the Okkâka king, the Sakya son, the light-giving; (991)

17. 'He is, O Brâhmana, the perfectly Enlightened (Sambuddha); perfect in all things, he has attained the power of all knowledge, sees clearly in everything; he has arrived at the destruction of all things, and is liberated in the destruction of the upadhis[1]. (992)

18. 'He is Buddha, he is Bhagavat in the world, he, the clearly-seeing, teaches the Dhamma; go thou to him and ask, he will explain it to thee.' (993)

19. Having heard the word 'Sambuddha,' Bâvarî rejoiced, his grief became little, and he was filled with great delight. (994)

20. Bâvarî glad, rejoicing, and eager asked the deity: 'In what village or in what town or in what province dwells the chief of the world, that going there we may adore the perfectly Enlightened, the first of men?' (995)

21. 'In Sâvatthî, the town of the Kosalas, dwells Gina (the Victorious), of great understanding and excellent wide knowledge, he the Sakya son, unyoked, free from passion, skilled in head-splitting, the bull of men.' (996)

22. Then (Bâvarî) addressed his disciples, Brâhmanas, perfect in the hymns: 'Come, youths, I will tell (you something), listen to my words: (997)

23. 'He whose appearance in the world is difficult to be met with often, he is at the present time[2]

[1. Sabbadhammakkhayam patto (i.e. nibbâna)
Vimutto upadhisamkhaye.
2. Sv-âgga.]

p. 187

born in the world and widely renowned as Sambuddha (the perfectly Enlightened); go quickly to Sâvatthî and behold the best of men.' (998)

24. 'How then can we know, on seeing him, that he is Buddha, O Brâhmana? Tell us who do not know him, by what may we recognise him? (999)

25. 'For in the hymns are to be found the marks of a great man, and thirty-two are disclosed altogether, one by one.' (1000)

26. 'For him on whose limbs these marks of a great man are to be found, there are two ways left, a third does not exist. (1001)

27. 'If he abides in a dwelling, he will subdue this earth without rod (or) sword, he will rule with justice. (1002)

28. 'And if he departs from his dwelling for the wilderness, he becomes the saint, incomparable Sambuddha, who has removed the veil (from the world)[1]. (1003)

29. 'Ask in your mind about my birth and family, my marks, hymns, and my other disciples, the head and head-splitting. (1004)

30. 'If he is Buddha, the clear-sighted, then he will answer by word of mouth the questions you have asked in your mind.' (1005)

31, 32, 33. Having heard Bâvarî's words his disciples, sixteen Brâhmanas, Agita, Tissametteyya, Punnaka, further Mettagû, Dhotaka and Upasîva, and Nanda, further Hemaka, the two Todeyya and Kappa, and the wise Gatukannî, Bhadrâvudha and Udaya, and also the Brâhmana Posâla, and the wise Mogharâgan, and the great Isi Pingiya, (1006-1008)

34. All of them, having each their host (of pupils),

[1. Comp. Lalita-vistara (ed. Calc.), pp. 116, 118.]

p. 188

and being themselves widely renowned throughout the world, thinkers delighting in meditation, wise, scented with the perfume of former (good deeds)[1], (1009)

35. Having saluted Bâvarî and gone round him towards the right, all with matted hair and bearing hides, departed with their faces turned to the north. (1010)

36. To Patitthâna of Alaka first, then to Mâhissatî, and also to Uggenî, Gonaddha, Vedisâ, Vanasavhaya, (1011)

37. And also to Kosambî, Sâketa, and Sâvatthî, the most excellent of cities, to Setavya, Kapilavatthu, and the city of Kusinâra, (1012)

38. And to Pâva, the city of wealth, to Vesâlî, the city of Magadha, to Pâsânaka Ketiya (the Rock Temple), the lovely, the charming. (1013)

39. As he who is athirst (longs for) the cold water, as the merchant (longs for) gain, as he who is plagued by heat (longs for) shade, so in haste they ascended the mountain. (1014)

40. And Bhagavat at that time attended by the assembly of the Bhikkhus taught the Dhamma to the Bhikkhus, and roared like a lion in the forest. (1015)

41. Agita beheld Sambuddha as the shining (sun) without (burning) rays, as the moon on the fifteenth, having reached her plenitude. (1016)

42. Then observing his limbs and all the marks in their fulness, standing apart, rejoiced, he asked the questions of his mind:-- (1017)

43. 'Tell me about (my master's) birth, tell me about his family together with the marks, tell me about his perfection in the hymns, how many (hymns) does the Brâhmana recite?' (1018)

[1. Pubbavâsanavâsitâ.]

p. 189

44. Bhagavat said: 'One hundred and twenty years (is his) age, and by family he is a Bâvarî; three are his marks on the limbs, and in the three Vedas he is perfect. (1019)

45. 'In the marks and in the Itihâsa together with Nighandu and Ketubha--he recites five hundred--and in his own Dhamma he has reached perfection.' (1020)

46. Agita thought: 'Explain fully the marks of Bâvarî, O thou best of men, who cuts off desire; let there be no doubt left for us.' (1021)

47. Bhagavat said: 'He covers his face with his tongue, he has a circle of hair between the eye-brows, (his) privy member (is) hidden in a sheath, know this, O young man[1].' (1022)

48. Not hearing him ask anything, but hearing the questions answered, the multitude reflected overjoyed and with joined hands:-- (1023)

49. 'Who, be he a god, or Brahman, or Inda, the husband of Sugâ, asked in his mind those questions, and to whom did that (speech) reply?' (1024)

50. Agita said: 'The head and head-splitting Bâvarî asked about; explain that, O Bhagavat, remove our doubt, O Isi.' (1025)

51. Bhagavat said: 'Ignorance is the head, know this; knowledge cleaves the head, together with belief, thoughtfulness, meditation, determination, and strength.' (1026)

52. Then with great joy having composed himself the young man put his hide on one shoulder,

[1. Mukham givhâya khâdeti,
Unn' assa bhamukantare,
Kosohitam vatthaguyham,
Evam gânâhi mânava.]

p. 190

fell at (Bhagavat's) feet (and saluted him) with his head, (saying): (1027)

53. 'Bâvarî, the Brâhmana, together with his disciples, O thou venerable man, delighted and glad, does homage to thy feet, O thou clearly-seeing.' (1028)

54. Bhagavat said: 'Let Bâvarî, the Brâhmana, be glad together with his disciples! Be thou also glad, live long, O young man! (1029)

55. 'For Bâvarî and for thee, for all there are all (kinds of) doubt; having got an opportunity, ask ye whatever you wish.' (1030)

56. After getting permission from Sambuddha, Agita sitting there with folded hands asked Tathâgata the first question. (1031)

The Vatthugâthâs are ended.

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2. AGITAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'By what is the world shrouded,'--so said the venerable Agita,--'by what does it not shine? What callest thou its pollution, what is its great danger?' (1032)

2. 'With ignorance is the world shrouded, O Agita,'--so said Bhagavat,--'by reason of avarice it does not shine; desire I call its pollution, pain is its great danger.' (1033)

3. 'The streams of desire flow in every direction,'--so said the venerable Agita;--'what dams the streams, say what restrains the streams, by what may the streams be shut off[1]?' (1034)

[1. Comp. Dhp. v. 340.]

p. 191

4. 'Whatever streams there are in the world, O Agita,'--so said Bhagavat,--'thoughtfulness is their dam, thoughtfulness I call the restraint of the streams, by understanding they are shut off.' (1035)

5. 'Both understanding and thoughtfulness,'--so said the venerable Agita,--'and name and shape[1], O venerable man,--asked about this by me, declare by what is this stopped? ' (1036)

6. Buddha: 'This question which thou hast asked, O Agita, that I will explain to thee; (I will explain to thee) by what name and shape[2] are totally stopped; by the cessation of consciousness this is stopped here.' (1037)

7. Agita: 'Those who have examined (all) Dhammas (i.e. the saints), and those who are disciples, (and those who are) common men here,--when thou art asked about their mode of life, declare it unto me, thou who art wise, O venerable man.' (1038)

8. Buddha: 'Let the Bhikkhu not crave for sensual pleasures, let him be calm in mind, let him wander about skilful in all Dhammas, and thoughtful.' (1039)

Agitamânavapukkhâ is ended.

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3. TISSAMETTEYYAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'Who is contented in the world,'--so said the venerable Tissametteyya,--'who is without commotions? Who after knowing both ends does not stick in the middle, as far as his understanding is

[1. Nâmarûpañ ka.

2. Nâmañ ka rûpañ ka.]

p. 192

concerned? Whom dost thou call a great man? Who has overcome desire in this world?' (1040)

2. 'The Bhikkhu who abstains from sensual pleasures, O Metteyya,'--so said Bhagavat,--'who is free from desire, always thoughtful, happy by reflection, he is without commotions, he after knowing both ends does not stick in the middle, as far as his understanding is concerned; him I call a great man; he has overcame desire in this world.' (1041)

Tissametteyyamânavapukkhâ is ended.

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4. PUNNAKAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'To him who is without desire, who has seen the root (of sin),'--so said the venerable Punnaka,--'I have come supplicatingly with a question: on account of what did the Isis and men, Khattiyas and Brâhmanas, offer sacrifices to the gods abundantly in this world? (about this) I ask thee, O Bhagavat, tell me this.' (1042)

2. 'All these Isis and men, Khattiyas and Brâhmanas, O Punnaka,'--so said Bhagavat,--'who offered sacrifices to the gods abundantly in this world, offered sacrifices, O Punnaka, after reaching old age, wishing for their present condition.' (1043)

3. 'All these Isis and men, Khattiyas and Brâhmanas,'--so said the venerable Punnaka,--'who offered sacrifices to the gods abundantly in this world, did they, O Bhagavat, indefatigable in the way of offering, cross over both birth and old age, O venerable man? I ask thee, O Bhagavat, tell me this.' (1044)

p. 193

4. 'They wished for, praised, desired, abandoned (sensual pleasures), O Punnaka,'--so said Bhagavat,--'they desired sensual pleasures on account of what they reached by them; they, devoted to offering, dyed with the passions of existence, did not cross over birth and old age, so I say.' (1045)

5. 'If they, devoted to offering,'--so said the venerable Punnaka,--'did not by offering cross over birth and old age, O venerable man, who then in the world of gods and men crossed over birth and old age, O venerable man, I ask thee, O Bhagavat, tell me this?' (1046)

6. 'Having considered everything[1] in the world, O Punnaka,'--so said Bhagavat,--'he who is not defeated anywhere in the world, who is calm without the smoke of passions, free from woe, free from desire, he crossed over birth and old age, so I say.' (1041)

Punnakamânavapukkhâ is ended.

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5. METTAGÛMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'I ask thee, O Bhagavat, tell me this,'--so said the venerable Mettagû,--'I consider thee accomplished and of a cultivated mind, why are these (creatures), whatsoever they are of many kinds in the world, always subject to pain? (1048)

2. 'Thou mayest well ask me concerning the origin of pain, O Mettagû,'--so said Bhagavat,--

[1. Parovarânîti parâni ka orâni ka parattabhâvasakattabhâvâdîni parâni ka orâni kâ ti vuttam hoti. Commentator.]

p. 194

'I will explain that to thee in the way I myself know it: originating in the upadhis pains arise, whatsoever they are, of many kinds in the world. (1049)

3. 'He who being ignorant creates upadhi, that fool again undergoes pain; therefore let not the wise man create upadhi, considering (that this is) the birth and origin of pain.' (1050)

4. Mettagû: 'What we have asked thee thou hast explained to us; another (question) I ask thee, answer that, pray: How do the wise cross the stream, birth and old age, and sorrow and lamentation? Explain that thoroughly to me, O Muni, for this thing (dhamma) is well known to thee.' (1051)

5. 'I will explain the Dhamma to thee, O Mettagû,'--so said Bhagavat,--'if a man in the visible world, without any traditional instruction, has understood it, and wanders about thoughtful, he may overcome desire in the world.' (1052)

6. Mettagû: 'And I take a delight in that, in the most excellent Dhamma, O great Isi, which if a man has understood, and he wanders about thoughtful, he may overcome desire in the world.' (1053)

7. 'Whatsoever thou knowest, O Mettagû,'--so said Bhagavat,--'(of what is) above, below, across, and in the middle, taking no delight and no rest in these things, let thy mind not dwell on existence. (1054)

8. 'Living so, thoughtful, strenuous, let the Bhikkhu wandering about, after abandoning selfishness, birth,

[1. Kittayissâmi te dhammam--Mettagû ti Bhagavâ--
Ditthe dhamme anîtiham
Yam viditvâ sato karam
Tare loke visattikam.]

p. 195

and old age, and sorrow, and lamentation, being a wise man, leave pain in this world.' (1055)

9. Mettagû: 'I delight in these words of the great Isi; well expounded, O Gotama, is (by thee) freedom from upadhi (i.e. Nibbâna). Bhagavat in truth has left pain, for this Dhamma is well known to thee[1]. (1056)

10. 'And those also will certainly leave pain whom thou, O Muni, constantly mayest admonish; therefore I bow down to thee, having come hither, O chief (nâga), may Bhagavat also admonish me constantly.' (1057)

11. Buddha: 'The Brâhmana whom I may acknowledge as accomplished, possessing nothing, not cleaving to the world of lust, he surely has crossed this stream, and he has crossed over to the other shore, free from harshness (akhila), (and) free from doubt. (1058)

12. 'And he is a wise and accomplished man in this world; having abandoned this cleaving to reiterated existence he is without desire, free from woe, free from longing, he has crossed over birth and old age, so I say.' (1059)

Mettagûmânavapukkhâ is ended.

[1. Et' âbhinandâmi vako mahesino
Sukittitam Gotama nûpadhîkam,
Addhâ hi Bhagavâ pahâsi dukkham,
Tathâ hi te vidito esa dhammo.

Sukittitam Gotama nûpadhîkan ti ettha anupadhikan ti nibbânam, tam sandhâya vâ Bhagavantam âlapanto âha sukittitam, &c. Commentator.]

p. 196

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6. DHOTAKAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'I ask thee, O Bhagavat, tell me this,'--so said the venerable Dhotaka,--'I long for thy word, O great Isi; let one, having listened to thy utterance, learn his own extinction.' (1060)

2. 'Exert thyself then, O Dhotaka,'--so said Bhagavat,--'being wise and thoughtful in this world, let one, having listened to my utterance, learn his own extinction.' (1061)

3. Dhotaka: 'I see in the world of gods and men a Brâhmana wandering about, possessing nothing; therefore I bow down to thee, O thou all-seeing one, free me, O Sakka, from doubts.' (1062)

4. Buddha: 'I shall not go to free any one in the world who is doubtful, O Dhotaka; when thou hast learned the best Dhamma, then thou shalt cross this stream[1].' (1063)

5. Dhotaka: 'Teach (me), O Brâhmana, having compassion (on me), the Dhamma of seclusion (i.e. Nibbâna), that I may understand (it and) that I, without falling into many shapes like the air, may wander calm and independent in this world[2].' (?) (1064)

[1. Nâham gamissâmi pamokanâya
Kathamkathim Dhotaka kañki loke,
Dhammañ ka settham âgânamâno
Evam tuvam ogham imam taresi.

2. Anusâsa brahme karunâyamâno
Vivekadhammam yam aham vigaññam
Yathâham âkâso va avyâpaggamâno[*]
Idh' eva santo asito kareyyam.

*. Nânappakâratam anâpaggamâno. Commentator.]

p. 197

6. 'I will explain to thee peace[1], O Dhotaka,'--so said Bhagavat;--'if a man in the visible world, without any traditional instruction, has understood it, and wanders about thoughtful, he may overcome desire in the world.' (1065)

7. Dhotaka: 'And I take delight in that, the highest peace[2], O great Isi, which if a man has understood, and he wanders about thoughtful, he may overcome desire in the world.' (1066)

8. 'Whatsoever thou knowest, O Dhotaka,'--so said Bhagavat,--'(of what is) above, below, across, and in the middle, knowing this to be a tie in the world, thou must not thirst for reiterated existence.' (1067)

Dhotakamânavapukkhâ is ended.

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7. UPASÎVAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'Alone, O Sakka; and without assistance I shall not be able to cross the great stream,'--so said the venerable Upasîva;--'tell me an object, O thou all-seeing one, by means of which one may cross this stream.' (1068)

2. 'Having in view nothingness, being thoughtful, O Upasiva,'--so said Bhagavat,--'by the reflection of nothing existing shalt thou cross the stream; having abandoned sensual pleasures, being loath of doubts, thou shalt regard the extinction of desire (i.e. Nibbâna), both day and night[3].' (1069)

[1. Santim.

2. Santim uttamam.

3. Âkiñkaññam pekkhamâno satîmâ--Upasîvâ ti Bhagavâ--
N' atthîti nissâya tarassu ogham,
Kâme pahâya. virato kathâhi
Tanhakkhayam rattamahâbhi passa.]

p. 198

3. Upasîva: 'He whose passion for all sensual pleasures has departed, having resorted to nothingness, after leaving everything else, and being delivered in the highest deliverance by knowledge, will he remain there without proceeding further[1]?' (1070)

4. 'He whose passion for all sensual pleasures has departed, O Upasîva,'--so said Bhagavat,--'having resorted to nothingness after leaving everything else, and being delivered in the highest deliverance by knowledge, he will remain there without proceeding further.' (1071)

5. Upasîva: 'If he remains there without proceeding further for a multitude of years, O thou all-seeing one, (and if) he becomes there tranquil and delivered, will there be consciousness for such a one[2]?' (1072)

6. 'As a flame blown about by the violence of the wind, O Upasîva,'--so said Bhagavat,--'goes out, cannot be reckoned (as existing), even so a Muni, delivered from name and body, disappears, and cannot be reckoned (as existing)[3].' (1073)

7. Upasîva: 'Has he (only) disappeared, or does he not exist (any longer), or is he for ever free

[1. Sabbesu kâmesu yo vîtarâgo
Âkiñkaññam nissito hitva-m-aññam
Saññâvimokhe parame vimutto
Titthe nu so tattha anânuyâyî.

2. Titthe ke so tattha anânuyâyî
Pûgam pi vassânam samantakakkhu
Tatth' eva so sîti siyâ vimutto
Bhavetha viññânam tathâvidhassa?

3. Akkî yathâ vâtavegena khitto
Attham paleti na upeti samkham
Evam munî nâmakâyâ vimutto
Attham paleti na upeti samkham.]

p. 199

from sickness? Explain that thoroughly to me, O Muni, for this Dhamma is well known to thee[1].' (1074)

8. 'For him who has disappeared there is no form, O Upasîva,'--so said Bhagavat,--'that by which they say he is, exists for him no longer, when all things (dhamma) have been cut off, all (kinds of) dispute are also cut off[2].' (1075)

Upasîvamânavapukkhâ is ended.

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8. NANDAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'There are Munis in the world,'--so said the venerable Nanda,--'so people say. How is this (understood) by thee? Do they call him a Muni who is possessed of knowledge or him who is possessed of life[3]?' (1076)

2. Buddha: 'Not because of (any philosophical) view, nor of tradition, nor of knowledge, O Nanda, do the expert call (any one) a Muni; (but) such as wander free from woe, free from desire, after having secluded themselves, those I call Munis[4].' (1077)

[1. Atthangato so uda va so n' atthi
Udâhu ve sassatiyâ arogo,
Tam me munî sâdhu viyâkarohi,
Tathâ hi te vidito esa dhammo.

2. Atthangatassa na pamânam atthi,
Yena nam vaggu tam tassa n' atthi,
Sabbesu dhammesu samûhatesu
Samûhatâ vâdapathâpi sabbe.

3. Ñâñûpapannam no munim vadanti
Udâhu ve gîviten' ûpapannam?

4. Na ditthiyâ na sutiyâ na ñânena
Muniñ ka Nanda kusalâ vadanti,
Visenikatvâ anighâ nirâsâ
Karanti ye te munayo ti brûmi.]

p. 200

3. 'All these Samanas and Brâhmanas,'--so said the venerable Nanda,--'say that purity comes from (philosophical) views, and from tradition, and from virtue and (holy) works, and in many (other) ways. Did they, in the way in which they lived in the world, cross over birth and old age, O venerable man? I ask thee, O Bhagavat, tell me this.' (1078)

4. 'All these Samanas and Brâhmanas, O Nanda,'--so said Bhagavat,--'say that purity comes from (philosophical) views, and from tradition, and from virtue and (holy) works, and in many (other) ways; still they did not, in the way in which they lived in the world, cross over birth and old age, so I say.' (1079)

5. 'All these Samanas and Brâhmanas,'--so said the venerable Nanda,--'say that purity comes from (philosophical) views, and from tradition, and from virtue and (holy) works, and in many (other) ways; if thou, O Muni, sayest that such have not crossed the stream, who then in the world of gods and men crossed over birth and old age, O venerable man? I ask thee, O Bhagavat, tell me this.' (1080)

6. 'I do not say that all Samanas and Brâhmanas, O Nanda,'--so said Bhagavat,--'are shrouded by birth and old age; those who, after leaving in this world what has been seen or heard or thought, and all virtue and (holy) works, after leaving everything of various kinds, after penetrating desire, are free from passion, such indeed I call men that have crossed the stream[1].' (1081)

[1. Nâham 'sabbe samanabrâhmanâse
Gâtigarâya nivutâ' ti brûmi,
Ye s' îdha dittham va sutam mutam vâ
Sîlabbatam vâpi pahâya sabbam
Anekarûpam pi pahâya sabbam
Tanham pariññâya anâsavâse
Te ve narâ oghatinnâ ti brûmi.]

p. 201

7. Nanda: 'I delight in these words of the great Isi; well expounded (by thee), O Gotama, is freedom from upadhi (i.e. Nibbâna); those who, after leaving in this world what has been seen or heard or thought, and all virtue and (holy) works, after leaving everything of various kinds, after penetrating desire, are free from passion, such I call men that have crossed the stream.' (1082)

Nandamânavapukkhâ is ended.

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9. HEMAKAMÂNAVAPUKKHA.
1. 'Those who before in another world,'--so said the venerable Hemaka,--'explained to me the doctrine of Gotama, saying, "So it was, so it will be," all that (was only) oral tradition, all that (was only) something that increased (my) doubts[1]. (1083)

2. 'I took no pleasure in that, but tell thou me the Dhamma that destroys desire, O Muni, which if a man has understood, and he wanders about thoughtful, he may cross desire in the world.' (1084)

3. Buddha: 'In this world (much) has been seen,

[1. Ye me pubbe viyâkamsu
Huram Gotamasâsanam
Ikk-âsi iti bhavissati
Sabban tam itihîtiham
Sabban tam takkavaddhanam.]

p. 202

heard, and thought; the destruction of passion and of wish for the dear objects that have been perceived, O Hemaka, is the imperishable state of Nibbâna. (1085)

4. 'Those who, having understood this, are thoughtful, calm, because they have seen the Dhamma, tranquil and divine, such have crossed desire in this world[1].' (1086)

Hemakamânavapukkhâ is ended.

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10. TODEYYAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'He in whom there live no lusts,'--so said the venerable Todeyya,--'to whom there is no desire, and who has overcome doubt, what sort of deliverance is there for him?' (1087)

2. 'He in whom there live no lusts, O Todeyya,'--so said Bhagavat,--'to whom there is no desire, and who has overcome doubt, for him there is no other deliverance.' (1088)

3. Todeyya: 'Is he without breathing or is he breathing, is he possessed of understanding or is he forming himself an understanding[2]? Explain this to me, O thou all-seeing one, that I may know a Muni, O Sakka.' (1089)

[1. Etad aññâya ye satâ
Ditthadhammâbhinibhutâ
Upasantâ ka tedasâ (?)[*]
Tiññâ loke visattikam.

2. Nirâsaso so uda âsasâno
Paññânavâ so uda paññakappî.

*. B reads ye satâ instead of tedasâ.]

p. 203

4. Buddha: 'He is without breathing, he is not breathing, he is possessed of understanding, and he is not forming himself an understanding; know, O Todeyya, that such is the Muni, not possessing anything, not cleaving to lust and existence.' (1090)

Todeyyamânavapukkhâ is ended.

--------------------------------------------------------------------------------


11. KAPPAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'For those who stand in the middle of the water,'--so said the venerable Kappa,--'in the formidable stream that has set in, for those who are overcome by decay and death, tell me of an island, O venerable man, and tell thou me of an island that this (pain) may not again come on[1].' (1091)

2. 'For those who stand in the middle of the water, O Kappa,'--so said Bhagavat,--'in the formidable stream that has set in, for those overcome by decay and death, I will tell thee of an island, O Kappa.' (1092)

3. 'This matchless island, possessing nothing (and) grasping after nothing, I call Nibbâna, the destruction of decay and death[2]. (1093)

[1. Tvañ ka me dipam[*] akkhâb
Yathâ yidam nâparam siyâ.

2. Akiñkanam anâdânam
Etam dîpam anâpâram
Nibbânam iti nam brûmi
Garâmakkuparikkhayam.

Akiñkanan ti kiñkanapatipakkham, anâdânan ti âdânapatipakkham, kiñkanâdânavûpasaman ti vuttam hoti. Commentator.

*. B reads disam.]

p. 204

4. 'Those who, having understood this, are thoughtful (and) calm, because they have seen the Dhamma, do not fall into the power of Mâra, and are not the companions of Mâra.' (1094)

Kappamânavapukkhâ is ended.

--------------------------------------------------------------------------------


12. GATUKANNIMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'Having heard of a hero free from lust,'--so said the venerable Gatukannin,--'who has crossed the stream, I have come to ask him who is free from lust; tell me the seat of peace, O thou with the born eye (of wisdom), tell me this truly, O Bhagavat. (1095)

2. 'For Bhagavat wanders about after having conquered lust as the hot sun (conquers) the earth by its heat; tell the Dhamma to me who has (only) little understanding, O thou of great understanding, that I may ascertain how to leave in this world birth and decay.' (1096)

3. 'Subdue thy greediness for sensual pleasures, O Gatukannin,'--so said Bhagavat,--'having considered the forsaking of the world as happiness, let there not be anything either grasped after or rejected by thee[1]. (1097)

4. 'What is before thee, lay that aside; let there be nothing behind thee; if thou wilt not grasp after what is in the middle, thou wilt wander calm[2]. (1098)

[1. Kâmesu vinaya gedham,
Nekkhammam datthu khemato
Uggahîtam nirattam vâ
Mâ te viggittha kiñkanam.

2. Comp. supra, Attadandasutta, v. 15.]

p. 205

5. 'For him whose greediness for name and form is wholly gone, O Brâhmana, for him there are no passions by which he might fall into the power of death.' (1099)

Gatukannimânavapukkhâ is ended.

--------------------------------------------------------------------------------


13. BHADRÂVUDHAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'I entreat the wise (Buddha), the houseless, who cuts off desire,'--so (said) the venerable Bhadrâvudha,--'who is free from commotion, forsakes joy, has crossed the stream, is liberated, and who leaves time behind; having heard the chief's (word), they will go away from here[1]. (1100)

2. 'Different people have come together from the provinces, longing (to hear) thy speech, O hero; do thou expound it thoroughly to them, for this Dhamma is well known to thee.' (1101)

3. 'Let one wholly subdue the desire of grasping (after everything), O Bhadrâvudha,'--so said Bhagavat,--'above, below, across, and in the middle; for whatever they grasp after in the world, just by that Mâra follows the man. (1102)

4. 'Therefore, knowing this, let not the thoughtful Bhikkhu grasp after anything in all the world, considering as creatures of desire this generation, sticking fast in the realm of death.' (1103)

Bhadrâvudhamânavapukkhâ is ended.

[1. Okamgaham tanhakkhidam anegam
Nandimgaham oghatinnam vimuttam
Kappamgaham abhiyâke sumedham,
Sutvâna nâgassa apanamissanti ito.]

p. 206

--------------------------------------------------------------------------------


14. UDAYAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'To Buddha who is sitting meditating, free from pollution,'--so said the venerable Udaya,--'having performed his duty, who is without passion, accomplished in all things (dhamma), I have come with a question; tell me the deliverance by knowledge, the splitting up of ignorance.' (1104)

2. '(It consists in) leaving lust and desire, O Udaya,'--so said Bhagavat,--'and both (kinds of) grief, and driving away sloth, and warding off misbehaviour. (1105)

3. 'The deliverance by knowledge which is purified by equanimity and thoughtfulness and preceded by reasoning on Dhamma I will tell thee, the splitting up of ignorance[1].' (1106)

4. Udaya: 'What is the bond of the world, what is its practice? By the leaving of what is Nibbâna said to be[2]?' (1107)

5. Buddha: 'The world is bound by pleasure, reasoning is its practice; by the leaving of desire Nibbâna is said to be.' (1108)

6. Udaya: 'How does consciousness cease in him that wanders thoughtful? Having come to ask thee, let us hear thy words.' (1109)

[1. Upekhâsatisamsuddham
Dhammatakkapuregavam
Aññâvimokham pabrûmi
Aviggâya pabhedanam.

2. Kim su samyogano loko,
Kim su tassa vikâranâ
Kiss' assa vippahânena
Nibbânam iti vukkati?]

p. 207

7. Buddha: 'For him who both inwardly and outwardly does not delight in sensation, for him who thus wanders thoughtful, consciousness ceases.' (1110)

Udayamânavapukkhâ is ended.

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15. POSÂLAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'He who shows the past (births, &c.),'--so said the venerable Posâla,--'who is without desire and has cut off doubt, to him who is accomplished in all things (dhamma), I have come supplicatingly with a question. (1111)

2. 'O Sakka, I ask about his knowledge who is aware of past shapes, who casts off every corporeal form, and who sees that there exists nothing either internally or externally; how can such a one be led (by anybody)[1]? (1112)

3. 'Tathâgata, knowing all the faces of consciousness, O Posâla,'--so said Bhagavat,--'knows (also) him who stands delivered, devoted to that (object)[2]. (1113)

4. 'Having understood that the bonds of pleasure do not originate in nothingness (?), he sees clearly in

[1. Vibhûtarûpasaññissa
Sabbakâyapahâyino
Agghattañ ka bahiddhâ ka
Natthi kiñkîti passato
Ñânam Sakkânupukkhâmi,
Katham neyyo tathâvidho.

2. Viññânatthitiyo sabbâ--Posâlâ ti Bhagavâ--
Abhigânam Tathâgato
Titthantam enam gânâti
Vimuttam tapparâyanam.]

p. 208

this (matter), this (is) the knowledge of a perfect, accomplished Brâhmana[1].' (1114)

Posâlamânavapukkhâ is ended.

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16. MOGHARÂGAMÂNAVAPUKKHÂ
1. 'Twice have I asked Sakka,'--so said the venerable Mogharâgan,--'but the clearly-seeing has not explained it to me; if the divine Isi is asked for the third time, he will explain it, so I have heard. (1115)

2. 'There is this world, the other world, Brahman's world together with the world of the gods; I do not know thy view, the famous Gotama's (view). (1116)

3. 'To this man who sees what is good I have come supplicatingly with a question: How is any one to look upon the world that the king of death may not see him?' (1117)

4. 'Look upon the world as void, O Mogharâgan, being always thoughtful; having destroyed the view of oneself (as really existing), so one may overcome death; the king of death will not see him who thus regards the world[2].' (1118)

Mogharâgamânavapukkhâ is ended.

[1. Âkiñkaññâsambhavam
Nandîsamyoganam iti
Evam evam abhiññâya
Tato tattha vipassati,
Etam ñânam tathamtassa
Brâhmanassa vusîmato.

2. Comp. Dhp. v. 170.]

p. 209

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17. PINGIYAMÂNAVAPUKKHÂ.
1. 'I am old, feeble, colourless,'--so said the venerable Pingiya,--'my eyes are not clear, my hearing is not good; lest I should perish a fool on the way, tell me the Dhamma, that I may know how to leave birth and decay in this world.' (1119)

2. 'Seeing others afflicted by the body, O Pingiya,'--so said Bhagavat,--'(seeing) heedless people suffer in their bodies;--therefore, O Pingiya, shalt thou be heedful, and leave the body behind, that thou mayest never come to exist again.' (1120)

3. Pingiya: 'Four regions, four intermediate regions, above and below, these are the ten regions; there is nothing which has not been seen, heard, or thought by thee, and (is there) anything in the world not understood (by thee)? Tell (me) the Dhamma, that I may know how to leave birth and decay in this world' (1121)

4. 'Seeing men seized with desire, O Pingiya,'--so said Bhagavat,--'tormented and overcome by decay,--therefore thou, O Pingiya, shalt be heedful, and leave desire behind, that thou mayest never come to exist again.' (1122)

Pingiyamânavapukkhâ is ended.

--------------------------------------------------------------------------------


This said Bhagavat, living in Magadha at Pâsânaka Ketiya (the Rock Temple). Sought by sixteen Brâhmanas, the followers (of Bâvarî, and) questioned by each of them in turn, he responded to the questions. If a man, having understood the meaning and tenor of each question, lives according to the Dhamma, then he will go to the further shore of decay and death, for these Dhammas lead to the

p. 209

further shore, and therefore this order of Dhamma was called 'the way to the other shore.'

1, 2. Agita, Tissametteyya, Punnaka and Mettagû, Dhotaka and Upasîva, Nanda and Hemaka, the two Todeyya and Kappa, and the wise Gatukannin, Bhadrâvudha and Udaya, and also the Brâhmana Posâla, and the wise Mogharâgan, and Pingiya the great Isi, (1123, 1124)

3. These went up to Buddha, the Isi of exemplary conduct; asking subtle questions they went up to the supreme Buddha. (1125)

4. Buddha, being asked, responded to their questions truly, and in responding to the questions the Muni delighted the Brâhmanas.(1126)

5. They, having been delighted by the clearly-seeing Buddha, the kinsman of the Âdikkas, devoted themselves to a religious life near the man of excellent understanding. (1127)

6. He who lived according to what had been taught by Buddha (in answer) to each single question, went from this shore to the other shore. (1128)

7. From this shore he went to the other shore entering upon the most excellent way; this way is to lead to the other shore, therefore it is called 'the way to the other shore.' (1129)

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8. 'I will proclaim accordingly the way to the further shore,'--so said the venerable Pingiya;--'as he saw it, so he told it; the spotless, the very wise, the passionless, the desireless lord, for what reason should he speak falsely? (1130)

9. 'Well! I will praise the beautiful voice of (Buddha), who is without stain and folly, and who has left behind arrogance and hypocrisy. (1131)

10. 'The darkness-dispelling Buddha, the all-seeing,

p. 211

who thoroughly understands the world[1], has overcome all existences, is free from passion, has left behind all pain, is rightly called (Buddha), he, O Brâhmana, has come to me. (1132)

11. 'As the bird, having left the bush, takes up his abode in the fruitful forest, even so I, having left men of narrow views, have reached the great sea, like the hamsa[2]. (1133)

12. 'Those who before in another world explained the doctrine of Gotama, saying, "So it was, so it will be," all that was only oral tradition, all that was only something that increased my doubts[3]. (1134)

13. 'There is only one abiding dispelling darkness, that is the high-born, the luminous, Gotama of great understanding, Gotama of great wisdom, (1135)

14. 'Who taught me the Dhamma, the instantaneous, the immediate, the destruction of desire, freedom from distress, whose likeness is nowhere[4].' (1136)

15. Bâvarî: 'Canst thou stay away from him even for a moment, O Pingiya, from Gotama of great understanding, from Gotama of great wisdom, (1137)

[1. Lokantagû.

2. Digo yathâ kubbanakam pahâya
Bahupphalam kânanam âvaseyya
Evam p' aham appadasse pahâya
Mahodadhim hamso-r-iv' agghapatto.

3. Ye 'me pubbe viyâkamsu
huram Gotamasâsanam
ikk-âsi iti bhavissati
sabban tam itihîtiham
sabban tam takkavaddhanam.

4. Yo me dhammam adesesi
Sanditthikam akâlikam
Tanhakkhayam anîtikam
Yassa n'atthi upamâ kvaki.]

p. 212

16. 'Who taught thee the Dhamma, the instantaneous, the immediate, the destruction of desire, freedom from distress, whose likeness is nowhere?' (1138)

17. Pingiya: 'I do not stay away from him even for a moment, O Brâhmana, from Gotama of great understanding, from Gotama of great wisdom, (1139)

18. 'Who taught me the Dhamma, the instantaneous, the immediate, the destruction of desire, freedom from distress, whose likeness is nowhere. (1140)

19. 'I see him in my mind and with my eye, vigilant, O Brâhmana, night and day; worshipping I spend the night, therefore I think I do not stay away from him. (1141)

20. 'Belief and joy, mind and thought incline me towards the doctrine of Gotama; whichever way the very wise man goes, the very same I am inclined to[1]. (?) (1142)

21. 'Therefore, as I am worn out and feeble, my body does not go there, but in my thoughts I always go there, for my mind, O Brâhmana, is joined to him. (1143)

22. 'Lying in the mud (of lusts) wriggling, I jumped from island to island; then I saw the perfectly Enlightened, who has crossed the stream, and is free from passion.' (1144)

23. Bhagavat[2]: 'As Vakkali was delivered by

[1. Saddhâ ka pîti ka mano sati ka
Nâmenti me Gotamasâsanamhâ (?),
Yam yam disam vagati bhûripañño
Sa tena ten' eva nato 'ham asmi.

2. At the conclusion of this (i.e. the preceding) gâthâ, Bhagavat, who stayed at Sâvatthî, when seeing the maturity of the minds of Pingiya and Bâvarî, shed a golden light. Pingiya, who sat picturing Buddha's virtues to Bâvarî, having seen the light, looked round, saying, 'What is this?' And when he saw Bhagavat standing, as it were, before him, he said to the Brâhmana Bâvarî: 'Buddha has come.' The Brâhmana rose from his seat and stood with folded hands. Bhagavat, shedding a light, showed himself to the Brâhmana, and knowing what was beneficial for both, he said this stanza while addressing Pingiya. Commentator.]

p. 213

faith, (as well as) Bhadrâvudha and Âlavi-Gotama, so thou shalt let faith deliver thee, and thou shalt go, O Pingiya, to the further shore of the realm of death[1].' (1145)

24. Pingiya: 'I am highly pleased at hearing the Muni's words; Sambuddha has removed the veil, he is free from harshness, and wise. (1146)

25. 'Having penetrated (all things) concerning the gods, he knows everything of every description; the Master will put an end to all questions of the doubtful that (will) admit (him). (1147)

26. 'To the insuperable, the unchangeable (Nibbâna), whose likeness is nowhere, I shall certainly go; in this (Nibbâna) there will be no doubt (left) for me, so know (me to be) of a dispossessed mind[2].' (1148)

Pârâyanavagga is ended.

Suttanipâta is ended.

[1. Yathâ ahû Vakkali muttasaddho
Bhadrâvudho Âlavi-Gotamo ka
Evam eva tvam pi pamuñkayassu saddham,
Gamissasi tvam Pingiya makkudheyyapâram.

2. Asamhîram asamkuppam
Yassa n' atthi upamâ kvaki
Addhâ gamissâmi, na me 'ttha kamkhâ,
Evam padhârehi avittakittam.]
http://www.sacred-texts.com/bud/sbe10/index.htm


3. 中川隆[-7772] koaQ7Jey 2017年5月03日 07:33:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


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