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釈迦の本当の教え
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/735.html
投稿者 富山誠 日時 2013 年 1 月 20 日 07:31:26: .ZiyFiDl12hyQ
 

(回答先: イエスが殺された本当の理由 投稿者 中川隆 日時 2010 年 7 月 17 日 23:32:33)


インドへのアーリア人侵入


「アーリア人侵入説」は、言語学の分野から持ち上がってきたものだ。

「インド・ヨーロッパ語族」という分類から、北インドのヒンズー支配層は、BC3000〜8000年に、欧州・中東・小アジア・コーカサスから移動してきた西ヨーロッパ人ではないか、と推理されるようになった。

つまり「白人、金髪、青い目」の侵略者たちが、先住民のドラヴィダ語族の民族を南に押しやり、北インドではカーストの支配者となったのではないか、という話なのだ。


_________

アメリカのユタ大学とインド南部のアンドラプラデシュ大学による共同研究

インドのカースト別のDNA分析から、侵攻したのは「コーカソイドの男子」であり、先住民の下層階級の女子と混血してきたことが証明された。


インドのカースト制度は、「4階層+不可触民」で、実質5階層になっている。

1930年にイギリスがとった人口統計によれば、


1)バラモン(僧侶)・・・・5%
2)クシャトリア(武士)・・・・7%
3)ヴァイシャ(商人)・・・・3%
4)シュードラ(農民工民)・・・・60%
5)アンタッチャブル(穢多非人)・・・・15%


という比率で、これにイスラム教、シーク教、キリスト教、ゾロアスター教などの「異教徒10%」をたすと、100%になる。

1930年以来、1度も統計調査がないというも驚きだが、不可触民(穢多非人)の「15%」という比率は、実際はもっと高いと言われている。

DNA分析の共同研究では、

上層カースト(バラモン+クシャトリア+ヴァイシャ)、
中層カースト(シュードラ)、
下層カースト(アンタッチャブル)

に分類し、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人のDNAと比較している。

表内の数字は、小さいほど関係性の距離が短い(先祖の共通性が高い)ことを示す。
http://jorde-lab.genetics.utah.edu/elibrary/Bamshad_2001a.pdf

 

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コメント
 
01. 中川隆 2013年1月20日 19:36:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Y染色体のSTR分析

  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0166 0.0104 0.0092
中層カースト 0.0156 0.0110 0.0108
低層カースト 0.0131 0.0088 0.0108


日本の皇位継承問題でもおなじみの「Y染色体」だが、これは男系の遺伝を示す。
インド人の「男系遺伝子」は、ヨーロッパ人とアジア人と同じぐらいの距離にある。

カースト別でいうと、上層カーストとヨーロッパ人の関係がもっとも近い。

低層カーストはアジア人にもっとも近い。


■ミトコンドリア染色体のHVR1分析

  アフリカ人  アジア人   ヨーロッパ人
上層カースト 0.0179 0.0037 0.0100
中層カースト 0.0182 0.0025 0.0086
低層カースト 0.0163 0.0023 0.0113


ミトコンドリアのDNAは、母親のものだけが子供に伝わり、父親のものは次世代にはまったく関与しない「母系遺伝」になっているので、母系分析に使われる。

この分析によると、インド人の「先祖の女性」は、歴然とした数値をもって、アジア人に近い。

低層カーストがもっとも近く、上層になるにつれて距離が離れていく。


以上の研究から、インド人の母系と父系に明らかな「系統」が生じており、


1)「アーリア人の男性」が「ワンランク下の先住女性」と混血を繰り返した、
2)「低いカーストの男性」が「高いカーストの女性」と結婚するケースはほとんどなかった、

という結論になる。
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1354332

「武士」「庶民」「奴隷」の上に絶対的権力をふるうカーストの最上位階級、バラモン(婆羅門)というのは、中央アジアにおいて極めて少数であったこの「白色人種(アーリヤン)」は、圧倒的多数の「黄色人種」や「黒色人種」の先住民と混血して、完全に同化されてしまうのを極度に恐れ、「バラモンの村」という特別区域に居住していました。

そして、彼らの持って来た民族宗教「バラモン教」の神々を武士階級と庶民階級には強制的に信仰させ、また、奴隷階級がバラモン教にふれることは禁止して、その権威を保とうとしたのでありました。

 この白人支配下のインドに生れた釈迦は、この皮膚の色にもとづく苛酷な人種差別と職業差別とに反対し、「人間みな平等」(「四姓平等」)の立場に立って、かの宗教を創始したのでありました。

 最新の研究によれば、ブッダが積極的に人種差別廃止を目指した事実はないとされている。しかし、ブッダは不可触民に対して最上格の敬語をもって接した。この事実そのものが既に革命的なのだ。
http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20090111/p2

なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか 2011年8月27日土曜日


1980年代後半まで、タイ・ヤラワーやスティサンには冷気茶室という売春宿が当たり前にあった。そこには見るからに幼い少女が監禁されている場所だった。今の人たちには信じられないかもしれないが、少女が監禁されていることくらい誰でも知っていた。1990年代のカンボジアにもあちこちの置屋でベトナムから売られてきた少女が雛壇に並んでいた。ベトナム人の売春村もあって、そこにも10歳にもならない少女が売春していた。少女が売春していることくらい誰でも知っていた。

セックスの奴隷

インドネシアのとある売春村ではもっと悲惨だった。少女が売春宿の地下に監禁されていたのである。

まだ知っている。

インド・ムンバイの売春ストリートも少女を水浴び場に監禁しているし、他の売春地帯では鍵のかかった部屋に押し込められていた。警察が来ると、さらに屋根裏の空洞に隠される。

娼婦が売春するための部屋には天然痘にかかってイボだらけの子供が疲れた身体を横たえて苦しんでいる。娼婦が客を取ってくると、子供は追い出される。娼婦と客は、さっきまで病気の子供が寝ていた温かい体温の残ったベッドでビジネスをする。

コルカタでは、売春する少女が客を部屋まで連れてくると、エイズに罹って幽鬼のようになった痩せさらばえた母親が金を受け取りにやってくる。売春する娘の隣の部屋でエイズの女性が治療もされずに横たわっている。これがあちこちの売春宿で普通に見る光景であると言えば驚かれるだろうか?

あるいは父親が誰だか分からない子供を産み、その子供を脇に置いたままビジネスをする娼婦もいる。この世の地獄とはまさに売春宿のことを指すのだろう。少女たちは、ただ売春宿が儲けるためだけに生かされている。

この恐るべき実態はもちろんユニセフ(国連児童基金)やNGO団体も承知しており、それだからこそ最近は様々な機会で児童売春の深刻な問題を議題に上げるようになってきている。

毎年100万人もの娘たち(少女たち)がセックスの奴隷として売買され、性的搾取されているのはユニセフの報道を読むまでもない。

この国の矛盾はいつか大きな暴力に

この中で、人身売買がもっとも多い国として、インドが挙げられている。インドは世界最大の売春地帯であり、世界最悪の人身売買国家である。東南アジアのどの国よりも劣悪な環境の中で、ネパールなどから売られてきた少女たちが凶暴な売春宿の経営者によって監禁され、虐待され、売春をさせられている。その数が一年間に40万人ということなので、先に挙げた毎年100人の犠牲者の約4割はインドが占めていることになる。

インドはカースト制度の中で国が成り立っている。上位カースト(ブラーミン)は、不可触民(ダリット、アンタッチャブル)の娘たちを面白半分に好きなだけ犯しても罪に問われない。カーストを身分制度というが、私に言わせればそれは間違った訳語であって、正確には「差別制度」である。インドでは陰でこのようなことが囁かれている。

「不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいない」

なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか。理由を聞くと、あまりの恐ろしさに絶句する。

不可触民の娘なら何をしても警察は相手にしないので、男たちが道を歩いている不可触民の娘たちを好き勝手に集団レイプするからだという。もちろん、警察は動くことはないし、悪が糾弾されることはない。果敢に訴えた不可触民もいるが、家ごと燃やされて焼き殺されたりして凄惨な末路を迎えている。ほとんどが泣き寝入りになる。

ちなみにダリットはよく建物ごと焼き殺される。何もかも燃やしてこの世から消してしまいたいと上位カーストは思っているようだ。


生きたまま燃やされた不可触民の少女
顔は残っているが、身体は炭化している
輪姦されて殺されて焼かれた不可触民の姉妹
レイプされ、縛られ、焼き殺された不可触民の女性
性器から血を流しているので乱暴なレイプだったことが分かる


なぜこんなことになるのか。なぜなら、彼らは不可触民(アンタッチャブル)だからである。人間ではないと思われているのだ。不可触民は不可触民というカーストに属しているのではない。彼らはカーストにも属せないほど穢れている、すなわちカースト外(アウト・オブ・カースト)なのである。

この恐るべき差別の国で、売春宿がどういう実態になっているのかは想像するまでもない。売春宿の女性たちのほとんどが不可触民の女性である。カースト色が薄らいできたというのは、上位カースト(ブラーミン)だけの話である。

あらゆる悪が置き去りにされている

カースト制度はすでに過去のもので法的にも廃止されているはずだし、差別的言動は認められないはずだと言う人もいる。しかし、一週間もインドにいれば、それは単なる理想だったということが分かる。法律は機能していない。売春禁止法がどこの国でもまったく機能しない以上に、カースト廃止も機能していない。地方の村では相変わらずカーストに縛られて人々は暮らしており、それは今後も変革される見込みもない。

インドの人口は10億人を越えており、次世代を担う新興国と世界は持ち上げているが、そのうちの約5億人は貧困の中にある。その貧困が半端なものではない。

世界最大の売春地帯であるインド。神々が棲み、すべてが混沌とし、あらゆる思想と哲学が渦巻くこの国。

あらゆる性の技巧が記された古典「カーマ・スートラ」を生んだ国。

『ラ・マン』を生んだフランスの大作家マルグリット・デュラスの愛した国。

しかし、この国は今でもあらゆる悪が置き去りにされて跳梁跋扈としている。

ひとつ注意しなければならないのは、この国の矛盾はいつか大きな暴力となって国を覆っていくということだ。それこそ国が割れるような騒乱が起きても不思議ではない。一筋縄ではいかない国で、一筋縄ではいかない人たちがひしめき、それで何もかも順調に経済発展が享受できると思ったら大間違いだろう。

この国では何が起きてもおかしくない。
http://www.bllackz.com/2011/01/blog-post_5583.html



紀元前2500年頃、ペルシア(現在のイラン)に定住していた遊牧系のアーリア人種がドラヴィダ人の支配する地域に侵入した。そのとき、ドラヴィダ人のセックス観と性の放縦ぶりに、やってきたアーリア人は仰天したという。

ヴェーダ聖典によれば、セックスの自由は完全に許されており、男も女も気に入った相手を自由に選び、自由に取り換えていたのだという。結婚という概念は、地域によってあったりなかったりした。女性が妊娠して子供を産むと結婚するカップルもいた。しかし、そうでなければ、女性は子供を捨てて、別の関係を結ぶようにしたようだ。

ドラヴィダ人の信仰していた原始ヒンドゥーは、女性を讃え、賞賛し、そして崇拝した。つまり、女性は尊い存在だった。


白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる

しかし、アーリア人はそうではなかった。彼らはゾロアスター教を信じていたが、その宗教は極めて倫理的で天国や地獄の概念を持ち、預言者や終末論の思想があった。

現在、預言者・終末論と言うとすぐにユダヤ教・イスラム教・キリスト教を思い浮かべるが、ゾロアスター教がそれらの宗教に影響を与えていたという学説がある。

その家長的な宗教を持つ遊牧民族アーリアがインドに侵略を開始してから、インドに土着していたドラヴィダ族は次第に追いつめられて南部へと押し込められていく。その過程で膨大な混血と宗教的な融合が起きて、インド・アーリア族とも言うべき混血民族が出来上がった。

インド人とは異なる民族と血が混じり合った人種だ。その混じり具合にもグラデーションがあって、それがカーストとしての身分制度につながったと見られている。

侵略戦争に勝利したのはアーリア人であり、彼らは人種的には白人か、白人に近い特徴を持っている。ドラヴィダ人は黒い肌を持ち、黒人に近い特徴がある。そこで、侵略に打ち勝ったアーリア人の「白肌」は高貴なものと見なされるようになり、侵略されたドラヴィダ人の「黒肌」は唾棄すべきものと決めつけられた。

ボリウッド映画に出てくる主人公たちを見れば分かるが、主演の男女はみんな白い肌の美男・美女ばかりだ。いまだにアーリア色が強いものであることが分かる。

白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる。くだらないボリウッド映画がインド文化に根付けば根付くほど、インド人は意識的にも無意識にも洗脳されて、白い肌をさらに尊ぶようになる。

ドラヴィダ系の血筋を色濃く残した女性。肌が黒く、黒人種の特徴を多く残しているのが特徴だ。

ツァラトゥストラは何も語らないほうが良かった
白い肌にそれほど意味があるのかどうかは疑問だ。

しかし、近年の歴史は白人が有色人種を支配してきた歴史なのだから「白人の優位性」は、どこの有色人種の国でも見られる傾向だ。

当然、宗教や文化にもやはりアーリアの思想が優位になっていくのだが、それはゾロアスターをも取り込んだヒンドゥーの思想にも反映されていった。

初期ヒンドゥーの女性崇拝は静かに消されていった。家長主義、父権主義の思想が女性崇拝に取って変わり、やがて「女性はひとりの男性に従うもの」という保守的な文化へと変容していった。

ツァラトゥストラ(ゾロアスター教開祖)が何を語ったにせよ、自由を束縛されたインドのドラヴィダ女性にとっては、実に迷惑な話だったのは間違いない。

ツァラトゥストラは何も語らないほうが良かったのだ。

家長主義の特徴である「一夫一婦制」は、古代のドラヴィダ女性だけではなく、全世界の全人類にとって、人間の本性と合致していない。

人間は最初から雑婚だ。ドラヴィダ人の方が正しかった。一夫一婦制は、古臭く、宗教臭い。結婚制度は、もう形骸化しているし、そもそも最初から無理がある。

人間は成長したり、老化したり、考えが変わったり、気質が変化したりする。自分も配偶者も、いつまでも結婚した時と同じ人間であるはずがない。それなのに、なぜ同じ配偶者と一緒にいなければならないのか。

かつての古代ヒンドゥーの世界のように、自由のままでよかったのではないか。そして、人間はその方向に軌道修正すべきなのではないか。


現在のイラン人はインドに踏み入ったアーリア系の末裔であると考えられている。

産む子供は、父親が別々のほうが子供の生存に有利
女性は特に、これらの宗教には距離をおいたほうがいい。
本来、女性にとっては、産む子供は父親が別々のほうが子供の生存に有利である。

なぜなら、多様な遺伝子を残すことができるので、環境が変わったときに、子供たちの誰かがその環境に適応できる確率が高くなるからだ。

最初の男は肉体的に優れていて、次の男が頭脳的に優れているとする。次の時代が戦争の時代だったら最初の男の子供が生き残るし、平和の時代だったら、二番目の男の子供が生き残る確率が高い。

一夫一婦制であったとき、結婚した相手が愚鈍な男だった場合は、どんなに子供を産んでも愚鈍な子供しか生まれてこない確率が高い。

女はたまったものではない。しかし、結婚さえできれば、男は愚鈍でも自分の遺伝子を残せるのだから有利だ。

今の社会はユダヤ・キリスト・イスラムの影響が世界の隅々にまで浸透していて、それらの宗教の作り出す文化がグローバル社会によって画一化されている。したがって、放縦な性的関係は批判されるものになるし、無批判に結婚制度や一夫一婦制を受け入れなければならない。これらの呪縛から逃れようとした女性は、「売春婦」だとか「淫売」だとか呼ばれて蔑まれる。

もしドラヴィダ人が世界を征服していたら、人類の性に対する考え方は、今とは180度違うものとなっていただろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0318320900.html



ディーバ。アプサラ。巫女。神聖なる女性に隠された闇とは? 2013-01-13

今から1000年ほど前、ちょうどインドで大勢力を誇っていたのがチョーラ帝国(チョーラ朝)だった。最盛期のチョーラ帝国は現在のインド・ベンガル州からバングラデシュを抜け、東南アジア南部、あげくにインドネシアまでを含む大帝国だった。そして、インドのみならずアジア一帯のあちこちに石窟寺院を残している。

こういった寺院には非常に多彩で複雑な彫刻が施されているが、そこに描かれている女性が、「デバダシ(Devadasi)」である。

チョーラ帝国の時代、寺院で信者ややってくる人々に踊りや歌やサービスを提供する女性たちがいた。彼女たちが「デバダシ」と言われる存在であり、初期は恐らく崇高で崇められる女性たちであったと思われる。若干ニュアンスは違うが、日本の巫女(みこ)を想像すれば、彼女たちの存在は分かりやすいかもしれない。


ディーバ、デバダ、デバダシ。この共通点

アンコールワットもびっしりと女性の彫刻が施されているが、彼女たちはデバダ(Devada)と呼ばれており、やはりチョーラ帝国のデバダシと同様の役割があった。こちらはよく「仙女」と訳されている。現代のカンボジアでは、仙女と言えば、デバダという古語ではなく、アプサラという言葉のほうが使われている。

ベトナム戦争からポルポト政権の激動を生き抜いたカンボジアのシハヌーク王は、ことさらアプサラたちが踊るのを見るのが好きだったと言われる。あの手首を独特に回すアプサラたちの踊りは確かに優雅で美しく魅力的だ。歌や踊りの訓練を受けて寺院に来る人々を魅了したデバダシ、デバダ……。

ヨーロッパではオペラ歌手のプリマドンナのことをディーヴァ(Diva)というが、これは「歌姫」と訳される。今はもう歌姫というのはオペラのプリマドンナのことだけではなく、カリスマのある女性歌手はみんな歌姫(ディーヴァ)と言うようになっている。

この Diva というのが、Devadasi、Deva に近い語感があるので、もしかしたらチョーラ帝国のデバダシから派生した用語なのかもしれない。

Devadasi
Deva
Diva

並べて見ると、一目瞭然だ。


デバダシ・カーストの女性。チョーラー帝国の巫女がデバダシだ。

神聖なるものと裏返しの、「闇」が存在している

1981年にはフランスでそれを題名にしたディーヴァという映画が公開されているが、出てくるのはオペラ歌手であり、これに映画の主人公と「娼婦」が絡んでくる。このフランス映画の監督が、ディーヴァと娼婦を登場させたのは、深い意味があったのかどうかは知らない。しかし、それほど奇妙な取り合わせではなかった。

カンボジアの仙女(アプサラ)をことさら愛したシハヌーク国王だったが、かつてアプサラは歌や踊りだけではなく、妖艶な「性の化身」でもあった。

そして、ポルポト政権からその崩壊までの東南アジア史上最悪のジェノサイド(大量虐殺)を生き抜いたアプサラたちは、その貧しい教え子たちに踊りを継承させることになる。しかし、教え子たちは踊る前に生きる必要があり、若い女性が売春に駆り立てられていたのが1980年代以降の現状だった。

2000年に入っても、アプサラ志願の女性は、相変わらず売春ビジネスをしていた。(アプサラを踊る娘。貧困地区に棲む天使(アプサラ)の笑み)

日本の巫女はかつては処女性が重視されていたのだが、一方で密教の巫女には「性の儀式」もあったという噂もあって、その姿は一様ではない。

宗教の裏側で、なぜか神聖なるものと裏返しの、「闇」が存在しているのである。神聖なる女性に隠された「闇」とは、すなわち「セックスの提供」だ。

巫女はかつて漢字で「神子」と書くこともあった。そして、「神子」と言えば、英語では「シャーマン(shaman)」、すなわち呪術師と同一にされている。だから、巫女を Devada ではなく、Shaman と訳すのが正しい現代語かもしれない。

写真はカンボジアのアプサラ。カンボジアのアプサラは「仙女」。インドでのアプサラは「水の妖精」になる。

現在、デバダシは寺院に囚われた「娼婦」

シャーマンとはシャーマニズム(呪術)を通して神と交信する人なのだが、密教系のシャーマンは、しばしばセックスを通して神と交信する。Shaman と Devada と 性がここでも結びついている。

密教と言えばキリスト教にも拝蛇の密教があって、その教義は性と結びついていた。キリスト教は歴史的にも数々の異端の教え、異端の集団を生み出しており、セックス教団も数多く存在する。これらの教団に属する女性たちは信者であって、デバダでもある。

では、チョーラ帝国のデバダシはどうなっているのだろうか。

もともとインドは神々と性は別に秘されているものではない。神々が何百日にも渡ってセックスをやめなかったような伝承が残っているくらいで、リンガ・ヨーニに至っては、それが何を意味しているのか誰もが知っている。

シヴァリンガというのは、シヴァ神の男性器をそのまま現しており、ヒンドゥー寺院にはそれらのシンボルが安置されている。女性たちは男性器に礼拝し、油を先端に差す。リンガヨーニのミニチュア版もインドではどこにでも売っているが、それらはすべて聖なるものであり、礼拝に欠かせないものである。

ヒンドゥー教というのはそのような宗教であり、はじめてインドにやってきてトラヴィダ人やタミル人と接したアーリア人は、その土着のアミニズムに取り込まれて、今では彼らもインド人でありヒンドゥー教徒になった。

そして、そのヒンドゥー教の中にデバダシはしっかりと根づいているが、時代が繰り上がるたびにデバダシは世俗化し、カースト化し、そして意味合いが変質した。現在、デバダシは寺院に囚われた「娼婦」として残されており、一種の売春カーストになってしまっているという。

貧困家庭が子供をデバダシとして売り飛ばし、少女は性奴隷としてずっと売春をしながら生きていく。聖女、巫女、神子、仙女、歌姫、と様々な単語や意味となって世界の歴史をくぐり抜けてきた Devadasi が、最後には売春カーストとなっているわけだ。男は誰でも彼女たちを金で買うことができる。しかし、かつての神聖なる姿がそこにあるのかどうかは分からない。


デバダシ・カーストの女性。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130113T0403570900.html

巫女は神と交わる聖なる女性

オルギア、狂宴(Orgy)
ギリシア語の o[rgia に由来する語で、「秘密の礼拝」を意味した。
ほとんどの秘教の礼拝には、エレウシス、カビリア、シャクティスム、スーフィー教、キリスト教の一派の拝蛇教などの秘儀におけるごとく、性の儀式が含まれていた。

「宗教は、自然と密着したすべての祭儀につきもののオルギア的傾向をもはやとらなくなったときでさえ、……つねに性愛的な一面を持っている。

……遠くさかのぼればさかのぼるほど、性愛と聖礼の違いを見分けるのはますます困難になる。

そして『遠くさかのぼる』のは単に時間的な意味だけでなく、経験の深さをもまた意味する」
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/orgia.html

少女が娼婦に身を落として、自分や親の罪を贖うという物語は実は世界中のあちこちにある。お姫様や絶世の美女が苦界に落ち、我が身を男たちに与えていくが、本当の優しさにめぐり合った時、天女になって天に召されるという草紙だ。

古来、神に仕えるものと娼婦は同一視されていた。日本に限らず、世界中で神に仕える女性は同時に娼婦でもあった。 神に身を捧げることと、誰にも分け隔てなく我が身を与えることは、同じことだからだ。

民俗社会においては、巫女は、神の妻であり、人間にとっては処女であり(誰の妻でもなく)、、同時に娼婦でもある(誰の妻でもある)。 巫女との性行為を通じて人は神と対話した。
http://blog.livedoor.jp/deal_with0603/archives/51331139.html

何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。 おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。 とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html


シュメール人と言えば、史上最古の民族とされ、紀元前3000年頃にはメソポタミア南部に都市国家をつくり、楔形文字を発明したことで知られる。このシュメールに「神殿娼婦」と称する、性交に熟達した女達がいた。後にギリシア人は、彼女達を「ヒエロドゥロス」と呼んだ。

各地から男達が貢ぎ物を持って神殿にやってくる。神殿娼婦達は、そうした男達のすべてと性行為を行う義務があった。 彼女達は神の側女とされ、性交為はいわば接待であり、見知らぬ男達との性交は、神秘的な夫婦関係と見なされた。つまり彼女達が性交するのは神へ奉仕するのと同じこととされたのである。

また、シュメールの娘達は、神殿で処女を捧げるのが習慣になっていた。 処女が流す血は神の好む供物とされていたから、娘達は祭壇の前で、神の代理人である祭司に身をまかせ、処女の血を流した。その神をイシュタルといい、愛と結婚、性愛、豊穣の女神だった。 しかしイシュタルは同時に男神でもあり、両性具有神なのである。したがって娘達は、祭司を男神としてのイシュタルの神聖な化身と信じて疑わなかった。


逆に言えば、娘達は聖職者からそう思い込まされていたのである。こうして処女を捧げると、娘達は祝福を受け、初めて結婚が認められた。 イシュタルは結婚の守護神であると同時に神殿娼婦達の守護神でもあった。

ところでシュメールの結婚は、男が妻を買うということでまとまった。 基本的には一夫一妻制だが、既婚の男が他に妾を持っても、あるいは神殿娼婦とセックスを楽しんでも、背徳の行為として非難されることはなかった。

娘を誘惑し、性交為におよんだ場合、独身の男ならその娘と結婚しなければならない。 既婚の男であれば娘の父親に慰謝料を払って償う必要があった。

この地域は、やがてバビロニアとなるが、それでもこうした性習慣は引き継がれた。バビロニアの娘達は神殿で処女を捧げてから結婚したり、情事に耽った。 無論、神殿娼婦もいたが、彼女達はもはや慈善的な性交為をするのではなく、金をもらって相手をする神殿内の売春婦となっていた。
http://tig.seesaa.net/article/11028153.html

ヒンズー教のデヴァダシスdevadasis(寺院娼婦)のように、古代の中東の神殿では、娼婦-巫女が女神の恵みを分け与えた。彼女たちは美と善意の比類ない結びつき(カリスcharis、ラテン語のcaritas)に関わっていたため、しばしばカリスたち、あるいは美の女神たちとして知られていた。 charisはのちに「慈善」charityと訳されるようになる。 実際にはカリスは、母の愛、優しさ、慰め、神秘的啓示、そして性交、がすべて一体となったヒンズー教の慈悲karunaと同様のものであった。

 古代の娼婦はしばしば高い社会的地位を占め、彼女たちの持つ学識は尊敬を受けていた。 パレスティナにおいてカデシェト(偉大なる娼婦)と呼ばれた天界の女王の化身のように、娼婦はギリシアと小アジアのミノア島の学問の中心地において、女王のように崇敬された。実際に女王になった者さえあった。ユスティニアヌス帝の妻であるテオドラ皇后は、最初は神殿娼婦であり、コンスタンティヌス帝の母である聖ヘレナは、皇后-聖人になる前は娼婦であった。

 エジプトの物語では、ブバスティスのある巫女は、彼女の愛の一夜の代償として、男の現世の財産すべてを要求した。 彼女は「私は神に捧げられた奴隷である。すなわち私は人間ではない」と言った。

最近までエジプトには「神聖娼婦」ghazyeと呼ばれた階級があった。 ghazyeはマルムーク王朝(1250-1517)の時代には大いに尊敬され、奉仕の期間が終わると花嫁として重んじられた。

 神殿娼婦は病気を治癒する者として崇められた。 彼女たちの分泌物そのものが医療的効力があると考えられた。スーウィー教徒の「女性の膣には治癒力がある」という諺は今もなおこの考え方を暗示している。 彼女たちの唾液でさえ病気を治すことができた。イエスが唾液で盲人を治す話(『マルコによる福音書』第8章 23節)は、母権制社会の伝承を模倣したものである。ニネヴェ(古代アッシリアの首都)から出土した粘土の銘板は、眼の病気が娼婦の唾液で治ることを示している。
娼婦はまた魔術師、預言者、占い師であった。 ヘブライ語のzonahは、娼婦と女予言者の両方を意味する語である。

 霊を持つ女性としても知られ、多くの男性と交わった日本の巫女-シャーマンは、「聖なる母たち」と呼ばれていた。彼女たちは神の花嫁となって神殿に入り、神の霊の乗り移った神主とともに横たわった。
同様の慣習は、天界のみだらなニンフを模倣したインドの寺院娼婦デヴァダシスdevadasisの特徴となっていた。

 娼婦という職業は一般的な職業であった。エリュクス、コリント、キプロスその他の地にある アプロディテの神殿には1000人の神殿娼婦が仕えていた。 古代ギリシア人が妻を召使いの地位にまで引き下ろしたとき、高等娼婦hetairaiは法的にも政治的にも男性と同等の地位にとどまった。

ローマの貴族で最も身分の高い女性は、啓示が必要なとき、ユノ・ソスピタの神殿で、自ら娼婦となった。 バビロニアの女性はみな、結婚前に神殿で娼婦となった。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/prostitution.html

ヨガの起源

今、テレビや雑誌などで、ヨガや瞑想が取り上げられ、若い女性を中心に流行っていますが、何も知らずに興味本位や健康法、趣味などで生活に取り入れると、取り返しのつかないことになります。

 何故、ヨガや瞑想が危険かと言うと、これらの起源は一般には良いこととしてしか知られていませんが、およそ健康法などとは全く関係の無いものだからです。もともと、ヨガや瞑想は一般の人たちには縁の無い、インドやチベットなどの行者が「悟りを開く」と言う目的で行なっている修行法です。


 ヨガの起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。


これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。
尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。

その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。


 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。


天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。


 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族として祀っているのは、このダキニテンからきています。


 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっていたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。


ヨガや瞑想が危険であるのは、健康法などとごまかしてヨガのポーズをとったり、瞑想したりしている内に、知らず知らずに黒魔術の儀式を行なっていることになり、そこに数多くの悪霊を呼び寄せ、額にある霊的な目(第三の目)を横目(正しくは縦目)に開き、サタン(悪魔)との契約を結ぶことになり、悪の強靭なエネルギーを得て、自らの体内に取り入れて、魂を悪魔に捧げることとなり、それが密教で言う「悟り」であるとされていますが、ヨガや瞑想に関わり続けることで、人生を台無しにし、魂をも堕落させ、取り返しのつかない過ちを犯すことになるからです。 
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html


尸林の土着信仰

 尸林(しりん)、シュマシャーナとは中世インドの葬儀場のことである。大きな都市に隣接して、この寂しい尸林が存在する。死者の遺骸は、都市部から尸林に運ばれ、荼毘に付されるか、そのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられた。
しばしば、尸林は処刑場をかねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていた。

 これらは、まともな神経の人間には、実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所でもあった。そして、しばしば、魑魅魍魎が徘徊する場所として、恐れられていた。


インドの尸林には、嘗て女神が祀られていた。そして、尸林自体もバドラカーリーなどのように女神の名前がつけられていた。これらは土着宗教の女神たちであり、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か、仏教の女神(守護女尊)として崇拝されている。それぞれの尸林の女神の祠には、巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術(Necromancy)を生業としていた。

その巫女は、苦行母(ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)という。大神シヴァの神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に、彼女たちは、侍女兼巫女として仕えている。その聖地(ピータ)に土着(クセトラジャー)の女性たちは、多くはアウト・カーストの出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていた。

彼女らは一年の特定の祭日、または、月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物(<三昧耶>(サマーヤ))をとり、酒を呑み、歌舞音曲を楽しむというオルギアを行った。

古代のディオニュソスの祭儀か、どちらかと言うとキリスト教によりディフォルメされた魔女のサバトに似た狂乱の宴である。もちろん、この土着の「尸林の宗教」は、文献も残さず、伝承も不確かな存在であり、ヒンドゥー教や、仏教サイドの文献から存在そのものを再構築するしかない。しかし、その痕跡は現代にも残されている。

津田博士が1975年にカルカッタのカーリー寺院を訪れたときは、暗い回廊の下に黒衣をまとったダーキーニーが、黒い羊の首、四、五体を並べた前にひとり座していたという。


 もちろん、多かれ少なかれ性的儀礼を含む自然崇拝的宗教は、世界中に伝播している。『旧約聖書』においても、IHVH神はバアル神と鋭く対立した。

何故なら、バアル(男性原理)及びバアラテ(女性原理)とは大地の豊饒を司る精霊で、その集合体が神格化、宗教化したバアル神だったからだ。夫婦の神の交わりにより、土地を肥やし、作物を生む。農民は、その神々に帰依する者となり、神々の交わりを模倣して神聖な性交を行うことで豊饒を祈る。

遊牧民の神であるIHVH神は、この性的な豊饒儀礼とは無縁であった。
性的祭儀はハムの子孫であるカナン人が発展させ、イスラエルに教えたのである。
聖書は、これを避難して<アモリ人の悪>(『創世記』15章16)と呼び、その祭儀に参加する者を「高きところでバアルと頸城をともにする者」と呼んだ。
潔癖主義のユダヤ教は、カナン人の信仰だけでなく、神殿娼婦を置き性の崇拝を織り込んだ古代の有力な宗教と対決を続けてきた。


 しかし、農耕神の素朴な性的儀礼と尸林の宗教は、かなり異なる。バアルの聖なる交合は、大地の実りをもたらす開放的な営みであるが、墓所における性の儀礼は、人間の心の深奥部へ辿り着こうとする閉鎖的な営みだからだ。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式である。中世インドまでの中期密教において、九想観等の死体が崩壊する様を瞑想する技術はすでに確立しており、宗教者が修行のためや、純粋に供犠のために尸林を訪問する機会はあったのである。

インドにおいて宗教者とは常に男性であり、タントラ行者は、土着宗教の巫女たちと性交を含む儀式を行ったと考えられている。

 ガナチャクラの構成員は9名である。 つまり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神パイラヴァを召喚した男性行者が1名、そして、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行う儀礼である。

天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽する。
この位置変換を<瑜伽女の転移>(サンチャーラ)という。女性行者が8名に臨時のメンバー(行者ではない女性)を1名加えた9名という説もある。その場合は、中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女一組に対して、円形に8名の女性行者が並び、曼陀羅が常時成立することになる。

この結果、中央の男性行者は、すべての女性行者と平等に和合することになる。
この儀式は、インドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっている。

 星辰の回転を象徴しながら、都合、8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は、<大楽>(マハースーカ)と呼ばれ、この<大楽>が行者を<梵我一如>の境地に連れ去るのである。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/akibba/IOSARCHV/sirin/2smshna.html


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おお、人間よ。心して聞け。

深い真夜中は何を語る?

私は眠った、私は眠った――

深い夢から目覚めた――

世界は深い。昼が考えたより深い。

世界の痛みは深い。

悦び――それは心の悩みよりいっそう深い。

痛みは言う、去れ、と。

しかし、すべての悦びは永遠を欲する――

深い、深い永遠を欲する。



02. 2013年3月21日 10:13:17 : W18zBTaIM6

「カーマスートラ」(Kama Sutra)の世界


 カーマスートラは西暦100年から400年の間で、貴族Vasyayanaによって貴族のためにインドで書かれた書籍です。


 当時、典型的なインドの貴族は、有閑贅沢三昧の生活を送る十分に自由な時間があり、社会の性的、芸術的な技能を完成することを望んで、カーマスートラを学んだ。


 理想的な民は3つの達成に生活を捧げることになっていました。

 アルタ Artha (実利)

 カーマ Kama (性愛)

 ダルマ Dharma (美徳)



 カーマスートラは、このうちの第2の手伝いをするように意図されたものである。

 それは、私達の多くが宗教的な美徳について熱狂的ではないが、私達は個人的な成長と満足感を探す。

 私達の大部分が多大な富を熱望しないが、十分な金がやすやすと生きること実利を望む。

 そして私達の大部分が優しい性愛を欲するからで、カーマスートラに記述されるものは、今日私達の性的な生活に魅力的なコントラストにあり、 一般に、カーマストラは前戯と求愛、そしてもちろんカーマストラが有名になった性的なポジションにあります。


 人生の三つの目的について

 アルタ(実利)・・・少年期に、知識、土地、黄金、家畜、穀物、家畜道具、朋友の獲得などで、それをいかに増大させ、名誉、富、権力への道をひらけよ。

 カーマ(性愛)・・・青年期に、耳、皮膚、眼、舌、鼻という自我に属する感覚をいかに磨き上げるかという教えで、とくに、男女の性愛における快感の受容を中心に学ばなければないない。

 ダルマ(美徳)・・・老年期に、俗世間か離れ、聖なる教えに従って供犠を実践したり行を勤めたりし、宗教的・道徳的な義務を追求すべきである。

 こうした教えは世界中どこでも普遍的に見られますが、インドの場合、とりわけ「カーマ」(性愛)に人生の一時期を与えているところが特徴的です。


 それでは、美しい女性との出会いについて

 現代人にとっては、美女かそうでないかは、人それぞれですが、かつては、古代インドでは、はっきりとした基準が存在し、女性は出来るだけ生きて神に近づけるよう努力したのだった。

 古代インドでは、望ましい女性から順に、蓮女(パドミニ)、芸女(チトリニ)、貝女(シャンキニ)、象女(ハスティニ)と分類されていました。

 蓮女・・・上記のとおり、神々の世界から降り立ったかのような風情の女性で、主に昼間の交合を好むとされています。

 芸女・・・蓮女ほどのデリカシーはないが、乳房は大きく、腿のやや太めの女性で、愛液はかぐわしい密の香りがして、どちらかというと夜の交合を好むとされています。

 貝女・・・それほど容姿端麗ではなく、痩せすぎたり、背が高すぎたり、太りすぎたりなどしており、腰はぽってりして、胸小さく、声はだみ声だったりする女性。男の身体に爪痕を残すこともしばしば。愛液は塩の匂いがして、夜の交合を好むとされています。

 象女・・・絶対に避けるべき女性で、鈍感にして、身体はいかつく動作は鈍く、象の陰部のようなつんとした匂いがただよい、昼夜見境なく交合を求めるとされています。

 しかし、いくら美しくても、彼女らは学ぶべき諸芸を身につけることなしには、一人前の女性とは認められなかった。

 その諸芸は、64種類にもおよんだとも・・・


 カーマスートラの構成上の面白さは、当時の裕福な都市生活者の性の対象が、妻、他人の妻、遊女と分類されている点にも表れており、未婚の男女の性関係についての慎重な記述に比べると、他人の妻をめぐる機略縦横で限りなく巧妙なやりとりはどうしても目についてしまう。


 カーマスートラでは、もちろん誰も彼もとセックスしていいわけではありません。 当時のインドことだから、カーストの身分の壁もありるし、それ以外にも厳格な約束事がありました。

 まず、処女または他人と結婚したことない女性は性愛の対象だが、他人と結婚した女との性愛は一応禁止されていました。

 例外として、下位カーストの女性、追放された女性、遊女、再婚された女性(夫を捨てて他の男のもとに走った女性)との性愛は、性愛の満足のために推奨されも禁止されていません。

 とはいえ、他人の妻については「次のような理由さえあれば誘惑してもよい」と補足されています。

 まず、もし彼女に自由意志があって、これまでにも自分以外の多くの男を楽しませてきたら、彼女に言い寄るのはまったく法の掟にそこわない。

 もし彼女が再婚した女であるならば、すでに自分以外の男たちが彼女を自由にしているわけだから、彼女を口説いてもいっこうに差し支えない。

 もし彼女の夫が敵方に属するとしたら、いったん彼女と交わることによって、うまくいけば夫の敵意を翻させる助けとなろう。

 彼女と交わることによって、(彼女を通じて)彼女の夫と親しくなり、敵をやっつけたり、その他の困難を打破できるようになるであろう。

 とまあ、まだまだ続きますが・・・中には人としてどうなのか疑うような事柄も列挙され、人妻に言い寄るための言い訳を際限なく書き続けています。

 またカーマストラは、男性ばかりではなく、女性にも読まれるべき作品として描かれています。 カーマストラでは、女性から男性への好ましい愛情表現について以下のように書かれています。

・男性の顔を正視できず、相手に見つめられて顔を赤らめる。

・言い訳をしながら、美しい肢体を見せつける。

・そばから離れた男性にひそかな視線を送る。

・何かをたずれられても、恥ずかしそうにうだなれ、消え入りそうな声で答える。

・長時間一緒にいたがる。

・ちょっと離れているとき、男の注意をひくため、顔の表情を変えながら付き添いに話しかける。

・男性のいる場所から離れたがらない。

・口実をもうけて、男性の目をいろいろなものに向けさせる。

・いつでも語らっていられるようにゆっくり話す。

・子どもを膝にのせて接吻したり抱きしめたりする。

・召使いの女の顔に模様を描いたり、周囲の者にもたれかかったりしてはしゃぐ。

・恋人の召使いに親切な態度を示す。

・化粧をせずに彼と会うことを避ける。

・彼の贈ったものをつねに肌身から離さない。

・他の求婚者のことを話されると狼狽する。

 男女の間に起こる様々なしぐさや反応の理解から、愛情の有無、接触の可能性へとカーマストラは詳細に説明しています。

 では、男性はいかにして彼女を獲得するのかというと・・・

・一緒に遊んでいるとき、わざと手を握る。

・様々な抱擁を行う。

・木の葉で作られた男女を見せる。

・水遊びのとき、遠くから潜って、彼女のすぐ近くでドバット浮かび上がる。

・若葉などで遊びながら、それとなく心を伝える。

・親族の集まりで、彼女の隣に座り、口実をもうけて彼女の体にさりげなく触れる。

・彼女の足に自分の足を押しつける。

・彼女の手やその他の部位でも同じようにする。

・うがいの水を彼女に振りかける。

・人気のない場所や暗がりでは、大胆に愛情を言い表わす。

 その他、手の込んだやりとりを繰り返すことによって、お互いの間の垣根を徐々に取り払い、女性の気持ちを確かめたのなら、男性はためらわず女性の肉体を獲得すべきと説いています。


 結婚について

 結婚の規定といえば「マヌ法典」で、それによると、三十歳の男と十二歳の女の組み合わせ、または、二十四歳の男と八歳の女の組み合わせが理想だと説いています。

 年齢の幅が広い感じがしますが、男は学生期間を経なければならないので、遅くなりがちだったらしいのです。

 カーマスートラでは、結婚の形式には八種類をあげています。

・ブラフマン式。父が家柄、学問、美徳にすぐれた男に娘を与える。

・プラジャーパティ式。父が着飾った娘を「夫婦で義務をはたせ」と告げつつ花嫁に与える。

・リシ(アールシャ)式。父が娘を一対の牛と交換に花嫁を与える。ただし、それはあくまでも儀礼的交換である。

・デーヴァ式。祭礼の場で、父が祭礼を正しくつかさどる祭司に娘を与える。

・ガンダルヴァ式。いわゆる恋愛結婚で、「愛欲から発し、性的結合を目的とする」のである。

・アスラ式。花嫁が金品を支払って花嫁を買い取る。

・ラークシャサ式。娘を父から強奪する。

・ピシャーチャ式。睡眠、錯乱中に娘をひそかに犯して連れ去る。

 合法とされているのは、前の四つ(ブラフマン式、プラジャーパティ式、リシ式、デーヴァ式)までで、前に行くほど好ましいとされていました。

 いずれも、父が娘を贈与するという形式をとっている。

 逆に後の四つ(ガンダルヴァ式、アスラ式、ラークシャサ式、ピシャーチャ式)は酷いもので、後へ行くほど犯罪的になっていきます。

 よって、カーマスートラでは、結婚の形態は、先に挙げたものほど望ましく、順を追って宗教的な掟と相いれなくなるから、前者を実行に移すことが不可能な場合だけ、後者を利用するべきであると断っています。

 女性の立場については、自分の妻・他人の妻・遊女に分けられています。

 普通、性愛の対象は、未婚の男女同士か、または既婚の夫婦のあいだでということですが、古代インドでは、性愛の専門家というべき遊女(娼婦)の存在は必要悪とされ、彼女らの中には、知的にも洗練されて貴族や知識人らがと相まみえても見劣ることもない者も少なくありませんでした。

 カーマストラによると、彼女らは六十四芸に秀で、品性、美貌、美徳をそなえており、王に厚く遇せられて、美徳のある人々に賞賛され、多くの人から交際を求められました。 彼女たちは普通の既婚女性にはない教養と品性があり、社交界にはなくてはならない存在だったのです。


 そして、カーマスートラで特筆すべきは、性愛の対象たる人妻の存在を上げていることでなのですね。

「男の求愛を拒む人妻の心の中はどうなっているのか」

「簡単に手に入る女の特徴は何か」

「如何にしたら人妻を落とせるのか」


と進み、わが身を振り返り

「自分の妻を他人の誘惑から守る方法」

へと至る論旨を展開しています。


 カーマスートラでは、そういった男と女の間の恋の駆け引きについてが主要なことで、性愛の技巧はそれほど比重を占めていないのです。

 不倫を拒む人妻の傾向

 いかに求愛の技術が優れていて、男性として魅力があっても、不倫を拒み続ける人妻はいる。  カーマスートラでは、男性の求愛を拒む人妻とはどのような心理状態にあるのか、次の二十四例をあげて説いています。


・夫を愛している女性

・私生児を産みたくない女性

・普段出会いの機会がない女性

・男性になれなれしく話しかけられたことに腹を立てる女性

・階級が違う女性

・男性が旅ばかりしているのを不安がってしまう女性

・男性の浮気を疑っている女性

・男が自分のことを喋るのではないかと恐れている女性

・男性が友人を大切にして自分をかまってもらえないと思う女性

・男性の火遊びをおそれる女性

・男性が有名な人物で気おくれを感じている女性

・男性が絶倫なのを恐れている女性

・男性が賢すぎるので気おくれしてしまう女性

・以前男性とただの友人だったことがある女性

・男性の非常識を軽蔑している女性

・男性の卑しい性格に不信を感じている女性

・男性が鈍感なので嫌気がさしている女性

・相手が精力がなさすぎるのを懸念している女性

・自分のせいで男性が不幸になってはいけないと考える女性

・自分自身の欠点に絶望している女性

・露見をおそれている女性

・男性の白髪やみすぼらしい容貌に幻滅している女性

・夫が自分の貞節を試すために送り込んだ男性と疑っている女性

・男性があんまりに道義にこだわりすぎると懸念する女性



カーマスートラでは、愛する人妻と知り合うのに、次のような方法を説いています。

・男性は、できるだけ女性の目にふれるようにしなければいけない。

・もし二人が顔をあわせたら、いろいろな身振りで相手の注目をひかねばならない。

・女性が自分のほうに目を向けたら、自分の寛大さと心の広さを彼女に見せつけるべきである。

・女友達と並んで座っているときは、さも退屈そうにみせるのがよい。

・子どもや他の人間を相手に話しているときは、別の話題に事寄せてひそかに彼女のことを語るようにするべきである。

・彼女への気持ちを地面に書きつけたり、彼女の目の前で子どもをかわいがる。

・女性が膝に子どもを抱いているときは、それを口実に、子どもをあやしたりしながら彼女や彼女の身内に気に入られるようにする。

・新密度が増したら、自分で使う香料などを彼女に預かってもらうのもよい。

・そこまで進んだら、今度は彼女と自分の妻とを仲良くさせ、二人だけで内緒話をするような間柄にまでもっていく。

・彼女が何かを欲しがっているとき、自分ならどんな希望もかなえてやれることを彼女にわからせなければならない。

・たまたま彼女と物の価値について意見が割れることがあっても、けっして逆らわず、何事にも同感の態度を示すのがよい。


 カーマスートラでは、人妻に言い寄る男には「不倫男の二十四の条件」として厳しく条件をつけています。


・愛の学問に精通している男であること。

・話し上手な男であること。

・早熟で女性体験をしてる男であること。

・女性の信頼を得た男であること。

・贈り物をする男であること。

・エッチな話がうまい男であること。

・女性に好まれることを察する男であること。

・他の女性を心から愛した経験がない男であること。

・良き仲介者として働く男であること。

・女性の弱点を知っている男であること。

・善良な女性たちから尊敬され愛される男であること。

・落とす女性の女友達と親しい男であること。

・眉目秀麗な男であること。

・一緒に育った男であること。

・近所に住む男であること。

・性的快楽に没頭する男であること。

・乳母の娘の恋人であること。

・新婚早々の男であること。

・遊山や宴会好きな男であること。

・気前のよい男であること。

・精力絶倫で有名な男であること。

・進取の気性に富んだ男であること。

・教養、容姿、気前のよさなどで全て女性の夫に勝る男であること。

・衣服のセンスや生活様式のすばらしい男であること。

 また、自分の妻を他人の誘惑から守る方法として


 「ヴァーツヤーヤナ」は「よこしまな人間はかならず女をわがものにしてしまうから、世間知らずの妻を狡賢い女の仲間にいれて堕落させてはいけない」と警告しています。

 女の貞節が失われる原因として、まず以下の項目を押さえておくことが必要だと説いています。

・社交界に頻繁に出入りする

・自制心の欠如

・夫の放蕩

・夫以外の男と無分別に交際する

・夫の長期不在

・外国暮らし

・浪費ぐせ

・不品行な女友達との交際

・夫の嫉妬

 そこで、ヴァーツヤーヤナは

「ダルマはなによりも有効に見えるが、それさえも恐怖によって捨て去られる場合があるので、そうしたことにも負けない人に妻の部屋を見張らせるべきである」

と説いている。 こういった記述は執拗に出てきます。 自分の妻を他人の誘惑から守るのが当時も、現代も変わらぬことは想像がつくことでしょう。


 さて、カーマスートラでは性行為のポイントは十項目に分かれると説いています。


・抱擁

・接吻

・爪痕

・歯咬

・性交

・うめき声

・平手打ち (スパイキング)

・性体位

・口唇性交(フェラチオ)

 抱擁



 カーマストラには、いまだに契りが結ばれていない純な二人にとっては四種類の抱擁が説かれています。

・接触 口説こうとする女性に近づき、なんらかの口実を設けて身体と身体の接触をはかる。

・媚態 相手の男性に対して、女性が何かを取ろうとして倒れかかり、わざとオッパイを押しつけたりする。

・摩擦 暗がり、人の密集している場所、または、人のいない場所において、相寄って、長い時間互いに身体を触れ合う。

・圧迫 壁や柱に相手の身体を強く押しつける、これは「圧迫抱擁」ともいう。

前の二つはまだ両者が互いの気持ちを確認してはいけない場合、後の二つの互いに相手の心を知っている場合に行われるものです。

 性交に際して行われる抱擁も四種類が説かれています。

・蔓草の纏わり シャーラ樹に蔓草がまといつくように女性が男性の体にからみつく。

・木登り 女性が一方の足を男性の足の上にのせ、もう一方の足を男性に大腿におくか、あるいは、女性が一方の腕を男性の背中におき、もう一方の腕で男性の肩を押し下げるようにして男性にからみつき、かすかに叫ぶ声を発するか呻き声を出し、接吻するために男性の体をよじ登るようにする。

・胡麻と米 べッドに伏せて、あたかも闘技におけるのと同様に二人が腕と脚とで互いにしっかりと抱擁しあう。

・牛乳と水 情欲にとらわれ、苦痛に無感覚になり、女性が男性の膝の上に座るか、顔を向かい合わせるか、あるいは、ベッドに伏せるかして、あたかも互いの身体に入りこもうとするかのように激しく抱擁しあう。

 
前の二つは立ったままで行われ、後の二つはベッドで情熱につき動かされときに行われる。


 接吻

 カーマストラは八種類の接吻があると説いています。

 最初の三つは処女に対するものです。


・カジュアルな接吻 女性が無理にうながされて男性の唇に自分の唇をあてるが、唇は動かさない。

・痙攣的な接吻 女性が少し大胆になって自分の下唇をぴくぴく動かすが、上唇は動かさない。

・かすめるような接吻 女性が眼を閉じ、手で男性の眼を押さえ、男性の唇を少し咥えて舌の先端を押しつける。

・同位接吻 二人の唇が一直線に触れ合う。

・はすかいの接吻 互いに顔を傾けて、そのまま接吻する。

・上向接吻 顔の向きを変えてする接吻。

・圧迫接吻 相手の下唇を強く圧迫する。

・強圧的接吻 二本の指で女性の下唇をつまみ、咬むことなく唇のまるみで締めつける。


 爪痕(爪をたてる)

 カーマスートラでは、

「体の一部に爪痕や歯型をつけた男性を見れば、どれほど気性の強い女性でも気持ちが動揺する。 爪痕や歯型ほど愛情をかきたてるものはないからである。」

と説かれ、爪痕をつける技巧及び爪痕の形から八種類に分類され説かれています。

・驚鳴 顎のあたり、乳房、下唇に爪を軽く押しつけ、爪をすりあわせ音を発することによって痕をつけることなく戦懐感を与える。

・半月 頸および乳房の上に彎曲した爪痕をつける。

・環状 半月を向かい合わせると環状になる。下腹部、腰のくぼみ、鼠けい部に用いる。

・線状 身体のどこに用いても差し支えないが、あまり長くてはいけない。

・虎の爪 線状を曲げて乳頭に至る場合。

・孔雀の脚 五本の爪を乳房をつかむように乳頭に向かって引いた線状の爪痕。

・兔の跳躍 情事の長けた女性の乳頭に向かって引いた線状の爪痕。

・蓮に葉 乳房のふくらみ、または帯を占める部分につけられた蓮華の葉の形をした爪痕。


それらが施される部位は、腋、乳、頸、背、陰部、腿です。

 歯咬(歯で咬む)

接吻の対象になる身体的部分なら、上唇や目などは除いて、どこでも歯咬ができると説いています。


・隠微な歯咬 咬んでも皮膚に赤い痕をつけることがない。

・膨れ上がる歯咬 やや激しく咬む。主に頬になされる。

・斑点咬 上記の二つを下唇の真ん中に行う。

・点線咬 すべての歯で皮膚の一部を咬む。頬、腋の下、鼠けい部。

・珊瑚と宝石 唇と歯とで咬む。頬になされる。

・宝石の鎖 唇とすべての歯によって皮膚を咬み、線状の歯痕を残す。頬、腋の下、鼠けい部。

・千切れ雲 それを乳房に行うもので、歯痕が環のごとくつけられる。

・猪の咬痕 やはり乳房に行われるもので、歯痕が密接して数多くつけられ、各歯痕の間が暗赤色とまっているもの。


 性交

 カーマスートラでは性交については・・・

 男性のなすべき行為として、次の九項目が説かれています。

・嵌入・・・男女の性器が正しく嵌っている状態?

・摩擦または攪拌・・・男根を手に持ち上げヴァギナの中でぐるぐる回転させること。

・貫通・・・男根をそのまま奥にグイッと押し込む行為?または、ヴァギナをさげて、その上端に男根を嵌入する場合?

・摩擦・・・男根をそのまま入れたり出したりすること?または、ヴァギナをさげて、その下端に男根を嵌入する場合?

・圧迫・・・男根を出し入れするのとは別で、挿入したまま互いを押しつけあう行為?

・一撃・・・男根をある程度引き離しておいて強く突入させること。

・猪の一撃・・・男根を中程度引き離しておいて強く突入させること。

・牡牛の一撃・・・男根を亀頭部まで引き離しておいて強く突入させること。

・雀のたわむれ ・・・亀頭部だけで、つつくこと。


 また女性のなすべき行為として、次の三項目が説かれています。


・鉗子・・・膣で男根をはさんで締め付ける。

・独楽・・・性交中に腰を回転させる。

・回転・・・女性が腰を回すときに男性が自分の腰を持ち上げて回転させる。

 いずれも女性が騎乗位で行うもので、疲れたら男性の額に自分の額をのせて休息し、その後は男性が上位になって性交を再開すべきであるとあります。

 性交体位

 カーマスートラでは性交体位の分類について

 性器の大きさについて小 中 大と次のように分類されています。


男性は 兔男・ 牛男・ 馬男

女性は 鹿女・ 馬女・ 象女

 以上、全部で九種類に分類されていますが、好ましいのは三種類で、不適切なのは六種類と説いています。

 好ましいのは、兔男と鹿女、牛男と馬女、馬男と象女だけであり、つまり、大きなの合うもの同士だということになります。

 それで、性交の仕方ですが・・・


 鹿女は、相手が兔男の場合は特別なことをしなくても良いが、相手が牛男、馬男の場合、開花型、欠伸型、インドラーニカの三姿態をとるべきだという。

 つまり、鹿女の場合、象女と違って、常に陰部を拡げるようにするべきだといっています。


開花型・・・頭を下げて、下腹部を上げる姿態で、男根挿入が容易となる。

欠伸型・・・太腿を高く上げ、足を水平に拡げる姿態で、男根挿入が容易になる。

インドラーニカ・・・女性が仰臥して、膝を折り、両膝を拡げて、胸のほうに抱き上げる姿態で、これはかなりの熟練を要します。


これに対して、象女の場合は、茶碗型、圧搾型、包懐型、牝馬型などの姿態をとる。


茶碗型・・・男女が脚を伸ばして重なり合う。

圧搾型・・・上記の性交において、女性が男性の太腿を強く挟む姿態をさします。

包懐型・・・同じく、その姿態のまま両脚を互いに交錯させる姿態をさします。

牝馬型・・・牝馬のごとく、男根をしっかり離さないようにつかまえる姿態をさしますが、かなりの熟練を要し、アンドラ地方の女性の特有のものらしいです。

 もし、あまりにも男根が小ちゃい場合は、男女が脚を伸ばして重なり合う「茶碗型」が好ましいとされますが、それには体側位(男性は左側を下にして臥す方法)と後背位の二種類があります。


 愛打 (スパイキング)

 カーマスートラには、何故かSMじみたスパイキング(愛打)の項目もあります。

 スパイキングをなす身体の部分

 肩 ・頭・乳房の谷間・背中・下腹部・臀部・脇

 打ち方は、手の甲で打つもの、指を少し曲げて掌にくぼみを作って行うもの、拳で打つもの、平手で打つもの等で

 スパイキングによる痛みによって生じる叫び声は、しくしく泣く、うめく、喉をならす、泣き叫ぶ、あえぐ、悲鳴をあげる、すすり泣、叫ぶ そうです。



 口淫 (フェラチオ)

 古代インドでは、フェラチオについては、一般的には否定的なイメージがあったようですが、貴婦人や後宮の女官は重要な愛技として説明されています。

 インドの様々な図解や彫刻郡をみると、フェラチオはかなりに日常的に行われていたみたいですが、古代インドの衛生事情などを勘案すると、当然オーラルセックスが不浄の行為と見なされていたのも理解できます。

 ちなみにカーマスートラでは、フェラチオは、次の八通りに分類されています。

・擬似性交 指で男根を持ち、両唇で咥えて、顔をふるわせる。

・側面咬 指を男根の尖端に添えて、歯も使いながら男根側面を両唇ではさみつける。

・外面圧迫 唇を閉じたまま男根の尖端、亀頭を押し付ける。

・内面圧迫 さらに、男根を少し口内に入れ、その亀頭を両唇でしめつける。

・接吻 男根を手で持ち、あたかも相手の唇にキスするかのように男根にチュッチュッする。

・摩擦 男根に接吻をして、舌の尖端で男根を刺激する。

・マンゴー吸い 男根を半分ほど咥えて、激しく吸ってはチュパッと離す。

・鵜呑み 男根をすっかり口の中に含みこみ、射精に至るまで吸って吸って吸いまくる。

むろん、これらの方法は個別に行うのではなく、何種類も連続して行っていた。


 ※ 写真はカジュラホのミトゥナ(男女交合)、アプサラ(天女)像や動物の像などの彫刻が、寺院の外側と内側に872体あり、その数と性描写のおおらかさ、洗練された美しさには他をしのぐものがあります。まさに世界性遺産だね!
http://senbe.at.webry.info/200706/article_2.html


03. 2013年3月21日 11:29:34 : W18zBTaIM6


カーマ・スートラ 愛の教科書 (Kama Sutra: A Tale of Love) 2007-06-30


王室の乳母の姪で王女の幼馴染として育ったマヤの愛と苦悩を描いたイギリス・インド合作の映画です。同じカーマ・スートラというタイトルのポルノ映画のシリーズがありますが全く別物です。これは重厚な見ごたえのある映画です。

主演のインディラ・ヴァルマ(Indira Varma)のヌードが見れます。

劇中に登場するオリッシー・ダンス
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=QudBsXE3os4#!

Indira Varma
http://video.xnxx.com/?k=Indira+Varma

Indira Varma - Kama Sutra, A Tale of Love
http://video.xnxx.com/video3619480/indira_varma_-_kama_sutra_a_tale_of_love

Kama Sutra All Clips
http://video.xnxx.com/video71209/kama_sutra_all_clips


マヤは王女のタラの友人ですが下のカーストに属し、タラのお下がりしか着た事がありません。タラが隣国のマハラジャ(藩王)であるラジャ王の王妃となる事が決まりますが、マヤは結婚式当日ラジャ王を誘惑します。

タラの横にいたマヤが気に入っていたラジャ王はマヤを抱きます。
タラは何も知らずにラジャ王と結婚式を挙げます。

マヤは結婚してラジャ王の国へ向かうタラに、

「ずっとあなたのお古ばかりだったわ。でもあなたの花婿は私のお古よ。」

と強烈な一言をおみまいします。

マヤに思いを寄せていたタラの兄のビキ王子はマヤとの結婚を望みますがマヤは断ります。マヤがラジャ王と寝た事を知っていたビキ王子はその事を王妃に告げ口してマヤは王宮から追放されます。


マヤは行く場所のあてもありませんでしたが、沐浴していたマヤを見かけた彫刻師のジャイがマヤに声をかけます。

ジャイはマヤを宮廷で王の愛妾をしていたラサの元へ連れて行きます。

じつはジャイの母親はかつて王の愛妾でしたが、ジャイの身に危険を感じた母親がジャイを宮殿から逃がしたのでした。

やがて二人は結ばれます。

腰つきがセクシーです。

マヤはジャイとずっと一緒にいたいのですが、マヤの事が頭を離れず仕事が手につかないラジャはマヤと一緒にいる事を避けるようになります。

ジャイが作ったすばらしい出来栄えの彫刻をラジャ王が見て、そのモデルがマヤだと気づきマヤを探します。

ジャイとの関係がうまく行かなくなったマヤは、ラサから愛の奥義カーマ・スートラを習い、ジャイを愛しながらラジャ王の愛妾となります。

このインディラ・ヴァルマの目つき、超セクシーです。
ラジャ王はマヤの虜になります。

やがてラジャ王は女とアヘンにおぼれて国は荒廃していきます。
ラジャ王の醜態と国民の苦しみを見たタラの兄ビキ王子は西国と同盟を組みます。

ラジャ王はジャイを呼び寝室の天井にラサの彫刻を彫らせます。

失ったものに気がついたジャイはマヤに愛を告白します。
マヤは最初は反発しますがやがて隠れて愛し合うようになります。

マヤはラジャ王を拒否するようになります。
やがてマヤとジャイの関係がラジャ王にばれます。
ラジャ王はジャイを連行して、処刑する事を決めます。

マヤはジャイの処刑を止めさせてもらおうと思いタラのところに行きますが、タラは手首を切って自殺を図ったところ。マヤはタラを思いとどまらせます。

そしてマヤはタラに愛のテクニックを教えます。
しかしタラはラジャ王を誘惑しただけで王を突き放します。

王妃のタラでもジャイの処刑は止めさせられません。
なんとかマヤをジャイに会わせるのが精いっぱい。

まもなくジャイは象に踏ませて処刑されます。

ちょうどその頃、ビキ王子の軍隊がラジャ王の国に攻め込んできます。ビキ王子の軍隊が侵入してくる中、ジャイの死に落胆したマヤは王宮を出て行きます。マヤはどこへともなく姿を消していきます。

結局ハッピーエンドにはならずとても切ないラストシーンです。
インドの風景と音楽、そしてインディラ・ヴァルマの美しさが魅力的な映画です。
http://icemango.blog70.fc2.com/blog-entry-33.html


バートン版 カーマ・スートラ(英語サイト)
http://www.sacred-texts.com/sex/kama/index.htm

美術室【インドの細密画に描かれた体位】
http://www.lostvirgin.net/09/

LOVE POSITION -性愛のかたち-
http://www.chowchow.gr.jp/inova/kamasutra/index.html


04. 2013年3月21日 13:05:47 : W18zBTaIM6

Gigi St Blaque Perfumed Garden Tales of the KamaSutra
http://video.xnxx.com/video89129/gigi_st_blaque_perfumed_garden_tales_of_the_kamasutra
http://video.xnxx.com/video89635/gigi_st_blaque_perfumed_garden_tales_of_the_kamasutra_2
http://video.xnxx.com/video1606858/perfumed_garden
http://video.xnxx.com/video1606881/positions_of_the_perfumed_garden


インドの性愛書「カーマ・スートラ」にみるフェラチオ術

古代インドにおいてこの性戯は非常に盛んに行われていました。貴婦人、高等遊女、オダリスク(後宮の女官)たちの愛技として、とくに親しまれてたといいます。

この時代、紳士淑女が身につけるべき教養の教科書として使用していたのが「カーマ・ストーラ」です。紀元前6世紀に設立したこの性愛経典には、フェラチオの技法が細かく8つに分けて解説されています。

@ミニタッカム
片手でペニスを持ち、口唇で加えて振る。

Aパールシュバンド・ダシュータム
亀頭を手で包み、側面にキスする。

Bバーヒフ・サンダムシャ
口唇を閉じてペニスの先端に押し付ける。

Cアンタフ・サンダムシャ
ペニスを口中に含みながら、唇で締め付ける。

Dチュムビタカー
ペニスを手に持ち、唇でキスするように吸い上げる。

Eパリムリシュタカー
ペニスにキスし、舌先でねぶったり、たたいたりする。

Fアームラ・チュシーターカー
ペニスを半分ほど口中に含み、吸引する。

Gサムガーラ
ペニスを口中に全部入れて吸引する。

これだけの技法を古代インドの女性達がこぞって習得していたとなれば、いかに当時の男性達が深い快楽をフェラチオによって得ていたか、押して知るべしといったとことです。
http://sextechnic.blog96.fc2.com/blog-entry-59.html

昨日のフェラ講座は如何でしたでしょうか?

「んだよ、こんなの基本じゃん。私の方が絶対うまい。」

という方もいらっしゃると思う。そういう御仁は是非お相手いただきたい(笑)。

さて、2回目はクンニについてだが、その前にひとつカーマスートラに書かれているアブノーマルプレイについて触れてみようと思う。

つか、教典に書かれてる時点でアブノーマルじゃなくってノーマルなんだよな、実は。ということでこれから先に書くことはノーマルプレイです。彼氏や旦那にお願いされたらシテ差し上げましょう。

カーマスートラでは爪プレイ(?)の数々を解説している。
その一部を抜粋しよう。


●孔雀の爪型:曲線型の痕を五本の指で胸につけたもの。これを美しくしるすには非常な熟練を要する。

●兎の足跡型:五つの印を乳首のまわりにつけたもの。

●青い蓮の葉型:胸または腰に青い蓮の葉のような形に配した印。


「女が自分の体の秘密の場所にしるされた爪痕を見るとき、たとえ時間がたってそれが消えかかっていても、愛が再びよみがえる。愛の交わりを結んだ人を思い出させる爪痕がないと、長い間性交を行わない場合と同じように、愛は衰えてしまう」

だ、そうだ。レッツ爪痕プレイ。(笑)

続いて愛打。シバキプレイというやつか。ただ、道具は使わない。

自分の手を使ってしばくのだ。愛打を加えて効果的な場所として、背中・下腹部・脇・腹・乳房の谷間・頭・肩とある。

打ち方は、手の甲打ち・拳打ち・平用打ち・指打ち(少しまげて)等。

苦痛によって生ずる音として、ヒンという音・とどろく音・喉を鳴らす音・プラッという音・パッという音・スーという音・プーという音・泣き声...


って最後の方はテキトーに書いてるとしか思えないが(^_^;)、ともかく愛打というのが教典にある以上、ノーマルプレイということになるなSMは。

でも解説にはこうある。

「愛打については、何種類あると断定することもできなければ、これといった定則もない。いったん交悦がはじまれば、あとは情熱だけで当事者ふたりのいっさいの愛技が生まれる」

ビミョーな言い回しだな。

「二人がよけりゃなんでもいいんじゃねぇの?」ってことか?

さてさてクンニの話である。

最初にこの教典は、男用に書かれていてクンニの部分は少ない。理由は書いた人間が嫌いなのもあると思うが(^_^;)、当時の時代背景&制度も反映してるのではないだろうか?

現代、女性の地位向上とリベラルな風潮の中で口性交も一般的になってはきてるのでここに書かれていることは物足りないかもしれない。

といいますか、「あれだけ引っ張っといてコレかよっ!」という怒りがあるかもしれないので最初に断っておく。(笑)

1 陰核刺激:
彼女の陰核の軸および頭の上方を舌で撫でることができるように、自身の位置を決め、陰核の頭から真下に、舌の先端で左右にその軸の下側をぱっと払うように、また羽でなでるような感じで常に順番に陰核の各側を刺激する。

 なになに?(^_^;) えーとな、クリの根本や特記部を舌先で弾いたり、柔らかく嘗めたりする。ってことだな。

2会陰刺激:
脚を大きく広げて彼女の会陰をなめる。 ほとんどの女性は、会陰が神経終末に富んでいるので、それは触れられるか、なでられるか、なめられることに非常に敏感で、非常に刺激的になる。

 俗にいうところの「ありのとわたり」ってやつですな。ぐりんとひっくり返して相手に見えるようにレロレロするのがグー。ってそんなことは書いてないか。

ところで会陰にはツボがあり、そこをマッサージすることでリラックス効果もあります。以上、太極拳一口メモでした。(笑)

3接吻:
準備段階として覚醒の遅い(しかし大いにエロチックな) 盛り上がりを作る。相手を見つめ、腹部と腿をなめ、言葉を交わしながら接吻すると効果が高い。

 ほれ〜〜、やっぱ、言葉責めは効果があるってことじゃーん(笑)。ビバ!隠語。

4舌部挿入:
陰核および会陰にキスしてなめた後、刺激を増加させるために、膣の中に舌を挿入する。感覚の常に変わる範囲を与えるために、ストロークを変える。

 舌先の魔術師は舌が自由に動くんでしょうが、俺なんか幅が大きくて短いからこのプレイは苦手なんだよなぁ....届かないんです(笑)

 以上である。

「え?これだけ??」そう、これだけ。(^_^;)

石は投げないでください(T^T)...

お詫びにエッチの種類を書きます。

挿入の種類


1篏入:両性器が正しく直結する。

2摩擦または攪拌:男性器を手で持ち、女性器の中で回転させる。

3貫通:女性器を下げて、その上端に男性器を篏入する。

4摩擦:同様に女性器の下部に篏入する。

5圧迫:男性器を長時間ヨ膣内に押しつける。

6一撃:男性器を女性器からある程度引き離しておいて、強く突入させる。

7猪の一撃:女性器の一部だけを男性器で摩擦する。

8牡牛の一撃    :女性器の両側を摩擦する。

9雀のたわむれ:男性器を女性器に篏入したまま、これを抜去せずに、何度も上下に動かす。

7番8番はスマタプレイですね(^_^;)。

カーマスートラでは「男は女の行為から彼女の気質や好みを読みとらなければならない」とあります。自分だけ気持ちよくなっちゃダメってことですな。
あー俺もたわむれてぇ〜〜〜〜(笑)

*****
目が覚めて この手の先に キミがいる
 そんな夢しか 夢見れぬ夢
http://hamaotome.diarynote.jp/?theme_id=5


カーマスートラの体位


『カーマスートラ』は単調なピストン運動をいさめ、ピストンだけで9種類あると説く。

ウパスリプタカム→ペニスの先端だけを膣に出し入れ 

マントハナム→挿入後、根元を持ち内部をかき回すように動かす 

プリシャグハーダ→側壁の左右を強く突く

カーマスートラには、実に64種類もの体位が記されています
http://www.lostvirgin.net/09/


その中から、いくつかをご紹介したいと思います。


1、座位(基本)
カーマスートラでは、対面座位が基本の体位とされています。
これは、座位こそが男女がゆっくりと愛し合うのに適した体位だと考えているからでしょう。

激しくピストン運動をするだけでなく、ゆっくりと動いて一体感を味わいます。

2、ベーヌダーリタカム
右絵のように、正常位の体勢から女性の片足を担ぎあげます。
右足と左足では挿入する角度が変わります。

女性器は形・角度に個人差がありますので、試行錯誤しながら、一番感じるところを探り当てるといいですよね。


3、プフクムナカム
屈曲位(正常位の一種)から、 女性の太ももを垂直に持ちあげて挿入します。
女性は上半身を反った状態となります。

膣奥まで挿入することができるので、ポルチオ性感帯を刺激しやすい体位と
いえます。
http://h.motenisan.biz/kama.html

代表的な体位解説


釘打位 (Fixing A Nail Position)

AVビデオでも見かけない体位。古代インドの性典「カーマ・スートラ」の一つ。

屈曲位の姿勢から、女性の片足を男性の額につける。 足は付いたり離れたりするが、気にせずバコバコやって欲しい。

額に付けなければと気にし過ぎるとセックスに集中できなくなる。足が付いたり離れたり、位置がずれたりする、 その微妙なずれが脚を通って伝わる間に増幅され、膣内の亀頭にビンビン響く。 しかもこの刺激は、リズムも強さも不規則。

人間、同じリズムの刺激には鈍感になるが、不規則な、しかも思わぬ刺激を加えられると驚くほど新鮮に感じる。不覚にも漏らしそうになるので注意!

屈曲位の合間に入れると強烈なアクセントになる。 足を額につけられるのに抵抗感のある人もあるかも知れないが、一度ぜひ試してもらい。 女の子から見ても面白い体位。眺めていると、ちょうど彼氏の頭に金槌で釘を打っているように見える。 今晩やってみようと思ったら


インドラニ (Indrani, Wife Of Indra)

原語の“Indrani”とはヒンズー教のインドラ神の妻の名前。しかし、英語では“Indra Position”とも呼ばれている。正確には「インドラ神の妻の体位」だ。

カーマ・スートラの数ある体位の中で神の名前を冠しているのはこの体位だけだ。ヴァーツヤーヤナの時代、何か特別な意味を与えられた体位だったと思われる。


@女性は仰向けに寝て、えびのように腰を曲げる。

A男性は女性の前に膝立ちする。

B女性の腰をペニスの高さまで上げながら挿入。

C女性の両足は男性の腹部に密着させる。

D女性の反応を確かめながら、ゆっくり腰を動かし始める。


女性の腰がずり落ちるようなら下に枕などを置くとよい。 膣とペニスの方向が一致するため、最大限の挿入が可能。十分に女性が濡れ、膣内が奥まで膨らんでから挿入しないと痛みを感じる。

なお、女性の両足は図のようにきちんと揃える。両足を広げて男性の肩についているのをインドラ位と紹介しているDVDがあったが、間違いだ。

インドラニはSqueezingの代表的な体位だ。Squeezingとは、膣の筋肉を締めることで、男性はもちろん、女性自身の快感も増加する。いくつかの体位では自動的にこの膣筋の収縮が起こることが知られており、さらに男性の動きによってペニスへの刺激が変化し、この上ない快感を呼び起こす。 女性にはキツい体位だが、セックスの最後の方に行うといい。

ポルチオ(子宮口)を直撃するので、ポルチオセックスの極味が味わえる。 今晩やってみようと思ったら


竹割位 (The Splitting Of A Bamboo)

@女性は仰向けに寝て片脚を男性の同じ側の肩に掛ける。

A男性は前進して挿入する。


Hなかんりにんが一番好きな体位。カーマ・スートラの秘技の一つ。松葉崩しに近い体位だが、本来の松葉崩しが松葉が重なるように斜めに交差するのに対して、この体位では男女共にからだをひねることなく真っ直ぐに交わる。男性が前傾姿勢なるところも異なる。体勢は松葉崩しに比べて窮屈。二人の股間を合わせるには松葉崩しのようにややひねった方が交わりやすいが、真っ直ぐに合わせる分ひずみが逃がせないためだ。からだが硬いと難しい。

膣が前後に引っ張られ、膣口は線状に閉じ面積が最小になる。交差位の中でも刺激は最強。女性の股間を裂いているようで男性の攻撃性、女性の被虐願望を満足させる。

その上、この体位は大変絵になる。女性は仰向けのままで男性が覆いかぶさっている。男性が能動的に動けば、高く押し上げられた片脚が激しく揺れる。側面、斜め、前後、どこから見ても興奮もの。

さらに上から見下ろすシーンがすごい。鏡に囲まれたラブホでのセックスやラブシーンの撮影にお勧め。女性は天井の鏡を見て激しく犯されている自分を見て欲しい。男女ともにこの上なく興奮する。

快感をさらに高めるには、女性の上半身を同時に愛撫するとよい。クリが自然に擦れるところもいいところだが、もちろん手も使える。 松葉崩しでは、女性がからだをひねっているため、男性は女性の上げた片脚を抱く形になり覆い被さるほど前進できない。

この体位では、相手の息遣いが感じられるほどからだを密着させ、好きなときに抱き合うこともできる。夏など汗でぐっしょり濡れる。まさに、生きている実感を得られる体位だ。腰を激しく振ればどんどん高まっていく。

挿入は深い。極まったところで心置きなく射精して欲しい。フィニッシュの体位にお勧め。 ※松葉崩しは女性の片脚を抱いている感じになる


Half Pressed Position (Fruit Tree Position)

@男性は膝立ちをする。

A女性は両脚を畳んで仰向けに寝ながら、片脚を男性の胸につける。

B女性のもう一方の脚は宙に浮いたままか床に下ろしておく。


インドラニに似た体位だが、片脚だけを男性の胸につけるところが異なる。 女性の股間に余裕が生まれ、膣の筋肉の締まりは若干弱くなるが、その分挿入は深くなる。

ポルチオ(子宮の入り口)セックスの極味が味わえる。 左右の対象性が崩れて、膣口がゆがみ、入口派も満足できる。

インドラニより動きやすいが、あまり激しく突くとヴァギナに痛みを感じる。女性にはキツい体位。セックスの最後の方に行うといい。

股間が開いている側の手を遊ばせずにクリトリスを愛撫すると思わず声が漏れる… 写真のように絵になる体位。特に男性の斜め前方や斜め後方からの撮影がいい。特に男性の斜め後方からのカットは迫力のある立体感がつく。


蓮型位 (The Lotuslike Position、La position du Lotus

女性は蓮華座を組んでいる。 両脚が蓮の花のように複雑に組み合わさっている。


@女性が先に蓮華座を組む。

A男性は女性を押し倒す。

B男性が女性に挿入する。


短所 挿入自体は思ったより容易だが、ピストン運動は女性の脚がかさ張りかなり窮屈になる。 さらに、女性の脚が崩れると息子に蹴りを食らうおそれがあるσ(^_^) 長時間繰り返すと、痛みが出ることがある。


長所 局部が完全に露出され初心者でも入れやすい。 下付きでも上付きに修正可能。 膣が引き上げられペニスの挿入方向と軸が揃い、かなり奥まで達する。包み込むような挿入感がたまらない。 膣や会陰部の緊張感が強くそれがいいという女性も結構いる。

ユニークな体位で未体験の人が多いと思う。体の柔軟な女性のみが、実行できる技巧的な体位だ。訪タイする人は是非試してもらいたい。

タイ女性は座禅を組むのに慣れている。この体位がマンネリズムから解放してくれることだろう。かつての読者の方の情報ではかなり受けたとのことだ。

他に頂戴した貴重なアドバイスを披露すると、

(教訓1) 正常位で挿入し、途中から足を組ませようとしても難しい。

(教訓2)男は上体を起こした状態を維持する必要がある。押さえ込むと女が苦しいので足を解いてしまう。太目の方はご用心。

(教訓3)局部の位置が上がってくるので、照準を合わせやすい。また股関節をひろげる効果があり、女が羞恥心から体をこわばらせているような状況では挿入がしやすくなる。これは経験の浅い女には良い条件かも知れない。

(教訓4)男が腰をあげ高い位置で挿入すると深い挿入感が生まれる。 この体位の面白いところは意外性にある。
http://zhengxing.kt.fc2.com/tiweidaibiao.html

温故知新 カーマスートラ インドの性典


「カーマスートラ」の中でポルチオへの攻撃法(攻略法)がないかどうかインド人の友人に何年か前に聞いことがあります。「カーマスートラ」には、性交の際、ペニスを挿入してからの動作について10種類の方法を紹介しているそうです。


1つ、「マントハナム」と言う挿入したペニスの根元を手で握って膣の中を攪拌する方法で、ポルチオ周辺を刺激すると良いとそうです。実際行ってみてポルチオオーガズムに導くことも出来ました。

1千年以上前のインドや中国の古典・性典でポルチオへの攻め方が書かれていてビックリした。

余談ですが、ペニス挿入後の交接運動は、

・前後運動(前後左右上下のピストン運動)
・斜行運動(ペニスが蛇行するようにくねらす)
・回転運動(回転するようにひねらせる)
・圧迫運動(ペニスを深く挿入とともに恥骨を押し付ける)

の4つが基本となります。その訓練法の1つとして下半身を使ってお尻で「いりはにほへと・・・・」や「あいうえお・・」などを書く(動かす)訓練法があります。腰使いには大変効果があります。それを何人かの外国人に教えたところ、「abcd・・・・」で練習していた。全員効果があったそうです。


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「マントハナム」の方法ですがもう少し詳しく教えてください!

手で握って攪拌ということなのですが、ポルチオ「周辺」スポットのオーガズムではなく、ポルチオオーガズムに導くには振動系の刺激が有効だと以前斉藤さんからお教え頂いているのですが、握って振動させるということでしょうか?

ぐるぐる攪拌する動きでイケるのでしょうか??
「ポルチオ周辺」ではなく「ポルチオ」で。

かな

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かなさんへ
「マンとハイム」の方法を詳しく説明してとのこと

先ず、「カーマスートラ」には、性交の際、ペニスを挿入してからの動作に関し、下記の10種類の方法をあげています。(版や翻訳によって説明が少し違いますので参考までに違う説明も要約しておきます。インド人の友人の話のほか英語のバートン版と日本語の幾つかの翻訳本を参照しました。角川文庫で容易に読めます。)

「ウパスリプタカム」
 これは一番オーソドックスな形で、ペニスを女性器の膣道に逆らわないように、真っすぐに挿入する。( ペニスの先端だけを膣に挿入と説明している本もあり。)

「マントハナム」
 挿入したペニスの根元を手で握って、膣の中を攪拌する。(ペニスを膣内に挿入した後、ペニスの根元を持ち内部をかき回す。)

「フラ」
 男性は腰を低く落として、ペニスで女性の膣の上部、つまり天井の部分を突く。(腰を沈めぎみにし、ペニスを挿入し、膣の上部にあるGスポットをさする。)

「アバマルダナム」
 フラとは正反対の動作で、男性は腰を上のほうに移動し、膣の下の部分を強く突く。(フラとは逆に、腰を高くし、膣の下部を刺激する。

「ピーディタカム」
 ペニスをヴァギナの中に根元まで押し込んだまま、グリグリと陰部の周辺を圧する。(ペニスを突き上げてしばらくそのまま。)

「ニルグハータ」
 ペニスをヴァギナから外れない程度まで引き抜いてから、腰と臀部を使って強く挿入する。(ペニスを引くときはゆっくり、次に強く突く。)

「グァラーハグハータ」
 女性の膣壁の片側だけを狙って、ペニスで強く突く。(膣壁の上、下を強く突く。)

「プリシャグハータ」
 牡牛の角のように、膣壁の左右両側をペニスで突く。(膣壁の左右を強く突く。)

「チャタグハータ」
 女性の膣の奥まで挿入したペニスを抜き上げずに、1、2、3回・・・と、ちょうど雀がエサをついばむように、男性は膣内をチョンチョンと突く。(ペニスで小刻みにつく。)

「サムプタ」
 サムプタカムと言うと伸展位のこと。つまり、ペニスを挿入したまま、男女の双方が両脚をピンと伸ばして閉じる。


>かなさんの質問 「マントハナム」の方法ですがもう少し詳しく教えてください!

手で握って攪拌ということなのですが、ポルチオ「周辺」スポットのオーガズムではなく、ポルチオオーガズムに導くには振動系の刺激が有効だと以前斉藤さんからお教え頂いているのですが、握って振動させるということでしょうか?

 挿入したペニスの根元を手で握て動かすことは、腰だけを使ってペニスで膣内を刺激するよりも自由に膣内を刺激することが出来ます。また、勃起度が不足している時や男性が疲れている時などでは、ペニスの根元を握ることによって勃起度アップし、楽に性交ができます。

かなさんの仰る様にポルチオオーガズムに導くには、振動系の刺激が大変有効です。ポルチオを刺激する場合、がむしゃらにペニスを突いても意味がありません。先ず肝心なことは、ペニスの先端(亀頭部)を膣奥に届かせることです。勃起したペニスの角度と膣内の角度が同じ角度になれば無理なくポルチオを刺激することが出来ます。

「マントハタム」ですとGスポットや膣壁やポルチオを自由に軽く擦ったり、優しく突っついたり色々な振動を与えたり、刺激・愛撫が出きます。

少しコツ(テクニック)はいりますが、ぐるぐる回転運動でもポルチオオーガズムに導くことは可能です。先ずはクリトリスオーガズム・膣オーガズム・Gスポットオーガズムに導いてからポルチオオーガズムに導いて行くのが初心者には楽だと思います。

振動系の刺激が大変有効ですが、ピストン系でも斜行系・回転運動系・圧迫運動系でもポルチオオーガズムに導くことは出来ますが、初心者はポルチオを刺激する時に無理に突き過ぎてしまって女性に歓びではなく、痛みを与えてしまう可能性が高いので、振動系の刺激が無難です。


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性坊さん
とっても詳しく教えてくださりありがとうございました!

私はポルチオは振動系でしかイケないものなのかな、と思っていたので、自分自身がピストン系の動きでイった時のはポルチオオーガズムではなく、斉藤さんの名づけられたポルチオスポットオーガズムに分類されてしまうのかな?と思っていました。

圧迫系でイクのは経験済みでしたが、斜行系、ピストン系、回転系でもポルチオオーガズムに達することができるのですね。

勉強になりました。

かな


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かなさへ追伸
かなさんへ

性交運動の方法だけでなく、性交体位(ラーゲ・ポジション)によってポルチオオーガズムに導きやすいものが幾つかあります。正常位の変形(パイジュリンプヒタカム)・屈曲位の変形(プフクムナカム・亀騰きとう)・腰高位(ウットプツラム)・後背位(ドヘーヌカム・虎歩こほ)など。

「医心方」では、性交運動でゆっくり腰を使い、浅く8回・深く2回交接を繰り返し続け、ポルチオオーガズムに導く方法を紹介している。女性は、よがりまくり、声をあげ、失神するとあります。

膣の入り口辺りでペニスを浅く8回抜き差しし、膣の奥・ポルチオ(子宮頸部)に優しく当たるようにペニスを2回突く(八浅二深)方法で、試してみた。女性によってですが、オーガズムに導くことは出来た。八浅二深だけでは、失神までさせることは出来ないが、よがりまくらす事は出来ます。
http://kyouyablog.blog105.fc2.com/blog-entry-383.html


媚薬の作り方

媚薬の作り方を探していたら、ありました、ありました。

その媚薬の作り方が載っていたのはインドの性典と呼ばれるカーマスートラ。

カーマスートラと言えば性愛の古典と言われる有名なものなんだそうです。さあ、ではその媚薬の作り方なんですが、いくつも載っているうちの一つを見てみましょう。


なになに、その媚薬の作り方とは、


黒コショウとチョウセンアサガオを蜂蜜に混ぜる。


うん!?それだけ?..えらく簡単ですね〜。

なんか媚薬の作り方って聞くとかなり複雑なイメージがあって、呪文なんか唱えるのかな?と考えてたんだけど、かなり簡単な媚薬の作り方。

それで、作った媚薬を...飲むのではなく、男根に塗って女性と交わるということです。すると、思い通りに女を恍惚たらしめるとなっています。

でも、女性のアソコが蜂蜜でベットリですよね〜。これってよいのかな?

あっ、そうか。後で舐めてあげれば良いか〜!?
http://page.freett.com/segdbc11/biy.html


05. 中川隆 2013年3月21日 13:49:13 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Kamasutra Part1-6
http://jp.xvideos.com/video1255118/kamasutra_part_1
http://jp.xvideos.com/video1263544/kamasutra_part_2
http://jp.xvideos.com/video1272995/kamasutra_part_3
http://jp.xvideos.com/video1277953/kamasutra_part_4
http://jp.xvideos.com/video1283417/kamasutra_part_5
http://jp.xvideos.com/video1295465/kamasutra_part_6

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    /⌒X ,.二、ヽ爻ハ  /  / (_二二 _/ ̄_     ヽ
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,.二、{弋ソ,.二弋辷ンノノ-‐〈 /  {    ヽ     i  |      ハ
{ 仄 }} 八 仄} `辷ン八うY } :|  八  、   \ ヽ.!   レ-、ヽヽ ∧
_‐(>( 辷ン 仄ィ介=≦ミ、N   \ \   }_  |:i  |'^ヽ|i :! :!:!∧
、Y/ ,.二、`Y_ノ-=彡'´`ー'´^ミ!、  i :ト、\x(_\ |:| i :!} } !| | :|:レ'
ノ( { 仄 }}八 《《 _,. -=≠  ,.ィ=ミ茫N  `´ィ芹rt刈:! | !'´ 爪 !ハト!
⌒ヽ 辷ン{ } }}}´_,.ィ伝ミヾ {以刈ゞヽ   `¨´ | | | 「´i | N:|
Y 二 ヽ 人ノノノハ ゞ┴'   、` }   }         ! ! !八 |从八
{ 仄} }} ノミ辷彡'}      ,. '  从 ヽ'_       !:/:/レ人( ヽ
弋辷ン乂}{ミ辷彡'}    _,. - /辷`ヽ  `    //://  ̄`ヽ
辷彡'辷彡{ミ辷彡'}>、   ´ /辷彡}  `  (イj:/         '.
辷彡'辷彡{ミ辷彡'}j  ≧=- '辷彡} _____} _,. /           '.   /
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 /             \     /  /                     }


高いカーストのインド女性は美しい

PRINCE FINAL
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=riLWMbUKt-o

Saravana Stores antiq jwelary HQ
http://www.youtube.com/watch?v=zWsv6D5BN2Y&feature=player_embedded

GRT Wedding and Celebration Jewellery
http://www.youtube.com/watch?v=5pLs4g7EVZo&feature=player_embedded

SHREYA GHOSHAL'S JEWELLERY COLLECTION FROM JOYALUKKAS
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=oZvgTbKe_Pw

Nathella Jewellery- Chennai, India
http://www.youtube.com/watch?v=CUXkYu_FZdo&feature=player_embedded

TANISHQ ARIA TVC
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=HciYNzlLLxc


インド女性 - Google 検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E6%80%A7&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=MegyUcClJMf6mAWM3IDgAg&ved=0CDMQsAQ&biw=1040&bih=892


溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎる高カーストのインド女性


インドは10年前までは貧困でしか語られることのなかった国だが、国民の1割でも中産階級になっていくと、10億人の1割は1億人なので、日本の人口と同じくらいの中産階級が生まれることになる。

こういった中産階級はもう貧困で語られることがなくなり、女性たちもまた華々しさを身につけ、アピールするようになる。

そうすると、撮られる写真もいよいよ豪華絢爛になっていくので、インド女性の美しさはいよいよ際立つことになる。


それにしても、この盛装

インド女性の美しさは以前にも写真で紹介した。「溜め息をつくしかない。あまりにも美しすぎるインド女性(1)」

(1)でも書いたが、インド人は「肌の白い」インド人が美しいと思い込んでいるので、まだまだインド中部〜南部を占める褐色のインド女性を美しく撮る写真家がいない。

いるのかもしれないが、あまり目立ってこない。

しかし、マジョリティをいつまでも無視することはできないから、やがては褐色の美しい女性が登場してインドの偏った美の概念(白肌信仰)が覆される時代が来るだろう。

それまでは、白肌のインド女性だけを見つめることになる。それにしても、この盛装はどうだろうか。溜め息をつくしかない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120613T1202200900.html

インド人というのは、白人なのか黒人なのか黄色人種なのか?

世界は三大人種群に分かれているとはよく言われている。白人、黒人、黄色人種というのがそれだ。

コーカソイド=白人
ネグロイド=黒人
モンゴロイド=黄色人種

中国や日本ではもちろんモンゴロイドが多い。アフリカ大陸ではネグロイドが多い。ヨーロッパではコーカソイドが多い。それは恐らく誰でも分かるだろう。

では、インド人はこの分類で言うと、どこに当てはまるのだろうか?


人によってイメージが変容する国

答えは、「そのどれでもない」が正解であり「そのすべてだ」というのも正解だ。つまり、どれを選んでも正解になる。

なぜなら、インド大陸にはこの三大人種群のすべてを内容し、さらにはそれらの混血も混じり、混血の混血もいるからだ。インドはすべてマサラ(混合)して存在しているのである。

インドの北部・北西部はコーカソイド系が多い。インドの南部はネグロイド系が多い。インドの北東部・東部はモンゴロイド系が多い。

ただし、この分類はとても大雑把なもので、細かく見れば違う。そのすべての地域にありとあらゆるタイプの「混血」がいるからだ。

その混合具合が本当にバラバラで、それがインドの面白いところなのだが、同時に複雑なところでもある。

これだけ人種が違うと、当然、宗教も文化も言語も違ってくるわけで、一言でインドと言っても、日本のように「人種はこれだ」「宗教はこれだ」とまとめ切れないのである。

「典型的なインドとはこれだ」と言った瞬間に、そこから漏れ落ちるものが多すぎて、まとめにならない。あまりにも違いが多すぎて、国民すべての「相互理解」というものがまったくない。

だから、インドはつかみどころがなく、人によってイメージが変容する国でもある。


「何も分からない」「何も確実なものはない」

ボリウッド映画に出てくる美男美女は、ほとんどが白人系(コーカソイド)であることに気がつくと、インドでも白人系が影響力や力を持っていることが理解できる。

しかし、彼らもよくよく見てみると、金髪碧眼ではない。確かにコーカソイド的な特徴を持っているようだが、では彼らが「白人か?」と言われれば、誰もが返事に窮してしまうだろう。

白人の骨格をしているが、褐色の肌や黒い髪の特徴はどう見ても白人のものではない。かと言って、ネグロイド(黒人)かと問われれば、やはりそれも違う。

虹彩が黒く、髪も黒く、肌も黒いとは言ってもネグロイド(黒人)とは明らかに違うのである。

モンゴロイド(黄色人種)でもない。ボリウッド映画の美男美女を見て、自分たちと同じ人種だと感じる日本人は皆無に等しいはずだ。まったく違うのである。

つまり、インド人は世界のどの民族と比べても、違うようで同じ、同じようで違う。

民族の混血度が進んでいると言えば、ブラジルもまたそうだが、ではブラジルとインドを比べて人種的な外観が似ているかと言われれば、違うと思う人も多いだろう。

後で調べてみると、インド・スリランカ人、つまりアーリア系のインド人はコーカソイド(白人)系なのだという。そういうことになっている。

私はその学術的根拠が何に基づいて発表されたものか知らないが、どうも信じる気にはなれそうにもない。

私の中ではアーリア系インド人は白人ではないのだ。アーリアは、コーカソイドでもネグロイドでもモンゴロイドでもない、

まったくの「新種」だと言われた方がまだ納得が行くし、私は自分の中ではそんな気でいる。

本当にインドは混沌としており、いろんなことを思いつかせてくれる国で飽きない。こんな国は、世界のどこを見ても、他には見つからない。

「何も分からない」「何も確実なものはない」という気持ちにさせてくれるこのインドが好きだ。

答えはひとつしかない、と学校教育の弊害に悩んでいる人は、インドを放浪すれば思考の解放ができるのではないだろうか。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120428T0523320900.html

青、緑、黄色。変わった瞳の色を持つインド女性のいくつか

唐突だが、あなたの瞳の色は何色だろうか。確認しないで「黒だ」と思う人もいるかもしれないが、まず自分の瞳を鏡で確認してから以下の文章を読んで欲しい。

日本人は自分の瞳が「黒」だと思っている人がいて、私もずっと自分の瞳の色は「黒」だと言っていた。

しかし、「あなたの瞳は黒ではない。ブラウンだ」と笑って指摘したのがロシア人の女性だった。(マイクズ・プレイス。緑の虹彩を持った女性とロシアの崩壊)


多くの日本人の瞳は焦げ茶色(ダーク・ブラウン)

改めて自分の瞳の色を確認したら、本当に「濃い茶色」だった。客観的にはそうなのだが、私たち日本人は自分の瞳の色のことを「黒」と言う。だから、意識下では黒だ。

しかし、黒は「比喩」であり、本当は日本人のほとんどが「茶色」なのである。もしかしたら、本当に「真っ黒」だと思い込んでいる人もいるかもしれない。

もちろん、全員がそうだとは言わない。しかし、多くの日本人は恐らく「焦げ茶色(ダーク・ブラウン)」だというのが正確なところだろう。

そういえば、どこかの国のアライバル・カード(出入国カード)で瞳の色を書かされた国もあったような気がするが、そのときにも黙って訂正されたような気もする。どこの国だったか思い出せない。

恐らく日本人は全員、無意識に"Black"と書いて"Brown"に訂正されるだろう。

しかし、人を判断するのに、瞳の色をとても重要視する国もあったりして、欧米人なども自分の瞳の色をよく知っている。それが自分の個性であり、自分の「お気に入り」だからである。

私の目をブラウンだと言ったロシア女性に、「君の目はブルーだね」と言ったら「違う、グリーンよ」と言われてよくよく見たらグリーンだったことも強い印象として残っている。

瞳の色は、日本人よりも外国人のほうが敏感なのである。

日本人はずっと「目の色は黒(茶色)」が当たり前だと思って暮らしているから、外国で相手の色が違うと本当に引き込まれる感じになるのではないだろうか。


インドの「多彩さ」に触れると病みつきになる

ところで、インド圏の女性に惹かれて戻ってこれない理由がひとつある。

それは、女性たちの肉体、衣服、文化、見た目、ファッション、持っている小物、美的感覚、匂い、声調、肌の色、すべてが東アジアや東南アジアの女性と違っていることだ。

何もかも違っている。「違っている」というのは、日本人等の東アジア女性と違っているという意味だけではない。

同じインド圏でも、あきれるほどの女性のバリエーションがあって、ひとりひとりが何もかも違うのである。

インドは広大な大陸で、北と南では文化も人種もまったく違っているので、そういった違う人種がすべて国内でめちゃくちゃに混ぜられていて、膨大な「異種」の人間を生み出している。

最初、インドの神がなぜ、たくさんの顔や手があるのか分からなかったが、インドをさまよいながら、ひとりひとり「極端に違う」のを見て分かったような気がした。

インド人は、人を見て「人間とはたくさんある」というのが子供の頃から脳裏に刻み込まれている。

だから、神を描くときは潜在的に「たくさん」が強調され、顔も手もたくさん描かれるのではないかと思ったのだった。

よくニューヨークは「人種の坩堝」と言われる。しかし、それは混ざっていない人種を指している。

インドも人種の坩堝だが、インドとニューヨークが違うのは、インドの場合は人間がまとめて交配して混ざった状態で違っているということだ。

混ざるというのは、当然、青い瞳も緑の瞳も黒も茶色も全部混ざるわけで、それが多彩なインド人の印象をさらに多彩にする。

コルカタの女性は多くがベンガル人だが、ベンガル女性の中にもドキリとする女性がいる。

顔は普通のベンガル女性のはずなのに、瞳の色が緑色だったりすることがあるのである。ベンガル女性の瞳の色は、一般的に明るいブラウンだ。

それが、たまに違う瞳の女性がいたりする。もちろん、数としては多くないのだが、日本人のように全員が全員「単色」ではないところが興味深くて仕方がない。

そういったインドの「多彩さ」に触れると、もう病みつきになって戻ってこれない。瞳でさえ、同一でない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120511T0348550900.html

いったい何という混沌なのか。インドが理解できなくて当然だ

インドには完全完璧なまでに無学で、野獣のように粗暴な人間がいる。しかし、その一方で世界でも有数の知的レベルを持ったハイテクに強い人材を莫大に抱えている。

インドには女性にアシッド・アタックするような残虐な人間がいる。しかし、その一方で生き物すべてを敬い、虫すらも殺さない完全菜食主義のジャイナ教を信奉するような優しい人たちも莫大に抱えている。

インドには売春地帯があちこちに存在していて堕落した男も大勢いる。しかし、その一方で完全に禁欲してしまった瞑想者や、享楽を悪とする仏教徒も莫大に抱えている。

インドには、極端なものがすべて同時に存在して、完全に混沌としている。

カレーの中には多くの種類のハーブ(香辛料)が混ぜられてそれがひとつの味を醸し出す。インドではこれを「マサラ」と呼ぶ。

インド社会は、まさにいろんな「違うもの」がひとつの鍋の中に詰め込まれた「マサラ」なのである。


果てしのない饒舌さと、完全なる沈黙

インドはハードな国だ。最初は、あの猥雑さと混乱と喧騒に、とても馴染めなかった。

貧しい人たちの必死の生き様に巻き込まれたりすると、それだけで精根尽きるような疲労感を感じた。

いつだったか、知り合ったインド女性と話をしていたことがあった。

彼女の口調は、一方的で、激しく、そして確信的だった。それが、延々と続く。それは、もはや閉口を通り越して、困惑すら感じさせるものだった。

彼女は英語に堪能というわけではない。

単語にヒンディー語が混じり、かつ、インド独特の「r」まで発音する単語読みや、インド独特のイントネーションも、すべて混じっていた。

流暢な英語も分からないが、あまりにローカルな英語もまたつらい。途中で何を言っているのか分からなくなる。

しかし、その饒舌さに、もう聞き返したり内容を把握しようとする気力すらもなくなってしまう。だから、インドを出るときはいつも疲れ果てていた。

饒舌は、大部分のインド人に共通するところがある。

しかし、よくよく思い出してみると、まったくその逆に、言葉が話せないのではないかと思うほど寡黙な人の存在もあった。

それは、まるで自分の存在を消し去ろうとしているかのような、病的なまでの寡黙さだった。インドには、そういう人もいるのである。


私がインド人らしいとイメージするインド女性。確かにインド人らしいとは思うが、彼女とはまったく異なる人種のインド女性も莫大にいる。


インドでは神まで混沌としている

インドは何から何まで極端だ。猥雑で、混乱している。しかし、それが一種の無法地帯のような自由さを醸し出して、中毒のような気持ちを生み出す。

インドは麻薬だ。一度でもインドにとらわれると、もう二度と逃れられない。インドという国そのものが、「放浪者の麻薬」にもなっている。

中毒になってしまって、一生インドがつきまとう。

常に両極端なものが存在するから、その両極端がたまらなく面白い。そもそも、インド人が信奉する神まで混沌としている。

インドで美と豊穣の女神パールバティなどは、まさにインドを象徴している神だ。インドの混沌を思い出すときは、いつも女神パールバティを思い出す。

パールバティは、美の象徴だ。
しかし、怒ると凶悪な神ドゥルガーに変異する。

さらに怒髪天を衝くような怒りにとらわれると、もはや地球をも破壊してしまうような真っ黒な異形神カーリーとなっていく。

美の象徴が、凶悪と破壊の象徴と結びついている。

美が割れると中には凶悪が入っており、それが高じると、さらに割れて中の破壊神が出てくる。

美しさと凶悪さが同居している。


パールバティ。美の化身。しかし、この女神が怒ると真ん中からふたつに割れて、怒りの神や破壊の神が出現する。


一国多文化で見識がガラリと変わる

日本は「あ・うん」の呼吸がある国だ。黙っていても相手の考えていることが読めるのが日本社会の美徳であると言われている。

それは裏を返すと、相手も自分と同質だから、考えが読めるということになる。

もっとも、最近は同じ日本人同士でも、話が通じない異質な世界に住んでいる人も増えたが、基本的には日本人は協調し、同質化する。

「誰もが同じ」
「異質を嫌う」
「同じことで安堵する」
「似たような考えでまとまる」
「相手と違うことはしない」

つまり、全体的にみれば、「みんなが右を向けば右」で、「みんなが左を向けば左」の国である。

日本のようにベクトルが常に同じ方向を向く国民性は、それが当たったときは強い力を発揮する。1950年代からの高度経済成長期はそうだった。

しかし、目指している方向が間違っていると、みんなまとめて浮かばれない。戦前の軍国主義時代がそうだった。

良くも悪くも、日本は「一国一文化」の特徴を持つ。


インドは完全なる「一国多文化」だ

だから、日本を見るのと同じ目で、インドが「一国一文化」であると思って見ていると、まったく分からない国になってしまう。

インドは完全なる「一国多文化」だ。

言葉も、文化も、宗教も、人種も、哲学も、何もかもが完全にバラバラで、同じインド国内でも隣の村でさえ言葉が通じない。

美意識ですら違う。太っている女性が美しいと思い込んでいる人もいるし、痩せている女性が美しいと思い込んでいる人もいる。

書き言葉も、ヒンディー語と、タミル語と、ベンガル語と、ウルドゥー語では、まったく違っている。

こんな国だから、インドとはいったいどんな国なのだとイメージがつかめずに悩む人がいてもおかしくない。

私も、インドという象の尻尾しかつかんでおらず、まだ鼻すらも触ったこともないと言える。

インドは「A」だ、と説明すれば、インドの中にある「B」も「C」も「D」もすべて取りこぼす。では「B」だと説明すれば、「X」も「Y」も「Z」も取りこぼす。

だから、インドについてよく分からなくなっても、分からない国がインドなのだと開き直るくらいでちょうどいいのかもしれない。


インドがどれだけ混沌としているのか

ちなみに、インドがどれだけ混沌としているのかは、ヒンディー語、英語以外の公用語を見れば分かる。

・アッサム語
・ベンガル語
・ボド語
・ドーグリー語
・グジャラート
・カンナダ語
・カシミール語
・コーンカニー語
・マイティリー語
・マラヤーラム語
・マニプル語
・マラーティー語
・ネパール語
・オリヤー語
・パンジャーブ語
・サンスクリット語
・サンタル語
・シンド語
・タミル語
・テルグ語
・ウルドゥー語

これ以外にも500万人以上の人々に話されている言語が16種類ほどある。いったい、何という混沌なのか……。

こういったものをすべて1つにして、「インド」というラベルを貼った国が、インドである。


マサラ(カレー)の中にはたくさんのスパイスが入っている。すべてまとめて、カレーというひとつの料理になる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120927T2313140900.html


インドに亡命することになったら、生きていけるだろうか?

インド圏をさまよったことのある人間なら誰もが思うのは、インド人の自己主張の強さである。

インド人の政治家も壇上に上がって演説を始めると、原稿も見ないで延々と1時間でも2時間でも話している。

政治家だけではない。ビジネスマンの押しの強さ、粘り強さ、交渉のうまさも東南アジアや東アジアのものとはまったく違う。

話していると、まるでクモの糸に絡め取られるかのようにやられてしまう。とてもかなわないと思う。


「謙譲の文化」と「自己主張の文化」

商売人だけならまだいいが、物乞いまで強い。

小銭では満足せず、抱えている子供がいかにかわいそうかを堂々と訴えて喜捨をするように「説得」してくるのである。

当然、女性でも性根が据わっていて、「金を出せ」と激しく突き上げてきて折れない。

東南アジアでは、このような激しい交渉をする状況はあまりなかった。タイの歓楽街の女性も常に金を狙っているが、それでもタフな交渉相手ではない。

彼女たちは男たちと直接対峙するような交渉はしない。もし、仮に客と激しい口論になったとしても、インド人の執拗さ、執念深さに比べると、明らかに見劣りがする。

それは、東南アジアには人と人が対立するのを嫌う「謙譲の文化」が根底にあるからだろう。

謙譲とは、「へりくだり、譲ること」と辞書にある。日本でもそうだが、「譲り合う」ことは美徳である。

譲り合うどころか「それは俺のものだ」と自己主張するのは、感情すらも制御できない未熟者であると考えられる。そして、それは恥ずかしいことだ、とも考える。

仏教思想の「悟りを開く」状態の対極にあるのが、自分の感情すら制御できない混乱の状態である。

だから、たとえ共産国家であっても仏教圏の影響が強い東南アジアでは、そんなみっともない姿を見せたくないと考えてしまう。

激しい自己主張や、金銭に対する際限のない執着も、悟りを開いていない証拠だと見なされる。


インドという国はひとつだが、中身はカオス

しかしインドは違う。

ヒンドゥーは戦う神、怒り狂って手のつけられない神、セックスにまみれた神に溢れている。

荒々しい原始の感情、人間の持つあからさまな欲望は、すべて神々に投影され、誇張され、神話のスケールに増幅される。何もかも剥き出しであり、直接的である。

そのような感情を剥き出しにした宗教が根底にあって、さらに「分断」が社会を覆っている。

カースト制度で分断された分かり合えない各階層、シヴァ派、ヴィシュヌ派、クリシュナ派、カーリー派……と、神によって違う文化と思想。

そこに混じり込む仏教派、イスラム派、シーク派、キリスト派という異教徒の思想。

また、異人種の侵入もまたインドの文化を細分化し、それぞれを異質なものにする。

イラン側から侵入して来たアーリア系という侵略者、中国・モンゴル方面から侵入して来たモンゴロイド系。そして南アジアに土着していたドラヴィダ系。

それぞれの民族は異なった歴史を持ち、異なった言葉を持ち、異なった文化を持つ。ひとことに「異なった言語」と言うが、主要な言語だけでも、数え切れないほどだ。

ヒンディー語、ベンガル語、テルグ語、マラーティー語、タミル語、ウルドゥー語、グジャラーティー語、カンナダ語、マラヤーラム語、オリヤー語、パンジャービー語、アッサム語、カシュミーリー語、スィンディー語、ネパーリー語、コーンカニー語、マニプリー語、サンスクリット語……。

つまり、インドとは恐ろしいほどの雑多な文化・思想・民族・宗教・言語・社会・階層を無理やりひとつに包括した国である。

インドという国はひとつだが、中身はカオスだ。完全に違う存在が凝縮されてそこにある。


インドでは女も男もタフな交渉人

だからこそ、インド人は生きるために自己主張しなければならなかったと言える。「自己主張の文化」だ。

単一民族であれば主張などしなくても、目が合っただけで分かり合える。「謙譲」の文化だ。

インドは単一民族でもないし、言葉も文化もバラバラだから、何も分かりあえない。だから、訴え、叫び、説得するのである。そういう世界だった。

これほどまでに違うものを抱えていると、分かり合うために、自分たちの特徴を主張しなければ、永遠に無視されてしまうだろう。

また、自分たちの民族や宗教が勢力を広げるという野望があるのなら、その利点を説き、圧倒するしかない。

相手に飲み込まれないためには、それぞれの個体が自らの生存を示すために、声高に権利を主張する。

そうやって長い時間をかけて、インドという国は主張する国になっていったと考えられる。

・自分の立場を「主張」する。
・生き残るために「交渉」を重視する。
・自らの正しさを「断言」する。

アメリカは移民の国であり、さしずめニューヨークなどは「人種のるつぼ」だと言われている。同じことはインドでも言える。インドもまた想像を絶する「人種のるつぼ」なのである。

だから、インドでは女も男もタフな交渉人になる。

決して折れないし、あきらめない。自らの利益を主張することにかけては、執拗で、強迫観念に取り憑かれているようにも見える。

いろいろな国を巡ったとき、旅人であった私は無意識に「この国に亡命することになったら、生きていけるだろうか?」と考える。

タイやインドネシアでは生きていけると思った。しかし、インドでは、生きていけない。彼らと対等に駆け引きする能力は自分にはない。

あなたはインドで生きていけるだろうか。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120708T0007210900.html


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紀元前2500年頃、ペルシア(現在のイラン)に定住していた遊牧系のアーリア人種がドラヴィダ人の支配する地域に侵入した。そのとき、ドラヴィダ人のセックス観と性の放縦ぶりに、やってきたアーリア人は仰天したという。

ヴェーダ聖典によれば、セックスの自由は完全に許されており、男も女も気に入った相手を自由に選び、自由に取り換えていたのだという。結婚という概念は、地域によってあったりなかったりした。女性が妊娠して子供を産むと結婚するカップルもいた。しかし、そうでなければ、女性は子供を捨てて、別の関係を結ぶようにしたようだ。

ドラヴィダ人の信仰していた原始ヒンドゥーは、女性を讃え、賞賛し、そして崇拝した。つまり、女性は尊い存在だった。


白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる

しかし、アーリア人はそうではなかった。彼らはゾロアスター教を信じていたが、その宗教は極めて倫理的で天国や地獄の概念を持ち、預言者や終末論の思想があった。

現在、預言者・終末論と言うとすぐにユダヤ教・イスラム教・キリスト教を思い浮かべるが、ゾロアスター教がそれらの宗教に影響を与えていたという学説がある。

その家長的な宗教を持つ遊牧民族アーリアがインドに侵略を開始してから、インドに土着していたドラヴィダ族は次第に追いつめられて南部へと押し込められていく。その過程で膨大な混血と宗教的な融合が起きて、インド・アーリア族とも言うべき混血民族が出来上がった。

インド人とは異なる民族と血が混じり合った人種だ。その混じり具合にもグラデーションがあって、それがカーストとしての身分制度につながったと見られている。

侵略戦争に勝利したのはアーリア人であり、彼らは人種的には白人か、白人に近い特徴を持っている。ドラヴィダ人は黒い肌を持ち、黒人に近い特徴がある。そこで、侵略に打ち勝ったアーリア人の「白肌」は高貴なものと見なされるようになり、侵略されたドラヴィダ人の「黒肌」は唾棄すべきものと決めつけられた。

ボリウッド映画に出てくる主人公たちを見れば分かるが、主演の男女はみんな白い肌の美男・美女ばかりだ。いまだにアーリア色が強いものであることが分かる。

白肌信仰は、潜在的にアーリア系崇拝になる。くだらないボリウッド映画がインド文化に根付けば根付くほど、インド人は意識的にも無意識にも洗脳されて、白い肌をさらに尊ぶようになる。

ドラヴィダ系の血筋を色濃く残した女性。肌が黒く、黒人種の特徴を多く残しているのが特徴だ。

ツァラトゥストラは何も語らないほうが良かった
白い肌にそれほど意味があるのかどうかは疑問だ。

しかし、近年の歴史は白人が有色人種を支配してきた歴史なのだから「白人の優位性」は、どこの有色人種の国でも見られる傾向だ。

当然、宗教や文化にもやはりアーリアの思想が優位になっていくのだが、それはゾロアスターをも取り込んだヒンドゥーの思想にも反映されていった。

今の社会はユダヤ・キリスト・イスラムの影響が世界の隅々にまで浸透していて、それらの宗教の作り出す文化がグローバル社会によって画一化されている。したがって、放縦な性的関係は批判されるものになるし、無批判に結婚制度や一夫一婦制を受け入れなければならない。これらの呪縛から逃れようとした女性は、「売春婦」だとか「淫売」だとか呼ばれて蔑まれる。

もしドラヴィダ人が世界を征服していたら、人類の性に対する考え方は、今とは180度違うものとなっていただろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0318320900.html

2012-06-29
色(ヴァルナ)。黒い肌は人間的に劣る人間だと制度化された


インドの女性は「黒」が嫌いだ。

インドの肌の黒い女性は、自分の肌を嫌悪している人もいて、男が「黒い肌が好きだ」と言うと、自分の肌が黒いにも関わらず、必死でその意見が間違っていることを諭そうとする。

「白い肌が美しいのよ。黒い肌は美しくない」

インドでは「色」のことを「ヴァルナ」と言うが、このヴァルナは容易に肌の区別に結びついて、それが最終的には人種差別にまで行き着く。

すなわち、黒い肌の女性は劣っており、ロー・カースト(最下層)であり、醜い女性であると社会通念として通っている。

白肌に価値があると洗脳するかのようなCM

インド女性は顔貌(かおかたち)が美しい人が多い。とくに横顔を見るとその端正さが際立って目を離すことができない。

インドの男たちも自国の女性は東アジア(中国・韓国・日本)の女たちよりも美しいと言って憚らない。

もちろん個人差はあるので美醜の比較は一般論でしかないが、それにしてもインドの美しい女性は、世界中の美しい女性を圧倒的に引き離していて足元にも寄せつけない。

しかし、それでも肌の黒い自国の女と白い肌の東アジアの女がいたら、肌が白いというだけで東アジアの女性と一緒になりたいという男は多い。

白い肌は彼らの中では崇拝に値するものになっている。

女性もそれを知っているので、インドではやたらと美白化粧品が売れる。

たとえば、「Fair & lovely」という化粧品がインドにあるのだが、このコマーシャルは露骨だ。

黒肌で自信喪失の女性が見る見る白い肌に変身して輝く笑みを浮かべるのである。

あるいは、白い肌になったら注目されて成功して幸せになるようなコマーシャルが恥も外聞もなく流されている。

テレビに出てくる女性も、コマーシャルに出てくる女性も、映画に出てくる女性も、みんな判を押したかのように「白肌」だ。

インドは白い肌の人々だけが住んでいるのかと思わせるくらい、白肌俳優の採用が徹底していて、それがボリウッド映画が「夢うつつ」のような下らない内容のものにしてしまっている。

歌あり、踊りあり、シリアスあり、ドラマあり、アクションあり、サスペンスありでも、「真実」だけがない。それが、あまりに「黒」を排除するからだという遠因もある。

白肌崇拝を煽るコマーシャル。白い肌であることが重要であると洗脳するかのようなコマーシャルである。


黒は嘲笑の的になった

インドはインダス文明の担い手だったドラヴィダ族(黒肌)が、アーリア族(白肌)に征服されていく過程で生まれた国である。

アーリア族(白肌)はどドラヴィダ族(黒肌)を屈服させたあとに、肌で身分を分けた。

白肌は崇高で高貴であり、黒肌は劣っていて価値がないという身分制度である。ヴァルナで分けられた身分制度だ。

それをカーストと呼んで社会に定着させて、黒という色は「醜い」という意味を持たせるような徹底ぶりだったから、アーリア族の悪質さが分かる。

とは言っても、アーリア族はまったく躊躇なくドラヴィダとの混血を進めたから、もしかしたら実際には黒肌が劣っているとは思っていなかったのかもしれない。

本当に黒肌が「醜い」と思っていたのであれば、彼らと交わることなどなかったはずだ。

歴史はその逆の結果を見せつけている。インドほど白肌と黒肌の混血が進んだ国家はない。

口ではあれこれ言いながら、アーリア族はドラヴィダ族の女性が美しかったのを実は知っていたのだろう。これも、建前と本音の乖離であって、結果がすべてを物語っている。

肌が白くなったら、とても注目されて人気者になれるというメッセージを露骨に主張するコマーシャル。


黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている

インドでもっとも注意を惹くヒンドゥーの女神にシヴァの妃であるパールヴァティーがいる。

パールヴァティーは「白肌」だ。しかし、怒りに駆られると額が割れて、ドゥルガーという女神が飛び出して来る。

さらにドゥルガーが激怒していくと、今度は正真正銘の「真っ黒の神」であるカーリーに変異していく。

これはパールヴァティー(白肌)からカーリー(漆黒)の順番で語られている。

しかし、歴史から見ると逆だろう。

ドラヴィダの黒がアーリアの男の血を受けて白肌になっていったのだ。

だから、パールヴァティー(白肌)がカーリー(黒肌)になっていくのは先祖帰りであって、元々は「黒」がルーツなのだということを如実に示している。

黒肌のカーリー(左)と、白肌のパールヴァティー(右)。

ドラヴィダ族は征服されたのだから、内心では怒り狂っているのは当然だ。

カーリーがいつも怒り狂っているのは、そういった歴史の悲哀がそこに静かに込められているのであろうと推測している。

黒は白に変えられた。そして、白は崇拝されている。

しかし、インド圏で白が美しいというのは、白い肌の人が歴史の闘争に勝ったからであって、それ以外の何者でもない。

白い肌の人々が負けていれば、白が醜いヴァルナになっていたはずだ。

民族が闘争に負けるというのは、その民族の持つ特質が否定されることでもある。たとえば、日本人が闘争に負ければ、日本人の持つ何らかの特性は嘲笑の的になる。

ドラヴィダは民族闘争に負けて、インドの大地でその肌の黒さが嘲笑の的にされた。ヴァルナ(色)でその嘲笑が制度化されて、インドの歴史は黒を否定した。

私ひとりが黒い女性が美しいと思っていても、当の黒い肌のインド女性がそれを否定する。それでも、私は「黒」が好きだ。

黒い肌の女性が美しくないなんて、いったいどこの誰が考えついた冗談なのだろう。黒い肌の女性も、美しい。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120629T2225080900.html

2010年3月3日水曜日
サンスクリット語の「ダルマ」はカーストを定着させた卑劣な言葉だった


サンスクリット語に「ダルマ」という言葉がある。これは「義務」や「業」と訳されるが、「義務」という言葉で覚えれば分かりやすいかもしれない。

何の義務かというと、自分の運命を受け入れて、その運命をまっとうする義務である。

インドで運命と言えばすぐに「カースト」を思い出すが、これにダルマを重ねると、何が言いたいのかよく分かる。

ダルマというのは、自分のカーストを受け入れてそれをまっとうする義務のことを言っている。


統治のダルマだとか、宇宙のダルマだとかは枝葉末節の部類であり、カーストを守るのがとても大切な「ダルマ(義務)」であるというのがダルマという言葉の言いたいことである。

ダルマを守ることは大切であると言われている。誰が言っているのか? もちろん上位カーストの人々である。

それぞれのカーストは異なるダルマを持つ。そして、それぞれのカーストが自分に与えられたダルマを果たさなければならない。

カーストには大きく分けると以下のようになっている。

僧侶(ブラフミン)
兵士(クシャトリア)
商人(ヴァイシャ)
農民(シュードラ)
ーーーーーーーーーーー
不可触民(ダリット)

上から順番に権力を持つカーストで、一番下の不可触民(アンタッチャブル)というのは、カーストすら属していないので「アウト・オブ・カースト」だと説明される。

生まれたときに子供は親のカーストを受け継ぐことになっている。

一番偉いブラフミンの子供はブラフミンである。そして、不可触民の子供は不可触民である。

身分が固定されている。

教育から待遇まですべて差別されて、どんなに優秀な子供であっても、不可触民であれば教育すら受けさせてもらうことはできない。

他のカーストは彼らと接するべきではないとされていた。だから、「触ることが不可な民=不可触民」なのである。

上位カーストは、誰であっても不可触民が用意した食べ物や飲み物を食べることを禁じられた。

いや、不可触民が触った食器すらも忌避されたし、不可触民を見ることすら「穢れる」とされたのである。

マヌ法典というものがそれを詳細に記しており、このマヌ法典こそがダルマ(義務)を説いているのである。

カースト制度で読み書きが許されるのはブラフミンだけである。

日本人なら、これが「士農工商、穢多非人」という身分制度を持っていた江戸幕府のことを思い浮かべるかもしれない。

まさに江戸幕府はインドのカーストを参考にして作られた制度である。不可触民は、穢多非人と同様の立場になる。

カーストは人間を「人間ではない」という制度である。ダルマはそれを受け入れてその立場を守る義務を果たせ、という意味である。

ダルマという言葉は、身分を固定させるために考えられた卑劣な言葉であることが窺える。
http://www.bllackz.com/2010/03/blog-post_03.html

2012-07-05
憎しみが転化して生まれた最凶・最悪の女神カーリーの秘密

カーリー女神は、殺戮と血の神である。ヒンドゥー教の中でもっとも凶暴で、もっとも手の付けられない女神である。インド・コルカタで中心に信奉されている。

カーリー寺院では山羊がカーリー女神の生け贄として屠られるが、それはこの血を好むカーリー女神を鎮めるためなのだと言われている。

ある神話が残っている。

かつて、アスラ(阿修羅)族の悪魔が神々に闘いを挑み、その悪魔が神々に打ち勝ったことがあったという。そのせいで、神々が天界を放逐されてしまった。

殺戮の女神カーリーの伝説

神が天国から追い出されてしまったのだから、これは大変なことになった。神々は困り果て、そこでシヴァ神に救いを求めた。

シヴァ神の怒りと神々の憎悪は、やがて光となってひとつの形に結晶した。それが、ドゥルガーだった。

ドゥルガーは、シヴァの妻の身体が半分に割れて出てきたと言われている。

さらにこのドゥルガーが変異したのが、この世に並ぶべくもないほど凶暴な女神カーリーだった。

カーリーは「黒」という意味がある。

憎悪が結晶して生まれたこの女神の肌は真っ黒で、手には肉塊を切り刻む円盤、三叉の杖、肉切り包丁、そして人間の生首を持つという異形ぶりだった。

憎しみから生を受けたカーリーは、アスラ(阿修羅)に戦争を挑み、彼らを殺し続けた。

カーリーは残虐だった。腰には殺戮した死体の腕を巻き、手には血まみれの杯を持ち、首から髑髏を巻きつけた。

カーリーは高笑いを上げ、敵を次々と喰い殺した。

そして、ついにアスラを全滅させたにもかかわらず、カーリーの暴走はとまらない。

殺戮する相手を求め、死体を求め続けるカーリーだったが、殺す相手がいなくなり、勝利のダンスを狂気のように踊り始めた。

大地を踏み叩くそのダンスはいつまでも続き、世界が振動して壊れそうになった。

とめようとしてもカーリーは聞く耳を持たない。そこでシヴァ神はやむなく彼女の下にくぐり、カーリー女神が踊りをとめるのを待ったのだった。

やがてシヴァを踏みつけにしているのに気がついたカーリーは、やっと正気に戻って踊りをやめた。彼女は照れ隠しに長い舌をペロリと出したが、それは血で真っ赤に染まっていたという……。

インド・ヒンドゥー教でも最凶・最悪の女神と言われる殺戮神カーリー。踏みつけにしているのはシヴァ。


神話の裏には、白人と黒人の戦争があった

神々を追い出す悪魔。暴走するカーリー。困り果てる神々。

伝説や神話には大抵、その民族の歴史が巧みに織り込まれていると言われている。このカーリー女神の神話もまた血の歴史が覆い隠されている。

インドは古来、ペルシア・イラン人の襲撃を受けて来た。ペルシア・イラン人は血統的に言うとアーリア系民族である。

アーリア系民族が思い浮かばなかったら、白人の現代イラン人を見て欲しい。彼らはアーリア族だ。

そして、そのアーリア系はゲルマン、アングロ、サクソン、ラテン、スラヴ、ギリシアを含んでいる。つまり、コーカソイド(=白人系)の民族である。彼らは伝説ではアシュラと呼ばれる悪魔である。

一方、インドに土着していた先住民は、白人ではない。南インドのドラヴィダ族を見ても分かる通り、ハム(=黒人系)の民族である。彼らが神話では「神々」になる。

つまり、ヒンドゥー教での伝説では、枝葉末節の細かい部分を全部はしょってシンプルに言うと、こうなる。

白人=悪魔。(アーリア系)
黒人=神々。(ハム系ドラヴィダ族)

カーリーの伝説は、この白人(アーリア)と黒人(ドラヴィダ)の血まみれの殺戮戦争が元になっているのである。

いくつかの符号がそれを象徴している。

カーリーがシヴァの系統で語られ、しかも肌の色が「黒」であるという事実は、カーリーがドラヴィダ系だったことを意味している。

一方、敵方はアスラ(阿修羅)という象徴が与えられているが、これはかつてアーリア族が信奉していたアフラ(アフラ・マズダー)を指している。

アーリア族の言葉で言う「H」は、ドラヴィダ族では「S」に転化して呼ばれるという事実を合わせると、「アフラ」はまぎれもなく「アスラ」である。


最後に白人が勝って、身分制度が定着した

読み替えると、この伝説は何が言いたかったのか。それはこういうことだったのではないかと言われている。

・先住民族として黒人(ドラヴィダ族)がいた。
・白人(アーリア族)の侵入してきた。
・黒人は戦いに負けて追い出された。
・憎悪の燃えた黒人が立ち向かった。
・白人たちを皆殺しにした。

恐らく、遠い遠い過去に、インドの大地でそういった戦争があったのだろう。それが、神話として残したのではないかと推測できる。

「カーリー」は、同じドラヴィダ族さえ眉を潜めるような激しい殺戮を繰り返したひとつの集団(軍隊)を指していたのかも知れない。

あまりにも凶暴すぎてドラヴィダ族さえも手に負えない状態になって、そこで指導者(シヴァ)に何とか事態を収めてもらったのではないか。

もちろん、神話であり、その真意については様々な解釈があるので、一様にそれが正しいかどうかは分からない。

しかし、そういう解釈が成り立つ事態が過去にあったことは間違いないようだ。

しかし、時代が新しくなるたびに黒人勢力は白人勢力に破れていき、やがてどこかの段階で完全に屈服させられてしまったのだ。黒人は奴隷化されたということだ。

黒人の信仰する土着信仰(アニミズム)は残ったが、白人はバラモン教というものを持ち込み、「白人は偉い。黒人は奴隷」という身分制度を徹底させた。(色(ヴァルナ)。黒い肌は人間的に劣る人間だと制度化された)

それはカースト制度として定着して、やがてはアニミズムとバラモンが渾然一体化したヒンドゥー教が生まれて、それがインドに定着していった。

現代インドはもはやドラヴィダ族とアーリア族とさらにモンゴロイド系が幾多にも混じって混血している。

互いに互いを引き離すことはできなくなった。

しかし、その血の中に、異質な血が戦争という猛烈な主張を繰り返して交じり合ってきた歴史を持っており、インドの人々はそれを忘れることは決してない。

戦争というのは、ひとつの集団が別の集団を暴力で持って叩きつぶす激しい「主張」だ。

そんな主張が過去に凄惨な形で行われ、神話という形態で現在にも語り継がれているところにインドがある。

この女神を奉るカーリー寺院では、現代でも山羊や鶏が生け贄として捧げられているが、かつては少年が生け贄にされていた。

人間の生け贄は1835年に禁止されたという。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120705T0338070900.html

2012-06-30
新郎60歳、新婦10歳。女性が「モノ扱い」される時代とは?

インドでは2005年〜2006年の調査で分かったことは、女性の約45%が18未満で結婚しており、そのうち約3%は13歳以下のときに結婚していたという事実だ。

実は、現在のインドでは18歳未満での結婚は法律で禁止されており、「幼児婚」は明確に認められていない。にもかかわらず、その闇の伝統は未だに地方で行われているのである。

女性の意思をまるっきり欠いた一方的なもの

幼児婚というのは、正式には新郎新婦揃って未成年の結婚を指すのだ。たとえば、織田信長は14歳のときに15歳の濃姫と結婚している。伊達政宗は13歳のときに、11歳の愛姫と結婚している。

当時は人生50年と唄われていて人の寿命はずっと短かく、医療も未熟だったから40歳も過ぎれば誰もがボロボロになっていた時代だった。

だから、10代の初めから半ばに精通や生理が始まってすぐに性交や結婚が行われたのはむしろ自然なことであり、生物学上ではむしろそれが自然だったかもしれない。

しかし、南アジアの風習としてはびこっている現代の幼児婚は、女性のみが幼児というものが多い。

そして、こういった幼児婚ではパキスタン・バングラデシュ・アフガニスタンでも珍しくない伝統として続いている。

そのうちいくつかは、新郎60歳、新婦10歳というような極端なものであり、女性の意思をまるっきり欠いた一方的なものであることを糾弾されている。

アフガニスタンではタリバンが、老戦士への「ご褒美」として少女を差し出したり、略奪してきた少女を無理やり花嫁に仕立て上げて妻にしてしまうような行為も未だに行われている。

そうでなくても、貧しい家庭が口減らしのために娘を早く結婚に追いやってしまう。

アフガニスタンの結婚風景。新郎60歳、新婦10歳。老人の冷めた目と、どこか無邪気な少女のコントラストは、とても痛ましいものがある。

アフガニスタンの結婚風景。こちらは、新郎が40歳、新婦は11歳。祝福すべき結婚なのだろうか?


平和と女性の人権は明確に比例している

極端な年齢差のある結婚で、女性が未成年どころかまだ初潮さえ迎えたのかどうかも分からないような少女である場合、そこで何が起きていると考えればいいのか。

伝統や文化で考えてはいけない。これは明確に女性が「モノ扱い」されているということの証拠である。

北朝鮮国境では中国の貧農がコメで脱北女性を買っているが、法が遵守されない時代になったとき、女性は「モノ扱い」にされていく。

アフガニスタンでも、南アジアでも、未だ女性がモノ扱いされているということなのである。

暴力がはびこる社会、イスラム原理主義が席巻する社会は、西欧が生み出した「人権」という意識は浸透しておらず、女性はモノ扱いにされる。

さらに、人間社会は平和と女性の人権は明確に比例していて、騒乱・内戦・戦争の時代になって行けば行くほど、女性は肉体的に虐げられ、暴力の標的にされていく。

戦争状態のときは、もっとも法が機能していないときだが、組織的レイプは往々にして戦争状態のときに行われる。これについては、さんざんダークネスにも書いてきた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120630T1808500900.html

なぜインドでは「自由恋愛など絶対に許さない!」となるのか

日本はもう数十年も前から自由恋愛で結婚するのが当たり前の世の中になっている。親が決めた相手と結婚する若者は、ゼロとは言わないが、ほとんどいないはずだ。

しかし、インドは延々と見合い制度が続いている。いまだにそうだ。これからもそうだと言われている。

その根底に「持参金制度」があるからだと言われている。インドでは「ダウリー」と言う。要するに結婚するとき、女性は「嫁ぎ先の男性にお金を持っていく」のである。

しかし、もちろん娘がそんなお金を持っているはずがないので、娘の親がお金を用意して持たせる。

ここにインドで「見合い結婚」が続く理由がある。なぜ、インドでは結婚相手を親が決める権限があるのか? 金を払うのは親なのだから、結婚相手を決めるのも親なのだ。

父親にとっては娘の自由恋愛など「もってのほか」

娘が3人も続くとどんな金持ちでも破産すると言われている。娘の結婚は親にとっては、ある意味「ひとつの悪夢」なのである。しかし、伝統だから、誰もそれに逆らえない。

これは「マヌ法典」で記されたものから解釈され、伝統化されたものだと言われている。

ちなみにこの「マヌ法典」は、カースト(身分制度)を規定し、不可触民という概念を生み出した問題の書でもある。その問題の書が、「娘は持参金を持ってこい」と書いている。

そこで、想像して欲しい。

あなたに、年頃の娘がいるとする。あなたはもちろん財産を持っている。自分が必死に働いて貯めた大切な財産だ。娘が結婚するとき、その大切な金を娘の結婚相手に渡すのだ。

場合によっては、どこの馬の骨とも分からない男に……。

父親であれば誰でも、自分の財産が、娘の選んだ訳の分からない男に渡って無駄に使われたいと思わない。

だから、しっかりした男を「娘の目」ではなくて、「自分の目」で推し量りたいと思う。

それが見合い制度だ。

つまり、ダウリー制度がある限り、父親にとっては娘の自由恋愛など「もってのほか」だということになる。

娘が勝手に恋をして勝手に結婚するなど、絶対に許せない。金が絡んでいるのである。とにかく、絶対に見合いで結婚させることになる。

また、娘夫婦が多少の喧嘩をしたくらいでは離婚も許さない。離婚した瞬間、ダウリー(持参金)が無駄になる。


インドでは法律よりも宗教・伝統のほうが優先される

インドで保守的な社会が崩れないのは、すべては金のやりとりがそこに絡んでいるからだ。

そう思えば日本人にも分かりやすいだろう。

日本でもダウリー制度が入っていれば、たぶん一瞬にして日本も保守的な社会になる。それは金の問題に直結するからだ。日本人の父親も、恋愛結婚など絶対に認めなくなるだろう。

「どこの馬の骨とも分からない男にやる金などない」と父親は叫ぶはずだ。

自分の大事な貯金が軽薄な男に渡ると思えば、世の父親は心配でおちおち眠ることもできなくなる。

逆に言えば、日本が恋愛結婚の社会でいられるのも、父親が財産を持って行かれるわけではないから「真剣になっていない」からだと言うこともできる。

もっとも、ダウリー制度を取り入れているインドでも、真剣に考えているのは、娘の幸せよりも自分の金かもしれないが……。

ダウリーの弊害は近年に入ってから盛んに取り上げられるようになり、1961年には廃止されている。

ダウリー(持参金)が足りないと言われて夫や夫の家族に虐待される女性が続出していたのだ。焼き殺された女性もいれば、切り刻まれた女性もいる。

あるいは、ダウリー目当てで結婚して虐待死させ、次々と女性を殺していた殺人鬼もいる。

「ダウリー死」する女性が社会問題化した。

しかし、インドでは法律よりも宗教・伝統のほうが優先される社会だから、奥深い農村に向かえば向かうほど因習が残り、ダウリーが優先される。

もちろん、ダウリーの習慣など間違っているのは言うまでもない。女性は、自分の意思で相手を決める権利がある。

女性は、自分の人生を金で換算されるべきではない。
女性は、自分の人生を伝統で決められるべきではない。
女性は、自分の人生を親の思惑で決められるべきではない。

インドの伝統は基本的に女性を不幸にしている。だから、インド女性自身がこれらの悪習から逃れ、伝統を打破していこうとする動きを見せているのはとても心強く思う。

虐待され、救出された女性。


ダウリーが少ないと言われて殺された女性。


激しい虐待で殺された女性。ダウリーが少なければ、こうやって虐待され、傷つけられる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20121109T0245310900.html

2012-09-26
ストーキングされ続け、最後に酸を投げつけられたインド女性

インド圏では自分の言うがままにならない女性をアシッド・アタック(酸攻撃)するという卑劣な犯罪が、何十年も前から延々と続いている。

バングラデシュでも、パキスタンでも、アフガンでも、イランでも、そしてインドでも、莫大な女性が酸を浴びせられ、顔面を破壊されているのである。

卑劣で、卑怯で、残虐で、おおよそ人間が考える犯罪ではない。

女性の容姿を完全に破壊し、その後の人生に激しい苦痛と恐怖を与えるこの犯罪が「珍しくない」とは、いったいどのような世の中なのだろうか。

苦境に陥っているアーチャナ・クマリ

2009年にアシッド・アタックされ、医療費が払えずに苦境に陥っているアーチャナ・クマリという女性が、インドの英字新聞「ザ・ヒンドゥー」で紹介されていた。

彼女は隣人から2年以上に渡ってストーキングされ、性的な嫌がらせを受けていたが、男を頑として拒み続けていた。

そして2009年11月12日のこと、男は歩いて彼女の家にやってきて、そして彼女に酸を浴びせたのだった。

言うまでもなく、インドの警察は被害者・加害者の力関係で事件を握りつぶしたり、なかったことにしたりする。

彼女の父親は教育もない一介の労働者に過ぎず、警察がまともに調査をするはずがなかった。また、警察沙汰にすることによって、さらなる報復を受ける可能性があった。

酸攻撃された彼女の治療のために、そして何よりも、さらなる攻撃を受けるのを恐れ、彼女の両親は傷ついた彼女をウッタール・プラデシュから連れ出してデリーに移った。

アーチャナ・クマリ。2年以上も男に付きまとわれ、性的嫌がらせを受け、最後にアシッド・アタックされた。


酸攻撃された証拠を書類として提出して下さい

彼女の両親は、傷ついた娘アーチャナ・クマリのために、持てる財産をすべて治療費に充てた。

入院費、医薬品代、検査代、治療費、交通費、生活費……。

彼女の母親が持っていた大切なジュエリーから何まで売り飛ばし、さらにあちこちから借金を重ねた。

そして、彼らは限界に達した。

政府に助けを求めると、資金援助を受けるためには「アシッド・アタックされた証拠を書類として提出して下さい」と言われて追い返されたという。

彼女が悲惨な姿になっているのはどうでもよくて、アシッド・アタックされたことが確実であるという証明書を出せというのである。

ところが、彼女とその家族はさらなる報復を恐れて身を隠しており、当時は警察によって十分な調査を受けていなかった。だから、書類が用意できないのである。

そして、彼女は新聞の取材を受け、自らの苦境を訴えることになったのだった。

効果はあったようだ。

政府はすぐにこの報道に反応し、「すべての女性が不当に苦しむことがないよう対処」することを確約した。

そして、彼女を専門の病院で治療を受けさせて、他の要求にも応えていきたいとしている。


躊躇なく女性に酸を浴びせる男が、山ほどいる

アーチャナ・クマリは当面は何とかなる。しかし、この物語は決してハッピーエンドではない。

彼女はアシッド・アタックの結果、どうなったのか。写真を見ても分かる通り、もう彼女の片目はまったく見えなくなってしまっている。

そして、彼女の左耳も聴力を完全に失った。彼女の顔半分は溶解し、彼女の身体もケロイドになってしまった。

これからも彼女は長い困難な治療を受ける必要がある。そして、どんなに治療を受けたとしても、完治することはない。失った容姿は取り戻すことができず、彼女は人生を失った。

女性にアシッド・アタックするというインド圏の卑劣な犯罪はこれで収束したわけでもないし、根本的な対処もまったくなされていない。

私が激しい怒りを感じるのは、こういった残虐なアシッド・アタックが、まるで日常茶飯事にインド圏では起きていることである。

以前、「ジーンズを履いた女性はインドの伝統に反している。見かけたらアシッド・アタックする」という脅迫が女子大学に掲示されて、大騒ぎになったという事件があった。(ジーンズの女性には硫酸テロをすると宣言するインド民族主義者)

日本の女性に「酸攻撃(アシッド・アタック)」と言っても、大半の女性はそれがどんなものだか理解できないはずだ。そんなことをする男はいないからだ。

しかし、インド圏には、何の躊躇もなく女性に酸を浴びせる男が山ほどいて、毎年毎年、何百人もの女性が犠牲になっているのである。

私は、これが許せない。

アシッド・アタックについては、このブログだけではなく、ダークネスでもしばしば取り上げている。

卑劣な男たちの狂気の犯罪が蔓延していることに、世界中の女性たちが声を上げてくれることを心から願っている。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120926T0324370900.html

インドはカースト制度の中で国が成り立っている。上位カースト(ブラーミン)は、不可触民(ダリット、アンタッチャブル)の娘たちを面白半分に好きなだけ犯しても罪に問われない。カーストを身分制度というが、私に言わせればそれは間違った訳語であって、正確には「差別制度」である。インドでは陰でこのようなことが囁かれている。

「不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいない」

なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか。理由を聞くと、あまりの恐ろしさに絶句する。

不可触民の娘なら何をしても警察は相手にしないので、男たちが道を歩いている不可触民の娘たちを好き勝手に集団レイプするからだという。もちろん、警察は動くことはないし、悪が糾弾されることはない。果敢に訴えた不可触民もいるが、家ごと燃やされて焼き殺されたりして凄惨な末路を迎えている。ほとんどが泣き寝入りになる。

ちなみにダリットはよく建物ごと焼き殺される。何もかも燃やしてこの世から消してしまいたいと上位カーストは思っているようだ。


生きたまま燃やされた不可触民の少女

顔は残っているが、身体は炭化している

輪姦されて殺されて焼かれた不可触民の姉妹

レイプされ、縛られ、焼き殺された不可触民の女性

性器から血を流しているので乱暴なレイプだったことが分かる


なぜこんなことになるのか。なぜなら、彼らは不可触民(アンタッチャブル)だからである。人間ではないと思われているのだ。不可触民は不可触民というカーストに属しているのではない。彼らはカーストにも属せないほど穢れている、すなわちカースト外(アウト・オブ・カースト)なのである。

この恐るべき差別の国で、売春宿がどういう実態になっているのかは想像するまでもない。売春宿の女性たちのほとんどが不可触民の女性である。カースト色が薄らいできたというのは、上位カースト(ブラーミン)だけの話である。


あらゆる悪が置き去りにされている

カースト制度はすでに過去のもので法的にも廃止されているはずだし、差別的言動は認められないはずだと言う人もいる。しかし、一週間もインドにいれば、それは単なる理想だったということが分かる。法律は機能していない。売春禁止法がどこの国でもまったく機能しない以上に、カースト廃止も機能していない。地方の村では相変わらずカーストに縛られて人々は暮らしており、それは今後も変革される見込みもない。

インドの人口は10億人を越えており、次世代を担う新興国と世界は持ち上げているが、そのうちの約5億人は貧困の中にある。その貧困が半端なものではない。

世界最大の売春地帯であるインド。神々が棲み、すべてが混沌とし、あらゆる思想と哲学が渦巻くこの国。

あらゆる性の技巧が記された古典「カーマ・スートラ」を生んだ国。

『ラ・マン』を生んだフランスの大作家マルグリット・デュラスの愛した国。

しかし、この国は今でもあらゆる悪が置き去りにされて跳梁跋扈としている。
http://www.bllackz.com/2011/01/blog-post_5583.html


2013-02-28
身分の低い人間は穢れていると考えるのが、身分制度の無意識


インドのカーストの最底辺の中の最底辺、カーストにすら入れないほどの身分の人間を「不可触民」と言う。英語ではアンタッチャブルである。

「触ることすらできないほど穢れた人たち」

そういう侮蔑が込められた恐るべき言葉が「不可触民」という単語に現れている。

インドでは売春女性が最下層のカーストであるのは意味がある。それは不道徳だからという理由もあるだろうが、他人にかなり密接に「触れる」からだ。

インドでは他人に触れるというのは「汚らわしい」と考える文化が根底にある。まして、カーストの低い穢れた人間など触りたくもないと思うようだ。

穢(けが)れ……。

「不可触民」というのも触れないほど「穢れて」いるのだという思想で定義された。

自分までもが汚れてしまうと無意識に考える

私たちは普通、「他人が穢れている」「他人が汚い」とは思わない。触りたくないという感覚も起きない。

それは、あまりにも当たり前のように感じるかもしれない。しかし、それは人間が平等であるという意識があるから感じないだけかもしれない。

人間には上下関係があって、自分より身分が下の人間は「劣っている」という傲慢な意識があれば、どうなってしまうのだろうか。

あまりに「穢れている」ので、そんな身分の人間を触れば自分までもが汚れてしまうと無意識に考えるのだ。

少なくとも、カースト制度の中のインド人は、そのように考えたようだ。

今でも程度の差こそあれ、そんな文化がインドでの暗黙の了解になっている。意識化されていないことも多いが、意識してそう語るインド人もいる。

だから、人に触ったり人の持ち物に触ったりしなければならない職業の人間は、最低ランクのカーストと見られるのは自然の流れだったのだろう。

他人の排泄物を扱うバンギー・カーストや不可触民が最低底のカーストと思われているのは、最も汚れたものである排泄物に「触れる」からだ。

そして、他人と肉体交渉することが仕事になっているような売春女性は、女性の中でも最も穢れていると言われている。

誘拐されて売春地帯に放り込まれ、救出されて村に戻っても、売春ビジネスをしていたということが分かったら、村人はこの女性を受け入れない。

彼女は、穢れてしまったからである。

売春地帯に堕ちた女性は、そこを抜け出しても村で受け入れてもらえないことも多い。


劣情の前には不可触民が「不可触」ではなくなる

売春ビジネスに放り込まれる女性は多いのに、いったん放り込まれると抜け出しても彼女は過去を清算することができない。

一度穢れると、今がどうであれ、すでに穢されて元に戻らないと社会が考えているからだ。

NGOが売春女性を救出して女性を村に戻しても、誰も関わろうとしないので生きていけず、仕方がなくまた売春ビジネスに戻る女性も多い。

売春というビジネスの中身を考えると、他人に触れることを無意識に嫌うインド人には「身の毛もよだつ」ことに違いない。

売春女性は他人に「触れる」どころか、男の肉体を自分の体内にまで侵入させるのを許さなければならないからだ。

しかも、1日に何人もの男を受け入れなければならず、それを拒むことができない。

必然的に売春女性は、不浄の極まった女、もはや清くなることはあり得ないまでに穢れてしまった女として扱われるようになる。

どこの国でも売春女性は存在を酷評されるが、インドは格別にそれがひどい。人権を認めるに値せず、もはや人間として扱う必要すらないとでも考えている。

しかし、皮肉な現実もある。

自分の欲望が抑え切れなくなると、「彼らは不可触だから何をしてもいい」と言いながら、ダリット女性の意志も無視して押し倒す男がいるのである。

ボロボロになるまで「不可触」の女性をレイプする警察官の存在もある。

つまり、劣情の前には「不可触民」が「不可触」ではなくなる。触ってもいいことになってしまうのだ。

インドが変わるのは、まだまだ時間がかかる

いったい、どういうことなのだろうか。

これは、別に難しい話ではない。本当は、男たちは誰も「不可触民に触れたら自分も穢れる」とは思っていないのだ。

ただ、そういうことにしておいた方が、最下層の人間を常に奴隷的に扱えるので都合がいい。だから、上位カーストの人間は思っているフリをしている。

現在でも、インドでは最下層の女性たちに対する性的虐待の事件が次々と起きている。国際ニュースになるほど事件が起きているのに、なぜ改善されないのか?

犯人を死刑にすれば状況は変わるのか?

無駄だ。身分制度(カースト)が、社会や、人々の心の中にある限り、最下層の人を見下したり、最下層の女性を見下す状況は変わらない。

また、身分制度とは別に、インドでは保守的な家長主義も浸透しているから、女性であること自体に身分に関係なく虐げられる現状もある。

下層カーストでなくても、女性は男に虐待されたり、虐げられたり、家庭内暴力を受けたりする。これが、インドの女性の置かれている厳しい現状だ。

インドの歴史は、そうやって苛烈な差別を内包したまま続いてきた。しかし、1992年からこの国は経済成長に向けて動き出しており、それから約20年近く経った。

インドはこれでも少しずつ変わりつつある。

しかし、未だ国民の6割が貧困層である現状を見ると、経済発展の動きはとても鈍いことが分かる。インドが根本的に変わるのは、まだまだ時間がかかるのだろう。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130228T0248220900.html


2012-07-31
人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち


人身売買されて売春宿に放り込まれ、精神を病んだ若い女性を知っている。

彼女は感情を失い、まるで小さな人形のようにイスに座り、ほとんど何もしゃべることもなかった。

何か問いかけても、彼女の声はほとんど聞き取れないほど小さく、人間としての生気が消えかけているように思えた。(コルカタの売春地帯で、デビーは人間性を叩きつぶされていた)

あとで彼女は拉致されて売春宿に放り込まれたのだというのを知ったが、猥雑で混沌としたエネルギーがうねっているようなインドの売春地帯で、彼女の醸し出す雰囲気はとても不気味なものがあった。

彼らはインドの中では人間扱いされていない

インドは自他とも認める「人身売買国家」である。他人の子供を拉致・誘拐して、売春地帯や組織に売り飛ばす職業の人間が存在していて、インド・ネパール・バングラデシュ全域をテリトリーにしている。

信じられないかもしれないが、子供が行方不明になるのは珍しい事件でも何でもなく、日本では重大な事件に発展するようなケースが警察に訴えても放置される。

なぜなら、誘拐される子供たちのほとんどが低層のカースト、もしくは不可触民であるからだ。

彼らはインドの中では人間扱いされていない。

上位カーストの男たちが下層カーストの娘たちをレイプするのは日常茶飯事だ。

思春期になって処女のままの下層カーストの娘はほとんどいないともいわれている。集団レイプが横行しているのである。(なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか)

そういえば以前、こんな事件があった。

下層カーストの少年が上位カーストの少女に恋してラブレターを送った。それを知った上位カーストの男たちは少年をリンチしたあげくに、少年の母親の目の間で、少年を走っている列車に放り込んで轢殺したのである。

凄惨な事件だが、インド人が聞いたら「そういうこともあるだろう」で終わってしまう。

なぜなら、下層カーストの男と上位カーストの女は「交わってはならない」文化になっており、それを破るのは命を捨てることだからである。


最悪の種類の排斥を受けて搾取され、虐待を受けている

インドではいまだに身分制度が堅牢であり、低カーストの人間は人間以下なのだから「豊かになる権利」すらない。

カーストにすら入る権利のない人間(アウト・オブ・カースト)の人間は、インドでは Sub-human であると言われているが、この言葉にインド人の信じるヒンドゥー教のおぞましさが潜んでいる。

Sub-human。人間以下。

低カースト、不可触民(ダリット)たちは、人間の形をしているが、人間ではないことになっている。

彼らは前世で罪を犯したので、今のような身分に生まれてきたのだと社会は定義しており、彼ら自身もまたそのように信じている。

そこに、ヒンドゥー教という宗教の恐ろしさがある。人間以下の人間がいることを、宗教が断言し、社会がそれに染まり、固く信じられているのである。

ヒンドゥー教は人間以下の人間がいると定義しており、ヒンドゥー教徒はそれを潜在意識にも刷り込まれて、社会全体で洗脳し合っている。

そういうわけだから、人間ではない「Sub-human」に人権などない。彼らの富はいつでも奪うことができるし、彼らの女性はいつでもレイプすることができる。

彼らの子供たちが拉致されても、人間ではないのだから、真剣に捜査する必要性すらないと信じられている。

インドが経済発展して貧困がなくなるとは恐れ入った概念だ。

確かに上位カーストは豊かになるだろう。立派な教育を受けたり、いい家に住むこともできるだろう。

しかし、低カーストの人間が果たしてその仲間入りができるかどうかは分からない。

もちろん、多少の例外は出てくるだろうが、圧倒的大多数は無視され続けるだろう。

文化的に彼らは抹殺されており、教育すら受けられないのだから、今のままでは救われることなどありえない。圧倒的大多数のスラムドッグはミリオネアにはなれない。

インドの売春婦たちの惨状をレポートしているNPOでは、このように嘆いている。

They live in sub-human conditions, are abused and exploited and their progeny suffer ostracism of the worst kind.

(彼らは人間以下の状況で暮らしており、彼らの子孫は最悪の種類の排斥を受けて搾取され、虐待を受けている)

インドの貧困地区の現状は、恐らくインドに行ったことのない欧米人や日本人の想像をはるかに圧倒するほどの劣悪さの中にある。

ムンバイのダラピや、コルコタのカリグハットの向こう側のスラムに足を踏み入れれば分かる。

そこに展開されている世界は、今もなおインドが激しい身分制度を内包したいびつな国家であることを示している。

人身売買はなくなるのだろうか。100パーセントの確率で私はなくならないと断言したい。人間ではない人間がいるという社会通念が南アジアの大地に根強く浸透している。

野良犬を捕獲するように、人間以下の身分の子供たちを捕獲して売り飛ばす悪魔や女衒が跳梁跋扈している。これは過去の話ではない。現代の話である。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html

インド社会が抱える闇 カースト制度、男尊女卑がもたらした恐るべき因習

 インドでは今、急激に凶悪なレイプ犯罪が問題となっている。しかし、これは過去から黙殺されていたものが明るみに出たに過ぎない。

 実は、インドでのレイプ犯罪は日常茶飯事。

夜中に複数の男に家に侵入され、

抵抗したら硫酸をかけられ顔を破壊された女性。

レイプ被害を警察に訴えても相手にされず、挙句の果てに犯人との婚姻を勧められて自殺した少女など。


しかも、加害者の男はお咎めなしで釈放される……。


これには、宗教的な思想が少なからず影響しているはずだ。

 インドでは、国民の約7割がヒンズー教である。ヒンズー教にはカースト制度という世界的にも有名な身分差別がある。大きく分けて以下の4階級からなっている。


1. バラモン(司祭)
2. クシャトリア(王族・武士)
3. ヴァイシャ(平民)
4. シュードラ(奴隷)

 そのほかに、カーストに属すこともできない人々がおり、その人々は「アチュート」、「不可触賎民(アンタッチャブル)」といわれている。この身分の人は、触れたり見たりしたら汚れる人々とされ、人間扱いされない。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」と呼んでいる。

「インド独立の父」と讃えられるマハトマ・ガンディーは、ヴァイシャ(平民)出身。ヒンズー教徒の彼は、最下層のダリットには同情的であったが、カースト制度自体をなくそうとはしなかった。なぜなら、カースト制度は、ヒンズー教の根底となる制度。ヒンズー教では、輪廻転生の概念があり、今の人生を一生懸命頑張れば来世で上の階層に行けるという教えがあるのだ。なので、カースト制度をなくすことは、ヒンズー教の信仰そのものを否定することになってしまうのだ。

 昨年11月には、小さな村に住む最下層のダリットの16歳の少女が3時間近くにわたり7人の男にレイプされた。男たちの1人がレイプの様子を携帯で撮影。その映像を村中に流され、それを見た被害者の父親は絶望し殺虫剤を飲んで自殺した。

 また、別の村の16歳のダリットの少女が、昼食を取ろうと畑から自宅に向かっていたところ、2人の男たちに別の家屋に連れ込まれ、レイプされた。叫び声を聞いた父親が現場に駆けつけたときには、男たちの姿はなかった。少女はその後、灯油をかぶり焼身自殺した。

 そのほかにも、ダリットの女性はレイプされたうえに、手足を切断されたり、火あぶりにされたり、人糞を食べさせられることを余儀なくされたり、悲惨な事件が後を絶たない。低カーストやダリットの女性に対するレイプは上位カースト男性の力を示すものであり、彼女らは常にレイプの危険にさらされているのだ。

 しかし、このカースト制度がもたらした影響だけが、レイプ犯罪を誘発しているわけではない。昨年12月にバス車内で起きた集団レイプ事件の被害者女性は中流階級のカーストだったといわれている。

 インドには、カースト制度がもたらすレイプ事件誘発以外に、強烈な男尊女卑が残っているのだ。

 未亡人殉死の恐るべき因習「サティ」。夫が死んで火葬されるとき、妻も火に身を投げて自殺することを強要させるというもの。これは近年まで続いてきた。

 さらに、女性が結婚する時に持参金を持ってくる「ダウリー」という制度。法的には禁止されているものの、まだまだ健在である。嫁から持参金を搾り取るために、虐待したり、充分でないと火をつけて焼き殺したりする場合もある。ダウリー殺人と言われる。

 こうした女性に対する暴力はインドで繰り返され、犠牲になる女性たちがどんなに多いことか。女性が危害を加えられたところで警察が動くこともなければ、裁かれることもない。女性に対して罪を犯しても罰せられないことがまかり通っているインド社会では、「女性に対していくらでも酷い虐待をしてもいい」という認識に繋がっている。

カーストが生んだインドの進歩

 ちなみに、カーストは親から子へ代々継承されるので、その家に生まれたら生涯カーストの階層を変えることはできない。ほかのカーストのとの婚姻は不可能。それぞれのカーストによって就ける職業にも制限があり、カーストの最下層は死体処理や糞尿処理など人の嫌がる仕事しか与えられないのが現状だ。唯一そこから逃げ出す方法が、新しい職業であるIT産業。インドでIT産業が急速に成長している理由には、実はカースト制度が深く関係しているのだ。ITと宗教とカースト制度。この3つが、今後のインドの行く末を左右していくのだろう。
http://news.livedoor.com/article/detail/7458790/  

2013-02-28
今でもインドでは排泄物を集める仕事しか就けない女性がいる

インドにおける非常に厳しい差別の実態はブラックアジア第三部のインド編でしばしば言及した。(ブラックアジア「第三部」)

この中で、ダリット(不可触民)と呼ばれる人たちが、私たちの目から見ると、信じられない差別の中に放り込まれていて、苦難の人生を歩んでいることも書いた。

たとえば、掃除や死体処理やトイレのくみ取りの仕事を強制され、それしかできない人たちがいる。(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)

これは昔々の話ではなく、2013年に入った今でも現状は変わらない。インドでは生まれながらにして、「トイレ掃除しかやってはいけない」というカースト(身分)があるのである。

インドの社会全体が、誰もやりたがらない仕事を下位カーストに押し付け、そしてそれを固定化させたのだ。

非人=人に非(あら)ず=人間ではない

ダリット(不可触民)は、日本人にも分かりやすく言うと、「非人」である。

江戸時代、日本も身分制度の社会にあって、それは士農工商制度と言われているが、その士農工商のいずれにも属さないカテゴリーも設定されていて、こういった人たちを「非人」と言っていた。

非人=人に非(あら)ず=人間ではない。

そういう身分を作っていた身分制度があったのだ。私たちは明治時代になってから誰が何の仕事をしても構わないようになったが、今でも「家業を継ぐ」という考え方が依然として社会に残っていることもある。

芸能や事業や政治のような「高尚」な分野では家業を継いだほうが楽して儲かるので、利権を守るために自然に「家業を継ぐ」という考え方になる。

金の儲かる仕事に就いている一族であれば、家業は継ぐべきものなのである。

貧困者にとっては家業を継いでも何も得しないので、家業を継がないことが多い。また、家業を継がないことが許される。

もし、これが許されなかったら、あるいは社会に身分を強制されていたら、日本の社会はこれほど発展しなかったということが分かるはずだ。

身分制度は捨てて正解だったのである。

しかし、インドではいまだカーストと呼ばれる身分制度が続いており、カーストによって下位カーストや不可触民に対しての差別が色濃く残っており、継承されている。


排泄物の処理を仕事とするインドの「不可触民」

AFPがこの排泄物処理をしているインドの女性たちの短い特集をユーチューブに上げているので、ここでも紹介したい。いまだにこのような現状にあることがよく分かる映像だ。


映像では、NGO団体が彼女たちを救い出そうと努力している姿が映し出されているが、50万人以上の女性がここで救い出されるわけではない。

インドの闇では依然としてこのような女性たちが差別されたまま放置されて、現状の改善はなされない。

そして、もっとひどいことに、このような仕事に就いている家庭で娘が生まれると、若いうちからレイプされてしまったり、売春地帯に売られることも日常茶飯事のように起きる。(なぜ、不可触民(ダリット)の娘たちは処女がいないのか)

コルカタの売春地帯に売られてやって来た女性たちのうちの何人かは、このようなカーストから来た女性たちである。現実は、この映像よりもはるかに沈鬱で救いがない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130228T0037110900.html


インドの売春地帯に売られ、性奴隷にされていくネパール女性の悲劇

エベレスト山に興味を持つ人はいても、ネパールという国に興味を持つ人は少ない。この国はとても貧しい国で、大抵の人はインドの属州みたいなものだと思っているし、事実そういうところはある。

ネパール女性にとっては殊さらそれは重い意味を持つ。

私が今まで見てきた中でもっともひどい状況に置かれていると思ったのはネパール女性の人身売買だ。

インドのムンバイとコルコタ(カルカッタ)は、インドで有数の売春地帯を抱える地区だが、ここで廃人のようになっている女性の多くがネパールから来た女性だった。


性奴隷、と彼女たちは呼ばれている

どの女性も非常に荒んでおり、喘息やHIVに侵され、皮膚はボロボロになっている。

BBCが報道した内容で、インドからネパールに戻っていく女性たちの38パーセントはエイズに罹っていたという内容もあった。

ちなみに、14歳以下の少女であればエイズ感染率が60パーセントに跳ね上がる。

なぜなのか。それは一時インドで、エイズに罹ったら若い処女を抱けば治るというシャーマニズム治療が信じられて、ネパールの少女が買い漁られた結果でもある。

そうでなくても、インドでは白い肌の女性は魅力的だと思われているので、モンゴロイド系のネパーリーは売春地帯でもよく売れている。それだけエイズ感染率が上がってしまうのだろう。

真夜中に売春地帯を歩いて見ると分かるが、彼女たちの目つきは凶悪で邪見で道行く男たちに親近感などまったく持っていない。憎しみの気持ちがその目つきや威嚇の態度で読み取れる。

彼女たちは売春ビジネスを自ら行っているわけではなく強制されているのだから、やって来る男たちに愛着を持つはずもない。

NPO団体は彼女たちの境遇を「性奴隷(セックス・スレイブ)」と呼んでいる。ムンバイの売春婦の25パーセントはネパーリーだという報告もある。

CNNが取材したあるネパーリーは、9歳のときに一日60人の男を相手にしたということだった。このような未成年のネパーリーはインド圏の売春地帯ではどこでも見る。

ムンバイのフォークランド・ストリート(売春ストリート)でも売春宿に匿われていた少女がいる。

この通りの端には交番のようなものがあって、警察官が定期的に見回りをする。警察官の姿が見えると彼女たちは売春宿の管理者に天井裏に押し込められるのだった。ずっと表に出してもらえない少女も多い。

あと、この界隈の売春宿はほとんどが突き当たり奥が浴室(というよりも単なる水が使える空間)になっているのだが、電気もない暗い一室に押し込められている少女もいた。

一度私は何も知らずにドアを開け、水場の暗闇の隅でひとりの少女が佇んでいるのを見て驚いたこともあった。


フォークランド・ストリート
真ん中に立っているのは客待ちの娼婦

ムンバイやコルコタの売春地帯にいる女性のほとんどがプロのブローカーによって人身売買されたか、誘拐(キッドナップ)の被害であると言われている。

ネパールでは人身売買のブローカーたちが暗躍していて、若い女性が次から次へと売り飛ばされている現状がある。

地理的に見ると、ネパールからは、インドのニューデリーがもっとも近いが、彼女たちの多くはボンベイに供給される。

それはボンベイがインドでも最悪の売春地帯が存在しているというだけではなく、ネパールから距離的にも遠いことが人身売買には都合が良いのである。

どこの国でもそうだが、売買や誘拐された女性は、逃亡の気持ちを失わさせるために、彼女たちが暮らしていた国や場所から遠ざけられる。

遠ければ遠いほどいい。ネパールではヒンディー語を解せない女性も多いから、インドという異国に連れて行かれると、もはや為す術もない。

コミュニティを断ち切り、距離的にも遠いところに隔離すればするほど女性たちを絶望に追いやり、あきらめさせることが容易になる。


横行する人身売買業者

人身売買のブローカーは私も会ったことがある。そのひとりは平気で女性に暴言を吐き、殴り、私にも「日本の女を連れてきたら買う」と言うような男だった。

このような男は見るからに悪人であり、ある意味で危険を避けられる。

問題は別の種類の男だ。仮面をかぶることに長けている演技派の人間が恐ろしい。彼らは、そのビジネスをしている人間のわりには非常に「誠実」に見える。

にこやかな笑みを絶やさず、こちらの目をしっかり見つめて話をする。コルコタでそのような男と会ったことがある。

もし彼と別の場所で会ったら、彼がそんなビジネスをしていると知っても信じられなかっただろう。

彼のような人身売買ブローカーは、清潔な服装を心がけ、誠実に振る舞い、貧しい村の女性と自然に恋に落ちた振りをして、両親と会って結婚式を挙げさえする。

しかし、すべてが偽りだ。やがて、新婚旅行と偽ってムンバイやコルコタに連れて行き、結婚したばかりの自分の「妻」を売り飛ばす。

2010年11月、西ベンガル州で女性を売春地帯に売り飛ばす仕事をしていた27歳の男が逮捕された。


この男は貧しい女性に近づいては結婚して女性を新婚旅行か何かに連れて行くのだが、その行き先がインドの売春宿だった。5年間で60人もの女性を売春宿に売り飛ばしていたという。

このような男がインドには何千人もいて、しかも手口やテクニックが男たちに継承されている。人身売買の歴史もある。社会がそのシステムを組み込んでいる。

警察も売春宿の経営者も全員がグルになっているので、女たちは逃げようがない。

インド・ネパール・バングラデシュの広大な大地で、貧困を背景にした壮大な人身売買の横行が、まったく是正されないまま今日に至っている
http://www.bllackz.com/2010/01/blog-post_25.html


06. 2013年9月13日 13:08:57 : W18zBTaIM6


「魔女狩り」被害に遭う下層民の女性たち 2010年02月11日


【2月11日 AFP】ネパールの首都カトマンズ(Kathmandu)から南へ40キロのピュタル(Pyutar)村で、カリ・ビスウォカルマ(Kalli Biswokarma)さん(47)は、「魔女」であることを白状しろと、近所の人々から2日間にわたり拷問を受けた。

 1児の母親であるカリさんは、カースト制度の枠外に置かれる最下層民「ダリット(Dalit)」の出身だ。

事の発端は、ある教師が病気になったことだった。

家にいたところを35人ほどの村人たちに連れ去られ、牛小屋に閉じ込められ、

「(教師に)魔術をかけただろう」

と責められながら殴る蹴るの暴行を受けた。
さらに、人間の排せつ物を食べることも強制された。
次の日にはナイフで傷つけられた。


「もう拷問には耐えられなかった。命だけは助かろうと、魔女であると告白しました。自分が貧しいから狙われてしまったんです」(カリさん) 

 ネパールでは、毎年数百人のダリット女性が同様の被害に遭っていると見られる。

この国では迷信およびカースト制に基づく差別が根強く、大半のコミュニティーが厳格な父権社会のままだ。

 ヒンズー教に基づいた君主制国家から現代的な世俗国家に移行するなか、政府は今年を「女性暴力撲滅年」と宣言している。しかし困難な道であることは政府も認めている。


■「女性」と「下層民」がネックに

 女性の権利向上を目指してキャンペーンを展開する地元団体によると、女性が魔女の嫌疑をかけられて近所の人から拷問を受けるという事件はこの2年間で少なくとも82件にのぼっている。しかし、家族と共同体から見放されることを恐れて名乗り出ない人も多いため、この数字は氷山の一角と考えられるという。 

 ネパールの法律は女性への暴力を禁じているが、この団体によると、犠牲者が下層民の場合は法律が適用されることはほとんどないという。

 専門家らは、魔女に関する迷信は、女性に暴力を振るうための口実に過ぎないことが多く、標的はほとんど毎回、下層民の女性に落ち着くと指摘する。

 先のカリさんは、カトマンズの避難施設で過ごしたあと、村に戻ってきた。

「魔女」の烙印(らくいん)は消えたわけではない。

「わたしを拷問した何人かがまだ村にいるので恐怖です。
尊厳は失ってしまったけれど、希望を捨てたわけではありません。
正義のために戦います」
(c)AFP/Deepesh Shrestha
http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2693601/5287891


07. 中川隆 2014年6月03日 20:20:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

ずいぶん改善されてきたとは言われているが、未だに現実に起きている苛烈な差別がある。ダリットと呼ばれる人たちへの差別だ。

「前世は犯罪者だ」と生まれたときから言われ、「だから差別されて当然なのだ」と結論づけられた人。それが、ダリットである。

もしあなたがダリットの女性として生まれていたら、生まれながらにして両親は虐げられ、嘲笑されているのを見て育つ。家は極度に貧しく、仕事もなく、いつも飢えている。

そして、年頃になると、突然知らない男たちに拉致されてレイプされる。しかし、誰も助けてくれない。ダリットの女性はレイプされてもしかたがないと社会が思っているからだ。

抵抗すれば殺される。手足を切断されたり、生きたまま燃やされたり、アシッド・アタック(酸攻撃)されたりする。警察も犯人を捜してくれない。

なぜなら、ダリットだからである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html

インドでは警察が異様なまでに腐敗していて、警察を相手取った告訴が毎年約6万件もある。

そのうちで逮捕される警察官は20人や30人でしかない。告訴の半数以上は「根拠がない」という理由で却下されている。

どういうことか。警察官が行ったダリットに対する拷問や、暴力、不当な鞭打ち、レイプは、闇から闇へと葬られているということだ。

警察官はブラーミンと結託しており、ダリットがブラーミンを訴えると、訴えたダリット自身が二次被害に遭う。

ブラーミンに対する告訴を取り下げないと殺すと伝える傲慢な警察官も多いという。ダリットは、法の庇護すらない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120813T0923510900.html


2014-06-03

14歳と16歳の少女をレイプして殺害、木に吊して見せしめ

インドでは2012年12月にニューデリーでひとりの女性がバスの中で集団暴行されるという事件が起きた。

(インドで起きている残虐なレイプは増える可能性もある理由)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130128T0334440900.html


この事件に憤って、インド各地で激しい抗議運動が起きたが、それでもレイプ事件は一向に減らない。

外国人女性もインド国内で次々とレイプされているが、国内では低カーストやダリットの女性が集中して襲われている。

ダリットとはカースト制度にも入れない最底辺の人たちのことを指している。不可触民(アンタッチャブル)とも言われている人たちだ。

「不可触」という言葉を見ても分かる通り、「触ることができないほど穢れた人たち」という定義なのである。

(ダリットの女たち(1)いまだレイプされ続ける女性のこと)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html


インドでは、未だにこういった差別が当たり前に存在しており、これがインドの貧困を解決できないほど深いものにしてしまっている。

ダリットの女性の多くがレイプされてしまう

ダリットの人々は差別の対象になっており、まともな職が見つからない。街でゴミを片付けたり、死体を片付けたり、トイレ掃除をしたり、そういった誰もしたくない仕事を「世襲」させられている。

教育を受けることもままならない。学校に行けたとしても教室の後ろで地べたに座らされて勉強させられる。

学校にある公共の井戸の水でさえも、「ダリットが触ったら水が汚れる」というので飲ませない。そのような差別的待遇が普通に行われているのがインドの現状だ。

そんなに「汚い」「穢れる」と言っておきながら、若い女性は上位カーストに狙われていて、いつもレイプの対象になる。

インドでは22分に1件の割合でレイプ事件が起きているとも言われているが、その多くがダリットの女性であることはよく知られている。

この22分に1件というのは、被害届があったものだけであり、実際には被害を届けない女性の方が多いのだから、現状はもっと悲惨なことになっている。

インド人はダリットを英語で"Subhuman"(サブ・ヒューマン)と言っているが、この単語に聞き覚えがなければ、辞書で調べて欲しい。「人間以下」と翻訳が出てくるはずだ。

要するに上位カーストの男たちにとって、ダリットの娘たちは「人間以下」なのだから何をしてもいいという理屈になっていて、だからこそ好き勝手にレイプしているのである。

なぜ、インドではこれだけ女性が抗議運動し、国際的にも批判されているのにレイプ事件が減らないのか。その根底には、カーストによる根強い差別が残されているからだ。


死体はわざわざ吊されて「見せしめ」に

ダリットの女性はレイプされるだけではない。時には殺されることもある。殺されるだけではない。死体はわざわざ吊されて「見せしめ」にされることもある。

以前にもレイプされた女性が、木に吊されて発見されるという事件もあった。そういった事件が、インドではいつも当たり前のように起きている。

(集団レイプされて殺され、木に吊されて放置された女性の姿 )
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130206T2225280900.html


2014年5月27日夜、インド北部のウッタールプラデシュ州バダユンで起きたのもそんな事件だった。

14歳と16歳の少女が、集団レイプされ、木に吊されて「見せしめ」にされていたのである。

この2人の少女は同じ村に住む従姉妹同士だったのだが、彼女たちの家にはトイレがなく、ふたりが畑で用を足している時に、5人の男たちに狙われて集団レイプされていた。

5人は代わる代わる少女を犯した後、首を絞めて殺してマンゴーの木にぶら下げた。

少女の家族はすぐに警察に届け出たが、警察は最初まともに取り合おうともせず、今も犯人のうち3人は逃亡したまま行方は見つかっていない。

なぜ、警察はすぐに捜査しなかったのか。犯人の男5人のうち、2人は警察官の息子だったというのもあるかもしれない。

しかし、最大の原因は、殺されたのがダリットの少女だったからだ。インドでは警察も上位カーストの味方だ。ダリットの少女が殺されたくらいは大したことがないと思っている。


マンゴーの木に吊された2人のダリットの少女。5人の男にレイプされていた。


弱者をさらに叩きのめして這い上がれないようにする

インドの貧困。インドのレイプ。インドの腐敗。

こういったものは、すべてインド社会がずっと引きずってきたカースト(身分制度)が生み出している病巣だ。

インドでは未だにヒンドゥー教が深く信奉されており、貧困層も夜になったら近所の祠(ほこら)に集まって、みんなで祈りを捧げるような姿を見ることができる。

また、社会から捨てられたはずの売春女性ですらも、部屋にはシヴァやパールバティやハヌマーンのような神々のポスターが飾られたりしている。

ヒンドゥー教とカーストは密接にリンクしており、ヒンドゥー教の中の輪廻転生もまたカーストと関連している。宗教と身分制度が切り離されずに残っており、それがインド社会を停滞させているのである。

ダリットの人々は、ヒンドゥーの教えによると前世で罪を犯した人たちの末裔なのだから、彼らは現世でその罪を償うべく生きていると彼らは信じている人が多い。

だから、彼らが極貧に堕ちていても、まともな仕事がなくても、レイプされて殺されても「前世が悪いので仕方がない」というひとことで終わってしまう。

そういった社会が続いている。

さすがにこのような地獄が続くことに違和感を感じて、ダリットの救済に力を注ぐ高潔な人たちもインドにはたくさん現れているが、その力はあまりにも小さい。

弱者を救済するどころか、むしろ弱者をさらに叩きのめして這い上がれないようにする人たちも多い。ダリットの女性たちは、未だに這い上がれないままでいる。

そして、レイプされ、木に吊されるのである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140603T0430200900.html

[32削除理由]:アラシ

08. 2014年10月18日 07:06:24 : b5JdkWvGxs
>>07 が何故か削除されてしまいました。

『削除コメント表示切り替え』を押して表示して下さい。


09. 中川隆 2015年5月03日 08:42:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

ダリットの女たち(1)いまだレイプされ続ける女性のこと


ずいぶん改善されてきたとは言われているが、未だに現実に起きている苛烈な差別がある。ダリットと呼ばれる人たちへの差別だ。

「前世は犯罪者だ」と生まれたときから言われ、「だから差別されて当然なのだ」と結論づけられた人。それが、ダリットである。

もしあなたがダリットの女性として生まれていたら、生まれながらにして両親は虐げられ、嘲笑されているのを見て育つ。家は極度に貧しく、仕事もなく、いつも飢えている。

そして、年頃になると、突然知らない男たちに拉致されてレイプされる。しかし、誰も助けてくれない。ダリットの女性はレイプされてもしかたがないと社会が思っているからだ。

抵抗すれば殺される。手足を切断されたり、生きたまま燃やされたり、アシッド・アタック(酸攻撃)されたりする。警察も犯人を捜してくれない。

なぜなら、ダリットだからである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120810T2324480900.html

インドのレイプ事件はほぼ毎日のように起きている

日本人女性のみならず、外国人女性でもレイプ被害に遭っている。韓国人女性も、アメリカ人女性も、見境いなくレイプされている。

殺された女性もいるが、かろうじて助かっても、もはやインドという国には恐怖しかないだろう。

(レイプされることに気付いても、誰も助けないという心理)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140706T0134110900.html

実はインドのレイプ事件はほぼ毎日のように起きている。それも日本人からすると、到底あり得ないような状況の中でのレイプだ。

同じ建物に住む少女を拉致して数日レイプし続けて殺してしまった事件もあったが、この男はその数日間に親が行方不明の子供を心配して泣き叫んでいるのを知っていて、自分の部屋に戻っては少女をレイプしていた。

あるいは、道歩く姉妹を集団でレイプして、終わったあとは姉妹の首を絞めて殺し、木に吊して「自殺した」と見せかけたものもあった。

レイプした女性を木に吊して見せしめにする事件はパキスタンでも起きているが、なぜ「この女をレイプして殺した」と見せしめにしなければならないのか。

それは、上位カーストが、下位カーストに対して「俺たちに逆らうとこうなる」と震え上がらせて、普段でも逆らわないように恐怖を与えるためである。

下位カースト、もしくはダリット(不可触民)と呼ばれる立場の弱い女性は、しばしば上位カーストの男たちにレイプされる。その実態は想像以上に醜悪で悲惨だ。


インドは、弱い立場の女性にとって地獄のような場所だ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150503T0512130900.html


10. 中川隆 2015年10月08日 06:50:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

ヒンドゥー教の預言。労働者の時代が終われば次は何か?
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20151008T0230130900.html

年末にインドに行くと、街中の露店がいっせいにカレンダーを売り出しているのを見かける。

そのカレンダーにはボリウッドの美人女優の顔が並んでいることもあるが、最も多いのは神々を描いたものである。

ヒンドゥー教のシヴァ神、象神ガネーシャ、あるいはラクシュミー、ハヌマーン等の神々が描かれ、飾られているので、まるで露店が神々の祭典のように見える。

インドでは今も祭壇に夕方のある時間になると人々が集まって一心不乱に祈念している姿もある。

昼間の何気ない時間でも、街のあちこちにある祭壇にごく普通の会社勤めと思われる男性が足を止めて手を合わせてから去っていく姿を見かける。

スラムに住む貧しい女性の部屋に行くと、どの女性の部屋にもドアの上や壁の目立つところにシヴァのポスターがうやうやしく飾られている。

カーストは古来は「4つのグループ」の区分け

このように、インドにはヒンドゥー教が依然として根強く存在しているのは、インドに降り立った人間なら誰でも気付く。インド人から宗教を取り上げるのは不可能だ。

だから、このヒンドゥー教が有している大きな問題「カースト制度」がインドから消えることもないだろう。それは、インド社会にもはや歴史的文化として根付いているので、除去することは不可能だとも言われている。

カーストというのは「身分制度(クラス)」のことだが、カーストのクラスは本来は「身分」というよりも、まったく違った4つの行動様式を持つグループとしての区分けで始まったものだったと言われている。基本的な4つのグループとは以下のものを指す。

(1)バラモン
(2)クシャトリヤ
(3)ヴァイシャ
(4)シュードラ

現在ではこれが細分化されて数千にも及ぶカーストとなっているのだが、そもそもこの4つのグループの意味は何のグループだったのか。それはこうだ。

(1)求道する、宗教を信じる、精神世界を追求する
(2)戦う、鍛える、勝ち取る
(3)商売をする、稼ぐ、貯蓄する
(4)働く、肉体労働する

時代が経つにつれて、この分類はバラモンが「支配者」になってシュードラが「奴隷」になるような意味の変質が行われていくようになり、差別問題としてつながっていくようになる。

しかし、古来のヒンドゥー教はこの4つのグループの貴賤を論じるために並べたのではなく、「ひとりの人間の中にこの4つの行動様式はすべて含まれており、これらは輪廻する」という意味でグループ化されたと言われている。


インド社会の根底にあるヒンドゥー教は、「ひとりの人間の中に4つの行動様式が含まれている」としている。


輪廻転生(生まれ変わり)のもうひとつの対象

ある人間は宗教を追求する。だからその人は「バラモン」になる。ある人は戦いを追求する。だからその人は「クシャトリヤ」になる。

ある人はビジネスを追求する。だからその人は「ヴァイシャ」になる。ある人は労働を追求する。だからその人は「シュードラ」になる。

この4つグループは職業として「固定化」されたが、その固定化がインドの歴史に大きな禍根を生み出すようになった。

本当は「4つの道をひとりの人がすべて持っている」という本来の姿であった方が良かったのである。そうでないと、ヒンドゥー教が預言している一連の思想が分からなくなってしまうからだ。

古来ヒンドゥー教はなぜこの4つのグループを分けたのか。

ヒンドゥー教は「輪廻転生(生まれ変わり)」を取り入れている宗教であることはよく知っているはずだ。インドでは死は終わりを意味しているのではなく、新しい生まれ変わりを意味している。

人々が熱心に祈っているのは、次に生まれ変わるときは良い身分で生まれ変わって欲しいと思うからである。

この人間の生まれ変わり思想は日本でもよく知られているが、ヒンドゥー教の「輪廻」は、もうひとつ大きなサークルがある。実は、ヒンドゥー教は「歴史」も輪廻して永遠に続くと言われているのである。

そして、ここにカーストの4つのグループが関わってくる。

ヒンドゥー教は4つの時代が順番に繰り返して、それが無限に続くと言われている。その4つが以下のものである。

(1)求道・宗教・精神の時代
(2)戦争・戦士の時代
(3)商売・商人の時代
(4)労働者の時代

まさに、バラモンの時代、クシャトリアの時代、ヴァイシャの時代、シュードラの時代と連動している。それぞれの時代が順番にやってきて、4つが終わるとまた求道・宗教・精神の時代に入っていくのだという。人間の歴史はこれを無限に繰り返すというのがヒンドゥーの預言だ。


バラモンの時代、クシャトリアの時代、ヴァイシャの時代、シュードラの時代と連動している。それぞれの時代が順番にやってきて、4つが終わるとまた求道・宗教・精神の時代に入っていくのだという。


現代が終わったとき、次はどんな時代が来るのか?

世の中は複雑怪奇であり、何事も単純に進まない。だから、4つの時代が繰り返すと言っても必ずしも本当にその通りに歴史が道を辿るとは言えない。

しかし、古代のヒンドゥー教の示したこの歴史認識はとても示唆に富んでいるように見える。

日本も求道することに意味があった時代もあれば、軍人が社会を動かし戦争が時代を覆い尽くした時代もあれば、商売が全盛になった時代もあれば、誰もが労働者になっていく今のような時代もある。

アメリカもまた時代の境目をどこで区切るのかは別にして、似たような経緯を辿っている。他の国も、大体似たような歴史を辿っているはずだ。

私たちは現在、資本主義の世界に生きている。かつての資本主義は「商売して儲けよう」とみんなが思う資本主義だったので、商売・商人の時代に近かった。

しかし、今の資本主義は超巨大な多国籍企業がすべての富を収奪し、全人類を労働者にしてしまうような時代になっている。つまり「労働者の時代」に入っている。

勤め人の中には「自分たちは奴隷だ、社畜だ」と自嘲する人もいるが、まさに「労働者の時代」の真っ只中にいると感じる人も多いだろう。

1%の超金持ちと99%の労働者(貧困層)の社会は持続可能とは思えないと誰もが思うはずだ。しかし、この時代が自壊したら次はどんな時代が来るのか、誰も予測することすらもできないはずだ。未来は誰にも分からないのだから当然だ。

しかし、ヒンドゥー教はこの問いに対して答えを出しているのである。

「労働者の時代が終わると、また求道者の時代に戻る」

本当なのかどうかは誰にも分からない。信じるかどうかもあなた次第だ。未来に思いを馳せるとき、このヒンドゥー教の教えをベースに考えると面白いかもしれない。

いずれにしても、人間の歴史が終わらないで延々と続くのであれば、その時代その時代で人間の求めるものや権勢を持ったグループが変わっていくというのは間違いない。

私たちは今、明らかに「労働者の時代」の真っ只中にいる。果たして、いつ時代の転換が来るのだろうか。そして時代の変転がやってきたとき、次は「宗教の時代」に入っているのだろうか……。


繰り返しが連続するマンダラ。ここにも「輪廻」が隠されている。ヒンドゥーは無限の宗教である。4つの時代が無限に繰り返し、移り変わると考えている。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20151008T0230130900.html


11. 中川隆[1406] koaQ7Jey 2016年2月06日 14:41:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[1254]

インドではレシュマという女性がアシッド・アタックされて顔面破壊されている。

しかし彼女はそれにも負けず、ユーチューブで「レシュマによる美容のヒント」と題する動画で自分の顔を見せながら、インドで何が起きているのかを世界に知らしめた。

(顔面破壊されてしまった女性が教える「美容のヒント」の真意)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20150906T0146210900.html

インドでは激しいレイプ事件が延々と続いている国だが、問題はレイプだけではなく、こうした女性への凄まじい虐待もあることだ。

インドの女性虐待は、インドにはカースト制度という身分制度が下地にあると言われている。身分の低い女性は人間扱いされていなかった。

そのため、身分の低い人々に対する虐待が横行する歴史が続いていたのである。つまり、

「身分の低い人間は何をしてもいい」

という意識が培われてきて、それが女性に対する暴力、虐待、レイプにつながっていた。

インドのカースト制度は今も残っている。欧米からの人権意識が徐々にインドでも浸透するようになり、都会から変わりつつあるのだが、それでもなお歴史にこびりついた汚点は消えることがない。


プライドが傷つけられてアシッド・アタックする男

女性の顔に強酸(アシッド)をかけるという残虐な犯罪は、今も続いている。女性が男のプライドを傷つけたとき、それは起こるという。

インドでは毎年1000件はそんな事件が起きるのだ。2015年は、ロシア女性がインド人の男の求婚を拒絶して顔面にアシッドをぶちまけられて顔面損壊するという事件まで起きた。

男性の求婚を女性が断ったとき、男はプライドが傷つけられたと考え、「自分と一緒にならないというのであれば、その容姿を台無しにしてやる」とアシッド・アタックに走る。

ラクシュミ・サアという女性に起きたのは、まさにその典型的な事件だった。彼女はまだ15歳だった頃、ひとりの男にプロポーズされた。まだ15歳である。彼女はそれを断った。

そうするとその男は仲間を引き連れて、彼女の顔や腕に強酸をぶちまけたのである。もちろん、この男は後に逮捕されて投獄されたが、ただそれだけの話だ。

彼女は生死の境をさまよい、生き残ったあとはひどい傷痕や痛みに苦しみ、そして高額の医療を受け、何度も何度も皮膚移植をしなければならなかった。

それでも、彼女の傷痕は完治することはない。

インドでは、こんな女性がたくさんいて、苦しみに満ちた人生を送らなければならない。その多くの女性は引きこもり、顔を隠し、まるで存在しないかのように生きるようになる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160206T0247080900.html


12. 中川隆[2043] koaQ7Jey 2016年3月21日 10:25:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2011]

2016-03-21 メイド虐待が国際問題になっても絶対になくならない理由


インドではメイド稼業がごく普通に行われていて、若いメイドがその家の主人にレイプされたりする事件も多発している。

若いメイドは無学であり、カーストも低く、高カーストの主人にレイプされても被害を訴えることができない。

警察はいつでも高カーストの味方であり、低カーストの女性は同じ人間に見られていない。そのため、下手に被害を訴えれば、自分や自分の家族が襲撃されてひどい目に遭う。

メイドは人間のように扱われないというのは、中東でも香港でもシンガポールでもマレーシアでも起きていることだ。

中東のメイド虐待はひどい状況である。インドネシアやフィリピンの女性たちは、中東で奴隷さながらの扱いを受け、インドネシア政府は、とうとう中東に自国女性をメイドとして派遣するのを止めてしまった。

フィリピンもそうなるかもしれない。何しろ中東ではどのようなメイドを雇うのかは面接をして容姿で決定するような国である。雇う男が何を考えているのかは、それだけで分かる。

しかし、容姿で選ばれたからと言って、ちやほやされるのではない。パスポートも取り上げられ、ほとんど監禁状態のように閉じ込められ、ほとんど不眠不休でこき使われる。

はっきり言えば、メイドは雇われた時点で人間ではなくなる。奴隷になる。メイドとは、現代の奴隷なのである。人権意識など、そこにはまったくない。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160321T0234090900.html


13. 中川隆[2193] koaQ7Jey 2016年4月01日 11:29:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2187]

インドではダリット(不可触民)というカーストがある。

「人間ではない。それ以下だ」と呼び捨てられ、差別されている人たちだ。


(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120731T2334260900.html


彼らは今も安い労働でこき使われている。

女性は売春宿に売り飛ばされたり、排泄物の汲み取りや、動物の死体の処理など、人のやらない仕事を強制されていることが多い。

(人間の排泄物を両手で集めることを強いられた人たちがいる)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120923T0236040900.html


そんな彼らはまさにインドの隠された奴隷である。

ダリットは激しい差別を受けているのだが、その差別のひとつとして「教育を与えない」というものがある。なぜ教育を与えないのか。

教育を受けて、ものを考えられるようになると、自らの立場を「知る」ことになる。そうすると、社会がおかしいことに「気づく」。自然と「反抗心」が芽生え、現状を変えようと「立ち上がる」人間が出てくる。

そうなると奴隷状態に置かれていた人間が次々と「目が覚めて」しまって、奴隷制が維持できなくなる。だから、教育を与えない。支配者は、最終的に奴隷化する人から教育を奪い、無知なまま生きてくれたほうが都合が良い。

だから、教育を絶対に与えないのである。


教育を与えないというのは、体制にとって非常に重要

アフガニスタンやパキスタンでは、女性が教育を受けようとすると命を狙われる。学校が襲われて飲み水に毒を入れられたり、学校に通う女学生が撃たれたりする。

女性に教育を与えない。なぜなら、教育を受けることによって女性が目覚め、自分たちが抑圧されていることに気がつき、現状を変えようと立ち上がる人間が出てくるからだ。

そうすると、イスラムを「おかしい」という女性が出てくる。あるいは男尊女卑に疑問を持つ女性も出てくる。男女平等だと言い出し、女性が家長制度を脅かすかもしれない。

だから、女性には教育を与えず、考えることすらも禁じて現状が当たり前だと思わせておく。

それでも教育を受ける少女が出てきたり、教育の大切さを訴える「邪魔」な少女が出現する。そんなときは、マララ・ユスフザイのように撃たれたりする。

このような事件があると女性は萎縮し、無知であることに甘んじて声を失っていく。

私たちは部外者なので、イスラム国家の女性が奴隷化されていることは分かる。しかし、当のイスラム女性たちは、自分が奴隷化されていることに気がついていないことも多い。

子供の頃からイスラムに従順であることが当たり前になると、それが世界のすべてだから違う世界が分からないのである。部外者は分かるが、当事者は分からない。

だから「教育を与えない」というのは、体制にとって非常に重要であることが分かる。

教育は一部の人間、すなわち体制側の人間や為政者やエリートだけが受けていればいいのであって、一般大衆は「言われたことだけをロボットのように行う人間」であることが望ましい。

いちいち何かを考えて、体制側のシステムに立ち向かって反旗を翻すような人間が増えるのは望んでいない。むしろ、そんな人間が出ないようにしたいと考えている。

国民から教育を奪い取った方が都合が良くなった
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160401T0037520900.html


14. 中川隆[3358] koaQ7Jey 2016年7月21日 12:01:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3709]

マハラジャ、踊ってる場合じゃないヨ……

レイプ大国インドの実態 顔に硫酸、素手で腸を出す……信仰とカーストが生んだ獣たち 2013.03.01

少女が暴行されるなんて……


 ITを中心に高度成長の真っ只中にあるインド。しかし……

 インド政府の統計では、性的暴行が20分に一件。

 2月20日、インドのメディアは、インド西部マハラシュトラ州で、6歳と9歳、11歳の姉妹3人が性的暴行を受けた後に殺され、遺体が井戸に捨てられる事件が起きたと伝えた。

姉妹は14日に行方不明になり、16日に通学かばんや靴と共に遺体が発見された……。 

 しかし、インドではこの事件以前から残忍な強姦事件が相次いで起こっている。

1月には32歳の子供連れの女性が、集団レイプされたうえに殺害。
遺体は木につるされた状態で見つかった。

また、32歳の男が顔見知りの女児を拉致。レイプ後に殺害……など。


 そして、インドでレイプ事件が大きく取り上げるきっかけとなった事件は、昨年12月に起きていた。

■インドを揺るがす社会問題の発端となったレイプ事件  凶悪犯罪と無関心を装う周囲

 昨年12月16日夜、首都ニューデリー。当時23歳の女子学生は、28歳の恋人の男性と映画鑑賞後に帰宅しようとしていた。帰宅時間が予定より遅くなり、三輪タクシーもつかまらなかった。そこへ、未成年の容疑者が彼らを私営のバスに乗るように誘い込んだ。多少のためらいはあったものの、私営の乗り合いバスに乗車。あとで分かったことだったが、実は過去に事件を数件起こしたこともあるという、無認可のバスだった。

 乗車後、運転手の男が猥褻な言葉を投げかけ、同乗の仲間もからかいながら言いがかりをつけてきた。

 恋人の男性はバスを止めるように要求した。が、すでにカギはロックされていた。男らは金属の棒で男性を殴り、女性の衣服を刃物で裂いて集団でレイプし始める。男性は暴行を阻止しようとしたが、金属の棒でメッタ打ちにされた。

 男らは、代わる代わる暴行しただけでなく、金属の棒で女性を殴り、局部に鉄の棒を突き刺して腸を引っ掻き回し、なんと素手で腸を引きずり出すという蛮行にまで及んだのだ。

 男らは、2人の身元がわからないように、持ち物、携帯電話を奪い、服も全部剥がした。そして、全裸の2人をバスの外に放り投げたうえ、証拠隠滅のため、バスで轢き殺そうとしたのだった。そして、男性は自ら重傷を追いながらも、女性をバスの下からひきずり出し救った。

 男性は全裸で血まみれの状態で何度も周囲に助けを求めたが、車やバイクは何台も通り過ぎていった。人々も通り過ぎていった。誰もが見て見ぬ振りをしたのだった。数十人の人が集まって話をしていたが、好奇の目で見るぐらいで誰も助けようとはしてくれない。

「服が欲しい。誰か救急車を!」……と、叫んだが、誰も振り向かなかった。


ようやく来た警察に悲痛な訴えをしたが、無視されるだけ。結局、救急車は来ることなく、パトカーで病院に運ばれるまで2時間以上もかかったのだった。

 激しい暴行を受けた女性は、病院でやっとシーツの切れ端が与えられただけだった。女性は頭部や内蔵に損傷を受けていたが意識はあった。

 被害者の女性は大学の成績もトップクラスの優秀な学生であった。日夜勉学に励み、将来は収入を得て親孝行するのが夢だったという。彼女は入院中、母親に何度も「ごめんなさい」と謝り、「生きていたい」とも話していたという。彼女はジェスチャーで、「私は天に向かっている」と家族に伝えた。しかしこれが最期の言葉となったのだった。

 女性は繰り返し強姦された上に、鉄の棒で性的暴行を受け、腸管を損傷していた。臓器移植を受けるためにインドから医療環境の整ったシンガポールに搬送されたが、29日に息を引き取った。

 男性自身も骨折などの重傷で、恋人を救えなかったことによる心の傷に今も苦しんでいる。被害者の友人の証言によれば、2人は2月に結婚式を挙げる予定であったという。

■インド社会が抱える闇 カースト制度、男尊女卑がもたらした恐るべき因習

 このように、インドでは今、急激に凶悪なレイプ犯罪が問題となっている。しかし、これは過去から黙殺されていたものが明るみに出たに過ぎない。

 実は、インドでのレイプ犯罪は日常茶飯事。夜中に複数の男に家に侵入され、抵抗したら硫酸をかけられ顔を破壊された女性。レイプ被害を警察に訴えても相手にされず、挙句の果てに犯人との婚姻を勧められて自殺した少女など。しかも、加害者の男はお咎めなしで釈放される……。これには、宗教的な思想が少なからず影響しているはずだ。

 インドでは、国民の約7割がヒンズー教である。ヒンズー教にはカースト制度という世界的にも有名な身分差別がある。大きく分けて以下の4階級からなっている。

1. バラモン(司祭)
2. クシャトリア(王族・武士)
3. ヴァイシャ(平民)
4. シュードラ(奴隷)

 そのほかに、カーストに属すこともできない人々がおり、その人々は「アチュート」、「不可触賎民(アンタッチャブル)」といわれている。この身分の人は、触れたり見たりしたら汚れる人々とされ、人間扱いされない。彼ら自身は、自分たちのことを「ダリット」と呼んでいる。

「インド独立の父」と讃えられるマハトマ・ガンディーは、ヴァイシャ(平民)出身。ヒンズー教徒の彼は、最下層のダリットには同情的であったが、カースト制度自体をなくそうとはしなかった。なぜなら、カースト制度は、ヒンズー教の根底となる制度。ヒンズー教では、輪廻転生の概念があり、今の人生を一生懸命頑張れば来世で上の階層に行けるという教えがあるのだ。なので、カースト制度をなくすことは、ヒンズー教の信仰そのものを否定することになってしまうのだ。

 昨年11月には、小さな村に住む最下層のダリットの16歳の少女が3時間近くにわたり7人の男にレイプされた。男たちの1人がレイプの様子を携帯で撮影。その映像を村中に流され、それを見た被害者の父親は絶望し殺虫剤を飲んで自殺した。

 また、別の村の16歳のダリットの少女が、昼食を取ろうと畑から自宅に向かっていたところ、2人の男たちに別の家屋に連れ込まれ、レイプされた。叫び声を聞いた父親が現場に駆けつけたときには、男たちの姿はなかった。少女はその後、灯油をかぶり焼身自殺した。

 そのほかにも、ダリットの女性はレイプされたうえに、手足を切断されたり、火あぶりにされたり、人糞を食べさせられることを余儀なくされたり、悲惨な事件が後を絶たない。低カーストやダリットの女性に対するレイプは上位カースト男性の力を示すものであり、彼女らは常にレイプの危険にさらされているのだ。


しかし、このカースト制度がもたらした影響だけが、レイプ犯罪を誘発しているわけではない。昨年12月にバス車内で起きた集団レイプ事件の被害者女性は中流階級のカーストだったといわれている。

 インドには、カースト制度がもたらすレイプ事件誘発以外に、強烈な男尊女卑が残っているのだ。

 未亡人殉死の恐るべき因習「サティ」。夫が死んで火葬されるとき、妻も火に身を投げて自殺することを強要させるというもの。これは近年まで続いてきた。

 さらに、女性が結婚する時に持参金を持ってくる「ダウリー」という制度。法的には禁止されているものの、まだまだ健在である。嫁から持参金を搾り取るために、虐待したり、充分でないと火をつけて焼き殺したりする場合もある。ダウリー殺人と言われる。

 こうした女性に対する暴力はインドで繰り返され、犠牲になる女性たちがどんなに多いことか。女性が危害を加えられたところで警察が動くこともなければ、裁かれることもない。女性に対して罪を犯しても罰せられないことがまかり通っているインド社会では、「女性に対していくらでも酷い虐待をしてもいい」という認識に繋がっている。

■変わりゆくインド社会

 こうした残虐極まりないレイプ事件の連続から、インドでは性的犯罪の厳罰化を求めるデモ隊と警官隊が衝突するなどの事件も起こった。

 今年1月、自称スピリチュアルの指導者であるというアサラーム・バプ氏が、女子学生集団レイプ殺人事件に関して、「この被害者女性も強姦した少年たちと同様に罪がある」「彼女は犯人の少年ら手をとり、姉弟として接するべきだった」などという発言をし、大非難を浴びたのも、進歩といえるだろう。

 そして、ついにインド政府は、女性に対する性犯罪の厳罰化を求める世論が高まっているのを受けて、「性犯罪の最高刑を死刑とする刑法」の改正案を閣議決定したのだ。

 女子学生集団レイプ殺人事件で暴行を加えた6人の男はすでに逮捕。男らのうち1人は未成年。5人に対し死刑を求刑する方針である一方、 未成年の容疑者1人については少年院に送致される見通しであるという。

 インドの現実を変えるために、虐げられた状況でもあきらめずにたくましく戦っているインドの女性たちがいる。日本もこの残酷な状況から目をそらさず、しっかり見据えていく必要があるだろう。

■カーストが生んだインドの進歩

 ちなみに、カーストは親から子へ代々継承されるので、その家に生まれたら生涯カーストの階層を変えることはできない。

ほかのカーストのとの婚姻は不可能。

それぞれのカーストによって就ける職業にも制限があり、カーストの最下層は死体処理や糞尿処理など人の嫌がる仕事しか与えられないのが現状だ。

唯一そこから逃げ出す方法が、新しい職業であるIT産業。
インドでIT産業が急速に成長している理由には、実はカースト制度が深く関係しているのだ。ITと宗教とカースト制度。この3つが、今後のインドの行く末を左右していくのだろう。
(白神じゅりこ)
http://happism.cyzowoman.com/2013/03/post_1993.html


強姦事件の被告、「女は黙ってレイプされろ」 インド 2015.03.04


ニューデリー(CNN) インドで女性を集団強姦(ごうかん)して死亡させた罪で死刑判決を言い渡された男が英BBCテレビのインタビューに対し、

「(被害者の女性は)黙ってレイプされればいいんだ」

と言い放った。ニューデリー警察は3日、混乱を引き起こす恐れがあるとして、裁判所がこのインタビューの公表を禁じたことを明らかにした。

被害者の女性(当時23)は2012年にバスの中で男5人に暴行されて重傷を負い、シンガポールの病院で2週間後に死亡した。

この事件で、バスの運転手だったムケシュ・シン被告を含む5人が集団強姦罪に問われて死刑を言い渡され、4人は判決を不服として控訴している。

BBCはドキュメンタリー番組の収録でシン被告にインタビューした。この中で同被告は

「まともな若い女は夜9時にうろついたりはしない」

「男に比べて女は強姦の原因になりやすい。男と女は平等ではない」

と主張。

「女がすべきは家での家事だ。夜間にディスコやバーをうろついて間違った事をしたり間違った服装をすることではない」

とまくし立て、自分たちには「教訓を教える権利がある」と言い放った。


女性は鉄の棒を使って暴行され、腹部や性器、腸に重傷を負って一部の臓器を摘出しなければならなかった。しかしBBCのディレクターからその話を聞かされても、シン被告は後悔した様子を見せず、

「レイプされている間は抵抗すべきじゃなかった」

「そうすれば『やり終わった』あとで降ろしてやったのに」

と吐き捨てた。


さらに、強姦の代償として死刑を言い渡せば、女性を一層危険にさらすことになるとも主張。

「今度レイプした奴らは、俺たちのように女を放置せず、女を殺すだろう」

と話した。


刑務官によれば、このインタビューは2013年に収録された。死刑判決を言い渡される前か後かははっきりしない。一緒に犯行に加わったシン被告の兄弟も強姦罪と殺人罪で起訴されたが、公判が終わる前の同年3月に、デリーの拘置所で首をつっているのが見つかった。

事件をきっかけとしてインドの女性に対する処遇は国際的な脚光を浴び、国内外で抗議運動が広がった。

しかしシン被告の弁護士は、女性に対して被告と同じような認識を示す。

「もし私の娘や姉妹が婚前行為に及んで自分を恥ずかしめるようなことをしたら、納屋に連れて行って家族全員の前でガソリンをかけ、火を付ける」


BBCは、やはり強姦罪で有罪判決を受けた別の男にもインタビューした。

この男は薄笑いを浮かべながら5歳の少女を強姦した話を語って聞かせたという。

小さな子どもになぜそんなことができるのかと尋ねられると、

「あいつは物乞いだった。命に何の価値もない」


インタビューを収録したBBCのドキュメンタリーは、「国際女性デー」の8日に放送される。
http://www.cnn.co.jp/world/35061290.html


15. 中川隆[5259] koaQ7Jey 2016年12月04日 08:32:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5694]

平等は存在しない。しかし、全人類は「四苦」で平等となる
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20161204T0316390900.html


不可触民とも称されていた極度の差別の中の人たち


「真の平等」を知るには、凄まじい不平等が社会に定着したインドに目を向ける必要がある。

インド文化の奥の奥にまで定着した宗教はヒンドゥー教なのだが、このヒンドゥー教は、カースト制度を是正しており、それが故にインドの身分差別は苛烈なものがある。

そこには平等など存在しない。人々はカーストを意識して暮らしており、多くの人たちは自分よりも下のカーストにある人など見えないし、関心もない。

人間が違うと考えているのである。

このインドの中で最も人間扱いされていないのが、カーストにすらも入れてもらえない人たち、現在ではダリットと呼ばれている人たちである。

ダリットは「アウト・オブ・カースト」と言って、カーストにも入れないほど穢れた人であると認識されていた。あまりに穢れているので、普通の人は触ることすら不可能な存在であると言われた。

そのために不可触民(アンタッチャブル)とも称されていた。

触ることすらも不可能であると言われて毛嫌いされているのだから、これほど悲惨な差別はない。まさに人間以下(サブ・ヒューマン)である。(人間以下(Sub-human)と呼び捨てられて、生きている人たち)

インドのスラム売春地帯でひとりの女性に出会ったことがある。彼女に「あなたの宗教は何?」と聞かれたことがあって、「両親は仏教だったよ」と答えると、彼女は「私も仏教よ」と喜んだ。

彼女は何者だったのか。彼女はダリットの女性だった。

なぜ分かるのか。スラムで最底辺の売春ビジネスをしている女性はその多くが低カーストかダリットだからである。そして、こうした女性が仏教なのは、ヒンドゥー教に絶望して仏教に流れたからである。

仏教……。彼女たちが最後の希望として託した仏教はインドではどのような意味合いがあったのか。


インドの中で最も人間扱いされていないのが、カーストにすらも入れてもらえない人たち、現在ではダリットと呼ばれている人たちである。


すべての人間が抱えることになる「四苦」とは?

仏教の開祖であるブッダは、ゴータマ・シッダールタという部族長の息子として生まれて、本当であれば不自由なく生きることができる身分だった。

しかし、ゴータマは若い頃から「生きる意味」とは何かを思索し、瞑想の中で真理を探し求める性格だった。享楽も、堕落も、浮ついた遊びにも少年の頃から遠ざかり、女性にも関心を示そうとしなかった。

瞑想の中で、彼はやがて「悟り」を開くのだが、そこで人間は思う通りにならないものを4つ抱え込んだ存在であるということを喝破する。

どんなに時代が変わっても、どんな身分の人間であっても、すべての人間が抱えることになる「四苦」とは何だったのか。それは、以下のものである。

(1)生まれてくること。
(2)老いていくこと。
(3)病を得ること。
(4)死んでいくこと。

生まれるというのは、ブッダに言わせればとても困ったことのひとつである。

人の人生は誰も思う通りにいかない。誰もが生きることで苦しみ、もがき、呻吟し、嘆息する。生まれてきたから、そうやって苦しまなければならないのである。

さらに人は誰でも老いていく。若者は、いつまでも若いと思っているはずだが、やがてそうでないことに気付く。自分が老いていき、朝起きるたびに若さを失ってしまう存在であることを認めざるを得なくなる。

そして、人は誰でも病に苦しむ。健康な人は、実はこの世にはひとりもいない。すべての人が何らかの病を持っている。若さを失えば失うほど、病は深刻化していき、リカバリーできないものになる。人は病に苦しみながら生きる存在である。

そして、最後には死を迎える。誰もそこから逃れられない。死はすべての人に与えられた完全に平等な運命である。

人間はこの4つの苦しみを抱えている。誰もがそこから逃れることができない。それをブッダは悟ったのである。仏教というのは、そうした運命を抱えつつも、そんな中で平穏な気持ちで生きることを諭す教えだった。


ガンジス川ほとりで火葬される人。人は誰でも最後には死を迎える。そこから逃れられない。死はすべての人に与えられた完全に平等な運命である。


平等とは、主義主張の中にあったのではない

ブッダの両親はヒンドゥー教徒だった。このヒンドゥー教はカーストという身分制度を内包し、ブッダの時代でも低カーストや不可触民(カーストにすらも入れない人たち)が存在し、超えることのできない身分差別に苦しんでいた。

カーストという身分制度はあまりにも深くインドの文化の中に根付いて、それはもう拭い去ることができないものになっていた。そして、カーストの中で弱い身分の人々は、常に苦しみと共に生きなければならなかった。

ブッダが人々に「四苦」を意識させる教えを生み出したのはなぜか。もう一度、この四苦をよく見て欲しい。

生まれてくること。老いていくこと。病を得ること。死んでいくこと……。

それは、身分を超越し、生きるすべての人間に降りかかる苦しみであり運命だった。つまり、この四苦の前に、人々は平等になったのである。身分が高くても、金持ちでも、権力者でも、この四苦から逃れられない。

人間社会が作り出すシステムは、必ず身分制度を生み出す。資本主義は資本を核にして人間をレベル分けするものだ。

それを克服するために、社会主義や共産主義のような概念が生み出されたが、それもまた人間が人間を統治する中で身分を生み出してしまう。

そんな中で、絶対的な平等を社会に与えるとしたら、いったいどうすれがいいのか。「平等」はいかにして生み出すことができるのか。

それは、ブッダが見つけた。平等は「四苦」から生まれたのである。人間が、逃れられない4つの運命。そこから逃れようともがいてもあがいても堕ちてしまう4つの苦しみ。

その4つの苦しみの中で、人類はやっと「平等」という概念をすべての人間に当てはめることができるとブッダは「悟り」を開いた。

平等とは、主義主張の中にあったのではない。運命(カルマ)の中にあったのだ。

インドの貧しいスラム売春地帯の中で、ひとりの女性が「仏教を信じている」と私に言った。そうなのだ。彼女は自分の運命も私の運命も、四苦の中では同じ運命であると私に教えてくれていたのである。平等がそこにあった。


4つの苦しみの中で、人類はやっと「平等」という概念をすべての人間に当てはめることができるとブッダは「悟り」を開いた。平等とは、主義主張の中にあったのではない。運命(カルマ)の中にあったのだ。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20161204T0316390900.html


16. 中川隆[6841] koaQ7Jey 2017年2月25日 17:01:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7302]


ヒンドゥー教国のネパールでは、今生(こんじょう)の不幸は、前世の因果だから、いま苦しんでいる人は前世の業を落としている最中であり、苦しませておいてやるのが良い、と本気で思っている人が多いようである。

タイでも、「前世の因果」思想。ネパールよりもっと自己責任論に近いかもしれない。ある程度恵まれている人々は、

「自分は前世でそんなに悪いことをせず、あんな真っ黒の下層民に生まれなくて良かった」

と素直に胸をなでおろして終わり、という感じらしい。

こんな国でもかつては左翼運動が存在したことがあったが、分離運動との絡みを除けば、原始的な「妬み」「やっかみ」の情念の噴出に過ぎない。
https://kuantan2007.wordpress.com/2017/02/25/february-25-2017-at-0316pm/


17. 中川隆[-7655] koaQ7Jey 2017年5月12日 21:53:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

釈迦の本当の教え

初期仏教から7、8世紀頃までの仏教は、その最大の手段は、業と煩悩の止滅を追求する<止滅の道>であった。

この多分に都会的な形而上学的、自己探求型の宗教は、当時の豊かな商業経済に裏付けられた都市型の文明に支えられていた。

シッタータ王子も生まれてから青年に達するまで宮殿をほとんど出たことがない。仏教は、アーバンな衒学的な色彩を有した貴族の宗教たり得たのである。

ところが、貿易相手の西ローマ帝国の滅亡とともに、社会のあり方が、重商経済国家から、帰農国家に様変わりしていったのだ。農村中心の社会が再構成されるに従い、仏教も土臭い庶民の心に対応していくことになる。つまり、出家僧個人の精神的至福の追求から、在家信徒の現世利益追求型へのゆるやかな転換である。

 その過程において、4、5世紀頃から徐々に7、8世紀頃にかけて、護摩祭などの集団的祭礼、血骨皮を用いる土着信仰儀礼の浸食、性的オルギア、そして、憑依現象の利用などが顕著になってきた。

ただし、こと憑依に関しては、完全な忘我状態にあるのではなく、自意識を有して観想状態に入るというというという優位性を主張できたのではあるが。
http://akibba.no.coocan.jp/ARCHV/sirin/3posss.html

仏教は宗教ではない。という見解がある。

 宗教とは、人間と神の関係を<信仰>を軸に構築したものである。そこにおける神とは、ユダヤ教や、イスラム教のように創造神であったり、キリスト教のように創造神/聖霊/メシアの統合体(三位一体)、クリシュナ教徒のように近代化された古代神だったりするが、ある種の霊的超越者であり、多くは宇宙創造神である。

 ところが、仏教は成立の初期において、教祖自身にこの種の信仰心が希薄なのである。教祖シッタータ王子は、人間として真理に到達したが、自分が神であると宣言した訳ではないし、神の預言者であった訳でもない。

 そもそも釈迦族のシッタータ王子は、クシャトリア階級の出目であるからバラモン階級のように精神世界に没入する訳にはいかなかった。

インドのカースト制度において伝統的な神事は、バラモン階級の専売特許であった。
そこで、かれは当時流行の精神世界ヒッピーである「沙門」になる道を選んだ。

沙門になるのは、簡単である。身分も問われない。「わたしは、沙門になった。」と宣言し、林住期や遊行期の老バラモンのように無一文で修行三昧の生活に入れば良いのだ。

 かれは様々な行者に倣い瞑想を深め、宇宙と人のあり方を追求した。その意味で、シッタータ王子は宗教家と言うよりも実践的哲学者、精神修行者であった。かれが求めたのは宇宙構造、なかんずく人間(小宇宙)と大宇宙の関係に関する真実(真理)であり、輪廻という循環構造からの自己の解放であった。最近のひ弱な修行者のように精神的な安寧や、既存の神話体系を借定したヌミノース体験を追求した訳ではない。

 その意味で、かれはニューエイジ・サイエンスを極めたと言っても良い。

 そして、<12因縁の順観と逆観>という瞑想法を経て<成仏>したのである。

 シッタータ王子が悟りを開いた後、その悟りを開くプロセスを<現法的梵行>と呼んだ。

現法的梵行とは、津田博士の言を借りると

「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」

ということだ。

つまり、仏教において、最大の戒律は、<不犯>であった。 

もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。
インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、<現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。

 悟達したシッタータ王子、いや釈迦無二仏陀は、この非人道的なシステムに人間が耐えられる訳がないと判断し、教えを伝授するのを断念(これを<不説>という。)し、そのまま涅槃に入ろうとした。

いかに真理であろうと、多数の人間が賛同できるか、少なくとも甘受できるシステムでないと、衆生の絶望を深めるだけだからだ。

このときのシッタータ王子の判断は、良く理解できる。かれは衆生のために真理探究の道に入った訳ではない。深刻な実存的疑問を味わって、その解決のために天才的な能力を傾けた青年なのである。大宇宙と小宇宙に通底する真理を会得したからには、それを理解できず、まして、実践するなどおよそ不可能であろう大多数の人間に、無理な教えを提示するよりは、自得した理法を用いて、存在の次の位相に転移し、先を探ろうとするのは、探求者としては自然な成行きである。

 ところが、伝承によると、梵天王(ブラーフマン)が釈迦無二菩薩の<不説>をいち早く知り、その場に伺候して熱心に説法を勧請する。つまり、「世界に教えを説くまで、涅槃に入るのを思いとどまる」ように懇願した。

釈迦が法を説かねば人間社会(六道を含めると人間以外も含まれるが)が敗壊する。世界そのものが敗壊すると、梵天は惑乱したという。梵天は、いわば上位霊的存在であったが、人間のように活動界に根を置いていないため、輪廻を解脱する方法を開発できなかったのだ。

また、護法天としての本能が、いまや六界に教えを説く立場となった仏陀が責任を放棄して、自分の手の届かない領域に避難してしまうのを阻止するという使命感にも燃えていたのであろう。この勧請は成功し、釈迦はこの熱意に打たれて、あらためて世界を慈悲の目で見て説法に踏み切る。これを<梵天勧請>と言う。

 ところで、津田眞一博士は、ここに梵天を使嗾した上位の無名神を想定する。かれの作業仮説である<開放系の神>においては、梵天勧請がなされるまで釈迦が<不説>に傾いていたことから、釈迦の<慈悲>を外部からもたらした存在、<閉鎖系>である釈迦の仏法をも内包する<開放系>の神を想定したのだ。

 この<開放系の神>とは、『リグ・ヴェーダ』に言及される根源神プルシャのように、世界を身体とする神、地球そのもの、或いは生命の自然の流れの総体のようなものと考えられる。<出家主義的な現法的梵行>という生命の潮流に反する行為は、巨大な宇宙の順流に対する部分的な反流を発生させる。そして、この意図的に起こされた反自然のベクトルが、「世界を敗壊させない」ために必要な刺激となっている。

 梵天勧請により、釈迦が不説を撤回し、人間の生命潮流に僅かな反流を発生させた。

 生命潮流とは、何か。それは、個々の生命が織りなす巨大な潮流である。その一端は、『リグ・ヴェーダ』にある宇宙の開闢に端を発し、インド神の宇宙論によれば無窮の未来において目覚めたヴィシュヌ神(または、シヴァ神)が新羅万象を破壊し尽くす、宇宙の終焉までの長い時間軸を中心に螺旋状に存在するすべての生命の軌跡である。

その一部のみが地上の生命として現れ、目にすることができるが、インド的輪廻転生の思想によれば生と死はひとつの道の表と裏であり、生命潮流の螺旋は、その上昇弧では誕生、成長、老衰、死という生命の顕在部分を、下降弧においては、輪廻転生を準備する同じ生命の糸の未顕現部分を表すことになる。

そして、幾億とも知れぬ生命の支流の総体が、意志をもつ、プルシャ、すなわち未顕在の<梵(ブラーフマ)>と無数の目覚めた<神我(アートマン)>として、<開放系の神>を形作る。この巨大で、かつ微小の存在が、自らの運動の正常値を保つために、<現法的梵行>という反流、または生命潮流からの逸脱を必要としていた。

 星ひとつ分の生命、インド人の思想によれば、その中には人間のみならず、鳥獣草木はおろか、六道の精霊、魔獣すべてが含まれる巨大な生命のうねりに比べると、仏教の一僧侶の生命は余りにも小さいが、その生命の輝き(津田博士は、<intensite>(激烈さ)という用語を使っているが)において、神と対面し、神を癒すほどの働きをもつのであると言う。当代随一の仏教思想家(哲学者)の思想が、SF作家光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』と同じような結論に導かれるのも面白い。


 津田博士の仮説は大胆であるので、その後の歴史的動きを見てみよう。

 仏陀の生存中の教団は、その哲学を科学的正確さで追求した。理法の内容からして、一般の社会人が、たとえ王侯貴族であろうと、身分を保持し、社会生活を営みながら<最初期の解脱プログラム>を履修できるものではない。

そのためには社会生活と肉親の全てを犠牲にし、出家する必要があった。仏陀が懸念したように、ほとんどの人間には実修できるものではない。

しかも、後に<波羅密の方法>(パーラミターナヤ)と呼ばれる釈迦の教えは、非常に時間を必要とした。人間の一生ではまかない切れず、<三阿僧祇劫>という膨大な時間をかけて、何度も生まれ変わり、僧として修行を繰り返して、初めて解脱できるのである。

大多数の衆生は、仏陀の教え、最終的な解脱からは切り離されていた。仏陀の教団についていける者たちは小数のエリートだったのだ。

 従って、当然のことだが、カリスマ的指導者である仏陀の没後に、教団は崩落した。

 それは<神秘哲学の閉鎖的実践集団>から、<教祖を神格化した布教集団>への変貌、或いは教えの民衆化という運動に現れた。

これを追求した者たちは、自分たちの運動を<大乗>と呼び、仏陀の本来の教えに忠実な者たち(上座部仏教)を侮蔑の念をこめて<小乗>と呼んだ。

「乗」とは<乗り物>の意味であり、<大乗>の方が多くの民草を救えるという自負が呼ばせたものだ。

 しかし、仏陀の発見した真理の本質的部分が変化した訳ではない。大乗仏教の僧侶は、トリックを使ったのだ。

釈迦の方法論は、人間の業や煩悩を無くすために否定的な努力を重ねる<止滅の道>(ニヴリッティ・マールガ)と、世間的活動を積極的に行い心活動を活発にする<促進の道>(プラヴリッティ・マールガ)という二つの相反する方法論に集約できるが、上座部仏教では主として<止滅の道>を、大乗仏教では主として<促進の道>を励行した。

正しい行為を積み重ねれば、仏陀への信仰心を維持し、「やがては安心往生できる」というのは<促進の道>としても、かなり欺瞞的な教えである。

単なる善行のレベルで、修行もしない衆生が輪廻の枠の外に出ることはないからだ。

 ユダヤ教のハシドのように、日々の生活のなかにティクーンを織り込み<殻>(クリパー)の内部に聖なるものを満たすことにより、<神聖なる火花>(フンケ)をひとつひとつ解放していこうという運動に似ていなくもないが、ハシドにしても<輪>(ギルガル)から離脱するためには超人的な刻苦勉励が必要なのである。

ハシディズムの教えでは、毎夜、人間の霊魂は眠りとともに肉体を離れ、その一日分の罪科について天使の審判を受けるとされた。そして、死の瞬間に罪科が重ければ、抜き身の剣を保持した天使が、復活もままならぬように死者の霊体をぎざぎざに切り刻んでしまうのである。

 大乗仏教の僧都が、衆生の目から真理を隠して、道徳性で埋めて教えた動機は、あまりにも残酷な真理(在家信徒は所詮、解脱できない。)から目をそらす<大慈悲>であっただろう。そこにはドストエフスキーの『大審問官』がクリストスを非難する感動的な場面に通じる「神に離反しても民草を愛する」という覚悟が読みとれる。しかし、哲学的立場から見れば、嘘は嘘である。

 後に、この欺瞞が密教の発展とともに自然解消し、<真言の方法>(マントラナヤ)と呼ばれる現在の時間短縮の手段が開発される。弘法大師は、これを<即身成仏>と呼んだ。ある意味では「嘘から出た誠」である。

<真言の方法>にもいくつものやり方がある。日本に伝教し真言密教では、『大日経』において、真口意の<三密行>が説かれ、『金剛頂経』では<五相成身観>が説かれた。

ところが、後期密教においては、成仏実現のリアリティを高めるため、三密のうち身体要素が強調され、生理的行法や、性的行法が導入され、それを理論化、細密化していく。

 性を否定した仏教が、インドにおける最後の発展形態である後期密教において、性を肯定するがごとき教義に変化していったのは、興味深いものがある。

 チベット仏教のサキャ派の碩学サチェン・クンガーニンポは、著書『密教概論』において、大乗仏教の顕教と密教の違いを次のようにまとめている。

 顕教は、愛欲などの煩悩を打ちきる必要があり、<法身>と<色身>を成就するための菩薩としての修行期間が長い。それ故に<因乗>と呼ばれる。

 密教は、愛欲を立つ必要がない。短い期間で果を得るので、<果乗>と呼ばれる。

 つまりは、シッタータ王子が反自然的かつ直線的な技法で得た果を、自然かつ迂回的な技法で達成しようとするのが密教であるとも言える。システムは常に進化するのである。
http://akibba.no.coocan.jp/ARCHV/sirin/1anti.html


>「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」


釈迦は当時のインドで普通に行われていた

>>14
>レイプ大国インドの実態 顔に硫酸、素手で腸を出す……信仰とカーストが生んだ獣たち

>>07
>ダリットの女性として生まれていたら、生まれながらにして両親は虐げられ、嘲笑されているのを見て育つ。家は極度に貧しく、仕事もなく、いつも飢えている。

>そして、年頃になると、突然知らない男たちに拉致されてレイプされる。しかし、誰も助けてくれない。ダリットの女性はレイプされてもしかたがないと社会が思っているからだ。

>抵抗すれば殺される。手足を切断されたり、生きたまま燃やされたり、アシッド・アタック(酸攻撃)されたりする。警察も犯人を捜してくれない。
>なぜなら、ダリットだからである。


を毎日毎日見せられているうちに、セックスが地獄的世界を作る原因だと考える様になったのですね。

インドでなく日本でも事情は全く同じです:


@ 女子高生コンクリート詰め殺人事件

1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。


少年達は床に全裸の順子を寝かせ膣にオロナミンCの空瓶2本を突っ込んだ。
そして3キロの鉄アレイを持ち出し順子の腹の上1メートルにかざした。
少年

「ここから鉄アレイ落としたら瓶が割れて膣の中がグチャグチャだぜぇ。ヒヒヒヒヒ」


順子
「いやああああ!やめて!やめて!」


少年
「やめなああいギャハ!」


鉄アレイは順子の腹へ落ちた。2本の瓶は割れなかったが鉄アレイとぶつかる音か甲高く響いた。


少年
「おもしれえ!おもしれえよおおおお!!」

少年
「おれにもやらせて!おれにもやらせて!」


少年達は何度も鉄アレイを落とし膣から鳴る音を聞いて笑い転げた。 やがてこの方法の虐待に飽きた少年達は別の虐待を始める。

そして膣に入れた2本の瓶は忘れ去られたまま順子は絶命しコンクリート漬けにされた。


467 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:24:28 ID:ESwy0TF30

AはCとDに対し「道具を万引きして来い」と命令。CとDはホームセンターへ向かい、ペンチや鉄アレイなどを調達。


C「いいものパクってきやしたぜ」

少年達は順子の服を脱がせ、CとDが両足を押さえ、順子の股を開かせた。
Bは電気ドライバーを取り出し、コンセントに差し込む。


B「グヘへへこれを入れてやるぜ」


順子は両足をバタバタさせたが、CとDはガッチリ押さえる。

ウイーンと電気ドライバーが回転する。そして電気ドライバーは膣に入った。
順子は痛がって大暴れするが、Bは無理矢理電気ドライバーを突っ込む。

悲鳴とともに膣が血が飛び散り、順子の膣は破壊されていく。


そこにAはペンチを持ってきて、乳首をひねり潰す。

乳首からも血が飛び散り、乳首も膣も使い物にならなくなっていった。


裁判記録から一部引用


お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊

(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。

重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、


●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 

●ライターのオイルで皮膚を焼いた 

●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った)

 

手足を縛り、

膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。

その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!

(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)

しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、

500ccの尿を飲まされた。

ゴキブリも食わされたそうである。

また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしい事に、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。

(死体が発見されるまで)そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。

死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。

なお、死体は手足を縛られた状態であった。


◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には20本位の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。


初期

・強姦に加わった人間は100人超。強姦回数は400回を越える。

・全ての強姦が生。中出しに飽きると口内発射、顔面発射でフィニッシュ。

・過度の強姦で失神した場合は水をぶっかけ、息を吹き返させる。


中期以降

・膣にシンナーを入れ、キュウリやニンジンを出し入れする。

・肛門で爆竹や花火をして遊ぶ。

・床に複数のガビョウを置いて、その上に背負い投げやパワーボムで投げる。

・膣にオロナミンCのビンを入れる。破壊した肛門にもオロナミンCを入れる。

・膣に入ったオロナミンCの上に鉄アレイを何度も落とし、音を楽しむ。

・音楽に合わせてストリップショーをやらせる。

・ゴキブリ、ウンコを食べさせ、尿を飲ませる。

・体にオイルをまき、ライターで火をつけヤケドさせる。

・ヤケドでかぶれた肌を更に焼いたり、蹴ったりする。

・真冬に裸でベランダに出す。

・焼き鳥の串を肛門や膣に入れる。

・仰向けに寝かせて口の中に鎌や木刀を入れて顔を変形させる。

・裸にして竹刀や鉄の棒で毎日殴る。床に寝かせて竹刀をノドに押し付ける。

・膣を灰皿代わりにしてタバコを吸う。

・タバコの吸殻も膣に入れる。

・ハサミで膣に傷つけ大流血させる。

・乳房と乳首にマチ針を刺し、上から蹴りを入れる。

・乳首をペンチで潰す。


遺体の状況

・肛門と膣の中にはオロナミンCが入っていた。鉄アレイで割られた破片もあり。

・顔面は殴られた傷や腫れで識別は全くつかない状態。

・体中がヤケドとアザだらけで髪の毛はなかった。

・性器と肛門は完全に破壊。


現場検証の際、床、壁のみならず、天井にまで血が飛び散っていた。目鼻口の位置が判らぬほど膨れ腫上り、御両親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。解剖の結果


頬骨・顎の骨が砕ける

ほぼ失明状態 片目においては完全失明

鼓膜が破損し、聴覚不機能

歯茎に付いている歯が一本もない

子宮・肛門は最も損傷が酷く、他の人体部より激しく腐敗、

文字通り完全に破壊され双方の壁は引き裂け、区別が無くなり、中にはタバコの吸殻、花火、瓶2本

頭髪は過度の恐怖により抜け落ちていた

脳が縮小していた(あまりの辛さに耐え切れず、脳自身が死を選択・命令する現象)

彼女が最後に言った言葉は「助けて下さい」ではなく「もう殺して下さい」であった


乳に針二十本くらい入ってた、は2ちゃんで最近知ったが
どれほど恐ろしいことをやらかしてくれたのかと唖然としたよ。
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/458.html


A中学で一番の美少女に毎朝精液を飲ませていた旭川市立北都中学校の女子中学生校内集団レイプ事件


朝、少女が呼び出された男子トイレに行くと、既にDQNのケンジとタカシと吉田の三人がボッキしてスタンバイしている!

「遅えぞ!」
「申し訳ありません!」
「ノーパンチェックだ!」
「かしこまりました!」

少女は自らスカートをたくし上げる!パンツ!履いていない!

ノーパンチェック済ますとそのままケンジの手マン!十分に濡れたところで立ちバックだ!

ケンジは少女の尻を無茶苦茶に叩きながらの激しいピストン!

中出しの後はお掃除フェラだ!「美味しいミルクをありがとうございます」

「次は俺の番だ!」タカシがバキュームフェラを要求!

四つん這いになって激しくチンポを吸引!

吉田は少女の後ろに回って尻を撫で回しながら、舌で少女のアナルを愛撫!

朝からイキまくりイカせまくりの辛え学校生活だぜ!


・加害者達は学校の廊下をバイクで走るキチガイ。同級生はおろか教師も平気で殴っていた。

・当初行われていたいじめは、被害者の胸が大きいことをからかうことから始まった。被害者の胸を触り、スカートをめくってお尻を触るような比較的軽い性的ないじめだった。

・加害者の1人が被害者に交際を迫ったが断われた。それ以降、性的ないじめの内容が激しくなった。トイレや空き教室に無理やり連れ込み、服を脱がせて被害者の身体を執拗に弄び、フェラチオを強要するようになった。

・中2の夏に処女を奪われた。それ以降、フェラチオの強要だけでなく度々強姦されるようになった。

・被害者は最初、激しく抵抗していたが、そのたびに過激な暴力を振るわれていた。たび重なる暴行と脅迫により、中2の半ばにはほとんど言いなりになっていた。

・被害者は加害者に敬語を使い、ご主人様と呼ばされていた。命令されればクラスメートのいる教室でも裸になった。フェラチオのときに精液を飲んだら「おいしいミルクをありがとうございます」と言わされていた。


・日常的に強姦されるようになった当初、加害者は膣外に射精していたが、徐々に膣内に射精されることが増えていった。妊娠を恐れた加害者は、被害者に売春をさせた金でピルを購入して常飲させていた。

・被害者が少しでも反抗的な態度をとったら容赦なく殴りタバコの火を押しつけた。

「兄貴とセックスさせるぞ」
「母親も犯すぞ」
「少年院なんてすぐ出てこれる」

と脅していた。


・陵辱現場に連行されている際、通りかかった教師に「助けて」と叫んだが無視された。被害者が教師に助けを求めたことに激昂した加害者は被害者の後頭部を殴り、背中にタバコの火を押しつけるなどの激しい暴行を加えた後に強姦した。

・加害者の機嫌が悪いと命令に従順でも暴力を振るわれることがあった。教室で裸にさせられて、肛門に指を突っ込まるいじめをされていたとき、「うんこついたじゃねえか」と激昂した加害者に長時間に渡る暴行を受けた後に強姦されている。

・授業中にもトイレに連れて行かれて強姦されていたが教師は何もしなかった。体育の授業ではサイズの小さい体操服を着るように命令されていた。授業中にも殴られて体操服を脱がさていたが教師は何も言わなかった。

・性器や肛門に様々な異物を挿入されていた。性器にタバスコを塗られたときには、あまりの痛みに絶叫して許しを乞うたが、加害者は大笑いしていた。「ま○こにタバスコぶっかけるぞ」と加害者が脅すだけで泣き出すほど怯えていた。

・下着をつけずに登校するよう命令されていた。加害者が「ノーパンチェック」と言うと自分でスカートめくって下着をつけていないことを証明していた。

・陰毛に火をつけられて縮れてしまったときには「汚ねえから剃ってこい」と加害者に言われた。それ以降は常に剃毛してくるように命令されていた。

・自由な排泄を禁止されていた。加害者の見ているところで裸になって用を足していた。また、浣腸器具を使って野外での脱糞を強要していた。「このうんこてめえに食わせるぞ」と脅されていた。

・尻に落書きをされた上、裸で踊るように命令されていた。手を抜くと暴行されるため、必死に尻を振って加害者の歓心を買っていた。

・被害者との日常的な性交はリーダー格である一部の加害者だけの特権だった。他の加害者の性処理はフェラチオやパイズリが主だったが、加害者の誕生日などには性交を強要されていた。
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/738.html


こういう現実を毎日見ていた釈迦は、性欲がすべての悪の根源だと判断して、性欲を抑える事を悟りの最終目標にしたのです:


現法的梵行とは、津田博士の言を借りると

「八正道の本質というのは、<現法的梵行>、すなわち、一生の間性的貞潔を守る、要するにセックスをしないということです。」

ということだ。

つまり、仏教において、最大の戒律は、<不犯>であった。 

もちろん、これは人間の本能に著しく反する行為である。
インド人にとって、性生活を営むことと生きることはほとんど同義語であり、<現法的梵行>に従うことは、生きることを放棄せよと命令するのに等しい。

 悟達したシッタータ王子、いや釈迦無二仏陀は、この非人道的なシステムに人間が耐えられる訳がないと判断し、教えを伝授するのを断念(これを<不説>という。)し、そのまま涅槃に入ろうとした。

いかに真理であろうと、多数の人間が賛同できるか、少なくとも甘受できるシステムでないと、衆生の絶望を深めるだけだからだ。


18. 中川隆[-7630] koaQ7Jey 2017年5月26日 10:55:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

橘玲の世界投資見聞録 橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方


2017年5月25日 インドのカースト制度は「人種差別」。
カースト廃止を望まない被差別層もいる現実
http://diamond.jp/articles/-/129413


 インド社会を体験したときに日本人がもっとも戸惑うのはカーストの存在だ。「中進国から先進国を目指す経済大国になったインドにもうカーストは関係ない」との意見もあれば、「カースト差別はますます厳しくなり、インド社会を蝕んでいる」との主張もある。

 カースト制をどのように理解したらいいのだろうか。ここではそれを考えてみたい。

デリーの大道芸人                               (Photo:©Alt Invest Com)

カーストによる職業分業は共同体を安定させるための知恵

 インド旅行で驚くのは、レストランに女性の従業員がいないことだ。イスラーム圏では若い女性は既婚・未婚にかかわらず人前に出てはいけないとされているため、レストランやカフェにはウェイターしかいないが、厨房では女性が料理をしていることも多い。インド(ヒンドゥー教)では女性の顔をヴェールで覆うような習慣はないが、ウェイトレスはもちろん女性が厨房で料理をつくることもない。

 高級ホテルのレストランでは美しく着飾った女性が受付にいるものの、彼女たちの仕事は客をテーブルに案内することで、料理を運んだりはしない。いちど、受付の女性が水を持ってきてくれて珍しいなと思ったが、観察していると、彼女が案内と同時に水の入ったグラスをテーブルに置くのは外国人客だけだ。明らかにインド人とわかる場合は、ウェイターがトレイにグラスを載せて彼女のあとをついてくる。

 これはヒンドゥーの“浄”と“不浄”の文化からきている。最高位のカーストであるブラフミン(バラモン)はもっとも浄性が高いが、それは不浄のものに触れると穢れてしまう。

 浄と不浄は厳密に決められており、もっとも不浄なのは体外に排泄されるものだ。ここから月経中の女性は不浄であるとされ、その女性が触れた水や食べ物も不浄で、それを飲食することで浄性が穢れるという観念が生まれた。さらに、女性が月経かどうかは外見から判別できないため、見知らぬ女性が触れた飲食物はすべて忌避されることになった。これが、インドのレストランに女性従業員がいない理由だ。

「女性の穢れ」という文化はインドに特有のものではなく、日本でも神社仏閣には女人禁制のところがあるし、大相撲の「神聖な」土俵に女性知事が上がることをめぐって紛糾したこともあった。「伝統」という美名でごまかされているものの、その理由は女性が「不浄」だからだ。

 しかしだからといって、日本では、カフェやレストランでウェイトレスが持ってきた飲み物や料理を「穢れている」と感じるひとはいないだろう。インドの特徴は、この「穢れ」の感覚が社会のすみずみまで徹底されており、街の飲食店はもちろん外国人客の多いレストランやカフェ、さらにはホテルのバーですら女性従業員が排除されてしまったことにある。

 インドのレストランのもうひとつの特徴は男性従業員がやたらと多いことだ。これにも理由があって、カーストの低い者が触れた飲食物は穢れており、浄性が落ちるとされている。そのため本来は、料理をつくるのも運んでくるのも高位カーストでなければならないことになる。

 とはいえ、さすがにこれは現実的ではないから、都市部の飲食店では厨房の料理人のカーストまでは気にしないだろう。だがウェイターの場合は、誰が高位のカーストで誰が低位のカーストかが一目瞭然になる。ゴミや食べ残しに触れるのは低位のカーストだけなので、同じウェイターが客に食べ物を運ぶことは許されないのだ。

 こうしてインドのレストランはどこも、飲食物をサーブする係と汚れた皿を片づける係が必要になる(ゴミを拾ったり掃除をする係が別にいることも多い)。日本のレストランで1人でやる仕事を2人や3人に分けるのだから、必然的に、店は男の従業員で溢れることになるのだ。

 このことからわかるように、カーストには分業によってできるだけ多くの男に仕事を分け与える機能がある。女性は家庭で男に従属して生きることを強いられるが、これは労働市場から女性を締め出すわけだから、男性のあいだの競争率は下がるだろう。身分差別と性差別は、人口圧力がきわめて高い社会で共同体を安定させるための「工夫」でもあったのだ。

ムンバイのカフェ。店員はすべて男性              
http://diamond.jp/articles/-/129413

インドでは3500年も前に生まれた身分差別が連綿と現在まで受け継がれている
http://diamond.jp/articles/-/129413?page=2


 カースト制度は3500年前までさかのぼるといわれている。

 この頃インド大陸では、インダス川流域(現在のパキスタン)に高度な農耕文明が発達していた(インダス文明)。その北西の中央アジアには「アーリヤ」と称する遊牧民がおり、紀元前1500年頃、その一部が南下を開始してインダス川流域(パンジャーブ)に移り住んだ。これが「インド・アーリヤ人」だ。

 その後、紀元前1000年頃に中央アジアから南のイラン方面に大規模な移動が始まった。彼らは「イラーン」と自称したが、これは「アーリヤ」と語源を同じくする。インド・アーリヤ人とイラン人は、人種的には同じアーリヤなのだ。古代ペルシアの宗教ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』の神々と、ヒンドゥー教のヴェーダ聖典の神々に共通するものが多いのはこれが理由だ。

 アーリヤ人の神々への賛歌を集めた『リグ・ヴェーダ(聖なる知識)』は前期ヴェーダ時代(紀元前1500〜前1000年頃)に成立したとされるが、そこではブルと呼ばれる城塞都市に立てこもるダーサ(ダスユ)と呼ばれる先住民を、雷神かつ軍神であるインドラが(戦士と御者が乗り2頭ないし4頭の馬が引く)二輪戦車と金属製の武器によって征服していく様が描かれている。

 アーリヤ人は先住民のダーサを「黒い肌の者」と呼び、自分たちの「白い肌」と比べた。さらにダーサは、「牡牛の唇を持つ者」「鼻のない(低い)者」「意味不明の敵意ある言葉をしゃべる者」とも呼ばれている。こうした先住民の多くは、現在、南インドに多く住むドラヴィダ系のひとたちだと考えられている山崎元一『古代インドの文明と社会』。

 カースト制度というと「ブラフミン(司祭階級)」「クシャトリア(軍人階級)」「ヴァイシャ(商人階級)」「シュードラ(奴隷)」を思い浮かべるが、この身分の区別は「ヴァルナ」と呼ばれている(このうちブラフミンからヴァイシャまでが高位カースト)。ヴァルナの原義は「色」だ。ここから、カースト制の起源は(白い肌の)アーリヤ人による(黒い肌の)先住民の征服にあると考えられている。この4つのカーストの下に、「アンタッチャンブルズ」と呼ばれる不可触民がいる。

 かつて日本列島には狩猟採集生活の縄文人が暮らしていたが、中国大陸(中原)の混乱によって大量の難民が発生し、それに押し出されるようにして、紀元前500年(もしくは前1000年)頃、朝鮮半島南端から弥生人が対馬海峡を渡り、鉄器と農耕技術を持って九州にやってきた。その後、弥生人による縄文人の征服が進み、両者が混血したのが現在の日本人だ。

 だが今日の日本で、「弥生系」と「縄文系」のあいだに身分差別があるなどということはなく、そもそも自分が弥生系なのか縄文系なのか誰も気にしない。弥生人と縄文人という異なる「人種」は、完全に融合してしまったのだ。

 これは日本にかぎったことではなく、地続きであるアジアやヨーロッパでは古来、(侵略をともなう)大規模な人口移動が繰り返され、征服者と先住民が入り乱れ混ざり合ったが、そのような古代の歴史が現在まで尾を引いている地域はほとんどない。

 ところがインドでは、3500年も前に生まれた身分差別が連綿と現在まで受け継がれている。この気の遠くなるようなタイムスパンが、カースト制のいちばんの特徴だ。

路上の床屋(アーグラ)。他人の身体に触れることは「不浄」とされるので、これも低位カーストの仕事とされている                      

カースト制の本質は「人種差別」

「カースト」の語源はポルトガル語で「血統」を意味する「カスト」で、その後のイギリス統治時代に、インド社会に固有(とみなされた)の複雑な身分・職業区分が「カースト制」として整理された。こうした経緯から「(現在の)カースト制は植民地時代にイギリスがつくった」との主張もあり(これについては次回述べる)、その立場からはカースト制を安易に古代インドにまでさかのぼって説明するのは「偽歴史」と批判されるかもしれない。

 しかしそれにもかかわらず、古代インドの身分差別(ヴァルナ)は現在のインドを理解する鍵となっている。なぜならこれが、「不可触民(アンタッチャブルズ」と呼ばれる差別されているひとたちが、自らの来歴を語る物語だからだ。

 彼らの物語によれば、アーリヤ人という「人種」が先住民という「人種」を支配し、奴隷化したことで身分差別が生まれた。これは時代が異なるものの、アメリカ南部において白人農場主がアフリカの黒人を奴隷として使っていたのと同じだ。すなわちカースト制の本質は「人種差別」であり、反カーストの運動はインド社会に固有の問題ではなく、人種差別に反対する世界的な運動とつながっているのだ。

 作家の山際素男氏はインドの不可触民の実態を日本にもっとも早く伝えた一人で、『不可触民と現代インド』(光文社新書)には、不可触民の政治団体バムセフ委員長によるカースト制度の説明が紹介されている。ちなみにバムセフは、不可触民階層出身ののエリートであるカシム・ラムが創設した政治団体で、2000年当時、会員は140万人を超え、全国に支部と協同組合を組織し、各種新聞を発行するばかりか、インド最大(人口1億4000万人)のウッタル・プラデシュ州ではカシム・ラムの盟友かつパートナーであるマヤワティー女史がBSP(人民大衆党)の党首となり、ヒンドゥー主義政党であるBJP(インド人民党)と連立して州知事の座に着いていた。

 バムセフの委員長は不可触民を「ダリット(虐げられた人、倒れた人)」と呼び、インド社会の85%を占めるという。インド社会はブラフミン、クシャトリア、ヴァイシャの15%の「高位カースト」が政治・経済・行政などすべての権力を握っており、狭義の不可触民だけでなく、ムスリムや仏教徒、シク教徒、さらにヒンドゥーの低位カースト(後進社会階層)を加えた残り85%の国民を“支配”しているのだ。こうした世界観では、高位カーストは征服者であるアーリヤ人の末裔で、大多数のインド人は宗教や身分、職業のちがいにかかわず、誰もが先住民の末裔である「ダリット」ということになる。現代インドは3500年前と同じく、アーリヤ人種(白人)が先住民であるダリット(黒人)を差別し、抑圧し、奴隷化している「人種差別国家」なのだ。

「カースト制はバラモンたちが作ったものであり、それを先住民に強制したのです」と、バムセフ委員長はいう。

「彼ら(バラモン)は被征服者であるダリットを3000ものジャーティ(職業区分)に分断し、そのジャーティーの中で互いに憎み合わせ、闘わせてきました。そして一切の知的能力、知識を奪い取り、物事を正しく見、判断する力を根こそぎにしました。

 バラモンの聖典とされるヴェーダを教えることのできるのはバラモンだけであり、クシャトリア、ヴァイシャたちは学ぶことを許されていただけで教えることは禁じられていました。今でも大学などの教授をはじめ、教育者の大半をブラーミンが独占しているのもそのためなのです。ヒンズーの聖典をシュードラが“立ち聞き”していたというだけで、耳に煮えたぎった油を注ぎこまれる罰(死刑)を受けたことは、“マヌ法典”にくり返し出ています」(『不可触民と現代インド』)

 不可触民の政治団体の委員長がここまで激しく高位カーストを批判するのは、ナレンドラ・モディ現首相が率いる政権与党BJPが、ヒンドゥトヴァ(ヒンドゥー・ナショナリズム)による民族融和を進めるために、「アーリヤ種族はもともとインドにいた先住民だ」と主張しているからだという。アメリカの人種問題にたとえるなら、これは白人が「人類の故郷はアフリカなのだから、自分たちもアフリカ起源だ」というようなもので、これまで差別されてきたダリットからすれば許しがたい主張なのだ。

ムンバイのドービーガートは洗濯カーストの村。他人の衣服を洗うのは不可触民の仕事とされた 
http://diamond.jp/articles/-/129413?page=2


被差別層が必ずしもカーストの撤廃を求めているわけではない
http://diamond.jp/articles/-/129413?page=3


 カースト問題が難しいのは、被差別層(ダリット)が必ずしもカーストの撤廃を求めているわけではないことだ。

 そもそもインド憲法は、17条で「不可触民制は廃止され、いかなる形式におけるその慣行も禁止される。不可触民制より生ずる無資格を強制することは処罰される犯罪である」としてカーストによる差別を禁じているものの、カースト制度そのものの撤廃を宣言したわけではない。

 なぜこのような条文になったかを説明しようとすると、インド独立をめぐるさまざまな利害対立が顕在化した1930年代の複雑な交渉過程から説き起こさなければならないが、要約すると次のような経緯だ。

 ムスリム勢力が「自分たちはマイノリティ(少数民族)ではなく一民族である」として独立を強行したことで、ガーンディーは残されたインドを「ヒンドゥーの国」として統一するほかなくなった。

 当時、ヒンドゥーの進歩派(改革派)のあいだでは、「ヴァルナは差別的なヒエラリキー(階層構造)ではなく、たんなる分業形態に過ぎず、本来、不可触民を含めすべてのカーストは平等である」という思想が唱えられていた。いわば、カーストから差別性を取り除き近代的な平等に適合させようとしたのだが、ガーンディーがかなり無理のあるこの「進歩主義」に与したのは、ヒンドゥーを全否定することで社会が混乱し、イギリスに介入の口実を与えインド独立が頓挫することを恐れたからだった。

「カースト制は差別ではない」という“きれいごと”に対して真っ向から反論したのは、不可触民出身の政治家で、インド憲法の起草者でもあったアンベードカルで、「差別され、排除されてきた不可触民がヒンドゥーの一部であるわけがなく、(ムスリムと同じ)独立した民族として分離選挙(自治)を認められるのが当然だ」と主張した。

 しかしガーンディーは、アンベードカルのこの分離主義をぜったいに認めることができなかった。イギリス植民地政府がイスラーム勢力の要求をいれて分離選挙を認めたことがパキスタン建国につながったからで、4000万〜5000万人といわれる不可触民に分離選挙が認められれば、独立インドが内部から解体してしまうおそれがあった。1932年、イギリス首相マクドナルドが、カースト差別撤廃運動の高まりを受けて不可触民への分離選挙を認めると(コミュナル裁定)、ガーンディーが断食によって抗議したのはこれが理由だ。

 この「生命を賭した抗議」によってアンベードカルは妥協を余儀なくされたが、ガーンディー側も「カースト差別はヒンドゥー教徒のこころの問題」というきれいごとで済ますことはできなくなった。こうしてインド憲法に、カースト間の差別を禁止するとともに、カースト制度によって差別されてきたひとびと(指定カーストおよび指定部族)に対する特別規定が設けられ、衆議院および州立法議員の議席が「留保(リザーブ)」されることになった。分離選挙を撤回する代償として、被差別層に対する政治的権利の優遇を憲法で定めたのだ。この「リザーブ制度」が、インド版のアファーマティブアクション(少数民族優遇措置)になる。

 このようにして独立後のインドでは、特別な教育的・福祉的支援によって不可触民の地位を引き上げると同時に、大学や行政機関において「特別枠」を用意することで、彼らをヒンドゥーに「包摂」することが国是となった。リザーブ制度によって、不可触民のなかから高等教育を受け、行政機関で高位の職に就いたり、経済的・社会的に成功する者が現われ、バムセフのようなダリット(不可触民)のための政治団体も誕生するようになる。

 リザーブ制度は不可触民の権利拡大運動の成果であり、差別の解消に寄与したものの、その反面、ダリットの政治活動は深刻な矛盾にさらされることになった。彼らが求めるのはカーストの撤廃だが、そうなると「指定カースト」への優遇措置もなくなってしまうのだ。こうしてダリットのあいだに、自らのアイデンティティは「被差別」にあるとして、これまでの既得権を守りつつより大きな政治的権利を求める動きが主流になっていく。これが、「カーストの固定化」と呼ばれる現象だ。

 不可触民たちの政治活動は、差別撤廃を求めつつ差別に依存するようになった。現代のインドでは、カーストが解消されるどころか、低位カーストが政治団体化し国政や州議会で政治家に圧力を加えることで、それぞれのカーストの政治的利益を競っているのだ。

 マイノリティ(差別される少数者)への優遇措置は彼らの地位向上に資すると同時に、深刻な社会の対立を引き起こす。同様の政治現象は、アメリカの人種(黒人)問題だけでなく、アパルトヘイト後の南アフリカで黒人を対象に行なわれているアファーマティブアクションでも起きている。カースト制はインド特有の宗教や文化ではなく、「差別のない社会をいかにつくるか」というグローバルな課題の困難さを象徴してもいるのだ。

映画『スラムドッグ&ミリオネア』の舞台となったダラビ地区 
http://diamond.jp/articles/-/129413?page=3


19. 中川隆[-7371] koaQ7Jey 2017年6月23日 17:04:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年6月22日
インド・アーグラのカフェで知った極度に閉鎖的な共同体が生み出したあまりにも残酷な慣習
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/132802


 ムガル帝国5代皇帝シャー・ジャハーンが愛妃ムムターズ・マハルの死を悼んで建てたタージ・マハルで知られる北インドの古都アーグラに、Sheroes Hangoutという小さなカフェがある。

 Hangout(ハングアウト)は「たまり場」のことだが、Sheroes(シェローズ)という見慣れない単語はなんのことだろう。これはsheとheroを組み合わせた造語で、文字どおり「女性のヒーロー」のことだという。ヒーローの女性形はヒロインだが、この言葉は「ヒーロー(男性主人公/英雄)に付き従うかよわい(そして若く美しい)女性」という含意を強くもっているため、それを嫌って1990年代後半からフェミニズム界隈で使われるようになったらしい。

 Sheroes Hangoutは「女性ヒーローのたまり場」になるが、Sheroesとはいった誰なのか。それは、アシッド・アタックの被害者たちだ。

 アシッド・アタックはインドをはじめとして南アジアで頻発する、若い女性の顔に硫酸・塩酸などの酸(アシッド)をかける犯罪行為のことだ。Sheroes Hangoutで働いているのは、アシッド・アタックによって顔に重大な損傷を被った女性たちなのだ。

北インド、アーグラのCafe Sheroes Hangout    (Photo:©Alt Invest Com)

インドではありえない女性従業員の店

 私がSheroes Hangoutのことを知ったのは、Trip Advisorでアーグラのレストランを調べていたときだ。圧倒的に高い評価を受けているカフェがあったのでページを開いてみると、店の紹介写真に女性の従業員が写っていた。当たり前と思うかもしれないが、これはインドのカフェやレストランではおよそありえないことだ。

 インドでは女性は“不浄”とされており、高カーストのひとたちは見知らぬ女性がつくったり、運んできた料理に口をつけることを極端に嫌う。そのためインドでは、ウエイトレスはもちろん女性の料理人もいないのだ(高級レストランに美しいサリー姿の女性がいることはあるが、彼女たちは客をテーブルまで案内するだけだ)。

[参考記事]
●「インドのカースト制度は「人種差別」。カースト廃止を望まない被差別層もいる現実」
http://diamond.jp/articles/-/129413

 次に奇異に感じたのは、ふつうは笑顔の写真を載せるはずなのに、その女性従業員の顔が歪んでいるように見えたことだ。「なんでこんな写真を使うんだろう」と思ってレビューを読み、ここがNGOによって設立されたインドで最初の、アシッド・アタックの被害者のための施設であることを知った(パキスタンに同様のコンセプトの美容院があるらしい)。レビューの多くは欧米の観光客のものだったが、中国や韓国、ベトナムのひとたちのものもあり、みな口々に「素晴らしい体験」と書いていたので、タージ・マハルを観光する機会を利用して行ってみることにしたのだ。

 Sheroes Hangoutは幹線道路に面した小さな一戸建てを改築したカフェで、中庭のテラス席では若い白人女性が一人で本を読んでいた。1階にはテーブル席が6つか7つあり、左手の大テーブルはスタッフが使っていた。壁の書棚に自由に読める本が並べられ、部屋の奥には試着室があって、これも若い白人女性がサリーの着付けをしてもらっていた。それを手伝っている女性の顔にはたしかに傷があるが、凝視しないとわからない程度だ。

カフェの店内。奥でサリーの着付けをしてもらっている    (Photo:©Alt Invest Com)

 窓際の席に座って、カレーとビリヤニ、カフェオレを頼んだ。注文を取りに来るのはNGOのスタッフの女性だったが、これはアシッド・アタックの被害者の多くが地方の出身で、満足な初等教育を受けることもできなかったため英語を話せないからのようだ。

 あらかじめわかっていても、やはり驚きはあった。だがそれは顔の傷というより、女性が料理を運んでくることだった。北インドだけでなく、南インドやスリランカでも「ウエイトレス」に出会ったことはないから、これはまさに初体験だった。

 カフェの2階が調理場になっていて、そこではアシッド・アタックの被害者の女性が料理をつくっている。インドでは、浄と不浄のタブーがきわめて強い。入口に大きな女性のイラストを掲げているのは、一般のインド人がなにも知らずに入ってきてトラブルになるのを防ぐためもあるのだろう。

カフェのメニュー。アシッド・アタックの被害を受けた女性がコック (Photo:©Alt Invest Com)

カレーとビリヤニ、カフェオレ。料理はベジタリアン    (Photo:©Alt Invest Com)

 Sheroes Hangoutがオープンしたのは2014年末で、それ以来『ウォール・ストリート・ジャーナル』などさまざまなメディアで紹介されている。

 アシッド・アタックの被害者は傷つけられた顔を恥じて外出もままならず、実家で邪魔者扱いされながら老いていくほかはない。NGOの創設者であるアロク・ディキシットAlok Dixitは、彼女たちの仕事の場をつくると同時に、理不尽な暴力とたたかう「ファイター」として、傷つけられた顔をさらして生きていく勇気を与えることを目的としているのだと述べている。

 店の壁には、各国語でカフェの説明がある。日本語は「シエロたむろう、酸攻撃戦闘機でうまく走っているカフェ」という意味不明のものになっているが、これはインターネットの翻訳を使っているからで、英語は「A Cafe Successfully Running by Acid Attack Fighters」だから、「アシッド・アタックへのファイターたちによって成功裏に運営されているカフェ」ということになる。

 2016年10月には映画『ハリー・ポッター』シリーズで死喰い人のリーダー、ルシウス・マルフォイを演じたイギリスの俳優ジェイソン・アイザックスが訪問したことがニュースになった。その影響もあって、客のほとんどは店の趣旨に賛同した欧米の旅行者のようだ。

カフェの壁に掲げられた店の説明。残念ながら日本語は意味不明  (Photo:©Alt Invest Com)


 
 Sheroes Hangoutはカフェだけでなくワークショップも兼ねており、サリーやアクサリーなどを自分たちでつくっている。試着していた女性は、サリーからサンダル、腕と足首のブレスレットまで一式を購入すると、その格好のまま表で待たせていた車に乗り込んでいった。

 料理はどれも美味しかったが、もうひとつ驚いたのは、支払いをしようとすると「いくら払うかあなたが決めてください」といわれたことだ(そういえば、メニューにも値段が書いてなかった)。“ノン・プロフィット”の事業だからというが、こういうところでいくら出せばいいか見当もつかないので、似たようなカフェの相場の1.5倍くらいを払い、それとは別に『Priya’s Mirror(プリヤの鏡)』という絵本を購入した。

 その絵本は、虎に乗ったプリヤという若い女性(彼女はかつてレイプされた経験があった)が、口から酸を吐く男(彼はかつて、恋人の兄たちに酸を飲まされ怪物に変身した)に囚われている、アシッド・アタックの被害者の女性たちを救出する、という物語だった。プリヤは、「わたしたちはたんなる“Victim(被害者)”ではなく、それ以上の強さを身につけることができる」と説き、女性たちは怪物の城を出て、法律家や芸術家など、それぞれの夢を実現するのだ。――これが、Sheroes Hangoutの理念なのだろう。

アシッド・アタックの被害者に、強く生きることを説く『Priya’s Mirror(プリヤの鏡)』   (Photo:©Alt Invest Com)
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アシッド・アタックの加害者を”悪魔化”
http://diamond.jp/articles/-/132802?page=2


 私と入れ替わりに入ってきたのはイギリス英語を話す若いカップルで、タンドリーチキンを注文した男性は、ここはベジタリアンの店だといわれたあと、戸惑った顔でメニューと店の様子を交互に見ていた。女性の方はなにもかも承知しているらしく、さっさと自分の注文を済ますとスマートフォンを眺めている。

 女性客が多いのは、顔に酸をかけられるというおぞましい犯罪がより身近に感じられるからだろう。それに対して若い男性の困惑は、それが別世界の出来事としか思えないからではないだろうか。

 アシッド・アタックの特徴は、誰もが被害者に同情や共感せざるを得ないのと対照的に、加害者を理解することができないことだ。若い女性の顔を破壊して人生を奪うような所業がいったい「人間」にできるものだろうか。こうして加害者は“悪魔化”されていくことになる。

 アシッド・アタックの多くは、求婚を断られた腹いせだと説明される。そんな些細なことで顔に酸を浴びせるのはたしかに“悪魔の所業”以外のなにものでもない。だが加害者の男を理解不能な“悪魔”にすることは、「遅れたインド」「遅れたヒンドゥー」への偏見にもつながっていく。そんな決めつけをする前に、事件の背景についてもうすこし考えてみよう。

 そもそもインドであろうがどこだろうが、娘(妹)に言い寄った男が逆恨みして顔に酸をかけるような暴力を不問に付す社会が存在するはずはない。司法や警察が機能しない地域では、女性の家族は加害者の男に自分の手で報復することを当然と考えるだろう。

 だとすればアシッド・アタックへの疑問は、男がなぜそのようなことをするのか、というよりも、なぜ加害者の男が、事件後も被害者の家族からの報復を免れ、ムラ社会のなかで堂々と暮らすことができるのか、ということにある。そしてその理由は、被害者の家族も加害者の行為を容認しているから、という以外にない。

 インドだけでなく、封建的なムラ社会はどこも、女性は父親の許可のない男性と交際することは許されない(日本も戦前まではそのような社会だった)。そこでは、結婚は男女の自由な意志で決めるものではなく、イエとイエとのつながりを生む「契約」だ。子どもが適齢期になると、どの男性がどの女性と結婚するかは、本人たちとは関係のないところで、双方のイエによって決められる。それを受けて男性は女性に求婚し、女性は無条件にそれを受け入れなければならないとされている。

 この求婚を断ることは、相手の男性だけでなく、彼の属するイエの面子をつぶすことにもなる。

 いったん面子をつぶされると、なんらかの方法でそれを回復しなければ、ムラ社会のなかで生きていくことはできない。男性は、一生笑いものにされるくらいなら、どんなことでもしようとするだろう。このとき面子を回復する“正当な”報復行為が、アシッド・アタックなのだ。

 娘(妹)が顔に酸をかけられても家族が黙っているのは、それが家族の一員に対する個人的な暴力ではなく、ムラの掟を破った当然の報いだと思っているからだろう。それに反抗すれば、こんどは自分たちが村八分にされ、兄や弟が結婚できなくなってしまう。インドのムラ社会では、男が女よりはるかに価値が高いとされているので、兄弟のために姉妹が犠牲になるのは仕方のないことなのだ。

 アシッド・アタックがインドのムラ(地域)社会で容認されていたことは、近年まで、加害者が逮捕されても証拠不十分などでほとんど有罪にならないか、傷害などの微罪で済まされてきたことからもわかる。法律の建前とは別に、責任を負うべきは酸をかけた男ではなく、イエとイエとの契約を拒否した女の方だというのが暗黙の了解になっていたのだ。それでもインドでは、近年は性暴力への批判が高まり、硫酸や塩酸などを薬局の店頭で販売することが禁じられたほか、2013年の法改正でようやく、アシッド・アタックの加害者は最長10年の懲役刑に処せられることになったという。

美しく着飾ったアシッド・アタックの被害者たち。NGOが企画したファッションショーの写真 (Photo:©Alt Invest Com)
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親が娘を殺す「名誉の殺人」

 アシッド・アタックが「ヒンドゥーの悪習」ではないことは、イスラーム諸国(とりわけパキスタン)で大きな問題となっている「名誉の殺人」が「イスラームの悪習」でないのと同じだ。

「名誉の殺人」は、親が認めていない男と性交渉をもった娘を家族が自らの手で殺すことで、欧米や日本など先進諸国で暮らすひとたちには想像すらできない行為だが、これも、結婚がイエとイエとの契約だというムラ社会のルールから理解可能になる。

「名誉の殺人」が問題にするのは結婚前の女性が性交渉をもつこと(処女性の喪失)ではなく、イエ同士が決めた相手以外の男性と恋愛することだ。仮に婚前交渉が発覚しても、双方のイエが結婚に合意したのなら、未来の花嫁を殺すようなことをするはずはない。

 だが、イエとイエとの約束事を娘が裏切って別の男と性交渉を持った場合(すなわち“傷もの”になると)、求婚を断った以上に相手の面子をつぶすことになる。その場合は、失われた面子を回復するには顔に酸をかけるだけではすまず、死をもって償わなければならない。

 だがいくらムラの掟を破ったからとはいえ、他人が自分の娘(妹)を手にかければ、深い恨みが残るだろう。その結果2つのイエが争えばムラの平和は乱されてしまう。そんな事態を避けようとすれば、掟を破った娘は、いかなる遺恨もなしに死の制裁を受けなくてはならない。

 こうした条件を満たす方法は、おそらくひとつしかない。それは父親や兄が自らの手で娘(妹)を殺すことだ。これなら誰を恨むこともできないから、ムラの平和を侵さずに秩序を回復できるのだ。

 娘が、(宗教や人種などの異なる)“許されない相手”と婚前交渉した場合は、自分たちのイエの名誉が汚されたことになる。「名誉の殺人」の特徴は、家族が“裏切り者”の娘を執拗に追いかけることだ。これは彼らが偏執狂だからではなく、名誉を回復しないとムラ社会から排除され、生きていけなくなるからだろう。

「名誉の殺人」の加害者である父親や兄弟(伯父や従兄弟が加わることもある)は、アシッド・アタックの加害者よりもさらに異常犯罪者の扱いを受けるが、じつは彼らはごくふつうのひとたちで、たまたま娘が許されぬ恋に落ちたことで、閉鎖的な共同体のとてつもない同調圧力によって、“裏切り者”を自ら「処刑」する以外の方途を失ってしまったのだ。逮捕されたときに彼らが堂々としているのは、自分が犠牲になって家族(イエ)を守ったと思っているからだろう。

 アシッド・アタックや名誉の殺人は、加害者の処罰を強化するだけでは(もちろんそれは重要だが)解決できない。この残酷な慣習を生み出しているのが極度に閉鎖的な共同体である以上、それを世俗化し、解体する以外に悲劇を止めることはできないだろう。

 私たちは漠然と、ムラや共同体を牧歌的な“よきもの”と思っている。それはある面では間違ってはいないが、しかしもうひとつのグロテスクな相貌も忘れてはいけない。アーグラのSheroes Hangoutで、そんなことを考えさせられた。


カフェの店内。手前にいるのはスタッフ     (Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/132802?page=2


20. 中川隆[-7209] koaQ7Jey 2017年7月09日 15:25:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年7月6日 インドの保守政権を牛耳るヒンドゥー至上主義者たちのねじれた民族主義
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/134435

 これまで何回かインドについて書いてきたが、この国の驚くべきところは、現代(もしくは未来)と中世が同居していることだ。

 ニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港から北東に15キロほどのニューデリー駅周辺(オールドデリー)では、喧騒と雑踏が支配し、道路を牛が歩き回り、ひとびとは(すくなくとも)イギリス植民地時代とほとんど変わらない暮らしをしている。

 一方、国際空港からハイウエイ48号線を南西に15キロほど下ったところにあるグルグラム(グルガーオン)地区は巨大な再開発地域で、六本木ヒルズのような高層ビルが集まるオフィスタウンを最新のメトロやトラム、モノレールが結んでいる。直線距離ではわずか30キロしか離れていないが、これが同じ時代の同じ国かと思うと頭がくらくらするほどの“格差”がある。

オールドデリーの喧騒                     
(Photo:©Alt Invest Com)

グルグラムの再開発地区              
(Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/134435

 
 これは私の個人的な感想ではなく、『フィナンシャル・タイムズ』南アジア支局長として長くインドを取材し、インド人女性と結婚して間近にひとびとの暮らしを見る機会を得たイギリス人ジャーナリストのエドワード・ルースも、自身のインド体験をまとめた

『インド 厄介な経済大国』(日経BP社)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4822247112/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4822247112&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22

を「グローバル化と中世の生活 インドの分裂した経済」という章から始めている。

 前回、アシッド・アタックの被害者の女性が運営するカフェを紹介したが、求婚を断られた復讐に若い女性の顔に硫酸や塩酸を浴びせるという蛮行は、インドの「中世的」な部分、すなわち人口過剰な閉鎖的共同体の前近代的な慣習がもたらすものだった。

こうした「中世のインド」を象徴するのが、インドの政治・社会で大きな影響力をもつヒンドゥー至上主義だろう。

今回は、日本ではほとんど知られていないその実態を、エドワード・ルースの取材体験をもとに見てみたい。

「世界最大の民主国家」インドの特異な保守政権

 RSS(ラシュトリヤ・スワヤラセヴァク・サン=民族奉仕団/民族義勇団)は1925年、インド中部ナーグプルの開業医K.B.ヘーゲールワールによって創設されたヒンドゥー教の文化団体で、ガンディーらのインド国民会議(国民会議派)と並んでインド独立運動の有力組織となった。

 RSSは会員数200万〜600万人とされる、中国共産党に次ぐ世界で2番目に大きな政治組織で、その下部組織のひとつがBJP(バラティヤ・ジャナタ党/インド人民党)だ。

インドの政治はガンディーを継いだネルー率いる国民会議派が長らく支配してきたが、BJPは1998年に連立政権・国民民主同盟で政権を奪取し、2004年に下野したものの、2014年の総選挙で返り咲き、元グジャラート州首相のナレンドラ・モディが第18代インド首相に就任した。

モディは2016年11月8日午後8時、高額紙幣の500ルピー(約800円)と1000ルピー(約1600円)札を「4時間後の11月9日午前零時に廃止する」と発表して世界を驚かせた。

 RSSは保守派・伝統主義者の団体なので、日本でいうと日本会議のような位置付けになる。

日本会議は「東京裁判史観」や「押し付け憲法」に反対し、保守系の政治家に強い影響力をもつものの、あくまでも政党とは別組織だ。

一方、インドの政権党であるBJPはRSSの下部組織(政治部門)なのだから、たとえていうなら自民党が日本会議の一部門で、安倍首相をはじめ政権幹部はみな日本会議のメンバーというのと同じだ。

インドは「世界最大の民主国家」だが、その保守政権はかなり特異な存在なのだ。

それでは、RSSはどのような主張をしているのだろうか。

それを知るためにルースは、保守派の思想的指導者の一人とされるラマチャンドラ・トゥプカリー博士を訪ねた。

 元エンジニアでもある博士は、ルースに「生物未来学」なる学問を講じる。
それは、「人類の発展を理解するための知的なマスターキーを与える」のだという。

 生物未来学はまず、人間のタイプを「右脳」と「左脳」の2つの領域で分ける。

インド人は「右脳型」で欧米人は「左脳型」なのだが、これはかつて日本でも唱えられた“俗流脳科学”と同じだ。

 トゥプカリー博士によれば、右脳は多様性に、左側は一貫性に向いている。

右脳型のインド人は複雑な思考を扱うことを得意とし、民主的で地方分権的な社会をつくるものの、その考え方は独創的だがまとまりがない。

左脳型のヨーロッパ人はより規律がとれているが独裁政権や中央集権的な社会を生みやすく、想像力に欠ける。

右脳タイプのヒンドゥーがソフトウェアを、左脳タイプの西洋がハードウェアを提供することで人類は文明の曙を迎えたのだ。

 ところが独立後、インドは方向を見失ってしまった。

西洋で教育を受けた左脳の強すぎる人間たち(すなわち国民会議派)が国を支配したからだ。彼らは世俗的な憲法や工業化という単純な概念を信じ、インドを本来あるべき姿から引き離してしまった。

 しかし現在、インドはゆっくりと自然な状態に戻りつつある。
多様性、複雑さ、「脱マス化」が再び力を取り戻してきているのだ。

 脱マス化というのは、「インドの小さな家内工業の伝統を守ること」だ。

伝統のなかでこそ、右脳型のインド人は創造性を十全に活用できる。
大規模に組織化された工場では、労働者は退屈でつまらない左脳型の生活に囲い入れてしまうのだ。

 トゥプカリー博士は困惑するルースに次のようにいう。

「インドは、ムスリムやヨーロッパ人によって植民地化されるはるか以前から、高度に発達した社会でした。数千年前にはすでに高度な経済を発達させていました。石油の生産を脱マス化し、医学や科学を洗練させ、ひじょうに高い生活水準を誇っていました。

文明は少なくとも1万年以上前にインドで生まれ、それが世界へ広がっていったのです。
ヒンドゥスタン(インド)は宇宙の縮図です。すべての矛盾と風潮を含んでいます。
いま、歴史はひとめぐりしてインドに戻ってきました。インドは再び世界を導く地位に戻ったのです」

ヒンドゥー寺院(チェンナイ)                  
(Photo:©Alt Invest Com)
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ヒンドゥー至上主義派が進める歴史の「書き換え」

 インド政界を支配するヒンドゥー至上主義団体RSSは、反グローバリズムと伝統(復古)主義、ナショナリズムの奇怪な混合物だ。

 インドの歴史は、紀元前3100年から1700年ごろにインダス河流域で興った世界最古の都市文明に始まる。ハラッパ文明は高度な公衆衛生や排水システムを備えたことで知られるが、紀元前2000年紀に消滅してしまう。

通説では中央アジアからインドに侵入したアーリヤ人に滅ぼされたとされるが、近年ではインドの古代史学者を中心に、ハラッパ文明はなんらかの理由ですでに衰退しており、アーリヤ人は平和的にインドに移住してきたとの説が唱えられるようになった。

こちらはインドの民族主義者に都合のいい歴史観だが、考古学的な証拠もあるので「偽史」と決めつけることはできない。

 ところが1998年にBJPが権力を握ると、ヒンドゥー至上主義派の知識人たちは、ほとんどなんの証拠もないまま、アーリヤ人はインドに生まれた種族で、そこから世界に移住していったという新たな古代史を主張するようになる。

「ハラッパ人は実はアーリヤ人だった」のと同時に、ハラッパ文明と、それを受け継いだヴェーダ文明(古典文明)の時代はこれまでの通説より数千年早くなった。その結果、古代インドは中国やメソポタミア、古代ギリシアよりずっと先に文明を築いており、その文明を移住を通して世界に輸出したことで人類の歴史が始まったとされたのだ。

 BJPが連立政権を主導した1998年から2004年まで教育大臣を務めたムハリ・マハノル・ジョシは、政界に入る前は大学の物理学教授でRSSの熱烈な支持者だった。

ジョシはさまざまな歴史・社会団体に「新古代史」派を大量に送り込み、歴史の「書き換え」を拒んだ学者たちは契約を更新されなかったり、RSSから悪質な嫌がらせを受けるようになった。

その影響はインド国外にも及び、あるインド古代史研究の権威は、客員教授としてアメリカに滞在していたときに、RSSのアメリカ支部に属する在外インド人たちから公の場での発言を妨害されたという。

 次いでBJPは、学校に「新しい歴史教科書」を配布しはじめた。

そこでは、ハラッパ人は馬を利用しており、アーリヤ人とハラッパ人は同一だとする説が事実として書かれていた(通説ではアーリヤ人は騎馬民族だが、ハラッパ人の都市文明は馬を知らなかったとされる)。

 RSS版の歴史教科書には、この新説の裏づけとして、2人の古代史学者がハラッパ遺跡から発掘された粘土印の一つに、間違いようのない馬の絵が描かれているのを発見したという話が紹介されている。

ところが2000年に、ハーバード大学のサンスクリット学者が、粘土印の馬の絵はコンピュータ画像を操作してでっちあげられたものであることを暴いた。
それでも教科書は回収も修正もされなかったという。

「新しい(インド)歴史教科書」では、ムスリム(イスラーム)はインドの中世期に武力侵攻したとされ、それ以前に交易を通してインド南部に平和的に浸透していた史実は無視されている。

仏教はシク教とともにヒンドゥー教の一分派とされ、
キリスト教は宗教裁判でインド人を拷問したことだけが書かれている。

 さらに、RSSの歴史教科書では「カースト」という言葉は一度も使われず、インド現代史では、1948年にガンディーが右翼の狂信的なヒンドゥー主義者ナトゥルム・ゴドセに暗殺された事件がきれいに抹消されている。

 このようにして、この20年ほどのあいだにインドの歴史はすっかり書き換えられてしまったのだ。

インドにおけるイスラームの歴史は書き換えられるのか? タージ・マハル(アグラ)       
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ヒンドゥー至上主義者は、“理系”の知識人が主導

 インド独立運動を主導した国民会議とRSSのメンバーはどちらもバラモンなど上位カーストの出身者だったが、国民会議派がガンディーやネルーを筆頭に弁護士・ジャーナリストなど“文系”知識人で占められていたのと対照的に、RSSは創設者のヘーゲールワールが医師、二代目代表で「20世紀でもっとも影響力をもったヒンドゥー至上主義者」とされるM.S.ゴルワルカールが動物学者であったように、“理系”の知識人によって主導された。その結果、ヒンドゥー至上主義者のインド観は、19世紀のドイツやフランスの理想主義的民族主義に科学的想像力が加わったものになったとルースはいう。

 RSSの思想を確立した動物学者のゴルワルカールは著書で次のように書く。

「われわれの究極的なビジョンは(中略)社会を完全に組織化し、一人ひとりが理想的なヒンドゥー教徒の模範になり、社会全体の生きた手足となることである」

「個々の細胞は体の一部を構成していることを自覚し、体全体の健康と成長のために、つねにみずからを犠牲にする覚悟ができている」

 国家を大地に深く根ざした有機体とみなす「生物学的民族主義」によれば、インドという“聖なる肉体”が健全に成長するためには“細胞”である国民一人ひとりがヒンドゥーに帰依し、文化・伝統共同体に貢献しなければならない。

これは当然のことながら、ヒンドゥー的でない“細胞=国民”を異物として排除することになる。

 これについて、ゴルワルカールはこう警告する。

「ヒンドゥスタン(インド)に住む異人種は、ヒンドゥー文化と言語に同化し、ヒンドゥー宗教に敬意を抱くことを学び、ヒンドゥーの輝ける民族と文化以外に理想を求めてはならない(中略)。

そうでなくこの国にとどまるつもりなら、ヒンドゥー国家に完全に従属し、何も主張せず、何の特権も与えられず、市民権はもちろん、わずからながらの優遇さえも期待してはならない」

 とはいえ、政権与党となったBJPがこうした露骨な排外主義を掲げているわけではなく、モディ首相も「全国民とともに」という表現でムスリムとの共存を説くようになった。それにともなってRSSも“寛容”になり、ヒンドゥー教への改宗を希望するムスリムやキリスト教徒のために「ガール・ヴァパシ(ヒンドゥーへの回帰の歓迎)」というプログラムを始めたのだという。

街角の廟で祈るヒンドゥー教徒(チェンナイ)          
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ヒンドゥー至上主義のねじれた民族主義(ナショナリズム)

 RSSはインド各地に「シャーカー」と呼ばれる支部を置き、その数は数千から数万に達する。毎日数十万人、おそらく100万人近くのインド人男性が夜明けとともに地域のシャーカーに集まり、ヒンドゥーのシンボルであるサフラン色の旗に敬礼し、ヒンドゥー至上主義の賛歌「ヴァンデ・マタラム(母なる大地、万歳)」を歌う。その後、彼らは武術の訓練をしたり、思想教育を受けたりする。

 シャーカーの制服は、イギリスの植民地警察が着ていたカーキ色に、ムッソリーニのファシスト党の黒シャツ隊の制服の細部を組み合わせたものだ。これは、1925年にRSSが創設されたときに、黒シャツ隊をモデルにしたからだという。

 シャーカーの活動は、ナチスの青少年組織ヒトラーユーゲントによく似ている。たとえばRSS式の敬礼は、気をつけの姿勢で直立し、右腕を掌を下に向けて胸の前に伸ばす。

 もちろんRSSは、自分たちの組織をファシズムやナチスと比較されることに強く反発するだろう。実際、ナーグブルの旧市街の中心にあるRSSの公式本部を訪れたルースは、そこで穏やかで礼儀正しいメンバーと出会う。彼らは、ファシスト思想は一人の指導者の個人崇拝を軸に築かれるのに対し、RSSは集団指導体制で根本的に異なると反論する。

 ヒンドゥー至上主義者によれば、インド社会の宿痾であるカースト制はインド固有のものではなく、イギリス植民地政府が統治のために人工的につくりだしたものだ。

以前紹介したように、この主張に根拠がないわけではない。

[参考記事]
●インドはいつから「インド」になり「カースト制度」はいつから始まったのか?
http://diamond.jp/articles/-/130077

 しかしそのヒンドゥー至上主義の団体であるRSSの組織や活動は、インド固有の伝統ではなく、「ヨーロッパ的」なるものが生み出したファシズムに倣っているのだ。

ヒンドゥー団体のパレード(マハーバリプラム) 
 (Photo:©Alt Invest Com)
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 ヒンドゥー至上主義のねじれた民族主義(ナショナリズム)はこれだけではない。

 ルースは取材で、VHP(世界ヒンドゥー協会)が経営するナーグプル近くの「牛製品研究センター」を訪れる。そこでは多数の牛が飼育されているのだが、研究員はこう説明する。

「ここにいる牛はヒンドゥスタンの純粋種です。外来種と固有種を分けるのに長い時間がかかりました。固有種のほうがあらゆる面ですぐれています」

 研究センターでは、純粋種の牛から伝統的な5種類の牛製品を開発し、世界に輸出するための事業化を目指している。それはミルク、ギー(精製バター)、バター、尿、糞だ。

 最初の3つはわかるとして、尿と糞はなにに使うのだろう。

 研究者はビーカーに入れた尿をルースに見せて、「これはがんに効果がある抗酸化物質です」といった。それ以外にも、気管支炎や肥満に効くもの、エネルギーを与えるもの、血液をきれいにするものなど、尿由来製品がいくつもあった。

 牛糞からも同様に、さまざまな製品がつくられている。代表的なものは石鹸と、牛糞のふけ取りシャンプーだ。

「牛糞には神が宿っているのです」と研究員はいう。
「こうしたレシピはすべて(ヴェーダ)経典のなかに書かれています」

 デリー大学の歴史学者D.N.ジャー教授は『聖なる牛の伝説』で、古代のヒンドゥー社会ではバラモンを含む大部分が牛肉を食べていた証拠を示したが、この本はBJPによってただちに発禁処分になった。

ジャー教授は右派の過激派学生から「殺してやる」との脅しを受け、しばらくはキャンパス内の居住棟から出ることすらできなかったという。

路上を徘徊する聖なる牛(オールドデリー)           
(Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/134435?page=3

「牛製品研究センター」の目的は、聖なる牛の恵みを活用して、インドの伝統的な村の経済を復興させることだ。

これは「土地に根ざした生産」を掲げてフランス農民同盟を主導し、GMO(遺伝子組み換え作物)やホルモン肥育牛肉の輸入に反対して、建設中のマクドナルドの店舗を破壊して世界的に有名になったジョゼ・ボヴェ(現在は欧州議会議員)の「反グローバリズム」とまったく同じだ。

 ヒンドゥー至上主義はヨーロッパ文明から、ファシズムだけでなくアンチグローバリズムやオカルト科学も学んだようだ。だとしたら、「インド的」なるものの実体はいったいどこにあるのだろう。
http://diamond.jp/articles/-/134435?page=3


21. 中川隆[-7208] koaQ7Jey 2017年7月09日 15:48:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年6月8日 インドはいつから「インド」になり「カースト制度」はいつから始まったのか?
[橘玲の世界投資見聞録]
http://diamond.jp/articles/-/130077


前回は、インド社会に大きな困難をもたらしているカースト制が3500年前からつづく「人種差別」であるという主張を紹介した。

[参考記事]
●インドのカースト制度は「人種差別」。カースト廃止を望まない被差別層もいる現実
http://diamond.jp/articles/-/129413

 しかし、こうした「歴史認識」には有力な反論がある。
カースト制はイギリスの植民地時代に人為的につくられた制度だというのだ。

今回はこちらの主張を紹介しようと思うのだが、その前に「インドとは何か?」というよりやっかいな問題を見ておかなければならない。


インドはいつから「インド」になったのか

 17世紀に入ってヨーロッパ列強の海外進出(侵略)が本格化すると、オランダ、イギリス、フランスなどに次々と「東インド会社」が設立された。

このうちイギリス東インド会社はその名のとおりインド(カルカッタ/コルカタ)を拠点としたが、オランダ東インド会社はバタヴィア(現在のジャカルタ)を中心に香辛料貿易を手がけ、江戸幕府との交渉に成功してヨーロッパの国で唯一、長崎・出島での貿易を認められた。

 オランダ東インド会社の活動はインドとはなんの関係もないが、彼らが拠点としていたジャワ島などの島々はその後、インドネシアと呼ばれるようになる。

また、コロンブスが発見したカリブの島々はインドの一部だとされ、住民はインディオ(インディアン)、彼らの住む地域は西インド諸島と呼ばれた。

だとすれば、いったい「インド」とはどの地域のことなのだろうか?

 この疑問についてインド近現代史を専門とする藤井毅氏は

『歴史のなかのカースト』(岩波書店)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4000268449/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4000268449&linkCode=as2&tag=mailmagazin0asyuracom-22

のなかで、1章を割いて「インドは、いつから「インド」になったのか」を論じている。

チェンナイ郊外にある世界遺産マハーバリプラムの海岸  
(Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/130077

 藤井氏は今日、英語の語彙である India や Indian の意味について議論が起こる可能性はまったくといってほどないとしつつも、「ひとたび、その語の来歴に目を向けたとき、大冊の本をもってしても語りきれないほどの複雑さが立ち現われてきてしまう」と述べる。

 古代インドにおいて、現在のインダス河は、サンスクリット語で水流、ひいては「水の豊かなところ」を意味するスィンドゥ Sindu と呼び習わされていた。

この語はペルシア語では、語頭の S音が H音に転じ、さらに有気音が無気音に転じてヒンドゥ Hindu ないしは Hind となっていった。

それがインダス河のみならずインド亜大陸北部一帯を指すようになり、イギリスの植民地下でインド大陸全域を指し示す用語とされ、第二次世界大戦後の独立時に正式な国名となった(このとき、かつては「インド」の一部だったインダス河流域のパキスタンと、ガンジス河口のバングラデシュが分離した)。

 このことからわかるように、ヒンドゥ教は「インド教」、ヒンディ語は「インド語」のことで、いずれもペルシア世界から見た呼称に由来する。

 その後、Hindu という東方の地名は西方ラテン語と古典ギリシア語世界に伝えられたが、そこで語頭のH音が脱落して Indos/Indoi/Indika などとなり、それが英語での India/Indian となった。

ちなみにアラビア語では Sind と Hind が区別されていて、前者は今日のスィンド地方(パキスタン南東部)、後者はペルシア語と同じくより包括的にインド大陸全体を指す概念として用いられている。

「ヒンドゥ」や「インドス」の呼称は紀元前までさかのぼるものの、サンスクリット語の文献には、19世紀に入って成立したと思われるものを除けばこの語は見い出せない。これはあくまでも、外部世界のひとびとが(今日の)インドやインド人、彼らの宗教や言語を指して使っていた言葉なのだ。

 インド大陸に住むひとたちは自分たちを「インド人」とも思っていなかったし、地域に固有の宗教が「ヒンドゥー教」だとも考えていなかったが、その一方で交易などでペルシアやアラブと接すれば、彼らが自分たちを「ヒンドゥー」「ヒンディー」と呼んでいることには気づかざるを得なかった。インドにイスラームが伝播し、(イスラーム王朝である)ムガル帝国でペルシア語が公用語の地位を持つようになると、16世紀中葉以降に書かれた文献には、イスラームに比して自らの信仰を語る際に「ヒンドゥー」が使用されるようになった。

 しかし決定的なのはイギリスによる植民地統治で、18世紀末になると、ヨーロッパ諸言語の「インドスターン Indostan」がムガル帝国では「ヒンドゥスターン Hindustan」となることが「発見」され、よりペルシャ語音に沿った表記に転じていった。それは同時に、インドの地域信仰にヒンドゥー教 Hinduism の名が与えられることでもあった。

 こうした経緯をひもときながら藤井氏は、

「今日、インド固有の宗教信仰を指して用いられるこの名称は、遡ることわずか 200年ほど前の産物なのだ」

と述べる。

宗教にとどまらず、「インド」も「インド人」も「ヒンドゥー語」も、植民地下のイギリスで定着した新しい概念なのだ。

街のあちこちで見られるヒンドゥー寺院(チェンナイ)      
 (Photo:©Alt Invest Com)
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アフリカとアジアを合わせて「インド」と呼んでいたことも

「インド」についての情報は古代ペルシアを経由してヨーロッパへと伝えられ、ヘロドトスなどによって語られた。アレキサンドロス大王がアケメネス王朝を征服し、前327−前325年に北西部インドに進出したことで実態情報も流通するようになった。

前300年頃にセレウコス朝の使者としてマウリヤ朝の宮廷に赴いたメガステーネスは、インド社会に見られる7つの身分の区分(メレー)を報告している。

 しかし古代ローマ帝国が崩壊する4世紀以降になると「インド」情報も混乱をきたし、アフリカとアジアを合わせて「インド」と呼ぶようになり、後に「大インド India Major」「小インド India Minor」の区分が必要になった。

 大航海時代になると、コロンブスなどの冒険家は「本当のインド」を発見しようと船を出し、自分たちが見つけた土地を「インド」だと思い込んだために、アメリカ(新大陸)やインドネシア、さらにはフィリピンまでもがインドとされ、地球上に「インド」が拡散する現象が起こった。

 複数のインドが存在する矛盾は、新世界を「西インド」、ヨーロッパ以東のアジアを「東インド」に分けることで解決されたが、この定義によれば、インド大陸だけでなく、中東や東南アジア、さらには中国や日本も「東インド」ということになる。長崎とヴァタビア(インドネシア)のあいだの貿易を独占したのが「オランダ東インド会社」だとしても、なにもおかしくなかったのだ。

ヒンドゥー団体の行進(マハーバリプラム)  
(Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/130077

ヨーロッパ人(白人)がインド人(黒人)の末裔であるという不愉快な仮説

 インドを植民地化したイギリスは、博物学的な熱情によって、この大陸の奇妙な自然と文化を徹底的に研究した。サンスクリット語で記された古代インドの文献が続々と発見されると、そこからインド固有の歴史情報を収集しようとする作業が 19世紀の 100年を通じて絶え間なくつづけられた。

 ところが言語自体が神格化された“神の言葉”サンスクリット語は、書記伝承より音声伝承を重視したばかりでなく、禍々しく不吉なものの記述を忌避したから、そこに出てくるのは神話的人物やそれにまつわる荒唐無稽な物語ばかりだった。

 こうしてヨーロッパのインド研究者のあいだに、「インドには史書が存在しない」という認識が広まってゆく。

“インドにおける歴史の欠如”というその後の常識は、フランスのインド古典学者シルヴァン・レヴィの

「ギリシア人がヘロドトスを、ユダヤ人が聖書をもっていたように、中国人は編年史をもっていた。インドには何もなかった」

という言葉に象徴されている。

 その一方で1786年、言語学者でベンガルの裁判所判事だったウィリアム・ジョーンズによって驚くべき発見がなされた。

古代インドのサンスクリット語が、古典ギリシア語やラテン語などと同じ規則を持っているというのだ。

 これは今日、「インド・ヨーロッパ語(印欧語)」と呼ばれているが、それがなぜイギリスの知識層を驚愕させたかというと、サンスクリット語文献の発掘とその読解が進んでゆくにつれ、その年代がキリスト教より古い可能性が出てきたからだ。

これは、当時の常識であった「ヨーロッパ文明の一元的かつ排他的卓越」への確信を根底から揺るがしかねない事態にほかならなかった。

 そこでイギリスの知識人たちは、ヨーロッパ人(白人)がインド人(黒人)の末裔であるという不愉快な仮説を否定する巧妙なロジックを思いついた。

ヨーロッパ人とインド人の共通起源がどこかにあるのなら、どちらが先かの議論は意味がなくなる。今後もし世界のどこかでキリスト教文明よりもはるかに古い同族の文明が発見されることがあっても、それは共通起源の人々の優越性を示すだけだから、その正統な子孫のひとつであるヨーロッパ人が誇りに思うのは当然なのだ。

 しかしそれでも、ヨーロッパ人とインド人が「同族」との説は、当時のヨーロッパ人を不穏な気分にさせた。彼らがインドで支配しているのは「色の黒い住民たち」で、たとえ仮想のものであったとしても、「黒人」と血縁で結びつく可能性を容認することはできなかったのだ。

 こうして、第二の便利な理屈が考え出された。

それは、古代インドと中世・近代のあいだに明確かつ決定的な断絶線を引くことだ。

 ヨーロッパ人と祖先を同じくする古代インドは、古代ギリシアに匹敵するすぐれた文明を築いたが、イスラームの侵略によって破壊され、インド人自らの愚かさゆえによって堕落してしまった。

古代インドの純粋なアーリヤ人(白人)の血は、「黒人」との雑婚によって汚されてしまったのだ。

 このようにして19世紀半ば以降、「インド・アーリヤンの無気力」によって(貧しく遅れた)インドを批判すると同時に、サンスクリット語に象徴される古代インドがひたすら理想化されていった。

イギリスにおけるインド学とは、サンスクリット語と古代インド哲学を研究することであり、中近世、ましてや植民地支配の同時代を対象とすることなど考えられもしなかったのだ。

マハーバリプラムの石窟寺院                    
(Photo:©Alt Invest Com)
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 イギリスの植民地官僚がカーストによる身分差別を容認

 宗主国であるイギリスの特異な「歴史観」は、植民地支配下に置かれたインドのひとびとに大きな影響を与えた。それがもっとも顕著に現われたのが「カースト」だ。

 1510年にポルトガルがゴアを占領したことで「発見」された特徴的な身分制度は、血統や種族を意味するポルトガル語から「カスタ」と名づけられた。

それは通婚と共食に何らかの制限を持ち、相互に排除されているか、何らかの基準に基づき階層化されている職業の継承体のことだった。

 17世紀に入ると「カスタ」は、インド固有の社会組織や慣行そのものを指す固有名詞へと転じ、英語においては、19世紀初頭まではcast、その語はcasteという綴りになっていった。

カースト制について藤井氏は、

「その語で指し示される何らかの現象は、あらかじめ(インド社会に)存在していたものの、カーストという概念は、明らかにポルトガルをはじめとするヨーロッパの人々によって近代において構築されたものに他ならない」

と述べる。

 インドにカースト制が定着したのは、イギリスの植民地政府が当初、「ヒンドゥーに対してはヒンドゥー法、ムスリムに対してはイスラーム法を適用する」を統治の原則にしたからだ。

それは、ヒンドゥー法の法源が記されているサンスクリット語文献の地位を高めることでもあった。

 イギリスの植民地官僚は、インド社会には「バラモン」「クシャトリヤ」「ヴァイシャ」「シュードラ」のヴァルナ(宗教的身分)の区分が実在し、法典に書かれているように機能してきたと考えるようになった。

それは同時に、カーストによる身分差別を容認し、ヒンドゥー教徒の社会がバラモン(ブラーフマン)を頂点として階層化されているという固定観念を生み出した。

 その背景にあるのは、1865年まで、サンスクリット語文献を読むことができるバラモンがヒンドゥー法官(パンディット)として、刑事裁判などに意見書を提出するため雇用されていたことだ。

彼らは自分たちバラモン階級に有利なように古文献を解釈し、特異なカースト観をイギリス人に植えつけたのだ。

 インド社会への非干渉こそが安定した植民地支配を継続させる鍵だと考え、サンスクリット文献からヒンドゥー法を抽出しようとしたのが「オリエンタリストOrientalist」で、東インド会社の旧世代に属する人々とイギリス議会のトーリーにより支持された。

彼らと対立したのが「アングリシストAnglicist」で、「遅れたインド」を改革するために、行政と教育の言語を英語にすべきだと主張した。こちらはキリスト教福音主義者、自由貿易論者、功利主義者などが支援した。

しかしアングリシストにしても、インド社会には近代ヨーロッパの市民社会に見られるようなアトムとしての個人は存在せず、人はまずもってカーストに生まれることで社会的存在になるという“常識”を疑うことはなかった。

ヒンドゥー団体の行進(マハーバリプラム)     
 (Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/130077?page=2


「犯罪を生業とするカースト」の存在

 インド社会にカースト制を定着させるのに決定的な役割を果たしのが、植民地官僚リズリの「カーストランキング理論」を取り入れて植民地政府が行なった国勢調査だ。

この国勢調査は1871年/72年から、10年ごとに末尾が1の年に全国規模での行なわれることになり、1901年と11年の調査ではカーストと使用言語が対象となった。

 国勢調査でカーストランキングが公表されたことは、インド社会に衝撃的な影響を与えた。

このときはじめて、自分が信仰する宗教の名称にはじまり、話している言語名や、出自に関わる属性が公然と問われることになったからだ。

 カースト情報は基本的に自己申告に基づいて収集され、公的記録はすべて英語で刊行されたため、微妙なちがいを利用して別個の出自やランキングの変更を唱える動きが生じた。

それがカースト団体や運動体の組織化を促し、国勢調査に記載されるカーストのランクが闘争の目標と化すことになった。

 植民地下のインド社会においてカースト帰属が重要になった理由のひとつが、18世紀末から19世紀初頭にかけて、イギリス軍の募兵方針が高カースト(バラモン)の優遇と低カースト(不可触民)の排除を原則としていたことだった。

カースト制度が共食の強いタブーを持つ以上、できるかぎり同じカーストで部隊を組織し不可触民を混在させないことが基本となった。

当時のインドでは軍に採用されることが社会的地位を上げるもっとも有効な方法だと考えられていたから、自らのカーストを軍の募兵方針に適合させることは死活問題だったのだ。

 インド大反乱(セポイの乱)以降、イギリス軍はヒンドゥー教徒を警戒し、シク教徒や(ネパールの山岳民族である)グルカ兵を中心に軍を組織するようになるが、それだけで広大なインドを統治することは不可能だった。こうして、「軍事適応種族(尚武の民)」という新たなカースト論が登場する。

 それによれば、インドのカーストは代々同じ職業を継承するのだから、ヒンドゥー法典に戦士階級と記載されているクシャトリヤは良き兵士となる潜在的な能力をもっているにちがいなとされた。

インド兵が反乱を起こしたのは、兵士としての適性がもともとない(クシャトリヤ以外の)者たちを軍に加えたからなのだ。

 だがこの新奇な方針は、インド社会にさらなる混乱をもたらした。
サンスクリット語で書かれたプラーナ文献にはクシャトリヤの消滅伝承があり、純粋なクシャトリヤは存在しないと見なされていたからだ。

その一方で、アーリヤ・サマージに代表されるヒンドゥーの復古的改革団体は、ヴァルナ帰属は生まれではなく、出生後の行ないによって決まるという布教活動を展開していた。

こうして、軍への雇用を望むひとたちが神話的歴史を捏造し、それをカースト族譜に記すことでクシャトリヤ帰属を唱えるようになった。

 それと同時にイギリス植民地政府は、「クリミナル・トライブ(職業的世襲的犯罪集団)」というカーストを「発見」する。

 イギリス人が主張するように、植民地統治が「遅れた」インドを改革するものならば、正しい統治によって犯罪は減少するはずだが現実は逆だった。自らの治安維持政策が失敗したのでなければ、この理解不能な現象にはなにか理由があるはずだ。それが、「犯罪を生業とするカースト」の存在なのだ。

 このようにして植民地政府は、犯罪を「伝統的職業」とするカーストを特定し、彼らを一律に予防拘禁し、親と子を引き離して収容キャンプやコロニーに隔離した。カースト理論によれば、これがもっとも効率のよい犯罪予防策なのだ。

街角のヒンドゥー廟で祈る(チェンナイ) 
 (Photo:©Alt Invest Com)
http://diamond.jp/articles/-/130077?page=3

 インドの近現代史を振り返れば、「インド」「ヒンドゥー」から「カースト」に至るまで、インド人やインド社会を規定する概念にはすべて植民地支配の深い影が落ちている。

「イギリスの植民地政策の下で、インド人は自らの〈自画像〉を描くことを余儀なくされた」のだが、これが今日、英印間の根深い「植民地問題」になっている。

 19世紀初頭以降に展開されたヒンドゥー教の社会改革運動は、どれも古代インドを賛美したものだった。

のちにヒンドゥー原理主義へと変貌する彼らの論理では、宗教対立(コミュナリズム)やカースト差別などインド社会(ヒンドゥー)の不都合な側面は、すべてイギリスの悪しき植民地主義が持ち込んだもので、純粋なヒンドゥー教は身分差別とは無縁なのだ。

 独立運動の正統性と無謬性を確信する南アジアの民族主義的な歴史家たちは、南アジア社会に見られる構造的な歪みや否定的な現象のすべては、イギリス植民地支配に起因すると主張している。

 現代インドでは、カルカッタがコルタカに、ボンベイがムンバイに、マドラスがチェンナイへと、植民地主義に“汚染”されていない正しい名前に戻そうとする動きが加速している。

これは、インドの歴史を「反英・反植民地」で全面的に見直そうとする大きな潮流の発端に過ぎないのかもしれない。


22. 中川隆[-11814] koaQ7Jey 2018年5月03日 12:12:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12976]

これから社会の暗部を猛毒入りでお届けします2018.05.03


どうしようもない闇を抱えて猛毒を外に吐き出す

ところで、社会の暗部に潜んでいる「猛毒」ですが、この猛毒は誰もが持っているものです。そして、この猛毒の正体も分かっています。それは「欲望」です。

人間の欲望の中で、最も強いものは「性欲」であると言われております。

もはや誰もが知っているように、人間は「性欲」のためには愛する人をも裏切り、道徳も踏み越え、暴力を生み、レイプし、殺し、心に闇を抱えます。

いつの時代でも、どこの国でも、人間は抑えても抑えきれない自分の中にあるどす黒い「性欲」を抱えてアンダーグラウンドに行き着くという点では変わりません。

この「猛毒」を私はずっと見つめていると言っても過言ではありません。人間は美しい心を持っている反面、どうしようもない闇を抱えて猛毒を外に吐き出すのです。

ブラックアジア会員制の中に横たわっているのは、人間が捨てることができない「闇(ブラック)」を抱えた男女の人生であり、事件であり、社会です。

自分の本能の中に潜んで時おり突き上げるように襲いかかってくる「性の本能」に、闇を意識することもあると思います。人々は日常でこの闇をうまく消して生きているのですが、うまく消しているから闇がないわけではありません。

人は誰でも「性」によって闇を抱えており、その闇が時おり隠せないほどの衝動となって外部に現れ、毒々しい世界を生み出すことになります。

本能の奥底に潜む「性」が自分を変質させるとき

表社会では欲望が愛に昇華しますが、アンダーグラウンドでは欲望が猛毒となって人々に襲いかかります。そして深く底なしの闇が生まれます。

その闇は人間をどこに導くのか。もし、この闇を不用意に解放してしまったら、本能の奥底に潜む「性」は、自分をどのように変質させてしまうのか。

その「性」が抱えた闇こそが、ブラックアジア会員制の奥底にある膨大な記事が描いているものです。

誰でも持っている性の闇は、時に人間を狂わせて暴走させてしまいます。社会全体が性を歪めることもあれば、ひとりの人間が性を暴発させてしまうこともあれば、誰かが誰かの性を暴くこともあります。

こうしたアンダーグラウンドに横たわっている「性」の様々な形をブラックアジアは膨大な量の記事で埋め尽くしています。この全世界のアンダーグラウンドでのたくっているリアルな「性」を私は忘れたくありません。

悪夢のようなセックスの現実、恐怖を催す性の暴力、性に生きる女たちのリアルな息吹き、売春、貧困、歪んだ性の文化や社会、性によって追い詰められていく女たち……。

今でも私はそうした世界を見つめています。そして、この欲望が猛毒となって吐き出される邪悪なアンダーグラウンドという世界に私は触れています。

この新しいサイトでも、深く追求していきたいと思います。

アンダーグラウンドで何が起きていたのか、そして何が起きているのかを知りたい方は、どうぞブラックアジアの内部に触れて下さい。
https://blackasia.net/?p=6628



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