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たそがれのプロカメラマン物語   第六章 戦国時代へタイムトリップ(続) 
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/793.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 2 月 05 日 14:10:15: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語   第六章 戦国時代へタイムトリップ  投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 16:17:54)

http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html

田辺さんからの連絡があったのは、聞きたいことも忘れかけていた頃だった。

「連絡遅れてすみません。」
「忙しかったのですか。」
「ええ、まあ。」
「そういえば、ここ一二ヶ月、新聞やテレビで、疾走する車のヘッドライトに飛び込んだり、高層住宅の窓からダイブした、奇妙な行動をした複数の青年達の事件が報道されていましたよね。治験薬と、関係があったのですか。」
「因果関係は、今のところ認められていません。詳しいことは、ここでは述べることは出来ません。秘密保持契約があるからです。」
「一般的な説明でもダメですか。」
「それらの青年は、共感覚の疑いがあるかもしれません。」
「共感覚って、何ですか。」
「音、視覚、触覚、味覚、臭覚といった感覚が、ある刺激により混ざり合って認識されてしまう症状です。」
「すると、光などの刺激により、正常な視覚ではない、オレが見るような、幻想を見た、ということですか。」
「正常な脳では、入ってきた感覚刺激は、定まった経路を通って、感覚器から脳の決まった目的地に運ばれます。電気パルスの流れは途中で枝分かれして、脳のいろいろなモジュールが同時に処理をおこないます。そのモジュールのひとつが、大脳皮質です。ここでは、視覚と音とが合わさって、意識が形成されます。大脳辺縁系は、刺激を受けて身体反応を起こし、さらに感情に訴える特性を与えます。」
「すると、それらの青年は、なんらかの因果で、正常な視覚ができなかった、ということですね。」
「そう考えても、差し支えないと思います。ところで、カメさんの今回の幻視レポート、興味深く読まさせていただきました。特に、大阪秦王国の滅亡描写は、私が推理していたのとほとんど同じでした。」
「大阪は、歴史教科書で述べている「町人の町」などではなく、日本列島史の原点だったのですね。」
「そうです。古代明日香ヤマトの玄関口だからです。」
「前から藤原日本史の古代史に疑問を持っていたのです。だって、一雨振れば湖と化す、内陸部の閉ざされた盆地に、4世紀、古墳時代前期に、天皇が支配する大和朝廷など、突然できるわけないですからね。」
「文明、文化は、海岸部から内陸部へ進行するのが、考古学が示すとおりです。」
「ところで、ナベさんのレポートで、理解できないことがあるのですが。秦王国のことです。」
「藤原日本史には、まったく登場しませんからね。しかし、秦王国は、確かに、日本列島各地に存在していたのです。古墳時代から続く群馬秦王国は、明治革命前までは、かすかに存続していたのです。」
「史料とか、証拠でもあるのですか。」
「明治25年6月24日に始まる「朝野新聞」の連載記事「江戸の下層社会」に、弾左衛門の老臣からの伝聞記事があるのです。その記事によると、弾左衛門の支配組織は、ミニ幕府ともいえる構造になっているのです。」
「信じられません。日本列島に、幕府と異なる支配組織が存在していたなんて。」
「引用文が長くなりますが、その記事を述べます。
弾左の家従は上役15人、下役65人、小者70人にていずれも新町に居住し、毎日弾家に勤仕したり。上役は大名にて云へば法衣(狩衣)以上の格式にも当りぬべし。しかして15人の内3人は御家老、3人は御用人、3人は公事方奉行、2人は御勘定奉行、2人は大目付、2人は御郡代とも云べき役割にて関八州支配の政務に与かめべき重役とこそは知らるれ。さて又た下役65人は御目見以上の格式にて之れを大名にたとふれば御近習役、御目付、御祐筆、御用部屋、公事方、御勘定方、御郡代手附の類ならん。其の小者70人は下役に附属して夫々勤め向あり武家に於る同心足軽にも比ぶべし。その外非職にて革の製造に従事するもの75人あり総計220人の家従なり。
とあります。カメさん、この記事どう思いますか。」
「正に、弾左衛門の役所は、ミニ幕府の支配構造ですね。その記事本当ですか。信じられません。では、どうして、弾左衛門一族は、江戸時代に「穢多」としてイジメられていたのですか。それほどの組織がありながら。不思議ですよね。」
「弾左衛門一族は、藤原日本史では「元寇」による鎖国時代としますが、国際自由交易時代の鎌倉時代、28番の職種を手下として支配していたのです。しかし、徳川家康が横死後、三代目将軍家光の時代になると、28番の多くは、髪結い職、石切、紺屋職以外は、その支配下から分離させられたのです。」
「何故、徳川家光にそんな権力があったのですか。」
「徳川家光は、征夷大将軍と共に、源氏長者だったからです。源氏長者は、古墳時代からの武人末裔の棟梁だからです。弾左衛門一族も、それらと同族だからです。」
「征夷大将軍と源氏長者は、敵対関係の部族の棟梁ですよね。足利義満や徳川家康が、征夷大将軍を息子に譲り、源氏長者として君臨していたことから、そんなこと絶対ありえないことですよね。やはり、天台宗僧侶天海の暗躍ですか。」
「天明年間(1781年〜1789年)の白川藩主松平定信の時代になると、その三職も弾左衛門の支配から分離させられたのです。それ以降の弾左衛門の支配下には、穢多社会と非人社会だけとなっていくのです。しかし、弾左衛門の役所だけは、明治革命後まで続いていたのです。」
「何故、弾左衛門は、徳川家康時代、そのような支配組織で、関八州を支配できたのですか。秦氏と徳川家康とには、同族の血が流れていたからですか。徳川家康の出自には、何か、隠されていることがあるように思うのですが。」
「どういうことですか。」
「世良田東照宮のことです。」
「行きましたか。」
「つい最近。」
「それでどうでしたか。」
「世良田東照宮を、まじかに見て複雑な気持ちになりました。日光東照宮に比べてあまりにもみすぼらしかったからです。それに、世良田東照宮は、閑静な住宅街にあるのです。真向かいは小学校だし。これって何か変ですよね。」
「その地は、江戸時代初期、利根川が氾濫すると水浸しになる、湿地帯だったのです。しかし、その湿地帯の広域には、古墳時代中期に、関東最大の全長210mの前方後円墳、二重の堀が張り巡らされていた天神山古墳があり、更に、藤原日本史では、関東がまだ未開の地とされていた律令時代、長さ50mの長大な建物が東西南北に約90m間隔で建てられていたのです。その当時の建物としては、日本最大の規模なのです。」
「その建物は、大和朝廷の出先機関なのでは。」
「大和朝廷系の建物でしたら、藤原日本史に堂々と記述されているはずです。しかし、その天良七堂遺跡の解明は、未だに謎なのです。」
「やはり、東国では突出して多くの古墳が築かれていた群馬には、多くの謎かあるのですね。」
「徳川家康が、豊臣秀吉により、関東の湿地帯エド(穢土)に強制移封された時、初代弾左衛門がお迎えし、その後、非常に緊密であった理由のひとつが、弾左衛門の支配地が、群馬県太田だったからだと思います。」
「すると、群馬秦王国は、太田にあったということですか。」
「分かりません。足利氏が興隆した室町時代、新田の地(太田)は、徹底的に破壊され、足利氏と同盟する禅宗が、その地を支配していたからです。そして、世良田東照宮に隣接する、古墳群を破壊した跡に建つ長楽寺は、室町時代の創建当初は臨済宗だったのが、第三百済王朝の江戸時代には、天台宗となってしまっているからです。新田の地の歴史は、二重に消されているのです。」
「確か、徳川家康の租は、足利氏の討伐を逃れて、新田の地から、勧進坊主として身を隠し、三河に逃走していたのでしたよね。」
「藤原日本史では、足利氏を、平安時代の河内源氏の棟梁源義家の四男源義国が、下野国足利荘を領して、その子孫が足利氏を称した、としています。そして、姓は、清和源氏としています。更に、新田氏と同租としています。しかし、これらのことは、ウソであることが分かるのです。」
「ナベさんのレポートを読んでいれば、分かりますよね。河内源氏、清和源氏など、藤原日本史が、源氏本流の反藤原氏の嵯峨源氏や醍醐源氏を歴史的に抹殺するために、創作した姓ですよね。足利氏は、鎌倉時代に発生した座を駆逐した大山崎油座、そして、南宋から亡命して来た禅宗と同盟を結んでいたのですよね。その大山崎油座や禅宗は、交易民族でもある騎馬民族末裔や秦氏末裔を、交易の敵として抹殺していたのですよね。その足利氏が、騎馬民族末裔の新田氏と同租であるわけはないですよね。」
「私も、そのように考えます。」
「すると、徳川家康の租とする新田氏の出自の謎解きは、史料だけではできませんよね。」
「どういうことですか。」
「歴史資料の多くは、貴族家や寺社に保存されていたものですよね。現在に残る寺社の95%以上、貴族が暮らした京の街100%は、1467年応仁の乱以降に建立されたものだから、それ以前の史料の多くも、焼失していると思われるからです。」
「ある一部の歴史学者は、室町時代以前の史料の多くは疑われる、と述べています。鎌倉時代の一級史料と云われている、鎌倉幕府の記録書である「吾妻鏡」でさえも、疑われています。その記録が、1180年から始まり、1266年で突然、不自然に終わっているからです。」
「1266年といえば、蒙古の第五代皇帝フビライが、反乱を起こしたハイドゥとの戦いを始めた年ですよね。そして、王位に就いたフビライは、1271年元(モンゴル帝国)を興し、1279年南宋を滅ぼしたのですよね。その結果、南宋の禅宗組織の拠点が、日本列島に移ったのですよね。鎌倉時代、南宋船は、鎌倉沿岸を交易港として、日本列島で交易をしていたからですよね。」
「藤原日本史では、鎌倉幕府はモンゴル帝国とは国交がなく、鎖国状態としています。しかし、日本列島に亡命して来た禅宗組織は、日本列島から絹製品、金、銀などを持ち出し、その見返りに、モンゴル帝国からは書画骨董品を日本列島に持ち込んでいたのです。鎌倉時代の禅僧は、正に、戦国時代のイエズス会宣教師と同じように、「国際交易商人の顔」も持っていたのです。その禅宗が、最も栄えたのは、太陽や星を自然神として祀る、敵対行為をしなければ、キリスト教やイスラム教や禅宗などの人工宗教など弾圧をしない、モンゴル帝国時代だったのです。」
「藤原日本史の鎌倉時代の「元寇物語」は、信用できないと言うわけですね。新田氏の出自も、鎌倉時代からですから、史料としての証拠はありませんが、オレの直感では、清和源氏出自は、ウソだと思います。」
「では、史料に頼らないとすれば、カメさんは、新田氏の出自をどのように考えているのですか。」
「漢字二文字の人名、地名は、713年以降に、400年続いた古墳時代の歴史を消すために、藤原不比等の発案で発明されたものですよね。だから、漢字二文字の「新田」も、群馬の歴史を消すために発明された地名だと思います。藤原日本史の古代史に登場する人名、地名には、古墳時代に活躍した民族を貶める「命名」がされているからです。そのひとつが、藤原日本史の「日本書記」に登場する、国津神の、ニニギノミコト(邇邇芸尊)を先導したとする、「猿田彦」です。「猿」は、さる←申←しん←「秦」、からの派生です。「新田」も、「新」←にっ←しん←「秦」、からの派生と思われます。つまり、「猿田」も「新田」も、古墳時代に活躍していた「秦」の民族を、隠蔽するための「命名」です。」
「面白い発想ですね。でもそれだけでは、納得することは困難です。」
「オレ、夢を見たんですよね。その夢では、毛野の国まで、北区の飛鳥山から川を遡って行くと、そこには多くの馬が闊歩して、荷車には、繭玉を満載していたのです。これって、新田と関係あると思うんですが。」
「その川は、多分、利根川でしょう。利根川は、現在のように太平洋側ではなく、群馬から関東平野を南下し、江戸湾まで流れ込んでいたのです。古代の物流の主は、陸路ではなく、川路であったのです。これは、日本列島だけではなく、世界的です。中国大陸では、モンゴル帝国のフビライが大運河を掘削して南北を結ぶ以前、南船北馬と言われていましたが、川路は、安全で、大量の荷物を運べるため、発達していたのです。各地に残る地名の河岸とは、川の港のことです。」
「すると、オレの見た夢は、正夢だったのですね。その川路の途中で、古墳群を見たのですが。」
「それは、さいたま県行田の古墳群です。その古墳からは、辛亥年と銘記された鉄剣が発掘されています。定説では、辛亥年は、471年と言われています。」
「藤原日本史では、その剣は、大和朝廷の雄略天皇の実在性を示す物証だ、としていますよね。」
「熊本県江田船山古墳からも、ワカタケル大王の銘がある鉄剣が発掘されていることから、九州から関東まで、5世紀末期には奈良の大和朝廷の支配力が及んでいた、としています。しかし、その5世紀末期の稲荷山古墳より以前、5世紀中期に、群馬県太田には、関東最大の全長210mの前方後円墳、二重の堀が張り巡らされていた天神山古墳があるのです。カメさんの夢では、東京都北区飛鳥山からの出発でしたよね。」
「そうですが。」
「その夢の時代的順序は、逆なのです。群馬県の古墳群は、4世紀から築かれています。その利根川の中間である行田の古墳群は、5世紀末から6世紀に築かれています。そして、北区飛鳥山古墳群は、6世紀末期から築かれていたのです。古墳築造は、4世紀、西国の「飛鳥大和」を中心に日本列島に伝播していったわけではなく、東国からも、古代高速道路建設と平行して日本列島各地に伝播していったのです。因みに、飛鳥山に連なる、北区赤羽台から上野山にかけて、崖下を走る京浜東北線に沿った台地上には、多くの古墳が築かれていたのです。」
「古墳って、身近にあるものなのですね。」
「前方後円墳は、墓の機能よりも、威信的建造物として築かれていたのです。人目につく、丘の上や、大川の流れる河岸の近く、ひとの集まる処に築かれていたのです。その古墳群の地を、唐から進駐した律令軍が占領し、漢訳仏教施設を建立していたのが、奈良時代(律令時代)だったのです。しかし、その支配地も、東西の日本列島を結ぶ交易・軍事道路の北陸道、東山道、東海道を分断する三関を築いての、西国までだったのです。奈良時代では、その三関の東の地は、未だ、古墳時代の支配者が存在していたのです。」
「すると、群馬県太田の天良七堂遺跡は、騎馬民族の「繭玉」の交易施設とも考えられますね。」
「藤原日本史では、歴史の流れを、奈良盆地の大和朝廷からと描写しています。しかし、その藤原日本史の呪縛から解かれると、異なる日本列島史が現れます。藤原不比等が創作した「日本書記」の目的のひとつは、藤原日本史では「倭の五王時代」としますが、南宋の絹製品を求めて、東ローマ帝国からユーラシア大陸のステップ・ルートを経由して、回廊としての日本列島に、国際交易商人ソグドが騎馬民族と供に渡来していた「古墳時代」の歴史的抹殺です。」
「新田氏が、秦氏の末裔だとすると、徳川家康も秦氏末裔と考えられますよね。」
「そこまでは言い切れません。しかし、徳川家康が、賎民と言われた産鉄民族の金山衆や阿弥一族の庭師、そして、反体制の役座を警察・警備員として保護(徳川家康は江戸幕府を拓くと、豊臣秀吉により大阪中心部から川筋の湿地帯に強制移住させられた大阪秦王国の住民を、天満橋付近に移住させ、そこを役人村とした。それが、渡辺村だ。)していたことは、体制側(藤原氏・亡命百済貴族末裔側)ではないことが示唆されます。」
「藤原日本史での戦国時代、徳川家康は、織田信長や豊臣秀吉の影に隠れて、活躍していないように描写していますよね。陰険に政権を乗っ取ったイメージですよね。」
「徳川家康の出自、及び、軍事行動の事績を述べると、藤原氏(体制側)に不都合なことが出てくるからだと思います。」
「どういうことですか。」
「山の民のことです。」
「山の民って言うと、「カムイ伝」や「もののけ姫」に登場する、アレですか。」
「「カムイ伝」は、江戸時代を背景にしているようです。そして、「もののけ姫」は、その物語のなかに「明国」がでてくることから、室町時代か戦国時代を背景にしていると考えられます。」
「いずれにしても、その物語に登場する山の民の生活環境の描写は、劣悪のようですね。」
「山の民のイメージとしては、山々に囲まれて閉鎖環境のため、文化からほど遠いように考えられています。しかし、山奥の寒村の多くの集落遺構からは、白磁の破片が遺物として発掘されています。」
「白磁といえば、景徳鎮ですよね。」
「その景徳鎮は、海洋交易立国となったモンゴル帝国時代後期には盛んに作られ、海外に輸出されていたのです。」
「日本列島にもですか。」
「そうです。その輸入に携わったのが、鎌倉時代から室町時代初期、源氏長者の足利義満が存命中は阿弥一族だったのが、1408年足利義満が横死すると、その交易の主役は南宋から亡命して来た禅僧となっていったのです。」
「だれが、何のために、その白磁を山奥にもたらしたのですか。」
「考えられるのは、「座」組織を壊滅させた大山崎油座商人と禅僧です。藤原日本史では、織田信長により、座組織が壊滅させられ「楽市楽座」となった、と述べていますが、鎌倉時代に発生した座組織は、室町時代末期には大山崎油座・禅宗組織、武家の足利連合軍の三位一体制により壊滅させられて、存在していなかったのです。室町時代末期に、三位一体の者達が、山奥を目指したのは、国際商品を手に入れるためです。」
「なんですか、それ。」
「銀と繭玉です。」
「モンゴル帝国時代の通貨の主役は、銀貨です。そして、イタリア・ルネサンスの興る14世紀末には、ヨーロッパでは絹製品の重要が増していたのです。」
「そうですか。銀や繭玉は、山の民により山奥に貯えられていたのですね。」
「カメさん、禅宗の山寺を訪れたことがありますか。」
「取材で何度も。山奥の山寺は厳しい箇所に建てられていますよね。修行のためには、山奥に篭らないとダメですよね。」
「山寺の建築構造で、気づいたことはありませんか。」
「そえいえば、キツイ長い階段と、堅牢な石垣に護られているような構造の山寺が多くあったようです、けど。」
「禅僧の修行のためだけでしたら、山寺は、神社(もり)のように、簡素な囲いで充分だと思いませんか。」
「そういわれれば、そうですね。山寺は、考えてみたら石垣で護られた、山城の要塞のようですね。」
「宗教の護るべき宝は、貧民を救う思想だけだと考えられていますが、もしそうだとしたら、堅牢な構築物など必要がないと思いませんか。山寺には、白磁などのモンゴル帝国や明国からの舶来品が、山奥に眠る銀や繭玉と交換するために、保管されていたと考えられます。禅宗は、戦国時代以前、阿弥陀石像を創作し、山々に設置していたのです。それは、山の民の多くは、太陽神信仰民族の末裔であることを、禅宗が知っていたからです。」
「阿弥陀とは、アミダーバが租で、その基は太陽神ですよね。でも、一般的には、仏教の仏(ブツ・「ほとけ」は死者の意味)と信じられていますよね。」
「室町時代、禅僧が山里の村々に設置した阿弥陀石像を、戦国時代に登場した織田信長は、二条城再建の基礎石として、近畿一体から集め、砕いていたことは、織田信長は、禅宗組織による山の民の支配地進入のための懐柔戦術を知っていたからだ、と考えています。」
「そういえば、1568年織田信長は、足利義昭を奉じて入京すると、賎民余部(海部)を配下として保護しましたよね。それ以前に、織田信長には、産鉄民族(山の民)の賎民金山衆が配下にいましたよね。その金山衆を、織田信長がイエズス会の陰謀により爆殺されると、徳川家康が配下としたことは、織田信長も徳川家康も、山の民と関係が有る反漢訳仏教側のひとだからですか。」
「織田信長も徳川家康も、そして、豊臣秀吉も、調べれは調べるほど、その実像がよく分からないのです。」
「でも、藤原日本史では、「天下布武」のスローガンの下に日本列島統一寸前の織田信長の権力を豊臣秀吉が受け、その権力を徳川家康が引き継いで日本列島統一となった、としていますよね。何処が分からないのですか。」
「それらの戦国三武将の武力だけで、日本列島を統一できたかは疑問だからです。険しい山々により平地を分断されている日本列島は、明治革命まで、軍事的に独立した六十余カ国により成り立っていたからです。その国々を分断する山々の国境を乗り越えるには、平地支配の軍事力だけでは出来ないからです。」
「そこで、山の民の登場となるわけですね。」
「戦国時代から江戸時代初期まで、その戦国三武将に軍事的に仕えた、山の民を率いていた人物がいるからです。」
「だれですか、それ。」
「キリシタン大名高山右近です。」
「すると、高山右近は、平家落武者部落の出自ですか。」
「カメさん、どのような根拠からですか。」
「オレ、出版社カメラマン時代に日本列島各地に取材にいったんですけど、山奥の集落に平家落武者部落の伝説が多く語られていたからです。現在でも、観光名所となっている処も多くあります。」
「その平家落武者部落伝説も、よく考えてみるとウソのようです。カメさんへのレポートでも述べましたが、「平家」と「平氏」は別物です。「平家」は、平安時代末期に現われた私称で、「平氏」は、天皇から授けられた姓です。「平家」始祖の正盛は、唐と交易をおこなっていたアラブ系国際海洋交易民の末裔です。907年唐が滅ぶと、アラブ系海洋交易民の居留地での虐殺が始まるのです。その難を逃れた一部が、日本列島の黒潮が流れ着く伊勢湾に漂着するのです。その末裔が、やがて伊勢湾一帯に勢力を伸ばし、藤原氏の廟堂独占を拒む院政の始まる1086年以降から、藤原氏の私兵(満仲が租)に対抗して、院の私的警護要員として雇われるのです。」
「その「平家」が平安王朝の政権を乗っ取り、1185年源氏との屋島の戦いで敗れて、滅ぶわけですよね。その「平家」残党が山に逃れて、部落を形成するわけですよね。どこがウソなんですか。」
「部落の「部」とは、漢文文献の表現から現われたものです。ペルシャ系東胡の系譜を引く鮮卑は、いくつもの集団にわかれた大勢力騎馬軍団でした。その騎馬民族のいくつもにわかれた集団のことを、漢文文献は、「部」と表現したのです。」
「「平家」は、騎馬民族ではなく、海洋民族だから、「部」ではないということですか。」
「「平家」の全盛期には、日本列島の三分の一を支配したのですが、その支配地の多くは沿岸部地域で、内陸部の山奥ではないのです。カメさん、海洋民族が、山奥で暮らせると思いますか。」
「では、その平家落武者部落とは、何なんですか。」
「その部落は、「平家」ではなく、「源氏」です。「源氏」と言っても、藤原氏により創作された「清和源氏」ではなく、反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」末裔の部落です。」
「何故、「嵯峨・醍醐源氏」は、平家落武者を騙ったのですか。」
「それは、1219年「清和源氏」(?)の源実朝が、公暁に暗殺されると、その暗殺の黒幕である桓武平氏の北条政子は、鎌倉幕府を乗っ取り、1221年六波羅探題を設置し、「源氏狩り」を行うのです。北条氏は、平氏で、「嵯峨源氏」は、母国百済を滅ぼした敵、新羅末裔であったのです。つまり、北条政子は、源氏狩りにより、「嵯峨源氏」末裔の壊滅を願ったのです。」
「すると、高山右近は、嵯峨源氏か醍醐源氏の流れにあるということですか。」
「私は、そのように考えています。嵯峨源氏の租が、古代新羅からの渡来民であるとすると、高山右近の父が、牛肉を常食するイエズス会の教義・儀式を完璧に理解して、入信したことが理解できます。」
「どういうことですか。それって。」
「古代新羅の軍団は、花郎騎士団です。「花」とは、牡牛を屠るミトラ神のことで、太陽神です。392年ローマ帝国のテオドシウス1世は、独裁の道具として、それまで各種の宗教が混在していたのを、ユダヤ教の一派であるキリスト教を国教に昇格させるのです。そのキリスト教勢力は、それまでローマ帝国内で勢力を張っていたミトラ教を歴史的に抹殺するために、地下神殿を破壊し、その跡にキリスト教の教会を建設して、地上からミトラ教の建築物を消し去るのです。そして、そのミトラ教の教義・儀式を、キリスト教に取り込むのです。それが、12月25日のクリスマスの日(太陽復活祭)、父と子と精霊の三位一体説(日の出、天中、日没の太陽)、種無しパンと赤葡萄酒の儀式(牡牛の生肉と生血の儀式)などです。ユダヤ・キリスト教の教義・儀式の基礎は、ミトラ教からの導入だったのです。」
「その説、なんとなく理解できます。でも、高山右近が、戦国時代に、何をしたというのですか。藤原日本史には、キリシタン大名で、マニラで死んだ、との簡単な記述しかありませんけど。」
「高山右近が、歴史上存在していないとしたら、イエズス会の傭兵軍団長の羽柴秀吉は、豊臣秀吉になれなかったかもしれません。」
「どういう意味ですか。」
「高山右近は、キリシタン大名として、織田信長軍に参加していたのです。高山右近が率いる山の民は、古墳時代、日本列島の各地を結ぶ幅広の直線道路や巨大古墳を築いていた高度土木建設技術者の末裔です。それらの高度土木建築技術者集団は、城築造の建築活動もすれば、城の破壊活動も組織的におこなえます。山の民の軍団は、例えば、工兵隊のような存在です。」
「その工兵隊が、織田信長軍に参加したわけですね。」
「織田信長が、尾張のゲリラとして戦っていたのが、急速に勢力を伸ばすのは、フランシスコ・ザビエルが渡来して11年後、尾張桶狭間の戦いからです。しかし、仏教嫌いの織田信長が、1568年の前年までは、義秋(後に足利義昭)供奉の上洛への協力援助を、藤原氏の氏寺である興福寺衆徒に依頼していたほどの弱小勢力であったのです。その織田信長が、1571年比叡山を焼き討ちすると、1570年来日したイエズス会のオルガンティーノに訪問されるのです。この比叡山攻略には、高山右近軍の参加が示唆されます。それは、堅牢に護られた比叡山の山城が短期間に陥落したのは、山の民の協力なしには考えられないからです。」
「そのオルガンティーノが、織田信長や高山右近に、何をしたというのですか。」
「織田信長が、自ら神となり、「天守閣」ではなく、「天主閣」(神の住まい)に居住することを許さなかったイエズス会組織は、藤原氏の導きにより、織田信長を本能寺で爆殺するのです。その直後、藤原氏の近衛前久邸では酒宴が開かれていたのです。その爆殺当日、安土の教会にいたオルガンティーノは、高山右近の留守を守る高槻城の家臣に、明智光秀に味方しないように強く働きかけていたのです。明智光秀の娘玉子は、イエズス会の洗礼を受け「ガラシャ」と名乗っているほど、明智光秀とイエズス会は、疎遠な関係ではないのです。しかし、明智光秀が、イエズス会の日本列島支配軍団の棟梁には向いていないことは、天台宗と繋がりがあったからです。そこで、イエズス会が目を付けたのが、出自不明の羽柴秀吉です。その残虐性は、織田信長以上だからです。」
「藤原日本史では、羽柴秀吉は、織田信長の子飼いの武将のように描写していますけど。」
「オルガンティーノは、本能寺の変後、坂本城まで出かけて明智光秀の子息にあって、明智家の仏教に対しての情報を収集していたのです。そして、オルガンティーノは、高山右近に、明智光秀に絶対に仕えないように、ポルトガル語で書いた手紙を出していたのです。オルガンティーノの働きかけは、高山右近だけではないことは、細川藤孝、吉田兼見、津田宗及、楠長諳などの織田信長側の面々は、明智光秀にではなく、すぐさま羽柴秀吉に従属していたからです。」
「すると、ナベさんは、イエズス会が、武力で日本列島を完全支配するために、織田信長の後釜に、出自不明の羽柴秀吉を登場させたというのですね。」
「そうです。織田信長は、10年かけても陥落しなかった、巨石の壁に護られていた大阪秦王国を、浄土真宗本願寺派を巻き込んだ姑息な手段で壊滅させたのですが、まだ壊滅させる勢力が存在していたからです。それが、紀伊の雑賀衆・根来衆、そして、九州の島津義久です。」
「織田信長は、以前、藤原氏の氏寺である興福寺の軍事援助を頼んでいましたよね。島津氏の支配地は、鎌倉時代以前は島津荘で、藤原氏の支配地だった地ですよね。」
「そうです。その島津荘は、鎌倉時代初期、新羅末裔の秦氏を改名した惟宗氏の所領となり、惟宗氏(=秦氏)は、島津氏に改名するわけです。戦国時代に、イエズス会と共謀する藤原氏は、島津氏の追い落としを、イエズス会から藤原氏に寝返った豊臣秀吉におこなわせたのです。イエズス会の指令に忠実に随う高山右近は、同族の島津氏を滅ぼしたのです。その後の残存島津氏は、藤原氏の手先となり、明治革命で利用されるのです。」
「雑賀衆や島津氏らの残存勢力壊滅戦争に、織田信長の後釜である羽柴秀吉に従軍する高山右近の軍団が参加するわけですね。」
「1585年高山右近は、羽柴秀吉とともに、雑賀衆と根来衆が立て篭もる太田城を攻め滅ぼすのです。この時、イエズス会のセスペデス神父は、大阪から70kmも離れた太田城の陥落を見学していたのです。」
「そんな話、藤原日本史にはありませんけど。」
「1587年九州の島津義久を攻め滅ぼすと、その直後に、1586年関白豊臣秀吉となっていた秀吉は、伴天連追放令を出すのです。羽柴秀吉は、織田信長の爆殺の真相を知っていたのか、イエズス会から、藤原氏に寝返っていたのです。」
「全国を平定後、高山右近は、キリシタン大名の地位を捨て、一介の浪人となるわけですね。豊臣秀吉により、高山右近毒殺を命じられた千利休は、その命に背いて自害するわけですね。高山右近は、千利休の弟子だったのですよね。」
「高山右近の山の民の工兵軍団がいなかったら、比叡山延暦寺も根来寺も島津氏の城も陥落しなかったかもしれません。根来寺は、真言宗の寺院として高野山から分離したものです。室町時代には、500以上の子院が建ち並び、「根来衆」と呼ばれた、1万人とも言われる、僧兵たちからなる武装集団が形成されていて、戦国時代には、鉄砲の一大生産地で、鉄砲隊が編成されていたからです。治外法権の仏寺が、博打、売春、高利貸しの悪所ではなく、信仰のためだけの施設となるのは、江戸時代からです。」
「キリシタン信仰をすてなかった、マニラで病死した、高山右近は、イエズス会の軍事活動に、何を見たのでしようか。」
「太陽信仰民族は、その太陽の遍く降り注ぐ光から、民族平等、貴賎差別拒否の思想をもっていることから、イエズス会の思想により、山の民の、漢訳仏教が保持する肉食民族差別思想からの開放を願っていたかもしれません。肉食を民族差別思想に利用する漢訳仏教勢力に対して、イエズス会の宣教師は、牛肉を好んで食べていたから、肉食する山の民は、親近感をイエズス会にもったのかもしれません。」
「ナベさんの戦国時代説を知ると、藤原日本史の戦国時代物語での、織田信長や豊臣秀吉の人物像がなんとなくウソっぽく感じますよね。」
「歴史は、百人居れば、百の歴史物語が存在します。ですから、私の説も、百分の一の物語のひとつです。だから、歴史は面白いのです。」
「なんとなく納得しそうです。今日は、どうもありがとうございました。」
「こちらこそ。では、又。」
オレは、しばらくパソコンのスイッチを切らずに、ぼんやりと画面を眺め続けていた。  

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コメント
 
01. むらかみから 2014年3月21日 22:38:43 : nrOdN59DZPMY6 : 8ZSg7j4b4Q
【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 @実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 A貴重な金石文を正確に読みましょう。
 B地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記@ABを 徹底的に、探究しました。 
@古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
A七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
B地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年〜340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
@草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
A発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
B稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
C少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳−−−−−−年代−−−−被葬者
@箸墓−−−−−385年頃−倭王旨(七支刀)   
A渋谷向山古墳−410年頃
B行燈山古墳−−430年頃−倭王讃(宋書)
C五社神古墳−−440年頃−倭国王珍(宋書)
D中ツ山古墳−−450年頃−倭国王済(宋書)
E石津山古墳−−475年頃−倭国王興(宋書)
F誉田山古墳−−510年頃−倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
G大仙古墳−−−520年頃−男弟王(隅田鏡)
H見瀬丸山古墳−570年頃−獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
I太子西山古墳−585年頃
J石舞台古墳−−620年頃−阿毎多利思比孤(隋書)
K天武陵(旧)−645年頃−ワカミタフリ(隋書)
L持統陵(旧)−645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳−−−被葬年−本名−書紀の中の名前【家系図】
@箸墓−−−393−旨−ミマキイリヒコ【初代】
A渋谷向山−409−?−イクメイリヒコ【@の子】
B行燈山−−438−讃−イニシキイリイコ【Aの子】
C五社神−−442−珍−ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【Bの弟】
D中ツ山−−462−済−ホムタノマワカ&尾張連草香【Bの孫】
E石津山−−477−興−カワマタナカツヒコ&凡連【Dの子】
F誉田山−−507−武・日十・余昆−昆支&ホムタワケ【Dの子の婿】
G大仙−−−531−男弟−ヲホト&オホサザキ【Dの子の婿。Fの弟】
H見瀬丸山−571−ワカタケル−アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【Fの子】
I太子西山−585−?−ヌナクラノフトタマシキ【Hの子】
J石舞台−−622−アメノタリシホコ−タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【Hの子】
K旧天武陵−645−ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【Jの子】
L旧持統陵−645−?−蘇我入鹿【Kの子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。

とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。


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