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たそがれのプロカメラマン物語   第七章 江戸時代へタイムトリップ 
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/794.html
投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 2 月 05 日 14:20:28: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語   第六章 戦国時代へタイムトリップ(続)  投稿者 五月晴郎 日時 2014 年 2 月 05 日 14:10:15)

http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html

          江戸の町は、徳川家康の横死後、亡命百済貴族末裔に乗っ取られていった。


オレは、昨日の田辺さんとのチャットで気になっていたことを思い出したので、浅草をトモスに乗り目指した。目的地は、奥浅草。浅草弾左衛門の支配地跡を見たかったのだ。
吉野通りから、山谷堀跡の遊歩道を少し歩くと、都立浅草高等学校へ着く。この遊歩道が、江戸時代中期には堀であって、仏寺で囲まれた弾左衛門の居住地を、「常民」から分離していたのかと想像した。
戦国時代末期、全国を平定した豊臣秀吉は、大阪秦王国の住民を湿地帯に追い遣り、「余部」とし、その地域に堀を巡らし、民族差別をしていたことを思い出した。
今戸町となっている地は、弾左衛門の面影を何一つ残しては居ないようだ。がっくりした。浅草高等学校の裏手に回ると、今戸神社があり、そのベンチで一休みをしていると、地元の住民と思われる老人が、さびた自転車をベンチ横に停めた。
オレは、巨大イチョウの樹を眺めながらボンヤリ弾左衛門のことを考えていると、その老人が話しかけてきた。
「どこから来なさった。」
「赤羽からです。」
オレは、思索のじゃまをされたくなかったので、ぶっきらぼうに答えた。
「もうすぐ、イチョウの葉もなくなると、今年も終わりだ。オニイさんお参りかい。」
「いいえ。少し休んでいるだけです。」
またも、ぶつきらぼうに返答した。余程暇のようで、その老人は、隣のベンチから立ち去ろうとしない。
「ワシャ。暇だから、毎日ここに来て、参拝者にこの辺の昔話をしているんだけどね。」
そう言って、自転車にくくりつけられた古びたバックから、よれよれの古本を取り出した。その本の題名は、浅草の歴史とあった。
「おじいさん。この辺の歴史に詳しいのですか。」
「地元だもの。曾ばあさんのころからこの地に居たわけよ。」
「少し聞いてもいいですか。」
「なんでい。言ってみな。」
「浅草弾左衛門の支配地跡を見にきたんですが、弾左衛門の屋敷跡は何処か知りませんか。」
老人は、浅草高等学校を指差して、
「矢野様のお屋敷跡だ。」
と言うと、自転車を押して去っていった。オレは、もう少し情報を知りたかったが、その老人の、「弾左衛門」を「矢野様」と言ってからの態度を見てから、その後の質問もできなかった。
その後、江戸歌舞伎発祥の猿若町と助六の碑を見学すると、帰途に着いた。期待はずれの一日だった。
田辺さんからのレポートは、年が明ける寸前にメールされてきた。オレは、そのレポートを正月休みにじっくり読んだ。その概要はつぎのようだった。

藤原日本史の江戸時代物語は、大きな戦闘記事もなく、歴代将軍の事績を並べるだけで、退屈極まりないようだが、この時代に、騎馬民族差別制度が確立していた。江戸時代とは、民族差別の制度が確立した時代であった。
日本列島で、民族差別がないのは、北海道と沖縄だ。その地域の共通点は、漢訳仏教の進出がなかったことだ。江戸時代の裏面史を知るには、その漢訳仏教について調べることが必要のようだ。
現在の上野公園には、多くの美術館と動物園が存在する。現在では上野の山は文化の森である。しかし、江戸時代の上野の山には、隠された歴史があった。
江戸時代、徳川家康が横死し、1623年二代目将軍徳川秀忠が、徳川家光に将軍職を譲った。その三代目将軍となった徳川家光に、天台宗僧侶天海は、上野の山に寺を建立することを願った。
その寺建立予定地は、元々は、藤堂、津軽などの諸大名の下屋敷に予定されていたが、天海の願は聞き入れられ、1625年(寛永2年)寺創建に着手した。
現在では、上野の山には、寛永寺がポッンと存在しているが、天海が企画した東叡山寛永寺は、境内36万坪、支院36坊を数える壮大な規模であった。
何故、天海の希望が、諸藩の下屋敷建設予定を覆し、徳川家光に聞き入れられたのか。それは、天海と徳川家光の血筋にあるようだ。
天海は、一説では、明智光秀である、と云われている。明智光秀の居城は、坂本城である。その坂本の地は、元は、比叡山延暦寺の支配地だった。
比叡山延暦寺は、一寺の名称ではなく、比叡山全域を境内とする数多くの寺院の総称だ。平安時代初期、百済系桓武天皇の命で、京都の鬼門を護る国家鎮護の道場として計画された。この平安時代、比叡山延暦寺が鎮護する国家には、藤原氏が興福寺により支配する奈良の都は入っては居ない。
漢訳仏教組織は、末社を各地に組織して、その勢力地(布教地)を各国に伸ばして行く戦略だ。平安時代の国家が、日本列島全土を意味するのではないことは、奈良の漢訳仏教の末社が、京都にはひとつもないことで分かる。百済系桓武天皇は、奈良時代に廟堂を漢訳仏教組織を使って支配していた、藤原氏の勢力を排除したのだ。
百済系桓武天皇は、藤原氏の奈良王国から独立するために、京都盆地に進出したのだ。京都を、亡命百済王国にしたかった。比叡山延暦寺は、亡命百済の都、京都国を鎮護するための寺院だった。
しかし、最澄率いるその比叡山延暦寺の僧侶は、正式な僧侶ではなく、私僧だった。
国家が認める正式な僧になるためには、「戒壇」で儀式をおこなう必要があった。日本列島に初めて戒壇が、755年に創られたのは、754年鑑真が渡来してからだ。鑑真は、奈良の東大寺、筑紫の観世音寺、下野の薬師寺に、肉食禁止・血の禁忌を戒める「大乗戒壇」ではなく、「小乗戒壇」を設けた。その「小乗戒壇」が設けられた三地域は、古墳時代、肉食する秦氏の支配地だった。
亡命百済貴族末裔が支配する京都を鎮護する比叡山での「大乗戒壇」の設立は、822年最澄の死後であった。
京都の比叡山延暦寺と江戸の東叡山寛永寺とには、多くの共通点がある。そのひとつは、「年号」を寺の名としていることだ。そして、百済系民族が、新羅系民族をその思想で貶める機関となっていることだ。その寺院の末路にも共通点がある。それは、戦国時代、比叡山延暦寺は、反仏教勢力の織田信長により壊滅されていた。そして、江戸時代末期、東叡山は、薩摩・長州の志士(官軍の下級武士は獣(シシ)と幕府軍に蔑称されていた。)により、徹底的に破壊されていた。寺院を破壊した織田信長も薩摩・長州の下級武士も、共に賎民の末裔だった。
その建立地にも共通点がある。上野の山は、古墳が多く築かれていた地だ。そして、比叡山に隣接する牛尾山の山頂には、磐座があって、先住民の信仰の地であった。その先住民である秦氏の神ミトラを抹殺するために、亡命百済貴族末裔は、唐の山東半島土着の神シャンワンを、山王として導入し、日吉大社とした。その日吉大社の神、大山咋神(おおやまくい)の使いは、猿だ。猿とは、秦氏のことで、秦氏を貶めるために藤原日本史には、多く登場する。
京都は、日本列島での民族差別の発祥の地で、そして、江戸は、民族差別を制度的に完成させた地だ。
では、江戸時代、天海は、どのような手法で民族差別を制度化したのだろうか。
天海は、1617年二代目将軍徳川秀忠が徳川家康の廟堂として建てた東照宮を、世良田の湿地帯に移した。そして、東叡山寛永寺建設着手前年、1624年その跡地に、日光東照宮陽明門を建てた。天海により、江戸の地と日光の地では、同時に新たな天台宗の宗教施設が築かれていた。それは、何故か。
天海は、古くから存在していた輪王寺に、法親王を迎えた。法親王とは、皇子か猶子を出家させ、これを「門主」の地位に据えた時の名だ。
この法親王を、「輪王寺門跡」といった。その「輪王寺門跡」に、天台宗を菅領して、比叡山、東叡山、日光をふくむ三山を統括し、絶大な権力を持たせた。
これは、奈良時代、藤原不比等が、人間であった天皇を現御神として、絶対の権力を持たせた戦略と同じだった。
これにより、天海の作文は、誰も逆らうことの出来ない「神の言葉」(平安時代、亡命百済貴族末裔により、藤原氏の創作した「神」は、騎馬民族を差別する漢訳仏教の「仏」の化身(僕)となる。)になった。
では、天海は、反仏教の騎馬民族末裔の源氏長者徳川家康の拓いた江戸幕府で、そして、騎馬民族末裔の重臣が多く暮らす江戸で、どのような戦略・戦術で、「神の言葉」を民衆に発したのか。
それを知るには、奈良時代、いかにして、藤原不比等が、人間天皇を唯一神の現御神にして、「神の言葉」を発した戦略・戦術を調べることにより分かる。
藤原不比等が、日本列島先住民を支配するために、まず考えたのは、如何にして4百年も続いていた日本列島古墳時代の歴史を消すことだった。そのためのひとつに、国史の編纂があった。
その日本列島国史の編纂のアイデアは、藤原不比等が歴史上突然現れた持統3年(689年)には、649年から690年までの唐帝国では、騎馬民族拓跋部の出自で漢族文化に染まった李世民と高宗父子は、「梁書」、「陳書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」、「晋書」、「南史」、「北史」を編纂していた。これは、「史記」から「明史」までの中国正史24のうちの三分の一が、唐帝国時代初期に創作された。唐帝国で、北方の騎馬民族に蔑称を付けた多くの国史(偽書?)が編纂されていた時期に、藤原不比等は、日本列島史に突然現れたのだ。
日本列島古代史の基礎資料と云われる、藤原日本史では古来から万葉語が存在していたとするのに、漢字・漢文法による「日本書記」、「続日本紀」、「日本後記」、「続日本後記」、「文徳天皇実録」、「日本三代実録」、の六国史の編纂は、藤原不比等を租とする藤原氏一族が編纂したものだ。これらの、日本語(万葉語?)ではない漢文書籍は、誰に読ませるために創作したのか、不思議だ。
それらの史料だけではなく、古代新羅から渡来した秦氏を蕃族とした、平安時代初期に編纂された「新撰姓氏録」は、新羅国を憎む百済系桓武天皇の命により、藤原園人、藤原諸嗣等が編纂した。更に、南北朝末期に編纂された「尊卑文脈」は、左大臣洞院公定(藤原氏)が集成したものだ。これらの史料を基礎資料として、古代日本列島史は、編纂されている。
しかし、733年「出雲風土記」、812年「古事記」(712年太安万侶の編纂は誤り)の二書の編纂は、非藤原氏によるものだ。これらの二書は、藤原日本史の記述に逆らって編纂されている。
特に、平安時代、万葉語学者で「日本書記」の講義を生業としていた、古代新羅からの渡来民族秦氏末裔の多人長が編纂した「古事記」は、「日本書記」の或書に曰くの記述に沿って、反論的持論を展開している。そして、「古事記」最後の推古天皇の記述は、45文字の漢字のみだ。これは、「古事記」の序文にあるように、「ここに旧辞の誤りを惜しみ、先記の誤りを正す、云々。」を、サイファー式暗号で黙示したものだ。つまり、「日本書記」の推古天皇以前の記述を抹殺せよ、ということだ。
藤原不比等が歴史上現れた7世紀末以前の日本列島史は、藤原日本史が述べる、仏教文化黎明期の「飛鳥時代」や「白鳳時代」だったのか。
藤原日本史では、ヤマトタケルの東征伝で、東国の武蔵、上野は、天孫族の支配下となっていた、とする。そのヤマトタケルの活躍したとする年代を推測すれば、ヤマトタケルの父が景行天皇とするからには、その在位が4世紀前半からとすれば、4世紀中期から5世紀が考えられる。
「日本書記」でのヤマトタケルの侵略経路は、大和→伊勢→駿河→焼津→相模→上総→陸奥→日高見→常陸→甲斐→武蔵→上野→碓氷→信濃→尾張→近江(伊吹山)→尾張→伊勢、とする。
それに対して、多人長は、「古事記」で反論する。
「古事記」の侵略経路は、大和→伊勢→尾張→駿河→相模→足柄→甲斐→信濃→尾張→美濃→伊勢、とする。
ヤマトタケルの活躍したのが、4世紀中期から5世紀とすると、東国の武蔵には、古代新羅の漢字アルファベットのヒャンチャル(郷札/藤原日本史では万葉語)で、北方騎馬民族が使用するウラル語文法により表記された、辛亥年(471年)との金銘入りの鉄剣が出土した行田の稲荷山古墳のように、巨大前方後円墳が東国に築造されていた時期だ。
天孫族の墓制は、死者は「穢れている」とする思想なので、古墳を築くことはない。古墳を築く民族は、天孫族にとって異民族なのだ。
ヤマトタケルは、古墳を築く墓制を持つ、一種の独立国としての、武蔵、上野には入国できなかったことを、多人長は、「古事記」で黙示していた。
4世紀から5世紀の日本列島や東国には、どのような歴史があったのかは、藤原氏による焚書、歴史改竄や古墳破壊などで隠蔽されているが、奈良時代に藤原氏の創作した「中臣神道」の関連史料を斜め読みすることで、或程度推測できそうだ。
中臣神道関連の記述が歴史上登場するのは、「続日本紀」天平宝字元年(757年)「始めて制す。伊勢神宮の幣帛使は今より以後、中臣朝臣を差し遣わせ、他の姓の人を用いる事はならない。」、からだ。では、その伊勢神宮が創建されたのは、いつ頃なのか。
六国史によれば、伊勢神宮を皇祖神としたのは、持統天皇の時代、7世紀後半からだ。それは、持統天皇以前に、伊勢神宮に行ったとする、天皇の記述がないからだ。
藤原日本史によれば、持統天皇の前の、天武天皇は、壬申の乱(672年)の時、伊勢まで行ったが、伊勢の方面を遥拝したが、伊勢神宮には参拝していない、とする。それは、伊勢神宮に参拝しなかったのではなく、その当時まだ伊勢神宮など存在していなかったからだ。
伊勢神宮の創建時期は謎なのだ。その伊勢神宮に天皇として初参拝した持統天皇の出自も分からない。
藤原日本史によれば、持統天皇の母は、遠智娘、蘇我倉山田石川麻呂の娘(美野津古媛、またの名を造媛)との、三つの呼名を持っている。
藤原日本史では、歴史上架空の人物「聖徳太子」を厩戸皇子、厩戸王、上宮王、豊聡耳、上宮之厩戸豊聡耳、法主王、豊耳聡聖、徳豊聡耳法大王、上宮太子聖徳皇、上宮厩戸、厩戸皇太子など多くの呼名を創作したように、その創作人物の出自を隠すことが常套手段だ。
持統天皇の出自や事績にも、後人には知られたくない事績があるようだ。
持統天皇の和名は、「高天原広野姫」だ。藤原不比等が発明したアマテラスオオミカミの別名は、「大日霊尊(於保比ル燈崇q)」だ。「広野」と「比ル刀vとは、同音だ。
藤原不比等は、伊勢神宮を創建して、持統天皇をそこに参拝させ、何を企んだのか。
藤原不比等が創作した「日本書記」の神代の物語では、高天原→伊勢→天照→ニニギノ命、と祖母から孫への皇統譜が述べられている。つまり、母から孫への王権相続だ。これは、持統天皇→(草壁)→孫(文武天皇)への流れと同じだ。
藤原不比等は、文武天皇を「現御神」にすることを企んだ。
絶対神である「現御神」の歴史的初出は、「続日本紀」文武元年(697年)、「詔りして曰く、現御神と大八嶋国治しめす天皇大命(すめらがおおみこと)」、の記述だ。
藤原不比等が、日本列島の歴史上現れた、持統4年(690)年、唐帝国では、高宗が死去し、皇后武氏が、漢訳仏教組織を利用して政権を乗っ取り、則天武后となり、国号を「周」と称した。
そして、日本列島西国の奈良盆地での690年、持統天皇政権は、これより唐帝国の太陰太陽暦の儀鳳暦により朝廷儀式が執り行われて行く。これは、持統天皇政権が、「周」(唐帝国)の支配下に入ったことを示唆する。その根拠のひとつとして、唐帝国の律令が、大宝元年(701年)選定されたからだ。
律令の律は罰則で、令は法のことだ。しかし、この大宝律令が、どのような律令であったのかは分からない。それは、天皇をロボット化した藤原仲麻呂の時代、勝宝9年(757年)藤原不比等が刊修した養老律令に取って代わったからだ。この養老律令は、昭和20年(1945年)日本国の敗戦まで続くのだ。
藤原不比等は、その養老律令で、唐の律令にもない「神祇官」を創設し、太政官に並ぶ官を発明した。この神祇官の暗躍により、人間天皇は現御神と変身するのだ。
藤原不比等の日本列島乗っ取りの戦略は、政治は藤原氏、そして、神祇祭祀は中臣氏とし、カスピ海沿岸を祖国とする一族で、祭政両権を独占掌握することだ。
その神祇令一に、「凡そ天神、地祇は神祇官、常の典によって祭れ。」、とある。そして、以下官祭三十三項を挙げ「前件の諸祭、百官を神祇官に集め、中臣、祝詞を宣し、忌部、幣帛を班(わか)。」、とある。
この神祇令により、古墳時代の地方の氏神、氏ノ上は、「凡そ、天神、地祇は神祇官の管轄下」にはいることになった。その戦術のひとつが、班幣制度だ。
それまでは、古墳時代の各部族の氏人達が、その部族の氏神に物を供える風習を、律令国家側から諸部族の諸神を対象に班幣を「現御神である天皇」から授けるということだ。
しかし、この戦略・戦術が功を現すには、諸国3134座の主だった神社(もり)に幣帛を授けるまでに、大宝律令制定の701年から元慶元年(881年)まで、180年の歳月を要した。
そして、藤原時平が、古墳時代に土師器を造っていた者を租とする、反藤原氏である菅原道真を、大宰権帥として九州に左遷した、延喜元年(901年)から、27年を費やして、藤原時平以下藤原忠平等により、「祝詞」が集録された「延喜式」の法典が、927年に完成する。この法典により、神前で読む、「高天原」から始まり、「皇御孫命」(すめみまのみこと)に称えごと意(お)えまつらくと宣る、で終わる、現在に伝わる「祝詞」が完成した。中臣神道の祝詞は、神代の昔からではなく、平安時代に創作されたのだ。
更なる戦術として、古墳時代の氏神、氏ノ上を律令国家の管轄下におくための手段として、地方の神々に叙位、叙勲を与えた。世界広しといえども、神に階級を就けることを歴史上おこなったのは、日本律令国家だけだ。
その戦術の本意は、神々のものというより、古墳時代の神々を奉斎する氏神の元にある氏ノ上、氏人等の部族集団を、現御神天皇のもとに臣属させるところにある。現在では、この天皇からの叙勲は、有名人に対して授けられている。その本意は、古代も現在も同じだ。
現御神天皇から、古墳時代の神々に位を授け、勲位を与え、そして、神宝配布によって、古墳時代の諸国の神々は、天皇権威、権力に臣従した。しかし、その藤原不比等の戦略・戦術に乗らなかった神々や氏人もいた。それが、律令国家の世間から食み出た「芸能民」だ。
藤原日本史に登場する賎民とする芸能民とは、日本列島の古墳時代400年間も、古墳近辺の祭祀場で、太陽神の化身である鶏、鹿、牡牛を屠る犠牲儀式をおこなっていた祭祀者の末裔だ。
芸能民が遊行するのはあたりまえだ。それは、芸能民の租は、騎馬民族の遊牧民だからだ。遊牧民は、牧草を求めて夏営地の高地に、そして、冬は温暖な南面の山裾の冬営地に移動するからだ。そして、移動には物品を伴い移動先で交易する、商業民族でもあった。土地に定着しないからと言って、芸能民は、貧乏ではないのだ。
藤原不比等が、奈良時代に発明した「神祇官」の祭祀儀式は絶大で、藤原氏が政権から追い出された鎌倉時代の武家政権(武士政権は誤り)になっても、将軍の任命は藤原氏の手を経ずしては、その任に就くことはできなかった。
では、江戸時代の天海は、騎馬民族末裔が江戸幕府の重臣として存在していた江戸町で、如何にして、騎馬民族差別制度を確立したのか。それを知るためには、古墳時代を調べる必要がある。
騎馬民族とは、古墳時代の3世紀後半から7世紀まで、日本列島の西国を支配していた民族だ。しかし、7世紀末、唐進駐軍が、奈良盆地を支配下に置き、騎馬民族の日本海沿岸から南宋への交易路としての北陸道、東山道、東海道に「関」を設けたため、騎馬民族の支配地は、その三関の東側、つまり、東国だけとなっていた。
唐帝国は、騎馬民族突厥を歴史上抹殺したかった。
その理由は、唐帝国の前の隋の文帝は、東突厥の軍事力により、南北朝の動乱を鎮め、589年中国を統一し、隋とした。つまり、隋は、軍事大国の突厥にひれ伏していた歴史があったのだ。
藤原日本史で述べる、「飛鳥時代」とは、チュルク民族の突厥が、中央アジアとモンゴル高原を支配下におき、東ローマ帝国と、絹馬交易をおこなっていた時代だ。
古墳時代前期では、チュルク系突厥は、ペルシャ系柔然に製鉄民(タタールの製鉄→タタラ製鉄)として隷属し、日本列島にも渡来していたが、552年柔然に隷属していた突厥は、柔然を倒し、ユーラシア大陸草原地帯の中央に君臨した。その突厥帝国の庭には、東ローマ帝国の返使ゼマルクスが入っていた。この日本列島の古墳時代、西のローマ帝国と日本列島を含め東アジアとは、国際交易により繋がっていた。
しかし、601年、隋の陰謀により、突厥帝国は東西に分裂し、突厥からの隷属を解かれた隋は、突厥の騎馬軍団の一部を支配下に置いた。
明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍は、607年煬帝に手紙を送った。「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや、云々」とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の族長のテングリ(天子)が、隋の漢民族文化に染まった騎馬民族拓跋部の煬帝を、テングリ(天子)と呼び、挑発したのだ。
それに対して、608年隋使裴世清は、小野妹子を伴い来朝し、藤原日本史では当時女帝推古天皇の時代であるが、明日香ヤマトで男王に謁見た。そして、同年小野妹子は、隋使を送り入隋した。古代では、中国大陸と日本列島との海路は安定していて、外洋交易船が頻繁に行き来していた。これにより、奈良時代の藤原氏が運営していた遣唐使船の度重なる遭難が疑われる。
587年、東西に分裂して軍事力を失っていた東突厥は、再び息を吹き返す。その流れで、日本列島では、美濃や伊勢に棲息していた騎馬民族突厥残留軍団は、新羅の皇子を擁立して、琵琶湖周辺を支配下においていた亡命百済王国との戦闘に軍事介入した。これが、672年藤原日本史で述べる、兄弟であるとする、天智天皇側と天武天皇側とによる戦争、壬申の乱だ。(史料によれば、弟の天武天皇は、天智天皇より4歳も年上だ。)
壬申の乱の実態は、兄弟争いではなく、朝鮮半島での軍事紛争の継続で、新羅対百済の戦争だった。
しかし、日本初の天武天皇が、686年死去すると、母親の出自が不詳の女帝持統天皇が、明日香ヤマトの政権を乗っ取った。その影には、唐帝国のエージェントである藤原不比等がいた。
藤原不比等が画策した国書では、東国の騎馬民族を貶める記述が多くある。「日本書記」では、東国の騎馬民族を蝦夷、つまり、海老のようなヒゲのあるエビス、と蔑称した。そして、蝦夷は、巣に棲み、穴に住む野蛮人で、土蜘蛛達は勇力を恃んで、尾ある人、或は国樔(屑)とも述べている。
「続日本紀」では、蝦夷を「性来強暴、侵ぎ犯すこと生業とし、村に長なく、主なし。界を争い互いに盗み、山には邪神、野に姦鬼、道を塞いで人々を苦しめる。東夷の中に蝦夷という者がいて頗る強し。男女・父子の別なく、冬は穴に住み、夏は樹に棲む。毛を敷いて血を飲み、兄弟互に疑う。山に登ること飛ぶ鳥のようで、原野を走ること獣のようだ。恩を受けては忘れ、恨みをみては必ず報復する。矢は常に髪にかくし、刀は衣の中に収め、仲間を集めては堺を犯し、或は農桑を伺って人民をかどわかす。撃てば草にかくれ、追えば山に逃げる。大昔から王化に従わず。」、とある。
この騎馬民族に対する記述は、中国の国書と同じだ。同じはずだ、日本の国書は、漢字・漢文の中国の国書を参考として編纂されているからだ。
藤原氏一族が編纂した国書には、騎馬民族を貶める記述に溢れているが、3世紀に創作された多くの漢訳仏教経典にも、騎馬民族を貶める記述が多くある。そのひとつに、菜食主義のバラモン教での遊牧民族を貶める言葉、「チャンダーラ」を「施陀羅」と漢訳した蔑称語がある。チャンダーラは、肉食する不可触賎民を指す言葉だ。
施陀羅の言葉がない漢訳仏教経典を見つけるのが困難なほど、漢訳仏教経典には、施陀羅の言葉に溢れている。
それは、紀元前2世紀頃、騎馬民族匈奴にひれ伏していた漢が、光武帝の時代、匈奴の経済・物流を支えていたオアシス国家を支配下に置き、匈奴を北南に分裂させた時代に、その農本国家の漢に、騎馬民族を貶める経典を持参して擦り寄った宗教者が、多くいたからだ。
奈良時代(552年又は538年仏教伝来は誤り)に唐帝国から日本列島に渡来して、多大の影響力を庶民に発揮した漢訳仏教経典の成立には、このような時代背景があったことを知らなければならない。
中国大陸で、漢訳仏教が弾圧されるのは、誇り高き騎馬民族のテングリが支配者となった時代だ。446年から452年、騎馬民族拓跋部の北魏王の太武帝は、風紀を乱す漢訳仏教を弾圧して、太陽神の化身である鶏の犠牲儀式をおこなう道教を保護していた。
この施陀羅の言葉を掲載する漢訳仏教経典は、奈良時代の漢訳仏教僧は、貴族相手であったので、庶民とは接触しなかったので、世間には、施陀羅の言葉は広まらなかった。
しかし、平安時代初期、国家公務員である漢訳仏教僧ではない、私僧の錬金術師空海は、「性霊集」で、「我および仏弟子にあらずば、いわゆる施陀羅悪人なり。」、と述べ、更に、蝦夷を「非人のともがらなり。」、とも述べている。
日本列島での民族差別発祥地の京都・亡命百済王国を鎮護する比叡山延暦寺が信奉する「法華経」の「安楽行品」にも、仏教経典を説こうとする者は、施陀羅と離れて(付き合いをしない)いるべきである、とする。
宗教の本質は、苦難に遭遇した難民を救済することだ。特定の民族を貶めるために、宗教があるはずはない。しかし、漢訳仏教では、その数多く創作された経典には、肉食する騎馬民族・遊牧民族を貶める施陀羅の言葉を掲載している。
現在では、「民族差別」を「部落問題」として摩り替えているが、藤原日本史の根底には、その騎馬民族の歴史を抹殺、或いは、改竄の流れが脈々と、現在まで続いている。
藤原不比等は、古墳時代に活躍した騎馬民族の宗教施設を破壊して、そこに、怨霊封印のために祠を造り、注連縄を廻らせた結界としての神社(もり/古代新羅で精霊が棲む処)を設置し、その神社を被征服民の長に管理させた。
神社(もり)は、征服者にとって怨霊の棲む処だ。しかし、被征服民にとっては、神社(もり)は、聖地だ。
奈良時代、藤原不比等は、神祇官をして、この神社(もり)を支配下に置き、先住民である騎馬民族末裔を管轄した。
江戸時代初期、天海は、その藤原不比等の戦略を真似た。しかし、それは、神社(もり)ではなく、寺社だ。その寺社とは何か。
平安時代、京都盆地を支配下に置いた亡命百済貴族末裔は、奈良王国を漢訳仏教勢力で支配する藤原氏による神社(もり)戦術を回避するために、そして、藤原氏の影響力を裂くために、日本の八百万の神は、実は仏が化身して日本の地に現われた権現(仮に現われた)であるとする、本地垂迹説を広めた。
そして、仏教の寺院と神道の神社(もり)を、仏主神従として、神社仏閣とした。そして、神前で仏僧が読経する神宮寺を創建して、藤原氏の影響力を宗教界から排除した。
奈良時代、藤原不比等により創建された伊勢神宮の境内には、神仏習合思想が広まった平安時代以降、多くの神宮寺が創建され、慶応4年(1868年)神仏分離令まで、伊勢神宮境内には、多くの仏像が安置されていた。
多くの人は、江戸時代初期から、民族差別がおこなわれていた、と信じているようだ。しかし、それは違う。
徳川家康が存命中、騎馬民族秦氏末裔の弾左衛門は、紋付袴二本指で、籠に乗り、江戸城の年賀に訪れていた。弾左衛門は、自らを、「穢多頭」ではなく、「長吏頭」としていた。「長吏」とは、中国では、役人を束ねる官僚のことだ。
しかし、車善七と訴訟を起こしていた6代目弾左衛門の集村の時代、正徳3年(1713年)弾左衛門支配地に近い浅草寺裏の山村座で、歌舞伎の「助六」が上演された。
その「助六」では、平家の残党伊賀平内左衛門とする、鬚の意休を、江戸の侠客である助六が、イジメるストーリーだ。実は、この意休は、平家の残党などではなく、弾左衛門のことだった。
1603年江戸幕府の成立から、1713年歌舞伎「助六」の江戸での初演までの110年間に、弾左衛門の処遇が、百八十度の転回となった。
それは、藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉による、1591年全国の戸口調査と兵農分離を画策した、士農工商の身分法を手本として、1639年天海を顧問とした三代目将軍徳川家光が、キリスト教徒の排除を名目として、宗門改令を発した結果だ。
その宗門人別帳とは、信仰宗教を調べ、檀徒として属する寺社名を記載する民衆調査の台帳のことだ。この記載から外れると、無宿扱いとなり、「非人」と呼ばれた。6代目弾左衛門と訴訟を起こした車善七は、その非人頭だ。
日本全国の庶民は、何らかの仏寺に所属しなければならなかった。しかし、騎馬民族には、特別の寺が用意されていた。それが、「穢多寺」だ。その多くの「穢多寺」は、戦国時代に大阪秦王国を壊滅に導いた、浄土真宗本願寺派の枝寺だった。
天海は、この宗門改に先んじて、寛永12年(1635年)寺社奉行を設置していた。
寺社奉行の主な任務は、全国の寺社や僧職、神職の統制であるが、騎馬民族の宗教思想の流れにある修験道や陰陽師の民間宗教者や、古墳時代の祭祀者の末裔である芸能民らも管轄していた。
天台宗僧侶の天海による数々の宗教改革の裏には、京都の比叡山延暦寺、江戸上野の東叡山寛永寺、そして、徳川家康の霊が「眠り猫により封印」されている日光東照宮を統括する「輪王寺門跡」の「神の声」があった。
つづく
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コメント
 
01. 五月晴郎 2014年2月22日 01:35:59 : ulZUCBWYQe7Lk : aeZXwWpQQ6
(上記記事から続く)


■何故、第三百済王朝の江戸時代、大阪秦王国は消滅していたのに、世襲名弾左衛門は、明治革命後まで、13代も継承できたのか。


旅行好きのひとなら、関西と関東でのカップ麺の味付けが異なっていることをご存知でしょう。この関西と関東では、味付けだけではなく、言語発音から日常文化まで異なっている。何故なのか。
戦国時代末期、日本列島の支配(布教)を目論むイエズス会の宣教師が作成した「日本語大文典」には、三河の国から東では、一般的に物言いが荒く、鋭い、とある。そして、西国の「良ウ」、「甘ウ」に対して、東国では「良ク」、「甘ク」と言う、とある。「買ウテ」は「買ッテ」、打消しには「ヌ」ではなく、「ナイ」を使う、とある。戦国時代でも、外国人にも、西国と東国との「言葉の違い」が分かるほど、西国と東国とは、異なる言語で生活していた。
現在でも、日本語のアクセントを二つに分けると、京都式と東京式とになる。その境界線は、新潟県、岐阜県、愛知県の西堺に重なる。これらの三県を縦断するのが、日本列島を東西に二分する断層のフォッサマグナだ。日本列島の本土は、遠い昔、二つの異なる島が合体してできたものだ。
平安時代初期「東大寺諷誦分稿」には、毛人語、東国語、飛騨語の記述がある。このことから、古代から日本列島には、色々な言語を持つ民族が存在していたことを示唆する。
古代、東国はアズマと言われていた。そのアズマには、三つの区域が言語的に指摘できる。第一は、関東地方から北の区域。第二は、長野県、静岡県以東。そして、第三は岐阜、愛知以東である。
その第一区域では、「ジ」と「ズ」との区別がない。いわゆるズーズ弁だ。このズーズー弁が、西国の出雲で使われているのだ。このことは、出雲と東北には、民族の交流があったことを示唆する。733年非藤原氏の編纂による「出雲風土記」には、飛鳥大和を支配した律令軍により、出雲の地を追われた民は、諏訪(トルファン)に逃れた、とある。そして、その出雲も諏訪も、伴に巨木文化が継承されていた。
しかし、不思議なのは、日本列島の東西の言語・文化が異なるのに、主語+目的語+述語による文法は統一されているのだ。もし、日本列島の古代先住民が、縄文時代以来、中国だけから文化を受け入れているとしたら、当然、中国語文法の主語+述語+目的語の文法になっているはずだ。このことから、中国文化が日本列島に伝播する以前に、中国文化と異なる文化を保持する民族が、渡来していたことを示唆する。
その日本語文法とは、北方騎馬民族のウラル語文法なのだ。このことは、日本列島に、ウラル語文法を持つ北方騎馬民族の渡来を意味する。それは、少人数なのではなく、日本列島東西を結びつける巨大権力と経済力を持っていたと推測される。
その民族が渡来した時期は、4世紀から7世紀までの古墳時代と推測される。
その根拠は、縄文時代にも東西の土器には特徴的差異が認められるからだ。そして、弥生時代では、東南アジア文化や華南文化を持つ民族が、水田稲作や養蚕技術を伴って日本列島に渡来したが、アズマの第三区域で、百年以上も足止めされていた。
しかし、弥生時代後の古墳時代、北は岩手県以南から九州まで、類似系大小さまざまの前方後円墳が築かれていたのだ。
その400年続いた古墳時代も、唐進駐軍が、明日香ヤマトを支配して、飛鳥大和とした奈良時代、東西を結ぶ交易・軍事道路の北陸道、東山道、東海道は、愛発関、不破関、鈴鹿関により、東西が分離された。これにより、東国は、関の東で、関東と言われていく。
この奈良時代以降、明治時代まで、東西文化が統一されたことはない。だとすれば、日本列島に統一文法を普及させた時代は、古墳時代以外は考えられない。
藤原日本史では、騎馬民族による日本列島支配の歴史は無視、或いは、否定されている。しかし、騎馬民族末裔の異民族排除のために戸口調査を6年ごとにおこなう条例を発し、そして、検地条目を制定した1726年、荻生徂徠は「政談」のなかで、「遊女、河原者の類を賎しきものとする事は、和漢、古今とも同断なり。これらは元来その種姓の各別なるものゆえ賎しきものにし、団(弾)左衛門支配するなり。」、とあるように、騎馬民族の秦氏末裔は、異民族と断定されている。
日本民族は、果たして、統一種族なのか。
何故、民族差別が、平安時代の京都で発祥したのか。そして、大阪秦王国が、戦国時代末期から消滅してしまった謎解きは、形質的人類学により解明できそうだ。
最近の研究では、現代日本人は、形質人類学的にみると、著しい地域差を示すことが明らかになった。
人種を特定する方法のひとつとして、生体計測学がある。その生体計測法とは、主として頭部やその他顔部、体部の計測的特性を総合したものだ。
生体計測学的に日本人を分類すると、大きく二つに分けることができる。ひとつは、東日本を代表する東北・裏日本型だ。そして、もうひとつが、西日本を代表する畿内型だ。
学者の中には、日本人の地方差は、異種族の混交によるものではなく、環境の違いや時代差によって生まれたと主張する者もいる。しかし、その東北・裏日本型と畿内型の人種は、生体計測の違いだけではなく、言語・文化も異なっている。
日本列島のような島国では、その開放性から、古代では、海路により、周辺諸国から言語と文化が渡来民と伴に移動してきた可能性は、否定できない。このことは、日本の言語や文化の系統に、外来要素が多元的に混入していることを、既に、多くの学者が指摘しているとおりだ。
頭部の人種的指標としては、頭長(前後径)、頭幅(横径)、頭長幅指数(頭幅÷頭長×100)とによる。
頭長のもっとも大きい人種は、アイヌ民族だ。そして、最も小さいのは、朝鮮半島の民族だ。この頭部については、はっきりとした人種差が示される。
この頭長幅指数によって、三種類に人種が分類できる。それらは、長頭種(75.9以下)、中頭種(76.0)、そして、短頭種(81.0以上)の人種区分だ。
中頭種は、アイヌ民族と朝鮮半島民族との混交により現われたのではない。その中頭種の多くは、ユーラシア大陸の草原地帯から渡来した種族だ。
調査によれば、日本人の頭長は、196〜182mm、頭幅は156〜147mm、頭長幅指数は、86〜77mmとの広がりがある。
この広がりには、地域的な偏差がみとめられる。このことは、日本人は、同一種ではない種族で構成されていることを示唆する。この地域差は、少数の例外を除いて、短頭地区と中頭地区との二群にわけられる。長頭地区は、日本王権の政策により、北海道の極一部での存在となってしまっている。
短頭群は、主として、西日本に集まっている。その中心は、畿内の近江、山城、伊賀、大和、河内、和泉、摂津、丹波だ。
中頭群は、主として、東北・北関東の東日本。北陸から山陰へのびて九州北部。そして、佐渡、隠岐、壱岐、五島列島などの離島に分布している。
九州では、中頭集団が多く分布しているが、豊前、豊後と南九州の薩摩には、短頭集団が存在している。
西日本では、頭部以外の特性についても、山陽道と山陰道とでは、はっきりと分かれている。
人種の特性は、頭だけではなく、顔にも現われる。顔の特徴としては、東北・裏日本人の頬骨弓幅は、畿内人より広く、頭顔指数(頭幅÷頬骨弓幅×100)は、非常に大きい。つまり、東北・裏日本人は、頬骨の出っ張った顔付が特徴だ。それに対して、畿内人の顔部は、やや長く、所謂、公家顔が特徴だ。
鬚にも特徴がある。東北・裏日本人は濃く、畿内人は薄い。武士の鬚が濃く、サムライには鬚がないのも特徴のひとつだ。
眼瞼の形態にも特徴がある。東北・裏日本人は、畿内人に比べて、二重瞼の者が多く、蒙古ヒダのある者は少ない。
これらの外面的な人種の特徴で、「遊女、河原者の類を賎しきものとする事は、和漢、古今とも同断なり。これらは元来その種姓の各別なるものゆえ賎しきものにし、団(弾)左衛門支配するなり。」、と民族差別がおこなわれていたのが、藤原日本列島史だ。
全体主義の軍部勢力が増大し、二二六事件が起きた昭和11年(1936年)、中央融和事業協会の調査では、全国41府県において、被差別部落は、近畿地方に最も多く、兵庫、大阪、京都、三重、奈良、和歌山で、全国部落人口の40%を占めている、とある。他地域では、山陽の岡山、広島、九州の福岡、四国の愛媛、高知に多い、とある。しかし、東北には、ほとんど被差別部落はない、とある。
東国に比べ、西国で民族差別がはげしいのは、何故か。それは、人種による分布があるからだ。
西日本の近畿、山陽、山陰、九州、四国に散在する47被差別部落の調査によると、それらの地域では、畿内型(朝鮮半島民族型)の短頭集団ではなく、東北・裏日本形質の中頭群集団が認められた。
東国に比べて、西国で民族差別(部落差別)が激しいのは、大多数の短頭集団(朝鮮半島民族型)に囲まれた小地域に暮らす中頭集団(騎馬民族型)、つまり、異民族だからだ。東国には、短頭集団地域が少なく、大多数が中頭集団が、古墳時代から暮らしていたからだ。
東国で、民族差別(部落差別)が問題にならないのは、西国では少民族である中頭集団は、東国では、中頭集団の地域であるため、同族が多く暮らしていたからだ。つまり、西国で民族差別が激しいのは、朝鮮半島民族型の最も濃厚な畿内地区にあって、被差別部落は、最も非朝鮮半島民族的な形質を持っていたからだ。
畿内型(短頭型)の多くは、亡命百済移民の末裔だから、663年母国百済を滅亡に導いた、ギリシャ・ローマ文化を継承する古代新羅民(中頭型)を憎んでいた。そのDNAが、現在でも、時として現われることがある。
このことから、中頭集団(騎馬民族型)と短頭集団(朝鮮半島民族型)との地理的分布状態を知ると、各集団の、日本列島への渡来時期が推測できる。
それは、古墳時代に、朝鮮半島南端から円墳の墓制を持つ古代新羅民(騎馬民族型)と、ユーラシア大陸草原地帯から方墳の墓制を持つ東北・裏日本人型集団(騎馬民族型)とが、前方後円墳を築きながら広く日本列島全土に先住し、その後、663年以降、短頭集団(朝鮮半島民族型)が、朝鮮半島から日本列島の九州に渡来し、そして、百済系桓武天皇の平安時代、桓武天皇の命を受けた最澄により、唐の山東半島から天台宗経典と伴に亡命百済貴族末裔が、山陽道沿岸を通って京都・畿内に集中し、その一部が、更に東進して近江周辺まで行って、百済亡命王国の京都を鎮護する比叡山延暦寺の山城を築いた、とする。しかし、短頭集団の東進も、中頭集団の抵抗により、三関の西側までが限度だ。
この日本列島在住の異なる人種二集団のことを踏まえて、藤原日本史を再読すると、古墳時代に活躍した騎馬民族の渡来の歴史が浮かび上がってくる。その渡来ルートは、二つあるようだ。
古墳時代のハイライトのひとつは、6世紀前期に、茨田の堤により淀川の流れを変え、上町台地の北端を掘削して、大運河を築いたことだ。
藤原日本史では、この大運河を、「灘波の堀江」とする。しかし、漢字二文字による人名・地名は、713年好字令以降の名称だ。古墳時代、その上町台地の北端の名称は、ワタ・ナーベ(波・小山=岬)だ。
これにより、河内湖の水がひき、河内平野が出現した。その河内平野には、巨大前方後円墳が築かれていった。
その大運河には、中国華南の宋との絹交易のために、国際交易民により、宋の内陸港を真似て、内陸港が築かれていく。それが、「ワタ・ナーベ津」だ。藤原日本史では、「灘波津」と言う。
ワタ・ナーベ津が築かれたのは、藤原日本史では、425年から478年まで、倭の五王が、宋に入貢していたとする時代以降だ。藤原日本史には、独立国としての承認を得るためとするが、その入貢の本当の理由が述べられてはいない。
この倭の五王時代の日本列島の国際港は、「住吉の江」だった。しかし、その南北に細長い砂地を掘削した国際港は、内陸港ではない。「住吉の江」は、台風などにより、度々、港が壊滅状態となっていた。そこで、宋のような内陸港を築く必要があった。
この大運河と内陸港は、「日本書記」では、天皇が新羅の工人に築かせた、とする。しかし、6世紀の明日香ヤマトには、天皇は存在していない。天皇の歴史的登場は、672年新羅系天武天皇まで待たなければならない。
この日本列島の3世紀末から7世紀までの古墳時代とは、ユーラシア大陸の草原地帯に、ペルシャ系騎馬民族柔然(319年〜552年)、チュルク系騎馬民族突厥(552年〜630年)、チュルク系騎馬民族東突厥(682年〜744年)が、ローマ帝国(286年〜395年)や東ローマ帝国(395年〜1204年)との絹馬交易で栄えていた、国際交易時代だった。
柔然や突厥は、東ローマ帝国で需要のある絹を求めて、その当時、唯一の絹生産地の中国華南の内陸港を目指した。しかし、華南と柔然との間の華北には、騎馬民族拓跋部の北魏が君臨していた。
交易路を北魏の西側にとると、そこにはヒマラヤ山脈を麓とする険しい山々の他に、山岳部族の吐谷渾の存在があった。東側にとると、朝鮮半島の付け根には、強国高句麗が存在していた。
そこで、ユーラシア大陸の極東港のウラジオストックから船を漕ぎ出すと、南下するリマン海流により、朝鮮半島東端に漂着する。その朝鮮半島東端から船を漕ぎ出すと、玄界灘を越すあたりから、北上する対馬海流により、出雲に漂着する。
この日本海は、リマン海流と対馬海流とにより、逆時計回りの海流が存在していた。
古墳時代、騎馬民族の国際交易民は、この二海流を利用して、ユーラシア大陸、朝鮮半島東端、日本海沿岸を海路として、華南との絹交易を盛んにおこなっていた。
6世紀の日本列島では、その華南との出先港が、内陸港のワタ・ナーベ津だった。では、どのような民族が、その津を拓き、その地を支配していたのか。
4世紀、騎馬民族柔然に伴って朝鮮半島東端に渡来したソグド国際商人は、その地に、ギリシャ文化を継承する辰韓と遭遇する。辰韓(シン=秦)は、その租を秦帝国の末裔とする。秦帝国は、建国15年後の、紀元前206年に滅んだ帝国だ。
その秦帝国は、バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)の衛星国だった。そのバクトリアは、紀元前331年アレクサンドル大王が、ペルシャ帝国を滅ぼし、西は黒海、北はインドの北側まで支配地とした領地に、紀元前250年北インドにギリシャ系国家として興った。
そのバクトリアは、トカラ人により紀元前139年に滅ぼされ、紀元前140年大月氏国となった。その大月氏国の首都ガンダーラ(旧名アレキサンドリア)では、紀元1世紀に、突然、ギリシャ文化色の濃い大乗仏教思想が発明される。
その秦帝国の末裔の辰韓は、奈勿王により、356年新羅国となる。奈勿とは、外来者の意味がある。この古代新羅が、ギリシャ・ローマ文化を継承していたことは、古代新羅の首都慶州の古墳からの出土品により証明できる。
新羅は、356年建国の新羅と、676年朝鮮半島を統一した新羅とがある。しかし、この二つの新羅の文化は、全く異なっていた。
古代新羅は、非中国文化、非仏教国家だった。
古代新羅は、漢字・漢文の使用がなかった。文字は、漢字をアルファベットとして使用していた。それをヒャンチャル(郷札)という。藤原日本史では、その漢字アルファベット文字を、万葉語という。
奈良時代初期、唐進駐軍に支配された奈良の律令軍は、東国の被征服民を防人として徴発した。出雲と同じに巨木文化を持つ諏訪(トルファン)の被征服民は、その出発時に歌を詠んだ。それが、所謂、東歌だ。
その東歌は、漢字アルファベットで、ウラル語文法で読まれていたのだ。この奈良時代初期の東歌は、平安時代の貴族達には理解できなかった。それは、東歌には、濁音があったのに、百済王朝の平安時代の貴族には、その濁音が理解できなかったからだ。
このことから、東人と京都の貴族とは、民族であることが示唆される。
古代新羅には、花郎騎士団が存在していた。その花郎の「花」とは、ミトラの借字だ。ミトラとは、太陽神のことだ。古代新羅には、ユダヤ・キリスト教が国教となる以前のローマ帝国軍が軍神と崇拝するする、ミトラが崇拝されていた。

つづく


02. 五月晴郎 2014年3月07日 21:37:23 : ulZUCBWYQe7Lk : aeZXwWpQQ6
>>1続き


ミトラとは、鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国(紀元前1900年〜紀元前1190年)で崇拝されていた、異民族との交易の神である、三神の太陽神のことだ。
古代新羅には、392年ユダヤ・キリスト教がローマ帝国の国教となる以前のローマ帝国軍の軍神として崇拝する、ミトラ神が崇拝されていた。

そのミトラ神が、朝鮮半島東端の古代新羅で崇拝されていたのは、その地に、ローマ帝国の文化が渡来していたからだ。それは、慶州の古墳から出土する、ローマン・グラス、ローマ帝国軍団と同型の鉄製の脛当の遺物が出土することで証明できる。

ローマ帝国と東アジアの中国とは、その交流が、紀元1世紀からおこなわれていたことは、史料からでも分かる。97年後漢の和帝は、甘英を、絹馬交易のためにローマ領に派遣していた。166年には、ローマ帝国マルクス=アウレリウスの使者は、後漢を訪れていたことは、史料として残っている。

ローマ帝国軍は、ロンギヌスの槍で武装するだけではなく、非戦闘時では、鉄製の建設工具を駆使して土木建設を征服地でおこなっていた。その最も得意とするのは、一直線の幅広の道路敷設だ。その道路敷設思想は、谷は埋め、峠は切り通すことを第一とする。

そのために、ローマ帝国軍は、鉄器による石切技術を保持していた。石切が最も盛んであったのは、古代エジプトだ。

青銅器で石切をおこなっていた時代から、紀元前1377年〜紀元前1358年アメンホテプ4世の時代、多神教から一神教の宗教改革があった。その時期、ヒッタイト帝国から、鉄器を携えた民族が、ミトラ神を伴って、エジプトに渡来した。

その太陽神ミトラを、アメンホテプ4世は、唯一神アトン(アテン)とした。しかし、多神教の神官による反乱により、紀元前1358年アメンホテプ4世は、殺害された。これにより、ミトラ教を崇拝するヒッタイト帝国の民は、エジプトからシナイ半島に脱出する。
この歴史を、ユダヤ教の祭祀者は、「旧約聖書」のモーゼの「出エジプト記」として拝借した。
この鉄器製造技術を持つ、太陽神ミトラを祀り、牡牛を屠る民は、シナイ半島居住時代、イスラエルの民と呼ばれた。そのイスラエルの集落へ、メソポタミヤのウルからの、放浪するユダ族が合流する。
イスラエルとユダ(ユダヤ)とは、全く異なる民族だ。
その最も異なるのは、崇拝する神だ。イスラエルの民は、多神教で、太陽神を祀り、その化身である牡牛を屠り、その生血を飲み、生肉を食べる。それに対して、ユダヤの民は、絶対神ヤハヴェを祀る一神教だ。

その鉄器製造の技術を持ち、太陽神を祀り、牡牛を屠り、その生血を飲み、生肉を食べる、そして、鉄器により石切の技術を持つイスラエルの民10部族は、紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンにより滅ぼされ、その民はアッシリアに連行され、その後の消息は不明となって、今日に至っている。
上町台地の北端が掘削され、大運河が築かれる、古墳時代中期、古墳の構造に変化が現われる。それまでは、多くは竪穴式石積木槨墳であったものが、横穴式石室石棺の構造となっていく。この構造は、古代エジプトの墳墓と同じ構造だ。更に、多くの石棺は、古代エジプトの長さの単位キュビットの寸法で造られていた。
では、藤原日本史では、この大運河のことをどのように述べているのか。
「日本書記」仁徳天皇11条冬10月の条に、「宮の北の郊原を掘りて、南の水(かわ)を引きて、西の海に入る。因りて、其の水を号けて堀江と曰ふ」、とある。
藤原日本史によれば、仁徳天皇は、「倭の五王」のひとり、讃とされ、438年に死去したとされているので、「灘波の堀江」は、438年以前に掘削されたことになる。
しかし、その頃には、「灘波の堀江」など存在しない。「倭の五王」の時代の国際港は、住吉の津だったからだ。
藤原日本史では、「灘波の堀江」は、新羅の工人が掘削したとする。その新羅からの渡来者は、藤原日本史では、秦氏だ。
その上町台地の北端を掘削した石切技術者集団の秦氏は、江戸時代初期、徳川家康の存命中、秦氏末裔の弾左衛門の支配下となっている。
この大阪の人口で多数を占める種族は、昭和時代の調査では、頭長幅指数により、短頭集団(朝鮮半島民族型)となっている。しかし、秦氏の頭長幅指数は、中頭集団(騎馬民族型)だ。
少数派である中頭集団の居住地は、劣悪な環境に閉じ込められ、被差別部落とされてしまった。では、どの時代に、大阪の人口が、中頭集団から短頭集団に入れ替わったのか。
この大阪が、江戸時代以前まで、秦氏末裔の中頭集団の支配地だったことは、戦国末期の大阪湾河口の地図を描いた、「石山合戦配陣図」でも分かる。それによれば、大阪城の位置にある石山城(藤原日本史では石山本願寺とする。)がある半島は、「エッ田ガ崎」と印されているからだ。穢多とは、藤原氏や亡命百済貴族末裔が、古代新羅や騎馬民族突厥の末裔を、社会的に抹殺するために発明した、東国ではなく、西国の近畿一帯における蔑称だ。
大阪は古来から、現在のような平坦な地ではなく、大阪湾の河口には、戦国時代末期まで、多くの島があった。それは、「石山合戦配陣図」に記されているとおりだ。島は、護りやすく、攻めにくい。だから、日本列島一の内陸型国際港がある大阪支配を目論むイスパニア(ポルトガルを併合)の手先であるイエズス会の傀儡大将の織田信長と、秦氏末裔の野武士との石山戦争では、織田信長軍が、イエズス会から調達した艦砲で攻撃しても、10年間も持ちこたえたのだ。
結局、藤原氏の流れにある日野家が血縁で支配する浄土真宗本願寺派の陰謀により、大阪秦王国の拠点である石山城(藤原日本史では石山本願寺)は、陥落した。
織田信長は、1579年来日の、イエズス会東インド管区総長、巡察師ヴァリニャノを、イエズス会の要求どおりに大阪秦王国の拠点石山城を陰謀により陥落させたことを誇るように、安土城で歓待した。
しかし、増長する織田信長は、安土城の天主閣に坐し、自ら「神」として振舞うことにより、「ゼウス」の怒りに触れ、イエズス会と近衛前房(藤原氏)との陰謀により、1582年未明に本能寺で爆殺された。
イエズス会により、織田信長の後釜は決まっていた。それは、姓も苗字もない、出自不明の羽柴秀吉だ。通説の「織田信長の草履とりの秀吉物語」は、藤原氏傀儡関白となった豊臣秀吉の監修による「信長公記」を基礎資料としているが、秀吉は、イエズス会傭兵軍に支援された織田信長軍団に、突然、現われたのだ。
織田信長爆殺1年後、1583年賎が獄の戦いに勝利した豊臣秀吉は、大阪秦王国の拠点石山城を徹底的に破壊して、その跡に、大阪城を築いた。
その大阪城を、阿弥一族の流れにある徳川家康は、天下統一を完成させると、石垣一つ残らず破壊して、更地にし、その跡に、再び大阪城を築き、そして、更に、豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉砕していずこかに散撒した。
この徳川家康の、豊臣秀吉に対する異常な行動は、何を意味するのか。その謎解きのヒントは、もし、豊臣秀吉と徳川家康の似顔絵がその特徴を正確に描写しているとすれば、豊臣秀吉は短頭型(朝鮮半島民族型)で、徳川家康は中頭型(騎馬民族型)だったからだ。
戦国時代末期、藤原氏傀儡関白の豊臣秀吉の時代、大阪の中心部(石山城一帯)は、中頭集団を駆逐して、短頭集団が、京都(平安時代騎馬民族差別発祥の地)・近江(7世紀亡命百済王朝が存在)から移住して来て、乗っ取られたのだ。
これは、藤原氏得意の、「夷(朝鮮半島民族種)を以って、夷(騎馬民族種)を制す。」、戦術だ。
藤原日本史では、このことを語らない。大阪の古代史から近代史までの歴史は、藤原日本史により、改竄されていたようだ。
藤原日本史によれば、応神天皇の都は、「大隅宮」にあった、とする。その「大隅」は、嶋であったことは、「日本書記」安閑天皇2年(535年)9月条に、「牛を灘破の大隅嶋と媛嶋松原とに放て。」、とあることで分かる。しかし、灘波とは、奈良時代の地名だ。
その灘波の宮には、隣接する港がある。それが、藤原日本史では、灘波津だ。一般的歴史認識では、灘波宮は、港に接して造られ、その構造は、石山本願寺、そして、豊臣秀吉の大阪城に受け継がれて、今日に至った、とするようだ。
藤原日本史の古代史を語る「日本書記」には、灘波についての記述が多くある。そのなかでも不思議は、「灘波の堀江」だ。
「日本書記」欽明天皇13年(552年)、「釈迦仏金銅一体・幡蓋若干・径論若干巻」が、百済の聖明王から欽明天皇に贈られてきた、とする。その金銅仏像に対して、崇仏派蘇我稲目は、「西蕃の諸国、一に皆礼す。」、として、小墾田の自宅に安置した、とする。
しかし、「後に、国に疫病行りて、民夭残を致す。」、ことにより、廃仏派物部大連尾輿と中臣鎌子とが金銅仏像の破棄を欽明天皇に求め、それにより、宮司がその金銅仏像を「灘波の堀江」に流し棄て、蘇我稲目が建立した伽藍も焼き払った、とする。
これが、日本列島での仏教伝来物語の荒筋で、第一次崇仏廃仏戦争、だとする。
不思議は、第二次崇仏廃仏戦争が、同じストーリで、その親達の子供同士でおこなった、とすることだ。
第二次崇仏廃仏戦争の登場者は、崇仏派蘇我稲目の子蘇我馬子、それに対するのは、廃仏派物部大連尾輿の子物部守屋大連と廃仏派中臣鎌子の子中臣勝海だ。
敏達天皇14年、百済から弥勒石像一体が贈られ、その弥勒石像を蘇我馬子が自宅に持ち帰り、仏殿を造り、安置したが、蘇我馬子は疫病に倒れた。疫病が国中に流行ったので、物部守屋大連は、敏達天皇に願い、その弥勒石像を「灘波の堀江」に流し棄て、そして、蘇我馬子の建てた寺や仏塔を破壊した、とする。
敏達天皇が天然痘により崩御すると、用明天皇が即位した、とする。その用明天皇も即位後2年で天然痘にかかり、死去した、とする。
その後の王位継承の争いは、廃仏派の物部守屋は、穴穂部皇子を推し、崇仏派の蘇我馬子は、泊瀬部皇子を推した、とする。蘇我馬子は、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ・後の女帝推古天皇)を前面に立て、穴穂部皇子を襲い殺した、とする。
この戦いで、587年大阪湾一帯を支配していたとする軍事部族の物部一族は、滅んだとする。
この蘇我氏対物部氏戦争で、14歳の厩戸皇子(聖徳太子?)が参戦し、敵を倒すことが出来たら護世四王の為に塔を建立すると誓った、とする。それが、巨大古墳が築かれていた上町台地の四天王寺だと、藤原日本史は述べる。
しかし、調査によれば、四天王寺は、巨大古墳を破壊した跡に、建立されている。このことは、四天王寺は、古墳時代ではなく、奈良時代に建立されたことを示唆する。それは、古墳時代には、古墳と仏寺とは、死者にたいする埋葬法が全く異なるから、共存できないからだ。
どうも、大阪上町台地の歴史は、藤原日本史の「飛鳥時代」により隠蔽されたようだ。

つづく

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03. 五月晴郎 2014年3月09日 14:20:38 : ulZUCBWYQe7Lk : aeZXwWpQQ6
>>2 続き

平安時代の万葉語学者の多人長による、812年「古事記」の黙示では、「推古天皇」に関する記述を無視せよ、ということだ。その推古天皇の時代とする、「日本書記」の「飛鳥時代」では、上町台地には、住吉津と生駒山麓の東西を結ぶ、二つの直線大路(古代高速道路)と、そして、南北の直線大道を築いたとする。
南側から、丹比道(武内街道)、大津道(長尾街道)だ。

丹比道は、「日本書記」推古天皇21年(613年)、「灘波より京に至る大路を置く。」、とある。大津道は、「日本書記」推古21年(613年)、「灘波より京に至る大路を置く。」、とある。

しかし、東西一直線大路の磯歯津路は、「日本書記」雄略天皇8年2月条に、「青と博徳が呉国に出使し、呉の使いと共に機織の技術者を連れて住吉の津に上陸した。この呉の来朝者のために道を造って磯歯津路を開通した。」、とある。

しかし、「呉国」は、222年から280年までの国だ。藤原日本史によれば、雄略天皇は、倭王武であるとする。その在位は、458年から489年だ。その記述には、約150年のズレがある。

更に、上町台地には、もう一つ大幅の直線大路がある。それが、難波大道(なにわだいどう)だ。この直線大道は、東西ではなく、南北に敷設されている。「日本書記」には、推古天皇21年(613年)「灘波から京に至るまでに大道を置く。」、とある。この大路は、発掘調査により、道幅が18mであった。

藤原日本史による、この上町台地大路の敷設物語には、どうもウソがあるようだ。
この上町台地に敷設された大路は、何を目的に造られたのか。住吉津につづく丹比道の西端には、4世紀末から6世紀後半までに築かれた百舌鳥古墳群がある。そして、生駒山麓には、4世紀末から6世紀前半にかけて築かれた古市古墳群がある。
大路と古墳とは、どうも、セットで築かれていたようだ。すると、上町台地の南北を縦貫する灘波大道の北端にも、古墳群があるはずだ。

上町台地北端の歴史は、灘波宮の歴史で隠蔽されているが、灘波宮の造営は、古墳時代の652年完成の前期灘波宮と、それから80年後、奈良時代の後期灘波宮だ。

因みに、「日本書記」では、大化元年(645年)蘇我蝦夷、蘇我入鹿誅滅事件後、灘波遷都が記されている。
その前期灘波宮が造営される以前、上町台地上では、役所的な建物と倉・住居で構成された遺跡が発掘された。これらの遺跡を、藤原日本史の「日本書記」では、「灘波館」(なにわのむろつみ)、「灘波大郡」(なにわのおおごおり)、「小郡」(おごおり)、とする。

5世紀、その上町台地北端に、突然、巨大倉庫群が出現した。その倉庫群は、日本列島で最大規模の高床式で、倉庫群は二列、16棟が東西、北極星方向に配置され整然と並んでいた。

藤原日本史に頻繁にでてくる灘波津の成立、開発の時期は定かではない。しかし、5世紀後半ごろから前期灘波宮が造営されるまでに、その地から、多くの遺構、遺物が発掘されている。考古学者は、その地を、灘波宮下層遺跡と呼んでいる。
上町台地の東西の大路と南北の大道とは、時代的にズレがある。

4世紀から6世紀までの東西の大路は、明日香ヤマトのコンビナートから生産される輸出品を、住吉津に運ぶために敷設された。しかし、その南北に長く設置された津は、防波堤となる施設がないため、度々の大波により壊滅的打撃をうけていた。貿易先の南宋の内陸型港湾施設を造る必要があった。

その内陸型港湾施設建設の候補地が、上町台地発端だった。
6世紀、上町台地発端の洪積層が、古代新羅から渡来した国際交易民族の土木建設技術により掘削された。
6世紀の朝鮮半島では、南宋との国際交易により、古代新羅が強大化し、高句麗、百済を圧迫し始める。

つづく
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04. 五月晴郎 2014年3月21日 01:34:17 : ulZUCBWYQe7Lk : aeZXwWpQQ6
>>3 続き

ここで疑問が生ずる。それは、593年聖徳太子が建立したとされる、四天王寺のことだ。

四天王寺は、灘波宮から南に約2.5km下ったところにある。聖徳太子(百済移民)は、何故、海路交通に便利な上町台地北端を建設用地としなかったのか。前期灘波宮が造営されるまで、59年間もあったのに。

その謎解きは、5世紀、高句麗・百済・新羅により、三つ巴の戦いをしていた朝鮮半島から移民してきた、百済移民の居住地と関係がある。

短頭集団の百済移民は、上町台地北端を開発して内陸型港を築いていた、古代新羅からの中頭集団先住民の支配地を避け、上町台地の東側の湿地帯に居を構えた。それが現在の生野区だ。その地に、百済所縁の寺や習俗が残るのは、そのためだ。その頃、百済王氏の本拠地は、天王寺区東部、生野区周辺で、百済郡という郡も置かれていた。

百済移民は、上町台地発端の港湾都市に対抗して、四天王寺を建立した。四天王寺は、仏像を安置する処だけではなく、交易所でもあった。
663年百済滅亡以降、この地に、新羅を憎む、多くの百済移民が渡来してきた。奈良時代以降、騎馬民族が活躍した古墳時代には、馬は大切にされていたものが、病気や災害の根源と考えられた、疫神の乗り物とされてしまった。百済王朝の平安時代、百済貴族の乗り物は、牛車となったのは、そのためだ。

「日本書記」は、百済系桓武天皇の時代、新羅を敵国として改竄されたので、新羅移民が支配していた上町台地北端の歴史も、無視・抹殺・改竄されてしまった。
古墳時代の上町台地北端の歴史を消すために造営された灘波宮は、奈良時代末から、歴史上から消えた。しかし、その上町台地の経済活動は、百済系四天王寺門前町と、新羅系渡辺津の二つの都市に継承され、近代大阪の基礎となった。

藤原日本史に登場する「灘波」の地名は、713年以前にはなかった。では、それ以前は、その地を何と呼んでいたのか。それは、ワタ・ナーベ(岬の意味)だ。現在では、渡辺は、苗字となっているが、古墳時代は、上町台地北端岬の名称だった。

中世の大阪には、藤原日本史では無視するが、渡辺と呼ばれた港町があり、平安時代から室町時代まで、大川(古の灘波の堀江)の内陸港として賑わっていた。
814年嵯峨天皇の時代、賜姓・嵯峨源氏が誕生した。その「源氏」の姓の発生は、日本列島の平安時代ではなく、北魏の時代(423年〜534年)だ。
北魏の太武帝は、騎馬民族拓跋部であったが、漢姓「元」を名乗った。その太武帝の家臣、騎馬民族禿髪氏は、「元」と同音の「源」を姓とした。そして、名を一字「賀」とした。

日本の源氏も、禿髪氏の源氏と同じに、名を漢字一字とした。嵯峨源氏も、名を漢字一字としたことは、北魏の騎馬民族禿髪氏の流れとしたからだ。
嵯峨源氏は、平安王朝の廟堂の構成員となっていたが、969年藤原氏の陰謀により、出自不明の満仲(清和源氏の租)なる中年男の密告により、嵯峨源氏の流れにある、醍醐源氏の左大臣源高明は、左遷となった。これにより、嵯峨源氏・醍醐源氏一族は、京都から追放された。

嵯峨源氏の源融から五代目源綱は、生母の地、渡辺に戻り、その名を「渡辺綱」とした。そして、武士団「渡辺党」を興した。渡辺の地は、古墳時代から国際交易港であったので、水軍も統率した。その渡辺綱から四代目源正は、水軍松浦党を興した。

その水軍松浦党は、北九州を本拠地とした。それは、松浦(まつうら)の地名の基が、朝鮮半島の珍島にあるからだ。珍島は、メズラと読み、「メズラ→まつうら」、となった。珍島は、王権の拠点でもあり、中国大陸・日本列島を結ぶ国際交易センターでもあったからだ。

奈良時代から平安時代の遣唐使船の乗員の多くは、帰路、新羅商船により帰朝したことからも分かるように、朝鮮半島と日本列島とには、定期的な航路があった。その日本列島の入り口港が松浦で、本土の港が、渡辺津だった。

1180年、アラブ系海洋民族を租とする「平家」と、「桓武平氏」の北条氏に担がれた、「清和源氏」の源頼朝を棟梁とする「源平合戦」が戦われた。

藤原日本史では、その戦いで、源頼朝の弟とする源義経は、1185年屋島の合戦で、渡辺津の漁民から調達した数船で奇襲したことになっている。しかし、渡辺津には、武士団「渡辺党」があり、そして、同盟水軍松浦党があったのだ。藤原日本史の「屋島の合戦物語」は疑う必要がある。

では、渡辺津は、上町台地のどこにあったのか。その所在地は、藤原日本史では分からなく、上町台地の北端部の大川に面するところ、としか分からなかった。そして、江戸時代大塩平八郎が暮らしていた天満橋の南詰付近だと推定されていた。そこで、発掘となったが、その付近からは中世にさかのぼる遺跡・遺物は見つからなかった。

上町台地の北端は、藤原氏傀儡関白の豊臣秀吉の時代、石山城(藤原日本史ではエッタが城)を徹底的に破壊した跡に、大阪城造成時で、谷は埋め尽くされたが、そこには、深さ10mを越える、幅約200mの谷が、大きなもので、8つあった。
上町台地の北端は、平坦ではなく、多くの谷が存在していたのだ。そこで、上町台地の西側斜面から船場北部一帯の発掘調査により、渡辺の所在地を推定する手ががりを得た。

船場の北部は、16世紀末、豊臣秀吉が建設した城下町が広がっていた。その城下町の地下に、大阪秦王国の遺跡・遺物が眠っている。豊臣秀吉は、大阪秦王国の歴史を消すために、大阪城を建設し、城下町を造り、そこに、イエズス会の教会と、天満に浄土真宗本願寺を建てたのだ。

その渡辺と推定された地から、古墳時代の土師器、須恵器、緑釉陶器の高級土器、皇朝十二銭の隆平永宝や万年通宝が出土した。鎌倉時代の地層から、モンゴル帝国から輸入された磁器、愛知県の古瀬戸や常滑焼、美濃焼、岡山県の亀山焼、長崎県の滑石製の石鍋などが出土した。

このモンゴル帝国時代の、国際交易時代、徳川家康の租、阿弥一族は、渡辺津から中国本土を目指し、国際交易をおこなっていた。
室町時代の地層からも、中国製の磁器や大量の土器が出土している。高さ110mの塔を建て、金閣寺を建て、高度土木建築をおこなった足利三代将軍義満時代の財政を支えた、阿弥一族も、この時代まで活躍していたことが示唆される。

各年代の地層からの出土品により、船場の北端部から東横堀川を東に越えた坐摩神社御旅所付近までの出土範囲から、渡辺は、中世から港湾都市であったことが推定される。

渡辺は、古墳時代から、大川を下ると大阪湾から瀬戸内海や東日本、更に、中国本土までつながっていた。
それが、藤原日本史では、戦国時代末期、渡辺は、村と描写され、大阪秦王国を継ぐ渡辺村は、穢多村とされた。何故か。戦国時代、渡辺は、農村ではなく、軍事都市国家だったことを、藤原氏や亡命百済貴族は、抹殺したかったからだ。

室町時代は、「清和源氏」の足利氏が統治していたように、藤原日本史は述べているが、その時代は、軍事的に不安定であった。その時代、大阪一帯は、中頭集団の新羅系渡辺と、短頭集団の百済系四天王寺門前町との二大都市が繁栄を極めていた。そして、その二大都市では、それぞれ住民は武装していた。

国の基字は、「國」で、支配地があり、住民が暮らし、統率者がいて、その地を軍団が護っていた、ということは、それは、ただの自由都市などではなく、「都市國家」だ。
その都市国家の渡辺に、室町時代明応5年(1496年)、藤原氏の流れにある日野家の蓮如なる者が現われ、渡辺の拠点石山城の一角を借り、そまつな坊舎を建てた。

この坊舎を、藤原日本史では、浄土真宗本願寺派の石山本願寺とする。そして、その石山城を、自由都市の大阪寺内町とする。その記述により、一般的に、大阪は、浄土真宗本願寺派の寺内町の中心都市である、と信じ込んでしまっている。
石山本願寺が、大阪の何処に存在していたかの史料も、未だ、なく、そして、藤原氏傀儡関白の豊臣秀吉が、天満に浄土真宗本願寺を建立したのも、不思議だ。
10年間続いた石山戦争は、一向宗(なぜか浄土真宗本願寺派をいう。)と織田信長軍の戦いなどではなく、藤原氏得意の、「夷(高山右近の山の民)を以って、夷(嵯峨・醍醐源氏末裔)を制す。」、戦略だった。この戦いの結果、大阪には武士(国人)が存在しなくなり、大阪は「町人の町」となっていく。

大阪上町台地の古墳時代から昭和時代までの歴史は、ワタナーベ津(古墳時代)→灘波津(奈良時代)、ワタナーベの国際海洋交易所(古墳時代)→後期灘波宮(奈良時代)、大阪秦王国拠点の石山城(戦国時代)→石山本願寺(戦国時代)、内陸型港湾都市国家渡辺(古墳時代〜戦国時代末期)→京都・近江から移住民の船場(関白豊臣秀吉時代)、徳川家康造営の大阪城(江戸時代)→太閤はんの大阪城(昭和時代)、として消されてしまった。

目に見える物を消すことは簡単だ。しかし、目に見えない「もの」を消すことはできない。
古墳時代から昭和時代までの大阪上町台地の歴史は、その先住民の施設や史料を、粉砕や燃やすことで抹殺できる。しかし、先住民の話し言葉、風俗習慣などは、粉砕や燃やすことで抹殺できない。

では、目に見えない「もの」は、どのようにして消すのか。

その第一は、無視。時間の経過により消す。持続性のない「もの」は、親子三代(約百年)で消える。第二は、改竄する。第三は、自民族の風俗習慣として取り込む。以上が、見えない「もの」を消す、歴史的技術だ。

その例は、392年ローマ帝国で、ユダヤ・キリスト教(イエス・キリストとは、「ヨシュアはメシア」のギリシャ語訳)が国教となった以降、それ以前に崇拝されていた太陽神を祀る、ミトラ教の歴史を抹殺したことが挙げられる。

ユダヤ・キリスト教は、そのミトラ教の地下神殿を破壊して、その跡に、教会を建て、そして、ミトラ神の再誕日(クリスマスの日)、日の出の神、日中の神、日没の神(三位一体説)、牡牛を屠り血・肉を食べる(種無しパンと赤葡萄酒を飲む)儀式等を、取り込んだ。

大阪上町台地ではどうか。
大阪船場道修町では、11月22日23日に、神農祭がおこなわれている。その祭では、薬租神の少彦名命と神農様が主役だ。
少彦名命は、1780年(安永9年)京都の五条天神宮より分霊を道修町に勧請したのが起源とする。

では、神農様はどうだ。神農様は、4世紀頃発明された、中国道教の医薬の神様だ。そして、鎌倉時代からの正統役座が祀る神様でもある。
少彦名神社(「モリ」ではなく「ジンジャ」)の社伝では、文政5年(1822年)、疫病(コレラ)が流行ったので、張子の虎を作り、神前に祈祷を行い、病除御守を願ったのが、神農祭の始まりとする。
疑問は、古墳時代に伝来していた道教の神様が、何故、江戸時代中期に、神道の神様と共に祭られたのか。

道教は、犠牲の儀式をおこなう。それに対して、神道は、犠牲儀式を「穢れ」と否定して、御祓いの儀式をおこなう。道教と神道とは、全く異なる信仰思想なのだ。
大阪上町台地の「目に見えないもの」の不思議は、もうひとつある。
それは、日本で一番古いといわれる、四天王寺庚申堂でおこなわれている、庚申信仰のことだ。

庚申信仰とは、60日ごとに来る「庚申」の日に、招福を祈願することだ。
四天王寺庚申堂の寺伝では、「飛鳥時代の末、疫病がはやったことがあった。天王寺の豪範僧都が、人々を助けようと天に祈っていると、正月七日の庚申の刻に、年のころ十六歳位の童子が現われた。天の命によって、除災無病の方便を与えると告げた。それで、庚申の日に、青面童子に祈れば、必ず願がかなえられる」、とある。

四天王寺庚申堂は、架空の人物「聖徳太子」(平安時代に歴史上登場)が建立した四天王寺境内にあり、帝釈天の使者青面金剛を祀っているので、仏教系だ。その仏教系の僧侶が、何故、天に祈るのか。天とは、仏が住むところではなく、道教の神が住む処だ。

因みに、極楽や浄土世界は、西方にあるとするのが、仏教思想だ。
江戸時代、その庚申の信仰対象として、猿田彦と「見猿・云わ猿・聞か猿」の三猿が、加わる。その三猿は、天台宗僧侶天海により、日光東照宮の神厩の壁の側面を飾ってもいる。「猿」の付く人物や芸能とは、古代新羅から渡来した秦氏末裔や文化芸能を貶めるために、平安時代に発明された蔑称でもある。
船場道修町の神農祭、そして、四天王寺庚申堂の庚申信仰には、何故、道教の神が登場するのか。それは、漢訳仏教が伝来する以前、道教が上町台地に土着していたからだ。

その視点から推古天皇の「飛鳥時代」(?)、皇極・斉明天皇の「白鳳時代」(?)とする、上町台地と明日香ヤマトの歴史記述を読み解くと、そこには、道教思想が息づいていたことが分かる。

では、道教とは、どのような宗教体系をもっていたのか。それが、よく分からない。道教は、時代と共に、その思想体系を変化させていたからだ。
中国古代殷王朝の時代(紀元前15世紀)に源流を持つとする、巫術(鬼道)の上に、儒教(葬祭の典礼)が乗り、その巫術・儒教の上に、北インド(旧名アレクサンドリア・ガンダーラ)・シルクロードから伝来の大乗仏教が漢訳仏教に変身し、それに乗り、その総合集大成する形で、その上に、道教が乗っかっているからだ。つまり、道教思想には、儒教、ギリシャ系仏教、漢訳仏教の思想が導入されているからだ。

後漢(25年〜220年)が、ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた時代、漢安元年(142年)初代張陵が、四川省成都の郊外鵠鳴山の上で、神になった老子(太上老君)から、お告げ(神勅)を受けたのが、三張道教の始まりとする。この物語は、「旧約聖書」のモーゼが、山頂で神から天啓(十戒)を受ける物語を思わせる。
三張道教とは、「老子」と「易経」とのコンビネーションで、上帝信仰(北極星信仰)を哲学的に理論化して、正一盟威の「道の教え」の祖型(五斗米道)を奉戴することだ。

この三張道教は、深く民衆に溶け込み、中国古来の巫術(薬草による治療)を中心として、祈福や治病をおこなっていた。その薬草による創薬の神様が、神農様だ。
その三張道教教団は、民衆を組織化して、強力な軍事力を持ち、宗教的な独立王国をつくっていた。古代の宗教組織は、無武装なのではなく、王権と対抗するほどの武装をしていた。初期の漢訳仏教組織も例外ではない。古墳時代の大阪上町台地にも、道教の軍事組織が存在していた可能性は、否定できない。

この流れにある道教は、北魏の太武帝の時代、448年、国教となる。騎馬民族拓跋部の太武帝は、道教と敵対する漢訳仏教組織を、風紀を乱し、武器を寺内に隠匿したとして、446年から452年にかけて弾圧した。

しかし、452年太武帝が横死すると、漢訳仏教組織は、文武帝に取り入り、そのため、道教組織が弾圧されて行く。道教組織は、華北から逃れて行く。何処へ。
この時代、藤原日本史では、日本列島では、倭の五王時代とする。

倭の五王時代、奈良盆地から上町台地南部にかけて、南宋から絹製品を輸入するためと、明日香ヤマトのコンビナートからの輸出品を運ぶため、住吉の津まで、大路が敷設され、巨大前方後円墳が築かれていた。

それは、明日香ヤマト裏山の宇陀「さんちゆう」からは、輸出品のひとつである朱砂が、縄文時代から産出されていたからだ。朱砂は、銀の化合物で、殺菌作用がある。創薬で治療(巫術)をおこなう道教では、必需品だ。それに、道教の護符には、朱はなくてはならないものだ。

4世紀完成の道教経典「抱朴子」には、「北斗と日月の字を朱書した護符を身につけるだけで、白刃をおそれず、先頭を切って突撃しても負傷しなかった。」、とある。道教は、軍事組織と関係があることは、その護符からもわかる。

その朱砂の国際交易地、三輪山ふもとのツバ市には、近隣諸国の国際交易民が集まっていた。その中に、道教軍団もいたようだ。中国大陸では、道教は、騎馬民族拓跋国家の北魏の国教となったように、その思想形態から、漢訳仏教は殺生禁止・肉食禁止であるため、その後の騎馬民族世界に取り込まれていた。

4世紀から5世紀にかけて、古墳の埋葬品が、呪術的な物から、実戦用の鉄器・馬具に替わっていたことは、日本列島で騎馬民族による戦闘がおこなわれていたことを示唆する。

そして、5世紀から6世紀にかけて、古代エジプトの埋葬思想による墓制横穴式石室石棺が、古墳築造に取り入れられていく。その時代を、藤原日本史では、飛鳥・白鳳時代とする。
道教思想の視点で、その白鳳期を眺めてみると、飛鳥時代の推古天皇や聖徳太子の実在性が疑わしくなるように、皇極天皇、重祚して、斉明天皇の存在とその事績に疑問が生ずる。

飛鳥・白鳳時代の天皇の漢風おくり名は、奈良時代に淡海三船により奉られたものだ。

「皇極」とは、道教思想では、太極と同じで、世界の中心の意だ。そして、「斉明」とは、道教思想では、神の祭りを熱心にする人の意だ。何故、淡海三船は、そのような道教思想に基づいたおくり名を、同一人物につけたのか。それは、その事績を調べれば分かる。

「日本書記」皇極紀元年8月条、皇極天皇河上に行き、「跪きて四方を拝み、天を仰ぎて祈ひたまいし。」、とある。

四方拝は、道教の基本的祈拝だ。天は、道教の神が住むところだ。
では、皇極天皇の時代、飛鳥大和では、どのような神が祀られていたのか。
「日本書記」皇極紀元年7月条、群臣相語りて曰く、「村村の祝部の所教の随に、或いは牛馬を殺して、諸の社の神を祭る。」、とある。
道教の犠牲は、鶏だ。牛を屠る儀式は、太陽神を祀るミトラ教(景教)だ。この時代、色々な犠牲の儀式がおこなわれていたようだ。

では、斉明天皇はどうだ。
「日本書記」斉明2年(656年)条、「田身の峯に周れる垣を冠らしめ、また峯の上の両つの槻の樹の辺に観を起て、号けて両槻宮とす。亦天つ宮と曰う。」、とある。

観とは、道教寺院のことだ。天つ宮とは、中国六朝時代の道教経典「老子中経」によれば、神仙になった者しか行けない、天上世界の宮殿のことだ。
「日本書記」斉明2年条、「石を運ぶための渠を掘って、舟二百隻で石を運んだ。」、とある。その渠は、「香山の西より石上山に至る。」、とある。香山とは、香具山で、石上山とは、天理市の石上神社の山で、距離としては12kmだ。この渠を掘るのに、三万人余の労力を費やし、運河から運ばれた石で、宮の東の山に延べ7万人余を費やして垣(石の山丘)を築いた、とある。

この大工事は、何を意味しているのか。
そして、「日本書記」斉明5年(659年)3月条、「甘樫の丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷を饗えたまいき。」、とある。
須弥山とは、仏教のものではなく、道教経典によれば、中国の崑崙山の別名で、天の中心にある山だ。

つづく


05. 五月晴郎 2014年3月25日 21:28:30 : ulZUCBWYQe7Lk : aeZXwWpQQ6
>>4 続き

崑崙の山は三級からなる。須弥山石が三つ重ねはこのためだ。

何故、斉明天皇は、道教思想にある須弥山を造り、陸奥国の蝦夷を接待したのか。藤原日本史では、白鳳期は、道教と敵対する、仏教開花の時代ではなかったのか。
「日本書記」に、「石の山丘を作る。作る随に自づから破れなむ。」、とある。斉明天皇が、須弥山をはじめて作るのは、石の山丘を築造する工事をした翌年だ、とする。
「日本書記」のこれらの記事が史実とすれば、白鳳期は、仏教の時代ではなく、道教の時代で、奈良盆地には高度土木事業がおこなわれていた、と考えることもできる。

石を運ぶための渠とは、「運河」で、石丘とは、「石積古墳」で、石に囲まれた池にあった須弥山とは「噴水施設」、と推測すると、大阪ワタナーベ津から河船により、諸外国の国際交易民が訪れる、明日香ヤマトのコンビナート一帯の情景が浮かんでくる。
明日香ヤマトの石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と推定されている。石舞台古墳は、小古墳が数基あったものを破壊した跡に、7世紀初期に造られている。一般的には、方墳として知られているが、2段積の上円下方墳とも、下方八角墳とも推測されている。

日本初の天皇・天武天皇の墓は、八角墳だ。八角形は、何を表わしているのか。それは、道教思想では、宇宙だ。
前漢(紀元前202年〜紀元8年)時代、八角形であらわされる宇宙の中心にいる上帝は、太一神と呼ばれていた。その後、太一神が、道教の最高神となり、上帝は、天皇大帝→元始天王→元始天尊となっていった。
古墳時代、日本列島では、支配者は、おおきみ(大王・大君)と呼ばれていたが、西国での古墳時代末期、道教思想の「天皇大帝」から大帝を取り去り、672年「天皇」と呼ばれた。だから、日本初の天皇である天武天皇の墓は、八角墳で造られた。

もし、明日香ヤマトの石舞台古墳が、下方八角墳だとすれば、626年死去とする蘇我馬子(藤原日本史が付けた蔑称)は、日本初の天皇であった可能性が考えられる。因みに、上町台地の北端では、652年完成の前期灘波宮の遺構からも、八角形の平面プランの建物跡が発掘されている。

上町台地の北端は、古墳時代から江戸時代まで続く、内陸型国際港湾都市だった。道教の神は、古墳時代から今日まで、ここで祀られていたようだ。
それは、「日本書記」推古天皇16年(608年)6月条、「客等灘波津に泊れり。是の日に、飾舟三十艘を以って、客等を江口に迎へて、新しき館に安置らしむ。」、からも、上町台地北端の港の規模の大きさ、そして、国際港であったことが分かる。

しかし、この「日本書記」推古天皇16年条の記述はウソのようだ。それは、「随書」によれば、随使裴世清は、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見した、とあるからだ。それに、この時代、天皇の呼称など、存在してはいなかった。
上町台地北端の古墳時代からのワタナーベ津(藤原日本史では灘波津)の港湾施設は、戦国時代末期に渡辺の港町は関白豊臣秀吉により盛土で埋められ船場となってしまったが、江戸時代にもそのままで、各藩の蔵屋敷(年貢米や国産物を販売する倉庫および取引所)が集中していた。

道教思想の視点から、古墳時代の上町台地から江戸時代にかけて、歴史の流れをみてみると、そこには、藤原日本史と異なる世界が現われてくる。
道教の「道」とは何か。道は、首(くび)と之繞(しんにょう)とにより構成されている。之繞の「之」とは、歩く事に関する意味を表す。では、首は、何を表わすのか。それは、敵将の斬首だ。
道とは、敵軍に囲まれた武将が、敵将の斬首を掲げて、敵陣の中を歩いて行くと、自ずから敵軍の囲みが解けて、その開けられた空間を歩いて行くことを表わした字だ。

戦いで、敵の首を落とすことをする民族の初は、騎馬民族の租スキタイだ。スキタイでは、敵の首を持参することにより、金製品のネックレス・ブレスレット・指輪などの報奨を得た。この風習は、農本主義の漢民族にはない。
では、日本列島ではどうだ。源平合戦後、「清和源氏」の源頼朝は、弟とする源義経の首実検をおこなっていた。織田信長は、敵将のシャレコウベを杯として、家臣の前で、酒を飲んでいた。

騎馬民族の流れにある「武士」は、斬首する風習を持つが、「サムライ」にはない。これは、「武士」と「サムライ」とは、その出自が異なるからだ。因みに、日本の役座が、金製装飾品で身を飾るのも、その流れが、騎馬民族を租とするからだ。
日本列島の武士は、敵の首を取ることにより報奨を得ていた。これは、騎馬民族スキタイの報奨制度を真似たものだ。文化・風習は、民族と伴に渡来する。
この「道」が、日本伝統芸術と呼ばれる、茶道、華道、武道などに付けられているのは、何故だ。
つづく


06. 五月晴郎 2014年4月06日 02:22:32 : ulZUCBWYQe7Lk : aeZXwWpQQ6
>>5 続き

英語で、芸術はアートだ。アートには、芸術の他に、技術の意味がある。それは、芸術は、技術から生まれたからだ。そのアートの語源は、ラテン語のアルスだ。アルスの意味には、技術や才能などがある。

茶道、華道は、日本伝統芸であると云われている。が、しかし、茶道が、闘茶という産地当ての博打として流行ったのは室町時代で、その闘茶から千利休により「侘び茶」が確立されたのが、安土桃山時代で、そして、華道は、室町時代中期からだ。

その日本伝統芸とされる茶道と華道には、共通点が二つある。そのひとつが、野外ではなく、室内でおこなわれることだ。そして、もうひとつが、胡坐ではなく、正座でおこなうことだ。

胡坐(あぐら)の「胡」は、中国支配地から、インドを除く西側の国を指した語で、主にペルシャ、北方騎馬民族を指した。つまり、胡坐とは、ペルシャや北方騎馬民族の座り方のことだ。

正座は、神に祈る時の座り方とも、罪人の座り方とも云われ、その歴史は謎だ。足が痺れる正座は、胡坐に比べて、不自然なことだけは確かだ。
これらの日本伝統芸といわれる茶道、華道は、1279年モンゴル帝国により、南宋が滅び、その地から日本列島に亡命して来た、禅僧によりもたらされた禅宗文化を基に開発されたものだ。

それらの茶道、華道の芸をおこなうには、質素な禅寺の構造を真似て造られた、床の間のある書院造が発明され、そして、正座ができるように、部屋には畳が敷き詰められていなければならなかった。

日本伝統芸の茶道、華道が発明された室町時代とは、「清和源氏」を租とする新興武家、大山崎油座、禅宗の三位一体により、国人(武芸者の流れれにある武士末裔)、結界である各国の神社(もり)をネットワークで結ぶ各種の座、太陽信仰民族である阿弥一族、を表社会から排斥していた時代だった。

その室町時代に芸術家になれなかった、技術者達は、何処に消えたのか。
江戸時代中期、六代目弾左衛門は、非人頭の車善七との訴訟で、頼朝公の御朱印の由緒書を江戸幕府に提出した。

その書によれば、鎌倉時代より弾左衛門の支配下にある技術者は、
表芸として琵琶・箏曲・四絃を演奏する「座頭」、
曲舞・幸若舞などで鼓にあわせて平家物語などを歌い、そして舞う「舞々」、
滑稽なしぐさや物真似をする、室町時代に能となった「猿楽」、
道教の流れにある陰陽道で占いを行い、亀の甲羅を焼いて吉凶をみたり、暦で占ったり、加持祈祷をおこなう「陰陽師」、
壁を塗る職人である「壁塗」、
土で焼いた鍋を作り、販売もする「土鍋師」、
鉄や銅で鐘や鍋釜、風鈴などを作る「鋳物師」、
大道や寺社で琵琶を弾いたり祈祷をしたりする、当道座に属することができなかった盲目の「辻目暗」、
武家屋敷をまわって馬の安全を祈る「猿引」、
念仏踊りの一種で、瓢箪をたたき、念仏を唱えながら踊る「鉢たたき」、
京都では犬神人と呼ばれていた、弓に張る弦を売る「弦差」(京都では、つるめそ)、
城壁や堀を作る時、石を切る技術者である「石切」、
素焼きの土器を作り、販売をする「土器師」、
恋歌を書いた短冊を笹につるし、それを背負って歩き、唄ったり曲芸をする「放下」、
菅の葉で笠を作る「笠縫」、
渡し場の船頭である「渡守」、
山を守る「山守」、
藍染の仕事をする「青屋」、
瀬戸物を作る「坪立」、
筆を作る「筆結」、
油煙のすすを膠液で練り固めて墨を作る「墨師」、
関所を守る「関守」、
銅鉦を首にかけ、それを叩きながら和讃を唱えて踊る「鐘打」、
茅や菅、藁や棕櫚を材料にして農具や雨具を作る「箕作」、
人形を回したり、今様を唄ったりする遊芸の「傀儡子」、
獅子の頭を被って太鼓を叩きながら舞い、五穀豊穣を祈り、悪魔祓いを念じる「獅子舞」、などだ。

これらの江戸時代初期まで結束していた技術者集団は、何故、鎌倉時代に、弾左衛門の支配下になった、というのか。

秦氏末裔の弾左衛門が、藤原氏一族のように「日記類」を残していたら、それを史料として、その理由を解明できるのだが、騎馬民族の性として、「歴史書」を持たないため、それを史料をもとに解明できない。推理と推測が唯一の方法だ。

それらの技術者の構成をみると、それらは軍事と関係がある技術者と考えられる。そこにいないのは、軍人・武人だ。すると、その技術者集団は、何処かの国を支配していた者達で、戦いに破れ、軍人・武人は抹殺され、その地を追われた者達の末裔とも考えられる。

つづく


07. 2014年4月13日 10:36:38 : aeZXwWpQQ6
>>6 続き

百済王朝の平安時代から、これらの技術者達は、王権から賎民・河原者として位置づけられていた。しかし、古墳時代では、死者を祀る古墳の地で祭礼をおこなっていたのだ。

奈良時代、唐進駐軍の律令軍により、奈良盆地が支配され、近畿一帯の古墳が破壊され、その跡に神社(もり)を造り、結界としての禁足地として、前政権の霊を封じ込めた。

例えば、奈良時代、平城京の東にある、太陽神信仰民族の祭祀場である三笠山の古墳のひとつが破壊された。その古墳を破壊した禁足地跡に、藤原氏の神アマテラスオオミカミを祀る春日社が創建された。

それに対して、反藤原氏となった聖武天皇は、秦氏支配の大阪渡辺(灘波)にある知識寺の太陽神像(ミトラ神像)にヒントを得て、三笠山の若草山(古墳)の隣の古墳跡に、巨大太陽神像を鋳造した。

知識寺とは、仏像を安置する仏寺などではなく、民衆により喜捨された財源により立てられた私寺のことだ。奈良時代の仏教は、国家により管理されていたので、私的な仏寺など建立できなかったのだ。

知識寺は、知識結という、結社の拠点だ。因みに、古墳時代以降、王権にまつろわぬ飛騨での合掌造りの建物を修理する時、各地から集まる助っ人を、現在でも「結」という。

平安時代初期、藤原氏の資金援助で唐に渡った錬金術師空海は、この奈良の太陽神像を、大日如来として、太陽神のミトラ神像を、仏像にしてしまった。このことを伝聞されていた民衆は、江戸時代中期まで、焼け爛れて腕が欠損していた奈良の大仏を、祟り神として恐れていた。因みに、現在の奈良の大仏は、奈良時代ではなく、江戸時代中期に鋳造されたものだ。

しかし、自然現象の雷や地震が、怨霊が原因と信じられていた平安時代では、古墳を破壊したことにより、怨霊が祟るとして、その荒魂を鎮めるために、前政権の祭祀者を鎮魂のために利用した。

戦国時代末期、藤原氏傀儡関白豊臣秀吉は、それらの古墳時代からの「目に見えないもの」を伝聞する祭祀者を、世間から排除するために、それまでは純粋の農耕民など存在しなかったが、1591年全国の戸口調査をおこない、まず、武士末裔である国人を66カ国から人払いしてから、士農工商の身分法を制定し、居住地を限定した。その措置に随わぬ者達は、各地の元秦王国が存在した地を目指した。

この豊臣秀吉が発した身分法の法律により、西国では、朝鮮半島型民族である短頭集団が、騎馬民族型である中頭集団居住地を囲うように、被差別部落が発生した。
この前年、1590年、三河一帯を支配していた、阿弥一族末裔の徳川家康の一族郎党は、ひとの住めぬ河口の湿地帯である穢れの土地、エド(穢土)に強制移住させられていた。

江戸時代以前、このエドの地は、古墳時代からの群馬秦王国の支配地の山々を水源とする利根川が流れ込んでいた。その河口一帯も、弾左衛門の租の支配地だった。
この豊臣秀吉の政策により、古墳時代から多くの地域で、怨霊である宿神(障礙と守護)を奉ずる祭祀者と神社(もり)との関係が切れ、兵農分離により生まれた、純農耕民としての村人が、祭礼の先導役を「形式的」に担うことになっていく。村人が先導役をするお祭りは、古代からあったのではなく、豊臣秀吉の時代を初とする。

昭和時代中期まで、各地のお祭りは、役座により仕切られていたのは、役座の租は、武士で、武士の租は、神社(もり)で荒魂を日本刀の舞いで鎮める祭祀者である武芸者であったからだ。しかし、現在では、古墳時代からの「祀り」の歴史を隠蔽する権力者により、役座は暴力団として、お祭りから排除されてしまった。

京都の祇園会や宇佐八幡の御祓会では、近世を通じて被差別部落民が、神事の先導役を担っていたのは、そのような古墳時代からの歴史があったからだ。

世襲名弾左衛門が、明治革命後まで、13代も継承できたのは、関八州は、古墳時代から騎馬民族・秦氏の群馬秦王国の支配地だったからだ。因みに、群馬県は、東国で最も多くの古墳が築かれていた地だ。その古墳の中には、古代エジプトの墳墓を思わせる、石室・石棺もある。群馬県の古墳を全て発掘できれば、藤原日本史とは異なる世界が現われるはずだ。


                江戸幕府の幕府の語源は、ユーラシア草原を支配していた騎馬民族の草原に設置された天幕の司令部のことですか?


オレは、正月休みの大半を、田辺さんのレポートの解読で費やしてしまった。
大阪秦王国など、藤原日本史にはまったく登場しない。トンデモ歴史レポートを読んでしまったような気分が、しばらく抜けなかった。

そこで、桜の蕾が膨らむのを待って、大阪の歴史を調べる目的で、図書館へ行った。オレは、寒がりなのだ。
そこで探し出したのは、大阪市文化財協会編「大阪遺跡」の本だ。その表紙には、出土品・遺構は語る なにわ発掘物語、とあった。いっきに読み切ると、田辺さんのレポートの趣旨が理解できるような感じがした。確かに、大阪船場の地下には、隠蔽された大阪秦王国があった、と確信した。

そこで、オレは、大阪造幣局の花見かたがた、大阪に行くことにした。
大阪造幣局は、明治革命前後に、第三百済王朝の江戸幕府を転覆するために革命を起こした大塩平八郎が居住した天満組の与力・同心の街を破壊した跡に、創建された建物だ。
つづく


08. 五月晴郎 2014年5月05日 07:51:40 : ulZUCBWYQe7Lk : e43ekkwJp2
オレは最悪な日に花見に来てしまったようだ。
4月13日の日曜昼下がり。造幣局の南門は、ひとの川となっていた。日本語、英語、それに中国語らしきアナウンスが、ひとびとの喧騒を更に増幅させる。オレは、そのひとの川を渡る勇気はない。お花見はキャンセルだ。
カメラマンバッグから、二枚のコピー地図を取出した。
ひとつは、「大阪遺跡」の1頁目に掲載されていた「大阪遺跡マッブ」だ。これは、古墳時代から豊臣秀吉時代までの古墳や遺跡を図示したものだ。
もうひとつは、薮田 貫著「武士の町 大阪」の13頁に掲載されていた、「武士の居場所 (天保期)」だ。これは、江戸時代の大阪城近辺の武士(サムライ?)の居場所を図示したものだ。
これらの地図によると、オレは、豊臣秀吉時代では、天満本願寺境内にいるようだ。

しかし、不思議は、豊臣秀吉の棟梁であった織田信長への10年戦争を仕掛けた、仇敵である浄土真宗本願寺派の寺を、何故、豊臣秀吉は、1586年、天満に造営したのか。そして、一向宗を指揮したとされる、藤原氏の流れにある日野家の浄土真宗本願寺派の門主一族は、「お咎めなし」なのは何故だ。そして、藤原日本史では、浄土真宗本願寺派だけを、浄土真宗には高田派など多くの派閥があるのに、「一向宗」と言うのは、何故か。

織田信長は、敵側と密通したとの理由で、比叡山延暦寺の僧、全員を惨殺していたのではないか。そして、石山戦争では、門主が退場した直後、なだれ込んできた織田信長軍団は、石山城内にいた武士はもとより、老若男女全員を虐殺していたではないか。
更に、不思議は、豊臣秀吉は、大阪城下町の一等地に、イエズス会の教会の創建を許していたのだ。
藤原日本史によれば、イエズス会と浄土真宗本願寺派とは、大阪秦王国の拠点、石山城が陥落する以前、1580年までは、敵対同士ではなかったのか。

そして、オレは、江戸時代では、大塩平八郎が居住していた与力・同心町の天満組の支配地にいるようだ。
藤原日本史では、1837年大塩平八郎の乱とするが、その実態は「革命」だ。何故、大塩平八郎は、天満与力と同心を引き入れ、革命を起こしたのか。その地が、徳川家康が、江戸幕府を拓いた後、豊臣秀吉の検地・身分制度により大阪から国払いされていた、古代新羅民族末裔や騎馬民族末裔を呼び戻して、その天満の地を役人村としたことと関係があるのか。

オレは、そのようなことを取りとめもなく模索しながら歩き回った。しかし、その謎を解くことができる、それらしき記念碑や遺跡・遺構跡はなかった。小さな寺やこぎれいなビルが林立するだけだ。
オレは、奥浅草の遺跡見学の散策を思い出した。そこには、弾左衛門一族が暮らした痕跡のひとつも見つからなかった。確かに、大阪の歴史は、江戸の歴史と同じに、消されていると確信した。

そこで、天満の遺跡探索は、早々に諦めて、大阪城見学に切り替えた。
大阪城の天主閣に登るのも、多くの外国人観光客で、エレベータ待ちの長蛇の列だ。
エレベータに乗るまで、入り口で入手した二種のパンフレットを、三度も読み返すことができた。ひとつは、ポケットサイズの大阪城天主閣の案内だ。そして、もうひとつは、太閤なにわの夢募金のパンフだ。
天主閣案内に、大阪城の歴史が書かれている。

大坂本願寺の時代
明応5年(1496)、浄土真宗の蓮如上人が今の大阪城付近に一つの坊舎を営んだ。これはやがて大坂本願寺という大寺院に成長し強大な勢力を誇ったが、天正8年(1580)天下統一をめざす織田信長に屈し、寺院や寺内町は炎上した。

豊臣秀吉の大坂城
織田信長没後、政治の主導権を握った羽柴(豊臣)秀吉が天正11年(1583)、大坂本願寺跡に築城を開始。天下人の居城にふさわしい大城郭を築きあげた。しかし秀吉没後、政権は徳川家に移り、慶長20年(=元和元年・1615)の大坂夏の陣により落城した。

徳川幕府による再築
大坂城は2代将軍秀忠の命により、元和6年(1620)から10年の歳月をかけて全面的に再築された。寛文5年(1665)天守を落雷によって失ったが、幕府の西日本支配の拠点として大きな役割を果たした。明治維新の動乱で多くの建造物が焼失した。

昭和の天守閣復興
明治以後、大阪城は陸軍用地として使われた。その中にあって昭和6年(1931)、市民の熱意によって現在の天守閣が復興され、博物館施設として現在に至っている。大阪城一帯は第2次世界大戦の空襲によって損害をこうむったが、戦後は史跡公園として整備された。

、とある。


オレは、田辺レポートを読んでいるので、その説明文をすんなり受け入れることが出来ない。
もうひとつのパンフには、豊臣秀吉が築いた初代大坂城石垣に再び光を!、のキャッチコピーが、オレの興味を惹いた。二つ折りをめくると、ヘッドコピーに、

豊臣秀吉が天下統一の拠点として築城した初代大坂城は、「三国無双の城」と讃えられる豪壮華麗な城でしたが、1615年の大坂夏の陣で豊臣方が敗れた後、徳川幕府により豊臣大阪城を覆い隠すように徳川大阪城が築かれて以来、今も地下に眠り続けています。

、とある。

そして、本丸の天守閣前広場の地下約9mに、現在の大阪城の石垣とは違う、野面積みの石垣が発見された、とある。
オレは、田辺レポートで学習していたので、この約9mの盛土は、太田道灌が築城した江戸城跡に盛土をして約10mの小山を築いた上に、江戸城を築城した、阿弥一族末裔の徳川家康と、古墳時代に巨大前方後円墳や幅広の古代高速道路を全国に敷設していた高度土木建築技術者集団末裔の存在を、とっさに思い出すことが出来た。
大坂と江戸との歴史は、リンクしているのだ。
5階までエレベータで上がると、そこから階段で展望台まで上がった。ざっと見渡すと、大阪城内の桜は、葉桜となっていた。
二枚のコピー図を睨みながら、古墳時代から江戸時代までの地形を思い浮かべるのだが、視界にあるのは、平面地で、古墳時代の海抜約20mの高台からの眺望とはならなかった。
大坂は、丘は削られ、谷は埋められ、多くの横堀川は埋められ、大改造されていることを思い出した。今の地形からは、古墳時代では、上町台地が、海抜約20mの台地であったことなど想像もできない。
オレは、展望台からの歴史探索を諦め、館内の展示物を見ることにし、階段を下った。この館内は、豊臣秀吉関連の展示物であふれている。大阪城の石垣は徳川家康が築いたものなのに、徳川家康の展示物は皆無だ。
その豊臣秀吉の遺物は本物としても、豊臣秀吉の生涯マップには、大きな疑問がある。それは、田辺レポートによれば、姓も苗字もない豊臣秀吉の出自は、不明だからだ。
3階まで降りると、原寸大の黄金の茶室があった。オレは思わず、「趣味ワル」とつぶやいた。茶室の全面が金箔を張り詰めている。
オレは、説明文を読もうと、ガラスごしに目を遣った。そこに、東洋人の旅行団体が現われると、その黄金の茶室をバックに記念撮影をおこなった。5・6台の小型カメラからのストロボ光は、茶室の金箔に乱反射して、オレの視界に飛び込んできた。
一瞬、視界が真っ白くなると、瞬時に、暗闇から映像が飛び込んできた。その映像は、上町台地が、半島となっている。2100年前の映像だ。上町台地の西側には大阪湾があり、東側には河内湖がある。
そこから、映像は超スピードで展開し始めた。
つづく


09. 五月晴郎 2014年5月11日 21:15:40 : ulZUCBWYQe7Lk : F4inqhnp1o
淀川から運び込まれた土砂が堆積して、見る間に河内湖の出口をふさいでいく。それに伴い、幾層もの海岸線が出現した。それが大阪湾一帯の無数の横堀川の原型となっていく。その幾層もの海岸線は、淀川からの支流により分断され、多くの島々となっていく。

その島々に、南方系と思われるひとびとが外洋型カヌーで渡来すると、海岸線地帯で暮らす先住民を駆逐して、泥湿地帯に水田稲作地や桑畑を広げていく。
やがて、上町台地南方にある入江に、港が開発されていく。その南北に伸びる港には、帆を張った外洋構造船が、華南の内陸湾から無数渡来した。

多くの大型古墳と運河と幅広の東西横一直線の道路が、同時並行で築かれていく。運河と幅広の大道は、生駒山を目指し、その麓にも多くの大型古墳が築かれていく。これらの大土木建設事業は、奈良盆地の海外交易地を軍事侵略するためにおこなわれたようだ。

それらの大土木建設事業により、一度雨が降ると湖と化す奈良盆地が、ひとが住める湿地帯となっていく。その湿地帯を縦貫するように、南北軸から西に少し傾いた幅広の大道と運河、そして、大型古墳が築かれていく。その開発は、明日香ヤマトの地まで続く。

その明日香ヤマトの丘陵地には、多くの工場が築かれた。水銀の素材としての朱砂精錬工場、ガラス工場、銅銭製造工場などのコンビナート地帯となっていく。
やがて、その南北に長い国際港が、度重なる台風のような大風により壊滅すると、上町台地の北端に、大運河が掘削されていく。それと同時に、その台地北端に巨大古墳が多く築かれ、その地帯から南に向かって、幅広の一直線の大道が敷設されていく。やがて、その南北の大道は、三本の東西の大道と交差した。

この上町台地北端の大運河完成により、河内湖の水が引くことにより、やがて、河内湿原平野となる。その湿原平野に大運河を掘削し、巨大古墳を築き、幅広の大道を敷設することにより、河内平野が出現した。
上町台地の北端に大運河が築かれると同時に、上町台地に隣接する西側の横堀川も掘削され、華南の内陸港と同じように国際港が築かれていく。そして、その上町台地北端には、巨大倉庫群が、掘立柱構造で建設されていく。

やがて、その内陸港町に、北陸から琵琶湖を経て淀川沿いに南下してきた騎馬軍団が出現した。その騎馬軍団は、先住の朝鮮半島南端から渡来していた騎馬軍団との戦闘で勝利した者達だ。
その上町台地北端の国際交易港を支配した騎馬軍団は、奈良盆地の南の山稜地に陣を築いた。この騎馬軍団は、東アジアで、騎馬民族拓跋国家の隋との交戦状態であった。このことにより、奈良盆地の古墳形態は、前方後円墳から、北方騎馬民族の墓制の方墳となっていく。

そこから映像は急回転した。
上町台地北端の内陸港に、周防から巨木を満載した大型船が着く。その巨木は、淀川から木津川を遡り、奈良の三笠山の麓に運び込まれる。
三つの笠を連ねたような三つの巨大古墳のひとつが、くり抜かれ、そこに塑像が築かれると、やがて、巨大鋳造像が出現した。頭には、巻き毛(螺髪)などない。髪は、ギリシャ像と同じ波状だ。

その巨大鋳造像は、まもなく、何者かにより、波髪の頭が打ち落とされた。やがて、赤旗軍団と白旗軍団との内乱状態の中、安置していた建物が炎上すると、巨大鋳造像は焼け爛れた。
その焼け爛れた巨大鋳造像を修復するため、巨木が、前映像と同じルートで運ばれた。
映像は、戦国時代となっていた。その上町台地北端の港に、周防から軍事・食料物資を満載した大船団が到着した。このことにより、十字の旗をなびかせる軍団による兵糧攻めの効果がなく、戦闘は長期間こう着状態となっていた。
やがて、石の城壁で囲まれた城の一部から火の手が上がると、十字の旗の軍団が、城内になだれ込んだ。一瞬にして、城内は屍の山となった。

上町台地の落城した建造物群が破壊され、台地の土と、掘り出された巨石も、西側の港町の盛土となって、古墳時代から続いた国際港町は、埋められた。
その城址に、巨大城が出現すると、まもなく炎上し、その城址に盛土をされ、前城と形が異なる巨大城が、出現した。この城も、まもなく炎上した。
この映像を最後に、画面は消えた。

オレは、瞬きして、周囲を見渡すと、そこには、まだあの東洋人旅行団の一行が、金の茶室を覗き込んでいた。幻視は、2100年間の出来事であったが、数秒であったようだ。
オレは、帰りの新幹線の中で、田辺さんへのレポート作りのために、幻視のメモをとった。

それにしても、古墳時代から続いていた上町台地の国際港と、奈良の巨大像鋳造時での周防、それも、時代を空けての二度の関係。そして、戦国時代での、上町台地港と周防との関係が気になった。田辺さんなら、その関係を知っているかも知れない。
オレは、家に着くなり、レポートを送信して、田辺さんからの連絡を待った。それから一週間も経たないうちに、パソコンに着信の合図があった。

「ご無沙汰です。レポート読みました。大阪に行ったのですね。」
「大阪は、造幣局通り抜けの観光シーズンだったので、ひとごみの渦でした。ところで、オレが幻視した映像で、質問があるんですけど。」
「どんなことですか。」
「大阪の歴史を調べると、灘波津は、渡辺ではなく、三津寺町にあった、となっています。ナベさんの説では、船場の地下に埋められた渡辺ですよね。」
「灘波津は、灘波宮に隣接する渡辺の地にあって、定説とされる大阪南区ではないと考えています。」
「その根拠は。」
「三津寺町は、当時では海岸線近くにあった、外海に面した漁村だったからです。それは、「続日本紀」孝謙天皇の天平勝宝5年(753年)9月の条に、「摂津国御津村に南風大いに吹き、潮水暴に溢れて、廬舎一百十余区を壊損し、百姓五百六十余人を漂没す。」、とあるからです。そのような危険な場所に、国際港を築くはずはありませんから。」
「そう言われれば、そうですよね。やはり、大阪の歴史は、謎だらけですね。」
「上町台地北端の歴史は、消されている、というのが私の説です。この上町台地の史実が知られると、藤原日本史の古代史の虚構性が暴かれるからです。」
「どういうことですか。」
「レポートでも述べましたように、文化は、沿岸から内陸へ伝播していくのです。藤原日本史では、初代天皇神武は、奈良盆地で、紀元前660年即位したことになっています。そして、天皇家は、万世一系で今日まで続いていることになっています。しかし、紀元前660年では、縄文海進により、河内は河内湾となっており、それに伴い、奈良盆地の水はけが阻害され、大和三山が嶋のような状態の湖だったと考えられるからです。」
「その時代では、奈良盆地は、ひとが住める状態ではないということですね。」
「奈良盆地一帯で、ひとが住める状態になるのは、上町台地に大運河が掘削された後だと、考えています。」
「すると、オレが幻視した、物流の拠点、上町台地北端の港は、渡辺だったのですね。それにしても、巨木が周防国から海運により運ばれたのは、何故ですか。それも、時代を空けて、二度もですよ。」
「その一度目の幻視は、多分、藤原日本史で述べる、行基による奈良の大仏鋳造に伴う、物資の調達映像だと考えます。」
「でも、ナベさんの説では、奈良の大像は、大仏ではなく、遍照鬼、つまり、太陽神ミトラだとするのですよね。」
「そのように考えています。」
「その根拠が、ナベさんのレポートでは、オレには伝わらないのですが。」
「その根拠の史料はないです。だからと言って、その大像が、仏像であったとする史料もないのです。その奈良の大像は、江戸時代中期まで、庶民から祟り神として恐れられていたからです。仏教思想が支配していた時代で、大仏が、祟り神ですか。カメさん、おかしいと思いませんか。」
「大仏が、祟り神ですか。信じられませんけど。藤原日本史では、その大像は、聖武天皇が、河内の知識寺に行幸し、そこで拝した盧舎那仏に感銘をうけ、それが造像の志をいだく契機となった、とされていますよね。知識寺の、知識って、何ですか。」
「盧舎那仏は、正式には、毘盧舎那仏で、太陽神のことです。知識とは、仏教用語で、造寺・造仏の際、仏に結縁するために田畑、銭貨、労働力などを寄進する行為だと言われています。」
「すると、知識寺は、一般人、庶民から集められた資金により立てられた私寺ということですか。」
「そのようですね。」
「それっておかしいですよ。奈良時代、仏教は、鎮護国家のための官営であったはずです。私寺など、公に存在できるはずありませんよね。僧尼令非寺院条に、「凡そ僧尼寺院に在てするに非ずして、別に道場を立て、云々。」、とあるように、私道場(私寺)は禁止のはずですよね。そこに、体制側の聖武天皇が行幸したなんて、おかしいですよね。」
「確かにおかしいです。でも、聖武天皇が、反王権側のひととなったならば、別です。」
「どういうことですか。」
「聖武天皇の母は、藤原不比等の娘宮子で、父は珂瑠皇子(文武天皇)で、藤原不比等は租父という家系です。この聖武天皇に、藤原不比等と県犬養三千代との間に生まれた光明子を皇后として嫁がせたのです。つまり、聖武天皇は、藤原不比等のロボットとなったのです。」
「それが、どうして反藤原氏となったのですか。」
「母宮子は、聖武天皇が生まれると、病となり、隔離されていたのが、僧玄肪の治療(?)により宮子の病が治癒し、聖武天皇と母子の対面となり、藤原不比等の陰謀を知ることになるのです。藤原不比等の娘光明子が皇后となることに反対した、天武天皇の孫長屋王を、陰謀により抹殺したことなどです。」
「長屋王って、一説では、天皇の地位にあったということですよね。」
「その当時、東アジアでは、情勢が不安定であったのです。藤原不比等を日本列島に送り込んだ、則天武后の周は、則天武后が病に倒れた、705年国号を唐に戻すと、翌年、則天武后は死去したのです。藤原不比等は、則天武后のクビキが解かれると、日本列島乗っ取りを実行に移すのです。そのひとつが、人間文武天皇を神とすることです。その神である天皇をロボット化することにより、日本列島を支配できるからです。そのための装置が、唐制にもない、神祇官です。神祇官は、当然、太政官の上に位置させたのです。」
「ナベさんの説では、古墳時代には、太陽神を祀るミトラ教と、北極星を祀る道教が存在していたのですよね。その拠点のひとつが、上町台地の北端であったのですか。」
「そうです。上町台地では、今日までも、道教の神、神農様が祀られているからです。上町台地一帯は、平安時代に、嵯峨源氏渡辺党が興った地です。党とは、反体制ないし反権力の集団のことです。」
「反藤原氏となった聖武天皇は、何故、僧行基に大像鋳造を依頼したのですか。行基は、体制側の仏教僧ではないのですか。」
「行基が、仏教僧であるとの史料はありません。行基が、体制側のひとではなかったことは、その活動地域からも分かります。行基の初期建立になる山林中の小院は、摂津→河内→大和(平城京)を繋ぐ、交通路に面していたからです。そこには、都城の地、大和は含まれてはいなかったのです。」
「行基が出現した時代背景は、どのようですか。」
「行基とその集団が歴史上出現してくるのが、8世紀の初頭、天武天皇が686年死去し、藤原不比等を登用した女帝持統天皇の時代からです。日本列島初の道教思想に基ずく天皇制国家が崩れ、唐の統制により律令国家として形姿を整え、確立された時代です。」
「すると、行基とその集団は、古墳時代の道教思想の残党とも考えられますね。」
「河内の知識寺では、知識のために集団をなすことを、知識結と称されていました。結とは、結社のことです。結社とは、理念的には共同体の枠を超え、同行同心のひとびとの間に成立します。つまり、中世の一向衆と同じです。」
「一向衆って言えば、戦国時代に活躍した一向宗と同じですか。」
「知識結と一向衆とは、本来、共通の宗教的事業・目的のために、同行同信(一向)を唯一の紐帯として存在する、第二次的な共同体ですから、そこには、原理的にいかなる権力関係も介在することが出来ません。つまり、貴賎を問わず、四民平等です。」
「大阪の石山城内でも、貴賎を問わず、四民平等でしたよね。」
「知識結の結社集団は、もうひとつの国家、つまり、風の王国とも言えるのです。」
「風の王国って、目に見える支配地を持たないが、こころの絆で結ばれた国のことですか。」
「それに近い存在です。実は、行基が出現する前に、そのような集団が存在していたのです。「続日本紀」文武天皇4年3月の条に、「天下を周り遊びて、路の傍に井を穿ち、諸の津済の処に、船を儲け橋を造りぬ。」、とあります。この高度土木建設技術者集団は、古墳時代に、大運河、直線の大路、巨大古墳を築いていた集団の末裔が示唆されます。」
「律令軍団により、明日香ヤマトを追われた技術者集団ですね。その集団、何処に行き着いたのですか。」
「考えられるひとつは、周防や安芸です。」
「その根拠は。」
「「続日本紀」天平2年(730年)9月の条に、「安芸、周防の国人等、妄に禍福を説きて、多くの人衆を集め、死ぬるを魂を妖祀して祈る所有りと云ふ。また京に近き左側の山の原に多くの人を聚め集へ、妖言して衆を惑す。多きときは万人、少なきとき乃し数千。」、とあります。その前年、729年左大臣長屋王は、藤原不比等の陰謀により謀殺され、藤原不比等の娘光明子は、聖武天皇の皇后となっています。」
「何故、周防や安芸の地なのですか。都から遠く離れていますよね。それに、行基の大像鋳造に手を貸したのは、宇佐八幡の民ですよね。」
「考えられるのは、その技術者集団は、朝鮮半島南端の古代新羅から渡来した集団だったからです。ギリシャ・ローマ文化を継承する古代新羅の国は、6村で構成されていたのです。村と言っても、純粋農村などではなく、ギリシャと同じ都市国家です。その6村の都市国家が、527年日本列島に亡命して、日本列島各地に分散したからです。そのひとつが、周防・安芸だったと考えられます。」
つづく


10. 五月晴郎 2014年5月18日 20:43:55 : ulZUCBWYQe7Lk : F4inqhnp1o
「朝鮮半島南端→豊前→周防→安芸→備前→摂津→河内→明日香ヤマト、と言うことですか。」

「古代新羅も騎馬民族突厥も、歴史書を、基本的には持たない民族ですから、史料としては示せません。しかし、939年から941年に及ぶ天慶の乱を鎮圧した武芸者が、武士として公に認められるわけですが、その武芸者の租は、陸奥国を支配していた蝦夷です。その蝦夷とは、645年まで明日香ヤマトを支配していた、古代新羅から渡来した花郎騎士団とユーラシア大陸の草原を支配していた突厥進駐軍の末裔です。その武士の流れにある役座組織の所在地と、古代新羅から渡来した秦氏の各地の都市国家とリンクすることで、秦氏の、日本列島での移動ルートが推測できると考えています。」

「そう言えば、現在の役座の勢力地は、北九州、広島、神戸、大阪、東京、群馬などが思い浮かびますよね。それらの地域では、姉御肌の女性が多いですよね。それに、古墳も多いですよね。」

「多くの騎馬民族は、女系家族で、古代では、女性が王となることもできたのです。東アジアの古代で、唐(周)の則天武后を除けば、複数の女王が在位したのは、古代新羅と、奈良時代の日本だけです。」

「なにか良く理解できないけど、ナベさんの言わんとしたニュアンスつかめます。話を行基に戻してもいいですか。」

「少し、脱線してしまったようですね。行基が、仏教僧ではなかったことは、「続日本紀」養老元年(717年)4月の条に、小僧行基は、弟子と伴に、街に出没して、罪福を説き、徒党を組んで、指や肘の皮膚を剥ぎ、火をつけて燃やしたり、物乞いしたり、聖道を説いて百姓を妖惑していた、と述べているからです。」

「717年の翌年、718年に藤原不比等が、養老律令を作成したのですよね。その養老律令は、その後、昭和まで続いたのですよね。」

「行基のタイトルの遍歴を史料から見ると、養老元年(小僧行基)→天平3年(行基法師)→天平10年(行基大徳)→天平17年(大僧正行基)となっているのです。」

「それで、何が分かるのですか。」

「天平3年には、養老4年に死去した藤原不比等の三男藤原宇合が、参議となっています。参議とは、朝廷の最高機関である太政官の官職のひとつです。このことは、藤原不比等の、日本列島乗っ取り計画が、実行に移されたことを意味しています。」

「養老元年では、蔑称の小僧でしたよね。天平3年では法師ですよね。僧として出世したのですか。」

「現在では、法師とは、仏法によく通じたひとの意味ですが、古代では、法師とは、賎民とさたれていた琵琶の盲目の演奏者が琵琶法師といわれるように、僧形の俗人の意味です。尊称ではなく、蔑称の範疇です。」

「すると、大徳も蔑称ですか。」

「大徳は、大きな徳を備えたひとの意味で、尊称です。その天平10年、反藤原氏となった聖武天皇は、各国に国分寺を造らせていたのです。」

「ナベさんのレポートに、国分寺の地名は各地に残っているが、藤原日本史で述べる国家鎮護シンボルとしての仏像は一体も、現在に存在していない、とありましたよね。確か、その国分寺に安置されたとする仏像は、仏像ではなく、ミトラ神像とか言ってましたっけ。」

「天平17年聖武天皇の母宮子の病を治したとする、僧玄ムが左遷されています。」

「行基は、藤原氏が優勢な時代では、蔑称をつけられ、反藤原氏となった聖武天皇の時代では尊称をつけられた、と言うことですか。」

「タイトルの遍歴から、そのように読み取れます。」

「反藤原氏となった聖武天皇が、反体制組織の朋党をかまえる行基に、藤原氏が日本列島乗っ取りのための漢訳仏教組織のシンボルである、仏像など造らせることはないですよね。」

「奈良の大像の建立地からも、そのことが分かります。大像は、藤原氏の氏寺の興福寺を見下ろす丘の上にあるからです。」

「その丘とは、三つの古墳があった三笠山ですね。今では、春日山と呼んでいるひともいるようですが。」

「その反体制の行基は、聖武天皇の時代以前、風の王国の支配地を、何処にしたのかは、その活動地域から割り出せます。」

「それは、奈良盆地を支配下に置いた藤原氏一族に対する、反藤原氏の王国ですね。」

「行基は、院、つまり、道場と結合した灌漑施設の造営地を、和泉大島郡を中心とし、海岸沿いに日根郡の神前、東方の河内丹比郡を含む一帯、淀川の流域、河口の灘波(渡辺)からさかのぼって山城乙訓郡山崎におよぶ一帯、猪名野を中心とする摂津猪名川の中流域一帯としたのです。」

「すると、風の王国の拠点は、上町台地の北端ということになりますね。そこは、戦国時代、巡察師ヴァリニャノの要請で、日本列島唯一の内陸港都市大阪の支配を目論む、日本イエズス会の軍事援助を受けた織田信長が、10年かかっても落とせなかった、天然の要塞だったからですよね。」

「私は、そこが、古墳時代から戦国時代まで存続していた、大阪秦王国の拠点だと考えています。」

「すると、藤原日本史が述べる、上町台地北端一帯を敷地とした豊臣大阪城は、石山本願寺跡に造られたというのは、ウソですか。」

「カメさんの今回の幻視レポートには、上町台地の石山本願寺の描写はなかったですね。」

「そういわれれば、石山城内の片隅に、小さな道場があっただけでした。では、オレが幻視した、二度目の周防の巨木が奈良に運ばれた映像は、何だったのですか。」

「1195年、東大寺大仏殿の再建時での映像と考えられます。」

「その2年前、「清和源氏」の源頼朝が、鎌倉に幕府を拓いていますよね。」

「その鎌倉時代も謎が多いのですが、その前の平安時代中期は、もっと謎が多いのです。」

「どのような謎ですか。」

「多くの歴史著述家は、無縁地、公外に多くの貧民が遊行し始めたのが、その平安時代中期からだと述べています。それは、平安時代も半ばをすぎると、唐制の律令国家の崩壊と荘園の変質に伴い、その制度に寄生していた天皇家、公家、寺院の経済的な基盤が大きく揺らぎ始めたのです。歴史著述家は、そのことをもって、天皇家、公家、寺院の庇護の下暮らしていた隷属民は、「公の世界」から無縁地に放り出されて彷徨っていた、と勘違いしているのです。」

「勘違いですか。」

「その原因は、日本人民は、農耕民族だと信じているからです。土地を追われれば、生活基盤を失う、と短略的に思考する結果です。しかし、土地を生活基盤としない移動する民族が、日本語文法の基礎をきずいていた古墳時代以降の400年間、日本列島には多く暮らしていたのです。それらが、海洋交易民族、商業民族、祭祀者・芸能者を含めた各種技術者集団などです。」

つづく


11. 五月晴郎 2014年6月04日 22:00:13 : ulZUCBWYQe7Lk : 2fxlaG0rIg
それに、中世の河原とは、貧民が集まる無縁地などではなく、いろいろな人々が集まる、交易地であったのです。」

「そういえば、藤原日本史の中世史に賎民として登場してくる、神人、犬神人、供御人、寄人、つるめそ等が、天皇家、公家、寺社などに隷属していたとのことですが、それらの人々は、貧民として描写されていますよね。しかし、声聞師や長吏により組織化されていた、とも描写されていますよね。それらの人々は、一体、何者ですか。」

「それらの集団を、史料として提示することはできません。公の歴史書とは、敗者ではなく、勝者側のものだからです。敗者の歴史は、簒奪王権により消されるか、改竄されるか、無視されるのが落ちです。折口信夫氏の著書「日本芸能史」には、「日本の国家組織に先立って、芸能者には団体があった。その歴史をしらべると日本の奴隷階級の起源、変化、固定のさまがよくわかる。日本には良民と浮浪民とがある。そのうかれ人が芸人なのである。」、とあるのです。」

「折口信夫氏とは、あの「常民」の民俗学で有名な柳田國男氏の高弟ですよね。柳田氏は、日本民族学の権威ですよね。すると、芸能民は、浮浪民でうかれ人と、一般人に認識されてしまいますよね。」


「そうですね。」
「「日本の国家組織に先立って、芸能者には団体があった。」、とする折口信夫氏は、その説の根拠とか、史料とかを調べた結果の著述だったのか、問題ですよね。何か、ネタでも持っていたのですかね。」

「私も、その文に引っかかっていたのです。「日本の国家組織に先立って」、とは、一体、「何世紀」を想定しているのかが、分からないのです。」

「藤原日本史では、大和王権は、4世紀、奈良盆地に成立していた、としているから、4世紀以前では。」

「4世紀の奈良盆地は、一雨降れば、湖となる地です。芸能民が、団体として暮らせる地ではないと考えられます。」

「すると、律令国家が出現した「奈良時代」ですか。」

「そのように考えると、奈良時代の以前、唐進駐軍に敗れた、古墳時代のひとびとの一部の技術者が、芸能民として団体を組織していた、と考えられます。」

「藤原日本史では、奈良時代以前は、仏教黎明期の「飛鳥時代」のはずですが。」
「以前にも述べましたように、「飛鳥時代」とは、藤原不比等が、古墳時代を歴史的に消すために創作した年代です。それは、聖徳太子、女帝推古天皇、物部氏、蘇我氏などが、架空の登場者であることで証明できることは、私のレポートで述べたとおりです。」

「すると、その古墳時代の芸能者団体の末裔が、奈良時代に、川筋に河岸施設を建設していた「行基集団」とも考えることが出来ますか。」

つづく


12. 五月晴郎 2014年6月25日 22:27:06 : ulZUCBWYQe7Lk : 2fxlaG0rIg
「以前にも述べましたように、「飛鳥時代」とは、唐(周)の女帝則天武后により、日本列島乗っ取りのため送り込まれた藤原不比等が、古墳時代を歴史的に消すために、「日本書記」で創作した年代です。それは、聖徳太子、女帝推古天皇、物部氏、蘇我氏などが、架空の登場者であることで証明できることは、私のレポートで述べたとおりです。」
「すると、日本列島の北は岩手以南から南は九州まで、巨大古墳、大溝(運河)、大路(古代高速道路)の三点セットの高度土木建設をおこなっていた、古墳時代の芸能者団体の末裔が、奈良時代に、川筋に河岸施設を建設していた、上町台地の北端の岬の内陸港を拠点として活躍していた「行基集団」とも考えることが出来ますか。」
「史料はありませんが、それを否定することは出来ないと思います。」
「奈良時代、行基集団が、猪名川流域を開拓した目的は、何ですか。」
「ひとつには、海外との物流のため。もうひとつには、猪名川流域の地下に眠る資源の産出と考えられます。」
「湿地帯の河内平野に、巨大古墳、大路、そして、運河を築いたのは、古墳時代ですよね。何故、奈良時代では、猪名川流域で、河内平野ではないのですか。それに、その地下資源って、何ですか。」
「砂鉄、金、銀、銅が考えられます。」
「藤原日本史では、金は、対馬国はウソで、陸奥国、そして、銅は武蔵野国で、奈良時代に、初めて発掘されたと述べていますよね。」
「日本列島は、火山国で、多くの断層が存在しているので、野堀などしなくても、地表に鉱物が露出していた地域が多くあったのです。縄文遺跡や弥生遺跡が、伊勢、四国、北九州へ続く中央構造線に沿って多く発掘されるのは、それら時代のひとびとが、地表に露出した鉱物を採取して行動していたことが、示唆されます。古墳時代以前から、その猪名川の上流には、広大な鉱脈が広がっていたことは、川砂に含まれる鉱物により分かっていたのです。」
つづく

13. 五月晴郎 2014年8月10日 13:45:03 : ulZUCBWYQe7Lk : r2hkpE6I9E
「では、何故、藤原日本史では、奈良時代に金や銅が初めて産出、或いは、発見されたと述べているのですか。」

「考えられるひとつは、日本列島では、古代から多くの鉱物が産出され、それを、諸外国の者達が持ち出していたことを、隠蔽するためだと思われます。例えば、銅。日本列島の西日本では、弥生時代、銅鐸や銅矛を多く製作していたのは、カメさんも知っていると思います。銅鐸は、秦帝国では儀式に使われていたようですが、日本列島で製作されたものよりも、超小型です。日本列島製の最大の銅鐸は、1m35cmです。日本列島で製作されたことは、兵庫県赤穂市上高野から、砂岩製の銅鐸の大型鋳型が出土としていることで証明できます。」

「中国製や朝鮮半島製ではないのですか。」

「以前、原料から産地を推定する研究で、銅鐸に含まれる鉛についての測定値から、中国、朝鮮半島の鉛と判明した結果を踏まえ、銅鐸がそれらの国で製作された、と発表されましたが、銅の産地を知る有効な方法は、現在までないのです。」
「すると、やはり日本列島製ですか。」

「その銅鐸が多く出土する地域は、四国の徳島、淡路島、猪名川が流れ込む兵庫県西宮、琵琶湖の南端の近江などです。」

「でも、遣唐使なども、唐から多くの青銅製物品を持ち帰っていますよね。」

「中国は、現在にいたるまで、世界産銅統計上、上位にランクされたことはないのです。それは、中国の古代銅山史跡の報告でも、銅山の規模はそれほど大きなものではないことでわかります。」

「では、その中国製の銅製品の原料は、どこから入手していたのですか。」

「考えられるひとつは、日本列島からです。江戸時代の統計では、元禄10年(1697年)、日本は世界一の銅産出国であったのです。その日本の銅輸出のほぼ半分は、中国向けだったのです。朝鮮半島でも、高麗時代(918年〜1392年)、銅は日本から輸入していたのです。銅山は、一回掘り始めると、長期間採掘できるのです。秋田県鹿角郡の尾去沢銅鉱山では、1200年も掘りつづけていたのです。掘り止めた理由は、鉱石がなくなったのではなく、坑道が長すぎて採算にあわなくなったからです。」

「ナベさんは、行基集団が猪名川流域を開発していたのは、海外との交易だと言いましたよね。何を交易品としていたのですか。」

「古代からの輸出製品は、弥生時代では、祭祀用としての巨大銅鐸や巨大銅矛です。古墳時代前期では、墓に埋葬するための、直径21cm〜22cmの大型鏡の三角縁神獣鏡です。古墳時代後期からは、金銅製の仏像です。行基集団の交易品のひとつは、その金銅製の仏像が推測されます。唐初期では、漢訳仏教が、朝廷により保護されていましたから。そして、仏像は、漢訳仏教のシンボルのひとつですから。そして、「日本書記」の蘇我氏と物部氏との神仏戦争物語では、百済から贈られたとする金銅製の仏像は、灘波の堀江に投棄されたとしています。」

「でも、それって変ですよ。ナベさんは、行基集団は、朋党と組んで活動していたと言いましたよね。朋党とは、反王権の集団ですよね。奈良時代の王権は、漢訳仏教を保護していましたよね。反王権の集団が、金銅製の仏像を製造するのですか。」

「商いには、民族も思想も関係ありません。需要のあるところに製品を持ち込むのが、古代からの商いの基本です。行基集団が、海外交易をする奈良時代以前、紀元前3世紀から紀元4世紀まで栄えた、日本列島で最大規模の弥生村が、奈良盆地の中央に存在していたのです。その証拠が、直径600mの円形で五重・六重の環濠に守られた唐古・鍵遺跡です。その弥生村では、絵画銅鐸を生産していたのです。そして、海のない奈良盆地の唐古・鍵遺跡からの出土の土器には、海洋船や二階建楼閣の絵が描かれているのです。」

「もちろん、それらは輸出品ですよね。どこへ輸出していたのですか。」

「考えられるのは、中国大陸と朝鮮半島諸国です。」

「何故、4世紀までなのですか。」

「奈良盆地は、古墳時代に巨大古墳、大溝、大路の三点セットの土木事業が行われる前、標高60m以下の土地に堅牢な構築物が造られなかったのは、中低位地帯の水溜まりのためだったのです。更に、奈良盆地の西側の生駒山南端と葛城山北端との亀の瀬渓谷では、定期的な地すべりによる土石流の水害により、その唐古・鍵村は放棄され廃村となってしまったのです。更に、その村が放棄されたもうひとつの理由は、唐古・鍵村から5kmほどの纏向が扱う交易品、朱砂、真土が大陸で需要がおこり、絵画銅鐸が見向きもされなくなったからです。その結果、4世紀以降、纏向が海外交易の中心となっていくのです。」

「大陸からの交換品は、何だったのですか。」

「医薬品、布製品、播種用の稲籾、雑貨品などです。それらの舶来品を目当てに、日本列島各地から、纏向にひとびとが集まっていったのです。その海外交易のための港が、住吉津だったのです。その住吉津と纏向とを結ぶのが、大路の磯歯津路、大津道、丹比道の東西の直線三道路だったのです。」

「ナベさんのレポートでは、南北に長く築かれた住吉の港は、海に面していたから、大風や大波の度重なる被害により、上町台地の北端を掘削して、藤原日本史では「灘波の堀江」と言っているようですが、人口運河を造り、そこに内陸式の港を築いたのが、古墳時代後期の6世紀だったのですよね。」

「古墳時代創成期、4世紀、明日香ヤマトよりも早く、河内で試みられた古墳建設や集落・市場の経営を破棄させ、代替の対象地を明日香ヤマトに求めさせた原因のひとつは、亀の瀬渓谷の土石流だったのです。」

「さきほどの話で、音の流れは、古韓音→呉音→漢音、と言いましたよね。すると、古墳が築かれていた時代は、古韓音で、古墳が築かれなくなった時代が、呉音と考えられますよね。呉音は、南朝の音ですよね。上町台地の北端の内陸港は、交易先の南朝の寧波(ニンポー)を真似て造られたのですよね。その寧波の音は、呉音ということは、古韓音を使う民族よりも、呉音を使う民族が経済的に優位になったと考えられませんか。」

「文化は、言葉により伝わりますから、文化を支える経済力を保持した民族の言葉が広く伝わるのは、古今同じです。」

「そういえば、倭の五王も、寧波を目指して船出していましたよね。」

「内陸港は、国際交易に適しているからです。飛行機が発明される以前、物流の主役は、船だったのです。しかし、その船による物流も、外洋船と川舟との構造上違いから、内陸港を必要としたのです。外洋船は、海流や横波からの衝撃を防ぐために、船の背骨、竜骨を必要としたのです。更に、転覆を避けるため、船の重心を低くする必要があるのです。そのため、港は、水深が深くなくてはならないのです。それに対して、川船は、横波など考慮しないかわりに、川の水深が浅いため、船底は平の構造であるわけです。このふたつの構造が異なる船との荷捌きを安全におこなえるのが、内陸港であるわけです。大阪が、古墳時代から今日まで、商業都市でありつづけた訳は、日本列島唯一の内陸港があったからです。」

「その内陸港の支配争奪戦が、古墳時代からおこなわれていたのですね。」

「そうです。その内陸港を支配した者が、日本列島の物流の支配者となれるからです。戦国時代、イエズス会が、大阪秦王国の拠点、石山城の入手を望んだのは、日本列島経済の中心拠点を支配するためだったのです。」

「すると、奈良時代の行基集団が、橋、池、溝、樋、堀、船息、布施屋など、川筋に造っていたのは、外洋船や川船による物流の安全のためだと考えられますか。」
「行基とその集団が歴史上出現してくるのが、8世紀初頭の、新羅系天武天皇が拓いた古代天皇制が、唐進駐軍に間接支配された律令国家として形姿をととのえ、確立された時代です。律令軍は、明日香ヤマトを支配すると、飛鳥大和と改名し、藤原京→平城京へと北進するのです。行基集団の活動地が、河内平野から淀川の西、猪名川流域に移動したのは、軍事力に優る律令軍に追われたからでしょう。」

「でも、藤原日本史では、行基は、貧民を救う仏教僧のような描写をしていますよね。」

「藤原日本史では、宗教関係者は、仏教か神道に集約しています。古墳時代に信仰されていた太陽神や北辰を祀る修験道も、仏教の支配下とされているのです。しかし、日本列島の古墳時代、それらの仏教も神道も存在していなかったのです。存在していたとしても、公の立場ではないのです。それは、古墳時代とは、死者は再生すると信じられ、生前の姿で、土の家=塚に豪華な埋蔵品と伴に葬られていたからです。しかし、それらの仏教思想や神道思想では、死穢思想と触穢思想があるため、死者は地獄谷に放り込まれるか、野焼きにされていたのです。室町時代に成立した三昧聖の行基伝承によれば、聖武天皇の許しを得て、志阿弥法師の加勢があって、諸国に61の三昧が出来た、と云われていました。三昧とは、共同墓地のことです。因みに、阿弥と名の付く人物は、阿弥一族で、反仏教の太陽神信仰民族の末裔です。行基が、純粋な仏教僧でないことは、死穢思想と触穢思想を持っていなかったことからも推測されます。」

「三昧が、墓場ですか。一般に、読書三昧なんて言いますよね。その説明だと、読書の墓の意味になってしまいますよね。」

「三昧の本来の意味は、念仏三昧などといいますが、それは、その念仏に専念している形で、他に想いが届かない、見えない状態で、いわば、専念していること以外、死に体という意味です。」

「奈良時代の漢訳仏教は、鎮護国家を唱えて、死者を埋葬する葬儀などしていなかったのですよね。その施設を、○○テラ(寺)ではなく、○○ジ(寺)と呼んでいたのは、ジとは、役所の意味だからですよね。テラとは、古代新羅語で、死者が眠っている処の意味ですよね。」

「室町時代に、行基は、三昧聖と云われていましたが、奈良時代にも三昧聖と言われていた人物がいるのです。それが、重源です。」


「何をした人ですか。」

「奈良の大像造りに加勢したのが行基で、アラブ系海洋民族末裔の「平家」の平重衡によって焼かれた東大寺の爛れた大像を修復した人物です。修復だけではなく、後白河法皇が院政みずからの力による東大寺再建を企てましたが、院政の力だけでは巨額の費用と資金、技術力を要する再興事業の遂行は不可能でした。そこで、資金を提供したのが重源です。中世中期では、天皇が「院」(イヌ)と呼ばれていたように、貴族も経済的に困難を極めていたのです。」

「藤原日本史では、寺社に隷属する聖は、貧民としていますよね。そのような大金は、どこから入手したのですか。」

「藤原日本史では、遊行する芸能民は、貧民だとしていますが、芸能民は、遊行しないと生活できないのです。それは、交易、行商を生業としているからです。三昧聖の重源のもうひとつの顔は、日宋関係の交通ルートを掌握する勧進聖でもあったのです。文治2年(1186年)重源は、東大寺造営科に周防国にあてる儀が発せられると、周防国に下向して、用材運搬のために、谷を埋め、地を平らにし、大岩を砕いて山道をひらき、谷から谷へと大橋を架けたのです。そして、杣山から伐り出した材木は、河水を利用して、摂津渡辺から泉木津の東大寺に至る淀川へ、そして、木津川筋には、散所がおかれ、それら散所人が艤船という合力によって東大寺の木屋所へと材木を運んでいたのです。」

「重源の土木工事は、まるでローマ帝国軍による、谷は埋め、峠は切り通す一直線の道路工事のようですね。」

「死者追善のために勤修する重源は、その再興資金の確保から、再興事業の経済的基盤ともいえる周防国、備前国、播磨国の経営から、木材の採取・運搬、更に、工事の実際上の指揮や建築様式の考案などもおこなっていたのです。」

「重源は、山の民のボスのようですね。」

「藤原日本史では、律僧を戒律の研究と実践をおこなう仏教の一宗派としています。しかし、遁世の律僧は、石工集団や鋳物師集団を組織していたばかりではなく、木工集団も配下におさめていたのです。」

「それらの集団は、戦争時では、裏部隊となりますね。律僧は、室町時代に一向宗を指揮していた声聞師やバクロウみたいな存在のようですね。」

「中世、それらの芸能民は、殿上人により、オオミタカラ(純粋農耕民)以下と眺められ、特殊な視線を向けていたのです。そのような芸能民を指揮する律僧が、王権に擦り寄る漢訳仏教僧であるわけはない、と考えています。」

「すると、行基も、反藤原氏となった聖武天皇と遇うまで、王権から特殊視されていたのですか。」

「行基が活動していた猪名川は、713年以降の呼名です。その地域に暮らす集団を、「猪名部」と書き、「為奈部」と表わしていたのです。「イナ部」は、「否部」です。つまり、「余部」と同じ、蔑称です。古墳時代、この猪名川流域を支配していたのが、弾左衛門頼兼の租、秦武虎と伝わっています。」

「弾左衛門頼兼って、伝説上の人物ではないのですか。弾左衛門の歴史上の登場は、1590年阿弥一族の末裔である徳川家康が、藤原氏傀儡関白豊臣秀吉により、関東に強制移住させられた時ではないのですか。」

「騎馬民族末裔の秦氏には、藤原氏のような「歴史書」がありません。ですから、これから述べるのは、史料に裏づけされたものではなく、あくまでも伝承です。」
「わかりました。」

「秦武虎の生地は、摂津国川辺郡火打村、あるいは、摂津国豊島郡池田村とも云われています。その両地区は、猪名川(蜷川)を挟み隣接しています。その猪名川は、池田川とも多田川とも呼ばれてきました。そして、川辺郡、能勢郡、豊島郡一帯の旧名は、猪名県と称されていました。猪名川の「イナ」は、「鋳土」、つまり、砂鉄の採れる川の意味のようです。実際、猪名川の上流には、金、銀、銅、鉛を産出する鉱山があったのです。」

「多田鉱山のことですね。豊臣秀吉の天正年間から、徳川時代初期の慶長年間(1573年〜1614年)にかけて隆盛を極めていた、となんかの本に書いてありました。」

「藤原日本史では、中世、「清和源氏」の租となる、多田源氏発祥の地、多田庄としています。しかし、815年嵯峨天皇により編纂された「新撰姓氏録」では、「摂津国の諸藩は、秦忌寸、太秦公宿称同租、功満王の後なり。また秦人という。秦忌寸同租、弓月王の後なり。」、とあります。この摂津国は、古代新羅の移民地であったようです。藤原日本史によれば、この秦郷が、池田に変わったのは、南北朝時代に美濃の豪族池田教依がこの地に入り、城を築いたからだ、と述べています。しかし、その説には疑問符が付きます。史実は、「池」の字に現われます。「池」は隠語で、「刑務所」、つまり、「別所」の意味があるからです。では、誰により「埋けられた」のでしょうか。」

「藤原氏ですか。」

「半分正解です。後に清和源氏となる多田源氏も、歴史上存在できません。源氏は、天皇からの賜姓で、賜姓した天皇名ではなく、支配地の多田を冠に付けて名乗ることはできないからです。「平家」を、伊勢平氏とするのも同じです。多田は、タタラからの転用で、その地では、タタラ製鉄をおこなっていた民族の支配地であったのです。多田源氏は、藤原氏により発明された武装集団名なのです。」

「藤原氏が、多田源氏や清和源氏を発明する理由は、何ですか。」

「多田源氏発祥の多田庄物語は、古墳時代の猪名川一帯を支配していた秦氏である古代新羅民の歴史抹殺です。清和源氏物語は、源氏本流の嵯峨源氏一族の歴史抹殺です。」

「どのようにして、抹殺したのですか。」

「藤原不比等が、日本列島に現れる以前、唐帝国の李世民(太宗)と高宗父子は、歴史書編纂に情熱を燃やしていたのです。つまり、騎馬民族出自の拓跋部父子は、自らの正当性を示すための歴史書編纂であったのです。因みに、唐の通訳(唐史)として藤原不比等を日本列島に送り込んだのは、後の周の女帝となった則天武后は、その父子の共通する皇后だったのです。」

「それ、ナベさんのレポートにありましたよね。」

「藤原不比等は、その唐帝国での歴史書編纂のテクニックを学んでいたのです。」
「どのようにですか。」

「それは、「続日本紀」和銅6年(713年)、「畿内七道諸国の郡郷名は好き字を付け、その郡内の動植物、鉱物の目録、地勢、名称、由緒、来歴を集録して提出せよ。」、と郡司に命じていたのです。」

「古墳時代は、国造がその土地の譜代の豪族で、後、律令国家の成立後は、郡司として、その地方の政治権力を保持していたのですよね。つまり、律令軍に寝返った、古墳時代の豪族が、郡司ですよね。」

「そうです。律令国家では、地方政治は、諸国の首長は中央から派遣された国司ですが、実際の地方政治は、郡司の手にあったのです。」

「713年、その郡司が、地方の歴史資料を、奈良王朝に提出したのですね。その史料を基に、藤原不比等は、日本列島の古墳時代を抹殺する物語書「日本書記」を発明したわけですよね。」

「その史料の中には、当然、古墳時代の民族がいたわけです。秦、百済、高麗(高句麗)、新羅、賀屋、漢などです。しかし、百済、高麗、秦以外の民族・国家名は、後の世にほとんど残っていないのです。中でも、新羅は、いち早く消失し、白、信楽、白木、白国、白子などに替わっているのです。古代新羅からの渡来民である秦氏も、百済王朝の平安時代、公の世界では、秦氏が消え、秦氏は惟宗氏を名乗っていたのです。」

「そういえば、「日本書記」では、百済は友好国で、新羅は憎き敵国として描かれていますよね。」

「そうです。藤原氏にとって、古代新羅からの渡来民の歴史は、抹殺しなければならなかったのです。」

「何故ですか。」

「それは、藤原氏の本拠地と関係があります。」

「藤原氏の本拠地は、ナベさんのレポートでは、南九州の坊津ですよね。後に、その一帯は、島津荘となりましたよね。戦国時代、藤原氏に寝取られた島津氏は、マカオ→マニラ→坊津→種子島→紀州根来寺→堺→京都本能寺のルートで、銃・弾薬を密輸していましたよね。その深堀に囲まれた本能寺は、約200m離れた、日本イエズス会の都拠点の南蛮寺と、地下道でつながっていたのですよね。」

「そうです。明日香ヤマトから、その坊津へ至るのは、陸路ではなく、海路しかないのです。カメさん、この意味分かりますか。」

「藤原氏の租は、海外から渡来した。それも、古墳時代以後に、ですよね。」

「古墳時代には、藤原氏は存在していなかったのです。その古墳時代に活躍したのが、古代新羅から渡来した各種技術集団だったのです。」

「北九州→吉備→大阪ですよね。でも、上町台地北端の運河が掘削されたのは、古墳時代後期の6世紀からですよね。」

「その運河を掘削する以前の拠点が、猪名川河口であったのです。カメさん、神功皇后を知っていますよね。」

「新羅を征服したのですよね。応神天皇の母。」

「その神功皇后の活躍の年代と、卑弥呼の年代とが重なるのを知っていますか。
200年神功皇后、三韓に出兵
239年(景初3年)卑弥呼の使節が魏の首都洛陽に赴く。卑弥呼、親魏倭王に封ぜられる
252年神功皇后52年、百済の使節来朝し、七支刀を献上す
、とあるのです。」

「ナベさんのレポートでは、魏よりの使者は、240年、243年、245年、247年、248年と続けて卑弥呼の国を訪れていた、とありましたよね。神功皇后と卑弥呼との時代的整合性は、どうなってしまうのですか。」

「更に不思議は、神功皇后は、三韓に出兵し新羅を滅ぼした、としますが、新羅の建国は、356年奈勿王からで、馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代は238年からなのです。約百年も時代がズレているのです。」

「「日本書記」の作家は、何を考えていたのか分かりませんね。」

「その神功皇后摂政元年2月の条の「日本書記」に、「皇后の船、直に灘波を指す。ときに皇后の船、海中に廻りて進むこと能わず。さらに務古水門(むこのみなと)に還りまして卜う。」、とあるのです。務古水門とは、猪名川河口の港のことです。更に、「日本書記」応神紀31年8月の条、「武庫浦で諸国から貢納された官船500艘が、新羅船からの失火により消失した。」、とあるのです。」

「神功皇后の船が灘波を目指したといっても、灘波津(上町台地北端のワタ・ナーベ(岬)津を隠蔽するために、713年以降に発明された)の開発は、古墳時代の6世紀ですよね。時代区分がメチャクチャですね。やはり、藤原日本史の歴史改竄テクニックのひとつである、架空の人物による、架空の物語ですか。猪名川の「むこ」の港に、藤原日本史がこだわるのは、やはり大阪の歴史には、隠蔽された謎があるからですか。」

「武庫の泊とは、現在の兵庫県西宮市津門の付近と考えられています。」

「西宮市近辺には、武庫津、武庫川、六甲山(旧名武庫山)がありますよね。西宮とは、どこを視点としているのですか。奈良時代だと、平城京ですか。」

「平城京を視点とすると、武庫の泊は、確かに西方面となります。しかし、その武庫一帯は、朋党の行基集団の支配地なのです。考えられるのは、6世紀に完成の運河を掘削して、内陸港を築いた地、上町台地北端の港湾都市からと考えることも出来ます。」

「ナベさん、伝説上の秦氏の租は、たしか秦武虎といいましたよね。武虎とは、タケトラではなく、ムコとも読めますよね。」

「私も、秦武虎の伝承が語るのは、5世紀、猪名川河口には、川船が500船も係留できる、秦氏支配の国際港があったと考えています。その西宮には、西宮の神社(もり)があります。その祭神は、エビス様(夷)です。エビス様は、一般的に、商売繁盛の七福神のひとりと考えられていますが、古来、足萎え神で、漂海民、産鉄民の氏の上(神)だったのです。因みに、奈良時代に登場する、陸奥国に暮らす騎馬民族末裔の民族を、蝦夷と蔑称するのは、「エビのようなヒゲのあるエビス」の意味です。」

「鉱山簒奪を目論む錬金術師空海の金剛杖の武器で武装する密教軍団に敗れた、山の民の太陽神の祭祀場である古墳を破壊した跡に築かれた古代の神社(もり)は、後に、エビス→夷→イナリ→稲荷と「稲の祭祀場」と改竄された、敵神を封印するための施設ですよね。すると、百済王朝の平安時代、西宮の神社(もり)に封印されたのは、秦武虎で、その末裔が、産鉄、高度土木建築、航海、造船の技術者集団だったのですか。」

「律令軍は、平城京を拠点に、猪名川上流の鉱山の簒奪を計画するわけです。秦氏の勢力が猪名川一帯から一掃されるのは、平安時代末期となるのです。」

「藤原氏の私兵である、多田源氏の出現ですね。」

「多田源氏の素性は、鬼能「土蜘蛛」に語られています。」

「その「土蜘蛛」は、作者不明ですよね。能は、太陽信仰民族である阿弥一族の、荒魂鎮めの芸能ですよね。」

「室町時代レポートに書きましたとおりです。その「土蜘蛛」とは、深い意味があるのです。それは、昆虫のクモなどではなく、「朱を知る山の民」の意味を込めているのです。」

「朱を知る山の民とは、水銀化合物の「朱砂」の鉱脈を知っている民族、ということですね。朱砂は、縄文時代から奈良の宇陀の山奥で採取していたのですよね。その宇陀は、古墳時代では朱砂、奈良時代では朱砂・水銀、平安時代では朱砂・水銀・銀、そして、戦国時代では、西国の山の民の長者であるキリシタンの高山右近が、宇陀の山奥に日本イエズス会の教会を建てたのですよね。その日本イエズス会の真の目的は、キリスト教の布教ではなく、銀鉱山の簒奪だったのですよね。日本イエズス会は、日本と明国との金・銀レートの差額を利用して、大儲けしていたのですよね。織田信長や豊臣秀吉が、銀山開拓したのは、そのためですよね。その織田信長や豊臣秀吉が貯えた莫大な金は、明国へ銀を、日本イエズス会が持ち込んだことによるのですよね。」

「その土蜘蛛が、歴史上に現われるのが、律令国家の奈良時代からです。一般に、万世一系の天皇家支配の大和王権と言っていますが、奈良盆地は、一つの民族だけではなく、多くの民族の興亡により、色々な民族が支配していたのです。律令国家の奈良時代の前、古墳時代では、騎馬民族である突厥進駐軍と、藤原日本史では秦氏としていますが、ギリシャ・ローマ文化継承国の古代新羅の民とにより、奈良盆地は支配されていたのです。しかし、その「朱」を「知る」民族は、奈良時代、侵略軍である律令軍により、近畿一帯の山奥に追われたのです。」

「多田源氏の素性が、鬼能「土蜘蛛」で分かる、ということでしたよね。」

「その鬼能「土蜘蛛」の一文に、源頼光に切られ命を終わろうとする土蜘蛛が、息も絶え絶えに語るのです。「汝知らずや、われ昔、葛城山に年を経る土蜘蛛の精魂なり。なを君が代に障をなさむと、頼光に近づき奉るに、却って命を断たむや。」、とあるのです。つまり、「大和王権の天皇抹殺計画に、源頼光と同行同心(一向衆)したと思っていたが、オノレ、裏切ったな。」、ということです。」

「その話、源頼光の父である、「清和源氏」の租とする、源満仲の話と似ていませんか。」

「多田源氏の最も得意とすることは、権謀術数を縦横に駆使して、権力者に擦り寄ることです。権力者が、最も望むのは、「金やおんな」ではなく、敵対者を抹殺する「口実」(密告)です。源満仲が、出世の糸口をつかんだのは、969年安和の変です。右大臣藤原帥尹と、嵯峨源氏の流れにある左大臣源高明との政争で、中年男の満仲は、源高明に近づき、その言動を逐一、藤原帥尹に報告していたのです。その源高明の言動に謀反アリ、として、日本国での源氏本流である源高明一族は、廟堂を追われるのです。その結果、日本国での源氏本流である嵯峨・醍醐源氏は、歴史上消えたのです。その結果、敵対勢力が廟堂と京の都から抹殺され、藤原氏の世となるのです。」

「そういえば、源満仲が、猪野川上流の多田庄に、多田源氏の氏寺である多田院を建立したのは、天禄元年(970年)、安和の変の翌年ですね。」

「源満仲は、その密告により、六位の左馬助から正五位下に昇進したのです。」

「ちょっと待ってください。源満仲が、源高明を廟堂から抹殺する情報を藤原氏にもたらしたのですよね。すると、多田源氏は、嵯峨・醍醐源氏の敵となるはずですよね。」

「流れから見ればそうなります。」

「しかし、藤原日本史では、丹波大江山での酒呑童子討伐や土蜘蛛退治では、頼光四天王の渡辺綱、坂田公時、碓井貞光、ト部季武の家臣がいたとしていますよね。その渡辺綱は、確か、嵯峨源氏ですよね。源氏本流の嵯峨源氏末裔の、源綱、改め、渡辺綱が、どうして、敵である多田源氏の家臣になるのですか。おかしいですよね。」

「前にもレポートで述べましたが、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代の藤原日本史は、藤原氏、亡命百済貴族、漢訳仏教勢力などにより、改竄・隠蔽されているのです。一部の歴史学者には、室町時代以前の歴史は、歴史ではなく、文学だと述べたひともいるようです。平安時代や鎌倉時代の歴史復元の史料として、「平家物語」や、1180年から1266年までしか記述のない「吾妻鏡」を使用しているからです。それらは、歴史書というよりも、文学作品の範疇にあるようです。庶民が知りたい史実は、多くは語られていませんから。」

「藤原氏は、平安時代初期、錬金術師空海の密教軍団により、淀川系の山背国深草の古墳山を簒奪し、稲荷山(いなり→夷山)とし、インドのひとの肝を食べる女鬼神ダキニの僕「狐」で「秦氏の神」を封じ込め、そして、平安時代中期、出自不明の多田源氏なる武装集団を駆使することにより、猪名川上流一帯の鉱山を簒奪したということですか。」

「秦氏の末裔、行基集団などが開発していた鉱山は、多田源氏勢力により簒奪され、鉱山開発で荒稼ぎしたカネは、藤原摂関家に流れ、その結果、源満仲・源頼光父子は、摂津守に任ぜられ、正四位下まで昇進したのです。平安時代末期、多田源氏に猪名野を奪われた、各種技術者集団の秦氏一族は、表向き散所者として、石清水、賀茂、松尾、祇園などに、陰の勢力を貯えていくのです。その散所者とは、藤原日本史では、摂関家や社寺に属し、運輸、交通の労役に服し、更に、社寺の掃除人、土木作業に従事した、賎民とするのです。しかし、農耕民と異なり、土地を追われたからといって、技術集団である芸能民は、経済的に困窮するわけではありません。人民を法律と罰により租・庸・調で搾取する律令制度が崩壊した中世から、騎馬民族末裔の金ピカ衣装で着飾る騎馬武装集団である悪党が出現する近世にかけて、経済的に困窮していたのは、遊行する芸能民などではなく、即位式の資金調達ができない天皇家、盗賊団に参加する貴族、遊行する行商人に僧衣を貸して生活費を賄う寺社勢力だったのです。」

「何故、藤原日本史では、中世の芸能民は、一律に貧乏だったとするのですか。」
「その原因のひとつは、後世に描かれた絵巻物が、考えられます。一般的に、ビジュアルは、イメージとしてストレートに心に響きますから。しかし、それらの絵巻物は、歴史の真実を語るわけではありません。」

「絵空事ということですね。」

「そうです。中世から出現する芸能民は、集団で遊行することで経済活動をして生活していたのです。遊行する芸能民を貧民とするのは、西国の定着カマド文化人が、東国の遊行イロリ文化人の生活状況を推測した物語なのです。」

「それって、藤原日本史と全く異なる、ナベさん説ですね。すると、多田庄の土蜘蛛とは、秦氏一族だったということですね。その後の、大阪一帯を支配していた秦氏一族は、どうなったのですか。ナベさんは、大阪の歴史と江戸の歴史は、リンクしていると言いましたよね。その根拠は何ですか。」

「秦氏、つまり、古代新羅からの渡来民の歴史は、百済王朝の平安時代に消えてしまうのです。しかし、秦氏一族が、古墳時代から伝承していた、運河の掘削などの高度土木建設技術は、江戸時代まで生き続けていたのです。」

「史料でもあるのですか。」

「秦氏一族は、勝者ではなく、敗者です。当然、歴史書や史料などあるはずはありません。あったとしても、抹殺されるか、改竄されてしまいます。しかし、目に見えない情報(技術)は、抹殺も改竄もできません。それは、それらの伝承は、マニュアル本ではなく、口承により受け継がれていたからです。」

「すると、大阪の歴史と江戸の歴史とがリンクしているとの根拠は、運河掘削などの高度土木建設技術だとするのですね。」

「そうです。江戸の町を拓いたのは、徳川家康です。その徳川家康は、藤原氏の陰謀により、何度も抹殺を謀られていたのです。」

「1563年藤原氏の流れにある蓮如の孫が中心となって、徳川家康の家臣の真宗門徒に檄を飛ばして徳川家康を攻めた三河一向一揆、1582年藤原氏と日本イエズス会の陰謀による織田信長爆殺後に、徳川家康の重臣と伴に堺での暗殺から逃れた伊賀越え、1584年藤原氏の傀儡となった羽柴秀吉軍による、徳川家康軍壊滅作戦の小牧・長久手の戦い、ですね。」

「徳川家康は、後に、平安時代初期に日本列島初の嵯峨源氏源信を棟梁として発足した、反藤原氏の軍団棟梁の源氏長者となったように、日本列島の闇の勢力と密接な関係があったため、藤原氏の陰謀の数々は、徳川家康に事前に知られていたのです。徳川家康を抹殺できなかった藤原氏一族は、戦国時代に最後まで生き続けていた大阪秦王国の歴史抹殺のため、秦氏同族の阿弥一族の流れにある徳川家康を、西国地域一帯から遠ざけて、「夷を以って、夷を制す。」戦略を実行するのです。1590年小田原城を攻め落とし、全国統一を成し遂げた豊臣秀吉は、徳川家康を関東へ移封させたのです。これを、藤原日本史では、小田原城陥落への論功行賞としています。それは、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野、下野の一部におよぶ広大な後北条氏の旧領を与えたからだ、とします。しかし、徳川家康がこれまで領有していた、西国に近い、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の五カ国を取り上げていたのです。」

「藤原氏の陰謀は、湿地帯への移封だけなのですか。」

「それらの関東の新領地には、豊臣秀吉から安堵状を貰っていた、佐竹氏、宇都宮氏、里見氏、結城氏、北条氏、真田氏などの豊臣家臣団により取り囲まれていたのです。豊臣秀吉を傀儡関白とする藤原氏は、徳川家康家臣団を関東に移封すれば、後北条氏五代にわたっての領民が、侵略軍としての徳川家康に対して、必ず一揆おこし、その一揆の押さえ込みに、徳川家康は必ず失敗するであろう、との魂胆があったのです。」

「後北条氏の旧領民は、三河の一向一揆のように、徳川家康に対して行動を起こしたのですか。」

「徳川家康は、藤原氏一族の陰謀の数々を、闇の勢力からの情報提供で避けていたのです。今回も、徳川家康は、藤原氏の陰謀を事前に知っていたのです。そこで、徳川家康は、旧領民との戦闘の準備をするのではなく、荒廃した江戸城の修復をおこなわずに、平川の河口から江戸城に通じる道三堀を掘り、日常生活に必要な水を確保するために、神田上水の工事に着手したのです。そして、行徳の塩を江戸に運ぶために、小名木川や新川を開削したのです。更に、江戸を洪水から守るため、江戸湾に注いでいた利根川を、銚子で鹿島灘に落とす、利根川の東遷事業も開始したのです。」

「それらの、高度土木建設工事を、古墳時代の大阪一帯の運河網を開拓した秦氏末裔の技術者集団が、おこなったのですね。」

「史料としてはありません。しかし、この関東の高度土木建設工事をおこなった中心人物は、わかっています。その名前は、伊那忠次です。」

「イナといえば、奈良時代、朋党の行基集団が、大阪湾に注ぐ、猪名川の河岸施設の土木建設工事や、猪名川上流の鉱山を開発していた、そして、平安時代、出自不明の多田源氏に土蜘蛛とされ猪名野を追われた、秦氏末裔のイナ部一族を連想しますね。」

「伊那忠次は、1549年三河国小嶋に生まれ、土木工事の才能だけではなく、兵糧調達、輸送、道路・橋梁の工事などに優れた組織力を持っていたのです。」

「それって、川筋に沿って土木建設工事をおこなっていた朋党の一向衆を指揮した、奈良時代の行基と同じですね。」

「伊那忠次は、天正10年(1582年)織田信長爆殺後から、天正18年(1590年)徳川家康の江戸移封まで、徳川領国の検地総奉行をつとめ、農民掌握に優れた組織力を発揮し、その情報から、小田原城攻略の先陣を務めた徳川家康軍団は、2万5千余の兵力で、難攻不落の小田原城を攻め落とせたのです。」

「すると、伊那忠次は、風の王国とも繋がりがあったのですね。」

「史料としてはありません。しかし、それらの山の民を統率して、高度土木建設の活動をみれば、否定できないと思います。1590年藤原氏傀儡関白の豊臣秀吉により、駿河、遠江、三河、甲斐、信濃の旧領地から関東の湿地帯に追われた徳川家康の周りには、藤原氏と日本イエズス会により本能寺で爆殺された織田信長に仕えていた産鉄民族の金山衆、古墳時代からの石切技術を持つ穴太衆などの山の民が集結していたのです。それらの山の民は、古墳時代では、日本列島各地に、都市国家を構成していたメンバーと考えられます。」

「奈良時代、唐進駐軍の律令軍に、その都市国家を追われることにより、領地を持てない国、つまり、風の王国の住人となったわけですね。ナベさんのレポートでは、世襲名の弾左衛門は、江戸時代から明治革命後まで続いた、関八州を治めた、「風の王国」の棟梁でしたよね。その弾左衛門は、徳川家康の関東移封時点、初めて歴史上にあらわれたのですよね。弾家の伝承では、弾家の租は弾左衛門頼兼で、その租は、秦武虎でしたよね。その流れは、戦国時代末期、江戸浅草弾左衛門←鎌倉時代、京都から鎌倉に逃れてきた弾左衛門頼兼←古墳時代、大阪湾の猪名川河口を支配していた秦武虎、となりますよね。すると、高度土木建築技術を持ち、山の民を率いる伊那忠次は、秦氏の末裔と考えられませんか。」

「難しいところですね。藤原日本史では、「日本書記」により大阪湾一帯の歴史を、神功皇后などの架空の人物を登場させて、改竄・隠蔽していますから。しかし、考古学では、その流れを否定することはできないと考えられます。」

「どういうことですか。」

「弥生時代、銅鐸が日本列島に出現します。銅鐸は、祭祀道具です。その銅鐸の渡来ルートは、秦帝国→朝鮮半島南端伽耶→北九州→吉備→兵庫→徳島→和歌山、となるようです。20cmほどの銅鐸は、近畿一帯の兵庫、徳島、和歌山で、巨大化したのです。銅は、中国大陸や朝鮮半島では、多く産出しないようです。近畿一帯での巨大化は、銅鉱山と関係があるようです。それは、四国や猪名川上流では、銅を多く産出していたからです。」

「藤原日本史で、「日本書記」応神紀で武庫浦に500隻の船が係留されていた、というのは、銅の輸出のためとも考えられますか。」

「それは分かりません。謎の4・5世紀といわれる日本列島史は、中国側の史料が乏しいのと、朝鮮半島の歴史を基に改竄された「日本書記」の物語で、史実を知ることができないようです。倭の五王時代とは、古墳時代中期で、その頃には、中臣神道の神を祀る天皇家など存在していません。しかし、6世紀、大阪湾に突き出た上町台地北端が掘削され、大運河が築かれ、その河口上流に、中国南朝と同じ内陸型港が築かれたのです。中国南朝の民族が多く渡来していたと考えられるのは、日本列島での漢字の発音が、北方騎馬民族の流れにある古韓音から、南朝の呉音に変化していくからです。経済を支配した民族の言葉が、公用語となるのは、古今同じです。その内陸型港は、藤原日本史では、灘波津と言われていますが、歴史的には、岬の港の意味で、ワタナーベ津と言われていたようです。それは、713年以降、渡辺津と歴史上に現われているからです。」

「その渡辺津は、ナベさん説では、戦国時代末、石山戦争後まで、秦氏末裔が支配していた、ということですよね。その根拠は。」

「上町台地北端は、織田信長が10年間攻撃しても陥落できなかった天然の要塞です。平安時代、アラブ系海洋民族である「平家」の棟梁平清盛は、日本列島の三分の一を支配していたのに、何故、日宋貿易のために、荷捌きに便利な内陸港を支配下に置かなかったのでしょうか。」

「そういえば、兵庫福原の大輪田泊を国際交易港としていましたよね。」

「それに対して、アラブ系海洋民族の平家を追討する、ユーラシアの騎馬民族である源義経軍団は、朋党である渡辺党が支配する渡辺津から出陣していたのです。藤原日本史では、源氏の姓を、日本列島古来のものとしますが、その出自は、北魏の時代、騎馬民族禿髪氏の源賀が初めです。」

「そういえば、源平合戦の物語には納得できないことが多くありますよね。」
「それは、「平家物語」を基礎資料としているからです。室町時代、「清和源氏」の足利氏が、「平家物語」を大切に保護していたのは、「清和源氏」出自のウソがバレのを警戒したからです。」

「そういえば、「平家」と「平氏」をごちゃ混ぜにしている歴史書も多くあるのは、「平家物語」が原因のひとつですか。」

「そこまでは言い切れません。平安時代まで、渡辺津が、秦氏末裔の支配下にあったと推測されるのは、そのことです。そして、鎌倉時代、国際自由交易を推進するモンゴル帝国との交易が盛んであったのは、船場の地下に眠る渡辺村の遺跡・遺物が証明します。鎌倉時代末期から室町時代初期まで活躍した、阿弥一族の交易ルートは、大阪渡辺津→北九州松浦→朝鮮半島・明国です。この秦氏末裔の、太陽信仰民族を束ねる阿弥一族は、金閣寺や110mの塔を築いた、征夷大将軍職を息子に譲り、自ら源氏長者として君臨していた足利三代将軍義満の経済を支えていたのです。」

「すると、戦国時代末期に、上町台地北端の歴史が消されたのですね。」

「藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が、何故、大阪城を築城するのに、約10mも掘り下げたのか。そして、徳川家康が、約10mの盛土をして大阪城を築造したのか、カメさん分かりますか。」

「古墳時代の土木建設事業は、巨大古墳、大溝、大路の三点セットでしたよね。大路の終点には、巨大古墳が築かれていたのは、百舌鳥古墳や大仙古墳で分かりますよね。上町台地北端から、南に向けて幅18mの大路が敷設されていたことは、上町台地北端にも、巨大古墳があるはずですよね。しかし、中小の古墳は確認されているのに、巨大古墳は発掘されていませんよね。」

「巨大古墳は、戦国時代までその痕跡が、上町台地北端にあったのです。」

「豊臣大阪城の下ですか。」

「そうです。豊臣大阪城は、巨大古墳を破壊した跡に築かれていたのです。藤原日本史では、古墳時代の遺跡を消すために、巨大古墳を破壊した跡に、平城京、春日社、平安京などを建設していたのです。」

「そういえば、大阪城で見た豊臣大阪城平面図では、天守閣は後円墳の上に、そして、堀は周濠と相似形のように直感的に感じられました。」

「同行同心の一向衆がいる石山城内の巨大古墳の上に、敵対する漢訳仏教の施設、石山本願寺など建立できると、カメさん、思いますか。」

「そういえば、藤原日本史では、一向衆を一向宗として、浄土真宗本願寺派のように描写していますよね。」

「一向衆では、上下貴賎の区別はなく、四民平等です。もちろん、二次的な集団なので、血統など関係ないのです。しかし、浄土真宗本願寺派は、ユダヤ教の祭祀権を血統で支配するザドク一派と同じように、藤原氏の流れにある日野家の蓮如の血筋で支配しているのです。」

「すると、戦国時代の浄土真宗本願寺派と、石山城内の一向衆とは、関係がない、ということですか。」

「それは、江戸時代、浄土真宗本願寺派が、秦氏末裔の一向衆末裔に行った事績を調べれば、自ずと分かります。まだ確信は得られませんが、浅草弾左衛門一族の租は、浄土真宗本願寺派の暗躍により石山城陥落後、そして、織田信長の爆殺後に頭角を現した羽柴秀吉を裏で操る藤原氏による、士農工商の身分制、兵農分離、66カ国からの国人払いの命により、古墳を破壊した土を盛土にし「船場」とされた、港湾都市渡辺を追われた一族ではないか、と考えています。」

「すると、ナベさんは、朝野新聞の伝聞記事にあったのとは異なり、弾左衛門一族は、鎌倉時代にではなく、戦国時代末期に大阪から江戸に来たと考えているのですね。」

つづく

14. 五月晴郎 2014年8月27日 03:48:10 : ulZUCBWYQe7Lk : r2hkpE6I9E
「子供の遊びに、片足で石蹴りなどする遊びを「ケンケン遊び」などと、東京では言います。その「ケンケン」言葉の発祥地は、大阪です。」

「それが弾左衛門一族が、鎌倉時代ではなく、戦国時代末期に江戸に現われたのと、何か関係があるのですか。」

「現在では、江戸弁と言っていますが、江戸時代初期では、三河弁や河内弁が江戸で話されていた日常語だったのです。その三河弁や河内弁に覆いかぶさるように、関八州から江戸町造成のために来た土木建設作業員の言葉があるのです。江戸弁は、鎌倉時代ではなく、戦国時代末期以降の各国の言葉が混じるハイブリッドなのです。」

「納得するには乏しい説明ですね。」

「カメさん、徳川家康の租の居住地が、群馬県新田だと知っていますよね。」

「徳川家康の素性を調べるために、新田の地にある世良田東照宮に行きましたが。」

「その新田は、太田という地域にあるのです。その太田には、古墳時代中期に造られた関東最大の、二重の堀が張り巡らされた、全長210mの前方後円墳があるのです。更に、律令時代の築造と考えられている、長さ50mの建物が、東西南北に約90mの間隔で建てられている、日本最大規模の天良七堂遺跡があるのです。」

「ナベさんのレポートにありましたよね。」

「その前方後円墳や遺跡を、どのような民族が築いたかは、藤原日本史にはないのです。無いどころか、その古墳時代や律令時代の東国は、野蛮人の蝦夷が棲む地としているのです。そして、その太田(大田)の地名は、日本列島各地に存在しているのです。」

「その太田が、何を解明するのですか。」

「8世紀に書かれた「播磨風土記」の「大田の里」の項に、「大田という由来は、昔、呉勝が韓国からわたってきて、はじめ紀伊の国名草郡の大田村に至った。その後一部が摂津国三嶋の賀美郡に移り、さらに揖保郡大田村に移った。本の紀伊国の大田をもってその名とした。」、とあるのです。日本列島の各地にある大田の地名は、紀氏と関係があるようです。」

「藤原日本史には、文人紀貫之がいますよね。」

「紀氏は、文人を輩出するのではなく、秦氏より前に、朝鮮半島南端から渡来した戦闘集団なのです。紀氏一族は、4世紀から5世紀頃、和歌山県の北部を流れる紀の川河口付近を最大の根拠地としていたようです。その根拠地にある古墳からは、朝鮮半島南端から出土したのと同型の、馬鎧と馬冑が出土しています。」

「秦氏との関係は、どのように説明するのですか。」

「紀氏の痕跡は、紀伊国内はもとより、四国の伊予、讃岐、九州の豊前(秦王国)、中国の周防(行基集団と関係が深い地)、吉備(鬼が島=秦王国)などにあるのです。因みに、713年藤原不比等による漢字二文字で人名、地名を記すことを命令した好字令に逆らって、漢字一文字で氏名を平安時代まで継承していたのは、秦氏と紀氏です。」

「直感ですが、戦闘集団の紀氏とは、秦氏の武装集団である、花郎騎士団ではないのですか。」

「そこまで言い切れるか、自信がありません。しかし、「日本書記」のウソを暴く「古事記」孝元天皇記によれば、孝元天皇の皇子と木(紀州)の豪族ウズヒコの妹ヤマシタカゲヒメが結婚し、生まれたのが建内宿禰(「日本書記」では武内宿禰)で、その建内宿禰には9人の子どもがいた、とするのです。その9人とは、蘇我氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏、若子氏、久米氏、努ノ伊呂氏、秦氏、そして、木氏(紀氏)の租となり、枝分かれした、とするのです。尚、「古事記」を著わした多人長は、「おお」氏なのです。」

「藤原日本史では、「古事記」は712年完成で、「日本書記」は720年完成で、8年しか間がないのに、「古事記」と「日本書記」との登場人物の名前の字が合わないのは、以前から不思議だな、と思っていましたが、「古事記」が812年完成で、反藤原氏の「おお」氏だと分かれば、その謎が解けました。」

「その戦闘集団の紀氏は、秦氏末裔の初代源氏長者源信と同じに、866年平安京の応天門の炎上をめぐる疑獄事件で、一族の長である紀豊城を失い、藤原氏一門の陰謀により、廟堂から駆逐されたのです。ここに戦闘集団の紀氏が消え、残ったのが文人派で、後に、紀貫之が登場するのです。」

「百済王朝の平安時代、戦闘集団の紀氏は、廟堂を支配していた同族の源氏長者の源信と伴に、藤原氏の陰謀により、同時に消されたわけですね。」

「そのように考えられます。」

「すると、徳川家康の租は、秦氏末裔だから、先住民族の紀氏に関係する太田(大田)の新田を居住地にしていたわけですね。その太田にある、藤原日本史に記述もない、巨大遺跡は、交易民族でもある秦氏と同族の、紀氏による築造が考えられますよね。」

「否定はできないと考えます。」

「戦国時代末期、大阪の地を追われた民族と伴に、その太田から江戸町造営の土木建築要員として、多くの民が来たわけですね。その二つの民族は、古墳時代からの高度土木建設技術を保持する同族だからですよね。」

つづく


15. 五月晴郎 2014年9月07日 18:35:11 : ulZUCBWYQe7Lk : mkUjNQ8rVA
「戦国時代末期、大阪から江戸に移住してきたのは、弾左衛門一族だけではなかったのです。」

「誰ですか、それ。」

「海洋民族末裔です。」

「佃の民ですね。江戸前の小魚で佃煮を作っていましたよね。」

「藤原日本史では、そのように佃の民を、ただの漁労民と記述しています。しかし、1590年徳川家康と伴に移住した佃の民33名の実態は、江戸湾の治安維持のための海上偵察が任務だったのです。」

「どういうことですか。」

「徳川家康は、豊臣秀吉を傀儡関白とする藤原氏の、江戸移封の陰謀を知っていたからです。カメさん、日本列島の歴史図を手元に置いてくれませんか。」

「はいはい。置きました。」

「徳川家康の新領地を中心に、豊臣秀吉の家臣団の所領を色鉛筆で塗りつぶしてください。」

「徳川家康の新領地は、豊臣秀吉の家臣団に取り囲まれていますね。空いているのは、江戸湾だけですね。豊臣秀吉軍が江戸湾から襲撃してきたら、徳川家康軍団は、護る術はないですね。」

「江戸の物流の主は、隅田川です。この隅田川河口を、豊臣秀吉軍に押さえられてしまえば、江戸の経済は壊滅します。大阪秦王国が、イエズス会傀儡大将の織田信長の兵糧攻めをかわして、10年間も存続できたのは、淀川河口の台地にある石山城が護る内陸港を支配していたからです。徳川家康は、その隅田川河口の砂州に百間四方の土砂を埋め立て拡張し、島としたのです。もちろん、漁労のためではなく、軍事施設として、海上の偵察を任としたのです。海上偵察者を漁民姿としたのは、庭師を間者(密偵)としたのと同じ発想です。その偵察者の元の居住地が、摂津国佃村(大阪市西淀川区佃)だったので、その軍事島は、佃島と呼ばれていくわけです。」

「佃は、佃煮の発祥地だと、藤原日本史は述べるだけだけど、ナベさんの説では、戦国時代末期には、キナ臭い物語があったのですね。」

「古墳時代では、大阪の摂津国は、秦武虎の伝承があるように秦氏の居住地だったのです。奈良時代では、一向衆の行基集団が猪名川一帯で治水工事や河岸を補修していたのです。阿弥一族末裔の徳川家康が、摂津国の住人を海上密偵として江戸防衛の任に付かせることができたのは、徳川家康が、日本列島に散在する、藤原氏の私兵である「清和源氏」ではなく、日本源氏本流の嵯峨源氏・醍醐源氏の棟梁である源氏長者だったからだと考えています。」

「すると、1600年関が原の戦いは、西国の「藤原氏+亡命百済貴族末裔軍団」対東国の「秦氏末裔+騎馬民族末裔軍団」との戦いとも考えられますか。だとすると、古墳時代末期の「近江亡命百済王朝軍」対「新羅+明日香ヤマト残党軍」の再来で、第二次壬申の乱ですね。」

「そこまでは言切れませんが、それに近い戦だったと考えられます。その徳川家康軍団の布陣、そして、戦い方から、ユーラシア大陸を支配していた騎馬民族の戦闘形態が見て取れます。」

「どういうことですか。」

「この関が原での戦いの布陣は、図面として残されています。その布陣図面からは、西軍は鶴翼の陣で布陣しています。それに対して、東軍は魚鱗の布陣です。」

「何ですか、その鶴翼の陣、魚鱗の陣って。」

「藤原日本史では、鶴翼の陣とは、鶴が羽を広げた形態で、中央に司令部、そして、左翼と右翼の三陣に別れて布陣する、と説明しています。そして、魚鱗の陣とは、魚の鱗のように、多くの分団が、中央の司令部を護る布陣が、魚の鱗の形態を表しているから、との説明です。」

「それって、日本独特の布陣形態ですか。」

「ユーラシア大陸での草原での戦いで、機動攻撃力のある騎馬民族が編出した布陣形態です。騎馬民族スキタイの騎馬戦技術を継承した匈奴は、北から漢帝国軍団と対峙した時、この鶴翼の陣により、漢帝国軍団を蹴散らしていたのです。その闘い方は、南面する匈奴軍団の最初の攻撃は、左翼軍団です。太陽が東から昇るから、夜明けと同時に、左翼軍団が攻撃を仕掛けるのです。それに対して、一塊の漢帝国軍団は、その東側からの攻撃に防戦するために東側の軍団が移動します。すると、漢帝国軍団の軍列が東側を向くと、対峙していた匈奴軍団の右翼軍団が、西側からその背後を攻撃します。この匈奴軍の右翼軍団を防衛するため、漢帝国軍団の西側が移動します。こうなると、一塊の漢帝国軍団は、東側と西側に分裂します。その間を、匈奴軍団の中央部が突撃攻撃することにより、漢帝国軍団は壊滅状態となるわけです。この闘い方は、騎馬による迅速な行動と、左翼、右翼、中央部との密接な連携が必要です。その合図に使われたのが太鼓です。陣太鼓といわれていますが、騎馬民族軍団の戦いから派生したものです。」

「すると、関が原の西軍は、鶴翼の陣だから、騎馬民族の流れですか。」

「それは違うようです。布陣形態は、騎馬民族の布陣ですが、闘い方を調べると、騎馬民族の闘い方ではなかったのです。左翼軍団と右翼軍団との連携が機能していなかったからです。それは、中央部の指令者の石田三成が、騎馬民族の流れにある人物ではなかったからだと考えられます。それに対して、魚鱗の陣の徳川家康軍団は、鱗の分団が、西軍の左翼、右翼の軍団に戦を仕掛けると、その波状攻撃に西軍の布陣が乱れると、徳川家康の家臣団で構成した中央部が、突撃攻撃をしたことにより、西軍は壊滅状態となったのです。」

「その騎馬民族の戦い形式は、日本列島にいつ頃に伝えられたのですか。」

「伝聞によりますと、日本列島での400年間の古墳時代を終焉させた、唐帝国の進駐軍である律令軍が西国を支配する奈良時代、蝦夷が支配する陸奥国の砂金を略奪するために、律令軍団の歩兵部隊が、草原で三騎の蝦夷と遭遇したのです。その三騎は、無言のうちに左翼、右翼、中央部に分かれ、その律令軍を囲むと、左翼が攻撃を仕掛け、律令軍の陣形が乱れると、右翼が攻撃することにより、律令軍は二つの塊に分裂すると、残っていた中央部がその間を突撃攻撃したことにより、律令軍団は壊滅し、その蝦夷の三騎は悠々と引き上げていった、とのことです。」

「やはり、東国の徳川家康軍団は、日本列島の古墳時代の400年間を支配していた騎馬民族の流れにあったのですね。」

つづく

16. 2014年9月22日 00:55:27 : mkUjNQ8rVA
「史料では証明できませんが、徳川家康の租の支配地であった新田の歴史を遡ると、騎馬民族の世界が現われてくるのです。」

「どういうことですか。」

「徳川家康の霊が眠る世良田東照宮は、太田の地にあります。その太田は、群馬県にあります。カメさん、「群馬」をどのように読みますか。」

「「ぐんま」、です。」

「「群馬」は、江戸時代まで、「くるま」と読まれていたのです。」

「本当ですか。」

「では、「倭」、「大和」、「日本」、の共通する読み方は何ですか。」

「簡単です。「ヤマト」です。」

「多くの歴史本には、そのように読ませています。しかし、その「ヤマト」の漢字表記は、呉音でも漢音でもないのです。万葉語では、「ヤマト」を、「大養徳」と表記していました。呉音でも漢音でもない漢字を、何故、「ヤマト」と発音するのでしょう。実は、「群馬」を「くるま」と読ませるのは、「くるま」の言葉に、後から、漢字の「群馬」を被せたのです。「ヤマト」も同じです。」

「すると、漢字表記民族の前に、「くるま」を使っていた民族が、群馬県にいたのですか。」

「群馬地域は、古代では、上毛野と呼ばれていました。しかし、律令政権の奈良時代、和銅6年(713年)、藤原不比等が支配する奈良律令王朝は、各地の騎馬民族が支配者であった古墳時代からの歴史を消すために、地名や人名を「良い字で二文字」に改めるように命令したのです。この命令により、群馬県地域の名は、「上毛野国」から、「上野国」(こうずけのくに)に改称されたのです。」

「中国の王朝名や姓は、「漢」、「隋」、「唐」、そして、「元」や「源」のように漢字一文字ですよね。それに対して、騎馬民族国は、漢字二文字の、匈奴、柔然、高車、鮮卑、突厥ですよね。中国王朝は、漢字一文字で、蛮族は二文字ですよね。すると、唐進駐軍に支配された漢字二文字の地域は、蛮族の地というわけですか。」

「文献史料歴史学者は、ある仮説に対して、史料の提出を要求するようです。しかし、史料に書いてあるだけでは、歴史を再構成することはできません。それは、史料には、順番と序列とがあり、利害関係によって史料の内容が改変されている可能性が否定できないからです。では、どのように歴史を再構成すればよいかは、時間軸と空間的広がりに加えて関与する政治勢力の利害ごとに整理し、多面的に考える必要があります。」

「ナベさんのレポートで学んだことは、日本列島史を、ユーラシア大陸の空間から眺めること、そして、東アジアの国との時間軸で眺めることです。そのことから、藤原日本史が述べる、「飛鳥大和王権」の虚構性がわかりました。」

「時間軸から上毛野地域を眺めると、異民族との交流と抗争が考えられます。上毛野地域は、大きく分けて、太田地域、前橋地域、高崎地域に分けられます。4世紀では、前方後方墳が多く築かれていました。しかし、5世紀になると、前方後方墳が消え、前方後円墳が築かれていくのです。その5世紀の太田地域では、東日本最大の前方後円墳である太田天神山古墳が出現するのです。しかし、6世紀には、巨大古墳が築かれなくなり、7世紀には、小さな円墳や方墳が築かれていくのです。」

「ナベさんのレポートでは、円墳は朝鮮半島南端の古代新羅の墓制で、方墳はユーラシア大陸の道教思想を持つ騎馬民族の墓制ですよね。すると、上毛野地域には、4世紀に、ユーラシア大陸からの騎馬民族が渡来して、5世紀には、古代新羅からの民族が渡来した、と考えられませんか。そして、7世紀には、異民族により、先住の騎馬民族は、その地から駆逐、もしくは、支配された、とも考えられますよね。」

つづく


17. 2014年10月07日 09:12:52 : mkUjNQ8rVA
「5世紀の上毛野地域一帯の古墳から、韓式系軟質土器が集中的に出土していることから、古代新羅からの渡来が示唆されます。」

「そういえば、4世紀、和歌山の紀ノ川一帯を支配していた紀氏の居住地名は、大田でしたよね。5世紀、群馬県の太田に、韓式系軟質土器を伴って、秦氏と同族の紀氏が渡来したと考えられませんか。」

「この群馬の古墳時代の歴史も、大阪上町台地のように、藤原不比等の「日本書記」により消されているようです。」

「証拠でもあるのですか。」

「確定証拠ではありませんが、藤原不比等の出自や幼年期の物語が不自然なのです。まず、藤原不比等の母を、車持氏の娘としていることです。」

「何ですか。その車持氏とは。」

「藤原日本史の説明では、車持氏とは、「くるま」の地を支配した民族とするのです。古墳時代から奈良時代まで、榛名山東南麓一帯は、「くるま」の地名で呼ばれていたのです。それは、藤原京(694年〜710年)の発掘で出土した木簡に、「上毛野国 車評 桃井里 大贄」、と書かれていたことから、上毛野国に、「くるま」の地名があったことが分かります。しかし、713年、上毛野国が上野国に替えられたのと同じに、車評(くるまのこおり)から群馬郡(くるまのこおり)に改称されるのです。」

「それって、車持氏の出自の説明になっていないようですが。」

「藤原日本史の説明では、車持氏の姓は、5世紀後半、雄略天皇が乗る輿を献上したため、「車持」の姓が与えられた、としています。」

「ナベさん説では、672年即位の天武天皇以前の天皇は、架空の天皇ですよね。それに、その藤原日本史の説明、変ですよ。輿は、担ぐもので゛、車輪など付いていませんよね。輿と車とは、別物ですよね。」

「「くるま」という地名や「車持氏」という姓があるのに、奈良時代より前、日本列島では車輪の付いた乗り物の遺物は、確認できていないのです。」

「前から疑問に思っていたことを思い出しました。日本列島を縦断するように、幅広の直線道路を、何の目的で敷設したのか、ということです。平均幅12mですが、上町台地から南への大路の幅は、18mですよね。この道幅は、現在の国道の幅と同じですよね。」

「中央高速道路の談合坂SA建設時で発掘された古代道路の幅は、48mと言われています。現在の高速道路の多くは、古墳時代の高速道路の上に造られたようで、遺跡や遺物が発掘されると工事がストップしていまうので、隠蔽された遺跡や遺物が多くあったと思われます。」

「そういえば、オレが何かで取材の時、偶然、上野から赤羽地区の新幹線敷設工事をしていた人と雑談したことを思い出しました。地質調査で、武蔵野台地沿いには、多くの遺跡や遺物が確認されたそうです。工事が遅れるから、隠蔽したそうです。」

「藤原不比等の話に戻します。藤原不比等の出自物語では、幼少の頃、田辺史氏の家で養育された、とするのです。田辺氏は、中国からの渡来人です。その田辺史氏は、後に、上毛野氏に姓を替えているのです。平安時代に著わされた「新撰姓氏録」によれば、車持氏は、群馬県地域出身の有力貴族上毛野氏と祖先が同じだ、としているのです。」

「その説明も変ですよ。上毛野氏の出自の説明は、「日本書記」崇神天皇48年にありますね。それによると、天皇が跡継ぎを兄弟の誰にするかで迷っていた時、皇子の豊城命と活目尊に夢を見させた、とするのですよね。兄の豊城命は、御諸山(三輪山)に登り東を向いて槍を八回振い、刀で八回打つ夢を見た、というので、天皇は豊城命に東国を治めさせた、とするのですよね。その豊城命が上毛野君、下毛野君の始祖である、とするのですよね。」

「確かに変です。上毛野の「毛」の意味は、野蛮人の意味があるからです。農耕民族による歴史書では、「毛」を付けた民族の多くは、騎馬民族ですから。藤原日本史では、上毛野氏の実態を消したがっていたようです。それは、天平勝宝2年(750年)田辺史灘波が上毛野君の姓を賜った後、弘仁元年(810年)上毛野朝臣を称することを朝廷から認められることにより、北関東を支配していた上毛野氏の実態が、やがて消えてしまうのです。その田辺史灘波は、出羽国守として、兵や蝦夷を引率して、大室駅に、陸奥按察使大野朝臣東人を出迎えているのです。陸奥按察使は、奈良時代から明治時代にかけて存続した、藤原氏の支配下にある役人です。」

「ほかに何か、上毛野を知る手がかりはないのですか。」

「5世紀後半から6世紀前半にかけて、上毛野の「くるま」の地では、馬の生産、飼育、管理、が実行されていたことが遺跡から分かります。その遺跡には、轡などの馬具を作るための金属加工房などの巨大施設を持った「牧」もあります。そして、奈良時代前期、神亀3年(726年)高崎市山名町の丘陵中腹に、金井沢碑が建てられたのです。その碑の文面から、「くるま」の地は、氏族関係が女系であったことが分かります。」

「奈良時代も、平安時代は皆無なのに、女系天皇が多くいましたよね。」

「騎馬民族の氏族関係は、女系なのです。役座の姉さんが、死去した親分の跡目を継げるのは、役座の租は、騎馬民族であるからです。」

「すると、「くるま」の地がある上毛野は、古墳時代は騎馬民族の支配地だったのですよね。」

「毛野(ケノ)には、野蛮人である「騎馬民族の草原」との意味が込められている可能性があるようです。この上毛野の「くるま」には、5世紀後半(古墳時代中期)、国内最大規模の館跡、幅30mの堀のなかに、一辺86mの内郭が構えられている、が発掘されています。それが、三ッ寺T遺跡です。」

「5世紀後半といえば、倭の五王の武が、478年宋に遣使していましたよね。藤原日本史では、倭王武は、雄略天皇としていますよね。」

「この上毛野国にある三ッ寺T遺跡は、碓氷坂から関東平野に入る経路の喉元の位置に造られているのです。カメさん、古代道路の地図を手元に置いてくれませんか。」

「一度もオレの部屋に来たこともないのに、オレの机に散乱するネタ史料のことをよく知っているようですね。」

「カメさんの歴史知識から、だいたいのネタ書籍は推測できます。」

「置きましたけど。」

「北陸道から信濃へのルートを色鉛筆でなぞってください。そして、信濃から東山道の碓氷坂から上野そして、新田から下野までのルートをなぞってください。」
「ナベさん、新田から武蔵に南下すると東海道に繋がりますね。東海道を相模から西に向かうと足柄坂に至りますね。」

「カメさん、私が意図したことが分かったようですね。」

「「日本書記」の日本武尊の東国平定物語ですね。「古事記」では、倭建命ですね。日本武尊は、碓氷峠まで平定した、とするのですよね。しかし、倭建命では、足柄峠までですよね。時代的には、日本武尊は、景行天皇の皇子とするから、藤原日本史では、71年景行天皇即位、130年景行天皇崩御としているから、弥生時代末期ですか。東国平定物語は、「日本書記」と「古事記」との、どちらが正しいのですか。」

「「古事記」は、平安時代初期に、百済系桓武天皇により、百済王朝史を基にした物語を挿入し改竄された「日本書記」の物語を否定するために、812年、万葉語学者で「日本書記」の講釈で身を立てていた、秦氏末裔の多人長により著わされたものです。ですから、その二つの東国平定物語は、どちらも正しくはないと考えています。日本武尊の東国平定ルートは、武蔵から上野を抜けて、碓氷峠を通り、東山道を西に向かった、としています。上毛野の騎馬民族の歴史を消したい藤原不比等は、「日本書記」の日本武尊の物語で、古墳時代以前から上毛野は、大和朝廷が平定していた、と図ったのです。この上毛野の古墳時代の歴史を知られると、女帝推古天皇、聖徳太子、蘇我氏、物部氏が活躍する飛鳥大和の歴史物語のウソがバレるからです。」

「どういうことですか。」

「5世紀中頃(古墳時代中期)に築かれた太田天神山古墳からは、長さ3.3m以上と推定される長持形石棺が出土しているからです。藤原日本史では、その石棺は大王の位の人物の石棺である、と説明しています。5世紀半ばとは、藤原日本史では、倭王武より前の、倭王済か倭王興の時代です。すると、さいたま県行田の稲荷山古墳から出土の鉄剣が、その当時の東国は未開の地だから、奈良盆地の大和の倭王武(雄略天皇)から賜ったものである、とする物語が崩壊するからです。その太田天神山古墳の長持形石棺から、古墳時代の東国は、奈良盆地の勢力により隷属されていたのではなく、少なくとも、同盟関係にあったと推測されます。」

「その太田が、群馬秦王国の所在地とは考えられませんか。」

「527年、朝鮮半島南端から、漢訳仏教の受容を拒否する6ヶ国連合のギリシャ・ローマ文化継承国の古代新羅民が、日本列島の北九州に武力侵攻した、と考えていますから、太田が群馬秦王国の地とするには、100年位早いと思います。しかし、古代新羅の先遣隊が太田地域に存在していたことは、古代新羅系の土器が、太田の古墳群から多く出土していることから、否定はできないと考えています。」

「群馬秦王国の地は、未だ、不明ですか。でも、徳川家康の話から、ずいぶん昔の話になってしまいましたね。」

「藤原日本史では、奈良時代まで、東国は蝦夷の棲む未開の地としていますが、東国で古墳が一番多いのは、上毛野です。古代上野国の中心であった群馬郡(くるまのこおり)は、国府や国分寺といった重要遺跡が集中していますが、4世紀に大和朝廷が存在し、飛鳥大和を中心に日本列島に文化がひろがった、とする藤原日本史的に、上毛野の遺跡・遺物・史料を読む限り、ふつうの諸国の国府所在郡に比較すると、何故か理解しにくいのです。」

「ナベさんの言わんとする意図がつかめません。」

「群馬郡の「くるま」は、藤原日本史が述べているように、本来車持氏のような氏族名に由来する地名なのではなく、何処からか渡来した王権の地方進出に関るより直接的、象徴的な命名ではないか、ということです。」

「その「くるま」を具体的には。」

「4世紀から5世紀にかけて、南宋の絹を求めて、ユーラシア大陸から日本列島の日本海海岸に、渡来した騎馬民族の高車です。」

「何ですか。その高車って。」

「騎馬民族の蔑称の多くは、漢民族の歴史家が名付けました。その高車もそうです。騎馬民族高車は、移動を幌馬車でおこなっていたことから付けられた部族名です。歴史上に現われたのは、4世紀半です。当初、騎馬民族柔然に隷属していたのですが、508年弱体化した柔然を破るのです。しかし、ユーラシア大陸の草原地帯を支配し、東ローマと絹馬交易をしていた柔然に、鍛鉄製造技術者として隷属していた突厥が、552年突厥帝国を興すと、その突厥に隷属するのです。その突厥帝国では、柔然と行動を伴にしていた、東ローマ帝国と中国諸国とを行き来していた国際交易商人ソグドが活躍していたのです。」

「突厥といえば、ナベさん説では、6世紀半から明日香ヤマトを支配した騎馬民族ですよね。北陸から明日香ヤマトに進行した、突厥進駐軍の日本列島支配の歴史を消すために、藤原不比等が創作した人物が、謎が多い継体天皇ということですよね。その突厥進駐軍により、日本語文法の基礎となる北方騎馬民族のウラル語が、日本列島各地に築かれていた巨大前方後円墳のある地とを、交易・軍事のため幅広の直線道路網のルートでつないだことにより広まった、とするのですよね。北陸道の越後→東山道の信濃(トルファン)→碓氷坂→上毛野→太田の北関東平野→砂金産出の陸奥、のルートですよね。」

「日本列島では、明治革命後までは、60余国の各地の民の「ことば」は通じていなかったのですが、日本語の文章では古来から意思が通じていたのです。それは、西国と東国とが分断されていなかった古墳時代に、騎馬民族が日本列島の各地を交易や軍事のために行き来し、ウラル語を万葉語である漢字アルファベットで表記して交易をしていたからだと考えられます。」

「5世紀の各地の古墳からは、それ以前の祭祀道具と異なり、実戦用の鉄器武器や馬具が出土していることから、日本列島で広範囲に騎馬戦闘がおこなわれていたのですか。」

「上毛野地域の5世紀から、4世紀まで築かれていた前方後方墳が、前方後円墳へ代わっていったのは、異民族・異部族との摩擦が示唆されます。」

「すると、徳川家康の闘い方は、その頃の古墳時代の戦陣の流れにあるわけですね。」

「戦国時代の東国では、騎馬民族の闘い方が継承されていたようです。徳川家康軍団は、騎馬民族の戦陣で、イエズス会と藤原氏による織田信長と徳川家康同時暗殺に失敗した後、1584年小牧・長久手の戦いで、イエズス会の傀儡棟梁となった羽柴秀吉の大軍団を、鶴翼の陣で蹴散らしていました。しかし、1573年東国の武将武田信玄との三方ヶ原の戦いでは、徳川家康軍団は大敗していたのです。それは、数が少ない徳川家康軍団は、鶴翼の陣を布いたのですが、武田軍団は魚鱗の陣で待ち構えていたのです。徳川家康軍の左翼軍団が戦闘を仕掛ける前に、徳川家康中央軍を、武田軍団の魚鱗の陣で総攻撃されたことにより、わずか2時間の戦闘で甚大な被害が出たことにより、徳川家康軍団は敗走していたのです。」

「武田信玄は、徳川家康の戦術を知っていたのですね。」

「武田軍団の闘い方の特徴のひとつは、戦闘の合図を、太鼓ではなく、狼煙でおこなっていたのです。山地では、太鼓の音が聞こえないからです。通信に狼煙を使うのは、ユーラシアの草原を支配していた騎馬民族軍団です。広域では、太鼓の音が届かないからです。武田軍団が、ローマ帝国軍の流れにある花郎騎士団の影響があると考えられるのは、家紋の四つ割菱に、裏シンボルとして「十字の文字」があるからです。十字は、マルタクロスで、太陽信仰民族のシンボルです。」

「確か、弾左衛門と島津氏の家紋にも、十字がありましたよね。弾家も島津氏も、伴に秦氏末裔ですよね。その秦氏は、古代新羅からの渡来民族ですよね。その古代新羅の軍団が、花郎騎士団ですよね。藤原日本史では、紀氏としていましたよね。」

「徳川家康が騎馬民族の流れにあると考えられるのは、戦陣だけではありません。平和時での統治の仕方が、騎馬民族の流れにあるのです。」

「どういうことですか。」

「1615年大阪夏の陣により天下を統一した徳川家康は、将軍職を1605年息子の徳川秀忠に譲っていたのです。徳川家康は、1603年征夷大将軍に任命されていたのですが、源氏長者として振舞うためです。室町時代初期、秦氏末裔の阿弥一族に経済的支援を受けていた足利義満が、息子に征夷大将軍を譲り、自ら源氏長者となったことと同じです。この源氏長者となったことにより、日本列島の山地に暮らす、源氏本流の山の民を命令指揮できるからです。しかし、藤原日本史では、1605年息子の徳川秀忠に征夷大将軍を譲り、駿河国駿府城にて隠居していた、とするのです。」

「隠居の徳川家康が、大阪冬の陣、夏の陣を軍事指揮できるわけないですよね。」

「徳川家康は、源氏長者として、駿府で軍事指揮をおこなっていたのです。騎馬民族の租スキタイは、各種異民族・異部族を安全な囲い地に住まわせ、司令部は草原の幕屋(テント)に置いていたのです。」

「すると、徳川家康は、家臣一族やその郎党を、安全な江戸町に住まわせ、司令部は駿府に置いていた、と考えるわけですか。すると、江戸幕府の司令部が駿府にあったということは、ユーラシア草原を支配していた騎馬民族の流れに徳川家康がいたわけですね。」

「そのように考えています。ところで、カメさん、この騎馬民族の歴史レポートも、この江戸時代で、一時中止となります。」
「明治時代までいかないのですか。」

「ふたつ理由があります。ひとつは、私的なものです。私事ですが、研修のため海外出張となるからです。もうひとつは、明治時代の騎馬民族の史料が思うほど集められなかったからです。明治革命後、13代弾左衛門が、矢野氏に変名したことにより、その一族の歴史も明治の世に消えていったからです。」

「そうですか。分かりました。長い間オレの変な質問に答えてくれて感謝しています。オレ、ナベさんのレポートを再読して、独学で騎馬民族日本史を極めてみたいと思います。何かの機会に、又、チャットできることを願います。」

「こちらこそ。では。」

「さようなら。」

オレは、しばらくの間、OFFのパソコン画面を眺め続けていた。


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