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神輿の黙示録(24)(多民族国家ニッポンの行方:ザ・ファイヤー・ネクストタイム)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/852.html
投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 11:14:43: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(23)(明治政府はイギリス東インド会社の傀儡政府だ:夷を以って夷を制す) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 11:08:07)

明治革命が成功すると、その革命を影で繰っていたイギリス東インド会社(ジャーディン・マセソン商会・グラバー商会)は、その明治革命の目的のひとつである、日本産の「絹」を日本国から合法的に、そして、大量に持ち出すために、1872年フランス人が設計し、横浜の赤レンガ倉庫と同じに、赤レンガで造られた富岡製絹場を開業していたのです。
この富岡製絹場建設時期は、北海道の函館五稜郭で、江戸幕府軍残党の新撰組副長土方歳三が、官軍相手に最後の戦いをしていた時期なのです。
江戸時代末期では、イギリス国際商人は、群馬県や埼玉県の絹を、幕府の目を逃れるため、裏街道のシルクロードにより、赤レンガ倉庫がある、そして、フリーメーソンのロッジがある横浜まで、人の背や牛・馬により運んでいたものが、明治革命により、イギリス傀儡の明治政府が1868年に発足すると、1872年には新橋横浜間に鉄道を開通させ、1877年には東京横浜間に電話を開通させ、その汽車で堂々と、富岡製絹場で奴隷状態の女工が生産する絹製品を、横浜港からイギリスやヨーロッパに運んでいたのです。
横浜新橋間の鉄道建設完成には、数年の歳月が必要です。その鉄道が1872年完成ならば、その計画と建設工事は、それよりも前であったわけです。それが、例えば、四年前だとすると、1868年明治革命が成功する、鳥羽伏見の戦闘中であったことが示唆されます。
つまり、江戸城無血開城物語の裏には、新橋横浜間の鉄道建設を画策するイギリス東インド会社の暗躍があったのです。そこで、江戸死守を標榜する幕府軍残党の存在が、鉄道建設工事の邪魔となるのです。そこで、明治革命軍に内通している勝海舟の部下である榎本武揚の船に、幕府残党軍の主力戦闘部隊である新撰組の副長土方歳三等を乗せ、北海道函館の艦砲射撃に耐えられない五稜郭で、殲滅さたのです。その最中に、鉄道建設工事がおこなわれ、1872年横浜新橋間の鉄道線路が開通したのです。
明治革命が決着がつかないうちに、群馬県での大規模製絹場の建設と、それを、横浜まで運搬するための鉄道線路を、計画し、そして、それらを建設した莫大な「建設資金」は、一体誰により調達されていたのでしょうか。
明治革命後、イギリス商人の手先となった日本人商人は、その利益を更に増やすために、国立銀行を設立するのです。国立銀行と言っても、日本国政府の銀行ではなく、国に許可された「お金の紙」を発行できる私設銀行であったのです。
その日本国初の国立銀行の創立は、1872年渋沢栄一が、両替商の三井組と小野組を参画させた、東京第一国立銀行です。両替商三井は、東京第一国立銀行の儲けぶりを確認すると、1876年三井銀行を創立するのです。日本国内には、富岡製絹場や横浜新橋間鉄道線路が完成する1872年以前には、「銀行」が存在していなかったのです。
「お金」その物には、元々価値はないのです。その「お金」に価値を付けるのが「信用」です。その「信用」の裏づけにより、三井銀行は紙幣(印刷された紙)を発行するのです。つまり、ただの紙切れに三井銀行が発行しました、と印刷した紙切れは、三井銀行の「信用」により、世間に「お金」として流通していくのです。
この紙幣のマジックを見た、欲深な商人達は、安田銀行など次々と国立銀行を創立していくのです。国立銀行は、政府が許可を停止するまでの三年間で、第百五十三銀行まで設立されていたのです。そして、第十三部族のイギリス商人に支配された薩摩藩の日本人商人も、1882年株式会社日本銀行を設立するのです。
その結果が、各国立銀行の各紙幣が巷に氾濫したため、「お金」の「信用」が低下したため、超インフレ(お札が必要以上に刷り出されてしまった状態)となってしまい、庶民の生活を苦しめたのは、現在も同じです。このような日本国の社会情勢を、新興宗教天理教の教祖中山みきは、「明治政府は、とふじん(外国人)に支配されている。」と宣伝し、教勢を伸ばしていくのです。
そこで、明治政府をソフト支配するイギリス商人は、グラバー商会が香港から輸入したイギリス製印刷機で、各銀行が勝手に刷り出す膨大な「私幣」を整理する目的で、デフレ(お札が出回らない状態)を画策するのです。
明治革命が成功した日本国で、国民をソフト支配できる「銀行の設立方法」に対して、薩摩藩留学生として1865年から五年間イギリスとアメリカに留学していた吉田清成と、長州藩留学生としてイギリスに留学していた、長州ファイブのひとり、伊藤博文とが対立したのです。
中央銀行設立を主張する薩摩藩の吉田清成と、反中央銀行設立を主張する伊藤博文との論争は、伊藤博文の勝利となり、日本国では、アメリカ型の国立銀行(私幣を発行できる私設銀行)となったのです。
イギリス東インド会社による明治革命の目的は、ひとつは日本産の絹貿易の独占で、もうひとつの目的は、カスピ海沿岸に住む同朋の第十三部族の、ロシア帝国からの開放です。それには、広大な領土を持つロシア帝国を壊滅するには、西からの侵攻と、東からの侵攻が是非とも必要だったのです。
そのためにイギリス東インド会社は、明治新政府に指示して、1872年兵部省を廃止させ、陸軍省と海軍省を設置させ、天皇直属軍としての近衛兵を組織させたのです。そして、1875年徴兵令を改正させ、国民皆兵を実行させたのです。これにより、兵隊は使い捨てできることになったのです。
下級兵士の多くは秦氏末裔の次男三男で、藤原氏の明治新政府の軍事方針(イギリスの軍事方針)に逆らうものを統制するために、秦氏末裔や役座が中心となっておこなった廃仏毀釈運動により、神宮寺を破壊されたため、無職となった漢字が読める僧侶を陸軍省が多く採用し、不満兵士を監視・制裁をくわえる為に、憲兵にしたてあげたのです。つまり、秦氏末裔や役座に恨みを持つ元僧侶の憲兵は、情容赦なく下級兵士に制裁をくわえていたのです。これは、正に、藤原氏得意の「夷を以って、夷を制す。」の戦術であったのです。
明治新政府の富国強兵政策には、イギリス東インド会社の思惑があって、それは、東からのロシア帝国侵攻を、明治政府の軍団に負わせる計画だったのです。それが、日清戦争と日露戦争勃発の真相だったのです。そのための軍資金を集めるために、そして、日本国をソフト支配するには、国立銀行ではなく、「お金」をコントロールできる中央銀行の設立が必要であったのです。
紙幣発行の独占権を持った中央銀行は、経済学の教科書では「中央銀行は国のために長期的な視野に立って中立的な金融政策を実行する機関である。」と説明していますが、実際は、印刷機械をコントロールすることで、インフレもデフレも思いのままにできる恐ろしい人民統制機関であるのです。
明治維新後の「夷族」抹殺計画により、西郷隆盛や大久保利通が政界から消えると、佐賀藩出身の大隈重信が、政権の中枢を握ったのです。大隈重信は、アメリカ宣教師フルベッキに英語を学んでいたため、世界情勢に詳しかったのです。当然、薩摩藩の後ろには、イギリス東インド会社の影があることは承知していたのです。中央銀行設立を望む薩摩藩側には、大隈重信は、抹殺する対象であったのです。実際、大隈重信は、爆殺未遂にみまわれたのです。
イギリス東インド会社は、その大隈重信を追い落とすために、1976年イギリス東インド会社末裔に支配されている日本国の真の独立を画策した自民党前首相田中角栄氏をロッキード疑獄事件(国際金融組織の指導により、実際は自衛隊機導入に対しての疑獄事件であったのを、日本国政府は民間機疑獄事件としてすり替えていた。)をアメリカ証券委員会からのリークの画策により政界から追放したように、1881年北海道庁の開拓仕官有物払い下げの政治スキャンダルを画策して「明治14年の政変」を起こし、犬猿の仲の薩摩・長州出身者が連携して、海外事情に詳しい大隈重信を政界から追い落としたのです。
この疑獄事件画策により大隈重信の後任となったのが、薩摩藩出身の松方正義です。松方正義は、実質的には日本国の王である大蔵卿となると、明治天皇に、国立銀行の私幣発行券を停止させるのです。元々、すり替えられた明治天皇は、薩摩・長州藩の傀儡であったのですから、松方正義の希望は、即叶えられ、ここに日本国の中央銀行である、株式会社日本銀行が「日本帝国中央銀行」となるのです。では、日本銀行を変身させた、この松方正義とは、どのような経歴があったのでしょうか。
松方正義は、1877年渡欧して、フランス蔵相レオン・セーに面会するのです。このフランス蔵相は、第十三部族の王であるロスチャイルドのフランス支店の支配人でもあったのです。
十八世紀からヨーロッパの金融世界を支配しているロスチャイルドの祖はマイヤー・アムシェルで、フランクフルトの古銭商・両替商であったのです。日本国の藤原氏の「五節の舞」と同じ技術を駆使して、上流貴族限定の「舞踏会」を宮廷で開催して、各国の宮廷に入り込むと、彼の五人の息子を、フランクフルト・ロンドン・パリ・ウィーン・ナポリの各支店の担当者として、ヨーロッパ全土に国際金融網を構築したのです。この国際金融組織の前身は、各国にあるフリーメーソンロッジと連携して、時には政府の行動と異なる行動もしていたのです。
第十三部族を中枢として組織された国際金融組織は、カスピ海沿岸に暮す同朋を開放するために、ロシア帝国や各国との戦いの準備のために、1694年イングランド銀行設立に暗躍していたのです。
国際金融王のロスチャイルドが、十八世紀のフランクフルトの古銭商・両替商として成功した歴史には、八世紀にシルクロードの国際交易国で無宗教のハザール王国から、ユダヤ教国に改宗した歴史があったからです。つまり、国際交易と国際金融に精通した、白いユダヤ人の歴史があったからです。
その国際金融組織は、明治革命後の日本国の銀行にも支援したのです。そして1885年、イギリスのイングランド銀行にある「金」の「信用」により、株式会社日本銀行による兌換券(金と交換できるお札)を発行するのです。この時の通貨基準呼称の「円」は、イギリスの植民地である「香港一圓」の「圓」を借用したものであったのです。
中央銀行となった株式会社日本銀行を支配する薩摩藩出身の松方正義は、長州藩出身の大阪造幣局局長となった、長州ファイブの井上馨、井上勝など、そして、伊藤博文の存在が邪魔であったのです。
では、何故、歴史的に犬猿の仲の薩摩藩と長州藩出身者とが、互いに拮抗して、明治新政府で要人として覇権を争っていたのでしょうか。
それは、藤原氏の戦術「夷を以って、夷を制す。」を、イギリス東インド会社が実行していたからです。その藤原氏の、異民族を支配する戦術は、欧米では「両輪制御の術」と呼ばれているのです。御者である支配者は、拮抗する車の両輪(利害を異にする右翼と左翼・資本家と労働者)をコントロールすることで、目的を果たすのです。
例えば、21世紀のアメリカ合衆国では、二大政党による政治が行われていますが、どちらの政党が選挙で勝利しても、その政治政策が激変しないのは、「御者」(アメリカ合衆国の真の支配者)が選挙で替わることがないからです。二大政党による選挙とは、「両輪制御の術」のトリックなのです。
明治新政府を意のままにコントロールするために、イギリス東インド会社は、薩摩藩と長州藩を、「明治新政府の両輪」候補としていたのです。
1863年5月、攘夷論者の孝明天皇に扇動された長州藩が横浜港から絹製品を満載した外国貿易船を砲撃した報復として、イギリスを主とする外国艦隊は、7月には薩摩藩を艦砲射撃し江戸幕府になびく現政権を壊滅したのです。
そして、清帝国でアロー号戦争をイギリス公使パークスが画策し、清帝国内乱を起こさせ国力を疲弊させたのです。その弱体した清帝国に不満を持つ農民は、太平軍を組織するのです。しかし、軍備力に劣る反乱軍の太平天国軍団は、1864年8月イギリス四国軍団に壊滅されるのです。太平天国の軍団を殲滅したイギリス・フランス海軍を主とする四国艦隊は、次の征服地である日本国を目指したのです。
そして、イギリス・フランスを主とする四国艦隊は、同月の1864年8月長州藩の下関を艦砲射撃し、江戸幕府になびく長州藩現政権を壊滅したのは、その江戸幕府政権支持者を抹殺することにより、江戸幕府に民族差別されていた「武士末裔=秦氏末裔」(百済系「サムライ」が支配した会津藩では、それらを「シシ=賎民」と蔑称した。)を開放して、その密貿易で犬猿の仲の両藩の「シシ」を、「両輪」として考えていたからです。
その明治維新で活躍した「乱民」と言われていた「シシ」の蔑称は、明治革命で復活した藤原氏に迎合する歴史学者や文筆業者による明治革命物語では、憂国の「志士」の美称へと改竄されていたのです。
藤原日本史による日本列島史には、「奴隷」の歴史が欠如しています。奴隷とは、その祖は戦いに敗れた「前政権の王族や臣民」の成れの果てです。
古代では、奴隷は「生口」と呼ばれていたのです。中世では、「寺奴」や「神人」などと呼ばれていたのですが、その実態は奴隷です。平安時代の天慶の乱(939年〜941年)で、反乱軍棟梁の平将門や藤原純友を武力で鎮圧したため、王権より「武士」として認めてもらえた、神社(モリ・ホコラ・ヤシロ=異界の地。「ジンジャ」の呼称は明治革命後に発明。)で前政権の王の魂を「刀舞の芸」で鎮める「もののふ」である「武芸者」も、その祖は、第一百済王朝の平安時代初期、801年坂上田村麻呂に平定された陸奥国蝦夷(エビのようにヒゲのある夷。その祖は飛鳥ヤマトの武人)の「奴隷」であったのです。
それらの奴隷は、ひとではなく物と考えられていたので、奴隷は売り買いの対象であったのです。つまり、藤原日本史では述べていないのですが、日本列島では、古代から江戸時代まで、奴隷は売り買いされて、海外に輸出されていたのです。
第三百済王朝の江戸時代では、人民統制の手段として漢訳仏教組織による寺請制度が確立されて、寺では人民の動向を人別帳で記録していたのです。
1868年明治新政府による神仏分離令により、廃仏毀釈運動で神宮寺は徹底的に破壊され、特に、第三百済王朝の江戸時代に漢訳仏教思想にイジメられていた賎民「穢多」や「役座」により、「穢多寺」は破壊・壊滅の主対象とされたのです。
その全国的な神宮寺破壊運動と同時にその裏では、明治新政府により、江戸時代の薩摩藩や長州藩などの賎民国の実態を抹殺するために、日本国の支配体制側の記録としての、漢訳仏教資料の焚書も行われていたのです。しかし、寺から持ち出されていた奴隷売買の記録文書は残ったのです。
それらの焚書を免れた漢訳仏教側の奴隷記録文書により、江戸時代の「穢多」など賎民が貧しいとされる日本賎民史物語が、後世の歴史学者により創作されていったのです。しかし、明治革命では、長州藩の賎民などは、薬創業(明治時代以前は、賎業。明治革命のシンボル吉田松陰は、薬創業村である「吉田村」出身者。因みに、伊藤博文の出自は、長州藩の下忍。)で貯めた自らの「お金」で外国の武器商人から最新式銃を購入し、「奇兵隊」に参加していたのです。
そして、江戸の賎民頭弾左衛門も、幕府へのポーズとして、弾左衛門の資金により多数の鉄砲を購入して、百名ほどの賎民による鉄砲隊を組織して甲府に出兵させていたのです。しかし、甲府を護る幕府軍が壊滅されると、板橋まで進軍してきた官軍に、米百表を献上していたのです。このような史実をみると、江戸時代の賎民が貧乏だとする根拠はどこにあるのでしようか。
そのように、明治革命後に、明治新政府により、多くの神宮寺の奴隷記録資料は焚書されてしまったため、江戸時代の日本列島奴隷史は、未だ闇の中であるわけです。
明治維新が、何故、京都の都から遠く離れた、農耕に適さない痩せた土地の薩摩藩や長州藩の「シシ」達により計画・実行されたのでしょうか。それは、それらの地は、都にとっての「異界の地」であったからです。
ですから、農業での生産増が望めないために、薩摩藩と長州藩は生き残るために、幕府の目を逃れて、海外との密貿易をおこなっていたのです。その密貿易では、薩摩藩と長州藩とは商売敵であったのです。
つまり、それらの明治維新の震源地は、王権にまつろわぬ者達の棄民地であったのです。イギリス東インド会社は、それらの薩摩や長州の歴史を、戦国時代に渡来したイエズス会宣教師の報告書で学習していたのです。
1868年明治革命が成功すると、明治新政府は、駐日ハワイ総領事ヴァン・リードの要請により、ハワイのサトウキビ畑の労働奴隷として、153名を棄民していたのです。この後も、棄民政策は続くのですが、その多くは、隠れキリシタンで、復活した藤原氏が発明した「神国ニッポン」の明治新政府にまつろわぬ者達であったのです。日本国で奴隷売買の禁止がなされたのは、1872年の年期奉公人の解放からです。
現在、北海道には多くのキリスト教信者がいるのも、その祖が、明治維新後の蝦夷地開拓(先住民族国の侵略)のために棄民された隠れキリシタンであったからです。
日本古代史はもとより、日本現代史もよく理解できないのは、1868年明治維新から1945年8月太平洋戦争敗北までの77年間の、藤原氏により発明された「現人神」が支配する「神国ニッポン」のプロパガンダによるのです。
この不可思議な「神国ニッポン」思想は、1946年昭和天皇が、天皇制神話を「架空ナル観念」と詔書を出したことにより、消滅したはずですが、現在でも、一部の国会議員の談話で、「日本は神国である。」と発言をするのは、明治革命政府により創作された、645年「大化の改新」から天皇による日本国統治制度が始まったとする、藤原日本史の呪縛が現在でも生きている証拠です。
あるひとが、「全ての歴史は現代史である。」と言ったように、歴史物語は、その現在の視点により、いろいろな側面を見せます。
藤原氏の歴史改竄のテクニックが優れているのは、先住民族の歴史を全て破壊するのではなく、その先住民の歴史に、藤原氏が創作した歴史を覆い被せ、先住民族の歴史を藤原氏の歴史として語るところです。この本の目的のひとつは、その藤原氏が被せた覆いを取り除くことです。つまり、「神輿の黙示録」により、日本列島史を復元することです。
この藤原氏の歴史改竄のテクニックは、太陽神バアル信仰のイスラエル民族のヒッタイト帝国から古代エジプトまでの歴史を、メソポタミアから流離いの旅を続けていた唯一神ヤハヴェ信仰のユダヤ民族が乗っ取ったテクニックと同じようです。
ですから、歴史にあまり興味がないひとは、イスラエル民族とユダヤ民族が同じ民族だと信じている人が多くいるようです。それと同じに、太平洋戦争中に発明された「ヤマト民族」と、古墳時代(飛鳥時代)の「飛鳥民族=大和民族?」が同じ民族だと信じているニッポンジンも多くいるようです。
しかし、それらは、全く異なる民族であるのです。それは、それぞれの民族が祀る「神」が異なるからです。民族とは、絶対者である「モノ・カムイ・神」という超概念を信じて集まった集合体の呼称であるのです。ですから、祀る神が異なれば、それは、異民族と言うことなのです。
飛鳥遺跡の建築基準が南北軸から西に約二十度傾いている、仏教建築基準の南北軸とは異なる、建築遺跡からでも分かるように、古代飛鳥では太陽信仰民族により、「仏像」ではなく、「太陽神」を祀っていたのです。
その「太陽神」を祀る儀式として、「太陽神」の化身である「牡牛」が犠牲として屠られていたのです。この牡牛を屠る祭祀儀式をおこなう民族は、645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)により壊滅されたのですが、「太陽神」を祀るために牡牛を屠る祭祀儀式は先住民族により、その後も続けられていたので、奈良時代(第一藤原王朝)の741年牛馬屠殺禁止令が発令され、更に、平安時代(第一百済王朝)の804年にも牛の屠殺禁止令が発令されていたのです。
この「太陽神」信仰民族が「モリ・ホコラ・ヤシロ」で行う牡牛を屠る祭祀儀式は、平安王朝の国教となった空海が発明した真言密教の、ゾロアスター教から導入した拝火儀式の加持祈祷により隠蔽されたことにより、廃れ、賎民(飛鳥ヤマトの支配者末裔)が行う牛頭天皇の「牛祭り」と改竄されて、今日に至るわけです。
牡牛を屠る「血」の祭祀儀式をおこなう「モリ・ホコラ・ヤシロ」は、王権側にとっては、ケガレ地であり、異界の地であったのです。その異界の地を封印する宗教施設が、神社の祖であったのです。神社の祖は、日本古来からあった宗教施設などではなく、645年以降、唐進駐軍と供に渡来した漢訳仏教が、先住民族を支配した後に現れた宗教施設であったのです。
日本古代から存在していたと信じられている、「神道の神」も、出雲系神道が「オオクニヌシノミコト」を祭神とするのに対して、伊勢系神道の内宮では「アマテラスオオミカミ」を祭神としているのです。このことからも、古代では、異なる民族が日本列島に存在していたことが理解できます。
神を祀るには祭祀儀式が行われます。そこで、明治革命後に、「神国ニッポン」をプロパガンダするために、その出雲派と伊勢派との祭祀儀式論争が行われるのです。しかし、それらの出雲神道と伊勢神道の古神道と云われるものは、八世紀以降に藤原氏の「日本書紀」により創作されたものですから、どちらの祭祀儀式が正統かの決着が付かなかったのです。
そこで、智慧者が現れ、神の祀りから祭祀儀式を分離した「宗教」の言葉を発明したのです。「宗教」の言葉の意味するところは、祭祀儀式を伴わない「教祖による教え。或いは、神・絶対者にたいする信仰」で、「ジンジャ」と同じに、明治革命後に発明されたものなのです。
この「宗教」と「ジンジャ」を、藤原日本史が明治革命後に発明したために、古代日本史、特に、「古代宗教史」が全く理解できないものになってしまったのです。現在発掘されている、飛鳥ヤマトの古代遺跡の多くは先住民族の祭祀場遺跡であるにもかかわらず、538年から飛鳥ヤマトには仏教文化が花咲いていたと、学校の歴史で刷り込まれてしまったため、それら古墳時代の遺跡が語ることが全く理解できないのです。
更に、古代宗教史が分からないのは、「日本書紀」が創作した、ダビデのような少年聖徳太子が登場する、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏とによる、二度にわたる神仏戦争物語により、神道は仏教よりも古いと信じ込まされていたからです。
では、崇仏派の蘇我氏に敗れた、廃仏派の物部氏が祀っていたとされる神道の神は、誰なのでしょうか。
藤原日本史によれば、万世一系の天皇の祖は、紀元前660年即位の神武天皇で、その天皇家の祖神は「アマテラスオオミカミ」と言うことになっています。すると、飛鳥ヤマトで物部氏が祀っていた神は、「アマテラスオオミカミ」になるわけです。
だとしたら、欽明天皇の大臣である蘇我稲目と、崇峻天皇を謀殺したとされる大臣である蘇我馬子親子は、二代に渡って天皇家の祖神「アマテラスオオミカミ」を祀っていた物部氏を滅ぼしたことになるわけです。すると、蘇我氏は、物部氏と供に、天皇家の祖神「アマテラスオオミカミ」も抹殺したことになるわけです。
藤原氏の語る神仏戦争物語が腑に落ちないのは、河内で物部氏が祀っていたとされる「神」について何も語っていないことです。
この「日本書紀」による二度の神仏戦争物語は、飛鳥ヤマトの何を隠蔽するために創作されたのでしょうか。それは、飛鳥ヤマトを支配していた先住民族の太陽神信仰のオリエントから渡来の「秦氏」と、北極星を天子(テングリ)として祀る騎馬民族「突厥帝国進駐軍」の存在です。
その飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽・改竄するために、その神仏戦争に至ったとされる、仏教伝来物語も二つ創作されたのです。
ひとつは、藤原氏が創作した「日本書紀」の欽明天皇13年(552年)の仏教礼拝の論争記事です。その記事は次のように述べられているのです。

冬十月百済の聖明王が、金銅像一体、幡蓋、経論を献上してきた。それに対して、蘇我大臣稲目宿禰が崇仏を主張し、物部大連尾輿と中臣連鎌子が異論を奏上した。天皇は「よろしく心願の人稲目に付けて、試みに礼ひ拝ましむべし」と述べた。稲目は、小墾田の私家にその金銅像を安置し、向原の家を喜捨して寺とした。しかし、後に、国に疫病が流行り、死者か多く出たため、物部大連尾輿と中臣連鎌子は、その原因は「仏像」であると主張し、その訴えを天皇が認めたため、金銅像は難波の堀に投棄し、伽藍に火を放って消滅させた。

もうひとつの仏教伝来物語は、亡命百済貴族が創作した「上宮聖徳法王帝説」の宣化天皇3年(538年)の記事です。

志癸嶋天皇(「日本書記」によると540年から571年在位の欽明天皇。しかし、在位期間には「戌牛」の太歳はない。)の御世に、戌牛の年の十月十二日に百斉国の主明王、初めて仏の像、経教并せて僧等を渡し奉る。勅して蘇我稲目宿禰大臣に授けて興し隆えしむ。

この二つの仏教伝来物語には矛盾があります。それは、538年に仏教が飛鳥ヤマトに伝来していたならば、「上宮聖徳法王帝説」よりも先に上梓されていた「日本書紀」の552年欽明天皇が述べられた記事「試みに礼ひ拝ましむべし」をどのように説明するのでしょうか。
そして、更に不可思議なのは、二つの神仏戦争物語の流れが全く同じなのです。その第二神仏戦争に至る「日本書記」の敏達天皇6年(577年)の記述は次のようです。

冬十一月一日 百済国王は、還り使の大別王らに付して、経論を若干巻、また律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工造寺工、六人を献った。けっきょく難波の大別王の寺に安置した。

敏達天皇13年(584年)の記述。

この歳蘇我馬子宿禰は、その仏像二体を請い、鞍部村主の司馬達等、池辺直の氷田を遺って、四方に使して、修行者をたずねもとめた。

敏達天皇14年(585年)の記述。

物部弓削守屋大連と中臣勝海太夫とが、奏して、「疫病が流行し、国民が耐えてしまうのは、蘇我臣が仏法を興行したからです。」、それに対して敏達天皇は、「まったくあきらかだ。仏法を断つがよい」と述べられた。物部弓削守屋大連は、仏殿を焼き、仏像は難波の堀江に棄てさせた。

この二つの「日本書紀」にある神仏戦争物語が不思議なのは、552年と577年の25年間に、物部氏親子・中臣氏親子と蘇我氏親子が全く同じ経緯で、神仏戦争を行い、仏像を祀ると疫病が流行り、その為、仏寺は焼かれ、仏像は難波の堀江に棄てられた、ことです。
この二つの神仏戦争物語を創作した意図は、645年以前には飛鳥ヤマトには、仏教が伝来していなかったので、その言い訳で、「物部氏が仏寺を焼き、仏像を難波の堀江に棄てた。」から、飛鳥ヤマトには、仏像も仏寺もなかった、ということです。そこで、飛鳥ヤマト前政権を倒した唐進駐軍は、前政権の宗教施設を徹底的に破壊した後に、唐国から漢訳仏教を持ち込み、被占領民を支配するために、645年仏教興隆の詔を発したわけです。
そのように「日本書紀」の二つの神仏戦争物語創作の意図を見抜くと、考えられることのひとつは、仏教の飛鳥ヤマト伝来は、「538年」でも「552年」でもなかったということです。つまり、その年代の飛鳥ヤマトには、明治革命以前に「ジンジャ」など歴史上存在していなかったように、仏像も仏寺もなかったのです。
古墳時代(飛鳥時代)の飛鳥ヤマトには、645年以前まで、正式な漢訳仏教は伝来していなかったのです。では、古墳時代の飛鳥ヤマトには、どのような民族がいて、どのような「モノ・カムイ・神」を祀っていたのでしょうか。
秦氏は、四世紀にはオリエントから朝鮮半島を経由して渡来し、北九州から吉備、そして、河内をその古代エジプト式建築土木技術により支配していたのです。それに対して、突厥帝国進駐軍は、六世紀半頃中国大陸から若狭湾に渡来し、そして、琵琶湖を抜けて飛鳥ヤマト盆地を軍事支配し、その地に軍事都市を築いていたのです。
その二つの異なる文化を持つ飛鳥ヤマトを支配した二民族の歴史を抹殺するトリックが、河内を支配していたとする「物部氏=秦氏」と、飛鳥ヤマトの丘の上に山城を築いていた「蘇我氏=突厥帝国軍人」との「日本書紀」による神仏戦争物語なのです。
まず、その二度にわたる神仏戦争により、物部氏(秦氏)を歴史上から抹殺し、そして次に、崇峻天皇を謀殺したとされる大臣である蘇我馬子一族(突厥帝国武人)も、645年の政変により歴史上抹殺したのです。そして、その政変で唐進駐軍と中臣族は、前政権の書籍を焚書して前政権の歴史を隠蔽するのです。その隠蔽工作が、「蘇我蝦夷が、国記・天皇記を焚書してしまったため、飛鳥時代の歴史書が存在しない。」と、藤原日本史で述べている本意です。
そして、飛鳥ヤマトの太陽神(ミトラ神)や北極星(太一)を祀っていた先住民族の宗教施設は、明治革命での廃仏毀釈運動と同じに、徹底的に破壊され、その跡に、北九州から移築した仏寺を設置したのです。ですから、飛鳥ヤマトの仏寺境内から発掘される建物遺跡は、南北軸に対して西に約二十度傾いているのです。
では「アマテラスオオミカミ」は、誰により、いつ発明されたかと言えば、藤原氏により八世紀に発明された「神様」であったのです。
しかし、奈良時代の藤原氏の横暴に対して、唐進駐軍は見切りを付けて、明治革命を画策したイギリス東インド会社が日本国をソフト支配するために薩摩藩と長州藩を代理人としたように、亡命百済移民一族を日本支配の代理人としたのです。それが、亡命百済移民末裔の桓武天皇です。その百済系桓武天皇は、藤原氏が発明した「アマテラスオオミカミ」を崇拝してはいなかったのです。
781年桓武天皇は即位するのです。その即位儀式は、奈良時代の天武天皇家を実質支配していた藤原氏と決別するために、唐服で唐の即位儀式でおこない、そして、その儀式の祖神を、藤原氏が発明した「アマテラスオオミカミ」ではなく、桓武天皇の父「光仁天皇」としたのです。
そして、奈良の大仏鋳造時に排出された銅毒や水銀毒に汚染されたため、奈良の都では奇病が発生していたため、鉱毒の知識がない桓武天皇は、それを前政権の天武天皇家を陰謀で滅ぼした祟りと信じて、藤原氏が支配する興福寺・春日社を「穢れた施設」とし、奈良の都に封印し、その末社を、百済移民の地・京の都に創建することを禁じていたのです。
そして、その百済系桓武天皇家では代々江戸末期孝明天皇まで、新羅系天武天皇が創建した道観を藤原氏が破壊して、その跡に建てた伊勢神宮には、正式参拝はしていなかったのです。百済系桓武天皇家で初めて正式参拝したのは、明治革命のドサクサですり替えられた南朝系明治天皇であったのです。
では、すり替えられた明治天皇が隠棲していた長州藩の歴史は、どのような遍歴を辿っていたのでしょうか。その歴史を辿ると、何故、「サムライ」支配の会津藩士が、長州藩下級武士を「シシ」と言った理由がわかります。
長州藩は、長門と周防の二カ国36万9000余石を有する外様大名であったのですが、1600年関が原の合戦で、宇喜多秀家とともに毛利輝元が、西軍の総大将に担ぎ上げられ、徳川家康の東軍に破れる前までは、石見銀山の財力により、隠岐、備中、備後、安芸、出雲、石見、周防、長門等を支配していたのです。では、中国地域一帯を支配した、その毛利氏の出自はどのようだったのでしょうか。
毛利氏の祖は、歴史書などでは源頼朝の側近大江広元で、相模国の毛利荘の出自だと言われていますが、戦国大名のほとんどは、その三代先の出自は不明なのです。
それは、京にある建物全てを焼き尽くした、1467年応仁の乱により、室町幕府の武家秩序は乱れ、武力を持った名もなき武人が、大名にのし上がっていたからです。それを下克上と言い、武力を中心に武力が集まることを、群雄割拠と言っていたのです。
では、現在ある戦国大名の系図はどうなのかと言えば、それらは江戸時代に「系図屋」が、お金を貰い、その意向により創作したものであるのです。戦国武将のシンボルである、織田信長の三代先織田信定の墓が、垣外(カイト)にあったように、その出自が武家であったかは分からないのです。豊臣秀吉などは、その出生地までも分からないのです。そして、徳川家康の源氏に繋がる系図は、江戸時代に創作されたことは公然の秘密であるのです
毛利氏の歴史上の祖は、毛利元就で、1555年長門、周防、豊前を支配していた大内義隆を殺害した陶晴賢を厳島の戦いで破り、その地を簒奪したのが毛利氏の戦国大名の始まりです。
では、毛利氏は、それ以前は何処に拠点を構えていたのでしょうか。確かなことは分かりませんが、毛利氏の祖は、1333年鎌倉幕府が倒れ、建武の中興、天皇親政に異を唱えた足利尊氏の北朝と、南朝の後醍醐天皇とが争った南北朝時代、何処からか安芸国吉田荘へ移住し、その吉田盆地一帯を武力で支配していたのです。ここに、毛利氏の出自のヒントが見つかるのです。そして、もうひとつのヒントは、戦国武将が、兵隊を集めるためと、戦場での活躍を示すために創った「家紋」にあります。
そのヒントのひとつ、毛利氏の出自が吉田荘であることは、その吉田荘では代々薬創業が盛んで、明治革命の英雄に祭り上げられた吉田松陰の祖も、その吉田の出自であったのです。
日本列島での薬創業の盛んな地域と、騎馬民族末裔が住む地域とは重なります。薬創の始まりは、遊牧民族の家畜の観察からです。自然に暮す動物には、お医者さんがいませんから、体調を崩した動物がある種の草を食べることを観察した知恵者は、薬草を発見するわけです。薬草の知識を持った遊牧人は、やがて伝説となり、「神農様」と呼ばれていくわけです。編み笠と蓑の渡世人姿の「神農様」は、行く先々で草を食み、自らを実験台にして薬草を見つけ出していたのです。
騎馬民族は、薬草だけではなく、動物薬も創薬していたのです。騎馬民族の祖スキタイのシンボルである鹿の角は、強壮剤として今日でも「ロクジョウ」として高級ドリンク剤に使われています。
奈良盆地に鹿が多く棲んでいることを知った、騎馬民族の突厥進駐軍(藤原日本史では蘇我氏)は、鹿の角を集めて強壮剤を創薬していたのです。「日本書紀」には、蘇我氏が宇陀の薬草で創薬していたことを記述しています。宇陀には、現在でも、薬草農園が存在しています。
毛利氏には、騎馬民族のニオイがします。
毛利氏が歴史上確認された、その安芸吉田荘とは、古代の吉備国にあるのです。吉備国とは、岡山県全域、広島県東部、香川県島與部、兵庫県西部一帯を支配していた古代国家です。
その地では、鉄器を使い、土木建設や巨大石材建築物を構築し、四世紀には前方後円墳を築き、石材を使い横穴式古墳を築いていたのです。この吉備国は、平安時代の王権により、鉄棒を持つ鬼が、石城に住む「鬼が島」とされていたのです。因みに、「鬼」とは、仏教の敵神のことです。
藤原日本史の神武天皇から推古天皇までの創作物語(初代天皇は天武天皇)の呪縛を解くと、その古代吉備国とは、北九州の秦王国が、河内へ移動する中継国であることが分かるのです。その根拠として、河内平野の巨大古墳には、吉備国で造られた土器が多く埋葬されていたからです。
その秦王国とは、古代ヒッタイト・古代エジプト(紀元前十三世紀)、そして、オリエントからギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年、継承国大月氏)を経由して、そのバクトリアの衛星国秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)へ、そして、朝鮮半島の辰韓(秦韓)を経由して、三世紀後半に北九州へ渡来した民族が建てた都市国家であったのです。この秦王国の渡来と、日本列島の古墳時代の始まりが、時代的に重なるのです。
国際的な秦王国の民は、古代ヒッタイトの製鉄技術(タタラ製鉄)、鍛造による鉄器製作(日本刀は鍛造)、その鉄器を使った石材建築技術、そして、古代エジプトの石切技術、石組み技術、堀の掘削技術、土木建築技術、更に、ローマ帝国軍式幅広の軍事道路建設技術、上水道敷設技術、そして、ギリシャ文化の仮面劇(秦楽→申楽→猿楽→能芸)、牡牛を屠り太陽神を祀る儀式などなどの技術・文化を持っていたのです。
このような高度な技術・文化を持った秦氏を、794年唐進駐軍の後ろ盾により、秦氏の支配地山背国(後に山城国に改竄)を乗っ取った、亡命百済貴族は、814年編纂の「新撰姓氏録」で、蕃族とし、その説明では、機織(はたおり)が得意なので「ハタ」氏としたと述べているのです。因みに、亡命百済貴族を、「皇族」としていたのです。そして、奈良時代を牛耳っていた藤原氏は、「神族」とされていたのです。
毛利氏には、オリエントから渡来の秦氏のニオイもするようです。
では、もうひとつのヒントである、毛利氏の家紋は何を語っているのでしょうか。
家紋は、戦国時代に突然現れるのです。戦国時代から約300年前の源平合戦では、アラブ商人を祖とする「平家」は、その祖のフェニキア商人着用の「赤」を自軍のシンボルとし、それ対して、騎馬民族で古代新羅を祖とする「源氏」は、その祖が祀っていた太陽神の「白」を自軍のシンボルとしたのです。因みに、ツングース系百済を祖とする「平氏」は、「源氏の白旗」を担いでいたのです。百済系「平氏」の北条政子が、源氏棟梁三代を謀殺した後、平家の厳島の社(「ジンジャ」ではない。)を乗っ取り、その「平家」のシンボルの「赤旗」を「平氏のシンボル」としたのです。
歴史を持っていた武家は、その歴史を家紋に凝縮させていたのです。ですから、その家紋を見れば、その武家の歴史が分かるのです。では、毛利氏の家紋である一文字に三ツ星は、何を語っているのでしょうか。
三ツ星とは、ギリシャ神話の戦士オリオンのベルトです。そして、一文字はロンギヌスの槍です。この毛利氏の家紋の意味は、ロンギヌスの槍を持った戦士です。この家紋に類似したものに、渡邊氏の家紋があります。ひとつ違うのは、ロンギヌスの槍が、上にあるか、下にあるかです。
毛利氏の先祖は、ギリシャ・ローマ文化を知っていたのです。
この同じ意味の家紋を持った毛利氏と渡邊氏は、戦国時代のイエズス会傀儡の織田信長が、イエズス会の指示により大阪を支配する目的で起こした石山合戦では、織田信長軍に攻められていた石山寺に篭城する渡邊村へ、毛利水軍は、一文字に三ツ星の家紋がある旗をなびかせて、武器・弾薬・食糧を供給していたのです。
石の壁に護られた石山寺が、イエズス会がもたらした最新式銃で武装した織田信長軍団の攻撃を10年間も防ぎ、篭城できたのは、毛利氏水軍による軍事物資と食糧供給の支援があったからです。周防と大阪との距離を縮めたのは、騎馬民族の秦氏の血の流れが共にあったからです。
では、その毛利水軍の祖は、誰なのかを辿れば、その祖は、源氏の渡邊綱から派生した松浦水軍であるのです。では、その松浦水軍とは何かと辿れば、その松浦とは、梅豆羅(メズラ)と「日本書紀」の新羅征伐の神功皇后物語に出ているのです。そのメズラは、朝鮮半島南端近くに、珍島(メズラシマ)があるのは、北九州と朝鮮半島とは、古来から船で行き来していたからです。つまり、源氏の祖は、ギリシャ・ローマ文化保持の古代新羅から渡来した武人であったのです。
因みに、朝鮮半島南端に珍島(メズラ)、そして、対岸の北九州に松浦(メズラ)があるのは、古代韓民族と古代倭(イ)民族とは、その祖が、紀元前473年に滅びた海洋民族呉と、そして、紀元前334年に滅びた海洋民族越であるからです。
その中国大陸南端を支配した海洋民族の呉越同舟の亡命民が、大型船により対馬海流を西に分かれたのが韓民族の祖となり、東に分かれたのが倭(イ)民族の祖となったのです。ですから、古代では、朝鮮半島南端と北九州は同族文化圏であったのです。
しかし、平安時代になると「日本書紀」には、反新羅で記述された物語を多く掲載しています。それは、新羅により母国百済を滅ぼされた恨みを持つ、亡命百済貴族が、唐侵略軍の後ろ盾で平安時代の支配者になると、反新羅の物語を、720年に完成の「日本書紀」に挿入していたからです。
辰韓(秦韓)から古代新羅(秦羅)となり、日本列島に渡来して秦王国を建てた秦氏は、平安王朝を支配した亡命百済貴族にとっては、憎むべき相手であったのです。ですから、新羅は「シンラ」と読むべきところを、「シラギ」の蔑称で読ませていたのです。「シラギ」とは、「シンラの奴ら」の蔑称の意味であるのです。民族イジメは、平安時代の京の都から始まっていたのです。
騎馬民族、秦氏、そして、古代新羅のニオイがする毛利氏は、亡命百済民を祖とする「サムライ」には、憎むべき相手であったのです。そこで、明治革命で活躍した長州藩の下級武士を、「サムライ」が支配する会津藩士は、賎民の意味で「シシ」と蔑称していたのです。
それに対して、賎民としてイジメられていた長州藩の「シシ」は、明治革命で、第三百済王朝の江戸幕府を支えていた会津藩を、必要以上に徹底的に打ちのめしたのは、そのような歴史があったからです。
では、明治革命で活躍したもう一方の薩摩藩の歴史には、どのような物語があったのでしょうか。
薩摩藩は複雑です。それはヘブライ国(紀元前1230年〜紀元前932年)のようにイスラエル民族とユダヤ民族との異なる神を祀る異民族により構成されていたからです。薩摩藩も、異なる神を祀り、太陽神の八幡神を祀る島津氏と、ユダヤ教儀式と酷似した中臣神道の藤原氏とにより構成されていたのです。
ヘブライ国では、圧倒的に多人数のイスラエル民族十部族は、少数のユダヤ民族二部族に支配されていたのは、それは、ユダヤ民族にはザドク一派の祭祀族がいたからです。
その祭祀一族が、古代エジプトの唯一神である太陽神アトンを改竄して、唯一神ヤハヴェを「モーセ十戒物語」で発明し、多神教のイスラエル民族の祭祀権を奪い君臨したのです。そのザドク一派と結託したダビデやソロモンは、太陽神バアルと牡牛を屠るイスラエル民族十部族を支配していたのです。
紀元前932年ソロモンが死去すると、ヘブライ王国はイスラエル国とユダ国に分裂するのです。紀元前722年アッシリア帝国のサルゴンが、そのイスラエル国を滅ぼすと、アッシリア人とイスラエル民族とが混血したサマリア人を、ユダヤ民族は、不可触賎民サマリア人と蔑むのです。
そのアッシリア帝国に破れた、太陽神バアル信仰と牡牛を屠る祭祀儀式を持つイスラエル十部族は、その後、歴史上から消えて、今日に至るわけです。
では、薩摩藩での島津氏と藤原氏との関係はどのようになっていたのでしょうか。
四世紀、南インドのユダヤ教ヨシュア派の教会があるマラバル沿岸から、南九州坊津に渡来したナーガ族(へび信仰民族・中臣族の祖)は、タミル語を話すトラヴィダ軍人(薩摩隼人の祖)の武力により、南九州を支配するのです。
そして、6世紀、南九州から中部九州を制圧した唐進駐軍と供に中臣族は、645年飛鳥ヤマトに攻め上り、オリエント文化の飛鳥王権を倒すと、唐進駐軍から任命され、唐氏(唐氏→籐氏→藤原氏)として漢訳仏教文化の飛鳥ヤマトの支配代理人となるのです。
藤原氏となった中臣族末裔の藤原不比等は、古来から日本列島に渡来していたとする、唐本国への漢語報告書である「日本書紀」で、アマテラスオオミカミの神話物語を創作して祭祀者の天児屋根命を祖とするのです。
唐文化華やかな平安中期、唐進駐軍の勢力が、本国唐が907年に滅びたため、その後ろ盾により権勢を誇っていた百済系天皇家と供に衰退していくのです。この唐文化から国風文化の変換期をみた、奈良の都に封印されていた藤原氏は、「五節の舞」を復活させ、百済系天皇家に「藤原の女」を嫁がせ、摂関政治により、平安王朝を乗っ取るのです。
そして、陸奥国蝦夷の捕虜を「源氏武士」とし、藤原氏の私兵として「武力と謀略」とにより、平安朝廷でのライバルを抹殺していった結果、藤原道長は、1017年太政大臣となり第二藤原王朝を復活させたのです。
しかし、勢力を付けた源氏武士は、横暴な藤原氏の配下から独立していくわけです。その期を見た、藤原氏により虐げられていた百済系白河天皇は、上皇となり、藤原氏のロボットである天皇の位を堀河天皇に譲り、1086年ここに院政政治が始まるのです。そして、源氏武士の武力に対抗するために、賀茂川のドクロヶ原に勢力を張るアラブ系武装集団を「平家」として白河上皇の私兵とするのです。
白河上皇の私兵「平家」に武力で京から追い落とされた藤原氏は、源氏武士にも見放されて、南九州の藤原氏の私領島津荘に隠棲するのです。その藤原氏に更に、1192年天下を盗った源氏棟梁となった源頼朝は、惟宗氏にその藤原氏の私領島津荘の経営を任ずるのです。ここに、惟宗氏は、惟宗基言から島津基言となり、島津氏の祖となるのです。
では、惟宗氏とは、何かといえば、第一百済王朝の平安時代、唐から騎馬民族差別思想を持ち込んだ錬金術師空海が「施陀羅悪人なり」の思想を広めたため、騎馬民族の流れにある秦氏末裔は、その呪縛から逃れるために秦氏から惟宗氏に変身していたのです。つまり、島津氏のルーツは、島津氏←惟宗氏←秦氏の流れにあったのです。
南九州島津荘を支配した島津氏は、やがて、藤原氏得意の「藤原の女」を娶らされ、島津氏は、ヘブライ国のイスラエル民族のように、祭祀氏族藤原氏により支配されていくわけです。
江戸末期から明治革命までの藤原氏(近衛家)の政治的暗躍をみれば、薩摩藩での支配者が、島津氏ではなく、藤原氏(近衛家)であることが理解できます。藤原氏は、「藤原の女」を密使として送り込む戦術が得意であったのです。
江戸幕府を倒し、自由貿易を望む藤原氏は、公武合体で政局を乗り切ろうとする保守派の壊滅を画策するのです。その第一の計画が、第十一代将軍徳川家斉に、茂姫を嫁がせるのです。徳川家斉は、御三家ではなく、御三卿の一橋治済の長男であったのです。その御三卿の流れにある徳川家斉は、徳川家康直系の御三家とは敵対同士であったのです。その徳川家斉は、御三家のひとつである尾張家の血統を根絶やしにしていたのです。
では、その徳川家斉に嫁いだ茂姫の前歴を辿れば、島津家の於篤(オマツ)が近衛家の養女寔子(タダコ)となり、その寔子が徳川家斉に茂姫として嫁いでいたのです。
この戦術は、第十三代目将軍徳川家定の時にも使われていたのです。
1853年米使ペリーの来航で幕府が、開明派と攘夷派とに分かれて揺れ動いている時、第十三代目将軍徳川家定は、アメリカ公使ハリスに謁見したのです。その時の描写をハリスは記録として残していたのです。その記述は次のとおりです。

徳川家定将軍は、短い沈黙の後、自分の頭をその左肩を越えてグイッと後方へ反らしはじめた。同時に右足を踏み鳴らし、これが三四回繰り返された。

徳川家定には、付随運動だではなく、言葉も不自由であったのです。その徳川家定の正室任子(タダコ)が若くして病死した期を逃さず、藤原氏(近衛家)は、篤姫を輿入れさせるのです。しかし、徳川家定は、重い病気にかかっていたので結婚生活ができる状態ではなかったのです。
篤姫が嫁ぐと、蘭方医禁止令を廃して、徳川家定は蘭方医の処置により35歳で死去してしまうのです。そして、その跡目を継いだのが、徳川家康直系の紀州藩主徳川斉順の長男、第十四代目将軍徳川家茂であったのです。徳川家茂は、孝明天皇の娘を正室としたため、攘夷派の先鋒孝明天皇に煽られて攘夷派の先鋒となってしまったのです。
この攘夷派先鋒の徳川家茂は、開明派の藤原氏にとっては存在してはならない将軍であったのです。この徳川家茂も、第二次長州征伐の最中、大坂城で倒れ、蘭方医の処置により21歳の若さで急死してしまったのです。
徳川家定と徳川家茂との二人の死には、徳川家ではそれまで蘭方医は禁止であったのが、篤姫により推薦された蘭方医がかかわっていたことは、一体何を意味していたのでしょうか。
その篤姫の経歴は、今和泉島津家忠剛(タダタケ)の娘一子(カツコ)が島津家の養女篤姫となり、その篤姫が、近衛家忠熙(タダヒロ)の養女敬子(スミコ)となり、その敬子が病弱な徳川家定の御台所となり、徳川家定死去後、江戸幕府を影で支配していたのです。勿論、その篤姫は、薩摩藩の藤原氏(近衛家)のコントロール下にあったのです。
劃して、攘夷派の第十四代目将軍徳川家茂の跡目を、御三卿の一橋慶喜が継いだのです。第十五代目将軍徳川慶喜は、開明派の藤原氏の傀儡将軍であったので、鳥羽伏見の戦闘中に大阪城から脱走し、榎本武揚が指揮するオランダ製軍艦により江戸に逃げ帰るのです。
この明治革命物語での藤原氏(近衛家)の動きは、645年の飛鳥ヤマトを壊滅した中臣族(藤原氏の祖)との動きと同じであったのです。つまり、外国軍団の勢力の下で暗躍し、藤原氏の自由交易(密貿易)を阻止する前政権を倒したことです。
21世紀の現在、このイギリス東インド会社が薩摩藩と長州藩の「シシ」を利用して計画・実行した明治革命の下で暗躍し、そして、復活した藤原氏の影響が未だに残っているのです。
それは、現在、明治革命から続く第三藤原王朝の時代が継続しているからです。その根拠は、明治革命後、復活した藤原氏が発明した「神国ニッポン」を唱える政治家が、現在でも存在しているからです。
政治家の靖国ジンジャ参拝とは、純粋に英霊を祀る行為の裏には、現在の日本国をソフト支配するイギリス東インド会社代理人である藤原氏に対しての忠誠を確かめるための「踏み絵」としての意味もあるのです。
では、第三藤原王朝の日本国は、これからどのような歴史物語を綴るのでしょうか。
2008年9月突然世界経済に激震が起こったのです。この時点では、現在の占い師である、近未来を予言する経済評論家や経済アナリストは、その経済的影響は、アメリカ乃至、アメリカを裏から金融的支配しているイギリスだけで、わが日本国には至らないとマスコミで発表していたのです。
しかし、それから三ヶ月も経たないうちに、日本経済に激震が走ったのです。それが、日本国経済の優等生のトヨタが、赤字に転落したとの発表があったからです。そのトヨタ赤字の記者発表に対して、普段は饒舌な経済評論家やアナリストは沈黙を守ったのです。
では、何故、世界経済だけではなく、世界の優等生である日本国の経済までも、突然、不況状態に巻き込まれてしまったのでしょうか。
昔、あるひとが「経済事件には偶然などない。それは必然だ。」、と言いました。もし、その格言が真実だとしたら、2008年のアメリカ金融経済事件は、どのような仕掛けで起こされて、そして、何を目的に起こされたのでしょうか。
経済事件は必然であるのなら、その事件が起こる前に、その仕掛けが用意されているはずです。では、2008年のアメリカ金融経済事件は、どような仕掛けにより、誰により起こされたのでしょうか。その謎の解明ヒントは、村上ファンドにあるようです。
村上ファンドとは、元役人が代理人となり、世界の金持ちからお金をかき集めた投資事業組合のようなものです。その代理人が、マスコミに向って「お金儲けは悪いことですか?」、と言いながら株主総会で、総会屋顔負けの行動を起こした結果、日本国の企業は、「株主様」の所有物となってしまったのです。しかし、この村上ファンドには、深い闇があったのです。
その闇とは、その事務所がケイマン島にあっただけではなく、その出資者のひとりに、現役の株式会社日本銀行の総裁がいたからです。その総裁の前歴は、アメリカ投資会社ゴールドマン・サックスの顧問だったのです。その総裁の言い訳は、村上ファンドに投資したのは、株式会社日本銀行の総裁になる前で、「ウッカリ解約するのを忘れていた。儲けは慈善団体に寄付する。」、と言い、総裁を辞任することもなく、任期をまっとうしたのです。それに対して、与党は勿論、野党もマスコミも、前自民党総裁のピーナッツ事件のように、執拗な追及はなかったのです。何故でしょうか。
一般的な認識では、世界の金融は、公正な組織により健全に運用されていると信じられているようです。しかし、それは認識不足です。
現在の国際金融市場とは、アメリカの中央銀行にあたるFRB(連邦準備銀行)と、ヨーロッパの中央銀行にあたるECB(欧州中央銀行)が決定した事項を、日本や、欧米以外の首相や各国の中央銀行総裁が集められ、そこで発表するだけです。つまり、二つの組織が、世界の金融組織を支配しているのは、世界の金相場が五人に支配されているのと同じ構造です。
では、世界の金融を支配する組織のひとつであるそのFRB(連邦準備銀行)とは、どのような組織なのでしょうか。
1913年アメリカ合衆国で、民主党ウッドロー・ウィルソンが大統領となると、ロックフェラー、モルガン、ロスチャイルド、ウォーバーグの銀行家が集まり、私的銀行の組織を作るのです。それが、フェデラル・リザーブ・ボード(FRB)の連邦準備制度理事会であったのです。
そのFRBのメンバーであるウォーパーグと我が明治政府とは、歴史上緊密な関係にあったのです。そのウォーバーグとは、ロスチャイルド系のクーン・ローブ商会の女婿たちが支配する銀行です。
明治時代、1902年イギリス東インド会社の傀儡第三藤原王朝が駆る使者の暗躍により日英同盟協約が調印され、日本軍をイギリス軍の指揮下におくと、そのクーン・ローブ商会のジェイコブ・シフは、後に大蔵大臣・首相(1921年〜1922年)となる高橋是清に、ロシア帝国との戦争資金の半分を融資したのです。そして、1904年イギリス海軍軍事顧問が乗船する日本帝国海軍は、極東ロシア艦隊を、日本海海戦で壊滅するのです。
その日露戦争の軍資金を融資したクーン・ローブ商会と親しかった高橋是清は、その後、1936年二・二六事件で、口封じのため暗殺されることにより、イギリスを金融で支配する銀行家により企画された日露戦争の闇が隠蔽されてしまうのです。更に、そのクーン・ローブ商会は、1941年太平洋戦争時にも、戦費の融資を申し出ていたのです。
明治政府や昭和政府と親しかったメンバーがいる連邦準備制度理事会は、アメリカ合衆国独立時では13州であったのに、何故か全米を12地区に分けたのは、それらのメンバーの多くは、第十三部族が出自であったからです。つまり、ユダヤ教徒が主張する、ヘブライ国12部族にならっていたのです。
その12地区にそれぞれ連銀(フェデラル・バンク)を設立し、その支配者として、ダビデではなく、ニューヨーク連銀が君臨している構図です。つまり、アメリカの中央銀行のような組織であるFRBとは、国立などではなく、私立の銀行集団組織であるのです。
このアメリカ合衆国の金融を支配する、私的バンク集団が支配するFRBの仕掛けは、イギリス・イングランド銀行にあったのです。
1694年イギリスで、戦争資金を集めるために創設された私立銀行のイングランド銀行は、1844年イギリス首相ロバート・ピールにより発せられた条例により、イギリスの中央銀行となっていったのです。そのピール条例とは、「イングランド銀行以外の銀行は、期限がくれば貨幣発行の特権が消滅する」ものだったのです。
このピール条例により、私立銀行のイングランド銀行が中央銀行となった経緯が、株式会社日本銀行が中央銀行となった経緯と同じ訳は、それは、そのシナリオを書いたのが同じ人物であったからです。つまり、イギリス、アメリカ、日本の中央銀行は、イギリス・イングランド銀行と繋がっていたのです。
世界を支配する方法は二つ。ひとつは、ハード支配の「武力」です。そして、もうひとつは、ソフト支配の「経済」です。その経済を支配するには、「金融」をコントロールすることにより可能です。
そこで、国際銀行家集団は、自らの銀行ネットワークを各国の中央銀行に持ち込んで、そして、組織化し、国際銀行システムを作り上げて、その国に「経済力」で影響力を行使して、その国をコントロールしていくわけです。この国際銀行家集団が組織されるのは、東インド会社の成功があったからです。
1494年ポルトガルとイスパニア王国は、ローマ・キリスト教皇公認の下、世界を二分して支配できる協定、トルデシリャス条約を結ぶのです。この条約により、ローマ・キリスト教会公認の海賊交易が可能になったのです。西回りのイスパニア王国は、南北アメリカを支配地とし、それに対して、東回りのポルトガルは、アフリカ・インド・東アジア・中国・日本を支配地としたのです。
その二分された世界征服のため、右手に聖書、左手に銃を持つ、武闘派宣教師集団のイエズス会は、ポルトガルの軍事援助と経済援助とにより、インド、東南アジア、マカオ、そして、戦国時代の日本を、キリスト教布教を旗印として侵略していったのです。
イエズス会のキリスト教布教の名目の裏には、ポルトガルの国際交易商人による、奈良宇陀の水銀、伊勢の水銀、そして、毛利氏が支配している石見の銀山の略奪目的があったのです。その日本国侵略を目論むイエズス会の代理人が、反仏教の織田信長であったのです。
その織田信長に対するイエズス会のミッションは、645年唐から渡来した僧兵軍団の壊滅であったのです。日本の中央を天皇を差し置いて、実質経済を支配する漢訳仏教組織を武力でバックアップしている僧兵軍団は、日本国占領を目論むポルトガルには、壊滅すべき軍団であったのです。そのひとつが、1571年の比叡山延暦寺の焼討ちで、もうひとつが、1580年終決の石山合戦十年戦争であったのです。これらの宗教戦争により、日本国の僧兵軍団が壊滅したわけです。
そのポルトガルが、東アジアからもたらす香辛料が、肉食のヨーロッパで金と同量の高価に売れることを知った、第十三部族は、ポルトガル・イスパニア王国に対抗する組織を作るのです。それが、1600年イギリス東インド会社、1602年オランダ東インド会社、1604年フランス東インド会社の設立となったのです。
では、その各国の東インド会社とは、どのような組織かと言えば、それは、政府公認の合資資本会社であるのです。つまり、皆でお金を出して、海賊船を雇い、その海賊船が武力により、ポルトガルが支配するインド・東アジアで香辛料を略奪することです。その海賊交易が成功すると、その出資者は、その出資額に応じて配当金がもらえると言う仕掛けであったのです。
この東インド会社の海賊交易のビジネスモデルを応用したのが、村上ファンド事件やライブドア事件を起こした、投資事業組合のビジネスです。東インド会社と唯一異なるのは、投資事業組合は、海賊船を雇わなかったことです。しかし、海賊船の替わりに、「お金儲けは悪いことですか。」と述べる総会屋タイプの人材を登用して、金融的・組織的に問題がある企業を狙い、海賊船の大砲ではなく、マスコミを味方に付けその企業の弱点を叩くことにより、ターゲット企業から多額の資産を強奪し、それを、投資事業組合員で山分けしたことは、東インド会社と同じです。
このふたつの経済事件を起こした原因の投資事業組合ビジネスのアイデアを教え、更に、多額の資金を提供し、村上ファンドのカンバンとして株式会社日本銀行の総裁候補を紹介したのが、リーマン・ブラザース証券であったのです。そのリーマン・ブラザース証券の倒産が、2008年アメリカ金融事件の発端だったのです。
不思議なことに、そのリーマン・ブラザース証券の倒産は、その前兆もなく、そして、その倒産劇の解説もなく、更に、会社更生の意志も示すこともなく、あっけなくおこなわれていたのです。更に不思議なことは、そのような経済大事件を起こした原因であるリーマン・ブラザース証券倒産の後追い記事は、正義の味方を標榜するマスコミには掲載されることはなかったのです。何故でしょうか。
それは、日本列島史が藤原氏により支配されているように、マスコミ企業は、純広告や企業広告を出稿する国際金融組織に支配されている企業により、「ソフト支配」されているからです。いつの時代でもそうですが、「一本(ペン・理想)より、二本(箸・現実)のほうが強いのです。」の格言が生きているからです。
以上のことから、株式会社日本銀行は、日本人のための金融組織であるのかは、「疑問符?」が付きます。では、誰が、なにを目的に、株式会社日本銀行を動かしているというのでしょうか。ここにひとつのヒントがあります。それは、毎年アメリカから日本政府に届けられる「年次改革要望書」なるものです。
この「年次改革要望書」とは、国際銀行家集団の資金により運営されている経済研究所が創案した事項を、アメリカ政府より、日本国政府に下賜された「命令書」のようなものです。この「命令書」にそって、日本国政府は、日本国内での政策を実行するのです。それが、現実の日本の姿です。
例えば、2005年頃から社会問題となっていた「振り込め詐欺事件」の背景も、その「年次改革要望書」から読み取れます。それは、国際銀行家集団の命令で、日本国経済を疲弊するための仕掛けであった、竹下登内閣(1987年11月〜1989年6月)による「ふるさと創生」のスローガンにより、各自治体に1億円をバラ撒いた頃から始まる「バブル経済」が、1990年突然株価の暴落によりハジケタ結果であったのです。
そのバブル経済破綻後の株式会社日本銀行の不可解な行動により、国内の銀行や金融企業は破綻に追い込まれていくのです。その仕掛けは、1990年3月銀行による土地融資の総量規制であったのです。
それは、それまでの日本国経済界では、金本位制度というよりも、土地本位制度ともいわれるほど「土地神話」が信仰されていたからです。その結果、「社員は悪くありません。社長の私が悪かった。」と堂々とマスコミに謝った大手証券会社は倒産してしまったのです。更に、2008年年末のトヨタ赤字と同じように、1992年11月日産自動車が創業以来初めて赤字決算を発表したのです。まさに、時代は繰り返すのです。
そのようにバブル経済崩壊で、金融界が混乱している時期に、マスコミは、預貯金の補償額が一千万円までとセンセーショナルに騒ぎ立てたのです。つまり、「一千万円以上の預貯金はカミクズになってしまいますよ。」との刷り込みを、マスコミがおこなったのです。
その結果、お金持ちのお爺さん、お婆さんが、大金を銀行や金融機関から引き上げてしまったのです。この時期、金庫製造企業の株が暴騰したことは、そのお金持ちの人数が多数であったことを語っています。銀行は、株式会社日本銀行の行動により融資規制を指導され、更に、民間の資産を引き上げられた結果、破綻寸前まで追い詰められていったのです。そこに現れたのが、黒船ではなく、アメリカ金融企業であったのです。
そのアメリカ金融企業は、破綻した日本の銀行を傘下として、外貨貯金やデリバティブ商品などを売りつけるのですが、外国語崇拝の経済の仕組みを知らない自治体の職員や成金企業家などには売れたのですが、カタカナ言葉に嫌悪感を持つお爺さんやお婆さんは、大金を金庫に保管したり、庭に埋めていたのです。
そのような時代背景により、多額の現金を身近に置く金持ちお爺さんやお婆さんは、「振り込め詐欺師」の罠にかかってしまったのです。その詐欺の初期の金額が、千万円単位であったことは、それだけ銀行にはお金がなかったことを示唆します。
因みに、一般的常識では、銀行にはお金(現金)があると思われているようですが、実際には、銀行にはお金(現金)はないのです。それは、お金には、元々価値がないことが、知能明晰な銀行家には分かっているからです。お金に「価値」を付けるのは「信用」だけです。ですから、銀行家は、入金された現金をすぐに、「信用」に裏付けされた「品物」に交換してしまうのです。因みに、平成時代のお札の原価は、一万円でも千円でも、一枚25円だそうです。ですから、銀行には、お金(現金)はないのです。
2008年アメリカ金融経済事件の背景は、アメリカの銀行や金融企業に「お金」がないことが露見してしまったことです。しかし、アメリカ政府は、日本政府の「一千万円までの保証」などと異なり、全額保障をおこなうことでしょう。
そのように、日本国をバブル経済に導いたのも、バブル経済を破綻させたのも、「年次改革要望書」によるのです。そして、その「命令書」により印刷機で必要以上にお札を刷ったり(インフレ)、その反対に、印刷機を止めたり(デフレ)して、バブル経済を起こし、その後、破綻させたのは、株式会社日本銀行であったのです。
その株式会社日本銀行の株100%は、1941年(太平洋戦争勃発時)前までは、国際金融組織に保持されていたのです。太平洋戦争勃発時に、国際銀行家集団のひとつであるクーン・ローブ商会が日本国政府に戦費の融資を申し出たのは、そのような経緯があったからです。ですから、太平洋戦争の総括が、未だ現在出来ないわけのひとつは、その戦争資金の出所が解明されてしまえば、国際銀行家集団組織と戦争ビジネスとが裏で繋がっていることが、公に知られてしまうからです。
ですから、国際銀行家集団が健在な現在、世界の各地で戦闘が続いているのです。
そして、太平洋戦争の謎が解明されてしまえば、明治革命の謎も解明されてしまうからです。それは、その二つの戦いの軍資金は、国際銀行家集団から融資されていたからです。
一寸考えて見れば分かるとおもえますが、内乱が続いている明治新政府誕生後2年で、横浜新橋間に汽車が行き来していたのです。その鉄道工事は、少なくとも4年はかかるのです。更に、未だ銀行が設立されていない時代に、誰が建設資金を出資したのでしょうか。江戸幕府壊滅状態の明治革命前に、そのようなことを考え、実行できる「ニッポンジン」が居たとでも言うのでしょうか。
更に不思議なことは、太平洋戦争敗戦後にもあったのです。それは、米軍基地の謎です。
1945年8月10日日本政府は、ポツダム宣言受諾を通告したのです。これは、事実上の敗戦宣言です。そして、1945年8月30日連合国軍最高司令官マッカーサーが厚木飛行場に到着するのです。ここから、日本国は、アメリカの占領政策により支配されていくのです。
アメリカ進駐軍は、日本全土に米軍基地を設置するのです。その理由は、不凍港を求めるソヴィエト連邦軍が南下して、日本国占領を企てていたから、とのことです。
日本政府とソヴィエト連邦政府とは、1941年日ソ中立条約を締結していたのです。しかし、1945年4月ソヴィエト連邦政府は、日ソ不可侵条約を一方的に破棄したのです。そして、広島にアメリカ空軍が原子爆弾を投下した二日後、同年8月8日ソヴィエト連邦政府は、日本政府に宣戦布告をしたのです。
そのソヴィエト連邦軍が、日本列島に侵攻するこを阻止するために、アメリカ進駐軍が防衛のため、日本全土に米軍基地を築いたと、藤原日本史は述べるのです。つまり、アメリカ対ソヴィエト連邦冷戦の図式です。
しかし、1941年スターリンは、戦争ビジネスを行う国際銀行家組織の資金援助により、人民委員会議長となり、ソヴィエト連邦を支配していたのです。そして、アメリカも戦争ビジネスを行う国際銀行家組織により支配されているのです。この図式は、国際銀行家集団の戦争ビジネスで、それは、藤原氏が得意の「夷を以って、夷を制す」の戦術と同じです。このことから、アメリカとソヴィエト連邦とが、その時点で戦火を開く状態だという根拠が崩れるのです。
では、何故、アメリカ進駐軍は、日本全土に米軍基地を設置したのでしょうか。その謎は、2004年現在の27都道県の米軍基地が語ります。
その米軍基地を北から南に羅列すると、北海道18施設、青森県6施設、岩手県1施設、宮城県3施設、山形県1施設、茨城県1施設、群馬県1施設、埼玉県4施設、千葉県1施設、東京都8施設、神奈川県15施設、山梨県1施設、静岡県4施設、新潟県1施設、石川県1施設、岐阜県1施設、滋賀県1施設、兵庫県1施設、広島県7施設、山口県2施設、福岡県2施設、佐賀県1施設、長崎県13施設、熊本県3施設、大分県2施設、宮崎県2施設、そして、沖縄県38施設、となるのです。
まず第一の謎は、1945年日本国敗戦から59年後の米軍基地から見えるものは、ソヴィエト連邦軍の侵攻を防ぐ目的と言われた米軍基地が、何故、新潟県1施設・石川県1施設のみで、日本海側に殆んど置かれていないのか、ということです。
そして、第二の謎は、東京都の首都中枢を取り囲むように設置されている米軍基地が、近畿・中京には殆んどないことです。四国に至っては、皆無です。
このことから推察される結論は、日本全国に設置された米軍基地が日本海側に殆んどないことで、第一の目的はソヴィエト連邦軍の日本国への侵攻を防ぐ為ではない、と言うことです。では、その米軍基地の布陣は何を意味しているのでしょうか。
国際銀行家集団に支配されているアメリカ合衆国は、日本国を戦争に導くように、1941年米国在米日本資産を凍結するのです。そして、アメリカ合衆国を金融で支配するイギリスも、英国全領日本資産を凍結し、更に、日英通商航海条約破棄を通告するのです。
そのような挑発で日本国を経済的に追い込む一方、日本国の歴史を精査するのです。そのひとつが、明治時代にハワイやアメリカ本土に棄民された日本人一世からの、賎民史の調査です。
それは、明治政府から棄民された多くのひと達は、江戸時代末期まで、隠れキリシタンや賎民「穢多」としてイジメられていた末裔であったからです。
国際銀行家組織は、藤原日本史と異なる、日本列島史を知っていたことが示唆されるのは、太平洋戦争後の米軍基地の配置から読み取れるのです。
米軍基地の北海道18施設、沖縄38施設は、対ソヴィエト連邦に対峙するための前線基地として考えられますが、その北海道と沖縄とは、日本列島史では、漢訳仏教組織の支配が唯一及ばなかった地域です。それに対して、米軍基地が皆無の近畿と中京は、漢訳仏教組織の中心的地域です。
藤原日本史によれば、日本国は万世一系の天皇家により、単一のヤマト民族で構成されている、と述べているのですが、敗者である賎民による日本列島史は、秦氏、突厥帝国進駐軍、唐進駐軍と漢訳仏教組織、藤原氏、亡命百済民、そして、アラブ交易商人などなどの異民族による興亡史であったのです。
藤原日本史の特徴は、天皇家と仏教を歴史の中心において、日本列島の敗者の歴史を隠蔽していることです。ですから、その天皇家と仏教の歴史の欺瞞性を暴けば、藤原日本史の「ウソ」が開明できるのです。
645年唐進駐軍と中臣族(藤原氏の祖)が、秦氏と突厥帝国進駐軍が支配する飛鳥ヤマトを占拠した時点から、唐進駐軍が唐から持ち込んだ漢訳仏教思想で、オリエントから渡来の秦氏やユーラシア大陸から渡来の突厥帝国軍人を、漢訳仏教の敵である「鬼」として民族差別してきたのが、藤原日本列島史の荒筋です。しかし、藤原日本史も、平安時代に改竄されていたのです。
663年母国百済を滅ぼされ、日本列島に亡命してきた百済民族が、奈良時代に恵美押勝などの藤原一族の専横に苦慮した唐進駐軍が、亡命百済貴族を「桓武天皇」とし、日本支配の代理人としたのが、平安時代なのです。
唐進駐軍は亡命百済貴族に、秦氏の支配地であった山背国(後の山城国)を支配させ、唐から持ち込んだ、法華経を信奉する天台宗組織により、奈良を支配する藤原氏を封じ込め、更に、唐より持ち込んだ騎馬民族差別思想「施陀羅悪人ナリ」により、秦氏や突厥帝国進駐軍を賎民として落し込めたのが、唐文化の平安時代だったのです。その中国・天台宗の祖を、「百済仏教伝来538年」と改竄するために「聖徳太子」が、平安時代に発明されたのです。
つまり、米軍基地がない近畿地域は、平安時代より、比叡山延暦寺の僧兵により、秦氏や突厥帝国民を、賎民として支配していた地であったのです。
では、もうひとつの米軍基地がない中京地域の賎民史はどのようだったのでしょうか。
907年唐が滅びると、平安京を支配していた唐進駐軍の勢力も衰えていくのです。その後ろ盾を失った百済系天皇家の勢いも衰えていくのです。その期を逃さず、奈良に封印されていた藤原氏は、天慶の乱(939年〜941年)で活躍した秦氏・突厥帝国進駐軍末裔捕虜の陸奥国蝦夷を「武士」として、藤原氏の私兵とし、天皇家の私領を謀略と武力で奪い、藤原氏私領の「荘園」を広げていくのです。
それに対して、百済系天皇家の白河天皇は、1086年上皇となり、院政を始めて、藤原氏の源氏武士に対抗して、伊勢を支配するアラブ系武装集団を「平家」の私兵とするのです。
この源氏武士と平家との戦いが「源平合戦」です。この戦いで勝利した源氏武士は、藤原氏からの支配を解消しただけではなく、源頼朝は、藤原氏の荘園である「島津荘」を略奪し、同族の惟宗氏に支配させるのです。これが、明治革命で藤原氏(近衛家)の手先となり活躍した、秦氏末裔の島津氏の始まりです。
その源氏武士が支配した鎌倉幕府も、百済系北条氏の「平氏」の陰謀により、三代で滅亡し、第二百済王朝となっていったのです。この第二百済王朝の北条鎌倉時代に、百済系仏教である比叡山延暦寺の天台宗に対抗して、藤原氏の流れにある日野範宴が、法然の浄土宗を真似て、「親鸞」として浄土真宗を発明するわけです。
その親鸞の目的は、秦氏の財力と武力を利用して、百済系天台宗の比叡山延暦寺を倒すことであったのです。そのため、親鸞は肉食妻帯していたのです。
平安時代、比叡山延暦寺を拠点として近畿一帯を僧兵の武力で支配する天台宗は、騎馬民族末裔で、当然肉食する秦氏末裔を、錬金術師空海が発明した「施陀羅悪人ナリ」の呪文で、賎民として貶めていたのです。
親鸞は、薬創業の盛んな北陸を目指すのです。その薬創業は、騎馬民族末裔の家業であったからです。そこで、「ナムアミダブツ」の呪文を唱えながら、「悪人は成仏できる。」と解くわけです。
では、何故、漢訳仏教嫌いの秦氏末裔が、親鸞が解く説教に洗脳されてしまったのでしょうか。それは、「ナムアミダブツ」の呪文によるのです。その呪文の意味は、「私は、アミ様に帰依します。」、となるのです。では、その「アミ様」とは、何でしょうか。それは、古代エジプトの太陽神「アトン」であったのです。
秦氏とは、オリエントから渡来の高度技術保持する多民族の集団の総称です。その集団の中には、古代エジプトの石切技術や石組み技術などの高度土木技術者もいたのです。その集団は、太陽神と牡牛を屠る祭祀儀式を保持していたのです。そのような秦氏末裔に対して、「太陽神のアミ様を信じなさい。」と唱える者がいて、更に、敵宗教の天台宗が禁忌する「肉食」「妻帯」する者であれば、秦氏末裔は、「親鸞」を敵ではなく、同族として向い入れることは明らかです。
そのような戦略により「親鸞」は、北陸に浄土真宗を広めたのです。しかし、親鸞は、藤原氏の流れにあったので、決して、秦氏を藤原氏と同等には扱わなかったのです。
そのように、比叡山延暦寺の天台宗と、藤原氏の流れにある浄土真宗とは、僧兵の武力で対峙していたのが、北条鎌倉時代であったのです。
そして、天台宗は、浄土真宗の秦氏を貶めるために、「施陀羅悪人ナリ」をパワーアップした呪文を発明するのです。それが、秦氏は、牡牛を屠り、その肉を食べるので、穢れが多いの意味から「穢多」の呪文を発明するわけです。
そのような宗教戦争の中、秦氏末裔を取り込むために、法華経を唱える日蓮は、千葉の豪漁師の息子であるのに、自ら「施陀羅の子」と唱えて布教に努めていたのです。これらの、反天台宗の私僧達による、「施陀羅」「穢多」の宣伝により、一般大衆に、その秦氏末裔にたいする民族差別語が広まっていったのです。
1333年北条鎌倉幕府が、秦氏末裔の源氏足利尊氏に倒され、北条鎌倉時代に、百済系武人である「サムライ」にイジメられて、山野に逃れていた秦氏末裔が、源氏の足利幕府となると、その技術・芸能の花を咲かせるのです。
しかし、仏教文化の百済系貴族により、それらの秦氏の芸術は、「道の芸」と蔑視されるのです。何故、華道、茶道などの「道」が、室町時代に隆盛した芸術に付けられるのかは、それは、道の者により発明されていたからです。その「道の者」とは、「七道の者」とも言われていたのです。では、その「七道」とは何かと言えば、それは、仏教思想の「六道」の外の「外道」の意味であったのです。つまり、日本国の伝統文化とは、外道の文化であったのです。
その秦氏の文化が華やいだ室町幕府も、藤原氏の流れにある日野氏の陰謀により、足利氏が分裂し、1467年から十年の内乱である、応仁の乱が起こるのです。この乱により、京の街は全焼してしまうのです。ですから、今日の京の都の古寺も、1467年以降に新築されたか、移築されたものであるのです。
この応仁の乱を発端として、下克上の戦国時代に突入するのです。その戦国時代に、勢力を張ったのは、武士集団と仏教集団です。その仏教集団でも、その筆頭は、加賀の一向宗です。浄土真宗組織を中心に、「一向」、つまり、こころをひとつとして、民族差別をする百済系天台宗の漢訳仏教思想を破壊する一揆は、1488年加賀守護富樫正親を滅ぼし、百年王国を築いていたのです。
この期を見た、親鸞の流れにある弱小教団の蓮如は、親鸞の教えである「ナムアミダブツ」を唱え、大阪に進出するのです。
大阪の歴史は、四世紀頃、河内湾の上町台地の岬から始まるのです。その地は、浪速(ローラン)と呼ばれ、ユーラシア大陸のシルクロードの交易都市の楼蘭(ローラン)から、朝鮮半島根元の楽浪(ローラン)を経由して、対馬海峡を渡り、瀬戸内海からの渡来港として、三輪山麓での沈黙交易により栄えていたのです。
その地が、秦氏の古代エジプトの高度土木建築技術により、巨大古墳を構築し、大運河掘削の残土で干拓されていくと、その上町台地の「岬」は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)と呼ばれていくのです。それが、713年好字令の二文字漢字の日本語化により、その地が渡辺(ワタナベ)と呼ばれていくのです。
このシルクロードの交易港の渡辺津(「津」とは船が係留できる港)は、中国大陸との交易港として発展していくのです。やがて、その渡辺津の交易港は、河内湾が干拓されることにより、上町台地から、内陸に移り、坂の麓が大坂(後の大阪)と呼ばれ、が海外交易の中心となっていくのです。
戦国時代も、この大阪を支配することは、日本経済を支配できることであったのです。そこで、蓮如は、大阪の町で商売をして繁栄していた秦氏末裔の多大な金銭の寄進により、1479年山科本願寺を創立し、その勢力を拡大すると、1497年大阪に石山本願寺を築くのです。その石山本願寺は、普通の寺とは異なり、石壁に囲まれた強固な砦でもあったのです。ですから、イエズス会が、日本の経済を支配するために、織田信長に命令して石山本願寺を、最新銃で十年も攻撃しても、陥落できなかったのです。陥落できたのは、講和交渉をしている最中に、石山本願寺が防御の手を緩めた隙を、織田信長軍が攻撃したことによるのです。
その石山本願寺を拠点とする浄土真宗は、三河湾一帯も支配下にするために、1563年三河一向一揆をおこしていたのです。しかし、一向宗の秦氏は、藤原氏の流れにある浄土真宗からは、藤原氏と同等には扱われることはなかったのです。
その三河一帯とは、騎馬民族末裔である徳川家康の祖である秦氏末裔が多く住む地であったのです。その戦国時代に三河一向一揆があった中京地帯にも、戦後米軍基地はないのです。
それらの米軍基地の無い、近畿一帯と中京一帯には、共通点があるのです。それは、肉食の秦氏末裔を民族差別する言葉があるからです。近畿一帯では「穢多」で、中京一帯では「カワタ」です。
では、米軍基地が多く配置されている、北関東埼玉県4施設、東京都8施設、神奈川県15施設、と広島県7施設、そして、長崎県13施設は、歴史的に何を語っているのでしょうか。
1494年トルデシリャス条約により、ポルトガルは、東回りで支配地を広げていくのです。そして、1534年イエズス会が創立されると、その戦闘的宗教布教教団を手先として、インド、マカオを支配すると、フィリピン海峡を北上して、マルコポーロの東方見聞録の地、「黄金の国ジパング」の水銀・銀の奪取を目指すのです。
イエズス会は、ゴアに漂流していたヤジローを案内人として、1549年鹿児島に渡来するのです。何故、イエズス会の初渡来地が鹿児島かと言えば、インドからフィリッピン海峡を抜け、黒潮により北上すると、台湾沖で進路を東に取れば、その黒潮が流れ着くのが、南九州坊津であるからです。このイエズス会のインドからの渡来コースは、四世紀、藤原氏の祖である中臣族が、ユダヤ教ヨシュア派の布教拠点である南インドのマラバル沿岸からの渡来コースと同じです。
先遣隊のザビエルは、鹿児島から長崎、筑前、長門、豊後を視察すると、1551年ゴアに向けて、豊後から出航するのです。
長崎を支配する大村純忠は、隣接する肥前、筑後、肥後を支配する龍造寺隆信の攻撃にさらされていたのです。そして、豊前、豊後を支配する大友義鎮も、龍造寺隆信の攻撃にさらされていたのです。
侵略者のセオリーは、侵略地で争われている勢力で、強者ではなく、弱者を助けることにより、強者を倒し、その後、弱者を傀儡として、その地を支配することです。
イエズス会は、そのセオリー通りに、長崎を支配する大村純忠と豊前、豊後を支配する大友義鎮を軍事的に支援し、龍造寺隆信を倒すのです。そして、長崎を下区とし、豊後を豊後区として、イエズス会の軍事基地とするのです。
奈良・平安時代、王権は、唐進駐軍の武力を背景に、漢訳仏教思想で日本列島民を支配してきたので、その唐進駐軍に敗れた、秦氏末裔や突厥帝国進駐軍末裔は、「鬼」とされ、山奥や辺境地で暮らしていたのです。それに対して、漢訳仏教思想を取り込んだ民族は、都や平地を支配していたのです。
長崎の辺境地を軍事要塞化を図る侵略者のイエズス会は、漢訳仏教思想にイジメられていた長崎の住民達からは歓迎されていたのです。そして、長崎の住民は、イエズス会の信者となってくのです。
では、何故、辺境地の長崎の住民は、侵略者であるイエズス会に入信したのでしょうか。藤原日本史では、長崎の支配者が、イエズス会からの武器弾薬の供給を目当てに入信したので、その臣下も真似して入信した、と述べているようですが、第三百済王朝の江戸時代、第三代目将軍徳川家光により、厳しいキリシタン弾圧を受けても、棄教せず、隠れキリシタンとして生き延びていたことの説明には、褒美目当ての入信説は、説得力がありません。
では、何故、辺境民はイエズス会に入信したのでしょうか。それは、秦氏末裔が、「ナムアミダブツ」を唱える浄土真宗に入信した動機と同じです。それは、ローマ・キリスト教の多くの教義や祭祀儀式は、秦氏が祀る、紀元前14世紀古代ヒッタイト帝国で流行していた太陽神ミトラ教の儀式・祭祀を導入していたからです。ですから、太陽神を祀る辺境の民は、イエズス会宣教師の解く説教や祭祀儀式を理解できたのです。
キリストの誕生日である12月25日のクリスマスの日は、冬至のミトラ神の誕生日を導入したものです。そして、赤ブドウ酒とタネナシパンによる祭祀儀式は、牡牛を屠り、その血と生肉を食べる、太陽神と同一となるミトラ教儀式を導入したものです。そして、キリストが、病める者も富む者も皆平等に愛するのは、太陽神は皆平等に光を与える、との思想と同じです。
中央政府から棄民された、或いは、逃亡した民は、浄土真宗やイエズス会に入信し、それらの組織の野望の手先として利用されてしまうのです。
伊勢湾の湿地帯を支配する、漢訳仏教組織より、海部(余部)の賎民として虐げられていた、アラブから渡来の「平家」末裔のゲリラ隊の織田信長は、豊後区支配者大友宗麟の仲介により、その軍備が飛躍的に改革されるのです。そのひとつが、日本初の傭兵軍団です。
それまでの日本国の戦は、武人は支配地の耕作地からの収益を主な生活費としていたのです。ですから、戦は、農繁期の春から秋までを避け、農閑期の秋の収穫後から種まき前の春までであったのです。
それが、織田信長の傭兵軍により、戦が年がら年中となっていったのです。更に、その傭兵軍は、最新式武器である銃の扱いに熟練していたのです。これらの、日本国古来の戦と異なる軍事戦術は、誰が、織田信長に与えたのかは、イエズス会を置いて他には無いのです。
つまり、織田信長軍とは、イエズス会の傀儡軍であったのです。銭で集めた農民が、短期間で、銃の扱いを収得して、集団戦術により出撃などできるはずはないのです。
織田信長軍には、日露戦争の日本海海戦でイギリス海軍軍事顧問が同乗して指揮していたように、海外からの多くの傭兵軍がいたのです。その根拠のひとつとして、1576年大砲が渡来するのですが、その砲撃手として知られるのは、十字軍マルタ騎士団のロルテス、日本名山科勝成であったのです。
イエズス会の要求により、現在の日本国政府がアメリカ政府より「年次改革要望書」により命令されているように、大阪の石山本願寺の壊滅を命令されていた織田信長は、1576年ヨーロッパの築城思想を真似て、石垣の上に安土城を建設するのです。そして、織田信長が、自ら「神」となるように、「天主閣」を設置するのです。この、イエズス会のゼウス神を恐れぬ織田信長の行為は、イエズス会の逆鱗を買い、1580年石山本願寺が壊滅された2年後、1582年本能寺での爆殺となるのです。
1582年織田信長を育てたヴァリアーノがローマ少年使節団と供に日本を去ると、それを見透かした、ポルトガル系と対立する、スペイン系イエズス会宣教師の命令により織田信長が本能寺で爆殺されると、羽柴秀吉は、藤原氏に取り込まれ、1585年関白豊臣秀吉となるのです。
ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道祭祀儀式をおこなう藤原氏は、キリシタン大名により、九州の支配地を争奪された恨みを、羽柴秀吉を取り込むことにより、キリシタン大名壊滅を意図していたのです。
1590年織田信長を育てたヴァリアーノが、ローマ少年使節団と供に帰国し、日本国王が織田信長から、足軽あがりの豊臣秀吉に代わっているのに驚くのです。それまで、イエズス会の指揮の下にいた羽柴秀吉は、関白豊臣秀吉となると、ヴァリアーノの謁見要求を長らく延ばし、いやいやながら謁見するのです。
そして、藤原氏の敵宗教である天台宗の影響下にある戦国大名を、イエズス会のキリシタン大名軍を利用して、九州を平定すると、今度は、キリシタン大名を壊滅していくのです。その手始めとして、関白豊臣秀吉となって2年後の1587年キリスト教宣教師を追放していたのです。
1590年全国を平定した豊臣秀吉は、翌年1591年士農工商の身分法を定め、キリシタン大名や、一向一揆で活躍した浄土真宗軍団末裔の抹殺を謀るのです。そのような、反仏教のキリシタン歴史がある長崎には、米軍基地が13施設もあったのです。
では、東京を取り囲むように設置された米軍基地の12施設は、何を語るのでしょうか。
1590年騎馬民族末裔である徳川家康は、1585年藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉により、関東の荒川と利根川の支流が流れる湿地帯に追放されるのです。藤原日本史によると、徳川家康は、関東のエド城に「移封」されたと述べるのです。そして、そのエド城は、戦国時代太田道灌が、千葉氏の侵攻を阻止するために築城されていた、と述べるのです。
しかし、それはエド城に移封などではないことは、豊臣秀吉が死去し、広大な墓地に墓を設置するのですが、徳川家康が関が原の戦いで天下を盗ると、大阪夏の陣後、その豊臣秀吉の墓を暴き、その遺骨を粉砕してしまうのです。
温厚な徳川家康が、そのような行為をした原因は、藤原氏の指示による関白豊臣秀吉の徳川家康関東追放に対する侮辱と、徳川家康と同族の秦氏を賎民として貶めた数々の行為があったからです。
ですから、遺骨が無い豊臣秀吉の豊国ジンジャは、戦国末期から江戸初期までの徳川家康の偉業を抹殺するために、明治革命で復活した藤原氏支配の、第三藤原王朝の明治時代に新設されたわけです。
戦国時代に太田道灌が、エド城を築城していたのは史実ですが、それは、海抜2.5mの地にあったのです。しかし、徳川家康が築城したエド城は、海抜10mの小山の上にあるのです。その小山は、神田堀を掘削した残土で築いた人工山であったのです。
徳川家康の配下には、武田軍団配下の、高度土木技術を持った、穴掘りの高度技術を持った金山衆などの、古代エジプトの高度土木建築技術を持つ集団がいたのです。ですから、豊臣秀吉の意図に反して、徳川家康は、関東の湿地帯へ追放されても、何も文句は言わなかったのです。
しかし、徳川家康配下の三河武士集団の多くは、葦の茂る寒村の漁村で、百済系天台宗が支配する京都から見てケガレ地(けがれ地→穢地→穢土→エド→江戸)である、その関東への追放には従わなかったのです。
そこで、徳川家康は、豊臣秀吉の士農工商の身分制度でイジメられていた大阪の渡辺村の住人、浄土真宗軍団残党である三河の住民、そして、佃の漁民をエドに招集したのです。ですから、江戸文化の基礎は、大阪文化と三河文化であったのです。徳川家康の渡来時には、江戸文化などなかったのです。
今に残る江戸文化とは、その大阪文化と三河文化の基礎に、京都文化を乗せたものなのです。江戸文化の華と言われる歌舞伎などは、京都文化をエドに輸入したものであったのです。歌舞伎の助六のストーリをみれば、歌舞伎がエド文化などではなく、京都文化のものであることがわかるのです。
その歌舞伎の助六物語では、助六が必要以上に言葉でなぶる意休とは、エド町警察を支配していた、徳川家康の忠臣であった、エド城に羽織袴姿で二本差しで駕籠により登城していた、長吏頭弾左衛門であるからです。人も住めぬ寒村からエド町の基礎を築いた恩人をいたぶる、助六の歌舞伎劇を創作するのは、関東の秦氏末裔以外の者でなくては出来ない発想だからです。
では、何故、江戸っ子は、「三代目」からなのでしょうか。その流行言葉に、エド文化の民族の謎があるのです。
1868年神仏分離令が発せられると、第三百済王朝の手先となっていた漢訳仏教が支配していた神宮寺が、徹底的に破壊され、「宮」が寺から分離されていくのです。「宮」が独立して建立されたのは、明治時代からなのです。明治以前には「ジンジャ」は、まだ存在していないのです。
1017年漢訳仏教組織が、藤原氏が発明した「神」を祀る「宮」を支配するために、本地垂迹説を発明して、「神」を「仏」の手先としていたのです。そのための宗教施設が、神宮寺であったのです。
1868年神仏分離令が発令され、「寺」と「宮」とが分離されたのですが、明治新政府は、「宮」を中心に祭祀をおこなうために、神祇官を設置したのです。では、その神祇官の「神」は藤原氏の「神」と分かるのですが、「祇」とは何なのでしょうか。
藤原日本史によると、「神」は天津神で、「祇」とは国津神であるというのです。では、国津神とは何なのでしょうか。
「祇」で思い出すのは、アラブ系海洋民族の祭り「祇園祭」があります。その祇園祭は、平安時代の貴族達には、その祭りの期間中は都から避難したほど、「ケガレ」た祭りであったのです。「祇」には、藤原日本史で述べるように「国津神」の意味よりも、「賎」の意味が強いようです。その「賎」の意味が強い「祇」が、神仏分離令に合わせて、神祇官が設置された意味は何なのでしょうか。
神祇の関係は、「宮」と「神社」との関係に似ているようです。では、「宮」とは何かと言えば、それは、豊受大神や天照大神などの人工神(人格神)を納める祭祀建築物のことです。では、神社とは何なのでしょうか。
神社の言葉の初見は、720年完成の「日本書紀」の白雉13年(684年)天武天皇13年10月14日の条「百姓の倉屋、寺塔・神社」の「神社」です。では、その「神社」とは、何と読んだかと言えば、それは、「ジンジャ」ではなく、「モリ」と読んでいたのです。
759年完成と伝わる「万葉集」(菅原道真が、古代新羅万葉語を日本万葉語に翻訳説あり)には、「神社」が、「ジンジャ」ではなく、「モリ」と読まれていたのです。

木綿(ふゆ)懸けて斎(いわ)ふこの神社(もり)超えぬべく念ほゆるかも恋の繁きに(巻7・1378)

略意では、「賢木(さかき)に真っ白い木綿を掛けて、神を祀る神社(モリ)のように、[先住民の敗者が先住民の神を祀るために]その禁足地に入ろうとするように、激しい恋は、その禁忌を犯してしまいそうだ。」、となるのです。この万葉集の歌から、その「神社」の言葉には、藤原日本史が隠したい先住民の歴史が、凝縮されているようです。では、藤原日本史が「日本書紀」で抹殺した歴史は、どのように復元できるのでしょうか。
756年に描かれた、反藤原氏の聖武天皇(724年〜749年)の遺品を納めた正倉院御物の「天平勝宝八歳東大寺図」によれば、藤原氏の「神」を祀る「宮」である春日社は、「神地」と墨書きされ、60m四方の「空き地」となっていたのです。つまり、御蓋山(みかさやま)の真西の山稜に鎮座している春日社は、756年以前には、存在していなかったのです。
更に、石上神宮にも、古来には本殿がなかったのです。その現在ある本殿は、古来から「空き地」で、「禁足地」「神地」「布留高庭」「御本地」などと呼ばれて崇拝されていたのですが、1874年(明治7年)本殿が建設され、今日に至るわけです。では、「宮」や「本殿」が建設される前の「神地」とは、何を意味していたのでしょうか。
漢字二文字表記は、713年好字令の「日本語化」政策により出現したのです。ですから、「神社」も、713年以前は、他の言葉で表記されていたのです。その言葉は、「杜」(モリ)です。その「杜」の意味は、898年〜901年にかけて完成した、現存最古の漢和辞典「新撰字鏡」によれば、「杜」を、「毛利」「佐加木」と読ませ、その意味を、「塞也」「閉塞也」とあるのです。
つまり、杜(モリ)とは、塞がれた地、或いは、閉塞された地、とあり、それは王権が祭祀する場などではなく、禁忌の異界地であったのです。
その「杜」には、佐加木の垣根が何重にも張り巡らされていて、更に、縄が何重にも張り巡らされていて、そして、その地が他と区別できるように、その佐加木に、真っ白い木綿を掛けていたのです。これは、一体何を意味しているのでしょうか。
第一に考えられることは、その「杜」とは、何かが封印されていて、その地を訪れることを禁忌していることです。
では、「杜」とは、何なのでしょうか。平安末期に完成した「類聚名義抄」には、「杜」の読みとして、「やしろ」があります。では、「やしろ」とは、何かといえば、それは、「や」は「多い」で、「しろ」とは、「お城」の建物を想像してしまいますが、古代では「土を盛り上げたもの」であるのです。つまり、「やしろ」とは、「土を盛り上げたものが多くある処」との意味となるのです。では、土を盛り上げたものとは何かと言えば、それは、土の家、つまり、「塚」で、「墓=古墳」の意味です。
そして、「杜」の「モリ」とは、「モ」は、「モノ」つまり「精霊」で、「リ」は「処」で、「モリ」の意味は、「精霊の地」であるわけです。この「杜」には、「古墳=精霊地」の意味が隠されていたのです。その意味を、藤原日本史ではすり替えていくのです。それは、平安時代末期に完成された「類聚名義抄」に「社」の文字が登場するのです。
「社」と「杜」とは、似ている漢字です。そして、古来からある「杜」を「モリ」と読ませ、「社」を「ヤシロ」「モリ」と読ませているのです。このすり替えから、藤原氏の「神」を祀る「神社」が造語されたのですが、その読み方は、「ジンジャ」ではなく、「モリ」です。
このことから推測されるのは、古墳→精霊地→モリ・ヤシロ→杜(精霊地)→社(禁足地)→神社(モリ)→明治時代の「ジンジャ・神社」(精霊地)の流れです。
では何故、古代ではその精霊地であった杜が、奈良時代には神社(モリ)となり、「佐加木」や「しめ縄」で隔離された、禁足地の異界になってしまったのでしょうか。
神社が発明される前、その禁足地は、精霊地であったのです。その精霊地は、古代では磐座(いわくら)、磐境(いわさか)、神籬(ひもろぎ)と呼ばれていたのです。
「ひもろぎ」の「もろ」は、「モリ」と同義語で、精霊が宿る処であったのです。その精霊地が、645年飛鳥ヤマトに唐進駐軍と中臣族の侵略と供に渡来した漢訳仏教により、「精霊地」から「異界地」に変身してしまったのです。
その根拠のひとつとして、日本国で初天皇はギリシャ・ローマ文化保持の古代新羅系天武天皇(672年〜686年)であるのに、「日本書紀」で創作した孝徳天皇(645年〜654年)即位前紀の冒頭に、孝徳天皇は「仏法を尊び、神道(かみのみち)を軽りたまふ」とあることです。この場合の神道とは、藤原氏が発明した、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道などではなく、前政権が祀っていた「モノ・カムイ」のことなのです。
その根拠としては、藤原氏の「神々」を納める春日社の「宮」が建立されたのが、756年以降であるからです。藤原氏が創作した「日本書紀」以外の文献によれば、756年以前には、藤原氏の「神」は、歴史上存在していなかったのです。では、孝徳天皇が軽んじた「神」とは、「何」だったのでしょうか。
近年、福岡県うき市吉井町で珍敷(めずらし)塚古墳が発掘されたのです。その築造年は、およそ六世紀後半で、「日本書紀」で述べている崇仏派の蘇我稲目が突然大臣として歴史上に現れた時期で、孝徳天皇即位以前であったのです。
その古墳には、古代エジプトの死者再生思想と同じ図、死者の魂を来世に導く乗り物である「太陽の船」と舳先に烏がとまっている図が発見されていたのです。では、日本から遥に遠い古代エジプトと同じ死者再生の図は、偶然に描かれたのでしょうか。
そこで、孝徳天皇が神道(かみのみち)を軽りたまわった理由をみると、それは、「生國魂社の樹木を伐採した」ことであるのです。その伐採した樹木で、「難波に大社を建立した。」、と「日本書紀」では言うのです。では、その七世紀の難波とは、どのような地であったのでしょうか。
「日本書紀」の仏教伝来物語によれば、その難波は廃仏派の物部守屋の支配地で、587年第二次神仏戦争で、崇仏派の蘇我馬子が廃仏派の物部守屋を滅ぼすと、蘇我氏を支援した、少年ダビデのような少年聖徳太子の戦勝祈願の礼として、593年聖徳太子が女帝推古天皇(593年〜628年。「随書」によれば、その頃の倭国は「男王」とある。)の摂政となり、難波四天王寺が創建されていた「はず」です。つまり、「日本書紀」によれば、593年以降、難波は、仏寺が立ち並ぶ仏教文化の地であった「はず」です。
しかし、その四天王寺建立から48年後、645年に即位した孝徳天皇が、「生國魂社の樹木を伐採した」ことが、神道(かみのみち)を軽んずる最大の理由としている「理由」は、何かの隠蔽を暗示します。
その「日本書紀」で述べる「生國魂社の樹木伐採」とは、寺を建造するための木材調達ではなく、前政権の精霊地である「巨大古墳の破壊」であったのです。春日社が建立される前の、60m四方の「空き地」、そして、物部氏(「物部氏」とは、「秦氏」を隠蔽するために藤原氏が創作した氏族)の神を祀っているとされる石上神宮の、明治時代に本殿が建立される前の広大な「空き地」は、古墳の破壊跡であったのです。
そして、紀元四世紀のローマ帝国で、キリスト教徒が、ミトラ教地下神殿を徹底的に破壊して、その跡に、キリスト教教会を建設して、ミトラ教の歴史を隠蔽したように、中臣族から変身した藤原氏は、その前政権の秦氏の祭祀場である古墳を徹底的に破壊して、小山を削り平地とし、その跡に、奈良時代に春日社を、そして、明治時代に石上神宮の本殿を建立して、前政権の秦氏の神、太陽神ミトラを歴史上で隠蔽していたのです。
古代では、難波の地は、浪速(ローラン)と云われていて、紀元一世紀から始まる西のローマ帝国と中国後漢との絹貿易の極東の交易地であったのです。紀元4世紀には、国際交易商人により、江戸時代末期にイギリス東インド会社が、明治革命と同時にレンガ造りの富岡製糸場を建設し、絹製品を輸送する新橋横浜間に鉄道を敷設し、横浜港からイギリスに絹製品が持ち出されていたように、日本列島に中国南部産の繭(ポンピックスモリ)を持ち込み、桑畑を開墾して絹生産をし、絹製品を河内湾の浪速(ローラン)から唐国に持ち出されていたのです。絹織物は、その技術が中国から持ち込まれ、古来から行われていたのです。藤原氏が創作した神話物語でも、「新羅の皇子スサノウが、アマテラスオオミカミの侍女の機織娘に、生皮を投げつけた。」、とあるように、古来から機織は、中国の下請け産業として、日本列島でおこなわれていたのです。
紀元三世紀後半、日本列島に古墳が出現し、四世紀頃には、その浪速(ローラン)の地には、巨大古墳が築かれていったのです。その巨大古墳の地は、一般には、河内王国と言われていますが、その地は、古代エジプトの高度土木建築技術を持つ、オリエントから朝鮮半島を経由して渡来した秦氏の支配地、「秦王国」であったのです。
その秦王国での秦氏の太陽神「ミトラ」は、僧兵とともに中国唐から日本列島に侵攻して来た漢訳仏教により、「弥勒」(ミロク)「魔多羅」(マタラ)などに、改竄されてしまうのです。その秦氏の神の隠蔽者のひとりとして考えられるのが、錬金術師空海です。
無名の鉱山師空海は、反藤原氏の桓武天皇により奈良の都に封印されていた藤原氏の資金的援助を受け、たった一年で僧籍を得て、唐への留学僧となり、一年八ヶ月の留学により帰朝すると、桓武天皇が崩御するまで九州に滞在し、806年桓武天皇が崩御すると来京し、その息子の兄平城天皇と弟嵯峨天皇との確執と、810年「藤原薬子の乱」を利用して、嵯峨天皇に接近するのです。
809年即位した嵯峨天皇は、兄平城天皇残党軍と藤原薬子残党軍の殲滅と、801年坂上田村麻呂が陸奥国蝦夷を平定し、その秦氏末裔・突厥帝国軍末裔の蝦夷を奴隷として、唐に輸出するために都に連行して、散所、別所、湯浅などの捕虜収容所に収容していた蝦夷が脱走したことにより、平安京の治安維持のために、816年検非違使を設置していたのです。
そのような怨霊(前政権の祟り神)が跋扈する社会情勢が不安定な平安王朝に、騎馬民族を賎民として民族差別するバラモン教から導入したダキニ呪文の真言を唱え、鎮護国家を祈祷する錬金術師空海が、嵯峨天皇の側近として存在していたのです。そして、百済天皇家は、嵯峨天皇(809年〜823年)から孝明天皇(1846年〜1867年)までの約千年間、明治革命前夜まで、藤原氏の神道などではなく、宗教のガラパゴスである真言密教のダキニ呪文により祀られていたのです。
その平安時代の空海が、何故、秦氏の神の隠蔽者のひとりであるのかと言えば、それは、第三百済王朝の江戸時代の大阪の庶民が、秦氏の神を祀る「稲荷」を賎視した囃子言葉で分かるのです。それが、「病弘法、欲稲荷」です。それが、江戸町庶民では、「伊勢屋稲荷に犬の糞」となるのです。
では、その「ジンジャ」の代名詞のような「稲荷」とは何かと言えば、藤原日本史では、次のように、その由来を述べています。
「山城国風土記」によれば、富裕であった秦氏の祖が、餅を的にして矢を放ったら、その餅が白鳥に変身して、背後の山の峰へ飛んで行きました。そして、その餅が落ちたところに稲が生えたのです。そして、その「稲生り・イネナリ」の地に建立したのが、伏見稲荷大社の起源である、と云うのです。つまり、稲荷は、「イネナリ」が語源で、「稲の神様」というのです。
しかし、この説明では、江戸町の庶民が、「稲荷」を「犬の糞」と同等に認識していたことの説明になりません。何故、「稲の神様」が、「犬の糞」と同じ扱いをされいてたのでしょうか。それは、「稲荷」が、「稲の神様」などではなく、「犬の糞」と同等の存在であったからです。
第三百済王朝の初代、第三代目将軍徳川家光の側近天海が、不忍池を琵琶湖に、上野山を比叡山に見立て、その上野山に東の延暦寺として、1625年に東叡山寛永時を創建し、京都文化思想の基である、騎馬民族を差別する法華経を信仰する天台宗思想を刷り込まれた、京都文化コピーの江戸町の庶民が、「稲荷」の歴史を知っていたからです。
「江戸っ子は、三代目から。」という根拠は、その一代目将軍徳川家康・二代目将軍徳川秀忠までは、秦氏末裔の騎馬民族系であるのに対して、三代目将軍徳川家光は、二代目将軍徳川秀忠の実子ではなく、百済系の血を引く者であったからです。
つまり、1623年二代目将軍徳川秀忠が、三代目将軍を徳川家光に継いだ時から、エド町は「エド文化」から「江戸文化」に変身し、亡命百済民の京都の街を守護する比叡山延暦寺を真似て、1625年東の比叡山である上野山に、百済系天台宗の寛永寺が、東叡山として創建されて、エドの騎馬系文化から江戸の百済系文化へと変身していくのです。
そして、騎馬民族文化は、第三百済王朝の江戸幕府から賎視されていくのです。その結果、第三百済王朝の江戸時代に、藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉が発明した「士農工商」の身分制度が更にパワーアップして、「士農工商・穢多・非人」の身分制度となるのです。
第三百済王朝の江戸時代に、秦氏末裔は、穢多身分とされてしまうのです。そして、秦氏の祖神を祀る、真言密教に封印されている「稲荷」も、賎視されていくのです。
つまり、「江戸っ子は三代目から」の意味は、一代目・二代目の騎馬民族系の新羅(秦羅)系日本人ではなく、百済の血を引く三代目将軍徳川家光時代に京都から移住して来た百済系日本人から「江戸っ子」が始まった、と言うことです。
では、「稲荷」とは、何を隠蔽したものであるかといえば、それは、「古墳」です。騎馬民族は、自然を大切にする民族であるので、墓は、地中に設置したのです。大きな穴を掘り、それを小石で敷き詰め、木棺を納め、小石で覆い、地上部は盛り土(シロ)の小山を築いたのです。これが、積石木郭墳と言われる、小山の古墳です。朝鮮半島の慶州天馬塚古墳は、騎馬民族古墳の典型です。その古代新羅の慶州古墳群(ヤシロ)からは、ギリシャ・ローマ文化色の強い金銀の宝飾品やカスピ海沿岸産のトンボ玉が多数発掘されているのです。
つまり、稲荷とは古墳で、「墓=塚」のことなのです。稲荷は、イナリ←稲荷←ジュ(稲)・ガ(荷)←ツカ←塚←墓←古墳←前政権の神の眠り処、の流れにあったのです。その根拠は、「病弘法、欲稲荷」の流行り言葉が説明します。
空海と稲荷社との由来は、藤原日本史では次のように述べられているのです。
弘法大師空海は、東寺の塔の柱に用いる杉の大木を稲荷山から採り出したのです。すると、稲荷神が祟り、淳和天皇(823年〜833年)が病気になってしまうのです。そこで、空海は、稲荷神を祀ったのです。その時、空海は、稲荷神に、「あなたに仏法を守護しようとの誓いがあるのならば、私と供に仏法を広めましょう。」、と語ったと云われていたのです。
その弘法大師空海の「稲荷山」物語は、神仏戦争を比喩として語っていたのです。つまり、それは、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀る秦氏の祖が眠る「古墳」が、ゾロアスター教から導入した護摩儀式とバラモン教呪文の空海の真言密教に敗れたことにより、破壊された物語であったのです。
そして、その古墳が破壊された跡に、「ホコラ・モリ・ヤシロ」が建てられ、秦氏の祖神が「鳥居=佐加木」と「しめ縄=藤原氏のトーテム蛇」により結界の地として封印され、更に、秦氏のトーテム狼は、狐に変身させられて、それ以後、稲荷社は、弘法大師空海の支配下に置かれてしまったのです。
真言密教に支配されていた「稲荷社」が、秦氏末裔が祀る「稲荷神社」(ジンジャ)として復活したのは、明治革命後であったのです。
では、何故、「病弘法、欲稲荷」なのでしょうか。そこに、錬金術師空海が、太陽神ミトラを祀る秦氏末裔を「施陀羅悪人ナリ」とした謎が隠されているのです。
1517年神聖ローマ帝国では、マルチン・ルターが95ヶ条の質問書を、ローマ教皇に投げかけたことから、宗教改革が起こっていくのです。その原因のひとつが、ローマ・キリスト教会による免罪符の販売です。その免罪符とは、お金を出せば罪が免れるというものです。更に、ローマ・キリスト教は金儲けのために、免罪府販売の他に、治療独占のために「魔女狩り」も始めたのです。
その理由として、多大の寄付金を集めるために、民の病を治すのは「キリストの神への祈祷」だけであるとし、動物・植物・鉱物から薬を創薬する民間治療者は、「魔女」のレッテルを貼り、聖なる炎により火刑にしていたのです。つまり、ローマ・キリスト教による、治療の独占です。古代も、現代も、病を癒す治療は民が大金を出してでも求める技術であったからです。
遊牧民族や山の民は、その経験から創薬に長けていたのです。錬金術師パラケルススは、鉱物薬での治療が得意だったのです。しかし、薬学の知識が乏しい中世ヨーロッパでは、キリストの神に祈祷するのではなく、鉱物薬を投与して治療する錬金術師パラケルススは、魔術師として扱われていたのです。
では、平安時代の錬金術師空海は、山奥で何をしていたのでしょうか。空海は、山岳修行を兼ねて、水銀鉱脈探索をおこなっていたのです。それは、空海が拓いた山寺の近くには、銅鉱山や銀鉱山が多く存在することから分かります。実は、空海は、仏教修行の他に、水銀薬を創薬していたのです。
水銀薬は、その用い方により、消毒剤ともなるし、回春剤ともなるし、幻覚剤にもなる、古来からバラモン教での秘薬であったのです。
錬金術師空海が、ライバルの最澄が都を中心に布教活動をしていたのに、山奥を布教地としたのは、鉱山の探索があったからです。そこで、山の民となっていた秦氏末裔と遭遇したのです。
秦氏末裔は、奈良時代に唐進駐軍の後ろ盾を受けた藤原氏により、牡牛を屠る祭祀場である古墳がある聖地を追われ、山奥に逃れていたのです。その山奥に逃れた秦氏末裔を、漢訳仏教は「鬼」としたのです。
しかし、山に追われた秦氏末裔は、元々農耕民族などではなく遊牧の技術集団民族でもあったので、平地でなくても、その山奥で生きる技術を持っていたのです。そして、秦氏が祀る太陽神ミトラは、東の山から誕生する、と信じられていたので、神山を祀る山岳信仰民族でもあったのです。更に、古来から山砂鉄で「タタラ製鉄」をおこなっていた(仏教説話の「鬼ヶ島」の原景)ので、古来から日本列島を尾根ずたいに行き来していたのです。
そのような山の民か支配する山奥に、水銀を求めて錬金術師空海の僧兵軍団が侵攻していったのです。錬金術師空海は、唐から持ち込んだ法具(武器)により、武力で山の民を制圧していくのです。そのことが、藤原日本史で云う「稲荷山の杉大木の伐採」の実態です。
錬金術師空海に敗れた山の民は、漢訳仏教の支配を受け、火を扱うタタラ製鉄の産鉄民族でもあったので、ヒジリとされ、それが、仏教僧の奴隷である「聖・ヒジリ」となっていくのです。
そして、空海支配の鉱山師軍団は、水銀鉱脈を探索すると、その地を禁足地として、鳥居を建て、結界地を示し、水銀鉱脈を独占するのです。鎌倉時代になると、鉱脈地を独占するための禁足地を示すために、鳥居ではなく、磨崖仏が彫られていくのです。
錬金術師空海は、そのようにして手に入れた水銀により、水銀薬を創薬したのです。しかし、秦氏末裔も、動植物から創薬をしていたのです。創薬の技術を持つ秦氏末裔は、錬金術師空海にとって、歴史上抹殺すべき日本版「魔女」だったのです。そこで、秦氏末裔を歴史上抹殺する呪文「施陀羅悪人ナリ」を唱えたわけです。
錬金術師空海が、高度技術集団の秦氏末裔の山の民を殲滅できたのは、平安王朝をソフト支配する唐進駐軍の軍事的後ろ盾があったからです。これは、明治革命での薩摩・長州軍が、圧倒的多数の軍団を率いる会津藩や長岡藩の江戸幕府連合軍を撃破できたのが、イギリス東インド会社の武器弾薬とイギリス軍軍事顧問の支援があったことと同じです。
唐進駐軍が、奈良時代から平安時代中期まで、ソフト支配していた根拠のひとつとして、六国史の存在があります。六国史とは、「日本書紀」「続日本紀」「日本後記」「続日本後記」「日本文徳天皇実録」「日本三代実録」のことです。これらの書籍が、何故、中国唐の言葉である、「漢語」で記述されていたのでしようか。
それらの書籍は、近畿一帯を支配下に置いた唐本国に提出する日本国の現状の報告書であることが示唆されます。その根拠のひとつとして、六国史最後の書である「日本三代実録」が完成したのが、901年で、それ以降、漢語の国史は編纂されていないからです。
その意味は、反藤原氏の菅原道真が、894年遣唐使を廃止したのは、新羅国の商人から、唐帝国では仏教が腐敗し、人民のこころが乱れていることを知ったからです。そして、その新羅国の商人が述べたように、907年唐帝国は滅亡したのです。
もし、漢語で記述された六国史が、日本国のために編纂されたのならば、907年唐帝国が滅亡しようとも、漢語の国史を編纂し続けていたはずです。しかし、唐帝国の滅亡後、漢語記述の国史が編纂されていない事実は、その漢語記述の六国史が、唐帝国を意識して編纂されていたことを示唆します。
六世紀から七世紀にかけて、東アジアでは、農耕地を北に求める南の農耕民族と、南の草原の支配を求める北の騎馬民族との抗争の時代であったのです。そこに、東ローマ帝国と東の中国北魏(423年〜534年)・梁(502年〜557年)などとの絹交易の利権が絡み、国際交易商人達が暗躍したのは、各国の東インド会社商人が暗躍した明治革命前夜と同じです。
その頃の日本列島では、明治革命時代に富岡製糸場から生産される絹製品を横浜の港まで輸送するために、新橋横浜間に鉄道を敷設していたように、河内湾を干拓して、日本列島各地の絹生産地から集められた絹製品を、中国に持ち出すために、港ローラン(浪速→難波)を建設していたのです。
その事業に携わっていたのが、ギリシャ文化継承国バクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)の衛星国・秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)から朝鮮半島辰韓(シンカン・秦の国)を経由して、527年北九州に上陸し(「日本書紀」では、筑紫国造磐井の反乱とする。)、そして、吉備(仏教説話では、「鬼が島」があった地)を制圧し、河内湾に渡来した秦氏です。
そして、六世紀半ば、高句麗・百済・新羅の交易商人による沈黙交易の拠点である三輪山麓を制圧していたのが、突厥帝国進駐軍であったのです。この突厥進駐軍大将が、「日本書紀」では、530年突然歴史上に現れた大臣「蘇我稲目」であるとするのです。
552年騎馬民族を主とするチュルク民族(古代ヒッタイト帝国民末裔と騎馬民族スキタイ末裔の混血民族・チュルク=トルコ=突厥)は、東ユーラシアを支配し、突厥帝国を興したのです。この突厥帝国に、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが訪れていたのです。それは、突厥帝国と東ローマ帝国とでは、絹交易をおこなっていたからです。そこで、当然、突厥帝国は、絹交易を盛んにするために、弥生時代から中国の絹産業の下請けとなっていた日本列島を目指すわけです。
騎馬民族は、馬を主とする民族のように考えられているようですが、その傘下には、農耕民族、産鉄民族、そして、海洋民族も従えていたのです。ですから、中国大陸から日本列島には、傘下の海洋民族の航海技術を使えば、たやすく渡来することができたのです。三世紀までの日本列島には、馬や牛が存在していなかったのに、三世紀半ばに出現した古墳からは、馬の埴輪が出土するのは、ひとと供に牛馬が渡来したことを示唆します。
そのような秦氏が土地改良と経済活動のために各地に巨大古墳を築造していた古墳時代(三世紀半ば〜八世紀)突厥帝国進駐軍は、飛鳥ヤマトに軍事都市を築いていたのです。それは、隋(589年〜616年)を倒した唐(618年〜907年)により、630年突厥帝国進駐軍の母国を散逸させられていたからです。その飛鳥ヤマトとは、唐帝国からの攻撃を防ぐ、防衛軍事都市であったのです。
東ユーラシアを支配していた突厥帝国は、585年東西に分裂し、630年には東突厥帝国は、唐帝国軍により散逸してしまったのです。当然、唐帝国は、東ローマ帝国との絹交易権を奪うために、東突厥帝国のコロニーがある、日本列島の侵略を考えるわけです。
南九州坊津を拠点として、ユダヤ教ヨシュア派の布教拠点があった南インド・マラバル沿岸との交易をおこなっていたナーガ族(中臣氏の祖)は、国際交易商人であったので、近畿一帯の地理はもとより、民族構成を熟知していたのです。そこで、唐進駐軍は、ナーガ族を手下に、飛鳥ヤマト攻略の案内人として、645年軍事都市飛鳥ヤマトを壊滅するわけです。
当然、河内湾のローラン港を支配し、三輪山麓での交易のために幅12mの直線道路を、河内湾から飛鳥ヤマトまで敷設し、飛鳥ヤマトで国際交易をしていた秦王国も、突厥帝国進駐軍と供に、唐進駐軍とナーガ族連合軍に壊滅されてしまうのです。これが、「日本書紀」で述べている、二回にわたる「神仏戦争物語」の実態です。つまり、「秦氏」を「物部氏」にすり替え、「突厥帝国進駐軍」を「蘇我氏」とし、まず、587年蘇我馬子により「物部氏」を歴史上から抹殺し、そして、645年中大兄皇子により「蘇我氏」を歴史上抹殺したわけです。
その推論の根拠のひとつとして、未だに、物部氏と蘇我氏の出自が確定していないからです。それらの氏族の出自が確定できないのは、それは、物部氏も蘇我氏も、南インドから渡来したナーガ族(中臣氏)から変身した藤原氏が、720年「日本書紀」で創作した氏族であったからです。
そこで、ナーガ族から変身した藤原氏は、唐進駐軍に、藤原氏の祖は、古来日本列島の神話時代から祭祀氏族であることを示すために、アマテラスオオミカミの天磐戸物語を創作し、そこに祭祀者である天児屋根命を登場させ、藤原氏の祖とするのです。
これは正に、ユダヤ民族が、イスラエル民族から祭祀権を奪った、ザドク一派が創作した、モーセの十戒物語と同じです。そのための書が、「旧約聖書」ではなく、「日本書紀」であったのです。
その「日本書紀」では、日本国の初代天皇を神武天皇とし、紀元前660年大和国畝傍の橿原宮で即位したとするのです。何故、藤原氏は、カンヤマトイワレヒコの神武天皇の即位年代を、日本列島が縄文時代にある紀元前660年としたのでしょうか。そのひとつの答えとして、藤原氏の祖国、ユダヤ王国で、預言者イザヤが活躍していたと伝わる年代が、神武天皇の即位年代と重なるのです。そして、神武天皇が架空の人物であることは、その神武陵といわれるものが、江戸末期の明治革命と同時に、藤原氏末裔により、自然の小山を改造して創造されていたからです。
そのように、南インドから渡来したナーガ族を祖とする藤原氏は、日本列島での祭祀氏族として、近畿一帯を支配する唐本国から認めてもらうために、「日本書紀」は、ヤマト言葉と云われる万葉語(漢字表記のアルファベットと同じ表音文字)ではなく、唐本国で使用されていた表意文字の「漢語」で記述されていたのです。
藤原日本史では、飛鳥時代(古墳時代)に、万葉語の表音文字と漢語の表意文字があったというのです。これは可笑しい。飛鳥ヤマトの民族が、「日本書紀」で述べる天孫の一系であるならば、文字もひとつであるはずです。常識的に考えれば、二つの異なる文字が存在していたと言うことは、二つの異なる民族が、古代日本列島の「ヤマト」に存在していたと言うことなのです。
日本列島民族史がよく分からなくなってしまったのは、645年以前の日本列島史が二重に改竄されていたからです。それらは、奈良時代の唐帝国傀儡の藤原氏の552年の「厩戸皇子」が登場する仏教伝来物語と、平安時代の唐帝国傀儡の亡命百済貴族の538年の「聖徳太子」が登場する仏教伝来物語により、オリエントから渡来の秦氏とユーラシア大陸を支配していた突厥帝国進駐軍とのオリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を抹殺したからです。
645年以前に飛鳥ヤマトを支配していた表音文字を使う民族が、唐進駐軍に支配され、701年唐本国の律令制度を真似て、大宝律令が制定されたのは、1945年ポツダム宣言を受諾して、日本帝国が太平洋戦争に敗戦し、1946年11月3日アメリカ占領軍の指導による日本国憲法が公布されたのと同じです。
占領軍のアメリカが、「神国ニッポン」の精神的基盤である「ジンジャ思想」を破壊したと同じように、唐進駐軍は、飛鳥ヤマトの祭事場を徹底的に破壊し、その跡に、漢訳仏教思想で人民統治のために、唐国の国教である漢訳仏教施設を建立するわけです。そのひとつが、御蓋山の秦氏の祭祀場であったのです。そして、その破壊跡は「神地」として、禁足地としていたのです。
そのように、唐進駐軍は、祭祀氏族としての藤原氏を傀儡として、奈良盆地を南から北へ侵攻して行くのです。それが、軍事都市の藤原京から、710年遷都の軍事都市平城京です。この平城京で、祭祀者藤原氏は、唐進駐軍の指示に従わない行動を起こしていくのです。それは、唐本国が、西の隣国吐蕃や北のウイグルの攻撃を受けていて、日本国統治が手薄になっていたからです。
平城京には、前政権を支えた宗教施設を抹殺した意味が含まれていたのです。それは、平城とは、「シロ」を平らげるで、「シロ」とは、小山のことで、それは、古墳を意味しているのです。つまり、平城とは、古墳の破壊を意味しているのです。
そのような平城京で、祭祀者として振舞う藤原氏は、729年天武天皇の孫である左大臣長屋王を、左道(北極星を祀ること)をしたとして謀殺するのです。そして、平城京の東の御蓋山(三笠山)にあった、秦氏の牡牛を屠る祭祀場を破壊した跡地の「神地」に、唐進駐軍に押し付けられた漢訳仏教ではない、藤原氏の神を祀る「春日社」を建立するのです。
藤原氏は、その「神」のユダヤ色を隠蔽するために、「春日社」に祀る神を複数とするのです。それらは、藤原不比等が常陸国から鹿島神を遷祀したとされる武甕鎚命、そして、出自不詳の経津主命、藤原氏が創作した「日本書紀」に登場した天児屋根命、宗像神から導入した比売神の四神を、春日四所明神とするのです。春日社には、色々な出自の神々が祀られているのです。それは、藤原氏の真の神の素性を知られたくないための、トリックのひとつであったのです。
そして、907年唐帝国が滅亡し、平安京を支配する唐進駐軍の勢力が衰えると、祭祀者藤原氏は、本地垂迹説思想を利用して、武甕鎚命を釈迦・不空羂索、経津主命を薬師・弥勒、天児屋根命を地蔵、そして、比売神は十一面観音として、仏教の「仏」と中臣神道の「神」を支配していくのです。
しかし、藤原氏が、藤原氏の祖神のユダヤ色を色々なトリックで隠蔽しようとも、藤原氏が発明したとされる、藤原日本史で云うところの「古神道」の中臣神道の思想・儀式には、ユダヤ色が濃く残っていたのです。
それらは、中臣神道とユダヤ教との宗教思想の基本的共通点としては、禊の儀式、鳥居の由来、神殿の構造と桧材使用、獅子飾と獅子舞、榊としめ縄、石を立て神を祀る、神は雲の上に座す、白色を貴ぶ、塩を蒔く儀式、手洗盤と賽銭箱、神酒と初穂、拍手と低頭礼拝、祭典と神輿、神楽舞の儀式等々です。
奈良時代の平城京を藤原氏の神で支配していたことに反抗したのが、聖武天皇(724年〜749年)です。聖武天皇は、藤原氏の宗教的呪術性を封印するために、藤原氏の宗教施設の中枢である興福寺を見下ろす春日山に、像を設置するのです。
この像は、藤原日本史により、錬金術師空海のネーミングにより、秦氏の神・太陽神ミトラを隠蔽するために「大日如来」として、奈良の大仏様として認識されているようですが、その実態は、ビ・ルシャナブツで、その意味は、「遍照鬼」(遍く照らす神=太陽神=ミトラ神)であったのです。つまり、「鬼」とは、反仏教の秦氏の神「ミトラ神」であったのです。
この遍照鬼の鋳造には、藤原氏は何度も妨害をかけたのですが、宇佐(九州秦王国)と河内(大阪秦王国)と山の民(亡命秦王国・鬼)の勢力の結集により、752年遍照鬼は完成するのです。
反藤原氏の聖武天皇は、749年には娘に皇位を譲り、女帝孝謙天皇とするのです。その女帝孝謙天皇は、父聖武天皇と同じに反藤原氏を標榜し、唐進駐軍と中臣族連合軍に破れ飛鳥ヤマトから陸奥国へ逃避した蝦夷と親交し、自らを「三宝の奴」と称していたのです。
この女帝孝謙天皇親子が見守る遍照鬼像の完成祝いに、旧秦王国があった宇佐から、秦氏末裔が神輿を担いで現れたのが、日本国の神輿の歴史上始めであるのです。しかし、この神輿は、第一百済王朝の平安時代になると、秦氏の聖地である古墳(モリ=神社)が禁足地となったように、「祟り神」を封印する移動施設となってしまうのです。
この反藤原氏の像である遍照鬼の実態は、歴史上明らかに出来ないのです。それは、藤原日本史による、仏教文化華やかな「天平の甍物語」による奈良時代の歴史隠蔽と、度重なる遍照鬼の破壊活動があったからです。
855年には遍照鬼の頭が、藤原日本史の説では落雷により、落ちてしまっていたのです。そして、山の民達により再建造された遍照鬼は、1180年アラブ系武士団「平家」の平重衡により東大寺とともに焼かれていたのです。
ですから、今日の奈良の大仏様は、秦氏末裔の騎馬民族系徳川家康により、1608年再建されたのですが、またしても不審火により焼失し、1709年江戸時代に創られたものであったのです。しかし、その奈良の大仏様が祟りをすると、古来から仏教信者の庶民には信じられていたので、東大寺の門に大仏様の顔が見える窓を造り、そこから江戸時代の庶民は、おそるおそる大仏様の顔を見ていたのです。奈良の大仏様は、藤原日本史が述べるように、単なる仏像ではなかったのです。それは、隠れキリシタン像と同じに、姿かたちは限りなく仏像に似せて創られていても、その本質は、反藤原氏の秦氏の神である「鬼」であったのです。
そのように藤原日本史の奈良時代を疑ってみると、そこに不思議なことに気付くのです。それは、遣唐使船です。
藤原日本史によると、遣唐使船は、先進国唐帝国から仏教文化を輸入するために、日本の優秀な青年を留学僧として、飛鳥時代(古墳時代)630年犬上御田鋤が始めて唐帝国に渡った、と云うのです。そして、遣唐使は、約20年ごとに派遣し、平安時代(第一百済王朝)894年菅原道真の進言で廃止となった、と云うのです。そして、その目的は、仏教文化の輸入、と云うのです。
何故、遣唐使船が、唐文化の輸入のための船と云うのかといえば、それは、日本国の史料にそのように記述されているからです。それらの史料とは、六国史です。しかし、その六国史の編纂者と遣唐使船を管理していた者が、供に藤原氏一族であったのです。これは、怪しい。
六国史の、720年「日本書紀」は藤原不比等、797年「続日本紀」は菅野真道、840年「日本後紀」は藤原諸嗣、869年「続日本後紀」は藤原良房、879年「日本文徳天皇実録」は藤原基経、そして、「日本三代実録」は、菅原道真を陰謀で大宰府に左遷させた、藤原時平が編纂責任者であったのです。
日本古代史を「勉強」するひと達は、それらの六国史で、古墳時代から始まる「遣唐使」について調べるわけです。しかし、約20年に一度の遣唐使船が、何故、四隻に二隻が難破するのかの意味を知ることはできないのです。それは、藤原氏が管理する遣唐使船の歴史を、藤原氏が監修した「書籍」で、丹念に調べたとしても、その遣唐使船の謎を解くことができないのは、仏教伝来物語を調べるのに、「聖徳太子」を中心に調べることと同じです。
遣唐使船は、唐帝国に「空舟」で行ったのでしょうか。日本の六国史では、乗船人物の記述はありますが、唐帝国に運んだ物品の記述はありません。しかし、唐帝国の史料では、遣唐使船は、銀・絹・木綿・ツバキ油・火打石などの品々を、唐帝国に運んでいたのです。それらは、唐帝国の制度である、701年大宝律令の律令制の祖庸調の税を、現物として奈良王朝(第一藤原王朝)に納税させた品々であったのです。これは、日本列島で税として集めた物品を唐帝国に、「遣唐使船」で運んでいたのです。このことは、奈良時代の日本国は、唐帝国の属国を意味していたのです。
では、何故、遣唐使船は、4隻に2隻が難破したのでしょうか。それは、遣唐使船の構造にあったのです。遣唐使の多くは、帰路は新羅国商人船に乗船していたのです。新羅国の船は、朝鮮半島を基地として、唐帝国と日本国を行き来していたのです。では、遣唐使船と新羅国の船との違いは何かといえば、それは、新羅国の船には竜骨があるのに、遣唐使船には、竜骨が無いのです。つまり、遣唐使船は、箱舟であったのです。ですから、ちょっとでも強風に晒されると転覆してしまうのです。
藤原氏は、その祖が南インドから渡来した国際海洋商人で、南インド産の沈香や香木を輸入していたので、外洋船の構造は熟知していたのです。と、言うことは、どのような構造船が、外洋航海に不向きかも知っていたのです。劃して、平底箱舟の遣唐使船は、約250年も、藤原氏に利益をもたらしていたのです。それは、計画的に、遣唐使船を難破させ、日本国から持ち出された税としての物品を掠め取ることが出来たからです。
奈良時代の藤原氏のわが世の春も、682年復興し唐帝国を脅かしていた、飛鳥ヤマトを支配していた東突厥帝国を、唐帝国軍団が、744年壊滅すると、終わりが近づいてきたのです。
唐帝国は、再び日本国統治に力を入れてきたからです。それに対して、天皇でもないのに国璽を私邸に持ち込んで、国政を独り占めしていた太政大臣恵美押勝(藤原仲麻呂)の軍団は、764年唐進駐軍により壊滅されるのです。そして、唐進駐軍は、藤原氏に替えて、亡命百済貴族を傀儡政府の長とするのです。それが、60歳を過ぎた亡命百済下級役人から天皇になった、光仁天皇(770年〜781年)であったのです。
唐進駐軍は、河内湾を支配する秦王国を壊滅すると、琵琶湖と浪速(ローラン)との中継地、山背国の侵略を始めるのです。その山背国は、未だ、秦氏の支配地であったからです。
老齢の光仁天皇は、781年息子桓武天皇に皇位を継承するのです。桓武天皇は、その即位儀式で、唐服を着、唐の儀式で、藤原氏が創作したアマテラスオオミカミではなく、父光仁天皇を祖神としていたのです。この唐文化一色の平安時代が、第一百済王朝となっていくのです。
そして、唐進駐軍の後ろ盾を得た桓武天皇は、山背国侵略のために、784年前線基地の長岡京を造営するのです。そして、794年山背国を守る秦氏軍団は、壊滅し、平安京となるのです。その新都・平安京には、反藤原氏の桓武天皇は、藤原氏が支配する、博打・売春・高利貸しで腐敗した南都仏教を「ケガレ」とし、その末社の創建を許さなかったのです。
錬金術師空海が、インドのバラモン思想の遊牧民族トラヴィダを不可触賎民とする「チャンダラー」を「施多羅」として、日本列島に持ち込む前までの「ケガレ」とは、王権に従わない「アウトロー」の意味であったのです。
それが、第一百済王朝の平安時代となると、太陽神ミトラを祀るために牡牛を屠り、太陽神ミトラと一体になるために、その生血を飲み、生肉を食べる秦氏末裔を、亡命百済民は祖国百済を古代新羅に滅亡されたことによる怨みから、賎民に落とし込むために、「施多羅」思想を吹聴するわけです。その結果、「ケガレ」が、「アウトロー」から「汚わい」に変化してしまうのです。
その汚わいの意味となった「ケガレ」は、「きたない」の意味が加わるのです。その「きたない」の語源は、騎馬民族は広域のユーラシア大陸移動のため、「北極星」を目印にしていたのです。そこからやがて、「北極星」は、天子(テングリ)の神となり、中国語で「太一」として、騎馬民族に崇拝されていくのです。
その北極星神聖思想を持った、騎馬民族の流れを汲む、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の皇子は、672年近江の百済亡命政府を武力で倒すと(「日本書紀」では壬申の乱)、天子から「天皇」を発明して、672年天武天皇として即位するのです。そして、太一(北極星)を祀るために、伊勢に道観を建立したのです。奈良時代、藤原氏が、この道観を破壊した跡に建てたのが、藤原氏が発明したアマテラスオオミカミを祀る「伊勢神宮」なのです。
この北極星が位置する「北」を神聖視する民族を否定するために発明された言葉が、「北ではない」から「きたない」です。その「きたない」に、京都を支配する亡命百済民は、「汚わい」の意味を加えて、「穢い」としたのです。そして、「君子は南面す。」とし、「南」を「北」よりも高位とし、北を鬼門とするのです。鬼とは、仏敵の神、つまり、騎馬民族の流れにある秦氏の神のことであるのです。
亡命百済貴族が、平安京を支配するには、藤原氏に対抗して、新しい宗教が必要です。そこで、桓武天皇は、最澄を唐に派遣するわけです。しかし、奈良の都に封印された藤原氏は、その最澄に対抗する人物を、唐に派遣するのです。
それが、錬金術師空海です。藤原氏は、遣唐使船運営の管理をしていたので、遣唐使船の出航を一年遅らせ、その間に、錬金術師空海に僧籍を与え、「薬師」として乗船させたのです。
八ヵ月後の805年、最澄は帰朝すると、秦氏の牡牛を屠るミトラ神の祭祀場であった比叡山に、788年創建していた延暦寺で、ニッポン天台宗を創立したのです。
しかし、最澄の漢訳仏教修行が完全ではなかったので、806年帰朝した空海の弟子となって、漢訳仏教を勉強したのです。
その最澄の師である空海は、嵯峨天皇の寵愛を受け、823年東寺を賜るのです。この東寺建立の時、空海が稲荷山(秦氏の神を祀る古墳)の大杉を伐採したことにより、淳和天皇が祟りに遭ってしまうのです。この意味は、空海の僧兵軍団による、山の民になった秦氏末裔の壊滅戦争であったのです。
平安王朝を支配する、亡命百済貴族は、自らの出自を隠す物語を創作するのです。そのために、814年「新撰姓氏録」を創作し、百済系を「皇族」、藤原氏系を「神族」、そして、秦氏系を「蕃族」として、民族差別をするのです。
そして、藤原氏が創作した「日本書紀」を改竄し、その552年仏教伝来物語の年代を、538年とし、「聖徳太子」なる人物を登場させるのです。そして、山背国の支配者であった秦氏の歴史を抹殺するのです。
その抹殺物語が、聖徳太子の命により、秦河勝が仏像のために建立した「広隆寺」であったのです。広隆寺の元の名は、「蜂丘寺」です。何故、秦氏の祭祀施設の「蜂丘寺」を「広隆寺」にしたのでしょうか。それは、「蜂丘寺」には、秦氏の歴史が語られていたからです。
「蜂丘寺」とは、「ハチオカテラ」で、蜂とは「ハチ」ではなく、多いの意味の「ヤ」で、丘とは、「小山」の「古墳」で、寺の「テラ」とは、「死者が眠る処」で、その「蜂丘寺」の意味は、「死者が眠る古墳が多くある処」であったのです。つまり、「広隆寺」は、秦氏の祭祀場を徹底的に破壊した跡に、建立された、前政権の太陽神ミトラを封印するための漢訳仏教施設であったのです。
劃して、桓武天皇王朝により、秦氏の太陽神ミトラは、比叡山に中国天台宗が持ち込まれ「魔多羅神」に改竄され、そして、祭祀場であった蜂丘寺は仏寺の広隆寺と変身し「弥勒菩薩」に改竄されて今日に至るのです。
因みに、昭和時代に学童であったひとが、歴史教科書で教わった、アルカイックスマイルの弥勒菩薩像とは、飛鳥時代に「聖徳太子」が秦河勝に賜ったものではなく、明治時代に創作修復されたものであったのです。
では、唐進駐軍に支援された桓武天皇軍団により、山背国を占領され、山城国に改竄されため、追放された前支配者であった秦氏一族は何処へ逃避したのでしようか。それは、秦氏のスグリであった秦河勝の墓が、山城国にはなく、古に秦王国があった地である兵庫赤穂と河内にあることから、その地へ逃れたことが示唆されます。
そして、平安王朝を仕切る、空海を寵愛した嵯峨天皇(809年〜823年)は、子沢山のため、公費で五十人以上とも云われる皇子・皇女を養えないために、皇籍から外すため、814年「源氏」の賜姓をしたのです。これが、嵯峨源氏の始まりです。
山背国を追われた秦氏一族(蝦夷の突厥帝国軍残党も含む)の一派は、国際港浪速(ローラン)が難波として、唐進駐軍に支配されてしまったため、上町台地の大阪湾の波が押し寄せる湿地帯へ移動するわけです。
その岬一帯は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)と呼ばれていくのです。元々、秦氏は、古墳時代に巨大古墳を築造していたので、古代エジプトの高度土木技術により、湿地帯を居住地に改良することはお手の物であったのです。これは、1590年藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉により、徳川家康が、関東の湿地帯に追放されたが、武田軍団であった金山衆の産鉄民族や弾左衛門の秦氏末裔の土木技術で、河口地の湿地帯を、神田堀の残土により居住地に変えてしまったことと同じです。
嵯峨天皇の皇子のひとり、源綱は、その母がそのワタナベが出身地であったので、渡辺綱を名乗ったのです。これが、渡辺党の始まりです。
平安京を支配する桓武天皇は、中国山東半島に暮す亡命百済民を、平安京に移住させる計画を立てたのです。そのための使者が、最澄であったのです。ですから、最澄は、八ヶ月の旅路で帰朝したのは、仏教修行などではなかったのです。その根拠のひとつとして、年下の空海に頭を下げて、弟子入りし、多くの仏典を借り受け、漢訳仏教の勉強を比叡山でしていたからです。
最澄が帰朝後、京の街では聞きなれない発音をする多くのひと達で溢れていくわけです。山東半島から移民して来た亡命百済民は、1945年太平洋戦争敗戦後アメリカ語が日本全国で流行ったように、先進国唐帝国から移民して来たので、その唐帝国で使用していた発音を、ヤマト言葉に被せたのです。それが、「京都弁」のルーツです。かくして、秦氏末裔は、京都では、二等国民となってしまったのです。
そのような状況に、錬金術師空海は、「施多羅悪人ナリ」の呪文を流行らせていくのです。つまり、肉食する秦氏は悪人である、と言うことです。そこで、都で暮す秦氏末裔は、秦氏から惟宗氏に氏名を変更するわけです。
このような唐進駐軍の威を借りて、秦氏末裔を「施多羅」とする亡命百済貴族が、更に、自らの出自を粉飾するために、「聖徳太子」を発明し「538年百済仏教伝来物語」を創作したことにたまりかねた、秦氏末裔の万葉語学者多人長は、その百済亡命貴族による「日本書紀」改竄に対抗して「書」を著すのです。それが、「古事記」です。
藤原日本史では、「古事記」は、712年完成とするのです。その唯一の根拠としては、奥付に和銅5年(712年)とあるから、とするのです。しかし、その「古事記」が、「日本書紀」よりも8年前に完成していないことは、一寸考えれば誰にでも分かることなのです。
そのひとつとして、何故、「古事記」から8年後に完成した「日本書紀」には、序に天武天皇の言葉が記載してある「古事記」についての記述がないのでしょうか。そして、「日本書紀」の基本記述は、陰陽の二元論であるのに、二元論より後に発明された一元論で「古事記」が記述されているのは、何故でしょう。更に、「日本書紀」よりも8年前に完成した「古事記」には、「日本書紀」の「ある一書曰く」について全て記述されているのは何故でしょう。そして、最大の疑問は、古代新羅万葉語から日本万葉語への完成は、奈良時代ではなく、平安時代なのです。その完成された日本万葉語で「古事記」が記述されているのは何故でしょう。
これらの疑問は、「古事記」は、「日本書紀」よりも後に、それも、奈良時代ではなく、平安時代に記述された、と考えれは、全て解けるのです。
そして、秦氏末裔多人長が、懸念していたように、814年「新撰姓氏録」が亡命百済貴族により創作されたことで、その結果、唐帝国から移民して来た亡命百済貴族が、日本国の「皇族」となってしまったのです。そして、秦氏は、河内湾を干拓し、四世紀から巨大古墳を近畿一帯に築造していたのに、渡来帰化人の「蕃族」に貶められてしまったのです。因みに、ユダヤ教に酷似した「古神道=中臣神道」を発明した藤原氏は、「神族」です。
王権が交代すると、必ず行うことが、前政権の技術・文化を抹殺するための焚書です。そして、思想検閲を行い、新政府に都合の良い思想をメデイアを使いプロパガンダをおこなうのです。
1945年8月15日昭和天皇が、敗戦の詔を発すると、その翌月の9月アメリカ占領軍司令部は、検閲制度を実施し、プレスコードにより新聞を統制するのです。そして、秘密裏に、太平洋戦争でのアメリカ軍に不利な書物を大量に焚書するのです。このことにより、太平世戦争勃発の真相が闇に葬られたことにより、未だに、太平洋戦争の意義が総括できないでいるのです。
そして、アメリカ占領軍総司令部は、その年の12月神社(ジンジャ)と国家との分離指令を発したのです。そして、キリスト教会にラジオ放送施設を設置し、アメリカ思想に染まった文化人を集め放送作家集団を組織して、「神国ニッポン」思想撲滅のために、ラジオで「アメリカ文化励賛の娯楽番組」を制作させていくのです。
そのように、片一方で焚書をし、もう片一方でアメリカ占領軍に都合の良い思想をラジオ番組から流すことにより、民主主義思想を刷り込んでいったのです。しかし、そのアメリカ占領軍司令部の意向に逆らう者には、容赦の無い社会的弾圧を加えていたのです。
奈良時代から平安時代に変換する、百済系桓武天皇の統治時代にも、焚書が行われていたのです。更に、桓武天皇は、反藤原氏で親蝦夷(645年まで飛鳥ヤマトを支配していた騎馬民族末裔)の聖武天皇の遺品が奉納されている正倉院の倉庫群を破壊して、聖武天皇が集めた、オリエント文化を表した絵画類を全て抹殺してしまったのです。
ですから、現在一棟しか現存していない正倉院には、飛鳥時代(古墳時代)や新羅系天武天皇時代の絵画類が、ひとつもないのです。現在目にするそれらの奈良時代を表す絵画は、古くても室町時代で、多くは江戸時代以降に創作されたものであるのです。
近畿一帯の巨大古墳を発掘できれば、それらに埋葬されている遺品により、古墳時代がオリエント文化であったことを証明できるのですが、王権はそれを許可しないのです。正倉院御物には、四つの馬具、カスピ海沿岸産のガラス製瑠璃椀、パミール産のクレの鼓、ペルシャ面などが、オリエント文化を示すだけです。
平安時代初期、平安王朝は、焚書し、思想統制をし、藤原氏が創作した「日本書記」を改竄し、民族差別をするインドのバラモン教色の強い漢訳仏教を輸入し、中国天台宗の経典である民族差別を語る「法華経」を日本列島に持ち込み、百済系王朝に都合の良い思想統制を行っている時代に、秦氏末裔多人長は、万葉語学者として、プロパガンダ要員として、「日本書紀」の講釈師として平安王朝側として存在していたのです。
そのような多人長が、百済系王朝が行う、飛鳥時代の538年に百済仏教が伝来していたとする歴史改竄を暴く「黙示録」を著すには、「暗号」を用いなければ、その書は、百済王朝に焚書されるだけではなく、その著者である多人長も抹殺されてしまうわけです。ですから、「古事記」は、暗号で記述されていたのです。
この暗号を用いて、改竄書を暴くことは、古く「聖書」でもおこなわれていたのです。それが、パモス島のヨハネの黙示録です。その「ヨハネ黙示録」が巻末に掲載されている「聖書」は、紀元7世紀には、イエスの神性を認めないため、ローマ・キリスト教から追放された、ネストリウス派の僧侶により、唐帝国に持ち込まれていたのです。そのネストリウス派は、ミトラ教が太陽神を祀る宗教であるから、中国語で「景教」と呼ばれた組織に吸収されていくのです。
パモス島のヨハネは、「ヨハネ黙示録」を著し、「666の謎」と「1と1と半」のキーワードをその「ヨハネ黙示録」に挿入して、古代エジプトの太陽神アトンから唯一神ヤハヴェを発明したユダヤ民族ザドク一派が、「聖書」に「モーセ物語」を挿入して、太陽神バアルと牡牛を祀るイスラエル民族の歴史を、ユダヤ民族が乗っ取ったことを暴いたのです。
そのパモス島のヨハネの暗号を解読できれば、「神物語」ではなく、「主物語」が、ザドク一派が後から挿入した部分で、その「主物語」を否定して「聖書」を読め、とパモス島のヨハネが唱えていたことが分かるのです。
このことと同じに、秦氏末裔多人長は、百済系天皇家が行った「日本書紀」の改竄を「古事記」の暗号で示していたのです。そのひとつが、「後の者が歴史を改竄したので、ここに天武天皇の命で正す。」と記した序文の謎です。この序文は、本文が日本万葉語であるのに対して、漢文調なのです。
そして、もうひとつの謎は、何故、720年完成の「日本書紀」は持統天皇(686年〜697年)まで記述しているのに、812年完成の「古事記」は推古天皇(593年〜628年)で終わっているのか、ということです。その謎解きは、「日本書紀」が創作した「推古天皇時代」とは、隋王朝(589年〜618年)の時代で、その「随書」は、平安時代の知識階級には読まれていたからです。
つまり、「古事記」を「推古天皇」で終わらせた暗号は、「隋書を読め」、であったのです。その「隋書」では、隋使裴世清が、608年当時の日本列島の現状を、飛鳥ヤマトを支配していた進駐軍の母国である、東ユーラシアを支配していた東突厥帝国と、戦闘状態にあった隋帝国の煬帝(604年〜618年)に報告していたのです。
その報告によれば、北九州に秦王国存在の記述はあっても、飛鳥に女帝推古天皇も聖徳太子なども存在していなくて、そこには、男王アマタリヒコと遣隋使ソインコウ(「日本書紀」では小野妹子)とが存在していたのです。つまり、多人長は、「古事記」の暗号で、亡命百済貴族が改竄した「日本書紀」の推古天皇時代の、538年百済仏教伝来物語を「否定」していたのです。
簒奪王権は、前政権の歴史を焚書と改竄とで隠蔽すると、その後、前政権の祭祀氏族と武器製造を行っていた技術者集団を抹殺する傾向があるのです。
1945年8月30日厚木飛行場に到着した連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本国民を「14歳の少年」と同じ程の知性しかないと述べたのです。しかし、それは本心ではなかったのです。
天皇を現人神とする「神国ニッポン」思想は、世界史を勉強しているひとにとっては、空想物語の何事でもありません。しかし、子供の頃から刷り込まれた思想は、その思想から開放されるのは、よほどのことが無い限り、不可能なのです。ですから、平成時代の今日でも、お年寄りは時々「神国ニッポン」などと口走り、周囲を驚かすことは稀ではありません。
「天皇」の号が、日本列島で用いられたのは、672年天武天皇から、唐帝国が滅亡寸前に遣唐使が菅原道真により廃止されるまでです。907年唐帝国が滅び、平安王朝を支配する唐進駐軍の軍事力の衰えが見えると、唐文化一色の平安王朝も、表意文字の漢語から表音文字(ひらがな・カタカナ)が使われ始め、和風(騎馬民族風)に変化していくのです。そして、平安中期以降から「天皇」号は廃れ、江戸時代まで「天子」(テングリ・騎馬民族の王)が広く用いられていくのです。
騎馬民族系の徳川家康の息子徳川秀忠が、「百済系天皇家」を門に鍵を掛けて拘束するために制定した、1615年「禁中並公家諸法度」には、「天皇」の号はなく、そこには「天子諸芸能事」でも分かるように「天子」があるだけです。その「天皇」号が復活するのは、藤原氏が、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道を復活させるための仕掛け、「伊勢参り」を計画する江戸後期からなのです。
そして、日本国の君主号が正式に「天皇」と規定されたのは、1889年大日本帝国憲法と同時に発令された、皇室典範によるのです。そして、「院」と呼んでいた「過去の天皇」を、正式に「天皇」と全て呼び変えたのは、1925年東京放送局がラジオ放送を開始した時からなのです。そして、明治革命後からの外交文書で「皇帝」と記していたものを「天皇」に変えたのは、1936年二二六事件のあった時からなのです。
以上の「天皇」号の歴史を眺めると、騎馬民族系民族が「天子」(テングリ)から発明した「天皇」号は、藤原氏が日本列島を、祭祀者として支配する「道具」として、今日まで利用されていたことが分かるのです。
アメリカ占領軍総司令部は、1945年12月明治新政府が発明した神社(ジンジャ)と国家の分離令を発令していたのですが、その前月の11月には、サイクロトンの破壊命令と航空に関する研究の禁止命令を出し、関係書籍を没収、或いは、焚書していたのです。
敗戦国のニッポン人は、思想的には「14歳の少年」でも、科学技術面では、アメリカ合衆国と同等か、それ以上に優れていたのです。特に、原子科学と航空工学の研究では、アングロサクソンに対抗できる、アジア民族では唯一の国であったのです。
アメリカ占領軍総司令部が、それらの高度技術を、占領軍総司令部の命令で壊滅させたのは、その日本国の潜在戦闘能力に脅威を感じていたからです。
亡命百済貴族が支配する平安時代が安定してくると、賀茂川の河原に、遊芸者集団が現れるのです。その河原は、死者が流れ着く処で、通称「髑髏ヶ原・ドクロガハラ」と呼ばれていたです。何故、そのような環境的に劣悪な処に、遊芸者集団が現れたのでしょうか。
それは、唐進駐軍の軍事的後ろ盾を得た亡命百済民は、秦氏の支配地山背国を占領し、その地に唐から持ち込んだ漢訳仏教施設を建設して、前政権の祭祀氏族を追放したからです。その前政権の祭祀氏族が、河原の遊芸者集団であったのです。その遊芸者集団には、タタラ製鉄で武器を造る高度技術者も紛れていたのです。
その遊芸者集団が、亡命百済王朝に抹殺されなかったのは、簒奪王権が自ら布教した「穢れ」思想と「怨霊」思想によるのです。
奈良時代までの「天変地変」とは、王権の不正に対する天の裁きであったものが、平安時代になると、その「天変地変」は、「怨霊」の祟りであると、信じられていたのです。それは、つい数十年前の奈良の都での地獄絵の記憶があったからです。
奈良の平城京は、前政権の聖地であった古墳を破壊して、その跡に建設した軍事都市であったのです。更に、藤原氏は、御蓋山の秦氏の祭祀場を破壊した跡に、春日社を建立していたのです。そして、藤原氏は、天皇家でもないのに、天武天皇の孫長屋王を謀殺して、奈良王朝を実質的に支配していたのです。
しかし、752年東大寺の遍照鬼が完成すると、奈良の都には奇病が発生するのです。古代では、病気とは皮膚病などの目に見える病のことで、中枢神経を侵す病は、「祟り」と信じられていたのです。その奇病の原因は、遍照鬼を鋳造した時の、銅毒と水銀毒であったのですが、当時では、鉱毒の知識がなかったので、前政権の宗教施設を破壊した結果の「祟り」と信じられていたのです。この奈良の都の「祟り」の記憶が、平安時代に蘇ったのです。
794年平安京に遷都した百済系桓武天皇も、「祟り」に怯えていたのです。それは、実弟早良親王を謀殺しただけではなく、父光仁天皇の前妻母子(井上皇后と他戸親王)も謀殺していたからです。そして、山背国にあった秦氏の祭祀場「ハチオカテラ」を破壊して、その跡に仏寺「広隆寺」を建立して、ミトラ神を「弥勒菩薩」として封印していたからです。更に、秦氏の聖地である比叡山の祭祀場を破壊して、ミトラ神を「魔多羅神」に改竄して追放し、中国山東半島の土着神シャンワンを導入して、「山王神」とし祀っていたからです。
平安遷都から、平安京は祟られていたのです。800年富士山の噴火だけではなく、地震・落雷・不審火・疫病が、平安京を襲っていたのです。平安貴族は、それらの不幸を「祟り」と信じたのです。その「祟り」を鎮めるには、前政権の祭祀者が必要だったのです。そこで、平安貴族は、前政権の祭祀者を賀茂川の河原に集めたのです。
それは、平安京を鎮護する漢訳仏教により企画された御霊会の呪力が弱かったからです。645年唐進駐軍と供に渡来した僧兵軍団は、特殊武器の薙刀により、奈良盆地から山背国へと進撃し、騎馬軍団を近畿一帯から殲滅していったのです。更に、近畿一帯の山の民も、錬金術師空海の、修験者を装う山岳僧兵軍団により殲滅していたのです。
しかし、それらの前政権の武人の怨霊を鎮めるために発明された御霊会の儀式をおこなっても、平安京を襲う天変地変は鎮まらなかったのです。
そこで、唐本国へ武人奴隷として送り込むために、近畿一帯の山々の散所、別所、湯浅、垣内などの捕虜収容所に収容されていた陸奥国捕虜の蝦夷を、その怨霊の魂鎮めの儀式に利用していくわけです。
蝦夷の祖は、飛鳥ヤマトの武人であったので、そして、タタラ製鉄技術を持つチュルク末裔であったので、蝦夷の武器である蕨手刀から、刀舞のための薄刃の「日本刀」を発明するわけです。更に、怨霊との戦いのために、牛の角を付けた兜と派手な鎧を創るのですが、王権から実戦武器の使用が認められていないので、その鎧兜は、総革製であったのです。
そのような総革製の鎧兜と、実践的でない「日本刀」で武装した蝦夷は、古代の「神」の呼称である「モノ」から、「モノ」の僕(しもべ)であるため、「モノノフ」と呼ばれていくのです。そして、645年以降、侵略者により破壊された古墳跡の禁足の空き地(神地)で、怨霊(仏敵の神=秦氏の神)の魂を鎮めるために刀舞をおこなうのです。これが、「武芸」の始まりです。
平安時代では、この禁足地での怨霊の魂鎮めのことを「キヨメ」と云っていたものが、第二百済王朝である北条鎌倉時代(1205年〜1333年)になると、亡命百済民により、その聖なる「キヨメ」が、汚物処理の「キヨメ」とされて、関西では「穢多・エタ」、三河では「革多・カワタ」の「賎民仕事」に貶められていくのです。
ですから、941年天慶の乱の鎮圧での活躍後に、「モノノフ」が、王権から認めてもらえて「武士」となっても、新羅末裔の「武士」は、百済系武人は平氏の「サムライ」で「おサムライ様」と呼ばれても、粗忽者の「武芸者」と後々までも呼ばれていくのです。
武士の発生は、その天慶の乱の939年から941年までの内乱の武力鎮圧であったのですが、それには、907年唐帝国滅亡の結果による東アジアの動乱と大いに関係していたのです。
907年唐帝国が、辺境を守る軍団長の朱全忠により倒され、後梁(907年〜923年)を興したのです。そして、宋(960年〜1126年)により中国大陸が統一されるまで、五胡十国の時代に突入していくのです。その五胡の「胡」とは、ペルシャ、突厥(チュルク)などの西方民族の総称です。その十国の多くは、突厥帝国軍人末裔が軍事力で支配していたのです。
その唐帝国が滅亡したため、唐との交易で栄えていた新羅も、935年新羅・後百済・高麗に分裂後、高麗の地方豪族王建により、936年朝鮮半島が統一され、高麗(936年〜1391年)が興るのです。
ギリシャ・ローマ文化国で表音文字(古代新羅万葉語)を使う古代新羅(356年〜527年)では女王国であったのですが、672年「日本国天武天皇」誕生と時を同じくする、統一新羅(675年〜935年)も女王国であったのです。
極東での女王国は、古代新羅と飛鳥ヤマト王国(天武王朝672年〜770年)だけで、漢訳仏教文化の高句麗も百済も女王国ではなかったのです。このことからも、表音文字(ヤマト万葉語)を使う飛鳥ヤマトと、表音文字(古代新羅万葉語)を使う古代新羅との関係が示唆されるのです。
その統一新羅が、935年滅びると、その女王国の王族・軍人は、日本列島に亡命するのは、663年百済が滅びると、百済王族が日本列島に亡命し、667年近江亡命王朝を築いたのと同じです。
四世紀の日本列島には、古代新羅から秦氏が渡来していたのですが、その移動拠点は、北九州→吉備→河内→奈良盆地→山背国と、そして、古代新羅→出雲→若狭→琵琶湖を経て→山背国の2ルートがあったのです。しかし、794年以降、亡命百済民が支配する平安王朝期では、秦氏が支配していた山背国は、亡命百済移民の山城国となり、秦氏の聖地比叡山は、中国天台宗を招いて、百済系の延暦寺の山城となっていたのです。
そして、亡命百済移民により山背国を追われた秦氏末裔は、河内の河口ワタナベ(岬の意味)に集結していたのです。高麗に敗れた統一新羅王族と、ローマ帝国軍末裔の新羅花郎軍団末裔は、その河内に上陸するのです。
この渡来軍団が、河内の源氏一族に合流することになるのです。それは、武家源氏の棟梁となった源頼義の子義家は「八幡太郎」と名乗り、その弟義光は「新羅三郎」と名乗っていたからです。因みに、八幡太郎の「八幡」の真の意味は、「ハチマン」ではなく、「ヤハタ」で、「多くの秦氏」つまり、「秦氏が栄える」の意味です。
そのような統一新羅渡来軍団が、日本列島に侵攻することにより、唐進駐軍の軍事力が衰えていたので、瀬戸内海では藤原純友が兵を興し、そして、関東では平将門が兵を興し、平安王朝打倒を目指していたのです。その反乱軍を鎮圧したのが、蝦夷捕虜である「モノノフ」と同族の騎馬民族である、河内に渡来した統一新羅花郎軍団であったのです。
唐進駐軍の勢力が衰えた平安中期に、日本列島に渡来したのは統一新羅亡命移民だけではなかったのです。伊勢には、アラブの国際海洋交易民族が渡来していたのです。それは、唐帝国を国際交易中継基地として、日本国へ南インド産の香木や孔雀の羽などを交易品としていたアラブ国際海洋商人が、唐帝国が滅亡したため、直接日本国へそれらの交易品を持ち込んでいたのです。
伊勢湾へは、古来から南海民族が船で黒潮に乗り渡来していたのです。それは、伊勢には、奈良の宇陀と同じに、国際交易品の朱砂が産出していたからです。それは、伊勢と宇陀は、中央構造線上に位置していたので、地下の鉱物資源が地表に現れていたからです。ですから、伊勢から、中央構造線に沿って、西に進むと、宇陀に至り、更に西に進むと、沈黙交易が行われていた奈良盆地の三輪山麓のイワレ・ツバキ市に至るのです。このことから、箸墓古墳から東海産の土器が多く出土することが説明できるのです。
藤原日本史では、海洋民族史が欠落しているのは、それは、藤原氏の祖の歴史が暴かれてしまうからです。藤原氏の祖の渡来元の南インドのマラバル沿岸は、紀元前10世紀ヘブライ国のソロモンが、国際海洋民族フェニキアの外洋船により、南インド産の香料、香木、孔雀の羽、猿などを輸入して、近隣国に法外な価格で売りつけていたのです。ソロモン王の財宝は、そのような南インドとの国際交易で産出されていたのです。
その南インド産の国際交易品は、571年「旧約聖書」に感化されたムハンマドのイスラム教のサラセン帝国が興ると、瞬く間に、ササン朝ペルシャだけではなく、エジプトまでもその支配下においたのです。このことにより、ユーラシア大陸のシルクロードは、イスラム教の支配下に置かれたのです。
紀元8世紀、このイスラム教とローマ・キリスト教との軍事的対立が、カスピ海沿岸のシルクロート国際交易国であるカザール王国を、ユダヤ教国へ替えたのです。そして、この国際交易商人である白いユダヤ人が、各国の王権・貴族との姻戚関係を構築することにより、紙のお札を刷り出す中央銀行という私的銀行の国際集団により、世界の金融を独占支配していくことになるのです。
紀元1世紀から西のヨーロッパと東の中国との交易をおこなっていた、反イスラム教のローマ・キリスト教やユダヤ教の国際交易商人は、交易ルートを陸路から海路に変更したのです。唐帝国の興亡(618年〜907年)は、正に、この陸路から海路への交易ルート変更時期であったのです。
それは、唐帝国は、南インド産の国際交易品と、中国産の絹製品との交易中継国でもあったからです。しかし、唐帝国唯一の交易品である絹製品を作り出す「繭」が、僧侶により、持ち出されると、シルクロードの各国で養蚕が盛んとなり、絹製品が作られて行くと、唐帝国の経済を疲弊させたのです。
経済が疲弊すると、軍事力も疲弊することは歴史が示すところです。劃して、唐進駐軍が、奈良時代から平安中期まで、その軍事力により支配していた日本列島も、平安中期になると、統一新羅亡命民(武家源氏の祖)やアラブ国際交易商人団(平家の祖)が渡来していたのです。
藤原日本史では、先住武士団を隠蔽・改竄しているのです。そのひとつが、陸奥国の蝦夷です。蝦夷を縄文時代の末裔の石器武器の集団のように描いているようですが、唐進駐軍と桓武天皇軍とが大軍団を編成しても、武力で勝利することができなかったのです。そこで、金髪の坂上田村麻呂の騙しにより、蝦夷棟梁のアテルイを京で惨殺したことにより、801年蝦夷を平定していたのです。
そのように、蝦夷の戦闘能力が優れていたのは、その祖がユーラシア大陸を支配していたチュルク族の騎馬軍団だったからです。弓馬で隊列を攻撃し、接近戦では蕨手刀を振りかざす騎馬軍団は、歩兵集団の唐進駐軍と桓武天皇軍では相手にならなかったのです。
そのような、陸奥国の蝦夷の歴史について、藤原日本史は多くを語らないのです。
そして、藤原日本史のトリックのもうひとつが、平安時代末期に活躍した武士団の出自を隠蔽・改竄したことです。それらの武士団とは、「平氏」、「平家」、「源氏」です。
「平氏」の歴史的出現は、百済系桓武天皇が、794年秦氏の支配地山背国を侵略すると、そこを山城国とし、平安京を築くのです。しかし、その息子達は、藤原氏の陰謀により仲違いして戦うことになるのです。それが、平城天皇を返り咲かせようとする藤原薬子軍団と、政権を護ろうとする嵯峨天皇軍団による、810年藤原薬子の乱です。
その戦いで勝利した嵯峨天皇は、814年源氏の賜姓をしたのです。これが嵯峨源氏の始まりです。そして、816年都の警察組織として令外官として検非違使を設置したのです。
そして、823年嵯峨天皇から淳和天皇に替わると、825年「平氏」の賜姓をしたのです。これが「公家桓武平氏」の始まりです。桓武平氏は、亡命百済民の息子により組織されたので、その祖が長らく中国山東半島で暮らしていたため漢語が読み書きできたので、漢語使用の唐文化一色の百済系天皇や百済系貴族の側近として、「秘書」兼「護衛」としていたのです。それが、貴人に侍う(サブラウ)ことから、「サムライ」と呼ばれていくわけです。ですから、平氏の「サムライ」は、武装はしていても、実戦での戦闘能力は疑問であったのです。
それに対して、「平家」は、「平氏」が淳和天皇からの賜姓に対して、天皇から正式に賜姓されたものではなく、藤原氏に対抗していた白河上皇の「私兵」であったのです。その私兵軍団の「平家」の出自は、アラブ海洋交易民族末裔で、平安時代末期に、伊勢から京の賀茂川のギオンを支配地とした海洋系武士団であったのです。
では、「源氏」の出自はどのようであったのでしょうか。前出したように、嵯峨源氏は、814年に始まるのですが、それは「公家源氏」で、1192年鎌倉幕府を興す源頼朝の祖「武家源氏」とは異なるのです。
それは、「嵯峨源氏」は、その名は、中国大陸文化に習って、源綱のように「一字」であるのに対して、「武家源氏」の祖とする「清和源氏」は、源経基のように「二文字」であるからです。その「武家源氏」の祖、源経基が歴史上現れたのが、941年の天慶の乱後であるのです。
源頼朝の祖「武家源氏」の出自の謎は、その祀る神からも疑問が発せられるのです。1192年「武家源氏」棟梁の源頼朝は、鎌倉に幕府を開くと、鶴岡八幡宮を祀るのです。その鶴岡八幡宮の歴史は、鶴岡八幡宮←1063年源頼義が相模国由比郷に石清水八幡宮を分霊←860年僧行教が平安京の鎮守として宇佐の八幡大菩薩を石清水男山に勧請←725年八幡神小椋山へ遷座←欽明天皇の時代(531年〜571年)に豊前国宇佐郡馬城嶺へ八幡神が顕現、となるのです。
その「武家源氏」出自の謎は、530年蘇我稲目(藤原日本史が創作した人物。実際は突厥進駐軍将軍)が突然歴史上に現れた、藤原日本史が創作した仏教伝来物語で出演の「欽明天皇」の時代に現れた宇佐八幡神を祀っていることです。
その北九州の宇佐とは、608年隋使が「秦王国があった。」、と語っていた処です。何故、941年突然歴史上に現れた「武家源氏」は、宇佐の秦氏の神を祀ったのでしょうか。
武家源氏の神を祀る石清水八幡宮の更なる謎は、「延喜式神名帳」にその記載が無いことです。
「延喜式神名帳」とは、901年反藤原氏で、遣唐使船を廃止した菅原道真を九州の大宰府に左遷し謀殺した藤原時平が、927年漢訳仏教が支配する平安王朝の祭祀権を、中臣神道の藤原氏の支配下に置くために創作した「延喜式」の中に「延喜式神名帳」として著したものです。
しかし、その藤原氏の陰謀は、1017年漢訳仏教組織が発明した思想、「本地垂迹説」により瓦解してしまうのです。藤原氏の中臣神道復活の陰謀成果は、「伊勢のエエジャナイカ運動」が始まる江戸末期まで待たなくてはならなかったのです。
では、その石清水八幡宮の歴史記載は、どの書籍にもないのかと探せば、六国史にある国史現在社391の中にあったのです。その六国史とは、奈良時代からの日本国の支配国である唐帝国へ提出する漢語で記述された「日本国」の現状報告書である、720年「日本書紀」、797年「続日本紀」、840年「日本後紀」、869年「続日本後紀」、879年「日本文徳天皇実録」、そして、901年「日本三代実録」のことです。これらの漢語書籍は、907年唐帝国滅亡以降には著されてはいないのです。
901年以前には記載のあった石清水八幡宮が、927年「延喜式神名帳」には記載されなくなった理由は何故でしょうか。
その謎解きのヒントのひとつが、国史現在社391社にあるのです。平安王朝の支配下で、国史現在社が無いのは、志摩、参河(三河)、伊豆、相模、安房、越後、そして、大隈の諸国であるのです。これらの国史現在社が無い地域は、901年現在、未だ、百済系平安王朝の支配下になかった国なのです。つまり、それらの諸国は、第一百済王朝の平安時代では、異界の地であったのです。
1159年平治の乱で、「平家」の平清盛に敗れた「武家源氏」は、山野に逃れ、源義朝の子源頼朝は、「伊豆」に流されていたのです。
その「伊豆」とは、「イズ・夷住」で、エビスが住む異界の地であったのです。その「イズ」には、907年唐帝国が滅亡したことにより、平安京の百済系貴族の秘書兼警護役の「サムライ・桓武平氏」が、941年勃興した「武家源氏」が藤原氏の私兵となり、藤原氏が平安京を支配したことにより、関東の僻地へ逃亡していたのです。それが、「平氏」の北条氏(伊豆)、千葉氏(安房)であったのです。
藤原日本史では、その平安時代中期の大変動の歴史を隠蔽し、「枕草子」や「源氏物語」などの女流文学が盛んになった、国風文化華やかな「平安王朝」を記述しているようですが、史実は、東アジアの動乱の影響を直接受けていたのです。
そのひとつが、統一新羅の花郎軍団の渡来による、唐文化から騎馬民族文化への政変です。
その根拠のひとつが、国を治める「天皇」の呼称の変化です。「天皇」号は、672年新羅系天武天皇が、騎馬民族の「王」である「テングリ・天子」から発明した呼称です。
この「天皇」号を利用して、唐進駐軍の後ろ盾により、「天皇家」と姻戚関係を結ぶことで政治をコントロールしていたのが、祭祀氏族の藤原氏です。しかし、藤原氏の専横により、藤原氏が滅亡し、奈良時代が終焉したのです。
その藤原氏に替わって、亡命百済貴族が「桓武天皇」となって支配したのが、平安時代の始まりです。その桓武天皇家も、唐帝国の傀儡であったのです。ですから、本国の唐帝国が907年滅亡し、その後ろ盾を失うと、急速に百済系王朝が衰退してしまったのです。
その日本国の支配者の象徴である「天皇」の呼称は、平安時代中期の冷泉天皇(967年〜969年)から、騎馬民族の王を表わす「天子・テングリ」へと替わっていたのです。このことは、支配者としての騎馬民族の台頭を示唆します。
そして、騎馬民族の権勢が衰える、第二百済王朝の北条鎌倉幕府時代(1219年〜1333年)でも、「天皇」の呼称は使われず、「院」を用いていたのです。
「天皇」の号が復活するのは、それから約8百年後の、江戸時代後期の後桃園天皇(1770年〜1779年)からであったのです。
藤原日本史では、極端に騎馬民族文化の歴史を侮蔑・抹殺、或いは、隠蔽しているようですが、騎馬民族末裔の「武家源氏」が支配していた時代では、ユダヤ色の強い藤原文化と、ツングース文化色の強い百済文化ではなく、ユーラシア文化が存在していたのです。
源氏武士末裔の足利氏の勢力が衰退して、1467年応仁の乱から戦国時代に突入した、下克上の時代では、政治力(陰謀力)ではなく、武力の時代ですから、武力に勝る騎馬民族の天下であったのです。ですから、陰謀力の優れた藤原氏が発明した「大嘗会」も、1466年から断絶していたのです。その復活は、第三百済王朝の江戸時代の霊元院(1663年〜1687年)からなのです。
このことから、藤原氏が復活した明治新政府により発明された、万世一系の「天皇家」のトリックが暴かれるのです。明治天皇が行う、古代風儀式の十三の内、最も古い儀式と言われる「大嘗会」も、そのように飛鳥ヤマト時代から連綿とは続いていなかったのです。そして、天皇家の十二の古代風儀式は、明治維新後に発明されたものであったのです。
歴史のすり替えは、藤原氏だけの専売特許ではなかったのです。それは、平安王朝を支配した亡命百済貴族も、538年百済仏教伝来物語で「聖徳太子」を発明して、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史のすり替えをおこなっていたのです。
更に、源氏棟梁であった源頼朝三代の「源氏武士団」を謀略で倒した「平氏」の北条鎌倉時代になると、百済系武人の「サムライ平氏」による、アラブ系武人である「平家」の歴史の乗っ取り物語を創作するのです。
そして、「平氏」の北条鎌倉幕府は、「六波羅探題」の捜査網により、「源氏」「平家」の残党狩りをおこない、民族差別をする漢訳仏教思想により、騎馬民族の「武家源氏」末裔を「穢多」「革多」に、そして、海洋民族の「平家」末裔を海部(余部)の賎民に落し込めて行くのです。
この「平氏」による、「源氏」「平家」の歴史改竄・隠蔽が、中世史及び戦国時代の歴史を分からなくしているのです。
何故、織田信長が、1568年足利義昭を奉じて入京した時、賎民である海洋民族「平家」末裔の「余部」を織田信長の配下であることを宣言し、保護したのか、そして、1571年比叡山延暦寺を焼討ちし、その高僧も含めて「欺瞞者ども」と言って、全僧を斬首したのでしょうか。
平安時代中期、賀茂川の河原での怨霊鎮めのパフォーマンスをおこなっていた秦氏末裔の祭祀集団に、伊勢から侵攻してきた海洋民族集団が合流するのです。
その秦氏末裔の怨霊鎮めの儀式では、牡牛を屠っていたのです。そして、牛の頭を、神に捧げていたのです。この不思議な儀式の意味は、古代エジプトでの太陽神を祀る儀式であったのです。
古代エジプトでは、紀元前2781年太陽暦を創始していたのです。その頃、太陽が廻る黄道には、牡牛座が位置していたので、牡牛が太陽神の化身として信じられていたのです。
紀元前十四世紀、多神教を祀る神官は、勝手に神々を創作して、王権を神官の支配下に置いていたのです。そこで、アメンホテプ4世(イクナトン)は、王権を脅かす神官を排除するために、宗教改革をおこない、ヒッタイト帝国で「契約の神」として信じられていた太陽神である「ミトラ神」を導入して、唯一神・太陽神アトンを発明するわけです。
その太陽神アトンは、不滅の神で、死と再生を繰り返すのです。その太陽神アトンの死期である冬至(12月25日)は、又、再生の日でもあるのです。つまり、太陽神信仰では、死期は、再生日の始まりでもあったのです。
そこで、儀式が発明されるのです。それは、太陽神の化身である牡牛を屠ることです。その儀式の意味は、「牡牛を屠る」(太陽神の死)ことにより、「太陽神の再生」を約束させるのです。このことが後に、太陽神に願い事をおこなう時、牡牛を屠る儀式となっていくのです。
この牡牛を屠る儀式は、四世紀の古代日本列島にも、オリエントから朝鮮半島を経由して渡来した秦氏の西域民族により持ち込まれていたのです。その根拠のひとつとして、飛鳥ヤマトから発掘される建物遺跡の多くは、建築基準軸が、南北線より西に約20度傾いているからです。それは、冬至の太陽を基準に建設されていたことが示唆されます。もし、その建物が、西方浄土思想の漢訳仏教文化の宗教施設であれば、建築基準軸は、南北であるはずです。
645年漢訳仏教を掲げて飛鳥ヤマトに侵略してきた唐進駐軍が、藤原氏の傀儡政権を樹立した奈良時代には、741年反藤原氏の聖武天皇が秦氏の支配地である山背国の恭仁(くに)京に逃れていた時、平城京の真の支配者(唐進駐軍)は、その牡牛を屠る儀式を、政令を出して禁止していたのです。
そして、藤原氏に替わって亡命百済王朝となった平安時代初期、百済系平安王朝の桓武天皇は、804年牡牛の屠殺禁止令を発していたのです。
しかし、桓武天皇の謀略の数々により誕生した怨霊がはびこる平安京で、嵯峨天皇の側近として鎮護国家を祀る、アラム語の呪文を唱える真言密教儀式をおこなう錬金術師空海の呪力でも、それらの怨霊を鎮めることができなかったのです。
錬金術師空海は、百済系王権に逆らう「鬼」である山の民を、「施陀羅悪人ナリ」と唱えて、僧兵軍団の武力で滅ぼすと、山の民が信仰していた東大寺の遍照鬼(ミトラ神)の名を、「大日如来」と命名して、仏像に改竄してしまうのです。このことから、奈良の大仏様は、仏像となるのですが、庶民のこころまで真言密教で呪縛できなかったので、江戸時代末期まで、奈良の大仏は、祟り仏像として恐れられていたのです。
真言密教の呪力は、密室の空間でしかその効力はなかったのです。それは、護摩壇で焚く、大麻の煙が拡散してしまう、野外では、錬金術師空海が発明した真言密教の護摩祈祷儀式は、ただの焚き火にすぎなかったのです。
因みに、「ウソ」をつく意味の、「ゴマカス」とは、護摩祈祷儀式での大麻の煙により、酩酊状態の者に「ウソ」の仏教物語を刷り込むことです。別の言葉では、大麻の煙で精神状態をあやふやにすることを、「ケムニマク」と言います。
そこで、怨霊に苦しめられていた平安貴族により、山奥に逃れていた飛鳥ヤマト時代の祭祀氏族が、平安京に跋扈する怨霊(前政権の神)の魂を鎮めるために、賀茂川の河原に集められたのです。そこでおこなわれた儀式のひとつが、牡牛の屠り儀式であったのです。
その秦氏祭祀者の儀式に、アラブ系海洋民族の祀りが加わることにより、牡牛の切頭を小船に乗せて、ペルシャ絨毯で飾った「山車」による「ギオン祀り」がおこなわれていたのです。ですから、ツングース系亡命百済貴族は、その「ギオン祀り」がおこなわれる時期は、「みこしたがえ」と言って、「ケガレ」が付かないように京の街から避難していたのです。
この秦氏末裔と海洋民族末裔による「ギオン祀り」は、後の第二百済王朝の北条鎌倉幕府の王権により、牛頭天皇を祭る、魔多羅神の「牛祭り」に改竄されてしまうのです。
そのような騎馬民族や海洋民族末裔が、平安京で怨霊鎮めの祭祀儀式の担い手となることで、賎民から祭祀者として復活していくわけです。そして、平安時代中期の冷泉天皇(967年〜969年)には、672年天武天皇から続いていた「天皇」号が、賀茂川の河原で秦氏末裔や海洋民族末裔が祭祀者となる平安中期には、騎馬民族の王を表わす「天子・テングリ」へと替わっていたのは、農耕民族に替わり、騎馬民族や海洋民族の隆盛を示唆します。
桓武天皇がおこなった御霊会の効力がないことが分かり、嵯峨天皇の時代、錬金術師空海が真言密教の護摩祈祷呪法を発明しても、その怨霊は鎮まらなかったので、賀茂川の河原で、前政権の祭祀者が集められたのですが、その秦氏末裔がおこなう西域風祭祀儀式が、民衆のこころを惹き付けていったのです。
それらの祭祀儀式のひとつとして、秦氏の祖は、ギリシャ文化継承国のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。紀元前140年から大月氏国。「日本書紀」では「弓月国」)にも暮らしていたので、ギリシャ仮面劇の流れを汲む「秦楽」をおこなっていたのです。
この仮面劇が、百済系北条鎌倉時代に、秦楽(シン)から→申楽(シン=サル)→猿楽と貶められてしまうのです。しかし、このギリシャ仮面劇の秦楽が、北条鎌倉時代に猿楽となっていたものが、騎馬民族末裔が復活した足利氏の室町時代になると、勧阿弥・世阿弥親子により「能楽」の日本国伝統文化として確立されるわけです。
そして、陸奥国捕虜の蝦夷が発明した、「日本刀」と総革製の、牡牛の角を付けた兜と派手な鎧で、怨霊の魂を沈めるための「武芸」である「キヨメ」は、北条鎌倉時代になると、賎民の仕事である汚わい清掃の「キヨメ」にされてしまうのです。
更に、第二百済王朝の北条鎌倉時代になると、アラブ海洋民族末裔の「平家」の歴史が、ツングース系百済末裔の「平氏」の歴史に改竄され、1152年「平家」の平清盛が、フェニキア海洋民族のシンボル色であるインドのベンガル地方で産出される酸化鉄によるベンガラ染めの「赤色」で染め上げた、「平家」の氏神を祀る「厳島社」としたものを、1219年尼将軍となった、武家源氏棟梁三代を謀殺した「平氏」の北条政子は、「源氏」の氏神を祀る鶴岡八幡宮に対抗して、「厳島社」を「平氏」の氏神を祀る「平氏の社」に改竄してしまうのです。
ですから、それらの亡命百済民末裔尼将軍の北条政子のトリックに引っかかってしまった歴史愛好家は、「平家」と「平氏」の区別がつかないことになるのです。
このような北条政子のトリックは、「源平合戦」が、「赤旗」を掲げるアラブ海洋民族末裔の、藤原氏に支配された平安王朝を乗っ取った「平家」を滅ぼすため、「白旗」を掲げる秦氏末裔・突厥帝国軍末裔と統一新羅花郎軍団末裔の「武士」の武闘力を利用するために、イズ(伊豆)を支配する「サムライ」の百済系平氏の「北条氏」を中心に、下総を支配する「千葉氏」、三浦半島を支配する「三浦氏」、上総を支配する「上総氏」、そして、秩父を支配する「秩父氏」の「桓武平氏」が結束して起こした、「アラブ系」「オリエント系」「ツングース系」の異民族戦争であったのです。
つまり、「源平合戦」とは、「平家」対「源氏+平氏」の戦いであったのです。ですから、「平家」は赤旗で、「平氏」は白旗を掲げて戦っていたのです。
1221年承久の乱により、完全に「源氏」残党を壊滅した、「平氏」の北条氏は、「六波羅探題」を設置して、「平家」「源氏」残党狩りをおこなうのです。そして、1232年御成敗式目を制定して、「源氏」の武力政治から、「平氏」の文民政治に変換するのです。そして、「平家」や「源氏」の武人から、「平氏」の文人を区別するために、「武家」という号を発明するのです。それに対して、藤原氏は、亡命百済貴族の「皇族」に対して「公家」の号を発明するのです。
これらの歴史的トリックにより、「平家」と「源氏」の歴史が抹殺されてしまうのです。しかし、百済系の北条鎌倉幕府には、山に逃れた「源氏」残党の歴史まで消すことは出来なかったのです。
紀元四世紀から河内を支配していた秦氏の支配地に、935年統一新羅が滅亡したことにより、新羅花郎軍団が渡来した理由は、その祀る神にあったのです。秦氏の神は、太陽神ミトラです。そして、新羅花郎軍団も太陽神ミトラを祀っていたのです。
その根拠として、新羅花郎軍団の、「花」とは、「ミトラ」の漢語借字であるからです。巷の歴史書には、「花郎軍団」とは、「化粧をした美男子」が統率する軍団と説明しているものもあるようですが、それは間違いです。では、その花郎軍団の祖は、誰かと言えば、それは、ローマ帝国軍団であったのです。
紀元一世紀、シルクロードが開発されると、西のローマ帝国(27年〜395年。395年東西に分裂)と東の後漢(25年〜220年)とで、盛んに馬絹貿易をおこなっていたのです。
97年には、後漢の和帝は、甘英をローマ領に派遣していたのです。その甘英は、パルチア王国からペルシャ湾岸に至り、帰国していたのです。そして、166年後漢から「大秦王」といわれたローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者は、後漢に渡来していたのです。
更に時代が下り、ユーラシアを支配していた突厥帝国(552年〜582年。583年東西に分裂)には、568年東ローマ帝国のゼマルクスが渡来していたのです。それほど、歴史上、ヨーロッパと中国とは、交易商人だけではなく、軍団の行き来もあったのです。
ローマ帝国の建国は、アウグスツス(紀元前27年から紀元14年)が、初代ローマ皇帝となったことから始まるのです。そのローマ帝国軍は、ギリシャ文化を崇拝していたのです。
ローマ帝国が起こる前のローマ共和国時代、ギリシャ、マケドニア王国、エジプト王国諸国を次々に「ロンギヌスの槍」で倒していったのです。しかし、文明度で低いローマ共和国軍は、征服地の文化・宗教を破壊するのではなく、取り込んでいったのです。ですから、ローマ共和国を引き継いだローマ帝国軍には、ギリシャ文化、エジプト文化、そして、ヒッタイト帝国があった西アジア文化を継承していたのです。その西アジアで、ローマ共和国軍は、太陽神ミトラを軍神として取り入れていたのです。
紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、ミトラ神は、契約の神として国際商人達の商いで活躍していたのです。信用の置けない異民族との交易では、取引でのごまかしが懸念されます。そこで、絶対神が見守る広場で国際交易がおこなわれていたのです。その神が、太陽神ミトラであったのです。
その後、その契約の神である太陽神ミトラは、野戦場で対峙する軍団の境界線に降臨して、戦士の不正を見張るローマ軍団の「軍神」となってしまうのです。
不死身の神・太陽神ミトラから見守られた軍人は、正々堂々と戦い敗れても、その命は再生される、とローマ軍人に信じられていったのです。このことにより、ローマ帝国軍団では、太陽神ミトラは、軍神として崇められていたのです。
紀元一世紀、ローマ帝国軍が、シリア王国を滅ぼし、そこをローマ領として統治すると、「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、「イエス・キリスト」)と唱える集団が蜂起するのです。
その熱狂的集団は、民衆を蜂起・結束させるため、「新しい神」の権威付けのために、古くからある物語を綴った小冊子36冊と、オリエントから持ち込んだ新しい物語により、「ギリシャ語の合本」を創るのです。そして、その集団は、「カナンは我等の地で、我々は古代エジプトから渡来した聖なる民族の末裔である。」、と唱えるのです。
その熱狂的集団の勢力は、やがて、統治者のローマ帝国総督を脅かすほどの勢力になっていくのです。しかし、その「ヨシュアはメシア」と唱える集団を恐れたのは、ローマ帝国だけではなかったのです。それは、古くからある小冊子をこころの拠りどころとしていた正統ユダヤ祭祀者も、その新興集団の熱狂に脅威を感じていたのです。それは、古くからある小冊子に、北インドのガンダーラ(ギリシャ文化継承国バクトリアがあった地)から持ち込んだ物語を付け加えていたからです。そこで、正統ユダヤ祭祀者も、新興集団のギリシャ語の合本に対抗して、ガンダーラから持ち込んだ新しい物語を排除して「ヘブライ語の合本」を作ったのです。
ギリシャ語の合本も、ヘブライ語の合本も、紀元前13世紀からではなく、紀元一世紀に創作されていたのです。
太陽神ミトラを崇拝するローマ帝国軍は、シリアを統治するために、その「ヨシュアはメシア」と唱える新興集団を抹殺するために、正統ユダヤ祭祀者を利用したのです。
やがて、新興集団の勢力が衰えていくのですが、392年ローマ帝国の統治に失敗したテオドシウス1世は、勢力を盛り返していたユダヤ教徒を壊滅するために、「ヨシュアはメシア」と唱える集団の宗教を、ローマ帝国の国教としてしまうのです。これが、ローマ・キリスト教です。
このユダヤ教ヨシュア派をローマ帝国の国教とした行為に反発した、軍神である太陽神ミトラを信じるローマ帝国軍人の結束が乱れることにより、395年テオドシウス大帝が死去すると、ローマ帝国は、分裂して、西ローマ帝国、ローマ教会、東ローマ帝国となるのです。
その東ローマ帝国で、431年エフェソスの公会議で、ヨシュア(ギリシャ語でイエス)の神性を認めないネストリウス派は、ローマ・キリスト教から異端とされ、435年東ローマ帝国から追放されるのです。このネストリウス派キリスト教徒は、シルクロードにより東の北魏(386年〜534年)を目指すのです。
東ローマ帝国の国教となったユダヤ教ヨシュア派の熱狂的教徒は、ローマ帝国軍団が崇拝していたミトラ教の地下神殿を徹底的に破壊し、その上に、ローマ・キリスト教の教会を建設するのです。
そして、ミトラ教を歴史的に抹殺するために、そのミトラ教の祭祀儀式を、ローマ・キリスト教に取り入れるのです。それらは、ミトラ神の再生日を「クリスマス」に、太陽神のシンボルであるマルタクロスを「十字架」に、牡牛を屠り太陽神と一体になる儀式を「赤ぶどう酒とタネナシパンの儀式」に替えてしまい、今日のキリスト教の儀式に至るわけです。
この前政権の宗教を抹殺する手法は、漢訳仏教にも取り入れられていたのです。それは、太陽神ミトラを「魔多羅」に貶めたり、仏像の「弥勒菩薩」や「大日如来」に、そして、唯一神の太陽神アトンを、「阿弥陀」に改竄して、漢訳仏教思想の「仏」にしていたのです。
その極東を目指すキリスト教ネストリウス派の一行には、ローマ・キリスト教徒に地下神殿を壊滅された、ミトラ教徒のローマ帝国軍団も同行していたのです。
その北魏では騎馬民族の太武帝(423年〜452年)が支配者になると、後秦(383年〜417年)の国師となっていたバラモン僧の鳩摩羅什が、ガンダーラで発明されたギリシャ語の物語(一説ではサンスクリット語。漢訳されると原典は全て焚書されていたため証明はできない。現在あるサンスクリット語の仏典は七世紀に復元されたもの。)を漢訳した「漢訳仏教」が盛んであったものが、443年寇謙之により、北極星を「太一」として祀る「道教」が成立したため、騎馬民族を蔑視する思想が多くある鳩摩羅什が発明した「漢訳仏教」を排除するために仏教弾圧をおこない、風紀を乱す仏教徒を追放し、国が動乱していたからです。動乱国には、新しい宗教者は進入しやすいのです。
その反ローマ・キリスト教のネストリウス派と太陽神ミトラを軍神とするローマ帝国残党軍団一行は、北魏(386年〜534年)で、ミトラ教が「景教」と呼ばれていた宗教集団に取り込まれていくわけです。
そして、秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)の母国がバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年)で、そのバクトリアの母国がギリシャ(紀元前900年〜紀元前146年)であることを知っていた北魏では、ギリシャ文化を呑み込んでいたその東ローマ帝国を、「大秦」と呼んでいたのです。
この「大秦」から渡来した集団は、太陽神が極東の山頂に誕生すると信じられているため、シルクロード極東の「奈良・三輪山」を目指すのです。その「奈良・三輪山」に至るためには、朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)を目指したのです。
古代新羅(356年〜527年)が、ギリシャ・ローマ文化国であった証拠は、古代新羅の都慶州の天馬古墳から発掘される遺品が証明します。その古墳から出土した遺品は、ギリシャ式三樹王冠、カスピ海沿岸産のガラス器、ローマ軍人が使用していた脛当、馬冑、馬鎧などなどであるからです。
日本列島古代史を復元するには、藤原日本史のトリックを見抜く必要があります。それは、藤原日本史のトリックに引っかかると、四世紀のヤマトには、紀元前660年から万世一系の天皇家が統治する「大和朝廷」が存在していたと刷り込まれてしまうからです。
更に、日本列島古来の宗教が、「神道」で、その神を祀る「ジンジャ・神社」が存在していて、その「神道」は、552年仏教伝来により、神仏戦争が起こり、崇仏派が勝利したことにより飛鳥ヤマトが仏教国に変身したため廃れ、そして、607年「聖徳太子」が「法隆寺」などを建立したことにより仏教文化が隆盛したが、蘇我氏の横暴により、天皇家が存亡の危機にあった時、藤原氏の祖中臣鎌足と中大兄皇子により、645年蘇我氏が滅んだことにより、天皇家が安泰したが、672年天智天皇派と天武天皇派との兄弟がケンカをして、天武天皇が勝ったため、飛鳥ヤマトの浄御原宮が再び都となりました、との「作り話」を信じてしまうことになるのです。
しかし、「古事記」の暗号解読により、それらの藤原日本史の飛鳥大和物語は、「ウソ」であることが分かるのです。その根拠のひとつとして、その藤原日本史で語る飛鳥時代とは、「古墳時代」(3世紀中期から7世紀)であったからです。その古墳の上や破壊跡の「神地」に「モリ・神社」(「ジンジャ」は明治時代に発明された言葉。)が建立されている意味を知れば、「神道」は、古墳時代以降のものであることが理解できるからです。つまり、「神道」は、古墳時代が終わった、七世紀以降に現れたのです。
藤原日本史の古代史の骨格は、「日本書紀」によるのです。しかし、その「日本書紀」は、漢語で記述されているのです。もし、「大和朝廷」が独立国であるとすると、何故、中国大陸の支配者が使う文字で、日本列島の歴史を記述していたのでしょうか。更に不思議なことは、その漢字の発音が統一されていないのです。その発音とは、「呉音」「漢音」そして、「唐音」です。例えば、「行」は、「ギョウ」「コウ」そして、「アン」と、日本国では発音されるのです。
漢字は、紀元前206年秦帝国を滅ぼした、漢民族が発明した文字と言われています。その漢語文字は、その後、中国大陸を支配した民族に引き継がれていくのですが、漢語の「発音」は、中国大陸を支配したそれぞれの民族により変化していったのです。
では、日本列島に持ち込まれた漢語の始めの「発音」は、どれかと言うと、それは、「呉音」です。
「呉音」とは、中国南方系の発音です。その「呉音」の漢語は、朝鮮半島から伝来したのです。と言うことは、「古代新羅」からではありえないので、「高句麗」ではなく、「百済」から伝わったと示唆されます。
その理由は、ギリシャ・ローマ文化国の「古代新羅」は、漢語を「アルファベットの表音文字」(新羅万葉語)として使っていたからです。しかし、「高句麗」は、372年中国北方系の前秦より漢訳仏教を押し付けられ、そして、「百済」は、384年中国南方系の東晉より漢訳仏教を押し付けられたため、「呉音」の漢語を使う「仏教国」へ変身していたからです。
漢訳仏教が短期間に中国大陸から周辺諸国に伝播した理由のひとつは、キンピカ仏像による豪華絢爛仏教文化の憧憬の他に、その漢訳仏教思想にあったのです。騎馬民族の武力侵略に悩む、南朝系の農耕民族末裔の王族は、その漢訳仏教にある、騎馬民族を「施陀羅」とすることに魅力を感じていたのです。
それは、その「施陀羅」とは、インドを宗教支配した「菜食」のバラモン教が、「肉食」の先住民の遊牧民族トラヴダを、不可触賎民「チャンダラー」として、「アウトカースト」に貶めていたからです。つまり、「菜食」のバラモン教思想では、「肉食」する「チャンダラー」とは「人間」ではなく、「畜生」であったのです。
その不可触賎民「チャンダラー」を、バラモン僧の鳩摩羅什は、「肉食」をしない農耕民族国に取り入られるために農耕民族思想に迎合して、「施陀羅」としたのです。そして、漢訳仏教を取り入れた農耕民族国は、その漢訳仏教を、騎馬民族に対する、「思想武器」としたのです。
中国大陸で発明された「思想武器」である、騎馬民族を不可触賎民「施陀羅」と差別する思想を持つ漢訳仏教は、藤原日本史や亡命百済貴族が述べる538年や552年ではなく、645年唐進駐軍と供に、オリエント文化を持つ多民族の先住民が暮らす飛鳥ヤマトに、それらのオリエント文化を抹殺するために侵攻したのです。
日本列島では、奈良時代が終わるまで、漢語の正式発音は百済経由の「呉音」であったのですが、781年百済系桓武天皇の唐制度による即位式では、「呉音」から「漢音」に替わっていたのです。その「漢音」とは、主に唐の長安・洛陽で使われていた「北方系」発音であったのです。
南方系の「呉音」から、北方系の「漢音」への変換は、「何」を意味しているのでしょうか。そして、平安京を支配する唐傀儡亡命百済貴族が、中国山東半島から移民させた、百済亡命民は、唐文化に染まっていたため、「唐音」で発音していたため、平安京では、「唐音」が、「呉音」や「漢音」よりも優勢になっていったのです。それが、「京都弁」のルーツです。
1945年太平洋戦争敗戦後、アメリカ進駐軍が日本国を占領したため、日本国中のカンバンが、漢字から「カタカナ」や「米語」で記述されていたことからも分かるように、「言葉」や「発音」は、占領民族に強く影響されるのです。
では、飛鳥ヤマト時代、つまり、古墳時代には、漢語が使われていたのでしょうか。このことは、文献では調べようが無いのです。それは、645年「大化の改新」と藤原日本史で述べる革命戦争時に、前政権の史料が焚書されていたからです。その史実を隠蔽するために、藤原日本史では、645年蘇我氏の滅亡時に、「蘇我蝦夷が「天皇紀」と「国紀」を焚書してしまいました。」、と述べているのです。
しかし、その飛鳥ヤマトで使われていた言葉や文字は、漢語を「アルファベット」として使った「表音文字」であったのです。それを、藤原日本史では、「万葉語」と言っているのです。その万葉語とは、何かと言えば、それは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅が使っていた「新羅万葉語」であったのです。
その藤原日本史で述べる「日本万葉語」は、奈良時代ではなく、平安時代に完成したのです。その日本万葉語による「万葉集」(759年柿本人麻呂による「新羅万葉語」による万葉集完成。)の改竄者のひとりが、菅原道真(903年大宰府で死去)であったのです。竜骨のない遣唐使船の謎や、そして、飛鳥ヤマトの歴史の、藤原氏による、改竄を知る菅原道真は、藤原氏により抹殺された理由のひとつは、それらのことを知っていたからです。
そして、645年飛鳥ヤマトを支配した唐進駐軍は、646年奈良盆地での古墳築造中止を、「薄葬令」として命令したのです。しかし、古墳の築造は、唐進駐軍に平地を追われても、山間地を支配する「鬼」(モノ→漢訳仏教伝来後「オニ」)に支えられていた新羅系天武天皇が死去する、686年まで続くのです。
藤原日本史で述べる、四世紀に大和朝廷が存在していたと言う、唯一の根拠が、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれていたから、というのです。では、その前方後円墳とは、日本国独自の古墳形態であるのでしょうか。
藤原日本史では、奈良盆地にある巨大前方後円墳は、歴代の天皇の陵であると述べているのですが、日本初の神武天皇の陵が、明治革命のドサクサに築造されていたことからも分かるように、それらの巨大前方後円墳は、天皇の陵などではないのです。
もし、その神武天皇稜が、藤原日本史で述べているように本当に紀元前七世紀に築造された神武天皇陵であるのならば、何故、8年の間隔で創作されたと言う712年(?)「古事記」と720年「日本書紀」に述べられている記述が合致しないのでしょうか。それは、奈良盆地にある巨大前方後円墳は、「大和朝廷」を支配した天皇の陵などではなかったからです。
丸山古墳と前方後円墳を築造した民族は、異なるようです。丸山古墳は、竪穴式埋葬法で、前方後円墳は、横穴式石室埋葬法であるからです。では、その丸山古墳はどのような民族の埋葬法かと言えば、そのルーツは、石積木郭墳と言われる騎馬民族系の墓です。そして、横穴式石室のある前方後円墳は、古代エジプト系の墓です。
その異なる古墳の確認された数は、丸山古墳は約25万基で、前方後円墳は約4800基と言われています。日本列島の三世紀頃に突然現れた古墳は、七世紀までに北は岩手県南部から南は九州まで普及していたのです。
この古墳時代に日本列島に現れたのは、須恵器、鉄器、そして、メッキを施した馬具です。これらの技術は、炭の燃焼度8百度よりも高温の12百度を必要としていたのです。それには、フイゴの施設が無ければ、それらの須恵器や鉄器を造ることは出来ないのです。そのフイゴには、鹿の皮が使われていたことから、それらの製作技術者は、農耕民族ではなく、狩猟民族が示唆されるのです。つまり、古墳時代に、狩猟民族が日本列島に渡来していたのです。
では、前方後円墳は、日本列島独自の古墳形態であったのでしょうか。近年、朝鮮半島で十数基の前方後円墳が発掘されたのです。しかし、調査の結果、その分布と時期とが限られていたのです。その分布地は、古代新羅の支配地全羅南道と、藤原日本史が述べている日本国の支配地とする任那の加羅地域です。そして、その築造時期は、5世紀から6世紀までであったのです。
この朝鮮半島で発掘された前方後円墳の説明を、藤原日本史では、大和朝廷の支配地である朝鮮半島の任那に、日本軍が侵攻した時に築かれた、と述べるのです。しかし、その5世紀から6世紀にかけての日本列島では、内乱状態のため、朝鮮半島に出兵できるような状態ではなかったのです。
藤原日本史が、四世紀前後の朝鮮半島侵攻の根拠のひとつとして、好太王碑の石柱の文面に、倭軍が百済・新羅を攻めて服属させたが、高句麗が、倭軍を撃退した、との記述であるのです。このことをもって、日本軍が朝鮮半島に侵攻したというのですが、それは、朝鮮半島と北九州との歴史を無視した解釈です。
南朝鮮の馬韓、弁韓、辰韓の三韓時代(220年頃)以前、朝鮮半島南部と北九州とは、同一文化圏であったのです。それは、朝鮮半島南部に暮す韓族と、北九州に暮す倭族(イ族)とは、古代中国南部を支配していた、海洋民族国の呉越の末裔であったからです。その朝鮮半島南部を支配していた韓族(倭族)が、百済・新羅を攻撃したことを、高句麗はその碑文で述べていたのです。
やがて、高句麗、百済、古代新羅が勢力を増した、朝鮮半島三国時代(340年頃)には、朝鮮半島南部を支配していた韓族・倭族は、その朝鮮半島南部を追われ、日本列島の北九州に亡命していたのです。その地のひとつが、朝鮮半島南部の島珍から渡来した、北九州沿岸の松浦です。松浦とは、メズラ(珍)の日本語化です。
平安末期、この松浦の海洋民族は、源平合戦で、源氏水軍の松浦党となって、アラブ系の「平家」水軍と戦うことになるのです。
この日本列島古墳時代は、藤原日本史が歴史的に抹殺しなければならない時代であったのです。それは、古墳から出土する遺品により、藤原氏が「日本書紀」で創作した「飛鳥大和物語」が暴かれてしまうからです。
例えば、1978年埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、115文字の漢語が刻まれていたのです。そこには、「辛亥年」と記述されていたのです。その年は、西暦471年と推定されたのです。そして、その漢語は、「獲加多支鹵・ワカタケル」のように、漢字をアルファベットのように表音文字として使われていたのです。
645年飛鳥ヤマトを侵略した唐進駐軍の傀儡藤原氏は、その「日本書紀」で、蘇我氏が滅亡の時、「天皇紀」と「国紀」を燃やしてしまいましたので、645年以前の史料はございません、と述べているのですが、古墳の銘文までは焚書・改竄はできなかったのです。そこで、明治革命で復活した藤原氏は、古墳の発掘を、明治政府の命令で禁止し、現在に至るのです。
古墳時代中期に、北方系漢訳仏教を掲げる高句麗軍団の南下侵攻により追われた、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の民(秦氏)が渡来した史実を隠蔽した物語が、527年から翌年にかけた北九州の戦闘で、それを藤原日本史では、「筑紫国造磐井の反乱」と述べているのです。この戦闘以前までは、朝鮮半島南端の古代新羅の支配地に、前方後円墳が築かれていたのです。
この古代新羅民(秦氏)の北九州渡来のことを隠蔽するために、藤原日本史では、「継体天皇物語」を創作したのです。しかし、この「日本書紀」の歴史創作を暴くために、812年完成の「古事記」では、継体天皇の享年を43歳としたのです。因みに、「日本書紀」では、82歳です。秦氏末裔の多人長による「古事記」のこの39年間の「暗号」は何を意味しているのでしょうか。
藤原日本史によれば、「筑紫国造磐井の反乱」とは、継体21年に九州の豪族筑紫君磐井が、新羅と内通して起こした内乱、と言うことになっているようです。その継体21年とは、「日本書紀」によれば、82歳で崩御したという継体天皇の晩年であったのです。しかし、「古事記」によれば、継体天皇は43歳で崩御したことになっているので、「筑紫国造磐井の反乱」の時期には墓の中にいるのです。
この「筑紫国造磐井の反乱」についての史料は、「日本書紀」「古事記」、そして「筑紫国風土記」しかないのです。その「風土記」とは、唐進駐軍の傀儡藤原氏が、713年古代日本列島の人名・地名を隠蔽するために、漢語二字により表記させた地域物語であるのです。
この713年「風土記」撰上の詔により、古代の地名や人名が日本語化(二文字表記化)したことにより、例えば、遣隋使ソインコウが「小野妹子」に日本語化されたように、前政権の歴史が隠蔽されてしまったのです。
その「筑紫国風土記」によれば、上妻郡に所在の「筑紫君磐井の墳墓」には、無数の石人・石馬が配置されていた、とあるのです。「日本書紀」にも「古事記」にも記述がない石人と石馬は何を意味しているのでしょうか。それは、チュルク系騎馬民族のユーラシア大陸の支配地の草原に点在する、騎馬民族を護る石人のことです。この騎馬民族を守護する石人は、後に、漢訳仏教に取り込まれ、あぜ道にある道祖神や地蔵様に変身するわけです。
藤原日本史が、四世紀に飛鳥に大和朝廷が存在して、度々朝鮮半島に軍事侵攻していたとの記述のウソは、三世紀から始まる古墳が証明します。それは、その古墳近くの遺跡から鉄器製造工房跡が出土するのは、五世紀からです。それも、東国からで、近畿地域の鉄器製造工房跡が出土するのは六世紀半ばからです。
このことは何を語るのかと言えば、もし、大和朝廷軍団が北九州から、海を渡り、朝鮮半島に軍事侵攻していたとすれば、その甲冑で武装していた大和朝廷軍団の鉄器武器具は、どのようにして調達していたのでしょうか。
鉄器の発明の歴史は、古代ヒッタイト帝国で、紀元前16世紀に発明されたのです。その鉄器の製造技術が、紀元前七世紀頃にはカスピ海沿岸地域を支配する遊牧民族スキタイに伝播し、鉄製の馬具が発明されたことにより、家畜の馬に乗馬ができるようになり、遊牧民族スキタイは、鉄器で武装した騎馬民族スキタイに変身したのです。
そして、鉄器製造技術は、騎馬民族スキタイにより、騎馬民族文化と供に、各国に伝播していったのです。その鉄器製造技術は、鋳型で造る鋳造法ではなく、鉄塊を鎚で打ち加工する鍛造法であったのです。ちなみに、日本刀は、中国式鋳造法ではなく、ヒッタイト帝国での鉄器製造法の鍛造法で制作されていたのです。
藤原日本史が、391年頃、甲冑で武装した日本軍団が、海を渡り、朝鮮半島に侵攻して百済、新羅を破った、と言う根拠として、中国南朝の宗(420年〜479年)の歴史書である「宋書」に、倭王讃が朝貢していて、その「宋書」に倭王讃の武勇伝が語られているから、とするのです。
そして、その倭王讃に続いて、珍、済、興、武の計五名の倭王が、60年程の間に、宗に朝貢していた、と「宋書」にあるから、とするのです。そして、その返礼に、宗の帝は、朝鮮半島南部の支配権を保障する称号をその五王に与えていた、とするからです。
これらの倭王を、藤原日本史では、讃=仁徳天皇?、珍=反正天皇?、済=允恭天皇?、興=安康天皇?、そして、武=雄略天皇?、としているのです。
では、それらの倭王の始めである、甲冑で武装して隣国60余国を滅ぼしたと云う、仁徳天皇(倭王讃)が、宗国を訪れたのは何年かと言えば、「宋書」によれば、それは、421年であったのです。
しかし、近畿地域では、5世紀半ばの鉄器製造遺跡が、未だ発掘されていないのです。近畿地域での最古の遺跡は、藤原日本史に蘇我稲目が大臣として突然登場する、6世紀半ばなのです。
その甲冑で武装する倭王讃の活躍した年代での、日本列島で発掘された鉄器には、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣があります。そして、その鉄剣には、「辛亥年」と記述されていたのです。その年は、西暦471年と推定されたのです。
藤原日本史では、その鉄剣は、大和朝廷から臣下に贈られたもの、としているようですが、近畿地域よりも、東国から発掘された鉄器製造遺跡が古いのは、何を意味しているのでしょうか。
五世紀初期に出現した倭の五王とは、鉄製武器で武装していたということから、近畿地域の支配者ではなかったことが疑われます。では、それらの倭の五王の出自は、何処かと言えば、それは、朝鮮半島南端の古代新羅が考えられます。
356年ナムル王(奈勿王=太陽王)が建国したギリシャ・ローマ文化国の古代新羅では、騎馬民族スキタイから伝承のアマルガム法の金メッキ技術はもとより、鍛造法による金属製造が盛んであったからです。古代新羅で、鉄器と供に須恵器も製造できたことは、「替わり番子・カワリバンコ」で空気を吹き込む、鹿皮製のフイゴ設備がある高炉があったからです。そして、その須恵器は、鉄器と供に、前方後円墳に埋葬されていたのです。
ユーラシア大陸でチュルク系の柔然(330?年〜552年)が勢力を増し南下した結果、384年高句麗を支配していた前秦の支配権が崩壊した結果、高句麗の勢力が増し、高句麗軍団の南下により、それらの朝鮮半島南部を支配していた倭王の末裔達が、527年朝鮮半島南部から北九州に亡命した時の争いが、藤原日本史で云う「筑紫国造磐井の反乱」の実態です。
この朝鮮半島南端から渡来したローマ騎士団末裔の軍団は、太陽神であるミトラ神を軍神として祀ることから、ミトラの借字「花」により、「花郎騎士団」と呼ばれていたのです。そして、太陽のシンボルカラーの「白」を、花郎騎士団のシンボルカラーとしたのです。このことにより、日本列島で、941年天慶の乱を武力鎮圧した、935年統一新羅国が滅亡したため、秦氏末裔である源氏の支配地の河内に亡命して来た花郎騎士団末裔が、平安王朝より「源氏武士」と認めてもらえたため、花郎騎士団のシンボルカラーの「白」が、武家源氏のシンボルカラーとなったのです。
6世紀半ば、この花郎騎士団は、北九州を制圧し「秦王国」を興し、太陽が昇る東を目指し東進し、吉備、そして、ローラン(浪速)を目指すのです。そのローランには、三世紀半ばには、シルクロード交易により渡来していた、オリエントからの同族が居住していたからです。
そして、そのローラン(浪速)に上陸した花郎騎士団は、古代エジプト伝承の高度土木技術を駆使して、河内湾を干拓するために、更に巨大な古墳を築くのです。このことは、古墳の埋蔵遺品が、5世紀頃から6世紀にかけて、鉄器武器と供に馬具が埋葬されていることから、日本列島全土に騎馬民族の渡来が示唆されるのです。
更に、日本列島渡来軍団は、中国大陸と国際交易をおこなうため、ローラン(浪速)から、三輪山の麓の国際交易地のツバキ市やイワレを目指して、ローマ帝国軍式の幅12mの直線道路を敷設するのです。
戦国末期、その湿地帯に巨大古墳を築く技術がその末裔に伝承されていたからこそ、秦氏末裔の徳川家康の家臣となった、産鉄民族末裔の金山衆などにより、荒川や利根川の支流が流れ込む河口の湿地帯を、神田台地を削り取り、運河を削掘した残土で、海抜10mの人工山(巨大古墳)を築き、その上にエド城を建設することができたのです。
古代エジプトの埋葬思想を持つ前方後円墳の築造技術、ヒッタイト帝国の鉄器製造技術、須恵器製造技術を持つ高度技術集団が、朝鮮半島南端から日本列島各地に渡来したことにより、日本列島全土では一気に巨大古墳が築かれていったのです。
では、なぜそのような巨大古墳を築造したのでしょうか。その謎を解くヒントに、全ての前方後円墳には、遺骸があるわけではない、ということです。発掘された前方後円墳では、豪華な埋葬品があるのに、遺骨や遺骸がないものもあるからです。しかし、小規模な丸山古墳には、殆んど、遺骨・遺骸の痕跡があるのです。このことにより、前方後円墳=墓ではないことが示唆されるのです。では、前方後円墳は、「何を目的」に築造されたのでしょうか。
「旧約聖書」の「出エジプト記」を読むと、イスラエル民族の祖は、エジプトでピラミッド建設の奴隷として過酷に扱われていた、と記述されています。しかし、現在のエジプトのピラミッドの発掘調査により、「旧約聖書」で奴隷と言われた建設従事者の居住地跡から子供の玩具や食物遺跡の調査から、それらのピラミッド建設従事者は、奴隷ではないことが示唆されたのです。
このことは、「ヨハネの黙示録」の暗号解読により、「出エジプト記」は「ウソ」であることが分かるのです。それは、「666の謎」で「旧約聖書の主物語を否定せよ。」と指摘しているように、その「出エジプト記」の多くは、「神物語」ではなく、「主物語」で構成されているからです。
では、エジプトの巨大ピラミッドは、何故建設されたのでしょうか。それは、「王墓」の建設が主目的ではなく、ひとびとに「仕事」を与えるためだったのです。古代エジプトでは、乾季と雨季とが完全に分かれていて、雨季にはナイル川が氾濫して、東岸は湖状態になってしまうのです。しかし、その雨季が去ると、上流からもたらされる肥沃な栄養分が、東岸にもたらされたのです。
ですから、古代エジプトでは、雨季の後に溜まった水が引くまで、東岸のひとびとは農耕作業ができなかったのです。そこで王は、ピラミッド建設作業により、民に仕事を与えて雨季の生活を保障したのです。
日本列島全土にある前方後円墳の築造地を見ると、そこは、元湿地帯や山の麓や河口に多くあることがわかります。このことは何を意味しているかと言えば、ひとの居住地としては相応しくない地であることです。前方後円墳が密集している奈良盆地は、3世紀以前はひとが住めぬ大湿地帯であったのです。
奈良盆地は、西側は生駒山系と葛城山系に塞がれ、朱砂の産地である宇陀近辺の龍門岳から流れる大和川などが、古代エジプトのナイル川のように定期的に氾濫をおこすために、広大な湿地帯であったのです。このことは、外敵の侵入を阻む自然の要塞でもあったのです。
弥生時代後期に、中国南部から米と繭(ポンピックスモリ)・桑とを日本列島に持ち込んで、馬絹交易をおこなう後漢(25年〜220年)の経済を潤すために、植民地化を目論むために、後漢の青銅器で武装した進駐軍が、国際交易地の三輪山麓のツバキ市やイワレを占拠しようとしても、それらの地に辿り着くには、奈良盆地の大湿地帯を通らなければならなかったのです。例え、青銅器の剣や鉾で、石器で武装する縄文先住民を制圧しても、その奈良盆地は、ナイル川のように、大和川などが定期的に氾濫をおこすために、その弥生渡来軍団の基地は、土石流と供に流されてしまうのです。
この縄文人が弥生人の侵攻を最後まで阻止していたことは、宇陀で発掘される縄文時代後期の遺跡が、弥生時代と重なって発掘されることで理解できます。朱砂が産出される宇陀は、奈良盆地を流れる川の定期的氾濫と大湿地帯のおかげで、弥生渡来軍を阻止することができたのです。
何故、奈良の深山に位置する宇陀に、古代から近世まで、国際交易商人や武人が渡来していたのかは、その地に朱砂が産出されていたからです。そして、朱砂が産出される地では、水銀や銀も産出されることを、古代のひとは知っていたからです。
1543年イエズス会宣教師を乗せたポルトガル船が種子島に渡来すると、イエズス会は、ひとも住めぬ奈良の宇陀にキリスト教教会を建設したのは、布教を名目に、銀鉱山の簒奪が目的でもあったのです。このことは、中国地域の石見の山奥にもキリスト教教会を建設していたことからも理解できます。
藤原日本史では、奈良盆地の南端のイワレには、紀元前660年から天皇家の都があったと述べていますが、その奈良の盆地にひとが住めるようになったのは、巨大古墳が築かれ、その結果、湿地帯が農耕地として開拓された、三世紀半ばからなのです。
三世紀半ば、河内湾を干拓し、巨大運河を造り、小山を削りその残土で湿地帯を埋め、河内平野に巨大古墳を築く作業をすることにより、周辺の山奥に暮す先住民が集まったところを、建設労働者として、対価を払い雇うことにより、その先住民は、渡来民族の傭兵軍団に変身していくわけです。
それは、巨大古墳の建設作業行程で、号令と供に作業する先住民に、鉄製の鍬や鋤の替わりに、鉄製の剣や鉄棒を持たせれば、即座に、号令と供に戦闘態勢に入ることができるからです。このことにより、縄文文化を守る宇陀の先住民は、奈良盆地に巨大古墳を築いた古代エジプトの高度土木建設技術を持つオリエントから渡来の少数の侵略者により壊滅されたのです。この宇陀壊滅の歴史を、藤原日本史では、ウカシを裏切るオトウトカシとの兄弟争い物語として記述しているのです。
この日本列島に古墳が出現する三世紀半ばの東アジアの情勢を見ると、東ローマ帝国と馬絹交易で栄えた後漢は、北方ユーラシアを支配した遊牧・騎馬民族の鮮卑が、南下してシルクロード交易権を侵すことにより、220年に滅ぶのです。
その結果、後漢の支配地には、魏(220年〜265年)、蜀(漢221年〜263年)、呉(222年〜280年)の三国が興るのです。そして、後漢の影響力を強く受けていた朝鮮半島南端でも、馬韓、弁韓、辰韓の三韓が興るのです。そのような東アジアでの政権交代の動乱時期、日本列島も、東アジアの動乱情勢に巻き込まれていたのです。このような時期に、日本列島に古墳が突然現れたのです。
三世紀半ばの日本列島については、「魏志倭人伝」に、239年邪馬台国の卑弥呼が帯方郡及び魏に遣使を派遣し、245年魏の齋王芳が倭国使に物を与えたとの記述があり、卑弥呼が崩御すると、倭国が乱れた、とあることから、三世紀半ばの日本列島は、東アジアの動乱の影響を強く受けていたことが分かるのです。
その中国大陸を支配した三国の魏・蜀・呉も、280年には晉(265年〜316年)に滅ぼされてしまうのです。その晉も、316年には滅び、再び、東アジアは動乱時代となるのです。
その期を狙い、ローマ帝国軍団のように馬冑や馬鎧の重装備の騎馬軍団を擁した高句麗が勢力を朝鮮半島に伸ばすと、346年馬韓の地に百済が興り、356年辰韓(秦国)の地に、太陽王を名乗るナムル王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅(秦羅=ローマ国)が興るのです。
この朝鮮半島三国時代の勃興期での日本列島の歴史は、中国の史書には記述がないのです。そして、413年東晉(317年〜420年)に、倭王讃が遣使を送ったことの記述が現れるのです。
藤原日本史では、この倭王讃が仁徳天皇で、近畿地域で一番大きい前方後円墳が、仁徳天皇陵であるというのですが、現在の教科書では、カッコ付きで表示されているのは、巨大前方後円墳は、歴代天皇の陵ではないとの疑いが広く受け入れられてきたからです。
そして、その倭国の五王の後、歴史空白の時代を経て、大和朝廷を支配していたとする「謎の継体天皇」が、藤原日本史に現れて、527年から始まる九州戦争の「筑紫国造磐井の乱」の指揮をとることになるのです。しかし、この九州戦争のことを、秦氏末裔の多人長は「古事記」の暗号で否定しているのです。
それは、「日本書紀」では、507年継体天皇は大和国(奈良県桜井市)磐余玉穂宮(イワレタマホミヤ)で即位し、527年から528年におよぶ「筑紫国造磐井の反乱」の九州戦争の指揮を執ったと述べているのですが、「古事記」では、継体天皇の崩御年を、「筑紫国造磐井の反乱」が起こった、527年(丁未年)としているからです。
更に、継体天皇について、「日本書紀」と「古事記」では、その生存期間が約二倍の82歳と43歳の違いもあるのに加え、その出自も異なるのです。「日本書紀」では、近江で生まれた後、越前で育ったと述べるのに対して、「古事記」では、近江の出身と記述されているのです。
藤原日本史では、「古事記」が712年完成、そして、「日本書紀」が720年完成とすると、その8年間で、国史とされるその「日本書紀」と「古事記」二書での、継体天皇についての大いなる違いをどのように説明するのでしょうか。
藤原日本史は、明らかに「継体天皇統治時代」の歴史を隠蔽しているのです。それは、継体天皇の507年即位から531年崩御にかけての日本列島の歴史が、南インドから渡来した藤原氏にとって、不都合な時代であったからです。
この「継体天皇統治時代」に、継体天皇が育ったと述べる越前と、継体天皇の指揮で戦ったとする九州では、騎馬民族が大陸から大挙して渡来していたのです。
その根拠は、越前では巨大前方後円墳が築かれ、九州では磐井の墓と云われる前方後円墳が築かれていたからです。そして、その二地域の巨大古墳からの出土品には、騎馬民族の特徴を示す鉄器、そして馬具があったからです。更に、磐井の墓では、ユーラシア大陸を支配していたチュルク系騎馬民族を守護する石人・石馬が多く設置されていたからです。
藤原日本史では、古代日本列島で活躍した海洋民族と騎馬民族の歴史を教えません。それは、中国大陸文明から日本列島は孤立していた島である、と刷り込むためです。つまり、孤島の日本列島には、古来から遠くオリエントの異民族やユーラシアの騎馬民族などは渡来していなかった、と言いたいのです。
それは、日本列島は海に囲まれているから、陸路を旅するようには簡単に、日本列島に渡来することが出来ない、と言いたいのです。そして、石器武器で武装する縄文人国に、「ニッポンジン」の祖である天皇家が天磐舟で、九州に降臨し、東進して、先住民を駆逐して、飛鳥ヤマトを支配して、三輪山麓のイワレで、紀元前660年初代天皇が即位した、と言いたいのです。
しかし、騎馬民族と海洋民族とは、国際交易事業では同業として協力体制を、古来からとっていたのです。騎馬民族の祖スキタイでも、その部族連合には、海洋民族がいたのです。それは、海を隔てた大陸間では、海洋民族が交易物資を外洋船で運び、その交易物資は、河川交通により内陸に運ばれていたからです。交易物資を満載した船が、内陸の都市を目指し、その河川を溯上するには、ひとの力と馬力を必要としたからです。
608年隋使裴世清は、ソインコウ(小野妹子)に伴われて、竜骨のある外洋船で中国大陸から河内のローラン(浪速)に着くと、平底の川舟に乗り換え、大和川を溯上して、天子(テングリ・騎馬民族の王)の男王アマタリヒコが支配する、内陸の三輪山麓の飛鳥ヤマトの都に辿り着けたのは、船外機のエンジンが無い時代、馬が川船を引いたことによるのです。
因みに、藤原日本史では、630年から始まる遣唐使が乗る、竜骨のない平底の遣唐使船は、四隻に二隻は沈没したため、苦労の末、危険を冒して唐文化を輸入していた、と述べているのです。しかし、沈没する遣唐使船が活躍する23年前、607年飛鳥ヤマトの遣隋使ソインコウ(「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅のこと)は、2年のうちに、隋国と倭国とを二往復もしていたのです。
そのように、古代では中国大陸と日本列島の国際商人は、海洋民族の外洋船と騎馬民族の馬の輸送手段により、頻回に行き来していたのです。ですから、ひとたび中国大陸で動乱が起これば、中国大陸から日本列島へは、海洋民族の協力により、亡命貴族や軍団・軍馬が運ばれていたのです。
中国の歴史書によれば、三世紀の日本列島には、馬の生存が確認されていなかったのです。しかし、古墳時代になると、馬が日本列島に現れたのは、中国大陸と日本列島を結ぶ、海のシルクロードを支配する海洋民族の活躍によったのです。
藤原日本史が隠蔽した、継体天皇統治時代の507年から531年までに、東アジアでは何があったのでしょうか。
北魏が、騎馬民族系の諸国を倒し、430年北中国を統一すると、420年宋が南中国を支配していたことにより、東アジアは安定していたのです。つまり、北朝の北魏(430年〜535年)と南朝の宋(420年〜479年)とが拮抗していたことにより、社会が一時安定していたのです。
しかし、五世紀に中央ユーラシアに興ったチュルク系の突厥が、東ローマ帝国との馬絹交易により勢力を増すと、そのチュルク系の高車人が、508年柔然を破ったのです。そして、勢力を増したチュルク系騎馬軍団の突厥は、ユーラシア大陸の西と東に勢力を増すことにより、シルクロード周辺諸国は、突厥の支配下となってしまうのです。
そして、シルクロードを支配する、騎馬民族の突厥の勢力が、東アジアに勢力を広げると、534年北魏が滅ぶのです。この時代に、藤原日本史では、突然、飛鳥ヤマトに大臣蘇我稲目が現れるのです。
この民族の玉突き状態で、各国は、弱小国を目指して移動するわけです。その影響力は、朝鮮半島にも及び、柔然に押された北方漢訳仏教文化の高句麗は南下し、百済・新羅を脅かし、その結果、百済と新羅の民は、より脆弱な地を目指して移動するわけです。
そのひとつが、海を隔てた、日本列島です。527年の「筑紫国造磐井の反乱」とは、朝鮮半島から北九州への亡命民との戦闘であるわけです。その結果、高句麗の北方漢訳仏教文化が、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅に浸透し、528年には、ギリシャ・ローマ文化国であった古代新羅は、北方漢訳仏教文化国になってしまったのです。
そして、出雲や越にも、亡命民が大挙して押し寄せていたのです。では、この頃の飛鳥ヤマトは、誰により支配されていたのでしょうか。
藤原日本史によれば、四世紀の飛鳥ヤマトには、強力な政権が樹立されていた、と言うのです。その根拠として、四世紀に、巨大前方後円墳が、飛鳥ヤマトに築かれていたからです。その巨大古墳とは、箸墓古墳です。この箸墓古墳は、前方後円墳では最古であると云われているものです。築造年は、およそ三世紀半ばのようです。
では、藤原日本史で云う、大和朝廷では、どのような民族が支配していたと言うのでしょうか。九州から侵攻した神武軍団が、答えにならないのは、神武天皇の紀元前660年即位では、日本初の天皇の即位地の「イワレ」は、湿地帯で、ひとも住めぬ地であったからです。イワレにひとが住めるようになったのは、早くても、箸墓古墳完成後の三世紀末と考えられます。
では、古代エジプトのピラミッドに匹敵する規模の築造物を造る高度技術と、多くの建設従事者を組織的に管理する能力を持った民族は、三世紀半ばの飛鳥ヤマトに、何処から渡来したのでしょうか。その答えのひとつが、吉備です。それは、その飛鳥ヤマトに築造された巨大古墳から、吉備で作成された土器類が多数発掘されていたからです。
そして、三世紀半ばから日本列島に出現した古墳で、巨大古墳を築造していた地域は、飛鳥ヤマトの他に、吉備地域以外にはなかったのです。吉備には、造山古墳、作山古墳、そして、両宮山古墳など全長2〜3百m級の巨大古墳が造られていたのです。
では、吉備では、どのような民族が暮らしていたのでしょうか。吉備地域には、古来から蘇民将来という風習があるのです。それは、蘇民が茅の輪を身につけていれば、疫病神の祟りから逃れられる、という信仰です。
この蘇民将来の信仰は、イスラエル民族の過ぎ越しの祭りと共通点があります。唯一神ヤハヴェを祀るユダヤ民族が、太陽神バアルと牡牛を屠る多神教のイスラエル民族の歴史を、藤原氏が「日本書紀」を創作して日本列島史を乗っ取ったように、「旧約聖書」を創作して乗っ取り、古代エジプトでの長男殺しを逃れるために門に「血」を塗ることにより、その人災を逃れられると改竄してしまいましたが、古代エジプトと同じ埋葬法としての石室・石棺を持つ巨大古墳を築造し、吉備地域を支配していた民族の信仰思想と、イスラエル民族との信仰思想の基本は同じです。
では、その蘇民将来信仰の、「蘇民」とは、何なのでしょうか。「蘇」とは、607年遣隋使のソインコウの「ソ」と同じに、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅(秦羅=ローマ国)のことです。その古代新羅が支配した、朝鮮半島南端には、5〜6世紀築造と思われる前方後円墳らしき古墳が、近年発掘されていたのです。
では、645年唐進駐軍と中臣族連合軍とが、飛鳥ヤマトを壊滅した以前の支配者は、古代新羅民であったかどうかは、藤原日本史で、645年蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を燃やしてしまいましたと述べているように、それを証明する史料が存在しません。ですから、それは、国外の「随書」に、608年の飛鳥ヤマトには、男王アマタリヒコと遣隋使ソインコウが存在していた、と分かるだけです。
それでは、645年まで飛鳥ヤマトを支配していた民族が特定できないのか、と言えば、そうではないのです。飛鳥ヤマトの歴史を記述した「書」は、唐進駐軍に焚書されても、「話し言葉」までは「焚書?」できないからです。
藤原日本史では、古代飛鳥ヤマトでは、万葉語が使われていた、と述べています。万葉集の最古の歌は、藤原氏が「日本書紀」で創作した雄略天皇の歌だそうです。では、その歌は、どのような文法により謡われていたのでしょうか。
話し言葉の語彙は、その社会情勢により変化しますが、話し言葉の語順(文法)は、その民族が生き続けている限り変化することはないのです。では、現在まで続いている「日本語文法」である、「○○は、○○を ○○する。」は、どこからもたらされたのでしょうか。中国大陸からではないことは、中国文法は、「○○は ○○する ○○を」となるからです。
この日本語文法のルーツは、ウラル地方の騎馬民族語であるのです。このウラル語は、膠着語(意味を表す語と文法機能しか表さない語とによる並列的連結言葉。)といって、簡単に外国の語彙を取り入れることができるのです。国際交易民族でもある騎馬民族の言葉は、遠くの異国と国際交易をおこなうために、そのような文法となったのでしょう。
騎馬民族スキタイ以来、長らく騎馬民族は、文字を持たなかったのです。しかし、五世紀、中央ユーラシアに興ったチュルク系突厥では、カナクギ文字の突厥文字を使用していたのです。その突厥文字のルーツは、ギリシャ文字ともソグド文字ともいわれていますが、基本的には歴史書を持たない、漂泊する「風の王国」である騎馬民族の歴史を知ることはできないのです。
何故、突厥文字が存在していたことが分かったのかは、突厥文字で書かれた碑石が発掘されたからです。そのカナクギ文字で記述された突厥文章は、日本国で明治時代まで使われていた、現在のように左から右へではなく、右から左に文章が記述されていたのです。そして、その文法は、「○○は ○○を ○○する。」であったのです。
古代飛鳥ヤマトで使われていたと云う「万葉語」とは、漢語をアルフアベット文字として使用し記述する仕法です。では、中国で発明された漢字の読み方には、呉音、漢音、唐音とありますが、その漢字の日本語読みと言われる「訓読み」とは何なのでしょうか。
例えば、漢字の「鬼」(中国読みで「キ」)は、現在では「おに」と読みますが、日本列島での唐進駐軍の勢力が確立していない時代、奈良時代中期までは、「モノ」と読まれていたのです。そして、奈良時代の鬼(モノ)とは、漢訳仏教の敵神であったのです。
では、「鬼」の訓読みが、「モノ」から「おに」に、どのような歴史の流れにおいて、替わったのでしょうか。それは、日本列島の奈良盆地を、巨大古墳や巨大運河、そして、幅12mの直線道路を建設し、その地を支配していた「モノ」を神とする民族が、645年に飛鳥ヤマトに進駐した唐軍により壊滅され、唐の宗教である漢訳仏教思想により、「鬼」として山奥に追われたからです。そのことにより、飛鳥ヤマトの前支配者の神であった「モノ」は、漢訳仏教の敵神の「おに」となったのです。
そのように、語彙は、その時代により置き換わってしまいますが、言葉の語順は替わりません。
1945年8月30日厚木の飛行場に連合国最高司令官マッカーサーが到着すると、現地住民の子供達は、「ギーミーチョッコレイト」と叫んで、進駐軍にまとわり着いていましたが、その後、日本語の言葉の語順が替わってはいないのです。語彙は、カタカナに替わっても、語順は、「○○は ○○を ○○する」のままです。
645年唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを占領した結果、飛鳥ヤマトが完全に唐化していたとしたら、日本語の言葉の語順は、「○○は ○○する ○○を」となっていたことでしょう。しかし、その騎馬民族の語順であるウラル語は、飛鳥ヤマト時代から、現在に至るまで続いているのです。
しかし、現在に残るヤマト言葉には、そのチュルク系の突厥言葉の数はそれほど多くはないのです。それは、日本列島は、時代時代に、多民族により支配されていたからです。それらの多民族が使用した言葉とは、アイヌ語、ポリネシア語、タミル語、ソグド語、アラム語、ヘブライ語、古代新羅語、百済語、高句麗語、突厥語、漢語、ポルトガル語、英語、米語などです。日本語となった単語は、それぞれの民族の言葉ですが、日本語の語順は、騎馬民族の言葉であるウラル語です。では、そのウラル語は、何世紀に、どのような民族により、日本列島にもたらされたのでしょうか。
そこで考えられるのは、藤原日本史が述べる、雄略天皇から継体天皇までの謎の時代です。この五世紀から六世紀にかけて、東アジアでは、北のユーラシアに興った騎馬民族のチュルク系突厥・高車により、東ローマ帝国との馬絹交易を廻って、南の農耕民族国との熾烈な戦いの時代であったのです。そのことにより、宋の絹生産基地である日本列島も、その騎馬民族と農耕民族との戦いに巻き込まれていたのです。
552年東ローマ帝国との馬絹交易で栄える突厥は、突厥帝国を興すのです。そして、568年には、突厥帝国には、東ローマ帝国の返礼使ゼマルクスが訪れていたのです。それは、金の重さと等しい価値がある絹は、東ローマ帝国では貴重品であったからです。ですから、当然、突厥帝国は、絹の生産地で、絹の集積地を支配下に置くことを考えるわけです。その地が、奈良盆地の三輪山麓の、縄文時代からの国際交易地のツバキ市とイワレです。
しかし、その五世紀から六世紀にかけて、その飛鳥ヤマトの地は、朝鮮半島の三国騒乱時代を反映するように、東晉に南方系漢訳仏教を押し付けられた百済が葛城山にコロニーを作り、そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅が三輪山麓の磯城にコロニーを作り、更に、前秦に北方系漢訳仏教を押し付けられた高句麗も琵琶湖周辺にコロニーを作り、日本列島支配を目論んでいたのです。その頃、藤原日本史が述べるように、飛鳥ヤマトには大和朝廷など存在してはいなかったのです。この朝鮮半島三国による飛鳥ヤマトの動乱の歴史を、藤原日本史では、継体天皇は即位して20年もの間、大和に入れなかった、と述べているのです。
藤原日本史は、継体天皇物語で、「何」を隠蔽しようと画策したのでしょうか。それは、五世紀初頭に越前に渡来した騎馬民族である突厥帝国軍団と、527年北九州に渡来したギリシャ・ローマ文化の古代新羅軍団の歴史です。
突厥軍団は、その突厥文字がギリシャ文字が祖と云われていることから、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅軍との意思疎通が可能だったのです。
突厥軍団は、敦賀に上陸すると琵琶湖を目指し、その海運により宇治川を下り、淀川に至り、国際交易港のローラン(浪速)に到達するわけです。そして、北九州に上陸した古代新羅軍団は、吉備を支配すると、ローラン(浪速)に秦王国を建て、馬を飼育する牧場を作るのです。
この二つの日本列島進駐軍団を、藤原氏は「日本書紀」を創作して、雄略天皇から継体天皇時代に被せ、その末裔を、騎馬民族の突厥軍団を「蘇我氏」に、そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅軍団を「物部氏」とするわけです。
四世紀から五世紀にかけて、東アジアが五胡十六国に分裂して内乱状態ある頃、日本列島各地の古墳に、馬具が埋葬されていくのですが、西日本と東日本の古墳から出土する馬具は異なるのです。
それは、西日本から出土する馬具の多くは、金メッキなど施した装飾が華美なのに対して、東日本から出土する馬具の多くは、華美な装飾かなく、実践的であるからです。それは、朝鮮半島から北九州へと、そして、中国大陸の沃沮から敦賀へと、渡来した民族が異なっていたからです。
東日本では、敦賀に上陸したチュルク系騎馬民族進駐軍が各地に牧場を設置したのですが、南船北馬により、船を主な交通手段とする南中国と交易をしていた西日本地域では、牧場の経営はほとんどなかったのです。このことが、反騎馬民族征服説の学者達が、九州から近畿地域にかけて牧場がなかったことから、騎馬民族渡来を否定する根拠のひとつとなっているのです。
藤原日本史が「日本書紀」で述べる、蘇我氏と物部氏との二度の神仏戦争物語時代(552年〜587年)が、畿内での騎馬民族による支配確立時代だったのです。その「日本書紀」の神仏戦争物語に隠蔽された時代の530年大臣として突然出現する蘇我稲目から、645年蘇我蝦夷の滅亡までが、騎馬民族語であるウラル語を使用していた100年間で、オリエント文化の飛鳥ヤマトで、日本語(ヤマトことば)の語順(文法)が確立された時代であったのです。
藤原日本史では、四世紀に飛鳥ヤマトに巨大前方後円墳が築造されていたからとの根拠で、四世紀に天皇家を中心として、強力な中央集権による大和朝廷が存在していたと述べるのですが、では、その大和朝廷では、「何語」により政治が運営されていたというのでしょうか。
そのことを「日本書紀」では知ることができないのです。何故ならば、720年完成の「日本書紀」は、江戸時代の国粋学者の本居宣長が「唐ごころで書かれたもの」と蔑視していたように、唐の公用語である「漢語」で記述されていたのです。
四世紀に、朝鮮半島に軍事侵攻したとする、鉄製の甲冑で武装した軍団を組織できるほど強大な大和朝廷であるならば、当然、その大和民族独自の文字や言語があってもよいはずです。しかし、その「大和語」を、正史と言われる漢語で記述された「日本書紀」では、知ることができないのです。因みに、藤原日本史で万葉語と言っているものは、それは、漢字を、「古代新羅語読み」で表わしたものです。日本万葉語の完成は、平安時代なのです。
645年以前の飛鳥ヤマトでウラル語を使用していたことを隠蔽するために、藤原日本史では、645年蘇我蝦夷が、天皇紀と国紀を燃やしてしまいました、と述べているのです。しかし、それは、「古事記」の暗号解読により、「ウソ」であることが分かるのです。
「古事記」三巻の物語は、不思議な終わり方をしているのです。それは、620年女帝推古天皇の記述で終わっているからです。「古事記」から8年後に完成したと云う「日本書紀」では、697年女帝持統天皇で、物語が終わっているのです。何故、「古事記」は、620年で物語が終わっているのでしょうか。
794年秦氏の支配地である山背国を占領し、そこに平安京を築き、中国山東半島から亡命百済民を京に移民させ、唐音でしゃべる平安貴族により、「聖徳太子」なる人物を創作して、538年百済から仏教が伝来したなどと、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史を改竄されたことに危惧した秦氏末裔の多人長は、812年完成の「古事記」の暗号で、亡命百済貴族による日本列島の歴史改竄を知らせたかったのです。
それは、「日本書紀」で述べている飛鳥ヤマト時代の歴史物語の否定です。何故、「古事記」の記述が、620年で終わっているのかは、それは、その620年に、「日本書紀」では、「女帝推古天皇により、厩戸皇子(聖徳太子)と蘇我馬子に、「天皇紀」と「国紀」との編纂が撰された。」、と述べられていたからです。
平安時代、飛鳥ヤマトを支配していた秦氏の末裔多人長は、「古事記」物語を、620年で終わらせることにより、藤原氏による、騎馬民族語であるウラル語の突厥文字で記述された、オリエント文化の飛鳥ヤマトの歴史書を焚書した、と告発していたのです。
この突厥帝国進駐軍の時代(飛鳥ヤマト時代・古墳時代)に、中国の隋・唐との国際交易のために、「漢語」をチュルク系の突厥語により解読したのが、訓読みの「ヤマトことば」のルーツであったのです。
藤原日本史では、古代の日本列島での輸出品は、「生口=奴隷」ぐらいしかありませんでした、と述べていますが、縄文時代の古代から日本列島には、国際交易商人が渡来していたのです。
縄文時代には、糸魚川の翡翠、岩手県久慈の琥珀、志摩半島の真珠、宇陀の朱砂、それに、熊・鹿などの毛皮などなどが、国際交易品として、三輪山麓のツバキ市で沈黙交易により取引されていたのです。
日本語の語彙に、アイヌ語、ポリネシア語、タミル語、ソグド語、アラム語、ヘブライ語、古代新羅語、百済語、高句麗語、突厥語、漢語などがあるのは、三輪山麓の国際交易により、その時代時代に勢力があった民族がその民族語を残したからです。その中でも、100年もの間飛鳥ヤマトを支配していた民族が、現在に至る日本語の語順(文法)を残したのです。それが、騎馬民族のウラル語系の突厥語です。
平安時代中期、その突厥語による漢字解読(訓読み)の基礎があったからこそ、平安王朝を、亡命百済貴族末裔を傀儡天皇として、支配していた唐が、907年滅亡したことにより、漢語(唐音→京都弁の祖)の唐文化一色の平安文化が崩壊し、「天皇」の呼称が、騎馬民族の王の意味の「天子」(テングリ)に替わり、騎馬民族の文字である突厥文字のカナクギ文字から、「カタカナ」(騎馬民族の突厥文字が祖であったので、漢訳仏教よりの蔑称で、「不完全なかな」の意味。)が発明されたわけです。
この文化の変化について、日本列島での騎馬民族文化を否定する藤原日本史では、唐文化から国風文化に変換された、と述べているのです。しかし、その国風文化とは、実際は、騎馬民族文化のことであったのです。
四世紀から六世紀かけての日本列島には、「日本書紀」で述べているように飛鳥ヤマトには、神武天皇の子孫天皇が支配していたとする大和朝廷など、存在してはいなかったのです。このことは、南朝の梁(502年〜557年)の国史「梁書」に、日本列島には、倭国、文身国、大漢国、そして、扶桑国があると記しているからです。その「梁書」には、大和朝廷が支配する日本国についての記述などはないのです。
日本国が、歴史上に現れるのは、早くても、亡命百済王朝の近江王朝を、672年古代新羅(秦氏)・突厥残党・アラブ渡来民族の連合軍が倒し、その古代新羅の皇子が天武天皇として即位した、672年からなのです。ですから、672年以前には、「日本人」は存在していなかったのです。
南朝の梁は、農耕民族の国で、504年騎馬民族を蔑視する漢訳仏教を国教としていたのです。それに対して、騎馬民族王朝である北朝の北魏(430年〜534年)の太武帝(423年〜452年)は、445年北極星(太一)を祀る「道教」が成立すると、それを優遇して、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教を、446年から452年の6年間弾圧していたのです。
この南朝の漢訳仏教文化(農耕民族文化)と北朝の道教文化(騎馬民族文化)の影響は、六世紀の日本列島で、西日本と東日本とに波及していたのです。現在に残る西日本での騎馬民族への差別は、この六世紀から始まっていたのです。
南朝の農耕民族国の梁と交易をする倭国(九州)や大漢国(畿内)は、「漢訳仏教」の影響を強く受け、それに対して、騎馬民族国の北朝の北魏と交易をする文身国(出雲)や扶桑国(東北・北海道)は、「道教」の影響を強く受けていたのです。
527年漢訳仏教国の高句麗軍団により朝鮮半島から北九州に追われ、吉備、そして、ローラン(浪速)を支配したギリシャ・ローマ文化国の古代新羅からの渡来民族(秦氏)が、「ミトラ教」(景教)を、飛鳥ヤマトにもたらしたのです。
騎馬民族のウラル語が支配した、飛鳥ヤマトには、「漢訳仏教」、「道教」、そして、「ミトラ教」が存在していたのです。しかし、「神道」は、藤原氏が祭祀氏族として王朝を支配する、奈良時代まで、日本列島には存在してはいなかったのです。
それは、「神道」の神を祀るとされる「神社」の文字が、「ヤマトことば=突厥語」での「モリ・ヤシロ・ホコラ」(小山のある聖地)と発音されていたことで理解できます。つまり、「神社」が、藤原氏の、ユダヤ教に酷似した儀式で祀る「春日の神」が鎮座する「神社」を、「モリ」ではなく、「ジンジャ」と発音したのは、明治革命以降であったからです。
では、その神社(モリ)とは何かといえば、奈良王朝を祭祀氏族として支配した藤原氏が、騎馬民族の聖地であった処(モリ)を、禁足地として封印するための宗教施設であったのです。その禁足地は、後に、神地と呼ばれていくのですが、禁足地にはかわりなかったのです。そして、その禁足地に設置された施設が、明治時代になると、「モリ」ではなく、「ジンジャ」と呼ばれるようになると、その禁足地も「聖地」に変身するわけです。
因みに、伊勢神宮が、現在のように内宮・外宮に完全に分かれたのは、明治革命後であったのです。それ以前の伊勢には、漢訳仏教組織に支配されいてた、神仏習合の神宮寺が無数存在していたのです。
江戸時代末期に、伊勢参りが盛んになったのは、多くの人には、神仏を祀る信仰心からではなく、その主な目的は、伊勢の内宮と外宮に挟まれた古市の遊郭であったのです。南九州の薩摩に棲息する藤原氏末裔(近衛家)は、その民衆の信仰心(?)を利用して、日本列島の絹製品の独占を目論むイギリス東インド会社の指示により、明治革命を遂行していくわけです。
1867年明治革命が成功し、第三百済王朝の江戸幕府が倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に明治新政府が発足したのですが、各藩の言葉が通じなかったのです。例えば、自分を表す言葉にも、「ワラ・ワレ・ワシ・アラ・アレ・アシ・オラ・オレ・オシ・ウラ・ウレ・ウシ」などがあったからです。それは、明治革命以前の日本列島では、言語体系が異なる民族により、60余国に分かれていたからです。
そこで、明治新政府は、江戸の廓言葉を基礎に「標準語=東京弁」を発明するわけです。しかし、百年以上経った平成の時代になっても、その東京弁(標準語)が、日本列島全国での日常生活において使われていないのは、古来からの民族語としての日常言語は、時代を超えて、DNAとして子孫に受け継がれているからです。
そこで、言語学者が、日本語のルーツを研究するわけですが、その研究基準のひとつとして、現代に残る単語を調べる方法があります。この方法によると、ある言語学者は、日本語のルーツは、古代朝鮮語だと発表したり、又、ある言語学者は、タミル語だと発表するわけです。しかし、それらの単語は、数多く現代語に存在しますが、基本的な文法が合いません。日本語の基本文法は、依然として、騎馬民族言語のウラル語系の、意味を表す語と文法機能しか表さない語を並列的連結で表現する、膠着語なのです。
では何故、古代朝鮮語やタミル語が、現代日本語の単語として存在しているのかと言えば、それらの単語を使用した民族が、過去に、日本列島に渡来していたからです。古代朝鮮語の高句麗語、百済語、新羅語は、古代三韓時代から三国時代にかけて、それらの民族が日本列島に渡来したことは、古文書にあるとおりです。では、タミル語は、どのような民族により、日本列島にもたらされたのでしょうか。
紀元前、タミル語は、インドに住む牧畜民族であるトラヴィダが、アーリア系のバラモン教徒に不可触賎民として迫害されたため、南インド最南端に逃避した地域で使用されている言語です。
この日本列島におけるタミル語の謎は、何故、南インドから遥遠方の、極東の日本列島に伝来したのでしょうか。そして、そのタミル語の単語は、イネ・ウネ・アゼなど水耕稲作系農耕単語に多く見られるのです。そして、その水耕稲作の伝来は、弥生人が日本列島にもたらしたと言われていることから、タミル語と弥生人との関連が示唆されます。
更に、北九州から発掘された、弥生時代初期の甕棺による埋葬形式は、南インドから東南アジアにかけての埋葬文化との共通点が示唆されます。弥生時代が終わり、三世紀半ばから始まる古墳時代では、騎馬民族系の石積木槨墳となることから、水耕稲作と供に渡来したタミル語は、騎馬民族渡来以前から、日本列島に渡来していたことが示唆されます。
民族語は、異民族の地を時間を掛けて通過する場合、その異民族の言語の影響を強く受ける傾向があります。しかし、日本列島渡来のタミル語は、殆んど他民族言語の影響を受けることも無く、日本列島に渡来していたことは、その民族の旅は、陸路ではなく、海路が示唆されます。実際、古代の国際交易は、異民族からの危険を回避するために、危険な陸路ではなく、安全な海路が発達していたのです。
藤原日本史に強い影響を受けたひとは、古代の国際交易の旅は、海路ではなく、ラクダ商隊による陸路のシルクロードであると刷り込まれてしまい、海洋民族が活躍した歴史を知ることは無いのですが、紀元前10世紀のフェニキアの国際商人は、竜骨のある構造船により、地中海からアラビア海を抜け、インド洋を航行し、インドとの国際交易をおこなっていたのです。
古代のフェニキア海洋民族の時代から、十五世紀のイエズス会宣教師の時代まで、南インドのマラバル沿岸は、ヨーロッパの国際海洋民族の交易中継地点であったのです。紀元一世紀には、そのマラバル沿岸には、ユダヤ教ヨシュア派の教会があったほどなのです。
そのインド洋を西風に乗れば、マラッカ海峡へ到達するには、さほどの航海技術は必要ないのです。そして、フィリッピン沖から東シナ海の黒潮に乗れば、琉球から、南九州坊津へは、動力を必要としないのです。そして、帰路である南九州から南インドへは、東シナ海では北風の貿易風を利用し、そして、インド洋では貿易風を利用すれば、二三ヶ月で到達できるのです。
5世紀には、南インドから中国北魏の牢山までの海路が開発されていたのです。399年北魏を発った僧法顕は、陸路により402年ガンダーラに辿り着き、帰路は海路で、411年南インドのコンジェヴェラムを発って、413年中国の牢山に到着し、414年北魏の洛陽に帰還していたのです。
そのように、南インドと中国とでは、古代から海路が存在して、竜骨を持つ外洋船により、それぞれの国際交易人が行きしていたのです。古代の日本列島にも、南インドとの交易があったことを示す物に、香木と沈香があります。その香木は、古代では南インドが原産であったのです。
国際交易商人隊には、交易旅での異民族との遭遇に対して、武装集団が動向する傾向があったのです。紀元一世紀での東ローマ帝国と後漢との馬絹交易では、97年後漢の和帝は、軍団と供に、甘英をローマ領に派遣していたほどです。
海洋民族も、その交易船団には、武装集団を乗船させていたのです。その南インドのタミル語を話す武装集団が、日本列島に渡来して、後に、藤原氏の護衛部族としての、薩摩ハヤトとなるわけです。
その南インド原産の香木が、衛生環境が劣悪であった日本列島の貴族社会で、歴史上に現れたのが奈良時代です。そして、その香木は、宗教儀式にも使われていたのです。その奈良時代に、インドのバラモン教の儀式を真似て、藤原の女を貴族に嫁がす五節舞を発明して、祭祀氏族として君臨していたのが藤原氏です。
その藤原氏の祖中臣氏が、突然歴史上に現れたのが、中臣鎌足(藤原氏の祖?)が活躍したと云われる、645年の「大化の改新」(?)です。しかし、その藤原氏の祖と云われる中臣鎌足の出自は不明なのです。
では、中臣族が日本列島に現れる645年以前、どのような民族が日本列島の中枢を支配していたのでしょうか。その民族が、「やまと言葉」と云われる日本語の祖を構築していたのです。
この時代を、藤原日本史では、厩戸皇子(聖徳太子)による仏教文化が花開いた、飛鳥時代とするのですが、この時代は、考古学上では、騎馬民族の埋葬法である丸山古墳と、古代エジプトの埋葬法による石室・石棺を納めた巨大前方後円墳が築かれていた、古墳時代であったのです。
その中臣氏の足跡を辿れば、南九州の坊津に行き着くのです。この坊津は、東シナ海の黒潮が流れ着く地で、奈良・平安時代では、藤原氏が運営していた、四隻に二隻は転覆する遣唐使船の出発港のひとつで、そして、戦国時代では、イエズス会の侵略基地がある南インドのマラバル沿岸から、銃・硝石を満載した船が着く密輸港でもあったのです。
更に、江戸時代初期には、藤原氏(薩摩藩)が、琉球王国を壊滅し、琉球を中継地として南蛮や中国の明帝国との密貿易をおこなっていた港が、その南九州の坊津であったのです。
このように、タミル語を話す民族は、弥生時代から江戸時代まで、外洋船により南インドから南九州に渡来していたのですが、そのタミル語が、「日本語文法の祖」とならなかったのは、そのタミル語を話す民族以上に強力な民族が、「日本国」の黎明期に日本列島に渡来し、日本列島に暮す異民族を支配したからです。その民族とは、膠着語(日本語文法の祖)であるウラル語系の突厥語を話す、騎馬民族であったのです。
突厥とは、中国語読みで、チュルク(トルコ)を表わした文字です。チュルクには、突厥の他に、丁零、勅勒、鉄勒など漢字で表わされています。そのチュルク系民族の歴史的存在は、中国の歴史家の司馬遷(紀元前145年?〜紀元前86年?)の歴史書「史記」には、紀元前3世紀頃には、シベリアの草原地帯にチュルク系遊牧民が暮らしていた、とあります。
そのチュルク系の突厥が、歴史上に現れたのが、五世紀のバイカル湖沿岸です。因みに、バイカルとは、突厥語で、「豊かな水」の意味です。この突厥民族は、北方遊牧民族の中で、唯一民族の文字(突厥文字)を持っていたのです。
遊牧・騎馬民族は、自然と暮らし、定置区域で暮す農耕民族ではないので、土地の支配権を主張するための「歴史書」を持たない民族でもあるのです。その代わり、民族の歴史は、文字によらず、話し言葉の伝承により受け継いでいたのです。
ですから、遊牧・騎馬民族には、「歴史書」を綴るための文字は、発明する必要がなかったのです。しかし、1889年ロシアの調査隊が、モンゴル高原のオルホン河流域の地で、二つの巨大石碑を発見したのです。この二つの石碑は、ビルガ・カガン碑、キュル・テギン碑と命名されたのです。そして、その碑文には、突厥族の王、河汗やその親族、宰相などの生前の武功や業績が突厥文字で刻まれていたのです。
この突厥文字を持つ突厥は、東ローマ帝国との馬絹交易により勢力を、中央ユーラシアから、東西ユーラシアに勢力を伸ばし、552年にはユーラシア一帯を支配する突厥帝国を樹立していたのです。そして、突厥帝国は、馬絹交易権をめぐり、南中国を支配する隋・唐との熾烈な戦いを繰り広げていくのです。この時代が、日本列島での「日本国」の黎明期であったのです。この突厥帝国と隋・唐との民族戦争時代は、道教と漢訳仏教との宗教戦争時代でもあったのです。
道教は、中国古来の土着宗教を基に、騎馬民族を蔑視するバラモン僧の鳩摩羅汁が発明した漢訳仏教に対抗するために、北魏(430年〜532年)の騎馬民族の天子(テングリ)太武帝の時代、443年頃に成立した宗教です。その騎馬民族の天子(テングリ)太武帝は、北極星(太一)を祀る騎馬民族思想を取り入れた道教を保護し、446年から漢訳仏教を弾圧するのです。
その北魏の時代、漢訳仏教僧の数が200万人とも云われたのは、漢訳仏教僧になると過酷な税が免除されるうえ、その住まいである砦の寺(「てら」ではなく「ジ」。「てら」とは、騎馬民族語で死者が眠る処。「寺」が、日常語の「てら」となるのは、漢訳仏教が死者を弔う事業を始めた鎌倉時代以降から。)が治外法権であるから、僧籍に相応しくない者の多くが漢訳仏教僧となっていたからです。
古代の中国大陸では、その砦である「寺」(ジ)では、治外法権を悪用して、賭博・売春・高利貸しがおこなわれていたのです。このことを証明するように、漢訳仏教が渡来した日本列島でも、空海が得度したと言われる京の神護寺には、鎌倉時代になっても、寺に肉・酒を持ち込み、女・楽師を泊めることを禁ず、との戒めがあったほどです。
しかし、その騎馬民族文化を保護する太武帝が、452年暗殺されると、農耕民族の漢族文化に染まった文成帝が即位すると、騎馬民族が信仰する道教を弾圧し、漢訳仏教を保護するのです。この中国大陸における、騎馬民族の道教と、農耕民族の漢訳仏教の対立図式が、日本列島の黎明期にもたらされるのです。
藤原日本史では、「日本国」の黎明期時代での騎馬民族文化の歴史を抹殺するために、二回に及ぶ神仏戦争物語を、「日本書紀」で創作したのです。その神仏戦争物語での神とは、神道の神ではないのです。その宗教戦争とは、道教・景教(ミトラ教)対漢訳仏教であったのです。
更に、その藤原日本史で述べる飛鳥時代(実際は古墳時代)を、仏教文化に装飾するために、厩戸皇子(聖徳太子)を創作して、その厩戸皇子の業績を誇張するために、607年隋の煬帝に国書を贈ったとするわけです。しかし、その国書といわれる文章が、飛鳥ヤマトでの騎馬民族の存在を証明するのは、歴史の皮肉です。その文章とは、「日が昇る処の天子が、日が沈む処の天子に、ご挨拶します。お元気ですか。」と云う意味であったのです。この文章に、隋の煬帝が激怒した、と「隋書」にあるのです。
この文章を、日本国の天皇が、隋の皇帝を見下した、アッパレな文章であると、藤原日本史は述べるのですが、その頃の騎馬民族文化には、東と西の文字が無く、東のことを日が昇る処、そして、西を日が沈む処としていたのです。
では、何故、隋の皇帝がその文章に激怒したのかと言えば、それは、飛鳥ヤマトの男王アマタリヒシコにより、漢族文化に染まっていても、煬帝のお前は騎馬民族のテングリではないか、と弱小国の倭王(醜く小さい王の意味)に、言われたからです。そして、本当に日本列島の飛鳥ヤマトに、騎馬民族の王であるテングリ(天子)が居るのかを、遣隋使ソインコウに伴われた隋使が、607年に倭国を訪れていたのです。
中国大陸では、初めて中国統一した、ギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国である、秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)から宗国(北宗・960年〜1126年)にいたるまで、色々な民族国が興されたのですが、その国々を実行支配したのは、漢民族ではなく、主に騎馬民族であったのです。
その騎馬民族に支配されていた漢民族は、漢訳仏教を思想武器としたのです。それは、ガンダーラで紀元一世紀に、ギリシャ語で書かれた無数の大乗仏教経典(常識的には、大乗教仏典は「サンスクリット語」で書かれていたと信じられていますが、それを証明することはできないのです。それは、漢訳されると原著は全て焚書されていたからです。因みに、現在に残るサンスクリット語仏典は、七世紀に復元されたものです。サンスクリット語とは、ギリシャ語の流れで発明された言語です。)を、中国諸国の農耕民族出自の王族に迎合するために漢訳した時に、騎馬民族を不可触賎民「施陀羅」とする仕掛けを挿入したのです。
そのことにより、そのトリックに引っかかった騎馬民族の一部王族は、自らの騎馬民族文化を蔑視し、その騎馬民族文化を棄て、煌びやかな漢服で着飾り、金ピカ仏像を祀る漢訳仏教を保護し漢民族化していくわけです。北魏での、道教を祀り騎馬民族文化を保護していた太武帝を暗殺し、漢訳仏教を保護した文成帝も、実は、騎馬民族が出自であったのです。
この中国大陸での、農耕民族と騎馬民族との民族戦争と同時進行していた、漢訳仏教と道教との宗教戦争があったことを知ることにより、日本国の黎明期である古墳時代の歴史が理解できるのです。
藤原日本史では、五世紀から六世紀にかけての、飛鳥ヤマトでの民族戦争と宗教戦争を隠蔽するために、「日本書紀」で越後出自の継体天皇を発明するわけです。そして、騎馬民族の突厥帝国進駐軍の歴史を抹殺するために、蘇我稲目を大臣とする欽明天皇を発明するわけです。
騎馬民族征服説を否定する学者は、「日本書紀」を日本国の正史と信じていて、騎馬民族の存在を示す史料がないことと、九州から中国地域を経て、河内に至るまでに、騎馬民族の存在を示す遺跡がないために、騎馬民族の日本列島渡来を否定するのです。
その理論は、古代ローマ帝国にミトラ教の遺跡が発掘されていないから、太陽神ミトラを祀るミトラ教がローマ帝国には存在していなかった、とのローマ・キリスト教徒の主張と同じです。
ギリシャ文化に憧れていたローマ帝国は、ロンギヌスの槍と盾で装備した重歩兵軍団の集団的戦術で、周辺諸国だけではなく、エジプトや中東のパルチア王国の支配国を支配下に置いたのです。しかし、武力占領をしても、その国の宗教を弾圧しなかったのです。そのため、ローマ帝国には、ギリシャ宗教・エジプト宗教・中東の宗教が存在していたのです。その中で、古代ヒッタイト帝国で発明された契約の神ミトラが軍神ミトラに変身していた、ミトラ教は、再生を約束するために、ローマ帝国の軍団に崇拝されていたのです。
しかし、392年ローマ帝国のテオドシウス一世の時代、ローマ帝国の支配に抵抗していた、ユダヤ教ヨシュア派を、ローマ帝国の国教としたのです。このユダヤ教ヨシュア派が、ローマ・キリスト教に変身すると、ローマ帝国内で崇拝されていた、ギリシャ・エジプト・中東の神々が、キリスト教徒により抹殺されていくのです。その中に、ミトラ教があったのです。ミトラ教は、太陽の下、民族平等を説くため、唯一神を信じるローマ・キリスト教にとって、完全に抹殺すべき宗教組織であったのです。
キリスト教徒は、地下に建設されていたミトラ教神殿を徹底的に破壊して、その跡に、ローマ・キリスト教の教会を建設していたのです。しかし、見えるものは破壊することで抹殺できますが、見えないもの、思想・儀式などは、破壊することが出来ません。そこで、ローマ・キリスト教は、それらの宗教思想や儀式を、例えばエジブトの「地母神イシス」を「聖母マリア」に変身させるなど、ローマ・キリスト教に取り込むことにより、抹殺を企てたのです。その結果、ローマ・キリスト教の思想や儀式は、主にミトラ教のものとなったのです。
ミトラ教の三神思想は「神と子と精霊」となり、太陽神のシンボルのマルタクロスは「十字架」となり、ミトラ神の再生日は「クリスマス」になり、太陽神ミトラに捧げるために牡牛を屠りその生血と生肉を食べる儀式は「赤ブドウ酒と種なしパンの儀式」となったのです。
645年渡来した漢訳仏教は、そのローマ・キリスト教と同じことを、日本列島でおこなっていたのです。
それは、騎馬民族が祀る道教と、秦氏が祀る景教(ミトラ教)の歴史的存在を抹殺するために、飛鳥時代の552年(平安時代初期に亡命百済貴族は、538年に改竄)に仏教が渡来したとの仏教伝来物語を創作しただけではなく、それらの宗教思想や儀式を、ローマ・キリスト教と同じように、漢訳仏教に取り入れていたのです。更に、オリエント文化の飛鳥ヤマトの道教や景教(ミトラ教)の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、日本列島各地から取り寄せた仏寺を移築して、飛鳥ヤマトに「仏教テーマパーク」を建設していたのです。
その根拠として、藤原日本史が、厩戸皇子(聖徳太子)が建立したとする、593年難波四天王寺、603年広隆寺、607年法隆寺などの7寺の創建は謎に満ちているからです。そして、現在の考古学の研究では、それらの仏教建物は、各地の年代の異なる資材を再利用した移築建築物であることが分かっているのです。
その根拠のひとつとして、670年炎上し、そして708年再建されたとする法隆寺の心柱は、年輪年代法により、6世紀末に伐採された木であると測定されたのです。そして、法隆寺境内で発掘された建築遺跡では、仏教建築思想とは異なる方位を示していたのです。更に、飛鳥ヤマトでは、仏教思想では説明できない、数多くの宗教施設跡が発掘されているのです。
藤原日本史の史料である「日本書紀」で述べる仏教伝来物語は「ウソ」であるのですが、その漢訳仏教の思想も儀式も謎に満ちているのです。
漢訳仏教の祖は、紀元一世紀の北インドを支配したクシャナ朝のガンダーラで突然現れた大乗仏教です。この大乗仏教は、多くの仏典とともに突然歴史上に現れたのです。そして、その仏典は、サンスクリット語で著されていたと云うのです。そして、その大乗仏教の祖神は、釈迦(紀元前566年〜紀元前486年)であるとするのです。
紀元一世紀に大乗仏教が発明される時代背景として、ローマ帝国と後漢との馬絹交易の始まりがあります。その東西の交易中継地が、大乗仏教発祥の地ガンダーラであったのです。更に、外洋船によりエジプトとインドのアーンドラ朝との海洋交易も盛んになっていたので、南北インドは東西の国際交易商人が集まる処となっていたのです。その結果、南インドのマラバル沿岸には、ローマ人の居住地があるだけではなく、大乗仏教の双生児と云われるユダヤ教ヨシュア派(「ローマ・キリスト教」の発生は4世紀から。)の教会も建設されていたのです。
しかし、東西交易を結ぶシルクロードの北側のユーシア大陸では、遊牧・騎馬民族の匈奴が勢力を伸ばし、その東西の馬絹交易中継国を支配下に置くことを目的に、後漢と対峙していたのです。匈奴の攻撃を迎え撃つ後漢の和帝は、97年甘英をローマ領に派遣して、馬絹交易国権に介入を目論む匈奴を牽制していたのです。
この後漢との戦闘で疲弊した匈奴は、93年北ユーラシアを支配下に置いた遊牧民族鮮卑により、西方に敗走したのです。これが、四世紀後半ヨーロッパに現れたフン族の祖であると言われているのです。そのような紀元一世紀のシルクロードを巡る動乱期に、大乗仏教は突然現れたのです。
釈迦は、遊牧民族のサカ族の皇子で、紀元前8世紀に成立したバラモン教のカースト制度で遊牧民族をイジメる思想に疑問を持ち、そのカルマから逃れるための思想を発明したのです。それが、仏教思想です。
その大乗仏教の祖とする釈迦(釈尊)の仏教思想の根本は、人間は輪廻転生するため、そのカースト制度から逃れることができないのなら、人間にならなければ良いと考え、俗世界から出家し「非人」となり、一切の経済活動から逃れるために生産活動をしない「乞食」として生きることです。
そして、バラモン教で使用していたサンスクリット語を避け、パーリー語で、その「非人・乞食」思想を語っていたのです。「乞食」で暮らすため、ひとが与えた食物は何でも食べたのです。菜食主義のバラモン教が禁じた「肉食」もしていたのです。そして、輪廻転生を避けるため、釈迦は、死後、絶対に「像」を造ることを禁じたのです。
そのような釈迦の基本的教えは、紀元1世紀に突然現れた大乗仏教には反映されてはいなかったのです。
中国で発明された漢訳仏教は、サンスクリット語を基に漢訳されたと宣伝し、金ピカの仏像と無数の経典により、死後輪廻転生により西方浄土を約束していたのです。
では、その漢訳仏教の仏である弥勒菩薩と阿弥陀様は、どのような異教神から変身させたのかと言えば、弥勒菩薩はミトラ神で、阿弥陀様は古代エジプトのアトン神であったのです。そして、その太陽神アトンの祖神は、古代ヒッタイト帝国の太陽神で契約の神ミトラであったのです。
その漢訳仏教の謎の解明のヒントは、漢訳仏教の祖である大乗仏教が発明された地、ガンダーラにあるようです。
紀元一世紀のガンダーラは、東ローマ帝国(大秦)と後漢との、馬絹交易の中継地であったのです。そのガンダーラの歴史を辿れば、紀元前4世紀にギリシャ都市国家から独立したマケドニア王国(紀元前356年〜紀元前168年)に辿り着くのです。
マケドニア王国のアレクサンドル大王(紀元前336年〜紀元前323年)が、長槍と盾で武装する集団戦法で、エジプトから西アジア一帯を支配していたペルシャ帝国を倒し、西アジアから北インドまでの一帯を支配して、アレクサンドル大王領を築いたのです。しかし、紀元前323年アレクサンドル大王が、バビロニアで病死すると、大帝国は、分裂し、ペルシャ文化のシリア王国やパルチア王国が興るのです。
しかし、西端のエジプト王国(紀元前305年〜紀元前27年)と東端のバクトリア(紀元前250年〜紀元前139年。紀元前140年大月氏となる。)は、ギリシャ文化を保ったのです。そのギリシャ文化継承国バクトリアの多民族編成の軍団は、紀元前221年中国を統一して秦帝国(紀元前221年〜紀元前206年)を興すのです。
そのギリシャ文化継承国バクトリアの後を引き継いだ大月氏も、紀元1世紀には諸侯の分裂により、紀元45年には遊牧民族サカによりクシャナ朝が興るのです。そのクシャナ朝の国際交易都市が、ガンダーラであるわけです。ですから、ガンダーラは、ギリシャ文化を継承していたのです。
ここにひとつの疑問が生じるのです。それは、紀元一世紀に突然歴史上に現れた二つの宗教です。それが、ユダヤ教ヨシュア派と大乗仏教です。この二つの宗教の教祖と言われるヨシュア(イエス)と釈迦の生い立ち物語の基本が同じなのです。詳しくは、神輿の黙示録(11)「日本国統一と新賎民の発生:デウスとブッタは一卵性双生児か」をご覧ください。
大乗仏教経典の原典が、サンスクリット語ではなく、ギリシャ語ではないかとの根拠は、紀元一世紀にユダヤ教の物語を綴る小冊子を集め、そして、新たにヨシュア(イエス)の物語を合わせて合本した「聖書」は、ギリシャ語で著されていたからです。
一般的に、そのギリシャ語の「聖書」は、アレクサンドロス大王領が分裂した、紀元一世紀にはローマ帝国領となっていたエジプトのアレクサンドリアで、50人の宗教学者によりヘブライ語からギリシャ語に翻訳されたと信じられていますが、そのヨシュアが活躍したとする地では、ヘブライ語よりも、アラム語が日常的に使われていたのです。何故、「聖書」は、ヘブライ語やアラム語ではなく、ギリシャ語で著されたかの謎は、それは、ギリシャ文化が継承されたガンダーラで創作されたからです。つまり、ユダヤ教ヨシュア派の「聖書」も、大乗仏教の経典も、その種本はガンダーラでギリシャ語で著されていたのです。
大乗仏教経典の原典が、ギリシャ語で著されていたとする根拠のもうひとつとして、経典と同時に現れた仏像の制作技法があります。現在に残る仏像は、女性肌のふっくらとした人物で表現されています。しかし、紀元1世紀のガンダーラに現れた仏像は、ガリガリに痩せこけ、写実的なギリシャ彫刻形式で表現されていたからです。
このギリシャ彫刻形式のガリガリ仏像は、五世紀の北魏で発明された道教思想と対抗するために、永遠の美を約束する女性肌のふっくらとした仏像に変身したのです。その訳は、道教には、秘薬(バラモン教の秘薬は水銀薬ですが、道教の秘薬は薬草です。その道教の薬草の神様が神農様で、日本列島に渡来した神農様は、北陸富山や大阪の創薬部族や鎌倉時代に発生した「役座」の神様となっていくのです。)や仙術により長生が約束されていたからです。
漢訳仏教には、バラモン教から導入した輪廻転生思想がありますが、それは、死後のことです。漢訳仏教は、道教の現世利益に対抗して、ガリガリ仏像から女性肌のふっくら仏像で長生を約束したのです。
更に、漢訳仏教に不思議な思想世界があります。それは、極楽と地獄の世界です。釈迦(釈尊)は、バラモン教が発明した永遠に輪廻転生を繰り返す民族差別世界のカースト制度から逃れるために「非人」となったのです。その非人は、人間でも死者でもない存在です。人間でも死者でもない非人には、極楽世界も地獄世界も必要はないのです。
因みに、釈迦の仏教思想には、俗世間から出家した非人であるので、当然、現世の存在をもたらした先祖供養の思想などなかったのです。その先祖供養の思想は、高齢者を敬う中国土着の儒教からの借り物だったのです。
では、漢訳仏教は、その極楽と地獄の二極世界思想をどこから持ち込んだのでしょうか。それは、紀元前6世紀のペルシャで発明され、紀元一世紀に復活していた、ミトラ教の日の出の神・天中の神・日没の神の三神のミトラ教思想を改良して、光と闇が永遠に戦うという二神思想を発明したゾロアスター教からの借り物です。漢訳仏教では、光が極楽で、闇が地獄です。因みに、大乗仏教と一卵性双生児のユダヤ教ヨシュア派では、光が天国で、闇が地獄です。
ゾロアスター教は、火を祀る宗教でもあるので、そのゾロアスター教の拝火儀式が、平安時代初期、錬金術師空海により、バラモン教・ヒンズー教・ゾロアスター教とをミックスして発明された密教儀式に導入されて、漢訳仏教儀式となり、漢訳仏教信者を「ウソも方便」で「ゴマカス」ために、大麻を燃やす護摩儀式に変身したのです。
この謎が多い漢訳仏教が、藤原日本史によれば、552年(亡命百済貴族によれば538年)に飛鳥ヤマトに伝来したと云うのです。その仏教伝来時期が、欽明天皇時代(531年〜571年)と云うのです。
この欽明天皇の時代の歴史は、「日本書紀」以外に知ることはできないのです。それは、645年に藤原氏が、前政権の史料を焚書していたからです。しかし、遺跡が語る歴史まては焚書(?)できなかったのです。
その藤原日本史で語るところの欽明天皇の時代に、考古学上の変化があったのです。それは、三世紀中ごろから出現した前方後円墳築造が、飛鳥ヤマトのみ中止されて、それに変わり、方墳や八角墳となっていたからです。しかし、飛鳥ヤマト以外では、依然として、前方後円墳築造が、七世紀まで続いていたのです。
因みに、日本初の天皇である天武天皇(672年〜686年)の陵は、四世紀に飛鳥ヤマトを支配したと、藤原日本史では述べる、大和朝廷の天皇陵と云われる前方後円墳ではなく、八角墳であったのです。このことは、何を語るのでしょうか。
そして、更に不思議なことには、藤原日本史では、漢字は百済から漢訳仏教と供に伝来したと云うのですが、「後漢書」によれば、倭国への漢字伝来は57年です。それは、ローマ帝国と馬絹交易をシルクロードによりおこなっていた後漢の光武帝(25年〜57年)が、倭奴国王に印綬を与えた「印」に、「漢委奴国王」の漢字があるからです。
更に、船山古墳や稲荷山古墳から出土の鉄剣には、漢字が記されていて、埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣には、辛亥年と記されているのです。その辛亥年とは、471年のことです。
五世紀制作とされる鉄剣にある漢字は、「○○する○○を」と漢語語順であるのですが、藤原日本史で述べる飛鳥大和時代(四世紀?〜645年?)の「万葉歌」の始めの歌は雄略天皇の歌で、漢字を使って詠っているのですが、それは「○○を○○する」との日本語語順(ヤマト語順?)であるのです。そして、701年大宝律令の文章では、漢字で「○○する○○を」と正式な漢語語順となっているのです。
欽明天皇の531年から皇極天皇の645年までの約百年間、飛鳥ヤマトに古墳の築造形式と漢字語順の変化があったことは、支配民族の変換を示唆します。
藤原日本史が述べるように、四世紀の飛鳥大和に大和朝廷が存在していて、地方の豪族を支配するために、大和朝廷の埋葬法の前方後円墳を築造させていたと言うのならば、何故、飛鳥ヤマトでは、欽明天皇の時代から、前方後円墳ではなく、方墳や八角墳が築造されたのでしょうか。
そして、もし、四世紀から飛鳥ヤマトが、大和民族に支配されていたのなら、何故、漢語語順(五世紀)→日本語語順(六世紀)→漢語語順(七世紀)に変化していたのでしょうか。そもそも、その「○○を○○する」の日本語語順の祖といわれる「ヤマト言葉」とは、何なのでしょうか。
欽明天皇から皇極天皇まで、飛鳥ヤマトを約百年間支配していた民族を特定することは簡単です。それは、欽明天皇の時代に現れた方墳や八角墳、そして、万葉歌の「○○を○○する」の語順は、東アジアではなく、西アジアの民族のものであるからです。特に、「○○は○○する」の語順は、膠着語といって、遠方の異民族と国際交易をおこなう騎馬民族共通の語順(ウラル語)です。
では、藤原日本史で述べる、仏教が伝来したとする欽明天皇の時代に、どのような民族がどのようなルートでどのようにして、飛鳥ヤマトに渡来して、約百年間を支配したのでしょうか。そして、日本語のルーツが「ヤマト言葉」であるとするならば、大和民族とは、六世紀から七世紀の飛鳥ヤマトを約百年間支配したその渡来民族であると言えます。
前政権の歴史を抹殺する手法の基本は、焚書です。しかし、文字が綴る書籍は、焚書で抹殺できても、被征服民族の会話で伝わる、人名・地名・伝説等を口封じすることは不可能です。そのために、征服民族は、ミトラ教儀式を取り込んだローマ・キリスト教のように、自民族の歴史に被征服民族の歴史を取り込み、被征服民族の歴史を抹殺するのです。
藤原日本史で述べる欽明天皇の歴史も、その中に、被征服民族の歴史が隠されているのです。その物語が、仏教伝来物語の物部氏と蘇我氏との二度の神仏戦争です。
平安時代初期に著された、秦氏末裔の多人長の「古事記」の暗号によれば、「推古天皇までの歴史を否定せよ。」です。その「古事記」の暗号を解いてみると、藤原日本史が隠蔽・改竄した歴史が現れてくるのです。
藤原日本史の「日本書紀」の古代天皇史で、「古事記」が否定したい天皇は、「継体天皇」です。それは、継体天皇の存在を否定すると、北九州と越前の藤原日本史の歴史を暴くことができるからです。そして、継体天皇の存在を否定できれば、その王朝の流れにある、飛鳥ヤマトに仏教文化をもたらしたと云う欽明天皇の存在も否定できるからです。そのことにより、552年(538年)の仏教伝来も否定できるのです。
多人長は、「古事記」で、継体天皇の享年を43歳としたのです。それは、「日本書紀」で述べる継体天皇の享年82歳を否定するためです。この「古事記」の暗号を解読することにより、「日本書紀」が隠蔽・改竄した飛鳥ヤマトの歴史が暴かれるのです。
「日本書紀」によれば、継体天皇は、57歳の時、越前を出て、507年樟葉宮(大阪府牧方市)で即位し、512年山城筒城(京都府京田辺市)に遷都し、519年弟国(京都府長岡市)に遷都し、527年飛鳥ヤマトの磐余玉穂(奈良県桜井市)に入り、その後、5〜7年後(532年?)に崩御した、と述べているのです。継体天皇は樟葉宮で即位して約20年間も飛鳥ヤマトに入れなくて、大阪・京都周辺で「何」をしていたのでしょうか。そして、継体天皇の大和入りを約20年間も阻止していた飛鳥ヤマト勢力とは、何者であったのでしょうか。
そして、藤原日本史では、継体天皇崩御後、安閑天皇、宣化天皇に続き、531年欽明天皇が即位したことになっているのです。
「古事記」と「日本書紀」との継体天皇の享年が、はなはだしく違っていることもさることながら、その出自も異なるのです、それは、「古事記」では、継体天皇は近江出自であると述べるのに対し、「日本書紀」では越前とするのです。これは一体、「古事記」は、後世のひとに「何」を知らせようとしたのでしょうか。
近江とは、琵琶湖周辺の地を指す地名です。この地は若狭湾に近く、中国大陸との海上交通に便利なところで、663年朝鮮半島の百済が滅ぶと、667年その百済亡命政権が近江大津に亡命政府を拓いた所です。
更に、戦国時代末期の近畿一帯を、イエズス会の軍事支援で支配した織田信長は、1576年日本初のヨーロッパ築造思想に基づいた石垣の上に天主閣のある安土城を、琵琶湖畔に築き、その安土の地を、ヨーロッパの町並みを模した城下町にしていたのです。
その近江の地が、「古事記」によれば、継体天皇の出自地であるというのです。では、その近江には、どのような歴史があったのでしょうか。
713年奈良王朝は、前政権の地名を抹殺するために、全国に風土記編纂の命令を下したのです。その命令では、前政権の地名を、漢字二字(好字令)で示すことが条件であったのです。その風土記のひとつに、「近江国風土記」があったのです。その「近江国風土記」をそのまま読んでも、古の歴史を知ることができないことは、誰にでも理解できます。それは、「風土記」とは、前政権の歴史を隠蔽・改竄するための「仕掛け」であるからです。
その「近江国風土記」の「逸文」に、白鳥伝説があるのです。その白鳥伝説のテーマは、男が天女の衣を盗み、天に帰れない天女と夫婦になり子をもうけたが、故郷をしのぶ天女は、ついに羽衣を見つけ、天に帰った、ということです。この白鳥伝説と同じ物語が、民話としてバイカル湖沿岸にあるのです。バイカル湖の「バイカル」とは、突厥語で、「豊かな水」のことです。何故、中央ユーラシアのバイカル湖と、日本列島の琵琶湖に、古来から白鳥伝説があるのでしょうか。
白鳥の習性は、夏は中央ユーラシアのバイカル湖周辺で暮らし、冬は日本列島に飛来し、そこで越冬するのです。しかし、その白鳥の飛来地の多くは東北で、近畿以南にはめったに飛来しないのです。それなのに、何故、琵琶湖周辺の近江には、バイカル湖沿岸の民話が古くから語り継がれているのでしょうか。
藤原日本史が述べる、古代国家の創始である継体天皇から欽明天皇にかけての時代、東アジアでは、騎馬民族と農耕民族との熾烈な戦いの時代であったのです。北の騎馬民族柔然は、南の北魏を攻めていた時代が、倭国五王の時代です。しかし、508年騎馬民族のチュルク系高車軍団が、柔然を破ると、その勢力を極東へ伸ばすのです。
その高車軍団も、五世紀バイカル湖周辺で勢力を増した騎馬民族チュルク系突厥軍団により壊滅・吸収されてしまうのです。突厥は、馬絹交易を東ローマ帝国とでおこなうことにより急速に国力を増して、六世紀中ごろには、ユーラシア一帯を支配したのです。この頃の日本列島では、藤原日本史が述べる宣化天皇の時代で、仏教を導入したとする蘇我稲目が突然大臣として現れた時代であるのです。
このチュルク系騎馬民族の突厥は、バイカル湖周辺で興った民族であったので、船による海上交通技術にも長けていたのです。それは、バイカル湖は、琵琶湖の約40倍もの広さがある、湖というよりも、内海にちかいものであったからです。
古代では、騎馬民族と、海洋民族、もしくは、船を交通手段とする川辺の民族とは、国際交易では協調関係にあったのです。それは、海外の遠方国からの国際交易品を、内陸の消費地に運ぶには、船を利用したからです。交易品を満載した船をそのまま河から溯上させるには、人力よりも、馬力のほうが有利であるからです。騎馬民族突厥には、他の騎馬民族と異なり、湖(内海)を船で渡る技術があったのです。
この東アジア動乱の時代、ユーラシアを支配した騎馬民族の突厥軍団が、日本海(東海・トンヘ)を船団により渡り、日本列島の若狭、能登、佐渡、秋田、十三湊など、敵対国の北魏の影響下にある港を避け、北陸以北の各港に渡来していたのです。
騎馬民族征服説を否定する学者は、九州から近畿地域にかけて、騎馬民族の渡来を示す遺跡が出土しないことを根拠のひとつとして唱えていますが、それは、騎馬民族突厥の渡海技術を知らないからです。日本海(東海・トンヘ)は、バイカル湖沿岸を故郷とする突厥民族にとっては、なぎの時は湖と同じなのです。
その突厥軍団の渡海目的のひとつは、古来からタミル語を話す民族や中国植民地としての絹生産地である日本列島で、馬絹交易で東ローマ帝国が求める絹を入手することですが、もうひとつは、軍事目的であったのです。
東アジア全体図を、南北逆さに表示すると、日本海(東海・トンヘ)は内海(湖)となり、日本列島は台湾まで島が続き、ユーラシアから中国大陸中腹までの「回廊」であることが理解できます。この日本列島を支配することが、ユーラシア大陸を支配し中国支配を目論む突厥にも、その攻撃を阻止し、突厥壊滅を目論む中国北魏にも絶対に必要であったのです。
このような東アジアでの騎馬民族と農耕民族との緊迫時代が、継体天皇から欽明天皇の時代、藤原日本史で云うところの、古代国家の創始時代であったのです。
日本列島が、創始時代以前、古墳時代が始まる頃には、中国大陸からの軍団が渡来していたのです。その時代とは、卑弥呼の邪馬台国の時代(239年?〜247年?)です。この三世紀半ばに、日本列島に古墳が現れたのです。
紀元一世紀に東ローマ帝国との馬絹交易を始めた後漢は、北方遊牧・騎馬民族の鮮卑の度重なる攻撃により、220年には滅亡するのです。その後漢は、魏・蜀(漢)・呉に分裂し三国時代に突入するのです。
その三国時代の魏(220年〜265年)は、東ローマ帝国が求める絹を手に入れるために、北九州に侵攻するのです。その北九州の地では、弥生時代からタミル語を話す民族が、南中国種の繭ポンピックスモリを持ち込み、養蚕に励んでいたのです。その北九州に、魏は「張政」という軍事顧問を送り込んだのです。その目的のひとつが、絹生産地の支配・独占です。
この張政の二十年間にも及ぶ九州滞在期間の情報を基に、「魏志倭人伝」が著されたのです。その邪馬台国では、絹織物を重要な産品にしていたのです。そのことを示すように、「魏志倭人伝」には、「魏の皇帝に倭錦、異文雑錦などを贈った。」、とあります。
弥生時代の絹の遺物が出土しているのは、福岡県の比恵、有田、吉武高木など北九州の極限られた遺跡だけであることは、当時の絹は貴重品で、その絹産出地は秘密にされていたからです。
魏が絹生産地を独占することは、東ローマ帝国との馬絹交易で蜀・呉を出し抜き有利にするためには、絶対必要条件であったのです。そこで、魏は、邪馬台国の卑弥呼を親魏倭王に封じ、金印紫緩を授けたのです。それは、卑弥呼は、北九州の絹生産地の魏の傀儡支配者だったからです。
藤原日本史を読んでいると、飛鳥大和を視点として、日本列島史をながめることになるのですが、日本国の年号が永続的に続き現在に至る年号の始めは、藤原氏が復活した明治革命により樹立された、明治新政府が発明した「大化の改新」である大化元年(645年)などではなく、大宝元年(701年)からなのです。では、藤原日本史で述べる大宝元年以前の年号は、何処の国の年号なのでしょうか。
古代美術史に現れる年代として、飛鳥時代、白鳳時代があります。飛鳥時代は、なんとなく分かります。それは、飛鳥ヤマトを中心にした、オリエント文化を「仏教寺テーマパーク」に改竄した530年から645年までの時代です。では、その飛鳥時代に続く白鳳時代とは、どのような時代なのでしょうか。
学者は、その白鳳時代の「白鳳」は、650年改元の「白雉」からのものであると説明しているようですが、「白鳳」と「白雉」は、漢字が異なります。だったら、白鳳時代ではなく、白雉時代に何故表記しないのでしょうか。その「白鳳」の謎を解くヒントがあります。それは、「続日本紀」です。
「続日本紀」の聖武天皇(724年〜749年)の詔勅に「白鳳以来、朱雀以来、年代玄遠にして尋問明め難し。」とあるのです。意味は、「白鳳や朱雀は、わが国の年号ではないのだから、そんなことを言ってくるな。」、です。六国史のひとつ、正史と言われる「続日本紀」に、「白鳳」は、「日本国の年号ではない。」と、聖武天皇の「お言葉」で記述されているのです。では、その「白鳳」とは、何処の国の年号なのでしょうか。
この「白鳳」の年号は、朝鮮半島で522年頃から700年頃までに使われていた年号であったのです。この年代頃の朝鮮半島は、東アジアでの遊牧・騎馬民族柔然が、チュルク系騎馬民族高車に壊滅され、その高車軍団が、南の北魏を襲ったため、北魏は、535年東西に分裂していたのです。
そのような騎馬民族国と農耕民族国との戦いの動乱が、朝鮮半島にも及び、ギリシャ・ローマ文化国の新羅(秦羅)は、528年仏教国に変身してしまうのです。宗教は、民族の団結を支える思想武器です。
その国の宗教が替わるということは、その国の支配者が替わったことを示唆します。その新羅の宗教が替わった528年に、北九州では、527年から528年にかけて、藤原日本史が述べる、「筑紫国造磐井の反乱」があったのです。そして、528年仏教国となってしまった新羅は、649年には唐服を着るようになってしまうのです。
そのような反騎馬民族国家の思想武器である仏教思想に染まってしまった朝鮮半島で使われていた年号が、「白鳳」であったのです。ですから、朝鮮半島の仏教文化を示す「白鳳」の年号は、「日本書紀」には「どこにも記述がない」のです。では、誰により日本列島に持ち込まれたのかと言えば、それは、この「白鳳時代」は、亡命百済貴族が支配した平安時代に、「聖徳太子」と供に日本列島史に挿入された年代なのです。
それ以前にも年号は存在しますが、多人長が「古事記」で述べているように、それらの大宝元年以前の歴史は、藤原氏の「日本書紀」により改竄されていたのです。ですから、大宝元年以前の歴史を調べる時には、藤原氏の歴史改竄のトリックに引っかからないために、「日本書紀」は慎重に読む必要があるのです。
藤原日本史の基礎史料は「日本書紀」ですが、それを援護する史料のひとつに各国の「風土記」があります。この「風土記」も慎重に読む必要があります。
797年漢語語順の「続日本紀」が著されるのですが、その中に不思議な一文があるのです。それは、元明天皇(707年〜715年)が、年号を「慶雲」から「和銅」に改元した708年の恩赦の記事にあるのです。その一文とは、「山沢に亡命して、禁書を隠しもっているもので、百日以内に自首しないものは、罪は始めのようにする。」というものです。
その「禁書」とは、「どのような書籍」なのでしょうか。詔を出してまで、禁書の提出を求めるほどの「書籍」とは、よほど藤原日本史には、不都合な内容の書籍であったのでしょう。因みに、漢語語順の「日本書紀」をはじめ「六国史」の全ての編纂には、藤原氏がかかわっていたのです。
その禁書と言われる史料のひとつと考えられるのが「風土記」です。実は、「風土記」には、日本語語順(やまと言葉=ウラル語)で著された「風土記」と、漢語語順で著された「風土記」との二種類があったのです。
この「風土記」編纂は、645年前政権を倒した唐進駐軍の傀儡藤原氏が、日本列島各地の歴史を改竄・隠蔽するために、713年に風土記撰上の詔が発せられたことにより創作された書籍です。それは、各国の歴史を隠蔽・改竄が目的であったのです。
そして、奈良朝廷は、その翌年714年国史撰上の詔を発したことにより、720年「日本書紀」が完成したのです。
「日本書紀」は、各国から集めた歴史情報を基に、藤原氏に都合好く、日本語語順(やまと言葉=ウラル語)ではなく、唐帝国の公式語である漢語語順で創作されたのです。
各国から提出された、その日本語語順の「風土記」により、藤原氏は、騎馬民族の突厥帝国が飛鳥ヤマトを530年から645年まで支配していた、日本列島史を完全に理解していたのです。そして、騎馬民族の歴史を隠蔽・改竄するための「日本書紀」が完成すると、日本語語順の「風土記」を焚書して、今に残る漢語語順の「風土記」を著したのです。その日本語語順の「風土記」は、「続日本紀」の一文によれば、山や沢に住む民族により伝承されていたのです。
奈良時代、山や沢に住む民族が、日本語語順の「風土記」を伝承していて、その禁書である「風土記」を奈良朝廷に提出すれば、恩赦するとする意味は、「何」なのでしょうか。そして、藤原日本史が述べる白鳳時代(朝鮮半島の年号で、日本国の年号ではない。)から奈良時代にかけて、「禁書」を持つ山の民とは、どのような民族であったのでしょうか。
その「禁書」を持つ民族の特定は、史料によりおこなうことは困難です。それは、奈良時代の藤原氏や、平安時代の亡命百済貴族により、被征服者の歴史書は焚書或いは改竄されてしまったからです。
そこで、考えられるのは「言葉」です。言葉は、記憶のDNAで、代々子孫に語り継がれていくからです。しかし、その言葉の音韻には、例えば、平安初期に唐帝国の山東半島から平安京に移民して来た民族が唐音で喋ったように、その時々の支配者の影響がある音韻が入り込むことがあることを知らなければなりません。
藤原日本史では、飛鳥時代に万葉仮名があり、その万葉語により天皇などの貴人が歌謡をおこなっていた、と述べています。その万葉仮名とは、古代日本語の音声に似た中国の漢字を選び、その漢字を、古代日本語の音韻に合わせてアルフアベットの代わりに使っていた文字言葉です。
では、その古代日本語とは、「何」なのでしょうか。この古代日本語を特定することには困難が生じます。それは、日本列島には、有史以前から、周辺諸国からの渡来民族が暮らしていたからです。縄文時代には、北からはアイヌ民族、南からはポリネシア民族、そして、弥生時代には南インドからタミル語を話す民族、そして、古墳時代には朝鮮半島から高句麗・百済・古代新羅の民族が続々と訪れ、そして、六世紀半ばにユーラシア大陸から飛鳥ヤマトを百年間支配した民族が、日本列島に渡来していたからです。
一般的イメージとして、やまと言葉は日本列島古来の言葉であると信じられているようです。そこで、言語学者は、日本語のルーツを研究し、その祖をタミル語とか、古代朝鮮語だと述べるのですが、日本語は単民族の言葉をルーツとしていませんから、それらの貴重な研究も納得できるものではありません。
例えば、やまと言葉と信じられている「たそがれ」があります。この「たそがれ」は、藤沢周平氏の時代劇小説「たそがれ清平」が人気があるように、現代日本人にも好まれている言葉です。辞書を引くと、「たそがれ」の語源として、「誰そ彼は」、と人の見分け難い時の意とか、夕方の薄暗い時「夕暮れ」たそがれどきの意、などとの説明があります。
そして、「たそがれ」の漢字として、「黄昏」の表示があります。しかし、その「黄昏」の中国読みは、「ホワーンフン」で、訓読み(日本語読み)とは全く異なる発音です。
このような、例えば、「ミトラ」を「花」と表示するように、中国語と日本語との意味の上でも、音声の点でも共通性のない言葉を、「借字」といいます。日本語化した漢字の訓読には、そのように、複雑な民族の歴史があるのです。
それは、日本列島に暮す多民族の言葉を、ひとつに纏めるために、言語の伝達方法を音声と視覚にわける「訓読=日本語読み」を発明した民族がいたからです。それが、チュルク系騎馬民族の突厥であるのです。
先ほどの「たそがれ」は、突厥語をルーツとしているのです。その語源を辿れば、「カッシュ」「カライ」です。「カッシュ」とは、眉のことで、突厥では文学的に「目」のかわりに使う言葉です。「カライ」とは、暗くなるの意味です。その「カッシュ」が、音韻変化により「タソ」になり、「カライ」も音韻変化により「カレ」となったのです。
このように、やまと言葉は、アイヌ語、ポリネシア語、タミル語、古代朝鮮語、そして、突厥語により構成されているのです。しかし、その文法は、騎馬民族語である、「○○は○○する。」、とのウラル語であるのです。
では、その突厥民族は、六世紀半ばの日本列島の飛鳥ヤマトに、どのようなルートで侵攻して来たのでしょうか。
この五世紀からユーラシア大陸を騎馬で疾走した民族は、オルフォン石碑に突厥文字で歴史を残していたのですが、日本列島では、そのような石碑を見つけることは出来ません。しかし、西アジアの遊牧・騎馬民族が平原に残した石人は、北九州では多数発掘されています。
歴史改竄の基本は、まず焚書、そして、周辺諸国の歴史を基に、自民族の歴史を練り込むことです。そして、どうしても抹殺できない前政権の歴史は、バビロニア出自のユダヤ民族が古代ヒッタイト帝国・古代エジプト出自のイスラエル民族の歴史を「モーセ物語」を創作して取り込んだように、日本神話物語を創作し自民族史に取り込んでしまうのです。
しかし、「偽書」は、継ぎ接ぎだらけですので、その繋ぎ部分にほころびが出てしまうのです。完璧を期した「日本書紀」にも、ほころびが見えるのです。
日本語語順で表記された「風土記」を参考にして、日本列島の古代国家創始の歴史を知った藤原氏は、藤原日本史を綴るために「日本書紀」を創作するのですが、その藤原日本史で抹殺したい二民族がいたのです。
そのひとつが、朝鮮半島から渡来したギリシャ・ローマ文化を持った民族で、もうひとつが、日本海(東海・トンヘ)を渡海して日本海沿岸に渡来した東ローマ帝国と馬絹の国際交易をおこなっていた騎馬民族突厥です。これらの民族は、六世紀半ばには、飛鳥ヤマトの支配者となっていたのです。
この六世紀半ばの飛鳥ヤマトを支配していた民族を、藤原日本史では、ギリシャ・ローマ文化を持った民族を「秦氏」とし、騎馬民族突厥を「蘇我氏」としたのです。そして、その二民族の出自を隠蔽するために、謎の天皇である継体天皇を創作するのです。
藤原氏が「日本書紀」で、継体天皇を創作して、ギリシャ・ローマ文化を持つ民族と突厥民族を抹殺する物語を創作したのですが、平安初期の秦氏末裔の多人長が「古事記」の暗号により、その「日本書紀」のほころびを暴くのです。それが、継体天皇の享年を43歳と「古事記」で明記したことです。
「日本書紀」での継体天皇の享年は、82歳です。「古事記」と比較すると二倍の開きがあります。このことは、何を意味しているのでしょうか。それは、「日本書紀」の創作者が、参考とした史料が、魏志倭人伝の頃のものであったことを示唆します。
三世紀頃の倭国では、春と秋の年二回、歳を数えていたのです。このことは、「魏志倭人伝」に、「倭人は正月や四節を知らない。ただ春の耕作と、秋の収穫を記録して年を数えている。」とあることからでも分かります。
「日本書紀」の創作者は、「禁書の風土記」で、秦氏と蘇我氏を抹殺するに相応しい人物を知ると、その人物を継体天皇としたのですが、その人物の歳が二倍年で記述してあることを知らなかったので、継体天皇と思しき人物は、実際は1/2の歳であるのに、82歳としてしまったのです。しかし、「古事記」が述べるように、継体天皇の歳は、43歳なのです。すると、「日本書紀」では、継体天皇は、57歳の時、樟葉宮で即位したとあることが否定されるわけです。それは、享年43歳の継体天皇が、57歳で即位できるはずはないからです。
このことから、継体天皇は、藤原氏により、秦氏と突厥民族の渡来ルートを隠蔽するために創作された人物であることが推理できるのです。実際、継体天皇の行動拠点を辿ると、ギリシャ・ローマ文化を持つ民族と、突厥民族の渡来ルートとが一致するようです。
藤原日本史が述べる継体天皇は、近江で妊娠した母親により、越前で養育されたとするのです。そして、507年継体天皇は、北陸の越前を出て、57歳で樟葉宮(大阪府牧方市)で即位したとするのです。その越前では、五世紀後半から六世紀前半にかけて、九頭竜川河口に巨大前方後円墳が築かれていたのです。更に、日本海沿岸では、この頃、方墳が多く築かれていたことは、渡海技術を持つユーラシアの騎馬民族の渡来を示唆します。
その五世紀末から六世紀にかけてのユーラシアでは、チュルク系高車軍団を、チュルク系突厥軍団が取り込み、その騎馬民族軍団が、北魏を攻撃していたのです。その騎馬民族の攻撃により、535年北魏は、東西に分裂してしまうのです。その東ローマ帝国との馬絹交易の宿敵北魏が分裂したことにより、突厥は勢力を東アジア一帯に伸ばし、552年トメン(土門)により突厥帝国が樹立されたのです。そして、その突厥帝国に、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが訪れていたのです。
では、樟葉宮で即位した継体天皇は、直ぐに藤原日本史が述べる飛鳥大和朝廷のある地に辿り着いたのかといえば、20年間も奈良盆地に入れなかったのです。何故でしょうか。
その謎の継体天皇は、大阪で即位後、直ぐに飛鳥大和に都を築くのではなく、その後、山城筒城(京都府京田辺市)、弟国(京都府長岡市)、そして、20年後、527年大和国の磐余玉穂宮(奈良県桜井市)に入ったとされるのです。そして、継体天皇は、527年北九州筑紫の磐井を急撃して殺した、とするのです。
この継体天皇の説明不能の謎の行動物語には、越前を支配していた突厥帝国進駐軍と、淀川河口を支配していたギリシャ・ローマ文化を持つ民族の歴史隠蔽があったのです。
古代日本列島の国際交易ルートは二つで、朝鮮半島→北九州→瀬戸内海→淀川河口のローラン(浪速)に辿り着くものと、そして、東アジア中国大陸→若狭湾→琵琶湖を経て、宇治川を遡る二つのルートがあったのです。つまり、北陸の民族と河内の民族とは、川で繋がっていたのです。川は、国際交易には重要な物流ルートなのです。
奈良の三輪山麓の国際交易地のツバキ市かイワレを目指す国際交易商人が、その二つのルートで合流する地点が、藤原日本史が述べる継体天皇が即位した地である「樟葉」であるのです。この宇治川、桂川、そして木津川が合流する樟葉地域は、ローラン(浪速)から淀川を遡った民族と、琵琶湖から宇治川を下った民族とが合流する国際交易中継地でもあったのです。
この国際交易商人が結集した樟葉から南へ木津川を辿れば、飛鳥大和には分けなく入れるのに、何故、継体天皇(突厥帝国軍団とギリシャ・ローマ文化を持つ民族)は、20年間も飛鳥大和に入れなかったのでしょうか。
不思議なのは、藤原日本史では、四世紀に、巨大前方後円墳を築いた大和朝廷が存在していたはずです。その大和朝廷が支配する大和に、何故、即位した継体天皇は、20年間も入れなかったのでしょうか。それは、その大和の地に、大和民族ではない、強大な民族がいたからです。
藤原日本史の神武東征物語では、その大和にはウカシやナガスネヒコの軍団が居て、神武軍の侵攻を阻止したとの物語があります。そして、「日本書紀」が述べるには、五世紀の飛鳥時代には、蘇我氏、葛城氏、巨勢氏、平群氏などの豪族達が、飛鳥大和近辺に居たと云うのです。
しかし、その飛鳥の豪族達を表わす漢字二文字の表記法は、713年好字令で発明された氏名です。その好字令と飛鳥時代とは、二百年ほどの時空間があったのです。更に、不思議なのは、それらの豪族の祖が同じで、その祖を「建内スクネ」(「スクネ」とは、古代ペルシャ語で「勇者」の意)、と言うのです。
その飛鳥大和の豪族の中に、漢字二文字ではない豪族がいるのです。それが、紀氏です。何故、紀氏は、漢字二文字ではないのでしょうか。この紀氏には、藤原氏が抹殺できない歴史があるようです。抹殺できない歴史は、取り込むのが偽書作成の基本です。
紀氏の「日本書紀」での登場は、ギリシャ神話物語に酷似した、アマテラスオオミカミの「岩戸隠れ物語」です。その岩戸に隠れたアマテラスオオミカミを洞窟からおびき出すために使った鏡が、紀氏が制作したものである、とするのです。その鏡は、紀氏により、日前宮(和歌山市秋月)に「神様」として祀られるのです。では、藤原日本史で抹殺できない紀氏とは、どのような民族であるのでしょうか。
紀氏の拠点は、ニサンザイ古墳、大谷古墳などが発掘された紀の川河口一帯です。この和歌山県の紀の川河口には、無数の古墳群があるのです。そして、太田黒田や岡村遺跡は、東ローマ帝国と後漢との馬絹交易が始まった、弥生中期の紀元一世紀頃と言われているのです。
それらの遺跡からは、銅鐸が発掘されているのです。鈴の仲間の銅鐸は、中国から北九州にもたらされると巨大化して祭祀道具となったものです。
弥生時代の和歌山と北九州との繋がりの他に、五世紀の朝鮮半島南端との繋がりが、大谷古墳から発掘されているのです。それは、馬冑です。
ギリシャ・ローマ文化を持つ古代新羅支配地の古墳から発掘されたのと同型の馬冑が、和歌山県大谷古墳から発掘されているのです。更に、高句麗の古墳壁画に描かれていたローマ帝国軍の重騎兵軍団が使用したのと同型の馬鎧も発掘されているのです。金ピカの馬冑と馬鎧で武装した馬に乗り、ロンギヌスの槍を持った騎士を見た、五世紀の日本列島の先住民は、どのような反応を示したのでしょうか。
古代飛鳥ヤマトの歴史を辿るための拠点のひとつは、この紀の川河口のようです。藤原日本史が述べる神武東征物語では、九州の筑紫日向にいた「イセのミコト」と「サヌのミコト」兄弟は、「東に良い土地がある。」と言って、軍団を東に進め、宇佐→吉備→大阪湾→河内湖→日下(くさか)に上陸したが、「ナガスネヒコ」軍団に撃退され、船で脱出して、紀の国の「オの水門」に辿り着くのです。そして、紀伊半島を回り、熊野の女王「丹敷トベ」を殺し熊野の山越えをして、大和盆地に侵攻し、先住民族を滅ぼして、紀元前660年橿原で即位した、とするのです。
藤原日本史によれば、神武天皇は九州から遠征したというのです。この物語は、数百年の歳月が凝縮されています。先ず、神武天皇の即位年紀元前660年は、考古学上では日本列島は縄文時代晩期で、奈良の盆地はひとも住めぬ湿地帯であったのです。それは、神武東征物語には河内湖が記述されているからです。五世紀後半から六世紀に掛けて、河内平野に巨大前方後円墳が築かれる前、河内平野は巨大湖であったのです。その河内湖が記述されていることから考えれば、その神武東征の年代は縄文前期と考えられます。
藤原氏は、「禁書の風土記」により、日本列島古代史を理解していたようです。それは、「イセのミコト」が、生駒山麓から船で敗走した地が紀の国であったからです。この紀の国は、縄文時代から多くの異民族が暮す国際交易港の地であったのです。
それは、紀の川を遡ると吉野川となり、吉野山に辿り着けるからです。その吉野山では、縄文時代の国際交易品である朱砂が採れたのです。紀の川は、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれる前までは、三輪山麓のツバキ市やイワレに辿り着く重要ルートであったのです。
縄文時代では、朱砂は呪術の道具でもあり、傷の治療薬でもあったのです。古代では、病や傷は、悪霊の仕業であったので、朱砂は、悪霊除けに使われていたのです。その貴重な朱砂は、西の北九州から四国を抜け、紀の川を遡り、吉野→宇佐→伊勢のルートで採取されていたのです。それは、その朱砂ルートは、中央構造線と同じであったからです。ですから、縄文時代の国際交易商人は、その朱砂ルートを支配することを目論んでいたのです。
「イセのミコト」が、熊野で殺した女王の名が「丹敷トベ」とあるのは、朱砂の産地を支配していたことから付けられた名であるわけです。「丹」とは、朱砂や水銀を意味する語であるからです。この「丹」を模して木で創られたシンボルが、鳥居です。その鳥居(丹)を示すことで、朱砂の産地を禁足地としていたのです。
そして、朱砂が採れる処には、水銀も産出されるのです。水銀は、防腐作用があるため、秦の始皇帝が陵墓を建設するために各国に求めさせたように、朱砂以上に貴重な国際交易品であったのです。その朱砂と水銀は、奈良の宇陀に眠っていることは、縄文時代から知られていたのです。
この水銀も、朱砂と同じに、呪術の重要な道具であったのです。それは、バラモン教の秘儀でも使われていたように、水銀は使い方によっては、覚醒(回春)作用が認められるからです。平安時代、バラモン教などの秘儀を修得し密教を発明した錬金術師空海は、吉野山で水銀薬を創薬していたことは、宗教と水銀薬(回春薬)との関係を示唆します。後に、この吉野の水銀薬は、京白粉として、堕胎薬として売り出されていたのです。
しかし、宇陀の地では、縄文時代が日本列島で最後まで続いていたのは、宇陀は、奈良盆地の大湿地帯と、毎年起こる鉄砲水の大洪水の自然の防御機構により守られていたのです。その宇陀を支配するために、三世紀半ばに三輪山麓に巨大前方後円墳が築かれていたのです。その前方後円墳の築造は、天皇の墓築造などではなく、その主目的は、地改良のためであったのです。
このことは、古代エジプトのピラミッド建設と同じです。ユダヤ教やその派生宗教のローマ・キリスト教が、「聖書」の「出エジプト記」で「モーセ物語」を宣伝したため、ピラミッドは、奴隷の労働力で築かれた、と信じ込まされてしまったひとが多く居るようですが、それは違います。
ピラミッドは、王の遺体安置の墓ではなく、王の魂を再生するための施設であるのです。その施設建設の主目的は、農耕民の雨季の失業対策であったのです。ナイル川の定期的氾濫時期、農耕作業ができない農耕民に仕事を与えるために造られたのが、ピラミッドだったのです。この作業により、農耕民は、石切技術や、それを運ぶための運河の建設、そして、その石を組み上げるための技術や労働管理を修得できたのです。そして、その労働対価として食糧を手にすることができたため、農作業の出来ない雨季を飢えずにすんだのです。
藤原日本史では、四世紀の飛鳥大和に大和朝廷が存在した証拠として、巨大前方後円墳が築かれていたことを挙げています。では、その前方後円墳は、大和民族により築かれたとでも言うのでしょうか。
その巨大前方後円墳築造の技術の多くは、その石室や石棺の埋葬形態と供に、古代エジプトのものであるのです。石棺の寸法は、古代エジプトの計測単位のキョビトで割り切れるのです。では、その古代エジプトのピラミッド建設と飛鳥ヤマトの前方後円墳築造を結ぶ技術は、どのようにして渡来したのでしょうか。
その前方後円墳の築造ルートを辿ると、畿内←紀の川河口←吉備←北九州←朝鮮半島南部(新徳古墳・全長51m五世紀後半・江田船山古墳と共通点が多い)←高句麗(積石塚全長15m・紀元前後)となるのです。この高句麗は、紀元前37年頃建国されたと云うのですが、謎の多い国です。この高句麗は、北の騎馬民族と南の農耕民族の大国に対して互角に戦い、668年に滅ぶまで、シロクロードの中継国として存続していたのです。
ギリシャ文化継承国のバクトリアの衛星国の秦帝国が、紀元前206年倒れると、紀元前202年前漢が興り、北の匈奴と対峙するのです。その前漢時代に、朝鮮半島の付け根に、高句麗が興るのです。前漢は、朝鮮半島経営のため、紀元前108年衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪(ローラン)、玄菟、眞番、臨屯の四郡を置くのです。
その前漢が、紀元前8年倒れると、紀元25年後漢が興るのです。後漢は、東ローマ帝国と馬絹交易を発展させるのです。それと供に、その東ローマ帝国と中国を結ぶシルクロードの中継地楼蘭(ローラン)は、東西の文化が通過する国際都市となるのです。
その後漢の朝鮮半島の支配地楽浪(ローラン)を、37年高句麗は襲うのです。そして、313年には楽浪郡は、高句麗により滅ぼされてしまうのです。
この楽浪郡が、高句麗により滅ぼされてしまう時代の日本列島では、淀川河口の河内にローラン(浪速)の津が築かれていくのです。東ローマ帝国に続くシルクロードの楼蘭(ローラン)は、朝鮮半島の楽浪(ローラン)→日本列島の浪速(ローラン)と繋がっていたのです。
このローマ帝国軍の重騎馬軍団が存在した高句麗の影響下にあったのが、朝鮮半島以南を支配した百済と古代新羅であるのです。百済は、346年ツングース系扶余族の近肖古王により興され、そして、356年ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、碧眼の奈勿王(太陽王)により興されたのです。この頃の朝鮮半島は動乱期で、北九州と朝鮮半島南端を支配する倭国により、百済と古代新羅は攻められ、その救援を高句麗に求めていたのです。
この日本列島と朝鮮半島との謎の四世紀から五世紀について、藤原日本史によれば、倭国は北九州にあり、朝鮮半島南端に任那日本府を経営していた、と述べるのです。そして、北九州の倭国軍は渡海し、404年帯方郡の故地に出兵し、高句麗軍と戦った、と述べるのです。
しかし、北の騎馬民族と南の農耕民族の大国と互角に戦って、時には勝利した高句麗軍が、倭国軍と同等の戦いをしたことは、倭国への他国からの軍事援助があったことを示唆します。それは、日本列島で、鉄器武器が製造されるのが、五世紀からであるからです。このことは、古墳の出土品からも説明できます。五世紀半ばからの古墳の出土品は、それ以前の祭祀道具とは異なり、実践用の鉄器や馬具が多くあるからです。
倭国は、魏の時代(220年〜265年)に親魏倭王に封じられ金印紫綬を授かっているのです。つまり、倭国は、魏の属国であったのです。その倭国では、東ローマ帝国と馬絹交易のために魏に絹製品を供給していたのです。247年魏は、その絹製品生産の監督のために、軍事顧問の張政を倭国に派遣していたのです。その張政は、魏が265年滅びると、帰国していたのです。
魏は、何故、軍事顧問を倭国に派遣したのかは、絹生産地としての倭国を、異民族の攻撃から守るためだったのです。その異民族が高句麗であったのです。高句麗は、絹生産地の日本列島を支配するために、その魏を何度も攻撃していたのです。そして、魏の後継国の晉(265年〜316年)にも、高句麗は攻撃をかけていたのです。その目的のひとつは、倭国を支配する国を滅ぼすことにより、倭国を支配下に置くことだったのです。
この高句麗の攻撃をかわすために、372年仏教国の前秦(351年〜384年)は、高句麗に僧順道と経典を送り、高句麗を思想武器で懐柔するのです。その前秦と対峙する、南中国を支配する東晉(317年〜420年)は、384年百済に仏教を伝えるのです。しかし、古代新羅は、仏教を拒否するのです。新羅が、仏教を取り入れるのは、528年まで待たなければならなかったのです。
高句麗の軍事力の影響が日本列島にもたらされていたのは、前方後円墳の渡来ルートから証明できます。では、その築造技術を伝えた部族、或いは、民族は誰かといえば、それは、紀氏が考えられます。
弥生時代の北九州には、甕棺葬の墓が多くあることから、北方系騎馬民族ではなく、タミル語を話す南方系民族の渡来が示唆されます。その弥生時代を終わらせた古墳時代の三世紀半ばに渡来したのが、朝鮮半島から騎馬民族の積石墓の古墳埋葬法をもたらした民族であるわけです。
そして、高句麗の積石墓の前方後円墳を、盛り土の前方後円墳としたのが朝鮮半島南端に追われた民族で、その民族は、更に、玄界灘から北九州→吉備→河内→畿内へと東進していくのです。
その目的のひとつが、三輪山麓のツバキ市とイワレの支配です。その国際交易地には、中国やヨーロッパが求める、絹、水銀、真珠、熊の胃、ロクジョウ、毛皮などなどの日本列島特産品が集められていたからです。その国際交易地を支配するには、自然の防御地帯の奈良盆地の湿地帯を、改良する必要があったのです。
そのために、古代エジプトの土木建築技術で、土地改良をしたのです。それが、巨大前方後円墳です。その前方後円墳を築造するためには、その前段階として、湿地帯の水捌けの作業が必要であるのです。
藤原日本史の二度の神仏戦争物語で、仏像を投棄する処が、二度とも「難波の堀」であるのです。では、その「難波の堀」とは何でしょうか。それは、河内湖の水を抜くための、上町台地を貫く人工運河であるのです。
この「難波の堀」により、河内湖の水が引き、その結果、奈良盆地の湿地帯の水も引いたのです。奈良盆地は、生駒山と葛城山に囲まれた地です。その奈良盆地を流れるのが大和川です。この大和川に流れるように奈良盆地に人工大運河を掘ったことにより、奈良盆地の湿地帯は、巨大前方後円墳を築く基盤ができたのです。奈良の発掘で、大きな溝が現れるのは、それは、大運河の遺構です。
奈良盆地に、巨大前方後円墳を築くことが出来たのは、藤原日本史が述べるように、大和の貴族の力が増してきたのではなく、ひとも住めぬ未開の地であったからです。そのひとも住めぬ湿地帯に、大運河を築き、そして、その残土を盛り上げて前方後円墳としたのです。そのために、先住民の関心を集めるために、吉備、出雲、東海などの各国の土器を集め、その前方後円墳に飾ったのです。そして、北九州の金メッキの豪華装飾品を埋葬品としたのです。
因みに、金メッキのアマルガム法は、ギリシャと交易をしていた騎馬民族スキタイが発明したものです。広域移動する騎馬民族にとって金製品は、生活必需品であるのです。それは、移動と供に運べる動産であるからです。ですから、武功を立てた武人は、テングリ(天子)から、金のブレスレットやネックレスを贈られるわけです。それらの金製品を身につけることは、武功の証であるのです。騎馬民族の流れにある役座が、金のネックレスやブレスレットをするのは、その騎馬民族末裔である武士のDNAが流れているからです。
しかし、丸山古墳や方墳は、墓であるため、その埋葬品は、埋葬者の生前の遺品であったのです。前方後円墳と丸山古墳とは、その築造目的が異なっていたのです。
古代エジプトの土木建築技術を持つ民族が、湿地帯の奈良盆地を、巨大前方後円墳を無数に築造することにより、農耕地や居住地にかえると、生駒山、葛城山、三輪山を占拠していた異民族により、ツバキ市やイワレの争奪戦となるのです。
この古墳時代前期、藤原日本史で言うところの大和朝廷統一時代、東アジアでは動乱の五胡十六国時代であったので、日本列島を史料で知ることはできないのです。
その虚を突いて、藤原日本史では、ユダ王国で預言者イザヤが活躍していた紀元前7世紀頃に、日本列島では初代神武天皇が大和で即位し、以下、第33代女帝推古天皇(593年〜628年)まで、架空の天皇を創作して、日本列島史を改竄していたのです。しかし、その改竄の度が過ぎて、「随書」により、藤原日本史の女帝推古天皇物語の「ウソ」が暴かれてしまうのは、歴史の皮肉です。
謎の氏族である紀氏が、大運河や前方後円墳により、湿地帯の奈良盆地の飛鳥ヤマトを整地すると、そこへ現れたのが、中央ユーラシアを支配した突厥帝国進駐軍であるわけです。このことを、藤原日本史では、527年継体天皇が大和国の磐余玉穂宮に入り、530年宣化天皇の時代に、大臣蘇我稲目が現れた、とするのです。
偽書の特徴のひとつは、政権を揺るがす大悪人の登場です。そして、その大悪人が、実は、前政権の王者であることです。
「日本書紀」には、神代の昔からの物語に色々な人物が登場しますが、天皇を殺したとハッキリ記述された人物は、蘇我馬子しか見当たらないようです。この蘇我馬子の父が、飛鳥大和朝廷を支配したとする宣化天皇の時代、530年歴史上に突然現れた大臣の蘇我稲目であるわけです。
この蘇我一族の名が、蘇我稲目、蘇我馬子、蘇我蝦夷、蘇我入鹿など、蔑称で記述されているのは、何故でしょうか。そして、この蘇我一族が悪行の数々をおこなったのが、飛鳥時代(530年〜645年)に重なるのです。
この飛鳥時代が、日本列島での古代国家の創始であるのです。ということは、この飛鳥ヤマトを支配した民族が、日本国の創始民族であるわけです。
藤原日本史では、その民族が九州に天磐船で降立った天孫族の大和民族であるとするのですが、日本語文法のルーツが、騎馬民族の言葉であるウラル語であることを、どのように説明するのでしょうか。
藤原日本史では、大陸からの民族移動を朝鮮半島から九州へ導くように、スサノウ物語などで新羅のことを記述するのです。しかし、五世紀の日本列島には、実践用馬具を埋葬した古墳が、岩手県以南に無数に存在したのです。そして、藤原日本史では、平安時代まで未開の地で蝦夷が棲むとする北関東の埼玉県行田市稲荷山古墳では、辛亥年と記された鉄剣が発掘されているのです。その辛亥年とは、471年です。
このことを、「日本書紀」信奉歴史学者は、四世紀に成立した大和朝廷の影響力が、北関東にも及ぼされていた証拠である、と述べています。しかし、その頃の飛鳥ヤマトでは、朝鮮半島から侵攻した民族が、前方後円墳を築き奈良盆地の土地改良をおこなっていた時期であるのです。
この頃の北陸には、北ユーラシアを東進する騎馬民族が、渡海の技術により、東海(トンヘ・後の日本海)を渡り、多く渡来していたのです。ですから、その東海沿岸では、騎馬民族系の方墳がおおく見られるのです。
謎が多い継体天皇の出自が、「日本書紀」で北陸越前であるするのは、その騎馬民族の北陸への渡来を隠蔽するためのトリックであるわけです。この北陸が、騎馬民族の渡来地であることは、その後、その北陸では創薬業が盛んであることと、鎌倉時代に、古代エジプトの太陽神アトンが変身した阿弥陀様が信仰されたいたことで証明できます。
熊の胆や鹿角などの動植物を原料とする創薬は、遊牧・騎馬民族の専業なのです。それは、農耕民族系「漢訳仏教」に対峙する、騎馬民族系「道教」の神農様が創薬の神様であることからでもわかります。
6世紀、突厥帝国進駐軍が日本列島に現れた頃、東アジアでは、北から攻める突厥軍団により、534年北魏が滅亡し、535年には北魏が東西に分裂し、更に、550年東魏は北齊に、そして、557年西魏は北周となり、北朝は大混乱の時期であったのです。その虚をついて、突厥は、552年突厥帝国を興し、東ユーラシア一帯を支配したのです。その突厥帝国の影響力は、当然、朝鮮半島から日本列島にも及んでいたのです。
527年突厥帝国進駐軍が、飛鳥ヤマトへ侵攻すると、その基地を、三輪山近くの三方を山に囲まれた地に築くのです。この東西約800m、南北約2kmの狭い地に、何故、突厥帝国進駐軍は、基地を築いたのでしょうか。それは、中国北魏の残党軍団の、日本列島侵攻を想定していたのです。
「日本書紀」によれば、蘇我稲目が、天皇領である「屯倉」(ミヤケ)を築いたとあります。では、その「屯倉」は、どのような地に築かれたかと言うと、それは、飛鳥ヤマトを防衛するように、畿内から瀬戸内海沿岸、そして、北九州にまで及んでいたのです。そして、吉備の屯倉建設には、蘇我稲目は監督として赴いていた、と記述しているのです。
この屯倉が築かれた頃、「日本書紀」によれば、継体天皇が大和に入京した527年、北九州では「筑紫国造磐井の反乱」があった、とするのです。この反乱の記述を示す他の史料として、「古事記」と「筑紫国風土記」があります。
この磐井の反乱が、「日本書紀」で述べるような物語ではないことは、「古事記」の暗号で分かります。それは、「古事記」では、「筑紫国造磐井」とするのではなく、「竺紫君石井」と記述しているのです。「古事記」は、「国造」の語を省いたのは、その頃には「国造」などの官位がなかったことを示すことにより、「日本書紀」が述べる「筑紫国造磐井の反乱」物語を否定したのです。
その「日本書紀」の「筑紫国造磐井の反乱」物語が「ウソ」であることは、その物語の多くは、唐代初期に著された「芸文類聚」に引用されている「書経」や「漢書」などの漢籍の表現を借りて潤色されているからです。
では、その反乱がどのような経緯のものであるのかは、史料では知ることができません。それは、今に残る全ての史料は、敗者のものではなく、勝者のものであるからです。しかし、各国の前史を抹殺・隠蔽・改竄するために著された「風土記」には、前史を復元するヒントが隠されていることもあるのです。
「筑紫国風土記」には、「日本書紀」の物語で、大和朝廷の鎮圧隊に殺された「石井」の墓についての記述があるのです。その石井の墓には、無数の石人と石馬が飾られていたというのです。そして、その石人石馬は、大和朝廷により破壊されたというのです。
何故、「筑紫国風土記」は、そのように石人石馬について、その由来から破壊までを記述したのでしょうか。それは、その石人石馬は、突厥帝国のもであったからです。
5世紀、バイカル湖沿岸に興ったチュルク系民族の突厥は、騎馬で草原を疾走して、その勢力を東西ユーラシアに伸ばすのです。突厥軍団は、その支配した草原に、石人像を残したのです。現在も、モンゴル平原には、突厥の石人を見つけることができます。
この突厥の石人は、飛鳥ヤマトでも発掘されているのです。しかし、その石人は、後の歴史学者により猿石と呼ばれてしまうのです。この猿石は、蘇我馬子の宮とする地から、五体発掘されているのですが、その石人は、猿には似ていません。何故、猿石なのでしょうか。その謎解きは、平安時代に盛んになった伎楽が、「猿楽」と呼ばれたことで、解明できます。それは、「猿」とは、「申・しん」で、「秦」を隠蔽する語であるのです。つまり、「猿石」とは、「秦の石」で、秦とは西方アジア以西の東ローマ帝国を意味していたのです。五世紀以降、日本列島に無数に存在していたこの猿石は、645年侵略した漢訳仏教により、道祖神や地蔵に改竄され、歴史上抹殺されてしまうのです。そして、謎の石像の猿石となって、現在に至るのです。
何故、そのように突厥民族の文化である石人が、蔑称である「猿石」などと呼ばれるのかは、五世紀から六世紀にかけての東アジアの歴史を知ることで理解できます。
五胡十六国の動乱を鎮めたのは、北の北魏(430年〜534年)と南の宗(420年〜479年)です。北魏は、三国時代の魏の後裔と唱え北中国を支配したのですが、その王である太武帝は、遊牧・騎馬民族の鮮卑族が出自であったのです。この太武帝は、405年後秦の国師となったバラモン僧の鳩摩羅汁が、ギリシャ語仏典から漢訳した経典を焚書して、446年から太武帝が暗殺される452年まで、漢訳仏教を弾圧していたのです。そして、太武帝は、騎馬民族文化を取り入れた「道教」が、寇謙之により成立されると、その道教を保護したのです。ここから、農耕民族の「漢訳仏教」と騎馬民族の「道教」との戦いが始まるのです。
それは、漢訳仏教の経典に、鳩摩羅汁により、騎馬民族文化を蔑視する言葉「施陀羅」などか挿入されていたからです。施陀羅とは、バラモン教の思想で、肉食する遊牧民族トラヴィダを蔑視する、人間以下の畜生のチャンダラーを漢訳した言葉です。
その北魏で、鮮卑族の太武帝が暗殺され、漢民族文化に染まった文成帝が即位すると、道教は中央から排除され、替わりに漢訳仏教が復活するのです。そして、北魏は、漢訳仏教文化の華を咲かせるのです。
その北魏を、チュルク系騎馬民族の高車民族を取り込んだ突厥民族は、534年北魏を倒すのです。その北魏が、突厥に攻撃されると、北魏の漢訳仏教は、南下して仏教国の高句麗・百済に亡命するわけです。朝鮮半島で、仏教文化時代を表す年号「白鳳」が使われるのは、北魏からの漢訳仏教の移動と連動しているのです。そして、その白鳳の年号は、朝鮮半島では七世紀まで続くのです。しかし、その仏教文化を示す白鳳の年号は、「日本書紀」には記されていないのです。
漢訳仏教は、反騎馬民族集団と供に移動することは、イエズス会がポルトガル軍団と供に移動することと同じです。漢訳仏教は、貧民を救済するためではなく、その反対に、まつろわぬ異民族を支配するための思想武器であるのです。
朝鮮半島を南下した漢訳仏教組織は、528年古代新羅を占領するのです。その結果、ギリシャ・ローマ文化の女王国の古代新羅の王族は、その朝鮮半島南の支配地から、玄界灘を渡海して、北九州に逃避するわけです。
北九州でのこの時の戦闘が、「日本書紀」で述べる「「筑紫国造磐井の反乱」の実態です。その朝鮮半島から亡命した民族により興された北九州の都市国家が、「秦王国」で、608年まで存続していたことは、隋使の報告を纏めた史料「隋書」に、「その国華夏(先進国中国)と同じ」と記述されています。その秦王国の建国時期の王の墓が、突厥帝国の文化を示す、石人・石馬が飾られている九州福岡県八女市の岩戸山古墳であるわけです。
527年、その動乱の朝鮮半島から、古代新羅の王族を追い落とした北魏残党軍の、九州侵攻を阻止するために、飛鳥ヤマトを占領した突厥帝国進駐軍(蘇我稲目)が築いた防衛施設が、「ミヤケ」だったのです。その北九州に秦王国を興した民族(秦氏)は、先遣隊(紀氏)と合流し、吉備→河内へと侵攻していくのです。
その秦氏(古代新羅)は、蘇我氏(突厥民族)とは、同族の騎馬民族であることで同盟関係が成立するのです。それは、突厥帝国軍団には、東ローマ帝国との合同戦術により、宿敵北魏と通じるシルクロード交易の支配を目論む中央ユーラシアのエフタル(440年?〜563年)壊滅のために、ローマ帝国軍団が駐屯していたからです。
古代新羅(秦氏)は、その文化がギリシャ・ローマ文化であるように、その古代新羅軍団組織は、ローマ帝国軍と同じであったのです。その古代新羅の軍団は、ローマ帝国軍の軍神ミトラを信奉していたことにより、花郎騎士団と呼ばれていたのです。「花」とは、「ミトラ」の借字です。その花郎騎士団が、平安時代末期に「源氏」武士となるわけです。
秦氏の先遣隊の紀氏が、ローマ帝国軍団末裔であることの根拠として、その根拠地の紀の川河口から、紀の川を遡り、吉野川を更に遡り、峠を越え、奈良盆地の最南へ辿り着くための「道路建設思想」があります。
古墳時代以前の奈良盆地は、「日本書紀」の神武東征物語の大和侵略物語にもあるように、大湿地帯のため、ローラン(浪速)から生駒山を越えるルートで、国際交易地の三輪山麓に行き着くことは困難であったのです。
ですから、三輪山麓へは、巨大前方後円墳が築かれる前のルートが、紀の川から吉野川を遡るルートであったのです。その吉野から多武峰(「山が連なる」の意味である突厥語の「タフ」がルーツ)の麓を越える古道が、近年発掘されたのです。
その古道は、不思議な思想により造られていたことが分かったのです。それは、道路の基礎工事のために路盤を小石で造り、その上に土を突き固めて表層部とした構造となっていたのです。更に不思議なのは、その古道は、一直線思想で造られていたのです。
その古道では、谷間は、石を敷き詰めて埋め、そして、峠は切り通していたのです。何故、障害物や障害処を避けないのでしょうか。そのような谷間を埋め、峠を切り通すよりも、迂回すれば、労働力を効率的に使えるはずです。
ローマ帝国軍は、建築や道路造りが名人であったようです。征服した地には、石とセメントにより立派な建造物を造り街とし、その街からローマに続く道路を建設していたのです。その石を敷き詰めた道路を敷設する思想が、「一直線」であったのです。そのために、谷を埋め、山は切り通されていたのです。このような一直線の石葺きの道路を建設した民族は、歴史上ではローマ帝国軍でしか見あたりません。その紀氏の拠点である紀の川河口の古墳からは、ローマ帝国軍団の馬を武装する同型の馬冑と馬鎧が発掘されているのです。
そのようなローマ文化思想による道路建設は、527年突厥帝国が、飛鳥ヤマトに侵攻した時点から建設されていたのです。しかし、藤原氏の巧みな歴史改竄や隠蔽により、そのオリエント文化の飛鳥ヤマトが、仏教文化の花咲く飛鳥大和に変身されてしまったのです。
藤原氏は、飛鳥ヤマトの歴史を熟知していたので、そのオリエント文化の飛鳥ヤマトを仏教文化の飛鳥大和に改竄し、そして、その前文化を隠蔽する物語を「日本書紀」に挿入するのです。その物語の主人公が、女帝皇極天皇が重祚した斉明天皇です。
この斉明天皇物語で、オリエント文化の飛鳥ヤマトの土木建設を隠蔽したのです。斉明天皇の行った土木建設事業として、「狂心渠」、石積の「人工丘」、「両槻宮」などがあります。そして、それらの遺構は、発掘されているのです。このことにより、「日本書紀」信奉者は、「日本書紀」は、飛鳥大和の史実を伝えている、と述べるのです。しかし、遺構は発掘されても、その遺構を建設したのは、斉明天皇であるのかは断定できないのです。
その例のひとつとして、「日本書紀」の記述によれば、斉明天皇は、蝦夷を歓待していたのですが、その蝦夷の描写は事実と異なるのです。
「日本書紀」の蝦夷の記述では、大和朝廷が、遣唐使と供に蝦夷男女二名を送るのです。その蝦夷に対して、唐の天子(テングリ)が問うのです。天子「蝦夷の国はどこか。」、蝦夷答えて「東北にあります。」、天子「いく種類か。」、使答えて「遠いものは都加留、次は荒蝦夷、近いものは塾蝦夷です。」、天子「その国に五穀はあるのか。」、使答えて「ない。動物の肉を喰います。」、天子「国に家はあるか。」、使答えて「ない。深山で樹の下に住みます。」、天子「われは蝦夷の顔かたちの異様なのに驚いている。」、とあるのです。
しかし、「新唐書」側の記述では、「日本の使者が蝦夷人とともに入朝した。蝦夷も日本人と同じく海の彼方の島に住んでいる。蝦夷の使者の鬚は長さ四尺ほどもあった。箭(や)を首にはさむ。人の頭の上に瓢を載せ、数十歩離れて立たせて瓢を射ったが当たらなかったことはなかった。」、と蝦夷の弓術の技術が優れていることに驚嘆したことが記述されているのです。
「日本書紀」の蝦夷(突厥帝国進駐軍末裔と秦氏軍団末裔)や古代新羅に対する記述は、そのように「中国の国書」とは異なる記述が多くあるのは、何故でしょうか。
では、「日本書紀」で斉明天皇の時代だとする、その土木建設事業は、実際はどのようなものであったのでしょうか。
「日本書紀」によれば、女帝斉明天皇の在位は、655年から661年の6年間です。その6年間で、ブルドーザーなどの動力機が無い時代に、それらの土木事業が成し遂げられたかは、不思議です。まず、「狂心渠」をみてみましょう。それは、唯の「ミゾ」なのではなく、石で堤を築き、幅10m前後、深さ約1.1mで、推定では、飛鳥寺から斑鳩まで続いていたようです。その斑鳩の地とは、ローラン(浪速)から大和川を遡った奈良盆地の北端であるのです。この「狂心渠」は、ローラン(浪速)からの川舟が通る大運河であったのです。
この大運河は、608年ソインコウ(小野妹子)が隋使裴世清を伴って、河内から船で、男王アマタリヒシコの居る飛鳥ヤマトへの渡来ルートであったのです。何故、「日本書紀」は、50年も前に存在していた大運河を、斉明天皇が造ったというのでしょうか。それも、「たわぶれごころミゾ」などの蔑称を付けているのです。
次に、石積の「人工丘」とは何でしょうか。その人工丘は、そのミゾで船に満載した石で築き、築いたそばから崩れ落ちた、と「日本書紀」で述べているのです。では、その石の丘とは何かといえば、紀元一世紀の高句麗で発掘された、前方後円墳の祖の墳墓であるのです。土盛の箸墓古墳以前には、その高句麗式の石積の前方後円墳が、奈良盆地に築かれていたのです。
最後に、「両槻宮」とは何でしょうか。「日本書紀」では、仏教伝来以前に存在していたとする、神道の宮であると述べているようですが、神道が日本列島の歴史上に現れるのは、645年漢訳仏教伝来以降の奈良時代であるのです。
では、その田身嶺(たみのみね=多武峰=突厥語のタフ→連なる山)に建てられた「両槻宮」とは何かといえば、宮などではなく、朝鮮式山城であったのです。
東アジアで突厥帝国と北魏残党軍で戦闘をおこなっている時代、軍事都市飛鳥ヤマトが、中国からの北魏残党軍に侵攻された時に対しての防御としての山城が、「両槻宮」の実態なのです。その根拠として、その「両槻宮」がある山の麓には、石垣が四重にも巡らされていたのです。頂上の砦を護るために、山の斜面に石垣の防御を築くことが、朝鮮式山城の特徴のひとつだからです。
何故、「日本書紀」は、斉明天皇時代以前の土木建築物を、そのように時代をずらして記述したのでしょうか。それは、645年以前の歴史を抹殺するためです。
「日本書紀」は、北陸越前から侵攻した突厥帝国軍団と九州から侵攻した古代新羅軍団の歴史を抹殺するために、架空の継体天皇を創造したのですが、その継体天皇物語には、それらの騎馬民族の政治形態が述べられているのです。そのひとつが、「合議制」です。
神を祖先とする絶対権力者の天皇であるのならば、「合議制」は、天皇の存在を否定する政治です。それは、下々の意見を聞き、皆で談合する政治であるからです。「日本書紀」では、継体天皇が現れた時から、合議制となっているのです。それは、継体21年6月条で、磐井討伐軍の将軍の人選を継体天皇が大臣、大連に諮問しているからです。
更に、その合議制の記述は、皇極天皇(後に斉明天皇)の皇極元年7月条の旱対策について群臣と大臣蘇我蝦夷との合議まで続くのです。そして、645年以降、その合議制の記述がなくなるのです。
では、その継体天皇から皇極天皇まで続いていた「合議制」とは、何かと言えば、それは、騎馬民族の政治形態であるのです。527年継体天皇が飛鳥大和に侵入した時から皇極天皇が退位した645年まで、飛鳥ヤマトでは、騎馬民族の政治形態で政治が行われていたのです。
飛鳥ヤマトには、「日本書紀」で述べているように552年仏教伝来以前に、神道などなかったことは、その皇極天皇時代での旱対策についての合議の内容で暴露されてしまうのです。
その旱対策の「日本書紀」にある合議物語では、641年蘇我蝦夷が群臣と旱対策を合議するなかで、群臣が、「村々の祝部の教えに従い牛馬を殺して緒々の神社(モリ/「ジンジャ」は明治時代に発明された言葉)の神を祭り、或は市(バザール。鎌倉時代に、役座が仕切る寺社の縁日・祭日の高市(タカマチ)となる。)を移し、また河伯(水神。後に、漢訳仏教により「カッパ」に貶められた。更に、山に追われ「天狗」となる。)に祈れ」と言って実行したが、その効き目がなかったので、蘇我蝦夷が、大乗経典の転読と悔過を勧め、「大寺」の南庭に仏、菩薩と四天王の像をしつらえて、僧とともに大雪経などを読んで請雨の行法をおこなったが、翌日に小雨が降るにとどまった。しかし、皇極天皇が、飛鳥南淵の河上で、「四方を拝み天を仰いで拝みたまふ」と、すぐに雷が鳴って、五日間も大雨がやまなかった、と述べているのです。
この「日本書紀」の雨乞いの記述は、645年以前の飛鳥ヤマトの宗教についてのヒントがあるのです。その合議の四年後の645年は画期的で、「日本書紀」によれば、蘇我蝦夷が天皇紀と国紀を焼き自殺し、皇極天皇が退位しているからです。
では、群臣が、「牛馬を殺し、神社(モリ)に祈る」とは、どのような宗教儀式であるのでしょうか。それは、死を穢れとする神道の儀式ではないことは一目瞭然です。飛鳥時代では、神社(モリ)は、牡牛を屠る祭祀場であったのです。その儀式とは、太陽神の化身である牡牛を屠り神に祈る「ミトラ教」(景教)のものであるのです。このミトラ教(景教)は、秦氏が日本列島にもたらしたのです。
では、皇極天皇がおこなった四方拝の儀式は、どのような宗教儀式であるのでしょうか。それは、仏教ではなく、道教の儀式であるのです。騎馬民族鮮卑出自の北魏の天子(テングリ)太武帝は、「施陀羅」などの差別語で騎馬民族文化を侮蔑する漢訳仏教の隆盛に対抗して、寇謙之が土着宗教を大成した「道教」を保護したのです。その道教の儀式のひとつが、四方拝であるのです。後に、漢訳仏教もこの道教の四方拝を導入するのですが、それは平安時代以降であるのです。因みに、奈良時代末期、漢訳仏教に敗れた道教は、陰陽道へと変身し、今日に至るのです。
くしくも、「日本書紀」は、蘇我蝦夷(突厥帝国軍末裔)を登場させ大乗仏教の存在を述べる過程で、皇極天皇時代までの飛鳥ヤマトには、ミトラ教(景教)と道教が存在していた事を、証明してしまったのです。
ここで、ある疑問が起こるのです。それは、「古事記」は平安時代初期に秦氏末裔多人長により、「日本書紀」の偽史を暴くために著されたのならば、何故、推古天皇までで、年代に合わない、数十年前の異教民族物語が多く記述された皇極天皇物語まで記述しなかったのでしょうか。
「日本書紀」は、女帝持統天皇まで記述しているのに、「古事記」は何かの事情で、推古天皇までしか著されなかったと言うのならば、何故、「古事記」は序に天武天皇のお言葉を記しているのでしょうか。
考えられることは、その推古天皇で終わる「古事記」には、天武天皇の序のお言葉かあると言う事は、天武天皇以前の、舒明天皇、皇極天皇、孝徳天皇、斉明天皇、天智天皇、弘文天皇の存在を疑え、との「古事記」の暗号であるということです。
この628年舒明天皇から672年弘文天皇までの東アジアでは、628年唐が中国を統一し、そして、668年高句麗を滅ぼし、唐は朝鮮半島南端までその勢力下に置いた時代であったのです。そして、飛鳥ヤマト支配者の母国である東突厥は、630年唐により散逸されていたのです。

日本列島は、藤原日本史が述べるように「孤立した島」などではなく、騎馬民族が支配する北ユーラシアと、農耕民族が支配する中国中腹につながる回廊であるのです。ですから、日本列島は、東アジアとは、リアルタイムで連動していたのです。つまり、東アジアの出来事は、そのまま、日本列島でも起こっていたのです。
そのように、527年継体天皇から645年皇極天皇までは、飛鳥ヤマトは騎馬民族突厥とギリシャ・ローマ文化の秦氏が支配していたのですが、645年孝徳天皇から672年弘文天皇までは、唐進駐軍が飛鳥ヤマトの支配権を確立する時代であったのです。つまり、645年を境に、道教・景教を信奉する飛鳥ヤマトを支配した騎馬民族の突厥が、漢訳仏教を信奉する農耕民族の唐と交代したのです。しかし、794までは、奈良盆地の北に接する山背国は、突厥帝国残党と秦氏残党が支配していたのです。
「日本書紀」は、その史実を隠蔽する為に、「大化の改新」物語を創作したのですが、その物語は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」を租借したものです。更に、645年から飛鳥大和では仏教文化の花が咲いたとする「白鳳文化」なるものを唱えていますが、その「白鳳」の年号は、飛鳥ヤマトの年号などではなく、朝鮮半島が漢訳仏教化された511年?から七世紀にかけての「年号」であるのです。白鳳の年号が、飛鳥ヤマトのものではないことは、「日本書紀」にその白鳳年号の記述がないことで証明できます。
645年以降、オリエント文化の、そして、道教・景教が信奉されていた飛鳥ヤマトの宗教施設は、唐進駐軍に徹底的に破壊され、その跡に、唐文化の基本思想である、漢訳仏教の建設思想の南北軸で、大路が築かれ、そして、北九州から飛鳥ヤマトに持ち込んだ仏寺を移築して、607年聖徳太子が建立した法隆寺などと称して、飛鳥ヤマトを漢訳仏教のテーマパークとしてしまうのです。このことにより、道教の観や景教の祭事場は、歴史上から抹殺されてしまうのです。
しかし、史料では騎馬民族の歴史を抹殺できても、あまりにも壮大な騎馬民族の遺構までは抹殺できなかったのです。景教文化を仏教文化に摩り替えた根拠のひとつが、奈良盆地から発掘された「大路」の遺構です。
現代の道は、コトバと同じに、時代により途切れる事はないのです。その道が途切れたとすれば、それは異民族が現われたことを示唆します。例えば、奈良時代までの大路の幅が12mであったものが、平安時代になると道幅が6mと狭くなり、馬の替わりに牛が運搬輸送に使われたのは、支配民族が替わったことを示唆します。つまり、漢訳仏教を掲げる唐進駐軍による、近畿地域からの騎馬民族の駆逐です。
縄文時代から、和歌山県紀の川から伊勢につづく道が存在していました。それは、中央構造線により、地下資源が地表に現われていたので、その地下資源の鉱物である朱砂の塊を採取する民族が往き来していたからです。その道は、現在では和歌山街道として使われています。
その和歌山街道の中間地点の大淀町を北へ向かう道を辿ると、奈良盆地の南端イワレに辿り着くのです。そのイワレとツバキ市は、縄文時代から国際交易の地であったのです。しかし、その国際交易地がある奈良盆地は、弥生末期の三世紀まで大湿地帯で、ひとも住めない地であったのです。そして、三世紀半ば、その大湿地帯が、前方後円墳を築く古代エジプトの土木建設技術を持った民族が、高句麗から吉備を経て渡来することにより、ひとが住める地となっていくわけです。
その奈良盆地から、近年大路の遺構が発掘されたのです。それらの南北に走る大路は、上ッ道、中ッ道、そして、下ッ道と名付けられ、更に、その三大路を東西に走る横大路と名付けられたのです。その大路の幅は約12mもあるのです。そのような幅広の大路は、誰により、何を目的に敷設されたのでしょうか。
その不思議な大路の下から、南北軸とは異なる大路が発掘されたのです。その南北軸ではない大路は、南北軸より西に約20度傾いているのです。そして、その大路は、飛鳥ヤマトから斑鳩まで続いていたのです。
藤原日本史では、その南北軸ではない大路を、「太子道」と説明し、聖徳太子が、斑鳩から飛鳥ヤマトまで愛馬黒駒で通うために敷設された大路である、と説明しているのです。しかし、聖徳太子は、平安時代に発明された創作人物であるのです。何故、藤原日本史は、架空の聖徳太子を発明してまでも、その南北軸と異なる大路を隠蔽する必要があったのでしょうか。
それは、その「太子道」の大路は、神道崇拝民族でも漢訳仏教徒によるものでもなく、太陽神ミトラを祭る民族により築かれたもので、その根拠である斑鳩のミトラ教の建築遺構(藤原日本史では法隆寺近接の斑鳩宮跡)の建設基準に合わせて建設されていたことが「バレ」てしまうからです。
そのように、漢訳仏教が支配する前の飛鳥ヤマトに、景教(ミトラ教)や道教の宗教施設が存在していたことが分かってしまうと、552年仏教伝来の「藤原日本史」の虚構が暴かれてしまうのです。
1964年東京オリンピック開催のために、日本全国の山間僻地は掘り返されていたのです。それは、日本列島に高速道路を建設するためです。この高速道路建設の道程で、古代の大路の謎が解けていくのです。
藤原日本史では、藤原京から平城京へ遷都される頃、日本列島では律令制度が確立して、全国につながる五畿七道が整備され、租調の税物を都まで運んでいた、とするのです。つまり、全国に張り巡らされた大路は、律令制度とともに発展していた、とするのです。
では、その律令制度が日本列島に現れた時代は、と言えば、それは、701年の大宝律令が始めであるのです。この大宝律令は、「大和言葉」ではなく、唐の公式語である「漢語」で記述されているのです。そして、その律令の内容は、唐の律令を基本としているのです。これは何を意味しているのでしょうか。
藤原日本史では、大和朝廷は唐の税制度を基本に、日本列島を公地公民制とするために「導入」した、と述べているのですが、それは本当なのでしょうか。
日本列島を公地公民制で支配するために大宝律令を漢語で制定したのは、701年です。これでは、約百年前の飛鳥ヤマトの「太子道」である大路の敷設年度と合いません。そこで、藤原氏は、大宝律令を改竄して「大化の改新」なるものを発明して、645年「公地公民」の宣言をした、とするのです。しかし、その詔の中に、大宝律令の「郡」などの語彙が現れてしまうため、今日では、「大化の改新」の実在性が疑われているのです。
その高速道路建設のために山間僻地から発掘された大路には、水捌けのための側溝があり、路盤の基礎がある本格的な路で、その道幅は十数mから四十数mもあったのです。更に、その大路跡は、ほぼ高速道路建設予定ルートと重なっていたのです。更に、その大路は、「一直線思想」で貫かれていて、谷は小石で埋め、峠は切り通されていたのです。
藤原日本史では、平安時代以前では、東国は蝦夷の国で、未開の地であった、と述べているのです。しかし、その古代の高速道路は、飛鳥ヤマトを基点にして、中央自動車道や北陸自動車道のルートと重なり、東北の蝦夷の国を目指していたのです。
藤原日本史の呪縛にあうと、日本列島の文化は、四世紀の飛鳥大和朝廷を中心に発展したと信じ込んでしまうのです。
藤原日本史では、その四世紀に大和朝廷が存在していた根拠として、天皇家が墳墓として巨大前方後円墳を飛鳥大和に築いたからとするのです。そのような藤原日本史によれば、大和朝廷は、飛鳥大和から地方に勢力を伸ばして、五世紀には、九州だけではなく、東国までも支配下にしたとする証拠に、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土の鉄剣をあげています。
その鉄剣の150文字の漢字には、オホヒコからオワケノキミに至る八代の系譜が記されていて、ワカタケル大王も記載されていたのです。そして、「辛亥年」と明記されていたのです。その年は、西暦で471年であるのです。そして、その鉄剣は、シキノミヤで製作されたとの記述があるのです。
これらの鉄剣の漢字文章をもって、藤原日本史は、「オワケ」とは継体天皇で、「ワカタケル大王」は雄略天皇で、「シキノミヤ」とは大和の三輪山麓の磯城(シキ)であるとするのです。しかし、漢字二文字の地名・人名は、713年好字令により創作されたものです。ですから、五世紀の「シキノミヤ」とは、飛鳥大和などではなく、埼玉県のシキ(志木)と考えたほうが合理的です。
その東国(埼玉県の)吉見では、石山を繰り抜く西アジアの埋葬施設が建設されていたのです。しかし、藤原日本史では、「コルボック」などの小人伝説を創作して、その西アジアの埋葬施設(藤原日本史では「吉見百穴」)を隠蔽しているのです。
その後、さきたま古墳群にあるその鉄剣が出土した稲荷山古墳から南側にある将軍塚が発掘されると、そこから馬冑が現れたのです。その馬冑は、紀の国の大谷古墳から出土した馬冑と同型であったのです。この馬冑は、騎馬民族と戦うローマ帝国軍団の重騎馬軍団の装備品であったのです。そして、その将軍塚からは、金メッキの馬具、金製の耳飾が発掘されていたのです。これらの発掘物により、その被埋葬者は、農耕民族なのではなく、騎馬民族であることが示唆されるのです。
五世紀から六世紀にかけて、藤原日本史では、倭族(いぞく)の五王の「讃」を仁徳天皇とか「武」を雄略天皇とかに変身させ飛鳥大和の存在を示すのですが、倭国とは、紀元前の呉越末裔の海洋民族国であるのです。
紀元前に中国南端に暮らしていた国際海洋民族の呉越末裔(藤原日本史では「弥生人」)が、タミル語と水田稲作技術を持って、黒潮により大船団で北上して、対馬で西に別れて朝鮮半島南端にたどり着いたのが「韓族」となり、東に分かれて北九州にたどり着いたのが「倭族」となったのです。
つまり、倭国とは、玄界灘を挟んで、朝鮮半島南端と北九州を合わせた国であったのです。その朝鮮半島南端の倭国の支配者が、高句麗・百済・古代新羅に追われて、北九州の倭国に亡命したのが、倭の五王であったのです。その倭国が朝鮮半島南端に存在していた根拠として、広開土王碑には、倭国は新羅に接していたとの記述があるからです。その朝鮮半島南端の倭国を、藤原日本史では、日本府の任那とするのです。
その倭の五王の時代、421年(倭王讃)?〜479年(倭王武)?までは、飛鳥ヤマトには、天皇が支配する大和朝廷など存在していなかったのです。その根拠は、「宋書」倭国伝にあるのです。倭国王武の上表文の冒頭に、

封国は偏遠にして藩を外に作す。昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東の方、毛人を征すること五十五国、西の方衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平らげること九十五国。

この「宋書」の文書をもって、藤原日本史では、479年?雄略天皇の先祖は、朝鮮半島に出兵し、そこを征服した根拠とするのです。しかし、この文章は、飛鳥大和には「武」の先祖が存在していなかったことを黙示しているのです。それは、「祖禰みずから甲冑をつらぬき」の文章があるからです。
「祖禰」とは、一代や二代先ではなく、もっと先の先祖を意味する言葉です。「武」が生存した479年?を起点として、例えば、一代20年として、四代先として80年を引くと、399年となるわけです。「武」の先祖が、399年には甲冑で武装していたとすれば、当然、飛鳥大和には鉄製の武器製造所がなくてはなりません。しかし、飛鳥大和での鉄器製作遺構は、五世紀半ば以降まで待たなくてはならないのです。つまり、「宋書」倭国伝の文章は、「武」の「祖禰」は、飛鳥大和以外にいたことを示唆するのです。
しかし、471年(辛亥年)以前の東国(藤原日本史では「蝦夷の国」)には、金メッキを施した装飾品で着飾った騎馬民族の大王が存在していたのです。
そのような観点から古代の高速道路の敷設を考えてみると、それは、飛鳥大和からではなく、東国から飛鳥ヤマトへと敷設されていたことが示唆されるのです。
北陸道は、日本海沿岸に沿って秋田まで続き、そして、東山道も日本列島の山間地をぬって秋田まで続いていたのです。
東アジア全土の地図を逆さに眺めれば、五世紀の東ユーラシアを支配した騎馬民族が、朝鮮半島の付け根を支配する高句麗を避けて、日本列島に渡海するのに適した処は、「秋田」です。
五世紀、東ユーラシアを支配した、渡海技術持った騎馬民族が、中国大陸から秋田の酒田津に上陸して、最上川を遡って西国に行くルートが東山道です。この山岳ルートは、太平洋沿岸の異民族を刺激することなく近江まで行き着くことができます。そして、酒田津から、日本海沿岸に沿って進む北陸道の沿岸ルートにより、謎の継体天皇の出身地とする越前を経て近江にたどり着けるのです。では、この二つの古代の高速道路は、何を目的に敷設されたのでしょうか。
1590年イエズス会から藤原氏に寝返った関白豊臣秀吉は、宿敵徳川家康を、関東の湿地帯に追いやるのです。その徳川家康は、騎馬民族末裔で、その配下には武田軍団残党の、産鉄民族の金山衆や古代エジプトの土木建設技術を持った秦氏の渡り職人衆がいたのです。
それらの土木建設技術者を総動員して、江戸川や利根川の支流が流れ込む河州の大湿地帯を、神田台地を掘削して大運河を造り、その残土で湿地帯を居住地にしてしまうのです。そして、その大土木事業に平行して、エドから小田原に向けて一直線思想により大路を築いて行くのです。
その目的は二つ、ひとつは物流、もうひとつは軍事です。徳川家康は、関白豊臣秀吉との対決を果たすため、迅速に騎馬軍団を京に移動するために、その一直線の大路を築いていたのです。その大路を移動する騎馬軍団の補給地が、宿場となって街道に築かれていくのです。
六世紀半ば、飛鳥ヤマトに突然現れた騎馬民族の突厥は、瀬戸内海沿岸を北九州向けた大路の山陽道に沿って、騎馬軍団の補給地を築くのです。それは、中国大陸の北魏残党の侵攻を防ぐためです。これが「ミヤケ」の実態です。藤原日本史では、この騎馬民族の軍事補給地を、天皇領地の「屯倉」と改竄するのです。つまり、六世紀の日本列島は、東アジアの騎馬民族と農耕民族との戦乱に巻き込まれていたのです。
この近江から北九州につづく山陽道の大路は、古代エジプトの土木建設技術を持つ民族により、三世紀半ばには敷設されていたようです。それは、三世紀半ばに飛鳥ヤマトに突然現れた巨大前方後円墳が、その山陽道の吉備の土木建築技術により築かれていたからです。
吉備(岡山市)には、墳丘全長360mの造山古墳、286m作山古墳、192m両宮山古墳などの大型古墳が築かれていたのです。そのような大型古墳を吉備に築くことができたのは、吉備には、大型土木建設に必要な鉄器を造る製鉄工場があったからです。
そして、藤原日本史が、四世紀に飛鳥大和朝廷が存在していた証拠とする箸墓古墳は、その吉備の古墳築造技術により作られ、埋葬品の巨大陶器は吉備製であったのです。しかし、藤原日本史では、吉備からの古墳文化の流れを逆に改竄して、大和朝廷の威光が飛鳥大和から吉備に発信していたとするのです。
この山陽道の大路を敷設したのは、秦氏の先遣隊の紀氏が考えられます。三世紀半ば、その紀氏は、紀の川から吉野を経て、奈良盆地の南端にたどり着き、その奈良盆地南端の湿地帯を、戦国末期のエドのように、大溝を掘り、山を切り崩し土地改良すために、三輪山の麓に巨大前方後円墳を築いたのです。
巨大前方後円墳を築く目的のひとつが、湿地帯の土地改良で、もうひとつが、先住民に土木建設の仕事を与えて、配下とし、いざという時、その先住民の持つ鍬を武器に換えることにより、戦闘部隊を編成することであったのです。そのために、前方後円墳のデザインや装飾品は、出雲、吉備、東海などの各地の文化を取り入れていたのです。
その前方後円墳を築くための、大規模土木建設の過程で造られた大溝や大路により、奈良盆地が湿地帯から居住地となったのが、527年であったのです。このことを藤原日本史では、継体天皇が大和国の磐余玉穂宮に入ったとするのです。しかし、その実態は、北陸道や東山道から侵攻した突厥軍団が、近江から飛鳥ヤマトに侵攻した物語であったのです。
その突厥軍団は、広大な奈良盆地にではなく、三方を小山に囲まれた飛鳥に砦を構えたのは、北魏残党軍の攻撃を予期していたからです。
534年突厥軍団の攻撃により、北魏は東西に分裂するのです。その余勢をかって、突厥が高句麗を攻めると、高句麗は朝鮮半島を南下することにより、百済、古代新羅が圧迫されるのです。
その北魏が東西に分裂したことにより、太武帝暗殺後、漢文化に染まった天子(テングリ)により北魏で厚い保護を受けていた漢訳仏教も、朝鮮半島に侵攻してくるのです。その影響で、非仏教国のギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、支配地を追われ、北九州に亡命するわけです。それが、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱とされてしまうのです。そして、古代新羅は、528年からギリシャ・ローマ文化国から仏教国となってしまうのです。
この漢訳仏教組織には、騎馬民族と戦うために改良された武器が開発されていたのです。それが、長刀です。その長刀で武装する僧は、僧兵と呼ばれていたのです。日本列島の平安時代に暴れまわった僧兵のルーツは、北魏にあったのです。
藤原日本史では、漢訳仏教の伝来を552年(亡命百済貴族は538年を主張)とし、高僧が中国の高度文明を漢字とともに日本列島の飛鳥大和にもたらした、と述べるのですが、その漢訳仏教の実態は不明なのです。それは、漢訳仏教の飛鳥大和への伝来(552年)が疑わしいからです。
仏教僧兵の始めは、北魏に認められます。中国大陸の五胡十六国を平定したのが、南朝の宋と北朝の北魏です。北魏を興した騎馬民族鮮卑出自の太武帝は、長安を陥落させ、城内を探索させると、仏教寺院から夥しい武器を発見するのです。中国の仏教寺院は、表向きは宗教施設であっても、その実態は武器庫でもあったのです。
中国で建設された寺(ジ)は、その始めは、死者を弔う宗教施設などではなく、西方から渡来する僧形の国際交易商人を取り調べる施設であったのです。その関税所の施設が、やがて、漢訳仏教が騎馬民族を蔑視する施陀羅思想を広めることにより、漢文化に染まった王族に取り入り、治外法権を確立すると、その寺(ジ)は、西方から渡来する国際交易商人達の「特別な施設」となっていくのです。そして、その「特別な施設」は、武器を持った守備兵により護られて行くのです。
寺(ジ)が、死者を弔う寺(テラ)となるのは、日本列島では鎌倉時代以降で、死者を弔うことが漢訳仏教の主事業となるのは、アラブ系海洋民族末裔の織田信長により、比叡山と石山寺の漢訳仏教軍団が壊滅されたことにより、各種利権が剥奪された、戦国末期からなのです。
戦国時代末期までの日本列島の土地は、貴族(藤原氏と亡命百済貴族)と仏教組織に支配されていたのです。ですから、比叡山の私領地が多くある関東には、仏教組織が管理する関所などを設けて、庶民から通行税を徴収していたのです。その仏教支配地に、騎馬民族末裔の徳川家康が、オリエント文化の飛鳥ヤマト時代以来の、一直線の大路を、エドから小田原に敷設できたのは、仏教軍団が織田信長により壊滅されていたからです。
当然、漢訳仏教の思想は、肉食する騎馬民族を敵としていたので、その武器は、対騎馬戦用に開発されたのです。それが、馬上の武将を切るための長刀であったのです。
北魏を興した太武帝は、騎馬民族鮮卑出自であるので、当然、漢訳仏教を弾圧して、北極星(太一)を祀る道教を保護したのです。
446年から452年までの太武帝による漢訳仏教弾圧のため、北魏に支配された地から、200万人もの漢訳仏教僧は追放されたのです。その一部が、長刀の武器を携帯する僧兵とともに朝鮮半島に侵攻していくのです。そのことにより、朝鮮半島では、漢訳仏教文化の「白鳳時代」となるわけです。
仏教建築の基本は、釘を使わないことです。それは、漢訳仏教僧は、国際交易商人集団とともに移動するため、寺(ジ)を移築することが前提であったからです。太武帝の北魏に追放された僧の拠点施設の寺(ジ)は、朝鮮半島に移築され、その後、北九州から飛鳥大和に移築されていくわけです。
645年以前に建設された景教(ミトラ教)や道教の宗教施設を破壊した跡に、北九州の寺(ジ)がゴッソリ移築されたため、北九州には基礎石だけが残された寺跡が多く発掘されるのです。それらの移築寺が、飛鳥寺(法興寺)、川原寺、四天王寺、法隆寺などです。それら聖徳太子七寺と云われる寺は、古来から飛鳥ヤマトにあったのではなく、645年以降、景教寺や道教の観を破壊した跡に、北九州から移築されたものであったのです。
この前宗教を歴史上抹殺する技法は、四世紀以降のローマ帝国でも行われていたのです。それは、ギリシャ文化継承国バクトリアの地であったガンダーラで、一世紀に発明された宗教物語を基盤として発明されたユダヤ教ヨシュア派から派生したローマ・キリスト教による、ミトラ教の歴史上の抹殺です。
ミトラ教の地下神殿は、ローマ・キリスト教徒により徹底的に破壊され、その跡に、ローマ・キリスト教教会が建設されたのです。そして、ミトラ教の宗教思想や儀式は、ローマ・キリスト教に取り入れられてしまうのです。これらの技法により、ミトラ教は歴史上存在できないのです。
このローマ・キリスト教が前宗教を歴史上抹殺した技法と同じことが、645年以降飛鳥ヤマトでも行われていくのです。それは、ローマ・キリスト教と大乗仏教とは、一卵性双生児であったからです。その両宗教の教祖誕生物語から宗教儀式からグッズまで、その基本が同じであることは、古来から言われていたことです。戦国時代では、キリスト教は、仏教の一派だと信じていたひとも多くいたのです。それは、思想も儀式もその本質が同じであったことを見抜く能力があれば誰にでも指摘できることです。
日本列島の史料の多くは、貴族の日記と仏教書籍などです。ですから、それら勝者の史料は、勝者に不都合な史実は抹殺、あるいは改竄されていたのです。僧兵についても、その史料を見つけるのは困難です。
しかし、勝者側の史料に、僧兵に関する事項があったのです。それは、日本国初の法令である、漢語による701年の大宝律令です。
大宝律令の僧尼令27条には、唐の法令に基づいた条例があるのです。それは、僧による殺人奸盗を制しするほかに、兵書を貯え、又はこれを読むこと、徒党を結んで擾乱すること、牛馬、兵器の類を布施としてもらうことの禁令があるのです。
701年の法令で、それらの事項を禁止することは、それ以前には、それらのことが行われていたことを示唆します。飛鳥時代が終焉し、奈良時代が始まる、645年から701年まで、僧は、兵書を読み、牛馬を調達して、兵器で武装して、徒党を組んで、一体何をしていたのでしょうか。
唐進駐軍が、飛鳥ヤマトを仏教テーマパークにするために、景教や道教の前政権の宗教施設を破壊していた時代を、藤原日本史では、「白鳳時代」と言っているのですが、それは、「大化の改新」が、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるのと同じに、「白鳳時代」とは朝鮮半島が漢訳仏教文化に染まった時代の「年号」であったのです。藤原日本史は、朝鮮半島の年号を持ち出してまでもして、飛鳥ヤマトの「何」を隠そうとしたのでしょうか。
では、527年突厥が飛鳥ヤマトに現れてから、飛鳥ヤマトが滅んだ645年までの日本列島には、どのような歴史物語があったのでしょうか。
日本列島古代史の復元を試みる時に気をつけなければならないことは、「日本列島は、四海に囲まれているため、古代から孤立していた。」との、藤原日本史の呪縛に陥らないことです。日本列島は、藤原日本史が述べるように孤島なのではなく、内海をもったユーラシアと中国大陸を結ぶ回廊なのです。
ですから、縄文の昔から、北の民族や南の民族が、この日本列島の回廊を利用して、行き来していたのです。このことを証明するように、古代の北端の北海道と南端の沖縄との民族文化・人種的共通点が多く指摘されています。例えば、沖縄料理によく使われるコンブは、北海道産であるのです。
縄文時代から、奈良盆地の三輪山麓が国際沈黙交易地として栄えたのは、その大湿地帯による外的の侵入を阻止していたことがありますが、その他に、その諸外国から渡来の地理的利便性が上げられます。
朝鮮半島から瀬戸内海を抜け紀の川を遡り、吉野から北上すれば三輪山麓に行き着けます。ユーラシアからでは若狭湾から上陸すれば、琵琶湖を経て木津川を遡れば三輪山に到達できます。そして、インドの南方から東シナ海の黒潮に乗って渡来した民族は、伊勢湾から上陸すれば、和歌山街道を抜けて吉野から北上すれば三輪山に到達できます。
しかし、進入軍が河内湾からの上陸を試みても、生駒山や葛城山が侵入を阻止します。たとえ、その山脈を越えたとしても、奈良盆地の大湿地帯と、定期的に氾濫する河川で、進入軍は撤退を余儀なくされます。三輪山麓を護るには、木津川、大和川、そして、紀の川(吉野川)の要所を固めればよいわけです。このことは、縄文時代が他の地域に比べて、三輪山奥の宇陀(朱砂の産地)で長く続いていたことで証明できます。
ですから、日本列島に産する翡翠、真珠、琥珀、そして朱砂を交易する日本列島の先住民達は、三輪山麓で安心して異民族の国際交易商人との交易を行えたのです。しかし、紀元一世紀になると、ローマ帝国領内で、絹の需要が起こると、ローマ帝国内の商人は、絹を求めて中国に渡来するのです。そして、その絹交易の影響が、日本列島にも及ぶのです。その渡来民族が、水田稲作と養蚕技術を持ったタミル語を話す「弥生人」です。
ローマ帝国と中国との歴史上の交際としては、後漢の和帝は、97年甘英をローマ領パルチアに派遣したのです。そして、166年ローマ皇帝マルクス・アウレリウスの使者が後漢を訪れていたのです。そして、534年宿敵北魏を分列させた突厥帝国には、568年東ローマ帝国の返使ゼマルクスが突厥庭(庭とは神の見守る処で、「朝廷」のこと。)に入っているのです。
そのように、東ローマ帝国の使者が突厥帝国を訪れていた頃、飛鳥ヤマトでは、砂漠を越えて遥々遠来からの賓客をもてなすために、噴水のある庭園や石の堤で護岸された大運河が、河内までつながっていたのです。
大運河が造られたのは、飛鳥ヤマト内だけではないのです。河内平野には、巨大前方後円墳が多くありますが、その河内平野は、縄文時代以前は、生駒山麓まで河内湾であったのです。
その河内湾が縄文後期から弥生時代にかけて、上町台地が土石の堆積によりふさがれて河内湖となっていたのが、弥生後期です。ですから、弥生時代には、河内平野などなかったのです。そして、河内の湿地帯を干拓するために、巨大前方後円墳が築かれていたのです。
藤原日本史では、四世紀に飛鳥大和に大和朝廷が存在していた根拠として、巨大前方後円墳を築く程の豪族や王族が、飛鳥大和に存在していたとするのです。しかし、何時の時代でも、巨大建築物が築かれるのは、多くのひとが暮らす都市部ではなく、過疎地であるのです。
三世紀半ばまでの飛鳥ヤマトは、ひとも住めぬ大湿地帯であったのです。その湿地帯を改良するために、巨大前方後円墳が、飛鳥ヤマトに多く築かれていたのです。ですから、五世紀も半ばすぎると、巨大前方後円墳は、河内の湿地帯で築かれて行くのです。
その河内湖の水を排水するために、古代エジプトの土木建築技術により、大運河が造られたのです。その大運河は、藤原日本史の創作物語中で、二度にわたる物部氏と蘇我氏親子による神仏戦争物語に登場します。それが、物部氏が仏像を投棄したとする「難波の堀江」です。
四世紀以降、この「難波の堀江」の大運河が造られたことにより、河内湖の水が引き、その結果、上流の奈良盆地の湿地帯も干上がって行くのです。そして、難波津(浪速←ローラン)から大和川を遡り、生駒山と葛城山との間を少し遡った地の「斑鳩」から、飛鳥ヤマトへの大路が造られていくのですが、その大路が南北軸から西に約20度傾いているのは何故でしょう。そして、法隆寺により隠蔽された斑鳩の建物遺跡の建築軸が南北軸から西に約20度傾いているのは何故でしょう。
527年朝鮮半島を追われた秦氏(ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の民)は、先遣隊の紀氏と合同して、奈良盆地だけではなく、山背国の湿地帯も、その湿地帯の中央を流れる賀茂川を、大運河を造ることにより流れを変えて、平地としていたのです。
現在の賀茂川は、高野川と合流して、南北に流れていますが、その合流地点から下流は、自然川ではなく、秦氏により掘削された運河であったのです。
そして、その京都盆地の西のはずれに、秦氏の太陽神ミトラを祀る蜂丘寺を建てたのですが、その蜂丘寺は「白鳳時代?」に破壊され、そこから少し離れた処に広隆寺が移築されていたのです。その蜂丘寺の遺構は南北軸ではなかったのです。その蜂丘寺があった地が、秦氏の支配地の太秦です。
秦氏は、何故、近畿一帯に大運河を造ったのでしょうか。それは、ひとつは土壌改良のためで、もうひとつが物流です。中国大陸での交通機関は、南船北馬です。中国大陸では、南朝では運河を掘削して、船で物を運んでいたのです。それに対して、北朝では、大路を造り馬で物を運んでいたのです。
この近畿一帯は、丁度、日本列島の中央で、農耕民族と騎馬民族とが出会う処であったのです。湿地帯は、水田稲作を行うには適した地であったのです。秦氏や突厥軍団か渡来する前、日本列島の湿地帯ではタミル語を話す「弥生人」末裔が、水田で米を、そして、山の麓では桑を育て養蚕をしていたのです。
魏の時代(220年〜265年)、ローマ帝国の求める絹を日本列島に求めて、魏は247年から265年にかけて、軍事顧問の張政を倭国に派遣していたのです。
藤原日本史では、239年倭邪馬台国女王卑弥呼が帯方郡に遣使し、魏の明帝が卑弥呼を親魏倭王に封じ、金印紫綬を授けた、と述べていますが、その卑弥呼の実態は、不明です。その卑弥呼が248年に亡くなると、倭は乱れるのです。その前年、247年魏の軍事顧問の張政が倭国へ派遣されたのは、絹の生産地である倭女王卑弥呼の国が、狗奴国王卑弥弥に攻撃されたからです。しかし、その張政は、265年魏が滅ぶと、中国へ帰ってしまうのです。
日本列島は、古来から、中国の強い軍事影響下にあったのです。しかし、藤原日本史には、中国軍の軍事顧問が、古来から渡来していた記述が抜けているのです。このことは、卑弥呼の時代だけではなく、645年唐が飛鳥ヤマトに進駐して、701年唐の律令制度を日本列島民に押し付けていたことを、大和朝廷が中国の律令制度を取り入れたとして、隠蔽しているのです。
日本列島に渡来していた軍団は、中国軍だけではないのです。それは、古代新羅の花郎騎士団(ローマ帝国軍末裔)や突厥軍団も、日本列島に渡来していたのです。
その五世紀末から六世紀にかけて、日本列島に渡来した古代新羅の花郎騎士団や突厥軍団の歴史を隠蔽するために発明されたのが、継体天皇です。その継体天皇が、架空の天皇であることは、「古事記」が、「日本書紀」で述べる享年82歳を、享年43歳と述べていることで理解できるでしょう。
継体天皇の享年が、「古事記」の43年だとすると、「日本書紀」で述べる57歳で樟葉宮(大阪府牧方市)で、507年即位できないのです。そして、527年大和国の磐余玉穂宮に入ることもできないし、527年筑紫国造磐井の反乱鎮圧の指揮もとれないのです。
その謎の継体天皇の行動を辿ると、秋田の酒田津からつづく北陸道の越前から渡来した突厥帝国軍団の行動が分かるのです。突厥軍団は、越前から507年木津川と淀川が合流する地(樟葉)を支配し、そして、512年山背筒城(京都府京田辺市)を支配し、519年弟国(京都府長岡市)を支配し、そして、527年飛鳥ヤマトに侵攻したのです。このことを、藤原日本史では、蘇我稲目が、宣化天皇の大臣として登場した、と隠蔽しているのです。
それらの突厥軍団の移動地は、淀川、木津川、宇治川、そして賀茂川の川筋で、津の交易地であったのです。このことにより、ユーラシアと中国との交易路が確保されたのです。つまり、越前から琵琶湖を経て、宇治川を下り、宇治川と木津川と賀茂川とが合流する長岡の与等津を抜け、樟葉から淀川を下れば、シルクロードの国際交易港のローラン(浪速)にたどり着けるわけです。そこから、船で瀬戸内海を抜ければ、長安まで行けるわけです。
騎馬民族は、国際交易の民で、陸路だけではなく、川も利用していたのです。その川筋の民である「河衆」は、川を船が遡るとき、人力や馬力により綱で船を引くことで生計を立てていたのです。この騎馬民族と行動を供にする「河衆」は、騎馬民族を敵視する漢訳仏教が、日本列島の思想を仏教思想で支配をすると、「カッパ」に貶められ、そして、川から追放されると、「天狗」に貶められてしまうのです。
お祭りでは、神輿と山車はセットです。今に伝わる神輿のルーツは、飛鳥ヤマトで祀られていたミトラ教(景教)や道教の神を怨霊として、窓のない、そして扉を羽目殺して封じ込めた、平安時代の僧兵がデモで威圧する道具として発明された乗り物です。では、山車は何かといえば、河衆の神の乗り物です。お祭りの山車は綱で引かれます。その山車のルーツは、船を綱で引いていたことの名残です。現在でもある地方では、川を挟んで綱引きが行われるのは、古代の河衆の船曳の名残であるのです。
北魏が東西に分裂した538年から隋建国の589年まで、北朝には統一国がなかったので、突厥帝国は、北朝を超えて、南朝の梁(502年〜557年)との国際交易のために、近畿一帯に大運河と大路を整備して、日本列島の飛鳥ヤマトに軍事拠点を築いていたのです。
では、その七世紀初期までの飛鳥ヤマトでは、どのような政治が行われていたのかは、645年唐進駐軍により飛鳥ヤマトは陥落し、「突厥文字の天皇紀?」と「突厥文字の国紀?」が焚書されてしまったので、日本国の史料により調べることができません。
しかし、「随書」には、607年倭の使者により飛鳥ヤマトでの政治の説明が記述されているのです。その説明によると、飛鳥ヤマトでは男王アマタリヒシコは、夜中から夜明けまで政務をとり、太陽が昇ると弟に政務を任せる、とするのです。つまり、七世紀初期の飛鳥ヤマトでは、兄が北極星を祀り、弟が太陽を祀っていたのです。古代では、祀りは、政務で、神の宣託を受けて物事を決定していたのです。祀りが、政務と祭祀とに分かれたのは、藤原氏が復活した明治維新からです。
北極星を祀るのは道教です。そして、太陽を祀るのはミトラ教(景教)です。道教は、騎馬民族が信奉する宗教で、その建設思想は南北軸です。そして、ミトラ教(景教)を信奉するのは秦氏で、その建設思想は南北軸に対して西に約20度です。その傾きは、太陽が再生すると信じられた冬至の太陽光が射す位置であるのです。
近畿一帯の遺跡で、突厥進駐軍の軍事基地の飛鳥の盆地からの建物遺跡の建築軸が南北であるのに対して、奈良盆地の大路や建物遺跡の建設軸が南北軸から西に約20度傾いているのは、太陽神を祀る秦氏が築いていたからです。
突厥帝国進駐軍と秦氏は、「兄弟統治」により住み分けと同時に、政務も夜昼に分けて飛鳥ヤマトを統治していたのです。
その飛鳥ヤマトでは、先住民のタミル語と突厥語と古代新羅語が使われていたのです。タミル語は、騎馬民族の文法と同じに、膠着語です。突厥語も、膠着語のウラル語です。そして、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、仏教国ではなかったので、漢語ではなく、漢字をアルファベットとして使っていたのです。それが、新羅万葉語です。
飛鳥ヤマトでは、突厥が支配者であったので、膠着語を基本としたので、外国語をそのまま取り入れて使うことができたので、タミル語以前の、アイヌ語やポリネシア語の単語もそのまま使われていたのです。
ですから、日本語のルーツを特定できないのですが、その基本文法は、突厥語であるウラル語であるのです。この突厥は、騎馬民族なのに文字を持っていたのです。それが、カナクギ文字の突厥語(オルフォン文字)です。
その飛鳥ヤマトで使われていた突厥文字は、645年の焚書により歴史上抹殺されてしまいますが、唐本国が907年滅びると、その唐の軍事影響下にあった、唐文化一色の平安王朝が、国風(騎馬民族文化)に変わり、カタカナ文字として復活するのです。
600年飛鳥ヤマトにオリエント文化を花咲かせた男王アマタリヒシコは、589年建国した隋の文帝に使者を送り、更に、607年煬帝の代にも使者ソインコウを送るのです。それは、交易申し入れの他に、宿敵北魏の末裔、漢文化に染まった元鮮卑出自の皇帝を、「天子・テングリ」(騎馬民族の王)として揶揄するためだったのです。
中国の国々は、漢を除いて、秦から宋まで、その支配者は騎馬民族出自であったのです。農耕民族の漢民族は、騎馬民族出自の王に、長らく支配されていたのです。しかし、武官ではなく、文官として仕える漢民族は、騎馬民族を「施陀羅」の不可触賎民と蔑む漢訳仏教という思想武器を発明し、そして使い、騎馬民族出自の王族を蔑視していたのです。
この漢民族の思想武器が、僧兵と供に、日本列島の飛鳥ヤマトに現れたのが、藤原日本史で述べる552年ではなく、645年であるのです。この645年は、藤原氏にとって画期的年であるのです。それは、藤原氏の祖が、歴史上現れたとする年であるのです。それが、中臣鎌足、後の、藤原鎌足です。しかし、この藤原鎌足の実在性が疑われるのです。それは、藤原鎌足が活躍する「大化の改新」物語は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーであるからです。
藤原氏は、その藤原鎌足の墓を、多武峰に祀っているのです。その藤原鎌足の墓がある多武峰は、飛鳥の突厥の軍事都市を見下ろす山で、そこには、秦氏の先遣隊である紀氏が築いた、四重もの石垣で護られた朝鮮式山城があったところです。そして、その多武峰の語源は、突厥語の「タフ」からのものです。
藤原氏は、前政権の歴史を抹殺するために、前政権の施設を破壊し、その跡に、藤原氏の所縁の施設を創ることを常道としていたのです。ですから、藤原氏の所縁の遺跡の下には、前政権の施設が隠蔽されている可能性が「大」なのです。
歴史愛好家は、日本の天皇が何故、万世一系で歴史上長く存続できたのかの「謎」を解こうとするようです。しかし、天皇家は、同じ民族が連続して続いていたわけではないのです。
騎馬民族の新羅系天武天皇から始まる日本列島の「天皇の歴史」は、奈良時代の終わりには、百済系光仁天皇に替わり、鎌倉時代の終わりには、南北朝に分裂し、そして、江戸幕府を拓いた、騎馬民族末裔の徳川家康は、エドを「朝廷」とし、後水尾天皇に退位を迫り、騎馬民族の血が流れる孫娘を、109代女帝明正天皇としていたのです。
その天皇の万世一系の謎とは、実は、藤原氏の謎であるのです。その645年突然歴史上に現れた藤原氏の祖とする藤原鎌足の実在性が否定されると、藤原氏の出自が、豊臣秀吉のように、分からないのです。そのような得体の知れない藤原氏が、645年から現代まで、「日本書紀」の呪縛により、歴史の闇に君臨しているのです。
この藤原氏には、不思議な掟があるのです。その掟は、秘密結社の掟と共通するのです。その藤原氏の掟が、「放氏」です。その放氏とは、藤原氏の結社からの追放です。この追放が、唯の追放ではないのです。この追放処分を受けた藤原氏のメンバーは、藤原氏としての会員資格が失われ、藤原氏が仕切っていた「朝廷」に出任することができないだけではなく、経済的に自立できなくなるのです。
この藤原氏の「掟」により組織を固め、藤原氏結社は、日本列島史を改竄し、前政権の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合のよい天皇をロボットとしてコントロールしていた(いる)のです。
その放氏のメカニズムを知ると、藤原氏結社の謎解きのヒントが見えるようです。
藤原日本史によれば、藤原氏の氏寺である興福寺は、710年山階寺を奈良に移築し、改称したとするのです。ここに、前政権の施設を藤原氏の施設に取り替える、藤原氏の歴史改竄のテクニックが見られます。
そして、藤原氏の鎮守の春日明神を氏神とするのです。この春日明神を祀る春日社も、移築です。その春日社が建つ地は、三笠山麓で、長らく禁足地であったのです。禁足地とは、前政権の宗教施設があった処で、その前政権の宗教施設が破壊され、空き地となっている処です。藤原氏が発明した中臣神道(国学者は「古神道」と言う。)は、興福寺が発明された後に歴史上出現したのです。つまり、飛鳥ヤマトから奈良時代にかけての宗教の流れは、ミトラ教(景教)・道教→漢訳仏教→中臣神道となるのです。そして、藤原氏が唐の代理で支配した奈良時代に、ミトラ教の神を封印した施設が、神社(モリ)です。
その春日明神の祭神の一なる天児屋根命が、藤原氏の祖神です。その天児屋根命を出現させるために創作されたのが、ギリシャ神話のデメテル物語に酷似した「天磐戸物語」です。
その祖神を祀る春日社が、興福寺を支配していたのです。この興福寺の別当及び三綱の役は、藤原氏の氏人が選定していたのです。中臣神道が漢訳仏教を支配することは、不思議なことです。
藤原日本史によれば、物部氏の神道派と蘇我氏の仏教派とは、二度も戦争をしていたはずです。そして、神道派は、仏教派に、二度とも敗れていたはずです。そして、二度とも仏像は祟りを起こしたため、その仏像は難波の堀江に投棄されたはずです。しかし、厩戸皇子(聖徳太子)は、篤く仏法を敬い、仏寺を七棟も建立していたはずです。それが何故、奈良時代になると、仏教が、神道に支配されるのでしょうか。
放氏は、藤原氏への反逆者としての疑いをかけられると、興福寺の大衆に従って詮議され、その結果を春日明神に奉告する儀式が執り行われ、興福寺の別当から処分の報告が出されるのです。
このように、仏教施設である興福寺は、神道施設である春日社に、支配されていたのです。そして、その春日社での儀式の多くは、ユダヤ教儀式と酷似しているのです。
藤原氏の謎は、日本列島史の謎です。その藤原氏が歴史上現れると、日本列島の思想史が大変化するのです。その大変化は二度で、ひとつは645年の革命(大化の改新?)、そして、もうひとつが1868年の革命である「明治維新」です。その二つの出来事で、藤原氏は影の支配者として、日本列島史を支配して行くのです。
イギリス、オランダ、フランス、ロシア、そして、アメリカの軍艦が日本列島に押し寄せた江戸末期、伊勢の地では、大土木工事が行われていたのです。その伊勢には、三百を超える「神宮寺」があったのです。
神宮寺とは、仏寺に神宮を取り込んだ「寺」です。仏寺と神宮との建物の大きな違いは、密封できる大広間があるかないかです。仏寺は、大麻を燃やす護摩の儀式を行うため、密封できる大広間を設けています。しかし、神宮には、そのような施設はないのです。でも、神宮寺は、仏寺の一種ですから、護摩を焚くために密封できる大広間の施設があるのです。
その神宮寺が多くあった、大土木工事前の伊勢では、伊勢参りが幕末から流行るのです。それは、神宮寺が建つ内宮と外宮との間に、「大遊郭」があったからです。多くの参拝者は、神仏習合の伊勢信仰のためだけではなく、「ご開帳」の為に伊勢を訪れたようです。
そして、1867年名古屋から起こった「ええじゃないか運動」が全国的に流行ると、伊勢は、歓楽地から宗教地に変身して行くのです。この頃、飛鳥大和では、神武天皇陵が創作されていたのです。
そして、1868年明治維新の号令がかかると、神仏分離令も同時に発せられ、全国的に廃仏毀釈運動が起こり、漢訳仏教思想によりイジメられていた役座や賎民「穢多」により、伊勢の神宮寺は全て破壊され、その跡に、神宮・神社(「モリ」ではなく、「じんじゃ」)が建立されるのです。そして、その伊勢は、何もなかったかのように、古来から天皇家の神を祀っていたとする「伊勢神宮」として、今日に至るのです。
そして、藤原氏は、天皇による13の儀式を発明して、平安時代の錬金術師空海が発明した真言密教のダキニの呪法で天皇家が平安時代から祀られていたものを、中臣神道や吉田神道などを基に国家神道なるものを発明し、その神道儀式により祀りを行い、仏教儀式を神道儀式に替えてしまったのです。
この藤原氏による宗教施設改竄の「明治維新」のトリックが、千二百年前の飛鳥ヤマトの「白鳳時代」にも行われていたのです。
明治維新により、それまで仏教国であった日本国が、神道国に瞬時に変身したわけではないのです。日本国が、仏教国から神道国に変身するには、1889年(明治22年)大日本帝国憲法と皇室典範発令までの、21年を要したのです。
その21年間に、「明治維新」を企画したイギリス東インド会社(ジャーディンマセソン商会・グラバー商会)の手先の藤原氏の結社組織(長らく薩摩藩に生息)は、騎馬民族末裔の旧勢力である西郷隆盛(西南の役)、江藤新平(佐賀の乱)、板垣退助(暗殺)、大久保利通(暗殺)、木戸孝允(暗殺)、などのシシ(秦氏系「武士」末裔。亡命百済系「サムライ」からの「野獣」との蔑称語。その後、「志士」と改竄された。)の指導者達を、藤原氏が得意の「夷を以って、夷を制す」の謀略や暗殺により抹殺していたのです。しかし、長州藩の下忍伊藤博文は、後に、1885年初代内閣総理大臣となっているのは、何故か。それは、孝明天皇暗殺と関係があったようです。
そして、伊藤博文のようにイギリス東インド会社に見込まれた者達の結社により、明治政府が運営されて行くわけです。そして、そのほんの一握りの集団により、日本国家は私物化されていくのです。この日本列島私物化を調べたいのなら、広瀬隆著「私物国家・日本の黒幕の系図」がお薦めです。
そして、明治新政府は、天皇体制の国家神道思想を啓蒙するために、「落語家」の話術と、「役座」の脅しにより、庶民を洗脳していたのです。何故、落語家と役座が、天皇思想を支持した理由は、1871年明治新政府は、穢多・非人の蔑称を廃止したからです。それにより、徳川三代目将軍家光から始まる第三百済王朝の江戸時代に、漢訳仏教思想により賎民「穢多」としてイジメられていた者が、明治維新で「新平民」となれたからです。藤原氏は、その「新平民」のエネルギーを、国家神道キャンペーンに利用して、旧仏教勢力を壊滅したのです。
しかし、「新平民」のエネルギーの復活に恐怖した藤原氏は、ウラル語を話すチュルク系突厥民族が支配した飛鳥ヤマトのオリエント・騎馬民族文化の復活を恐れて、再び、旧仏教勢力と妥協して、「新平民」封じ込めに動くのです。
明治維新直後では、庶民は「天皇」など知る由もなかったのです。それは、騎馬民族国の復活を目指して、大阪や三河の、漢訳仏教思想にイジメられていた、秦氏末裔をエドに呼び寄せ、「エド」を「朝廷」とした騎馬民族末裔の徳川家康が、百済系天皇家一族を御所に幽閉していたからです。そして、その門に鍵を掛け禁門としていたので、天皇は、1611年後水尾天皇から1846年孝明天皇まで、外出することはなかったからです。
明治新政府が、学校教育の歴史で、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーである「645年大化の改新」物語を刷り込んだ理由は、二つです。
ひとつは、崇峻天皇を殺した横暴者蘇我氏(実は「突厥民族」)を滅ぼして、天皇家(日本国の初の天皇は672年即位の天武天皇)が復活したとする物語を刷り込むことです。
もうひとつは、藤原氏の祖とする、出自不詳の中臣鎌足(後に藤原鎌足)の歴史的登場を、その「645年大化の改新」物語で刷り込むことであったのです。
しかし、その藤原日本史の「645年大化の改新」物語が「ウソ」で、645年前に聖徳太子により飛鳥大和で仏教文化の花が咲いていたとすることが「ウソ」であることが、飛鳥ヤマトから発掘された「大路」が証明するのです。
1964年東京オリンピックを目指して、日本列島に高速道路網が築かれて行くのですが、1972年7月田中角栄が内閣総理大臣となると、日本列島改造論を唱え、日本列島は空前の建設ブームに沸いたのです。
田中角栄首相は、新潟の出身です。その新潟は、古代飛鳥ヤマト時代ではユーラシアから渡来する民族が上陸する越後(越の末裔が住む地)で、秋田から始まる北陸道により、飛鳥ヤマトと交通が盛んであった地です。この越後は、北陸の越前と並んで、馬具や鉄剣などか出土する方墳が多く存在しているように、五世紀以降では騎馬民族の王国であったのです。
五世紀以降に築かれていく全国の古墳から、祭祀具ではなく、馬具や鉄剣などの戦闘用具が埋葬されていくのは、それは、その五世紀に、朝鮮半島から北九州ではなく、ユーラシアから日本海沿岸に渡来した民族が、騎馬民族であったからです。その騎馬民族系の方墳・円墳古墳は、岩手県以南から九州にかけて築かれていくのですが、高句麗がルーツの大小の相似形の前方後円墳も短期間に、同時に築かれていたのは、その異なる思想により築かれた古墳築造と同時に、全国的に道路網が築かれていたからです。
このことは、朝鮮半島から渡来した民族(秦氏)と、ユーラシアから日本海沿岸に渡来した民族(チュルク系突厥民族)とが合流していたことが示唆されます。その二つの民族に共通するのは、ギリシャ・ローマ文化です。突厥にローマ文化があるのは、東ローマ帝国軍と連合して、シルクロート交易を阻止するエフタルを攻撃していたからです。そして、突厥帝国を興したとき、568年には東ローマ帝国の返使ゼマルクスは、突厥の朝廷に入るほど、東ローマ帝国と突厥帝国とは、馬絹交易を媒介として親密であったのです。
そして、その渡来騎馬民族が話すウラル語も、高句麗をルーツとする前方後円墳や、ローマ帝国軍末裔による一直線思想の大路を、全国に建設して行く過程で、ポリネシア語、アイヌ語、そして、タミル語を話す民族末裔に伝わって行くのです。
高度経済の昭和時代に、その田中角栄首相の列島改造論にもとずき、日本列島の都市部の土地も掘り起こされて行くと、そこに不思議な道路が発掘されるのです。東京オリンピックの時は、郊外の、山奥の道路建設時に、側溝のある道幅12mから40数mもある一直線の古代高速道路が発掘されたのですが、奈良盆地の都市部からも、不思議な道路が発掘されて行くのです。
それが、筋違路と言われる、藤原日本史で云う聖徳太子が斑鳩から飛鳥までの12kmを、愛馬の黒駒で通ったとする「太子道」です。
その奈良盆地では、南北軸に重なる三本の大路と、東西軸の一本の大路が発掘されていたのです。が、しかし、その「太子道」は、南北軸でも東西軸でもなく、南北軸から西に約20度傾いているのです。
何故、建設軸が異なる大路が、奈良盆地に重なっていたのでしょうか。建物は、その大路に沿って建設されて行くわけですから、その大路の敷設基準軸は、古代では、その民族思想を象徴する重要な要素であったのです。
その飛鳥ヤマトに敷設軸が異なる大路が存在していたと言うことは、飛鳥ヤマトには異なる思想を持つ民族が存在していた証拠となるのです。そのことを証明するように、奈良盆地には、南北軸から西に約20度傾いた若草伽藍遺跡のように、建築軸が異なる建物遺跡が多く発掘されているのです。しかし、現存するすべての仏教寺院は、南北軸により建立されているのです。
騎馬民族王国から出た田中角栄首相の日本列島改造論により、日本列島全国の土地が掘り起こされて行く過程で、藤原氏が「日本書紀」で隠蔽した古代飛鳥ヤマトの歴史の扉を開くキッカケをもたらしたのでしょうか。その後、飛鳥ヤマトでは、仏教文化や中臣神道文化では説明できない、不思議な埋蔵物や遺構が今も発掘され続いているのです。
藤原日本史では、それらの仏教文化では説明できない、大溝や石の人工山や朝鮮式山城を築いたのは、女帝斉明天皇(655年〜661年)であったと「日本書紀」では述べていますが、その飛鳥大和での大土木工事がおこなわれたのは、南北軸の大路の側溝から出土した陶器などの遺物により、645年以降であることが示唆されています。
では、南北軸の大路と異なる、筋違路といわれる「太子道」はいつごろ敷設されたのかと言うと、その側溝からの出土品によると、七世紀初期以前であることが示唆されています。その南北軸の大路と、筋違路との歴史的存在の確定は、遺物からだけではないのです。
607年倭国を訪れた隋使裴世清は、船で河内湾から大和川を遡り、そして、斑鳩から大溝の大運河により船で、男王アマタリヒシコに謁見するために飛鳥ヤマトの都を訪れていたのです。このことは「隋書」が述べるところです。では、その大運河に沿った、筋違路は何かと言えば、それは、隋使一行が乗船している川舟を馬や人が引くための大路であったのです。
そのような大切な隋使を、斑鳩から飛鳥ヤマトに運んだ船が通る大運河や、引き舟のための筋違路を、南北と東西に分断、縦断している大路は、男王アマタリヒシコが支配する飛鳥ヤマト時代には存在できるはずはないのです。
そして、その南北軸と東西軸の大路が、古墳時代(飛鳥時代)のものでないことは、645年から敷設されるその大路は、北に延長される過程で、古墳を破壊して敷設していたからです。
藤原日本史が述べるには、四世紀の飛鳥大和に、天皇が支配する大和朝廷が存在していた根拠として、三世紀半ばに三輪山近辺に巨大前方後円墳を築くほどの勢力が存在していたとするのです。そして、その奈良盆地に点在する前方後円墳は、歴代の天皇の墓とするのです。
もし、その仮説が本当であるならば、南北軸の大路は、何故、天皇家一族郎党の古墳までも破壊して敷設されていたのでしょうか。
694年藤原京、710年平城京の高い土壁に護られた軍事都市は、南北軸の大路に沿って建設されていたのです。そして、それらの大路が通過する地には、巨大古墳が存在していたのです。
巨大古墳を破壊して建設された平城京の東側の御笠山麓には、雄牛を屠り太陽神を祀るミトラ教(景教)の祭祀場があったのです。そのミトラ教の祭祀場を破壊した跡に、藤原氏の中臣神道の神を祀る、春日大社が移築されているのです。
この春日大社の不思議な出現が、中臣神道の歴史的初めであるのです。その中臣神道の神が突然歴史上に出現する以前の神とは、神道の神などではなく、ミトラ教(景教)が祀る「太陽神」と、道教が祀る「北極星」(太一)であったのです。
更に、794年山背国の支配民族が騎馬民族(秦氏=古代新羅民族=源氏=武士)から農耕民族(亡命百済民族=平氏(「平家」ではない。「平家」はアラブ系渡来民族)=サムライ)に替わってしまった平安時代からは、公然と古墳を破壊して、その跡に、神社(モリ)が建立されて行くのです。
そして、その神社(モリ)は、注連縄(一説では、縛り首)を垂らした鳥居により結界を示し、異界とされた「禁足地」であったのです。
中臣神道と漢訳仏教思想が普及すると、死が最大の穢れとなってしまうため、病人は息のあるうちに、屋外に放り出されてしまうのです。それは、死者の死穢が家内に感染することを、騎馬民族文化を排斥し、山背国を山城国と改竄した、平安の都を支配した亡命百済貴族や、中国山東半島から移民してきた亡命百済民が、最も恐れたからです。
そのような死穢を恐れる農耕民族には、騎馬民族が復活を願うために、生前の諸道具と一緒に「眠る死者」を埋葬する古墳は、穢れそのものであったのです。
ですから、亡命百済貴族が支配する平安時代になると、秦氏が支配していた山背国の古墳は破壊され、その跡は、空き地の「禁足地」となっていくです。そして、その禁足地に、その死穢を祓うために、神社(モリ)が建てられて行くのです。古代の神社(モリ)は、神を祀る処などではなく、死穢(先住民の神)を封じ込める施設であったのです。
平安時代に神道と漢訳仏教により「死の穢れ思想」が普及したのは、前方後円墳を破壊した跡に建設された平城京が、奈良時代に怨霊により祟られたと、平安時代の貴族や庶民が信じたからです。しかし、その平城京を祟ったとする怨霊の正体は、実際は、反藤原氏の聖武天皇による東大寺の遍照鬼(=太陽神ミトラ。後に、錬金術師空海により大仏のビルシャナブツと命名された。現在の大仏は江戸時代作。)が鋳造された時の、銅と水銀による鉱毒中毒であったのです。
そして、平安時代になり、唐進駐軍の後ろ盾により百済系桓武天皇の威勢が近畿一帯に広がると、飛鳥ヤマトに存在していた幅12mもあった大路は、古墳と同じように破壊され、幅6mに狭められていくのです。そして、物品の運搬が馬から牛に替えられて行くのは、それは、馬を重要な交通手段とする、騎馬民族文化を、近畿一帯から排斥するためだったのです。
太陽神を祀る思想により敷設された筋違路(七世紀初期以前)と、北極星(太一)を祀る道教思想を導入した仏教思想の南北軸の大路(645年以降)の変換が示す、騎馬民族が飛鳥ヤマトに日本国の基礎を築き、その日本国の基礎組織を乗っ取った唐進駐軍による飛鳥時代(古墳時代)から奈良時代にかけての歴史は、東アジアで隋・唐と戦った突厥帝国の興亡とリンクしていたのです。
645年以前の飛鳥ヤマトに、死穢を祓う神道文化も仏教文化もなかったことは、その頃はまだ「死者が眠る」古墳が、奈良盆地で築造されていたからです。そして、古墳を築造した民族により建設された、仏教建築思想の南北軸と異なる、筋違路と若草伽藍跡が、女帝推古天皇が存在したとする飛鳥ヤマト時代に、神道や仏教が存在していなかったことを証明するのです。
その飛鳥ヤマトには、太陽神ミトラを祀る民族と、日本語文法の祖である突厥語を話す民族が、645年以前には確かに存在していたのです。  

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