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神輿の黙示録(23)(明治政府はイギリス東インド会社の傀儡政府だ:夷を以って夷を制す)
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投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 11:08:07: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: 神輿の黙示録(22)(明治維新が大化の改新だ:復活した藤原氏と騎馬民族末裔の反乱) 投稿者 五月晴郎 日時 2015 年 2 月 01 日 10:56:58)

歴史は、後のひと達により、ある目的を持って語られる昔物語です。ですから、目的が異なるひと達により語られる歴史物語は、百人いれば百の歴史物語が生まれるのです。
その歴史物語を後世のひと達に語り継ぐ目的により、いろいろな歴史グッズが創作されます。そのひとつに、銅像があります。後世のひとに、歴史物語をリアルに訴える目的で創られる銅像は、歴史上重要人物であるのです。
1603年江戸を開府した秦氏(秦羅・新羅)末裔の徳川家康は、百済系天台宗の日光東照宮に祀られて(?)いるほど、歴史上重要人物です。しかし、その銅像が作られたのは、1993年(平成5年)であるのです。不思議なのは、1854年江戸幕府を脅して日米和親条約で開国させた、わざわざマカオ経由で、シーボルトが持ち出した伊能忠敬の模写日本全図を持参して渡来したマーシュ・C・ペリー提督の銅像は、1954年(昭和29年)であるのです。
日本歴史上の重要人物であるニッポン人の徳川家康よりも、39年早くアメリカ人のペリーの銅像がお目見えしたのは、何か意味があったのでしょうか。
一般的な徳川家康のイメージは、戦国三武将(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)の中でも、あまり良いものではなく、「タヌキ爺」です。そのイメージの理由として、徳川家康が、島原の乱でキリシタン弾圧、外様大名をイジメるための参勤交代制、穢多といわれる賎民を漢訳仏教思想により寺請制と「士農工商・穢多非人」の身分差別でイジメた、そして、鎖国を断行した、と思われています。
しかし、それらの事跡は徳川家康がおこなってはいないのです。士農工商の身分制は、1591年藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉が発明したものです。1637年〜1638年のキリシタン弾圧の島原の乱は、第三代目将軍徳川家光がおこなったものです。そして、1635年からの参勤交代制は、第三代目将軍徳川家光がおこない、そして、鎖国は、1639年第三代目将軍徳川家光がおこなったことなのです。
何故、徳川家康は、そのように負のイメージを負わされたのでしょうか。それは、明治新政府(藤原氏・近衛家)にとって、徳川家康が、タヌキ爺だったからです。
徳川家康は、天下を盗ると、1611年藤原氏の傀儡天皇である後陽成天皇を退位させたり、漢訳仏教組織から多額の金を巻き上げていた紫衣の着衣許可を禁止し藤原氏の斡旋料の収入源を止めたり、そして、第二代目将軍徳川秀忠の娘を後水尾天皇に入内させ、後に、騎馬民族の血が流れる女帝明正天皇としたりと、藤原氏や百済系天皇家をイジメていたのです。その結果、1616年75歳の徳川家康は、毒殺(藤原日本史ではテンプラ中毒とされる。一説では胃がん。)されてしまうのです。
そして、何よりも徳川家康は、藤原氏と亡命百済貴族の仇敵である、母国百済を滅ぼした秦氏末裔の騎馬民族、源氏武士の棟梁(長者)であったからです。ですから、徳川家康を讃えることは、イギリス東インド会社が軍事・資金支援する藤原氏が支配する明治新政府にはできなかったのです。
イギリス東インド会社の軍事・資金支援により薩摩藩を支配していた藤原氏(近衛家)により計画・実行された明治革命とは、645年唐進駐軍に支援された中臣族(藤原氏の祖)が、秦氏と突厥帝国進駐軍により支配されていた、軍事都市飛鳥ヤマトを倒したことと同じ物語であったのです。つまり、「歴史は繰り返される。」ようです。
極東の日本列島は、藤原日本史が述べるように孤島などではなく、古来から遠方の異民族が渡来する地であったのです。それは、地下資源と植物を育成するには好条件の気候があったからです。
紀元前の縄文時代には、岩手県久慈とバルト海沿岸とは琥珀ロードで結ばれていたし、古代中国王族を飾った翡翠は、糸魚川産であったのです。更に、縄文時代から弥生、そして古墳時代にかけての奈良宇陀では、朱砂が産出され、三輪山の麓では渡来異民族とにより沈黙交易が盛んにおこなわれていたのです。
紀元一世紀になると、ローマ帝国と後漢との絹交易が盛んとなり、中国の絹商人は繭の増産のため、温暖な日本列島に華南種の蚕ポンピックスモリを持ち込み、荒地を開墾し桑畑の耕作地とし、日本列島は絹の生産地とされていったのです。この異民族渡来と、三世紀から始まる巨大古墳の築造とが時代的に重なるのです。この頃を、藤原日本史では、弥生時代といっているのです。巨大古墳築造の北限が、岩手県以南であることは、蚕の飼育と関係があったからです。
そのように、日本列島は、古来から絹製品の産地であったのです。戦国時代のイエズス会の渡来は、ポルトガルとイスパニアが日本列島の石見銀山の銀簒奪が目的であったのですが、江戸時代中期から、鎖国の日本国へ通商を求めた諸外国の目的のひとつが、絹製品であったのです。1600年設立のイギリス東インド会社も、その交易品のひとつが絹製品であったのです。
1600年インドのムガール帝国(1858年イギリス領となる。)に設立されたイギリス東インド会社は、インドで仕入れたアヘンを、明帝国に持ち込み、絹製品を手に入れていたのです。
そのインドから清帝国への交易拠点は、イエズス会が極東侵略の拠点としていた、マカオです。1808年イギリス軍艦は、マカオを攻撃して、そこを占拠したのです。このマカオから、1853年フリーメーソン会員がデザインした1ドル紙幣と「自由・平等・博愛」のスローガンと供に、アメリカ使節のペリー艦隊が浦賀に渡来するのです。
細々とおこなわれていたこの明帝国(1368年〜1662年)とのアヘン・絹交易は、1840年イギリス王国と清帝国(1616年〜1912年)との戦争につながっていくのです。これがアヘン戦争(1840年〜1842年)です。このアヘン戦争により、清帝国での絹製品生産がガタ減りとなってしまったのです。
そこで、イギリス東インド会社が目に付けたのが、古来から中国の下請けで絹製品を生産していた、鎖国の日本国であったのです。1849年イギリス船は、交易を求めて長崎に渡来するのです。この頃、フランスもロシアも、通商を求めて日本列島に来航するのです。しかし、幕府はこれを拒否するのです。
そこで、1853年、イギリス東インド会社の極東侵略基地であるマカオから、米使ペリーが四隻(二隻は帆船)の軍艦により軍事武力の威圧を示して、浦賀に来航し、通商を幕府に求めたのです。それに対して、幕府は開国の可否を諸侯有司に問うのです。そこで、幕府内では攘夷論派と開港論派との激論が戦わされていくのです。
それを仕切るのが、ペリーの来航のストレスで亡くなった徳川家慶の跡を継いだ、第十三代目将軍徳川家定です。徳川家定は、アテトーゼ・タイプの脳性麻痺の兆候があり、「なにごとにつけても理解が足りず、こと異国船のことなど一切おわかり」でなかったのです。
1856年(安政3年)開港論派の外様大名の薩摩藩主島津斉彬は、正室をなくした徳川家定に、養女敬子(すみこ、後の篤姫)を御台所として送り込むのです。しかし、徳川家定は、重い脚気を患い結婚生活をいとなむドコロではなかったのです。そして、1858年(安政5年)、急性心筋障害で35歳の徳川家定は亡くなるのです。
このことは、藤原氏により乳母として徳川家に送り込まれた春日局(お福)による、徳川家康毒殺と共通点があるようです。それは、島津斉彬は、鎌倉時代から藤原氏と姻戚であったからです。
この島津家の養女を近衛家(藤原氏本流)の養女とし、江戸幕府将軍に嫁がす戦略は、第十一代目将軍徳川家斉の時でもおこなわれていたのです。その戦術は、島津家の於篤(おあつ、後の茂姫)を近衛家の養女寔子(ただこ、後の茂姫)とし、第十一代目将軍徳川家斉に入内させていたのです。この徳川家斉の時代に、初代徳川家康の、騎馬民族の血が流れる紀伊・尾張・水戸の御三家が、百済の血が流れる田安・一橋・清水の御三卿に代わってしまったのです。
そして、幕府の倒壊は、その御三家の支配地であった水戸の浪士による井伊直弼の桜田門の変(1860年)と尾張のええじゃないか運動(1867年)とから始まるのです。
時代の変革時に必ず現れるのが藤原氏です。江戸時代末期、南九州薩摩藩に隠棲する藤原氏(近衛家)は、琉球王国を支配地としていたのです。そこで、南海交易の密貿易をおこなっていたのです。藤原氏は、日本産の絹を輸出するために、幕府の鎖国擁護派を解体したかったのです。
藤原氏の祖である中臣族(中→ナカ→ナーガ→ヘビ)は、四世紀頃、南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来した民族で、奈良時代にユダヤ教儀式に酷似した中臣神道を発明した部族であったのです。その南海交易ルートにより、古来から南インド産出の沈香や香木を日本列島に持ち込んでいたのです。戦国時代では、火薬の原料の硝石や鉄砲を、その南海ルートから琉球→坊津→種子島→紀伊半島→雑賀→根来寺→本能寺へ密輸していたのです。
その藤原氏の南海ルートのひとつである琉球に、1844年リヨンの絹生産工場が求める繭を入手する目的でフランス船が来航し、そのことにより、薩摩藩はフランスと交易を始めたのです。
イギリス船やフランス船の来航は、1784年オランダ人医師ツンベルクが「日本植物志」を著し、日本列島の植物分布を調べていたことが遠縁となっていたのです。それは、江戸時代中期の日本列島に、シルクロードがあったからです。その日本版シルクロードとは、桐生→八王子→横浜であったのです。
1853年米使ペリーが、イギリスの極東侵略基地マカオから浦賀に来航したのは偶然ではなく、伊能忠敬の日本全図により、桐生・八王子で産出される絹製品を、江戸幕府に悟られずにイギリスに運び出すには、最適な港であると知ったからです。
1856年米総領事ハリスが下田に在住すると、まもなくして横浜の港町に赤レンガの倉庫群が建設されていくのです。それは、桐生・八王子から産出される絹製品を、秘密裏に海外に持ち出すためだったのです。
1775年イギリス王国とのアメリカ合衆国独立戦争の勃発により、1776年独立軍はアメリカ十三州の独立宣言をおこない、1777年サラトガの戦いと続いていくのですが、そのイギリス王国との戦闘に終止符を打ったのは、1778年アメリカ・フランス同盟条約が締結されてからです。このことは、江戸末期の明治革命での、1866年密貿易で犬猿の仲の薩摩藩と長州藩との同盟を連想させます。
その影には、アメリカのフリーメーソン・ロッジとフランスの「九詩神のロッジ」の存在があったのです。その仲を取り持ったのが、アメリカフリーメーソンのベンジャミン・フランクリンであったのです。では、日本国の明治革命では、薩摩藩と長州藩との軍事同盟の仲介したのは誰だったのでしょうか。坂本竜馬と答えると、それは藤原日本史の罠にかかったことになります。
1864年蕃書調所(後に東京大学となる。)の幕府役人西周(にしあまね)は、オランダの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ」で、「徒弟」「職人」として承認されたのです。その一ヵ月後、津田真道もフリーメーソンとして記録されたのです。
1862年江戸幕府は、蕃所調所の西周と津田真道を、西洋の政治・法律・経済を研究するためにオランダに留学させたのです。その指導にあたったのがライデン大学のフィセリング教授で、勿論フリーメーソンの会員だったのです。
1716年イギリス王国で成立したフリーメーソン組織により、十九世紀の世界では、「自由・平等・博愛」のスローガンの下で、「十三部族による新しい秩序に同意せよ。」とのミッションにより、放蕩貴族、国際金融家、医師、弁護士、教授、富豪商人などの上層階級フリーメーソン会員で繋がっていたのです。その最終目的は、「ワン・ワールド」です。
幕末の長崎出島に多く渡来したのがオランダの医師(ツンベルグ・シーボルト等)であったのは、蘭学塾で「ワン・ワールド」のために働く「兵隊」を養成するためだったのです。
その西周が、オランダでフリーメーソンの儀式で入会をおこなっていた頃、1864年イギリス陸軍第二十連隊の分遺隊が、横浜に駐屯し、アイルランド系の「軍事ロッジ」である「スフィンクス・ロッジ」が開設されるのです。その翌年1865年イギリスのグランド・ロッジの傘下として、「ヨコハマ・ロッジ・N0.1092」が開設されるのです。しかし、それらの各横浜ロッジでは、日本人の加入は許されなかったのです。
幕府側のオランダフリーメーソンと、その幕府を倒すために進駐した「軍事ロッジ」のイギリスフリーメーソンとが情報を秘密裏に交換することにより、明治革命が進行するのです。
明治革命が薩長土肥の「シシ・河原者」(「志士」は藤原日本史が発明)だけでおこなわれたのではないのは、西郷隆盛が江戸総攻撃をおこなう前、東海道先鋒総督参謀の長州藩士木梨清一郎と大村藩士渡邊昇は、フリーメーソンのロッジがある横浜のイギリス公使パークス(1856年アロー号事件により清帝国を戦争に導いた人物)を、江戸総攻撃の許しを得るために訪れていたのです。
しかし、幕府側の勝海舟が、もし、江戸を攻撃したら江戸も横浜も火の海にするという脅しをかけていたので、横浜で絹製品を保管している赤レンガ倉庫群を焼かれては困るイギリス東インド会社は、パークスに江戸総攻撃を中止させたのです。つまり、西郷隆盛と勝海舟との「江戸無血開城」の裏には、横浜のイギリス商人の思惑があったのです。
藤原日本史の特徴は、渡来民族や外国軍団の渡来を一切語らないことです。そして、日本列島の歴史の流れを、日本人のみで語っていることです。更に、渡来人も日本人として改竄して語っていることです。
例えば、飛鳥ヤマト時代の607年遣隋使ソ・インコウ(「ソ」とは、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅(秦羅)のこと。)を「小野妹子」としたり、戦国時代にイエズス会宣教師と供に渡来した、砲撃の名手でイタリア人の十字軍マルタ騎士団のロルテスを「山科勝成」として語っていることです。
幕末の外国軍団の渡来は、イギリス軍だけではなかったのです。イギリス王国の海賊交易に対抗してフランス帝国も軍団を送り込んでいたのです。1867年シャノアーヌ以下19名の軍事顧問団が、横浜でフランス式陸軍の三兵伝習を始めたのです。勿論、革命軍側のイギリス軍事顧問団に対抗して、フランス軍事顧問団を招いたのは江戸幕府です。
明治革命とは、イギリス軍顧問とフランス軍顧問との戦いでもあったのです。1868年(明治元年)鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れた幕府軍の榎本武揚は、フランス軍事顧問のブリュネ、カズヌーブと、兵士のマルラン、フォルタン、ビーフィ、ニコル、コラシュ、クラトー、ブジェ、トリブ等と供に、函館に五稜郭を建設して、明治新政府からの独立を宣言したのです。しかし、1869年5月18日五稜郭は、イギリス軍事顧問率いる、薩長土肥による明治革命軍の総攻撃により陥落したのです。
では、この明治革命とは、一体、誰により、何を目的に、どのようにしておこなわれたのでしょうか。
歴史物語は、目的を持って昔物語を語るひとにより、異なります。ですから、百人いれば、百の歴史物語が生まれるのです。しかし、権力を握ったひとは、その権力者に都合の悪い歴史は、抹殺、或いは改竄するのが常です。
例えば、徳川家康が、弾左衛門一族の土木技術により、関東の湿地帯を開拓してエド町を造り、そのため、弾左衛門の居住地は、エド城の近く(現在の三越デパートのある日本橋室町近辺)にあったものが、第三代目将軍徳川家光の時代になると、その弾左衛門の居住地が、浅草寺裏の湿地帯に移封され、堀を廻らされ、更に仏寺で囲まれたのです。そして、その弾左衛門の居住地跡に、京都に本店のある越後屋が呉服店をだすのです。
第三代目将軍徳川家光の時代から、弾左衛門屋敷跡の日本橋界隈が、京都・大阪などの関西人の商売人が多く住んだのはなぜでしょう。そして、弾左衛門支配地であった人形町界隈に、京都で発明された歌舞伎の演劇小屋が建てられたのはなぜでしょう。何故、風俗芸である女歌舞伎が、霊を鎮める能芸の神聖な能舞台でおこなわれたのでしょうか。
江戸時代の歴史・風俗がよく分からないのは、明治新政府が、明治の支配者に不都合な江戸時代の歴史を抹殺、或いは改竄していたからです。
歴史の謎は、権力者により抹殺された歴史物語に、その解明のヒントが隠れているようです。江戸末期から明治維新にかけての謎も、その例に漏れません。
明治維新物語の謎を解く鍵のひとつとして考えられるのが、株式会社日本銀行(以降「日銀」)です。日銀は、1882年(明治15年)設立されたのです。その目的は、イギリス王国のイングランド銀行が、フランスとイスパニアと戦うための戦費を集めるために1694年設立されたように、日銀が設立されると、1894年日清戦争、そして、1904年日露戦争が勃発するのです。
そこで、日銀による日清・日露戦争の歴史を調べようとしても、1997年6月11日改正日本銀行法が参議院本会議で成立し、1998年施行され、日銀は国会の議員により日銀の行動不明な歴史を追求できないパンドラの箱に収まってしまったのです。
平成18年、日銀総裁(前歴は国際金融組織である米投資会社ゴールドマン・サックス顧問)が、脱税の天国であるケイマン島に本社を持つファンドに投資していたのが発覚したのです。しかし、マスコミは騒がず、野党も政府も追及できず、ノラリクラリ弁明する総裁は任期イッパイ、ゼロ金利を維持するお仕事に励んでいたのです。その結果が、平成19年アメリカ合衆国のサブプライムローンの破綻に繋がったのです。
それは、国際金融組織が、ただ同然の金利で借りた日本国のお金で、諸外国の金融商品を買い漁り、不当に金融商品を吊り上げた結果であったのです。では、日銀は、日本人のためではなく、誰のための金融組織なのでしょうか。この平成20年の全世界を巻き込んだ国際金融の混乱は、ある組織により計画された「事件」で、それは、「ワン・ワールド」への道程のひとつなのです。
しかし、不可思議な行動をする日銀の謎解明の手掛かりはあるのです。それは、初代日銀総裁の吉原重俊の出身が鹿児島県(江戸時代の薩摩藩)であることと、2005年の日銀の資本金一億円の内、政府が55%、残り45%が政府以外の株主であることです。その政府以外の株主構成は、個人39.2%、金融機関2.7%、公共団体等0.3%、証券会社0.1%、そして、その他の法人2.7%であることです。
犬猿の仲である薩摩藩と長州藩が、倒幕で軍事同盟を結んだのも謎ですが、明治革命後の、明治革命成功の功労者であった官軍指揮官の西郷隆盛と、イギリス王国より買い入れた最新式銃で武装した、切り込み部隊としての長州藩の奇兵隊とが、明治新政府から手酷い仕打ちを受けたのも謎です。つまり、明治革命の勝者である「西郷隆盛」と「奇兵隊」は、歴史上敗者であったのです。
日銀の39.2%を握る「個人株主」とは、一体誰なのでしょうか。勿論、株主名簿に記載されている複数人は、外国人の代理人であることは、大いに疑えます。それは、明治維新には、イギリス東インド会社の思惑があったからです。そこで、そのような視点で、幕末から明治維新を、もう一度ながめることにしましょう。
1641年第三代目将軍徳川家光により、鎖国が完成すると、日本列島はひと時の平安を貪るのです。1768年内宮と外宮の間にある古市の遊郭巡りを兼ねて、神仏習合の伊勢のお蔭詣りが流行するほど、天下泰平であったのです。しかし、1771年不凍港を求めるロシア帝国の船が阿波に漂着すると、江戸幕府は平安な夢心地から覚醒させられるのです。
そして、1783年浅間山の噴火により、農作物の被害が広がり、天明の大飢饉が、1788年まで続くのです。その結果、米価が高騰し、江戸・大阪で、天明の打ちこわしが起こるのです。混乱の時代は、新しい思想の登場求めます。それが、漢訳仏教思想に替わる、蘭学と国学です。
漢訳仏教思想は、民間の富永仲基や禅宗の白隠禅師からも、その思想の空虚さを指摘されるほど、江戸中期では衰退していたのです。それに対して、蘭学は、ツンベルグなどの蘭学医師などが、西洋の合理的・科学的思想を庶民の子弟に教授したため、外国文明に憧憬を持つ若者のこころを惹きつけたのです。その結果、1785年には日蘭辞典が発刊されていたのです。
それに対して、漢訳仏教の基である中華思想と、日本文化を破壊すると信じた蘭学に不快感を示すひと達が現れたのです。1763年万葉考を研究する賀茂真淵を本居宣長が訪れ、日本古来の思想を求める国学の興隆が芽生えていくのです。その国学者達は、漢語と異なり、飛鳥ヤマトで語られた万葉語は、日本古来の「まほろばの言葉」であると信じていくのです。
しかし、平安中期に完成した、その飛鳥ヤマトの「万葉語」とは、漢字を使った「表音文字」で、その祖は、アルファベット文字の流れにあったギリシャ・ローマ文化国の「古代新羅語」であったのです。
漢語を知らない古代新羅では、「表音文字」の道具として「漢字」を使っていたのです。それは、古代新羅は、ギリシャ文化継承国バクトリアから歴史の流れに沿っての渡来軍事部族により支配されていたからです。ですから、四世紀から漢訳仏教文化国の高句麗や百済が漢語を巧みに使い、中国大陸諸国と通商をおこなっていたのに対し、528年まで仏教文化国ではないため漢語を知らない古代新羅は、百済の通訳使を雇い、中国大陸諸国と通商をおこなっていたのです。
漢語で記述された「日本書紀」を嫌う本居宣長は、万葉語で記述された「古事記」の世界を「日本の原風景」として信じてしまったのです。しかし、「古事記」は、「日本書紀」の後に記述されていたのです。「古事記」は、完全な日本版万葉語で著述されていることから、奈良時代の712年完成ではないのです。それは、日本版万葉語が完成したのは、平安時代初期であったからです。
神仏習合の江戸時代で、この「古事記伝」を語る国学者により、日本古来のカミ(神)は、中国から渡来した仏などではなく、天照大神であると信じられていくのです。その国学思想は、南九州に隠棲する藤原氏には都合の良い思想であったのです。
それは、天照大神とは、日本国初の天皇である天武天皇(藤原氏は、「日本書紀」により、日本初の天皇を「神武天皇」とした。そのウソを隠すために、藤原氏は、江戸時代末期から明治革命にかけて神武天皇稜を創作していたのです。)により祀られた伊勢の道観に鎮座する神である北極星(太一)を、唐進駐軍の後ろ盾を得た藤原氏全盛の奈良時代に、秦氏の神である太陽神ミトラを変身させた、藤原氏が発明した「人工神」であったからです。
そのような国学思想が語られる時代に、ロシア船だけではなく、西洋諸国が開国を求めて来航するのです。この諸外国の軍艦による威圧外交を不快に思う若者が、国学思想に傾倒していくのです。そこで、国防となるのですが、第三代目将軍徳川家光時代から、「武士」ではなく、「サムライ」が支配する時代となり、更に、京都から江戸に来た歌舞伎演劇などの芝居で演じられた「武士」の日本刀による立ち回りにより、幕末には、「武士」の戦いは、「日本刀」でおこなっていたと信じられたため、国防に燃える若者により、道場での「剣道」が流行るのです。
江戸時代初期の「武士」の時代の道場で教えていたのは、剣道ではなく、槍術であったのです。1543年銃が渡来する前の「武士」の実戦的武器は、「日本刀」なのではなく、弓馬、そして、槍であったのです。
1651年紺屋の倅である由比正雪が乱を起こし、「武士」が「サムライ」により抹殺されたのですが、その「武士」である由比正雪が経営していた道場では、「剣術」ではなく、「槍術」を伝授していたのです。
「武士」の魂である「日本刀」は、実践的武器などではなく、神聖な武器で、敵将の首を落とすためのものであったのです。その「武士」が、「日本刀」での戦闘訓練などすることはありえなかったのです。
例えば、地上戦で、「直刀」の武人と、「反りのある日本刀」の武人とが対峙し、同時に刀を振り下ろした時、どちらの武人の刀が先に切れるかを想像すれば、日本刀が地上戦での実用的武器ではないことが理解できるでしょう。鎌倉時代に渡来した禅宗組織は、鎌倉の砂鉄で鍛造された日本刀を「美術品」として南宋に輸出していたのです。
日本刀は、騎馬民族の武器である、反りのある蕨手刀を改良して、平安中期に創作された、怨霊を鎮めるための祭祀用の武器であったのです。ですから、その日本刀は、政権の秩序を乱す国賊の断罪のための斬首の儀式に用いられていたのです。公開処刑は、現政権の威光を示すパフォーマンスであるから、庶民の集まる広場で、古来からおこなわれていたのです。その処刑での斬首をおこなう者は、誰でもよいわけではなく、代々の処刑祭祀氏族でなければならなかったのです。
江戸時代以前に、徳川家康が、大阪の役人村から、エドに移住させた一団には、処刑祭祀氏族がいたのです。その処刑での斬首のパフォーマンスは、1880年(明治13年)に制定された刑法により「斬」から「絞首刑」に替えられてしまったのです。その祭祀用である日本刀での斬首をおこなっていたのが、首切り浅右衛門一族であったのです。
幕末の「国賊」吉田松陰の首を、長吏頭弾左衛門の支配地の処刑場の小塚原で日本刀で切ったのも、浅右衛門であったのです。この「国賊」の吉田松陰は、1859年穢多の支配地で斬首され、穢れ地に犯罪者と供に埋葬されたのですが、それから9年後の、1868年の明治革命での先駆者として「英雄」として尊敬されていくのです。何故、この9年の間に、「国賊」から「英雄」に変身していたのでしょうか。では、吉田松陰が斬首された後の9年間に何があったのかを考えてみましょう。

1858年(安政5年)■インドのムガール帝国セポイの反乱により「イギリス東インド会社(イギリス王国承認の私的合資組合)廃止」→商社として生き残る、英のインド直轄統治が始まりムガール帝国滅ぶ→英極東への本格的海賊交易始まる。
1859年(安政6年)越前藩・薩摩藩・土佐藩・宇和島藩・水戸藩の改革派である一橋派に対して井伊直弼による「安政の大獄」で大虐殺、吉田松陰斬首、プロテスタントの伝来、横浜にイギリス東インド会社の流れを組むジャーディン・マセソン商会設立、グラバー来日。
1860年(万延1年)桜田門の変で井伊直弼客死、老中安藤信正等が公武合体を策す、米語通訳オランダ人ヒュースケン暗殺、オランダ製咸臨丸浦賀からサンフランシスコに向い米大統領ジェームス・ブキャナンに謁見後9月品川沖に到着、艦長は軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎、幕府「五品江戸廻令」で輸出品の統制をおこなう→上州・武州「絹裏街道」の発達(■英仏通商条約、英仏連合軍が清帝国の北京占領、英仏・ロシアと清帝国が南京条約を結ぶ、その後、清帝国内で1850年に始まった太平天国の乱が1864年まで続き国内荒廃する→★絹生産大激減)
1861年(文久1年)長州藩士長井雅楽が公武合体の議を建白(何故か後に藩論が一変する)、英公使館(東禅寺)襲撃、ロシア船が対馬侵寇、孝明天皇が幕府による攘夷実行誓約を条件に第十四代目将軍徳川家茂夫人として妹和宮降嫁。(■露農奴解放宣言、米南北戦争始まる)
1862年(文久2年)坂下門外の変で老中安藤信正襲われる→攘夷運動突入、島津久光が公武調停を企図、寺田屋騒動、生麦事件、京都守護職を置く、孝明天皇の朝議が攘夷に決する、薩摩藩の暗躍により朝廷の後ろ盾を得て安政の大獄で失脚した一橋慶喜(後の第十五代目将軍徳川慶喜)が将軍後見職として復帰、幕府貿易船千歳丸上海訪問、千歳丸乗員者は高杉晋作(長州藩)五代友厚(薩摩藩)中牟田倉之助(佐賀藩)峰源蔵(大村藩)、英公使館(御殿山)焼討ち、長州藩吉田松陰の遺骸を千住小塚原から荏原郡若林村に改葬→罪人から尊皇攘夷の精神的シンボルへ変身。(■仏サイゴン条約でコーチシナ占有、ロンドン万国博覧会)
1863年(文久3年)徳川家茂上洛、攘夷論最高潮、5月長州藩が外国船砲撃(★瀬戸内海が封鎖され横浜からの絹製品輸出困難)、7月薩摩英国戦争、8月18日の政変で攘夷論者失脚し七卿は都落ちし長州藩に滞在、長州藩公武合体論から尊皇攘夷論に転換、天誅組の変。(■仏カンボジアを保護国とする)
1864年(元治1年)池田屋騒動、藤田小四郎等が挙兵、7月蛤御門の変→長州藩朝敵、8月瀬戸内海封鎖を解くため清帝国で太平天国の乱に勝利した英仏米+露の四国艦隊が下関砲撃、第一回長州征討、イギリス陸軍第二十連隊の分遣隊横浜に駐屯、軍事フリーメーソン「スフィンクス・ロッジ」開設、11月長州藩謝罪、仏公使レオン・ロッシュ着任。
1865年(慶応1年)4月長州再征を令す、イギリス商社により綿製品の輸入激増、そのため物価が高騰し摂津や隠岐で打壊しが起こる、イギリスフリーメーソンのグランドロッジ傘下の「ヨコハマ・ロッジNo.1092」開設。(■米南北戦争終わる→英武器輸出激減→英ジャーディン・マセソン商会の傘下であるグラバー商会が薩摩・長州に武器セールス)
1866年(慶応2年)1月薩長連合の盟約成る、6月長州再征、7月徳川家茂21歳大阪城で心筋梗塞で死去(暗殺説あり)、徳川慶喜が第十五代目最後の江戸幕府将軍となる、長州再征軍を解く、江戸と大阪で同時に打壊し運動起こる。(■大西洋横断海底電線敷設、朝鮮でキリスト教大弾圧、仏艦隊が朝鮮江華島攻撃)
1867年(慶応3年)攘夷論者の孝明天皇死去(暗殺説あり)し明治天皇(天皇すり替え説あり)即位、名古屋でええじゃないか運動が起こり全国に波及、10月14日倒幕の密勅が薩摩藩に下る、徳川慶喜が大政奉還を乞うことにより江戸幕府滅ぶ、12月9日王政復古の大号令。(■マライ海峡植民地が英直轄地となる、パリ万国博覧会)
1868(明治1年)明治維新、鳥羽伏見の戦い、江戸城明け渡し、神祇官の設置、神仏分離令、廃仏毀釈運動起こる、五箇条のご誓文、一世一元の制、江戸を東京と改称。
1869年(明治2年)版籍奉還、東京横浜間電信開通、戊辰戦争終わる。

江戸末期から明治革命にかけての日本の歴史には、イギリスなどの外国勢力が大いに影響を与えていたのです。その中でも、イギリスの商社の影響力は大です。そのイギリス商社からの武器・弾薬供給の働きがなければ、圧倒的に兵隊数が幕府軍より少ない薩摩・長州連合軍は、明治革命に勝利できなかったでしょう。
江戸末期の道場で、「もののふ」である「武士」の歴史的意味を知らない「サムライ」の子孫達による「剣術」で武闘訓練していた幕府軍団と、清帝国内で太平天国の戦乱(1850年〜1864年、1864年下関を砲撃したのは太平天国軍団を壊滅した英仏米+露海軍)を勝利していたイギリス軍事顧問により軍事訓練され、アメリカ南北戦争で使用されていた銃と射程距離3千mのキャノン砲を装備した薩摩・長州軍とでは「戦」にもならなかったのです。
それらの最新式武器を薩摩・長州連合軍に供給していたのが、ジャーディン・マセソン商会の傘下の長崎「グラバー商会」であったのです。1859年来日した20歳台のグラバー商会の支配人トーマス・ブレーク・グラバーは、明治革命で活躍した、五代友厚(薩摩藩)、伊藤博文(長州藩)、坂本竜馬(土佐藩・グラバーのダミー会社の海援隊支配人)、岩崎弥太郎(後の三菱財団長)などを裏で支援、育成していたのです。
明治革命を裏で駆っていたジャーディン・マセソン商会は、1832年イギリス東インド会社(イギリス王国認定の私的合資組合)の元船医師ウイリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンとにより、中国広州に設立されたのです。
1842年アヘン戦争に勝利したイギリス帝国は、香港を植民地にすると、ジャーディン・マセソン商会も、本社を広州から香港に移すのです。その主な業務は、茶とアヘンの密輸です。そして、その事業で得た金をイギリス本国へ送金するために香港上海銀行を設立するのです。
アヘン戦争後荒廃した清帝国では、茶の生産も、ヨーロッパで需要がある絹製品の生産も激減してしまうのです。そこでイギリス帝国が目に付けたのが、極東の小島列島の日本であったのです。
このころの日本列島は、イエズス会か渡来した戦国時代に似て、騎馬民族の初代将軍徳川家康忠臣の流れを汲む井伊直弼が、第三百済王朝を支える藤原氏(薩摩藩の近衛家)と亡命百済貴族末裔の徳川御三卿の一橋家の流れにある氏族をイジメていた「安政大獄の時代」(騎馬民族末裔の開明派と漢訳仏教勢力の攘夷派対立時代)であったのです。その安政の大獄の、1859年イギリス東インド会社の流れを組むジャーディン・マセソン商会は、横浜に設立されたのです。
藤原日本史では、明治革命を日本人による日本人のための革命であると宣伝し、坂本竜馬なる人物を明治維新の英雄として描いているのですが、そのように、江戸末期にはイギリス東インド会社の流れを汲む死の商人達が渡来していたのです。
そして、藤原日本史では、吉田松陰を斬首した安政の大獄を、江戸幕府内での、ただの井伊直弼の政策反対者の弾圧劇として描いているようですが、その実態は、騎馬民族の流れを汲む徳川家康の「御三家」と、亡命百済貴族末裔である徳川家光の「御三卿」との覇権争いであったのです。
江戸時代も末期にもなると、庶民は徳川家康の騎馬民族系と徳川家光の亡命百済貴族系の二つの流れがあることを、「武士」と「サムライ」との違いが分からないように、理解できなくなっていたのです。
第三代目将軍徳川家光から始まる第三百済王朝で、騎馬民族末裔の秦氏や武士は、その第三百済王朝の手先となった漢訳仏教思想により、賎民「穢多」、「俘囚の末裔」として貶められ、そして、その第三百済王朝の「サムライ」支配の江戸幕府組織から追放された「武士」は野に下り、「武士は食わねど高楊枝」などと、武士道の自尊心を失わずに野武士として渡世していたのです。
その第三百済王朝の江戸幕府が、1853年ペリー艦隊の来航により、揺れ動いたのです。その時期を逃さず徳川家康忠臣の流れを汲む御三家側の井伊直弼は、亡命百済末裔の御三卿派抹殺を企てたのです。それを、藤原日本史では、開国に反対した攘夷論派の水戸浪士による井伊直弼暗殺で「安政の大獄物語」を完結させてしまったのです。
そもそも尊皇攘夷のスローガンは、1866年薩長同盟以前では、流行っていなかったのです。その尊皇攘夷とは、元来別物で、尊皇とは天皇を敬い護ることです。攘夷とは外国人を打ち払うことです。
明治革命の尖兵となった薩摩藩と長州藩の「下級武士=シシ=賎民」(「志士」は藤原日本史の造語)と云われる者達の多くは、「サムライ」の末裔ではなく、「武士」の末裔だったのです。その武士とは秦氏を祖としているので、百済系孝明天皇などは護る対象ではなかったのです。
1877年西南の役で抹殺された西郷隆盛なども、孝明天皇を「ぎょく・玉」と蔑んで呼んでいたのです。何故、秦氏末裔は百済系天皇家を蔑むかといえば、それは、平安時代から江戸末期まで続く百済系天皇家では、錬金術師空海が、インドの騎馬民族差別のバラモン教思想を基に発明した真言密教のダキニ呪法により儀式をおこなっていたからです。
北条鎌倉時代の第二百済王朝で、騎馬民族系の秦氏末裔が賎民「穢多」と蔑まされた原因の基は、その錬金術師空海が、唐国から持ち込んだ思想の、「施陀羅悪人ナリ」(肉食する騎馬民族は悪人だ。)であったからです。
そのような騎馬民族を差別する空海が発明した真言密教で祀られた百済系天皇は、幕末の秦氏末裔にとって尊皇の対象ではなかったのです。平安時代から江戸末期まで、百済系天皇家では、藤原氏が奈良時代に発明したユダヤ教儀式に酷似した神道儀式ではなく、秦氏末裔を「穢多」の賎民としてイジメていた仏教儀式で政(まつりごと)をおこなっていたのです。
では、現在の天皇家では、神道(7世紀に藤原氏の祖中臣族が発明)で儀式がおこなわれているではないか、と言っても、それは、明治天皇がおこなった十三の神道による朝廷儀式の十二の古代風儀式は、飛鳥ヤマト時代からのものではなく、1868年明治革命で復活した藤原氏(薩摩藩の近衛家)により、江戸時代中期から明治革命直前にかけて発明された「古代風」儀式であったのです。
何故、江戸末期の秦氏末裔は、孝明天皇を敬っていないのかと言えば、それは、百済亡命貴族が、新羅系の日本初の天皇であった「天武天皇」家を、唐進駐軍の後ろ盾を得た、平安遷都をした百済系桓武天皇が乗っ取ったことを、秦氏末裔が伝承していたからです。
ですから、平安時代から幕末まで続く百済系天皇家では、天武天皇が道教思想で北極星(太一)を祀っていた伊勢の祠跡に、藤原氏により創作された天照大神を祀る伊勢神宮には、孝明天皇まで正式参拝していなかったのです。百済系天皇で正式参拝したのは、明治天皇からなのです。
では何故、薩長同盟を契機として尊皇攘夷思想が、薩摩藩・長州藩のシシ達に受け入れられたのでしょうか。その影響力を発したひとりが、長州藩の高杉晋作です。
高杉晋作は、吉田松陰の弟子で、師吉田松陰が唱えた、幕府の開国政策を非難し、朝廷の権威の確立と攘夷断行を唱え英公使館(御殿山)を焼討ちしたテロリストであったのが、1862年(文久2年)一橋慶喜が幕府高官として返り咲いた後、幕府貿易船千歳丸で上海(ジャーディン・マセソンやサッスーンの商館がある英仏の租界地)を訪問した後、師吉田松陰の遺骸を千住小塚原から荏原郡若林村に改葬し、罪人吉田松陰から「尊皇攘夷の精神的シンボル」へと変身させていたのです。
そして、1863年長州藩が、異国人嫌いの孝明天皇が唱える攘夷熱に浮されて、横浜港から絹製品を満載した英仏の貿易船に砲撃をした結果、翌年1864年清帝国の太平天国の乱を武力で鎮めた英仏米と露戦艦の下関砲撃により、長州藩を支配していた「サムライ」達が一掃されると、高杉晋作は、「サムライ」を主体とした長州藩正規軍ではなく、最新式武器で武装した賎民軍団を組織するのです。それが「奇兵隊」です。勿論、高杉晋作には、上海に貿易拠点を持つ死の商人ジャーディン・マセソン商会傘下のグラバー商会の影があったのです。
藤原日本史による明治革命物語がよく理解できないのは、何故、幕府の開国政策を非難していた攘夷論者の吉田松陰が、明治革命のシンボルになったのかということです。そして、敵側の江戸幕府将軍であった第十五代目将軍徳川慶喜と江戸幕府海軍指揮官の勝海舟とその部下の榎本武揚が、明治革命軍に敗れた後、断罪もなく生き延びただけではなく、勝海舟や榎本武揚などは、敵側である明治新政府の高官として働いていることです。これには、福沢諭吉も疑義を唱えていたほどです。
その、明治革命の謎は、吉田松陰が斬首されてから「9年間」にあるのです。その「9年間」の謎を解く鍵は、英公使パークスの行動にあったのです。イギリス王国(東インド会社)は何を目的に、1856年から1860年まで続いた、清帝国との、アロー号戦争を画策したパークスを、日本国への英公使として送り込んできたのでしょうか。
イギリス王国と言うよりも、イギリスを金融で支配する国際金融組織(第十三部族)は、極東の小島列島の日本国を支配下に置くことの目的のひとつが、ロシア帝国の壊滅だったのです。
1547年イヴァン4世は、全ロシアのツアールと宣言することで、ロシア帝国が誕生したのです。しかし、イヴァン4世は、カスピ海沿岸に暮らす、8世紀にユダヤ教に改宗したカザール国の住民であった、第十三部族の白系ユダヤ人を虐げていたのです。
ロシア人の祖は、ローマ帝国からスラヴ人と呼ばれていたのです。スラヴとは、奴隷の意味です。ですから、スラヴであるロシア人は、ローマ帝国には、好意的ではなかったのです。
862年にルーリックのノヴゴロド王国から興ったと伝承されるロシアは、395年東西ローマ帝国に分裂した、東ローマ帝国文化を継承し、更に、十世紀頃には、ロシア人の多くはギリシャ正教に帰依していたのです。そして、1589年には、ギリシャ正教から民族色の強いロシア正教が独立して、ロシア総主教座が創設されたのです。
392年「ヨシュアはメシア」(ギリシャ語で、イエス・キリスト)と唱えるユダヤ教ヨシュア派がローマ帝国の国教ローマ・キリスト教となったのですが、そのローマ・キリスト教の祖とは、ユダヤ教ヨシュア派とミトラ教との教義を改竄したものであったのです。
ですから、その東ローマ帝国のキリスト教文化と袂を分かったロシア正教は、カスピ海沿岸に暮す、8世紀にユダヤ教に改宗していた第十三部族の白系ユダヤ人を迫害していたのです。そして、そのロシア正教を国教とするロシア帝国内では、東ローマ帝国で国際金融業者として活躍していた第十三部族の国際交易商人が排除されていたのです。
第十三部族の祖は、紀元一世紀から中国とローマとの絹交易中継をおこなっていた、国際交易商人国カザールであったので、十九世紀には、各国の金融を支配していたのです。その例外が、スラヴ人のロシア帝国であったのです。
イギリス王国の金融を支配していた第十三部族の目的のひとつは、同族民をイジメるロシア帝国の壊滅であったのです。そのために、イギリス軍が手先となって使われていたのです。
明治革命が、イギリス東インド会社の思惑で実行された根拠のひとつとして、1904年の日露戦争があります。この戦争は、1902年日英同盟が成立すると、イギリスは、軍事費の工面から、軍艦の工面だけではなく、日露戦争の勝敗を決めた日本海海戦(対馬沖海戦)での戦闘の指揮までおこなっていたのです。その日本海海戦で、日本軍艦船で指揮をとっていたのが、イギリス武官である、アーネスト・トロウブリッジ、ウィリアム・パッケンハイム、ジャクソン、ハッチン等であったのです。
その日露戦争の戦費を工面したのが、イギリス東インド会社の流れを汲む第十三部族の商社であったのです。その商社により、1882年株式会社日本銀行が創設されていたのです。そして、その株式会社日本銀行創設には、明治革命の「9年間の謎」が繋がるのです。
1863年長州藩は、異国人嫌いの孝明天皇の攘夷熱に浮かされて、横浜から絹製品を満載した英仏の交易船を下関から砲撃するのです。その頃、横浜からイギリスに向け船出をした者がいたのです。それらは、長州藩の開国派の、伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹輔、山尾庸三であったのです。
この英仏船を攻撃する攘夷行動とイギリス留学との矛盾する長州藩の行動は、何を意味するのでしょうか。この「長州ファイブ」(五人組)の謎の行動は、1862年(文久2年)高杉晋作が、幕府貿易船千歳丸で上海(ジャーディン・マセソンやサッスーンの商館がある英仏の租界地)を訪問したことで解明できるのです。
日本の歴史を支配する藤原氏の得意な戦術は、「夷を以って、夷を制す」です。これと同じことを、イギリス東インド会社のメンバー達が、明治革命でおこなったのです。
それは、「夷」である長州藩を潰すのに、長州藩内の「夷」を使うのです。その長州藩内の夷とは、賎民「穢多」と、その同族である武士末裔である「卒族」である「足軽」です。長州ファイブのひとり、伊藤博文は、その足軽が出自であったのです。
第三百済王朝の江戸時代、漢訳仏教思想でイジメられていた長州藩の賎民「穢多」や「足軽」達は、「シシ」となり、百済系「サムライ」が支配する江戸幕府の打倒を目指していたのです。三十数年前の天保の大飢饉でも、長州藩の賎民を中心とする一揆活動は、他国よりも激しいものだったのです。
その長州藩の賎民「夷」を束ねたのが、上海帰りの高杉晋作であったのです。1863年1月、高杉晋作は、伊藤博文等と共に、長吏頭弾左衛門支配地の小塚原から吉田松陰の遺骸を掘り出して、荏原郡若林(東京都世田谷区)に改葬するのです。その時に、高杉晋作は、吉田松陰の改葬に関して、久坂玄瑞から手紙を受けるのです。その手紙には、次のような一文があったのです。

「浮屠(仏教僧侶の蔑称)に託し候ては相叶わず候。神葬之式は何卒俊輔・真五郎などへ御命じ、和学者に御尋ねを下さるべく候」

久坂玄瑞は、「シシ」達の尊皇攘夷のシンボルとする吉田松陰の改葬の儀式は、賎民「穢多」・「足軽」の敵である外来宗教の漢訳仏教儀式でおこなうことを禁止させていたのです。そして、吉田松陰の改葬は、日本古来の宗教と勘違いされた「神道」の儀式でおこなわれてしまうのです。
「神道」は、藤原氏が、漢訳仏教渡来後の七世紀に発明した宗教であったのです。しかし、江戸時代の庶民は、1778年(安永7年)から1798年(寛政10年)にかけて創作された、漢訳仏教嫌いの本居宣長の「古事記伝」により、日本古来の宗教は、藤原氏が発明した、天照大神を祀る「神道」であると刷り込まれてしまっていたのです。
元々日本古来の宗教には、「ケガレ」思想などなかったのです。ですから、穢れ祓いの儀式をおこなう、中臣神道は、日本古来ではなく、漢訳仏教と同じに、外来宗教であったのです。
日本列島古来の精霊である「モノ」は、「貴」も「賎」も区別なく、日本列島のすべての物に宿っていたのです。この「精霊はすべての物に宿る。」、という思想は、太陽神を祀る宗教思想の、「すべての物を照らし護る。」、という思想と同じことから、やがて、オリエント渡来の秦氏の太陽神を祀るミトラ教(平安時代の権力者により「魔多羅」と改竄された。)と習合していくわけです。
そのすべての物に宿る精霊の「モノ」思想は、秦氏末裔である武芸者の「武士」が、「もののふ」(モノ=精霊の僕)と云われる由縁となっていたのです。
「武士」と「サムライ」との違いのひとつは、この武芸者である「もののふ」であったかどうか、ということです。平安時代に発生した「サムライ」とは、秘書兼ガードマンとして、亡命百済貴人の側に侍う(さぶらう)剣(諸刃の直刀)で武装したひとが祖であったのです。因みに、「武士」は、反りのある刀(片ほうしか刃がない、「カタハ」が語源)であったのです。
幕末に流行った、道場での武闘訓練が、日本刀の歴史を知っていれば「刀道」と言うところを、「剣道」と言われたのは、江戸時代が、百済系の「剣」で武装していた「サムライ」の末裔が支配していたからです。
その七世紀半ばまで河内・飛鳥ヤマトを支配していた秦氏の太陽信仰のミトラ教を抹殺、改竄するために、藤原氏により発明されたのが、ミトラ教の太陽神の化身である牡牛を屠る祭祀場を破壊した跡に建設された、春日社の若宮で「ケガレ祓い」をする中臣神道であったのです。
中臣神道が発明された奈良時代では、神道の神を祀る所は、「宮」と言われ、神社(ジンジヤ)とは言われてはいなかったのです。「ジンジャ」とは、明治革命後に発明され言葉だったのです。それ以前は、「神社」は、「モリ」、「ホコラ」、「ヤシロ」と言われていたのです。
この吉田松陰の遺骸が、百済系天皇家や第三百済王朝の江戸幕府を祀る「仏式」ではなく、薩摩藩に棲息する藤原氏の祖が発明した「神式」で祀られたため、イギリス東インド会社に支援された薩摩藩に棲息する藤原氏(近衛家)の傀儡島津氏が発明した「尊皇攘夷」のシンボルとなり、その結果、反仏教の賎民「穢多」と「足軽」は、その仏教派の江戸幕府打倒の尖兵である、イギリス式軍団である「奇兵隊」として、イギリス東インド会社に利用されていくのです。
その反仏教の賎民軍団の「奇兵隊」を組織したのが、武器密輸入のグラバー商会の親会社ジャーディン・マセソン商会の商館がある上海から帰国した高杉晋作であったのです。
では、長州藩の密偵として活躍していた足軽の伊藤博文が、イギリス東インド会社(ジャーディン・マセソン商会)の意向によりイギリスに留学させられたのは、何が目的だったのでしょうか。
1870年、伊藤博文等長州ファイブがイギリス留学から帰国すると、大阪の造幣局が、イギリスの植民地香港から輸入したイギリス製の造幣印刷機で紙幣を刷り始めるのです。その大阪造幣局の初代局長は、長州ファイブの井上馨で、その後、井上勝、伊藤博文、遠藤謹輔と順繰りに局長として就任していたのです。
そのイギリス製の造幣印刷機を香港から輸入したのが、1865年アメリカ南北戦争が終結したため不要になった銃を高杉晋作の「奇兵隊」に売りつけていた、ジャーディン・マセソン商会の傘下にあるグラバー商会であったのです。
その翌年、1866年密貿易のライバルであった薩摩藩と長州藩とが、グラバーのダミー会社である亀山社中の坂本竜馬の斡旋により、武器の共同購入のために薩長同盟が締結されたわけです。
イギリス東インド会社は、明治革命中の軍事支配の画策だけではなく、明治革命後の経済支配にも画策していたのです。
1871年造幣局局長となった伊藤博文は、日本国の基本通貨として、米1ドル金貨(1500mg)と等しい、1円金貨を建言するのです。では、江戸時代での基本通貨の呼称である両、銭から、何故、「円」の呼称が現れたのでしょうか。
その明治時代に、日本国基本通貨呼称となった「円」とは、イギリスの植民地である香港で使われていた「香港壱圓」の「圓」を借用したものであったのです。この香港通貨の「圓」は、日本国では「円」となったのですが、中国では、「圓」と同音字の「元」となり、そして、韓国では、「圓」の朝鮮語読みである「ウォン」となるのです。
異国を支配する方法は二つ、ひとつはストロングパワーである「軍事」で、もうひとつはソフトパワーである「経済」です。その経済は、通貨を支配することでコントロールすることが可能なのです。
1894年英仏露の不平等条約で疲弊していた清帝国に、明治政府は宣戦布告し、イギリスの軍事・軍費支援で勝利すると、1895年下関条約を調印し、遼東半島、台湾割譲、賠償金2億両を得るのです。その清帝国からの賠償金により、1897年貨幣法が制定され、紙幣の金兌換が成立したのですが、1円の金平価は、当初の1500mgから半分の750mgに半減させられ、しかも、その賠償金による金兌換準備充当正貨は、なんと、イギリスに持ち出されていたのです。
日本国の経済の「血」である「お金」の価値を保障する金兌換準備充当正貨が、日本国にはなく、イギリスにあった、ということは、明治時代の日本国は、イギリスの経済的支配下にあったということです。この本位金貨が流通停止となったのは、1987年(昭和62年)6月1日であったのです。
明治革命がイギリス東インド会社のシナリオで行われたと言う根拠のひとつとして、明治革命後の日本国を経済支配するために、大阪造幣局の創設のシナリオが、明治革命と同時に計画されていたことです。
イギリス東インド会社は、革命成功後、大きく分けて仏教信仰(亡命百済民末裔)、神道信仰(藤原氏末裔)、太陽神信仰(秦氏末裔)の三つの異民族で構成されている日本国を統治する方策も考えていたようです。
その方策とは、平安時代から江戸末期まで百済系天皇家を祀っていた空海が発明した真言密教のダキニ呪法に替えて、薩摩藩に棲息する藤原氏の祖が奈良時代に発明した中臣神道を改良して、新日本国の中心思想として取り込むことです。これが、明治維新で発明された「国家神道」です。
その新天皇を祀る「国家神道」を創作するためには、仏教寺に習合されていた全国の神宮寺や祠を、仏教寺から分離する必要に迫られるわけです。更に、藤原氏が「日本書紀」で発明した日本初の天皇であるとする神武天皇の稜(墓)を急いで創作するする必要もあったのです。そして、天皇家が「神道」儀式で古来から祀られていたとする「神宮」も創作しなくてはならなかったのです。これらのことは、明治革命と同時に遂行されていたのです。
仏教儀式で祀られていた天皇家を、古来から神道儀式で祀られていたと、摩り替えるトリックが「伊勢参り」の「ええじゃないか運動」です。江戸末期の「ええじゃないか運動」のドサクサに紛れて、日本初の天武天皇が道教思想で北極星(太一)を祀った伊勢の「道観」が、奈良時代には藤原氏により発明された天照大神を祀る「伊勢神宮」となり、平安時代には神仏習合の「神宮寺」が立ち並ぶ伊勢は、江戸時代末期には日本古来(?)から神道儀式により天皇家の「神・天照大神」を祀っていたとする伊勢神宮の聖域となってしまい、今日に至るわけです。
これらの神道世界の基礎を作ったのが、仏教嫌いの本居宣長であったのです。本居宣長は、「古事記伝」で日本神話を創作しただけではなく、近畿にある巨大古墳群を、藤原氏が「日本書紀」で創作した歴代天皇稜と結びつけ、命名していたのです。それらの本居宣長が命名した、例えば、仁徳天皇稜などは、現代ではこころある考古学者は、近畿の巨大古墳の天皇陵を否定しています。
その江戸時代末期の庶民の意識を仏教世界から神道世界へ摩り替えるためのトリックである「ええじゃないか運動」が始まる前年、1867年徳川御三卿の第十五代目将軍徳川慶喜が、横浜に駐留するフランス進駐軍の援軍を断り、鳥羽伏見の戦いから脱走し、大阪の天保山沖に停泊していたオランダ製開陽丸に乗船し、江戸に帰り着き、大政奉還を願い出、王政復古の大号令が出される前に、坂本竜馬、高杉晋作、中岡慎太郎、そして、孝明天皇が死去していたのです。
それらのひと達は、坂本竜馬は暗殺でしたが、病死とされていたのです。しかし、明治革命の中心人物の死は、謎に包まれているのです。
明治革命の発端である攘夷を唱えた異国人嫌いの孝明天皇は、攘夷を唱えたけれども、薩摩藩や長州藩のシシ達が唱える倒幕には反対していたのです。何故ならば、京を支配する朝廷と、江戸を支配する御三卿とは、平安時代に唐から輸入された天台宗仏教を祀る亡命百済の血が流れる同族であったからです。
攘夷派の孝明天皇は、1866年12月25日に崩御になったのですが、その十日前までは元気でいたのです。この孝明天皇が急に崩御すると、水戸藩9代藩主徳川斉昭が最初に唱えた「尊皇攘夷」のスローガンが、「尊皇開国」となってしまったのです。
この孝明天皇の謎の急死は、1865年第二次長州藩征伐に上京していた第十四代目将軍徳川家茂が、1866年4月まで大阪城内で乗馬や鉄砲の訓練をしていたのに、第二次長州征伐中の7月に21歳で急死しているのです。7月に倒れた徳川家茂の治療に携わったのが、「漢方医」ではなく、何故か「蘭方医」であったのです。そして、長州征伐は、徳川家茂の死により中止となっていたのです。
藤原日本史の明治革命物語がよく理解できないのは、攘夷論者の孝明天皇の熱に浮されたことにより、1863年長州藩が下関を通行する外国船に砲撃したのに、長州藩は江戸幕府の中心勢力から外され、朝敵となってしまうのです。そのきっかけとなった1863年7月蛤御門の変では、長州藩を撃退したのは、会津藩と薩摩藩でその指揮を執ったのが、それから三年後に起こった鳥羽伏見の戦いの途中で脱走した、第十五代将軍となる前の、藤原氏(島津氏はエージェント)傀儡の一橋慶喜であったのです。
その攘夷派の中枢勢力である長州藩は、第十四代目将軍徳川家茂が21歳で急死すると、一橋慶喜が第十五代将軍となり、第二次長州征伐が中止となり、救われるのです。その第二次長州征伐中止の6ヶ月前に、蛤御門の変で敵味方として戦った薩摩藩と長州藩とが、武器商人グラバーの斡旋により軍事連盟を締結していたのです。
これらの明治革命に至る一連の謎は、薩摩藩を支配する藤原氏(近衛家)とイギリス東インド会社(グラバー商会の親会社ジャーディン・マセソン商会)とによる明治革命のシナリオの流れにあったのです。
では、孝明天皇(1846年〜1866年)は、誰により幕末の政治舞台に現れ、攘夷を唱えたのでしょうか。
騎馬民族末裔である初代将軍徳川家康は、同族の秦氏末裔を賎民として、平安時代からイジメぬいていた亡命百済貴族の基である百済系天皇家を、紫衣着衣の禁止などでイジメるのです。そして、後水尾天皇(1611年〜1629年)を退位させ、徳川家康の息子第二代目将軍徳川秀忠は、娘を女帝明正天皇(1629年〜1643年)とすると、宮廷に鍵をかけて天皇の外出を禁じていたのです。幕末、その徳川家康の指示による二百数十年の禁を破ったのが、「賀茂行幸」の名目で禁門から外出した孝明天皇であったのです。
その攘夷を唱える孝明天皇が崩御すると、明治天皇が即位し「尊皇開国」となった謎、そして、仏教文化から神道文化に激変した謎は、どのように説明できるのでしょうか。
孝明天皇の葬儀は、「明治天皇紀」によれば、読経や焼香が炊かれる仏式でおこなわれ、ひどく簡略であったようです。

朝廷、山陵奉行、大和守戸田忠至に命じて其の制を調査せしむる所あり。忠至、答申書を上り奏して曰く、中古以来、荼毘の風習久しきを成し、万乗の玉体を灰燼に委してたてまつり、陵所には僅かに石塔を樹て之れを標するに過ぎざるが如き其の薄葬実に恐懼に堪へざるものあり。

その孝明天皇が1846年即位すると、奈良時代の藤原氏が、日本初の天武天皇が発明した、冬至の日におこなう一世一代の天帝(北極星・太一)から帝位を授けられるとする「大嘗祭」の儀式を改竄して、毎年秋の収穫祭としての「新嘗祭」を発明し、その新嘗祭の儀式のなかで、藤原氏の娘達が貴人の前でおこなう五節舞が、復活するのです。
このインドのサリー風の薄絹を纏って若い娘が舞う、天女羽衣の衣装による「五節舞」とは、インドのバラモン教の儀式で裸同然の娘達が貴人の前で踊る儀式と同じで、天皇やその貴人達に、「藤原の娘」を嫁がすシステムでもあったのです。
江戸末期、第十三代目将軍徳川家定に、近衛家(藤原氏の主流)の養女敬子(すみこ)を嫁がせ、篤姫としたのは、正に、藤原氏の政治戦略の伝統的システムであったのです。その篤姫の活躍で、攘夷派の第十四代目将軍徳川家茂は、21歳で急死し、藤原氏(近衛家)が推薦した、御三卿の一橋慶喜が、第十五代目将軍徳川慶喜となり、薩摩・長州軍との戦闘最中に脱走し、江戸幕府は倒れるのです。
藤原氏が、日本列島史で暗躍できたのは、南インドのマラバル沿岸から渡来した、藤原氏の祖である中臣族(ナカ→ナーガ→蛇・信仰族)が、祭祀氏族であったからです。その藤原氏は、イギリス東インド会社の後ろ盾で明治革命が成功すると、亡命百済貴族末裔が支配していた第三百済王朝の江戸仏教国家を、藤原氏の神道国家に変身させるのです。
その仏教国から神道国への変身の仕掛け造りは、1613年イギリス東インド会社の平戸交易と供に始まっていたのです。
仏教国から神道国への流れは、1768年伊勢お陰詣り流行(神道思想の宣伝)→1778年本居宣長による「古事記伝」上巻刊行(日本国神話による、外来宗教として仏教思想の否定)→1833年京都エライコッチャ踊り流行(寺請制度による仏教統制からの庶民開放)→1867年名古屋ええじゃないか運動(神仏習合から「神」を分離する伊勢信仰の発揚)→1868年神仏分離令・廃仏毀釈運動(神仏習合の「神宮寺」から仏教施設を破壊して「神宮」の分離)→秦氏の祖を祀る「塚=土の家=墓」を封印していた「ホコラ・ヤシロ・モリ」を「神社・ジンジャ」と呼称(古代からジンジャで「神」が祀られたとのトリック)→江戸時代の秦氏末裔を賎民としてイジメていた寺請制度を真似て、全国民を「ジンジャの氏子」とする(賎民である騎馬民族末裔・秦氏末裔を「新平民」としての取り込み)→「ジンジャ」で「お神輿」を担ぐお祭りイベントの発明(明治天皇を「神の使い・天子」(テングリ)とするイベント)→1890年刑事訴訟法(不敬罪の成立→明治天皇の謎と皇族出自の欺瞞性の隠蔽)・教育勅語下賜(学童に神国ニッポンの刷り込み)→「神国ニッポン」の完成、となるのです。
そして、何故か、この明治革命で誕生した「神国ニッポン」の支配組織の頂点にある天皇家と皇室の組織・服装が、イギリス王室のコピーであったのです。
そして、不思議なのは、1867年12月9日に、「天皇制」が発令されたと藤原日本史は述べるのですが、それは、「天皇制復興」ではなく、「王政復興」なのです。その藤原日本史にある「王政復興」の「王政」とは、もしかして、「イギリス王政」のことなのでしようか。
明治革命で、グラバー商会から買い込んだ最新式武器で活躍した薩摩藩・長州藩のシシ達の、打倒対象は、第三百済王朝の江戸幕府と、騎馬民族系の天武王朝を乗っ取った、平安時代からの百済系天皇家であったのです。ですから、イギリスのソフト支配下にある明治新政府は、それらの「シシ達」をなだめるためのトリックをおこなっていたのです。
それが、北朝の光厳天皇系と、南朝の後醍醐天皇系の摩り替えです。つまり、孝明天皇は北朝の光厳天皇系ですから、その敵対している南朝の後醍醐天皇系の末裔を天皇として摩り替えることで、長州・薩摩のシシ達を宥めるというトリックです。
孝明天皇は北朝系ですから、その息子も北朝系であるはずです。しかし、明治天皇は、北朝系の血筋ではなく、長州藩に棲息していた南朝系の血筋の大室寅之祐に摩り替わっていたのです。
その天皇すり替え説の根拠は、1868年神仏分離令が発令されると、廃仏毀釈運動が全国で起こり、神仏習合の神宮寺は、徹底的に破壊され、その跡に「ジンジャ」が創設されるのです。その創設「ジンシャ」は、もし、明治天皇が孝明天皇の実子であれば、父孝明天皇は北朝系ですから、当然、実子である明治天皇も、北朝系の天皇を「ジンジャ」を創建して祀るはずです。
しかし、明治天皇と明治新政府は、南朝の後醍醐天皇を祀る吉野神宮をはじめ、その実子の護良親王、尊良親王、桓良親王、宗良親王、懐良親王など、北朝系ではなく、南朝系の天皇家を祀る「ジンジヤ」や「神宮」を創建したのです。
更に、明治新政府は、1868年(明治元年)宮中で真言密教の仏式で祀っていた天皇家の先祖の位牌を、真言宗泉涌寺に移すのです。しかし、歴代と言っても、その孝明天皇の宮中にあった歴代天皇の位牌には、天武天皇から女帝称徳天皇までの位牌はなかったのです。それは、騎馬民族末裔で新羅系の天武天皇と百済系の桓武天皇とは、宗教が異なる異民族であったからです。つまり、天皇家は、藤原日本史が述べているのとは異なり、万世一系ではなかったのです。
攘夷派で、反倒幕派の孝明天皇は、藤原氏の開国派にとっては、倒幕の密勅を発するには、相応しくない人物であったのです。そこで、孝明天皇は、密勅を発する前年、急死し、その16歳の息子陸仁皇子が、急遽帝位を引き継ぐのですが、可笑しなことに、天皇即位儀式では、十六弁の菊紋ではなく、徳川氏の紋所の葵が使われ、更に、新調ではなく、古物の張袴と横目扇などを使っておこなわれていたのです。
陸仁皇子についての不思議は、更にあるのです。それは、何故か、「明治天皇紀」には、明治天皇が大人の仲間入りをするための「元服の儀式」についての記述が、欠如しているのです。
そして、不思議なことに、16歳まで女官にかしずかれて育てられたために中性的な陸仁皇子は、13歳の時の蛤御門の変で長州軍の流れ弾が御殿に着弾した時、長らく失神していた程繊細だったのに、16歳で帝位を継ぎ明治天皇に変身すると、女性的な公家風から、乗馬と相撲が得意な長州風(武家風)に変身していたのです。そして、その側近も、女官から、長州と薩摩の藩士に代わり、その藩士を監視をしていたのが、卒族と言われた足軽上がりの、1885年日本初の内閣総理大臣となり、1909年ハルピンで暗殺された、明治革命のドサクサにイギリス留学をしていた伊藤博文であったのです。
そして、即位した明治天皇は、1867年10月14日、藤原氏が支配している薩摩藩に対して、倒幕の密勅を発するのです。
藤原日本史によれば、「天皇」は瑞穂の国では最高位で、「おおきみ」(王)とは、その臣下の豪族の長であったはずです。飛鳥時代(古墳時代)、天皇家を支配した大臣(おおおみ)である蘇我氏一族を、645年に滅ぼしたのが、「大化の改新」と云われる革命であったはずです。
この朝鮮半島での革命にソックリな「大化の改新」の革命劇で、藤原氏の祖中臣族が突然政権に現れたのです。そして、蘇我一族を滅ぼした、中大兄皇子と中臣鎌子(後に藤原鎌足となる)が王権を握ると、仏教興隆の詔を発し、飛鳥ヤマトを、再び、天皇家により支配しました、と言うのが、藤原日本史が語るところなのです。
この藤原日本史が述べる「大化の改新」と、「王政復興」とには、共通点が多くあるようです。そのひとつに、天皇の藤原氏によるロボット化です。そして、「大化の改新」では、飛鳥ヤマトでの景教(ミトラ教)と道教とが、仏教に盗り替わったのが、「王政復興」では、仏教から神道に盗り変わったことです。それらの宗教の取替えは、共に、祭祀氏族末裔の藤原氏がおこなっていたのです。
中臣族(後の藤原氏)は、「大化の改新?」の革命後に、景教や道教の宗教施設を完全に破壊した跡に、北九州から多くの仏寺を移築し「飛鳥寺」「法隆寺」などと命名し、オリエント文化の飛鳥ヤマトを、仏教文化都市に摩り替えていたのです。それに対して、明治革命に成功した近衛家(藤原氏の主流)は、江戸時代の日本列島を漢訳仏教思想で支配した拠点の神仏習合の新宮寺を、明治革命後に徹底的に破壊して、その跡に、「神宮」「ジンジャ」を創建して、神国ニッポンを演出していたのです。
そして、「大化の改新?」の後、飛鳥ヤマトは、朝廷が「唐風」に激変していたのです。それに対して、「王政復興」の後には、明治政府は「イギリス風」に激変していたのです。それは、その二つの革命は、「大化の改新?」は唐進駐軍の後ろ盾で、そして、「王政復興」はイギリス東インド会社の後ろ盾を利用して、藤原氏(中臣族)が外国勢力の傀儡権力者となって、日本列島を支配したからです。
では、明治革命後に、神仏習合の神宮寺を破壊した後に発明された、神道を象徴する「ジンジャ」とは、一体、何なのでしょうか。そして、その明治革命後に発明された「ジンジャ」と、奈良時代に発明された「神宮」との違いは何なのでしょうか。その「ジンジャ」の謎を解くことで、藤原氏と亡命百済貴族が、平安時代から賎民としてイジメ抜いていた秦氏の謎が、解明できるようです。
藤原日本史が、曖昧にしている事象はいろいろありますが、その内でも、「武士」と「サムライ」の異なる歴史的背景の説明と、「平家」と「平氏」との異なる歴史的背景の説明は、曖昧です。ですから、歴史に興味がないひとは、それらの事柄は、単なる呼称の違いに過ぎないと、軽く考えているようです。
しかし、「武士」と「サムライ」の出自は異なるし、民族も異なるのです。そして、「平家」と「平氏」も同じに、民族が異なるのです。
「平家」とは、戦国時代、イエズス会の傀儡となり近畿一帯を軍事支配した、尾張の武将織田信長の祖で、その祖は、平安時代に、伊勢湾一帯を支配していた、アラブ・インドから渡来の海洋商業民族であったのです。
「平氏」とは、ツングース系の亡命百済民末裔の百済系桓武天皇の武将で、825年淳和天皇(823年〜833年)より賜姓された、「公家桓武平氏」の官位であったのです。
それに対して、「平家」とは、平安時代末期、「五節の舞」のシステムで百済系天皇家をロボット化している藤原氏の私兵「武家源氏」に対抗するために組織された、白河上皇の「私兵」であったのです。つまり、「平氏」は官位で、「平家」はただの呼称であったのです。
その「平家」の祖、平正盛は、伊勢から京に進出するのですが、その拠点が、賀茂川の東岸の死者が流れ着くために、髑髏ヶ原(「ドクロガハラ」が、後に「六波羅」と改称)と呼ばれた湿地帯であったのです。その地は、「平家」の祖の渡来元のインドのギオンに習って、祇園と呼ばれていくのです。
ですから、「平家」は、平安王朝を支配していた百済系貴族より、河原者の賎民と呼ばれていたのです。その「平家」の祖が、髑髏ヶ原で行う、ペルシャ絨毯で飾る山車(山車の祖は「船」・平家は海洋民族末裔)を曳きまわす「ギオン祭り」が行われる頃、京の都の貴族達は、「ケガレ」が付かないように、その「ギオン祭り」が開催される間、神輿違えと言って、京都の町から避難していたのです。
では、その賎民の「平家」が、後白河上皇の私兵となり、貴族の仲間入りが出来たのは、何故でしょうか。それは、「平家」三代目の平清盛による、人民統制の手法によるのです。それが、「清盛のかぶら」組織です。
この「清盛のかぶら」の手法を使い、明治革命で復活した藤原氏(近衛家)は、大室寅之祐である明治天皇を、「現人神」に変身させたのです。
「清盛のかぶら」とは、平清盛の「闇の親衛隊」のことです。その「かぶら」は、童形びと(子供のいでたちの大人=賎民)で構成され、アラブ海洋商業民族(フェニキア人)のシンボルの「赤の衣装」を目立つように身につけていたのです。その「かぶら」は、京の街に出て、平家に対しての良い評判を庶民に吹聴していたのです。それに対して、平家や清盛の悪口を言う者があれば、その者の家に押しかけ、家を破壊するなどの暴力で威圧していたのです。その結果、平家の悪口を言う者が、京の街にはいなくなってしまったのです。
そして、平清盛を白河上皇の御落胤との「ウワサ」が、広く京の街に浸透すると、瀬戸内海の海賊を討伐した、平清盛の父平忠盛は、1132年鳥羽上皇により内昇殿を許され、賎民「平家」は平安貴族の仲間入りが出来たのです。
その後、南宋との南海密貿易で宋銭を伊勢に多量に持ち込んだ賎民「平家」の棟梁平清盛は、闇の集団である「かぶら」の活動結果により、1167年太政大臣となり、第二藤原王朝(第一藤原王朝は奈良時代)を乗っ取ったのです。この京を金力と武力で支配する「平家王朝」打倒が、藤原氏の陰謀による「武家源氏」と「公家桓武平氏」合同軍による、源平(「源氏+平氏」対「平家」)合戦となっていくわけです。
では、明治維新後、南朝の大室寅之祐である明治天皇を「現人神」とした、闇の組織の「かぶら」とは、誰なのでしょうか。それは、「役座」です。
「役座」は、今日では、太平洋戦争敗戦後の1946年昭和天皇が、天皇制神話は「架空ナル観念」と詔書を出し「現人神」から「人間宣言」をしてしまったので、天皇家を支える闇の組織は不要となったため、国家権力により「暴力団」として社会から排除の対象となってしまいましたが、その歴史は古く、鎌倉時代までに遡るのです。
その「役座」の歴史も、明治維新後の「天皇の謎」を封印するために、藤原日本史では隠蔽しているのです。ですから、歴史に興味がないひとなどは、「役座」の語源を、「893」だと本気に信じているようです。
「役座」が、「明治天皇のかぶら」となった理由のひとつが、1871年の賎民廃止令です。この発令により、江戸時代に漢訳仏教思想によりイジメられていた穢多・非人の称が、明治政府により禁止されたのです。
何故、「役座」が、賎民廃止令と関係があるかと言えば、それは、「役座」の発生が、第二百済王朝の北条鎌倉時代に仏教勢力が、平安時代初期に錬金術師空海が唐から持ち込んだ騎馬民族差別語の「施陀羅」から「穢多」を発明して、賎民の秦氏末裔をイジメていたのを、武力で秦氏末裔の賎民を護ったのが、「役座」の発生であったからです。
「役座」とは、仏教勢力が滅ぼした前政権の「夷神」を封じた異界の神社(モリ・ホコラ・ヤシロ)境内に同業者が集まり「座」を形成してたのですが、イザコザが絶えなかったので、その「座」を武力で仕切る「顔役」が語源であるのです。つまり、「座の顔役」から「役座」となったわけです。
その「役座」は、武士道思想の「弱者擁護」と同じである「任侠思想」(弱いひと達の仲立ちとなること)をもっていたことは、「役座」とは、神社(モリ)で武芸による魂鎮めの儀式をおこなっていた「もののふ」を祖とする「武士」と同じに、そのルーツがオリエント渡来の秦氏であったからです。
正統「役座」が、天照大神ではなく、中国古代の道教の「神農様」を祀ることは、「役座」の祖の渡来が、天照大神を発明した藤原氏よりも古いことを示唆します。それは、「神農様」の渡来が四世紀以降で、「天照大神」が発明されたのが八世紀だからです。
その正統「役座」が祀る「神農様」は、薬草の神様で、日本の創薬地は、騎馬民族末裔の秦氏末裔が住む地と重なるのです。高杉晋作や伊藤博文などの明治革命のシシ達により、明治維新のシンボルに祭り上げられた吉田松陰も、その祖は、創薬業で暮らしを立てていた吉田部落出自で、吉田松陰は、長州藩の「サムライ」から「乱民」と言われていたのです。
現代では、薬学部の学生が、国家試験合格祈願に「神農様」をお参りするそうですが、その「神農様」が、正統「役座」の神様であることを知っているのでしょうか。
「清盛のかぶら」は、庶民を無言で威圧するために異様な風体をしていましたが、「明治天皇のかぶら」である「役座」も、庶民を無言で威圧する演出をおこなっていたのです。そのひとつが、「刺青」です。
「刺青」文化の日本列島渡来は古く、四・五世紀の日本列島の情勢を記述した中国の「梁書」には、日本列島には小さな国がそれぞれあり、その中に、文身国があったと記述しています。文身とは「刺青」のことです。藤原日本史では記述がないのですが、刺青をした民族国が、四・五世紀の日本列島には存在していたと「梁書」では述べているのです。
その刺青は、海洋民族にとっては、「赤フン」と同じ効能で、海の悪魔サメから身を護る聖なる印であったのです。赤フンとは、朱砂を水に溶いて染めた布のフンドシのことで、その赤フンから、海中で朱(水銀)が溶け出すことにより、サメを水銀毒により避けさせるための防御具であったのです。
その刺青は、第三百済王朝の江戸時代には、犯罪人を識別するための「入墨」としていたのですが、江戸中期になると、仏教思想で庶民を縛り付けていたのが、オランダ人だけではなく、イギリス人やロシヤ人も来航するにおよんで、蘭学が庶民にも盛んになると、ミトラ教、ゾロアスター教、バラモン教、道教などの教義・儀式の寄せ集めの漢訳仏教思想による幕府の庶民統制も緩んでくるのです。そのような時に、1783年浅間山が噴火して、作物に多大な被害を及ぼし、天明の大飢饉が発生したのです。
幕府は、このような非常事態を統制するために、1787年松平定信が老中筆頭となり、倹約令を発して、日常生活の細々としたことまで統制し、庶民を締め付けにかかるのです。そのような閉塞時代に、政府の動向に左右されずに勝手に生きる、中国のアウトローたちの群像を主人公にした反抗文学「水滸伝」の百八人の英雄物語が、江戸庶民に受け入れられていくのです。
その翻訳本「水滸伝」に、英雄達の雄姿を挿絵として、武者絵師の歌川国芳が描いたのです。オリジナルの中国「水滸伝」の挿絵では、貧弱な刺青姿の雄姿が、歌川国芳の絵師としての才能により、浮世絵のような芸術性の高い刺青姿となったアウトロー達は、江戸幕府の政策に反抗する庶民達にとっては、庶民のヒーローとなっていったのです。
その結果、江戸庶民に刺青が爆発的に流行っていったのです。江戸時代での刺青は、「役座」の専売特許なのではなく、庶民が「見栄を張る」(彫りは死ぬほど痛いため、刺青は男伊達のシンボルだった。)手段としてのものだったのです。
第三百済王朝の江戸幕府は、武闘派の「武士」ではなく、秘書役の「サムライ」が支配する時代であったので、儒教の考経「身体髪膚之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは考の始めなり。」の呪文により、幕府の体制側の「サムライ」は刺青をすることができなかったのです。そこで、倹約令で庶民を縛り付ける幕府に反抗する庶民は、刺青をすることで、反幕府としての意志行動をしていたのです。
しかし、イギリス東インド会社にコントロールされて行われた明治革命に成功すると、イギリス風文化を取り入れることで文明国として仲間入りを切望する明治新政府は、鹿鳴館などを建設して一刻も早く日本人を文明人にしたいため、太政官府令により「刺青の禁止」を発令したのです。
これ以降、一般庶民の刺青文化は消滅してしまったのです。しかし、北条鎌倉時代より純粋なアウトローである「役座」は、この太政官府の命令に逆らったので、「役座」の刺青文化は今日に至るのです。
では、反権力のアウトローの「役座」が、誰の仲立ちにより、明治新政府権力の中枢の「明治天皇」を擁立した勢力と接触し、そして、「明治天皇のかぶら」となったのでしょうか。
明治革命において、不思議な人物がいるのです。それは、江戸幕府の要人であったのに、明治革命で幕府が武力で倒されると、生き残り、更に、敵側の明治新政府の要人となっていたのです。その人物とは、江戸幕府海軍指揮官の勝海舟とその部下の榎本武揚です。
この二人の祖は、「武家」ではなく、賎民で、共に三代先がお金で「武家株」を買い取って、「武家」となっていたのです。更に、榎本武揚はオランダに、そして、勝海舟はアメリカ合衆国への渡航経験者なのです。そのオランダやアメリカには、フリーメーソンのロッジがあったのです。では、この二人は、明治革命でどのような活躍をしたのでしょうか。
勝海舟の部下である榎本武揚は、長崎の幕府海軍学校で航海術を学ぶと、オランダに軍艦を買い付けに行くのです。それが、オランダ製軍艦開揚丸です。では、明治革命で、榎本武揚は、鳥羽伏見の戦いで、その軍艦開揚丸で、薩長軍に対して攻撃をしたのでしょうか。
それが、不可思議なことに、1868年1月2日に会津・桑名藩兵が、幕府軍総大将の徳川慶喜の先鋒隊となって鳥羽・伏見の両街道から京を目指して進撃を開始するのです。そして、翌日3日京都郊外の鳥羽・伏見の関門を守る薩長軍との戦いが始まるのです。そして、戦闘が膠着状態の中、6日深夜大坂城から、幕府軍の総大将徳川慶喜が脱走するのです。
榎本武揚は、大阪湾沖の天保山沖に停泊して、戦闘中に脱走した徳川慶喜を乗せると、江戸湾に向けて出航していたのです。誰が、この戦争中の脱走劇を計画して、実行したのでしょうか。
そして、1868年1月5日江戸幕府に対しての反乱軍から官軍に変身した薩長軍が、江戸攻めを始める直前に、幕府軍のシンボル的軍団の副長土方指揮いる新撰組残党を開揚丸に乗せて、北海道函館の五稜郭へ向けて出航するのです。その開揚丸には、フランス軍事顧問も同乗していたのです。
その五稜郭は、何故か、函館湾から遠方に築かれたのではなかったため、イギリス軍事顧問指揮下の薩長海軍の艦砲射撃により、開戦から短時間で崩壊していたのです。そして、副長土方以下新撰組残党軍は壊滅していたのに、何故か、フランス軍兵士と榎本武揚は生き残っていたのです。
この明治革命での榎本武揚の活躍は、薩長軍に利する行為ではないかと考えられます。鳥羽伏見での戦いで、榎本武揚が軍艦開揚丸を大阪湾深く進行させ、薩長軍に向けて艦砲射撃をしていたら、鳥羽伏見の戦いは、幕府軍の惨敗とはなっていなかったかもしれません。
更に、薩長軍が江戸攻撃をおこなう直前に、榎本武揚が開揚丸に新撰組残党を乗せないでいたとしたら、新撰組残党も上野戦争に参加して、数時間の戦いで幕府軍は壊滅していなかったかもしれません。
では、榎本武揚の上司である勝海舟は、明治革命でどのような活躍をしたのでしょうか。鳥羽伏見の戦いで、幕府軍が軍備面と指揮面で不利であると知ったフランス公使レオン・ロッシュは、幕府にフランス進駐軍の戦闘参加を申し出るのです。しかし、その申し出を断ったのが、勝海舟なのです。そして、江戸攻撃で脅す薩長軍に対して、幕府正規軍は無抵抗とするとしたのが、勝海舟であったのです。
勝海舟については、自書「氷川清話」や「海舟座談」などがあるため、その自慢話が史実であるように思っているひとが多くいるようです。例えば、鳥羽伏見の戦いの最中に脱走した徳川慶喜について、その直後の出来事を「海舟座談」で次のように述べているのです。

慶喜公は、洋服で、刀を肩からコウかけて居られた。己はお辞儀も何もしない。頭から、皆んにそう言うた。アナタ方、何という事だ。これだから、私が言わない事じゃあない、もうこうなってから、どうなさるつもりだとひどく言った。上様の前だからと、人が注意したが、聞かぬふうをして、十分言った。刀をコウ、ワキにかかえてたいそう罵った。己を切ってでもしまうかと思ったら、誰も誰も、青菜のようで、少しも勇気はない。かくまで弱っているかと、己は涙のこぼれるほど歎息したよ。

鳥羽伏見の戦いから脱走した幕府軍総大将徳川慶喜に対して、このようにベラメイ調で語る勝海舟とは、一体何者であったのでしょうか。
勝海舟の曾祖父は、越後小千谷(おじや)から江戸へ出稼ぎに来た盲人の座頭であったのです。江戸幕府は、盲人の生活救済のために、高利貸しを認めていたのです。その曾祖父には、利殖の才があったため、殖財で財産を築き、幕臣(旗本)男谷家の株を買い取り、息子の平蔵を当主としたのです。その平蔵の三男が、勝家に養子に入った小吉(後の海舟)であったのです。
江戸時代初期の座頭は、長吏頭弾左衛門の支配下で営業を認めてもらえたのです。しかし、第三百済王朝となり秦氏末裔の徳川家康の威光が失せると、徳川家康の配下であった長吏頭弾左衛門の威光も失せり、穢多頭弾左衛門と蔑称で呼ばれていくのです。そして、中国の京劇を真似た京文化の歌舞伎が、江戸に持ち込まれると、座頭や芸能民を支配していた弾左衛門は、歌舞伎劇の「助六」で、助六になぶられる「意休」として悪役に貶められてしまうのです。そして、江戸幕府の警察機構の下部組織としていた、その長吏頭弾左衛門の配下の「目明」も、「岡引」と蔑称で呼ばれていくのです。
徳川家康の威光が存続していた時は、表の世界で暮した長吏頭弾左衛門も、第三百済王朝の江戸時代では闇の世界で暮していくのです。その闇の世界には、「役座」もいたのです。その闇の世界に、勝海舟は繋がっていたのです。
勝小吉は、旗本小普請組、禄四十俵で無役の旗本最下級であったのです。その最下級の勝小吉が、幕府要人になるキッカケは、1854年米使ペリーの来航の結果による、1859年の安政の大獄です。
御三卿が支配する幕府の転覆を目論む、開国派の徳川家康直系の御三家の流れを汲む井伊直弼は、江戸幕府を牛耳る御三卿派の壊滅を企てたのが、安政の大獄の実態です。その安政の大獄により、幕府要人はことごとく抹殺、或いは謹慎させられ、政界から排除されてしまったのです。
井伊直弼は、徳川家康の忠臣の流れにあるということは、百済系や藤原氏系ではないということです。そこで、井伊直弼が実効支配した幕府では、秦氏系の者が、幕府に登用されたのです。勝小吉の祖は、座頭であったので、秦氏末裔であったのです。
勝小吉は、蘭学を収得していたため、1855年幕府が、長崎に海軍伝習所を開設すると、その教官として就任したのです。そして、勝小吉が、幕府に上書を提出したことにより、天文方の蕃書和解御用(洋書翻訳部門)を独立させ、洋学所の設置が計られたのです。そして、その洋学所が蕃書調所となると、1864年蕃書調所(後に東京大学となる。)の幕府役人西周(にしあまね)は、オランダフリーメーソンの「ラ・ヴェルテュ・ロッジ」で、「徒弟」「職人」として承認されたのです。その一ヵ月後、津田真道もフリーメーソンとして記録されたのです。
その勝小吉も、1860年(万延1年)軍艦操練所教授方頭取勝麟太郎となり、艦長として、オランダ製咸臨丸により浦賀からサンフランシスコに向い、フリーメーソが建国した米大統領ジェームス・ブキャナンに謁見後、9月品川沖に到着していたのです。
勝海舟は、江戸無血開城の談判が決裂した場合を想定して、弾左衛門や「役座」に、もし、薩長軍が江戸攻めをおこなったら、江戸町に火をつけ炎上させるように指示をしていたのです。
この勝海舟の脅しに、明治革命の実質的指揮官であるイギリス公使パークスは、第三百済王朝に平安時代からイジメられていた秦氏末裔の西郷隆盛に、江戸攻撃を止まらせたのです。
その「役座」との繋がりのある勝海舟は、1868年明治政府が樹立されると、その政府要人となるのです。「役座」と「明治天皇」を結びつけたのは、勝海舟であることが示唆されるのは、イギリス公使パークスが計画した明治革命での活躍(?)によるのです。
因みに、藤原日本史を基に創作された明治革命物語で、必ず登場する「坂本竜馬」とは、どのような人物だったのでしょうか。
坂本竜馬の明治維新での評価のひとつに、密貿易で犬猿の仲の薩摩藩と長州藩との軍事同盟の仲介者であったと、多くの明治革命物語にあります。しかし、その薩長軍事同盟の真の立役者は、坂本竜馬ではなく、キリシタン大名の流れを汲む大村藩の渡邊昇(のぼり)であったのです。では、坂本竜馬は、薩長同盟で何をしたかといえば、武器商人グラバーのダミー会社の亀山社中の船により、アメリカ南北戦争で使われた武器や売れ残った武器を薩摩藩や長州藩に運搬していたのです。
では、坂本竜馬は、何故、明治革命完成前年に暗殺されたのでしょうか。それは、坂本竜馬は、土佐藩の密偵であったからです。坂本竜馬が、藤原日本史に登場したのは、勝海舟の「氷川清話」によるところが大であったのです。その「氷川清話」には、坂本竜馬を次のように描写しているのです。

坂本竜馬。彼れは、おれを殺しに来た奴だが、なかなかの人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いてな、なんとなく冒しがたい威権があって、よい男だったよ。

その暗殺者坂本竜馬は、幕府の海軍の中枢となった勝海舟から航海術を学んでいたのです。その後、航海術を収得した坂本竜馬は、武器商人グラバーの配下となり、薩摩藩や長州藩に入り込み、情報収集をしていくのです。そして、土佐藩を脱藩したはずの坂本竜馬は、1867年(慶応3年)土佐藩に復帰して、海援隊長となり、大政奉還運動を提唱していくのですが、明治革命完了の前年、明治革命の裏を密偵として調べ尽くしていた、明治革命の本質を知ってしまった坂本竜馬は暗殺されてしまうのです。
イギリス東インド会社により企画された、明治革命が成功すると、「刺青」をした「役座」が、「明治天皇のかぶら」となったのは、賎民廃止令だけではなく、経済的理由もあったのです。それが、「ジンジャ」での屋台の営業権と、神国ニッポンを演出するために、明治新政府により発明された「ジンジャ」で行う、神輿を担ぐ「お祭り」の仕切り権であったのです。
「役座」が、明治維新の謎を、武力と威圧で封じ込めたことは理解できますが、仏教国を、どのようにして、神国ニッポンに変身させたのでしょうか。その謎を解明するのが、明治維新後に発明された、「ジンジャ」です。では、神社(モリ・ホコラ・ヤシロ)を、、明治新政府が、どのようなトリック作業により「ジンジャ」へ変身させたかを考えてみましょう。
イギリス東インド会社にソフト支配された明治新政府は、異民族で構成されている日本国を支配するために、近代天皇制としての、神道国教主義(第三藤原王朝、第一藤原王朝は奈良時代、第二藤原王朝は平安中期)を確立するために、古来から全国的に行われていた梓巫(あずさみこ)、市子(いちこ)、憑祈祷(よりきとう)、狐下げ等の民間の呪術行為を厳禁したのです。
そこで、明治新政府は、古代神道を持ち出すのですが、その古代神道とは、藤原氏が先住民族の「神」を隠蔽して創作したものですから、その古代神道の祭祀論争が決着が付かなかったのです。その祭祀論争とは、伊勢派と出雲派との論争です。
672年天武天皇が、壬申の乱により近江百済王朝を倒した時、伊勢を支配していたアラブ系海洋民族が援軍として参加したお礼に、685年伊勢の地に道教思想による北極星(太一)を祀る道観を創建したのです。
伊勢派の神道とは、天武天皇の死後、藤原氏が持統天皇を傀儡として、その伊勢の北極星(太一)を祀る道観を破壊した跡に創建した神宮で、太陽神ミトラを祀る民族の歴史を隠蔽するために「アマテラスオオミカミ」を発明して行っていた、ユダヤ教の儀式に酷似した祭祀儀式であったのです。
それに対して、出雲派の神道とは、古代新羅の神を祀る祭祀儀式であったのです。そして、出雲の神は、島根ではなく、三輪山の麓の磯城(しき)に鎮座していたのです。その磯城とは、713年の好字令により、二文字の日本語化により命名された地名で、その祖は、古代新羅(秦羅・秦の国)のことです。
奈良盆地にある三輪山の麓は、古代から、宇陀で産出される朱砂の、異民族による、沈黙交易を行っていた処なのです。古代では、朱砂は呪術にはなくてはならないものだったのです。その朱砂を、傷口に塗ると、化膿していた傷口が治癒することが、祭祀者には知られていたのです。更に、死者に朱砂を塗りつけると、腐敗から免れたのです。
日本列島の奈良の宇陀で産出される、その貴重な朱砂は、中国大陸や朝鮮半島の民族の知るところなり、大陸や朝鮮半島の異民族が、日本列島の三輪山麓に渡来するわけです。仏教文化国の高句麗や百済民は、北九州から瀬戸内海を通過して、河内湾から三輪山を目指すわけです。それに対して、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅民は、出雲に上陸すると、そこから再び海路で丹後を経て、琵琶湖から三輪山を目指すわけです。
紀元一世紀には、西の果ての東ローマ帝国と、東の果ての後漢との間で、絹交易が始まっていたのです。日本列島にも、その世界交易の地として、異民族が渡来していたのです。
そして、四世紀後半になると、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅は三つ巴の戦いを始めたのです。その頃の日本列島には、「梁書」にあったように文身国や扶桑国などの弱小都市国家が無数に点在していたのです。その朝鮮半島の三国は、奈良盆地にそれぞれのコロニーを建設するのです。
そして、七世紀になると、中国大陸の覇権を争う南の農耕民族国の唐帝国と、北の騎馬民族国の突厥帝国が激突すると、日本列島の飛鳥ヤマトを軍事支配していた突厥帝国進駐軍を壊滅するために、唐進駐軍と、一世紀にはユダヤ教ヨシュア派の教会が建設されていた南インドのマラバル沿岸から南九州坊津に渡来していた中臣族が、飛鳥ヤマトに渡来して、645年飛鳥ヤマトを軍事支配していた突厥帝国コロニーを壊滅するのです。そして、突厥帝国の配下にあった、三輪山麓を支配していた古代新羅のコロニーも壊滅させるのです。
この飛鳥ヤマトを軍事力で乗っ取った歴史を、藤原日本史では、古代新羅(秦羅)の秦氏を「物部氏」とし、突厥帝国部族を「蘇我氏」として、飛鳥ヤマトの歴史を隠蔽・改竄したのです。そして、その略奪戦争を、出雲の国譲りとし、場所を、三輪山麓から、日本海の島根県の出雲へと改竄するのです。ですから、藤原日本史史観による、「物部氏」と「蘇我氏」のルーツが、未だに確定していないのは、藤原日本史の飛鳥時代(古墳時代)の記述は「ウソ」だからです。
そのような闇の歴史がある伊勢派と出雲派とが、どちらが正統の日本神道かと祭神論争をしたところで決着など付くはずがないのです。そこで、明治新政府は、祭祀と宗教(「しゅうきょう」は、明治維新後に発明された言葉)を分離させ、国家神道体制を打ち立てたのです。
そこで、神道国家主義を確立するために、明治革命で復活した祭祀者のルーツを持つ藤原氏(近衛家)は、明治天皇が宮中で行う十三の儀式を発明するわけです。その十三の儀式の内のひとつは、江戸時代末期に禁門から現れた孝明天皇の時代に復活した「五節の舞」であったのです。
その新発明の天皇の古代(?)からとする儀式を演出するために、明治革命勃発と同時に創建された「ジンジャ」や「神宮」施設は、形の上では可能な限り古く装われ、ジンジャの伝統と時代の断絶を意図的に埋める作業をおこなっていたのです。
更に、そのような作業に加えて、日光東照宮に封印されている騎馬民族で、秦氏末裔の徳川家康の宗教的権威を低める目的で、徳川家康の上司であった、アラブ海洋民族末裔の織田信長を祀る別格官幣社の健勲神社(ケンクンジンジャ)と、出自不詳の藤原氏傀儡の関白豊臣秀吉を祀る別格官幣社の豊国神社(ホウコクジンジャ)を創建していたのです。
別格官幣社とは、明治革命後に発明された、「臣民」を祭神とする有力神社(ジンジャ)のことで、国家神道のもとで新設された社挌で、南朝を支援した楠木正成を祀る湊川神社(ミナトガワジンジャ)が最初であったのです。
そして、国家神道の普及を目的に、全国各地に「アマテラスオオミカミ」を祭神とする「ジンジャ」と遥拝殿が創建されていくのです。そして、国家神道を確立するために、1869年木戸孝允の建議により、祭政一致の布告の翌日、3月14日宮中で五箇条誓文の誓蔡が、明治天皇の親蔡により執行されたのです。そして、明治天皇は、持統天皇以来始めて伊勢神宮に参拝することにより、伊勢神宮が皇神を祀る処となっていくのです。
明治天皇が参拝した伊勢神宮は、藤原氏の流れにある近衛忠房が神宮祭主となり、全国のジンジャの本宗と定められ、「神宮御改正」により、内宮・外宮が明確に区別され、神仏習合の神宮寺から、国家神道の中心的宗教施設として造りかえられ、格式の新しい内宮が、格式の古い外宮よりも、上位におかれ、天皇家の祖先神が古来から(?)祀られてきた「ジンジャ」の本宗施設と変身して、今日に至るわけです。
このように、神道が、古来から仏教組織から独立して存在していたのではなく、1869年の神仏分離令以降に、初めて独立できたのです。奈良時代(第一藤原王朝)に発明された中臣神道の流れを汲む、仏教、道教、儒教、ユダヤ教の教義・儀式を取り込んで、室町時代に発明された、吉田兼倶による神仏習合の吉田神道でも、仏教組織が発明した本地垂迹説思想から独立していなくて、その神職は社僧に対して従属を強いられていたのです。そして、その神職の家族も、寺院の檀徒として登録されていたのです。そのような時代に、神道が、仏教組織の威光に逆らって、独立して神道祭祀儀式などできるはずはなかったのです。
この明治革命時の宗教摩り替えのトリックは、1300年前の「大化の改新」と同じプロセスです。1868年の明治革命では、藤原氏(近衛家)は、イギリス東インド会社の支援の下、その第十三部族が祀るユダヤ教に酷似した儀式により明治天皇が「神」の代理として祀られたのです。
それに対して、645年の「大化の改新」では、藤原氏(中臣族)は、唐進駐軍の支援の下、奈良の興福寺を飛鳥ヤマトから移築して、その唐帝国の国教となっていた漢訳仏教を、オリエント文化の飛鳥ヤマトに持ち込んで、宗教をすり替えていたのです。
宗教施設は、臣民を統制するには大切な仕掛けであるのです。その宗教施設が、替わったということは、支配層が替わったことを意味しているのです。
飛鳥ヤマトが、645年以降、唐進駐軍に乗っ取られ、漢訳仏教文化が、唐帝国より持ち込まれたという根拠のひとつとして、飛鳥ヤマトの建築遺跡が示す、南北軸に対して、西に約二十度傾いている建築基準があります。仏教建築基準は、南北軸であるのに対して、この飛鳥ヤマトの建築遺跡が示す建築基準は、何を物語っているかと言えば、それは、太陽信仰民族の宗教施設を破壊した跡に、北九州から持ち込んだ仏教寺を、仏教建築基準で移築したことを意味しているのです。
太陽信仰のミトラ教では、太陽の光が最も衰える冬至が、「聖なる日」で、その冬至が太陽神の新たな誕生日となるのです。このミトラ教の太陽再生の誕生日が、後に、ローマ・キリスト教に取り入れられて、12月25日のクリスマスの日となったのです。そのミトラ教の「聖なる日」思想を取り込んだ宗教施設の建築基準は、南北軸に対して、西に約二十度となっていたのです。
更に、飛鳥ヤマトの遺跡は、漢訳仏教思想では説明がつかない、キリスト教にソックリな説教物語を持つガンダーラ仏教が発明された、インド北西の国際交易都市ガンダーラよりも、遥か西の文化施設と考えられる遺跡が沢山発掘されているのです。それらは、道幅が十二mも超える直線道路(ローマ帝国軍の軍事道路)が、大阪湾から飛鳥ヤマトへと敷設されていたのです。そして、上水道施設の土管(イランのカナート)も発掘されているのです。更に、ガラス工場(ガラス製造はカスピ海沿岸で発明)や富本銭(貨幣・紙幣は広域交易を行う騎馬民族が発明)製造跡などなど、仏教思想では説明がつかない宗教儀式遺跡が、飛鳥ヤマトから発掘されている現在、それでも、飛鳥ヤマトで、538年から「聖徳太子」(厩戸皇子)により、百済から持ち込まれた仏教文化の花を咲かせていた、と言えるのでしょうか。
藤原氏は、時代を超えて、宗教の摩り替えのエキスパートです。そこで、明治革命のドサクサに紛れて、どのような手順で、仏教国ニッポンを、神国ニッポンにすり替えたかを年代順に見てみましょう。
江戸幕府が、漢訳仏教思想で、庶民を統制していたのですが、諸外国の交易船が日本列島に押し寄せ、1828年シーボルト事件が起こる頃、越後の大地震、江戸の大火、京都の大地震などなど、天変地変が頻発するのです。この社会情勢に乗じて、漢訳仏教思想に疑問を持ち、更に、反抗する宗教者達が現れてくるのです。その筆頭が、漢訳仏教組織に牛耳られ隷属させられている藤原氏の神道派で、民間では、漢訳仏教思想の「穢多」の蔑称でイジメられている秦氏末裔が多く棲む河内地方で、強い呪術性と終末観を持ち、民衆救済を叫ぶ新興宗教が起こるのは、鎌倉時代と同じです。
この社会変革の前兆を好機ととらえて、江戸幕府の政策に不満を持つ民衆のエネルギーを利用するために、藤原氏は伊勢参りを流行らすのです。そのお参りは、社会の閉塞状態に鬱憤を晴らすように、民衆が参加したのは、「信心」よりも「色」で、内宮と外宮の間にある遊郭の古市訪問が主な目的であったのです。
藤原氏は、更に、民衆を騒乱状態にするために、1833年京都で「エライコッチャ踊り」を流行らせるのです。この藤原氏による倒幕のための民衆エネルギー利用の企画は、その34年後の、1867年名古屋を発信源とした、伊勢参りの「ええじゃないか運動」に繋がり、明治革命の民衆の蜂起に繋がっていくのです。
そのように、神仏習合の伊勢神宮寺は、明治革命が成功すると、1868年神仏分離令が発令され、民衆の現世利益神のアマテラスオオミカミの伊勢信仰から、アマテラシマススメオオミカミの国家神道へと変貌していくのです。その流れは、主に次のようです。
1870年正月、大教宣布の詔が出され、「大教」が天皇の古代的宗教的権威とされる。
1871年正月、明治新政府は、漢訳仏教組織に、境内地を除く全社寺領の上知を命じた。これにより、漢訳仏教組織は、江戸時代からの封建的基盤を失う。そして、明治新政府は、ジンジャの社挌を制定し、氏子調べ制度を新設した。5月には全国のジンジャが、神宮、官幣社、国弊社、府県社、郷社、村社、無挌社の七段階に格付けされた。
1872年仏教と神道のすり替えがうまく機能しなかったため、神祗省(1868年設置)を廃止して、教部省を設置し、「創り話」の専門家である落語家・講釈師・俳優・僧尼を動員して、大教宣布の宣伝を行う。神職、僧侶を教導職に採用。教導職の資格を持たない宗教者の活動は、淫祠邪教の人寄せとして厳禁した。
1873年キリスト教が解禁された。
1879年鳥羽伏見の戦いで戦死した官軍兵士の霊を神として祀るために創建された東京九段の招魂社が、靖国ジンジャと改称された。
1880年明治新政府は、伊勢派と出雲派との祭神論争の解決策として、祭祀と宗教の分離をし、国家神道体制を打ち立てる。
このような流れの後、ジンジャで「アマテラスオオミカミ」を祀る習慣を刷り込んだのですが、民衆は踊らなかったので、その対策として、ジンジャでの「お祭り」が発明されるのです。それが、現在、各地の町会が主催する「お祭り」の祖となっていくわけです。神様を祭るジンジャでの「お祭り」は、古来からではなく、明治革命後に発明されたものなのです。
その国家神道の流れで、腑に落ちないことは、1873年キリスト教の布教解禁があります。戦国時代に渡来したキリスト教(耶蘇会)と、その明治革命後に解禁されたキリスト教とは同じなのでしょうか。
明治新政府は、明治革命か成功した1868年長崎近郊の浦上村のキリシタン農民をいっせいに検挙し、そして、その村から追放し、流刑に処したのです。藤原日本史によれば、キリシタンの弾圧は、江戸時代の1637年の島原の乱で終結し、キリシタン宣教師を追放し、1639年鎖国を断行し、キリシタン組織は日本国では壊滅していたのではないでしょうか。
戦国時代のキリシタンの多くは、第二百済王朝の百済系北条鎌倉時代に発明された「穢多」の蔑称で、漢訳仏教組織にイジメられていた秦氏末裔であったのです。その秦氏末裔のキリシタンは、第三百済王朝の江戸時代、隠れキリシタンとして各地に棲息していたのです。その拠点のひとつが、九州の長崎にあったのです。
その江戸幕府の手先である漢訳仏教組織にイジメられていた隠れキリシタンの多くは、明治革命では薩摩藩と長州藩との軍事同盟を画策した、土佐藩の密偵坂本竜馬ではなく、大村藩の渡邊昇のように革命軍に参加して、倒幕で戦ったのです。
しかし、そのキリシタン大名は、戦国時代では、南九州の藤原氏が支配する島津氏を攻め滅ぼしていたのです。キリシタンは、藤原氏にとって「夷」だったのです。
その明治革命に成功した藤原氏にとっての次なる「夷」は、藤原氏の得意な戦術、「夷を以って、夷を制す。」により、源氏鎌倉政権を乗っ取った後に邪魔な源氏武士団(夷)を抹殺するために、百済系北条氏(平氏の夷)をけし掛けた、1221年承久の乱の陰謀で、六波羅探題を設置し「源氏狩り」をしたのと同じように、壊滅されていくのです。
その明治革命後の「夷」とは、薩摩藩の下級武士と長州藩奇兵隊のシシ達(秦氏末裔)であったのです。それらのシシ達は、1876年熊本神風連の乱、萩の乱、秋月の乱と、藤原氏に仕組まれた陰謀により次々と抹殺されていくのです。そして、シシ達のシンボル的存在の西郷隆盛は、征韓論者の汚名を付けられて、1877年西南の役で自害に追い込まれてしまったのです。そして、その西郷隆盛を自害させた大久保利通(夷)も、1878年暗殺されるのです。
これらの「夷を以って、夷を制す。」戦略により、藤原氏の当面の「夷集団」は、日本国には存在しなかったのです。ただひとり残る「夷」は、長州藩の下忍の乱民(秦氏末裔)であった、1885年日本初の内閣総理大臣となった伊藤博文です。明治天皇のすり替えに大いに関わっていた伊藤博文も、1909年ハルピンで暗殺されるのです。これにより明治革命に関わった「夷」は全て、自害、そして、暗殺したため、藤原氏による明治革命の謎の封印が、ここに完成したのです。  

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コメント
 
01. YUKIKOYUKIKO 2015年5月02日 15:21:46 : 4Z0Bt/030D6GA : H4C3XS8nNo
最近、誰が竜馬を殺したかで、幕府側が秘密裏に殺したという有力説が、そういえばそうか、と納得したところです。誰がが何国かが裏で糸をひいていた、というのも本当だと思います。けれどもあまりそういうことを気にしていない、そういうところが、竜馬の身軽さであり、暗殺された要因ではないかと思うのです。


2. 中川隆[-11075] koaQ7Jey 2019年3月29日 20:17:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[946] 報告

皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式


厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html


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皇族の性処理はタブー?天皇のセックス事情 2018年12月18日
https://thepartner.jp/3114


最近、小室圭さんと眞子様の婚約発表&延期や、新たな元号の発表でも話題の皇室。外からはうかがい知ることのできない世界ですが、そんな世界だからこそ気になってしまうの皇族のセックス事情。

天皇の初夜の迎え方や、やり方に関して特別なルールがあると言いますが、実際の所どうなのでしょうか。今回は、皇族のセックス・性処理事情について、歴史を踏まえて解説していきます。


天皇のセックスに関するしきたり

皇族には、代々の天皇から口頭で直接セックスに関する申し送りをするしきたりがあると言われています。これには皇室ならではのセックスに関する風習などが多く含まれており、初夜の作法、体位、出産しない時期の避妊法など多岐にわたります。

結婚をして、初夜を迎える者に対して代々申し伝えられているという仕組みです。こうした儀式・しきたりは、主に大正天皇の時代まで続けられていたと言われており、形式に変化はありつつも長い歴史の間続けられてきたと考えられています。

巫女の存在

こうしたしきたりの中でも重要な存在が、巫女です。皇室には巫女と呼ばれる女官が存在し、性において重要な役割を果たしてきました。女官は皇族の世話をおこなう女性たちのことで、性に関するものを含め多岐にわたる領域で役割を担ってきました。

皇室のセックスにおいては、巫女が重要な役割を果たしてきたと言われていますが、たとえば皇族の初夜において巫女がともに入浴するなど、数々の儀式において側には巫女がいたようです。

では、こうした儀式について見ていきましょう。

皇族の初夜の迎え方

皇族のセックスは巫女が手助けしますが、そのための準備や作法など、皇族の初夜はやらなければいけないことがたくさんあります。

初夜の床入りの際に白餅を用意しなければならなかったり、花婿と花嫁、巫女の3人で入浴をする入浴潔斎の儀など、皇族ではない私たちにとっては耳慣れないものばかり。

みそぎ

みそぎは皇室代々の風習で、皇族の直系男子である皇太子が、年頃(15歳から18歳頃)になると、性技に長けた巫女から性に関する技術を学ぶものです。

いわるゆる筆おろしの行為であり、このみそぎを担当した女官が巫女として、皇室男子の花婿とともに入浴をします。

入浴潔斎の儀

この入浴のことを、入浴潔斎(にゅうよくけっさい)の儀と呼びます。巫女とともに風呂に入り、体中を清めてもらいます。この際、花嫁も花婿も巫女とともに入浴すると言われています。

すでに述べた通り、ここで入浴する巫女はみそぎにおいて花婿に性に関する手ほどきをしており、花婿の生殖機能を確認しています。皇室にとって家系を途絶えさせないことは重要な役割のため、入浴潔斎の儀よりも前にみそぎを済まして、生殖機能に問題がないことを確認していることが大事なのです。

初夜装束を身につける

その後、花婿と花嫁は初夜を迎えますが、この時に初夜装束と呼ばれる着物を身に着けます。これは入浴潔斎の儀をすませた花嫁花婿が、初夜のために着る白い着物のことです。

この着物にはその下には一切何も下着をつけないと言われています。

初夜の床入り

いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

露見

床入りをへてセックスに至りますが、この際には介添人が、花嫁花婿のセックスの場に立ち会い、一部始終を見届けます。

またセックスが終わったあとは、寝所の扉を開けて、壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで寝ている夫婦のシーツに処女の証である血がついているところを確認する役目も果たします。

現在の皇室におけるセックス事情は?

以上、皇室に代々伝わるセックスに関する話を紹介しました。皇室のセックスにおいては、巫女含めて3人で入浴をしたり、他人にセックスを見届けられなければいけなかったりと、一般人には驚きのしきたりが数多くあります。

もちろんこれらの儀式は、歴史的な皇室においておこなわれてたきもので、現在の天皇家において、どの程度まで続けられているかは不明です。一般的に、明治・大正天皇の時代までは儀式が重んじられていたと言われていますが、一部の儀式については現在も残っている可能性もあります。

ただし、人権意識が高まった現在においては、こうした儀式が天皇や皇室にとって負担になっている事実もあり、SPがついていたり、日々の行動が制限されているとはいえ、皇室や天皇も普通の人と同じような生活をすることが目指されていることから、あくまでも歴史的なセックスの儀式・しきたりだと考えていた方が良さそうです。
https://thepartner.jp/3114

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>花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。

>新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。

>いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

>花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。


空港まで車で三宅さんを迎えに行った。


高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。


あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。


天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。


いま、あのときの顔を思い出しています。


三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

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