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乱世を生き抜く知恵 第21回フランシスコ・ザビエル−神を連れてきた男と日本人− 経営・戦略 泉 秀樹 
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投稿者 軽毛 日時 2016 年 9 月 20 日 10:23:18: pa/Xvdnb8K3Zc jHmW0Q
 


乱世を生き抜く知恵 第21回フランシスコ・ザビエル−神を連れてきた男と日本人−
経営・戦略 泉 秀樹 2016年09月16日

フランシスコ・ザビエル
 カトリック教会の宣教師でイエズス会創立メンバーの1人。日本に初めてキリスト教を伝えた。ゴアに到着した1542年から中国・広東省の上川島で亡くなるまでに受洗した人数は聖パウロを超えると言われている。享年46。
(撮影地:スペイン・ザビエル城)
鉄砲と聖書
 フランシスコ・ザビエルがマラッカ(マレーシア)を出発して日本に向かったのは天文18年(1549)6月24日である。
 同6月24日、薩摩(鹿児島県)の島津忠良・貴久の幕下にあった伊集院忠朗は、島津勢に敵対する肝付兼演(きもつきかねひろ)がたてこもっている大隅の加治木城(鹿児島県姶良市)を攻撃した。これに対して兼演は弓と鉄砲で応戦したものの、結局は敗北して島津氏の幕下に入ることになった。
 さほど有名な合戦ではないが、重要なのはこの合戦に鉄砲が本格的に使われたことが記録に登場する最初の合戦だったことである。
 そして、ザビエルの乗ったジャンクが鹿児島の稲荷川河口・戸柱港に接岸したのは、この合戦からわずか52日後の8月15日であった。
 長い日本の歴史の流れから考えれば、52日という時間差は、ほとんどないようなもので「鉄砲」と「聖書」は一対であり、同時期から日本の近代化という車軸の両輪になったと考えるべきだろう。


ザビエル上陸祈念碑(鹿児島市祇園之洲公園)
ザビエルは布教への熱い想いを胸に日本へ上陸した。それは同時に「銃と聖書」を日本にもたらした。

銃と十字架
 ライバルのスペインとともに華やかな大航海時代を築いていたポルトガル国王ジョアン3世は、東インド地方(インド、東南アジア、極東を含む地域の総称)にカトリックの司祭を派遣することを思いたった。
 それまでに獲得した植民地を政治・経済・軍事的に支配するだけでなく、そこに生きる人々をキリスト教化することによって支配体制をいっそう強固に安定させるためで、布教活動はこの時代の豪宕な武力制圧型植民地主義と親密な協力関係にあった。
 これが鉄砲と聖書が一対であり、一本の車軸の両輪であったということである。
 具体的には、ジョアン3世がローマ教皇に東洋への司祭の派遣を願い出た。
 ローマ教皇はイグナチオ・ロヨラをリーダーとするイエズス会にインド布教を命じた、という経緯である。 
 そして、ロヨラとともにイエズス会を設立したザビエルは、天文11年(1542)5月にインド・ゴアに赴任した。
 以来布教活動に明け暮れていたザビエルは、ある日マラッカ(マレーシア)の「丘の上の聖母教会」でヤジローという罪のゆるしを願う日本人と出会うことになった。

マレーシア・マラッカの丘の上の聖母教会
ヨーロッパ人ザビエルと日本人ヤジローの出会いは、記録に残されたヨーロッパと日本のはじめての出会いであった。
 根占(鹿児島県肝属郡南大隅町)の武士階級の出身だといわれるヤジローは、人を殺し、鹿児島に停泊していたポルトガル船に逃げこんで、それ以後は海外で逃亡生活を送っていた。そして、罪を償うためにザビエルに出会うことになったのだった。 
 このころはヨーロッパ人が日本の存在を知ってからまだ日が浅く、ザビエルもヤジローからはじめて日本と日本人についてさまざまな知識を得て驚いた。
 東インド地方でそれまでに出会った人々と、日本人とは、非常に異なっているように思われたのである。
 そのあとザビエルがゴアで洗礼をさずけたヤジローは、殺人犯ではあったが頭が良く、礼儀正しく、理知的で学ぶことが好きだった。
 ザビエルは「若し全部の日本人が彼(ヤジロー)と同じように学ぶことの好きな国民だとすれば、日本人は、新しく発見された諸国の中で最も高級な国民であるとわたしは考える」(『聖フランシスコ・デ・ザビエル書翰抄』ペトロ・アルーペ・井上郁二訳)という。
 また、日本からマラッカへ戻ってくる商人たちに尋ねても、日本人はたいへん理性的であり、他の国よりはるかにキリスト教を受け入れる可能性が高い、と口々にザビエルに語った。
 こうして日本の情報を収集・分析したザビエルは、日本布教を決心し、コメス・デ・トルレス司祭、ファン・フェルナンデス修道士および2人の従者やヤジローなどを伴ってジパングの薩摩・鹿児島をめざしたのだった。


マレーシア・マラッカの丘の上の聖母教会のザビエル像
マラッカの海辺の丘は、要塞の中心になっていた。穏やかな表情で佇むザビエルは、ここでも慕われている。
ザビエル、神の教えを説く
 鹿児島の戸柱港に到着したザビエルたちは、さっそく神の教えを説きはじめた。
 唯一全能の、永遠なる神について熱心に語った。
 そして、ザビエルの噂は領主である島津貴久の耳にも入り、まずヤジローが貴久の居城である一宇治城(鹿児島県日置市伊集院町)に招かれた。


一宇治城跡(鹿児島県日置市・城山公園)
島津貴久に招かれたザビエルは、ここで布教活動の許可をもらった。
 ヤジローは幼子イエスを抱いた聖母マリアの絵を持参し、貴久はこれに感動を示してその前にひざまずき、家臣たちにもひざまずくように命じた。
 また、貴久の母もこの絵はどうしたら手に入るかと、あとでヤジローに尋ねてきた。
 つづいて、9月29日にはザビエルにも謁見が許され、貴久は鹿児島における布教を許可した。
 このとき貴久は島津家15代・当主の座について数年しか経っておらず、薩摩全体が大隅、日向を併合しながら欝勃たる新興の力強さに充ちていた。
 貴久から住む家(所在不明)もあたえられたザビエルは、戸柱港から1.5キロほど西にある島津家の菩提寺・福昌寺(鹿児島市池之上町・玉竜高校裏)の住職・東堂忍室(勝文)と親しくなった。
 語学力の不足からヤジローが「デウス」を「大日如来」と誤訳し、忍室がザビエルを天竺から来た仏僧だと勘違いしたためだ。
 やがては間違いに気づいて敵対しなければならなくなるが、それまでは親友同士のようにつきあい、人々は2人の親しい様子を見てザビエルに「白坊主」、忍室には「黒坊主」というニックネームをつけた。
 そして、この「坊主」といういいかたには、2人に対する親しみと、どんなに異なる宗教でも混在させてしまう日本人の庶民感覚がうかがわれる。西欧や中東的な一神論ではなく、日本人の汎神論的な気質である。
 全知全能の唯一の神を、八百万(やおよろず)、八百万分の一、ONE OF THEMにしてしまう日本人の体質と、日本の湿潤な風土のありかたを考えさせるエピソードだといえよう。


福昌寺(鹿児島市)
島津家の菩提寺。墓地に歴代の墓がならんでいる様子は壮観である。是非参詣に行くべき興味深い場所だ。
ザビエルから見た日本人(1)
 ザビエルは福昌寺の石段でキリスト教を説き、鹿児島の人々は明るい表情でさまざまな質問を投げかけた。
 ザビエルがそうした日本人についてうれしそうに語っている。
 「此の(日本の)國民は、わたしが遭遇した國民の中では、一番傑出してゐる。私には、どの不信者國民も、日本人より優れてゐる者は無いと考へられる。日本人は、総體的に、良い素質を有し、悪意がなく、交わって頗る感じがよい。彼等の名譽心は、特別に強烈で、彼等に取っては、名譽が凡てである。日本人は大抵貧乏である。しかし、武士たると平民たるとを問はず、貧乏を恥辱だと思ってゐる者は、一人もゐない。
 彼等には、キリスト教國民の持ってゐないと思はれる一つの特質がある。それは、武士が如何に貧困であらうとも、平民の者が如何に富裕であらうとも、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じやうに尊敬されてゐることである。また貧困の武士は、如何なることがあらうとも、また如何なる財寳が眼前に積まれようとも、平民の者と結婚などは決してしない。それに依つて自分の名譽が消えてしまふと思つてゐるからである。それで金銭よりも、名譽を大切にしてゐる」
 ザビエルの見た日本の原住民は誇り高く、美しく、卑しいところのない日本人であった。
 「彼等は侮辱や嘲笑を黙って忍んでゐることをしない。平民が武士に対して、最高の敬意を捧げるのと同様に武士はまた領主に奉仕することを非常に自慢し、領主に平身低頭してゐる。これは主君に逆つて、主君から受ける罰による恥辱よりも、主君に逆ふことが自分の名譽の否定だと考へてゐるからであるらしい」
 ザビエルは日本人が酒好きであることにちょっとクレームをつけ、さらに賛美し続けている。
 「日本人の生活には、節度がある。たゞ(酒を)飲むことに於て、(日本人は)いくらか過ぐる國民である。彼等は米から取つた酒を飲む。葡萄は、こゝにはないからである。賭博は大いなる不名譽と考へてゐるから、一切しない。何故かと言へば、賭博は自分の物ではないものを望み、次には盗人になる危險があるからである。彼等は宣誓によつて、自己の言葉の裏づけをすることなどは稀である。宣誓する時には、太陽に由つてゐる。住民の大部分は、讀むことも書くこともできる。これは、祈りや神のことを短時間に學ぶための、頗る有利な點である。日本人は妻を一人しか持つてゐない。竊盗は極めて稀である。死刑を以て處罰されるからである。彼等は盗みの悪を、非常に憎んでゐる。大變心の善い國民で、交はり且つ學ぶことを好む」
 ザビエルの目には、日本人が最高に「心の善い國民」に映じていた。
 ザビエルはバスク人(スペイン)である。
 バスク人はベレー帽を好み、一般のスペイン人と比較して小柄で働き者だといわれる。 冒険心に富み、闘うときは猛々しく勇敢過激で民族意識が強く、誇り高く、難解なバスク語を話すことを頑固に守っている。バスク語は言語学的にフランコ時代には使用を禁止されていた類例のない特殊な言語である。
 こうした特徴をことごとく備えた典型的なバスク人だったといわれるザビエルは、あるいは鹿児島に住む日本人に理想的なバスク人のイメージや、自分と似たところを見出していたのかもしれない。


続く布教の旅
 そして、少しずつ信者は増えていった。
 ヤジローの義弟か従弟と思われるベルナルドという洗礼名の青年(のちにポルトガルに留学した日本人で最初の留学生)や、ザビエルが住んでいた家の娘マリア、そしてヤジローの家族や村の人々。
 しかし、僧侶や神官たちの妨害で、キリスト教徒の数はなかなか増えなかった。
 それに加えて日を追って仏教界の反発・不満が強くなった。寺社の祭礼に人が集まらず、賽銭やお布施が激減してしまったのがきっかけである。したがって、貴久も領主としてキリスト教を禁止せざるをえなくなった。 
 結局、鹿児島滞在約1年でザビエル一行は次の目的地である平戸(長崎県)に渡った。
 「そこの領主は、私達を大いに歓迎した。そこに居ること暫くにして、住民の数百名が信者になった」という。
 領主・松浦隆信はポルトガルとの貿易を重視していたから、ただちに布教を許可したのである。
 そして、さらに布教拡大に努めるため、一行のうちトルレス神父が平戸にとどまって、ザビエルはフェルナンデス修道士やベルナルドらとともに山口に向かった。
 寒風の吹きすさぶ道筋や山口の街頭で説教をするザビエルのもとに、人々は集まった。 なかには嘲笑したり石をぶつける者もいたが、熱心に耳を傾ける者も少なくなかった。
 ザビエルたちに宿を提供した内田とその妻は山口で最初のクリスチャンになった。
 また、大内義隆の家臣・内藤興盛は熱心な仏教徒であったが、ザビエルたちを屋敷に招いたり、ザビエルを義隆に会わせるために力をつくした。
 その結果、実現した会見の席上、義隆は、ザビエルに日本に来た理由やキリスト教の教義について質問し、それに対してザビエルは1時間以上も自分たちが日本語でつくった教理書を読み上げて説明した。
ザビエルから見た日本人(2)
 また、山口の日本人についても、ザビエルは最上級の褒め言葉をヨーロッパに書き送っている。
 「日本人は、わたしの見た他の如何なる異郷國の國民よりも、理性の聲に柔順の民族だ。非常に克己心が強く、談論に長じ、質問は際限がない位に知識慾に富んでゐて、私達の答えに満足すると、それを又他の人々に熱心に傅へて己まない。地球の丸いことは、彼等に識られてゐなかった。その外、太陽の軌道に就いても知らなかつた。流星のこと、稲妻、雨、雪などに就いても質問が出た。
 かくて私達は、彼等の凡ての質問に十分の答を與へることができたので、彼等は大いに満足して、私達を学者だといふ」
 このあとザビエルは山口から三田尻(あるいは小郡)へ行き、船で瀬戸内を旅して堺を経由して京都におもむいた。国王(後奈良天皇)から布教の許可をもらうためである。
 しかし、貢ぎ物を用意していなかったこともあり、天皇の謁見は許されなかった。
 また、比叡山の僧侶たちとも対話をしたいと考えて近江・坂本(滋賀県)にも行ってみたが、それも実現できず、荒れ果てた京都の街頭での説教も無理ということで、むなしく山口に戻ることにした。
 京都にいた日数はわずか11日間だった。
 京都の南の鳥羽から川舟で堺(大阪府堺市)に下り、堺から再び平戸に立ち帰ったザビエルは、衣服を整え、インド総督とローマ教皇の正式な使節として立派な贈り物を携え、再び山口に引き返して大内義隆に謁見した。
希望を胸に
 こうしてザビエルは義隆に領主名で布教許可の布令を出させることに成功し、山口における成果は日ごとにあがっていった。
 ザビエルは日本の布教に明るい光を見出した。


龍福寺・復元説教井戸(山口県山口市)
大内義隆に布教の許可を得たザビエルは、山口の街の大殿大路の井戸の傍で人々に呼びかけた。その井戸枠はいま大内家の菩提寺の参道に移されている。
 そして、山口で5か月ほどを過ごしたころ、ザビエルは豊後・府内(大分市)に向かうことになった。そこにポルトガル船が入航したという連絡と、大友宗麟(義鎮)の招請があったからである。
 宗麟は貿易とキリスト教に対してまことに熱心で、ザビエルとはたちまち意気投合した。


大友宗麟像(大分県大分城)
 その結果、ザビエルはトルレスとフェルナンデスを日本に残留させて布教活動をつづけさせ、みずからは宗麟がインド総督に派遣する使者と、鹿児島のベルナルドと、山口で弟子になったマテオ(日本名不明)をともなって府内を出帆し、マカオに向かった。
 船はいったん種子島に寄港してから日本を離れた。
 結局、日本に来て2年3か月でザビエルは日本を去った。
 自分の蒔いた種が、たしかに日本の土に根をおろしつつあると信じてトルレス神父らを残して日本を去ったのだ。
 ザビエルが日本に滞在した時間はそう長くはなかったけれども、その影響はきわめて大きく、日本に残留したトルレスとフェルナンデスの懸命な努力も、徐々にだが効果をあげていった。
 元亀2年(1571)には長崎が港としてひらかれ、マカオから定期船が来るようになり、このイエズス会が司法権を握る港町は伝道と貿易の中心地としてにぎわうようになった。のちに日本に滞在するイエズス会の伝道者55名、信徒10万を数えるにいたるのである。
 ザビエルの時代は造船技術の飛躍的な進歩によってヨーロッパ各国が競って新航路を開き、交易による莫大な利益と植民地の拡大を争う大航海時代の真っ只中にあった。
 彼らはリスボンを出航してアフリカ南端の喜望峰を回り、インドのゴア、マラッカ、マカオを経由する海の回廊を、波濤万里を越えて、続々と日本に向かった。
 彼等はおびただしい量にのぼる生糸と硝石(火薬)と鉛(弾丸)を運び続け、それを使った日本人はおびただしい量にのぼる血を流すことになったのである。 
聖教の行く末
 ザビエルは明(中国)に密入国してキリスト教をひろめるため、上川島(広東省台山市)まで行き、そこで肺炎(肋膜炎?)で死亡した。天文21年(1552)12月3日の夜明けのことである。
 やがてザビエルが伝えたキリスト教は天正15年(1587)には秀吉によって禁じられることになった。
 秀吉は博多の箱崎神宮の陣で突然「伴天連追放令」を発したのである。
 秀吉はイエズス会の宣教師たちの布教活動が日本占領計画と一対になっていることを知っていた。
 とはいえ、これはイエズス会ひとりの責任ではなく大航海時代であったからだ。
 たまたま日本という鉄砲と聖書が同居しなければならなかった時代だったのだ。
 そして、このためにキリシタン禁制は日を追って強化され、信者に対する苛酷な迫害と処刑がはじまるのである。
 最盛期には約70万人いたという信者は、徳川幕府の封建支配体制が安定するにつれて、少なくとも表向きはひとりもいなくなった。望むと望まざるとにかかわらず、明治になるまで日本人はことごとく寺社の壇信徒として登録されることになったのである。
いま、すべきこと〜日本人の自画像を見つめ直す
 それにしても、ザビエルが鹿児島や山口で出会った日本人は、なんと美しい日本人だったことだろう。なんと素晴らしい日本人であったことか。
 鹿児島や山口以外にも堺、京都、大分などを歩いたザビエルは、日本人がヨーロッパ人に負けず劣らず利にさとく、狡猾であることもちゃんと見抜いていた。
 だが、マイナス要素よりも美点の方がはるかに多かった。ザビエルが指摘したように、多くの美徳を備えていたのである。
 いま、日本人として私たちが鏡を見て向かい合う自画像は、あきらかにザビエルが出会った日本人とは異なっている。
 あまりにも変わりはててしまったというべきではないか。
 日本人がどう変わったか、読者諸賢のご意見を是非お伺いしたい。


歴史アナリストの視点

 『日本西教史』(ジャン・クラッセ著)に、キリスト教布教の許可を得ようとしたザビエルが、大内義隆に鉄砲、クリスタルグラス、鏡や眼鏡などとともに「ひとつの小さな自鳴鐘」(Une petit horloge sonante 室内用時打ち掛け時計)あるいは「ひとつの大きな精巧な時計」(eine grossekun・stovlle Uhr 小型掛け時計)を献上した、と記されている。
 天文20年(1551)のことで、これが日本に伝来した最初の機械時計であった(大内家滅亡時に失われた)。
 それまで日本人は漏刻(水時計)、香時計、日時計など自然の動きによって時の推移を認識していた。
 端的にいえば日の出、日の入り、昼、夜を6等分して、それを生活の時間感覚にしていた。庶民は夜が明ければ起きて働き、日が暮れれば寝ていた。それで充分だったのだ。
 もちろん、ザビエルが1台の時計を日本に持ち込んだからといって、日本人全体の時間感覚に大きな影響をあたえたわけではない。
 しかし、ザビエルが西欧先進国の新しい時間感覚をヨーロッパから日本へ持ち込んだことは、小さなことではなかった。
 ザビエルの土産物を見た日本人は「天竺の贈り物、様々なる内に十二時を掌る夜昼の長短を違えず響く鐘の声」(『大内義隆記』)である、ととらえた。
 いいかえれば、ザビエルはまずキリスト教の「永遠」の存在について説き、その永遠が時計という機械によって正確に時間単位ではかられていくことを日本人に教えたのだ。
 あるいは、それまで自然の動きとともに、無意識のうちに毎日を送っていたアミニズム的な時間感覚しかもっていなかった日本人の生活に、ザビエルが人工的かつ合理的に時間をはかる「時計」を持ち込んだことによって、逆に不変の「永遠」が存在することを明確に意識させたともいえる。
 
 山形県・米沢市の米沢市上杉博物館にある上杉家所蔵『洛中洛外図屏風』(国宝)は長い時間見ていても飽きない名品中の名品である。これは信長が狩野永徳に描かせて、上杉謙信に贈ったものだ。なぜこのような名品を謙信に贈ったかというと、信長は謙信がおそろしかったからである。
 謙信の軍は質実剛健、寒さに強く、粗食に耐え、辛抱強くて士気高く勇猛であったから、信長はほんとうにこれをおそれた。顔色が蒼白になるほど謙信がこわくてならず、ご機嫌をとるために名品を贈呈したのだ。
 雪がとけるころになると、北国の将兵が動くから、さすがの信長も春がくるたびにおびえなければならなかった。だから、謙信が脳卒中で倒れたときは、信長は狂喜乱舞したい気持ちであったにちがいない。要するに、信長が屏風の名品を贈る相手は、おびえるほど力がある者、ということである。
 そこで、もう1枚の屏風について話したい。
 天正9年(1581)『イエズス会日本年報』に、信長が安土城の屏風を描かせたという記録がある。
 「約一年前、日本の最も著名な画工に命じて、新京(安土)と其城の絵を少しも実際と相違なく、湖水(琵琶湖)諸邸宅その他一切を有りのままに描かせた。(中略)完全な作品であり、著名な画工が非常に努力して絵を描いたものである故、信長は大いに満足してこれを珍重した」(村上直次郎訳)
 狩野永徳が描いたこの屏風は見事な出来栄えであったらしく、これを見るために大名や京・堺の人々が続々と安土を訪れたという。また、朝廷からは是非ほしいと所望されたが、信長は献上しなかった。そして、誰にもわたさなかったこの屏風を、信長は、ローマから派遣された日本巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父にあたえた。
 ヴァリニャーノはザビエルの次の世代の宣教師であり、のちに少年使節をローマへ送るという企画を立案した。
 天正少年使節である。
 伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノたちであり、ヴァリニャーノは彼らに信長から贈られた狩野永徳の屏風を持たせてローマ教皇グレゴリウス13世への贈り物とした。
 このグレゴリオ暦の制定とコレジョ・ロマーノ(グレゴリアン大学)で有名な貴族出身の教皇は、かねてからマカオ司教区を設立し、大村純忠や平戸で熱心に教会活動していた龍手田左衛門というキリシタンに手紙を送るなどして東洋に並々ならぬ関心を抱いていた。
 信長は恐らくこうしたことをヴァリニャーノから聞いていたのだろう。また、バチカンがどのような世俗的な力、それも絶大な力を持ち、人々の精神にどのように強大な影響をあたえるかも教えられたことだろう。でなければ、屏風の名品をヴァリニャーノに贈呈するはずがなかった。
 少年使節から屏風を贈られたグレゴリウス13世は大いに喜び、バチカン宮殿の地誌廊に飾ることにした。しかし、残念ながら、この屏風は現在行方不明になっている。これさえあれば安土城の全貌や城下の市街地の繁栄、琵琶湖の様子などがわかり、信長の時代を解明する有力な史料になるはずだが、残念なことである。バチカンの倉庫のどこかにはあるといわれるが。
 つまり、ザビエルは西洋の影響力の恐ろしさをも、同時に日本にもたらした。
 この力は、日本を近代化に導いた力であった。
 ビジネスマンは、ただ毎日働いているだけでなく、こうした彼我の文化の違いを、ときには明確に意識してほしい。アメリカでもヨーロッパでもいいから、外国人ビジネスマンの書いた本を年1冊くらい読んで、信長のように日本人であることを考えてみてほしい。


フランシスコ・ザビエルの足跡

聖パウロ神学校跡(インド・ゴア)
ザビエルを日本に向かわせるきっかけとなったヤジローは、ここでキリスト神学を学んだ。

稲荷川河口(鹿児島県鹿児島市)
ザビエルは鹿児島の稲荷川河口・戸柱港から初めて日本の地を踏んだ。

上川島(中国広東省)
ザビエルは上川島で亡くなった。遺体はゴアに送られたが、その体は死後も腐敗しなかったという。奇跡の証として、ザビエル腕はローマに送られた。

安置されたザビエルの腕(ローマ・ジェス教会)
撮影:泉 秀樹
(2016年9月16日公開)
https://www.blwisdom.com/strategy/series/rekishi4/item/10623-21.html

 

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