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イグナツィ・ヤン・パデレフスキ _ 才能はともかくオーラだけは凄い
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html
投稿者 富山誠 日時 2013 年 4 月 04 日 11:02:07: .ZiyFiDl12hyQ
 

(回答先: 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? _ アメリカ人には音楽は理解できない 投稿者 富山誠 日時 2013 年 3 月 23 日 12:26:55)


パデレフスキ 画像
http://www.google.co.jp/search?q=Paderewski&hl=ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=wdJcUZjKDKi9iAe9r4CABw&ved=0CJgBEIke&biw=998&bih=892

パデレフスキ ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD

パデレフスキ - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&oq=%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&gs_l=youtube-reduced.12...0.0.1.44.0.0.0.0.0.0.0.0..0.0...0.0...1ac.

Paderewski - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=Paderewski&oq=Paderewski&gs_l=youtube-reduced.12..0l3.2365.2365.0.3483.1.1.0.0.0.0.542.542.5-1.1.0...0.0...1ac.e7cOgo0BEqQ


パデレフスキ作曲  ピアノ協奏曲 イ短調 Op.17
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15876901


パデレフスキ: ピアノ協奏曲 Op.17

音楽史において、イグナツィ・パデレフスキほど特異な経歴を持つ作曲家はいないかもしれません。なんてったって、ポーランド第3代首相ですから。ピアニストが一国の首相になるなんて、最初で最後のことかもしれませんね。
作曲家・演奏家・編集者(ショパンの楽譜の校訂で有名)・政治家と、まさに八面六臂の大活躍をしたパデレフスキですが、作曲に関しては、残念ながら『メヌエット』くらいしか有名でないのが現状です。たしかに、それほど魅力的な作品が多いわけではありませんが(失礼)、それでも佳作はいくつかあると思います。

今回は、その中から、『ピアノ協奏曲 Op.17』を紹介したいと思います。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=MQvDfpoLMzs
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=SHgQPSiqFOc
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=dDuX5qjf9sk
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=iZct56t453c
http://takenoff.com/classic/h/ignacy_paderewski/20090720235749.html

曰く言い難く 2012/3/5 By 架空の人物

どのように表現したら良いのか、この曲は本当に切なく美しい音の雫に彩られた協奏曲です。
力強く牧歌的なオーケストラで始まるこの協奏曲は、次第に哀愁漂う切ない感じになって行き、ピアノの独奏が始まります。これが非常に美しく、いとおしく心の深部に迫って来ます。
チャイコフスキーやショパンとはまた違った感情の波を起こしてくれるでしょう。パデレフスキのその他の作品もそうですが、作風はスラブ的であり、またロマン派(国民学派)のように思えます。しかしこの協奏曲は国民学派という範疇には納まらず、非常に脆く懐かしく切ない感じを与えてくれます。私は彼の最高傑作だと考えています。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2-%E3%82%A4%E7%9F%AD%E8%AA%BF-%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B9%BB%E6%83%B3%E6%9B%B2-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB/dp/B00005F4XX

ショパン : ワルツ集/パデレフスキ版第9巻 [楽譜]
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ (著)

内容が古いですが、多くの演奏家が使ってきました 2010/6/4 By nenemu
ピアニストのパデレフスキ(1860-1941)が編集した、有名な版で、長い間決定版とされてきました。ただ刊行後半世紀以上を経過しているので、最近の研究を反映しておらず、すでに古い内容となっています。編集も、フランス版、イギリス版等、複数の版から「いいとこ取り」をしていて、方針がはっきりしていないようです。
また印刷が荒く、譜面が読みづらいです。

今日のショパン演奏では、エキエル編ナショナル・エディション が決定版となっています。またはエキエル版以降の研究を反映した版の方が信頼性があります。
(音友版2008年刊New edition など。ウィーン原典版は未刊)

ただし多くの名演奏の録音は、このパデレフスキ版に基づいているので、他版を見ながら演奏を聴いていると違和感を感じる向きもあるようですし、「あの名演奏と同じ演奏がしたい」という人には、今でもこちらの方がよいのかもしれません。
先生に付いて習っている方は、よく相談して選んだ方がよいでしょう。

ショパンを弾けるようになりたい人へ, 2004/12/30 By "burako"
パデレフスキ版は原典に基づいて編集されていますので、ショパンの「こう弾いてほしい」という想いを最大限に汲み取っています。
楽譜の最後には小節に区切って、「こういう説とこういう説がある」などという、楽譜表記上でもめた部分や、「こちらの方が適切だと思われる」という編集にあたっての観点も事細かに述べられていますので、『楽譜を読む』勉強にもなると思います☆
私は演奏会を聴きに行くときのお供にしています*^__^*
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3-%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%84%E9%9B%86-%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E7%89%88%E7%AC%AC9%E5%B7%BB-%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3/dp/4636550102


パデレフスキの『メヌエット』(自作自演 1906年ピアノロール)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12990895

パデレフスキの『メヌエット(自作自演)』+『月光ソナタ』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10567024

パデレフスキが弾く『月光ソナタ 第3楽章』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11190170

パデレフスキが弾く『英雄ポロネーズ』(ピアノロール 1906年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12104177

パデレフスキが弾く『英雄ポロネーズ』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10580407

パデレフスキ リスト:ハンガリー狂詩曲第2番 嬰ハ短調
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15489082

ハンガリー狂詩曲 S.244 第2番 嬰ハ短調
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9513275

クラヴサン曲集 第1巻 第5組曲 イ長調 第7番 髪の光沢剤(La bandoline)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10650775

19世紀生まれの7人のピアニストが弾く『木枯らしのエチュード』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10631113

19世紀生まれの5人のピアニストが弾く『別れの曲』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9587428

19世紀生まれの4人のピアニストが弾く『12の練習曲 Op.10 第7番 ハ長調』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10617488

19世紀生まれの4人のピアニストが弾く『メヌエット(パデレフスキ作曲)』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11125192

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官である。第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代首相。氏名はフランス語式に簡略化して、Ignace Paderewskiと綴られることがある。日本ではパデレフスキーとも表記される。

現在ウクライナ領となっているポドリア地方の寒村クルィウフカ (Kuryłówka) に生まれる。父親はポーランド貴族(シュラフタ)で、自宅の屋敷で経済学者として働いていた。生母はパデレフスキを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキは遠い親族によって育てられた。

パデレフスキは幼年期から音楽に興味を示し、初めは個人教師についてピアノを学んだ。1872年、12歳でワルシャワ音楽院に進学した。1878年に卒業後、母校のピアノ科で教師になるよう依頼され、それを引き受ける。1880年にアントニナ・コルサクヴナ (Antonina Korsakówna) と結婚し、まもなく最初の子アルフレト (Alfred) が生まれた。

しかしながら翌年になると長男の障害が判明し(1901年に死去)、10月にアントニナ夫人も亡くなってしまう。パデレフスキは音楽に献身することを決心して、1881年にベルリンに留学して、フリードリヒ・キール (F. Kiel) とハインリヒ・ウルバン (Heinrich Urban) に作曲を師事。1884年にウィーンに移り、ウィーン音楽院でレシェティツキに入門する。1885年から1886年までシュトラウスブルク音楽院で教鞭を執った後、1887年にはウィーンでのデビューを果たした。

やがて大変な人気を集めるようになり、その後の出演は(1889年パリ、1890年ロンドン)大成功となった。パデレフスキの輝かしい演奏は大熱狂を巻き起こし、ほとんど異様なほどの長さに渡って賞賛の的となった。

パデレフスキの成功は、1891年にアメリカ合衆国においても繰り返された。パデレフスキの名は、たちまち高水準のピアノ演奏と同義となり、社交界が彼に跪いたのである。

パデレフスキは、万全の技術を身につけるのに忍耐力が必要なことを、以下のように述べ、多くの人に記憶されてきた。

「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」

( “If I miss one day’s practice, I notice it. If I miss two days, the critics notice it. If I miss three days, the audience notices it.” )



1899年にドゥ・ローゼン (de Rosen) 男爵未亡人ヘレナ・グルスカ (Helena Górska) と結婚し、1900年以降はめったに人前で演奏しなくなった。その代わりに作曲家として、それも主にピアノ曲の作曲家として有名になった。

1901年にはオペラ《マンル Manru》がドレスデンで上演された。また、夫婦で社会事業や寄附活動も行なった。例えば、貧しい農家の子女のために学校を開いたほか、1910年には、ドイツ騎士団に対するポーランドの戦勝500周年を記念して、古都クラクフの住民にモニュメントを贈った。また同年には、ショパン生誕100周年記念のモニュメントも建てている。1913年にパデレフスキはアメリカ合衆国に居を構え、サンフランシスコに2000エーカーのブドウ畑を所有し、ワイン製造業を興している。

第1次世界大戦中にパデレフスキは、パリの「ポーランド民族委員会」の活動家となった。ポーランドは当時まだドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり、この委員会は三国協商側から、三国連合側ポーランドの代表と見なされていた。パデレフスキはこの組織のスポークスマンとなり、ロンドンにおける「ポーランド回復基金」など、その他の社会組織や政治組織をまもなく立ち上げた。

1908年には演奏時間が70分を超える大作交響曲ロ短調Op.24『ポーランド』(英語版)を作曲している。

1918年4月に、パデレフスキはニューヨーク市で、「アメリカ・ユダヤ人委員会」の指導者(ルイス・マーシャルなど)に会い、ユダヤ教徒を同権とすることと引き換えにポーランドの領土的回復の野心を支援してもらおうと交渉を持ち掛けたが、失敗したという。

第1次世界大戦の末期、まだポズナニ市と大ポーランド全域の運命に決着がついていなかった時期にパデレフスキはポズナニを訪れ、1918年12月27日の演説において、ポズナニのポーランド人住民がドイツに対して武力蜂起を起こすように呼びかけた。

1919年に新生の独立ポーランドにおいて、パデレフスキはポーランド首相と外務大臣を兼務した(1919年1月〜11月)。為政者としてパデレフスキは、ポーランドを代表してパリ講和会議に出席した。任期を終えると、国際連盟ポーランド大使を勤めた。

1922年にパデレフスキは政治の道から引退して、演奏活動に復帰した。長い中断の後での最初の演奏会はカーネギー・ホールで催され、目ざましい成功を遂げた。やがてスイスのモルジュに転居した。1926年のユゼフ・ピウスツキによるクーデターの後、パデレフスキは体制翼賛法案に反対する活動家となった。1936年に反体制メンバーが、スイスのパデレフスキの邸宅で署名を行った(この間、1929年にヘレナ夫人が心の病から社会事業を続けられなくなり、1934年についに他界している)。

「1939年ポーランド祖国防衛戦争(ポーランド9月作戦)」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年には、ロンドンにおける「ポーランド国家評議会」、すなわちポーランド亡命政府の指導者になった。今や80歳の芸術家が、再びポーランド回復基金を発足させ、財源確保のために何度か演奏活動を行なったのである(最も有名なのはアメリカ合衆国での演奏会)。このような演奏旅行の最中に、パデレフスキは1941年6月29日の午後11時に、ニューヨーク市に客死した。亡骸はアーリントン墓地に葬られたが、1992年にその遺灰がワルシャワに持ち帰られ、レフ・ヴァウェンサ大統領とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が列席する中、ワルシャワ聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬された。

目下のところポーランドの大都市では、パデレフスキにちなんで通りの名前が付けられている。ニュージャージー州パース・アンボイ Perth Amboy の市街も、パデレフスキを称えてつけられた。 ちなみに、ポズナニ音楽アカデミーの名もパデレフスキにちなんでいる。



主要作品

メヌエット(6つの演奏会用ユモレスク Op.14 の第1曲)
幻想的クラコヴィアク(6つの演奏会用ユモレスク Op.14 の第6曲)
ピアノ協奏曲 イ短調 Op.17
ピアノソナタ 変ホ短調(3楽章)Op.21

ピアニストとしては、一大巨頭であるパデレフスキも作曲活動では全く振るわなかった。例外的に「パデレフスキのメヌエット」として知られる6つの演奏会用ユモレスクの第1曲「メヌエット」は演奏も平易であること、親しみやすい旋律からピアノ発表会などの曲目として人気がある。

近年は、日本人によるピアノソナタの録音がなされるなど、メヌエット以外の曲も再評価が進んでいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD  

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コメント
 
01. 中川隆 2013年4月04日 11:21:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Ignacy Jan Paderewski 1860年11月18日 - 1941年6月29日

ポーランド・クリロフカ出身 19世紀のカリスマピアニスト

ポーランド共和国・3代目首相

イグナツィ・パデレフスキはポーランド(現在のウクライナ)のポドリア地方・クリロフカ出身のピアニストです。 政治家でもあり、元ポーランドの3代目首相でもあります。 首相になったピアニストとして知られています。

パデレフスキは12歳でワルシャワ音楽院に入学してナタリヤ・ヤノータにピアノを習い、グスタフ・ログスキに音楽理論を学びました。

1883年にウィーンに留学して テオドル・レシェティツキ に師事しました。

パデレフスキは現役当時、圧倒的な人気を博した伝説的なカリスマピアニストでした。

人気の理由は完成された演奏もありますが、それ以上にカッコいいルックスにありました。

金髪の情熱的なカールと篤いまなざし、神秘的な容姿など、パデレフスキがステージに立つと美神が舞い降りたようだと伝えられています。


イグナツィ・パデレフスキ(Ignacy Paderewski)のYouTube動画

洛南蓄音機で  ラ・カンパネラ ''LA CAMPANELLA'' Ignace Paderewski
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=8WC2hCMkqXM

ベートーベン:ピアノソナタ第14番 「月光」イグナツィ・パデレフスキ演奏
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=BpmquZ5Xhw4



02. 2013年4月04日 11:38:15 : W18zBTaIM6

Ignacy Jan Paderewski plays Beethoven's Moonlight Sonata(Actual video)
http://www.youtube.com/watch?v=idmYXaIhh2A
http://www.youtube.com/watch?v=n6HifkKSyJ4

Ignace Jan Paderewski - "Moonlight Sonata - Adagio Sostenuto" 1926 Victor Credenza
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=BpmquZ5Xhw4

Paderewski--Moonlight-Adagio-78rpm
http://www.youtube.com/watch?v=gLVb0CEuOtU

PADEREWSKI -piano SONATA Moonlight L.Van BethovenIVTS_01_1.VOB
http://www.youtube.com/watch?v=kd2OW7MiaQg

Ignace Jan Paderewski "Moonlight Sonata"
http://www.youtube.com/watch?v=X3THSaw6k6A

Beethoven Moonlight Sonata 2nd and 3rd Movements Paderewski
http://www.youtube.com/watch?v=JFKSdVqIOuQ

Paderewski plays Beethoven: Piano Sonata No.14, Op.27/2 - III. Presto agitato
http://www.youtube.com/watch?v=-EsFER_osyw


03. 2013年4月04日 11:41:34 : W18zBTaIM6
訂正

Ignace Jan Paderewski - "Moonlight Sonata - Adagio Sostenuto" 1926 Victor Credenza
http://www.youtube.com/watch?v=sgjAYPPHhlY

Ignace Jan Paderewski plays Beethoven's "Moonlight Sonata - Adagio Sostenuto" on Victor Red Seal Orthophonic Scroll 6690-B, recorded in New York, New York on 12/16/1926. This was also recorded earlier in 1926 by Harold Bauer. It took he and Victor 14 recordings to get it right, 11 of which were destroyed... 2 held... and 1 issued.
It took Paderewski only one. That speaks for itself.

This is the first electric recording of this title by Paderewski, and it's also my first video of the Credenza with "improved" audio quality and the freshly rebuilt motor. (I'm still working out the bugs, plus I'll probably remove the boxes in the background on the next video!)

More info on this recording may be found here:
http://victor.library.ucsb.edu/index....
ENJOY!


04. 2013年4月04日 11:52:46 : W18zBTaIM6

VV2-55 ブラームス:ハンガリー舞曲 第6番 パデレフスキ
http://www.youtube.com/watch?v=bwprWQ-F2S4

VV2-55 ブラームス:ハンガリー舞曲 第7番 パデレフスキ
http://www.youtube.com/watch?v=thW6T9A4X0w


05. 2013年4月04日 13:23:39 : W18zBTaIM6

まあ、貴族の出で、容姿が素晴らしく、かつ 志が有れば、才能が無くてもピアニストとしては大成できるという事なんでしょうね。


上の条件が満たされていない場合はこっちかな:


ピアニストにはゲイが多いと聞きます。なぜですか?

ホロヴィッツは、

「世の中には3種類のピアニストがいる。

ユダヤのピアニスト、ゲイのピアニスト、下手くそなピアニストだ。」

と言ったくらいです。

ゲイのどういった感性がピアノ演奏に活きるのでしょうか?

ベストアンサーに選ばれた回答

menuettmillieさん

確かにクラシックのピアニストにはゲイが多いですよね。私の昔のピアノの先生もゲイでしたし、学校でもかなりの確率で男子生徒はゲイでした(今思えば)。別にそれが変だとか思っていなかったから不思議ですよね。

私の勝手な想像ですが、ピアニスト(学生も含める)のゲイの人たちって最近でいう「萌える」という感覚を作曲家やピアノに対して持っているような気がしています。

ショパンを練習しながらショパン自身に想いを寄せていて、私などがショパンを練習する感覚とはまた違う次元で「萌える」想いを込めて演奏しているように思います。

そしてそれに陶酔しているとやはり女などは生臭いだけで魅力など感じないのではないでしょうか。男子の方がよほど綺麗で、彼らの恍惚の表情を見たくてセックスしたいと思うようになるのかな・・・と。

彼らがチャイコフスキーやバッハについて語り合っているような時に気分的に「好きなんだよね」って感じではなくて本当に尊敬を抱いて「萌え」ているように思います。

クラシックマニアとも違った感じです。うまく表現できませんが彼らは独特の美意識を持っているように思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1434836444

ホロヴィッツは

「女と東洋人にはピアノは弾けない」

とも言ったそうです。(もちろん黒人は考えに入っていない。)


06. 2013年4月04日 13:48:06 : W18zBTaIM6

ピアニストの評価は難しいですよね。 だからこそこういう事も起きるんですね:


パデレフスキは 1887年にはウィーンでのデビューを果たした。やがて大変な人気を集めるようになり、その後の出演は(1889年パリ、1890年ロンドン)大成功となった。パデレフスキの輝かしい演奏は大熱狂を巻き起こし、ほとんど異様なほどの長さに渡って賞賛の的となった。パデレフスキの成功は、1891年にアメリカ合衆国においても繰り返された。


20世紀のピアニストの評価は大体こんなものでしょうか:

グレン・グールドは偉大なピアニストですが、もっと偉大なピアニストだってたくさ...
abunaideka_150さん

グレン・グールドは偉大なピアニストですが、もっと偉大なピアニストだってたくさんいますよね?

坂本龍一とか浅田彰とかグールドを褒め過ぎなんじゃないでしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答 love_aragallさん

私はグールドは「偉大な」ピアニストとは思いません。

「巨匠」とか「大家」には当てはまらなくて、「鬼才」「奇才(?)」と言う感じですね。

変な演奏が多すぎます。そして奇をてらった演奏が多すぎます。

坂本龍一が評価している事については不思議ですが、坂本龍一は新しい物を生み出そうとして苦しむ努力の人(あの人は全く天才肌でない、努力の人)ですからその辺でしょうか?


浅田彰の意見は無視してかまわない、いや無視するべきです。

あいつは、知識の深さが1mmないんじゃないか、と言う超極薄型浅薄知識野郎ですから、グールドの奇をてらった演奏を気に入るなんてありがちです。


グールド以外に偉大なピアニストなど腐るほどいます。記憶頼りに挙げると


ガーシュウィン、

パデレフスキー(ちょっと技巧は弱い)、

ラフマニノフ(古くてもかなり現代でも通用しそう)、

ホフマン(技巧的に弱い)、

バックハウス(今聴くとやはり技巧は弱い)、

シュナーベル(今聴くとやはり技巧は弱い)、

コルトー(今聴くとやはり技巧は弱い)、

ギーゼギング(今聴くとやはり技巧は弱い)、

ギレリス(かなり現代のピアニストに近づいてきている)、

ルービンシュタイン(彼の時代ではトップの技巧だったかも知れない)、

ゼルキン(技巧は弱い)、

ホロヴィッツ(彼の時代ではダントツの技巧、現在でも技巧派で通用するかも知れない、でも何と言っても音色が素晴らしい)、

リヒテル(ショパンエチュードをぶっ飛ばしで弾いたりするほかは、大家然とした余裕のある演奏が多かった。勿論凄いピアニストだが、ホロヴィッツとリヒテルが同時代で、精神的に少し危ないホロヴィッツの方が魅力的に思える)

ミケランジェリ(この人は録音だが、音が素晴らしい。技巧も勿論ある)

シフラ(彼も現在でも技巧派で通用するかもしれない、技巧のみと思われがちだが、得意のリストは名演がある)、

ブレンデル(この人は無難なタイプで少し面白みがない)

ポリーニ(技巧派、しかしペダリングの下手さを何とかしてほしい)、

アルゲリッチ(すっ飛ばし女王(笑)、でもそれだけ技巧があると言う事、彼女に知性がないと言う人は間違い、何か国語しゃべれるか、天才肌過ぎる、あの年で現在でも技巧的にトップクラスなのは彼女だけであろう、ポリーニよりずっと才能がある)、

カツァリス(よく考え抜かれた構築力と、現在最高級の技巧を併せ持った凄い存在、私の中では頂点に近い)、

ツィメルマン(努力の人、良く考え抜かれた演奏、しかしカツァリスやアルゲリッチを聴いた後では技巧の切れが天と地の差、と言うのは否定できない)、

キーシン(神童から順調に大人の天才になった。彼も技巧的には頂点に近い。安心して聴けるタイプだが、カツァリスの何でも対位法のように個性が欲しい)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1153016006?fr=rcmd_chie_detail


まあ、ポリーニやブレンデルやギレリスよりはパデレフスキの方が遥かに上ですけどね。


07. 2013年4月04日 15:33:49 : W18zBTaIM6

現役ピアニストが選んだ「10人の偉大なピアニスト」2012-07-13(Fri)


「ウェブラジオでクラシック音楽ライブ」(今は更新停止してますが)の管理人okakaさんのTwitterで紹介されていた面白い記事が、

"The 10 Greatest Pianists of All Time"(Limelight Magazine, Jul 5,2012)。

原文の英文記事のサブタイトルは、

"The most influential legendary pianists, as voted by modern day masters of the instrument."
(現役ピアニストの投票によって選ばれた、最も影響力のある伝説的なピアニストたち)


この投票は、Limelight magazineが実施。若手からベテランまで、100人以上の現役コンサートピアニストに対して、最も"inspire"されたピアニストは誰かと質問したもの。

回答者には、ベテランでは、Grigory Sokolov, András Schiff, Alfred Brendel,Stephen Hough, Pascal Rogé, Leslie Howard など、著名なピアニストが名を連ねている。中堅というか、かなりキャリアのあるピアニストでは、Olli Mustonen, Konstantin Scherbakov など。若手はPaul Lewis, Piotr Anderszewski, David Fray をはじめ、なぜかAlice Sara Ottまで入っている。

現役ピアニストたちが名前をあげたピアニストのうち上位10人について、簡潔なプロフィールとピアニズムの特徴、現役ピアニストによる紹介文、代表的音源(Yooutube)がオンライン記事に掲載されている。

回答結果とそのピアニストを選んだ現役ピアニストは以下の通り。

1. Sergei Rachmaninov
Leslie Howard, Stephen Kovacevich, Denis Matsuev, Alexey Yemtsov...

2. Vladimir Horowitz
Ingold Wunder, Freddy Kempf, Gerard Willems, Konstantin Scherbakov...

3. Sviatoslav Richter
Barry Douglas, Howard Shelley, Anna Goldsworthy, Piotr Anderszewski...

4. Arthur Rubinstein
Roger Woodward, Simon Trpceski, Jayson Gillham, Margaret Fingerhut...

5. Emil Gilels
Cédric Tiberghien, Alice Sara Ott, Olli Mustonen, Lars Vogt...

6. Alfred Cortot
Stephen Hough, Alfred Brendel, Benjamin Grosvenor, Stanislav Ioudenitch...

7. Glenn Gould
Pascal Rogé, Vladimir Ashkenazy, Fazil Say, Jean-Efflam Bavouzet...

8. Alfred Brendel
Paul Lewis, Steven Osborne, Imogen Cooper, Till Fellner...

9. Wilhelm Kempff
Cyprien Katsaris, Michael Endres, David Fray, Eldar Nebolsin...

10. Artur Schnabel
Jonathan Biss, András Schiff, Ronald Brautigam, Garrick Ohlsson....


この現役ピアニストによる投票結果では、第1位がかなりの差("significant margin")でラフマニノフ。

投票結果の解説記事は、"Sergei Rachmaninov voted greatest pianist of all time"

よく評論家や読者が選んだピアニストベスト○○とかいうランキングが音楽雑誌に載っているけれど、たしかホロヴィッツが第1位になっていることが多かったはず。ラフマニノフの名前はあまり見かけなかった。人気投票みたいなものだし..。
この同業者であるプロのピアニストによるランキング結果とは、全然違うのが面白い。

ラフマニノフの録音は1920-40年代初めの古いものが多く、音質はあまり良くない。有名なのは自作自演のピアノ協奏曲全4曲など。

特に第2番のピアノ協奏曲は、ゆっくりしたテンポでロマンティシズムたっぷりに弾く昨今の演奏とは違うことで有名。

ラフマニノフ自身が弾くと、速いテンポで切れ味よく、情感過多にならずにさらりとした叙情感のある演奏になる。(このタイプの演奏をあげるとすれば、コチシュ、スティーブン・ハフあたり?)

ラフマニノフは、自作だけではなく、他の作曲家の演奏にも優れていたとよく言われているし、米国へ渡ってからはコンサートピアニストとして活動していた。

解説記事では、残っている録音が少ないラフマニノフが、最も"inspire"されたピアニストとして選ばれたことは(原文は"the number one piano hero")、彼の演奏のインパクトが極めて大きかったことを証明している、と書かれていた。

ラフマニノフのピアニズムの特徴は、13度も届く大きな手でどんな困難なパッセージでも明晰さを失わない人間離れした鮮やかな技巧と、ヴァイオリニストのクライスラーのように美しく歌うようなトーン。それに、技巧・感情面だけでなく、知性的にも優れた演奏だと評されている。

個人的な好みで言えば、ピアニストとしての演奏は、ホロヴィッツよりもラフマニノフの方がずっと好き。


投票結果の上位5人のピアニストのうち、4人はロシア人。

また、上位10人の中でカナダ人のグールド以外は、全てヨーロッパ(大陸)諸国のピアニスト。

投票結果に対する感想としては、リヒテル、ルービンシュタインはやっぱり納得。
現役ピアニストで選ばれたのは、最近演奏活動から引退したブレンデルのみ。(弟子のルイスやフェルナーも票を入れていたとはいえ、ポリーニやアルゲリッチが上位入らずに、ブレンデルが入っているのは、至極当然に思える)

ギレリスが上位に入っているのがどうにも不思議。(私が好きではないからそう思うだけだろうけど)

それとは逆に、ケンプの評価はそれほど高くはない。(技巧的な問題が影響しているから?)

グールドはやっぱりこの順位くらいだろうか。

コルトーとシュナーベルは、ほとんど聴いたことがないので、何とも言えず。

ベートーヴェン弾きのバックハウスやアラウ、ゼルキンも10位には入らず。(それはそうだろうという気がする)

ピアニストを1人だけ上げる単独回答か複数回答かがよくわからない(たぶん単独回答だと思う)。4位以下は票が分散しているのかもしれないし、回答方法が違うと結果が多少(かなり?)違ってくるに違いない。

面白いのは、ロジェとアシュケナージが回答したのがグールドで、バッハ弾きのアンデルジェフスキの方はグールドではなくリヒテルだったりする。それに、ソコロフが回答したピアニストがわからないので、一体誰なのか知りたいなあ。


参考データ

レコード芸術/名演奏家ランキング:ピアノスト編(2012年6月号)

1.ホロヴィッツ 
2.リヒテル 
3.ポリーニ 
4.アルゲリッチ・ルービンシュタイン(同点) 
6.グールド・ミケランジェリ(同点) 
8.グルダ 
9.フランソワ 
10.ゼルキン
11.バックハウス 
12.アラウ・ギレリス(同点) 
14.コルトー 
15.リパッティ 
16.エマール 
17.ハスキル 
18.ブレンデル 
19.ギーゼキング・ケンプ・ラフマニノフ(同点)

評者:音楽評論家や音楽ジャーナリストなど30名

※10位台の後半以降は、数人とか1人の選者しか点数をつけていないので、順位はあまり当てにならない。

※ツィメルマン(26位)とブレンデルの順位が低いのは意外。

※ソコロフは64位(選んだのは2人のみ。点数も低い)、ハフは選外。

海外でのピアニストの評価とは随分違っているような気がしないでもない。特にソコロフをほとんどの選者は選んでいないというのは不思議。正規録音が少なくいためか(それに若い頃のものが多い)、聴いたことがないのか、聴いても評価しない人が多いのか、理由は何だろう?

モーストリー・クラシック12月号「最新格付け! 世界の名ピアニスト」[産経ニュース,2011.10.24]

総合:1.ホロヴィッツ 2.ミケランジェリ 3.リヒテル 4.ルービンシュタイン 5.グールド

現役:1.アルゲリッチ 2.ポリーニ 3.ツィメルマン 4.シフ 5.内田光子



コメント

ゼルキンを入れたい

こんにちは。この企画面白いですね、
ラフマニノフを始め、グールド、コルトー、シュナーベルあたりは、レコード録音だけを聴いてなお、高い評価になっているのじゃないかと推察します。

ピアニストからみた評価の対象は、必ずしも「生演奏」ではないようですね。
そのあたり、なにか親近感が湧きました。いいのか悪いのかはちょっとわかりませんけれど^^
2012-07-13 21:33 | ポンコツスクーター

面白いランキングでした

ピアニスト自身が影響を受けたピアニスト...ということですから、雑誌の人気投票的なランキングなどとは、意味が違うでしょうね。

同業者から見てということなら、ラフマニノフ、ホロヴィッツ、リヒテルが上位に来るのはなるほどと思えます。

ゼルキンやバックハウスのようなベートーヴェン弾きは、その影響が限られているのでしょうね。

ホロヴィッツは、「あなたがホロヴィッツでないとしたら、どのようなピアニストになりたいですか?」という質問に、「ルドルフ・ゼルキン」と答えたそうです。(その真意はよくわかりませんが)

回答したピアニストの年齢にもよりますが、大半は録音で判断しているのでないでしょうか。 実演だと出来不出来もありますし、聴くことができる機会も限られていたでしょうから。

ケンプは、実演ではかなりムラがあったそうです。

そういえば、アラウは欧州と米国時代両方のシュナーベルの実演を聴いていますが、欧州時代の演奏の方がはるかに良く、米国時代はテンポが安定していなかったと言ってました。

ピアニストは、実演と録音ははっきり別物だと考えるようです。(アラウもブレンデルもそう言ってました)

編集していたとしても、完成度の高いのは録音ですから、そちらで判断する人が多いのかも。でも、そこらはよくわかりません。 弟子筋とか親交のあった人なら音楽観なども評価のポイントになっているでしょうね。 私はCDリスナーですから、録音(ライブ録音も入れて)でしかピアニストの演奏のことはわかりませんので、録音だけで判断していたとしても、特に違和感はないですね。

2012-07-13 22:53 | yoshimi URL


現役ピアニストが選んだ!っていうところが面白いですね。

1位がラフマニノフですか〜。みなさん生で実演を聴いた!という方はきっと少ないでしょうから(ほとんどいない??)、録音や映像を見てですよね?

私はブレンデルを多分聴いたことが無いんですが(汗)、ルイスやティルナーが好き!ということは、ブレンデルの演奏が好きってことかしら?是非とも聴いてみなくてはいけませんね。
2012-07-14 10:08 | Tea316 URL

ブレンデルはとてもお勧めです

そうなんです、現役ピアニストが選んだ...というところが、このランキングの面白さです。同業者の評価ってシビアですからね。

ラフマニノフは1943年に亡くなっていますから、実演を聴いたことがあるとしたら80歳以上の人でしょう。

ブレンデル以外にそれほど高齢のピアニストが回答しているとは思えないので、ほぼ全員が録音で判断しているはずです。

ブレンデルは、ルイスやティル・フェルナーとは少しピアニズムが違っていますね。

音は多彩感が豊かで繊細な美しさがありますし、フレージングは流麗で、アーティキュレーションもよく練られています。

でも、ルイスのような親密感や自然な趣きは薄いかも。

フェルナーは強いクセのないウィーン風(?)の優美な演奏をする人のように思いますが、ブレンデルとはちょっと違うかなあという気がします。

ブレンデルの演奏はとても魅力的ですが、個人的には分析的で理知的(やや理屈っぽい)な印象を受けます。といっても、ブレンデルとは相性はかなり良く、好きな演奏も多いです。

ブレンデルは何度も再録音をする人なので、録音年代によって演奏のスタイルが少し違います。 若い頃のVOX時代の録音はあまりお勧めしません。Philips(今はDECCAですが)に録音したものは、晩年の円熟した演奏の方が人気があるようです。曲にもよりますけど。

スタジオ録音以外にライブ録音もかなりリリースされていますし、Youtubeにも音源が多数あります。 なかでも一番人気のあるYoutubeの音源は、シューベルトの即興曲D.899-3だと思います。私もこれは大好きな演奏です。この曲のベストと言っていいかも。
http://www.youtube.com/watch?v=GkX4MyDeIqI

ブレンデルのレパートリーでは、シューベルト、リスト、ベートーヴェン、ハイドンに定評があります。お好みに合うかどうか、お好きな曲を聴いてみてくださいね。
2012-07-14 11:42 | yoshimi URL

10人の偉大なピアニスト

これは面白いランキングですね。
アンダ、エトヴィン・フィッシャー、アラウも入ってもよさそうですが、何位だったのか気になります。ブゾーニは録音自体が少ないので、さすがにブゾーニに票を入れる人はいないですよね(笑)

カツァリスがケンプに票を入れているというのがすごく意外でした。
2012-07-14 19:45 | ミッチ URL

全ての投票結果を知りたくなります

この投票(アンケート)は面白いですね!
評論家・ジャーナリスト・リスナー投票とは違う結果が出ているところで、プロの視点を感じます。 雑誌本体の記事を見ればもっと詳しい結果が載っているかもしれません。 たぶん1人だけ選ぶ方式ではないかと思うので、下位に行くほど票が分散して、大差はないんじゃないでしょうか。

複数回答だと(たとえば3人を順位づけして回答する方式とか)、アラウとフィッシャーは20位以内には入ってくるのではないかと思うのですが、アンダはどうでしょうね。

アンダは好きなピアニストですが、同世代や後世のピアニストに大きな影響力を与えたという印象があまりないので。

ブゾーニの録音は少ないですし、あっても音質が非常に悪そうです。

あまり聴かれていないでしょうから、ピアニストとして正当に評価するのは難しいですね。

実演を聴いたことがあるとすれば、アラウやそれ以前の世代でしょう。

カツァリスのインタビューがありますが、ここでもケンプ、シフラ、最後にホロヴィッツを尊敬するピアニストに上げています。
http://jp.yamaha.com/sp/products/musical-instruments/keyboards/pianist-lounge/now/010/question.html

2012-07-14 22:49 | yoshimi URL [ 編集 ]
http://kimamalove.blog94.fc2.com/blog-entry-2198.html


08. 中川隆 2013年4月04日 16:09:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

パデレフスキを本物の天才と比較してもしょうがないんですが、一応同世代の作曲家 兼 ピアニストなので:

Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日

Sergei Vasil'evich Rachmaninov 1873年4月1日 - 1943年3月28日

Rachmaninov, Play Rachmaninov, Piano Concerto No. 1 in F-sharp minor, Op. 1
http://www.youtube.com/watch?v=dkq8l44Oc-M

Sergei Rachmaninoff plays his Piano Concerto No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=x8l37utZxMQ

Rachmaninov plays Rachmaninov Piano Concerto 3 (1939)
http://www.youtube.com/watch?v=oA0kXDMKiLg
http://www.youtube.com/watch?v=tec6swI4IJU

Rachmaninov, Play Rachmaninov, Piano Concerto No. 4 in G minor, Op. 40
http://www.youtube.com/watch?v=Ml8yLc2UgyQ

Rachmaninov plays Rachmaninov - Prelude in C Sharp Minor
http://www.youtube.com/watch?v=mTRm_N6MHz4

Rachmaninov plays Rachmaninov Prelude op.32 no.12
http://www.youtube.com/watch?v=qNDz3-Uaf6o

Rachmaninov, Play Rachmaninov, Rhapsody on a Theme of Paganini, Op. 43
http://www.youtube.com/watch?v=Dj-2sWPVQeE

Rachmaninov plays Schubert-Liszt Serenade
http://www.youtube.com/watch?v=J1lDpJleQvM

Sergei Rachmaninov 1873 - 1943 Recordings from 1921 -1942 .wmv
http://www.youtube.com/watch?v=MhqKKuiEIMQ


セルゲイ・ヴァシリエヴィチ・ラフマニノフ(Серге́й Васи́льевич Рахма́нинов、ラテン文字転写例: Sergei Vasil'evich Rachmaninov[註 1]は、1873年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日) - 1943年3月28日)は、ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者である。


1873年4月1日(ユリウス暦では3月20日)、父ヴァシーリイ・アルカージエヴィチと母リュボーフィ・ペトローヴナの第3子としてノヴゴロド州セミョノヴォに生まれ[註 2]、幼少期を同州オネグで過ごした。

父母ともに裕福な貴族の家系の出身で、父方の祖父はジョン・フィールドに師事したこともあるアマチュアのピアニスト、母方の祖父は著名な軍人だった。

父親は音楽の素養のある人物だった[註 3]が受け継いだ領地を維持していくだけの経営の資質には欠けていたようで、セルゲイが生まれた頃には一家はすでにかなり没落していたらしい。ノヴゴロド近郊のオネグは豊かな自然に恵まれた地域で、多感な子供時代を過ごした。

4歳の時、姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。9歳の時ついに一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。セルゲイは音楽の才能を認められ、奨学金を得てペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学することができた。

しかし彼は教科書の間にスケート靴を隠して出かけるような不良学生で、12歳の時に全ての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母はセルゲイにとって従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。

ズヴェーレフは厳格な指導で知られるピアノ教師で、ラフマニノフにピアノ演奏の基礎を叩き込んだ。ズヴェーレフ邸には多くの著名な音楽家が訪れ、特に彼はピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後にはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。

ズヴェーレフは弟子たちにピアノ演奏以外のことに興味を持つことを禁じていたが、作曲への衝動を抑えきれなかったラフマニノフはやがて師と対立し、ズヴェーレフ邸を出ることになった。彼は父方の伯母の嫁ぎ先に当たるサーチン家に身を寄せ、そこで未来の妻となるナターリヤと出会った。この後彼は毎年夏にタンボフ州イワノフカにあるサーチン家の別荘を訪れて快適な日々を過ごすのが恒例となった。

1891年に18歳でモスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた。


ラフマニノフはピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在である[5]。

彼は身長2メートルに達する体躯と巨大な手の持ち主で、12度の音程を左手で押さえることができたと言われている(小指でドの音を押しながら、親指で1オクターブ半上のソの音を鳴らすことができた)。また指の関節も異常なほど柔軟であり、右手の人指し指、中指、薬指でドミソを押さえ、小指で1オクターブ上のドを押さえ、さらに余った親指をその下に潜らせてミの音を鳴らせたという。恵まれたこの手は、マルファン症候群によるものとする説もある[8]。

ロンドンで彼のピアノ演奏に度々接した音楽評論家の野村光一は「彼のオクターヴは普通の人が6度を弾くときぐらいの格好」になったと証言している。野村はさらに続けて次のように述べている[5]。

ラフマニノフの音はまことに重厚であって、あのようなごつい音を持っているピアニストを私はかつて聴いたことがありません。

重たくて、光沢があって、力強くて、鐘がなるみたいに、燻銀がかったような音で、それが鳴り響くのです。まったく理想的に男性的な音でした。

それにもかかわらず、音楽はロマンティックな情緒に富んでいましたから、彼が自作を弾いているところは、イタリアのベルカントな歌手が纏綿たるカンタービレの旋律を歌っているような情調になりました。そのうえにあの剛直な和音が加わるのだから、旋律感、和声感ともにこれほど充実したものはないのです。

ラフマニノフは楽譜を恣意的に取り扱う傾向という点においても19世紀以来のヴィルトゥオーソの伝統を受け継ぐピアニストであり、彼の楽曲解釈は当時から物議を醸すことがあった。アメリカの音楽評論家、ウィリアム・ジェイムズ・ヘンダーソンがラフマニノフによるショパンのピアノソナタ第2番の演奏について述べた次のような言葉[4]からも、そうした機微を窺うことができる。

彼は作曲家であるばかりではなく、本物のピアニストである—コンポーザー・ピアニストではなく。この日の三つめの曲目はショパンの変ロ短調のソナタだった。この傑出した名人は、この曲を全く独自のやり方で演奏した。彼は全ての旧習を投げ捨て、作曲者の指示を翻案さえした。ここに示されたのはラフマニノフによる原作の翻訳だった。それも素晴らしい訳文だった…。


この変ロ短調ソナタの解釈は—葬送行進曲さえも違った弾き方だった—、権威ある論証に裏付けられ、聴き手に議論の余地を与えなかった。その論理はつけ入る隙がなく、計画は論破できないもので、宣言は威厳に満ちていた。われわれはラフマニノフと同じ時代に生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという運命のめぐり合わせに、ただただ感謝するほかはない。それは天才が天才を理解した一日だった。このような場には滅多に立ち会うことができるものではない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである。



ピアニスト、作曲家としての業績の大きさゆえに今日一般に見過ごされがちだが、ラフマニノフは指揮者としても大きな足跡を残している。マモントフ・オペラやボリショイ劇場で、彼は優秀なオペラ指揮者として信頼を置かれていた。演奏会においても自作のみならずチャイコフスキーやボロディン、リムスキー=コルサコフの作品などで、音楽評論家のユーリイ・エンゲルからアルトゥル・ニキシュやグスタフ・マーラー、エドゥアール・コロンヌにも比肩し得る「生まれながらの天才的指揮者」と評された[1]。

ロシアを出国後、1918年にアメリカに渡ったのも、結局受諾しなかったもののボストン交響楽団から演奏会の申し出を受けたのが一つのきっかけだった。ロシア出国後にピアニストとしての活動に重点を置くようになってからも指揮活動を行っており、自作の交響曲第3番などの録音も残している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%8E%E3%83%95



09. 中川隆 2013年4月04日 18:20:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

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     フ .:.:.:.:.:.:.:.ヽ:::::::|::/.::|          |i/.:::::/.::|


パデレフスキは十九歳で結婚し、一児の父となったと思う間も無く妻と死別。しかも子供は重度の身体障害児だったので、周囲は心配して音楽教師の口を見つけてくれたが、ピアニストの夢を捨て切れず、止めてしまったという。

そんな若者の夢に惚れ込んだ女性が、彼に本格的な勉強を勧め、二四歲でウイ—ンに旅立つ。

やがて、科学者マリ— ^キュリー夫人も聴きに来たというコンサ—トで、まばらな聴衆は、青年の自由奔放な演奏に巻き込まれ、彼は「恐ろしいほどの成功」を収めた。


ステ—ジに登場したパデレフスキ—は音楽の美神が降り立ったかのような魅惑に溢れていたそうだ。しかも、彼は七、八力国語を操ったという。彼の内に潜むこうした才能ゃ魅力を、かってどんな教師達も見抜くこと、或は予見することが出来なかったという。

聴衆は殆んどが女性で、彼がステージに登場すると一種の集団ヒステリーが起きたそうだ。
http://books.google.co.jp/books?id=erL3TRapYwgC&pg=PA160&lpg=PA160&dq=%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA+%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&source=bl&ots=gHCZNj_EAG&sig=fisOe8R5IWsZ73_yMq1rZmhhobc&hl=ja&sa=X&ei=KkBdUe-6Gq-PiAfH84D4DA&ved=0CCsQ6AEwADgU#v=onepage&q=%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%BC%E5%A4%AB%E4%BA%BA%20%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD&f=false


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                      _              /// 、_リ     :::::::::::::::....     /,.ィ!
                    ,. -‐''"´  ``ヽ         /(ノ7            ,; :::::::::::..  / xく l!ノ
               ,. '"           \ ,.-‐=ァ==ァ':l/'.    __  、   ::::::::::o'´xェ;-‐''" l!/
            ,,. '"      _,.          Y  ./ ,.ィ/.とノ     ヾヽ.ヽ    ::::::::::ヾヾミメ,_,.ノl!_
           ,. '"    u  /         ヽ、(   {:l/ ./l      、 ヾ,、}    ::::::::::::.Yi芽.l-‐|
        ,. '"  _,.っ,,.__o゚ノ            ヽ`゙'ー--‐'".:::::l         ノ'       ::::::::ノ'"}lメ! ,レ
    ,. ,. -‐''"´ -::r=:、:.、  ``丶、      u     ヽ.   / .:::::::l、   ι´´   _     ::::U '゙’-ィ-/
 ,. ' イ    /::::::::::゙'':´::::::::..                ヽ./  ..:::::::::>:..、      ´u (( ̄``ヽ=ァニ二イ/,ィ
'"/     : : :: : : : : : : : : :                              `゙' ァ,.、 _  ゞ_,.-‐'ア´__ノ__ノ ノ
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                     _,.:==    _____   __ `丶 \l l :/ / // ///  / /,.イ /
   ι                u'´       (ノ ̄ ̄フ‐'"´ ̄    ̄``丶 、゙ ‐- l.,l_l //l { / / l !(
            u                     ,. ィ''´               `丶、 `ヽ、Y :l l iヾ
                            /             ι       ヽ、 ヾ、 l ! !〃
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10. 中川隆 2013年4月04日 19:08:42 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Paderewski Chopin Waltz 1917
http://www.youtube.com/watch?v=f9ZxnObmcdU

Paderewski plays Chopin Valse Brilliante Op 34 No 1 on Duo Art
http://www.youtube.com/watch?v=cK9aI5EvqIo

Chopin Mazurka Op. 17 No. 4 Paderewski Rec. 1912
http://www.youtube.com/watch?v=5RuVyTY5sl4

Chopin, Ballade no.3 in A-flat major, op.47
http://www.youtube.com/watch?v=ma1t7bTI-uQ

Chopin / Paderewski, 1906: Ballade No. 3 in A flat, Op. 47 (Welte Vorsetzer, Steinway
http://www.youtube.com/watch?v=UBrTEa1aHqU

PADEREWSKI - piano. Nocturn Op.9 no.2 Chopin VTS_01_1.VOB
http://www.youtube.com/watch?v=uG-ZKJ5ku-w&playnext=1&list=PL95C697D9BA191C2D&feature=results_video

Paderewski plays Chopin - - - Nocturne Op 9-2
http://www.youtube.com/watch?v=QfmPrZ95NXg

Ignace Jan Paderewski plays Chopin Nocturne in B Major Op. 62 No. 1
http://www.youtube.com/watch?v=fE81GYM2qWI&playnext=1&list=PLEC17626330C0733C&feature=results_video

Paderewski plays Chopin Nocturne in E Major Op. 62 No. 2
http://www.youtube.com/watch?v=yUnpDWWsvfk&playnext=1&list=PLEC17626330C0733C&feature=results_video

Chopin Nocturne F# Major Op.15 No.2 Paderewski Rec 1927
http://www.youtube.com/watch?v=7wxct5Atsj0

Paderewski plays Chopin Nocturne opus 15 no. 1 (rec. 1911)
http://www.youtube.com/watch?v=GyN9l2sSjRQ

Ignace Jan PADEREWSKI - Chopin Etude no1 op.25
http://www.youtube.com/watch?v=GDvzzvZxNEA

CHOPIN, Etude op 10 no 3 - Paderewski
http://www.youtube.com/watch?v=kvvlOSmHDF4

Paderewski plays Chopin Etude in A minor "Winter Wind" (1923)
http://www.youtube.com/watch?v=0ofzW5r4pIQ

Paderewski plays Chopin Etude Op.10 No.12 "Revolutionary"
http://www.youtube.com/watch?v=UNlBp9TM2Pc

Fryderyk Chopin Etiuda Ges-dur op 25 nr 9 plays I. J. Paderewski
http://www.youtube.com/watch?v=MO_MPoLOWvQ

Ignacy Jan Paderewski - Chopin, Polonaise in A Flat
http://www.youtube.com/watch?v=RyHAlyFgqyg

Paderewski)Chopin Polonaise, Op. 53
http://www.youtube.com/watch?v=F4zFD8visl8

Paderewski Polonaise Militaire Chopin 78 (?) rpm
http://www.youtube.com/watch?v=c_iBpGdwnyE

CHOPIN Polonez B op.26 I.J. PADEREWSKI -piano VTS_01_1.VOB
http://www.youtube.com/watch?v=fvCDcwpETqU&playnext=1&list=PL203D3F0EC02E07AE&feature=results_video

I.J.Paderewski, Polonez es-moll op. 26 nr 2 (rec. in 1930)
http://www.youtube.com/watch?v=FSlT9eO9Xzw&playnext=1&list=PL1CF901CF683E944C&feature=results_video

Paderewski plays Chopin Berceuse Op 57
http://www.youtube.com/watch?v=-02elNMQbQo

Chopin Sonata No 2 Op 35 Movements 3 & 4 Paderewski Rec 1928.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=z1FNfxYcvQQ&playnext=1&list=PL203D3F0EC02E07AE&feature=results_video

Paderewski plays Mozart Rondo A minor K 511
http://www.youtube.com/watch?v=pk_t5y-0hNA&playnext=1&list=PL95C697D9BA191C2D&feature=results_video

Ignace Jan Paderewski plays Paganini-Liszt "La Campanella"
http://www.youtube.com/watch?v=kd6n41i9dFs&playnext=1&list=PLEAE16228B1132B89&feature=results_video

IGNACE PADEREWSKI PLAYS - SCHUBERT IMPROMPTU 1939.wmv
http://www.youtube.com/watch?v=YOfd81BkNRE&playnext=1&list=PLF74A75963CD53091&feature=results_video

Paderewski plays Schubert Impromptu B flat Op. 142 No. 3
http://www.youtube.com/watch?v=TWgzjsPXJUo

Ignace Paderewski plays Schubert-Liszt "Soirée de Vienne" No. 6
http://www.youtube.com/watch?v=peRTip1mrNA

Ignace Paderewski plays Schubert-Liszt "Hark,hark the lark!"
http://www.youtube.com/watch?v=ib8EWTxJp8Q&playnext=1&list=PLA7626C99264FA135&feature=results_video

Paderewski plays Schumann Waldszenen op. 82 n.7 Vogel as Prophet
http://www.youtube.com/watch?v=DjQ0VwLKE4I

Schumann Das Abends, Aufschwung Op.12 Paderewski 1912
http://www.youtube.com/watch?v=Y-cPrIePZO4

Schumann Nachtstucke Op 23 No 4 Paderewski Rec 1928
http://www.youtube.com/watch?v=NGfbB-nrg2I

Ignace Jan Paderewski plays Wagner-Schelling Prelude from Tristan and Isolde
http://www.youtube.com/watch?v=Ci2KkXvCkIQ&playnext=1&list=PL8A0676EF7CE70BDA&feature=results_video

Ignace Jan Paderewski plays Wagner-Liszt "Spinning Chorus"
http://www.youtube.com/watch?v=LSK0pb93NxU&playnext=1&list=PLEAE16228B1132B89&feature=results_video

Ignace Jan Paderewski plays Wagner-Liszt "Isolde's Liebestod"
http://www.youtube.com/watch?v=wtXeDhVxFrk&playnext=1&list=PL1C50C249099FF6E7&feature=results_video

Paderewski plays Debussy, "Reflets dans l'eau" on a 1927 Steinway Duo-Art.
http://www.youtube.com/watch?v=9c_yZPIqoz0

Paderewski plays Debussy Four Preludes (from Book I)
http://www.youtube.com/watch?v=MFMRk4wp5tM

IGNACE PADEREWSKI LAUSANNE RADIO CONCERT TO AMERICA 1938
http://www.youtube.com/watch?v=v7AMT7pAQic

IGNACE PADEREWSKI RADIO RECITAL MAGIC KEY 1939
http://www.youtube.com/watch?v=RqsR3w84Mwk


11. 中川隆 2013年4月04日 19:27:09 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

うーん、パデレフスキ—は女性が好きな曲しか弾かなかったんですね。

賢いですね。 そしてそれが効を奏して:

やがて、科学者マリ— ^キュリー夫人も聴きに来たというコンサ—トで、まばらな聴衆は、青年の自由奔放な演奏に巻き込まれ、彼は「恐ろしいほどの成功」を収めた。


ステ—ジに登場したパデレフスキ—は音楽の美神が降り立ったかのような魅惑に溢れていたそうだ。しかも、彼は七、八力国語を操ったという。彼の内に潜むこうした才能ゃ魅力を、かってどんな教師達も見抜くこと、或は予見することが出来なかったという。

聴衆は殆んどが女性で、彼がステージに登場すると一種の集団ヒステリーが起きたそうだ。

______


上の女性の『集団ヒステリー』というのはこういう状況を想定して下さい:

ヒトラーを独裁者にしたのは、一つには彼の性的魅力であったらしい。

彼の姿を一目見ただけで卒倒する女性が続出したそうだ。

ある女性などは、ヒトラーが通り過ぎたあと、彼が踏んだ小石を持っていたガラスびんに入れ、それを大切に抱きしめた。

彼女はそのまま恍惚としてしまい、力が入りすぎてガラスびんが割れた。血がだらだら流れるが、それでもなお彼女は陶然と立ち尽くしていたという。

当時、世界でもっとも進歩的と言われたワイマール憲法下で、ヒトラーがあくまでも合法的に政権の座についたことを考え合わせると、民主主義って本当に大丈夫なの、とつい思ってしまう。
http://www.c20.jp/p/hitler_a.html


ヒトラーというとほとんどの日本人はドイツの独裁者でユダヤ人を虐殺した恐ろしい人とだけしか知らないのではないだろか。

ヒトラーに関して我々がしっかりと知っておかなければならないことは、

ヒトラーは当時、世界で最も民主主義的と言われたワイマール憲法の下で、合法的に独裁者になったということである。

ヒトラーの行くところはどこでもドイツ国民が、「ハイル、ハイル!」の大合唱。ドイツ国民のすべてがヒトラーに心酔していた。

そんな時、「私に全権を与えていただければ、もっと豊かなドイツを実現してみせます!」とヒトラーは言った。

ドイツ国民は将来悲惨なことが起こるなんてことは誰も疑わずに、あっさりとヒトラーに全権を与えてしまった。

1935年にドイツ国内で国民投票が行われた。

そしてなんと国民の90パーセント以上という圧倒的支持で、首相と大統領の兼任(行政権の完全な掌握)、立法権、軍隊の指揮権といった、司法権を除くすべての権力をヒトラーに渡してしまったのである。

こうして三権分立という鎖がはずされ、リバイアサンという怪物が解き放たれたのである。

その後は、皆さんもご承知のように、誰もヒトラーの暴走をくい止めることができなくなり、世界は人類がいまだ経験したことのない第二次世界大戦という大惨事に突入していったのである。
http://kaichan.cocolog-nifty.com/diclongman/2007/09/post_e4df.html

ある地方の小選挙区でコイズミが選挙カーに登って郵政改革を叫び始めるや、つめかけた聴衆(多くは中年女性)は涎を流さんばかりに口をあけて

「ジュンチャーン」。

そしてケータイの写真。きっとメールで「撮ったわよ」と自慢したでしょう。

そのアホぶりに私は絶望しました。しかし終わると潮が引くようにほとんどいなくなった、とある新聞にはそう書いてありました。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02179.HTML


「自民圧勝を支えたのは都市部の働く女性」−。

労働団体・連合の関連研究所、連合総研は10日、首都圏、関西圏の会社員の男女を対象にしたアンケートから、そんな分析結果を明らかにした。

 労組に加入している男女とも自民党に投票した人が多かった。従来民主党が都市部の会社員を中心にした無党派層の票を獲得してきただけに、民主党を中心に支援する連合にとってもショックな結果。

 アンケート結果によると、女性は20−50代の各年代で40%以上が自民に投票。民主は最大で50代の29・8%にとどまった。男性は30代だけが自民支持40・7%と民主を上回り、ほかの世代では民主支持が多かった。

 労組加入者の男女は42・1%が自民で、民主は32・5%だった。


女性セブン4/19号より、

 「首相にしたい政治家No1」の素顔に大接近!
 「『愛しの小泉純一郎さま(59)』ってこんな人」

そして小泉の写真の横に、小さい活字で
 「林真理子さんの『抱かれたい男リスト』にも入った」


12. 中川隆 2013年4月04日 22:05:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6



イグナツィ・ヤン・パデレフスキ - 国立音楽大学附属図書館
www.lib.kunitachi.ac.jp/tenji/2010/tenji1006.pdf

女性から見たパデレフスキのイメージは:


6月29日はポーランドのピアニストで作曲家、政治家の、イグナーツィ・ヤン・パデレフスキの命日ですね。(1860〜1941)


伝説のスーパースター
19世紀最大のピアノの巨匠
ポーランド独立運動の象徴的存在
アメリカ大統領トルーマンにピアノ指導
ポーランド共和国初代首相に就任
類いまれなカリスマ性
ショパン研究家
http://ameblo.jp/maritaka0504/entry-10577139972.html


1860年11月6日ポドリアのクラウフカ生、1941年ニューヨーク没

ポーランドのピアニスト、作曲家、政治家

ショパンの楽譜を買ってもらう時、

「コルトー版にして。」とか

「パデレフスキ版で。」

などと、楽譜を指定することがよくあります。

パデレフスキは、ポーランドを代表する、ピアニストで、作曲家でもありましたが、初代ポーランド大統領でもあるのです。

彼は、ある意味、スーパースターだったとも言えるでしょう。

裕福な家柄に生まれたパデレフスキでしたが、生まれて間もなく母親は亡くなりました。

そういう意味では、何事も欠けたところのない幸福・・・というより、孤独も感じていたのではないでしょうか?

しかし、幼い頃から、音楽の才能を認められ、高名な音楽教師を家庭教師として雇い、次いで12歳の時には、ワルシャワ音楽院に学ぶこととなりました。

多くの著名な教師から、ピアノ、音楽理論、和声、対位法などを学び、18歳でここを卒業するとともに、同音楽院のピアノ科の教師になりました。

その後も、作曲、ピアノの研鑚を積み、当時の高名なピアノ教師レシェティツキーのもとで、ピアノを学び続けました。

レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、ピアニストの道を断念するように助言しましたが、1年間ストラスブール音楽院で教師を務める傍ら、熱心に練習を積み、再びレシェティツキーに師事することが許されました。

パデレフスキは、自身のピアニスト生活は1888年ウィーンがデビューの地であるとみなしていましたが、1883年パリで最初の演奏会をした時から、すでに巨匠への階段を昇り始めていました。

世界中で殺人的な演奏会スケジュールをこなす傍ら、夏休みには1889年以来永住の地となったスイスのモルジュ市にある、ヴィラ・リオン‐ボソンで作曲にも没頭しました。

第1次世界大戦勃発後、彼はポーランド国民の為に、援助委員会や救済基金を設立しました。

同時にアメリカ合衆国を中心とした演奏活動を行い、ポーランド独立を訴えました。

1918〜21年には、一時演奏・作曲活動を中止し、政治活動に専念しました。

1919年、独立を回復したポーランド共和国の首相兼外相に就任し、

国を代表してヴェルサイユ条約に署名しています。

1922年には、再び演奏活動と夏期講座の教授活動に復帰しました。

また1936年にはイギリス映画「ムーンライト・ソナタ」にも出演しています。

1937年、新ショパン全集の編集に着手しましたが、実際に出版されたのは大2次大戦後となりました。

ナチのポーランド侵攻後は、アメリカに渡り祖国支援のための大々的なキャンペーンを行いましたが、これが彼の最後の旅となりました。

彼はニューヨークで客死し、アーリントン国立墓地で国葬が行われました。

彼の演奏は、「レシェティツキー・タッチ」でしたが、時には華麗であるが、あまりに誇張され飾られ過ぎている・・・

と、批判もしています。

彼自身は、見かけの派手な効果以前に、楽譜に忠実な演奏解釈と、音楽感情の移入を心がけました。

その天分、音楽性、直感、たゆまぬ努力によって、彼は独自の演奏様式を作り上げました。

パデレフスキーのレパートリーの中心は、ショパン、リストといったロマン派のものが中心ですが、ほとんどすべてのリサイタルで、1曲目にベートーヴェンのソナタをおいたということです。

80年の彼の人生は、全く非の打ちようがないほど充実していますが、やるべき時に、全精力を傾け、音楽活動だけでなく、政治にも大きな役割を果たし、素晴らしい人生を全うしたといえるでしょう。

しかし、それは彼のたゆまぬ努力の結果であり、正しい考えを持ち、現実に甘んじることなく、常に誠心誠意、仕事をしてきた結果だと思うのです。

何気なく手にとっている、ショパンの楽譜ですが、このような素晴らしい仕事の結集とも言えるでしょう。
http://nishino-pianoschool.blog.ocn.ne.jp/blog/2010/08/post_7035.html


見る人が見れば誰にでも直ぐにわかる事なのですが

パデレフスキの客観的評価は上にもちゃんと出ていますね:


『レシェティツキーは、パデレフスキの奏法に技術的な根の深い問題が多すぎるのを見て、ピアニストの道を断念するように助言した。』

パデレフスキのヨーロッパでの全録音

◎ショパン   ワルツ第2番「華麗なるワルツ」
        夜想曲第5番 作品15の2
        ワルツ第7番 作品64の2
 ストヨフスキ 愛の歌 作品26の3(初出)
 シューベルト(リスト編) きけ,きけ,ひばり
 シューマン  夜曲第4番 作品23の4
 ショパン   ポロネーズ第3番「軍隊」
        夜想曲第18番 作品62の2
        12の練習曲 作品25〜第9曲「蝶々」(初出)
                   〜第3曲 ヘ長調(初出)
 パデレフスキ メヌエット 作品14の1
        夜想曲 作品16の4(初出)
 メンデルスゾーン 無言歌第4巻〜第4曲「心の悲しみ」
 


 メンデルスゾーン 無言歌第1巻〜第3曲「狩人の歌」
 ドビュッシー 映像第1集〜第1曲「水に映る影
 リスト    ラ・カンパネラ(初出)
 パデレフスキ 幻想的クラコヴィアク 作品14の6(初出)
 ショパン   夜想曲第5番 作品15の2
        12の練習曲 作品10〜第12曲「革命」
                   〜第7曲 ハ長調
        12の練習曲 作品25〜第1曲「エオリアンハープ」
                   〜第2曲 ヘ短調
        12の練習曲 作品10〜第3曲「別れの曲」
 パデレフスキ 幻想的クラコヴィアク 作品14の6
 シューベルト(リスト編) きけ,きけ,ひばり
 


 シューマン  幻想小曲集〜第1曲「夕べに」
             〜第2曲「飛翔」
             〜第3曲「なぜに」
 ショパン   ワルツ第2番「華麗なるワルツ」
        マズルカ第13番 作品17の4
 ショパン(リスト編) 乙女の願い
 ショパン   12の練習曲 作品25〜第7曲 嬰ハ短調
 リスト    ラ・カンパネラ
 ストヨフスキ 愛の歌 作品26の3
 リスト    演奏会用練習曲集〜第2曲 ヘ短調
 ショパン(リスト編) 乙女の願い
 ショパン   子守歌
 メンデルスゾーン 無言歌第1巻〜第3曲「狩人の歌」
 ルビンシテイン ワルツ・カプリース 変ホ長調
 

   パデレフスキ(ピアノ)

   英APR APR 6006 (2CD)


 歴史的なピアノ録音を数多くリリースしている英APRから,パデレフスキ
のヨーロッパ全録音という,大変希少な復刻盤CDが発売になりました。

 パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860-1941)は,ロシア領ポーラン
ドのポドリア地方のクルィウフカ(現ウクライナ領)に生まれ,ウィーンでレ
シェティツキに学び,1887年に同地でピアニストとしてデビューし,翌年
以降,パリ,ロンドン,アメリカでリサイタルを行いますが,その演奏はたち
まちにして評判となり,異様なほどの人気と賞賛を博するようになります。

 1900年頃からは作曲にも傾注するようになって演奏活動は急激に減少し,
1909年からワルシャワ音楽院長を務めました。

 1911年7月にはスイスのモルゲスでHMVに初めてのレコーディングを
行い,翌年にはパリとロンドンでもレコーディングを行います。本CDに収録
されているのはこの3回のレコーディングセッションでの全録音です。

 1913年にアメリカに移住し,翌1914年には米ヴィクターにレコーディ
ングを行いますが,同年,第1次世界大戦が勃発すると,パリの「ポーランド
民族委員会」のメンバーとしてポーランド独立のための活動に積極的に関わり,
1919年にポーランドが独立すると首相兼外務大臣となり,この職を辞して
からも国際連盟のポーランド大使を務めました。

 1922年に政界から引退して演奏活動に復帰し,再び米ヴィクターに数多
くの録音を行いました。

 パデレフスキのピアニストとしてのキャリアは上述のように,第1次世界大
戦とそれに続く時期の政治家としての活動によって中断しているのですが,パ
デレフスキの録音で入手容易なのは米ヴィクター録音が主で,これまでCD化
されていたのも9割方この米国録音でした。

 そのため,録音におけるパデレフスキの演奏もこれらの米国録音で語られる
ことが少なくないのですが,これらで聴かれるパデレフスキの演奏は,歳を重
ねるにつれて懐深さとスケール感を有しながらも,主観的で大袈裟とも言える
テンポ・ルバートやデュナーミクの変化を聴かせるようになっていき,賛否が
分かれるところでもありました。

 SP時代から愛好家の間では,パデレフスキの録音は1911〜2年のヨー
ロッパ録音の方がずっと良いというのが常識だったようなのですが,アコース
ティック録音ということもあって,入手は容易ではなく,これまでまとめて聴
く機会がありませんでした。

 今回の復刻は,1911〜2年のヨーロッパ録音を全て収録しており,これ
までリリースされていなかった録音についても,メリーランド大学のインター
ナショナル・ピアノ・アーカイヴに保管されていた未発表のテスト・プレス盤
から復刻して収録されています。

 非常に長い前置きになってしまいましたが,さっそく聴いてみると,復刻の
状態は予想以上に良好で,スクラッチノイズも抑えられていますし,ピアノの
タッチや響きも明瞭に聴き取ることができます。

 肝心の演奏は,形容する言葉に窮するほどの素晴らしさで,明瞭で粒立ちの
良いタッチ,明るく気品のある響き,デリケートで生気に満ちたフレージング,
格調高いパッセージワーク,そして決して過剰になることのない,ほどよく抑
制された表現など,ピアノ演奏の1つの理想,1つの究極を聴く思いがします。

 この演奏を聴くと,世界中が賞賛したというパデレフスキの演奏の姿は斯く
やと思わされますし,同時に米国録音で聴かれる演奏とのギャップの大きさを
改めて認識させられます。

 それにしても,これほど素晴らしく偉大な演奏が,これまで容易に聴くこと
ができなかったというのは,それこそ人類的損失だったのではないかと思いま
すし,それが良好な復刻によって完全復刻されたというのは,快挙であり偉業
であろうと思います。

 そんなわけで,これは控えめに言っても,100年を超えるピアノ録音の歴
史の中にあって最も偉大な演奏が刻み込まれた録音の1つであり,聴く者の演
奏観や審美観を変えかねないほどのインパクトと感銘をもたらしてくれる,時
代を超越した必聴の名演として,強力に推薦したいと思います。
http://homepage1.nifty.com/classicalcd/cdreviews/2009-1/2009031501.htm


13. 2013年4月04日 22:35:10 : W18zBTaIM6

ワルシャワに生きるショパン - ワルシャワの苦悩と愛国心が生んだ音楽の伝統 -

もう1つの美しい公園とパデレフスキ像

 ワジェンキ公園でも十分に豊かなのに、この公園に隣接してもう1つ美しい公園がある。このウヤズドフスキ公園は、ワジェンキ公園と比べて知名度が低いくて規模が小さいからか、観光客の姿をほとんど見かけない。しかしワジェンキ公園よりも優美で、ワルシャワが美しい公園にめぐまれた町であることを改めて実感するような場所である。

ここにも1体の立派なピアニストの銅像が立っている。ショパンと同じくピアニスト兼作曲家で、しかもポーランドの首相にまで登りつめた真の愛国家、パデレフスキの銅像である。

ウヤズドフスキ公園とパデレフスキ像

 パデレフスキは24歳になってから本格的にピアニストを目指した遅咲きながら、情熱的なプレイスタイルや上品でカリスマ性のあるいでたちで女性ファンをとりこにし、アメリカを中心にアイドル的な人気を誇った。

パデレフスキのトレードマークであった金髪の巻き毛ほしさに、はさみをもってパデレフスキを襲った女性ファンもいたほどだ。

パリのサル・エラールにおけるデビューコンサートには同郷のキュリー婦人も参加しており、初舞台とは思えない堂々ぶりは皇帝のようだったと証言している。

演奏活動のみならず、ピアノ曲からオペラまで作曲したり、ショパンの楽譜全集を編集したりもしている。ポーランド語、ロシア語、英語、フランス語、ドイツ語を操り、知的な語り口でヴィクトリア女王をはじめとした各国の要人とも親交が深かった。

第一次世界大戦ではポーランド独立のために奔走し、ポーランドが独立した1918年には首相にまで選ばれた。第二次世界大戦が勃発し、再度苦しみを味わったポーランドのために、再度立ち上がろうとしたパデレフスキは、直後の1940年にアメリカで80年の生涯を終えた。ポーランドに自由が戻った時に自分の墓をポーランドに移すことを決めていたが、それがかなったのは1992年になってからのことであった。

 2010年はショパンの生誕200周年のみならず、パデレフスキの生誕150周年の年でもあった。ワジェンキ公園のショパン像には無数の人が集まって写真を撮っているが、ウヤズドフスキ公園のパデレフスキ像には、情熱的な真っ赤なバラが囲んでいるだけで、まったくといってよいほど人気がない。ワジェンキ公園の混雑を避けてゆっくりするために来た人と思われる人がぱらぱらといるぐらいである。

パデレフスキ像は王座に座る皇帝のような姿で表現されており、まるでショパンの大胆で感傷的な銅像とは趣が違っている。人々に常に注目され激動の人生を送ったパデレフスキと、病弱で人前に出るのを嫌ったショパンのそれぞれの銅像は、お互いの人生とは間逆の結果になっている。
http://www.europe-museum.com/classic_music/composer_city/em768


14. 中川隆 2013年4月04日 22:41:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

パデレフスキーはポーランドのピアニスト兼作曲家。

政治家・外交官としても活躍し、第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代の首相。

Paderewskiはポーランド発音ではパデレウスキ。

Ignacy は Ignace とフランス語表記されたり、Ignaz とドイツ語表記されることがある。
日本ではパデレフスキとも表記されている。


ポドリア地方の寒村クルィフカ(現ウクライナ領)生まれ。

父親は経済学研究者だったが、出身はポーランド系の小貴族。生母はパデレフスキーを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキーは遠戚者によって育てられた。

最初は個人教師についてピアノを学んでいたが、1872年(12歳)ワルシャワ音楽院に進学し、ナタリエ・ヤノータ(クララ・シューマンおよびブラームスの門下)に師事。

1878年(18歳)ワルシャワ音楽院を卒業し、そのままピアノ科の教官になる。

1880年(20歳)アントニーナ・コルサクーヴナと結婚。しかし、翌年に生まれた長男アルフレッドに障害がある事が判明し、さらにその年の10月に妻アントニーナが死去。

1881年(21歳)ベルリンに留学。フリードリヒ・キールとハインリッヒ・ウルバンに作曲理論を師事。

1884年にウィーンに移り、テオドール・レシェティツキに入門。

1885年(25歳)レシェティツキの紹介により、ストラスブルグ音楽院教官として着任。2年間、音楽理論とピアノを担当。

1887年(27歳)、ウィーンに戻り正式にコンサートデビュー。

1889年パリ(29歳)、さらに1890年(30歳)ロンドンでもデビューして大成功をおさめる。ちなみにパリ・デビューは当時少年だったアルフレッド・コルトーも客席で聴いている。

1884年にレシェティツキの門を叩いたパデレフスキーは、ピアノ演奏法を基礎の基礎から徹底的にやり直しさせられたと伝えられる。

レシェティツキは、師のツェルニーの教則本をパデレフスキーに与え、パデレフスキーはそれを毎日10時間(実際はもっと長時間だったという証言もある)練習したという。

とはいえ、プロ志望には余りにも遅い24歳の入門者に、レシェティツキは最初は難色を示したという。

その入門希望者と来たら…テクニックは不完全で、規定の速度で演奏するのもままならない腕前しか持ち合わせていなかった。それ以前に、ピアニストを目指すには24歳という年齢はあまりに遅すぎた。

ピアニスト志望者は普通は10歳までに専門教育を受け、15〜6歳の頃にはある程度の技術は完成されていなければならない。18歳で音楽大学に入ってあちこち矯正されているようではプロにはなれない。

まして24歳と云えば音楽大学入学どころか、下手すれば大学のさらに上の大学院を出ようかという年齢である。

それでもパデレフスキー青年がレシェティツキ門下の末席に座る事が許されたのは、パデレフスキーが「ポーランド系ユダヤ人」であった事が関係していた可能性がある。

実はレシェティツキは、ピアニストとして成功するための基本要素として「ユダヤ人」である事と「ショパンと同じポーランド系」である事を提言していたからである。

もしもパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人でなかったら、果たしてレシェティツキが入門を許したかどうか…。

それでもレシェティツキは入門を許したとは言え、パデレフスキーが後に(あれほど壮絶かつ空前の大成功をおさめる)世界的なカリスマ演奏家にまで昇りつめるとは夢にも思っていなかったので、パデレフスキーにさっさと教職を紹介して、ウィーンから彼を遠ざけてしまう。悪い言い方をすれば厄介払いのつもりだったのだろう。

しかし、結果としてパデレフスキーはレシェティツキを頼る他はなく、スポンサーを見つけて再びレシェティツキのもとに通い始め、訓練を受けたのち漸くウィーンデビューをさせてもらえた。


これがきっかけとなってパデレフスキーはスターダムを昇りはじめ、「あのパデレフスキーの師匠」としてレシェティツキの名声が決定的になった事は運命の悪戯というものだろう。

レシェティツキは直接・間接指導を含め生涯に約1800人の弟子を指導したが、パデレフスキーの成功が無ければこれほどの入門志願者が門を叩いたかどうかは判らない。だが、門下の証言によればレシェティツキはどんな弟子に対しても辛抱強く教えたそうだから、スタートの遅かったパデレフスキーをとりあえず引き受けてくれる奇特なピアノ教師はおそらくレシェティツキをおいて他には居なかったであろうと推測する。(たとえパデレフスキーがポーランド系ユダヤ人であったにせよ。)

パデレフスキーのパリ・デビューが行われたサル・エラール(ピアノメーカー『エラール』のホール)は、ポーランド貴族の末裔達やパデレフスキーの知り合いが駆け付けたものの、満席には程遠い客入り(聴衆の一人、ポーランドの物理学者マリー・キュリー夫人の証言)だった。

ショパン、シューマン、リストの曲が並んだコンサートは圧倒的なまでの成功をおさめ、やはり聴衆の一人だったアルフレッド・コルトー(当時11歳)は『ステージに神が舞い降りたかのようだった』と後に回想している。

コンサートは聴衆総立ちのスタンディングオベーションと万雷の拍手で幕を閉じ、観客だった指揮者ラムルーとコロンヌの二人が興奮してパデレフスキーの楽屋に駆け付けて共演を申し込んだ時、パデレフスキーは震え上がってしまった。

なにしろパデレフスキーは晩学だったが故に、オーケストラと共演するピアノ協奏曲のレパートリーなどひとつも無かった。

そればかりか、この日パデレフスキーがコンサートで弾いたプログラムが、パデレフスキーの「人前で演奏できるレパートリーの全て」だったのだ。

もちろんウィーンデビューの時とまったく同じプログラム。それもレシェティツキから3年間シゴかれまくって毎日長時間かけてやっと作り上げた「なけなし」のレパートリーである。

パデレフスキーは、プロを目指したのが遅かったために、通常のピアニストが少年から青年に至る時期に経験する『レパートリーの蓄積』が欠落していたのだ。それをパデレフスキーは誰よりもよく自覚していた。だからこそパリデビューがいかに成功しようが、これから先の事を考えて暗澹とした思いにしかならなかったのは無理もない。


しかし、パデレフスキーはサイボーグ並みの意志の強さと根性を持っていた。

持ち前の精神力で「長時間練習」をこなし、更なるレパートリーを蓄積して行く。1891年のアメリカ公演の時、パデレフスキーは1日おきのコンサートをこなしながら、コンサートの無い日に17時間の猛練習を続けたという。

アメリカ公演でのパデレフスキーは実に半年で100回以上のコンサートをこなし、ピアノ界のスーパーアイドルとなった。この時パデレフスキーは31歳。(下の画像)

その人気の凄まじさは半端なものではなく、おそらくパリ時代のフランツ・リストが唯一対抗出来たのではないかという超絶の人気だった。

……例えば、パデレフスキーがステージに登場するやいなや女性達は集団ヒステリー状態になってステージに殺到。(コンサートを始めるどころではなかったろう)

最後の演奏が終わるとアンコールを要求する拍手と歓声・金切り声・断末魔などが沸き起こり、それが1時間以上も続く。レパートリーの少なかったパデレフスキーは、このアンコール地獄でかなりのレパートリーを拡げる事になった。

アメリカの聴衆はひとたび熱狂すると世界一恐ろしい。

なにしろ、かの名優オーソン・ウェルズがラジオドラマで「火星人来襲」のドラマを朗読した時、それを実際のニュースと早トチリして全米が大パニックになった事もある国民性のアメリカ人である。

パデレフスキーの追っ掛け集団もコンサートツアーが進むにつれて次第に見境いがなくなって行く…。

サイン欲しさの女性ファンが楽屋や入口付近に隠れているのはまだいいほうで、中にはハサミを持った女性ファンが待ち伏せし、パデレフスキーを見るなり襲い掛かった事もあった。

殺されるか…と覚悟をしたパデレフスキーだったが、女性ファンが欲しかったのはパデレフスキーの命ではなく彼のブロンドの髪の毛だった。(…ここまで来ると完全に変態ストーカーである。)

こうして、変態ストーカーと化した熱狂的女性ファン達の見境いの無い襲撃をかいくぐりながら、パデレフスキーは半年で100回以上のコンサートをこなし続けたのであった。

パデレフスキーの演奏風景を描いた風刺画。右下の小箱には『私の髪の毛です。ご自由にお持ち下さい』と書かれている。


かのホロヴィッツやミケランジェリ、現代のブレンデルは自己所有のピアノを専属の調律師とともにコンサート会場に持ち込む。そのポリシーは来日公演であっても変わる事がない。自ら用意したピアノのコンディションが納得出来なければコンサートそのものをキャンセルしてしまう例(ミケランジェリ)もある。

いやはや、世界の超一流ともなると公演ツアーに大変な経費をかけるものだと溜息が出る。


だが世の中、上には上がある。

絶頂期のパデレフスキーのコンサートツアーはピアニストというより、王侯貴族も顔負けの超VIPツアーであった。

アメリカ国内を移動する際はパデレフスキー専用列車を使う。列車は車輌ごとパデレフスキー所有物だったばかりか、パデレフスキーのコンサートスケジュールに合わせてパデレフスキーコンサートツアー専用ダイヤ(もちろんパデレフスキーが購入したもの)で運行した。

列車には愛用のエラールのピアノが2台(専属調律師付き)、移動中の長時間練習の時に調律出来るよう2台搬入したと伝えられている。

さらに長時間練習の疲労を和らげるための専属マッサージ師、パデレフスキーの好みの料理人チーム、主治医、執事、秘書、専属ガードマン、夫人と子供たち、……こうした大名行列のような専用列車を見るために集まる群集、群集、また群集。


そうしたパデレフスキーでも、ドイツやロシアでは冷遇された。特にロシアからすれば分割統治下にあるポーランド人は人間以下という偏見があった。パデレフスキーもそのあたりは判っていたが、ペテルブルグでは帝政ロシアのユダヤ人に対する差別政策もあり、ロシアの首都(当時)ペテルブルグにユダヤ人は24時間しか滞在出来ない…という法律があった位である。ポーランド系ユダヤ人であるパデレフスキーなど、世界がどんなに騒ごうが意地でも認めない…という雰囲気が漂っていた。

ロシアはこの時、日露戦争に敗れていた直後であり、さらに第一次ロシア革命によって帝政ロシアは末期状態に突入して行く。

1914年のサラエボでのオーストリア皇太子暗殺事件により、オーストリアはセルビアに宣戦布告、第1次世界大戦が勃発する。ポーランドを分割統治していたオーストリア、ロシア、プロシア(ドイツ)は両陣営に分かれて戦う事になり、ポーランド国内は両陣営に別れたポーランド人達が内戦さながらに銃を向け合う悲劇に陥る。

54歳のパデレフスキーはここで立ち上がった。

当時居住していたアメリカで、自ら亡命ポーランド人10万人を集めてポーランド独立義勇軍を組織。さらにジュネーブ湖畔の別荘を売り払って資金を作る。

ただならぬ事態を察してパデレフスキー邸に取材に押し寄せて来た新聞記者達に対し、パデレフスキーは「ポーランド独立までは演奏活動を封印する」と宣言する。

一日練習を怠っただけで腕の筋肉が硬くなってしまう晩学ゆえのハンディを持っていたパデレフスキーにとって、演奏活動を休止する事……すなわちピアニストとしての「死」を意味する。

しかし、パデレフスキーは「祖国の英雄ショパンが見る事が出来なかったポーランド独立を果たすのは、今をおいて他にはない」と記者達に語った。

目に涙をため、断腸の思いで自宅ピアノの蓋を閉じるパデレフスキーの悲痛な姿は記者達によって撮影され、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポストを筆頭に全世界の新聞のトップで公開された。

祖国の独立のために、ポーランドの生んだ世界ピアノ界のスーパースター・パデレフスキーが私財を投げうって立ち上がったというニュースに、全世界に散っていた亡命ポーランド人達の勇気は百倍した。

しかし、それはポーランドの独立と引き替えに、パデレフスキーが自らのコンサートキャリアに事実上の終止符を打った事に他ならなかった。


1917年、ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生し、翌年ポーランド人民共和国が誕生。晴れて念願の祖国独立を勝ち取ったパデレフスキーの感慨は想像を絶するものだったろう。

民族の英雄・独立の指導者として乞われて政治の檜舞台に押し出されたパデレフスキーは、1919年にポーランド人民共和国首相(兼・外相)となり、パリ講和会議に出席した。

政治的手腕はさすがに専門政治家とはいかなかったものの、母国語のポーランド語以外に英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語を母国語同様に喋れた語学力、加えてピアニストとして活躍していた頃の世界的人脈が、この時モノを言ったのである。

しかし、各国首脳はポーランドの首相パデレフスキーと接していて、複雑な気持ちだったという。例えば、フランスの政治家ジョルジュ・クレマンソー(1841年〜1929年)との間にこんな会話があった。


クレマンソー:貴公はあの著名な大ピアニストとして活躍されていた、あのパデレフスキー殿でおられますかな?

パデレフスキー:その通りです。

クレマンソー:そして、現在ではポーランド共和国の首相でおられる……。

パデレフスキー:…そうですが。

クレマンソー:お気の毒に……なんという転落!


クレマンソーもまた、大ピアニスト・パデレフスキーのファンだったのである。

政治の世界を去ったパデレフスキーを熱狂的なアメリカ人ファンが後押しし、ついに1922年、コンサート活動を再開する。

全盛期の輝きは戻って来なかったものの、ファンはパデレフスキーが祖国独立の為にピアニストとしての貴重なキャリアを犠牲にした事を知っていた。
それでも、すっかり錆びついたテクニックから演奏される音楽は、それが所々に破綻しかけた演奏であっても紛れもない「パデレフスキー節」であり、パデレフスキーにのみ可能な超一流の洒落弾きであった。

今日、ピアノロールやSPに残されているパデレフスキーの録音は、どの曲もパデレフスキーの個性と気品に溢れており、少年時代「君はピアニストにはなれない」と言ったピアノ教師達の感覚を疑いたくなる。パデレフスキーは確かに超人的な練習をした。しかし、パデレフスキーの気品は決して練習で身につけられるようなものではなく、理屈抜きに「持って生まれたセンス」だと感じるのは私だけだろうか。

私もピアニストの端くれとして、持って生まれたものか後天的なものかは、演奏を聴けば間違いなく判る。ひょっとして、師のレシェティツキはパデレフスキーに『…もしや』と感じていたのかも知れない。

ニューヨークのマディソンスクエアガーデンを単独で満員札止めに出来るのは、パデレフスキーかモハメド・アリ(ボクシング)かマイケル・ジョーダン(バスケットボール)くらいのものだそうだ。こんな桁違いのピアニストは、あと300年は出て来ないのではないかと思う。

パデレフスキーの作曲したピアノ曲は、メヌエットがあまねく有名だが、ピアノ協奏曲イ短調もなかなかの名曲である(VOXレーベルからマイケル・ポンティの演奏するレコードが有り)。
http://www.pianist-sonobe.com/pianist_library/h/Paderewski.html


15. 中川隆 2013年4月04日 23:27:20 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


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 /             \     /  /                     }


パデレフスキも30代まではまともな演奏をしていた様ですね。

しかし、ピアニストの場合は20代、30代の天才というのは存在しないのですね。

早熟だったコルトーやホロヴィッツでも40才過ぎてやっと巨匠に成った位ですから。

欧米の女性を熱狂させた20代、30代のパデレフスキーもエルビス・プレスリーやビートルズと同じ類の人気だと思った方がいいですね。

しかし、パデレフスキーに限らず、ポーランドの人間はみんなどこかおかしいですね。

ポーランドはヨーロッパの朝鮮みたいなものなのかな:


ポーランドの噂

1.東郷ビール。 これってフィンランドのはず。 フィンランドにもそんなモンねぇよ。 実際にある。ただし海軍元帥シリーズの一つとして。 正確には「あった」だね。つーか、「東郷ビール」なんていうネーミングは現地で存在してすらいない。フィンランドの超ローカルなAmiraaliという地ビール(92年に製造中止)のラベルの24人の海軍提督のうちの一人が東郷だったというだけ。「東郷ビール 伝説」あるいは「東郷ビール 伝説 独り歩き」でググろう!。

2.ズブロッカ 養命酒に似た味。
中に植物の茎が1本入ってるウォッカ。

3.世界最強の酒、「SPIRYTUS REKTYFIKOWANY(スピリタス)」 これをポーランド人は乾杯で何杯も一気飲みする。
度数96%だっけ?ほとんど工業用の精製アルコールと変わらん・・確か日本で売ってるビンのラベルには「火気厳禁」とか印刷してあった気がする。
普通に水気の入ったビンの感覚で持ち上げるとほとんどアルコールなので軽くてびびる。 日本酒みたいに薄い酒は慣れていないのか、かえって飲み過ぎてつぶれるらしい。


4.コペルニクス、キュリー夫人、ヨハネパウロ2世もポーランド出身。 「コペルニクスはドイツ人だ!」なんて言うと・・・。
クラクフ空港の愛称はヨハネパウロ2世空港。


5.バッハもこの国出身。 当時ドイツ(神聖ローマ帝国)領の地域だよね?違った?
指揮者・クレンペラー(ドイツ人)の生地も今はポーランド。
大バッハはアイゼナハの生まれだけど、あそこは当時からドイツ領では。ポーランドの民族音楽であるポロネーズを作曲してたりはしたけど。


6.ショパンって確かこの国じゃなかったっけ? 当たり。
ワルシャワの空港はフレデリック・ショパン空港
ワルシャワ近郊生まれ。但し父はナポレオン戦争に従軍してそのまま土着したフランス人(母は勿論生粋のポーランド人)。ショパンという姓も本来はフランスの姓。フルネームもフランス語式とポーランド語式の両方がある。

日本のピアニストでショパンの3度の練習曲を速く弾けない人が非常に多い。 同じく作品10・2番半音階の練習曲も弾けないピアニストが多い。 上記の二人はヘタレ音大卒の模様

彼の写真を見たらドラクロアの絵とのギャップが大きく、失望した。

7.初代首相(兼外相)は「メヌエット」で有名な作曲家&ピアニストのパデレフスキだった。



8.第二次世界大戦後国土がずれた。東側はソビエト領となったが、ドイツ東部をもらったため。



9.首都はワルシャワ。第二次世界大戦など対戦のたびに破壊されたが現在は復興した。 旧市街を完全再現したはずが、街の片隅に寸法ミスがある。

10.1980年代に共産党の一党独裁が崩壊。 時の共産党第一書記ヤエゼルスキは大のロシア嫌いだったがポーランドの為になにも言わなかった。盲目の指導者でサングラスをかけていたが、その視力はソビエトとの戦いで失ったもの 一部ウソ。ヤルゼルスキはむしろ心情的に親ロシア派。あくまでもポーランドの独立を守ろうとしたのであって、ロシア嫌いというわけではない。本人もよく「スラヴの同胞」という表現を使う。

ちなみにヤルゼルスキは戦後の歴代指導者の中で一番国民から嫌われている。理由はユダヤ系だったから(現地でポーランド人が教えてくれた)。帝政ロシアの頃から属国の統治手段として異民族出身の指導者を充ててロシアに対する反感を和らげようとしていた。「スラブの同胞」と言う表現はあくまで恭順の意を示しただけに過ぎない。


11.ドイツ第三帝国が築いた収容所の跡が残っている。 オシフィエンチム(ドイツ語でアウシュヴィッツ)収容所。世界遺産となっている。
同様にドイツ第三帝国が築いた総統大本営「ヴォルフスシャンツェ(現地名はヴィルチィ・シャニェツ)」も跡地ながら残っている。ちなみにかなり僻地にあるため、敷地内にはホテルまで隣接している。


12.各地にはドイツ軍の残していったブンカー(壕)が残っていたり、近年では近海にドイツ海軍の空母が沈んでいることが判明したりと、ドイツ軍の置き土産には事欠かない国。街角では何故か鉄十字章がひっそりと売られていることも。 ワルシャワの軍事博物館にナチス展みたいのがあってマウザーやパンツァーファウストが展示してありその筋にの人にははたまらない


13.人口は3800万、日本の関東地方と同じ。


14.ドイツ軍に戦車で攻め込まれたとき馬で対抗しようとした。 でも、ポーランド騎兵の獰猛さは有名だったため、ドイツ兵はびびりまくっていた。本気で勝てるのかと疑っていた節もある。 実はヒトラーが割譲を要求したのは伝統的なプロイセン民族の土地(ドイツ人、ヒトラーが言うアーリア人の土地)で、実際、この地域では第一次世界大戦終結後ドイツ系住民に対する迫害が起きていた。その度合いは初期のホロコーストなど真っ青である。

だがポーランドは突っぱねた上軍備で脅したのでヒトラーがブチきれて戦車で蹂躙された。だいたいポーランドが他国に侵攻されるときの理由はこういう態度なのだが、勝っている方の尻馬にのって被害者ヅラするため始末に負えない。アメリカがあっさりソ連にくれてやったのは相手するのが嫌だったから。長い記事 ウソくさ!いったいどこで読んだんだそんなホラを・・・

ヒトラーはチェコでドイツ人の多い所だけくれればいい、という約束を破った前科があったから、ポーランドが拒絶するのは当たり前。 チェコのそれはチェコ側のお家騒動が原因。

そもそも西プロイセンにはドイツ系よりポーランド系のほうが多数を占めていたからポーランド領になったのだが どうもフランスと挟撃すればいずれ勝てると考えていた節がある。仏との同盟は秘密同盟だった。戦争回避を第一に考えるなら普通は公表する。

日本人はあのにっくっきロシア人に日露戦争で勝った国なので「黄色人種だか身長は自分たちと同じくらい」と勝手に思い込んでいる。背の低い日本人がポーランド人におまえ何人かと聞かれた場合、「おまえはベトナム人か?、朝鮮人(韓国人)か?、中国人か?、もしかして日本人か?」と必ずもったいぶって「もしかして」がつくはず。


歴史を見れば分かるけど、もともとポーランドは愛国心は強いけど異教徒・異民族に寛容な国柄だからね。 ドイツ侵攻に際してポーランド国内ではドイツ系に対する虐殺事件が起きている(ブロンベルグ血の日曜日事件)。これに対してドイツ系ポーランド人が自発的に組織した自警団が報復している。

プロイセンはドイツ騎士団の東方植民でドイツ人が大量移住した土地だが植民者はドイツ人に限らず西側は長年ポーランド王領、プロイセン王国は宗教や民族に無頓着に移民を受け入れる多民族国家だったので「プロイセン人」はかなり多民族と混ざっていた。

当時のポーランドはどさくさに紛れてソ連の領土を掠め取ってるし、ドイツが攻めて来たときにも隙あらばドイツを逆に占領しようとしたのが当時の文書から分かっている。まぁ東の大国ソ連と西の大国ドイツ両方から恨まれてたんだね。
ちなみに当時のポーランドは非常に領土的野心が高い国と言われていたのも分かっている。

パデレフスキ首相が当時はれっきとしたドイツ領だったポーゼンで「ここはポーランドの領土」と演説したことからも明らか。 ぶっちゃけ、当時のポーランドはドイツに負けないくらいの陸軍大国だった。でも重工業化に失敗して機械化が遅れていたので、イギリスとフランスはポーランドがもって2・3ヶ月だろうと思っていた。なので2国とも最初から見捨てる気満々だった。


でもポーランド侵攻時のドイツの戦車は弱く、むしろ優秀な野砲がポーランド軍を蹂躙したと言って良い。

「騎兵隊で戦車部隊に突撃した」という逸話は実は従ドイツ軍イタリア人記者の「作り話」らしい。

15.美人と「ミリタリー系の雑誌」には事欠かない。前者は街中で、後者はキオスクで。 Wikiでその手のを捜してると、「English」のリンクが無いのに「Polski」と繋がっているという事がよくある。

ワールドカップの各国美女サポーターを集めたサイトを見たが、Brazilと並んでPolandのページが異様に多かった。美人が多いのはどうやら間違いないと思う。 世界有数の美女大国だが、30も過ぎるとウエストのないおばちゃん体系に...


16.最盛期は15世紀。


17.田舎の踏み切りは、列車が通過する前後で最低でも30分は閉じている。 目で見て渡れと…。


18.犯罪者の護送に在来線を使う。ちなみに車内では護送される犯罪者は手荷物の収納部屋のような場所に入り、その入り口の両脇を銃器を持った軍人さんがガッチリとガード。


19.何かあるたびに無くなったり分裂したり移動したり復活したりと忙しい国。 ヨーロッパのいじめられっ子。

4,5回ほどロシアに小突きまわされてるのに何度も不死鳥のごとく蘇る。国歌にすら「まだポーランドは滅びていない」というフレーズが入っている。 ちなみに国歌の名前は「ドンブロフスキのマズルカ」、ポーランドの友人に聞いても意味は知らんとのこと。

何度潰されても、虐げられてもしぶとく復活。ポーランドの子供は自国の歴史を学校で習うと愛国心が高まるそうだ。

800年間でもリトアニアに併合され、ドイツ・オーストリア・ロシアに全領土を没収され、第一次世界大戦後再び現れ、今度はドイツとソ連に侵略され、また復活したがソ連に西部を半分持ってかれドイツ東部が領土となり…今に至る。結構いそがしい国だ。

リトアニアに併合されていたというのは無理かも。ポーランド国王がリトアニア公爵を兼ねていた同君連合(西洋史にはちょくちょくあること)でした。ちなみに日韓併合も世界史的に見ると同君連合に分類されるようです。 ポーランド女王とリトアニア大公の結婚という比較的穏健な手段で連合している。ちなみに、女王様は御年11歳で三十路の大公殿下にお輿入れ。

実は結構自分から手を出したこともあるが、一般的にはヤラレ役のイメージが強すぎて目立たない。 ドイツ(チュートン)騎士団をぶちのめしたことも。 リトアニアと連合軍を組んですっごいかっこいい勝ち方をしてた。


20.帝政ロシアに虐められた時、シベリアに流されたポーランド人の子供を日本が世話したので結構日本に対する感情が良い。 そして阪神大震災でその恩返しをした。 阪神大震災の時「今こそ我等ポーランド人が日本人に70年前の恩返しを」という事で多くの被災孤児を招待して手厚くもてなしたとか。

でも国民単位では反日らしい。 そんなことはない。8月6日と9日には原爆犠牲者のための追悼をしてくれてますよ。 そう言うなら「ドイツをいじめると日本人はいい顔をしない」ということもそろそろ理解して欲しい。 そんなこと思う日本人はあまりいない。そもそもドイツはナチス時代にいじめられても仕方ないだけのことをしてるからなぁ(仕返しもしたけど)。 それが結構いるとこにはいる

そもそもドイツ国民の殆どは、同盟を結んでいた事なんて知らない。全く知らないよ。マジで。


ポーランドが反日国家なんて聞いたことがないよ。 むしろどちらかと言えば親日。シベリア孤児のこともあるし、クラクフには日本に関する博物館もある。

21.今でもロシアが嫌い。 ドイツも嫌い。本当はアメリカも好きではないが、「新しい欧州」扱いしてくれるから表には出さない。

その割りに御祭りではロシア人の商人が自国の空軍のパイロットスーツや、果ては日本なら遊就館にでも収蔵されていそうなン十年前の錆びて穴の開いた鉄帽やドラムマガジンを平然と売っている。というかそれ確実に何か憑いているだろ。

が、最近はポーランドの方からロシア側に関係修復を望んでいる。ロシア側も両国の関係進展を望んでいる。エネルギー、防衛の関係で時間はかかりそうだがこの両国の関係がよくなればEUとしてはおいしい。

アメリカへの愚痴意見は両国とも合致している。
ロシア人のエリートがワルシャワに訪問したら、ホテルでも冷たい態度を取られる。

22.でもロシアが嫌いな他の国家(大半はベタベタの親日)からは日本とドイツが第三次世界大戦を起こしたら、ポーランドとイタリアと韓国だけはなんとしてでも締め出そう、と思われている。 日本とドイツが手を結ぶより、日本とアメリカとイギリス+英連邦が組む可能性が高そうなんだが、その場合はどうするんだろ。この場合は戦争する以前にこの新連合国の勝利が決定していそうなんだが。

たぶんドイツやフランスは戦争に参加せず、中国などが敵になりそうな気がする。

アメリカ+日本+英連邦の「新連合国」とロシア+中国の「新似非共産圏」とドイツ+フランス+イタリアの「新枢軸国」でどうか。南米・アフリカ諸国は一番親しい国もしくは一番金をくれる国に付く。 中東なくないすか?

どうせ戦争になったら世界中のみんな「絆」なんて忘れて「金」と「勝利」にしがみつく様になるんだろう。今は仲が良くても心底では「もしアイツが裏切ったときのために一応装備しておこう」と思ってる人が少なからずいる。そう思ったら・・・しょせん世界中の「共存」と「友情」なんてその程度なんだ・・・って落ち込む。



23.ショパン国際コンクールが開催される。 昭和40年代内田光子が2位で、日本はいまだに優勝できない。 日本のピアニズムを認めたくないらしい。


24.去年(2005年)双子の兄が首相・弟が大統領という兄弟政権が誕生。 ドイツが大嫌いだ。ついでに口シアも。

インターネットで、2人の写真を並べて違いを判別するゲームがある。
ソ連に虐げられた日本人とは結構ウマが合うかもしれない。
そりゃそうだ。何回も理不尽な理由で攻め込まれてるからね。

25.国旗の赤と白を逆さまにするとモナコ(=インドネシア)の国旗になる 共産国家になっても、旧来の国旗の意匠を頑として変えなかった(他の東欧国の多くは社会主義っぽい紋章や赤い星を国旗に加えたケースが多い)この国旗にかけるポーランド人の思いはただならぬものがあるそうだ。 国章も、鷲の頭の王冠が消えただけで特に社会主義っぽくはなっていなかった。


26.インドネシアと紛らわしい国旗なので、配色を忘れたら、マルマインを思い出すべき。 じゃあ、マルマインとビリリダマの区別が付かなくなったらどうするの?

27.民族ジョークではイタリアをも凌ぐバカの名産地だが、本来の国民性は勤勉らしい。 戦争でボロ負けしてから必死こいて挽回するから、「一人が電球を持って残り四人がテーブルを回す」とかいう言い草になったんじゃないのか?

かなり我の強い国民性らしい。国王を差し置いて貴族同士が権力争いをしてたら(ポーランド継承戦争)気づけば国そのものが無くなっていた

どうやら、アメリカに大量に移住したポーランド系の移民がロクに英語を話せなかったから・・というのが事の真相らしい。元々は勤勉な国民性なので、二世・三世になって医者や代議士、大学教授等多くのエリートを輩出している。


28.国歌がなかなかかっこいい。 歌い出しが「ポーランドは滅びず 我等が生きる限り」か。ポーランドらしいな(笑) もともとポラン族という民族の集落だったらしい。

旧ユーゴスラビア国歌「スラブ人よ」と同じメロディー。元はスロバキア発祥で現在も同国の第二国歌。

そして何故かイタリアの名前が歌詞にある。ポーランドとイタリアは仲が良いみたいだ。 アンケートによればポーランドが一番好きな民族はイタリア人らしい。次が日本人とフランス人、次がイギリス人、アメリカ人。

29.餃子が名産。 ピエロギと申します。

30.映画・戦場のピアニスト 邦題 The pianist で有名。 「原題」では?
"AVALON"は"The Matrix"よりもクール。

31.アメリカンジョークでは、ポーランド人は時代遅れのバカという扱い。 有名なのは「Polish Remover」の話。

時代背景が古いハリウッド映画(舞台はアメリカ)など見ていると、ポーランド人やアイルランド人を馬鹿にした表現があったりする。何故?国が何度もなくなっているから?


32.あるポーランド人男性によれば、ポーランド女性は身も心も世界で最も美しいのだが、不幸なことに脳みそが入っていないのだそうだ。 どういう意味?おバカさんってこと?


33.ポーランド語人口が少ないにもかかわらずWikipediaの記事数では日本語、スペイン語を上回る第4位になっている。 ポーランド語版Chakuwikiがあったらいいのにw

ワールドワイドで売られている電機製品等では最近意外にポーランド語対応製品が多い。デジカメとかコピー機とか(日本製品で)。
日本ではwikipediaは自己満足の世界と理解されたから。ポーランド人はおバカだからまだそれに気づいていない。

34.「ポーランド人」「ポーランドの」を意味する英語Polish(ポウリッシュ)は、小文字にすると意味ばかりか発音まで変わってしまう唯一の英単語。 polish(ポリッシュ)……磨く。 ポーランドの柱。

polishの発音はパリシなんだが・・・。Polishならわかるけど アメリカ人でも気付かない人が多いらしく、作家のアイザック・アシモフが何回もネタに使っている。

finnishを無視するな。 完了はfinishなのだぜ!


35.ポーランド語は異常に「z」をよく使う。 特に頭文字に多い。

36.王天君にしてヤムチャ。


37.5月3日は憲法記念日。日本と一緒。

38.(9 + 13) * ( 24 - 2 ) を * + 9 13 - 24 2 と書く。 その逆が 9 13 + 24 2 - * ポルスキーもあながちバカばかりではないようだ.



39.たまにドイツに過去の清算だの言いがかりをつけてくるが、 モンゴル帝国が攻めてきた時、当時のドイツである神聖ローマ帝国と共にモンゴルの侵略と戦ったことはすっかり忘れている。 大昔から他人種と戦うなんて大陸はつながってるなあ。いまでもポーランドの路線はロシア経由で中国やモンゴル、北朝鮮にもつながっている。 侵略されたら戦うのは当然だろう。神聖同盟でロシア、オーストリアと組んでオスマントルコと戦ったりもしている。この時にポーランド騎兵の対外的な名声が高まった。

その四十年後に繋がってない日本もモンゴルと戦っている。西のヨーロッパから東の島国まで攻め込んでモンゴルも忙しい国だ。


40.ポーランド騎兵には羽が生えていた。 あの羽根飾りはカッコイイ。

41.ポーランド人はアメリカやイギリスに多く移民しており、親米らしい。 ロシア語までも嫌っている。英語がブームらしく、日本語も人気で始めた。 戦前はドイツ語とロシア語がブーム。戦中から戦後は英語ブーム。


42.チェチェン人を保護している。『殺してやる』というほどロシアを嫌っている人々に共感しているみたい。 さすが大のロシア嫌い。

ソビエト陣営所属の共産国家「ポーランド人民共和国」時代で3回も反ソ連暴動起こしてるしな・・

43.ポーランドのドラゴンボールzのopeningはなぜかナメック星編中心。 ハンガリーもポーランドと同じバージョン。

フィリピンの英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語バージョンはかっこいい。


44.♪さぁ踊ろう ポーレチケ、ポーレチケ、ポーレチケ…


45.優秀な人はみんな西に行ってしまったので、残っている人はそれなり。日本で言えば山口か鹿児島か。「ポーランド人は外国にいって成功するんだ(キューリー夫人とかショパン)」と真顔で語る波蘭人。

46.国が何度も消滅する歴史を持っているためかどこの国であろうと虐殺、弾圧が行われると真っ先に反応して講義する。天安門事件の慰霊碑が立てられているのが好例。

47.第二次大戦のポーランド軍最高司令官はヴワディスワフ・シコルスキという。 気持ちい? 女性ならシコルスカ/Sikorska、シコシコ・スカスカ、はぁー

48.ナチスドイツから2500人のユダヤ人の命を救ったイレーナ・センドラーというポーランド人がいた。 ナチスドイツ軍に処刑されたと思われたが実は生きていたという奇跡の物語。



49.ただいま日本語がブームである。 なんと日本ポーランド情報技術大学なんてのがワルシャワにある


50.ナポレオンが好き。(一時的に、ワルシャワ公国としてポーランドを独立させたから) 国歌の歌詞に「ボナパルトがいい例だ 勝つ方法を見せてくれた」との一節がある。

その結果ポーランドにはフランス語が元の言葉も多いとか
ボナちゃんの愛人がポーランド人。


51.ポーランドは西側の中古の路面電車を買っている、そしてリニューアルをする。 JR西日本とJR四国のような感じである。

52.ポーランド人はドイツとロシアも両方嫌っているが、ロシアのほうが嫌いだろう。 ポーランドはドイツ語を好んでいる。何しろ出稼ぎに便利。ドイツ語とポーランド語は違う系統だが隣国なのでよく通じる。 内心嫌いだが、金のためのドイツ語だろ?

ポーランド旅行ではドイツ語表記が多いので、ドイツ語がわかれば結構よいかも。
しかしロシア語で話すと横柄な態度を取られる、また第二次大戦後にロシアにより東側陣営にさせられた苦痛がある。 しかしポーランドではロシア語教育が復活している。まあBRICsだから。

ドイツは消極的選択肢で好かれている。まあナチス式敬礼しただけで逮捕するからね。一応はドイツは敗戦したし。 これはバルト3国、チェコ、スロバキアでも同じ事。


53.ポーランドは客車大国で、特急列車も高速鉄道も客車。高速鉄道を作らず、飛行機と競争しない旧共産圏の名残。 ドイツから鉄道を乗り継ぐ際にここを境にユーラシア大陸の極東まで特急列車はほとんどが客車になり、シベリア鉄道は超長距離だから特急は客車しかない、中国のハルビンで動力分散型の高速鉄道が見られる。

ちなみにベラルーシを越えると線路幅どころか車高も変わる。 標準軌のヨーロッパと直通運転の際にロシア国内では車高が高いCIS列車と車高の低いヨーロッパ車両の組み合わせが見られる。[1]

なんと日本に次ぐ早さで高速鉄道を開通させていた。ただし路線に見合った性能の高速列車の導入はこれから。


54.イタリアと仲がいい。


55.ポーランドとインドネシアは似た国旗以外にもナチスに関係がある。


56.東欧革命後に西側の安い労働力として毎年6%前後の成長しており、2008年ではGDPは世界18〜20位だった。ポーランドは旧共産圏で経済成長率が高い。 勤勉なポーランド人は英語が好きで、近年は嫌いな国の言葉のドイツ語、ロシア語教育に熱心である。

恵まれた国に隣接する国は飛躍的に経済成長する現象。アメリカとメキシコ、日本と韓国、ドイツとポーランド、イギリスとアイルランド。 シンガポールとマレーシア。ギリシャとトルコも?だけどスペインとモロッコ、オーストラリアとパプアニューギニア、イスラエルとエジプトは?

57.弱いイメージがあるが、リトアニア大公国との同君連合時のヤゲウォ朝(ヤギェウォ朝)はヨーロッパでも最強クラスの国家だった。ちなみに受験でポーランドの王朝が聞かれたら100%ヤゲウォ朝 昔から軍事的にもそこそこ強力な国だったが、ドイツ・ソ連の東西両国が強烈過ぎた。ナチス占領下でもワルシャワで数十万の武装市民がナチスSS武装親衛隊相手に壊滅状態になるまで徹底抗戦したりと、よく言われる「ヘタレ」のイメージでは無い。

58.ポーランド人は金持ちがドイツに留学、貧乏がロシアへ留学するらしい。 ポーランドは一応はドイツ語は学ぶ。

59.移民として行く国はイギリス。ドイツは当たり前だが少ない。


60.ウクライナとの関係はよくわからない。どっちも反ロシア ポーランドとロシアの綱引きのようなもの。綱(ウクライナ)を少しでも自陣に近づけようとしあっている。

ポーランドには12万人のウクライナ人がポーランドで就業登録している。ポーランド国内最大の移民グループはウクライナ人女性で、彼女たちに家計の全てを頼る家庭がウクライナには多いという。
どっちも美人大国!♪


西部ウクライナは歴史的にポーランドの影響を受けた地域で、ウクライナ語も東スラヴ語だが語彙はかなりポーランド語化しているのでポーランドとの心理的距離は近い。


61.18世紀に隣国によって分断され国が消滅、まるで現在のクルディスタン状態に・・・

62.童謡「森へ行きましょう」はこの国の民謡。 ポーランド語では「Szła dzieweczka(シュワ・ジェヴェチュカ)」と言い、「あの娘は歩いている少女」という意味らしい。


63.実はポーランドは17世紀においてオスマン帝国とマトモにやりあえる位の大国であった


64.ポーランド人は馬鹿といわれているがそれはジョークだけ、実際欧州でも1〜2位を争うほどIQが高い人が多い。


65.酒屋やスーパーのお酒売り場においてウォッカは売り場の7割ほどを占める でも最近若年層はワインを飲む人が増えてきた


66.ロシアとどっちがウォッカの元祖かしょっちゅう論争してる 記録上一番古い蒸留所はポーランドにある


67.最近はデスメタルの聖地。しかも、ものすごいテクニック(特に驚異的ドラマーが多い)と音圧、激しさ...ポーランド人の国民性?


68.G8の中で6ヶ国は好きで2ヶ国は大嫌いその国はどこでしょう?。 新大陸のアメリカとカナダは移民が多いから好き。極東の島国の日本は日露戦争の影響で大好き。ヨーロッパの連合国のイギリス、フランス、枢軸国でもすぐ脱落したイタリアは大好き。

ポーランドを侵攻したドイツ、ロシアは大嫌い。


69.フランスの環境相ナタリー・コシュースコ=モリゼはポーランド独立の闘士コシチューシコ伯爵の兄の子孫。


70.ポーランドの英雄ピウスツキの兄の子孫が北海道にいる。本国の家系は途絶えたらしい。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89


2012年 6月30日〜7月3日ワルシャワ旅行

 お休みと週末を利用してワルシャワを訪れた。毎回体調不良や予定があわず何度となく旅程を延期していたため、色々な意味で大きな犠牲を払った上での三度目の正直であった。ホテル・フレデリック・ショパンにチェックインし、仕事も多忙を極める時期でもあったため、なるべく体力を使わないように慎重に観光した。

訪問の主な目的はショパン、キュリー夫人、パデレフスキの足跡をたどり、彼らが育った土壌の文化、雰囲気、ポーランドの空気を体に染み込ませること。飛行機の中や晩ホテルで寝る前、その世界になるべく近づけるよう最近パリで購入したアルド・チッコリーニの演奏によるショパン作曲ノクターン集の音楽を聴いた。コペルニクス、パデレフスキ、ミケヴィッチについては、彼らの像をみることしかできなかった。

初日はショパン音楽院に通う友人と久しぶりに再会し、彼の案内でショパン音楽院を見学し、練習室でショパンの弾き合いをした。そこで先日のショパンコンクール審査員らの裏話を聞いたり、友人との会話を楽しんだりした。晩はマクドナルドでポーランド人の味覚を確認すべく、ビッグマックを食べた。

二日目は一人で観光。ショパン博物館には昔から本などでよく見かけた絵やショパンのピアノなどが展示してあった。ショパンの家は残念ながらあいていなかった。市街地の中心にある宮殿の小ささには驚いた。宮殿の大きさ、豪華さがその国の国力におよそ比例していると考えているが、このサイズは東アジアでいえば朝鮮国より小さく、琉球国よりやや大きいという感じであろうか。

キュリー夫人の生家、キュリー博物館にはパリのキュリー博物館(キュリー研究所)より多くの写真があった。その多くがパリの写真であり、パリで見たことがあったが、その中にもワルシャワでしか見られない少女時代の写真や、レアな写真もあった。パリのキュリー研究所で今自分がいる建物は100年前から外見は何も変わってなかった。

キュリー夫妻は、笑っている写真が1つも残っていない。長女のイレーヌは研究者になり、ノーベル賞を受賞したが、やはり笑った写真が1つもない。職業柄であろうか。次女のエーヴはピアノにハマり研究者にならず、いつもニコニコ美人で有名人の娘として社交界に出入りし、ノーベル平和賞をもらった組織のトップと結婚し、母の思い出を書いた伝記はベストセラーとなり、この時まだ102歳?で健在であった。

研究をした彼女の家族は全員放射能を浴び白血病で若くして亡くなった(父親は事故死)が、彼女は姉の2倍生きた。


生家をみる限り、伝記などで美化されるとなる生まれの貧しさは必ずしも正しくはないようである。それなりの家に育っていたようである。


晩は旧市街地でサッカーワールドカップ、フランス対ブラジル戦を見ながら地ビールを味わった。

三日目は午後から友人と合流し、南の離宮と有名なショパン像があるワジェンキ公園に向かい、ショパン像隣でのショパン音楽院教授によるショパンの演奏を聴いた。野外に粗末なピアノを置き、アンプとスピーカーを通しての演奏だったため、演奏者にもあまりやる気が感じられなかった。建築などで有名だった旧名門ワルシャワ工科大学前を通過し、晩は旧市街地で夕食をとった。

四日目は友人とショパンの家に行ってみたが、またしても開いていなかった。そのまま空港行きバスにのり、パリに帰った。二度と訪れないような気がして寂しさを感じた。
http://nanomicroscientist.blogspot.jp/2012/07/63073.html


16. 中川隆 2013年4月04日 23:45:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

図書館で借りて来た本です。


「キュリー夫人伝」


やばい。

ほれてしまいそう

誰にって・・

著者のエーヴ・キュリー キュリー夫人の次女です。


「キュリー夫人伝」はキュリー夫人の死後、比較的すぐに書かれた伝記で、
長い間、これが唯一の伝記本であったそうです。
他の作家の手による伝記は出版することも書くことすらも許されなかったからだと。他にもいくつか伝記を読みましたけど、やっぱりこの「キュリー夫人伝」は
迫力がすごい。

しかも、ポーランドにいた娘時代の描写が細かい。

驚くのは、キュリー夫人の行動半径と、ショパンの行動半径、それに「戦場のピアニスト」のヴワディスワフ・シュピルマンの行動半径とが、ほとんど一緒ということ。


ショパン家がかつて住んでいた「サスキ宮」はその後ロシアに乗っ取られ、キュリー夫人の子ども時代には「地方裁判所」として登場します。今は壊されてしまって「無名兵士の墓」となっています。

クラクフ郊外通りのヴィジトキ教会は、ショパンがオルガニストとして活躍した教会ですが、キュリー夫人伝には「官立女子学校の真向かいの教会」として登場します。官立女子学校は、キュリー夫人が通った、今で言う中学校〜高校くらいの学校です。ロシア支配下にあった時代で、教育もかなり制約を受けていました。


シュピルマンが徘徊したノヴォリプキ通りはシュピルマンの時代は(=WW2)
大ゲットーの中にありましたが、キュリー夫人の時代は、そこにスクウォドフスキ一家が住んだ家とお父さんの勤め先の高校がありました。教育者にとっては不遇の時代でした。


スクウォドフスキ家はショパン家とまったく同じように、勤め先の学校の教職員用住宅で、地方からワルシャワに出て来て高校に通う生徒たちのために寄宿舎を経営してました。

スクウォドフスキ家はショパン家よりも子どもの数も寄宿生の数も多かったので
そうとう騒々しかったらしい。

そんなスクウォドフスキ家でキュリー夫人が身につけた技は外界遮断の集中力。
周囲がどんなに騒がしくても、本を読む時は雑音をまったく耳に入れないほど
集中できたとか。


とにかく、ウィットに富んでて心くすぐる伝記です。
エーヴは、伝記の前書きの最後に


「アインシュタインが、

”キュリー夫人はあらゆる知名人の中で名誉によって損なわれなかったただ一人の人である”

といったこの永遠の学徒を、そのけがれなき、水の流れるように自然な、みずからの驚くべき宿命をほとんど自覚していなかったかのような生涯をたどりつつ第三者の立場に立って描き出すために、私は作家としての素質が足りないことを残念に思う。」


と書いているのですが。作家としての素質が足りないどころか、やっぱり天才の娘は分野が違っても天才なのだなと思わずにはいられないのです。


エーヴ、きれいな人です。この方は科学にはまったく縁を持たなかった方なのですが、音楽の才能があったそうで、小さい頃からピアノを弾き、大学を卒業した後はピアニストとして活躍した時期もありました。



ゼブラさん、凝り性の家系の「凝り」がいつ頃DNAに組込まれるようになったのか、ただいま探求中でございます。 ^ ^
マリー側(スクウォドフスキ家)の家系は4代上まで遡ることができましたが、これという学者肌がいた形跡はないですが、わりと両極端な人が多いような気はします。成功か失敗か成金か失業か・・・

エーヴはピアノを弾く人だったのですが(プロではない)、

マリーは娘のピアノの才能の程をパデレフスキに尋ねているのですが、パデレフスキはショパン全集を編纂した人なのできっとエーヴもその時はショパンの曲を弾いたのだろうなぁ。自分のひいおじいさんがショパンその人と会ってた可能性を彼女は知ってたのかなぁ。
2012/10/9(火) 午後 9:51
http://blogs.yahoo.co.jp/connie_kako31/39786406.html


17. 中川隆 2013年4月05日 09:12:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

フレデリック・ショパン

父・ニコラ 1829年 ミエロシェウスキ
母・ユスティナ


ショパンの父親はニコラ・ショパンといい、ロレーヌから1787年に16歳でポーランドに移住してきたフランス人である。1794年のコシチュシュコの蜂起においては、彼はワルシャワの市民兵として戦いに加わり、副官へと昇格していた。

元来外国人であった彼であるが、時とともに完全にポーランドに馴染んでいた。ポーランドの歴史家、公文書保管人であるワパチンスキ(Łopaciński)によれば、彼は「自分のことをポーランド人と考えて疑うことがなかった」のだという。

フランス語が堪能であったニコラは知られた存在となり、貴族(ポーランドの貴族の一覧)の家庭教師をするようになる[3]。その中にはスカルベク(Skarbeks)がおり、ニコラはその遠い親戚であるユスティナ・クシジャノフスカ(Justyna Krzyżanowska)と結婚する。

彼女はシュラフタ(ポーランド貴族)の娘であったが、地位を失いスカルベク家に住み込んで侍女をしていた。

ショパンは夫妻の二人目の子どもとして生まれた。彼は当時ワルシャワ公国であったワルシャワから西に46kmの地点にあるジェラゾヴァ・ヴォラ村で生まれた。

1810年10月、ショパンが7か月の時、サミュエル・リンデ[注 12]が父にワルシャワ学院でフランス語を教えないかと持ちかけ、承諾した父と共に家族はワルシャワに移住する。学院はサクソン宮殿内にあり、ショパン一家は宮殿の庭園に住むことになった。

ポーランドの精神、習慣、言葉はショパンの家庭に浸み込んでおり、ショパンはパリに出てからもフランス語を完全に自分のものにすることはできなかった。

ショパンの家族は皆音楽の才能に恵まれていた。父ニコラはフルートとヴァイオリンを演奏できた。母ユスティナはピアノに長けており、一家で切り盛りしていたエリートの寮で寮生の少年たちに指導をしていた。

ショパンが最初に本格的にピアノを習ったのは1816年から1822年、指導者はチェコ人のヴォイチェフ・ジヴヌィであった。若きショパンの実力はあっという間に師匠を超えてしまったが、ショパンは後年ジヴヌィを高く評価していた。

弱冠7歳の「ショパン少年 Szopenek」は公開演奏を行うようになり、瞬く間に神童モーツァルトやベートーヴェンと比較されるされるようになっていく。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3

ポーランドとショパンの生家 2012-03-15

今から25年前、世界銀行に勤めて初めての出張がポーランドだった。私がショパン弾きでポーランドが好きだから、このチャンスが巡ってきたわけではない。当時の東欧諸国は計画経済が破綻し、物不足が深刻だった。市場の導入や外貨の借り入れで経済を活性化するのが、国の緊急課題だった。ポーランド政府が世銀にも融資を申し入れてきたので、融資審査のためワルシャワに出向いたわけだ。

ワルシャワは薄汚いコンクリートでおおわれた、寒々とした都会だった。旧市街は第二次大戦の戦禍から復興し、古き良き時代の面影を彷彿させていたが、国の貧しさは首都のあちこちで感じる。買い物の長い行列、ろくな商品もない店の陳列棚、品切れが常態化している町の食堂、紙くず同然の現地通貨など、これがコペルニクスやショパンが生まれ、キュリー夫人が育った国とは思えない惨状である。

世銀の出張は一回三週間と長い。統計資料が未整備の途上国なので、政府や中央銀行との協議も時間がかかるのだ。私の交渉相手は共産党のエリートだが、外国語はロシア語しかできない。当時のポーランドは英語を話す人が少なく、何もかも通訳頼みで効率が悪かった。共産党一党独裁の国は言論の自由がないため、訪問者にとっても息苦しい。金髪碧眼の美男美女とのギャップが奇妙だった。

ワルシャワ郊外ジェラゾヴァ・ヴォラ村にあるショパンの生家

仕事が一段落した週末は、観光やコンサートで多少の息抜きができた。その中で思い出深いのは、何と言ってもショパンの生家を訪ねたことだ。ショパンが生まれた屋敷が、ワルシャワの西60kmののどかな田園地帯に修復され保存されている。ショパンは202年前の3月1日、この家でフランス人の父、ポーランド人の母の間に生まれた。ショパンの母方の実家は、この地方で有数の裕福な地主だった。

幼いショパンがピアノを習った部屋を覗くのは興味深く、広大な庭のそぞろ歩きも楽しい。ショパンファンにとって嬉しいことに、この生家はただ公開されているだけでなく、日曜日午後にはミニリサイタルが開かれる。私の訪問時は、ワルシャワ音楽院で教えているピアニストが、「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」を弾いてくれた。見事な演奏に時空を超えてショパンの真髄に触れる気がした。


ショパン生家での日曜リサイタル演奏者、エヴァ・オシンスカ女史

ショパンは19歳で故国ポーランドを離れ、ウィーンを経てパリに活動拠点を移す。当時のポーランドは帝政ロシアの支配下にあった。独立を求める運動は挫折の連続であり、ショパンは二度と故国に戻ることはなかった。それでもショパンの音楽には、故国への強い憧憬と愛国心が満ちあふれている。情熱と悲哀、そして憂愁が同居するポロネーズの名品は、ショパンとポーランドの強い絆の証人である。


ショパン生家の大サロン 調度品やピアノは復原されたもの

ワルシャワに戻り、中世的な町並みが残るクラコフスキエ・プシェドミエシチ通りを歩く。ショパンはパリで39年の生涯を終えた。写真に見える聖十字教会の聖堂の柱の中に、本人の遺言に従い、ショパンの心臓が保存安置されている。故国に帰ることがなかったショパンも、心だけは故国に帰らせたかったのだろう。敬虔なカトリック信徒が多いポーランドでは、今も町の教会に若い信者が絶えることはない。

ワルシャワ中心部クラコフスキエ・プシェドミエシチ通りと聖十字教会
http://ameblo.jp/f-chopin1810/entry-11192995504.html

ショパンゆかりのパリ 2010-06-24

パリの緊迫したバカロレア試験会場をあとにする。カフェで一服した後は、ショパンゆかりのパリめぐりとしゃれこんでみよう。何年か前、ある国際機関の会議に出るため、毎月のようにパリに出張した。たいていは数日でとんぼ返りの忙しい日程だったが、たまに週末をまたぐことがあると、美術館をめぐり、セーヌ河畔を散策しては青空市を冷やかした。中でも一番の楽しみは、パリのあちこちに残る、ショパンゆかりの場所を訪ねることだった。

故国ポーランドのワルシャワをあとにしたショパンは、ウィーンでの滞在、ザルツブルグ、ミュンヘン、シュトゥットガルトを経て、パリに着いた。ショパンが21歳の時のことである。パリの北部にある9区、オペラ座から1kmほど東、ブールヴァール・ポワソニネール27番地のアパルトマンに落ち着く。今は賑やかな大通りだが、当時は静かで、北のモンマルトルの丘から、セーヌを隔てた左岸にあるパンテオンまで見渡せたと、ショパンは書いている。


ショパンは、最初ピアニストとして名声を得る。設立されたばかりのリサイタル会場、サル・プレイエルで演奏したのである。パリでの演奏会には、リストやメンデルスゾーンら、時代をリードする音楽家も顔を出していた。サル・プレイエルはその後発展し、今はフォブール・サントノレ通りに、立派なコンサートホールとして残っている。プレイエルは今もあるフランスの代表的なピアノメーカー。私のパリでの定宿は、サル・プレイエルの近くにある。

余談ながら、ピアノは元々イタリアで発明されたが、エラールやプレイエルなど、後発のプランスのピアノメーカーが、新しいアクション機構を開発したことで、コンサートホールで弾かれる楽器としてブレイクした。ショパンやリストのピアノ音楽は、フランスピアノの発展と共に生まれた。ドイツやアメリカのピアノが市場で評価を得るのは、さらに時代を下ってからのこと。プロフィール写真で私が弾いている古めかしいピアノも、プレイエルである。


ショパンのパリでの幸運は、ロスチャイルド家への紹介などを通じて、パリの上流社会での名声を得たことだ。それにより、上流階級のサロンに集まる人々は、ショパンの音楽を愛し、ショパンは音楽教師として十分すぎる収入を得た。次第に作曲の道に特化していくショパンは、パリ生活の初期に練習曲作品10や前奏曲を書いている。

ドイツやイギリスへ演奏旅行にも出かけた。ライプチヒで、ロベルト&クララ・シューマン夫妻と会っている。

ジョルジュ・サンドとのマヨルカでの生活を経て、ショパンは29歳でパリに戻る。この時、すでにショパンの持病の結核を患っていた。モンマルトルの丘の南麓、ピガル街に居を得たショパンは、ワルツ、マズルカ、幻想曲、ソナタ第3番、舟歌、幻想ポロネーズなど、円熟期の名品を次々に生み出す。38歳でロンドンに渡り、ビクトリア女王の前で演奏したのが、最後の外遊となる。パリに戻ったショパンには、もはや創作の力は残されていなかった。

ショパン終焉の地は、オペラ座のすぐ南、ヴァンドーム広場12番地のアパルトマンである。現在は宝飾店「ショーメ」が入居していて、「ショパンがここで息を引き取った」と表示されている。近くのマドレーヌ寺院で営まれた葬儀には、三千人が集まった。遺体はパリ20区のペール・ラシェーズ墓地に葬られた。メトロで簡単に行くことができる。 39年の短い生涯であったが、彼の音楽は世界中のファンに愛され、墓には今も花が絶えることがない。
http://ameblo.jp/f-chopin1810/day-20100624.html

ポーランドその2 2010-05-31


きょうは、ショパンとは直接関係のない、ポーランドの歴史や現代ポーランドの素顔について書いてみる。

ポーランドには1989年の東欧革命の前と後、都合十回訪問した。いずれもショパンとは関係のない仕事での出張である。ワルシャワのショパン協会、ショパンの生家があるジェラゾバ・ヴォーラなどは、仕事の合間に行っただけである。出張ついでの訪問という意味では、ワルシャワ旧市街にある物理学者キュリー夫人の家にも行ったし、古都クラコフ、ユダヤ人虐殺という重い歴史の証人、アウシュヴィッツ収容所跡にも行く機会があった。

日本ではポーランドと言うと、ショパンやキュリー夫人、あるいは地動説を唱えたコペルニクスを連想する人が多いが、ポーランドの一般庶民にとっては、ショパンやキュリー夫人は遠い存在であり、EU加盟後の今も、クラシック音楽よりも、毎日の暮らしをどうするか、雇用は賃上げはといった経済問題の方がはるかに重要である。文化という意味では、後述する宗教(カトリック)の方が、現代ポーランド人の生活にとって重要な役割を持つ。

東欧革命の前、ポーランドは共産圏の中にあって、ソ連に支配された貧しい国だった。小学校三年ともなると、ロシア語が必須で、その次に学ぶ外国語はドイツ語、英語ができる人は少なかった。ポーランド語はロシア語と同じスラブ系なので、文法も語彙も似ていて、学習はさほど困難ではないが、ポーランド人はロシア語の学習を嫌っていた。ポーランド人が同じ共産圏のハンガリー人と話す時、使用される言語はドイツ語だったりした。

貧しいというのは、とにかく店に物がないのである。何でも行列して買わなければならない。レストランに入ってメニューから注文しようとすると、ウェイターが「ニェマ」を繰り返す。「あいにく切らせている」わけだが、あった試しがない。当時も百人を超える音楽関係の日本人留学生がいたが、皆毎日の食料の確保に苦労していた。それが市場経済になってからは一変。今度は格差社会で、物は豊富に出回るが、庶民はそれを買う金がない。

ポーランドの近代史は、周辺の大国による侵略・占領の繰り返しだった。18世紀末にはロシア・ドイツ・オーストリアの三国に分割され、国としては滅んだ。ショパンが生まれた時、ワルシャワはロシア帝国の一部だったのだ。第一次大戦後、念願の独立を果たした。ポーランドのピアニスト・作曲家のパデレフスキーは第三代首相だった。ところがその独立は20年で終わる。第二次大戦勃発と共に、ドイツとソ連に分割占領されたからだ。

日本ではポーランドはナチス・ドイツの侵略を受けたと教わる。しかしポーランドの東半分を占領したのは連合国のソ連だった。ナチスの暴虐と共に忘れてはならないのが、スターリンによるポーランド弾圧である。カチンの森事件の追悼行事に出席する途上のポーランドの大統領が、先月飛行機事故で亡くなったが、このカチンの森事件では、ポーランド軍の将校多数がソ連軍に虐殺されたのだ。ポーランド人の反ロシア感情の根は深い。

そういう苦しい圧政を経たポーランド人は、忍耐と屈従を学ぶ一方、自尊心と権力に対しての抵抗意識が強烈である。ワレサの「連帯」運動の時に、共産党政府への抵抗を可能にしたのは、労働者、学生、聖職者の強い絆だった。しかし悲しいかな、二十世紀初め、故国の貧困とロシアの圧政に幻滅した多くのポーランド人は、アメリカに移住する道を選ぶ。ポーランド系米国人の人口は一千万と言われる。貴重な人材が流出したのである。

ポーランド人にとって、ローマ・カトリックは心の支えである。前の法王ヨハネス・パウロ二世はポーランド・クラクフの大司教だった。周辺諸国がプロテスタントやロシア正教であっても、ポーランドだけが頑なにカトリックの伝統を墨守している。ポーランドではキリスト教は高齢者の宗教ではなく、国民のあらゆる階層に浸透している。ワルシャワの日曜日の教会はどこも賑わっていて、しかも高齢者よりもむしろ若い人の姿が目立つほどである。

ショパンのピアノ音楽は、ポロネーズやマズルカなど、ポーランド音楽の影響を受けている面がある一方、土臭い農業国ポーランドとは無縁の、洗練されたロマン主義が顕著である。これはショパンが成人後はポーランドを離れ、主にフランスで活動したことと関係があるかもしれない。しかしショパンの音楽に見られる激情や哀切、そして憂鬱は、亡国の民の悲しみが色濃く反映しているように思える。あらゆる意味において、彼は詩人だった。
http://ameblo.jp/f-chopin1810/entry-10549992247.html

ポーランドとショパンをめぐる2つの疑問 2010年04月12日

 それにしても、ポーランドのカチンスキ大統領夫妻の乗った専用機が墜落したというニュースには驚きました。しかも「カチンの森」虐殺事件に関してロシアが責任を認めて謝罪するという歴史的な事件の、その慰霊祭へ向かう途上というのですから、何という悲劇でしょう。私は一瞬、ポーランドにおける親露路線と親米路線の葛藤が背景にあるのではとか、「カチンの森」の歴史認識で謝罪を快く思わないロシアの勢力の利害はどうか、などと不謹慎なことを考えましたが、状況から見るとどう考えても不運な事故としか言えないようです。

 それにしても、この事故は改めてポーランドという国が、長い間ドイツとロシアの間に挟まれて苦悩してきた歴史、そして現在も米欧とロシアの利害の狭間に立っているという「小国の苦悩」を背負った国というイメージを思い起こさせます。その苦悩に対して同情的になるということは、このポーランドに典型的な「被害国のナショナリズム」を認めることにつながります。そうは言っても、ナショナリズムは所詮ナショナリズムです。それは排外や独善を伴うものであり、インターナショナリズムやグローバリズムとは両立の難しい概念ですし、少なくとも国家と国家の間における対立エネルギーを減らすことが良いことだという価値観とも矛盾します。

 ですが、このポーランドのような「被害国のナショナリズム」はどうしても多くの部外者の同情を集めてしまいます。特にこの「カチンの森」虐殺事件のような事件を思い起こせば、正に被害を受けた国が民族的な義憤にかられて「被害者の正義」を主張することは全く問題がないようにも思えるのです。例えば、日本と中国に挟まれた歴史を持つ韓国の人々が、このポーランドの歴史に同情的であるというのも、容易に理解できる話です。

 では、このような「被害国のナショナリズム」は手放しで善玉扱いしていいのでしょうか? 手放しで、ということになると私は疑問を感じてしまいます。そのナショナリズムが暴走しないよう何らかの批判的な観点は残されるべきだというのが1つあります。また、大国の暴力的なナショナリズムというのも力への過信や驕りから来るというよりも、こちらも同じような被害者意識に突き動かされているであって(ナチズム、アメリカの草の根保守、反欧米思想としての大東亜共栄圏など)、被害者意識が暴力に転ずるメカニズムとしては同様に批判されるべき、そんなことも思うのです。

 勿論、大国のナショナリズムというのは、国内問題としての格差の被害者である庶民感情を敵愾心へと排出させる「持てる側の狡知」が事態を悪化させることが多いのに対して、小国のナショナリズムはそのような「二重性からダークサイドへ落ちる危険」が少ないという指摘はできるでしょう。だからと言って、全面的に正義とするのが正しいのか、とにかく私には答えはないのです。

 ポーランドといえば、作曲家のフレデリック・ショパンが有名で、このショパンという人も1830年の「ワルシャワ蜂起事件」を契機に亡命した「愛国者」という政治性が、芸術の背景にあるのはよく知られています。思えば、今年はそのショパンの生誕200周年の記念の年であり、またポーランドの国を挙げての新人ピアニストの祭典、ショパンコンクールの記念大会も行われます。第2の疑問というのは、このショパンの政治性についてです。ショパンの芸術を理解する上で、どうしてもこの「愛国の義憤」というのは避けて通れないようにも思うのですが、そのことと、この作曲家のピアノ曲の面白さをどう結びつけて考えたら良いのでしょう?

 昔から、漠然とですが、愛国者の熱情と亡命者の郷愁がこの作曲家の持つロマンチシズムの背景にある、そんな理解がされてきています。このあたりも私には良く分かりません。最近の才能のあるピアニストは、そうしたセンチメンタルな人生のドラマとは無縁のもっと純音楽的なアプローチで、この天才的なピアノ音楽作家の作品に向きあっています。打楽器の延長の「叩く楽器」でありながら、メロディーも歌えてしまう音域の広さを持つピアノという楽器を使うにあたって、「歌」をワルツやマズルカの舞踏リズムに乗せてしまうという曲芸的な作曲がされている、その面白さは楽譜そのものが語ることで十分だ、才能のある演奏家にはそう思えるに違いなく、仮にそうであればそれで結構ではないか、そんな風にも思えるのです。

 ですが、ショパンの音楽が歌であり同時に舞踏であるということは、様々なテンポの揺れや歌の息遣い、陰影の濃い強弱や緩急といった表現を要求します。そうした複雑な表現を「楽譜にピタっと」くるまで彫琢して自分の解釈を作るには、1つの手がかりとして、愛国の情、亡命者の憂愁といった印象論的な理解がインスピレーションになることもあるようです。

 例えば、最近評価の高まってきた日系ドイツ人の若手ピアニスト、アリス・紗良・オットさんが録音したショパンのワルツ集のCDについてのプロモーションビデオを観る機会があったのですが、ドイツの会社らしい「やんちゃ」な企画で、オットさんは、グダニスクの「連帯」運動の舞台になった造船所にピアノを持ち込んで、ジーンズ姿でショパンのワルツを弾いているのです。

 日本では「日本人の血を引くお嬢さんピアニスト」というキャラに仕立てられているオットさんですが、インターナショナルなプロモーションでは、アジア系の知的で自己主張のある女性という異なったキャラになっている、その違いはともかく、反独裁運動の舞台になった造船所で、その事件とショパンの反骨に思いを寄せながらワルツを弾いているというオットさんの発言には、何の嫌味もありませんでした。若い音楽家が、そうした「ミーハーな歴史や思想への興味」を重ねながらショパンを弾くのは、仮にそうした思想的なインスピレーションの結果、良い解釈に突き当たって「楽譜の要求している音」に辿り着くきっかけになれば、それも良いじゃないか、そんな風に思えたのです。ちなみに、オットさんの「ワルツ」は隅々まで表現の意図が設計し尽くされた一級品でした。

 そういえば、ショパンの生誕200年というのは、日本では恒例になったGWの「ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン『熱狂の日』音楽祭」でもテーマに取り上げられるそうです。東京や金沢では、私の敬愛してやまないブリジット・エンゲラー女史とか、若手のリーズ・ド・ラサールさんなど超一流のピアニストも登場するようで、何とも羨ましい限りですが、それはともかく、小国の悲哀と、激情の歴史をショパンの人生に重ねながらその音楽を理解するというアプローチも、結果的に舞踏と歌の織りなす光と影の魅力に行き着く通過点としては、全否定する必要はないのかもしれません。第1の疑問の方は答えの出ない重苦しさに耐えなくてはと思いますが、第2の方はそんな理解でどうでしょうか?
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2010/04/post-138.php


ワルシャワの苦悩と再建

 「ワルシャワの生き残り」は、ユダヤ人の作曲家シェーンベルクが逃亡先のアメリカで戦後の1947年に作曲したナレーションつきの管弦楽曲である。

 どういうわけか地下水道にたどり着き、そこで生きながらえた男の記憶に蘇ったあの日の出来事・・・。起床のラッパがなり、いつものように収容者が集合させられた。もたつく人々に腹を立てたナチスの下士官は、激しくどなりつけたあと、部下と共に1人1人を警棒で殴りつけてまわった。強烈に殴られて意識を失った男が次に聞いたのは、兵隊が「全員死亡しました!」と報告する声。あたりが静まり返ると、恐怖と激痛が彼を襲う。しばらくして、ガス室に送る人数を下士官が数えさせる声が聞こえてきた。その時突然、あらかじめ打ち合わせされていたかのように、人々はいっせいに長年忘れられてきた聖歌「聞け、イスラエル」を歌いだした・・・。

 ナチスによるユダヤ人虐殺の現場を鮮烈に表現した「ワルシャワの生き残り」は、ワルシャワの強制収容所から生還したユダヤ人の報告をベースにしている。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに占領されたポーランドの首都ワルシャワには、ヨーロッパ最大のゲットーが形成され、計38万人ものユダヤ人が強制的に移住させられた。そこから地方の強制収容所へと順次送り込まれていったユダヤ人たちは、強制収容所が実質的な処刑所であることに気付き、1943年にゲットーの蜂起を試みた。約1ヶ月続いたこの武装反乱は成功せず、ナチスによって制圧された。1944年にポーランドのレジスタンスが試みたワルシャワの蜂起も、約束されていたはずのソ連軍の後援がまったく得られず失敗に終わり、その結果、ナチスによって徹底的にワルシャワの町が破壊された。


ワルシャワ蜂起記念碑

 現在のワルシャワは、つい半世紀前に戦争の惨状となり、大量の人々が殺害され、完全に廃墟となった町とは思えない。戦後に正確に復元された旧市街地区の歴史的な風景や、中央駅付近の高層ビルと近代的なショッピングセンターを見ていると、本当は何事も起こらなかったのかと思わせるほど、健康的なヨーロッパの一都市の姿をしている。唯一、町に設置されたワルシャワ蜂起やゲットー蜂起などの戦争記念碑が、ここで確かに起こった悲劇を記憶している。

 しかし今日の姿に至るまでには、戦争で受けた大きな傷を修復するための、地道な作業の積み重ねが必要だったに違いない。ポーランドを代表するオーケストラであるワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団は、戦争で受けた傷とその後の再建を象徴する存在である。

1901年に設立した楽団は、パデレフスキのピアノ演奏とともに開館を果たし、その後もグリーグやプロコフィエフ、ラフマニノフ、ラヴェル、R.シュトラウス、ストラヴィンスキー、クレンペラー、ホロヴィッツなど、錚々たる音楽家と競演する超第一流のオーケストラへと急成長した。しかし第二次世界大戦によって活動が阻害され、さらに71人のオーケストラメンバーのうち、なんと半数以上となる39人もの命が失われてしまった。

オーケストラと同時に設立したコンサートホールも破壊され、戦後しばらくは演奏する場所さえ失いながらも地道に活動を続けた。戦後10年たった1955年にようやくホールが再建され、同時に”国立”の称号を与えられたことで、正式に国を代表するオーケストラであることを認められた。戦前ほどではないにしても、現在は世界的なオーケストラとしてのステータスを確実に取り戻している。

ショパンを最前面に押し出すワルシャワ

 ワルシャワに来て一番印象的なのは物価の安さかもしれない。手に入る物やサービスの質は他のヨーロッパの都市とそれほど変わらないような気がするが、それらに対して支払う対価は格段に安くてすむ。ポーランドのズウォティ通貨は、2010年現在では1ズウォティ=1/4ユーロほどである。

例えばお隣の国ドイツでは70ユーロ(約8000円)程度の一流オーケストラによるコンサートでも、ポーランドでは100ズウォティ、すなわち25ユーロ(約2800円)程度で購入できる。目前に控えたユーロ導入が実現すれば物価はユーロに合わせて高騰するだろうが、少なくとも今はまだ宿も食事もチケットも格段に安く感じる。物価の違いを感じるときになってようやく、東側の共産主義に属する国家の1つとして、戦後のポーランドが十分な経済的成長を阻害されてきたことを考える。ワルシャワの町を歩くと、日本やアメリカ、オランダなど諸外国の大企業のロゴが目に付く。1989年の共産体制崩壊後は、外国資本による直接投資がポーランドの経済成長を支えてきた。

国際的なブランド力のある企業はまだ出現していないが、ポーランドの本当のブランド力は戦前までに築かれた音楽の伝統であり、その代表格はピアノの詩人”ショパン”である。特に、ショパンを育てたポーランドの首都ワルシャワは、ショパンを観光の切り札として前面に強く押し出している。



 39年という短い生涯でほぼピアノ曲しか作曲せず、しかも20歳でワルシャワを出て以来一度も戻らなかったショパンが、ワルシャワのブランドを一手に引き受けることができるのだろうか。

ショパンの主要な作品の多くは、人生後半の18年間を過ごしたパリで作曲されており、そのためショパンはフランス人であると思っている人も多い。実際にショパンの父はフランス人であり、ショパンという姓の響きもフランス的であるようだ。

例えば、ここにポーランドの代表的な他の作曲家の名前を羅列しみると、パデレフスキ、ヴィエニアフスキ、ルトスワフスキ、グレツキ、シマノフスキ、ペンデレツキ・・・いずれも苗字は”キ”で終わる。ショパンは名前からしてやっぱりポーランド人らしくない。

しかし、ショパンの心はいつも祖国ポーランドにあったことを、愛国心の強いポーランド人は疑いを持つことはない。実際に、ショパンはパリでもポロネーズやマズルカというポーランドの民族舞曲を数多く作曲しているし、最後のコンサートもポーランド難民のための慈善演奏会であった。また、遺言に従ってショパンの姉がショパンの心臓をポーランドに持ち帰っているので、物理的にもショパンの”心”は祖国に間違いなく存在している。

第二次世界戦中には、ポーランド人の愛国心を呼び起こす危険なものとして、ナチスはショパンの曲を演奏することを禁じた。有名なワジェンキ公園のショパン像も、愛国心の象徴としてどの像よりもまっさきに破壊された。ナチスがこれほど強く警戒したことからも分かるように、ショパンはポーランド人に心から愛される存在である。



 1810年生まれのショパンは、2010年に生誕200周年を迎えた。このチャンスをワルシャワが逃すわけはない。ショパンの誕生日に盛大なセレモニーを行っただけでなく、”ショパンベンチ”なる観光コースを新設した。ショパンゆかりの地点に黒い石のベンチが設置され、ボタンを押すとショパンの曲が流れるようになっている。ボードに書かれた解説を読んだり、インターネットで配信されているオーディオガイドを聞いたりしながら、ショパンゆかりの地を散策できるようになっている。

すでに大都市であるはずのワルシャワだが、まるでショパンで町おこしをしようというな勢いである。ショパンベンチは15箇所にも設置されているので、ワルシャワを歩き回っていると否が応でもショパンベンチを何度かは目にすることになる。特に生誕200周年の2010年は、ショパンの顔をイメージしたロゴをワルシャワでよく見かけた。地元の雑誌を開くと、小さな子供たちが自由に描いたショパンの肖像画が並んでいたりする。ワルシャワの町を歩くと、関係のないロゴまでショパンの横顔のように見えてきたりする。

 ワルシャワにゆかりのある世界的な人物はショパンだけではない。女性ではじめてノーベル賞を受賞し、さらに1人で2度もノーベル賞を受賞したはじめての人物であるキュリー婦人もいる。

キュリー夫人はワルシャワで生まれ、23歳でパリに出るまでワルシャワで育ち教育を受けている。旧市街にほどちかいキュリー夫人の生家も博物館として公開されている。物理や化学の分野で革新的な発見をもたらし、女性初を次から次へと達成して女性の社会的地位を向上させ、教育にも力を注いだキュリー夫人の功績は、”偉人”と呼ばれるのにふさわしいほど大きい。それでも世界的に圧倒的な人気を誇るのは、ピアノ曲しか作曲しなかったショパンの方である。


ショパンゆかりの地めぐり

 8歳のショパンがはじめて演奏会をしたラジヴィウ宮殿やショパンが通った音楽学校跡、ショパン一家が住んだチャプスキ宮殿、ショパンがピアノ協奏曲を初演した国立劇場のあったクラシンスキ広場などがショパンベンチの設置場所となっている。どのショパンベンチもワルシャワの中心街付近にあり、ショパンゆかりの地つなぎ合わせて旧市街まで足を伸ばすだけで、ワルシャワの主要な景色をほぼ網羅することができることになる。ショパンベンチ設置場所の1つであるヴィジテック教会は、第二次世界大戦による破壊を奇跡的に免れた教会で、ショパンが15歳の時にここのオルガニストを勤めたことがあった。ショパンが我を忘れてオルガンの即興に集中してしまったために司祭がミサを続行することができず、演奏が静止させられたというエピソードが残っている。

また、オストログスキ宮殿には、生誕200周年の2010年に新装オープンしたばかりのショパン博物館がある。バロック様式の外観をした邸宅に、最新の設備を備えたモダンなデザインの展示スペースが備わっている。薄暗い空間に、ショパンの手稿やピアノ、映像などが近未来的な照明効果で浮き立つようになっている。なんとなくショパンの雰囲気を味わうために入場しても、モダンすぎて少し拍子抜けする感じはある。


 作曲家ゆかりの地として真っ先に思いつくのは、その作曲家が誕生した生家ではないだろうか。残念ながらワルシャワにはショパンの生家が無い。ショパンが生まれ、生後7ヶ月でワルシャワに移るまで過ごしたのは、ワルシャワから55kmほど離れたジェラゾヴァ・ヴォラという村であり、そこには生家を復元した博物館がある。また、ショパンの墓もワルシャワにはない。

ショパンは人生後半をパリで過ごしため、パリのペール・ラシェーズ墓地に墓がある。生と死という人生の最も重要な局面に立ち会えなかったワルシャワであるが、いずれにしても、ショパンが一生で一番長い期間を過ごし、ショパンの才能の土台が作り上げられた場所であることには違いない。ショパンの死後心臓だけはワルシャワに帰還し、現在はワルシャワの聖十字架教会に安置されている。

聖十字架教会は、一国の首都にある代表的な教会とは思えないほど地元的な素朴さを感じさせる教会だ。教会のそばを通るたびに、中ではミサや結婚式などの式典が行われているのが見える。いつでも教会内には人が多く、懺悔室の前に並んで待っている人も見かける。敬虔なカトリック教徒が多いポーランドならではの雰囲気なのかもしれない。ショパンの葬式が行われたパリのマドレーヌ教会は聖十字架教会の何倍もある立派な教会であるが、ここで見かけたミサにはほとんど人が集まっていなかった。外観だけ立派なパリの教会とは違って、聖十字架教会にはまだ暖かい信仰の血が通っている。


 ショパンゆかりの場所をたずね歩いていくと、ショパンが経済的にも恵まれた環境で育ち、両親から手厚い教育と愛情を受けていたことが分かってくる。

しかし、当時のワルシャワはロシアによって支配されており、言論の自由すら束縛されるほどの圧制を受けていた。ショパンも通ったミオドヴァ通りのカフェには常にロシアからスパイが送りこまれ、反ロシア的な言動に目を光らせていた。

ショパンがワルシャワを発って間もなく起こった11月蜂起では、ポーランドがロシアの支配に対し武装反乱を挑んだが、最終的にロシア軍によって鎮圧された。同時期にショパンが作曲した「革命」のエチュードは、祖国で起こったこの事件を知ったショパンの感情がぶつけられている。不安定で緊張感のある時代の複雑な状況が、繊細で情熱的な作曲家ショパンを生んだ原因の1つとなったのかもしれない。


 ショパンゆかりの地めぐりのクライマックスとなるのは、ワジェンキ公園にあるショパン像だ。中心街より南に徒歩20〜30分ほど離れた閑静な場所に、ワルシャワ最大の公園であるワジェンキ公園がある。ワルシャワがヨーロッパの各都市と比べて特に充実しているといえるのが公園の豊かさである。ショパン像で有名なワジェンキ公園には、広大な敷地内に離宮や池などの様々な景色があり、隅々まできれいに整備されていて散歩が楽しい。

ワジェンキ公園のフレデリック・ショパン像

 この公園のショパン像は、世界で最も有名なショパン像といえる。ポーランド人のヴァツワフ・シマノフスキという彫刻家がデザインした、恥じらいも無く詩情と郷愁をたっぷりと込めたショパン像である。柳の木の下に座ったショパンが故郷マゾフシェ(ワルシャワや故郷ジェラゾヴァ・ヴォラを含む地域)の自然の音を聞いている様子が表現されている。

一度見たら忘れ難い特徴的な形をした像ではあるが、ショパンを代表する銅像にしてはあまりにも大胆すぎるのかもしれない。このショパン像は1926年に落成したが、この像のデザインを採用してもよいのかという議論が度々起こり、決定の時期が遅れに遅れたらしい。しかし最終的にはショパン愛が露骨に表現されたこの像が正式に採用された。


 ナチスによって1940年に破壊された後、1958年にオリジナルに忠実に再現されたショパン像が元の場所に復帰した。実際に見ると想像したよりも大きいこのショパン像の麓に、夏になるとピアノが設置され、無料の野外ピアノコンサートが開かれる。ショパン像の前にある池を取り囲むような形で、たくさんの観光客や地元の人々が集まってくる。

毎回違ったピアニストが招かれ、ショパンが大きな耳を傾けるすぐそばピアノでの演奏を繰り広げる。音はアンプを使用して増強されているため、かなり多くの人が演奏を聞くことができるが、生のピアノの音で野外コンサートを楽しめるわけではない。それでも、ショパンが好きで世界中からワルシャワ集まる人々のために、ショパンのふるさとでショパンの音楽を聞くチャンスを1人でも多くの人に与えてくれている。
http://www.europe-museum.com/classic_music/composer_city/em768


18. 中川隆 2013年4月05日 09:32:05 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

戦場のピアニスト The Pianist

監督 ロマン・ポランスキー

原作 ウワディスワフ・シュピルマン

出演者 エイドリアン・ブロディ、トーマス・クレッチマン

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8512028
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8512392
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8513349

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8516076
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520006
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8514418

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520035
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520057
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520170

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520107
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520186
http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520246

http://www.nicovideo.jp/watch/sm8520328

戦場のピアニストのモデル、ウワディスワフ・シュピルマン本人による演奏。 
ドイツ将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉の前で実際に弾いたのはこの曲だったらしい
http://www.nicovideo.jp/watch/sm399258


19. 中川隆 2013年4月05日 09:51:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

ショパンもチャイコフスキーも音楽史の上では、中身の無い平凡な二流作曲家なんだけど、真実を言ったらポーランド人やロシア人に殺されるんだろうなwwww

欧米のピアニストも音楽がわからないアホばかりだから、ラフマニノフがバックハウスよりも上だと思ってるんでしょうね:

現役ピアニストが選んだ「10人の偉大なピアニスト」2012-07-13(Fri)


1. Sergei Rachmaninov
Leslie Howard, Stephen Kovacevich, Denis Matsuev, Alexey Yemtsov...

2. Vladimir Horowitz
Ingold Wunder, Freddy Kempf, Gerard Willems, Konstantin Scherbakov...

3. Sviatoslav Richter
Barry Douglas, Howard Shelley, Anna Goldsworthy, Piotr Anderszewski...

4. Arthur Rubinstein
Roger Woodward, Simon Trpceski, Jayson Gillham, Margaret Fingerhut...

5. Emil Gilels
Cédric Tiberghien, Alice Sara Ott, Olli Mustonen, Lars Vogt...

6. Alfred Cortot
Stephen Hough, Alfred Brendel, Benjamin Grosvenor, Stanislav Ioudenitch...

7. Glenn Gould
Pascal Rogé, Vladimir Ashkenazy, Fazil Say, Jean-Efflam Bavouzet...

8. Alfred Brendel
Paul Lewis, Steven Osborne, Imogen Cooper, Till Fellner...

9. Wilhelm Kempff
Cyprien Katsaris, Michael Endres, David Fray, Eldar Nebolsin...

10. Artur Schnabel
Jonathan Biss, András Schiff, Ronald Brautigam, Garrick Ohlsson....

バックハウスやアラウは10位にも入らず。

ケンプやシュナーベルなんか誰が聴いても三流ピアニストの典型なんだけどね


世の中こういう音楽がわからないアホ演奏家ばかりだから、二流ピアニストのパデレフスキが奇跡を起こせたんですねwwwwww:

6月29日はポーランドのピアニストで作曲家、政治家の、イグナーツィ・ヤン・パデレフスキの命日ですね。(1860〜1941)

伝説のスーパースター
19世紀最大のピアノの巨匠
ポーランド独立運動の象徴的存在
アメリカ大統領トルーマンにピアノ指導
ポーランド共和国初代首相に就任
類いまれなカリスマ性
ショパン研究家
http://ameblo.jp/maritaka0504/entry-10577139972.html


20. 中川隆 2013年4月05日 10:41:44 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

本物の天才がどれ位凄いかはちょっと聴けば誰にでもすぐにわかるんですけどね:

ホロヴィッツ ショパン バラード 第1番 ト短調 Op.23

May 19, 1947: Town Hall, New York City, New York (Studio)
http://www.youtube.com/watch?v=tDwWnDFG-8s
http://www.youtube.com/watch?v=7IBVp7S24j0
http://www.youtube.com/watch?v=2TrfQzwaOno

Vladimir Horowitz - Ballade No. 1, Op. 23 In G Minor
http://www.youtube.com/watch?v=ItQFTNhUUgo

Vladimir Horowitz, 1965
http://www.youtube.com/watch?v=eG1Olvh7vCU

1968年カーネギーホール・リサイタル
http://www.nicovideo.jp/watch/sm404165
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15627361

horowitz plays chopin ballade #1 - live, 1974
http://www.youtube.com/watch?v=O-17S1Mv9Ak

1982年ロンドンリサイタルより。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm802560

Chopin: Ballade No. 1 in G minor, op. 23 Horowitz/Paris/1985
http://www.youtube.com/watch?v=WNkXUmBQnDk


このホロヴィッツにしても本当の天才であったのはコンサート活動を引退した 1953年まででしたね。


21. 2013年4月05日 11:12:17 : W18zBTaIM6

録音は古いけど、ホロヴィッツよりコルトーの方が上かな:


Chopin Ballade No 1 G minor Op 23 Cortot Rec 1926
http://www.youtube.com/watch?v=eBYQb9mIZ2o
http://www.youtube.com/watch?v=op7DhmvG4kw

Chopin - Ballades - Cortot 1929
http://www.youtube.com/watch?v=rl31_LGFXcw

Chopin - Ballades - Cortot 1933
http://www.youtube.com/watch?v=iKumXTfSFRw

WE12A+WE13A:"Alfred CortotーBallade No. 1 in G minor, Op. 23",
http://www.youtube.com/watch?v=pzZtwbJk15o

ALFRED CORTOT - Chopin Ballade no.1 g-moll
http://www.youtube.com/watch?v=tdmq2objNGE

Alfred Cortot - Chopin Ballade No. 1 in G Minor, Op. 23
http://www.youtube.com/watch?v=_9GBjQyvtAM

Piano A.CORTOT. Balada No.1 op.21 CHOPIN VTS_01_1.VOB
http://www.youtube.com/watch?v=F1ygBvO3E9M

Alfred Cortot - The Master Classes (Chopin's Ballade, Mazurkas, Preludes, Scherzo
http://www.youtube.com/watch?v=opjnlHclGKk


22. 中川隆 2013年4月05日 11:18:08 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

これはおまけ

ホロヴィッツ「女と東洋人にはピアノは弾けない」

Martha Argerich plays Chopin's Ballade No. 1.
http://www.youtube.com/watch?v=RKKy383RVI4
http://www.youtube.com/watch?v=fQV7F3giV1w

Argerich Plays Chopin 1959: Ballade No. 1 in G minor, Opus 23
http://www.youtube.com/watch?v=xWlBaKOuqXU

Martha Argerich, Live March 28. Carnegie Hall, 1981
http://www.youtube.com/watch?v=U-2S2fQPy7w



23. 2013年4月05日 11:28:48 : W18zBTaIM6

Michelangeli Plays The Ballade
http://www.youtube.com/watch?v=XKwN_7LnXHw
http://www.youtube.com/watch?v=jKWkCKdDGVs
http://www.youtube.com/watch?v=XLZjlm29J2s
http://www.youtube.com/watch?v=EfttRR2SC-c

Michelangeli plays Chopin Ballade No. 1 1957 live recital
http://www.youtube.com/watch?v=KhZLnEdzLzo

Chopin - Ballade n°1 - Michelangeli 1967
http://www.youtube.com/watch?v=772RIvOLQS4



24. 2013年4月05日 11:36:09 : W18zBTaIM6

ポリーニ Pollini

(1968)ショパン Chopin / バラード Ballade No.1
http://www.youtube.com/watch?v=2isSmcghoMo

Pollini Chopin Ballade N.1 in G minor op23 1976(?) Live
http://www.youtube.com/watch?v=au9E6TYMrgw

Live audio broadcast recorded at the Concertgebouw, Amsterdam, 4-2004
http://www.youtube.com/watch?v=atdDs1bvAxU

Pollini plays Ballad No. 1 Moscow, Tchaikovsky hall. 16-06-2008
http://www.youtube.com/watch?v=938YIZx2w6c

Maurizio Pollini Live London 2008
http://www.youtube.com/watch?v=GXn_iA_EqME


25. 2013年4月05日 12:33:34 : W18zBTaIM6

フェルッチョ・ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866年4月1日 エンポリ - 1924年7月27日 ベルリン)

Ampico, Chopin, Ballade Op. 23, PB Ferruccio Busoni; Roll #50047-H
The Piano is a 1920, 6'-4 Knabe with a very early Ampico A. The recording was made under license for Ludwig Hupfeld (a competing recording system).
http://www.youtube.com/watch?v=DDcyB4Ozlqk

Busoni plays Chopin ~ G minor Ballade Op. 23 ~ Triphonola Roll recording C.1906 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=X34uMyI5Ql0
http://www.youtube.com/watch?v=X34uMyI5Ql0


26. 2013年4月05日 12:38:00 : W18zBTaIM6

ヴィルヘルム・バックハウス
(Wilhelm Backhaus、1884年3月26日ライプツィヒ - 1969年7月5日フィラッハ)

Wilhelm Backhaus plays Chopin Ballade N. 1 Op. 23 in G minor
rec. 1952
http://www.youtube.com/watch?v=xOGHf6zsoLE


27. 2013年4月05日 12:46:20 : W18zBTaIM6

アルトゥール・ルービンシュタイン
(Arthur Rubinstein, 1887年1月28日 - 1982年12月20日)

Chopin Ballade No. 1 in G minor, Op. 23 Rubinstein 1959年録音
http://www.youtube.com/watch?v=t1zZ4g2aieg
http://www.youtube.com/watch?v=b6VxVmt6UOA

Rubinstein teaches the Ballade in G Minor
http://www.youtube.com/watch?v=TlBmdNm3uhc
http://www.youtube.com/watch?v=zsIBf19JlIc


28. 2013年4月05日 12:56:00 : W18zBTaIM6

スヴャトスラフ・リヒテル (1915年3月20日 - 1997年8月1日)

Sviatoslav Richter: Chopin - Ballede No.1 in G minor, Op. 23
http://www.youtube.com/watch?v=0NrRoZdwMt0
http://www.youtube.com/watch?v=MeP5Ac_kyco

Sviatoslav Richter plays Chopin Ballade No. 1, Op. 23 Live recording, 1960
http://www.youtube.com/watch?v=mF39XK6EVEk

Richter - Chopin - Ballade n. 1, Live Praga 21 Febbraio 1960
http://www.youtube.com/watch?v=LOmEqLLCvlY

RICHTER - CHOPIN BALADE no.1 g-moll LIVE IN KIEV!!!
http://www.youtube.com/watch?v=khsVVpQ6GTA

Chopin / Sviatoslav Richter, 1967: Ballade No. 1 in G minor, Op. 23 - Live Recording made July 14, 1967 in Spoleto, Italy.
http://www.youtube.com/watch?v=5oxZA7oBw_s


29. 2013年4月05日 13:00:50 : W18zBTaIM6

ヨゼフ・ホフマン (Josef Hofmann) 1876年1月20日 - 1957年2月16日


Josef Hofmann plays Chopin Ballade No. 1 in G minor, Op. 23
http://www.youtube.com/watch?v=UX6PXkqOr0Y


30. 2013年4月05日 13:05:47 : W18zBTaIM6

サンソン・フランソワ
(Samson François, 1924年5月18日、フランクフルト・アム・マイン - 1970年10月22日、パリ)


Samson François Ballade n°1 Chopin
http://www.youtube.com/watch?v=CfpCBnkmGow

Samson François plays Chopin ballade no.1 in G minor op.23
http://www.youtube.com/watch?v=1XUpOt30Kfc

Samson François plays Chopin Ballade Nr 1 g minor
http://www.youtube.com/watch?v=8iz3flHoHTM

Samson François Plays Chopin Ballades 26-28 May, 1954, Paris
http://www.youtube.com/watch?v=wQ5goY2_3t4


31. 2013年4月05日 13:11:52 : W18zBTaIM6

クリスティアン・ツィマーマン(Krystian Zimerman、1956年12月5日 - )

Zimerman plays Chopin Ballade No. 1
http://www.youtube.com/watch?v=RR7eUSFsn28

Fryderyk Chopin - Ballada g moll Op. 23 (Krystian Zimerman)
http://www.youtube.com/watch?v=hiGiF9pkvwo

Chopin "Ballad, No. 1" (Krystian Zimerman)
Recording : Bielefeld, Rudolf-Oetker-Halle, Großer Saal, July 1987
http://www.youtube.com/watch?v=6nSnv0WPIPU


32. 2013年4月05日 14:48:58 : W18zBTaIM6

エリック・ハイドシェック(Éric Heidsieck, 1936年8月21日 - )

Chopin - Ballade No. 1 in G minor, Op. 23 (Eric Heidsieck)
http://www.youtube.com/watch?v=VxhcdLG54cc


33. 2013年4月05日 14:56:33 : W18zBTaIM6

ウラディーミル・アシュケナージ Vladimir Ashkenazy、1937年7月6日 - )


ショパン バラード1番 Chopin Ballade Op. 23 Vladimir Ashkenazy
http://www.youtube.com/watch?v=7bTAeOhIoJI

Chopin - Ballades & Scherzi (Vladimir Ashkenazy)
http://www.youtube.com/watch?v=RbXMUul8z5k

CHOPIN 01 - Ballade No.1 - Op.23 - in Gm (vladimir ashkenazy)
http://www.youtube.com/watch?v=qgsR1RG78cQ

Vladimir Ashkenazy plays Chopin's Ballade No. 1 - LIVE! Moscow, 1963.
http://www.youtube.com/watch?v=LC41dwhmrR4


34. 2013年4月05日 15:07:02 : W18zBTaIM6

アンダ・ゲーザ(Anda Géza, 1921年11月19日 ブダペスト - 1976年6月14日)


Géza Anda plays Chopin Ballade No. 1 in G minor Op. 23
http://www.youtube.com/watch?v=1KRabxvYsyY
http://www.youtube.com/watch?v=1KRabxvYsyY&playnext=1&list=PL5350883C6820E7B4&feature=results_video


35. 2013年4月05日 15:12:34 : W18zBTaIM6

アイリーン・ジョイス( Eileen Alannah Joyce、1908年1月1日 - 1991年3月25日)

Eileen Joyce: Chopin Ballade No.1, Op. 23 in G minor Recorded: 08/07/1942
http://www.youtube.com/watch?v=yqcSj9gpMIE


36. 2013年4月05日 15:53:09 : W18zBTaIM6

エレーヌ・グリモー(Hélène Grimaud, 1969年11月7日 - )

Hélène Grimaud Chopin Ballade No.1 In G Minor
http://www.youtube.com/watch?v=upQ911nlCzw

Frederic Chopin - Ballade No.1 in G minor Op.23
http://www.youtube.com/watch?v=xbETaNKoeok

顔で判断しちゃいけないんだけど、グリモーが一番いい女でしたね。


貴方の好きな女流ピアニストは?
http://www.78rpm.net/column10.html


37. 2013年4月05日 16:17:44 : W18zBTaIM6

レオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, 1870年2月13日 - 1938年11月21日)


Leopold Godowsky plays Chopin Ballade No. 1 in G minor Op. 23
Duo - Art piano roll, 1916
http://www.youtube.com/watch?v=COohl5ZtcVE
http://www.youtube.com/watch?v=4b486I4xbbQ


38. 2013年4月05日 16:29:12 : W18zBTaIM6

クラウディオ・アラウ(Claudio Arrau León 1903年2月6日 - 1991年6月9日)


Claudio Arrau Plays Chopin Ballade No 1 in G minor, Op 23 (1938)
http://www.youtube.com/watch?v=7ajgkBsjQOU

Chopin - Claudio Arrau - 4 Ballades (rec. 1953)
http://www.youtube.com/watch?v=x7szDmEoHPQ

Chopin : Ballades --- N° 1, par C. Arrau
http://www.youtube.com/watch?v=Gax0i-Mgf0U

BALADA NO. 1 DE CHOPIN - CLAUDIO ARRAU
opus 23 gravada en el año 1977 e interpretada por Claudio Arrau.
http://www.youtube.com/watch?v=ODKH0rna5ys


39. 2013年4月05日 16:36:09 : W18zBTaIM6

マレイ・ペライア(Murray Perahia, 1947年4月19日 - )


Ballade No. 1 Op. 23 , Piano: Murray Perahia, Author: Chopin.
http://www.youtube.com/watch?v=hMRnaw66EsI


40. 2013年4月05日 17:40:54 : W18zBTaIM6

エミール・ギレリス Emil Grigoryevich Gilels、1916年10月19日 - 1985年10月14日)


Young GILELS plays CHOPIN Ballade 1930-s
http://www.youtube.com/watch?v=BN5WLS4qTaA

Young Gilels plays Chopin Ballade in G Minor, Op. 23 Rercorded 1934-1938
http://www.youtube.com/watch?v=JR5synZ4jE4

Emil GILELS plays CHOPIN Ballade live /SU record
http://www.youtube.com/watch?v=jPDUdjDifBk

Chopin - Ballade in G minor, Op. 23 - pianist Emil Gilels LIVE
Recording taken from the live performance at the Grand Hall of the Leningrad Philharmonic, February 15, 1963.
http://www.youtube.com/watch?v=ZuA2Qf3CrLk


41. 2013年7月07日 19:25:26 : W18zBTaIM6


イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(p)/ヨーロッパ録音全集(1911〜12年) [APR 6006]

英APRは多くの未発表録音を発掘し、愛好家を驚喜させてきたが、パデレフスキの最初期録音の復刻ほど有難いものはない。これを聴いたことのない人はパデレフスキを知らないと云つてよい。

第一次世界大戦前のピアニストと云へばパデレフスキが第一等であつた。
断然としてである。

しかし、録音で聴くパデレフスキには疑問符が付きまとつてきた。
否、一般的に聴かれるのはポーランド首相を経て音楽界に復帰した後の録音であり、伝説は既に過去となつてゐたことを知つておく必要がある。

パデレフスキは1911年7月にスイスで、1912年2月にパリで、1912年6月と7月にロンドンで録音を残してゐる。これらは幻の音源として語られてゐたもので、当盤にはそれら全てが復刻されてゐる。しかも、お蔵入りになつた初出音源も多数含んでゐるのだから、狂喜乱舞せずにをれようか。

伝説は本物であつた。

忌憚なく云へば、斯くも情熱的な音楽をピアノから発した奏者はゐない。

独特の熱つぽい雰囲気を発散してをり、聴く者を魔術にかける。

感情に訴へかける音楽が最上だとしたら、パデレフスキこそ世界第一のピアニストである。

2枚組の1枚目は大半が未発売もしくは初出音源で、ショパンが10曲、自作が3曲、メンデルスゾーンが2曲、リストが2曲、ストヨフスキ、シューマン、ドビュッシーが1曲収録されてゐる。

爆発するリズム、神秘的な和音、官能的な溜め、洒落たルバート、英雄的なクレッシェンド、土俗的な踊り、愛の告白、

表現は無限で技巧は全霊を込めて注がれてゐる。

偉大なりパデレフスキ。世界を惚れさせた伝説がここに隠されてゐた。(2011.9.18)


イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(p)/ヨーロッパ録音全集(1911〜12年) [APR 6006]

再びパデレフスキを聴く。2枚組の2枚目では未発表及び初出音源は1曲だけだが、これまで聴く機会の少なかつた伝説的な録音ばかりであるのに違ひはない。特に再録音のある演目は復刻されることがなかつただらうから貴重だ。

ショパンが9曲、リストが4曲、シューマンが3曲、ストヨフスキ、メンデルスゾーン、ルビンシテイン、自作が1曲である。

最高傑作はシューマン「幻想小曲集」からの3曲で、特に2曲目「飛翔」は絶対的な名演だ。

激しいタッチから情熱が爆発し、絶妙なリズムの崩しは取り憑かれたやうな焦燥感を醸す。
パデレフスキ以上の演奏は断じてない。

ショパンのエチュードが全て素晴らしい。
革命のエチュードがこれほど情熱的に演奏されたことは稀だ。
細部の誤摩化しを指摘するのは何と心ない耳だらう。

当然だが自作自演はどれも見事である。メヌエットばかりが有名だが、幻想的クラコヴィアクの壮大な音響世界は感銘深い。

繰り返して云ふが、パデレフスキのアコースティック録音はなべてのピアノ録音に冠たるものだ。弾き出すと独特の神秘的な空気感が立ち籠める。音楽に命を吹き込んだその息吹とでも云ほうか。

比べれば他のピアニストの演奏など精巧な造花に過ぎないのだ。(2011.10.30)


イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(p)/HMV録音(1937〜38年) [APR 5636]

英APRはパデレフスキの最初期ヨーロッパ録音を復刻して愛好家を歓喜させた。

一方、これはパデレフスキの最期の録音、1937年と1938年に行はれたHMV録音を集成した1枚だ。

パデレフスキの主要な録音はアメリカで行はれたヴィクター録音にあり、このHMV録音は全く問題にされない。仕方あるまい、この時パデレフスキは78歳、演奏家としては現役ではない。

演目はベートーヴェン「月光ソナタ」の他、ハイドンの変奏曲、モーツァルトのロンド、シューベルトの楽興の時、ショパンのノクターン2曲、ワルツ、マズルカ、ポロネーズ、リスト編曲ヴァーグナー「イゾルデの愛の死」、自作自演でメヌエットとメロディーだ。

自作のメヌエットに良さがあるが、他はタッチも弱々しく、弾き間違ひも多い。
何よりも覇気がなく、どんな音楽を弾いてゐるのかもよくわからない。

英雄ポロネーズは無惨この上ない。かつての伝説を知る者として寂しい限りだ。

だが、よいのだ。これは偉大なピアニストの形見である。

翌年ポーランドがナチスに侵攻され大戦が勃発、祖国救済の為に立ち上がり舞台に復帰、途上の1941年に鍵盤の英雄は大往生した。偉人であつた。(2013.3.17)
http://www.h6.dion.ne.jp/~socrates/piano.html


42. 2013年7月08日 00:28:27 : W18zBTaIM6

若い人が旧世代を襲っていくのは世の常ですが、ピアニストの技術そのものはおそらく19世紀とは比べ物にならないほど上がっているのでしょう。
投稿: NY | 2012年2月24日 (金) 22時48分

演奏家の平均的な技量は比べものにならない位上がっているでしょう。

ですが、昔のヴィルトゥオーゾの表現力は凄いですよ。

リストやパガニーニの実演を聴いたら、現代の聴衆は腰を抜かすかもしれません。

技術を得た代償として、もしかしたら失ったものも有るのかもしれません。
投稿: ハルくん | 2012年2月24日 (金) 23時09分
http://harucla.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-a002.html


43. 中川隆 2013年7月09日 11:20:45 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Brahms Plays His Hungarian Dance No.1 (Excerpt), 1889
http://www.youtube.com/watch?v=BZXL3I7GPCY

上掲左のCDはブラームス自身のピアノ演奏が録音されている貴重な記録なのです。

とはいえその録音はエジソンが発明したエジソン式ロウ管蓄音機を使ってその発明から12年後の1889年に録音されているとはいえエジソンのロウ管蓄音機の性能というよりもひとつにはエジソンの蓄音機の発明に関心をもったブラームスが自身のピアノ演奏の録音を後世に残そう…と思った時にはもはや自らのピアノ演奏の技巧が衰えてしまっていることに気付き友人のフェリンガー氏の家での録音セッションでも

 「フェリンガー夫人がピアノを演奏します!」

と自らを揶揄する言葉を発して勝手に演奏を始めてしまったために慌てて録音技師が録音を開始するとともに慌ててフェリンガー氏が

 「ピアノ演奏はブラームス博士です!」

と叫び直した?ところから記録されていますので、十分なセッティングではなく
ひとつにはそのロウ管の保存状態も非常に悪くもう一曲収録された録音(シュトラウス『とんぼ』)では世界大戦によるひびがロウ管に入ってしまっています。
(上掲CDでは未収録です)
 
ブラームスが既述の様な自虐的な録音状況にあってもなお

 いかに音響を豊かに響かせるか
 いかに音楽を流麗に運ばせるか

 ということに腐心し尽くして演奏していたのかが既述の様なロウ管の保存状態の悪さにもかかわらず聞き取れます。
http://shyouteikin.seesaa.net/article/75839248.html


ある演奏会の演目がブラームスの作品であった際に私が

「先生、ブラームスというのは、どう演奏すればいいのでしょうか?」

 と尋ねたところ先生いわく一言

「ブラームスを演奏するには、音が豊かでなければいけません」

 とお答えになられたことを思い出しました。

そうした点からすればヴァイオリンに限ったことではありませんが

 ヴァイオリン演奏に際しては

 楽器を“擦る”のではなく
 楽器を“響かせる”ものである

 (事実、そうではなければ同じ楽器だけでも二十〜三十数名
  そこへ他の弦楽器・木管楽器・金管楽器・打楽器まで加わる
  オーケストラを伴奏として演奏される
  ヴァイオリン協奏曲という演奏形態が存在し得ません)

 従ってヴァイオリンにおいては

 運弓=右手は弓の棹自体を確実に支える必要はあったとしてもそれは、わずか55グラム〜60グラムの棹を支えるための最低限の力に留め

 決して「強く擦る」
 決して「もっと擦る」

などのことは絶対にしてはいけないことを改めて強く認識させられます。

にもかかわらず巷にはヴァイオリンの指導者において

 「もっと弓を沢山使って、よく響かせる」

あるいは

 「弓に多少腕の力を乗せると、強く響く」

等の正しい指導をされている先生がいらっしゃる一方で特に某メソッド(メソード)の指導者を中心に

 「もっと強く擦って!」

という単語を連発しヴァイオリンを“響かせる”のではなくヴァイオリンを“擦る”ことばかり教えてしまっている指導者が存在することはそのメソッド(メソード)の創始者自身も望んでいなかったことは私は、生前のその創始者ご本人に確認済みであり誠に嘆かわしい限りです。

しかしそうした創始者の意向に反する誤った指導が展開されがちな某メソッド(メソード)のみならず大抵アマチュアか、それに類した人々のヴァイオリンの弾き方が“響かせる”のではなく“擦る”という弾き方ばかりであるために例えば

 ステージ上で本人はご満悦なのかもしれませんが
 客席には、その演奏表現がさっぱり伝わらないというアマチュアや、それに類した人々の演奏はそれに気付かないのは本人の自業自得ですから、いいとしましても

 そのせいで市場に流通する弦や松脂(松ヤニ)の販売種類において本来のヴァイオリンを響かせる類の製品ではなくそうしたヴァイオリンを擦り引っ掻く人々において耳元で聞くと刺激的な音がする(しかしそれは客席には音は届かない)製品ばかりが流通してしまっている事態にも至ってしまっています。

(もっともこの

 「耳元で聞くと刺激的な音がする製品ばかりが流通してしまっている」

状況はヴァイオリンのみならず広くオーディオ機器にも似た傾向がある様にも感じています)

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

それに対して上掲右のCDは
 
 JOACHIM and SARASATE THE COMPLETE RECORDINGS
 YSAYE:A SELECTION OF HIS 1912 RECORDINGS 
 OPAL CD 9851

 というCDでヴァイオリン弾きのみならずクラシック音楽ファンであれば誰もが知る

 ヨアヒム
 サラサーテ
 イザイ  

の3人の伝説の名ヴァイオリニストの自身の演奏が記録されていますが、このCDも、やはり古い録音ですので、とても鑑賞に耐えるものではないとはいえ、このCDは、既述のブラームスの自作自演に比べれば、はるかに細かく聴き取れます。

そしてそこから聞こえて来る録音を耳にする時

 様々な点で、ヴァイオリンの楽器の製作・修復・調整技術が圧倒的に向上し
 色々な点で、ヴァイオリンの奏法の方法・練習・演奏技術が圧倒的に向上し

ている現代にあってなお私たちはこれら歴史的名ヴァイオリニストたちの前には完全に脱帽するしかないことが判り、驚かされます。


ヨアヒムの演奏では

Joseph Joachim plays Bach Sonata #1
http://www.youtube.com/watch?v=tixMlx2YOwI

Joachim plays Bach - Adagio
http://www.youtube.com/watch?v=-XQxCLDPB24

Bach Adagio g-minor played by Joseph Joachim 1904
http://www.youtube.com/watch?v=i3wysuAIDGc

 特にその『バッハ/無伴奏パルティータ 第1番 ブーレ』での力強く朗々と響く重音奏法を耳にするとき この様な奏法が可能なヨアヒムであったからこそ
 その独特の運弓は“ヨアヒム・ポーイング”と呼ばれていたということのみならず、この様な奏法が可能なヨアヒムであればこそそのバッハの無伴奏作品が時としてヴァイオリン・ソナタのスケッチ(下書き)ではないか?
 などと言われることもあったなかをこのバッハの無伴奏作品がまさにヴァイオリン一挺においてのみ奏でられる作品であることの真価を初めて世に知らしめ得たことが聞かれて感動的であるとともに

サラサーテの演奏では 

Sarasate Plays Sarasate Zigeunerweisen
http://www.youtube.com/watch?v=ABm7nMVyNh4


特にその『ツィゴイネルワイゼン』の自作自演での前半部分のジプシー風の自由な作風の箇所でしかしながら、今日聞かれる様なラプソディ風の演奏ではなくまるで、バッハかベートーヴェンのソナタでも演奏しているかの様な厳格な演奏を聴く時

 まず、その様な音楽への確固たる様式感に驚かされるとともに併せて、その厳格なまでの拍子の中に、あまたの細かい音形を確実にはめ込んでいく演奏技術に圧倒され(なお、その『ツィゴイネルワイゼン』の中間部分の「ジプシー・ムーン」と呼ばれる民謡部分はサラサーテ自身の指示によりカットされているためにサラサーテの肉声が聞かれますが サラサーテの喋りもまた、下述の演奏ぶりを彷彿とさせるものなのですが)

 さらにその『バッハ/無伴奏パルティータ 第3番 プレリュード』を聴く時

"Prelude" (Bach) Played by Pablo de Sarasate HMV No 2 Series Rec 1904 HMV E183
http://www.youtube.com/watch?v=eeP6fxsa3fI

Sarasate plays Bach - Prelude
http://www.youtube.com/watch?v=ZEyHfPR3b8k

Sarasate plays Bach on Disque Gramphone
http://www.youtube.com/watch?v=UTKBxTGqjIg


 (またしても第3番とはCDに記載されていませんが)
  録音原盤の回転数の歪みから、音程がズレて聞こえてしまう点は残念ですが
 驚くべきはその一曲をまるで一拍の様に弾ききってしまっている…では大袈裟でも(笑)その曲の音符総てをまるでトレモロ(通常は同じ音を細かく急速に刻む奏法)かの如くの速度でそれでいて鮮やかに弾ききってしまっている演奏を耳にする時

 あまたの作曲家がこのサラサーテに捧げた作品において時として現代の演奏では冗長になりかねない細かい音形の連続部分もこのサラサーテが奏でた際にはさぞや鮮やかであったろうと容易に想像されるものの

 現代のヴィルトゥオーソと呼ばれる奏者のいかなる者をもってしてもとてもこのサラサーテの演奏には遠く及ばないことも聞かれて愕然とします。


そして最後のイザイの演奏では特にその

『メンデルスゾーン/ヴァイオリン協奏曲 終楽章』
Eugene Ysaye Plays Mendelssohn Concerto (mov. 3)
http://www.youtube.com/watch?v=v9Zk66YL24c


を聴く時そこではピアノ伴奏で弾かれているとはいえその軽妙洒脱で自由闊達な演奏を耳にする時

 現代のヴァイオリニストがその演奏技術においてもその音楽表現においても
 それがたとえ極めて高い水準であったとしても皆が皆、平準化されてしまった傾向にある中かつては勿論、確固たる様式感と、堅固な演奏技術の裏打ちがあってなおそれぞれのヴァイオリニストがぞれぞれにまったく独自の演奏表現をしていたことが聞かれ現代のヴァイオリニストたちが失ったものの大きさを痛感させられます。

いずれにせよ冒頭にも書きました様にこれらのCDは歴史的に貴重な記録としては、一聴に値する、音楽的な資料としては、様々なことを考えさせられるまさに“温故知新”な録音だと感じています。
http://shyouteikin.seesaa.net/article/75839248.html


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