http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/432.html
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(回答先: 天才ピアニスト ヴァン・クライバーンとは何だったのか? _ アメリカ人には音楽は理解できない 投稿者 富山誠 日時 2013 年 3 月 23 日 12:26:55)
パデレフスキ ‐ ニコニコ動画(原宿)
http://www.nicovideo.jp/tag/%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
Paderewski - YouTube
http://www.youtube.com/results?search_query=Paderewski&oq=Paderewski&gs_l=youtube-reduced.12..0l3.2365.2365.0.3483.1.1.0.0.0.0.542.542.5-1.1.0...0.0...1ac.e7cOgo0BEqQ
パデレフスキ作曲 ピアノ協奏曲 イ短調 Op.17
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15876901
パデレフスキ: ピアノ協奏曲 Op.17
音楽史において、イグナツィ・パデレフスキほど特異な経歴を持つ作曲家はいないかもしれません。なんてったって、ポーランド第3代首相ですから。ピアニストが一国の首相になるなんて、最初で最後のことかもしれませんね。
作曲家・演奏家・編集者(ショパンの楽譜の校訂で有名)・政治家と、まさに八面六臂の大活躍をしたパデレフスキですが、作曲に関しては、残念ながら『メヌエット』くらいしか有名でないのが現状です。たしかに、それほど魅力的な作品が多いわけではありませんが(失礼)、それでも佳作はいくつかあると思います。
今回は、その中から、『ピアノ協奏曲 Op.17』を紹介したいと思います。
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=MQvDfpoLMzs
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=SHgQPSiqFOc
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=dDuX5qjf9sk
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=iZct56t453c
http://takenoff.com/classic/h/ignacy_paderewski/20090720235749.html
曰く言い難く 2012/3/5 By 架空の人物
どのように表現したら良いのか、この曲は本当に切なく美しい音の雫に彩られた協奏曲です。
力強く牧歌的なオーケストラで始まるこの協奏曲は、次第に哀愁漂う切ない感じになって行き、ピアノの独奏が始まります。これが非常に美しく、いとおしく心の深部に迫って来ます。
チャイコフスキーやショパンとはまた違った感情の波を起こしてくれるでしょう。パデレフスキのその他の作品もそうですが、作風はスラブ的であり、またロマン派(国民学派)のように思えます。しかしこの協奏曲は国民学派という範疇には納まらず、非常に脆く懐かしく切ない感じを与えてくれます。私は彼の最高傑作だと考えています。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2-%E3%82%A4%E7%9F%AD%E8%AA%BF-%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%B9%BB%E6%83%B3%E6%9B%B2-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B4%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AB/dp/B00005F4XX
ショパン : ワルツ集/パデレフスキ版第9巻 [楽譜]
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ (著)
内容が古いですが、多くの演奏家が使ってきました 2010/6/4 By nenemu
ピアニストのパデレフスキ(1860-1941)が編集した、有名な版で、長い間決定版とされてきました。ただ刊行後半世紀以上を経過しているので、最近の研究を反映しておらず、すでに古い内容となっています。編集も、フランス版、イギリス版等、複数の版から「いいとこ取り」をしていて、方針がはっきりしていないようです。
また印刷が荒く、譜面が読みづらいです。
今日のショパン演奏では、エキエル編ナショナル・エディション が決定版となっています。またはエキエル版以降の研究を反映した版の方が信頼性があります。
(音友版2008年刊New edition など。ウィーン原典版は未刊)
ただし多くの名演奏の録音は、このパデレフスキ版に基づいているので、他版を見ながら演奏を聴いていると違和感を感じる向きもあるようですし、「あの名演奏と同じ演奏がしたい」という人には、今でもこちらの方がよいのかもしれません。
先生に付いて習っている方は、よく相談して選んだ方がよいでしょう。
ショパンを弾けるようになりたい人へ, 2004/12/30 By "burako"
パデレフスキ版は原典に基づいて編集されていますので、ショパンの「こう弾いてほしい」という想いを最大限に汲み取っています。
楽譜の最後には小節に区切って、「こういう説とこういう説がある」などという、楽譜表記上でもめた部分や、「こちらの方が適切だと思われる」という編集にあたっての観点も事細かに述べられていますので、『楽譜を読む』勉強にもなると思います☆
私は演奏会を聴きに行くときのお供にしています*^__^*
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3-%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%84%E9%9B%86-%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E7%89%88%E7%AC%AC9%E5%B7%BB-%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%91%E3%83%B3/dp/4636550102
パデレフスキの『メヌエット』(自作自演 1906年ピアノロール)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12990895
パデレフスキの『メヌエット(自作自演)』+『月光ソナタ』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10567024
パデレフスキが弾く『月光ソナタ 第3楽章』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11190170
パデレフスキが弾く『英雄ポロネーズ』(ピアノロール 1906年)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm12104177
パデレフスキが弾く『英雄ポロネーズ』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10580407
パデレフスキ リスト:ハンガリー狂詩曲第2番 嬰ハ短調
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15489082
ハンガリー狂詩曲 S.244 第2番 嬰ハ短調
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9513275
クラヴサン曲集 第1巻 第5組曲 イ長調 第7番 髪の光沢剤(La bandoline)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10650775
19世紀生まれの7人のピアニストが弾く『木枯らしのエチュード』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10631113
19世紀生まれの5人のピアニストが弾く『別れの曲』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm9587428
19世紀生まれの4人のピアニストが弾く『12の練習曲 Op.10 第7番 ハ長調』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10617488
19世紀生まれの4人のピアニストが弾く『メヌエット(パデレフスキ作曲)』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm11125192
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski, 1860年11月18日 - 1941年6月29日)は、ポーランドのピアニスト・作曲家・政治家・外交官である。第1次世界大戦後に発足した第2次ポーランド共和国の第3代首相。氏名はフランス語式に簡略化して、Ignace Paderewskiと綴られることがある。日本ではパデレフスキーとも表記される。
現在ウクライナ領となっているポドリア地方の寒村クルィウフカ (Kuryłówka) に生まれる。父親はポーランド貴族(シュラフタ)で、自宅の屋敷で経済学者として働いていた。生母はパデレフスキを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキは遠い親族によって育てられた。
パデレフスキは幼年期から音楽に興味を示し、初めは個人教師についてピアノを学んだ。1872年、12歳でワルシャワ音楽院に進学した。1878年に卒業後、母校のピアノ科で教師になるよう依頼され、それを引き受ける。1880年にアントニナ・コルサクヴナ (Antonina Korsakówna) と結婚し、まもなく最初の子アルフレト (Alfred) が生まれた。
しかしながら翌年になると長男の障害が判明し(1901年に死去)、10月にアントニナ夫人も亡くなってしまう。パデレフスキは音楽に献身することを決心して、1881年にベルリンに留学して、フリードリヒ・キール (F. Kiel) とハインリヒ・ウルバン (Heinrich Urban) に作曲を師事。1884年にウィーンに移り、ウィーン音楽院でレシェティツキに入門する。1885年から1886年までシュトラウスブルク音楽院で教鞭を執った後、1887年にはウィーンでのデビューを果たした。
やがて大変な人気を集めるようになり、その後の出演は(1889年パリ、1890年ロンドン)大成功となった。パデレフスキの輝かしい演奏は大熱狂を巻き起こし、ほとんど異様なほどの長さに渡って賞賛の的となった。
パデレフスキの成功は、1891年にアメリカ合衆国においても繰り返された。パデレフスキの名は、たちまち高水準のピアノ演奏と同義となり、社交界が彼に跪いたのである。
パデレフスキは、万全の技術を身につけるのに忍耐力が必要なことを、以下のように述べ、多くの人に記憶されてきた。
「一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」
( “If I miss one day’s practice, I notice it. If I miss two days, the critics notice it. If I miss three days, the audience notices it.” )
1899年にドゥ・ローゼン (de Rosen) 男爵未亡人ヘレナ・グルスカ (Helena Górska) と結婚し、1900年以降はめったに人前で演奏しなくなった。その代わりに作曲家として、それも主にピアノ曲の作曲家として有名になった。
1901年にはオペラ《マンル Manru》がドレスデンで上演された。また、夫婦で社会事業や寄附活動も行なった。例えば、貧しい農家の子女のために学校を開いたほか、1910年には、ドイツ騎士団に対するポーランドの戦勝500周年を記念して、古都クラクフの住民にモニュメントを贈った。また同年には、ショパン生誕100周年記念のモニュメントも建てている。1913年にパデレフスキはアメリカ合衆国に居を構え、サンフランシスコに2000エーカーのブドウ畑を所有し、ワイン製造業を興している。
第1次世界大戦中にパデレフスキは、パリの「ポーランド民族委員会」の活動家となった。ポーランドは当時まだドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー二重帝国の支配下にあり、この委員会は三国協商側から、三国連合側ポーランドの代表と見なされていた。パデレフスキはこの組織のスポークスマンとなり、ロンドンにおける「ポーランド回復基金」など、その他の社会組織や政治組織をまもなく立ち上げた。
1908年には演奏時間が70分を超える大作交響曲ロ短調Op.24『ポーランド』(英語版)を作曲している。
1918年4月に、パデレフスキはニューヨーク市で、「アメリカ・ユダヤ人委員会」の指導者(ルイス・マーシャルなど)に会い、ユダヤ教徒を同権とすることと引き換えにポーランドの領土的回復の野心を支援してもらおうと交渉を持ち掛けたが、失敗したという。
第1次世界大戦の末期、まだポズナニ市と大ポーランド全域の運命に決着がついていなかった時期にパデレフスキはポズナニを訪れ、1918年12月27日の演説において、ポズナニのポーランド人住民がドイツに対して武力蜂起を起こすように呼びかけた。
1919年に新生の独立ポーランドにおいて、パデレフスキはポーランド首相と外務大臣を兼務した(1919年1月〜11月)。為政者としてパデレフスキは、ポーランドを代表してパリ講和会議に出席した。任期を終えると、国際連盟ポーランド大使を勤めた。
1922年にパデレフスキは政治の道から引退して、演奏活動に復帰した。長い中断の後での最初の演奏会はカーネギー・ホールで催され、目ざましい成功を遂げた。やがてスイスのモルジュに転居した。1926年のユゼフ・ピウスツキによるクーデターの後、パデレフスキは体制翼賛法案に反対する活動家となった。1936年に反体制メンバーが、スイスのパデレフスキの邸宅で署名を行った(この間、1929年にヘレナ夫人が心の病から社会事業を続けられなくなり、1934年についに他界している)。
「1939年ポーランド祖国防衛戦争(ポーランド9月作戦)」の後にパデレフスキは国政に復帰し、1940年には、ロンドンにおける「ポーランド国家評議会」、すなわちポーランド亡命政府の指導者になった。今や80歳の芸術家が、再びポーランド回復基金を発足させ、財源確保のために何度か演奏活動を行なったのである(最も有名なのはアメリカ合衆国での演奏会)。このような演奏旅行の最中に、パデレフスキは1941年6月29日の午後11時に、ニューヨーク市に客死した。亡骸はアーリントン墓地に葬られたが、1992年にその遺灰がワルシャワに持ち帰られ、レフ・ヴァウェンサ大統領とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が列席する中、ワルシャワ聖ヨハネ聖堂の地下霊廟に埋葬された。
目下のところポーランドの大都市では、パデレフスキにちなんで通りの名前が付けられている。ニュージャージー州パース・アンボイ Perth Amboy の市街も、パデレフスキを称えてつけられた。 ちなみに、ポズナニ音楽アカデミーの名もパデレフスキにちなんでいる。
主要作品
メヌエット(6つの演奏会用ユモレスク Op.14 の第1曲)
幻想的クラコヴィアク(6つの演奏会用ユモレスク Op.14 の第6曲)
ピアノ協奏曲 イ短調 Op.17
ピアノソナタ 変ホ短調(3楽章)Op.21
ピアニストとしては、一大巨頭であるパデレフスキも作曲活動では全く振るわなかった。例外的に「パデレフスキのメヌエット」として知られる6つの演奏会用ユモレスクの第1曲「メヌエット」は演奏も平易であること、親しみやすい旋律からピアノ発表会などの曲目として人気がある。
近年は、日本人によるピアノソナタの録音がなされるなど、メヌエット以外の曲も再評価が進んでいる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%87%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD
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