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森鴎外は医者失格、科学者失格の無能人間だった
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/680.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 1 月 29 日 10:12:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


森鴎外は軍医としては失格? konokon_ponさん 2012/5


鴎外は脚気の原因を細菌だと思っていた?
ビタミン欠乏説を否定?
陸軍による戦死者の数より、脚気の死者を多く出した?
その誤りは森鴎外にある?

そんな内容が

『医学は科学ではない』米山公啓
元・聖マリアンナ医科大学助教授 ちくま新書
https://www.amazon.co.jp/%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E3%81%AF%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%B1%B3%E5%B1%B1-%E5%85%AC%E5%95%93/dp/4480062785

に載っていましたが、本当でしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答
scaranpellaさん 2012/5/12

まぁ失格ですね。

1876年(明治9年)、ドイツのロベルト・コッホが炭疽菌を発見し、これが炭疽の病原であると証明します。細菌がさまざまな病気の原因になるということが、このときはじめてわかったのです。

この医学史上、人類史上画期的な発見によって、細菌学は医学の最先端になり、さまざまな病気の病原菌がつぎつぎと発見されていきました。

脚気は幕末〜明治の日本ではコレラ、結核と並ぶ深刻な病気でしたが、この時代の医学研究の風潮からいって、細菌説が唱えられたこと自体は自然なことでした。

ヨーロッパにはない病気であることから、アジアの風土病、アジアの自然界にある細菌が原因だと考える研究者は多かったのです。コッホも細菌が原因であろうと考えていて、いずれ病原菌が発見されるだろうと思っていたようです。

東大医学部はドイツ医学を導入していました。森鴎外や石黒忠悳(陸軍省医務局長)は東大医学部で学び、ドイツに留学もしていますから、細菌説をとることは当然だったでしょう。

また、当時の医学界の常識から考えても、細菌説は有力でした。ここまでなら、森鴎外や石黒は責められるほどのことではありません。

森鴎外が医者、科学者失格なのはここから先です。


海軍軍医の高木兼寛はドイツではなくイギリスで医学を学んでいます。

高木はヨーロッパに脚気がないことから、脚気の原因を蛋白質の不足と考え、肉食すれば脚気を防げるのではないかと推測しました。

高木は明治17年(1884)、訓練航海のときに2隻の船の食事内容をそれぞれ和食と洋食にしました。すると、和食のほうには脚気が発生し、洋食のほうには発生しませんでした。食事を変えることによって有意の結果がでたのです。

以後、海軍では洋食をとりいれ、やがて肉ではなく麦飯がよいことも判明して、その後は脚気に悩まされることがほとんどなくなりました。日清戦争の前のことです。

しかし、細菌説に固執する石黒や森鴎外は、海軍が兵食改革によって脚気が激減した結果を無視し、「日本男児は白米を食べないと力がでない」などといって陸軍の兵食はあくまでも白米としたのです。

この当時、兵隊の多くがいなかの貧しい百姓の次男、三男でした。白米が食べられることが魅力で兵隊になる者も多かったのです。こうした事情もあって、陸軍は白米の兵食にこだわったという事情もあるのですが、日清戦争では脚気の罹患が深刻な状態でした。

戦死者よりも脚気による死亡のほうが多かったという統計もありますが、陸軍にとって都合の悪い数字ですから正確なところはわかりません。じっさいは衛生状態も悪く、病死者の死因はいろいろです。忘れてはならないのは、戦死者のなかにも罹患者が多数いたにちがいないということです。

海軍ではほぼ撲滅された脚気が、陸軍では日露戦争時にいたっても改善されませんでした。

森鴎外は「意地」だけで麦飯導入を拒み、日露戦争でも陸軍では約25万人の脚気患者が発生し、約2万7千人が死亡するという無残なほどの事態を生み出し、戦死者の多くも脚気にかかっていたといいます。

戦中戦後、鴎外を非難する声は陸軍内部にもあったのですが、けっきょく鴎外が責任を取ることはありませんでした。

鈴木梅太郎が米糠からオリザニン(ビタミンB1)を発見したのちも、鴎外は一貫して細菌説に固執します。そして、その筆力をもって栄養説を批判し、鈴木を罵倒する論文をたびたび発表しました。

その内容はとても学術論文といえるようなものではなく、感情的な罵詈雑言に終始するもので、鈴木が東大農学部出身であることから「百姓学者のマユツバ研究」と揶揄し、「農学者が何を言うか、糠が効くのなら小便でも効くだろう」とまでいいました。

鈴木の発見はまちがいなくノーベル賞に値するものでしたが、国内、とくに東大医学部からの激しい嫉妬によってノーベル委員会に推薦されることもなかったのです。

森鴎外は研究の趨勢が栄養説にほぼ決しても、死ぬまでこれを認めず、細菌説を主張し続けました。

鴎外は陸軍軍医総監、かつ陸軍省医務局長という地位に上り詰めます。陸軍軍医総監は中将に相当するポジションです。

これほどの立場なら華族に列せられるのがふつうなのですが、鴎外はついに叙爵されませんでした。これは脚気問題が問われたのだろうと思います。

いっぽう、論争相手だった海軍の高木兼寛は男爵に叙され、麦飯をさかんに奨励したことから「麦飯男爵」というあだ名で慕われました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1087204715


scaranpellaさん 2010/11/24


この脚気論争にかんしては、


坂内正著『鴎外最大の悲劇』 (新潮選書)
https://www.amazon.co.jp/%E9%B4%8E%E5%A4%96%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%82%B2%E5%8A%87-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%9D%82%E5%86%85-%E6%AD%A3/dp/4106035006

という名著があるので、これを読んでいただくのがいちばんいいのですが、


お急ぎということなので、ざっくりと書いておきます。

脚気は、この当時の日本にとって、コレラと並んでもっとも深刻な病気でした。ですから脚気の原因を発見し、治療法を確立することは日本の医学界全体の急務でした。
当初は西洋医学と伝統的な東洋医学のあいだで脚気治療をめぐって対立がありましたが(じつは東洋医学が好結果を出していた)、政府は医学は西洋一本で行くと決定したのです。

その後、西洋医学のなかでも「細菌説」と「栄養説」が対立することになります。

細菌説をとる鴎外こと陸軍軍医総監・森林太郎と、栄養説をとる海軍軍医総監・高木兼寛の論争は、この2説がもっとも先鋭的に対立していることから有名ですが、じっさいには医学界どころか明治政府全体を二分する勢力の代理戦争という要素が強かったのです。

当時の明治政府は、薩長という2大藩閥に支配されていて、その勢力も拮抗していました。また、軍部も薩長が占めていました。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥です。

森は長州藩の隣国、津和野藩の出身で、おおまかには長州閥です。いっぽう、高木は薩摩藩支配の日向国諸県郡の出身です。

つまり、この論争には科学的な態度だけでは割り切れない、薩と長、陸軍と海軍、それぞれのメンツもかかっていたという側面がまずありました。

明治初期に、日本は西洋医学を導入するのですが、このときにちょっとした悶着がありました。

明治新政府でいちばん勢力の強かった薩摩藩は、幕末からイギリスとの関係が深く、イギリスの援助によって倒幕にまでいたったのでした。

ですから、西洋医学についてもイギリスから導入するという心づもりでウィリアム・ウィリスというイギリス人医師とすでに契約も済ませていたのでした。

ところが、この決定に大反対したのが佐賀藩出身の蘭学者・相良知庵という人物でした。相良は細菌学によって急進しつつあったドイツ医学こそ世界の最先端であると熱烈に説いて、イギリス医学導入という政府決定を覆したのです。

薩摩としてはイギリスとの義理も、ウィリスとの契約もあるので、薩摩独自で医学校をつくり、ここではイギリス医学を導入することにしました。
いっぽう、政府としてはドイツ医学を導入し、医学校(のちの東大医学部)にはドイツ人教授を招聘し、カリキュラムも医療制度もドイツに倣ったのです。

高木はウィリスの弟子で、イギリスに留学します。いっぽう、森林太郎は東大医学部で学び、ドイツに留学します。

イギリス医学は臨床主義で、患者の観察を重視します。ドイツ医学は細菌学が全盛で、臨床よりは研究的な態度を重視します。
つまり、この脚気論争はイギリス医学とドイツ医学の代理戦争という側面もあったわけです。

この時代の医学にとって、細菌学はほんとうに画期的で、まさに最先端でした。このため、東大医学部閥は細菌学万能主義という落とし穴にはまっていたように思います。

経験を重視する東洋医学や、臨床を重んじ患者をよく観察した高木が、上手い具合に栄養説にたどりついたわけです。

さて、長州、東大医学部、ドイツ医学といったもののメンツを背負って脚気論争に挑んだ森鴎外ですが、その態度はとても科学的なものとはいえませんでした。

論証を重ねるわけでもなく、得意の文章力によって、栄養説をとる高木や、オリザニンの発見というノーベル賞に値する研究を行った鈴木梅太郎を罵り続けました。栄養説の正しさが立証されても自分の非を認めることもなく、亡くなるまで細菌説に固執したのでした。

兵食に麦飯を導入した海軍は日清、日露両戦争で脚気患者をほとんど出しませんでしたが、白米にこだわり続けた森鴎外のせいで、陸軍では脚気が大量に発症し、計算によっては戦死者よりも脚気による病死のほうが多いとも言います。
つまり、森鴎外ひとりが意地を張り続けたために、数万の兵士が命を落としたともいえるのです。

陸軍軍医総監という森鴎外の社会的地位からいえば、華族に列せられてしかるべきでしたが、けっきょくこの脚気論争が原因でついに華族にはなれませんでした。いっぽう、高木は男爵に叙せられていますから、世間的にはちゃんと評価はされていたということになりますね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1450927004

 

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コメント
1. 中川隆[-6865] koaQ7Jey 2021年3月07日 11:28:30 : DXEy2Mr6T6 : QmJaNVc2U0tTbWs=[12] 報告
「白米好きの日本人」を襲ったヤバい病気の正体 大正期には1年で「約3万人」もの命が奪われた
新 晴正 2021/03/07


白米ばかり食べる日本人を襲った「ある病気」の正体とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。

米を主食にする国々の中でも、日本人ほど品種や炊き方にこだわる人々も少ないと言われている。わたしたちが普段食べるうるち米だけでも、のべ440品種以上が登録(平成29年度)されているというから驚く。

 最近は健康面を考えて白米に玄米や雑穀を混ぜて炊く家庭も増えているが、やはり食べておいしいのは白米だけで炊いたご飯、すなわち白ご飯だ。炊きたての白ご飯に味噌汁とぬか漬けの一品でもあればあとは何もいらない、という人も少なくない。

かつては「ごちそう」だった白ご飯
 そんな日本人になじみ深い白ご飯だが、一体いつごろから食べられているのか調べてみると、意外なことがわかった。実は一部の大都市圏を除き、常食するようになったのは明治時代に入ってからなのだ。

 たとえば江戸時代、江戸に住む人たちに限っては長屋暮らしの八っつあん熊さんたちでも日に3度、白ご飯を食べていたが、一歩江戸の郊外に出ると、米農家であっても作った米の大半が年貢として取られてしまうため、白ご飯を食べることができたのは祭礼の日などに限られた。まさに「ハレ」の日のご馳走だったのである。

 したがって大方の日本人は白米を常食するようになってまだ百数十年しかたっていないのだ。本稿ではそんな白米食の歴史と、なぜ江戸っ子だけが白ご飯を食べることができたのか、そしてそれによって生まれた「江戸患い」と呼ばれた白米食の弊害についても語ってみたい。

 玄米を精米して食べるようになったのは奈良時代のことらしい。精米によってビタミンという栄養を含んだ胚芽部分やぬか層を捨ててしまうことになるのだが、もちろんそんな知識は当時の人たちにはない。胚芽やぬか層が残っていると、たんに食べたときに味や食感、消化も悪くなるからそうしただけのことである。

 しかし、この精米作業はなにぶん重労働なので、庶民は玄米を軽く精米したものを蒸して食べる「強飯(こわいい)」を長く常食してきた。白米は貴族など一部の特権階級に限られていたらしい。

 室町時代に入ると農業技術の進歩や新田開発もあって、全国的に米の生産量が増大する。しかし、庶民が日常的に白米を食べるまでにはまだ至っていない。それが少しずつ改善してきたのは江戸時代になり、世の中が安定して米の生産量が一段と増大するようになってからである。

 中国から足踏み式精米が伝わり、精米作業が大幅に省力化されたことも大きかった。それまでは餅をつくように臼と杵で精米していたのだが、これは大変な重労働であった。

 その点、シーソー式の足踏み精米なら労力は半減するうえ従来より大量の玄米を短時間で精米できた。さらに江戸も中期になると、水車を動力にして精米する技術が広がり、精米がより簡単に、より大量にできるようになったのである。こうして精米された白米は、大消費地である江戸にどんどん流れ込んだ。

白米ばかり食べる人を悩ます「江戸患い」とは?
 江戸っ子は元来が見栄っ張りである。おかずを削ってでも白ご飯を食べることを好んだ。水道で産湯をつかったことと、日に三度白ご飯を食べられることが、何よりの自慢だったという。

 これは江戸が急造都市で肉体労働者が多かったことと無縁ではないだろう。日々、肉体労働に汗を流すと、どうしても塩気の多いおかずが欲しくなり、そうしたおかずには分づき米で炊いたご飯よりも断然白米で炊いたご飯のほうが相性は良かった。

 もう一つ、江戸っ子に白ご飯が好まれた理由に、当時の食習慣が関係していた。当時の家庭はどこでも炊飯は朝一回きりで、昼も夜も朝炊いた残りを食べた。そうなると玄米に近い分づき米だと、夜ともなればご飯がプーンと不快なにおいを放つようになる。夏場なら尚更だ。それが嫌で極力白米を選んだわけである。

 ところが、大好きな白米を買うと、それほど稼ぎがあるわけではないので、おかずを買うまでの余裕はない。そこで自然、ご飯だけをたくさん食べることになる。

 その結果、ビタミン不足が原因で中枢神経が侵されて足元がふらついたり倦怠感や心不全、いらいらなど様々な脚気症状を招いてしまった。この病気は参勤交代で江戸に暮らす勤番侍に多かったことから「江戸患い」とも呼ばれた。

 日本史上、「脚気」が原因で亡くなったと思われる有名人は少なくない。徳川将軍家などは3代家光、5代綱吉、13代家定、14代家茂とまさにオンパレードである。

 なかでも14代家茂の場合は特にかわいそうだった。家茂は20歳かそこらで長州征討のさなかに病死するのだが、相思相愛だった夫人の皇女和宮もその後32歳の若さで亡くなっている。夫婦そろって脚気が原因とみられている。

脚気は「贅沢病」だった?
 近年の研究では、豊臣秀吉も脚気で亡くなったとする説が有力視されている。晩年の秀吉が悩まされていた、下痢や失禁、精神錯乱などはまさにビタミン不足によるものだという。してみると、秀吉が晩年になって甥の秀次に切腹を命じたり、朝鮮出兵を言い出したりしたことも、脚気のせいだったと考えると、少しは同情したくなるのだが、これは筆者だけだろうか。

 この脚気は、いったん患うと数日で亡くなることも珍しくなかった。飽きやすく何をしても長続きしない人のことを嘲って「三日坊主」というたとえがあるが、この言葉は本来、脚気を患ってたった3日で亡くなってしまい、坊主(僧侶)を手配しなければならなくなった、という意味だとも言われている。真偽は定かでないが、それほど江戸の人々にとっては怖い病気だったということである。

 脚気が江戸患いとも言われ、勤番侍に罹患する者が多かった。これは、国元では滅多に食べられない白ご飯が江戸ではいくらでも食べられることに感激し、在府中に白ご飯ばかり食べ続けたからである。

 したがって、国元に戻っていつもどおりの玄米に近い分づき米に雑穀や大根などを混ぜて炊いたご飯(「かてめし」という)を食べていると、いつのまにか体調不良がケロッと治ってしまった。このことから「贅沢病」と言われたりもしたという。

 こうしたことを江戸時代の人々は体験的に知っていたのである。とりわけ江戸っ子たちにぬか漬けやそばが好まれたが、ぬかは精米時に玄米から取り除いたものだし、そばも現代ではビタミンをたっぷり含んでいることがわかっている。こうした食べ物から、精米で捨ててしまったビタミンを無意識のうちに補っていたわけである。

 この脚気という厄介な病気は、江戸時代が終わって、明治、大正時代になっても日本人を悩ませ続けた。特に明治から大正時代にかけては江戸時代よりもはるかに多くの患者を出し続けたとみられており、肺結核と並んで二大国民病とも言われた。

 脚気による死亡者数がピークとなった大正12年にはなんと2万6796人もの人々が1年間に亡くなっていた。

 明治・大正期に脚気が蔓延した大きな理由は、「軍隊」にあった。明治の世となり、政府は西欧列強に追いつくため「富国強兵」と「殖産興業」をスローガンに掲げたことはご存じのとおり。

 特に富国強兵策として明治6年に「徴兵令」を公布し、全国の農村から若者を集めた。その際政府は、若者たちに対し軍隊に入れば1日6合の白米を食べさせると約束したのである。

 この条件は当時の農村の若者たちにとっては実に魅力的だった。御一新を迎えるまでは年貢年貢で締め付けられ、ほとんど白ご飯を食べられなかっただけに、それが毎日腹いっぱい食べられるとあって農家の次三男坊は喜んで軍隊に飛び込んだ。そして、白ご飯を食べまくった。このことが脚気患者を著しく増やす原因となった。

 日清戦争(明治27年)では約20万の兵を動員したが、その2割までが脚気患者だった。これは公式に認定された数字で実数はもっと多いとみられている。しかも、患者の大半は陸軍の兵であった。海軍のほうはビタミンの存在にこそ気づかたよいていなかったものの、偏った栄養摂取が脚気の原因であると考え、早くから兵食改革に乗り出していた。そのことが功を奏したのである。

 一方の陸軍は、脚気は伝染病の一種で空気感染によって起こるという東大医学部が唱えた説を頑なに支持していて、その後も兵らに与える食事に対しなんら対策を講じなかった。

脚気を食い止めなかった森鷗外の失敗
 その結果は10年後の日露戦争でもはっきり表れた。戦病死者3万7200余人のうち、脚気による死者は実に約75パーセントに当たる2万7800人を数えた(『医海時報』明治41年10月)。

 この数字から逆算すれば脚気にかかった陸軍兵士の総数は30万人を超えていたとみられている。一方の海軍はこの日露戦争での脚気の罹患者は87人で、亡くなったのは3人にとどまっている。

 ここにきてさすがの陸軍も兵食改革に着手するかに思われたが、世の中全体が戦勝ムードに浮かれていたこともあり、改革どころか陸軍幹部の責任も一切問われなかった。その責任を負うべき中心的人物に、当時は陸軍省医務局の幹部だった森鷗外(のちの文豪)がいたことは記憶にとどめておきたい。

 その後、明治43年になり、農芸化学の鈴木梅太郎博士が、ぬかの中からビタミンを抽出することに成功する。しかし、鈴木博士は医学者ではなかったため医学界からは何年も黙殺された。これも脚気患者を増やす一因となった。

 日本人の永い永い脚気との戦いにようやく終止符が打たれたのは大正時代も末期になってからであった。
https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E7%99%BD%E7%B1%B3%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E3%82%92%E8%A5%B2%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%83%A4%E3%83%90%E3%81%84%E7%97%85%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E6%9C%9F%E3%81%AB%E3%81%AF1%E5%B9%B4%E3%81%A7-%E7%B4%843%E4%B8%87%E4%BA%BA-%E3%82%82%E3%81%AE%E5%91%BD%E3%81%8C%E5%A5%AA%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%9F/ar-BB1ejC8c?ocid=msedgntp

2. 2021年7月04日 16:16:28 : oK8CEMlMsc : dnU4eC52a0R2cC4=[30] 報告
【ゆっくり解説】#39「脚気と兵站」日露戦争、月別脚気患者数、死亡者数、兵站線、補給線、




日露戦争時の月別脚気患者数、死亡者数と、その当時の戦況及び補給路の状況を合せて見ます。なるほど、符合するものがあります。脚気蔓延の原因は、麦、雑穀の軽視(脚気病原菌説)だけではなく、根本的な兵站の問題があるのではないでしょうか。

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