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黒澤明 「デルス・ウザーラ」 から見た”精霊信仰”
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/738.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 7 月 08 日 00:46:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

デルス・ウザーラ 1975年 日本ヘラルド映画

無料動画
http://www.bilibili.com/video/av8782510/
http://yume551.com/foreignfilm/52421.html


監督 黒澤明

脚本 黒澤明, ユーリー・ナギービン, 井手雅人

原作 ウラジミール・アルセーニェフ

音楽 イサーク・シュワルツ

撮影 中井朝一, ユーリー・ガントマン, フョードル・ドブロヌラーボフ


キャスト

アルセーニエフ - ユーリー・ソローミン
デルス・ウザーラ - マクシム・ムンズク
スベトラーナ・ダニエルチェンコ
オレンチエフ- アレクサンドル・ピャトコフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A9



デルスウザーラ:人と自然との共存
http://shindenforest.blog.jp/archives/69104203.html

デルス・ウザーラ

シベリアの大自然の中で自由に生きた後で文明によって殺された実在の人物です。

シベリアの厳しい大自然の中で自然に敬意を表しながら自然と調和して生きてきた一人の男デルス・ウザーラの半生を黒澤明監督はソ連・日本の合作として映画化しました。

黒澤監督は、この話の企画を30年間ずっと温めてきて自殺未遂の後でようやく実現した渾身の作品です。


自然とは何か、人と自然の関係とは、文明とは何か、
心に響く実話に基づいた話です。


こちらの写真は実際の原作者であるアルセーニエフとデルス。
http://livedoor.blogimg.jp/shindenforest/imgs/8/1/810494e5.jpg


ストーリーは次の通りです


ロシアの地質学者(原作者)のアルセーニエフは、当時ソビエト連邦にとって地図上の空白地帯だったシホテ・アリン地方の地図製作の依頼を政府から受けました。
彼は、コザック兵たちで編制された探検隊を率いてその地に赴きます。


アルセーニエフ隊が、夜営をしている所に一人の猟師がやってきました。

彼の名は、デルス・ウザーラ。

シホテ・アリン地方のゴリド族出身で、デルスは、妻や息子たちを天然痘で亡くしてから、天涯孤独の身となり文明からは一歩離れてシベリアの自然の中で暮らしていました。


文明の利器は、唯一父から譲り受けた古い銃でした。


デルスは、この探検隊との出会いによってアルセーニエフのガイドとして同行することになります。


デルスは、

太陽を一番の人として、
すべての存在、火も水も、シベリアトラも鳥もすべて人として対等にそして敬意を払い、接していました。


動物の足跡からその状態もわかり、風や湿度の様子で気象も予測できます。


自然と一体化して暮らすデルスのおかげで
探検隊は、自然の猛威から何度も助けてもらいます。

猛吹雪に襲われた時にも、
的確なデニスの行動によって
アルセーニエフは命を助けてもらいます。

またデルスは自分たちが作った小屋を立ち去るときに次に来るであろう見知らぬ人のために薪やマッチなどを置いて残してあげていました。

自然の中で生き抜くためにはどんな存在に対しても優しく接する習慣がついていました。

自然とあらゆる存在に敬意を持ち、シベリアの大自然を熟知し、自然と調和をとりながら
その中で力強く生きているデルスはアルセーニエフの心に響く存在となり、やがて無二の親友となっていきます。

そして

無事にシベリアの厳しい冬を乗り越えて、アルセーニエフたち探検隊は任務を果たし、
ウラジオストクの街へ帰ります。

この時にアルセーニエフは、デルスも一緒に都会へ来て楽に暮らすことを提案します。

でも、デルスは自然と共にいることを選びます。

アルセーニエフは、デルスとの再会を約束して別れます。


そして、五年後アルセーニエフは再びシホテ・アリン地方へと任務でやってきます。

そこでアルセーニエフはデニスと再会することになりますが すべての状況は大きく変わっていました。

アルセーニエフは、再びデルスと行動を共にします。

悪質な中国人猟師たちによる落とし穴の罠や山賊の襲撃など、自然に敬意を払うことのないお金儲け目的の人種がこの地に入り込んでいました。

さまざまな困難に陥りながらも、今回もデルスの活躍により探検隊は無事に任務を果たしていきます。


でも、デルスは年老いていました。
野生の勘も判断力にも衰えが見え始め視力も落ちていました。

ある日、探検隊は、野性のトラと遭遇します。
デルスは、そこでついトラを撃ってしまいます。

森の神の化身としてのトラを不用意に撃つことなど、いままでのデルスでは考えられない行動でした。


デルスは、

「トラを殺したことによって森の精霊たちが怒る。」

と大いに軽はずみな行動に出てしまったことを後悔します。

さらに、完璧なほどの銃の腕前を誇っていたデルスも歳と共に急速に視力が低下した影響で、狙った所に正確に撃つことが出来なくなり猟師としての自信までも完全に失ってしまいます。

何もかもうまくいかない自分に腹を立てどんなことにも怒りっぽくなってしまいます。


もう猟師としてシベリアで生きることはできないのかもしれない。
失意のどん底にいたデルスはアルセーニエフの申し出によって、都会ハバロフスクの彼の家で一緒に暮らすことにしました。


デルスは、慣れない都会でアルセーニエフの優しい妻とデルスのことが大好きな息子とともに暮らし始めます。

厳しい自然界とは違い、飢えや寒さもない都会での生活。


でも、デルスは銃を撃つこともできず自然と対話することも無くなり外で寝ることもできない。


薪や水までお金を出して買わなければならない生活がすべてを自然の恵みから授かってきたデルスには理解できません。

暖炉の薪を調達しようとデルスは公園の木を伐り警察に逮捕されてしまいます。

デルスには何もかも不自然な規則で制約された都会の暮らしには限界が来ていました。


アルセーニエフも、デルスをこれ以上都会に留めることはよくないことを理解します。


せめてデルスが森へ戻っても不自由の無いようにと
旅立ちの日に衰えた視力でも猟ができるようにアルセーニエフは、最新式の銃をデルスにプレゼントします。

その後すぐにアルセーニエフに連絡が入ります。


「あなたの名詞を持つ男が死体で発見されました」という内容でした。

街を出ようとしたデルスは、贈られた最新式の銃を持っていたために
強盗に遭い、銃を奪われ、殺されてしまったのです。


文明によって助けてあげたはずの銃がきっかけでデルスは殺されてしまいました。

自然界ではどんな時にでも無駄に生き物を殺すことはなかったデルス。

自然界の摂理から離れてしまった都会の怖さを理解していませんでした。


アルセーニエフは文明的な生活が便利で自然界へ帰るデルスにも文明の利器を持たせた結果が裏目に出てしまいました。


そしてデニスが埋められた墓の場所は後日木をすべて伐採され開発されて墓がどこだったのかさえわからなくなってしまいます・・・



黒沢明監督は、デルスについて次のように語っています。

「デルスのように自然の中でたったひとり暮らしている人間、
自然をとても大事にし、尊敬し、怖れも持つ。
その態度こそ、いま世界の人々がいちばん学ばなければならないところです。」


現在でもデルスの生まれ故郷の人たちは自然を尊びシャーマニズムを信仰し
特に火と水には畏敬の念を持つ民族として知られています。

自然界の火水(かみ)。



デルスの生き方は
自然を尊いものとしすべての生き物、すべての存在に敬意を払い
必要最低限生きていくのに必要なものだけを自然から利用させてもらう。

http://livedoor.blogimg.jp/shindenforest/imgs/9/e/9eafb2c2.jpg


まるで昔の日本人
昔の世界各地の先住民のような生き方です。

多くの人が神性さを見失っているのは、本物の自然界との正しい関係を自ら断ち切ったことが大きな原因です。

太陽の暖かさと心の温かさ、大空に広がる空気と肺の空気、母なる海の水と身体の水分、
河の水流と血液の流れ、身体を構成する素材と大地も、全く同じものであることを理解していない人がほとんどなのです。

英語では、自然のNatureも自分の中にある本性のNatureも同じ単語で表されます。

これは本来一致していなければならないものだからです。
http://shindenforest.blog.jp/archives/69104203.html


デルスウ・ウザーラ―沿海州探検行 (東洋文庫 (55)) – 1965/11/1
アルセーニエフ (著), 長谷川 四郎 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%A6-%E3%82%A6%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%A9-%E6%B2%BF%E6%B5%B7%E5%B7%9E%E6%8E%A2%E6%A4%9C%E8%A1%8C-%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%96%87%E5%BA%AB-55-%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%95/dp/4582800556/ref=pd_sim_74_1?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=MPMGEBM0R8EVN8X4EHZX

長い旅、冒険です 投稿者Cafe Red Sky2007年4月8日

1906年4月、ロシアの若き兵隊長(著者のアルセーニエフ)が、ウラジオストックを出発し、日本海に面する沿海州(ウスリー地方)の調査・探検にでた。

仲間は、9名の兵士、植物学者、学生である。

さらに、デルスウという特別な仲間がいる。彼は、狩猟を行いタイがの中で一人で生きてきた自然人である。

日本海を経由して、沿岸、山岳地帯、タイガを越え、何度かの危険にあい、探検は続く。旅の終わりは、翌年の1月である。鉄道に乗って、ハバロフスクに帰宅する。

自然の様子、現地の人との遭遇が、客観的に具体的に描写されている。内容が濃く、読み応えのある自然地理学・紀行文学です。

次のような目次を見返すだけで、探検の様子が伝わってきます。

「出発、ジギト湾のほとり、行進開始、山地にて、洪水、、、、トラの襲撃、旅の終わり、、」


___


最高!ナチュラリスト必読。 投稿者garbanzo2004年12月7日

時は20世紀はじめ、ロシアでは近代化に押され、旧体制が崩壊せんとする時期だ。
著者アルセニーエフは軍務を帯びて沿海州に調査旅行に出かける。
その折に案内役を勤めたのが標題のデルスウ・ウザーラ氏である。

デルスウ氏は、沿海州を広く旅した経験をもち、また自然の中で生きる術を身に付けている。
足跡や焚き火の跡からまるで目で見たかのように状況を再現する能力や、観天望気の才、動物の様子から先の季節を予想することもできる。

これらはアボリジニやアメリカ原住民のような「霊的」な人種にしかできないことのようについ思ってしまうが、自然の中にひとが点在していた時代には、当然皆が持っていた力だったのだろう。

著者の自然科学に対する造詣も浅いものではないが、デルスウ氏にはかなわない。

景色が浮かぶような描写は訳者の腕に負う部分も多そう。
植物の記述など詳細にもズレがない。
これほどの本が一般に流布していないのが、不思議。←私が知らなかっただけ?
ナチュラリスト、山好き、冒険好きの方には特におすすめ。

ウラディミール・アルセーニエフ(露: Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев, 1872年8月29日 - 1930年9月4日)はロシア極東地域の探検家である。

1910から1918年までハバロフスク博物館長をつとめる。
また、シベリア植物の数多くの種を書き記した最初の人物であると言われている。

アルセーニエフの著書「デルス・ウザラ(英語版)」(ロシア語: Дерсу Узала)に感銘を受けたゴーリキーは、アルセーニエフに手紙を書きロシア国立出版所から出版することを勧める。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%95


2007.02.19 死後80年たって、明らかになった、デルス・ウザーラの作者、アルセーニエフの遺書


世界的に有名な 『デルス・ウザーラ』 のを執筆したロシア人研究家、 ウラジーミル・アルセーニエフ氏の遺書が、 このたび、明らかになり、 話題を呼んでいます。

アルセーニエフ氏は、 地理学、 民俗学の研究者であり、 旅行家で極東ロシアの探検を行った人物としてよく知られています。

そのアルセーニエフ氏が、 自分の死後、 森のなかに埋葬されることを望んでいた記述が見つかりました。 それも、本人の死後80年もたった、 今見つかったのです。

この遺書は、 モスクワの古本屋に流れ込んだ、 本人の蔵書にはさまれていたところを偶然に見つかったのだそうです。 亡くなる前、アルセーニエフ氏がつけていたメモは数奇な運命をたどりました。アルセーニエフ氏がなくなったあとの1930年、書付は影も形もなく消えてしまったのです。そして、つい最近、時の流れに色あせたその書付は、ロシア極東国立太平洋大学の学長の手に渡りました。細かい字がびっしりと並んだその書付を読んだゲンナージイ・トゥルモフ学長は、古い本の間にはさまれた、この書付をみたとき、わが眼が信じられなかったとして、次のように述べています。

「見つかった手紙は、にせものである可能性もありました。筆跡を鑑定する専門家にかけようとおもったくらいです。ところが、筆跡をみた鑑定士たちは、これはホンモノにまちがいようがないと断言しました。遺言をしるしたその手紙には、

『私を葬る際は、墓地ではなく、森の中に埋めてくれるよう、心のそこからお願いします』

と書かれていたのです」

アルセーニエフは、つぎのような文句を墓標に刻むようにと、その文面に記してもいました。

「私は、私よりも前に、この沿海地方を探検した人たちの足跡をおって旅をした。
この人々は、もうずいぶん前に死に出(しにで)の旅に向かって去っていった。

今度は私の番だ。旅人よ、足を止め、ここに腰かけ、休むといい。私を恐れることはない。
私もおまえとおなじように、疲れたものだ。
いま、わたしには、とわの、そして、まったくの安寧が訪れている。
ウラジーミル・アルセーニエフ」

こんなふうにアルセーニエフは自分の墓標に刻む文面まで、考えていたのです。

遺言は発見されてから、ウラジオストックのロシア極東国立太平洋大学にある博物館へと送られました。ここは、アルセーニエフがかつて勤務していたところです。

アルセーニエフがタイガに葬られることを望んでいたということは、何も驚くことではありません。アルセーニエフは、生前にすでに、「極東のコロンブス」という異名で呼び習わされていたくらいで、探検家としてのそのあくなき探究心、そして、手つかずのロシアの新たな土地をさらに深く分け入りたいという好奇心が、人々の驚嘆をかっていたのでした。

歩兵士官学校を卒業し、帝国軍の将校となったアルセーニエフは、こどものことから旅に憧れをいだいていました。

1900年代のはじめ、アルセーニエフは、南沿海地方の地形、地質、軍事上、統計上の研究を行うため、数度の探検旅行を行います。

アルセーニエフの行ったこうした大掛かりな探検は、ぜんぶで12回以上に及びました。
このおかげで、サヒテ=アニーニャ山脈から、ウスリー地方、カムチャッカ、コマンドル諸島、そしてハバーロフスクまでの、ロシア極東の、ほぼすべての土地の調査が完成されたのです。

アルセーニエフは、130以上にもおよび学術的、文学的エッセーを残しています。

そうしたエッセーには、ロシアの東の果てに住む少数民族たちの、生活習慣、手工芸、民間信仰について書かれており、大いに興味をそそられます。

そのなかでも、『デルス・ウザーラ』は、こうした少数民族が命や自然に対し、どんな特異な接し方をしているかを描き出し、多くの読者に独自の世界を開きました。

この『デルス・ウザーラ』はのちに1975年、黒澤明監督によって映画化され、日本だけでなく、世界の名作映画のひとつと称され、多くの感動を呼んでいます。

さて、アエルセーエフの遺書は、彼の死後あきらかにされなかったので、ウラジオストックの普通の墓地に葬られました。本人の意思にそって、埋葬をしなおすかどうか、この問題はまだ決着がついていません。アルセーニエフが葬られた古い墓地に、木々がおいしげり、ほぼ森に近い状態になっていることから、近い親戚筋や彼の伝記を書いた作家たちは、くちぐちに、「故人の意思を自然がくみとったのではないか」と話しているそうです。
https://jp.sputniknews.com/japanese.ruvr.ru/2007/02/19/417844/


【デルス・ウザーラ】 - 『アイヌへの文化の伝播』2014/09/07

 先日、礼文島でオホーツク文化に触れ、昔観た映画のことをを思い出した。
その映画の題名は『デルス・ウザーラ』といった。
黒沢明が監督をした日ソ合作映画だった。

1975年公開、自分が二十歳代前半であった。
同年のアカデミー賞 外国語映画賞を受賞している。

この映画はウラディミール・アルセーニエフという実在の人物が著した同名の探検記録に基づいている。

アルセーニエは旧ソ連の軍人で、ロシア極東地方の調査、地図作成にたずさわった。
旧ソ連の間宮林蔵のような人である。

そこで案内役を引き受けたのが、先住民のゴリド人(現ナナイ人)である『デルス・ウザーラ』であった。

デルスは家族を失い、一人森林で漁師として生きていた。
デルスはその調査隊の案内で超人的な洞察力を発揮する。

微かに残された動物や人の足跡から、また小鳥のなき声などから様々な情報を読み取る。
また動物のような鋭敏な臭覚をもっている。

まるで大自然界でのシャロックホームズのようで、わくわくドキドキされられた。
また、大自然の中で培われた、昔からの風習を引き継いでいた。

その中の一節。

 【デルスが焚火の傍らに座って歌っている。

彼の姿の半分は焚火であかあかと照らされ、もう半分は、青い月の光に照らされて、まるで、赤いのと青いのと、二人の人間が座っているように見える。

アルセーニエフ、来て、その姿を見て立ち停まる。

デルスは傍らに斧と銃を置き、焚火の前に座って、手にしたナイフで木の小枝を胸で支えて、それをナイフで削りながら、静かに歌っている。
その歌は、単調で、憂鬱で、もの悲しい。

彼は、木を削りとるのではなく、削りかけては木に残しておくので、それは一ツ一ツまくれて、ちょうどサルタンの王冠のような形になる。

それを彼は右手に持ち、歌をやめて空間の何物かに、何か質問して、耳を傾けている。
緊張して耳を傾けているが、河の音意外には何も聞こえない。

すると彼は、右手に持った棒を火の中に投げ、小さな空缶をとり出し、瓶からウオトカを注ぎ、それに人さし指をひたして、四方の土にはじき飛ばす。

それから、タバコの葉やほした魚や肉、青い布、新しい中国の履物やマッチの箱などを火に投げ入れた。

そして、ふたたび何かを叫び、そして耳をすます。
どこかずうっと遠くで、夜の鳥の鳴く声が聞こえる。

アルセーニエフ、それを見て近づく。
その足音に、デスルは頭を上げて見る。
その眼は深い悲しみをたたえている。

アルセーニエフ、そのデルスと向かい合って座る。
沈黙・・・・。

デルス、話はじめる。

『カピタン!あすこ、わしの女房、子供、死んでる』

デルスは森を指さす。
そして、火を見つめて、ぽつんと言う。

『・・・・・天然痘・・・・・』

デルスは深く頭を垂れる。

『村の人、天然痘、怖い。女房、子供、小屋一緒に燃やした!』

アルセーニエフ、慄然として、慰める言葉もなく、ただデルスを見つめる。


デルス
『わし、昨夜、悪い、夢、見た。
こわれた、小屋、その中に、女房、子供、。
みんな、凍え、食べ物、ない。
だから、わし、ここ、来た。
みんな、やった』

月の光だけが、アニセーニエフとデルスを青く照らす・・・・・・・。】


 悲しい場面である。

ここで自分が注目したのが、デルスの祈りの所作である。

なんとアイヌの祈りの儀式である『カムイノミ』と似ていることであろうか!

デルスがナイフで造る、削り屑を付けたままの小枝。
これはアイヌの『イナウ』そっくりである。

そして、ウオトカを四方にはじき飛ばす所作。

アイヌはこれを木製のヘラである『イクパスイ』でおこなう。
歌うように祝詞を唱えながら。

ナナイ人であるデルスはハツングース系である。

アイヌがツングース系の民族から大きな文化的影響を受けたことは、ここからも分かる。
またナナイ人は魚肉を日本人と同じように生で食べる習慣をもつ、数少ない民族でもある。


 さらにこれは映画の場面にはないが、原作にはスキーの場面もえがかれている。

アルセーニエフはツングース系のウデヘ人とビキン川の近でイノシシ狩をする。
ビキン川はウスリー川へ注ぎ、そのウスリー川はアムール川につながりオホーツク海へ流れ込む。

その際、ウデヘ人はスキーを使用したという。
他の文献によると、スキーの滑走面には鹿の皮がはられるようだ。

スキーでイノシシを負い回し、疲れて動きが鈍くなったところを槍で仕留めるのだ、
1907年のことのようだ。

以前、大阪外国語大学教授だった松下唯夫という方の、トゥバ族の滑走面に動物の皮をはったスキーについての調査を御案内したことがあった。

トゥバ族はテュルク系ではあるが、スキーにおけるつながりに興味がわく。
かつてバイカル湖周辺からシベリア極東まで数千Kmにわたる、広大な文化圏が存在したのだろうか?

そして、それはアイヌへつながるのか?


 礼文島で偶然見た、マッコウクジラの歯で造られた一個の小さな女性像が、40年前に観た映画に自分をいざなってくれた。
http://midomidotacnet.blog.fc2.com/blog-entry-117.html


 

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コメント
 
1. 中川隆[-7244] koaQ7Jey 2017年7月08日 00:55:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

映画「デルス・ウザーラ」から見た”精霊信仰”

先週の実現塾で1974年に上映された黒澤映画「デルス・ウザーラ」を観た。目的はこの間、実現塾でもポイントになっている観念原回路に相当する精霊の存在を少しでも捉えたいという目的。上映は2時間。デルスの捉えた精霊を捉えられただろうか?何とか記事にしたいと思い、今日はデルスの捉えた精霊を書いておきたい。

映画の中でデルスはシカや鳥や動物たちを「人」と呼ぶ。また、火や水や山も「人」と呼ぶ。あの人いい人、あの人怒っている。あの人喜んでいる。火が静かに燃える状態を見て心地よく火の傍に居る。デルスにとっては全ての自然界にあるものは「人」であるわけだ。

対象に同化する時に「人」と相手を捉える。つまり人に語りかけるように動物や火や水に語りかける。語りかけ、相手からのメッセージを看守する。言葉にならない相手の思い、状態を捉える。それが精霊信仰の交信の一つである。

ここから共認の事を考えてみたい。共認を最初に作り出したサルは同類であるサルを相手に共認を試み、相手の表情、動作から察知し、「相手も同じなんだと」共感する事で安心し、共認形成した。

人類もサルから深化したわけで最初は同じように共認で外圧に対抗した。ただ、地上に降りた人類は極限的に厳しい外圧環境に遭遇し、共認機能だけで突破する事ができず、生存を脅かす全ての対象(自然界)に対してサル時代から唯一獲得してきた機能=「共認機能」を使って対象にひたすら同化しようとした。

つまり人類の共認機能とはそのほとんどが、人だけでなく人以外のものに向けられたのだ。それが自然現象への同化であり、水や火や土、雨や嵐、石ころまで同化対象になった。万物に同化の眼差しを向け、その摂理をひたすら読み解いた先に見えたのが精霊であり、それを生きるエネルギーに昇華させたのが精霊信仰であった。

この映画ではデルスが精霊の使いである「トラ」を射撃で殺した事で、デルスの生きる意欲がどんどん衰弱する。狩猟の腕が落ち、山で生きて行く事ができなくなり都会に移り住むが、結局都会でも馴染めず山に戻り、命を落とす。トラを撃ったことが、自らの生命を取り上げた事に繋がる思想。それこそが精霊信仰の正体だと思う。

自然とはデルスにとって究極の対象であり、生かされている存在。その中で自らの生きていく意欲も主体性も生まれていた。トラを撃つことはその生かされている自然に背いた事になり、自然界からしっぺ返しを受ける、最早生きてはいけないとなっていく。自ら生きようとしても既に生きる気力がなくなりやがて肉体能力を殺ぎ取り奪っていく。


精霊信仰とはこうも言い換えることができる。

つまり、生きる意欲を生み出す源泉であり、主体性を作り出す動力である。究極の生命力である自然界に同化しているのだから、その同化対象から多くの強さ=エネルギーを得ている。その強さの象徴がトラであり、アイヌであれば熊なのだ。

現代に引きつけて、我々の主体性を作り出しているものは何だろう?

現代の精霊とは何なんだろう?その疑問は当然起きたが、このデルスの不屈の精神、生命力と肩を並べるような存在は現代人にはたぶんない。

しかし、現代の精霊をとてつもなく大きな存在、捉えなければいけない

大きな対象と考えれば、「人々の意識」「社会の意識」「自然の摂理」等が浮かび上がってくる。我々のやる気を生み出している「人々の役に立ちたい・・・」「だから新しい活力を創出する事実の発掘」⇒「新理論の追求」そこに現代の精霊は存在するのではないか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=327736

【言語の進化】3.人類最初の観念は「精霊」。「精霊」こそ、観念の原点である。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=314762 

      歩行訓練→踊り→性充足(闘争から解脱充足へ後退)
      ↑     ↓  ↓  祈 り→感謝
      ↑     ↓  ↓  ↑ ↓ ↑
  どうする? → トランス状態で追求→精 霊→何?→何で?


恒常的に生存の危機に晒されていた人類は、唯一の武器である共認機能に先端収束して、不整合な自然世界に問いかけ続け(=対象を凝視し続け)、その果てに遂に自然の背後に「精霊」を見た。人類が万物の背後に見たこの「精霊」こそ、人類最初の観念である。

しかし、観念そのものは、単なる記号にすぎず、それ自体は意味を持っていない。観念≒言葉の意味は、もっぱら言葉を発する前の追求回路=観念原回路の中にある。

換言すれば、観念回路そのものはデジタル回路にすぎない。それは、本能や共認機能を動員して形成されたアナログな追求回路(=観念原回路)に直結して、はじめて意味を持つ。重要なのは、言葉ではなく、言葉以前の伝えたい内容=何らかの意識なのである。

従って、受験勉強のように、「どうする?」発の根源的な追求回路を駆動させることなく、観念回路だけを作動させても、単なる知識としての観念が蓄積され、暗記脳が形成されてゆくだけで、そんな観念は使いこなすことが出来ないし、現実には何の役にも立たない。

なお、万物の背後に「精霊」を見るのも「物理法則」を見るのも、共に五感を超えた認識機能=観念機能の産物であり、五感対象の背後に措定した観念であるという意味では基本的に同じ認識である。

人類が最初に見た「精霊」は、おそらく生命力の塊のようなものだったろう。

しかし、それが言葉として発せられた時、おそらくその言葉は「ぴかぴか」とか「くるくる」というような擬態語だっただろう。そして、その擬態語には、生命の躍動感が込められていたに違いない。

人類の最初の言葉が擬態語や擬音語であったことは、乳児が発する言葉からも、又(最後まで侵略による破壊を免れた)縄文語→日本語に残る擬態語・擬音語の多さからも伺うことができる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=314762


2. 中川隆[-7228] koaQ7Jey 2017年7月08日 18:39:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

中部シホテ-アリン 地図
http://www2m.biglobe.ne.jp/ZenTech/world/map/russia/World_Heritage/Central_Sikhote_Alin.htm

中部シホテ-アリン(Central Sikhote-Alin)は、ロシアの極東連邦管区沿海地方のウラジオストクの北東のシホテアリニ山脈にある世界遺産(自然遺産)です。

シホテアリニ山脈は、ロシア極東の沿海地方からハバロフスク地方に位置し、ウラジオストクの北東から日本海沿いに900キロメートルにかけて伸びる山脈です。

タイガと亜熱帯の動植物の種族が交じり合った異色の温帯林が手付かずのまま残され、アムールトラやアムールヒョウなど絶命津の危機に瀕した貴重な動物も生息しています。

シホテアリン自然保護区

シホテアリン自然保護区の名前は知らなくても、黒澤明監督が映画化したロシア文豪アルセーニエフの探検小説「デルス・ウザーラ」ならご存じの方も多いのではないでしょうか?

この小説の舞台となったのが、ロシア連邦東部、沿海地方に広がるシホテアリン自然保護区です。
http://www.shiretoko.or.jp/project/shihotearin.html


極東ロシアのトラ生息地に新たな国立公園が誕生!
http://www.wwf.or.jp/activities/2015/12/1295904.html


ビキン川流域と新しい国立公園 地図
https://www.wwf.or.jp/activities/assets_c/2015/12/20151204ac14-20613.html

2015年11月3日、極東ロシアのビキン川流域の116万ヘクタールにのぼる森林が「ビキン国立公園」として指定されました。

針葉樹と広葉樹が混じるこの豊かな森は、シベリアトラの全個体数の1割が生息する場所であると同時に、先住民の人々の重要な生活な場でもあります。今回の国立公園の制定では、その豊かな自然が守られるだけでなく、ロシアで初めて国立公園における先住民の人々の権利も明確に保障されました。


ビキン川流域に広がる「ロシアのアマゾン」

極東ロシアには、針葉樹と広葉樹が混じる豊かな森が広がっており、そこにはシベリアトラ(アムールトラ)やアムールヒョウを頂点とする多様な野生生物が生息しています。

そんな極東ロシアの森の中でも、「ロシアのアマゾン」と称されるほど広大な原生林が残っているのがビキン川流域です。

ビキン川流域の森林は、シホテアリン山脈の西側に広がっており、これまでに商業伐採の手が入ったことがないため、今でも極東ロシアのタイガ(北方林)の森が残っています。

そして、この広大な森は、シベリアトラの個体数の1割にあたる50頭前後が生息する場所であると同時に、この地の先住民であるウデヘとナナイの人々の生活の場でもあります。

WWFは10年以上にわたり、先住民の人々とともにビキン川流域の保全プロジェクトを実施し、独自の自然と伝統的な生活様式の保護に取り組んできました。

2010年には、ビキン川流域の森林生態系の高い価値が世界的に認められ、ユネスコの世界自然遺産候補にも挙げられています。

こうしたことから、2013年11月と2015年4月の2度にわたり、プーチン大統領はビキン川の中上流域を連邦政府の保護区とするよう大統領令を出しました。


ついに国立公園設立!

そして、2015年11月3日、ロシア連邦政府はビキン国立公園設立の法律に署名。

沿海地方ビキン川流域の116万ヘクタール(秋田県の面積とほぼ同じ)以上の森林が国立公園として保護されることになりました。

「ビキン川流域は、チョウセンゴヨウと広葉樹が混じる原生林とそこに生息するシベリアトラだけでなく、そこに住む先住民の人々も含めて、独自の生態系や文化を形成しています。

先住民の伝統と原生の自然が全体として、広大な1つの保全対象となっています」

ビキン国立公園の設立により、豊かな自然だけでなく、先住民であるウデヘとナナイの人々の生活の場も今後、守られていくことになります。

パベル・スリャンズィガ氏は、ビキン国立公園が設立されたことについて、次のように述べています。

「ビキン国立公園が設立されたことで、ビキン川流域の自然が保護されることになりました。これは、先住民の利益に大きく資するものです。

ビキン川とその流域に広がる森林は、ウデヘとナナイの人々が伝統的な生活をおくる母なる自然なのです。
http://www.wwf.or.jp/activities/2015/12/1295904.html


3. 中川隆[-7227] koaQ7Jey 2017年7月08日 18:43:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ナナイ(ゴリド)

ナナイ(Nanai)は、ツングース系の民族。

ナナイはかつてはゴリドと呼ばれ、ロシア軍人、ウラディミール・アルセーニエフの『デルス・ウザラ』の主人公に描かれている。

(黒澤明が1975年に日ソ合作で監督した映画『デルス・ウザーラ』の原作である。)

分布は主にアムール川(黒竜江)流域で、ロシア国内に約1万人で、中国国内にも居住している。2004年人口調査時の中国国内人口は約4640人。中国国内のナナイはホジェン族(Hezhen;赫哲、拼音: Hèzhéホーチョ)と呼び、55の少数民族の一つとして認定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%8A%E3%82%A4

ナナイ人

ナナイ人は古くからアムール川とその支流ウスリー川(烏蘇里江)や中国のスンガリー川(松花江)の合流する地域に住んでいます。

人口約1万2千人に及ぶ「ナナイ」という民族は伝統的には漁業を生業の基礎にしてきたツングース系の北方少数民族です。

ナナイ族は、川からとれる魚を食料にするばかりではなく、魚の皮は靴や衣服をつくるるために巧みに活用しています。

シャーマニズムを信仰するナナイ人は熊に対する信仰も重視し、とりわけ小熊を一定期間飼育し、その霊を山の神のもとに返す『熊送り儀礼』を年に一回行っています。

シャーマニズムやクマ送りの儀礼、口琴など、アイヌ文化との共通点が多いです。

ナナイ人に人種的に最も近い民族は、中国最東端の同江市、撫遠、饒河付近に暮らしている民族ホジェン族です。その人口は約4500人余りと中国の少数民族の中では際立って少ないです。
http://www.intour-khabarovsk.com/ja/toursja/tours_out_city/149-.html


4. 中川隆[-7225] koaQ7Jey 2017年7月08日 20:45:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

アムール流域の考古学
仙台での講演から     V.N. コピチコ(ハバロフスク教育大学)
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm

 
 ハバロフスク地方は,82万5千km2の面積がある。このような広大な領域は,酷烈な北方性気候から,温和な南方性気候に至るまで,さまざまの異なった気候帯を擁しており,その多様性は,植物相や動物相にも反映している。ここでは,動物界の北方と南方の代表者,たとえばヘラジカ,アカシカ,トラ,クマ,ジャコウネコ,イノシシ,クロテン,テンを,ともに見ることができる。

 この地方の特殊な自然地理学的条件と,動物相の多様性は,先史・古代人類の生活の種々の面に本質的な影響を及ぼした。自然条件は,原始人類の新しい地域への進出経路と定着のテンポを規定した。環境の特殊性が,この地方の住民の生活や経済構造の形成に重要な役割を演じたのである。

 ロシア極東における最古の人類は,きわめて早く,大体シベリアと同じ時期に出現した。ハバロフスク地方の領域内でのもっとも早い人類の活動の足跡は,旧石器時代に遡る。ウリチ地区のボゴロツコエ村の近くのアムール河岸からは,最古の人類のハンドアックスが発掘されている。これは心臓型をした頑丈な道具で,周縁に両面加工により作られており,幅の広い下部は握りとなっている。こうした万能工具で,人々は叩き割ったり,切ったり,掘り返したりしていたのである。学者たちは,最初の人類がハバロフスク地方に現れたのは,15万年以上前のことと見ている。

 アムール河下流に左方から注ぐ支流であるアムグン河の流域の,ポリーナ=オシペンコという集落からほど近いところにある古代人の住居址は,後期旧石器時代のものである。ここには,約2万5千年前から1万5千年前にかけて,人が住んでいた。彼らは大きな河床礫で工具を作っていたが,それは一端だけを打ち欠いたもので,表面は未加工のままである。当時,人々はすでに火を獲得していた。この地方の古代の住民は狩猟・漁労に従事し,クルミ,イチゴ,キノコなどの食用植物を採集していた。人々はあまり大きくない集団をなして居住していた。

 早期新石器時代。この時期,人類はある程度の発展を遂げた。弓矢を発明し,犬を飼いならしたのである。石器製作技術伝統は,1万2千〜1万年前にハバロフスク地方に住んでいた人々の間でも保たれていた。こうした伝統は,ハバロフスク市一帯に分布する遺跡にもっとも明瞭に表れている。アムール河右岸の高い段丘で発見された古代人の住居址は,一時的なものであった。というのは,人々は動物の群の後を追って移動していたからである。

発掘の結果,河の石を積んで作った,著しく焦げたあとのある炉跡が,10基以上も見つかった。炉跡の周囲には石器を製作するときに出る屑が集中していた。ここで人びとが石器を作っていたのである。石器の大部分は,扁平な円礫の片面に幅広く大きな剥離を施したものである。これは石斧−スクレイパー状石器と名づけられているが,それは斧とスクレイパーの機能を果たしたからである。石斧を使って,古代人は森と水の恵みをきわめて幅広く利用し,雨や寒さを避ける住居を建て,各種の狩猟・漁労用の仕掛けを作っていた。こうした道具の助けを借りて作られた丸木舟も,漁労に使われていた。

 狩猟には,木葉形尖頭器が使われた。これは万能の道具で,戦闘用の短剣としても,狩猟用のナイフとしても用いられ,槍や投げ槍の先端に取り付けられることもあり,これによってより効率的に狩猟を行うことができるようになった。ガーシャ遺跡の発掘の際に,世界最古の土器の一つが発見されたが,これは12,930年前のものである。平底深鉢で器壁と底部の土器で,内面は条痕文が施されている。

ハバロフスク郊外のノヴォトロイツク発掘現場にて

ハバロフスク考古学博物館に展示されている石器

 
 ハバロフスク地方では,7千〜4千年前の新石器時代の住居址も発掘されている。これらの住居址は,旧石器時代のものよりもはるかに大きく,この地域の人口が増えたことを物語っている。

こうした遺跡は,アムール本流や他の河川・湖のそばに分布している。集落は多人数が集居するもので,竪穴式の大型住居からなっている。竪穴の長さは,さしわたし10〜15mにも達する。これほどの基礎を築くためには,多くの人力が必要である。新石器時代には,人々はこうした住居に定住していた。

定住生活を営むためには,アムールの人々は恒常的かつ豊富な食物供給源を必要とした。そうした供給源の一つとして,大河沿いおよび沿海に分布する集落にとって重要であったのは,漁労である。

特定の季節になると,シロザケ,カラフトマスなどの遡上性の海水魚が,産卵のために河を遡ってくるので,漁民はさほど時間を費やさずに,村の一冬分の食物を貯えることができた。新石器時代の集落で,考古学者たちは漁網用の錘を大量に発見している。漁網はイラクサで編まれたが,この伝統は,アムールでは20世紀に至るまで保たれていた。アムールの漁民は,世界にさきがけて,ルアー(魚を捕らえるための仕掛けの一種)の発明という重要な進歩をなしとげた。

漁労と並んで,この地方の新石器時代の住民にとって重要であった経済活動は,冬季における鳥獣の狩猟で,それは肉の他に,防寒衣を作るために必要なあらゆる原料をもたらした。

新石器時代には土器も発展を見せ,装飾が施されるようになった。新石器時代の人びとは,手の込んだ華麗な文様で土器を飾ったが,ほとんど同じような文様が,現在のアムール流域の少数民族の衣服や,木やシラカバの皮で作ったさまざまの装飾品にも認められる。

新石器時代の文様には顕著ないくつかの様式があり,それは多少の変化を伴いつつも,今日まで受け継がれている。

第一は縦方向のジグザグ文で,これは歯のついたこてのようなもので刻まれる。

第二は「アムール編目文」で,漁民にとっては自然なことであるが,明らかに網を模しており,ただ編目文は手の込んだ複雑な形になっている。

第三の,もっとも特徴的な文様は,渦巻き文である。
このはっきりした渦巻き文は,平行に走る何本かの縦方向のジグザグ文の地文の上につけられ,容器全体を覆っている。

 アムール流域の人々は,当時としてはかなり発展した共同体経済を営み,複雑な社会組織と,芸術を含む豊かな文化を有していた。

ハバロフスク地方における新石器時代の芸術の遺産としてあまりにも有名なのは,シカチ=アリャン村一帯に見られる岩絵である。シカチ=アリャンには合わせて150ほどの絵がある。

中でも多彩で独特なのは,人面画である。それらは仮面のように見え,一つ一つに特徴があり,きわめて表現力に富む。上部は幅広く,目は大きく,開いた口から二本の大きく鋭い歯が突き出しており,顎は狭くて丸い。こうした顔つきはサルを思わせる。卵形や楕円形の顔もあり,そのうちのあるものは,釣り上がった目と,はっきりと石を穿ってある円い瞳,そして太い不明瞭な鼻をもっている。

シカチ=アリャンの顔絵は,死んだ人々の顔,つまり祖先たちの霊を描いたものである。

こうした恐ろしげな人面画と並んで,玄武岩の大岩の上には,獣,鳥,ヘビなどの動物の絵も見ることができる。

人面画は,土器の赤い顔料が塗られ磨かれた内面にも見られる。彫刻としては,現在のアムールのナーナイ人の娘を思わせる顔つきをした,若い女性の小像が挙げられよう。

 初期鉄器時代。アムール流域における工具は,最初の一千年紀のはじめにあらたな時代を迎えた。

人々は河や湖のそばの小高い場所に住んでいた。

長期間存続した集落は,20〜40の住居が,明確な秩序をもたずに並んだものである。

住居は方形の竪穴で,その上に上屋構造が乗っていた。面積は50ないし200m2で,中央に炉があり,また床には多くの貯蔵穴が開けられていた。

金属器はこうした集落址からは稀にしか見つからない。それは青銅製の装飾品(多くは数珠),鉄製の刀子や斧,そして耕作用の土掘り具の先端部である。道具の大部分は相変わらず石器であった。この時代には,磨製の石鏃やナイフ,石斧も出現した。この時代の特徴的な石器は,礫で作られたもので,漁網の錘とか,穀粒を挽くための石皿,鍬などである。

 この文化に属する集落では,土器は普遍的に見られる。これらの土器はろくろを使わずに作られ,表面は赤い顔料が塗られ,磨かれている。内側には沈線文や押型文で文様が施されている。器種は形も大きさもさまざまで,用途によって,非常に小さな玩具から,大きなものとしては食品・穀物の保存用容器まである。

紀元前6世紀以降になると,アムールの人々の間に鉄器が普及した。
鉄からは工具と武器が作られた。

武器としては,鏃,鎧のさね札,短剣がある。また漁業用の鉤や,針,バックルも発見されている。青銅器としては,ボタンや各種の装飾品がある。

アムール流域の人々の生活に鉄が広汎に入り込んだとはいっても,石製の工具がすたれたわけではなく,集落址に引き続き見られる。それはたとえば,鍬・石皿・棒状の磨石・杵のような種々の農具である。斧,手斧,鏃は大部分が研磨されている。

古代人は骨も加工しており,骨製の弓の外板,鏃,鎧の札,針,玩具が見つかっている。

集落址からの発掘品の中には,大きな器具を模したミニアチュア土器もあり、それは子供の玩具である。ハバロフスクの周辺でも,子供の揺りかごや舟とか,さまざまの形のミニアチュア土器が見つかっている。


 土器は,形状の上でも,また文様に関しても多様である。
土器の外面は,貼りつけ文,沈線文,押型文の手法でつけられた文様で飾られている。
ときには外面に赤い顔料が施されていることもある。

注目に値するのは,アムールの早期鉄器時代の土器が,日本の弥生文化の土器と類似していることである。

学者たちは,大陸と日本列島の間に交流が存在したと見なしている。
経済も多角化し,牧畜・農耕・狩猟・漁労・採集が複合的に営まれるようになった。


 靺鞨。紀元後第一千年期の前半,ハバロフスク地方の境域に,靺鞨族が出現する。

このトゥングース系の人々は,アムールに現れると,先住のパレオアジア系の人々を追いやり,一部は吸収同化した。

靺鞨人は,生活の痕跡をこの地方に数多く残した。靺鞨人の築いた集落は,土塁と濠で固められている。住居は地表から半メートル近く掘り下げられていた。上屋構造の基礎となる柱は,住居の四隅に立てられ,中央にも何本かの柱があって,かまどの周囲を四角く取り巻いていた。

上屋構造はシラカバの皮で覆われ,さらに土がかぶせられていた。
住居の中央にある煙出しの穴が,入口を兼ねていた。

埋葬には長方形の土壙墓が用いられたが,この土壙墓は埋葬の前に焼かれた。
多くの場合,埋葬は複葬であった。墓には死者が生活に必要とするさまざまの品物が供えられ,またウマやブタの犠牲も捧げられた。


 7世紀,靺鞨族は統合され,渤海国を形成した。

ロシア極東において靺鞨文化の継承者となったのは,女真人である。
この時代の遺跡は,沿海地方とアムール流域に見られる。

ハバロフスク地方は,「服属していない」北方女真人の居住地域に含まれていた。彼らは,この時代の考古学的遺物を大量に残している。それは,たとえば巨大な土塁と濠で固められた城砦である。こうした城砦は,たやすく近づけない要害の地に築かれた。

城砦と並んで,女真人が同族を葬った墓地も見つかっている。葬法から見て,墓は三つのタイプに分けられる。

火葬,二次葬(まず死者をどこか別の場所に葬り,後に遺体を一族の墓地に移す),風葬である。

墓からは大量の品物が見つかるが,それは女真人にシャマニズムが存在したという見解を裏づけるものである。

つまりそれは,死者は別の世界で生きつづけ,この世界で必要とする品物はそこでも役立つという信仰の表れである。

女真人の文化は,ナナイ,ウリチ,ウデヘのようなアムール流域の諸民族の文化が発展する土台となった。


ブラゴベーシェンスク郊外コンスタンチーノフカ付近にあった女真人の城砦跡。
中央の盛り上がった部分が土塁で、外側に壕があったそうだ。
(Samovar記)

この城砦の正門付近で発見されたと説明を受けた大きな錠前(ブラゴ教育大秘蔵)。その後、この城砦は満州人も利用しており、錠前の年代特定に興味が注がれた。

 
 17世紀において,アムール流域と沿海地方の住民は,ダウル,ジュチェル,ナトク,アチャン,ゴリディク,ギリヤークの諸種族からなっていたが,現在の研究者は,これらをそれぞれエヴェンキ,ナナイ,ウリチ,オロチ,ネギダール,ウデヘ,ニヴフの前身と見なしている。

アムール上流域に住むダウルとジュチェルの主な生業は,農耕であった。
彼らはまた,ウマ・ウシの飼育や手工業も行っていた。

アムール中下流域,アムール河口一帯およびサハリンの住民にとっては,漁労が第一位を占め,陸上での狩猟と海獣狩猟がこれに組み合わされていた。

彼らの間では,鍛冶,造船,縄編み,獣皮・魚皮加工などの手工業技術がかなり高い水準に達していた。


 ロシア人は17世紀なかばにアムールに行き当たった。

最初にアムールを航行したのはヴァシーリー=ポヤルコフである。彼の率いる一隊は,1643年にヤクーツクから遠征を開始し,1644年にアムールに達して,河口まで下った。

ポヤルコフがヤクーツクに帰りついたのは1649年である。彼はアムール河畔にロシア人の最初の砦,アルバジンを築いた。ロシア人がアムールに出現したことで動揺した満洲人は,ロシア人を追い払おうという企図を実行に移し,二度にわたってアルバジンを包囲した。二度目の包囲の後,ロシア人は満洲人との間で最初の露中条約に調印する。

ロシアと中国の国境を確定する条約は,1858年と1860年に調印された。1858年にアイグン条約が結ばれると,同じ年に17世紀のロシアの探検家の名をとったハバロフスクの建設が始まったが,この都市は急速に発展して,ロシア極東の中心となったのである。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/archeology.htm


5. 中川隆[-7224] koaQ7Jey 2017年7月08日 20:56:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

アムール靺鞨文化の石像    D.P.ボロティン** Samovar・訳
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm


 同類のものが無く、それが製作された数も少なく、くわえて高い芸術性を有する考古学的対象物に取り組む事は大変大きな喜びである。数年前に、そんな貴重な遺物がブラゴベーシェンスク国立教育大学考古学研究室のコレクションに加わった。それは戦士の頭部の立体彫刻(石像)である。
 
 鉄器時代及び中世のアムール川流域の住民には、石を芸術的に加工する伝統は定着していなかった。

よく利用されたのは、金属(これからは多数の興味深い装飾品が考案された)、木、白樺の樹皮などであり、石とは別な材料であった。

石から造り出されたものは、小さな耳飾り、首飾り、作業用具だけであり、しかもこれらを造り出すためには、特別な熟練が必要とされた。

すなわちこの石像を作る事が出来たのは、このような伝統と石の特別な芸術的加工方法を知っていた職人だけである。そんな才能のある人が約一千年も前のアムール川中流域に住んでいたのである。

 大変残念なことであるが、石像は遺跡発掘の作業中に発見されたのではなく、アムール州コンスタンチーノフカ村の村はずれで、農民が土地を耕している最中に全く偶然に発見したものである。発見した農民はとても驚いたが、発見した後におよそ20 年ほど自宅に置いておいた。やがてこの石像の存在はアムール川流域の古代史の熱心な研究者、地元の郷土史家であるA.N.Korobko の知るところとなり、ブラゴヴェシチェンスク国立教育大学・歴史学部へ引き渡されたのである。

 B.S.Sapunov とN.N.Zaitsev、この論文を執筆した私ボロティンは、石像が出土した場所を訪れて、石像が発見され、今は農作業で破壊されてしまった遺跡は靺鞨文化トロイツコエグループに属する墳墓であると判断した1。しかし、私たちの方法では、この石像の所属する文化圏や年代を正確に判定することは困難であり、以下に述べる事は多くの問題を解決するための出発点にしかすぎない事を理解していただきたい。

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* ОБЪЕМНАЯ СКУЛЬПТУРА АМУРСКИХ МОХЭ, ТРАДИЦИОННАЯ КУЛЬТУРА ВОСТОКА АЗИИ,
Выпуск четвертый 2002 г.(『東アジア伝統文化』第4号(アムール国立大学:ブラゴヴェシチェンスク国立教育大学:ロシア科学アカデミーシベリア支部・極東支部考古学共同研究室、2002 年。
** 著者ボロティンП.Болотин, Д.П 氏は、ブラゴヴェシチェンスク国立教育大学・歴史学部・文献学部学部長 (Декан Историко-филологического факультета Благовещенского Государственного Педагогического Университета )。


1 ロシア科学アカデミーの資料によれば、アムール流域をめぐる初期鉄器時代と中世時代の流域文化の流れは、

ウリリスク文化(урильская культура)

→タラカン、ポリツェフ、テバホフ文化(талаканская, польцевская,тэбаховская культуры(全てポリツェフ時代)

→ミハイロフスク文化、ブレア遺跡グループ、靺鞨文化ナイフェリド及びトロイツコエグループ、アムール女真文化(михайловская культура, бурейская гру>>p памятников, найфельдская и троицкая гру>> мохэской культуры, культура амурских чжурчжэней)

→ウラジーミル文化(владимировская культура)

であり、最初の四つは初期鉄器時代に含まれ、残りは中世時代に含まれる。

http://www.philosophy.nsc.ru/journals/humscience/3_98/05_NEST.HTM を参照。



戦士頭部の石像 三面図
(V.ゼーヤ川とブレヤ川、ブラゴヴェシチェンスク周辺の探訪 写真22 参照)
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm


 石像(彫刻)は頭にかぶり物をした人物の頭部であり、大きさは高さが39.5cm、基底部の直径が12cm、最大幅が15cm である。材質はきめの細かい玉石であり、同様な玉石は現在でも墳墓から2〜3km離れた場所を流れるアムール川の左岸で目にする事が出来る。

彫られた顔は、おそらく原材料の形や芸術的な構想によってこのような形となったのだと思われるが、不自然なほど長い。石像は基準線をもとにして作られ、研磨が加えられている。顔面と頭部のかぶり物の細部にはくっきりとした凹凸がある。

この作品を残した芸術家は、作業中に玉石表面の大部分を除去したので、(もとの自然な)コブ状の表面は彫刻の基底部分にのみ残っている。


 顔は全く左右対称をなしていて、明らかに男性、厳しい顔立ちをした男の顔である。大きな丸みのある目の部分がふくらんで、表面から出ていて、瞳は無い。その部分には目をちょうど半分割している細い水平な線がくっきりと入っている。目の上には眉毛が、鼻筋のほうへ寄って突起した点で表現されている。鼻は細く、少し尖っており、鼻孔部は若干広がっている。鼻は顔面を丁度左右半々に分けている中心線のようである。そして突き出た唇で示された口許は小さい。顔全体の輪郭は頭部のかぶり物で隠されていて、頬骨のラインから顎だけが露わになっておいるが、顎は尖っている。

 以上のようなアウトラインである石像を観察すると、その横顔は扁平で、横幅との調和がとれており、明らかにモンゴロイド系(アジア系)人種に属する人がモデルである。

                           

 顔を覆っているかぶり物を、我々は鎖帷子(甲冑)のプレートで出来た兜であると解釈している。

プレートは山部と溝部がほぼ同じ幅で交互に連続している。多分これは石材に凹凸を描出して甲冑プレートのラインを示す最も良い方法なのだろう。かぶり物は構造的には本来の兜の部分と鎖帷子の部分に分割される。装飾的に兜は鼻梁から続く中心線によって二つの半球に分けられている。中心線が特別に示されているわけではないが、一定の角度で向き合うプレートの境目が中心線である。前面上部には眉毛の上に薄い切り込みで表現された兜のへりがある。鎖帷子は兜とは明確に分けられており、鎖帷子は兜で保護されていない頭部の一部分を覆う平行プレートのラインで表現され、ラインは頬骨のレベルまで彫られ、首までは達していない。


 プレートを組んだ兜は、中世には極東以外では広く知れ渡っていた。職人たちは戦士にいろんな戦闘帽を提案したが、時々それらの中には様々な技術や伝統文化の影響を確認できるものがある。

しかし、アムール川流域で発見される兜は、薄い鎖帷子のプレートだけで構成された兜がほとんどで、他の構造の兜は今のところ発見されていない。

現在に至るまで、靺鞨、女真、ヂュチェル2、ウラジーミル文化の担い手だった部族をめぐり約1000 カ所の埋葬地が発掘されているが、最初の兜の遺物はアムール女真文化に属するコルサコフスキー墳墓から、V.E.Medvedev の手で発見された。

兜の山の部分とその上部突端は長く、プレートの一方の端に対して広がって半弧形になっていた。プレートは、おそらく革紐で互いに結ばれていたようだ。鎖帷子も鉄片で構成されていたが、長さは短く、形状は違っていた。


 二番目に発見された中世の兜は、アムール川中流域の部族に関連している。
その戦闘用遺物は、シャプカ墳墓の発掘の際に発見されたものである。
これは最初の、そして今のところ唯一の復元可能なアムール川流域で発見された中世の兜である。

それはコルサコフスキー墳墓の兜とは相違していて、兜の山の部分と、その上部突端には様々な小さなプレートが組み込まれていた。予想されてはいたが、鎖帷子は無かった。

この兜がどの民族文化に帰属するかについての解釈は様々に行われている。
E.N.Derevyanko は、この兜はアムール女真文化に含まれるとしたが、S.P.Nesterov とI.Y.Slyusarenko は、シャプカ墳墓がナイフェリトであるとして、兜は靺鞨文化に帰属すると判断している。

                              

 アムール川流域の諸民族の間には、鉄製プレートで出来た兜が19 世紀まで見かけられた

。L.I.Shrenkは学術調査の過程で、そのような兜をギリヤーク人(ニブヒの旧称)のところで目撃し、それを詳細に記述し描写した。

V.E.Medvedev の見解では、それはコルサコフで発見された兜と全ての点で似ていて、この分野の研究者たちがギリヤークの兜は女真のものであると言う事が可能となった。私もその主張には十分に根拠があると考えている。


 ギリヤーク人たちはL.I.Shrenk に対し、兜は(甲冑と一緒に)満洲から入手したと話した。

19 世紀のギリヤーク人にとって、現在確定しているロシア国境付近の境界を通行する事は難しかった。満洲とは地理的な概念であり、「満洲」には農耕が始まったアムール川下流域の諸民族が含まれていた。

19 世紀のアムール川流域で農耕をしていたのは、アムール川の両岸に住んでいた満洲人たちであり、これより以前のこの地域には、彼らの祖先だったヂュチェルや女真が住んでいたのである。

 シベリアや極東の諸民族の間では、甲冑は遺産として相続され、とても大切にされていたという事を考えるならば、甲冑の最初の所有者はアムール川またはスンガリ川(松花江)の女真であったという説を無視する事は出来ない。

くわえて17〜19 世紀の極東地域では、兜の進化の流れが論理的完結をむかえていた。
日本の武将が被った兜の本体部分はプレートで出来ており、外面的にはコルサコフスキーの兜に似ているが、プレートを繋ぐ紐用の穴は無く、プレートは互いに接合され、固いドーム型になっている。

 この石像のかぶり物、兜は、分別のある顔立ちをしている石像の人物の顔にマッチしている。この人物の顔は大変に個性的であり、その形は劇場のマスクを被ったような、どこにでもあるような形ではない。

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2 ロシアの百科事典には、

「ヂュチェル(Дючер)は1 万1 千人程度の少数民族で、17 世紀には現在のアイグン〈愛琿〉からサラプリスコエ地区(ハバロフスク地方)までのアムール川沿い、及びウスリー川とスンガリ川(松花江)下流域に住んでいて、しばしばナナイ人とウリチ人の祖先とみなされた。

ヂュチェルは定住民族で、農耕、牧畜、漁業、狩猟に従事していた。

宗教はシャーマニズムであり、ヂュチェルの子孫はナナイ、ウリチ、その他の少数民族の一員となった。」

と見える。

おそらくこの男性は過去には名の知られた人物であったであろう。もちろん、芸術的な解釈としてであるが、顔立ちから勇敢さ、厳しさ、意志の強さ、支配欲といった性格がうかがわれる。おそらく生前はそのような性格を持った人物であったと思われる。しかし一方では、閉じた大きな丸い目によって象徴的に表現された顔の表情には、不自然と思えるほどの安穏さが感じられるのである。

                             

 ところで、隣接地域である中国や女真の石像は、一般的に全身像が彫られているのに対して、この石像はどうして全身ではなく、特に頭部だけが彫刻されたのであろうか?

 多くの民族の解釈では、顔には人間または何かの霊の内面的本質が現れている。

変身しようとする役者や儀式を執り行う人は、その本質が変わり得ると思われるマスクをかぶる。

このように、頭部は人間の象徴であり、他の人々と区別するものであり、この石像も固有の特徴を有している。


 靺鞨とその子孫である女真族や満洲人たちがシャーマニズムの信奉者であった事から、石像について別の解釈をする事も可能である。

「シャーマン」という言葉はツングース語に語源を持っている。

ツングース・満洲グループ内のどの民族がシャーマニズムを日常の慣習の中に取り入れたのかと言う事を解明するのは難しいが、エベンキ族がロシア人たちにシャーマニズムについての情報をもたらし、この情報がロシアからヨーロッパの学者たちに伝えられた。


 シベリアや極東の別の部族では、人間には成長するに従って幾つかの霊が宿り、それらの霊は人体とは別に存在していると理解していた。

しかし、人間の霊が存在している所は、一般的には頭部と胸部であった。

L.Y.Shternberg の資料によれば、ニブヒは彼らの三つの霊は頭部に宿っていると見なしていた。

E.A.Kreinovich の情報では、彼らは霊を血液と髪に宿していた。

エベンキ、オロチョン族の理解では、


「人間には生きている間に一つではなく、幾つかの霊が宿った。

誕生した時点ではオミの霊が宿り、それはシジュウカラとして現れた。

しかし赤子が成長し、歩き始め、話し始めると、オミの霊はヘヤンの霊に変わった。

人間はこの霊と共に一生を過ごした。

外見上、ヘヤンの霊は宿った先の人間のコピーであり、その人間の胸に存在していた。

その人間が死を迎えると、ヘヤンは飛び去った。

死んだ人間にはヘヤンの霊の代わりにムグドィの霊が宿った。」


とされている。


 人間が死んだ後に、多くの民族はシャーマンの手助けで死者との交流を継続しようとした。

ナナイ人たちは、交流のために特別な人形を製作し、それらにいつも食事を供え、タバコを与え、寝かせ、服を着せたりしなければならなかった。

もしも人間が故郷から遠く離れて逝ってしまったり、その死体を埋葬する事が不可能だった場合は、特別な人形が作られ、死者に対して行われる埋葬の儀式と同じ事が人形に対して行われた。

A.V.Smolyak は、「死者の体を埋葬する事が不可能な場合の人形の埋葬式」は、アムール川下流域の全ての部族に共通の事であったと判断している。

衣服の一部(ベルトなど)が描かれた馬の小骨も同様な役割を果たしたと仮定する事ができる。

トロイツコエ様式の記念碑群の墳墓では何度も同様な発見があった。
もしも何回も行われたであろう埋葬式用の人形が木製、あるいは他の腐りやすい材料で作られていたとすれば、それが地中で長い間残されている事は出来なかったはずであり、その場合、考古学者たちは墓には遺体が埋葬されているのではなく、象徴的なもの、又は追悼墓碑だと結論づける。

 このような理由から、発見された頭部の石像は、故郷を遠く離れて死んだ戦士の霊を慰める役割を果たしていたものであると推定する事が出来るが、この推定は、千年以上にわたる歴史の中で、アムール川流域諸民族が有していた習慣にも合致するものである。

石に彫られた埋葬用人形は、非凡な才能を備え、実在した具体的な故人への敬意を表現したものではないであろうか。

                            5

 石像が該当する地層外で発見された事から、この石像の目的に関して別の仮説も述べておく必要がある。

それは墳墓の上の記念碑だったという解釈である。

墓の上に石柱を立てるという伝統はアムール川流域には無い。しかし、ザバイカル(バイカル湖以東の山地)やモンゴルでは、垂直に立てられた石で出来た墓は初期鉄器時代から広く利用されていた。

バイカル湖の東側へ入ったトロイツコエの靺鞨を通じて、伝統が大きく変化し、それがアムール川中流域へ入ってきたという説を排除すべきではない。

しかしながら、ザバイカル地方の石柱はとても大きく、地中に穴を掘って建てられており、この推測は仮説以外のものではない。

I.A.Lopatin は、ゴルド人(ナナイ人)の墓上の碑を記述し、その中で次のような風習を指摘している。

「囲われた墓の上に小さな棒杭が立てられ、その杭の上端にはセオンがくっきりと表現される。」

しかしI.A.Lopatin によれば、セオンは地上に住む霊であり、人々を助けるか、又は害を及ぼす。

その表現された姿には人間の霊は宿っておらず、人間を原型として作られたことも無かったと言う。


 この石像に似ているものとしては、西シベリアのブロンズ製のマスク、これも兜をかぶった頭部があある。

このマスクは、おそらく偶像の上の飾り物として使われていたようであるが、ここで取り上げている戦士の石像とは、使用材料が別であること、兜が全く違った構造であること、発見された場所が地理的に遠いことなどから一般的な事項を基にした類似点の比較以上のことは出来ないであろう。

 石像に彫られた兜の構造分析、コルサコフスキーとシャープカの墳墓から出土した戦闘帽などから、この石像は、靺鞨・女真の文化的伝統に属するものととみなされる。

そして少し具体的になった年代は、紀元一千年の末である。

石像の思想的役割の解明はより困難な事であるが、石像をめぐる諸問題の解明が進められていくならば、又、石像に対して新たな解釈が加えられる事は充分にあり得るのである。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/zatsugaku/sekigan.htm


6. 中川隆[-7223] koaQ7Jey 2017年7月08日 21:04:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

Samovarの旅ページ


ハバロフスク アムール川流域の中心都市です。
http://www.geocities.jp/putniki/

タイガ 流域の南方に広がるタイガの紹介です。
http://www.geocities.jp/putniki/

ゼヤ川水系 アムール川の支流であるゼア川流域地区の様子です。
http://www.geocities.jp/putniki/

アムール川の船旅 ハバロフスクから間宮海峡へ至る船旅の紹介です。
http://www.geocities.jp/putniki/


    ナナイ博物館に展示してあったシャーマンの衣装(上)
           とナナイの民族衣装の模様(下)
http://www.geocities.jp/putniki/amur/funatabi/funatabiphoto/Shaman.htm

 コピチコ先生の教え子であるナナイ人の郷土史家マキシムさんが博物館内を案内し説明してくれた。

ナナイの衣装には水の世界の代表である龍、蛇、トカゲ、蛙などが描かれている。

中でも虎は森の世界の王様だそうで、存在感が大きい。

またたいがいの衣装には樹木模様がほどこされており、根から下が過去、幹は現世、枝から先は未来を表しているそうで、それがナナイの宇宙観のようである。
http://www.geocities.jp/putniki/amur/funatabi/funatabiphoto/Shaman.htm


7. 中川隆[-7222] koaQ7Jey 2017年7月09日 01:24:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「最後のシャーマン」  岩画に見る呪術世界 アムール川(ロシア)
http://www.47news.jp/47topics/river/2013/06/242626.html

 11月から4月までの半年間、アムール川(中国名・黒竜江)は厚い氷に覆われる。シベリアのタイガ(針葉樹林帯)を貫く大河は全長約4400キロ、植物プランクトンをオホーツク海に運び、世界有数の好漁場を育む。海に注ぐ真水は北海道に着岸する流氷の“生みの親”となる。

 日本との関わりは深い。20世紀には、ロシア革命後の日本のシベリア出兵、第2次大戦後のソ連による旧日本兵のシベリア抑留など、アムール川流域は日本とロシアがせめぎ合う舞台となった。


  ▽象形文字の起源

 アムール川流域の大陸と日本の北方は1万年以上前の先史時代から交流があったのではないか―。書家、岡本光平(64)は漢字のルーツを追って調査を続ける中で、北海道・東北文化の源流のひとつがシベリアにあると考えるようになった。

 岡本は中国や韓国、モンゴルなどの岩に彫られた絵「岩画(がんが)」を象形文字の起源とする仮説を立て、それを補強するために現地調査を重ねてきた。ロシア極東ハバロフスク郊外シカチアリャン村で、アムール川の河原にある岩画群を見て「アムールの岩画の先に見えるのは北海道、東北の北方文化だ」と確信した。

 シカ、鳥、ウマ、竜、人面など150点以上が岩に彫られ、作製時期は最も古いものは推定で約1万4千年前。鬼面のような人の顔からは呪術的な世界も垣間見える。

 実は、北海道余市町のフゴッペ洞窟にも岩画はある。ここに描かれた舟とシカチアリャン村の岩画にある舟は酷似している。「アムールの流れに乗って北海道や東北にたどり着き、同化して日本列島人となった人々がいたのではないか」。東北地方伝統の鹿踊りがシベリアのシャーマンの所作と似ていることなども踏まえた岡本の推論だ。


  ▽デルス・ウザーラ

 シカチアリャン村の人口は約300人、住民の大多数を占める少数民族ナナイは顔つきが日本人ととても似ている。アムール川の漁労で生計を立て、かつてはサケの皮でつくった衣服や靴をまとっていた。ロシアに約1万2千人、中国では赫哲(ホジェン)と称され約4500人が住む。黒沢明監督が映画化した「デルス・ウザーラ」は実在したナナイの猟師を描いた作品だ。

 シカチアリャン村の博物館長でナナイの女性、スベトラーナ・オネンコ(57)は「北海道のアイヌと大陸のナナイは先祖が同じだと思う。岩画だけでなく民族衣装の模様も似ている」と話す。

 フゴッペ洞窟の岩画にある魚がシカチアリャン村の岩画では描かれていないことが謎とされてきた。オネンコは「魚を描くと神様が『魚は十分に足りている』と思って川に魚の恵みを与えなくなる。人々はそれを恐れた」というナナイの伝承を語り“謎解き”をする。

 村で最大の岩画は体長115センチのオオツノジカだ。ユーラシア大陸でも最大級の岩画とされる。「北斗七星の化身」と言い伝えられ、子宝に恵まれない男女が誕生を祈願する。シカの頭や腹などに触れて願いをかけることでその部位の病気が快癒するとも信じられ、祈りの場となっている。

 だが、ナナイの伝統的な精神文化にも変化の波が押し寄せる。


  ▽「土が痛がる」

 今年3月11日、アムール河岸のベルフニー・ネルゲン村でナナイの「最後のシャーマン」オリガ・キリャ(92)が死去した。娘エカテリーナ・ベリディ(62)は「母の生年月日はかつてソ連政府が割り当てた。実際は100歳を超えていたかもしれない」と言う。

 ナナイのシャーマンは自ら奏でる太鼓の音を通じ、川や空、森、トラ、オオカミなど大自然の精霊たちと対話する。精霊の声を聞き、人々を守る特別な存在として村人の畏敬を集めてきた。

 ソ連政権は1940〜50年代、「病気治療と称して金を巻き上げる」「占いと称してうそをつく」詐欺師としてシャーマンを逮捕、粛清した。ナナイの作家コンスタンチン・ベリディ(78)は「こうしてシャーマン文化の土壌が壊された。ソ連時代は記録に残らない歴史が多い」と指摘、キリャの死は「ナナイ文化の大きな損失」と嘆く。

 最後のシャーマンの死は地元で報道もされなかった。村役場幹部のナナイ女性エレーナ・アクタンコ(49)は「古い世代はシャーマンのお告げを信じるけど、若い世代は全く関心がない。もうシャーマニズムの時代ではない」と言う。

 娘によると、キリャ自身が生前「シャーマンは私が最後。もう誰も私の言うことを信じなくなった」と宣言していた。キリャは「地球は一人の人間と同じ。軍事実験や放射能のせいで土が痛がっている」とも話していたという。(文・写真、平林倫、敬称略、年齢などは2013年4月17日現在)
  


•ロシア極東ハバロフスク郊外シカチアリャン村で、オオツノジカの岩画を示す地元の博物館長スベトラーナ・オネンコ。奥は凍結したアムール川(共同)

•アムール川沿いのベルフニー・ネルゲン村の少数民族ナナイの幼稚園児と先生。
記者の来訪に民族衣装を着て迎えてくれた。一部の高齢者を除き、自らの言語ナナイ語を話せる人はいないという(共同)


取材メモ

「金父子」目撃談も

 ハバロフスク地方には、アムール川やその支流の河岸に計4カ所の岩画群がある。ロシア政府は最大規模のシカチアリャン村の岩画群について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産登録を目指している。

 ただ、岩画は自然劣化に加えて観光客による破壊、周辺部分へのペンキによるいたずら書きなどが多発しており、保存対策が急務となっている。

 シカチアリャン村の数キロ下流のアムール河岸には、北朝鮮の総書記だった金正日の生地といわれるビャツコエ村がある。北朝鮮の公式報道では総書記の出生地は北朝鮮の白頭山だが、ビャツコエ村ではソ連軍の部隊幹部を務めたという父親で主席だった金日成との「若き日の金父子」の目撃談が今も語り継がれている。
http://www.47news.jp/47topics/river/2013/06/242626.html


8. 中川隆[-7221] koaQ7Jey 2017年7月09日 02:18:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2014-03-01 エヴェンキ族ノート

1.

ビハル州のガンジス河沿いの町サヒブガンジの南にあるラジマハール丘陵には、北方ドラヴィダ語のひとつマルト語を話す焼畑耕作民マーレル人(パーリア族)が住んでいる。

1963年、若き研究者佐々木高明と山田隆治は彼らの村にテントを張って調査した。

彼らの間にはシャーマニズムがある。

シャーマン(デマノという)は、たとえば翌年の焼畑の場所を決めるプジャ(儀礼)で、ハトを供犠したあと、太鼓を叩いてデマノを神懸りさせる。そして彼が言う神のことばを司祭役のマンジーが聞き取り、村人に伝える(佐々木高明:156f., 195f.)。

デマノは儀礼において重要な役割を果たしているにもかかわらず、村内におけるその地位は高くなく、司祭マンジー(日本式に言えば審神者(さにわ)であろう)よりずっと低い。

マーレル人では太鼓があるようだが、ムンダ人(オーストロアジア語族)など北部・中部インドのシャーマンは、箕で米をふるいながらトランス状態に入るという(エリアーデ:下197)。

箕は、マーレル人の間でも収穫儀礼に供物をいれるのに使われるなどしており、この地域の儀礼に欠かせないようだ。

シャーマニズムは世界中にある宗教形態だが、特にシベリアで発達している。

「シャーマン」の語もツングース系諸民族の間の「シャマン、サマン」に由来する。

それがこの宗教者を表わす一般的な名称になったのは、単にヨーロッパ人の旅行者・研究者がツングースの儀礼に接して記述するのが早く、それが広まったというだけの偶然だが、しかしその名の語源については考えさせられる。

それは仏教の「沙門」(男性修行者・出家者、パーリ語:samaņa、サンスクリット語:śramaņa)に起源するのではないかという説があるのだ(エリアーデ:下328ff.)。

仏教僧を表わすこの語は、中央アジアのトカラ語やソグド語にも入っていた。

ツングースの精霊の名(たとえばブルハン)はモンゴルや満洲族起源であり、モンゴルや満洲族はラマ教からそれを受け入れた。シロコゴロフはツングースのシャーマニズムを「仏教に著彩されたシャーマニズム」だと考える(同:下331)。

エリアーデの結論は、「南方の影響は、実に、トゥングースのシャーマニズムを変化させ、かつ豊かなものとした。−しかしトゥングースのシャーマニズムは仏教の所産ではない」(同:下331)。

「シャマン」=「沙門」起源説には反対もあるが、シロコゴロフとエリアーデが一致して支持するなら、傾聴しなければならない。


シャーマニズムは、周辺のシベリア諸民族のもとでと同じく、ツングース民族文化の重要な構成要素である。

トゥゴルコフとエリアーデによってそのやりかたを見よう。


「シャーマンの衣裳の細部は、いろいろなエベンキ人の集団によって異なっている。

十八世紀のウダ=エベンキ人のシャーマン衣裳は、多数の革紐、小さな鐘、小鈴、ビーズ飾り、金属板の飾りが下げられた長い「ハラート」、それに同じく長くて、これも小さい革紐の下がった胸当て、さらにいま一つリスの尾を縫いつけた柔かいかぶりものとその上にかぶるトナカイの角のついた鉄の帽子、の三つからなっていた」(トゥゴルコフ:188)。

その重さは30キロもあった。そして、「木の撥で打ち鳴らす手太鼓に合わせて、シャーマンは、呪文をとなえたり、踊るのであった。

エベンキ人の太鼓は卵型をし、鳥と獣の色つきの図が描かれていた。
木撥のかわりにシャーマンによっては、乾かしたクマの足を使っていた」。

「シャーマンの歌はカムラーニエの際、シャーマンが遠くに旅したことを示している。

彼は急流を渡り、山をよじ登り、密林をくぐりぬけ精霊と決闘を交えなくてはならないのであった。

道中の大部分をシャーマンは鳥になって「飛んでいく」と考えられていた」(同:189)。

「トゥングースのシャーマンは数多く色々な機会に呼ばれて、その能力を発揮する。

病人の魂を探しに行くにしろ、悪霊を追い払うにしろ、彼は病気治療には必要欠くべからざるものであり、かつ魂の導き手である。

彼は犠牲を天界や冥界に持って行く。
その社会全体の精神的平衡をしっかりと維持するのはシャーマンにしかできぬ仕事である。
病気、不幸、不作などが部族を脅かすことがあれば、彼はその原因をつきとめて正常な状態に戻すのである。

トゥングース人は近隣の部族よりも悪霊−冥界の霊、この世にいる霊などおよそ無秩序なるものの主犯人すべて−にかなりの重要性を認めているから、ごく普通の巫儀(病気、死、神々への供犠など)に加え、何かちょっとでも霊と交わったり、霊を抑える必要のある事が起こるたびに、簡単な「小さな巫儀」を頻繁に行なう」(エリアーデ:上304f.)。


1940年代、あるオロチョンの猟師が病気になって生死の境をさまよっていたとき、関烏力彦という女性シャーマンは「ジツゥニン」という儀式を行ない、あの世へ行って病人の霊魂を奪い返した。

シャーマンは「静かに地面に横になり、飲食を摂らず、両眼を閉じて、身体を静止させて、小声で話したり、神歌を歌ったりして、霊魂をあの世へ行かせる」。

「彼女の左右両側には、各一人の男性が伴をして横になり、二神(助手)になる。関烏力彦シャーマンは寝言のように神語を話し、二人の二神を通じて人々に起きたことを告げる。すなわちシャーマンの霊魂があの世へ行く経過を説明する。


「ジツゥニン」の儀式を行なう時には、関烏力彦シャーマンの愛犬は彼女のお伴をして、彼女の頭の前に腹這いになり、静かに微動だにしない。この時、この犬はすでに神犬となっていて、その魂は主人に付き従ってあの世へ行き、シャーマンが鬼神と闘うために協力する。

関烏力彦の長女孟鬧傑が、当時彼女の母親が話すのを聞いたところによると、あの世に行くには、九つの山・九筋の河を乗り越えなければならない、

各道には鬼神が守っていて、通らせない。
ゆえに、あの世へ行くには、知恵と超能力を持っていなければならない。
それがあれば、いろいろな困難と危険を克服することができる。

鬼神に勝つことができて、はじめてあの世へ到達する。

当時、孟弾刻(病人)の霊魂はすでに八つの山を乗り越え、八筋の河を過ぎて、まもなくあの世の入り口に到達しようとしていたので、関烏力彦シャーマンの霊魂は急いで追いつこうとした。

道の関門を過ぎる時に、妖怪・子鬼たちはみな阻むので、関烏力彦シャーマンの神犬はその妖怪・子鬼を咬み殺し、主人のために障碍を除いた。

この時、シャーマンの身体のそばで横になる神犬の身体は左右に揺れ動き、前の爪で力一杯に地を掻き、後ろ足は後方に向かって伸び、まるで戦っているようである。神犬のこのような行動は。オロチョン語で「アンクゥアニン」と呼ばれる。

シャーマンの霊魂があの世に行くとき、シャーマンの側の二神は「ザロチン」と呼ばれる行動を始める。すなわちシャーマンに合わせて、シャーマンの話を復唱する。

シャーマンがいくつかの山を乗り越え、いくつかの河を越えて、どのような鬼神に遭遇し、どのような神が、彼女を危地から脱するのを助けてくれたか、そして神はなにを求めているかなどを、人々に告げる。

二神の話によって、人々は神の要求を知り、恭しく獣の肉・獣の血・酒などのお供え物を捧げる。

長い時間を経て、関烏力彦シャーマンの身体はゆっくり動き始め、震え始めて、神歌を唱える声も大きくなる。

この時、人々は急いで彼女を助けて、彼女に神帽をかぶせると、関烏力彦シャーマンは神がかりになり始めて、その動きはゆっくりしたものからしだいに速くなり、穏やかなものから狂ったように激しくなる。

鼓の音は天地を震え動かし、神服上のリボンはすべて飛び舞う。

神がかりが終わると、神を送る儀式を行ない、シャーマンの魂があの世へ行く儀式のすべてがやっと終わる。

このシャーマンの儀式を経て、孟弾刻の病気はよくなった」(王・関:61ff.)。


さて、ではそのツングースである。


2.

浜田市南郊の山腹にたつ島根県立大学には、高名な言語学者にしてアルタイスト、服部四郎教授旧蔵書の寄贈を受けた「服部四郎ウラル・アルタイ文庫」がある。

ツングースは、エヴェンキとかオロチョンと自称する狩猟採集民をロシア人が呼んだ名前で、トルコ、モンゴルと並ぶアルタイ諸語の3つのグループのひとつをその南方派の満州語グループとともに形成しているから、服部文庫にはもちろんツングースに関する文献が相当数所蔵されている。居住地域の関係上、露文が多い。

服部四郎自身、戦前北満ハイラルに言語調査のため長期滞在していたとき、彼らを調査したことがある。

「昭和九年ホロンバイルに滞在していた頃、私は三河地方奥の興安嶺にヤクート人が居ると云ふことを時々耳にした」。
「ヤクート」に実際会った話も日本人から聞いた。

ヤクート人はテュルク系の牛馬飼養民で、彼らの住むサハ自治共和国は、首都ヤクーツクを中心にスタノヴォイ山脈の北から北極海まで広がっており、その境界は満州国の国境から300キロ離れている。

不思議に思ったのは、「道案内に連れて行つたオロチョンがヤクートと自由に話をすると云ふ点であつた。何となればヤクート語は土耳古系の言語であり、オロチョン族は通古斯系だから、彼等が母語で話し合つたのなら通じない筈だ。

而もロシヤ語に堪能な赤木氏には全然わからない言葉だつたと云ふからロシヤ語ではあり得ない。

オロチョンには蒙古語の多少出来るものがあるから蒙古語で会話したのだらうか?
この点が甚だ疑問で腑に落ちなかつたのだが、…

蘇聯領の余り遠からぬ所にヤクート自治共和国もあるのだから満州国領にヤクートが居ることも可能性のない事ではないと、ヤクートの存在自体は疑はないで居た。日本へ帰るまでにヤクート語の話されるのを一度でも聴いて見たいものだなあなどと思つてゐたのである」(服部:1)。

そうしているうち、三河地方へ自動車旅行する機会を得た。

その地方の中心ナイラムトへ行くと、「全く偶然にも明日ヤクート人が山から出て来て(それは一年に数へる程しかない事だが)、こゝから数里離れたドゥオーワヤと云ふ部落で物々交換をする。

日本側からはM、H両氏が行かれる事になつてゐるから一緒に行つて見られては如何と云はれるので、同行させて頂く事に決定した」(同:.2)。

そこで会った「ヤクート人」は35、6歳の青年だった。


「私は尋ねた。

「あんたは蒙古語が出来ますか?」

 之は蒙古語だった。… するとこのヤクートは当惑の面持でM氏の方を眺めるのである。
今度はロシヤ語で同じ質問を発する。そこで、


「いや全然出来ません」

「オロチョンと会話が出来るか?」

「出来ます」

「彼等とは何語で話すか?」

「ヤクート語で話します」

「オロチョンはヤクート語が出来るか?」

「彼等の言葉がヤクート語に似てゐます」


 こゝに至つて私は当惑した。ヤクート語とオロチョン語が似て居る?」(同:4)

彼の住むテントへ行ってみることにした。

「馴鹿や老人達はドゥオーワヤの上流三露里の地点に待つてゐると云ふ。
村には馴鹿が来られないためと、ヤクート自身にも村の空気が悪くて気持が悪いからだと。
村と云つても二十戸位のものであつた!」(同:4)


氏はさっそく言語調査にとりかかった。

「ロシヤ語を媒介として、数詞から始めて思付く単語を筆記して行つた。所が最初に調べた数詞によつて、彼等の言語が計らずも通古斯系のものなることが明かとなつたが、調査を進めれば進める程それは明瞭となつた。私は屡ゝ鉛筆を投げて膝を打つた。

ヤクート語ではないことが充分にわかつたので、嬉しさの余りすぐその場で之を同行の人々に報告したのであるが、期待しない結果を惹起した。M氏とH氏が之に対して非常に不愉快な様子なのである。

そして彼等が「ヤクート」であることを再三言明される。領事さんは「之は大発見だ」と小声で云はれたきり、表向きには味方して下さらない。私は妙な孤独の立場に置かれた。そして凡ての人が真理を愛し得るのではない事を身にしみて感じた。

両氏の中のどちらかの方が、彼等は近頃ロシヤ領より移住して来たものですよと私に云はれる許りでなく、私の眼前でヤクート人にまで叱る様な口調でその意見を押し附けて居られるのを私は悲しげに眺めてゐた。

 併し私は機会を見て、この「ヤクート人」と次の会話をするのに成功した。

 年上の男に対し「自分の言葉で自分自身をどう云ふか?」

 答「エヴェンキ!」

 男二人に対し「何処で生れたか?」

 答(二人とも)「此処」

 男二人に対し「老婆は?」

 答「此処で生れた(山奥を指しつゝ)。吾々はずつと前から此処に住んでゐる。」

 若い男に対し「自分等で自身をヤクートと云ふか?」

 答「云はない。ロシヤ人がさう云ふだけだ。」

 私のノートには右の様に筆記してある。

彼等が自分自身をヤクートと云ふのは、さう云へば外国人にはわかり易いと思つてゐるからなのだ」(同:6f..)。


「五族協和」の満州国に、赤いソ連から逃れてきた珍しいヤクート人まで住んでいることが特務機関員にはあらまほしかったのであろうが、真実はどなれば変わるものではない(あるいは当時の日本軍ではどなれば変わったのかもしれない)。

ロシアからやってきたこと自体はそのとおりだ。
しかしロシア革命後に来たのではなく(革命後満州に流れ込んできたいわゆる白系露人と違って。

なおこの調査行の舞台三河地方は白系露人・コサックのコロニーである)、それ以前である。ロシア語もでき、ロシア正教を受け入れてもいた。ただヤクートではなかっただけで。

ちなみに「ヤクート」の名は、隣人であるツングース(エヴェンキ)が彼らを呼んでいた「ヤコ」「ヨコ」からロシア人が呼ぶようになった名前で、自称はサハである。

なお、ヤクートは同じ時期の北サハリンにはいた。
エヴェンキとともに、毛皮商人としてやってきたのである(シロコゴロフ1941:179)。

「ヤクート」でなくとも、「オロチョン」がすでに十分にエキゾチックであった。

「オロチョン」の名はなかなかに人口に膾炙してたものの、その実態については一般には知られていなかった。

たとえば、仏教学者長尾雅人は戦中の昭和18年内蒙古のラマ教寺院を調査したが、そのときの旅の汽車でとなりあわせた北満駐屯の日本兵からいろいろおもしろい話を聞いたうちに、「オロチョンは人間を喰う食人種だ」という風説を耳にしている(長尾:19)。


「エヴェンキ」は彼らの自称で、それが民族呼称になった。漢字では「鄂温克」。

中国で「鄂倫春(オロチョン)」と呼ばれている人たち以外はみなこれが自称だ。

今は遊牧民、農牧民となっているソロンもそう自称する。

シロコゴロフによれば、語根「エヴェ」に動作の主体を表わす接尾辞「ンキ」がついた形だという(シロコゴロフ1941:97)。

「オロチョン」は「トナカイ(オロン)を飼う人」、または「山頂に住む人」の意だとされるが、大興安嶺・小興安嶺に住む中国の「鄂倫春」は、トナカイを飼わず、馬を飼う。彼らも昔はトナカイを飼っていたと伝える。

自称でもあり、他民族がそう呼ぶ他称でもあって、現在彼らが独占する形になっている「オロチョン」の名は、かつてはいま別の名で呼ばれている集団にも他称としてつけられていた。

トナカイ・エヴェンキもそうだし、エヴェンキとは同系別族のサハリンに住むウイルタ(トナカイ飼養民、旧称オロッコ)も、ロシア人によって「オロチョン」と呼ばれていた。

網走の「オロチョンの火祭り」は、戦後南樺太がソ連領になったとき、ウイルタの一部も日本人やアイヌとともに北海道に移住したのだが、その彼らの歌舞を見せる催しとして始まったものである。

「ツングース」はロシア人がエヴェンキを言う名前で、ヤクート人がそう呼んでいたのをロシア人が取り入れたもので、つまり「ヤクート」と逆の関係だ。

以下「ツングース」と言うときは、狭義にエヴェンキのことを指す場合と、広義にツングース諸語を話す民族一般を指す場合がある。


このオロチョン(とモンゴル)は日本の民族学者を鍛える場であった。
彼らを調査した人々は、のちに日本民族学のビッグネームとなった人たちばかりである。

鳥居竜蔵(オロチョン狩猟民には遭遇しなかったが、ソロンや遊牧エヴェンキの調査はしている)、秋葉隆、泉精一、京大大興安嶺探検隊の今西錦司・梅棹忠夫・川喜多二郎・吉良竜夫たち、それに服部四郎も。モンゴルまで広げれば、江上波夫や石田英一郎などの名前がそれに加わる。

騎馬民族征服王朝説や照葉樹林説、霊長類学や文明の生態史観など、戦後の学界をにぎわせた諸学説の源に海拉爾と張家口(西北研究所)がある、という図だ。

(不思議なことに、身近な異族のアイヌはそうではない。

沖縄については、民俗学のほうを大いに鍛えた。柳田国男の「沖縄発見」以前と以後で日本民俗学はさまがわりした。)


3.

エヴェンキとはどんな人たちか。トゥゴルコフの書いた「身上書」を見てみよう。

「名称 ツングース。現称エベンキ。

ヤクート人など隣接地域の住民は、かれらをツングースとよんでいた。

現在、かれらが自称する「エベンキ人」が公式名称として用いられている。


 人口 2万5000人。


 居住面積 

約700万平方キロメートル(日本の面積の20倍近い)シベリアの全面積の約7割を占める。

 居住域の境界 

西部はエニセイ川左岸、東部はオホーツク海沿岸およびサハリン、北部は北極圏、南部はアムール川ないしモンゴリアと中国東北部の中部。

 言語 

エベンキ語。アルタイ語系のツングース・満州語に属す。
この言語のほかに各地方でロシア語・ブリヤート語・ヤクート語その他の言語も使用している。


 生業 

本来は、狩猟・トナカイ飼養。

若干の地区では、馬・ラクダ・牛・羊の飼養。

副業は、漁労・採集・海獣狩猟。現在はさらに、野菜栽培・畜産業(乳牛・肉牛飼育など)

 生活様式 

トナカイ飼養者と馬飼養者は遊牧生活。
トナカイを飼わない漁労者は定住生活。
両者の中間に属する者は、半定住。

現在、エベンキ人の大部分は定住生活に移行している。

 世界の他の民族から区別する最も大きな特徴 少数の人々で他に例を見ない広い領域を占めていること」(トゥゴルコフ:6)。

これを「文化人類学事典」(弘文堂、1994)で補えば、

「エヴェンキの生業の中では狩猟がすべての基礎をなしている。

彼らの狩猟対象は、食肉用として野生トナカイ、オオシカ、ノロ、クマなどがあり、毛皮用として、リス、テン、キツネなどがある。

現在は銃が使われるがその普及前は弓矢・槍が使われた。
各種わな類も広く使われる。

漁撈と海獣狩猟は副次的であるが、河岸や海岸の住民の間では重要であった。

エヴェンキのトナカイは主に輸送用であり、飼育頭数も概して少ない(多くても1家族当たり100頭内外)。荷駄用・騎乗用に使われることが多いが、北部の森林ツンドラ地帯の住民の間では橇も使われる。

南部では牛馬の牧畜の影響で搾乳も行われる。

エヴェンキの物質文化は木材と皮革を主体としている。

住居は毛皮または白樺の樹皮で覆った円錐形のテントが広く使われ、衣類の多くは毛皮を縫い合わせて作られる。

布は中国人、モンゴル人、ロシア人などとの交易でもたらされた。

ナイフや鏃、槍の穂先となる金属製品も多くは交易でもたらされたが、かれらも鍛冶技術を持ち。作り直すこともした。

土器はなく、容器の多くは木や木の皮でつくられた。


かれらの社会は多くの父系の氏族に分かれ、氏族外婚が厳しく守られていたが、狩猟組織はそれに関係なく結成されることが多く、獲物を近隣の者に分配するという慣習も励行された。


宗教ではシャマニズムが有名で、またよく発達しており、少数の大シャマンを頂点とする階層があり、儀式用の衣装も多くの装飾がほどこされていた。

しかし、他方でクマ、オオカミ、フクロウ、カラスなどの動物や自然の主への崇拝・儀礼もあり、これらの中にはシャマニズムとのつながりの薄いものもあった。

ロシア人との接触で多くの者がキリスト教化したが、革命後の宗教活動はそのほとんどが衰退した」(佐々木史郎)。


シベリアには17世紀におよそ36000人ほどいたと推定されている(フォーシス:66)。

1979年の統計では、ソ連に約27300人、1978年に中国に約13000人とされているが、ただし後述するようにその8割は同族と言うにはやや問題のあるソロン族で、同族ながら別立てのオロチョンは約3200人を合わせても減った勘定になる。

とにかく絶対数において非常に少ない。居住地域の広大さと、それに反比例する人口の少なさ。

北方の苛烈な気候はそもそも人間の生存に適していない。
そして近代以前、気候や生態的条件はこの地域に農耕や牧畜(トナカイ以外の)を許さなかった(ヤクート人が牛馬の飼育をしているのは例外である)。

人は狩猟採集によってしか生きることはできず、その狩猟は、農耕はもちろん、牧畜に比べても人口を養う力が非常に弱いのである。


エヴェンキの狩人をイメージしたければ、アルセーニエフの「デルスー・ウザーラ」を見ればいい。

黒沢明が映画化したことでも有名なあの探検記の主人公デルスーは、アルセーニエフが沿海州のシホテ・アリン山地を探検したときに同行したゴリド(ナナイ)族の狩人で、エヴェンキではないが同じツングース系の民族である。


彼らは痕跡解読の達人である。

「デルスーは黙って歩き、冷静にすべてを眺めていた。

私はすっかり風景に感心していたが、彼は人間の手先のとどく高さのところで折られている小枝を観察し、その小枝の曲げられている方向によって、彼はその人間の歩いていった方向を知った、また折られた部分の鮮度によって、その行なわれた時間を判定したり、その人間の履物などを推定したりしていた。

何か私にわからないことがあって、疑問を表明すると、彼は私に言ったものだ。

「なんだ、あんた、何年も山あるき、わからないか」

 私にはわからないことが、彼には単純明快だった。

ときどき、私が何か見つけようと、いかに希望しても、なんにも見つけなかったところに、彼は何ものかの足あとを見てとった。

で、彼は老いたるアカシカの雌と一歳仔がそこを通ったことを見てとった。

彼らはシモツケソウの葉をむしりとって、それから何かにおどろいたらしく、大急ぎで逃げていったのだった」(アルセーニエフ:上246)。


「翌日の午前、じっさい、デルスーはわれわれに追いついた。

彼はわれわれ一行に起こったことを、足跡によってよく知っていた。
われわれが休息した場所を、彼はみていた。

また、われわれが一カ所に長く立っていたことを知っていた。
それはちょうど小路がきれた場所だった。

そこでは私がほうぼうへ路さがしに人をやったことを、彼はみていた。

ここでは兵士の一人が靴をかえた。また地上にちらばっている血のついたぼろ切れや綿屑から、誰かが足に怪我をした−などを彼はみてとっていた。

私は彼の観察能力になれていたが、兵士らにはそれは意外な新発見だった。
彼らはおどろき、めずらしそうにゴリドに目を見はっていた」(同:下39)。


「私がなんらかの明白な足跡を見逃したりすると、デルスーは私をからかって、頭をふり、こう言った。

「フム! 子供と同じ。子供みたいに歩き、頭をふる。

目あり、何も見えない。わからない。

まったく、こんな人、町に住む。シカさがさなくてもいい。
食べたいもの、買う。ひとりで山に生きる、できない。−すぐ死んでしまう」


 そう、彼の言ったとおりだ。数千の危険が密林では単独旅行者を待ちかまえている。

そして、いろんな足跡をときあかすことのできる者だけが、この闘争から勝利者として出ていくことができるのである」(同:上247)。

このような観察の習性は、伝達に使うこともできる。

「文字はもたなかったが、エベンキ人は一定の記号の体系を作りあげた。

たとえば、そこの木の小枝に一かたまりのコケが置いてあり、そのコケの上に細い若木の先端が置いてあると、エベンキ人ならだれでも、ここの若木の先端の指す方向に、狩で倒した獲物を隠してあるということを悟るのだ。

また、タイガの中で家畜が行方不明になったときなど、その動物の頭をシラカバの皮に描いて捜索を乞うサインとすることもあるという。…

小枝に刻み目を入れて自分たちの行動を伝えることもある。

たとえば、ハコヤナギの樹皮に小枝が斜にはめ込まれ、その先端が上を向いていたとする。

それは、ここに、少し前まで人がいたのだが、ずっと遠くへいってしまったことを示している。

小枝の刻み目が五つなら五「ヌルギー」。

一ヌルギーというのはトナカイに乗って一日に移動できる距離だから、このサインを残した人たちは、ここから五日の道のりのことろに行ったのだ」(トゥゴルコフ:68f)。


京大の大興安嶺探検隊によると、手紙を送ることもできたという。

「オロチョン道が出あうところにはよく、シラカンバの皮にかきつけたロシア文字の手紙が、木の枝にはさんで地面につき立ててあった。

これらの手紙は、通りすがりの者の手によって、つぎからつぎへと場所をうつされ、ついに目的地まではこばれるしくみになっているのである。

たとえはてしない樹海のなかに分散していても、かれらのあいだには、いつでもよく連絡がたもたれ、いま誰がどの地点にいるかということを、すべての者がたがいによく知りあっており、ほかの家族の移動の道すじも、手にとるようにおぼえていた」(今西:383f.)。


エヴェンキにはデルスーのような狩りの名人がたくさんいた。

リスのような毛皮獣は、毛皮に傷がつくと値が下がる。

1930年代に「ある狩人のとった300枚1束のリスの毛皮は、どのリスも頭を撃たれていた」(トゥゴルコフ:30)。

永田珍馨は「1キロさきの雑草の動きで動物の種類をみきわめ、20メートルほどもある高い赤松の梢で、実を求めて走り回るリスの頭だけをねらい」、確実にしとめる彼らの腕前に驚嘆している(永田:78)。

彼らの間には、撃ち取った獲物の肉は、狩猟に参加した者もしなかった者も含め、同じ部落(キャンプ)の人間みなで分け合うという不文律がある。


「翌朝、デルスーははやばやと帰ってきて、シカをとったから、その肉を野営地へ運んでくるのに、馬をかしてくれ、と私に頼んだ。…

 午前十時頃、デルスーは肉を運んできた。

彼はそれを三等分して、一つを兵士らに、一つを旧信徒に、一つを近所の小屋に住む中国人たちに分配した。兵士らがそれに抗議した。

「いかん」デルスーが反撥した。

「わしら、そうできん。みんなにやるんだ。ひとりでみんなとる、わるい」


 この原始共産観念が、彼のあらゆる行為に、いつも一筋の赤い線のように通っていた。

自分のとってきた獲物を、彼は民族を問わず、隣人みなに等分に与え、自分はそれと同じ分け前をとったのである」(アルセーニエフ:下16f.)。


社会は安全保障の体系である。

北の狩猟民は死と隣り合わせに生きている。
冬の山の中の狩りは、農耕とは比べものにならぬほど危険に満ちている。
不猟が重なれば、荒天が続けば、死がすぐそばに歩み寄る。

そんな彼らにとって、狩りに参加しなかった集落成員にも平等に肉を分配するという形での相互扶助は生存のために不可欠で、この習慣(ニマトという)を続けているうちに血肉と化したのであろう。

生きんがためという背景事情を差し引いても、利己的なふるまいの氾濫にうんざりしているわれわれには実に魅力的だ。
「森のシャーロック・ホームズ」と呼びたくなる痕跡の解読能力とともに。


チュームと呼ばれる彼らの天幕は、木を円錐形に組み、その上に白樺の樹皮や毛皮をかぶせたもので、いちばん上は煙出しのために空けられていた。

移動のときは樹皮や毛皮だけ持っていき、木組みはその場に残しておく。
あとから来たほかの者が使ってもいい。


京大大興安嶺探検隊の支隊は、途中から持参のテントをやめて、若木を切ってこのオロチョン式チュームをたてることにした。

「この案は大成功だった。なかに陣取ってみると、感じはひろびろとして、立つこともできた。荷物はすべて手のとどくところにあり、われわれ五人が、まるでオロチョン一家のようにくつろいでも、さしてきゅうくつではなかった。…

キャンプのあとには。オロチョンの移動したあとのような、しかしそれよりはすこし手ぎわのわるい円錐形の骨ぐみが、つぎからつぎへとのこされていった。

ほんもののオロチョンたちは、いつかはこの骨ぐみをみて、眼をまるくしていぶかしがることだろうと、われわれは腹をかかえた」(今西:228)。

なに、眼を丸くしはしないだろう。北満のロシア人も干草刈りの出作り小屋としてエヴェンキ式の天幕を立てていた(Lindgren1930:528)。

土地のことは土地の者に学べ。

シベリアのロシア人は寒地適応度の高いツングース式の長靴や手袋などを取り入れたし、焚火のしかたもエヴェンキにならった。

「薪を火の上に積むのではなく、扇状に横に並べる方法で、ずっと燃料を節約して強い火力を得ている。…

このような焚火の横に寝ていて、冬に凍死したという話を私は聞いたことがない」(トゥゴルコフ:105)。


貯蔵庫を作っておくこともある。

「ツングースの全ての群団に於いて、食料や衣服や何らかの器具が必要なものは、何人でも貯蔵庫が見つかり次第その品を取り出すことが許されている」(シロコゴロフ1941:575)。

「通例その家族以外の者が貯蔵庫から物を取出せば、これを旧に返すことになっていたが、夏季に悪くなることのある肉だけは例外である」(同:576)。

これも相互扶助の一形態である。


容器や袋は白樺の樹皮や獣皮で作る。これならば軽いし、落としても割れない。
自給もでき、重くて壊れやすい土器や陶器とちがい、移動生活に適合している。

食事の際の慣習として、

「普通の食事の時は、食物の一部を天に向かってはね上げ、地に落とし、火に投入してから、馬神像につけてこれを拝むのであるが、出猟にあたっては別に二椀を設けて一を馬神に、一を家神に供えて大猟を祈ってから食事する。

また出猟中は食事前必ず山神にその一部を捧げる意味で地に捨てるのである」(泉:22)。


酒を飲むときも同様である。

長老格の者が「酒を火にそそぎ、なにやらとなえると、ほかの者もこれにつづき、さらに茶碗の酒を指先で四方にはじき神々にささげる」(永田:109)。

オロチョンは酒ばかりでなくタバコも好み、人が出会ったときのあいさつにもタバコが用いられる。

「客ある時はまず客の煙管をもらって、煙草をつめて火を点じて進め、次に客は家族の煙管を一つ一つ受け取ってこれに自分の煙草をつめて火を点じて返す」(泉:22)。

人の好きなものは神も好みたまうべしとてか、山の中の神霊にもタバコを供える。

たとえば山神パイナチアの祭祀として、

「一本の高い老樹を選び出し、その樹皮を削り、そこに人の顔形を描き入れて、紅布でこれを覆う。

狩人がそこを通り過ぎるときに、煙草に火を点けて捧げ、酒を供え、叩頭し、獲物を山神へと捧げる。

そして馬の尻尾、あるいはたてがみの毛を数本ほど切ってその付近の木に縛り付ける。
遠くに猟へ出かける時には必ずこれを行なう」(王・関:172)。


名前のタブーについて、(エヴェンキの1氏族である)マネグル族を調査したマークはこう書いている。

彼らは「成人となった同族の名をいかなることがあっても人に告げることがない。

もし誰かがマネグル族に向ってこれをたずねることがあれば、「お前さんのたずねるのはこれこれの人物の息子か父か親戚だ」と答える。

それ以上に正確な回答をうけることは絶対にできない。

この奇異な習慣は年少者にたいしては適用されない。

年少者の名前についてならばどのマネグル族にたずねても即座に答えるのである。

マグネル族が自分の名を尋ねられた場合には沈黙して答えないか、全然別の名をもって答えるのが普通である」(マーク:145)。

トナカイについては、「異境雑話」にある中川五郎治の観察を引こう。

エトロフ島番所につとめていた1807年にロシア人に捕えられ、オホーツクに連れて行かれた五郎治は、そこを逃亡、ヤクーツクを経てイルクーツクへ至り、1812年に松前に帰着した。

彼がたどった道は北方ツングースのただ中であった。彼はツングースを「トングシ」と呼んでいる。

「鹿(オレニ、一名サハタ)、毛色種々にして白きもの斑なるもの、灰色のものもあり、腹多く白し、トングシ、之に乗るには左足をオレニの尻の上へ掛け、鞍壺へ飛乗る也。予等乗るに、トングシの膝を台にし、夫江足を掛け乗馬の如く鞍へ力を入れば、鞍翻(ひっくりかえ)る也。

トングシ、鹿に乗るには右よりす。魯西亜にて馬に乗るには皆左方よりす。
故に右よりするものはトングシ也とて大いに笑ふ。

鹿は一日、エツテ、宿に着すれば皆放ち遣る也。
其時、鹿、雪中に鼻を差入、嗅ぐ、而してモーハという苔の在所を自ら掘て之を喰ふ。飼葉の世話する事もなき也」(加藤1986:147f.)。


「夏は青草を喰ふ。人の小便を至て好む。若し人、途中にて尿すれば、此鹿、荷を駄し人を載せながら争ひ集って嘗む。…

(トナカイは)腹の上には乗らず、前足の上に小き鞍体の物を置き、皮の腹帯一筋かけて乗る也。鞍持ち至て悪しく、初て乗時には隙なく落つる故、左手に綱を取り、右手に雪杖を持て乗る也」(同:148)。

乳搾りもするけれど、牛などと違いそれによって生活を立てるわけではない。
トナカイは運搬手段・交通手段であった。

そういうものとしては馬がいるが、草原の動物である馬は牧草のないタイガの中では生きられない。
体格も積載量も馬には劣るが、トナカイ苔の生えているツンドラ地帯および凍土層の上の樹海の中では、トナカイこそよい交通手段なのである。

彼らの足のつくりも森の中を歩くのに適していて、林中を行くなら馬よりずっと速い。

ただし、オロチョン族はトナカイを飼わず、馬を飼う。
トナカイ苔の南限に近い北満ではトナカイ飼養がむずかしく、逆に草原には近いので、馬飼養に移ったのだろう。

トナカイを飼うエヴェンキを漢人は「使鹿部」、馬を飼うオロチョンを「使馬部」と呼んだ(「使犬部」もあり、これは犬橇を用いるアムール川下流のナナイなどを指す)。


狩猟は男の仕事で、トナカイの世話は女の仕事であった。

エヴェンキ族の間では男女の分業が厳格に守られていた。

言うまでもない女の仕事の第一はお産であるが、それは産屋でする。
家族の幕居のそばに小さな幕居を立てて、そこで行なうのだ。
潔めが終わるまでそこにとどまる。

育児・炊事も女性の肩にかかる。

男女の分業は、馬オロチョンの場合「男の仕事は出猟、獲物の処理、交易、薪割り等であり、女の仕事は子馬の飼育、放牧馬群の監視、馬乳搾り、馬乳加工品製造、白樺材の器具、衣服等の製作等である」(泉:28)。

トナカイ飼養民の場合馬とトナカイがいれかわる。
皮を剥ぐのは男の仕事で、なめすのは女の仕事になる。

シャーマンには男も女もいる。

狩りは山野を跋渉し、冬の森の中に野宿したり、2日も3日も待ち伏せをしたりと、体力も集中力も、知識も技能も必要なたいへんな仕事であるが、狩りに出ないときのエヴェンキの男はキャンプで怠惰にのらくらしている。

キャンプでの毎日の仕事はほとんど女の肩にかかっている。

仕事の男女分業が厳格なためだが、しかしいつも忙しいわけではなく、「ツングース族の間では、五時頃にはどこかの家々(極く普通のツングース族の幕舎)に、数人の人々が必ず集まっている。

其所では彼女等に恰も欧羅巴の交際社会に於けるように、お茶を飲み、そしてあらゆる種類の事について話をしている。

それらの風習、仕方、そして特に彼等が流行や風聞などに払っている関心は、欧羅巴人のそれらに類似していることは、真に驚くほどである。

或る有名な旅行家はツングース族を"La noblesse de la Sibérie"(シベリアの貴族)と呼んでいるほどである」(シロコゴロフ1967:222)。


食用や販売用の果物を採集するのも女性の仕事である。

それをさがしに森へ入ったとき、「婦人達は往々、果物や漿果を極めて好む熊に遭うことがある。しかし実際上からいえば、熊は決して婦人達を襲うことがなく、時としてはこれに一顧も与えず、これと並んで漿果を食べつゞけることもある。
もし熊が襲って来れば、婦人達は極めて敏捷に防ぐのである」(シロコゴロフ1941:518)。


彼らの生活を支える狩りの獲物は主に鹿であるが、熊狩りも行なった。
しかし熊には畏敬の念をもっていた。

熊は「父の兄を意味する「アマハ」と尊称された」(大塚:114)。

熊狩りは冬に行なう。

熊の穴に棒を突っ込んで目覚めさせ、熊が怒って穴から頭を出したところを鉄砲で撃つ。

「狩人は獣の中で、クマを獲ったときだけ「ボタール」という。これは、弾が当たったという意味であるが、クマを撃ち斃したことを、直接あらわすことばではない」(同:216)。

熊の肉で「スウヴァー」という特別な粥が作られるが、それを食べはじめる前に、「ひとりひとりが「カァー、カァー、カァー」と、カラスの鳴き声をまねるのが決まりである。その理由をたずねると、だれもが分からないという。

オルグヤより北方のモー河で育ったひとりの狩人は、「俺が食うんじゃないぞ、ロシア人が食うんだぞ」と言ってから食べるそうだ」(同:217)。


「格別な霊力をもつ森の支配者であるクマの骨は、宴のあと大切に残さず集められ、ほかの獣のばあいにはなされない、霊送りの儀礼が手厚く執り行なわれるのである。

頭骨・頸骨・脊椎骨・肋骨・四肢骨など、おもだった骨はすべて骨格どおりに順序だてて、ていねいに細いヤナギの枝で苞状につつまれ、他人の眼につきにくい森に持って行く。/そこに二本の柱を立てて、人の高さほどの位置に横木をわたす。この横木に骨の包みを縛りつけるが、頭骨は陽がのぼる東の方に向いていなければいけない。

これによって、クマの霊は森に還ってゆき、そこで「骨からの再生」をはたして、ふたたび人間たちの前に毛皮の衣服を着てあらわれると信じられていた」(同:217f.)。

アイヌの熊送りにも連なる北方狩猟民の熊崇拝のあらわれである。


狩猟民である彼らは、恵みとして獲物を与えてくれる「森の主」「獣の主」を信じていて、それに基づく儀礼もあった。

「昔エヴェンキ族はシンケーレーヴーン(毛皮すなわち獲物を追う)という狩猟儀礼を全氏族的規模でこぞって催し、それを氏族の聖所、ブガドという聖なる岩もしくは樹木の傍らで行なった、狩人たちは毛皮外套に身を包んでトナカイやオオシカの群をあらわし、動物ダンスをすることによって、群を氏族の猟区に誘い込む。彼らは動物を仕とめたしぐさをして、この無言劇を終える。

そのほか小さな動物の木偶を配して、密林全体の光景をミニチュアで再現し、集団狩猟のおきてを例示する。

シャマンもまたこの儀礼的な狩猟準備に参加する彼は神おろしの儀を行なって聖なる氏族岩ブガドの下に住む動物の女主人のところに脱魂状態のうちに到達する。

ここでシャマンは、この動物の女主人が巨大な牝オオシカあるいは牝の野生トナカイの姿をして大群の中にいるのに気がつく。その許しを得て、シャマンは自分の氏族の猟区につれて来た群から動物を捕える。

類話によっては、この女主人を老婆としており、エスキモーのセドナと同様、シャマンはどの皮シャツにいるしらみをとってやらなければならない。

そのすきにシャマンは彼女の脇の小さな革袋から、密林獣の毛を数本盗んで、自分の氏族の猟区にふりまくと、たちまち野獣に変わる」(ポドカーメンナヤ・ツングースカ川地方。フリートリッヒ:121)。


このような無言劇や踊りを伴う狩猟儀礼は、シベリアの、たとえばレナ川上流シシキノの岸壁画を思い起こさせる。

そこには石器時代から17・8世紀まで、その時代のその地の住人によって絵が描きつがれてきた。

その中には動物の絵、なかんずく狩りの主要な獲物であった鹿の絵が多い(オクラードニコフ)。

その中のどれかは彼らの祖先によって描かれたかもしれない。絵に描くことも呪術のひとつであっただろう。

絵に描けば、対象を自分の力の下におくことができる。

 なお、エヴェンキの踊りは輪踊りである。

1843年にミッデンドルフが見たオホーツク海沿岸のツゴール川のエヴェンキの踊りは、熱狂的なものだった。

「最初小さな輪をつくる。その輪は、男女が交互にならび、それには非常に年とった老人も入っている。… 手をつなぎ側方へ足を移動するだけの単調な踊りがはじまった。

ほどなく、しかし輪の踊りは活気をおびてきて、とんだりはねたりする動作になり、全身がゆれ、顔はほてり、叫び声は歓喜にみち、互いに相手の声を圧倒しようと大声をはり上げた。

毛皮の半外套(毛皮上着)を脱ぎすて、腰当て(すねあて)も脱ぎすてた。

最後は狂気が一同をとりこにした。何人かのものは、なおもそれにあらがおうとしたが、もうすでにその中の一人の首がかすかに拍子をあわせて、右へ左へと揺れはじめる。と突然、強固な堰が破れたかのごとく、見物人が踊りの輪の中に突入する。踊りの動作はまったくばらばらになり、騒然となって、歌は絶叫と化す。

フルヤー、フルヤー−フーゴイ、フーゴイ−、ヒョーギー。ヒョーギー−フムゴイ・フムゴイ−ヘーカ・ヘーカ−アハンデー・アハンデー−ヘールガ・ヘールガ。

ついに踊りの輪はつかれ切って乱れ、足はいうことをきかず、声もかれはてる」(トゥゴルコフ:121)。


彼らの狩りは、夜の天空にも神話的に映される。

大熊座は宇宙のオオシカ=ホグレンである。

「ホグレンはある時天のタイガの藪から出てきて、山の頂に太陽があるのを見つけると。そこへ行って、太陽をつかまえ、藪の中に持ち去った。そのために、真中の世界は夜になった。

人間たちは驚き、度を失い、何をすべきか、どうなったのか分からなかった。
真暗闇のなかで暮らすのは大変だった。恐ろしいし寒い。だが、どうやってこの災いから逃れるべきか誰も分からなかった。

その時、人間たちの中で英雄マインが名乗りをあげた。足に軽いスキーをはくと、彼はホグレンの足跡を追った。真夜中に追いつくと、巨大な弓で矢を放ち、射止めた。善良な英雄はホグレンから太陽を奪って、真中の世界に昼をとり戻した。

しかし、英雄自身はもはや人間たちのもとに帰ることができず、天に留まり、昼と太陽の守護者、生命の源泉となった。

それ以来、地上では昼と夜の交替が起こる。すなわち、ホグレンが明るく暖かな太陽をつかんで、天のタイガの藪の中に持ち去る度に、善良な英雄マインは滑りの良い翼スキーをつけ、オオジカの後を追いかけ。真夜中にこの宇宙の獣に追いつくと、明るい太陽、すなわち昼を人間たちのために奪い返すのである。


この伝承では大熊座のひしゃくの四つの星はホグレンの脚、柄の三つの星はマインとマインの放った二本の矢と考えられている。すなわち、最後の。もっとも遠い星がマイン、その次はマインが疾走中に大弓から放ち、獲物を外れた一本目の矢、ひしゃくに近い三つ目の星がホグレンを射止めた二本目の矢である」(荻原:122)。

天の川については別の伝承がある。

「宇宙の熊アンギは天空を東から西へ太陽のオオジカ(トナカイ)を追いかけ、それに追いつき、そして殺す。天の川はアンギのスキーの跡である。大熊座は熊にまだ食べられていないオオジカの脚である、オオジカを食べてしまうと、熊は最後には体がひどく重くなって、辛うじて足をひきずって行った。それで、天空の西の方では道は一本でなく、二本残った」(同:122)。

彼らの宇宙観は、世界を三層に考えていた。

最高神と他の神々が集う天上界、人々が日常暮らしている中間の世界、死者の魂の宿る地下の世界に。

それは氏族河の上流・中流・下流とも観念された。

中流には生きている氏族員が、下流には死んだ氏族員が住んでいる。

上流には将来この世に現われる氏族の魂が大きな天幕に住んでいる(フリートリッヒ:115)。

シャーマニズムは、そのことば(「シャマン」)にしてからがツングース語であり、周辺のシベリア諸民族のもとでと同じく、ツングース民族文化の重要な構成要素である。これについては前述した。


19世紀から20世紀の初めにかけての彼らは、こういう人々であった。


4.

エヴェンキは今も私たちを鍛えつづける。


研究は資料がなければできない。当たり前のことであるが、それはつまり、資料によって研究が規定される、ということでもある。基づく資料によって結ばれる像は異なるのである。

エヴェンキ族の研究には、民族学・言語学、歴史学、考古学などが関係する。歴史学は史料・古文献により、考古学は発掘された遺跡や出土物により、現在学としての言語学や民族学は現地調査の報告によって進められる。

それを総合する必要があるわけだが、そのとき上の事情をよくわきまえておかなければならない。相互参照はもちろん必要だが、しかしできるだけ、文献史料なら文献史料自体、考古学資料なら考古学資料自体によって解読されるべきで、安易に性格のまったく異なる隣接分野と突き合わせてはならない。

まずそれぞれの領域で尽くしてから始まるのだ、ということを忘れてはならない。それぞれに方法が異なるのだから、安直な突き合わせは安直な結論しかもたらさないだろう。

戦前に大きくはばたいた日本の東洋学は、かなりの部分が漢字をアルファベットにする作業であった。驚くべき大量の文献の堆積は、中国史とその周辺史にとって宝の山である。

ただし、それは表音文字でない漢字で書かれている。漢族については漢字でいい。しかし異族異域の固有名詞は何を表わしているのか、それをまず解読しなければならない。

土地の比定、族名の比定、人名の比定を重ね、読み解いていく基礎工事をまずほどこす必要がある。かつ、漢文文献を近代語に「翻訳」する場合、それら特有の思考法、コンテクスト、「語法」や「文法」(社会的歴史的な)に通暁しなければならない。

その点で日本人は有利な立場に立っていた。欧米人はやはり漢字文献読解の力でも量でも一歩落ちるし、当時の中国人は伝統的な学問に縛られていて、この分野に弱かったから。それが日本、なかんずく京都を支那学・東洋学のひとつの中心にした。

日本における東洋学のパイオニア白鳥庫吉は、たとえば匈奴は何民族かという問いに対し、記録に残る断片的な彼らの言語資料、固有名詞や役職名などを手がかりに、それを近現代の言語学資料で解き、匈奴はモンゴル系である、などという答えを出した。

考えてみればすぐわかるとおり、この方法はおかしい。千年前二千年前から言語も民族も移り変わっているだろうに、昔の名称を変化を経たあとの近代の辞書中の単語と突き合わせて施した解釈で出した結論は信頼できるのか。

それはもっともな論難だが、しかしほかに何も参照できるものがなければ、無理筋気味の力わざもやむをえない。しかし、そういう「英雄時代」のあとでは、それぞれの分野での研究を突き詰めたのちに相互参照するのが本道である。


エヴェンキの研究においては、日本は有利な位置を占めている。

ロシア・中国は実際にエヴェンキ族を国民にかかえ、それは研究に非常に有利だ。特にエヴェンキ族の大半をかかえるロシアは。

だが、為政者として「当事者」であることのデメリットも同様に存在するわけで、そうでないことによる客観性が、離れた国々にはある。

また、ロシア始め欧米は漢文史料にうとい。逆に、中国は漢文史料と漢字に縛られすぎる。固有名詞の漢字表記もわずらわしいが、普通名詞についても、長すぎる漢字の伝統がすべての語に含意を与えるので、独特のやりにくさがある。

即し、かつ離れる距離があるのは大きなメリットだ。実は「当事者」でもあった。満州国時代には現地調査もできた。だから、外にはロシア・欧米の研究成果と中国の伝統を踏まえ、内には八百万の神々や神懸りを今もどこかで信じていて、「森の民」(国土の3分の2が森だ)でもある日本人は、彼らを理解するためのいい条件を備えている。


エヴェンキに関して言えば、明清時代以前に記録はない。中国人には宿痾があり(おそらく不治の病だろう)、何でも中国にある/あったと考える。だからもちろんエヴェンキについても中国の古史書の中に発見できると信じている。だが、その点はよく検討されなければならない。

「アジアの書記官」中国の史官たちは、周代以来厖大な量の歴史記録をせっせと積み上げてきた。漢字で。その古記録のうちには周辺の民族についても山ほど記述があるわけだが、しかしそれらは基本的に受身の記録である。

朝貢に来た部族、侵攻してきた部族の記録がほとんどで、それをしない部族についてはせいぜい伝聞であり、それ以上の記述はない。要するに、農耕・牧畜を行ない、首長がいて、軍事行動を起こすことができ、国家を形成しているかその手前の状態にあるものの記録と、彼らから得た偏見まじりの伝聞ばかり、ということだ。

狩猟・漁労・採集、トナカイ飼育(馬飼育)、円錐形テントによるタイガ・ツンドラ地域の移動生活、風葬、氏族制と族外婚、シャーマニズム、無土器などがエヴェンキ民族を形成する指標的な文化要素である。

少なくともこれだけの文化要素の複合がなければエヴェンキ民族とは言えない。そして、古記録中にそれぞれの文化要素についてはさまざまな記載があるが、この複合をもつものについてはない。

明清時代以前の古文献中、関係がありそうなのは断片的な文化要素の記述にとどまる。

トナカイについては、「新唐書回鶻伝」にある記事が最古らしい。いわく、「太宗の時代に、能くみずから〔唐に〕通交した北狄としては、さらに烏羅渾があり、これは烏洛候または烏羅護ともいい、京師の東北六千里ばかりの地にあたり、東は靺鞨西は突厥、南契丹、北は烏丸に達するが、だいたいの習俗はみな、靺鞨と同じである。烏丸はあるいは古丸ともいう。/また鞠〔という部族〕があり、あるいは裓ともいい、抜野古の東北に住んでいた。〔その地方には〕木はあるが草はなく、地面には苔が多い。〔その地方には〕羊と馬はおらず、「人は鹿をやしなうこと牛馬のごとし。ただ苔にみを食す」(松田:294)。

その〔鞠の〕風習としては、車に乗り、また、鹿の皮で衣をつくり、木を集めて家屋を造り、尊い者も卑しい者もいっしょに住む」(「回鶻伝」、佐口透訳注、騎馬民族史2:447。1個所松田氏により訂正した)。

トナカイを飼うのならたぶんエヴェンキの祖先だろうが、きわめて断片的な伝聞である。

「契丹の別類」室韋という集団はおもしろい(「室韋・契丹・奚伝」、田村実造訳注、『騎馬民族史』1)。

「北史室伝」によれば、「その言語は庫莫奚・契丹・豆〔莫〕婁と同じである」(p.291)が、南室韋・水室韋・鉢室韋・深末怚室韋・大室韋と五部に分かれるうちの、大興安嶺の西にあったと思われる大室韋は、「言語は通じない」(騎馬民族史1:294)。

「新唐書室韋伝」によれば、「その言語は靺鞨語である」(同:291)。「旧唐書」では9、「新唐書」では20余部に分かれるとされ、そのうちには史書中「モンゴル」の初出である「蒙兀/蒙瓦部」もある。

つまり言語を異にし、生業も異なるらしい雑多なグループをその中に含んでいるわけだ。

「父母が死ぬと男女はあつまって哭くこと三年。屍は樹上に置く」(「魏書失韋伝」、同:290)という風葬の習俗や、「貂皮を多くとる。… 男女とも、みな白い鹿皮の上衣と袴を着る」という記述にはエヴェンキと似た点も見出せるが、農耕牧畜民である点で決定的に違う。

「多くの粟や麦および穄がある」(同:291)。
羊はおらず、馬は少なく、豚や牛が多い。「牛車にのり」(同:292)、「麯で酒をつくる」(同:291)。

しかし、以下の記述には注目するべきだ。

「契丹の北のかた三千里にある」南室韋から「北方へ十一日ゆくと北室韋(水室韋であろう)に至る。〔北室韋は〕九部落にわかれ、吐紇山をめぐって住んでいる。その部落の大酋長は、乞引莫謹賀咄と号す。各部には、莫何弗が副としている。気候はもっとも寒く、雪が深くて馬の背を没するほどである。

〔人びとは〕冬は山に入って穴居生活をするが、牛畜は凍死するものが多い。麞や鹿が多い。〔人びとは〕狩猟を本務とし、肉を食い毛皮を着る。氷を割って水中に没し網で魚や鼈をとる。地には積雪が多く、〔人びとは〕穴に落ちこむのをおそれて木〔そり〕にのって進み、おとし穴があると止まる。みな貂を捕えるのを仕事とし、狐や貂の毛皮を冠り、魚皮を衣る。

また北へ行くこと千里で鉢室韋に至るが、〔その部落の人びとは〕胡布山のもとに住んでいて、人口は北室韋より多く、幾部落あるか知れない。樺の皮で屋舎をおおう。そのほかは北室韋と同俗である」(「北史室韋伝」、同:293)。

さまざまな集団の寄り集まりらしく思えるこの室韋の中、特に北室韋と鉢室韋の中には、ダウールとかソロンの祖先のような部族も数えられていたかもしれない。

「徴税はなく、狩猟はつねに衆をよび集めて行ない、おわるとみな散居する。互いに臣属することがない。ゆえに部人は猛悍で戦闘を喜んだが、ついに強国となることはできなかった」(「新唐書室韋伝」、同:301)。

ダウールは、1643年に探検に来たポヤルコフの報告に、

「彼等はゼーヤ河およびシルカ河沿岸に六種の穀物を作っていた。
即ち大麦、燕麦、稷、蕎麦、豌豆、亜麻である。

同地方にはまた胡瓜、罌粟、大豆、蒜、林檎、梨、胡桃等も生長する。彼等の有する家畜は馬、牛、豚(極めて多し)等で鶏も亦飼っている」(池尻:224)

とある。農耕牧畜を営むかたわら狩猟・漁撈も重要な生業であり、エヴェンキと関係の深い彼らの祖先は、室韋の中にきっといただろう。だが、純粋な狩猟民であるエヴェンキはその中に含まれてはいまい。

氏族制と族外婚については、たとえば「後漢書烏桓伝」にも見ることができる。

「その性格はたけだけしく頑固で、怒れば父や兄すらも殺したが、しかしついにその母親には、危害を加えなかった。そのわけは、母親には肉親の一族があり、〔もし母親を殺せば、復讐を受けることを免かれないが、これに反して〕実の父や兄は〔殺しても〕一族の者から報復を受けなかったからである」(「烏桓・鮮卑伝」、河内良弘訳注、騎馬民族史1:155)。


1712−15年、清朝からカスピ海北方のトゥルグート汗のもとへ使した満洲人トゥリシェンの旅行記「異域録」には「ソロン人」への言及が多々あるが、「ソロン」の名で指しているのは明らかにシベリアのエヴェンキ族である。

エニセイスクにロシア人、ブリヤート人とともに住んでいる「ソロン人」(トゥリシェン:53)は、もちろんいま中国で「ソロン(索倫)」と呼ばれている人々ではありえないが、清代の「索倫部」ということなのだろう。

それには山中に住む狩猟民を指す「鄂翁喀拉索倫(エオンコル・ソロン=ダウール語で:野生ソロン)」という集団もあった(シロコゴロフ1941:120)。

「ロシア人は、ソロン人のことを、カムニハンともトゥングースとも呼んでいる。

ソロン人は馴鹿を飼っているが、その色は薄白く、体の形は驢馬や騾馬に似ている。ソロン人は荷を積んだり、車につないで牽かせたりして使う」(同:57。カムニハンはブリヤート人がエヴェンキを呼ぶ名前)。

そして、シベリアの狩猟漁撈に従事するソロン人からは毛皮、狩猟漁撈をしないソロン人からは金を貢納させている(同:87)。清国内のソロン人やダフール人は蝶鮫を貢物としている(同:123)。

一方で、使いの者の出身地のさらに向こう(黒竜江中流域)には「ビルラ(ビラルチェン)、使犬国(ゴリド/ナナイ)、モニイル(マネグルであろう)、グルイル、などという部族」がいて、毛皮を貢物とすると言っている(同:125)のを見れば、同じくツングースであるこれらの諸族とソロンとは区別されているようだ。

この例をもって推せば、ある族名(ここでは「ソロン」)のうちに、似てはいても生業において来歴において相違も大きい集団(エヴェンキ)が含められてしまうのはよくあることである。

その一方で、今日の民族学知識に照らせば同族であるはずの集団が別族のようにあげられる(ここではエヴェンキ=ソロンと別立てにされたビラルチェン、マネグル)。

割合新しく正確な清代でそうならば、まして元明以前の古記録はそうだろう。

後述「開原新志」にある「乞烈迷」(ギリミ)には今日のギリヤーク(傍白:今の公称はニヴヒだが、これは大陸側の彼らの自称であり、サハリンに住む者は「ニグヴン」を自称とするのだから、そうは言わないサハリンの人々まで「ニヴヒ」で標準化するのはどうか。「ギリヤーク」でいいんじゃないか。

でなければ「ニヴヒ」「ニグヴン」の2つに分けるか)以外の民族も含まれているようだし(ギリヤークは「吉里迷」と別字で書かれる)、「西伯利東偏紀要」(1885年)には、「費雅喀」(フィヤカ:ギリヤーク別称)と別に「済勒彌」(ギリミ)を挙げ、「松花江ノ両岸ハ旧ト費雅喀人ノ居ル所為リ、今ハ則チ俄倫春・奇勒爾二族ヲ合シ、凡ソ江沿ニ遷居スル者、済勒彌ト統称ス」(和田:495)としているのを見てもいい。

そのように明らかな異族がひとつにまとめられているのは、しかるべき理由があってのことかもしれないと考えてみていい。あるいは単にその史料の書き手の恣意によるのかもしれず、そこはよく吟味されなければならない。


明清時代を見ると、「大明一統志」に引かれた元代の地誌「開原(開元)新志」にある「乞烈迷」(ギリミ:ギリヤークを指すナナイの呼称)の四種のうち、「北山野人」は「鹿ニ乗リテ出入ス」(和田:467)。明末の「遼東志」には、「鹿ヲ養ヒ、乗リテ以テ出入ス。海驢・海豹・海豬・海牛・海狗ノ皮ヲ水産ス」(同:478)と、海獣狩猟を業とすることが書いてある。

これはオホーツク海沿岸に住むエヴェンキに近いエヴェン(ラムート)族の祖先かもしれない。

乾隆時代の「皇清職貢図」には「鄂倫綽」(オロチョン)の名が見える。いわく、

「近海之多羅河・強黔山ニ游牧ス。男女皆披髪跣足、角鹿(即ち馴鹿)ヲ養ヒ魚ヲ捕フルヲ以テ生ト為ス、居ル所魚皮ヲ以テ帳ト為ス、性懦弱、歳ニ貂皮ヲ進ム」(同:480)。

「多羅河」はアムール河口の西でオホーツク海に注ぐトゥグル河であろうとされる。

「鄂倫綽」は「吉林通志」にも言及される。「奇勒爾」(キレルKiler、アムール地方のツングース系諸族が新来のツングース族を称した語)は寧古塔の東北二千余里の所にいるが、そこは「即使鹿ノ鄂倫春遊牧スル処所、職貢図ニ所謂鄂倫綽ナル者是也、有使馬・使鹿二部、使鹿ハ使馬之外ニ在リ」云々(同:490)。


清代からエヴェンキの歴史時代が始まる、と言っていい。

姿の見えないエヴェンキたちが、このへんからようやく見えてくる

みずからが南方ツングースである清朝はエヴェンキ族の分布地の南縁を実効支配していたので、情報も正確になってくるし、ロシア人による記録も出てくるので、それと対照しつつ論じることができるのだ(ごくわずかながら日本人の記録もある)。

それまでは漢文史料の独占状態であるから、漢文史料の性格を斟酌しつつ読み解いていく作業となり、記述の背景や事情や意図や誤解半解や漢人文化特有の偏向など、さまざまなものがからんでいるのでわずらわしい。見方が複眼となるこのあたりからすっきりしてくる。

19世紀になると、特に1854−56年のシュレンクの探検以降は、完全に「断片的古記録」から「体系的民族誌の時代」に移行する。


清代とは、明代から組織化が進んできた毛皮貢納体制が完成する時代である。
ロシアのシベリア進出も毛皮を求めてのことだった。
気の毒な貂の災厄が東西から国家的に追い求められた。

貂皮は紀元前から文明世界に知られていたが、美しいその毛皮は北の果てからもたらされるものだから貴重だった。紀元100年ごろの「説文解字」に、貂は「鼠の属なり、大にして黄・黒。胡の丁零国より出づ」とあるように、北方の遊牧民がそれをもたらしていた。

遊牧民中北辺の者がみずから狩ることもあったろうが、彼らのさらに北の森の中に住む狩猟民から得ていたにちがいない。それを交易する「セーブルロード」はたしかに存在していた。モンゴル高原を通り「北荒」に至る唐代の「参天河汗道」は貂皮を税として維持されていた(松田:309,311f.)。

タイガの狩猟民もかなり昔からユーラシア商業に連なり、北の森にない物資を得ていたのである。

オロチョン族の猟師は、ダウール人や漢人、ロシア人の「アンダ」(友人)と商売関係を結んでいた。

定期的に開かれる交易市(バクジョール)での物々交換の相手であり、またオロチョンが必要に迫られて村を訪ねたときは必ず自分のアンダの家に泊まり、アンダも親戚の訪問のようにこれをもてなすし、毛皮をもたずに前借りを求められてもこころよく応じる。

計算にうといオロチョンとの取引は大きな利益になるからである。
この関係でオロチョンは金銭に直せば大損をしているのだが、金銭の外にある彼らにも一応のメリットがあるシステムだから続いたのであろう。


17世紀、ロシアがアムール河岸に暴力的に進出してきたとき、清朝は、アムール川の北にいてロシア人の襲撃を受けていたダウール族とソロン族を嫩江地域に移住させた。1650年の頃である。

彼らの安寧のためでもあり、彼らから食料を略奪して調達していたロシア人から糧道を断つ目的でもあった。

そして、ロシア人をアムール地方から駆逐し、ネルチンスク条約(1689)を結んでこの地方を清朝領と確定させた康熙帝の頃から、布特哈八旗を始め、ダウール人、ソロン人とともにオロチョン人も八旗軍に組織された。布特哈八旗は打牲部とも言われる。狩猟する者をもって編成されたのでこの名がある(池尻:51ff..)。

ロシアでも同じ頃、「友好的な」ツングースとブリヤートの氏族から徴兵してロシア人を支援する予備隊として使ったという。のちにザバイカル地方のツングースとブリヤートのコサック連隊となった(フォーシス:115,189)。

満州国時代の日本軍も、山野を自分の庭のごとく知り尽くし、射撃に秀でた彼らを、来るべきソ連との戦いに利用すべく訓練を施していた。中露の伝統に忠実だったのだ。

軍には「文化に浴せしめず即ち原始生活の維持。帰農せしめず。特殊民族としての隔離。阿片厳禁。白麺厳禁。独立自活の道を講ずる、即ち依存生活の排撃等」という指導要領があったという(中生:234)。


アヘンのことも書いておかなければならない。

「彼らの言によると、だいたい次の二点から阿片を用いるようになったとのことである。

(1) 厳寒期出猟露営の際、これを服用すると、酒と異なって身体のしんから暖まって睡眠を取りやすくなる。

(2) 不猟で食物がないとき、阿片は空腹感を麻痺させる不可思議な力を持っている。

以上の理由から阿片を常用することとなり、その後は中毒者となり、禁断症状がおきると、身体のあらゆる面に圧迫感を感じ、涙・唾液などが止めどもなく流れ、あくびを連発する」(泉:21)。

「阿片服用は一人前になって出猟しうる男子の当然の権利であり、誇りでもある」(同:21)から、泉の調査した1936年に25歳以上の男子では81パーセントがアヘンを常用していた。

ただ、彼らはアヘンを吸わず、生のまま食うので、生理的な悪影響は少ないという。

この悪習は清朝末期に漢人苦力から入ってきたものであるが、日本軍はみずからの指導要領に反してそれを利用していた。

永田がオロチョンの調査に行ったとき、特務機関を訪ね、オロチョンを掌握する方法を聞くと、機関員はこともなげに、「それは簡単だ。彼らが手にいれにくい阿片を利用することだ。これさえあれば何でもないよ」と即答したという(永田:17)。

こういう陶酔への溺れやすさが彼らの致命的な弱点かもしれない。民族を滅ぼしかねない過度の飲酒癖や、煙管があいさつの小道具とまでなった愛煙癖と並べて考えるべきである。すべて農耕定住民が彼らを籠絡すべく山にもたらしたものであった。

あるいは、シャーマニズムの本質でもあるエクスタシーがそこに関係しているのかもしれない。

また、シャーマニズムを信奉するシベリアの諸民族の間には、不意の刺激に対する過敏なヒステリー反応(いわゆる「極北ヒステリー」)がよく見られたことを想起しておこう。これらの嗜好はそういう諸連関の中に置いてみてもいい。


考古学は、結局のところ「石と骨の学問」である(もっと言えば、「学問的墓暴き」、「穴を掘って穴を見つける作業」)。定住して、しかるべき大きさの構造物を作り、墓を掘って埋葬をする集団でないと、考古学の網にはかかりにくい。エヴェンキのような天幕で移動する小集団は、あらかじめそこから漏れるようにできているようなものだ。

竪穴式住居にも住むことはあったようだが、死体は風葬、つまり樹上に置き朽ちるにまかせて墓を作らず、土器もなく、石器の道具類ぐらいしか残さなかったツングースの祖先を、考古学調査で発見することはむずかしい。

鉄器を使っていても(彼らの間には鍛冶師がいる)、その生活形態は「歩く旧石器時代」なのだから。

オクラードニコフは新石器時代末期のシルカ川洞穴遺跡や紀元前1800−1300年ごろのグラズコヴォ文化の遺跡出土の人骨がエヴェンキ人に酷似するというが(加藤1994:35f.,43f.)、土器をもち埋葬をする文化なら、今のエヴェンキ狩猟民に直接結びつくことはない。

定住民からタイガの移動狩猟民が析出したとも考えることはできるが、それは仮説にすぎず、証拠はない。

定住民集団から流出する個人や集団はあったに違いないが、流入していく先には、生活技術の体系に裏打ちされた文化を伝承してきた狩猟民の集団がいたのだから。

たとえば記録のある近世に牧畜民ヤクートがトナカイ飼養民の社会に流入し、生業は受け入れながら言語はヤクート化した例のようなことは史上何度もあっただろう。

だが、重要なのは太古からの連続のほうであって、中期旧石器時代から人類はシベリアに広がっていたが、それはもちろん狩猟採集民である。こちらが本質的な問題で、それがエヴェンキかどうかは二義的な問題だ。

土を掘る考古学では、「土」が特権的である。葬法には土葬・水葬・火葬・風葬があるが、「骨の学問」である考古学は、骨を残す土葬をよりどころとする。

風葬は偶然骨が残ったときだけしか研究されない(しようがない)。
器具においても土器陶器が卓越する。

木や皮のように朽ちてしまうものはそもそも資料として例外的にしか存在しないし、金属器は金属器時代以前にないのはもちろんだが、以降も、有機物ほどではないが腐食の問題があり、それが多少のさまたげになる。

朽ちずに残り、加工しやすいため形や文様で分類しやすい土器は、考古学の寵児である。だからそのふたつをもたないエヴェンキは、その存在自体が考古学の手から逃れるためにあるようなものだ。

土器のない文化は、ひとつは先土器文化であるが、「非土器文化」もあるわけだ。

移動生活に不便(重い上に壊れやすい)な土器をもたないのもひとつ、しかしインドのような高度な文明地域でも、金属器を好み陶器をほとんど使わないなどということがある。インドは「土器陶器の専制」を相対化してくれる。


歴史学や考古学がこうである。つまり、彼らの歴史について憶測以上のことは言えない、ということだ。そういうふうに学問の網の目をすりぬけるというのはすばらしいことのように思える。すべからくわれらのごとくあるべし、と筆をもつ人たちは考える。われらのようでなければ、われらのようにならねばならない、と。だがそうではないのだ。そのことをエヴェンキは示している。


いま、そのエヴェンキの民族文化は死滅に瀕している。

中国では、恐るべき漢族の厖大な数に圧倒されて、その海に水没せんとしている。

定住を強制され、狩猟を禁じられ、銃を取り上げられた。

狭苦しい日本から見れば広大な興安嶺の森も、漢族の植民と林業開発の波をかぶれば狭い。野生動物も減った。

オロチョンの娘は同族の男と結婚したがらないそうだ。
飲んだくれで、酔えば妻を殴り、農業など定住生活に不適合とくれば、誰が好んで結婚するだろうか。それはもう末期の姿である。

だが、なぜ彼らは酒を飲むのか思いやってもいい。
女が飲んだくれの男を避けるのと同じくらいの道理は、酒を飲む男のほうにもたぶんある。アルコール中毒やそれに起因する変死は中国政府の政策による強制定住のあと激増した(思2000b:19)。

オロチョン自治旗におけるオロチョンの平均寿命は47.5歳(!)である(麻:116)。

文字のない彼らのことばも若年層では話せない者が増えている(文字化されておらず、学校で教えられていないのも話者が減っている一因だが、それは妙な話だ。ロシアでは文字化されているのだから)。

20歳以下のトナカイ・エヴェンキ人の80パーセントがエヴェンキ語が話せない(思2000b:6)。

もともと絶対数が少ないのだから、今の高齢者たちが世を去った後には、定住の村々にはもとオロチョンだった漢族を見ることになるだろう。
民族意識だけは残るかもしれないが(たぶん残る)、それ以外は漢族と区別のつかない人々を。

それはシャモたちがアイヌにしたことでもあった。

「彼らの最大の欠点は怠惰である」と言われている(トゥゴルコフ:43)。

だが、ソ連時代初頭のヤクート北方委員会の報告が言うとおり、「これは、寄生的・ブルジョワ的怠惰ではなく、別の生活習慣および経済条件の産物である。

原住民の生活の一つの面である休息中のみをみて、他の面を見落としている。

つまり、この休息期間によって、いま一つの狩猟の際の極端なエネルギーの消耗−緊張、長時間の忍耐、厳しい寒さ等々による−に適応できる比類ない力を呼び起すのである」(同:45)。

それにはさらにもうひとつの側面があるだろう。
生きていくのに必要なだけの獲物をとり、獲り過ぎないという調整の側面も。

移動生活を送る狩猟採集民である彼らは、定住民の病である「富の蓄積」の強迫におかされていない。

食べていけて、その上に少しばかり余裕があればいい。

だが、蓄積がないということは、「食べていくこと」をむずかしくする。

被狩猟動物の減少は狩猟者である彼らの飢餓につながるから、過剰な狩猟の抑制は死活的に重要である。

そんなエヴェンキは、定住民の、たとえば漢人の狩猟者たちが動物がたちまち絶滅してしまうようなやり方で狩りをするのを憎んでいた(シロコゴロフ1941:198)。

現在中国ではエヴェンキに狩猟が禁じられている。おかしな話だ。
狩りを禁じなければならないほど野生動物が減ってしまったのは彼らのせいではなく、その逆なのに。


ロシアの状況はこれよりずっとましである。
シベリアははるかに広大で、ロシア人は少ない。本来の住地でもある。
その「少なさ」はしかし相対的なもので、絶対的に少ないエヴェンキの人口から見れば絶対的に多い。

集団化(コルホーズ化)はソ連のほうが中国よりずっと早く、死滅したシャーマニズムは中国でより長く残っていた。

現在シベリアで狩猟やトナカイ飼育を行なっている者は少数民族人口の1割以下である。

銃や弾丸は管理され、狩猟は免許制で、許可された頭数以上を獲ってはならない。シベリアが、世界がいかに広くとも、わずか数万の狩猟民を容れるほどに広くない。

それでも中国よりましなのは、面積の広さとともに、あるいはそれ以上に、長く寒い冬や北の大地の広さに感覚が同調しているロシア人のメンタリティに、エヴェンキと似たものがあるからかもしれない。

特にコサックには。リンドグレンが指摘するように、山と平地に棲み分けている北満のコサックとエヴェンキの間には相互に敬意や親愛の感情があった(Lindgren1938)。

中国人にとってはロシア人も北狄で、その意味で同一範疇であろう(たとえばこんな例:

支那人は「露西亜移住民や、稀には原住民のツングースにとって甚だ魅力ある獲物となる場合が非常に多い … 何時も黄金を携帯していた支那人を追捕し殺害することは、ある時期に於いて地方商業の重要な部門であったのである」! シロコゴロフ1941:174)。

狩猟民は生態系の正当な構成員である。「肉食動物」としてその地域の食物連鎖の頂点に立つ。

彼らを養えるほどの獲物の棲む広いテリトリーを必要とし、獲物の数が許す個体数以上は生存できない。

農耕が(そして牧畜が)生態系の「異物」であるのとはまったく違うありかただ。農耕はことの性格として生態系を改変するし、さらに進めば破壊する。

いわんや工業は。

狩猟が地球にとって正常な細胞であるのに対し、農耕はガン細胞なのである。

今そのガン細胞は地表を覆い尽くさんばかりだ。

アムールトラが絶滅に瀕している。人間はそれを保護しようとする。

同じ「肉食動物」の狩猟民も絶滅に瀕しているが、狩猟民以外の人類はその死滅をうながす。彼らから狩猟を取り上げることで。

人間が馬以下だった先の戦争を思い出す。人間の兵卒は一銭五厘の令状でかき集められるが、軍馬の調達はずっとむずかしく、大切にされていたのではなかったか。動物園のトラが酒びたりになっている光景を想像するべきかもしれない。

彼らは、彼ら同士あるいは近隣の狩猟民との間では争いがあったし、攻められれば反撃したにしても、征服戦争をするわけでなし(できるわけもないが)、それ以外には何も問題を起こさなかったのに、歴史は彼らの民族文化に退場を命じている。われわれの残念な歴史は、ただ前へと進む。
http://d.hatena.ne.jp/agarih/20140301


9. 中川隆[-15953] koaQ7Jey 2021年10月18日 17:56:12 : qkJ0267vVE : Y2lNRWlkTWpEVlE=[16] 報告
人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。

具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。

カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

2021年10月16日
佐藤弘夫『日本人と神』
https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E7%A5%9E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065234042

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2021年4月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者の以前の一般向け著書『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』にたいへん感銘を受けたので(関連記事)、本書はまず、日本列島におけるあらゆる宗教現象を神と仏の二要素に還元する「神仏習合」で読み解くことはできず、それは近代的思考の偏りである、と指摘します。本書はこの視点に基づいて、日本列島における信仰の変容を検証していきます。


●先史時代

 日本列島における信仰について本書はまず、現代日本社会において一般的な認識と思われる、山のように自然そのものを崇拝することが日本列島における信仰の最古層になっている、というような太古からの信仰が今でも「神道」など一部で続いている、といった言説に疑問を呈します。山麓から山を遥拝する形態や、一木一草に神が宿るという発想は室町時代以降に一般化し、神観念としても祭祀の作法としても比較的新しい、というわけです。

 たとえば神祭りの「原初」形態を示すとされる三輪山では、山麓に点在する祭礼の痕跡は紀元後4世紀にさかのぼり、祭祀の形跡の多くは山を仰ぎ見る場所に設定されていることから、三輪山の信仰は当初から山を神聖視し、神の居場所である社殿はありませんでした。しかし、三輪山信仰の原初的形態が山を遥拝する形だったわけではない、と本書は指摘します。本書が重視するのは、恒常的な祭祀の場所が定められていなかった点です。山そのものを崇拝対象とするならば、現在の拝殿のように最適な地を祭祀の場と定めて定期的な祭りを行なえばすむだろう、というわけです。

 そこで本書は、三輪山信仰の原初的形態の手がかりとして、三輪山遺跡と同時代(弥生時代後期〜古墳時代)の日本列島における神信仰を見ていきます。信仰の側面から見た弥生時代の最も顕著な特色は、神が姿を消すことです。縄文時代には信仰の遺物として、人間を超えた存在=カミ(人間を超える存在、聖なるもの)の表象として土偶がありましたが、弥生時代には聖なるものを可視的に表現した広義の神像が欠けています。弥生時代には、カミは直接的にではなく、シンボルもしくはイメージを通じて間接的に描写されるようになります。銅鐸などカミを祀るための道具は多数出土しているものの、カミを象ったと推測される像はほとんどない、というわけです。

 カミが不可視の存在へと転換した弥生時代には、カミと人々とを媒介するシャーマンの役割が重視されるようになり、『三国志』に見える卑弥呼も三輪山遺跡もそうした文脈で解されます。古墳時代以前の社会では、カミは遠くから拝礼する対象ではなく、互いの声が届く範囲にカミを勧請して人々はその託宣を聞き、カミに語りかけました。これが弥生時代から古墳時代の基本的な祭祀形態だった、と本書は指摘します。記紀や風土記など古代の文献からも、山は神の棲む場所であっても神ではなく、人々が山を聖地として礼拝した事例はないので、現在の三輪山信仰は神祭りの最古形態ではなかった、と本書は指摘します。

 では、日本列島における最古のカミのイメージとその儀礼はいかなるものだったのかが問題となります。人類の宗教の最も原基的な形態は、自然の森羅万象の中に精霊の動きを見出すアニミズムだった、との見解は現代日本社会において広く浸透しているようです。一方で20世紀後半以降、カミの存在を感知する心的能力は6万年前頃に現生人類で起きた認知構造の革命的変化に由来する、との仮説も提示されています。これが芸術など複雑で象徴的な行動も含めて現生人類(Homo sapiens)の文化を飛躍的に発展させた(創造の爆発説、神経学仮説)、というわけです(関連記事)。

 本書はこうした認知考古学の成果も参照しつつ、日本の神の原型は不可視の「精霊」ではないと指摘し、「アニミズム」の範疇で把握することに疑問を呈します。本書が推測する人類における始原のカミは、抽象化された不可視のアニマ(生命、魂)としてではなく、個別具体的な事象に即して把握されていました。霊魂などの抽象的概念の登場以前に、眼前の現象がそのままカミとみなされていた段階があった、というわけです。具体的には、人に畏怖の念を抱かせる、雷や竜巻などの自然現象です。より日常的な現象としては、毎日起きる昼夜の交代です。人がカミを見出したもう一つの対象は、人にない力を有する動物たちで、具体的には熊や猛禽類や蛇などです。また、生命力を感じさせる植物、巨木や奇岩なども聖なる存在として把握されました。カミは最初、これら個々の現象や動植物などと不可分の存在でした。何かが個々の現象や動植物などに憑依することで、初めてカミになったわけではありませんでした。

 こうした最初期のカミに対して、人はひたすら畏敬の念を抱くだけで、ある定まった形式で崇拝することはなく、祭祀が開始されるには、無数に存在してイメージが拡散していたカミを、集団が共有できる実態として一旦同定する必要がありました。日本列島でそれが始まったのは縄文時代でした。縄文時代にカミのイメージを象徴的に表現したものとして土偶がありましたが、それを超える高次のカミは想定されていなかった、と本書は推測します。ただ、こうしたイメージが集団に共有され、定期的な祭祀が行なわれるようになるのは、縄文時代中期以降でした。これにより、霊威を引き起こす不可視の存在としてカミを想定する段階へと転換していきます。カミの抽象化が進行していった、というわけです。死者への認識も変容していき、死者を生前と同様の交流可能な空間に留めておく段階から、死者だけの独立した空間が生まれ、膨張していきます。不可視の存在により構成されるもう一つの世界(他界)が人々に共有されるようになります。

 上述のように、弥生時代にはカミそのものが殆ど表現されなくなります。カミの居場所はおおよその見当がつけられても、一ヶ所に定住することはなく、弥生時代から古墳時代のカミ祭りの形態は、カミを祭祀場に勧請し、終了後に帰っていただく、という形式でした。上述の三輪山祭祀遺跡はこの段階のものでした。超常現象は不可視のカミが起こすもの、との観念が共有されるようになった弥生時代以降には、自然災害や疫病など理解の及ばない事態にさいして、カミの意思の確認が喫緊の課題となりました。カミの意図を察知し、カミが求めるものを提供することでその怒りを和らげ、災禍の沈静化を図ったわけです。カミの言葉はシャーマンを介して人々に伝えられ、共同体共通の記憶としてのカミの言葉は次第に整序化された形で特定の語り部により伝承され、物語としての体系化と洗練化が進みます。カミの人格化と個性化の進展により、各集団の守護神もしくは祖先神としてのカミが特定されるようになると、太古のカミの仕業として世界や文化の起源が語られるようになりました。つまり、神話の誕生です。

 古代日本の神は生活に伴う汚染を徹底して嫌い、共同体における神の重要な機能が集団内の清浄性の確保にあったことを示します。こうした観念は定住生活への移行により強化されていきましたが、これにより、排泄物や死骸に単なる物理的な汚染以上の、より抽象的・精神的な位置づけが与えられるようになっていきます。まず神の祟りがあり、汚染感知警告の役割を果たし、穢れが神に及んでいる、と察知されます。この過程で、国家形成とともに、不浄→祟り→秩序回復のシステムを国家が独占し、「穢れ」の内容を詳細に規定することで、神への影響を最小限に食い止めようとします。カミが嫌うものとの規定により、日常生活に伴う汚染と共同体に違背する行為が、カミの保持する秩序に対する反逆=ケガレと位置づけられ、罪と穢れはしばしば等質として把握されます。ケガレの概念は多様化し、対処するための宗教儀礼も複雑化していきます。本来は生存のための道具だったはずのカミが人の言動を規定し、人を支配する時代が到来したわけです。カミが人の思惑を超えて清浄性をどこまでも追求し始めると、カミが嫌う個別具体的な「穢れ」も本来の意味を超えて一人歩きを開始し、人の意識と行動を縛るようになります。日本でその運動が本格的に開始されたのは9世紀で、物忌みや方違えなどの禁忌が急速に発展し、人々の日常生活を規制するようになります。


●古代

 弥生時代から奈良時代までカミは常態として可視的な姿を持ちませんでしたが、そのイメージは次第に変化し、とくに重要なのは人格化の進展です。その主因として考えられるのは、死者がカミとして祀られることの定着です。それには、傑出した人物の出現が必要となります。これは、首長の墓が集団墓地から分離して巨大化し、平地から山上や山腹などより高い土地に築かれるようになったことと関連しています。特定の人物を超人的な存在(カミ)と把握するヒトガミ信仰の画期は3世紀で、その象徴が前方後円墳でした。前方後円墳では祭祀が行なわれましたが、長く継続して実施された痕跡は見当たらない、と考古学では指摘されています。本書は、当時の信仰形態から推測して、カミの棲む山としての後円部を仰ぎ見ることができ、山にいるカミを呼び寄せる場所に祭祀の痕跡があるのではないか、と推測します。じっさい、仙台市の遠見塚古墳では、後円部の周辺で長期にわたる祭祀継続の痕跡が見つかっています。本書は、前方後円墳がカミの棲む場所として造られた人工の山で、そこにカミとなった首長の霊魂を定着させようした試みだった、と推測します。ヒトガミ信仰の次の画期は天武朝で、天皇自身が神(アキツミカミ)と強調されました。この律令国家草創期に、天皇陵と認定された古墳は国家による奉仕の対象となりました。巨大古墳の意義は、大伽藍の出現や律令制による神祇祭祀制度の整備により失われ、天皇の地位は諸仏諸神により守護される特権的存在となりました。カミの棲む清浄な地としての山には、清浄性を求めて修行者が入るようになります。

 カミのイメージ変遷で人格化とともに重要なのは、特定の地への神の定着です。弥生時代から古墳時代には、カミが特定の山にいたとしても、どこなのかは不明でした。そうした住所不定で祭祀の時にだけ来訪するカミから、定住するカミへの転換が進みます。これにより、7世紀末以降、神社の造営が本格化します。社殿の造営により、信仰形態は祭祀のたびに神を勧請することから、人が神のもとに出向いて礼拝することへと変わりました。これは寺院参詣と共通する形式で、神と仏(仏像)との機能面での接近を示します。神は一方的に祭祀を受ける存在となり、公的な儀礼の場から神と人との対話が消えていきます。

 上述のように神をめぐる禁忌が増幅され、神は人が安易に接近してはならないものへと変貌していきます。神と仏(仏像)との機能面での接近は、神像を生み出しました。長く身体性を失っていた神が、再び具象的な姿をとることになったわけです。こうした神の変貌により、人と神との仲介者としてのシャーマンが姿を消します。これは、俗権を掌握する王の地位強化と対応しており、古墳時代中期には支配層の父系化が進みます(関連記事)。カミの言葉の解釈権を王が手中に収めるようになり、8世紀後半の宇佐八幡宮神託事件はその象徴でした。

 カミの人格化と定住化の進展とともに、非合理で不可解だったカミの祟りが、次第に論理的なものへと変わっていきます。この過程で、善神と悪神の機能分化が進みます。祟りは全ての神の属性ではなく、御霊や疫神など特定の神の役割となりました。平安時代半ば以降、祟りの事例減少と比例するかのように、カミの作用として「罰(バチ)」が用いられるようになり、12世紀以降はほぼ「罰」一色となります。中世的な社会システムが整ってくる12世紀は、古代における「祟り」から中世の「罰」へとカミの機能が変化した時期でした。中世には、「賞罰」が組み合わされて頻出するようになります。カミは罰を下すだけの存在ではなく、人々の行為に応じて厳正な賞罰の権限を行使しました。カミは突然予期せぬ祟りを起こす存在から、予め人がなすべき明確な行動基準を示し、それに厳格に対応する存在と把握されるようになります。古代のカミは、目前に存在する生々しさと、人知の及ばない強い験力の保持を特徴とし、その力の源泉が「清浄」性でした。


●古代から中世へ

 人が神・仏といったカミ(超越的存在)や死者と同じ空間を共有するという古代的な世界観(来世は現世の投影で、その延長に他ならない、との認識)は、紀元後10世紀後半(以下、紀元後の場合は省略します)以降次第に変容していきます。人の世界(この世)からカミの世界(あの世)が分離し、膨張していきます。こうして、ヒトの住む現世(此岸)と不可視の超越者がいる理想郷(彼岸)との緊張感のある対峙という、中世的な二元的世界が形成されます。人の認知できないもう一つの空間イメージが、人々の意識において急速に膨張していったわけです。古代では、カミの居場所は遠くてもせいぜい山頂でしたが、中世では、この世とは次元を異にする他界が実在する、との観念が広く社会に流通しました。曖昧だったカミと死者との関係も、救済者・彼救済者として位置づけ直されました。彼岸=浄土はもはや普通の人が気軽に行ける場所ではなくなったわけです。

 12世紀には、救済者のいる彼岸世界(浄土)こそが真実の世界とされ、この世(此岸)は浄土に到達するための仮の世(穢土)との認識が一般化しました。浄土については、浄土教のように浄土の客観的実在性を強調するものから、ありのままの現実世界の背後に真実の世界を見ようとする密教に至るまで、この世とあの世の距離の取り方は宗派によりさまざまでしたが、身分階層を超えて人々を平等に包み込む普遍的世界が実在する、という理念が広く社会で共有されるようになります。この古代から中世への移行期に起きた世界観の大きな転換はかつて、浄土思想の受容と定着の結果と主張されました。しかし本書は、最初にこの世界観を理論化しようとしたのは浄土教の系譜に連なる人々だったものの、それは世界観の変容の原因ではなく結果だった、と指摘します。中世ヨーロッパのように、不可視の他界の膨張は、人類史がある段階で体験する一般的な現象だろう、と本書は指摘します。日本列島では、それに適合的な思想として彼岸の理想世界の実在を説く浄土信仰が受け入れられ、新たな世界観の体系化が促進された、というわけです。

 しかし中世には、全てのカミがその住所を彼岸に移したわけではなく、人と共生する神仏の方がはるかに多かった、と本書は指摘します。中世の仏には、人々を、生死を超えた救済に導く姿形のない普遍的な存在(民族や国籍は意味を持ちません)と、具体的な外観を与えられた仏像の二種類が存在しました。後者は日本の神と同様に日本の人々を特別扱いし、無条件に守護する存在で、「この世のカミ」としての仏です。中世の世界観は、究極の救済者が住む不可視の理想世界と、人が日常生活を送るこの世から構成される二重構造でした。

 この10〜12世紀における世界観の転換は、古代においてカミに宿るとされた特殊な力の源となった、仏像・神像に宿る「聖霊」と呼ばれるような霊魂のごとき存在に対する思弁が展開し、さまざまなイメージが付加されていく延長線上にありました。この大きな転換のもう一つの要因として、疫病や天変地異や騒乱などによる不安定な社会があります。中世は近世と比較してはるかに流動性の高い時代で、人と土地との結びつきは弱く、大半の階層は先祖から子孫へと受け継がれる「家」を形成できず、死者を長期にわたって弔い続ける社会環境は未熟でした。不安定な生活で継続的な供養を期待できないため、人は短期間での完全な救済実現を望みました。

 中世人にとって大きな課題となったのは、当然のことながら浄土を実際に見た人がおらず、その実在を信じることが容易ではなかったことでした。そこで、浄土の仏たちは自分の分身をこの世に派遣し、人々を励ました、と考えられました。それが「垂迹」で、あの世の仏がこの世に具体的な姿で出現することを意味します。不可視の本地仏の顕現こそが、中世の本地垂迹の骨子となる概念でした。垂迹を代表する存在が、菩薩像や明王像・天部の像を含む広義の仏像(この世の仏)でした。11〜14世紀に大量の阿弥陀像が造立され、人々が仏像に向かって浄土往生を願ったのは、阿弥陀像が浄土にいる本地仏(あの世の仏)の化身=垂迹だったからです。

 この世の仏で仏像より重要な役割を担うと信じられたのは、往生を願う者の祈りに応えてその場に随時化現する垂迹(生身)でした。これは、彼岸の仏がある人物のためだけに特別に姿を現す現象なので、祈願成就を意味すると解釈され、とくに尊重されました。仏像や生身仏とともに垂迹を代表するのが、日本の伝統的な神々でした。中世の本地垂迹は、彼岸世界の根源神と現世のカミを垂直に結びつける論理でした。それをインドの仏と日本の神との同一地平上の平行関係として、現世内部で完結する論理として理解しようとする立場は、彼岸世界が縮小し、人々が不可視の浄土のイメージを共有できなくなった近世以降の発想でした。

 垂迹として把握されていたのは、仏像と日本の神だけではなく、聖徳太子や伝教大師や弘法大師などの聖人・祖師たちでした。垂迹としての聖人の代表が聖徳太子で、古代には南岳慧思の生まれ変わりと考えられていましたが、中世には、極楽浄土の阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩の垂迹との説が主流となりました。古代における日中という水平の位置関係から、中世における極楽浄土と此土という垂直の位置関係で把握されたわけです。親鸞も若いころに真実の救済を求めて聖徳太子の廟所を訪れました。インドに生まれた釈迦も垂迹とされ、その意味では聖徳太子と同水準の存在とみなされました。

 中世人に共有されていた根源的存在のイメージは、それと結びつくことにより、日常的なものや卑俗なものを聖なる高みに引き上げる役割を果たすことも多くありました。差別の眼差しに晒された遊女の長者が、普賢菩薩の化身とされたり、身分の低い牛飼い童が生身の地蔵菩薩とされたりしました。日頃差別される人々を聖なる存在の化身とする発想は非人でも見られ、文殊菩薩が非人の姿で出現する、と広く信じられていました。社会的弱者や底辺層の人々であっても、他界の根源神と結びつくことにより、現世の序列を超えて一挙に聖性を帯びた存在に上昇することがある、と考えられていたわけです。

 垂迹の使命は末法の衆生救済なので、その所在が聖地=彼岸世界の通路とみなされることはよくありました。善光寺や春日社や賀茂社などは、霊場として人々を惹きつけていきました。他界への通路と考えられた霊験の地は多くの場合、見晴らしのよい山頂や高台に設けられました。寺院では、垂迹の鎮座する「奥の院」は、高野山や室生寺や醍醐寺に典型的なように、寺内の最も高い場所に置かれました。これは、山こそがこの世で最も清浄な地であるという、古代以来の観念を背景としたものでした。山を不可欠の舞台装置として、周囲の自然景観を取り入れた中世の来迎図は、自然の風景が登場しない敦煌壁画の浄土変相図などとは異なり、日本の浄土信仰が大陸とは異なった方向に発展したことを端的に示す事例でした。

 こうした中世の世界観は、仏教者により占有されたとも言えます。これに違和感を抱いたり反発したりしたのが、神祇信仰に関わる人々でした。平安時代後期から「神道五部書」などの教理書が作成されるようになり、「中世神道」と呼ばれる壮大な思想世界が構築されていきました。その中心的課題は、人が感知できない根源者の存在証明とその救済機能でした。13世紀後半、伊勢において新たな神祇思想の流れが起き、度会行忠たち外宮の神官たちにより伊勢神道が形成されました。伊勢神道の聖典である神道五部書では、仏教や道教の思想的影響下で、この世を創生し主宰する唯一神の観念が成長していきます。国常立神や天照大神は超越性が格段に強化され、伊勢神道は仏教界が「本地」という概念で自らに取り込んだ根源的存在を、仏教から切り離して神祇信仰側に引き入れようとしました。伊勢神道の影響を受けた慈遍は、南北朝時代に国常立神を永遠不滅の究極的存在にまで高め、仏教が独占してきた究極的存在=本地仏の地位を神に与えました。こうして中世には、仏教・道教・神祇信仰といった枠組みを超えてカミの形而上学的考察が進み、不可視の究極者に対する接近が思想の基調となりました。人種や身分の相違を超えて、全ての人が等しく巨大な超越者の懐に包まれている、というイメージが中世人の皮膚感覚となります。

 救済者としてのカミに対する思弁の深化は、一方で被救済者としての人の存在について考察の深まりをもたらしました。救済を追求していくと、平凡な人が生死を超越できるのか、という疑問に正面から向き合わざるを得なくなるからです。人が救済されるための条件を思索するうちに、万人の持つ内なる聖性が発見されていきます。カミが徹底して外部の存在とされた古代に対して、中世では人に内在するカミが発見されていきます。人の肉体を霊魂の宿る場と考え、霊魂が体から離れて帰れなくなる事態を死とみなす発想は古代から存在しました。「タマ」と呼ばれた霊は、容易に身体を離れる存在でした。

 中世には、仏教の内在する「仏性」の観念と結びつき、その聖性と超越性が高まっていきます。仏教、とくにアジア東部に伝播した大乗仏教では、全ての人が仏性を持つことは共通の大前提でした(一切衆生、悉有仏性)。全ての人は等しく聖なる種子を持っており、修行を通じてその種子を発芽させて育てていくことにより、誰もが仏になれる、というわけです。こうした理念は古代日本にもたらされていましたが、超越的存在が霊威を持つ外在者のイメージで把握されていた古代社会では、内在する聖性という理念が大衆に受容され、定着することはできませんでした。聖なる存在への接近は、首長や天皇など選ばれた人が特別の儀式を経て上昇するか、修行者が超人的な努力の積み重ねにより到達できる地位でした。

 一方、万人に内在する仏性が発見された中世では、カミへの上昇は特別な身分や能力の人に限定されず、誰もが仏になれました。根源的存在は、絶対的な救済者であると同時に森羅万象に偏財しており、人は心の中の内なる仏性を発見し、発現することにより自らを聖なる高みに上昇させられる、との理念が人々に共有されるようになります。人と超越的存在を一体的に把握する発想は神祇信仰でも受容され、その基調となりました。一方的に託宣を下して祟りをもたらした古代の神が、宇宙の根源神へと上昇していくと同時に、個々人の心の中にまで入り込み、神は究極の絶対的存在故にあらゆる存在に内在する、と考えられました。こうした理念は、「神は正直の頭に宿る」、「心は神明の舎なり」といった平易な表現の俗諺として、衆庶に浸透していきます。

 いわゆる鎌倉仏教は、戦後日本の仏教研究の花形で、鎌倉時代に他に例のないほど仏教改革運動が盛り上がり、その大衆化が進んだのはなぜか、と研究が進みました。その後、鎌倉仏教を特別視するような見解は相対化されてきましたが(関連記事)、鎌倉時代における仏教の盛り上がり自体はほとんど否定されていません。鎌倉仏教に共通するのは、方法論の違いはあっても、身分や地位や学識などの相違に関わらず万人が漏れなく救済される、という強い確信です。悉有仏性の理念はインドの大乗仏教にすでに備わっていましたが、日本では上述のように古代には開花せず、絶対的な救済者と俗世を超える彼岸世界の現実感が人々に共有され、万人が聖性を内在しているという理念が社会に浸透した中世に初めて、生死を超えた救済の追求が可能となる客観的条件が整い、その延長線上に鎌倉仏教が誕生します。

 古代から中世への移行に伴うこうした世界観の変容は、王権の在り様にも重大な転換をもたらしました。古代の天皇は、アキツミカミとしての自身の宗教的権威により正当化されるだけではなく、律令制、皇祖神や天神地祇や仏教の諸尊など外部のカミにより、守護されていました。中世に彼岸世界のイメージが膨張すると、現世的存在である天皇は、もはや他界の根源神の仲間に加わることはできませんでした。天皇は一次的な権威になり得ない、というわけです。天皇は、古代のように同格のカミとの連携ではなく、より本源的な権威に支えられる必要性が生じます。

 12世紀に、伝統仏教で「仏法」と「王法」の協力関係の重要性が主張されるようになり、「仏法王法相依論」として定式化されます。これは、世俗権力の存続には宗教的権威による支援が不可欠とする、中世的な王権と仏教との関係を端的に表現していました。これは伝統仏教側から主張されましたが、同じ世界観を共有する王権も強く規定しました。王権の側は、仏法により外側から守護してもらうだけではなく、根源的存在との間に直接的通路を設けようとしました。古代では、原則として天皇が仏教と接触することは禁忌とされていましたが、12世紀以降、即位式の前に仏教的儀式が行なわれるようになり、天皇が大日如来に変身する即位灌頂などがあります。しかし、中世において天皇を神秘化する言説も散見されるものの、天皇が地獄や魔道に堕ちる話はずっと多く、王権側の試みは必ずしも奏功しませんでした。この世の根底に存在する人知を超えたカミの意思に反した場合、神孫である天皇でさえ失脚や滅亡から逃れられない、との理念が中世社会では共有されていました。中世人は、自身と天皇との間に、隔絶する聖性の壁を認めませんでした。天皇もあの世のカミの前では一人の救済対象にすぎなかった、というわけです。

 天皇の即位儀礼として最重視されていた大嘗祭が、応仁の乱の前年から200年以上にわたって中断された背景は、政治的混乱や経済的困窮だけではなく、皇祖神の天照大神の「この世のカミ」としての位置づけ=二次的権威化に伴い、大嘗祭が天皇神秘化の作法としてほとんど意味を喪失したことにもありました。こうした中世固有の世界観を前提として、他界の根源神の権威を現世の王権の相対化の論理として用いることにより、天皇家から北条への「国王」の地位の移動=革命を明言する日蓮のような宗教者も出現します。


●中世から近世へ

 中世前期に確立する、人の内面に超越的存在(カミ)を見出だそうとする立場は、中世後期にいっそう深化し、宗派の別を超えて共有されるとともに、芸能・文芸・美術などの分野に広範な影響を与えました。人のありのままの振る舞いが仏であり神の姿そのものとされたわけです。こうした思潮に掉さして発展し、浸透していくのが本覚思想(天台本覚思想)です。本覚思想では、ごく普通の人が如来=仏そのものと説かれています。人は努力と修行を重ねて仏という高みに到達するわけではなく、生まれながらにして仏であり、仏になるのではなく、自分が仏と気づきさえすればよい、というわけです。こうした思想に基づく文献が、最澄や良源や源信といった天台宗の高僧の名で大量に偽作され、流通していきました。

 カミ=救済者を人と対峙する他者として設定するキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教の特質は、人が到達すべき究極の目標を救済者と同水準に設定するところにありました。釈迦がたどり着いた仏の境地は釈迦だけの特権ではなく、万人に開かれたものであり、真実の法に目覚め、胸中の仏性(仏の種)を開花させることにより、誰もが仏になれる、というわけです。しかし、成仏に至る過程は、時代と地域により異なります。大まかな傾向として、人と仏との距離は、時代が下るにつれて、東方に伝播するにつれて短くなります。

 大乗仏教では「一切衆生、悉有仏性(聖性の遍在)」が強調されましたが、とりわけ日本では、人と仏は接近して把握される傾向が強く、その延長線上に生まれたのが本覚思想でした。本覚思想は二元的世界観とそれを前提とする浄土信仰が主流だった中世前期には、まだ教団教学の世界に留まっていましたが、中世後期には広く社会に受容されていきます。成仏を目指した特別の修行を不要とするような極端な主張は、日本以外の仏教ではほとんど見られません。絶対者を追求し続けた中世の思想家たちは、万物へのカミの内在の発見を契機に、その視点を外部から人の内面へと一気に転じました。カミはその超越性ゆえにあらゆる事物に遍在する、というわけです。超越性の追求が、キリスト教やイスラム教で見られるような人とカミの隔絶という方向ではなく、万物への聖性の内在という方向に進むところに、日本の神観念の特色がありました。

 こうした傾向の延長線上として、法然や日蓮など中世前期の思想に見られるような、救済者と彼救済者、浄土と此土といった厳しい二元的対立が解消されていきます。法然や日蓮においては、救済者は人と対峙する存在として超越性が強調されていましたが、その後継者たちは、救済者の外圧的・絶対的性格が薄められ、宇宙と人への内在が強調されるようになります。仏に手を引かれて向かうべき他界浄土のイメージがしだいに希薄化し、救済者と彼救済者、他界と現世の境界が曖昧となり、彼岸が現世に溶け込んでいきます。

 いわゆる鎌倉仏教において、その転換点に位置するのが一遍でした。一遍は浄土教の系譜に位置づけられますが、その救済論は、救済者としての阿弥陀仏と彼救済者としての衆生との間の厳しい葛藤と緊張を想定した法然の対極に位置し、仏は何の抵抗もなく彼救済者の体内に入っています。浄土は死後に到達すべき遠い他界ではなく、信心が確立した時、その人は阿弥陀仏の命を譲り受けている、というわけです。こうした発想は一遍に留まらず、中世後期の浄土信仰の主流となっていきます。救済者と彼救済者の境の曖昧化という方向性は、宗派を超えて中世後期の思想界の一大潮流となります。

 中世から近世への転換期において、外在する他界のカミが存在感を失っていくもう一つの原因は、政治権力に対する宗教勢力の屈伏でした。浄土真宗と法華宗(日蓮宗)ではとりわけ一揆が盛んで、両派は中世でもとりわけ他界の仏の超越的性格を強調しました。日本史上、外在する絶対的存在としてのカミのイメージが最も高揚したのは戦国時代の宗教一揆で、異次元世界にある万物の創造主を想定するキリスト教の思想も、そうした時代思潮を背景に受け入れられていきました。一向一揆が平定され、島原の乱が鎮圧されると、その背景にあった強大な超越者もその力を喪失し、カミの内在化という時代趨勢に呑み込まれ、現実世界に溶け込んでいきました。

 こうした過程を経て宗教的な理想世界のイメージが内在化・後景化した近世では、政治権力の正当性は他界のカミとの関係性ではなく、純然たる現実社会の力学から生み出されることになりました。人間関係の非対称性が、現世内部だけの要因により再生産される時代が到来したわけです。この新たに誕生した幕藩制国家に国制の枠組みと政治的権威を提供したのが天皇でした。天皇を頂点とする身分序列と天皇が授与する官位の体系は、国家水準での秩序を支える最上位の制度として、中世と比較して飛躍的に重みを増すことになりました。

 中世後期には、人の内側だけではなく、自然界にもカミとその働きを見ようとする指向性が強まりました。その思潮を理論的に裏づけたのが本覚思想で、草木から岩石に至るこの世の一切の存在に仏性を見出し、眼前の現実をそのまま真理の現れとして受け入れていこうとする立場は、「草木国土悉皆成仏」という言葉で概念化されて広く流通しました。人以外の生物や「非情(心を持たない)」という分類で把握される草木が人と同じように成仏できるのかという問題は、仏教発祥地のインドでは主要な問題とはならず、初期仏教で最大の関心事は、人はいかに生きるべきか、という問題でした。「草木国土」のような人を取り巻く存在に視線が向けられ、その救済が議論されるようになったのは、アジア東部に定着した大乗仏教においてでした。

 隋代の天台智は「一念三千」という法門を説き、この世界のあらゆる存在に仏性が遍く行き渡っていると論じ、草木や国土の成仏を肯定するための理論的基盤が確立されました。これを万物の成仏という方向に展開したのが平安時代前期の天台僧安然で、初めて「草木国土悉皆成仏」という言葉が生み出され、その延長線上に仏国土=浄土とする本覚思想が開花します。本覚思想では、理想世界は認知不可能な異次元空間に存在したり、現実の背後に隠れたりしているわけではなく、眼前の光景が浄土でした。室町時代には、古い道具が妖怪に変身する付喪神が絵画として表現されるようになりますが、これもそうした時代思潮を背景としていました。

 上述のように、古代において山に神が棲むという観念は一般化していても、山そのものを神とする見方はまだなく、山をまるごと御神体として遥拝する信仰形態の普及は、自然にカミを見出す「草木国土悉皆成仏」の理念が浸透する中世後期になって初めて可能となる現象でした。日本的な自然観の典型とされる山を神とみなす思想は、太古以来の「アニミズム」の伝統ではありませんでした。記紀神話における山の人格化は、人と自然を同次元の存在として、対称性・連続性の関係で把握する発想に基づいていました。人々が山に畏敬の念を抱いても、タマ(霊)が宿っているから山を拝むという発想は、古代には存在しませんでした。一方、神体山の信仰は、カミの自然への内在化という過程を経て出現する、高度に抽象化された中世の思想を背景としていました。「草木国土悉皆成仏」の思想は室町時代の芸術諸分野に広く浸透しました。

 内在するカミという概念は、中世前期には抽象的な理念の段階に留まっており、万人をカミに引き上げる論理として現実に機能することは殆どありませんでした。人のカミへの上昇(ヒトガミ)は、中世前期には聖徳太子など選ばれた人に限られており、それも本地垂迹の論理により彼岸の本地仏との関係で説明され、一般人はまだ救済の対象でした。しかし、中世後期には現実の光景と超越的存在との境目が次第に曖昧化し、現実の人がありのままの姿で仏だと強調され、そうした認識が思想界の主流を占めるようになります。これは、彼岸の超越的存在に媒介されない、新たなヒトガミの誕生を意味します。人は救済者の光を浴びてカミに上昇するのではなく、自らに内在する聖性によりカミになる、というわけです。これは仏教の世界に留まらず、中世後期にはまだ権力者や神官など特殊な人物に限定されているものの、古代の天皇霊とは異なり、人が自らの意志により生きたまま神に上昇できるようになります。神は誰もがじっさいに到達可能な地位とされ、神と人との距離は接近します。こうした思潮を神祇信仰で理論化したのが、吉田神道の祖とされる吉田兼倶でした。

 世俗社会の普通の人が実は神仏の姿そのものとの認識は、聖性発現によりカミへの上昇を目指す宗教的実践の軽視に結びつきました。これにより大きな問題となったのが、信仰の世界への世俗的要素の侵入です。中世において、寺社勢力の組織化と広大な荘園領有といった世俗化が進展した一方で、信仰世界から世俗的要素を締め出そうとする傾向も強くありました。しかし、中世後期における聖俗の緊張関係の弛緩は、信仰の世界への世俗的要素侵入の道を開きました。

 こうした理想世界と現世との一体化は、現実社会を相対化して批判する視点の喪失をもたらしました。中世前期に見られた信仰至上主義と信心の純粋化を目指す運動は、俗権に対する教権の優位を主張するとともに、信仰世界に向けられた権力の干渉の排除を指向しました。支配権力の意義は正しい宗教を庇護することにあり、その任務を放棄すれば、支配権力は正統性を失い、死後には悪道に堕ちることさえ覚悟しなければなりません。中世の文献に多数出現する天皇の堕地獄譚は、そうした思想状況を背景としていました。しかし、根源神が眼前の自然に溶け込んでしまうと、宗教者がカミの権威を後ろ盾としてこの世界の権力を相対化するような戦略は取れなくなりました。浄土が現世と重なりあったため、理想の浄土に照らして現状を批判するという視座も取れませんでした。この世に残ったカミからは、その聖性の水源が枯れてしまったことを意味するわけです。

 彼岸の根源神を背後に持たない日本の神仏には、もはや人々を悟りに導いたり、遠い世界に送り出したりする力はなく、神も仏も人々のこまごまとした現世の願いに丹念に応えていくことに、新たな生業の道を見出していきます。誰もがカミになれるので、より強大な権力を握る人物が、より巨大なカミになる道が開けました。中世前期のように他界の絶対者の光に照らされたカミになるわけではなく、中世後期には自らの内なる光源によりヒトガミが発生しました。その光源には、身分や地位や権力といった世俗的要素が入り込み、やがて主要な地位を占めるに至ります。

 聖俗の境界の曖昧化は、差別の固定化にもつながりました。とくに問題となったのは「穢れ」で、中世には社会の隅々にまで穢れ観念が浸透します。中世前期には、神が垂迹することは万人をはぐくみ助けるためで、本地の慈悲の心が垂迹にまとわりついた習俗としての忌に優先する、と考えられました。平安時代中期以降、女性は穢れた存在との見方が広まり、清浄な山への立ち入りが制限されていきましたが(女人結界)、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちは、法然や親鸞のように女人罪障の問題にほとんど論及せず、弥陀の本願による平等の救済を強調するか、道元のように女性固有の罪障や女人結界そのものを否定しました。

 日本における穢れの禁忌は、その対極にある神仏との関係において肥大化し、中世において穢れ意識を増幅させるこの世の神仏とは、彼岸の仏の垂迹に他なりませんでした。禁忌に拘束されない事例は、いずれも垂迹の背後の本地仏=根源的存在の意思が働いたためでした。穢れ意識が拡大し、差別の網の目が社会に張り巡らされるかのように見える中世において、彼岸の根源的存在との間に直結した回路を設けることで、差別を一気に無化していく道筋が承認されていたわけです。しかし、不可視の彼岸世界と絶対的な救済者の現実感が褪色していくにつれて、本地仏の力により差別を瞬時に克服する方途は次第に縮小していき、社会において特定の身分と結びついた穢れと差別意識の固定化につながりました。その延長線上に、社会の穢れを一手に負わされた被差別民が特定の地区に封じ込められ、その刻印を消し去る道がほぼ完全に封じられた、近世社会が到来します。

 中世後期に進展する本源的存在の現実感の希薄化(彼岸の縮小と救済者としての本地仏に対する現実感の喪失)は、人々の関心を再び現世に向かわせます。彼岸の浄土は、もはや人々に共有されることはなく、人々を惹きつけてきた吸引力が失われていきます。近世にも浄土信仰はありましたが、仏の来訪はほとんど問題とされず、超越者からの夢告も重視されなくなり、個人的体験としての来迎仏=生身仏との遭遇が信仰上の価値を失い、仏像などの定型化した形像の役割が再浮上してきます。

 中世前期には、大半の人にとって現世での生活よりも死後の救済の方が切実な意味を持ち、来世での安楽が保証されるなら、この世の生を多少早めに切り上げてもよい、と考えられていました。不安定で流動的な生活と、死の危険に満ちた社会が、現世を相対化する認識の背景にありました。こうした世界観が中世後期に大きく転換する背景として、惣と呼ばれる地縁共同体が各地に生まれ、全構成員により村落運営が決定されるようになったことがあり、人々の土地への定着と、先祖から子孫へと継承される「家」の形成が庶民層まで下降しました。こうして、突然落命する危険性は中世と比較して大きく減少し、この世の生活自体がかけがえのない価値を有している、との見方が広く定着しました。浮世での生活を精一杯楽しみ、死後のことは死期が近づいたら考えればよい、という近代まで継続する新たな世界観と価値観が形成されたわけです。

 この中世後期に起きた世界観の旋回は、人生観だけではなく、死後世界のイメージも大きく転換させました。他界浄土の現実感が失われた結果、死者は遠い世界に旅立たなくなり、死後も懐かしい国土に留まり、生者と交流を継続することが理想と考えられるようになりました。カミだけではなく死者の世界でもこの世への回帰が開始され、冥界が俗世の延長として把握されるようになり、現世的要素が死後世界に入り込んでくるようになります。こうした転換を承けて神や仏が新たな任務として見出したのが、この世に共生する人と死者の多彩な欲求に応えていくことでした。とげ抜き地蔵や縛り地蔵などさまざまな機能を持ったカミが次々と誕生し、「流行神」が生まれては消えていきました。他界への飛翔を実現すべく、垂迹との邂逅を渇望して一直線的に目的地を目指した中世前期の霊場参詣とは異なり、平穏で満ち足りた生活を祈りながら、娯楽を兼ねて複数の神仏を拝む巡礼が、中世後期以降の霊場信仰の主流となります。

 中世前期には、彼岸の浄土とこの世の悪道の二者択一を死者は求められましたが、死後世界のイメージの大きな転換に伴い、そのどちらにも属さない中間領域が出現し、中世後期には急速にその存在感を増していきます。救済がまだ成就しない者たちは山で試練を受けている、といった話が語られるようになります。こうした中間領域など死後世界の世俗化が進み、死後の理想の在り様が生者の願望に引きつけて解釈されるようになり、人がこの世において生死を繰り返すだけで、どこか別の世界に行くことはない、との語りも登場します。仏はもはや人を他界に誘うことも、生死を超えた悟りへと導くこともなく、人が生死どちらの状態でも平穏な生活を送れるよう、見守り続けることが役割となります。

 近世人は、他界浄土の現実感を共有できず、遠い浄土への往生を真剣に願うことがなくなります。近世人にとって、人から人への循環を踏み外すことが最大の恐怖となり、その文脈で地獄など悪道への転落が忌避されました。ただ、いかに彼岸の現世化が進んだとはいえ、檀家制度が機能して仏教が圧倒的な影響力を有していた近世には、死者は仏がいて蓮の花の咲く浄土で最終的な解脱を目指して修行している、という中世以来のイメージが完全に消え去ることはありませんでした。しかし、幕末に向かうにつれて他界としての浄土のイメージがさらに希薄化すると、死後世界の表象そのものが大きく変わり、死者の命運をつかさどる仏の存在がさらに後景化し、ついには死後の世界から仏の姿が消え去ります。こうした世俗化の中で、近世には妖怪文化が開花し、妖怪は現実世界内部の手を伸ばせば触れられるような場所に、具体的な姿形で居住する、と描かれました。

 死者がこの世に滞在し、俗世と同じような生活を送ると考えられるようになると、死者救済の観念も変わっていきます。死者がこの世に留まるのは、遠い理想世界の観念が焼失したからで、死者を瞬時に救ってくれる絶対的な救済者のイメージが退潮していきます。仏はもはや人を高みに導く役割を果たさず、死者を世話するのはその親族でした。中世後期から近世にかけて、死者供養に果たす人の役割が相対的に浮上し、それは「家」が成立する過程と深く連動していました。この動向は支配階層から始まり、江戸時代には庶民層にまで拡大していき、江戸時代後期には裕福な商人層や上層農民からより下層へと降りていきます。死後の生活のイメージも変化し、生者が解脱を求めなくなるのと同様に、死者も悟りの成就を願わなくなり、世俗的な衣食住に満ち足りた生活を理想とするようになります。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、現実世界のどこかしかるべき地点になりました。「草葉の陰で眠る」というような死者のイメージが、近世には定着していきます。

 親族が死者の供養を継続するには、死者を記憶し続けることが不可欠でした。これにより、死者は次第に生前の生々しい欲望や怨念を振り捨てて、安定した先祖にまで上昇できる、と信じられました。中世には墓地に埋葬者の名が刻まれることはなく、直接記憶する人がいなくなると匿名化しました。死者は、その命運を彼岸の仏に委ねた瞬間に救済が確定するので、遺族が死者の行く末を気にする必要はありませんでした。しかし、遺族が供養を担当するようになると、死者が墓で心地よく眠り続けるために、生者の側がそのための客観的条件を整えねばならなくなります。墓は、朝夕にありがたい読経の声が聞こえる、寺院の境内に建てられる必要がありました。近世初頭には、墓地を守るための多数の寺院が新たに造営されました。さらに、縁者は死者が寂しい思いをしないですむよう、定期的に墓を訪問したり、時には死者を自宅に招いたりしなければなりませんでした。こうした交流を通じて、死者は徐々に神の段階=「ご先祖さま」にまで上昇する、と信じられました。死者は、中世には救済者の力により瞬時にカミに変身しましたが、近世には生者との長い交渉の末にカミの地位に到達しました。

 ただ、全ての死者が幸福な生活を送ったわけではなく、近世でも冷酷な殺人や死体遺棄や供養の放棄など、生者側の一方的な契約不履行は後を絶ちませんでした。そのため、恨みを含んで無秩序に現世に越境する死者も膨大な数になった、と考えられました。こうした恨みを残した人々は、幽霊となって現世に復讐に現れる、と考えられました。中世にも未練を伸してこの世をさまよう死霊はいましたが、大半は権力者のような特別な人物で、その結末は復讐の完結ではなく、仏の力による救済でした。近世には、誰でも幽霊になる可能性があり、その目的は宗教的な次元での救済ではなく、復讐の完遂でした。


●近世から近代へ

 上述のように、近世には誰もが自らの内なる光源によりカミとなれ、それは俗世の身分や権力を強く反映するものでした。近世初頭にまずカミとなったのが最高権力者である豊臣秀吉や徳川家康といった天下人だったことには、そうした背景がありました。天下人に続いて近世において神として祀られたのは、大名や武士でした。近世後期になると、カミになる人々の階層が下降するとともに、下からの運動で特定の人物が神にまで上昇する事例も見られ、その一例が天皇信仰です。以前よりも下層の人物がカミと崇められるようになった事例としては、治水工事などで人柱となった者がいます。人柱は古代にもありましたが、それは多くの場合、神からの供犠の要求でした。一方、近世の人柱は、神に要求されたからではなく、同じ村落などの他者への献身のためでした。また、こうした覚悟の死ではなく、日常の些細な問題を解決してくれた人が、神に祭り上げられることもあり、頭痛や虫歯など多彩な効能を持つヒトガミが各地に出現しました。近世後期には、誰もが状況によりカミとなれる時代で、世俗社会に先駆けて、神々の世界で身分という社会的縛りが意味を失い始めていました。

 幕末には世俗ではとくに他界身分ではない人々がイキガミとされ、そのイキガミを教祖としてさまざまな「民衆宗教」が誕生しました。それは黒住教や天理教や金光教などで、教祖は自ら神と認めていたものの、神としての権威を教祖が独占することはなく、広く信徒や庶民に霊性を見出だそうとしました。こうした理念が直ちに身分制撤廃といった先鋭的な主張に結びつくわけではなく、それぞれの分に応じて勤勉に励むことでより裕福になれる、という論理が展開されました。しかし、神人同体観な基づく人としての平等が主張され、その認識が社会に根づき始めていたことは重要で、富士講に身分を超えた参加者がいることに、幕府は警戒するようになります。

 これと関連して、近世には石田梅岩などにより通俗道徳が庶民層にも流通します。これを封建社会の支配イデオロギーと見ることもできるかもしれませんが、近代社会形成期に特有の広範な人々の主体形成過程を読みとる見解もあります。こうした石門心学などの思想には、人に内在する可能性を認めて社会での発現を是とする、民衆宗教と共通する人間観があり、近世に広く受容された、善としての本性を回復すれば全ての人間が聖人になれると説く朱子学や、人が持つ本源的可能性を肯定し、その回復のための実践を強調する陽明学とも共通していました。自分の職分の遂行により自らを輝かすことが肯定されるような新しい思潮は、近世後期の社会に着実に広がり始めていました。

 一方、誰もが自らの内なる光源でカミに上昇できる、との観念が広く定着した近世後期には、まったく異なる文脈で人をカミに上昇させようとする論理が次第に影響力を増していきました。それは、山崎闇斎に始まる垂加神道と、それに影響を与えた吉田神道が主張する、天皇への奉仕により死後神の座に列なることができる、という思想です。吉田神道や垂加神道では、特定の人物の霊魂に「霊神」・「霊社」号を付与して祀ることが行なわれていました。その系譜から、天皇との関係において人を神に祭り上げる論理が生み出され、実践されていきます。この場合の天皇の聖性は、上述の下からの運動による天皇信仰とは似て非なるものでした。庶民が心を寄せる小さな神々の一つだった天皇とは異なり、垂加神道における天皇は人をカミに上昇させる媒体として位置づけられ、通常の神々を凌ぐ強い威力の存在とみなされました。垂加神道では、肉体は滅びても霊魂は永遠に不滅で、生前の功績により人は神の世界に加わることができ、霊界でも現実世界と同様の天皇中心の身分秩序が形成されていました。天皇に対する献身の度合いによっては、現世の序列を一気に飛び越えることも可能になったわけです。垂加神道は、死後の安心を天皇信仰との関わりにおいて提起した点で、画期的意味を持ちました。

 幕末に向けての、こうしたヒトガミもしくはイキガミ観念の高揚も、民衆宗教と同様に、人の主体性と可能性を積極的に肯定しようとする時代思潮の指標とみなせます。垂加神道では天皇、民衆宗教では土着の神という相違点はありましたが、仏教やキリスト教など外来宗教のカミではなく、日本固有の(と考えられていた)カミが再発見されていくわけです。人々の肯定的な自己認識と上昇指向は、19世紀には幕藩体制下での固定化された身分秩序を負の制約と感じる段階にまで到達していました。現実の秩序を一気に超越しようとする願望は、民衆の深層意識の反映でした。

 こうした時代思潮を背景にした幕末維新の動乱は、単なる政治闘争ではなく、長期間の熟成を経た新たな人間観のうねりが既存の硬直化した身分制度に突き当たり、突き破ろうとする大規模な地殻変動でした。明治維新の原動力として、ペリー来航を契機となる日本の国際秩序への組み入れや、下級武士の役割は重要ではあっても副次的要因にすぎず、幕末維新期の動乱の根底には、多様な階層の人々が抱いていた差別と不平等への不満と、そこからの解放欲求がありました。それは明治時代に、自由民権運動などの民衆運動に継承されていきます。

 幕藩体制崩壊後、ヒトガミ指向が内包していた民衆の能動性を国家側に取り込み、国民国家を自発的に支える均質な「国民」を創出するとことが、新たに誕生した天皇制国家の最重要課題となりました。維新政府の政策は、ヒトガミに祀られることを希望するという形で噴出していた人々の平等への欲求と、新国家の精神的な機軸とされたてんのうに対する忠誠とを結びつけることでした。維新政府は、身分を超えた常備軍=国民軍を創出し、その任務を全うして天皇に命を捧げた者は神として再生し、永遠に人々の記憶に留められる、という招魂社の論理を採用しました。招魂社の源流は長州藩にあり、多様な階層の人々が同じく慰霊されました。これが靖国神社へとつながります。人々の上昇と平等化への欲求が、天皇に対する帰依に結びつけられたわけです。

 上述のように、近世には死者が祖霊となるまで供養を続けることが、慰霊の必須要件でしたが、幕末になっても独自の「家」を形成できない身分・階層は多く、そうした人々が、近代国家では天皇のために死ぬことにより、国家の手で神として検証されるわけです。靖国神社は、近世以来のヒトガミ信仰の系譜を継承しながら、近代天皇制国家に相応しい装いで誕生しました。近代天皇制国家において、天皇は民衆を神に変える唯一の媒体である必要があり、近世の国学で提唱され広がった、身分を超えて人々を包摂する特別の地としての「皇国」観念が、そうした方向を裏打ちしました。そのため、元首や統治機構の世俗化を伴う近代国民国家形成の一般的傾向とは対照的に、日本において君主たる天皇の地位が色濃い宗教性を帯びることになりました。近代天皇制国家の宗教性の背景として、日本社会の後進性(成熟した市民社会の不在)に原因を求める見解もありましたが、日本でもヨーロッパでも近代国家成立期の時代背景にあったのは、身分制に対する大衆水準での強い厭悪感情であり、発展段階の差異というよりは、国民国家に向けての二つの異なる道筋と把握できます。

 近代天皇制国家は、人をヒトガミへと引き上げるもう一つの装置である民衆宗教を、淫祠邪教として排撃することで、民衆聖別の権限を独占しようとしました。とくに、大本教や金光教など、天照大神を中核とする天皇制の世界観とは異なる神々の体系を持つ教団に対する圧迫は徹底していました。近代日本ではその当初より、ヒトガミ信仰に現出する民衆の主体性を根こそぎ国家側に搦め捕ろうとする政府と、国家によるヒトガミ創出の占有に抵抗する民衆宗教など在野勢力との激しい綱引きが続きました。

 近代西欧において、世俗権力相対化の役割を果たしたのがキリスト教で、中世から近代の移行に伴って宗教は政治の表舞台から姿を消し、私的領域を活動の場とするようになりました。しかし、その機能は近代社会において「国家権力の犯しえぬ前国家的な個人の基本権」として継承され、発展させられていきました。個々人が最も深い領域で超越的価値(レヒト)とつながっており、それはいかなる権力者にとっても不可侵の聖域でした。近代日本では、現人神たる天皇を何らかの形で相対化できる独立した権威は存在しませんでした。当時、天皇を本当に神とは思っていなかった、との証言は多いものの、表向きには天皇は現人神として神秘化され、その名を用いれば誰も異論を挟めないような客観的状況がありました。天皇の命と言われれば、生命を惜しむことさえ許されませんでしたし、どの宗教団体も、天皇の御稜威を傷つけることは許されず、その権威の風下に立たざるを得ませんでした。

 この背景には、上述のように中世から近世の移行期に起きた宗教勢力の徹底した解体と、宗教的権威の政治権力に対する屈伏がありました。日本は、神や教会の権威そのものが根底から否定されたわけではないヨーロッパとは異なる、というわけです。江戸時代後期から幕末には、幕府などが分担していた政治的権力と権威の一切を天皇に集中するよう、国学者などは目指しました。支配秩序の頂点に立つ天皇を正当化するうえで最も重要とされたのは、外在する超越的存在ではなく、神代以来の系譜を汲む神孫としての天皇自身が見に帯びた聖性でした。こうして、現人神たる天皇が聖俗の権威を独占して君臨する「神国」日本の誕生は準備されました。「神国」の概念はすでに中世で用いられていましたが、それは、仏が遠い世界の日本では神の姿で現れたから、という論理でした。同じ「神国」でありながら、近代のそれは彼岸の超越的存在の前に天皇の機能が相対化されていた中世のそれとは、まったく構造を異にするものでした。

 上述のように、中世にはこの世から分離していた他界が、再びこの世に戻ってきます。この点で古代と近世は同じですが、曖昧な境界のまま死者と生者が混在していた古代に対して、近世では死者と生者の世界が明確に区分され、両者の交渉儀式が事細かに定められました。上述のように、子孫による死者の供養は死者が「ご先祖さま」になるために必須で、祖先の近代天皇制国家も近世以来のこの死者供養を抑圧できず、「ヤスクニの思想」に全面的に吸収しようと試みます。

 中世から近世にかけて世俗社会への転換をもたらしたのは幕府や諸藩で導入された儒学だった、との見解もありますが、因果関係は逆で、現世一元論的な世界観が定着する過程で、それに適合的な生の哲学としての儒学が注目されていった、と考えるべきでしょう。その儒学の大きな問題は、当時の大半の日本人が納得できる死後世界のイメージを提示できなかったことです。日本儒学で大きな影響力を有した朱子学では、人の体は宇宙を構成する「気」の集合により構成され、死ぬとその「気」は離散してその人物の痕跡はやがて完全に消滅し、死後も霊魂は残るものの、遠からず先祖の霊の集合体と一体化する、と考えられました。これは、一部の知識人に受け入れられることはあっても、大衆に広く重用されることは不可能でした。儒学者たちもこの致命的な弱点に気づき、教理の修正を図るものの、仏教が圧倒的に大きな影響力を有する近世において、習俗の水準で大衆の葬送文化に入り込むことは容易ではありませんでした。

 近世の現世主義に対応する体系的な死生観は、仏教以外では国学の系譜から生まれました。とくに大きな役割を果たしたのは平田篤胤で、平田は死後の世界として大国主神が支配する「幽冥」界を想定し、「幽冥」は極楽浄土のように遠い場所にあるのではなく、湖のイ(顕世)と重なるように存在しており、この世から幽冥界を認知できなくとも、暗い場所から明るいところはよく見えるように、幽冥界からこの世はよく見える、と説明しました。平田の想定する幽冥界は、宗教色がきわめて薄く、この世の延長のような場所でした。


●神のゆくえ

 本書はまとめとして、こうした日本におけるカミ観念の変化の原因として、個別的事件や国家の方針転換や外来文化の導入などもあるものの、最も根源的なものは、日本の精神世界の深層で進行した、人々が共有する世界観(コスモロジー)の旋回だった、と指摘します。また本書は、社会構造の変動に伴う世界観の変容が日本列島固有ではなく、さまざまな違いがありつつも、世界の多くの地域で共通する現象であることを指摘します。一回限りの偶然の出来事や外来思想・文化の影響がカミの変貌を生み出すのではなく、社会の転換と連動して、精神世界の奥底で深く静かに進行する地殻変動が、神々の変身という事件を必然のものとする、というわけです。

 「仏教」や「神道」の思想は、基本ソフトとしての世界観によりそのあり方を規定される応用ソフトのような存在だった、と本書は指摘します。これまで、日本列島の思想と文化変容の背景として、仏教の受容が現世否定の思潮を生み出した、中世神話形成の背景に道教があった、ヒトガミ信仰を生み出したのは吉田神道だった、などといった見解が提示されてきました。しかし本書は、この説明の仕方を逆だと指摘します。初めに基本ソフトとしての世界観の変容があり、それが応用ソフトとしての個別思想の受容と展開の在り方を規定する、というわけです。たとえば、日本における初期の仏教受容では、仏教の霊威は全て超人的な力(霊験)で、その威力の源は神と同じく「清浄」性の確保で、悟りへの到達=生死を超えた救いという概念がまったく見られず、この世と次元を異にする他界を想定できない、古代の一元的世界に規定されていました。仏教の因果の理法も人の生死も、この世界の内部で完結し、真理の覚醒といった概念が入り込む余地はありません。

 また本書は、仏教受容が現世否定の思潮を生み出し、浄土信仰を高揚させたわけではない、と指摘します。世界観の展開が大乗仏教の本来の形での受容を可能として、伝統的な神のあり方を変化させた、というわけです。日本の神を日本列島固有の存在と主張しても、それ自体は無意味な議論ではないとしても、そこに神をより広い舞台に引き出すための契機を見出すことはできず、方法としての「神仏習合」も同様です。日本の神を世界とつなげるためには、神を読み解くためのより汎用性の高いフォーマットが求められます。本書は、そうしたフォーマットを追求しています。

 より広く世界を見ていくと、街の中心を占めているのは、神仏や死者のための施設です。それは日本列島も同様で、縄文時代には死者が集落中央の広場に埋葬され、有史時代にも寺社が都市の公共空間の枢要に長く位置していました。現代日本は日常の生活空間から人以外の存在を放逐してしまいましたが、前近代には、人々は不可視の存在や自身とは異質な他者に対する生々しい実在感を共有していました。上述のように、超越的存在と人との距離は時代と地域により異なりましたが、人々はそれらの超越的存在(カミ)の眼差しを感じ、その声に耳を傾けながら暮らしていました。カミは社会システムが円滑に機能するうえで不可欠の役割を担っており、定期的な法会や祭礼は、参加者の人間関係と社会的役割を再確認し、構成員のつながりの強化機能を果たしました。

 人の集団はいかに小さくとも、内部に感情的な軋轢や利害対立が起きます。共同体の構成員は、宗教儀礼を通じてカミという他者への眼差しを共有することで、構成員同士が直接向き合うことから生じるストレスと緊張感を緩和しようとしました。中世の起請文のように、誰かを裁くさいに、人々がその役割を超越的存在に委ねることにより、処罰することに伴う罪悪感と、罰した側の人への怨念の循環を断ち切ろうとしました。カミは人同士の直接的衝突回避のための緩衝材の役割を果たしていました。これは個人間だけではなく、集団間でも同様です。人間中心主義を土台とする近代社会は、カミと人との関係を切断し、人同士が直接対峙するようになります。近代の人間中心主義は人権の拡大と定着に大きく貢献しましたが、個人間や集団間や国家間の隙間を埋めていた緩衝材の喪失も意味します。それは、少しの身動きがすぐに他者を傷つけるように時代の開幕でもありました。

 カミの実在を前提とする前近代の世界観は、人々の死生観も規定していました。現代では、生と死の間に一線を引ける、と考えられています。ある一瞬を境にして、生者が死者の世界に移行する、というわけです。しかし、こうした死生観は、人類史では近現代だけの特殊な感覚でした。前近代では、生と死の間に、時空間的にある幅の中間領域が存在する、と信じられていました。呼吸が停止してもその人は亡くなったわけではなく、生死の境界をさまよっている、と考えられたわけです。その期間の周囲の人々の言動は、背景にある世界観と死生観に強く規定されました。日本列島では、身体から離れた魂が戻れない状態になると死が確定すると考えられており、遊離魂を体内に呼び戻すことにより死者(呼吸の停止した者)を蘇生しようとしました。中世には不可視の理想世界(浄土)が人々に共有され、死者を確実に他界に送り出す目的で追善儀礼が行なわれました。近世には、死者が遠くに去ることなく、いつまでも墓場に住むという感覚が強まり、死者が現世で身にまとった怒りや怨念を振り捨て、穏やかな祖霊へと上昇することを後押しするための供養が中心となりました。

 前近代には、生者と死者は交流を続けながら同じ空間を共有しており、生と死が本質的に異なる状態とは考えられていませんでした。死後も親族縁者と交歓できるという安心感が社会の隅々まで行き渡ることにより、人は死の恐怖を乗り越えることが可能となりました、死は全ての終焉ではなく、再生に向けての休息であり、生者と死者との新たな関係の始まりでした。しかし、死者との日常的な交流を失った現代社会では、人はこの世だけで完結することになり、死後世界は誰も入ったことのない闇の風景と化しました。近代人にとって、死とは現世と切断された孤独と暗黒の世界です。現代日本社会において、生の質を問うことがない、延命を至上視する背景には、生と死を峻別する現代固有の死生観があります。

 これまでに存在したあらゆる民族と共同体にはカミが存在し、不可視のものに対する強い現実感が共同体のあり方を規定していたので、前近代の国家や社会の考察には、その構成要素として人を視野に入れるだけでは不充分です。人を主役とする近代欧米中心の「公共圏」に関わる議論を超えて、人と人を超える存在とが、いかなる関係を保ちながら公共空間を作り上げているのか、明らかにできるかが重要です。これまでの歴史学で主流だった、人による「神仏の利用」という視点を超えて、人とカミが密接に関わりあって共存する前近代の世界観の奥深くに錘鉛を下し、その構造に光を当てていくことが必要です。

 現在、日本列島も含めて世界各地で、現実社会の中に再度カミを引き戻し、実際に機能させようとする試みが始まっているようです。北京の万明病院では、「往生堂」という一室が設けられ、重篤な状態に陥った患者が運ばれ、親族の介護を受けながら念仏の声に送られるというシステムが作り上げられており、敷地内の別の一室では、遺体を前に僧侶を導師として多くの人々が念仏を称え、その儀式は数日間続けられます。一方現代日本の多くの病院では、霊安室と死者の退出口を人目のつかない場所に設けることで、生と死の空間が截然と区別されていますが、臨床宗教師の育成が多くの大学で進められています。

 息詰まるような人間関係の緩衝材として、新たに小さなカミを生み出そうとする動きも盛んです。1990年代以降の精神世界探求ブームはそうでしたし、ペットブームもその無意識の反映と考えられます。現代日本で多く見られるゆるキャラも、現代社会の息詰まるような人間関係の緩衝材で、心の癒しと考えられます。現代日本社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みかもしれません。欧米諸国と比較すると、日本は今でも自然とカミとの連続性・対称性を強く保持する社会です。現代人は、近代草創期に思想家たちが思い描いたような、直線的な進化の果てに生み出された理想社会にいるわけではありません。近代化は人類にかつてない物質的な繁栄をもたらした一方で、昔の人が想像できなかったような無機質な領域を創り出しました。現在の危機が近代化の深まりの中で顕在化したのならば、人間中心の近代を相対化できる長い間隔のなかで、文化のあり方を再考していく必要があります。

 これは、前近代に帰るべきとか、過去に理想社会が存在したとかいうことではありません。どの時代にも苦悩と怨嗟はありましたが、現代社会を見直すために、近代をはるかに超える長い射程の中で、現代社会の歪みを照射していくことが重要になる、というわけです。これまでの歴史で、カミは人にとって肯定的な役割だけを果たしてきたわけではなく、カミが人を支配する時代が長く続き、特定の人々に拭い難い「ケガレ」のレッテルを貼って差別を助長したのもカミでした。カミの名のもとに憎悪が煽られ、無数の人々が惨殺される愚行も繰り返されてきました。人類が直面している危機を直視しながら、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化により失われたものも含めて発掘していくことこそ、現代人に与えられている大切な課題かもしれません。


参考文献:
佐藤弘夫(2021)『日本人と神』(講談社)


https://sicambre.at.webry.info/202110/article_16.html  


夢を諦めない。サン・プラザホームの夢をプラスする家「+Dream(プラスドリーム)」
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雑記帳
2019年07月06日
佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E5%9B%BD%E3%80%8D%E6%97%A5%E6%9C%AC-%E8%A8%98%E7%B4%80%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%AD%E4%B8%96%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%B8-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E4%BD%90%E8%97%A4-%E5%BC%98%E5%A4%AB/dp/4065121264


 講談社学術文庫の一冊として、2018年6月に講談社より刊行されました。本書の親本『神国日本』は、ちくま新書の一冊として2006年4月に筑摩書房より刊行されました。以前、当ブログにて本書を取り上げましたが、制限字数の2万文字を超えてしまったので、前編と後編に分割しました。今週(2019年7月2日)、ウェブリブログの大規模メンテナンスおよびリニューアルにより、制限文字数が約13万文字に増えたので、記事を一つにまとめることにしました。以下、本文です。


 本書の親本を刊行直後に購入して読み、たいへん感銘を受けたので、何度か再読したくらいです。その後、また再読しようと思っていたところ、講談社学術文庫として文庫版後書が付け加えられて刊行されたことを知り、購入して読み進めることにしました。しっかり比較したわけではないのですが、本文は基本的に親本から変更はないようです(誤字の訂正はあるかもしれませんが)。以前、本書を改めて精読したうえで、当ブログで詳しく取り上げるつもりだ、と述べたので(関連記事)、この機会に以下やや詳しく本書の内容について述べていきます。


 本書はまず、現代日本社会における神国・神国思想の認識について論じます。現代日本社会では、神国思想についてある程度共通の認識はあるものの、その内実には揺らぎもあり、何よりも、好きか嫌いか、容認か否定かという立場が前提となって議論が展開されています。しかし、日本=神国の主張が実際にいかなる論理構造なのか、立ち入った考察がほとんどない、と本書は指摘します。神国思想の内容は議論の余地のないほど自明なのか、と本書は問題提起します。神国思想の論理を解明すべき学界では、神国思想は当初、公家政権側が自己正当化のため唱えた古代的思想と評価され、その後、鎌倉時代の公家政権を中世的とみなす見解が有力となり、神国思想も中世的理念と規定されました。しかし、神国思想が古代的か中世的かといった議論はあっても、それぞれの特色についてはまだ統一的見解が提示されていない、と本書は指摘します。本書は、まず現代日本社会における神国・神国思想についての認識を概観し、その認識への疑問を提示した後に、鎌倉時代を中心に神国思想の形成過程と論理構造を解明し、古代とどう異なるのか、鎌倉時代に確立した後はどう展開していったのか、展望します。

 近代の神国思想を代表するのは『国体の本義』で、神としての天皇を戴く日本は他の国々や民族を凌ぐ万邦無比の神聖国家とされました。天皇とナショナリズムこそ近現代日本社会における神国・神国思想認識の核心です。その『国体の本義』は、神の子孫故に外国(異朝)と異なる、との『神皇正統記』の一節を引用します。『神皇正統記』はまず、次のように説明します。この世界(娑婆世界)の中心には須弥山があり、その四方には四大陸が広がっていて、南の大陸を贍部と呼びます。贍部の中央に位置するのが天竺(インド)で、震旦(中国)は広いといっても、天竺と比較すれば「一片の小国」にすぎません。日本は贍部を離れた東北の海中にあります。日本は、釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、というわけです(末法辺土思想)。こうした理念は、末法思想の流行にともない、平安時代後期には社会に共有されました。

 13世紀後半のモンゴル襲来を契機に台頭する神国思想と末法辺土思想は、真っ向から対立する、との見解が学界では主流でした。神国思想は、末法辺土思想を克服するために説かれたのだ、というわけです。それは、「神道的優越感」による「仏教的劣等感」の「克服」と解釈されました。しかし、中世における神国思想の代表とされる『神皇正統記』にしても、日本を辺土粟散と位置づけていました。本書は、神国思想が外国を意識してのナショナリズムだったのか、疑問を呈します。神国思想のもう一つの核である天皇も、中世には儒教的徳治主義や仏教の十善の帝王説の立場から相対化されており、天皇を即自的に神聖な存在とする『国体の本義』とは異なります。

 神国思想の解明にさいしてまず重要なのは、日本における神です。日本の神は現代では、日本「固有」もしくは「土着」の存在として認識されています。しかし、古代と現代とでは、神のイメージは大きく異なります。次に、神国思想を「神道」の枠内にとどめず、より広い思想的・歴史的文脈で見ていかねばなりません。日本を神国とする主張は日本の神祇(天神地祇=天地のあらゆる神々)の世界と密接不可分ですが、中世において圧倒的な社会的・思想的影響力を有していたのは仏教でした。また、陰陽道・儒教など多様な宗教世界の全体的構図を視野に入れねばなりません。こうした視点から、本書は中世、とくに院政期と鎌倉時代を中心に、古代から現代にいたる神国思想の変遷とその論理構造を解明していきますが、その前に、そうした変遷と論理構造の前提となった世界観の変容が解説されます。


 本書は、古代における天皇号の確立を重視します。これにより、ヤマト政権の大王とは隔絶した権威が確立され、天皇が神聖化されるにともない、天照大神を頂点とする神々と神話の体系的秩序が形成されました。じゅうらいは、各氏族がそれぞれ神話と祖先神を有していました。律令体制の変容(本書では古代的な律令制支配の「解体」と表現されています)にともない、平安時代後半には、国家の支援を期待できなくなった大寺院が、摂関家や天皇家といった権門とともに荘園の集積を積極的に進め、古代から中世へと移行していきます。有力神社も、荘園を集積したり、不特定多数の人々に社参や参籠を呼びかけたりするようになります。律令制のもとで神社界の頂点にあった伊勢神宮も、御師が日本各地を回り、土地の寄進を募っていました。

 こうした変動は、伊勢神宮を頂点とする神々の序列にも影響を与えました。国家から以前のような保護を受けられなくなった代わりに、相対的に自立した各神社は、浮沈存亡をかけて競争するようになります。日吉神社を中心とする山王神道関係の書物では、山王神こそ日本第一の神と主張され、公然と天照大神を頂点とする既存の神々の秩序に挑戦しました。本書はこうした状況を、神々の世界における自由競争・下剋上と表現しています。春日社(春日大明神)や熊野本宮や石清水八幡宮なども、既存の神々の秩序に挑戦しました。伊勢神宮でも、経済力をつけてきた外宮が、天照大神を祭る内宮の権威に挑戦します。

 こうした神々の世界における自由競争・下剋上的状況で、天照大神というか伊勢神宮内宮の側も、「自由競争」に参加せざるを得なくなります。しかし本書は、これは天照大神にとって悪いことばかりではなかった、と指摘します。かつての天照大神は諸神の頂点に位置づけられていたものの、非皇族が参詣することも幣帛を捧げることも認められておらず、貴族層の間ですら詳しくは知られていませんでした。確固たる秩序の古代から「自由競争」の中世へと移行し、天照大神は伊勢神宮内宮の努力により、日本において広範な支持・基盤を得るようになります。人々の祈願に気軽に声を傾けるようになった天照大神の一般社会における知名度は、古代よりも飛躍的に上昇します。こうした神の性格の変化は天照大神だけではなく、程度の差こそあれ、どの有力神でも同様でした。有力な神々は、各氏族(天照大神の場合は皇族)の占有神から開かれた「国民神」としての性格を強めていった、というわけです。

 このように中世に神々の性格が変容するにつれて、神々は主権者として特定の領域に君臨し、排他的・独占的に支配する存在と主張されるようになります。寺院でも、寺領荘園が「仏土」と称されるようになります。こうした寺社領への侵犯は、仏罰・神罰として糾弾されました。古代にも一定の領域を神の地とする観念は存在しましたが、あくまでも抽象的・観念的で、中世のように可視的な境界線と具体的な数値で示されるものではありませんでした。さらに、古代と中世以降とでは、神への印象が大きく異なっていました。古代の神は常に一定の場所にいるわけではなく、人間の都合だけで会える存在ではありませんでした。古代の神は基本的に、祭りなど特定の期間にだけ祭祀の場に来訪し、それが終わればどこかに去ってしまうものでした。神が特定の神社に常駐するという観念が広く社会に定着するのは、せいぜい律令国家形成期以降でした。一方、中世の神は遊行を繰り返す存在ではなく、常に社殿の奥深くにあって現世を監視し続け、神社やその領地の危急時には、老人・女性・子供などの具体的姿で現世に現れて人々に指示をくだす存在でした。中世の神々は、人々に具体的な姿で現れ、信仰する者には厚い恩寵を与え、自らの意思に反する者には容赦ない罰をくだす、畏怖すべき存在でしたが、全知全能の絶対者ではなく、多彩で豊かな情感を有し、時には神同士の戦闘で傷つき、弱音を吐くこともありました。


 このように、古代と中世とでは、神の性格が大きく変容します。本書は次に、そうした変容がいかなる論理・契機で進行したのか、解説します。神祇界における古代から中世への移行で重要なのは、上述した国家的な神祇秩序の解体と神々の自立でしたが、もう一つ重要なのは、仏教との全面的な習合でした。主要な神々はすべて仏の垂迹とされ、仏教的なコスモロジーの中に組み込まれました。中世の神国思想は、こうした濃密な神仏混淆の世界から生まれました。仏教伝来後しばらく、神と仏が相互に内的な関係を結ぶことはありませんでした。朝廷の公的儀式でも、仏教は原則として排除されていました。しかし、奈良時代になると、日本の神々が仏法の守護神(護法善神)として位置づけられ、神社の周辺に神宮寺と呼ばれる寺院が建立されるようになります。神は煩悩に苦しむ衆生の一人として仏教に救済を求めていた、と信じられるようになります。

 しかし、この時点での主役はあくまでも神社に祀られた神で、寺院はまだ神を慰めるための付随的な施設にすぎませんでした。平安時代後半以降、神宮寺と神社の力関係は逆転します。王城鎮守としての高い格式を誇る石清水八幡宮では、元々はその付属寺院(神宮寺)にすぎなかった護国寺が逆に神社を支配するようになります。日吉社と延暦寺、春日社と興福寺、弥勒寺と宇佐八幡宮などのように、伊勢神宮を除く大規模な神社の大半が寺家の傘下に入り、その統制に服するようになります。こうした神社と寺院の一体化が進行するなか、思想的な水準でも神と仏の交渉が著しく進展します。神仏を本質的には同一とし、神々を仏(本地)が日本の人々の救済のために姿を変えて出現したもの(垂迹)とする本地垂迹説が、日本全域に浸透し、各神社の祭神は菩薩・権現と呼ばれるようになります。鎌倉時代には、ほとんどの神の本地が特定され、天照大神の本地は観音菩薩や大日如来とされました。


 平安時代に本地垂迹説が日本を席巻した背景として、10世紀頃から急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行がありました。死後の世界(冥界・他界)の観念は太古よりありましたが、平安時代前半まで、人々の主要な関心はもっぱら現世の生活に向けられており、来世・彼岸はその延長にすぎませんでした。しかし、平安時代半ば以降、しだいに観念世界に占める彼岸の割合が増大し、12世紀には現世と逆転します。現世はしょせん仮の宿で、来世の浄土こそ真実の世界なのだから、現世の生活のすべては往生実現のために振り向けられなければならない、との観念が定着しました。古代的な一元的世界にたいする、他界─此土の二重構造を有する中世的な世界観が完成したわけです。当時、往生の対象としての彼岸世界を代表するのは、西方の彼方にあると信じられていた、阿弥陀仏のいる西方極楽浄土でした。しかし、それに一元化されているわけではなく、観音菩薩の補陀落浄土・弥勒菩薩の兜率浄土・薬師仏の浄瑠璃世界・釈迦仏の霊山浄土などといった、多彩な他界浄土がありました。とはいえ、真実の世界たる彼岸の存在という確信は、どれも変わりませんでした。

 浄土往生に人生究極の価値を見出した平安時代後半以降の人々にとって、どうすればそれを実現できるのかが、最大の関心事でした。法然の出現前には、念仏を唱えれば往生できるといった簡単な方法はなく、試行錯誤が続いていました。そうした中で、最も効果的と考えられていたのは、垂迹たる神への結縁でした。平安時代後半から急速に普及する仏教的コスモロジーにおいて、日本は此土のなかでも中心である天竺から遠く離れた辺土と位置づけられました。しかも、平安時代後半には末法の世に入った、と信じられていました。こうした中で、末法辺土の救済主として垂迹が注目されるようになります。垂迹たる神が平安時代後半以降の日本に出現したのは、末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的には浄土へ送り届けるためでした。そのため、垂迹のいる霊地・霊場に赴いて帰依することが、往生への近道と考えられました。

 仏との親密化・同体化にともない、日本の伝統的な神々は仏教の影響を受け、その基本的な性格が大きく変容していきます。上述したように、日本の神は、律令国家成立の頃より、定まった姿を持たず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在から、一つの神社に定住している存在と考えられるようになりました。律令国家は、天皇をつねに守護できるよう、神を特定の場所に縛りつけました。また、かつては定まった姿を持たない神が、9世紀になると、仏像にならって像を作られるようになります。このように、律令国家成立の頃よりの神の大きな変化として、可視化・定住化の進展が挙げられます。

 もう一つの神の重要な変化は「合理化」です。かつて神々が人間にたいして起こす作用は、しばしば「祟り」と呼ばれ、その時期と内容、さらにはどの神が祟りを下すのかさえ、人間の予知の範囲外とされました。祟りを鎮めるためには、いかに予測不能で非合理な命令でも、神の要求に無条件に従うしかありませんでした。しかし、平安時代半ば頃から、神と人間の関係は変容し始めます。たとえば、返祝詞の成立です。朝廷からの奉献された品々を納受とそのお返しとしての王権護持からは、もはや神が一方的に人間に服従を求める立場にはないことを示しています。神々は人間にとって「非合理的的」存在から「合理的」存在へと変容したわけです。神々の「合理化」は、神の作用を「祟り」から「罰」と表現するようになったことからも窺えます。罰は賞罰という組み合わせで出現する頻度が高く、賞罰の基準は神およびその守護者たる仏法にたいする信・不信でした。神が初めから明確な基準を示しているという意味で、罰と祟りは異質です。神が人間にたいして一方的に(しばしば「非合理」的な)指示を下す関係から、神と人間相互の応酬が可能な関係へと変容したわけです。こうした神々の「合理化」の背景として、本地垂迹説の定着にともなう神仏の同化がありました。本地垂迹説は、単に神と仏を結びつけるのではなく、人間が認知し得ない彼岸世界の仏と、現実世界に実在する神や仏や聖人とを結合する論理でした。救済を使命とする彼岸の仏(本地)と、賞罰権を行使する此土の神・仏・聖人(垂迹)という分類です。垂迹たる神は自らが至高の存在というわけではなく、仏法を広めるために現世に派遣されたので、その威力も神の恣意によるものではなく、人々を覚醒させるために用いられるべきものでした。神の「合理化」はこうして進展しました。古代ローマでも、当初の神は「理不尽」で「非合理的な」存在でした。

 本地垂迹説の流布は、仏と神がタテの関係においてのみならず、ヨコの関係においても接合されたことを意味します。垂迹たる現世の神・仏・聖人の背後には本地たる仏・菩薩がいますが、その本地も究極的には全宇宙を包摂する唯一の真理(法身仏)に溶融するものと考えられていました。個々の神々も本質的には同一の存在というわけです。法身仏の理念は、「神々の下剋上」的風潮において、完全な無秩序に陥ることを防ぐという、重要な機能を果たしました。仏教的な世界像では、現実世界(娑婆世界)の中心には須弥山がそびえ、その上空から下に向かって、梵天・帝釈天・四天王の住む世界があり、その下に日本の神々や仏像が位置づけられていました。日本の神は聖なる存在とはいっても、世界全体から見ればちっぽけな日本列島のごく一部を支配しているにすぎません。また、こうした序列のなかで、仏教や日本の神祇信仰だけではなく、道教の神々も取り入れられ、その順位は日本の神仏よりも上でした。それは、道教的な神々が日本の神仏よりも広範な地域を担当していたからでした。中世の神々の秩序においては、仏教から隔離された純粋な神祇世界に、相互の結合と神々の位置を確認するための論理は見出されませんでした。中世において、日本の神々は仏教的世界観の中に完全に身を沈めることで初めて、自らの安定した地位を占められました。こうして、天照大神を頂点とする強く固定的な上下の序列の古代から、神々が横一線で鎬を削りつつ、仏教的な世界観に組み入れられ、ゆるやかに結合した中世へと移行します。


 こうした古代から中世への思想状況の変容を背景に、本書は古代と中世の神国思想の論理構造と違いを解説していきます。『日本書紀』に初めて見える神国観念は、神国内部から仏教などの外来要素をできるだけ排除し、神祇世界の純粋性を確保しようとする指向性を有している、イデオロギー的色彩の濃厚なものでした。これには、新羅を強く意識した創作という側面も多分にあります。一方、院政期の頃より、神の国と仏の国の矛盾なき共存を認める神国観念が浮上します。仏教の土着化と本地垂迹説の普及を背景として、神仏が穏やかに調和する中世的な神国思想の出現です。

 『日本書紀』の時点では神国観念はそれほど表面に出ておらず、神国という用語が初めてまとまりをみって出現するのは9世紀後半で、その契機は新羅船の侵攻でした。古代の神国思想は、新羅を鏡とすることで確定する領域でした。その後、平安時代中期に日本の観念的な領域(東は陸奥、西は五島列島、南は土佐、北は佐渡の範囲内)が確定し、神国もこの範囲に収まりました。この範囲は、後に東方が「外が浜」へ、西方が「鬼界が島(現在の硫黄島?)」へと移動(拡大)したものの、基本的にはずっと維持されました。もっとも、これらの範囲は近現代のような明確な線というよりは、流動的で一定の幅を有する面でした。また、こうした日本の範囲は、濃厚な宗教的色彩を帯びていました。この範囲を日本の前提として、奈良時代から9世紀後半までの神国観念は、天照大神を頂点とし、有力な神々が一定の序列を保ちながら、天皇とその支配下の国土・人民を守護する、というものでした。本書はこれを「古代的」神国思想と呼んでいます。古代的神国思想の特徴は、仏教的要素が基本的にはないことです。古代において、公的な場での神仏分離は徹底されており、むしろ平安時代になって自覚化・制度化されていきました。

 古代的神国観念から中世的神国観念への移行で注目されるのは、院政期の頃より日本を神国とする表現が急速に増加し始めることです。神国は、古代の神国思想では、天照大神を頂点とする神々により守護された天皇の君臨する単一の空間が、中世の神国思想では、個々の神々の支配する神領の集合体が想定されていました。また、古代では一体とされていた「国家」と天皇が中世には分離します。中世の神国思想の前提には、上述の本地垂迹説がありました。彼岸と此岸の二重構造的な世界観を前提とし、遠い世界の仏が神として垂迹しているから日本は神国なのだ、という論理が中世の神国思想の特色でした。つまり、古代の神国思想とは異なり、中世の神国思想では仏は排除されておらず、むしろ仏を前提として論理が構築されていました。

 その意味で、上述した、神国思想は平安時代後期から広まった仏教的世界観に基づく末法辺土意識を前提として、その克服のために説きだされた、との近現代日本社会における認識は根本的に間違っています。日本が末法辺土の悪国であることは、本地である仏が神として垂迹するための必要条件でした。神国と末法辺土は矛盾するわけでも相対立するわけでもなく、相互に密接不可分な補完的関係にありました。中世の神国思想は、仏教が日本に土着化し、社会に浸透することにより、初めて成立しました。

 また、中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識も妥当ではありません。まず、日本の神祇を仏教的世界観に包摂する論理構造の神国思想は、国土の神秘化と他国への優越を無条件に説くものではなく、むしろ普遍的真理・世界観と接続するものでした。また、釈迦も孔子や日本の神々や聖徳太子などと同様に他界から派遣された垂迹であって、本地仏とは別次元の存在でした。中世的神国思想は、日本とインド(天竺)を直結させ、中国(震旦)を相対化するものではありませんでした。本地垂迹説の論理は、娑婆世界(現世)の二地点ではなく、普遍的な真理の世界と現実の国土を結びつけるものでした。ただ、中世の神国思想に、日本を神聖化し、他国への優越を誇示する指向性があり、鎌倉時代後半からそれが強くなっていったことも否定できません。しかし本書は、神国思想が仏教的理念を下敷きにしていたことの意義を指摘します。

 日本は天竺・震旦とともに三国のうちの一国として把握され、日本が神国であるのは、たまたま仏が神として垂迹したからで、天竺と震旦が神でないのは、神ではなく釈迦や孔子が垂迹したからでした。そのため、日本の聖性と優越が強調されたとしても、それは垂迹の次元でのことでした。日本に肩入れする神仏は垂迹で、日本と敵対する国にも垂迹はいました。垂迹たちの背後には共通の真理の世界が存在し、その次元ではナショナリズム的観念には意味がありませんでした。中世の僧侶が日本を礼賛して日本の神仏の加護を願いつつ、たびたび震旦・天竺行きを志したのも、本地垂迹説の「国際的な」世界観が前提としてあったからでした。上述した、『神皇正統記』における、日本神国で他国(異朝)とは異なる、との主張も、単純に日本の優越性を説いたものではなく、本地としての仏が神として垂迹し、その子孫が君臨しているという意味での「神国」は日本だけだ、と主張するものでした。『神皇正統記』では、日本賛美傾向もあるものの、日本が広い世界観の中に客観的に位置づけられており、その日本観はかなりの程度客観的です。


 中世的神国思想は、モンゴル襲来を契機として、ナショナリズムを背景に高揚し、日本を神秘化して他国への優越を強く主張する、との近現代日本社会における認識は、中世的神国思想がどのような社会的文脈で強調されたのか、との観点からも間違っています。中世において神国思想がある程度まとまって説かれる事例としては、院政期の寺社相論・鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃・モンゴル襲来があります。すでにモンゴル襲来前に、「対外的」危機を前提とせずに、中世的神国思想が強調されていたわけです。中世において、神仏が現実世界を動かしているとの観念は広く社会に共有されており、寺社勢力が大きな力を振るったのはそのためでした。院政期に集中的に出現する神国思想は、国家的な視点に立って権門寺社間の私闘的な対立の克服と融和・共存を呼びかけるため、院とその周辺を中心とする支配層の側から説かれたものでした。神国思想の普遍性が活かされているのではないか、と私は思います。

 いわゆる鎌倉新仏教、中でも法然の唱えた専修念仏は、伝統仏教側から激しく執拗な弾圧を受けました。そのさい、しばしば神国思想が持ち出されました。専修念仏者が念仏を口実として明神を敬おうとしないのは、「国の礼」を失する行為で神の咎めに値する、と伝統仏教側は糾弾しました。神々の威光は仏・菩薩の垂迹であることによるのだから、神々への礼拝の拒否は「神国」の風儀に背く、というわけです。末法辺土の日本では存在を視認できない彼岸の仏を信じるのは容易ではないので、末法辺土の日本に垂迹して姿を現した神々・聖人・仏像などへの礼拝が必要とされました。伝統仏教側は、神々の「自由競争」・「下剋上的状況」のなか、礼拝・参詣により人々の関心を垂迹たる神々や仏像のある霊場に向けさせようとしました。しかし法然は、念仏により身分・階層に関わりなく本地の弥陀の本願により極楽往生できる、と説きました。誰もが、彼岸の阿弥陀仏と直接的に縁を結べるのであり、彼岸と此岸を媒介する垂迹は不要どころか百害あって一利なしとされました。法然の思想には本来、現実の国家・社会を批判するような政治性はありませんでしたが、荘園支配のイデオロギー的基盤となっていた垂迹の権威が否定されたことは、権門寺社にとって支配秩序への反逆に他ならず、垂迹の否定は神国思想の否定でもありました。そのため、専修念仏は支配層から弾圧されました。

 モンゴル襲来の前後には、神々に守護された神国日本の不可侵を強調する神国思想が広く主張されました。本書はこれを、ナショナリズム的観念の高揚というより、荘園公領体制下で所領の細分化による貧窮化などの諸問題を、神国と規定してモンゴル(大元ウルス)と対峙させることで覆い隠そうとするものだった、と指摘しています。院政期の寺社相論や鎌倉時代のいわゆる新仏教排撃で見られたように、中世の神国思想はモンゴル襲来よりも前に盛り上がりを見せており、対外的危機を前提とはしていませんでした。寺社相論も鎌倉新仏教への弾圧もモンゴル襲来も、権門内部で完結する問題ではなく、国家秩序そのものの存亡が根底から揺らぐような問題だったため、神国思想が持ち出された、と本書は論じます。中世において、国家全体の精神的支柱である寺社権門の対立は、国家体制の崩壊に直結しかねない問題でした。専修念仏の盛り上がりも、寺社権門の役割を否定するものという意味で、国家的な危機と認識されました。もちろん、モンゴル襲来はたいへんな国家的危機で、支配層たる権門の再結集が図られるべく、神国思想が強調されました。イデオロギーとしての神国思想はむしろ、内外を問わず、ある要因がもたらす国家体制の動揺にたいする、支配層内部の危機意識の表出という性格の強いものでした。

 神国思想は本来、日本を仏の垂迹たる神々の鎮座する聖地と見る宗教思想でしたが、支配層の総体的危機において力説されたように、政治イデオロギーの役割も担わされました。すべての権力が天皇に一元化していく古代とは異なり、中世社会の特色は権力の分散と多元化にありました。多元的な権力から構成される社会において、諸権門をいかに融和させるかが重要な課題となり、神国思想もそうした中世の国家体制を正当化するイデオロギーとして支配層から説きだされた、と本書は推測しています。神国思想が強調されたのは、個別の権門が危機に陥った時ではなく、国家秩序全体の屋台骨が揺らいでいるような時でした。ただ、中世、とくに前期においては、神国思想は民衆を支配するイデオロギーとして強く機能したわけではありませんでした。中世の民衆を束縛した理念は、荘園を神仏の支配する聖なる土地とする仏土・神領の論理だった、と本書は推測しています。国思想は、じっさいの海外交渉ではなく支配層の危機意識の反映だったので、抽象的でした。その背景となる仏教的世界観自体がきわめて観念的性格の強いものだったので、神国思想はなおさら抽象的にならざるを得ませんでした。天竺・震旦・日本から構成される三国世界との認識も観念的で、日本仏教との関わりの強い朝鮮半島が欠落していました。


 本書は次に、神国思想における天皇の占める位置の変遷を解説します。古代では天皇は神国思想の中核的要素でしたが、中世の神国思想では天皇の存在感は希薄です。古代の神国思想は天皇の安泰を目的としましたが、中世では、天皇は神国維持の手段と化し、神国に相応しくない天皇は速やかに退場してもらう、というのが支配層の共通認識でした。その前提として、天皇の在り様の変化があります。律令国家の変容にともない、天皇の在り様も大きく変わります。天皇の政治権力は失墜しますが、形式上は最高次の統治権能保有者たる「国王」であり続けました。それは、他の権力では代替できない権威を天皇が有していたからでした。それに関しては、大嘗祭に象徴される古代から現代まで一貫する権威があった、という説と、即位灌頂のような仏教的儀式に代表される、それぞれの時代に応じた権威があった、という説が提示されています。

 一方、院政期になると天皇がさまざまな禁忌による緊縛から解き放たれて、神秘性を失ってしまう、との見解もあります。天皇は現御神の地位から転落した、というわけです。天皇は、より高次の宗教的権威である神仏の加護なくして存立し得ず、罰を受ける存在でもある、との観念も広く見られるようになりました。つまり、天皇の脱神秘化が進み、天皇はもはや内的権威で君臨できなくなったので、即位灌頂のような新たな仏教的儀式に見られるように、外的権威を必要としたのではないか、というわけです。しかし本書は、天皇に対する仮借なき批判が一般的だったことから、新たな儀式の効果には限界があった、と指摘します。そもそも、即位灌頂は秘儀とされていて、特定の皇統で行なわれていただけで、よく知られていませんでした。即位灌頂き一般的な天皇神秘化の儀式ではなく、特定の皇統による自己正当化の試みの系譜ではないか、と本書は指摘しています。

 古代の神国思想は天皇の存在を前提として正当化することが役割でした。神々の守るべき国家とは天皇でした。中世には、国家的寺社が自立し天皇は権門の一員となりました。しかし、分権化の進行する中世において、とくに体制総体が危機にある時は、天皇が諸権門の求心力の焦点としての役割を果たすには、ある程度聖別された姿をとることが必要でした。古代には天皇が神孫であることは天皇個人の聖化と絶対化に直結していましたが、中世には神孫であることは即位の基礎資格でしかなく、天皇の終生在位を保証しませんでした。これは、中世には古代と異なり、天皇の観念的権威の高揚が天皇個人の長久を目的としておらず、国家支配維持の政治的手段だったことと密接に関連しています。そのため天皇が国王としての立場を逸脱したとみなされた場合は、支配層から批判され、交代が公然と主張されました。天皇は中世には体制維持の手段と化したわけです。古代には国家とは天皇そのものでしたが、中世の国家概念には国土や人民といった要素が含まれるようになり、国家はより広い支配体制総体を指す概念となりました。神孫であることだけでは天皇位を維持できないので、中世の天皇は徳の涵養を強調する場合もありました。

 より高次の宗教的権威が認められ、個人としては激しく批判されることもあった天皇が必要とされ続けたのは、一つには、神代からの伝統と貴種を認められた天皇に代わるだけの支配権力結集の核を、支配層が用意に見つけられなかったからです。権力の分散が進行する中世において、混乱状況の現出を防ぐために、権門同士の調整と支配秩序の維持が重要な課題として浮上しました。天皇が国家的な位階秩序の要を掌握していたのは、単に伝統だからではなく、支配層全体の要請でもありました。したがって、天皇位の喪失は、天皇家という一権門の没落にとどまらず、支配層全体の求心力の核と、諸権門を位置づけるための座標軸の消失を意味していました。既存の支配秩序を維持しようとする限り、国王たる天皇を表に立てざるを得ないわけです。そのため、体制の矛盾と危機が強まるほど、天皇の神聖不可侵は反動的に強調されねばならず、故にそうした時には神国思想も強調されました。

 天皇が必要とされたもう一つの理由は、中世固有の思想状況です。中世では地上の権威を超える権威たる本地仏が広く認められていたので、天皇ではない者が本地仏と直接結びつく可能性もありました。日蓮や専修念仏には、そうした論理の萌芽が認められ、天皇家と運命共同体の公家にとって、天皇に取って代わる権威は絶対に認められないので、新興仏教に対抗するために天皇と神国を表に出しました。武家政権も、中世前期においては荘園体制を基盤とし、垂迹たる神仏への祈祷に支えられていたので、垂迹を経由せず彼岸の本仏と直接結びつくような、日蓮や専修念仏の信仰を容認できませんでした。武家政権が神国思想を否定することは、鎌倉時代の段階では不可能でした。


 このように、神国思想は固定化された理念ではなく、歴史の状況に応じて自在に姿を変えてきました。神国思想はしばしば、普遍世界に目を開かせ、非「日本的」要素を包摂する論理としても機能しました。「神国」の理念を現代に活かすのであれば、安易に過去の「伝統」に依拠せず、未来を見据え、世界を視野に収めてその中身を新たに創造していく覚悟が求められます。日本を神国とみなす理念は古代から近現代に至るまでいつの時代にも見られましたが、その論理は時代と論者により大きな隔たりがありました。その背景には、神国思想の基盤となる神観念の変貌とコスモロジーの大規模な転換がありました。モンゴル襲来以降の神国思想も、決して手放しの日本礼賛論ではありませんでした。中世の神国思想の骨格は、他界の仏が神の姿で国土に垂迹している、という観念にありました。普遍的存在である仏が神の姿で出現したから「神国」というわけです。インド(天竺)や中国(震旦)が神国ではないのは、仏が神以外の姿をとって現れたからでした。

 現実のさまざまな事象の背後における普遍的な真理の実在を説く論理は、特定の国土・民族の選別と神秘化に本来なじみません。中世的な神国思想の基本的性格は、他国に対する日本の優越の主張ではなく、その独自性の強調でした。中世的な神国思想は、仏教的世界観と根本的に対立するのではなく、それを前提として初めて成立するものでした。中世的神国思想において、天皇はもはや中心的要素ではなく、神国存続のための手段でした。神国に相応しくない天皇は退位させられて当然だ、というのが当時の共通認識でした。中世的神国思想には普遍主義的性格が見られます。中世の思潮に共通して見られる特色は、国土の特殊性への関心とともに、普遍的世界への強い憧れです。現実世界に化現した神・仏・聖人への信仰を通じて、誰かもが最終的には彼岸の理想世界に到達できる、という思想的状況において、中世の神国思想は形成されました。

 中世後期(室町時代)以降、日本の思想状況における大きな変化は、中世前期(院政期・鎌倉時代)に圧倒的な現実感を有していた他界観念の縮小と、彼岸─此岸という二重構造の解体です。古代から中世への移行期に、現世を仮の宿と考え、死後の理想世界たる浄土への往生に強い関心を寄せる世界観が成立しました。しかし、中世後期には浄土のイメージが色褪せ、現世こそが唯一の実態との見方が広まり、日々の生活が宗教的価値観から解放され、社会の世俗化が急速に進展します。仏は人間の認知範囲を超えたどこか遠い世界にあるのではなく、現世の内部に存在し、死者が行くべき他界(浄土)も現世にある、というわけです。死者の安穏は遥かな浄土への旅立ちではなく、墓地に葬られ、子孫の定期的な訪れと読経を聞くことにある、とされました。神は彼岸への案内者という役割から解放され、人々の現世の祈りに耳を傾けることが主要な任務となりました。この大きな社会的変化は、江戸時代に完成します。このコスモロジーの大変動は、その上に組み上げられたさまざまな思想に決定的転換をもたらしました。彼岸世界の衰退は、垂迹の神に対して特権的地位を占めていた本地仏の観念の縮小を招き、近世の本地垂迹思想は、他界の仏と現世の神を結びつける論理ではなく、現世の内部にある等質な存在としての仏と神をつなぐ論理となりました。その結果、地上のあらゆる存在を超越する絶対者と、それが体現していた普遍的権威は消滅しました。中世において、現世の権力や価値観を相対化して批判する根拠となっていた他界の仏や儒教の天といった観念は、近世では現世に内在化し、現世の権力・体制を内側から支えることになりました。

 彼岸世界の後退という大きな変動が始まるのは14世紀頃で、死後の彼岸での救済ではなく、現世での充実した生が希求されるようになりました。もっとも、客観的事実としての彼岸世界の存在を強力に主張し、彼岸の仏の実在を絶対的存在とする発想は、中世を通じておもに民衆に受容されて存続しました。一向一揆や法華一揆は、他界の絶対的存在と直結しているという信念のもと、現世の権力と対峙しましたが、天下人との壮絶な闘争の末に、教学面において彼岸表象の希薄な教団だけが正統として存在を許されました。江戸時代にはすべての宗教勢力が統一権力に屈し、世俗の支配権力を相対化できる視点を持つ宗教は、社会的な勢力としても理念の面でも消滅しました。神国思想も、近世には中世の要素を強く継承しつつも、大きく変わりました。近世の神国思想では、本地は万物の根源ではなく「心」とされました。本地は異次元世界の住人ではなく、人間に内在するものとされました。また、近世の神国思想では、垂迹は浄土と現世を結ぶ論理とは認識されておらず、中世の神国思想の根底をなした遠い彼岸の観念は見られません。近世の神国思想では、本地垂迹は他界と現世とを結ぶのではなく、現世における神仏関係となっていました。

 中世的神国思想の中核は、他界の仏が神として日本列島に垂迹している、という理念でした。現実の差別相を超克する普遍的真理の実在にたいする強烈な信念があり、それが自民族中心主義へ向かって神国思想が暴走することを阻止する役割を果たしていました。しかし、中世後期における彼岸表象の衰退にともない、諸国・諸民族をともかくも相対化していた視座は失われ、普遍的世界観の後ろ盾を失った神国思想には、日本の一方的な優越を説くさいの制約は存在しませんでした。じっさい、江戸時代の神道家や国学者は、神国たる日本を絶賛し、他国にたいする優越を説きました。中世的な神国思想では日本の特殊性が強調されましたが、近世の神国思想では、日本の絶対的優位が中核的な主張となりました。

 古代においても中世前期においても、神国思想には制約(古代では神々の整然たる秩序、中世では仏教的世界観)があり、自由な展開には限界があった、という点は共通していました。しかし、近世においては、権力批判に結びつかない限り、神国思想を制約する思想的条件はありませんでした。近世には、思想や学問が宗教・イデオロギーから分離し、独立しました。近世の神国思想は多様な人々により提唱され、日本を神国とみなす根拠も、さまざまな思想・宗教に基づいていました。共通する要素は、現実社会を唯一の存在実態とみなす世俗主義の立場と強烈な自尊意識です。近世の神国思想の重要な特色としては、中世では日本=神国論の中心から排除されていた天皇が、再び神国との強い結びつきを回復し、中核に居座るようになったことです。中世において至高の権威の担い手は、超越的存在としての彼岸の本地仏でした。中世後期以降、彼岸のイメージが縮小し、中世には天皇を相対化していた彼岸的・宗教的権威が後退していきます。近世の神国思想において、本地垂迹の論理は神国を支える土台たり得ず、日本が神国であることを保証する権威として、古代以来の伝統を有する天皇が持ち出されました。

 明治政府は神国=天皇の国という近世の神国思想の基本概念を継承しますが、神仏分離により、外来の宗教に汚されていない「純粋な」神々の世界のもと、神国思想を再編しました。近代の神国理念には、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を許容する余地はなく、中世の仏教的世界観も、近世の多様な思想・宗教も排除されました。天皇を国家の中心とし、「伝統的な」神々が守護するという現代日本人に馴染み深い神国の理念は、こうした過程を経て近代に成立しました。近代の神国思想には、日本を相対化させる契機は内在されていませんでした。独善的な意識で侵略を正当化する神国思想への道が、こうして近代に開かれました。

 現代日本社会における神国思想をめぐる議論について、賛否どちらの議論にも前提となる認識に問題があります。日本=神国とする理念自体は悪ではなく、議論を封印すべきではありません。自民族を選ばれたものとみなす発想は時代を問わず広範な地域で見られ、神国思想もその一つです。排外主義としてだけではなく、逆に普遍的世界に目を開かせ、外来の諸要素を包摂する論理として機能したこともありました。神国思想は日本列島において育まれた文化的伝統の一つで、その役割は総括すべきとしても、文化遺産としての重みを正しく認識する義務があります。一方、神国思想を全面的に肯定する人々には、他者・他国に向けての政治的スローガンにすべきではない、と本書は力説します。そうした行為は、神国という理念にさまざまな思いを託してきた先人たちの努力と、神国が背負っている厚い思想的・文化的伝統を踏みにじる結果になりかねません。神国思想は、一種の選民思想でありながら、一見すると正反対な普遍主義への指向も内包しつ、多様に形を変えながら現代まで存続してきました。仏教・キリスト教・イスラム教などが広まった地域では、前近代において、普遍主義的な世界観が主流を占めた時期があります。宇宙を貫く宗教的真理にたいする信頼が喪失し、普遍主義の拘束から解放された地域・民族が、自画像を模索しながら激しく自己主張をするのが近代でした。自尊意識と普遍主義が共存する神国思想に関する研究成果は、方法と実証両面において、各地域における普遍主義と自民族中心主義の関わり方と共存の構造の解明に、何らかの学問的貢献ができる、と予想されます。


 以上が親本の内容となり、以下が文庫版の追加分となります。本書執筆の背景には、異形のナショナリズムと排他主義の勃興、大規模な汚染や大量破壊兵器といった近代が生み出した問題にたいする危機意識がありました。文庫版では、親本よりもこの問題意識が強く打ち出されています。近代化の延長線上にある現代の危機的状況の解決・克服には、近代そのものを相対化できる視座が不可欠で、それは前近代にまで射程を延ばしてこそ可能ではないか、というのが本書の見通しです。以下、親本での内容とかなり重なりますが、文庫版の追加分について備忘録的に取り上げていきます。


 中世には機能の異なる二種類の仏がいました。一方は、生死を超越した救済に民族(的概念に近い分類)・国の別なく衆生を導く普遍的存在で、姿形を持ちません。もう一方の仏は、具体的な形を与えられた仏像で、日本列島の住民を特別扱いし、無条件に守護する存在です。日本の仏は人々を彼岸(他界)の本仏に結縁させる役割を担っていますが、それ自体が衆生を悟りに到達させる力は持ちません。日本に仏教が導入された当初の古代において、死後の世界たる浄土は現世と連続しており、容易に往来できました。このような仏教受容は、人間が神仏や死者といった超越的存在(カミ)と同じ空間を共有する、という古代的なコスモロジーを背景としていました。

 こうした古代的な一元的世界観は、10〜12世紀に転換していきます。超越的存在にたいする思弁が深化して体系化されるにつれてその存在感が増大し、その所在地が現世から分離し始めます。人間の世界(現世)から超越的存在の世界(他界)が自立して膨張します。この延長線上に、現世と理想の浄土が緊張感をもって対峙する二元的な中世的コスモロジーが成立します。至高の救済者が住む他界こそが真実の世界とされ、現世は他界に到達するための仮の宿という認識が一般化しました。言語や肌の色の違いを超えて人々を包み込む普遍的世界が、現実の背後に実在すると広く信じられるようになりました。日本の神や仏像など、現世に取り残されたカミは、衆生を他界に導くために現世に出現した、彼岸の究極の超越的存在(本地仏)の化現=垂迹として位置づけられました。

 日本では古代から中世においてこのようにコスモロジーが転換し、仏教、とりわけ浄土信仰が本格的に受容されます。教理として論じられてきた厭離穢土欣求浄土の思想や生死を超えた救済の理念が、閉じられた寺院社会を超えて大衆の心をつかむ客観的情勢がやっと成熟したわけです。仏教や浄土教が受容されたから彼岸表象が肥大化したのではなく、他界イメージの拡大が、浄土信仰本来の形での受容を可能にしました。コスモロジーの変容が仏教受容の在り方を規定する、というわけです。現世を超えた個々人の救済をどこまでも探求する「鎌倉仏教」誕生の前提には、こうした新たなコスモロジーの形成がありました。このコスモロジーの転換の要因について、本書は人類史の根底にある巨大な潮流を示唆していますが、いずれ本格的に論じたい、と述べるに留まっています。

 神国がしきりに説かれるようになる中世は、多くの人が現世を超えた心理の世界を確信していた時代でした。日本の神は仏(仏像)と同じく、それ自体が究極の真理を体現するのではなく、人々を他界に送り出すことを最終的な使命として、現世に出現=垂迹した存在でした。神の存在意義は衆生を普遍的な救済者につなぐことにあったわけです。こうした世界観では、現世的存在で、他界の仏の垂迹にすぎない神に光を当てた神国の論理は、他国を見下し、日本の絶対的な神聖性と優位を主張する方向らには進みませんでした。神に託して日本の優越性が主張されるのは、世俗的な水準の問題に限られており、真実の救済の水準では、国や民族(的概念に近い分類)といった修行者の属性は意味を失いました。中世の神国思想は普遍的な世界観の枠組みに制約されていたわけです。日本が神国であるのは、彼岸の仏がたまたま神という形で出現したからで、インド(天竺)はそれが釈迦で、中国(震旦)はそれが孔子や顔回といった学者(聖人)だったので、神国とは呼ばれませんでした。

 中世的なコスモロジーは14〜16世紀に大きく転換していきます。不可視の理想世界にたいする現実感が消失し、現世と他界という二元的世界観が解体し、現世が肥大化していきます。人々が目に見えるものや計測できるものしか信じないような、近代へとつながる世界観が社会を覆い始めます。生死を超えた救済に人々を誘う彼岸の本地仏の存在感は失われ、現世での霊験や細々とした現世利益を担当する日本の神や仏像の役割が増大し、日本と外国を同次元においたうえで、日本の優位を主張するさまざまな神国思想が近世(江戸時代)には登場します。

 近世的神国思想では、背景にあった普遍主義の衰退にも関わらず、日本優位の主張が暴走することはありませんでした。その歯止めになっていたのは、一つには身分制でした。国家を果実にたとえると、身分制社会は、ミカンのようにその内部に身分や階層による固定的な区分を有しており、それが国家権力により保証されています。一つの国家のなかに利害関係を異にする複数の集団が存在し、国家全体よりも各集団の利害の方が優先されました。モンゴル襲来にさいして神国観念が高揚した中世においても、モンゴルと対峙した武士勢力に純粋な愛国心があったわけではなく、自らが君臨する支配秩序の崩壊にたいする危機意識と、戦功による地位の上昇・恩賞が主要な動機でした。自分の地位に強い矜持を抱き、命をかけてそれを貫こうとする高い精神性はあっても、愛する国土を守るために侵略者に立ち向かうといった構図は見当たらず、それが中世人の普通の姿でした。愛国心がないから不純だと考えるのは、近代的発想に囚われています。中世の庶民層でも国家水準の発想は皆無で、モンゴル襲来は、日本の解体につながるからではなく、日常生活を破壊するものとして忌避されました。

 近代国家は、内部が区分されているミカン的な近世社会から、一様な果肉を有するリンゴ的社会へと転換しました。近代国家は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。神国日本は悠久の伝統を有する神としての天皇をいただく唯一の国家なので、他国と比較を絶する神聖な存在であり、その神国の存続と繁栄に命を捧げることが日本人の聖なる使命とされました。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国日本の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。第二次世界大戦での敗北により状況は一変しましたが、ナショナリズムを制御する役割を果たす基本ソフト(コスモロジー)が欠けているという点では、現在も変わりません。

 社会の軋轢の緩衝材としてのカミが極限まで肥大化し、聖職者によりその機能が論理化され、普遍的存在にまで高められたのが中世でした。現世の根源に位置する超越者は、民族・身分に関わりなく全員を包み込む救済者でした。近代化にともなう世俗化の進行とカミの世界の縮小により、人間世界から神仏だけではなく死者も動物も植物も排除され、特権的存在としての人間同士が直に対峙する社会が出現しました。近代社会は、人間中心主義を土台としていたわけです。この人間中心主義は基本的人権の拡大・定着に大きな役割を果たしましたが、社会における緩衝材の喪失も招きました。人間の少しの身動きがすぐに他者を傷つけるような時代の到来です。現在の排他的な神国思想は、宗教的装いをとっていても、社会の世俗化の果てに生まれたもので、その背後にあるのは、生々しい現世的な欲望と肥大化した自我です。自分の育った郷土や国に愛情と誇りを抱くのは自然な感情ですが、問題はその制御です。現在の危機が近代化の深化のなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長い射程のなかで、文化・文明を再考することが必要です。これは、前近代に帰れとか、過去に理想社会が実在したとかいうことではなく、近代をはるかに超える長い射程のなかで、近現代の歪みを照射することが重要だ、ということです。


 以上、本書の見解について備忘録的に詳しく取り上げてきました。そのため、かなりくどくなってしまったので、改めて自分なりに簡潔にまとめておきます。神国思想は、神としての天皇を戴く日本を神国として、他国に対する絶対的優位を説いた、(偏狭な)ナショナリズムで、鎌倉時代のモンゴル襲来を契機に盛り上がりました。平安時代後期〜モンゴル襲来の頃まで、日本は釈迦の生まれた天竺からはるかに隔たった辺境の小島(辺土粟散)にすぎない、という末法辺土思想が日本では浸透しており、神国思想は神道的優越感による仏教的劣等感の克服でした。

 本書は、このような近現代日本社会における(おそらくは最大公約数的な)神国思想認識に疑問を呈し、異なる解釈を提示します。神国思想は、古代・中世・近世・近現代で、その論理構造と社会的機能が大きく変容しました。古代のコスモロジーは、人間が神仏や死者といった超越的存在と同じ空間を共有する、というものでした。しかし、古代の神は人間にとって絶対的で理不尽な存在で、人間には祟りをもたらし、予測不能で非合理的な命令をくだしました。また、古代の神は一ヶ所に定住せず、祭祀の期間にだけ現れ、終わると立ち去るような、気ままに遊行を繰り返す存在でした。これも、古代の神の人間にとって理不尽ではあるものの、絶対的存在でもあったことの表れなのでしょう。古代の神は氏族に占有されており、広く大衆に開かれているわけではありませんでした。しかし、律令国家形成の頃より、次第に神は一ヶ所に定住する傾向を強めていきます。中央集権を志向した律令国家により、神々も統制されていくようになったわけです。このなかで、皇祖神たる天照大神を頂点とする神々の整然とした秩序が整備され、天皇は国家そのものとされ、神々が守護すべき対象とされました。古代的神国思想では、仏教的要素は極力排除され、天皇が中核的要素とされました。

 こうした整然とした古代的秩序は、律令制度の変容にともない、平安時代前期に大きく変わります。神社にたいする国家の経済的支援は減少し、神社は皇族や有力貴族・寺院などとともに、荘園の集積に乗り出し、経済的基盤を確立しようとします(荘園公領制)。この過程で、古代的な整然とした神々の秩序は崩壊し、神々の自由競争的社会が到来します。これが古代から中世への移行で、古代から中世への移行期を経て、中世にはコスモロジーも神国思想も大きく変容します。古代から中世への移行期に、神の立場が大きく変わります。かつては一ヶ所に定住せず、人間に祟り、理不尽な命令をくだす絶対的な存在だったのが、一ヶ所に定住し、人間の信仰・奉仕に応じて賞罰をくだす、より合理的存在となります。神の一ヶ所への定住は、集積された各所領の正当性の主張に好都合でした。また、仏像にならって神の像も作られるようになります。古代から中世への神の変化は、合理化・定住化・可視化と評価されます。

 さらに、仏教の浸透、神々の仏教への融合により、かつては人間と神などの超越的存在とが同じ空間を共有していたのに、超越的存在の空間としての彼岸の観念が拡大し、理想の世界とされ、現世たる此岸と明確に分離します。こうしたコスモロジーは、仏教信仰と教学の深化により精緻になっていきました。そこで説かれたのが本地垂迹説で、普遍的真理たる彼岸の本地仏と、その化現である垂迹としての神や仏(仏像)という構図が広く支持されるようになりました。古代において人間にとって絶対的存在だった神は、普遍的真理ではあるものの、あまりにも遠く、人間には覚知しにくい彼岸と、現世の存在たる人間とを結びつける、本地仏より下位の存在となりました。この垂迹は、天竺(インド)・震旦(中国)・日本という当時の地理的認識における各国では、それぞれ異なる姿で現れました。天竺では釈迦、震旦では孔子、日本では神々というわけです。日本が神国との論理は、中世においては、垂迹が神であるという意味においてであり、日本が天竺や震旦より優位と主張する傾向もありましたが、それは垂迹の水準でのことで、本質的な主張ではありませんでした。中世の神国思想は、仏教的世界観を前提とした普遍的真理に基づいており、モンゴル襲来のようなナショナリズム的観念の高揚を契機に主張されるようになったのではありませんでした。じっさい、中世において神国思想が盛んに説かれる契機となったのは、院政期の寺社相論と鎌倉時代のいわゆる新仏教(とくに専修念仏)排撃で、モンゴル襲来よりも前のことでした。このような中世的神国思想は、他国にたいする絶対的優位を説く方向には進みませんでした。また、中世には天皇の権威も低下し、神国思想において天皇は自身が守護の対象というより、体制維持の手段でした。

 しかし、神国思想の前提となるコスモロジーが変容すれば、神国思想自体も大きく変わっていきます。14世紀以降、日本では中世において強固だった彼岸─此岸の構造が解体していきます。彼岸世界の観念は大きく縮小し、此岸たる現世社会が拡大していき、人々が彼岸世界に見ていた普遍的真理も衰退していきます。こうした傾向は江戸時代に明確になり、ナショナリズム的観念の肥大を阻止していた普遍的真理が喪失されたコスモロジーにおいて、自国の絶対的優越を説く主張への歯止めはもはや存在していませんでした。江戸時代(近世)には、さまざまな思想・宗教的根拠で他国にたいする日本の絶対的優位が主張され、天皇がその中核となっていきました。しかし、身分制社会の近世において、身分や階層による固定的な区分の、利害関係を異にする複数の集団が存在していたため、国家全体よりも各集団の利害の方が優先され、神国思想の他国にたいする暴走に歯止めがかけられていました。近代日本は、近世の神国思想を継承しつつ、(近世以降に日本「固有」で「純粋な」信仰として解釈された)神祇以外の要素を排除し、近現代日本社会における(最大公約数的な)神国思想認識が確立しました。近代日本は、全構成員を「国民」という等質な存在として把握します。この新たに創出された国民を統合する役割を担ったのが天皇でした。普遍主義的コスモロジーが失われ、全構成員たる国民が神国の選民と規定された近代国家の成立により、神国思想の暴走に歯止めをかける装置はすべて失われました。


 短くと言いつつ、長くなってしまい、しかもさほど的確な要約にもなっていませんが、とりあえず今回はここまでとしておきます。神国思想の論理構造と社会的機能の変遷を、世界観・思想・社会的状況から読み解いていく本書の見解は、12年前にはたいへん感銘を受けましたし、今でもじゅうぶん読みごたえがあります。ただ、当時から、古代が一元的に把握されすぎているのではないか、と思っていました。もっとも、諸文献に見える思想状況ということならば、本書のような把握でも大過はない、と言えるのかもしれませんが。一向一揆などいわゆる鎌倉新仏教系と支配層との対立的関係が強調されすぎているように思われることも、気になります(関連記事)。戦国時代の天道思想(関連記事)と中世のコスモロジーとの整合的な理解や、今後の日本社会において神国思想はどう活かされるべきなのか、あるいは否定的に解釈していくべきなのかなど、まだ勉強すべきことは多々ありますし、今回はほとんど本書の重要と思った箇所を引用しただけになったのですが、今回は長くなりすぎたので、それらは今後の課題としておきます。

https://sicambre.at.webry.info/201907/article_14.html

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