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厳寒が人体に与える影響
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/795.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 1 月 25 日 16:56:58: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 怨霊注意 _ 雪道の怖さを伝える日本のCMが怖すぎて外国人をビビり散らしていた件 投稿者 中川隆 日時 2014 年 11 月 19 日 13:16:58)

米大寒波:厳寒が人体に与える影響 2014.01.08

 アメリカを襲っている極寒の中でジョギングしようとする人がいたら、その前にこの記事を読んだ方がいいだろう。 氷点下の気温は、短時間で人体に多くの影響を与える場合がある。専門家によると、摂氏マイナス45度の風の中では5分で凍傷を引き起こすおそれがあるとのこと。これはアパラチア山脈中部の今の状況だ。

 カナダ北部で発生した寒気の渦(極渦)が南下し、アメリカを襲っている。幸いこの厳しい気温は、水曜日以降は収まる見込みだ。

 しかし専門家の話では、アメリカ人は、たとえプロのスポーツ選手であっても、この寒波を真剣に受け止めなければならないという。

 野外医療の専門家であるヘンダーソン・マクギニス(Henderson McGinnis)氏と、ニューヨーク市内の病院で緊急医療部に務める医師マイケル・ラニガン(Michael Lanigan)氏に話を聞いた。

◆極寒の状況で人体に何が起こるのか?

 骨まで凍るような寒さの中では、生命維持に不可欠な器官をあたため機能させるために全血液がそこへ集中するので、「四肢が他の部位を守るためにダメージを受ける」とラニガン氏は説明する。

 末梢への血流が減少すると、手脚の動きが鈍くなる。長時間外にいると体温は低下し始め、代謝も下がり、精神錯乱を引き起こす。

「寒さで人は馬鹿になる(cold makes you dumb)」ということわざが意味するのは、寒さの中でハイキングコースの選択など重大な決断を迫られる場面が特に危険ということだ、とマクギニス氏は述べる。

 また肌を長時間露出していれば、凍傷や皮膚損傷を引き起こす結果となる。

◆極度の寒さで危険なことは何か?

 厳しい低温に長時間さらされることが「本当の危険」だとマクギニス氏は警告する。

 寒さにどれだけ耐えられるかは、健康状態と年齢による。

 もう一つの要因は風の有無で、風があると急速に体温が奪われる。

 さらに重要なのは、「エベレストのような超極寒環境でなくとも」長時間外に出ていれば寒さの影響を受けることだ。

◆プロのスポーツ選手、特に厳しい寒さの中でプレーするフットボール選手の場合は?

 摂氏マイナス7度以下の気温でフットボールをすることは「賢明ではない」とマクギニス氏は言う。

 サンフランシスコ・フォーティナイナーズは1月5日、体感温度マイナス23度のウィスコンシンで、グリーンベイ・パッカーズに勝利した。NFL(ナショナル・フットボール・リーグ)史上最上級の寒さの中での試合となった。

 この寒さの中でも半袖を着た選手が多数いたが、ほとんどの選手は寒さに備えてグローブを着け、場外ではハンドウォーマーで肌を覆っていた。

 一般にスポーツ選手は、寒さの中で普通の人以上の影響を受けるおそれがある。スポーツ選手は常に動いているので、どうしても四肢に血液が多く送り込まれ、生命維持に必要な器官に送られるべき分まで流れてしまうのだ。

 また筋肉は極端な低温にさらされると、肉離れ、捻挫、痙攣を起こしやすくなる。

◆この寒波を乗り切るためのアドバイスは?

 なにより長時間外に出ないようにすること。外出する予定があるなら肌、特に顔の露出を避け、事前に何か食べ、水を飲む。食べることで寒さに耐えるための体の燃料が蓄えられる。また、ウィンドブレーカーは極寒の突風が体温を奪うのを防いでくれる。

 痛みを感じたり感覚が無くなってきたら、もしくは肌が青白くなっているのに気づいたら、一刻も早く屋内に入ること。凍傷の初期症状かもしれない。

 なにが一番重要なアドバイスか? 誰かが常にそばで見ているということ。少なくとも誰かに居場所を伝えておくことだ、とマクギニス氏は語る。  

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コメント
 
1. 中川隆[-5844] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:00:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

マイナス40℃の町で人々はどう暮らしているのか?
1/25(木) 12:14配信 ナショナル ジオグラフィック日本版

シベリア、ヤクーツクの街角にたたずむ人影。(STEEVE IUNCKER, AGENCE VU/REDUX)


 1年のうち少なくとも3カ月間は気温マイナス40度前後の日が続くというシベリア東部のヤクーツクは、世界一寒い町と言われている。もちろん、ここよりもさらに寒い地域はある。ヤクーツクから東へ約900キロ離れた人口500人の集落オイミャコンは、最近の寒波でマイナス67度を記録したし、南極の冬の平均気温もマイナス60度である。

ギャラリー:マイナス40℃の町に暮らす人々 写真11点
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/gallery/012400124/?P=2

 だが、そのいずれもヤクーツクのように町としての機能を全て備えてはいない。ヤクーツクの人口は28万人余り。地面は永久凍土で、ほとんどの建物は高床式になっている。そうでない建物は、暖房の熱のおかげで建物の下の永久凍土が解け、少しずつ沈下している。

 寒さは厳しいが、ヤクーツクの魅力は地下に眠る豊富な天然資源だ。この地方で採れるダイヤモンドの量は、世界の生産量の約5分の1を占め、他にも天然ガス、原油、金、銀、その他需要の高い鉱物が産出する。

 12月から2月までの平均気温がマイナス4度というスイスアルプスで育ったスティーブ・イウンカー氏は、ヤクーツクの厳寒が人間の体や心、社会生活にどのような影響を与えるのか、実際に自分の目で見てみたいと思い、2013年、現地へ飛んだ。到着すると、空港で出迎えてくれた滞在先の家の娘がイウンカー氏の頭からつま先まで目を走らせ、矢継ぎ早に質問した。「帽子は?」「あります」「手袋は?」「あります」「マフラーは?」「あります」「ブーツは?」「あります」
.

「ただ外に出てタクシーを拾うだけなのに、そこまでしなければならないなどと、誰が考えるでしょうか」と、イウンカー氏は当時を振り返って語った。ヤクーツクでは、外に出るときはいつでも入念な準備が必要だ。不必要な回り道も、散歩も、ウィンドーショッピングもできない。「ここでは、全てが寒さに支配されています。というよりも、自分の体が寒さにどう反応するかで、自分の行動が決まります」

 例えば、イウンカー氏は地元の人々が近所の家を頻繁に訪れていることに気づいた。ただし、滞在時間はほんの数分程度。「家に入ると、上着だけを脱いで熱いお茶を飲み、ジャムを塗ったトーストをいただくと、また上着を着て外へ出て行きます。近所の家は、旅の途中の休憩所のような役割を果たしているようです」

 彼らと同じように、イウンカー氏も天気に合わせて作業時間を調節しなければならなかった。持参した二眼レフカメラは、15分ほどしか撮影できない。それ以上になると、巻き上げ機構が凍り付いて、フィルムが損傷する危険がある。いずれにしても、その頃までには指の感覚がなくなっていた。

 長い時間屋外に出る者は誰もいないので、イウンカー氏の写真に写っている人間の姿はどこか幻想的だ。氷の世界で毛皮に身を包む地元住人は、まるで神話に登場する冒険者を思わせる。町に張り付いてあらゆるものをかき消してしまう濃い霧に覆われると、その姿はますます幽霊か何かに見えてくる。

 だが、どんなに神秘的に見えようとも、勘違いしてはならないとイウンカー氏は警告する。ここは、夢の銀世界などではない。命の危険すらある極寒の地なのだ。「10メートル先も見えず、通りはどれも似たり寄ったりなので、あっという間に迷ってしまいます」

 イウンカー氏は、毎年10日間、同じ予算で世界各地の「記録を持つ町」を訪れている。ヤクーツクを訪れたのも、そのプロジェクトの一環だった。これまでに、東京(人口密度が最も高い)とイランのアフワーズ(大気汚染が最もひどい)を訪れた。これらの経験から、その土地の環境にどう対応するかを学んだ。ホテルに泊まるか。屋外でどれくらいの時間過ごすか。それが自分の仕事にどう影響するか。そのなかで再確認したことは、「シベリアの人々も、私たちと同じように寒さを感じるということです。ただ、私たちよりもずっと備えができているというだけです」


2. 中川隆[-5843] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:03:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


2009年07月27日
低体温症の対策 予防的なウエア、装備
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787


 今回(2009年7月16日)のトムラウシ山、美瑛岳の10人の死亡事故は、低体温症の怖さ、また、それが多くの登山者に知られていない現実を、まざまざと示しました。

 登山を続けてきた1人として、私が大事にしたいと思っているのは、自分、友人、そして多くの登山者の遭難や失敗の経験から、しっかり学ぶということです。今度の事故は、個人的にはもちろんですが、山登りをする多くの人に、衝撃的な印象を残しました。(私の日記・プロフィールへのこの9日間のアクセスは2800人に達しました。)

 その点で残念なことは、私はこの件の最初の「日記・ブログ」から書いてきたことですが、最近はマスコミ関係者に登山の経験が十分な記者がめっきり減ったため、原因にかかわる具体的な調査・取材がまだ不十分なことです。

 以前(1980年代ころまで)であれば、当時はまだ「疲労凍死」という原因が不十分な把握ではありましたが、生存者・死亡者のとくに服装を詳しく調べ、報道する記事がありました。とくに生死が分かれる遭難では「疲労凍死」の原因の一番のポイントとして、下着の問題が浮き彫りになりました。

 つまり「疲労凍死」は原因ではなく結果の外見的な状態であり、体温を奪われることによる低体温症こそ、生死を分けた直接の原因であることが明確になってきたわけでした。

 今回は、低体温症が直接の原因であることが早い段階から問題にされてきたにもかかわらず、ウエアを徹底的に調べた記事がありません。この件での報道は断片的で、なにより全体像がわかる比較検討の視点がありません。

 ある死亡者の下着が濡れていたことを伝えた記事はありました。しかし、肝心のその素材は示されていないし、遭難報道で大事になポイントである全数調査、その点での生存者と死亡者の比較もありません。おそらく、実物を見せられても素材に思いが及ばない登山経験での取材になっているのではと思います。

 とくに下着は、濡れた部位も今回は問題です。北沼があふれた沢渡渉がありましたし、下半身だけが濡れたのか、雨で袖口や首周りが濡れたのか、全体にわたって濡れたのか、その部位と個々人の雨具の関係など、どれも今後に生かす大事な注目点です。現行のゴアテックス雨具は、強い風雨にたいする性能そのものの見直し問題や、盲点もあるかもしれません。

 その雨具も、素材(材質)、雨天用か、冬の着用も考慮したウエアかなど、きちんと調べて比較した報道はありません。軽装というが、実態が不明。

 帽子と手袋も大事ですが、帽子の防水性や保温性にも全数調査的な報道はありません。

 山岳雑誌等の今後の報道、また自分でも山に登る記者の今後の報道に期待しているところです。
 
 低体温症に備える服装・装備は、特別なものではないと思います。

 登山用品店では、夏場は「通気性」や「汗抜け」をメインに宣伝してきます。

 ポイントはこれと区別して、下着などに非常用を用意し、状況に応じて着分けすることだと思います。

 一方、山行中ずっと着るズボンとシャツは、天候や目的地に応じて選び、必要な場合は通気性より保温を考えた用意をします。

 大雪・十勝連峰の夏は、北アなどの6月、9月など(盛夏を除く)の時期を想定した雨天・防寒対策で対応可能と思ってきました。現に北海道の登山者は、見かけ上、本州の登山者とあまり変わらない服装で登っています。晴天ではなおさらです。大事なのは、悪天候時の備えです。

 まず雨具は、撥水機能が落ちていないゴアテックス素材等の防水透湿のもの(構造はラミネートされた布地のシングル縫製)が、この時期は普通に使われています。

 問題は、寒いときにはこれだけでは不十分であり、アンダーウエアなどの対応がいることを、知って使うことがポイントと思います。

 服装では、これも本州の対策と基本的に共通で、加えて非常用がいります。風雨の稜線をどうしても歩かねばならないとき、あるいは幕営などの朝晩の冷え込み対策に、薄手のポリプロピレン、あるいはアクリル素材の上下肌着(登山用品店にある冬用下着の薄手タイプ)を状況に応じて着用し、その上に寒いときは夏用の下着(素材はポリエステルが多く保温性が弱い、綿が入った素材は危険)、山シャツ、山ズボンを着用します。

 この種の薄地の冬用肌着はとても小さくたため、軽量。非常用にじゃまになりません。断熱性が高く、濡れても体温を保持してくれ、濡れても乾きやすい。厚地のものは、夏は使えません。

 本州の山ではこの薄地の冬用下着の用意があれば、夏は朝晩のフリースはいらないくらいです。フリースは、北海道では雨具を暖かく着る(ゴアテックスでも中が濡れ、寒い場合)ため、薄手でもあった方がいいと思います。

 頭部は、帽子か頭をタオルで包むようにすると、雨具からの冷えこみから頭部を守れます。

 うちのカミさんは防水性のある帽子と、手袋をセットで使っています。

 スパッツは、夏のロングスパッツは、私はどうしても抵抗があり、過剰装備と思ってきました。あれは雪山用です。百名山ブーム以後に登山を始めた方が、なぜか夏の暑い時期にも、そして雪がまったくない山でも、使うようになりました。それまでは夏は持って行っても、短スパッツでした。

ロングスパッツは、山靴の7割ほどを覆い、靴の通気性を著しく阻害します。昔は登山靴の防水性が悪い時代があり、残雪や雪山でそれを補う目的もあって、スパッツは使われたのです。通気性を悪くすれば、夏場は足の皮膚をふやけさせるし、豆の原因にもなるでしょう。

ただ、今回の風雨と沢渡渉を見ると、枝沢を越えるたり、沢沿いルートの場合、短スパッツは携行したいと思いました。条件によって適切に適時に使用することで、足首からの濡れや風を遮断できます。

 次に、非常用の装備。稜線に小屋が連なる山でなければ、以下の用意がいります。

 パーティー人数分を収容するツエルト、テント等は必須。

私の友人は、ツエルトと別に、ホームセンターで特大のポリ袋(透明で長さ120センチほど)を求めて、1枚常時携行しています。ツエルトやポリ袋は、体をつつんで荷造りベルトで固定して、風除けの行動にも使うそうです。

ツエルトは、信じられないくらい小さな1人用もあり、日帰りでも低山でも持ち運ぶのをクセにしてしまうといいと思います。私は2人用をいつも携行しています。

 それから、ガイド役の場合は、行き先に応じて、携行用の手もみカイロをもって行くと、非常時にもっとも有効に脇の下から保温することができますね。脇の保温は、行動不能におちいりだしたメンバーをツエルトに収容して保温する方法としてもっとも有効です。個人山行ではカイロまではちょっとできません。

 いろいろ書きましたが、一番大事なことはこうした用意や装備の選定を通じての、低体温症にたいする警戒心だと思います。

 (写真左は9月下旬のトムラウシ、右は8月の熊野岳)

(今回の遭難についてのニュース、検討は引き続き下記に追加の記述をしています。)
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691

トムラウシ山遭難。山岳ガイド協の中間報告にみる「低体温症」の実際
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521

2009/7/29
RE: 低体温症の対策) 下着、具体的事例

 具体的には、どのメーカーのどの商品? ということに、次になるわけですが、私は1つに絞って宣伝する立場にないのですが、しかし、山の装備は商品の経験を交流するのは普通のことなので、控えめな範囲で。

 夏用(3シーズン)の、非常用防寒下着は、ヘリーハンセンのこれを使っています。
http://goldwinwebstore.jp/shop/ProductDetail.aspx?sku=HY98807_N_L&CD=S0900515&WKCD=S0900508-S0900509

 ポロプロピレン(ポリ塩化ビニル)100%。購入は4年前でロングセラーもの。冬用の4分の1くらいの厚さしかなく、肌ざわりはドライです。通気性があり、真夏のアプローチなどでは死ぬほど暑いですが、稜線に出ればずっと着用可能。沢遡行や、真冬の低山でも使えます。

 ICIとかゴールドウィンで以前、白いやや厚めのTシャツタイプを同素材で出していて、これも家族用に2着ありますが、これは夏には暑い。肌あたりもちくちくします。完全に非常用。それにくらべ、ヘリーハンセンのは着やすい。

 タイツ(やはり超薄手)は、以前にノースフェイスが出していた同素材のグレーのものを、家族で2着、3シーズンに使っています。これも、履き心地が良いです。
 形は、下記に似てます。これも同素材。
http://goldwinwebstore.jp/shop/ProductDetail.aspx?sku=HY93807_N_L&CD=S0900515&WKCD=S0900508-S0900509

 カミさんは、タイツは下記と同じアクリル素材のもの(メーカーは別)を使っています。
http://www.greenlife.co.jp/item/under/mush-nukuitaitu-w.html

 これらはいずれも、とても小さく収納できるのがミソで、その分、フリースなどを薄地にできます。

 それから、ポリプロピレンは吸水性がゼロなので、すぐ乾くし、気温がほどほどなら絞って、ついで振り回し脱水をして、そのまま着ることができることです。

 大事なことは、汗抜け、通気性をうたった夏用素材には、化学繊維という点は同じでも、断熱性・保温性にひどく劣るもの、保温とは逆の目的をもたせたものが多いことです。

 中には、綿を混紡しているものもあります。

 店によっては、区別が甘い場合や、そもそも夏の薄地の保温用は念頭にない場合もありえますので、素材をしっかり把握して入手するのが大切と思います。

 そして、機能を良くおさえて、現場でそれぞれ着分けするのが大事と思います。

 本格的な純冬用の下着は厚手ですので、店でふれればわかります。あれは、寒い山でしか使えません。羊毛を使った製品(メリノ・ウールなど)も、冬ないし秋・春はいいですが、夏にもつかうのは条件が限られそうです。他にないときに何かの用意にはいいですね。

 夏や3シーズンに薄地の保温下着を現場で着分けする場合も、天候や条件を考えて、意識的に使うことになります。先日の南アではテントを張って夕刻を待って、着替え、翌日もそのままテントに下山するまで使いました。その分、フリースはカット。

 使用頻度でいうと、夏は非常用ですが、風や雨の稜線では力を発揮します。春・秋は常用になります。

 ネット上では、山用の保温下着として、ユニクロのヒートテックが注目されていますね。

「素材アクリル39%・ポリエステル33%・レーヨン20%・ポリウレタン8%」
 素材的にはいいですし、このなかでポリウレタンは伸縮性があり、断熱性が高い。

 問題は、登山用ではないので、山で汗をかく場合のドライ性能でしょうか。ヘリーハンセンのものは、ある程度快適です。

 ヒートテックも着やすければ、目的地に応じてこの季節に使えるかもしれません。

 なお、下着のことではないですが、今回の生存者のなかに雨具の下に軽羽毛服を着用した方がいたことから、テレビなどでこの角度の報道もされています。ちょっと違うんじゃないかなと思います。マスコミのみなさんには、今回の件についても、ウエア問題にしてももっと全貌をとりあげ、比較検討する態度がほしいと思います。ダウンジャケットは、みな持って北海道へ行くわけじゃないし、地元の定番でもない。吸水性もきわめて大きく、大雨のもとで着用するのは、是非論が出ると思います。うわっつらを見ずにこの方の服装全体をきちんと取材してほしいと思います。

 「下着は化繊なら大丈夫」という取り上げ方もネットに出回っていますが、こういう状況でいいのかと思います。

(低体温症についての関心ですが、この日記もさっそくGoogleで40位台に掲示されました。今回の遭難は痛苦な出来事でしたが、登山者の多くが強い関心をもち、情報を求めていることは大事なことだと感じています。)
 


RE: 登山家の野口さんが

 今日(8月3日)、夕方にカミさんいわく。

 「登山家の野口さんが、今日見た美容室の女性週刊誌に書いていたよ。みんな上着やジャケットのことばかり言ってるし、登山者もそこだけ気を配るけど、ほんとに生死を分けるのは下着もなんだって。
 ユニクロにだっていい下着があるって。」

 おお、さすが! と思いました。
 なんて週刊誌なのか? 誰か読まれた方はいませんか?

 それにしても、ちゃんとした記事が出ない。
 山の店も、新聞も、なかなか正確な情報が提供できない時代になりました。
 今度の事故は、あまり期間をおかずに、また同類のケースで繰り返すのではないか、と危惧してます。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787


3. 中川隆[-5842] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:05:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

カロリー収支の角度から装備と行動食を見る
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253


 低体温症は、究極のところ、カロリー収支の結果が、事態をおおもとから左右することになります。

 カロリーの「収入」の方は、食べて行動することによる熱の産生です。
 「引き算」されるのは、外界へ熱が奪われることです。

 体温の限度以下への低下(体幹部で35度未満)は、この熱の出入りと、登山者がその拮抗のレベルをどれだけの時間、耐えて行動し続けられるか、という継続時間の問題も加味されて、左右されてくると考えられます。

 たとえば、たとえ体熱を奪われやすい気象条件で行動し、そのうえ装備の一部に弱点があっても、登山者が対抗できるだけ食べ、また行動による発熱量が、失われるカロリーと同等レベルであれば、行程の長さ如何によっては、 生還が可能です。

 つまり、装備、あるいは天候という1つの角度だけから、○×式には、実際の問題を把握しがたいのが、低体温症の問題です。

 

過去の記録には、気象条件としては低体温症の発症の危険が大きくあるなかで、行動し生還した登山者の、関連するデータも、参考にできるものがあります。

 これらから、「カロリー収支」を定量的につかみことはできませんが、身を守る対応の様子と考え方は、見えてくる問題があるように思います。

 以上のようなアプローチで、ケーススタディとして考えながら、低体温症にどう対応したのかを、考えていきたいと思います。

 なお、設定する問題としては、

「始めから悪天候では行動しなければいい」
「入山しなければいい」

というご意見もあると思います。 これは私も通常は、そう努めたい単純明快な処方です。 でも、これを原則として固めてしまって済ませられないのも登山です。

 登山者は、悪天候の中で、あるいは装備が不足するなかで、生還を期して行動する局面に、ときには立たされます。引き返し覚悟の登山もある。大雨のもと翌日の晴天を確信して目的地に入る登山もある。悪天時には退避する用意をしながら、数日かけて目的を遂げる登山もあります。

 ヤマレコでも、雷雨や吹雪はもちろん、登山道からの転落、雪渓下の沢に転落、道迷いなど、所持してだけの装備と判断とで、予想外の災難に遭遇し、生還したケースが様ざま報告されてきました。とくに積雪期やエリアによっては、不測の怪我などが事態を悪化させる場合があります。
 なんでもない、一般ルートであっても。

 そのときに、用意した装備や食料を活かしながら、低体温症は、用心の大事な対象です。

 山には絶対的な安全圏はないのですから、私も、できるだけ多くの事例から、学んでいこうと思います。


コメント

低体温症に限らすカロリー収支の考査。

小生・登山はもちろんですが、冬季になるとハーフ・フルマラソン(時に駅伝等)を中心にやっておる市民ランナーでもあります。

行動規範のパターンこそ違うなれど、やはりランニングのレースの時にもこのカロリーコントロールは重要な要素であってその辺の摂取配分を見誤ると、即正直にタイムに影響をきたす事間違いないです。

ここでスレ主の方の言われている消耗カロリーと摂取カロリーのバランスの事を書かれておりました。

内容的には「全くもって」という感触なのですが、問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーと変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがあるセオリーがございます。


要するに、そのような理想的カロリー摂取は自分の体にエネルギーとして変換されている状態にのタイムラグを考えて、事前に補っていかないと天候の急変等の憂い目に遭ってから摂取しても間に合わず、また時間経過を追うごとに体力的に吸収能力が衰えて、ますます悪循環に嵌ことになります。

(コレはマラソンレースでも同様。フルマラソンの時スタート5K・10Kの補給が一番重要であって、疲れた30K・35Kで補給しても今度は体が受け付けない。)

詰まりは、今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。

どうしても年齢を追うごとに、心肺機能や吸収機能の劣化は避けられない生理的事実と、ココの処の天気図に載らない「上空の寒気団」の存在をマークするという、情報収集も欠かせなくなってきていると思います。

平たく記述するとお腹が減ってから食べては遅く、のどの渇きを感じた時に飲んでも遅いという、事はマラソンのコーチにも良く言われる程です。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 私も最近の山行で、行動中の計画的なカロリー補充と給水が、個人の能力を最大限に発揮する為にとても重要であることを実感しました。

 一方で、国際山岳連盟が推奨する十分なカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難です。たとえ、低山であっても行動が長時間に及ぶとカロリー収支をゼロに持っていくのは難しいでしょう。

 ”いわんや悪天候をや”

 行動食についての情報は不明ですが、二人前の弁当だけでは明らかに不十分でしょう。

 実は低体温でヒヤリとしたことがありますが、比較的早期にカロリー補充と給水を行い歩き続けることで切り抜けました。

 きちんとした装備により体温喪失を少しでも減らすことも大事なのですが、以前よりご指摘の通り、体温を維持するのは骨格筋の運動、そして運動するにはカロリーが必要。また末梢循環を維持するためにも脱水は避けなくてはいけない。これらは全て軽量化とは相反する事ですが、リスク回避の為には避けられないのではないかと考えます。


朝ごはんと昼ごはんの摂取と、行動経過

>問題はその摂取した食料が吸収されてカロリーに変換するのに、若い20代で30分程。
私のような40代のシニア(マラソンの世界では40歳超はシニア部門)
2時間程というタイムラグがある

 食べたばかりの食料は、カロリー変換までにタイムラグがあるということですが、その間は、糖分や脂肪分など体に蓄えてきた分を、順次カロリーに変換しながら運動を維持し、つないで行くと考えればいいのですね。

 しかも、高齢者ほど、この消化・変換は時間がかかる。

 普通の街の生活でも、朝食べても、4、5時間もすれば腹がへる。

 山登りでは、糖分、脂肪分などを行動食として随時、摂っていくことが大事になりますね。


>今回の場合、小屋でお弁当を受け取った時点で食しておれば結果はあるいは変わったかも知れません。燃焼系や即エネルギー系のアミノ酸粉末等も水と一緒に飲んでいれば尚良かったかも知れません。


 今回の天候のもとでは、行動中のカロリー、水分補給は、ほんとに大切だったと思います。


摂取すべき必要カロリーと、水の問題

>国際山岳連盟の推奨するだけのカロリーを摂取することは、比較的若い私でもなかなか困難であると思います。

 トムラウシ遭難の事故調査報告書でも、同じ見地で、この遭難パーティーが摂取すべきだった必要カロリーを、計算しています。

 体重76キロの男性Cさんの場合、3日目にトムラウシ温泉まで 8時間で歩ききるための行動時間(8時間)のエネルギー消費量は、2300〜2700キロカロリー。

 さらに残る16時間の安静時の代謝量が、 1040キロカロリー。

 必要カロリーは、合計3350〜3750キロカロリー程度。

 ところが、実際の食事を調べたところでは、1日分の食事で 1000キロカロリー台の半ばのメンバーが大半で、2000キロカロリーを超えている人はほとんどいないようだ、とのことでした。

 トムラウシのツアー・パーティーは粗食だったことが、小屋の同宿のパーティーにも目撃されていますが、そこまでいかなくとも、必要なカロリー摂取はなかなかたいへんですね。

 おにぎりだと、1個200キロカロリーにしかなりません。

 水分摂取は、寒さを感じている条件では、テルモスに特別の飲み物を用意するなどしないと、体に入りませんね。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 expedition(遠征登山)においては1日あたり 4000kcal + 3L の水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。

 私は経験も浅くまだ分からないことだらけではありますが、夏も冬も行動食の一部であるはずの食事を”弁当”スタイルで提供する小屋、受け取る登山者の双方が、”必要な熱源の確保”についてリスクを抱えているのかもしれません。

 条件の厳しい山域にある小屋では、登山者の年齢、性別、体格、予定コースから必要エネルギー量を推計した上で、

 ・そのカロリーに見合うチョコバー
 ・ビタミンやミネラル(+アミノ酸)などのサプリメントのセット

 上記セットを、弁当ではなく 1日分の行動食セットとして提供する、あるいは登山者にアドバイスするといった科学的なアプローチが必要な時代なのかもしれません。小屋番やガイドは登山者の食事量の観察も欠かせないことになります。また、テン泊であれば、日数に応じた必要カロリーを概算して、持ち歩くか現地調達できることがテン泊の条件になります。また、悪天候で停滞することは、エネルギー消費を抑えるという点でも有用です。トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。

 大変質の良い食事を提供する山小屋の存在や、ヤマレコでも冬山の夕食で美味しそうな料理をガッツリ食べているレコを散見します。スタイルはどうあれ、”必要なエネルギー源の確保”という点でとても大事なことなのだと認識を新たにしました。


食料と摂取カロリーを検討することの大事さ

>1日あたり4000kcal + 3Lの水の摂取を国際山岳連盟は奨めています。これだけのカロリーを歩きながら摂取するには”弁当”スタイルでは無理でしょう。

 このデータは、海外のより本格的な登山と思われる方もおられると思います。とくに水分については、高度障害の対策が若干加味されている数値ですね。
しかし、トムラウシの遭難報告では、向かい風15m、登り、という条件では、通常の登山のさらに2倍近いカロリー摂取が必要(8時間の行動中の必要カロリーとして)、と検討しています。

 おにぎりに敢えて例えれば、10個ずつを朝、昼とっても、まだ足りない。
 ですから、


>トムラウシの場合は摂取カロリーの観点からも、停滞することが正しい、ということになりますね。

 まさにそうでした。

 しかし、あのパーティーは、あの日やってくる同じツアー会社の後続パーティーのために、避難小屋を空けるしかなかったのです。また、迎えのバスはトムラウシ温泉側へ、すでに回送中。

 ガイドに判断できる裁量は、実質的になかったといえます。

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る


体の熱産生は主に筋肉で、単位時間当たりの熱産生量には限界があり、年と共に衰えます。みぞれで衣服が濡れ、そこに強風の吹雪が吹付け満足な防寒防風対策をとらなければ、奪われる熱の方が多くなり低体温症に至るでしょう。

私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。

ちなみに私はここ2年間、行動食は食べていません。登山前と登山後にアミノバイタル1袋づつ飲んで、行動中は水かお茶、夏は塩分補給をします。(岩塩/味噌/マヨネーズ)+きゅうりなど。下界でも朝晩の2食のみです。


判断する時間の余裕と、発症と

カロリー摂取は、予防・緩和役。着衣と相まってのもの

>私は、食事を摂ったかどうかはあまり関係ないと思います。元々グリコーゲンの体内備蓄は普通の生活レベルで数時間分しかありません。普通の人で脂肪だと1ヶ月分以上の備蓄があります。


 これまで議論されてきたことで、登山者が、急に大量のカロリーを要求される(奪われる)事態になっても、それを短時間に、あるいはリアルタイムで供給することは難しいことが、明らかになってきたと思います。

 一方で、悪天候のなかで、大量の熱を奪われる、そのハンディを知り、低体温症に備えるためにも、出発前の食事でのカロリー補給や、即効性のある行動食、水分の補給が、緩和に役立つことも。

 退却やビバーク、安全な小屋への逃げ込みの際は、重要な備えになると思います。

 さらに、ここまででまだ議論になってこなかった下着を含めた服装の問題があります。

 真冬の山で、このようなケースで低体温症になるのは、むしろ少ないように私は思う。

 それは、始めから−15度、−20度の気温と強い風とに備えて、着衣と食事が根本的に違うからだと、私は思います。

 GWや6月、そして秋の山での備えは、その応用問題でもあると思いますが、冬と異なるのは濡れですね。


補いきれないながらも、食べて生還したケース

 コメントでも、人間が用意でき、その場で使うことができるエネルギー源は、多くない、というご意見がありました。

 低体温症の実体験者でもある北海道の医師のサイトには、次のような解説もあります。

「人間が貯蔵できるグリコーゲン

􀂄 通常は摂取カロリーの 60% 2000kcal×0.6=1600kcal しか肝臓と筋肉に貯蔵できない。

⇒従って、繰り返し行動中に摂取することが必要。」


 しかし、予防には限度があるなかでも、そのときに懸命に食べ、あるいは少しでも食べる努力を重ねて、大事を回避したり、生還した事例があります。
 いくつか紹介していきます。


◇2009年 トムラウシ遭難の生還者の証言から。
 (同遭難調査報告書から)

○私は持参したカロリーメイトや魚肉ソーセージ、きな粉棒をたべたり、アミノバイタルやアリナミンV などを飲んだり、何分かおきに、何かを口に入れるようにしていました。

○「猛烈にお腹が空いたので食べた」「アメ玉1 個を食べただけで、こんなに違うのかと驚いた」

○「悪天時なので、身体を動かすために食べなければならないと判断して食べた」

○「(非常食として食べたもの)アミノバイタル3袋、これは天沼から日本庭園の間に立て続けに食べました。カロリーメイト2箱、全部たべました。」

○「トムラウシ公園の手前に来て、登山道脇の草むらに座り込んでビバークを覚悟した。生還した理由として、ビバーク地点にマットを敷いたことが断熱になり、体温を下げなかった、と語った。

 どこで着たのか特定できないが、雨具の下にフリースを重ね着したこと、時々チョコレートなどを食べていたこと、南沼を過ぎたころには雨風が止んでいたこと、ビバークで体力を温存できたこと、もともと体力があったこと、などが生還できた主な理由と思われる。」(これは報告書執筆メンバーの医師の記述)


◇トムラウシ遭難の同じ日に、旭岳から白雲小屋まで行動したヤマレコのユーザーの体験。

 「昨年7月16日のトムラウシ山での大量遭難が起きた日に,私は旭岳〜白雲岳避難小屋のコースを歩きました。

 強い風雨の中,旭岳を目指して歩き出したものの,7合目を過ぎたところでかつて経験したことのないような猛烈な風に危険を感じ,一旦避難小屋まで退避。しかしながら,天候は回復するとの予報が出ていたことから,少し風が収まったところで無謀にも再度スタートし,強風に吹き飛ばされそうになりながらも,なんとか白雲岳避難小屋まで歩き通しました。

 でも,本当は自重すべきだったと,今でも反省しています。・・・

・・・なんとか頑張ってここをやり過ごし, 白雲岳避難小屋を目指しますが, 徐々に体力が落ちていく感じがしました。手袋をしていても指がこごえて,うまく動きません。ゴアテックスの雨具を着ていても, 霧状の雨が中の衣類を濡らします。

 途中の岩陰で休憩をとり, ウェストバッグに入れておいたアメ玉を頬張ってエネルギー補給です。ザックを開けて食料を食べるような余裕はありませんでした。
小屋に入ってザックをおろした途端,寒さと安堵感で全身が震えました。

 また,行動中は一度も震えを感じませんでした。ところが,避難小屋の中に入ってから 2〜3分で体中が震え出しました。文字通り歯がガチガチと音をたてて震えました。

これは,行動が終了したことで発熱がなくなり,急激に体温が低下したためと考えています。

 私が思うに,低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持することではないかと思います。

そこで重要なのは,行動を継続できるだけの体力と,発熱を維持できる量のカロリーの摂取です。

私の場合,登山途中で避難小屋に戻り,十分なカロリー摂取ができていたことが,その後の行動維持に寄与したと思います。」

RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

 国際山岳連盟医療部会のガイドラインでは、行動中のカロリー摂取スケジュールについての記述も(やや曖昧ですが)あります。

体重 75kgの私ですと、最初の 30分に凡そ 400kcal、以後 4-6 時間の間はは 2時間ごとに(おそらく)400kcalの補給が必要です。

これは expedition における基準のようですが、素人が自身の限界にチャレンジするような場合にも参考にして良いかと思います。


>低体温症への最も有効な対策は,常に行動し続け,発熱を維持

 無事に生還した今だからこそ白状しますが、3月の雲取山で本当に危ない目に遭いました。

 芋の木ドッケの巻き道で息子が行動不能に陥いりかけたのですが、その後あめ玉程度ですが行動食を与え続け、白湯を飲ませ、暖かい乾燥した装備への交換を行ったところ、山荘までの 10時間余りを歩ききりました。新雪のラッセルであったために大人の歩行速度が落ちた結果、皮肉にも子どもには無理の無い移動速度となったことも大きかったと思います。

(冬も山行を継続していたので、歩いていれば寒くないことを息子は体で覚えていました。樹林帯であったことや 3月で気温も -5度程度であったことも幸運でした)
 息子の意思表示はいつもギリギリなので、その山行以後は以前にも増してよく観察し、しつこいくらいに声をかけるようにしています。

tanigawa様の結論に敢えて付け加えさせていただくならば

 ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる

こちらのほうが better かと考えますが、いかがでしょうか。


RE: 検証 白馬岳低体温症遭難2)カロリー収支の角度から装備と行動食を見る

> ”無理の無い移動速度で” 行動を持続させる
こちらのほうがbetterかと考えますが、いかがでしょうか。

 おっしゃる通りと思いますが、大前提としては、生死にかかわる深刻な状況に遭遇しないように、また、それに準ずる場面でも、着衣やカロリー補給で、登山者が状況にたいして用意で負けない対応を先手先手ですすめることだと思います。

 気象条件の厳しさや登山者の側で基本的な防御体制が欠けているときは、行動をするのは事態を悪化させる場合があります。

 トムラウシがまさにそうでした。

ロックガーデンの手前でハイ松帯を生かしてビバークし、シェルパのいるヒサゴ沼に伝令を出していれば、犠牲者はかなり減ったと思います。

 しかし、彼らは人数分のテントがなかった。

 とくにパーティーを組んでいる場合は、この優位性がしばしば、個人差が出てきて、瓦解の糸口になる。

 その点で、紹介いただいた体験は、息子さんの体調との連携がうまくコントロールされていたケースと思います。

 


装備面のデータ 関連するもの
 関連するものを、上げておきます。

◇やはりスコップは役立つ

 同じ5月4日、白馬岳に別ルートで登って、ビバークした男性(61歳)がいました。(「読売」5月6日)

 テントのそばに、高さ1・5mの雪の防風壁を作って、一晩しのいだとのこと。
 「5日未明まで吹雪が強かった」と話しています。

 この時期の稜線を、不安定な天候で行動するなら、やはり軽量スコップはビバークの必須装備になります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35253


4. 中川隆[-5841] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:07:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2012年05月22日 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)
持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495

 ここまで見てきてどうしても不可解なのは、6人は全員が軽ダウンジャケットをザックに用意していながら、なぜ、それを着込むことができないまま、低体温症にすすんだのか? ということです。

 「日経」5月9日付夕刊は、こう伝えていました。

 見出しは、「防寒具は持参 身守れず」。
 4個のザックは、記事に写真があります。

 「遭対協によると、7日現場から回収されたリュックは4個で、容量はいずれも60リットル程度。全てに薄いダウンジャケットが入っていた。現場にはツェルトと呼ばれる簡易テントが残っていた。回収した山岳関係者は「全然軽装じゃない」と言い切った。」

 ここには、低体温症の遭難に特徴的な状況が、はっきりと現れています。
 なぜ、用意した装備を使うことなく、亡くなっていったのか?

 9人が亡くなった2009年のトムラウシ遭難では、その調査報告書に次のような記述があります。

 「生還者のコメントを見ると、自主的にフリースやダウンのジャケットを着たり、レスキューシートを身に着けた人が何人かいる。このような人では、それをしなかった人よりも体温の低下を防ぐことができ、生死を分ける要因となったことも考えられる。」

 このトムラウシの遭難の場合は、過度な軽量化によって、出発時に小屋で着込もうにも、その用意のない参加者が多かった点で、今回とは異なる状況がありました。

 一方、8人が亡くなった1989年10月の立山遭難では、現場の発見者が次のように証言しています。

 「8人は翌朝、発見。男女1人ずつは発見時に息が あり、男性は「救助隊の方ですか?」としゃべった。

 死亡したうち他の6人のザックにはセーターがあったが、いずれも使われていなかった。」

 この立山遭難は、ザックの防寒装備が役立てられなかったという点で、今回の白馬岳と共通点があります。

 以下、この問題を検討しながら、低体温症の進行の独特の様相を考えていきます。


体感温度の問題。保温性能と濡れの有無とが、むしろ影響大

 本論に入る前に、幾つか基本データと情報を掲げておきます。
 まず、低体温症の角度から見た「体感温度」について、書いておきます。

 登山者の体の熱の奪われ方には、大きく分けて、「乾性寒冷」(冬山)と、「湿性寒冷」(3季の風雨)とがあります。

 風速が1m増すごとに1度ずつ体感温度が下がる、という「算出法」でいえば、冬山では、「体感温度マイナス30度」は、ごく普通の条件。

 それよりも「体感温度」がはるかに高い春や秋山などで、低体温症の遭難事故が起こるのか、数字のうえでの疑問が出るところです。

 トムラウシ遭難調査報告書で、調査チームの医師は、「乾性寒冷」よりも「湿性寒冷」の方が、実は熱を奪われやすいと述べています。

 これは、水の気化熱が1ccあたり約350カロリーもあることから、濡れた衣類と体からは大量の熱が逃げていくため。

 さらに

「風が強ければ、体温の下がる速度は加速度的で、低体温症の悪化が早い。」、

「体温の放射を防ぐには、乾いた衣服を重ね着して、肌との間に空気層をつくることが重要。」

としています。

 また、この報告書では、従来言われてきた「体感温度」は、裸の人体の条件でのもので、保温衣料を用いることで大きく条件は緩和されるとしています。

 低体温症の危険がありうる条件では、保温用の衣類をタイムリーに用いることが、死活的になってきます。自分は、この衣類で保温するということで、しっかり用意し、臨機に使う。

 この際に、セーターやフリースとともに、肌に接する下着がかなり肝心であることを強調したいです。

 またゴアテックスなどの雨具や冬用ジャケットなどの防水性能をしっかり確認して、濡れに備えることが必要になると思います。

 下着については、私の下記の日記に。

低体温症の対策) 予防的なウエア、装備
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3787 


3つの遭難の、気象条件と行動―立山の場合

 検討する前提として、まず低体温症による3つの遭難の、気象条件と経過を掲げておきます。

 白馬岳については、このシリーズの1)目撃者の証言から、のスレッド末尾に、天候の推移と行動経過を記しています。

/////////////////////////////

○1989年10月8日 立山・真砂岳

 遭難場所の真砂岳付近では、風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。
 10人パーティー。8人死亡、2人救助。

 40歳から60歳代。
 一行のほとんどは、冬山経験はなかった。 

 室堂出発時、天気は快晴。気温はマイナス6度。風はほとんど無し。
 冬型の気圧配置となり、一ノ越から雪が降りだす。

 全員が雨具を着用。

 12時ごろ、雄山山頂で1人が足を痙攣。風雪。

 14時ごろ、富士の折立手前で追い抜いた2人組の登山者が、このパーティーを目撃する。男性1人が抱えられ、女性2人が立っていられずに座りだしたりする。
 パーティーは2つに分かれる。

 16時ごろ、真砂岳付近で、10人がいったん合流。
 風速10メートル、気温はマイナス10度。猛吹雪。

 男性2人が内蔵助山荘へ救助へ向かうが、視界がなく雪で道わからず、剣御前小屋へ向かい、途中の別山付近でビバーク。翌朝、登山客に発見される。

 8人は翌朝、発見。
 男女1人ずつは発見時に息があった。

 他の6人のザックにはセーターがあり、使われていなかった。
 付近には、コンロや食糧が散らばっていた。

3つの遭難の、気象条件と行動―トムラウシ山の場合

○2009年7月16日 トムラウシ山
    (データは、同遭難事故調査報告書による)

 ツアー登山。
 一行はガイド・スタッフ3人、メンバー15人の計18人。
 ガイド1人をふくむ9人が低体温症で死亡。
 自力下山は5人。

 前日に低気圧が通過して、北海道東方で発達。
 16日の山の天候は気温 6℃、風速 20m/secだった。(新得警察署 遭難対策本部)

 入山3日目、5時30分、ヒサゴ沼避難小屋出発。
 雨は出発時、弱くなった。
 6時10分、稜線のヒサゴ沼分岐。
 風強まる。ガイドが耐風姿勢を教え、風の弱まる瞬間を狙って前進するほどに。

 8時30分、大岩を上がるロックガーデン。
 男性客 M(66歳)さんが、しばしば座り込むようになる。
まっすぐに立って歩けない風になる。

「札幌管区気象台の高層観測によると、16日 9 時の 1900m 付近の気象は、気温が8.5℃と急下降し、風速も 19m/secを記録している。

また、風向は西北西に変化している。12時の天気図では、従来の低気圧の隣にもう一つ小さな低気圧が発生して、この低気圧の発達が大雪山の天気回復を遅らせたことも考えられる。」

 北沼周辺で亡くなった人の内 2〜3名は、北沼以前(ロックガーデン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。

 10時00分ごろ、北沼渡渉点。 
 渡渉後、動けない人が出て待機。

 女性客K(62 歳)さんが嘔吐し(何も出ない)、奇声を発していた。
 女性客J(68 歳)の意識が薄れる。

 行動の指示がないままでの強風下の待機。
 メンバーは小さな岩陰に三々五々座り込んでいたが、風に曝されていた。

 10時30分ごろ。
北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行動に移った。
 以後、パーティーはばらばらになる。

 リーダーA(61歳)は渡渉地点近くで、動けなくなる。(第一ビバーク地点)

 11時30分ごろ。
 ガイドB(32歳)とともに歩行不能な女性客 3人と付き添いで男性客D(69 歳)1人は、第二ビバーク地点でテントに収容。 

 ガイドC(38 歳)が引率して歩行可能と思われるメンバー 10人の引率役で下山再開。

 13時30分、南沼キャンプ場。
 パーティーはばらばらになり、さらに行動不能のメンバーが出る。
 
 15時5分。
前トム平で、女性客G(64歳)が携帯電話で自宅を通じて、110番通報。

17日、
9人の遺体が収容。生存者が救助される。

 「多くの遺体が下腿に打撲痕があった(転倒したためだろう)。」

・・・・・・・・・・・・・・


体温の低下と、症状の現れ

 もう1つ、低体温症による体温の低下と、症状の段階的な進展についての目安を上げておきます。


 「IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編」によると、低体温症の症状は、体温の低下と症状の進行ごとに、次のように規定されています。
(一部訳文あり。http://www.sangakui.jp/medical/ikar/

段階
HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。
HT2 32−28度。 震えなし。意識障害。
HT3 28−24度。 意識なし。
HT4 24−15度。 生命兆候なし。
HT5 15度以下。  死亡。

 それから、トムラウシの遭難事故調査報告書でも、体温と症状を、次のように示しています。

36 ℃
 寒さを感じる。寒けがする。

35 ℃
 手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻痺したようになる。しだいに震えが始まってくる。歩行が遅れがちになる。

35 〜 34 ℃
 歩行は遅く、よろめくようになる。筋力の低下を感じる。震えが激しくなる。
 口ごもるような会話になり、時に意味不明の言葉を発する。無関心な表情をする。眠そうにする。軽度の錯乱状態になることがある。判断力が鈍る。

 *山ではここまで。これ以前に回復処置を取らなければ死に至ることあり。

 * 34 ℃近くで判断力がなくなり、自分が低体温症
になっているかどうか、分からなくなっていること
が多い。この判断力の低下は致命的。


34 〜 32 ℃
 手が使えない。転倒するようになる。
 まっすぐに歩けない。感情がなくなる。
 しどろもどろな会話。意識が薄れる。
 歩けない。心房細動を起こす。

32 〜 30 ℃
 起立不能。思考ができない。錯乱状態になる。震えが止まる。筋肉が硬直する。不整脈が現れる。意識を失う。

30 〜 28 ℃
 半昏睡状態。瞳孔が大きくなる。脈が弱い。呼吸数が半減。筋肉の硬直が著しくなる。

28 〜 26 ℃
 昏睡状態。心臓が停止することが多い。

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以上のデータに、実際の遭難での経過にそくして、

「6人がザックの防寒具を役立てられずに亡くなっていったのは、なぜなのか?」、

私の見方を以下に述べてみます。

低体温症の危険信号は、本人には自覚しにくいことも?

 「何故、ザックの中のダウンジャケットを生かすことができなかったのか?」

 それは、これまで言われてきたよりも早いピッチで、体温低下が進行し、危険認識や防衛本能などを麻痺させる次のフェイズに進んでいるからではないか?

 低体温症による遭難事故の経過を見ていて、こんなことを思っています。

 そう思う根拠は、単純なことです。

 体温低下は、低体温症の症状を一段一段、時間的余裕をもってゆっくり下がっていくわけではない。

 とくに薄い防備で強風にさらされた場合は、症状の各段階を短時間で駆け抜けてしまうからです。

 だから、自分や周囲が「危うい」と自覚できる瞬間は、実際にはしばしば見逃されてしまう。


 例えば、体温の低下が進みだしたとき、低体温症の危険を本人が察知できるのは、激しい寒さの感覚と猛烈な震えです。

 この猛烈な震えは、自分で低体温症におちいりかけていることに気づく、最初で、そして最後の関門になっています。

 ここを過ぎると、寒さの感覚や震えによる熱の産生という自己防衛反応はなくなる。

 救助にあたっても、

 「活発な震えは熱産生に最も重要な手段である。糖分を含む飲物でカロリーを補給し、震えを促進する(糖分を含む事は温かい飲料より重要)」(アラスカ州寒冷障害へのガイドライン2003(2005改訂))
http://www.sangakui.jp/medical/alaska/alaska02.html

 とされるほど、大事な指標になっています。

 ところが、その大切な局面で、保温が不備だったり、パーティーの事情があって行動を停止・あるいは制限するなどして、熱の産生が負けていると、体温の降下は、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」の体温水準を、短時間で通り過ぎて、より下がってしまう。

 トムラウシ山遭難事故では、15分当たりコア体温1度低下という、猛烈な体温低下も検証されています。

 その体温降下の途中の段階で、「激しい寒さの感覚と猛烈な震え」という段階は短時間で突破され、寒さを感じなくなり、危険に無関心になる無防備な段階にいたってしまう。

 こうして、登山者は、本人らは大丈夫だと思っているうちに、もはや自分一人では後戻りできない感覚や意識障害の段階に入って行ってしまう。

 つまり、低体温症の一連の症状の中には、ここが、地獄の三丁目! という「震え」のフェイズが多くの場合にあるのですが、

 ところが、防寒が不備で気象条件が激烈なときは、そこを本人が自覚しないうちに通りすぎてしまうのではないか、ということです。

 「震え」のフェイズがかならずあるかといえば、これには個人差があります。ない場合もある。

 しかし1つのパーティーのなかで、1人にこの関門のスルーがあると、パーティーは行動不能になるメンバーを、次の段階でかかえることになる。

 また、同じ条件で行動してきたメンバーは、やはり体温低下の過程に入り込んでおり、ここからも行動不能が広がる条件が生まれてしまう。

 今回の白馬岳の6人パーティーの場合、少なくとも、11時に白馬大池を出発する前の、大池到達時点あたりまでは、体温低下は始まっていなかったと思われます。

 コースタイムからすでに2時間20分遅れですから、大池での長い休憩などがあれば、そこから体温低下が始まっていた可能性を残します。

 大きなカロリーの喪失は、天候急変で周辺の山岳にとりついていたヤマレコ・ユーザーらが撤退を開始した、12時前後から。

 13時30分、小蓮華岳の手前で、「1人が疲れた様子で、その人のザックを別の人が担いでいた」様子が目撃されています。

 この時刻が、パーティーのメンバーに「最初の関門」越えが始まった段階と思います。


○HT1 35−32度。 震えあり。意識清明。

○35 ℃
  手の細かい動きができない。皮膚感覚が麻
 痺したようになる。しだいに震えが始まって
 くる。歩行が遅れがちになる。


 しかし、「先生どうしましょうか?」という相談の結果は、さらなる前進でした。
 ここで、「震え」のフェイズの突破があったのかもしれません。症状はもっと進んでいた可能性があります。

 いずれにしても、低体温症のシグナルは見すごされました。

 白馬のパーティーは、さらに1キロほど登って、稜線の三国境の手前で行動を停止しています。

 ペースから見て、さらに1時間以上、吹きさらしの向かい風のなかを行動。

 この時点では、体温低下はメンバーにさらに広がり、複数の行動不可能者が出た可能性があります。

 ザックを開けてテントを取り出し、みんなにかぶせようと努めた、それだけの体力と危機の判断力とを残していたメンバーもいました。

 「周囲は踏み固められ、ツェルトをリュックから出して使おうとした形跡があった。」(「日経」5月9日付夕刊)

 しかし、稜線の吹きさらし、強風・吹雪のもと、体温低下が進むなかでは、それが最後の防衛行動だったのかもしれません。


体温の急激な低下についてのデータ

◇体温の急激な低下のデータとしては、トムラウシの事故調査報告書に記述があります。

 「低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるために「全身的な震え」が 35 ℃台で始まるのが特徴的であるが、今回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行した例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が抑制され、30 ℃以下に下がっていったと思われる。」
 
 「マイクル・ウォードは『高所医学』という本の中で、

「低体温症になると 2 時間以内に死を来すことがある」

と述べている。この遭難事故でも、発症から死亡まで 2 時間と思われる症例がある。条件が揃えば、人体の核心温が一気に下がり、死に至る温度の 30 ℃以下に、急激に下がるのに 2 時間とかからない、ということになる。

 なぜ急激な体温低下を来したのかは、体力、気象条件、服装を含めた装備、エネルギー源としての食料摂取などを、総合的に検討してみる必要がある。」
 
 「体温の下降は 1 時間に約 1 ℃ の割合で下がった計算になるが、本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言している。」

 「小屋を出発した時の体温が 37 ℃に近い温度だとして、心停止の温度が 28 ℃以下だとすれば、体温が 9 ℃下がるのに 2 時間と要していなかったことになる。これは単純に計算すると 15 分で 1 ℃下がったことになり、この急激な下がり方であれば、「震え」で体温を上げることはとても間に合わないことになる。」


◇別の資料から

「震え(shivering)を唯一のT°の指標とすべきでない。」
(IKAR (国際山岳救助協議会)による低体温症の現場での治療勧告 1998, 2001編)


RE: 検証 白馬岳 低体温症 遭難 3)持参した保温衣料はなぜ使われなかったのか?

 以下は、ヤマレコ日記であるにコメントしたものです。
 ここにも張り付けておきます。

//////////////////////////////////////

Gさん、予兆から軽度の低体温症の発症までを範囲とする「予防」の段階を超えて、登山者の備えや対応をテーマにすると、なかなか微妙な問題がありますね。

 以下、提起されている問題に即して、ちょっと長めになりますが、コメントします。

(1)中度より重い低体温症の現場での対応、搬送されて以後の医療の対応は、かなり基本的な処置の点で、医学的にも探究途上だったり、不一致の面があります。症状によってもかなり違う。そもそも、そこまでの問題になると、医師にも知識がない方が大勢です。

 具体的には、同じ中度の患者の場合でも、種々の検査をして症状とどこが危ういかをつかまないと、その処置が良く出ることもあれば、致命的になってしまうこともある。

 例えば、加温による心房細動の誘発があります。これは、どこまでが急加温かが、むずかしい。実際には、意識を失うまでに体温が下がった場合に、山という条件では、あらゆる加温措置が動員されても、まだ足りない場面が予想されます。

 逆に、低体温症の患者が低体温になることで、脳の活動を抑え、血液と酸素供給が少なくとも、命だけは守り、搬送後に的確な措置で蘇生する事例が幾つもあります。この場合は、穏やかな加温であっても、脳の活動を再開させてしまって、それによって脳が酸欠となり、死亡してしまう場合がある。

 雪崩に長時間埋まっていたり、低体温症にかかって体温が大きく低下した人を救護する場合は、脳を守るために、加温せず保温(保温材やシートなどによるラッピング)だけで搬送されることもあります。

 できるだけ早くその場から安全なエリア移送して、専門医師の処置を受けるしかありません。

 これは、救助隊なども、実際にルールとしているのではないかと思います。

 低体温症の場合、心臓も、低いレベルで活動を続けている場合がありますから、脈拍を短時間見ただけで、心臓マッサージをすることなども、医師の判断なしには避けたいところです。

 登山者が何ができるかは、中度以上(意識喪失以下)にまで進行してしまった低体温症では、他の怪我などにくらべて、むずかしい問題があります。


(2)その一方で、蘇生の手立てが限られる山の条件でも、患者の様子によっては、心房細動の危険を度外視して加温する場合も、判断としてはあります。多くは、そのことまで考えないで、とにかく必死で加温されて助かる例があります。

 実際に、トムラウシ山遭難では「第2ビバーク地点」で、助かった女性への処置がそうでした。彼女は、意識を喪失していました。男性の参加者が懸命の保温と加温の措置をとって助けました。

 新田次郎の「芙蓉の人」(基本は実話)では、富士山山頂の観測小屋から瀕死の容態で退却して、八合目の小屋に担ぎ込まれた男性主人公が、必死の加温と摩擦によって命をつないでいます。

 いずれの場合も、意識喪失とはいえ、まだ中度の症状の入り口あたりだったから、生還できたとも言えます。


(3)私たちとって大事なことは、意識喪失以下にまで進行した段階のことではなくて、やはり予防だと思います。

その一線にいたる前に予防する。

 低体温症では、1人でも症状が進んだら、パーティー全体の行動が困難になりますから。

 具体的には、震えの時期を通り越してしまう前に対応する。つまり、体温がさらに低下し、当人が保温に無関心になる、足がふらつきだすような段階の前に、震えの段階までに先手で手立てをとってしまう。

 震えの段階までに、着込み、カロリー補給、天候判断と退却などの対応を、すすめることです。

 その前提として、震えには個人差があり、進行速度にも個人差があることを、知る。
これはリーダーと当人が、低体温症の独特の進行の怖さを認識していないと、手遅れもありえます。

 そして、予防の根本は、天候と行動のそもそもの判断、下着や濡れ対策、食糧計画など、出発時の用意と判断だと思います。

 
 私は、予防の上では、「低体温症」という言葉を要所でパーティー内で口にして、互いに注意し合い、観察し合うことも、大事なことだと思います。

 トムラウシの遭難では、出発時も行動中にも、遭難に至ってからも、誰一人、「低体温症」という言葉を発しなかったことが、生存者全員の聞き取りと証言から判明しています。

 言葉が発せられなかっただけでなく、ガイド1人を除いて、そもそも知らなかった。

 その気象条件で最大の脅威であったはずの対象が、最後までノーマークだったのです。(これも証言から)

 雪崩の危険個所や岩場などでは、パーティーは必ず相互に声をかけあいますが、低体温症については、意識的に努めないと、そこまでマークがいかない。
ここにこの難題に特有の「穴」があります。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-35495
 


5. 中川隆[-5840] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:12:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

奇跡体験!アンビリバボー:山の恐怖 〜トムラウシ山遭難事故〜 - フジテレビ動画
http://www.dailymotion.com/video/x4oagj9_%E5%A5%87%E8%B7%A1%E4%BD%93%E9%A8%93-%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%AA%E3%83%90%E3%83%9C%E3%83%BC-%E5%A4%8F%E5%B1%B1%E3%81%AB%E6%BD%9C%E3%82%80%E6%81%90%E6%80%96sp-8%E6%9C%8811%E6%97%A5_fun

トムラウシ遭難事故
https://www.youtube.com/watch?v=sodw39L6jhM

2009年12月10日
トムラウシ山遭難事故。山岳ガイド協会の中間報告書にみる「低体温症」の実際
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521

 12月7日に発表されたこの中間報告書は、7月のトムラウシ遭難事故について多くの証言やデータをもとに専門家も参加して詳しい状況を報告・分析しています。

(日本山岳ガイド協会 トムラウシ山遭難事故調査特別委員会の「中間報告書」)

 これまでの遭難事故報告書に比べて、この中間報告の一番の特徴は、大量遭難事故の犠牲者の直接の死因を「低体温症」ととらえ、その様相と、そこに至った原因を多角的に検証しようとしていることです。

 そこには、これまで認識されてこなかった「低体温症」の脅威と進行の様子が、おそらく史上初めてのことと思いますが、多数の証言で明らかにされています。

 中間報告は、次のように書いています。

 「今回の生還者も、「疲労凍死」という言葉については多くの人が知っていたが、「低体温症」という言葉は、ほとんどの人が知らなかった。したがって、低体温症に関する正しい知識を啓蒙することは、今後の遭難防止にとって重要なことだろう。」

 ガイド協としてはこの報告書の全文をWEB上に掲示していませんが、ぜひ全文を読めるようにし、多くの登山者に読んでほしいと思っています。

 なお、この問題では、私の事故翌日昼の次の日記のスレッドも、比較検討していただくことを希望します。

 「トムラウシ山遭難――低体温症とツアー登山、2つの問題」
http://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-3691

 以下、中間報告から、この角度での要点をツリー形式で紹介していきます。
 

 まず、低体温症の今回の現れ、です。
 報告書は次のように記述しています。

「北沼周辺で亡くなつた人の内2-3名は、北沼以前(ロックガーデン周辺)から発症していたと思われる徴候があった。ロックガーデンを登り終え北沼に降りる時点で、ほかの人の力を借りなければならないような歩行状態は、すでに症状が進んでいたと推定できた。発症は待機が始まった時間(北沼に到着した時間)の 10時30分にした。」

 「北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行動に移った瞬間から低体温症は急激かつ加速度的に進行し、症状が悪化する。これは静止状態から運動状態に移つたことで、冷たい血液が体内に一気に流れ出し、脳や筋肉の機能障害が急速にきたためと思われる。インタビューした多くの人が、この北沼分岐を出発したと同時に「意識が朦朧とした」「つまずいて歩けなかった」と証言したことで証明できる。」

 「北沼からトムラウシ分岐までの20分間という短い距離と時間の間に、低体温症で次々に倒れていった事実に注目しなければならない。

 発症から死亡するまでの時間(推定)は、

 2〜4時間以内:5名 、
 6〜10時間半以内:3名

 (6〜10時間半以内の死亡者の中には、テント内でビバーク
した2名を含む)

 死亡者の半数以上が2〜4時間以内で亡くなっていることは、低体温症が加速度的に進行、悪化したものと思われる。これは急性低体温症といえる。

 低体温症が始まると、前述したとおり、体温を上げるために全身的「震え」が35℃ 台で始まるのが特徴的であるが、今回の症例ではこの症状期間が短く、一気に意識障害に移行した例もある。あまりにも早い体温の下降で人間の防御反応が
抑制され、30℃ 以下に下がっていったと思われる。」

 今回の低体温症は、北沼のずっと手前で症状が現われたこと、そして、続いて報告しますが、参加者の全体に大なり小なり発症していたことが、一つの驚きでした。

(以下で、参加者への低体温症の現われを見ていきます。写真は9月下旬のトムラウシ)

2009/12/11 18:34

どんな気象条件だったのか?
 証言に入る前に、7月16日の遭難事故当日は、どういう気象条件だったのかというデータを、事故調査「中間報告」から紹介します。


○現地調査班のレポート

 「16日の山の天候は気温6℃、風速20m/secだった。」(新得
警察署)

○気象担当者のレポート

 「遭難日の7月16日について見てみると、15日に通過した低気圧は、16日未明に宗谷海峡を東進した。この低気圧は閉塞化が進み、閉塞前線が形成されているが、大雪山系では、当日未明から寒気とともに強い西風が吹きつける状況であった。
 この低気圧はゆつくりと東進したため、大陸から吹き出す寒気も強

い状況が維持された。札幌の高層観測によると、16日9時の1900m付近の気象は、気温が8.5℃ と急下降し、風速も19m/secを記録している。また、風向は西北西に変化している。」

 「大雪山・五色観測サイトにおける気象観測からの推測

 大雪山の高山帯では、北海道大学大学院地球環境科学研究院GCOEが無人気象観測装置を使って気温、風向風速、降水量などの気象観測を行っている。・・・今回の遭難現場の気象を推測するのに適したデータ
であるといえる。

【気圧】0時から8時にかけて780hPa前後と低い値が続くが、8時以降、上昇に転じた。気圧の変化から推測するとパーティが出発した5時30分は、まだ悪天候のピークの真っただ中であったと思われる。

【気温】パーティが出発した5時30分の時点で7℃ であった。その後、パーティが稜線に出た6時から14時頃にかけて6℃ 前後で推移し、14時になるとさらに低下し始めた。17時30分に日最低気温3.8℃ を記録、17時30分以降、気温は上昇に転じた。」

 「【風速】パーティが出発した5時30分から21時頃にかけての平均風速は15〜18m/secであった。このことからパーティ出発後、強風は夜中まで収まらなかつたことが分かる。特にパーティが稜線に出た6時頃から14時頃にかけて、最大風速が連続して20m/secを超えており、歩行困難に陥るほどの強い風が、持続的に吹いていたことが窺える。

【降水量】夜間の2時から3時にかけて、時間雨量が12mmに達するかなり強い雨が降っていた。しかし、3時以降雨は弱まり、8時になると止んだ。
パーティが強い雨に打たれたのは、出発直後から8時までの2〜 3時間程度であったと推測される。」


 「トムラウシ周辺の気象状況の推定

 ・・・主稜線に出てから8:30頃にロックガーデンを通過するまでの間、風速20m/sec以上の強風が吹き荒れていたことが窺える。最大瞬間風速は平均風速の1.5〜 2倍に達するといわれるので、この間の最大瞬問風速は30〜 40m/secにも達したと考えられる。台風の暴風圏の中を登山していたような状態である。

 一方、この間の雨に関する証言はあまり多くない。出発時くらいまでは降水量が多かったが、その後は風が主体で、降水量は減少していたと考えられる。

 10:00の北沼渡渉点でも強風が続いた。北沼が風で大きく波打っていて、これが水位上昇に関与したことも考えられる。12:00頃には、北沼分岐や南沼キャンプ場で風も弱まり、雨も止んでいた。これから午後にかけて天気は回復傾向にあった。

 トムラウシ山南斜面の前トム平では、16:00頃雨も上がり風も弱まっていた。そして19:00頃には、南沼キャンプ場付近でも月明かりが見えるほど天気は回復して、晴れとなる。」


○運動生理学の分野からの検討レポート

 「今回のトムラウシ山遭難の当日は、気温が終日10℃ 以下(最低では5〜 6℃ 程度)まで低下していることから、低体温症が起こる可能性は十分にあったことになる。

 以前は「低体温症」という用語が一般的ではなく、「疲労凍死」という言葉が使われていた。「凍死」というと、環境温が0℃以下の時に起とるというイメージを与えるが、そうではなく、低体温症は夏山でも起こり得ることを知る必要がある。」


低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(1)
 

 この遭難で亡くなられた方は8人です。(他に単独行の男性が1
人死亡)

 亡くなられた地点ごとに分けて、同行して生還した参加者の証言
を掲示します。
 (以下、参加者の略記号などは「中間報告」の通り。文の頭に※印
は、tanigawaによる注記)


≪北沼渡渉点 第一ビバーク地点≫ 2名死亡

◆女性客J(61歳)さん
 ※北沼渡渉点の手前から、ガイドCが肩を貸して支えられて登
高。
 
※北沼渡渉のあと、ガイドCは、ガイドBに、女性客Jさんの様
子がおかしいことを告げる。

 「ガイドC(38歳)の呼び掛けに対する反応が薄く、体を動かそう
としない状況だった。」(ガイドB(32歳))

 「直前の渡渉地点では典型的な前兆がなく、空身とはいえ自分で
歩いて渡っていたので、本当に驚いた。あまりにも急激だった。」
(ガイドB)

 「スタッフ3人は懸命に女性客Jの体をさすったり、声を掛けて励
ましたり、暖かい紅茶も飲ませたりしたが、次第に意識が薄れて
いった。」(報告書)


◆リーダーA(61歳)
 
「リーダーAが『俺が看るから』と言うので、『それじゃ、お願い
します。私は本隊を追い掛けますので』と言って別れた。彼は男性
客D(69歳)が貸してくれたツェルトで女性客Jを包んでさすってあ
げていた。風が強いので、ツェルトを巻こうにも巻けない状態
だった。その頃の彼の表情は、どこか虚ろだったように思う」(ガ
イドC)

 ※翌朝4時。
「ガイドB(32歳)が第1ビバーク地点まで行く。リーダーA(61歳)は
うつ伏せで、雨具の上下を着たまま女性客」(61歳)と倒れていた。
ツェルトは風で飛ばされ、近くの岩に引っ掛かっていた。その場は
ツェル卜だけを回収して戻る。第2ビバーク地点からは、空身でわ
ずか5分ほどの距離だった。」(報告書)

 ※この「第一ビバーク地点」について、現地調査報告では、次の
ように記しています。

 「川を渡った所は大きな石がゴロゴロした地帯で、風を防げるよ
うな所ではない。・・・強風に対して無防備でここに滞在したら、低
体温症になることは想像できただろう。・・・岩がゴロゴロした遮
蔽物が何もない場所で、プロのガイドがビバーク・サイトとして選
ぶ場所ではない。」

 ※このビバーク地点選定の判断をみても、パーティーが相当なショック
と混乱、判断不能の状態におちいり出していたことが推測されます。
そのことは、すぐその先の第二ビバーク地点で、はっきり現れてきま
す。

低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(2)
≪北沼分岐の先 第2ビバーク地点≫5人ビバーク、2名死亡

 同行して生還した参加者の証言を、続けて掲示します。
 (参加者の略記号などは「中間報告」の通り。文の頭に※印
は、tanigawaによる注記)

 ※ここは第1ビバーク地点から、通常なら5分のところで
す。頂上へ登らず、西面をトラバースするルート上。

 「北沼分岐ですでに低体温症になった人たちが、待機から行
動に移った瞬間から低体温症は急激かつ加速度的に進行し、症
状が悪化する。・・・インタビューした多くの人が、この
北沼分岐を出発したと同時に「意識が朦朧とした」「つまずい
て歩けなかった」と証言したことで証明できる。」(報告書)

 ※症状が広がったうち、歩行不能の女性客N、女性客H、女性
客I(59歳)が、動けなくなり、男性客D(独自にビバークを判断?)、
ガイドBが付き添って5人がビバークします。

 ※女性客N、女性客Iが亡くなりました。


◇女性客H(生還)
 ※第2ビバーク地点では、3人の女性が動けなくなり、残る。
「北沼渡渉点を過ぎて立ち上まった所で、体が一気に冷え込んで
きた。パーティの後方にいたので休むスペースがなく、少し離れ
たところでがたがた震えて座っていた。腕で押えても上められな
いほど全身が震え、歯ががちがら嗚った。その時一時、『あぁ、
これで私は死ぬんだろうか』と思った。(本人の証言)

 「とにかく寒くて気がついたら、テントの中で女性2人と並ん
で寝かされていた。夕方だったから19時頃か? ガスコンロが一晩
中、燃えていた。それでも寒いのでダウンを着て、さらにガイド
Bさんがレスキューシートを貸してくれた。それでもなお、自分
は低体温症だとは思っていなかった」(本人の証言)

◆女性客N(62歳)
 ※第2ビバーク地点。
「北沼分岐付近では、女性客Nさんの後ろを歩いていたが、彼女
は何ごとか叫びながら、四つん這いで歩いていた。私も同じよう
な状熊で、やがて記憶を失くした。どこで倒れたか記憶にない。
最初の停滞地点から5分くらいの場所だと思う」(女性客H)

 ※18時ごろ、ガイドBらによって収容されたテント内で。
「その時点で女性客Nが危険に見えたが、声を掛けたら反応があった
ので、急いでガスコンロに火を点けた。再度声を掛けたら反応が
ないので、心臓マッサージを20分くらい行ったが蘇生せず。」
(ガイドB)

◆女性客I(59歳)
 ※第2ビバーク地点。
 「持っていたツェルトでは5人は十分に入りきれないので、男
性客D(69歳)にも手伝ってもらってマットを敷いて、女性客I(59歳)、
女性客N(62歳)、女性客H(61歳)を寝かせ、ツェルトを被せるように
する。ガイドB(32歳)も一緒に入って、添い寝するようにして、体
をさすり保温に努める。泣き出したり、大声で叫んだりする女性
がいた」(ガイドB)

 ※女性客Nさんが亡くなられた後。
 「ガイドB(32歳)は、女性客2人(※IとH)にお湯を飲ませた
り、ガスコンロの火に手をかざしてあげたり、抱きかかえて保温
に努めたりした。やがて、2人の状態が落ち着いてきた」(報告
書)

 ※ガイドBは、救援の連絡を終え、夜7時すぎ、テントに戻
る。
「女性客I(59歳)が20時30分頃、意識不明になったという。10分ほ
ど心臓マッサージを施したが、蘇生せず。」(ガイドB)


 ※このビバークで使ったテントとガスコンロは、ガイドBが南沼のキャンプ指定地で見つけてきたものでした。この時点で、ツアーのテントは、下山を続行した参加者を引率する役目のガイドCがザックに担いだまま先行してしまい、最後まで使用されていません。

 ※ガイドBと、男性Dは、3人の女性の介抱のために大きな役目
を発揮しています。男性Dは、リーダー・ガイドらが第一ビバーク地点でとどまった際に、自分のツエルトを提供しています。また、ガイドBとともに、3人の行動不能の女性の、ツエルトへの退避、テント設営後の移動、テント内の保温などを協力してすすめています。資料では、装備していたザックの重量も17キロ近くと最大です。

 男性Dがかなりの余力を残しながら、なぜビバークを決め、ガイドBと協力したか、本人の証言は示されて
いません。登山経験年数だけをみると、50年以上の方ですが、この方も次のように証言しています。

 「低体温症で疲労し、意識が朦朧としている人を担いでテントに
入れる場面は、いくら考えても何が原因か、摩訶不思議だった。」(本人)

 ※結果論ですが、パーティー全体が2つのテントを使って、風をよけられる場所で早い段階でビバークしていれば、午後には風雨が落ち着きだしたこともあり、犠牲者はさらに減ったように思われます。

 しかし、実際にはガイドが携行したテントは使われず、ガスバーナーとテントのデポ品を発見して、初めてビバーク体制が本来の形になり、テント内の加温も開始されます。

 それは、北沼での最初の発症から8時間後の18時ごろのことでした。


ガイドが次々と低体温症にかかった

 ※ここで、以降の経過を把握しやすくするために、下山を引率する役
目のガイドCの状況を、中間報告から紹介します。その前に、全体を把
握しやすいように、ガイドの体制について、紹介します。

(文の頭に※印は、tanigawaによる注記です)

 ※第2ビバーク地点から下山を開始した10人の参加者のなかから、
次々と犠牲者が広がりました。なぜそうなったのか。そもそも引率役を
任されたガイドC自身が低体温症に襲われていたことが、全体を制約す
ることになったと見られます。

 ※第1ビバーク地点でリーダー・ガイドが残り、第2ビバーク地点
で元気だったガイドBが残るという、パーティーとしての統率・一体性
の崩壊が、さらにそのおおもとの問題としてあります。そうなったの
も、リーダー自身が北沼からの沢の渡渉と1時間の現場での介抱のなか
で、すでに低体温症にかかり、全体の指揮やビバーク地点の選定を含め
てあらゆる適切な判断ができなくなっていたことが、根本にある可能性
があります。

 ※中間報告は、ガイドの体制について、次の記述をしています。

 「ガイドの選び方に問題はなかったか。ガイドの選定方法としては、
参加者の多い支店からガイドを出すことがアミューズ社の方針になって
おり、今回、広島と名古屋からそれぞれリーダーとサブガイドを出して
いる。ただ、2人とも今回のコースは初めてで、しかもスタッフ3人とも
各々面識がなからたという。コース経験の有無は、ガイドの絶対的条件
ではないが、万が一を考えると不安な構成である。今回のようなロング
コースでは、接客力優先ではなく、危機対応能力を中心に、厳しく選定
する必要があったのではないか。」(事故要因の抽出と考察)


 「ガイドの力量に問題はなかったか

 *登山歴、ガイド歴はそれなりにあったと思うが、危急時における対応
経験はどこまであったのか、また、危険予知能力(参加者の状況把握、天
候変化予知、時間経過判断など)をどれほど持ち合わせていたか、疑問が
残る。今回、特にスタッフの判断の迷いや遅れによって対応が後手後手
に回り、パーテイ全体をどんどんピンチに追い込んでいったと思われるふ
しがある。

 *リーダー・シップとフォロアー・シップに関して認識が薄く、シビア
な状況下でのパーティ行動の経験が、不足していたのではないか。

 *夏山といえども危急の事態を想定し、その対応についてスタッフは事
前にどれだけ真剣に打ち合わせをし、緊張感を共有していたか。また、危
急時の連絡方法についての共通認識を持ち合わせていただろうか。」(事
故要因の抽出と考察)

 ※ともかくガイド全体がこの時期の危機対応に低体温症を想定せず、
リーダーも最終引率役のガイドも低体温症になっては、パーティーとし
て存立できません。


10人を引率するガイドCが低体温症だった。本人と生存者の証言(3)
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記です)

 ※ガイドC(38歳)についての調査委員の医師の報告(中間報告に
添付)の記述を紹介します。

 「北沼分岐を出発時に低体温症を発症」。

 「北沼分岐手前で渡渉中に転倒、全身ずぶ濡れになる。このことは後
に「最大のミス」だった、と証言している。」

 「出発した時から全身的震えが始まった(35℃ 台)。トムラウシ分岐まで
20分ぐらいで着いた。ここで参加者2名が遅れたが、捜すだけの気力はな
く、遭難の通報を入れることだけを考える。

 死を覚悟して早足で歩き、歩ける所まで歩こうとする。人を救う体力と
気力はなく、次第に足が棒のようになって膝が曲がらなくなり、転倒を
繰り返した。」

 「トムラウシ公園付近では意識が薄れ出した(34℃以下)。
 前トム平に就き、携帯で電話する。・・・このとき一緒だった女性客G
は、彼の返答は呂律がまわらなかった、と証言((33℃以下に下降し始め
る)。」

 「前トム平より巨石のあるトラバースぎみの下山路(当時はこの辺に雪
渓があった)を下り、ザックを降ろして携帯を出そうとして、そのまま前
のめりにハイマツの中に転倒、意識を失う。・・・その時の体温は33℃ 、
あるいはそれ以下だったと思われる。」

 「以後、救助隊に発見されるのが17日の10時44分、病院に収容された
のが11時35分で、意識が正常に戻ったのが12時50分頃になる。この間、
約21時間意識を消失していたことになる。帯広厚生病院の入院時の所見
によれば、・・・大声で呼びかけたり強く揺さぶると開眼する程度の意識
で、直腸温は34.7℃ であった。」

 ※前トム平。
 「彼が(※携帯で)なんとか答えたが、ほとんどもう呂律がまわらない
状態で、盛んに『ポーター、ポーター』と叫んでいた」(女性客G)

 「本人によるとストーンと下がるような状況で意識を失った、と証言し
ている。なお、低体温症は言葉では知っていたが、自分でもこんなに早く
意識障害がくるとは想像していなかった、とも述べている。」(調査した
医師の記述)


低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(4)
≪南沼キャンプ場手前≫ 1名死亡

(文の頭に※印は、tanigawaによる注記)

 ※ガイドによる引率、パーティーとしてのまとまりが崩壊したもとで、低体温症を発症した参加者のあいだに、さらに犠牲が広がってゆきます。

◆男性客M(66歳)さん 死亡
 ※男性客M(66歳)さんは、もっとも早くから発症した人の1人。
  以下、時系列でMさんの状況。

 ※8時30分すぎ。
 「口ックガーデンの登りで、男性客M(66歳)さんが脚を空踏みし出
して、ふらふら歩いていた。支えて歩かせていたが、次第に登る気力
が失せたのか、しばしば座りこむようになった。これでは自分の体力
が持たないと考え、ガイドに任せた」(女性客G)

 ※第2ビバーク地点を出発。
 「ガイドCが引率して歩行可能と思われる10人を下山させること
に。」(行動概要)
 
 ※12時すぎ。南沼キャンプ地手前。男性客Mさんが遅れた。
 「引き返してみると、Mさんが直立不動で立ち上まっているのが見え
た。岩場の通過ではMさんを抱えて歩かせ、ほかの女性たらを先に行か
せた。さらにMさんをなんとか歩かせようとするが、脚を出せと言って
も、左右の区別ができない。平らな場所でもしゃがみこんで、立ち上が
れない。なぜ歩けないのか、自分には分からなかった」(男性客F)

 ※13時30分〜50分ごろ。

「男性客Fは男性客Mを歩かせようとするが動かせず、やむなく諦
める。」(行動概要)

 ※翌朝5時45分。

 「道警ヘリが南沼キャンプ場付近で意識不明の男性1人を収容する。」
(行動概要)

低体温症で亡くなられた方についての、生存者の証言(5)
≪第3ビバーク地点 トムラウシ公園上部≫ 
 4人が取り残され、3人死亡
(文の頭に※印は、tanigawaによる注記)

 ※現場は主稜線からトムラウシ温泉側へ下降しだした地点。ここまできて、取り残され、亡くなられた方の中には北沼付近ですでに低体温症を発症していた方もいました。

 ※中間報告は、便宜の上で「ビバーク地点」としていますが、テントは使われず(ガイドCが担いだまま)、2人はそのまま行動中に倒れ、残る2人は岩にもたれただけでした。

 ※発症した時点からの、証言を見て行きます。


◆女性客K(62歳) 死亡
 ※北沼で。
 「北沼渡渉後、その先で皆で休んでいたが、女性客K(62歳)さんが嘔吐し、奇声を発していた」(女性客G)

 ※南沼キャンプ場の手前で。
 「女性客K(62歳)さんが意味不明の言葉をしゃべり出した。そこで『Kさん、何か食べないと、歩いて下山できないわよ』と励ました。何か少し食べたようだ。ここで初めて死にたくない!と思った」(女性客G)

 「女性客Kさんはぐったりしていた」(男性客F)

◆女性客L(69歳) 死亡
 ※南沼キャンプ場の手前で。
  「衰弱していた女性客Kと女性客Lも歩行が覚束なくなる」(行動概要)

 ※南沼キャンプ場の先?
  「女性客Lさんは奇声を発していた」(男性客F)

 「トムラウシ分岐を過ぎると緩い下りのトラバース道となり、トムラウシ公園に続く。その公園の上部で、男性客Fに見守られながら、女性客Kの意識が次第になくなり、続いて女性客Lも静かになった。」(ガイドC)

 ※2人が倒れた場所のすぐ下では、女性客Oさんと、女性客Bさんが、ビバークを決めます。

◆女性客O (64歳) 死亡
 ※トムラウシ公園。

 「登山道の脇に草むらがあり、大きな岩もあって休めそうな感じだった。自分でなんとなく、とっさに判断して、女性客Oさんに『ここで救援を待った方がいいんじゃない?』と声を掛けたが、それまでしっかり歩いていたのに、何も反応がなかった」(女性客B)

「自分のシュラフを女性客○に掛けて介抱していたが、18時30分頃、冷たくなった」(女性客B)

◇女性客B(55歳)さん(生還)
 ※本人の証言。

 「北沼分岐の待機時間に寒さを感じた。立ち上がって歩き始めた時から意識
が朦朧とし始めた(35℃ 以下)。隊列を組んで歩いていたが、ほかの人がうまく
(真っ直ぐ)歩いていないなと思った。しかし、自分もよろよろと歩く状態だった。

 南沼の途中の雪渓で思わずつまずいてしまい、ハッとして体勢を整えた時に、
今まで朦朧としていた意識が「我に返った」ようになった。 トムラウシ分岐
付近の歩行はよろよろした状態で、ストックで支えながら歩いた(35℃ 台)。」

 ※18時30分すぎ。

 「自力下山を考える。しかし、もうすぐ暗くなって道に迷うことも考えられるので、ここで初めてビバークを決意する。・・・翌日早朝からの下山に備えて自分のシュラフとマットに横たわる。」(行動概要)

 ※翌午前3時40分。

 「女性客Bが・・・ビバーク地点から歩き出し、前トム平へ下降する。」(行動概要)


 ※午前5時16分。

  「道警ヘリが前トム平で自力歩行可能な女性客Bと、さらに意識不明の女性客1人(O)を収容する。」(行動概要)
 


低体温症からの生還。発症後の手立ての大事さ

 証言の紹介を終えて、ここからは通常の書き込み形式で、2、3の大事な問題を「中間報告」をもとに書いていきます。

 今回の遭難では18人パーティー(ガイド3人、参加者15人)のうち、10人が生還していますが、このうち少なくとも次の3人は、いったん低体温症の明確な症状が出たものの、助かりました。

 従来は、登山時に低体温症を発症すると、歩行・会話・意識障害などにまで症状が進んだ場合、あるいは自分で体温を上げられない段階にまで症状がすすんだ場合、山では「患者」にたいする積極的な加温の手立てがとれないため、回復はきわめて困難であるというのが、低体温症の怖さとして強調されてきました。

 今回は、この問題について、悪条件のもとでも可能な対応をすすめるなかで、新しい可能性が確認されてきたと思います。


◇女性客H(61歳)
 北沼で発症。第2ビバーク地点で、意識を失う。症状から推定体温は33度。岩陰に運ばれ風をよけ、次いで3人の意識不明の女性の1人として、テントに収容。このとき、ガイドBと男性Dは、3人を保温するように体を寄せ、また、ガスバーナーでテント内部を保温。19時過ぎに意識が戻る。ダウンの防寒具を着、スープなどを飲み、夜を明かし、救出。Hさんは、雨具の下は濡れはなかったと証言している。

 (同じテント内で女性2人が死亡しているが、うち1人はいったん夕方に意識をとりもどしたあと、急変、亡くなっている。)

◇女性客B(55歳)
 北沼の出発時点で、意識朦朧、よろよろと歩く(35度以下)。南沼でつまづき、我に返る。トムラウシ公園上部の岩のたもとでビバーク。このとき風は弱まりだし、雨があがっていた。マットレスを敷き、シュラフに入って、そのまま3時過ぎまで眠らず過ごす。自力で1時間下山し、救助ヘリに発見される。本人はどこで着用したか覚えていないが、雨具の下にフリースを着用していた。また、ガイドCと同じく、チョコを行動食として食べてきた。

 「自力判断でビバークした参加者は、この1名だけである」(医師の調査報告)

◇ガイドC(38歳)
 3人の中ではもっとも症状が重く、翌日昼前、意識をなくした状態で救出(前項に詳述)。自力生還ではないが、テント、ツェルトなしで一晩倒れたままで生存。体温は推定で33度かそれ以下まで低下。服装等に保温性があった可能性。また、倒れる前にチョコなどの行動食をとっていた。

 以上の内容から、低体温症の典型的な兆候、自覚症状などが出た場合も、リーダーがただちに、風よけのできる場所への退避、ビバーク、そのためのテント、ツエルトの用意とガスバーナーによる保温対策、重ね着の実施、温かい飲み物、など、可能な手立てを尽くすことが、一定程度の効果を発揮することが確かめらるように思います。

 この点で、中間報告が、症状が出る危険がある場合に、そのまま体温保持(熱産生維持)のために、緩やかに行動を続けるという対応が適切でない場合があることを指摘しているのは、とても大事だと思います。

 今度のような特別の悪条件下では、行動することで生まれる熱量よりも、体から奪われる熱量の方が、上回っている人が多かった。(着衣、食事内容、運動能力等により個人差あり。) そのような場合は、適切な場所でビバークし、保温・加温とカロリー補給に努めることが大事だということです。

 発症するメンバーが出たら、なおさらただちに、ということです。

 実際上は、突然の意識・運動障害、判断力の喪失を想定して、この対応は早めにすすめることが大事になります。

 同時に、何よりも登山者本人が、低体温症を想定した非常時の対策、保温性のある下着、重ね着の用意と着用をおこなうことが、重要だと思います。晴天・好条件用とは厳密に区別して。加えてツエルトの用意も。

 そして非常時にこそ、非常食・行動食の用意と行動中の摂取が決定的であることも、確認できるように思います。 あえて言えば、非常食は山で飢えないためだけにあるのではなく、非常事態で行動を支える用意として、備えるだけでなく、積極的に食べるためのものである、ということでしょうか。

 それにしても、Hさんは前日も体調不良(高山病)から吐いてばかりで、2日間十分な食事をとれていなかったのに、ここまで回復できたのは、周囲の救護の力の大事さを示しているように思います。

貧弱な食糧計画では低体温症を予防できない

 今回の「中間報告」は、驚きと発見が幾つもあり、登山者の1人として学ぶことが多いものでした。

 その1つに登山時の食事の問題がありました。

 本州の、施設が整った山小屋を使う登山の場合、ツアー登山も山小屋の、ある意味では多面的な保護の恩恵を受けます。食事では、北アや八ツでは、途中の山小屋で昼食やおやつを食べることもできます。

 ところがトムラウシ山の縦走の場合は、無人の避難小屋を使ったとしても、大きな制約があります。今回も、濡れたソックスや雨具は乾かないし、就寝中も風雨の吹き込みでシュラフが濡れたりする。何かほしいと思えば、その分、自助努力がいるし、総じて必要な装備は増えることになります。

 そのしわ寄せのなかで、非常時の服装や装備を、携行できない、という参加者もいました。

 そして、しわ寄せが、もう一つ及んだ分野が、食事だったということを、私は、中間報告の「運動生理学的見地から」の調査と考察を読んで、認識させられました。

 ツアー登山の場合、個人がそれぞれ参加するため、報告にあるようにアルファ米とレトルト食品のおかず(カレーなど)のように、かなり簡素な食事が続きます。

 またコンロも個人ではもたないことが、普通のようです。(第二ビバーク地点で使用できたコンロは、南沼の他人のデポ品でした。)

 コンロはシェルパ役の場所取りガイドが共同利用で用意しています。そして、ガイドが沸かしてくれたお湯を、参加者に配るという方式で、各自の食事の準備が進められます。

 自前のコンロなしの条件では、メニューが制限されます。

 また、濡れたものは乾かせません。初めて知る実情でした。

 私のこれまでの山の経験では、幕営などの際の食事はもっとも楽しく、好きな素材やメニューを用意しておなかいっぱい食べることに集中する、そういうイメージがありました。そこではコンロは大活躍します。家族の山行でも、同じ。食糧計画は、共同の準備と調理がその食事の基本条件になっています。

 施設が完備した山小屋を使えない山域に入る場合、ツアー登山では個々人が自分の体力と相談しながら、食事を制限するということが、起こっていたことになります。少なくとも、今回の会社の体制ではそうでした。

 この我慢と制限は、ツアー会社が参加者に示した荷物の目安にも、現れていました。パンフレットでは「山行に支障を来たさない範囲で背負える最大荷重の目安」として、女性の場合、「50歳では12キログラム、60歳では8キログラム」と、ほとんど非現実的な数値(日帰り登山並み!)を基準に示しています。

 これは、お手軽登山ツアーのお誘い以外の何物でもありません。

 しかし、3日間40キロの無人の行程を行く大雪山の縦走は、このような装備と食糧の携行で対応できるものではありませんでした。

 実際に参加者の食事はどうだったのか?
 中間報告によると、3日間のこのツアーの食事は次のようなものでした。

 「生還者が食べていた内容を大まかに言うと、朝食としては、インスタント・ラーメン、アルファ米(前夜の残りの半分という人もいた)、スープなどの回答が多かった。行動食については、カロリーメイト、ソイジョイ、ゼリー飲料、バナナ、チョコレート、アメなどを食べていた。また夕食では、アルファ米とカレー、調理済みのアルファ米(半分だけ食べるという人もいた)、スープ、野菜といった内容だった。

 これらのエネルギーの総和は、多めに見積もったとしても1000kcal台の前半から後半にしかならず2000kcalを超えている人はほとんどいないように思われた。」

 この考察の筆者は、本来必要な参加者の1日の必要カロリーは、女性で2500キロカロリー弱、男性で3500キロカロリー弱だったと算出しています。しかもこれは、気象条件が理想的に良い場合です。

 これに事故があった日のような低温、風雨のなかでは、必要カロリーは「この値の数割増し」と算出しています。

 つまり参加者のカロリーは、必要量から見て、「摂取量が大幅に少なかった」と書いています。前日の雨中の行動と含めて、半分のカロリー程度しかとれていません。

 熱源的に、カスカスの状態を続けて、低温・強風・雨の稜線にとりついていたことになります。

 「中間報告」のこの考察では、今回のように「風に逆らって歩く場合には莫大なエネルギーを使い、疲労を早める」と、述べています。

 そして、「今回の低体温症の発症が非常に急激だったことを考えると、寒さや風といった気象要因だけではなく、その前段階として、体力の非常な消耗が関係していた可能性がある。」としています。

 低体温症に抵抗するための熱の産生が、1)激しい行動でカロリーが早い段階で失われただけでなく、2)粗食3日目という条件で早々と補給源が尽きてしまった(個人差あり)という考察です。こうした場合、筋肉のたんぱく質を分解してカロリー源とする防御反応も、起こりうるという指摘も記述されています。

 関連は不明ですが、医師の報告では、精密な検査が行われたガイドCの場合、代謝面や、肝臓の異変を示唆する可能性をはらむ、幾つもの異常な数値が検知されています。

 多くの登山者は自己防衛的に、本能的にも、食事の量とともに、行動中のカロリー補給には気をつけています。

 しかし、低体温症という課題に向き合う形で、食事の面からのフォローを改めて見直す必要を感じさせられました。前コメントで書いた、非常食をこういう場合に積極的に食べることも、その1つです。


「中間報告書」への私の注文

 この遭難事故調査特別委員会の座長のS氏は、私も一度、少人数で食事をする機会があった方です。山へ入る修行僧を思わせる風貌をもつ、一本気な方という印象を持ちました。

 座長としての巻頭の文言では、今回の「中間報告書」は、登山者の目線で事故原因を明らかにする、という立場からまとめあげたと述べられています。私もこの位置づけには、賛成できますし、調査と考察の内容はその目的に応えるものがあると感じます。

 登山の愛好者と岳人のなかに、この「報告書」の中身が広く認識され、討論・交流されることが大事になると思います。

 私のここでの一連のコメントも、そういう趣旨でおこなってきたものでした。

 その立場から、最後に、「中間報告書」について、私の意見を述べることにします。


1、低体温症の脅威と対応を登山界全体が認識できる体系的な構成に。

 最初の私の書き込みにあるように、この「中間報告書」の一番の特徴、日本の登山・遭難の歴史のなかでの新しい特徴は、大量遭難の直接の死因を「低体温症」ととらえ、そこにいたった経過と原因を多くの生還者の証言をもとに多角的にとらえて教訓化しようとしていることにあります。

 調査に参加した複数の専門家の記述も、大量の犠牲者を出した直接の原因は低体温症だったことを的確に規定しています。パーティーが生死の際で直面したのは、まさに低体温症との戦いでした。

 ところが、この「中間報告書」を第一報したマスコミ報道は、「ガイドの力量不足、判断ミス」に焦点を置いた内容になっていました。ここには、書いた記者の認識の段階も反映していると思います。

 しかし、「中間報告書」の構成を見ると、全体を通して読み解けば低体温症の問題がくっきりするものの、たとえば事故にいたった原因の総括的な考察は、総ざらい的に問題を列挙するものになっています。先入見なしに、末尾までしっかり読みこまないと、何が起こったのかが体系的につかみにくい構成になっていることも、関係しているように思えます。

 この大量遭難は、8人の犠牲者が滑落や落雷で亡くなられた事故ではありません。ヒグマに襲われたわけでも、沢の鉄砲水に呑み込まれたわけでもありません。
 パーティー自身は「無自覚」だったけれど、彼らを襲ったのは報告書が指摘するように、低体温症でした。個々人の経験と技量、ガイドの力量はまさにその点で問われました。

 そして、低体温症の危険を予測し、予防し、出発前と行動開始後、さらに発症後のあらゆる局面でこれと闘いぬくためには、従来の登山者の認識の水準を超えるような、総合的な判断、認識が問われた事件でした。生死を分けた勘所も、気象、運動生理学、装備と食事、救護の在り方など、多面的に検討されるべきものだったことは、中間報告書が示す通りです。

 私が今回の事故でもっとも大事だと思ったのは、18人の全員が、低体温症に無警戒だっただけでなく、言葉として低体温症を現場で頭に思い浮かべた人もガイド1人だけで、かつその認識も現場の進行と対応させて考えるにいたらない、おぼろげな水準のものだったことです。

 現場では、3日間の全行程を通して、何より、症状が出てからさえも、「低体温症」という言葉そのものが、ガイドと参加者の誰からも発せられることはありませんでした。

 参加者には30年、50年という登山の経験者もいました。それだけの登山者が集まってもなお、低体温症は現実の脅威として現場で認識されることはなかったのです。介護を続けながら「摩訶不思議な出来事」と最後まで思っていたというベテランの参加者の証言が示すとおりです。

 これは、例えて言えば岩場に取り付いている登山者が、何が危険か、どう安全確保するか、予測も認識もしなかったようなものです。これでは、ガイドも参加者も対応・備え・回避のしようがありません。
 
 不幸なことに、低体温症は、人の判断力、行動力そのものを突然、奪うものでした。リーダーガイドが「力量不足」の焦点に立たされていますが、彼のパーティーを襲ったものが低体温症でなければ、彼は長年の経験と判断とを生かして、事に対処していた可能性もあります。低体温症の認識がなかったからこそ、ガイドと登山者側の対応も後手に、あるいはなすすべもないところに、追い込まれた可能性が強くあります。

 今回の大量遭難事故の最大の問題がここにあります。

 (関連して言えば、私が遭難直後のツリーで書いていたことですが、北沼の渡渉も、低体温症との関係でより力点をおいてほしいことです。雪渓に半ば埋まった北沼の水温はほぼ零度です。急激な発症者が直後に複数出たのは、この水に漬かったことと深い関連があります。そのうえ1時間、待機させられ、発症が拡大した。低体温症への無警戒の顕著な現われと思います。北沼は現場の判断の最終関門でした。「もう引き返せない」という証言の通りです。)

 そうした問題であることが把握しやすい構成、原因論の論じ方になっていれば、記者のみなさんもああいう記事の中身にはならなかったでしょうし、何よりも多くの登山者にとって、これは新しい、深刻な問題が提起されていることが、受けとめられることにもなります。

 私は、今度の遭難の最大の問題は、日本の登山界でその程度にしか低体温症の怖さが認識されてこなかったこと、そのことにあると思っています。そこを広く指摘し、その問題を根幹にすえて、体系だった報告書、とくに原因究明をすすめることが、事故報告書として大事ではないかと考えます。

 それこそが、広く登山者の目線で原因と教訓を明らかにする方向ではないかと思います。


2、ガイドの水準、認識を向上させ、ガイドが参加者の命にかかわる問題で的確な判断を保障しうる制度の提案。

 2つめの問題は、いま述べたことを本当に実行するには、解決策として何がかなめか、ということです。

 報道のようにガイドの力量不足がかなめだというならば、個々のツアー会社と個々のガイドの今後の努力に委ねるという策が基本になってしまいます。
 そのことで、解決がなしうるのでしょうか?

 パーティーがあの気象条件とパーティーの構成で、足の揃った静岡のパーティーでさえ夜7時半にようやく十勝側に下山できたような行程に出発せざるを得なかったのは、行くしか選択肢がない立場にあったからでした。

 麓の温泉は予約済み、バスも待っている、飛行機の便も団体で予約済み、当日は同社の別のパーティーが避難小屋に入ってくる、もしかしたら、下山後はすぐ次のガイド番にふりあてられていたのかもしれません。

 そして、3人のガイドの構成そのものが、ルートの未経験者が2人もいる、非力なものでした。中間報告書がいうように、ガイドの構成、予備日なし、出発の判断も自分の裁量が限られる、そういう条件で、この登山は始まったのです。

 小屋にサポート役と、テントとガスコンロを、その日に入れ替わりでやってくるパーティーのために残しておくという、無防備な体制でです。

 制度としては、ガイドが会社とは独立に安全最優先の判断をおこないうる、そうした体制・制度に改善されることが第一の問題です。それでこそ、ガイドの力量は発揮されます。

 そして、その制度化と併せて、ガイドの力量の向上が必要です。

 人の命を預かるのですから、会社から独立した立場でこうしたツアーに、専門的なガイドを配置することを義務付け、ガイドの判断によってその地位や生活が脅かされない立場を保障する。

 そのうえで、ガイドが行った判断には、ガイドは会社とともに、全面的なそれぞれ独自の責任を負う。もちろんガイドは、接客役とは区別して、有資格者でなければなりません。ガイド協会が雇用形態の面で、会社側と専門ガイドとの間を仲立ちする仕組みづくりも一案と思います。

 こうした制度が創設されないかぎり、コスト優先のガイド配置とツアーの運営が手つかずになり、事故はこれまで通り、繰り返されることになると思います。
 ガイドの力量・判断の問題は、いまに始まったことではなく、長年の野放しの結果、今があるということが大事と思います。
 


RE: 「山渓」3月号掲載の証言

 「山と渓谷」2010年3月号で、3たび、トムラウシ遭難事故の特集をおこなっており、そのなかで、ツアーに参加した方の新しい証言を載せています。

 経過の全体は、ここまでの「報告書」の分析で書いてきた通りです。

 今回の証言で新しくわかったことは、最初に行動に支障をきたす参加者が出たのは、ロックガーデンではなくて、ヒサゴ沼から縦走路に上がる雪渓、また縦走路に出てすぐの地点だったことです。2人が介助されなければ歩けなくなった。

 北沼までかなり長い時間がかかった理由は、すでにこの段階で、行動が困難な参加者が出たためだったことになります。

 先の行程の長さ、気象条件を考慮すれば、そのまま北沼へと進んだ「判断」が問題ですが、ガイドの間にはこの状況でも、相談・検討はなかったと、レポートされています。

 先への行動に駆り立てたものは、なんだったのか。ガイドをふくこの会社の状況が背景にあるとしか思えません。
https://www.yamareco.com/modules/diary/990-detail-5521


6. 中川隆[-5839] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:15:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

北海道移住始めました(^^

北海道の弟子屈、奥春別の原野に古い家を購入し移住しました。
仕事をやりつつですからなかなか進みませんが、少しづつコツコツと手直ししつつ、過ごしやすい家にしていきます(^^
http://ameblo.jp/gts1000tdm850/


生きてますよん(^^)v|北海道移住始めました(^^ 2016年02月25日


生きてます(笑)


こんなことやって遊んでますので、ご安心ください。


バナナで釘を打ってみた。 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=k9vylCLO1Zc


ちなみにバナナをだいぶ前に用意していたので、熟しきっており、結構フニャフニャでした。
それでも充分釘を打てましたから、モービルのCMも嘘じゃなかったということですね(^^


なお、薔薇をバラバラにするのは薔薇を買いに行くのが面倒ですのでやりません(笑)

その代わり沸騰したお湯が一瞬にして雪の結晶になるマジックはこの後載せます(^^)v

(この後、スタッフが責任持ってバナナを食べました!!)
http://ameblo.jp/gts1000tdm850/entry-12132714271.html

楽しんでますよん(^^)v|北海道移住始めました(^^ 2016年02月25日


今日は今季一番の冷え込みになりました。マイナス23度位です。


で、以前テレビで見て面白かった実験をいろいろとやってみました。


そのひとつは先に上げたバナナで釘を打つというものですが、こういうのもやったのです!!


マイナス20度を下回ると熱湯が一瞬で凍りつきます。 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=SHCnA2_Tt1o


面白いでしょ?


沸騰したお湯を振りまくと一瞬にして雪の結晶となって雲のように真っ白になります。

今度はかき氷のイチゴシロップを買ってきて、シロップ入りのお湯を振りまいてみたいと思います(笑)
http://ameblo.jp/gts1000tdm850/entry-12132716688.html


7. 中川隆[-5838] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:19:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
北海道へ移住するとこういう目に遭う


初凍結。 2015年12月31日
http://ameblo.jp/gts1000tdm850/entry-12112035988.html

温泉行ったあとにタオルをぐるぐる回すと、こうなります。

http://ameblo.jp/gts1000tdm850/image-12112035988-13526933300.html


28日の夜は18度弱(マイナスですよ)まで冷え込み、トイレと洗濯機の水道が凍結。

台所の水道は凍結防止帯が巻かれているので大丈夫なのですが・・・。


ということで、トイレはお湯と凍結防止帯を巻いてパネルヒーターを設置して凍結対策を実施。

http://ameblo.jp/gts1000tdm850/image-12112035988-13526933313.html


で、洗濯機のほうはと言うと・・・
凍結防止帯は巻いたものの、なかなか復旧はせず、ストーブを水道管のある浴室(現在は食料庫として使用)へ。

http://ameblo.jp/gts1000tdm850/image-12112035988-13526933334.html


一晩つけっぱなしにして放置したあと、ようやく今日の朝に復旧しました。
http://ameblo.jp/gts1000tdm850/entry-12112035988.html


北海道へ移住するとこういう目に遭う

水道凍結悲話

1 :こっそりだどー:2001/01/19(金) 23:39 ID:UsUvUzlU [ p0a35b8.spprcc01.ap.so-net.ne.jp ]

今週3回目の凍結。水落とししてるのに。
もうお金がありません。


2 :こっそりだどー:2001/01/20(土) 00:37 ID:im38hctY [ e209026.ap.plala.or.jp ]

うちもトイレ凍った。配水管がそとにむきだしになってるんで。
トイレは近所の公園言ってます…


3 :こっそりだどー:2001/01/20(土) 00:37 ID:im38hctY [ e209026.ap.plala.or.jp ]

うちもトイレ凍った。配水管がそとにむきだしになってるんで。
トイレは近所の公園行ってます…


4 :すもも:2001/01/20(土) 00:53 ID:2lHMhd.E [ h020.p110.iij4u.or.jp ]

大昔、ポットントイレの頃。

毎朝、やかんに熱湯を入れて、げんのうを持って、父はトイレに入った。

凍って山盛りになったウンチの固まりをお湯で溶かしながら、げんのうで叩いていた。そうしないと・・トイレがはみだしてくるからです。(爆)

これ現実の話です。

5 :こっそりだどー:2001/01/20(土) 20:45 ID:/m.Af.dc [ 211.18.98.49 ]

1.洋式のトイレの水がたまるところが凍り、
便器が割れる。→5万円


2.お風呂のガス釜が凍り付き中で破裂。
修理代10万円。


3.水道が凍結するも、業者を呼んで解氷するお金(1万円)もなし。

とりあえず洗髪だけでもと、人目を忍んで丑三つ時に近くの洗車場へ。
シャンプー、リンス、洗顔クリームを洗面器に入れ、持参。
人がいないのを確認し洗い始めると、洗ったそばから凍り始め、リンスについては断念。


4. 家に帰っても水は出ずトイレをしようにも流せない。
さっきの洗車場に戻るとトイレはあったが、1回100円の文字・・・。
ゴミ袋いっぱいに雪を集め、鍋で解氷6時間。
やっと大きいのが流せました。

学生時代がなつかしいなぁ・・・。

9 :こっそりだどー:2001/01/21(日) 03:03 ID:8L8R2M2o [ p15-dn01tesikaga.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>>4
山になった上から新聞紙かけて上から棒でつつく生活の知恵?


7 :こっそりだどー:2001/01/20(土) 22:01 ID:izJnhL1Q [ p0a3046.spprcc01.ap.so-net.ne.jp ]
>>5 (;_;)
冷害に私たちはいったいどこまでお金を費やすのでしょうか


8 :うけお:2001/01/20(土) 23:30 ID:FXuqZSDw [ g047050.ppp.asahi-net.or.jp ]

北海道にきて10年+@で、はじめての凍結(?)。

おとつい、外出から帰り、シャワー浴びようとしたら出ませんでした(苦笑)。
実家住まいの彼女のところにいって、おふろ借りました。

そして、きのう。
業者に聞いてみると1万円〜とのこと。
「まじかよー」
で、ホーマックに行き、ガストーチ購入。

自分の借りてる車庫に管が通っているのであぶってみる。
すると火災報知機が作動し、大慌て。。。

どこで止められるのかわからず、右往左往、近所のひとが出てくる(苦笑)。
結局、覚悟して業者を呼ぶと2時間くらいできてくれた。

結果、凍結は凍結でも、管の凍結ではなく、市で設置したメーターが凍結で破裂、そんで出なかったらしいです。
業者さんにお金はいらない、といわれてラッキーではありましたが
なんか、非常に消耗した一日でした。。。


13 :こっそりだどー:2001/01/21(日) 09:58 ID:ANO/rhCU [ p8bc784.spprcc01.ap.so-net.ne.jp ]
>>8
あ、今うちがその状態。メーターのガラス割れてます。
早く来て−。

アパートだと設計が甘いってことも多分にあると思います。
水道管の埋設が市の規定より浅かったのが原因で上のような状態になったんじゃないかって業者に言われましたし。

いやー、それにしてもうんこしたい。


11 :こっそりだどー:2001/01/21(日) 03:21 ID:w896iULE [ L064037.ppp.dion.ne.jp ]

仕事柄、水道凍結等の解氷作業もしている者です。
はっきり言って、凍結は皆さんの注意不足以外のナニモノでもありません。

水は0℃以下で固体に変化し始めるということを肝に銘じてください。
夜中に叩き起こされ出動するのはもうたくさんです。
この時期は毎日水を落とす、これだけで余計な出費が押さえられるのですから。
どうかよろしくお願いします。


12 :こっそりだどー:2001/01/21(日) 08:21 ID:c224eeOk [ N01cc-01p65.ppp.odn.ad.jp ]
>>11
でも、たまに止めてても凍ってるんですわ、これが(^^;


34 :こっそりだどー:2002/01/01(火) 20:45 ID:AsDfXCj6 [ p0391-ip02sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]

帰省先から自宅に帰ったら、水落としてるのに、何故か凍ってること、あったり。
今年はあまり冷え込み、厳しくはないけど、ちょっと怖いんで、


35 :こっそりだどー:2002/01/01(火) 21:11 ID:zLGjwM06 [ SAPba-08p44.ppp13.odn.ad.jp ]

数年前、あるアパートの一階に住んでいたときの話。
帰省から帰ってきた1月2日、部屋に入ると、第一歩目で足元から「ぴちゃ」という水の音。

俺じゃなく、上の住人が凍結させさらに破裂させたらしい。。。
メゾネットタイプという半地下にもぐる部屋だったのだが、上のほうはもちろん、下のほうはもっとすごかった。
水深10cmほどのプールが(ーー;)

2日だから当然不動産屋は連絡付かず。
電話警察にかけてみたり消防にかけてみたり。
まぁ、パニックでしたね(笑)

風呂場は下の部屋に付いていたんだけど、次の朝、風呂場に氷張ってたもんなぁ。。。
風呂場のドアを開けるとき「ばりばりばり」っていう氷の音、聞いたことはありますか?(笑)


36 :こっそりだどー:2002/01/01(火) 22:00 ID:whq.yOAQ [ SODfi-01p4-222.ppp11.odn.ad.jp ]

四年前くらいに3、4日間部屋を空けてたんですよ。
そしたら案の定、すべての水道から水がでませんでした。
とにかく、コンビニでウォーターを買い、やかんで沸かして、台所の蛇口からは水が出るようになりました。

それから、洋式トイレの便器の氷を溶かし、とりあえずはバケツで水を流し、トイレを使うことができました。
あとは、風呂のシャワーとかトイレの水道管は凍ったままでした。
一週間くらいこの状態でした。

業者に頼んだら結構お金がかかったと思います。
しかし、水道管は破裂しませんでした。
ただ、トイレの水道管は曲がりましたけどね。
ちなみにアパートの2階の部屋です。
メゾネットのアパートでも凍った経験があります。


37 :旭川在住:2002/01/02(水) 00:33 ID:Jni2WC8Q [ P061198170144.ppp.prin.ne.jp ]

うちはボロアパートだが、構造的に水道管が冷えやすい所を走っている為、最初の冬はよく水道を凍らせた。
寒波が来たときには寝る前に凍ってしまうんだから、もうどうしようもない。
最終的に水を常に細く流しておくことで解決をみた。
ほんとに、水はなくなって初めてそのありがたさがわかる。みんなも気を付けよう。


38 :こっそりだどー:2002/01/02(水) 07:43 ID:sbWCXk2w [ SAPba-08p44.ppp13.odn.ad.jp ]

そういや、普通に昼間、部屋に居る間に凍りついたこともあったな。
築10年前後だから、「ぼろ」ってわけではないが、やはり構造的に問題があったんでしょうね〜

18 :こっそりだどー:2001/03/24(土) 04:29 ID:3FAYqqEg [ SAPcd-03p50.ppp.odn.ad.jp ]

うちは一度も凍った事ないですが
やかんに水ためればいいんですよね。


20 :こっそりだどー:2001/09/21(金) 21:43 ID:OQararC2 [ a037172.ap.plala.or.jp ]
>>18
やかんに水溜めてどうするの?


23 :ぐり:2001/09/21(金) 22:42 ID:nR5fHkPE [ p3138-ip03sapodoori.hokkaido.ocn.ne.jp ]
>20
水道・凍ったらお湯沸かして蛇口にタオル巻いてお湯掛けて解凍するのよ


14 :正式な水おとし方法って:2001/01/22(月) 00:59 ID:tvfCv1Ho [ ASAca-0116p86.ppp.odn.ad.jp ]

水落としの方法教えてください。
関西から引っ越してきたものですが水落としという言葉もこっちに来てから聞きました
水落としって蛇口を全部あけてから元栓を締めるのですか?
それとも元栓を閉めてから蛇口をあけるのですか?

来週帰省するので水落としをしなければならないのですが
会社の人に聞いても意見がばらばらなんです・・・

ちなみに、旭川で魔だ水落とししたことはありませんが水道管が凍ったことは今のところありません。
ただ長期に家を空けるときは水落とし絶対にするようにと言われています。
よろしくお願い致します。


15 :11:2001/01/22(月) 02:02 ID:218JkRV2 [ H016023.ppp.dion.ne.jp ]
>>14
全ての蛇口をフルオープン→元栓をクローズ
コレでOKだと思います。
元栓クローズの時、蛇口の先を指でさわり、吸われる感覚があれば成功です。


17 :こっそりだどー:2001/01/23(火) 22:38 ID:0GGC3FTQ [ p8bc745.spprcc01.ap.so-net.ne.jp ]

14さん、ひねれるもんは全部ひねり、出せるもんはすべて出し尽くしてください。最後の一滴まで。
部屋が氷点下になる可能性もありますから、帰ってきて「さあ洗濯♪」と思っても、蛇口や洗濯機のホースの接続部が凍って手間取ったりします。 
それから忘れがちなお風呂のシャワーホースもよく水抜きしてください。

16 :14>11さん:2001/01/22(月) 02:22 ID:tvfCv1Ho [ ASAca-0116p86.ppp.odn.ad.jp ]

ありがとうございます。
洗濯機とかもバケツを受けて蛇口をあけなければいけないのかなー
湯沸し機は勝手にヒーターが入るタイプなんだけど悩みは尽きません
北海道って冬はやっぱり大変ですね
でも関西人には雪降ったりするのは魅力的なんですよね
でもだれも雪だるま作ってませんね
もっったいないなー
ぼくらが子供の頃はちょっとでも雪が積もると真っ黒の雪だるま作りました
北海道なら真っ白な雪だるまできるのになー


32 :29:2001/11/23(金) 11:28 ID:gJWOM.kM [ ntthkid01116.ppp.infoweb.ne.jp ]

水を落とすのにもだいたい2通りのパターンがあります。
1.通常、寝る前に落とす場合
2.長期間、部屋を空ける場合

いずれの場合でも、配管により、落とし方は違います。
地元の人に部屋に来てもらい、教えてもらうのが一番です。

※アパート住まいと一軒家で異なります。通常一軒家はストーブを消しません。
水道管凍結が凍結しますと、最悪の場合(いつもこうなるわけではない)

1.水道管が破裂、そのまま放置すると、部屋中水浸し
2.瞬間湯沸かし器破損
3.水洗トイレ便器破損


25 :こっそりだどー:2001/11/21(水) 03:02 ID:CpFSsulQ [ SAPba-12p78.ppp13.odn.ad.jp ]

もう水落とし始めたほうがいいんでしょうか。
凍結の注意報っていつぐらいからでるんですか?
初めての札幌の冬なもんで、不安でいっぱいです。


26 :こっそりだどー:2001/11/21(水) 03:05 ID:ys.i/qbc [ Chrsm6DS09.hrs.mesh.ad.jp ]

4月から北海道人になるんですが、凍結は日常茶飯事なんでしょうか?
部屋が氷点下になるなんて考えられません。


27 :こっそりだどー:2001/11/21(水) 04:30 ID:sx6ybqgk [ hokkaidoa0012-073029.zero.ad.jp ]
>>26
部屋は氷点下にならない(w むしろ断熱材が入ってる分、本州の部屋より暖かいし騒音も遮断されて快適。
でも凍結が心配なら鉄筋で2階以上にしな。水落とし要らないから。


28 :26:2001/11/21(水) 21:06 ID:oFd1vuUk [ Chrsm8DS17.hrs.mesh.ad.jp ]

>凍結が心配なら鉄筋で2階以上にしな

貴重なご意見ありがとうございます。
2F以上の部屋は家賃が倍増するなんてことはありませんか???


31 :こっそりだどー:2001/11/23(金) 06:10 ID:s5Tju2Vw [ hokkaidoa0013-073074.zero.ad.jp ]

2階になったからって家賃は上がらないよ。
基本的に家賃の相場は本州より安いし、漏れのいた京都みたいに敷金の更新もない(w
鉄筋なら安パイだって。2階といったのは、それも念のため。


33 :26:2001/11/23(金) 22:17 ID:8j4ipCVo [ Chrsm8DS18.hrs.mesh.ad.jp ]

鉄筋マンションの2F以上の階なら通常は安全ということですね。


29 :こっそりだどー:2001/11/21(水) 21:33 ID:Ki7TEZug [ ntthkid08158.ppp.infoweb.ne.jp ]

ちょっと待てー!
北海道も地域によっては、全然水落とさなくてもよいところもあるぞ。

函館はあんまり落とす必要ないかも?
札幌は、年に数回そういう日がある!テレビで水道凍結のお知らせやるぞ!
旭川は、頻繁に落とす必要があるぞ!
釧路だと、稀に日中でも落とす必要があるぞ!

いずこも基本的には寝る前に落とす!

木造ボロアパートは凍りやすいが、築10年以内の建物であれば、あんまり凍らん。
鉄筋コンクリートだと、ほとんど凍らん!

内地で水をちょろちょろ流しっぱなしにして凍らないようにする方法あるが、北海道でお勧めできない!

部屋を長期間空ける場合は、トイレの水たまりに不凍液を入れると良い!
瞬間湯沸かし器の水抜きは難いので、業者に教えてもらうこと!種火つけっぱなしでも良い!

配管が複雑な場合は、途中に上を向いた変な蛇口があるが、それは通気ようだ!注意しないと、頭から水をかぶってしまうのだ!

結論は、札幌でボロアパートでないならそれほど気にしなくて良い。
http://mimizun.com/log/machi/hokkaidou/979915183/


8. 中川隆[-5837] koaQ7Jey 2018年1月25日 17:20:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

水道凍結悲話
http://mimizun.com/log/machi/hokkaidou/979915183/

----- 北海道冬の風物詩・水道凍結 ------
http://mimizun.com/log/machi/hokkaidou/1041212267/

【水落し】水道凍結 パイプ4本目【忘れないで】
http://machi.to/bbs/read.cgi/hokkaidou/1325250377/


9. 中川隆[-5828] koaQ7Jey 2018年1月25日 21:50:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

凍死で自殺、北海道なら…


凍死で自殺、はっきり言って北海道の冬であれば楽勝ではないでしょうか。

管理人は生まれが道東、現在地は札幌ということで よく考えてみれば冬期間であれば凍死自殺は楽勝かもと思ったので ここに思いついた方法を残しておきます。

北海道ではなかなか良い仕事がなく不景気ということもあり自殺願望者は多いと思います。

北海道なら、凍死自殺が一番良いのではないでしょうか。


自殺する気のないホームレスは夜寝ない

北海道のホームレスは日中に睡眠して夜に歩き続けるらしいのですが、これは夜に寝てしまうと凍死するためからということです。

外部リンク:北国のホームレスの参考ページ
http://web.archive.org/web/20130512004545/http://ep.blog12.fc2.com/blog-entry-1668.html


たしかに駅が空いている日中に寝ているホームレスを見たことがありますし、夜に歩いているホームレスも見たことがあります。

昔、コンビニで深夜の仕事をしていた時に、寒さに震えたホームレスが来たことも覚えています。


凍死自殺は北海道なら簡単

北海道に住んでいる人は冬ならば簡単に凍死できるでしょう。

よくよく思い返してみれば管理人が道東に住んでいた時に、酔っ払って道端で寝ていたために凍死した、という話を聞いたことがあります。

北海道の冬ならば、最後の有り金を使って酔っ払ってしまい、公園に一晩寝ていればそれだけで OK なのかもしれません。

注意点としては

-すぐに見つかると助かるかもしれない
-発見に時間がかかると腐ってしまう

という点ではないかと思います。

凍死自殺を具体的に考えてみる


方法としては

——————-

1.人気のない小さい公園を見つけておく。

2.有り金を使ってたくさんお酒を買っておく(飲み放題のお店に行くのもいいかも)

3.自分の部屋などに自殺場所を書いた遺書をおく。もしくはだれかに郵送する。

4.そして自分自身も遺書を持っておく。(殺人などに間違われないよう)

5.後はあるだけ酒を飲んで、酔っ払って人気のない公園で夜に寝る

——————-

これだけでよいのかもしれませんね。

遺書は自分の部屋に置くよりも、だれかに郵送することで1〜2日で発見されるでしょう。

それだけあればきっと十分自殺できると思います。
その人を第一発見者にしたくないのであれば、

「○○公園で自殺していると思うので、警察に連絡してください。」

とでも書いておけばよいのではないでしょうか?

札幌なら11月〜2月にやれば大丈夫ではないでしょうか。

難しいのは酒を買ったりするお金がない人の場合です。

酔っ払わないと、とてもじゃないけれど寒さ耐えれずに起きてしまう気がします。
https://drkiriko.wordpress.com/toushihokkaido/



雪国ならこういう方法でも簡単に死ねる

2018年01月24日
車内のCO中毒に注意 1月射水で死亡事故


 今月中旬の大雪で、射水市では車の中にいた男性が一酸化炭素(CO)中毒で死亡する事故が起きた。車のマフラーが雪でふさがれ、車内に排ガスがたまったことが原因とみられる。県内では25日にかけて再び大雪となる恐れがあり、日本自動車連盟(JAF)富山支部は「車内で過ごすときはエンジンを切るか、除雪が必要」と注意を促す。 (社会部・久保智洋)

 射水署によると、12日午後2時35分ごろ、射水市奈呉の江(新湊)のアルミ製品加工会社の駐車場で、氷見市の同社嘱託職員の男性(60)が軽乗用車内でぐったりしているのが見つかった。男性は死亡し、司法解剖の結果、死因はCO中毒だった。男性は同日午前6時までの夜勤後、車内にいたとみられる。車の周辺には約50センチの積雪があり、同署は車のマフラーが雪でふさがれ、車内に排ガスが流れ込んだことが原因とみている。

 「異常な積雪だった」。別の男性社員が当時を振り返った。12日朝の同社の駐車場は、車が雪に埋まり「車体がほとんど見えない状態」。車を動かすこともできず、ほとんどの従業員は社内で待機していたという。

 積雪時の車内でのCO中毒事故は、全国で起きており、北海道では2013年3月、暴風雪により車内に閉じ込められた母子4人が亡くなっている。昨年2月には、京都府で除雪作業後に車内で休憩していた男性が死亡した。

 JAFが行ったユーザーテストによると、車がボンネットまで雪に覆われた場合、排ガスは車の床下にたまって車内に流れ込む。同様の状態でマフラー周辺を除雪した場合、車内でCOがほとんど検知されなかったのに対し、除雪しなかった場合は約20分で死亡の危険があるCO濃度に達した。JAF富山支部は「雪が積もったとき、車中に長時間いる場合はなるべくエンジンを切ってほしい。スコップや毛布を常備しておくことも大切」と呼び掛けた。


10. 中川隆[-5827] koaQ7Jey 2018年1月25日 22:16:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

731部隊の凍傷実験

凍傷実験(黒い太陽) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=wJJ2en75guk


吉村寿人(1907−90)Yshimura Hisato(Toshinndo?)
1930京大医学部卒
・京大講師(1936、生理学)
・731部隊凍傷研究班長(1938)
・1945帰国
・1950−52英文日本生理学会誌に論文発表
・日本学術会議南極特別委員会委員
・生気象学会長
・1967京都府立医大学長
・1972兵庫医大教授
・1980神戸女子大教授/1978勲三等旭日中授賞


吉村班(凍傷研究/班長:吉村寿人==>京都府立医科大学学長・日本学術会議南極特別委員・生気象学会会長)

憲兵隊「特移扱」文書
「凍傷ニ就テ(第15回満州医学会哈爾濱支部特別講演)」
満州第731部隊陸軍技師 吉村寿人 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵

 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた
東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は
教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。
それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。

 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま
喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。

それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、
初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。

堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に
喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、
その病因を究明するためのものだった。

 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。
いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。

やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。
耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていく
あの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。

私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。
それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/05/post_44a5.html


実験その1。

厳冬の厳しい真冬の寒さの中に「マルタ」を長時間置き、凍傷を作りその治療をするという人体実験。

この場合限界まで外に置き完全に凍傷をさせる死の直前まで外に置く。

死んでは治療が出来なくなためです。そして体に出来た各部の凍傷を治療するという人体実験。

零下40度cの中に、長時間置かれるだけでも苦痛なのに。凍傷しているかを試すのに、
角材で、手、足を殴り、痛いうちはまだ凍傷になって
いないため更に、長時間、外に凍傷するまで置かれたという。

凍傷の人体実験では、極寒の零下40度に長時間放置し、冷凍人間に近いものを作って
人体実験をした部分は記載中涙が止まらなかった。何故そのような事が行われたのか?

答えは、かってシベリア出兵の時日本軍は凍傷に悩まされた経験を持っていました。
この凍傷の克服のために731部隊では、凍傷実験が行われたのです。

この実験で手足を無くした「マルタ」の身体は、かろうじて残された頭部だけです。
そして最終的には毒ガス実験などに「再利用」されたという
http://homepage2.nifty.com/yocyan1854/ikari4.htm

731部隊の真実 前編
生理学的実験
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen009.html

731部隊では、凍傷実験、ガス壊疽実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた[29]。

731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、凍傷実験を目撃した様子について次のように証言している。 「生きた人間を使用する実験を私が初めて見たるは、1940年12月のことであります。第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。(中略)私が監獄の実験室に立ち寄リました時、ここには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、これらの中国人の中2人には、指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました[30]。」

731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった[31]。」

さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている[32]。

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった[33]。」

1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光亜(サコウア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね[34]。」と語っている。


細菌爆弾の効果測定

731部隊では、単なる生物兵器に留まらず、ペスト菌や炭疽菌を砲弾や爆弾に詰め、大砲や飛行機で都市に散布するための研究が行われた。731部隊は、細菌爆弾や砲弾の改良や性能を調べるための屋外実験場を安達に持っていた。マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化したことが資料や証言で明らかになっている[35]。731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫は、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和18年末あるいは19年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている[36]。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは10〜20人であり、その他に馬20頭についても実験が行われたという[37]。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された[38]。

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している[39]。


「やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)

覆面トラックから降ろされた「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)

「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。

そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた物、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」


--- 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店、94-97頁 ---
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen009.html

731部隊の真実 後編 
性病実験と女性マルタ
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen010.html

また731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった[40]。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。

当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した[41]。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医大学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験に使用されたものと考えられている[42]。

元731部隊員の胡桃沢正邦は、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように証言している。


(インタビューワーの女性) 「眼は開いているの?」

(胡桃沢正邦) 「眼は開く場合もある。」

(インタビューワーの女性) 叫んだりする人もいた?.....何と言ったの?」

(胡桃沢は力なく泣き始め) 「そのことは2度と思い出したくない!」

(胡桃沢は謝罪し、数秒後しゃくりあげながら答えた) 「『私は殺されてもよいが、子供の命だけは助けてください』と言った」。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、45-46頁 ---

手術演習[編集]

中国大陸の陸軍病院で幅広く行われていたという「手術演習」という名の生体解剖も、731部隊で頻繁に行われていたと考えられている。拡大を続ける中国戦線において、傷病兵を素早く治療して戦場に送り返すためには軍医が外科手術の腕をあげる必要があり、そのために中国人の生体解剖が頻繁に行われたのである。

731部隊員ではなかったが、軍医として中国に滞在した3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖して殺したという湯浅謙は、最初に経験した手術演習の様子を次のように語っている。


「手術演習は外科医を速成させるための練習だった。今思って異様なのは、その場にいた皆が2人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。集まっていたのは、軍医、衛生兵そして看護婦だった。(中略)1人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。部屋の中には手術刀、ノコギリそれにメスなどがあり、自分の運命は分かっていた。彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を覚えていた。その彼の胸を開け、内臓を次々に取り出していった。もう1人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー」と泣きわめいた。看護婦は、「麻酔をする、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと私を見たのだった[43]。」


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、99頁 ---

なお、731部隊との関連性が疑われている、1989年に7月東京都新宿区戸山で発見された大量の人骨には、四肢が様々な位置で切断された形跡が残っている。11個の頭蓋骨と長骨のほとんどには、鋸で引いた跡やドリルで穴を開けた跡があった。頭蓋骨には銃撃されたものがあり、鋭利な刃物で刺された頭蓋骨も1つあった[44]。

そして1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔の鑑定結果により、人骨について次のような事実が明らかになっている。


1. 人骨は100体分以上のものである。

2. 人骨は一例を除き人種的にはモンゴロイド(アジア系の人種)だが、単一の人種からなるものではない。

3. 10数個の頭蓋骨には人為的な加工の跡がある。

4. いくつかの頭蓋骨その他には、拳銃で打ち抜かれた孔や刀で切られた跡が残っている。

5. 骨が現地に埋められたのは1890年〜1940年頃までの間である。

6. 人骨は四股の骨の多くは何ヶ所かで切断された形跡がある。


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、107頁 ---

以上の理由から常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと指摘している[45]。
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen010.html


731部隊の真実  〜エリート医学者と人体実験〜
NHKスペシャル 2017年8月13日 170813 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=731%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F+%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%A8%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93%EF%BD%9E


BS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔
2018.01.21 by Kenhasejp - Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x6dhev7
http://www.dailymotion.com/video/x6dhg47

映画 731部隊 黒い太陽731 悪魔の飽食:復号731 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=c3aL9XqmvHw

unit731 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BUJsksb6b34


11. 中川隆[-5826] koaQ7Jey 2018年1月25日 22:29:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▼凍傷実験


体の凍り具合

●凍傷は日本軍が極寒の地を征服するためには、どうしても克服しなければならない課題だった。

以前は、凍傷に対する最も有効な治療法は、患部をわらでこすることだった。凍傷実験を担当した吉村寿人(ひさと)班では、以下の手順で実験を行った。

1、零下20度以下の屋外に被験者をしばりつけ、腕などに塩水をかけて人工的に凍傷を作る

2、棒でたたいて、凍り具合を確認する

出典
この世の地獄!!731・原発・南京!! - 731からフクシマまで!!
http://blog.goo.ne.jp/bu0007/e/de17f754f05e78aa2f5651bb3697c6c4

棒で叩くと凝った肉がそげ落ちて、骨だけになったという記録がある。

画像
http://blog-imgs-36.fc2.com/n/o/b/nobu51g/201302132134223cd.jpg

▼低温実験

日本人は中国の被害者の手を超低温の冷凍庫(おそらく零下数十度から百度ほど)に入れ、急速冷凍した。

完成後、中国の被害者が両手を取り出すと灰白色になっていた。

表面には霜の層ができており、完全に人間の体ではないようだった。
ある日本人が棍棒で打つと、つららのように砕けてしまった。
中国の被害者の指を一本ずつ打ち落とし、音を鳴らしていた。

中国の被害者は絶望と恐怖の叫び声をあげ、傍観していた日本の実習生は目を閉じたりしていた。
だが目を閉じることは許されない命令が下された。


凍傷にかかった手の画像
https://matome.naver.jp/odai/2148958394707910601/2148958507408930403

出典
中国の反応ブログ
https://matome.naver.jp/odai/2148958394707910601




12. 中川隆[-5825] koaQ7Jey 2018年1月25日 22:34:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】
http://3rdkz.net/?p=250


低体温・冷却からの蘇生実験


冷却実験の様子
http://3rdkz.net/?p=250


ラッシャーとその協力者たちは、ダッハウにて更に人体実験を行うことにした。

今度は海難事故などにより寒冷下に晒された人体を、いかに蘇生・回復できるか、といった実験である。

やはりパイロットを救出することを前提とした実験であったが、実際にはダッハウの囚人300名を4〜12℃に冷却した水の中につけ、体を極限まで冷やしたのち、いかにすれば効率よく回復できるかを試すもので、この実験で90名が死亡。

今日においてもこの実験結果が国際的専門誌に引用されているという。


この実験は当初よりライヒスフューラーの関心を買った。

ヒムラーは冷え切った肉体を温めるためには、同じ人間の皮膚の接触。つまり、裸の女性による抱擁が効果があるのではないか、と考えた(ヒムラーはしばしばこのようなロマンチズムに基づく推測を実践させた)。

ラッシャーはヒムラーの意向に沿ってダッハウ収容所より若い女性4名を召喚。そのうちの一人があまりにも見事なアーリア人種の肉体的特徴を備えていたため、ラッシャーは彼女を実験に使用することを拒否したという。つまり、被験者は下等人種とみなされたスラブ人やソ連兵捕虜であり、これを裸で温める乙女がアーリア系であってはならないというのである。

この逸話からもわかる通り、人体実験は激しい人種差別の賜物であった。ちなみに女性の体で温める方法は非効率で到底実用に耐えないものであったという。

この実験は、場所を変えてアウシュビッツ収容所でも行われた。アウシュビッツのほうがより寒く、広大で実験が目立たなかったからだという。つまり、被験者は多くの場合、「苦しみにより悲鳴をあげた」からである。

ラッシャーは被験者に麻酔をかけることを禁止し、なんら苦しみを緩和するための努力をしなかった。

ある実験では、ソ連軍将校2名がアウシュビッツで、水桶の中に裸で入らされた。

通常なら60分程度で意識を失い、死亡するのだが、このソ連将校2名は3時間経過した頃に「同志…銃殺してくれないか」と頼んだという。

その後、二人は握手を交わし、「さよなら、同志よ」と言った。

ポーランド人の助手が見兼ねてクロロフォルムで二人に麻酔をかけようとしたが、ラッシャーはピストルを突きつけ、これを制止した。二人は5時間後にようやく死亡し、死体は解剖するためミュンヘンに送られた。

ラッシャー夫妻は子供に恵まれず、子供を誘拐、金銭で買い取って自らの子であるとして育てていた。これが明るみに出るとライヒスフューラーは激怒。ラッシャーは多くの囚人を殺害したダッハウにおいて、自らも処刑された。

戦争が終わる直前だった。よって戦後もラッシャーは裁きにはかけられず、協力者たちは全ての責任を、同じく死亡したヒムラーとラッシャーにかぶせることに成功。この非道な人体実験で裁かれた者は結局誰一人としていない。
http://3rdkz.net/?p=250


13. 中川隆[-5818] koaQ7Jey 2018年1月26日 10:39:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ナチスは人間を冷凍保存して一定の時間後に蘇生させるという実験にも、異常な関心を持っていた。これが成功すれば、優秀な人材を冷凍保存して、国家が必要な時に蘇生させ、ナチス千年帝国の存続を確実なものにできるからであった。

この実験に利用されたのはダッハウ収容所に捕らわれていた人々で、被験者を凍らせて死なせたり、凍って死にそうになった人間をまた蘇生させたりした。

この「医学的実験」を担当したのは、ジグムンド・ラッシャー博士(ドイツ空軍の軍医)であった。 


ダッハウ収容所で行われた低温実験の様子

この実験で多くの囚人が死んだ
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha900.html


低体温実験画像
https://ameblo.jp/kageyama182n/image-11420796220-12317497133.html

囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。

この実験を強制されたほとんどの人間は死亡したそうです、
https://ameblo.jp/kageyama182n/entry-11420796220.html

低体温実験

 空中戦で撃墜されパラシュートで脱出した後、北海に落ちたパイロットは、冷たい海水にさらされて凍死することがありました。そこでドイツ空軍軍医中佐G. A. ヴェルツ医師はラッシャーと協力して、低体温状態に陥った人間を蘇生させる実験を、ダッハウ強制収容所で1942年の8月頃から1943年の5月頃まで行いました。

囚人たちは、耐寒飛行服を着せられて氷水のタンクに3時間漬けられるか、凍てつく戸外に裸で9時間から14時間さらされたあと、さまざまな方法で体を温められました。

被験者の体温測定や血液の採取が行われ、死亡した被験者の解剖も行われました。

温める方法は、熱い湯につけるほか、親衛隊元帥ヒムラーの命令でラヴェンスブリュック強制収容所から4人のロマ(いわゆる「ジプシー」)の女性囚人を呼び寄せ、裸にさせて被験者を2人ずつの間にはさんで体温で温めさせるということまで行われました。この実験で約90人の囚人の生命が奪われています。

 実験結果は1942年10月にニュルンベルクで行われた医学会議で、ラッシャーにより「低体温の防止と治療」と題して、またヴェルツにより「危険な点にまで冷却した後の温め直し」と題して、それぞれ発表されています。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/user/tsuchiya/class/vuniv99/exp-lec3.html


14. 中川隆[-5817] koaQ7Jey 2018年1月26日 10:46:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]


低温実験 画像
http://bstxinc.sakura.ne.jp/wp2/wp-content/uploads/2015/07/teion.jpg
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9++%E8%98%87%E7%94%9F%E5%AE%9F%E9%A8%93&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjT6sfFv_TYAhVEXLwKHZhYAYwQsAQIRQ&biw=1124&bih=651


ナチスは人間を冷凍保存して一定の時間後に蘇生させるという実験にも、異常な関心を持っていた。これが成功すれば、優秀な人材を冷凍保存して、国家が必要な時に蘇生させ、ナチス千年帝国の存続を確実なものにできるからであった。

この実験に利用されたのはダッハウ収容所に捕らわれていた人々で、被験者を凍らせて死なせたり、凍って死にそうになった人間をまた蘇生させたりした。

この「医学的実験」を担当したのは、ジグムンド・ラッシャー博士(ドイツ空軍の軍医)であった。
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha900.html

1941年、低体温症の予防と治療の手段を発見する目的で、凍結実験が行われた。

1つの実験で、被験者はタンク1杯分の氷水で、最大5時間漬けられた。

他の実験では、凍てつく屋外に、10時間以上裸で置き去りにした後で蘇生処置された。

約100名が、これらの実験により命を落としたと報告されている。
http://bstxinc.sakura.ne.jp/wp2/dr-mengele

凍結および低体温症実験

ナチスは、寒冷地帯での戦闘準備が整っておらず、
何千人もの兵士が死亡しました。

そこで、

人間の体は何時間で低体温症になるのか、
凍死状態の人間を生き返すことはできるのか、

という実験を行いました。

被験者は氷点下の水の中に入れられ、ほとんどが死亡しましたが、
意識を失った人は蘇生処置の実験が行われました。

肌を燃やす、沸騰した水を飲ませるなどの方法が行われましたが、

最も効果的だったのはお湯に入れる、でした。
http://share-ranking.com/archives/2415/2


15. 中川隆[-5815] koaQ7Jey 2018年1月26日 11:04:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

低温実験

第二次世界大戦中、ドイツ空軍が飛行機から脱出した際に冷たい海水にさらされて死亡することが多く発生していました。

そのため軍司令部が低体温症の予防や治療方法を探すように指示し、この悪名高い低温実験が行われました。

被験者は主にロシア人捕虜でした。理由は「ロシア人たちはドイツ人よりも寒さに適応する力が強い」と考えられていたためです。

実験では氷水を入れたタンクに5時間も浸からされたり、マイナス6度の屋外に置き去りにされたりしました。

さらに、その状態からいきなり温かいお風呂に入れたり、お湯を体内に注いだりする復温実験も行われました。

体が低体温症になるほど冷やされた状態から、急激に温められたため、多くの被験者たちはショック死しました。

それだけでは終わらず、死亡した被験者は解剖され、内臓の状態がどうなっているのかなど詳細に調べ上げられました。

最終的に100人以上の人々がこの実験によって殺される悲しい結果となりました。
http://r-dynamite.com/danger/jintaijikken5/


16. 中川隆[-5814] koaQ7Jey 2018年1月26日 11:14:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

>>15
>体が低体温症になるほど冷やされた状態から、急激に温められたため、多くの被験者たちはショック死しました。

 入浴中立ち上がれず、「ヒートショック」ご注意
http://www.yomiuri.co.jp/science/20180110-OYT1T50050.html?from=ytop_main7


 一年で最も寒さが厳しくなるこれからの時期。

 家で温かい風呂に入って、ほっとしたいところだが、気を付けたいのが「ヒートショック」だ。急激な温度変化で血圧や脈拍が大きく変動し、脳出血や心筋梗塞こうそくなどを引き起こし、命の危険につながる。

家庭の浴槽で亡くなった人のうち、65歳以上が9割を超すとのデータもあり、高齢者は特に注意したい。

 昨年11月、滋賀県内在住の80歳代の男性が入浴中に足腰に力が入らなくなった。いつまでたっても上がってこないので、家族が心配して見に行くと、男性は意識はあるものの立ち上がれずにいた。すぐに119番し、事なきを得た。

 ヒートショックは風呂や脱衣所で起こることが多い。暖房のある部屋から寒い脱衣所に移動して服を脱ぎ、続けて熱い風呂に入ると、血圧が乱高下し、心臓に負担をかける。

 厚生労働省の人口動態統計によると、2016年に家庭の浴槽で溺死した人は過去10年で最多の5138人。うち65歳以上が4756人と全体の90%以上を占めており、その多くがヒートショックの可能性が高いとみられている。

 また、同年に県警に変死体として届け出があり、検視が行われた1417件のうち、139件は場所が風呂場だった。中でも、11、12月は各16件、1月20件、2月22件と、冬場に増える傾向がある。

 ヒートショックを防ぐにはどうすればいいのか。

 大津市消防局は、入浴時の急激な温度変化を避けるための注意点をホームページで紹介している。

〈1〉脱衣所を暖房で暖める

〈2〉入浴前に湯船の蓋を開けておく。またはシャワーで湯をためる

〈3〉風呂の温度を41度以下にする


――などだ。

 また、風呂で倒れている人を見つけた時はすぐに119番する。

もし浴槽から出せない場合は風呂の栓を抜いて、あごを風呂の蓋に乗せるなどして安全を確保するよう呼びかけている。

 「高齢者入浴アドバイザー協会」(東京)の鈴木知明代表理事の話では、寒暖差がすぐ確認できるよう浴室や脱衣所などに温度計を置くことや、入浴時に家族に一声かけておくことも有効という。

「ほんの少し気を付けることが、命を守ることにつながる。ぜひ実践してほしい」と強調している。(西海直也)  


17. 中川隆[-5811] koaQ7Jey 2018年1月26日 14:19:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

【映画】 八甲田山  出演:高倉健、北大路欣也、三國連太郎 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%90%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%91+%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E5%B1%B1+%E7%B7%A8
https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E6%98%A0%E7%94%BB+%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E5%B1%B1&ei=UTF-8


監督 森谷司郎
脚本 橋本忍
原作 新田次郎『八甲田山死の彷徨』
音楽 芥川也寸志
配給 東宝
公開 1977年6月4日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E5%B1%B1_(%E6%98%A0%E7%94%BB)

八甲田雪中行軍遭難事件 - Wikipedia

八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6


八甲田雪中行軍遭難 - Google 画像検索
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E9%81%AD%E9%9B%A3&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiIz4n17vTYAhVFpZQKHSLvBmoQiR4IhgE&biw=1124&bih=651

八甲田山は東北、青森市の南側にそびえる火山群の総称。
「八甲田山」と名がついた単独峰は存在しない。岩木山と同様 本州最北部にある火山群。


八甲田雪中行軍遭難事件がどれくらい悲惨だったかというと....


小便をしたくても手が凍傷にかかり動かせず、尿意に負けて垂れ流しをするが、それが瞬時に凍って凍死する者

極限状態の中で雪の中で泳ぐ者

発狂して裸で雪の中に飛び込む者の姿があった

余りに凍りついていたため、粗略に扱うと遺体が関節の部分から粉々に砕ける

大尉は全身凍っていたうえ、帽子も手袋も着けておらず雪に首まで埋まっていた

軍医は腕に気付け薬を注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れてしまった

村松伍長は四肢切断の上、一時危篤状態
https://matome.naver.jp/odai/2133474002183837301


18. 中川隆[-5810] koaQ7Jey 2018年1月26日 14:24:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「八甲田山」雪中行軍が教える低体温症の恐怖
http://www.tanken.com/hakkoda.html

「八甲田山」雪中行軍遭難事件
八甲田山雪中行軍遭難資料館の模型

 日本百名山のひとつである八甲田山は、青森市の南側にそびえ、十和田八幡平国立公園の一部をなしています。長野県と山梨県の境にある「八ヶ岳」もそうですが、じつは八甲田山という名前の山はありません。

 1902年(明治35年)の冬、この山域で青森の歩兵第5連隊が雪中行軍を行い、猛吹雪で210人中199人が凍死する事件が起きました。いわゆる「八甲田山死の彷徨」です。


八甲田山
青森市を流れる堤川から見た八甲田山(1934年)

 第5連隊は、1月23日から1泊2日で約20キロを行軍する予定でした。天候がよければ、2泊3日で約30キロまで延期する計画です。

 しかし、あまりに深い雪で方向を見失い、しかも運搬用のソリが邪魔になり、一行は次々に凍死していきます。

 山に入る前日、地元住民の何人もが「明日から『山の神の日』だから入ってはいけない」といさめました。1月24日前後は山の天候が荒れるので、地元では外出を避ける習わしだったのです。

 しかし、第5連隊はかまわず山に入り、ほぼ全滅するのです。


八甲田山雪中行軍遭難
中央「サイノ川原」あたりが遭難地点

 実は、第5連隊が入山する3日前から、弘前・第31連隊の一行38人もこの山域にいました。

 弘前隊は1月20日に駐屯地を発ち、十和田湖と八甲田山をぐるりと回って224キロを行軍し、1月29日に下山します。青森隊の捜索が難航する悪天候の中、弘前隊は全員無事に任務を終えたのです。

 この違いについては、さまざまな原因が指摘されています。

 青森隊は指揮官が未熟だった、隊が急造の大所帯だった、事前準備が足らなかった、外部の助けを使わなかった、そして度重なる命令の変更……などなど。
  
 しかし、一番大きな原因は、弘前隊の隊長だった福島泰蔵大尉が徹底的に準備を行っていた点です。

 福島大尉は、雪中行軍の2年前から地道に雪中演習を繰り返し、データを集めていたのです。


八甲田山雪中行軍
弘前隊の行軍初日(1月20日、黒岩山通過)

 ここで、どうして青森隊と弘前隊が雪中行軍をしたのか、背景をまとめておきます。

 1895年、日清戦争に勝利した日本は、清から2億両(テール)の賠償金を奪うとともに、遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲させることに成功します。

 ところが、ロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起こり、遼東半島は清に返還。

 そして、極東への野心を隠さないロシアは、東清鉄道の敷設権を手に入れ、さらに遼東半島にある旅順・大連の租借に成功します。

 日清戦争後、日本は軍備拡張のため6個師団を新設し、近衛師団を含め、一気に13師団体制にします。このときできたのが東北の第8師団で、隷下に青森第5連隊と弘前第31連隊が設置されました。1898年(明治31年)のことです。

 日本国内で反ロシアの気運が高まるとともに、陸軍はロシアとの戦争を想定し、第8師団に寒冷地での訓練を命じます。

 日本のスキーの歴史は、1911年(明治44年)、オーストリア・ハンガリー帝国の軍人レルヒ少佐が新潟高田連隊に指導したときに始まります。つまり、この時点では防寒具などの知識はまったくありません。


八甲田山雪中行軍
弘前隊(1月21日、琵琶平付近。先頭は道案内の木こり、2番目は竹舘村の村長)

 陸軍は、ロシアと戦争が起きると、軍備の手薄な八戸が最大の鍵になると判断していました。

 八戸占領の経過は次のように想定しています。


 @ロシアが津軽海峡を封鎖。陸奥湾から侵入し、青森に艦砲射撃を行い、青森に上陸

 A弘前〜青森間と青森〜八戸間の幹線を封鎖

 B孤立した八戸に上陸。津軽海峡が封鎖されているので、海路の支援はできない

 C夏なら山越えできるが、冬だと山越えできず、日本軍は動けない。そのすきにロシアは南下開始

 こうした想定の下、青森第5連隊と弘前第31連隊は、厳冬期でも八甲田山越えできるのか、調査することになったのです。

福嶋泰蔵が持ち歩いた地図
福嶋泰蔵が雪中行軍に持ち歩いた地図(赤線が踏破ルート)


福島泰蔵(福嶋泰蔵)
福島泰蔵大尉

 弘前隊の福島大尉は、着任後まもなく、雪中訓練を開始します。地元民から天候の見方や凍傷の防止法などを聞いてはデータを集積していきます。

 福島大尉が、行軍後に提出した報告書には、事前のアドバイスとして、凍傷対策だけで30カ条も記録されています。

 たとえば「出発の前日に入浴し、皮膚、特に四肢を清潔にしておけ」「足はよく洗って爪を切り、脂を塗る」などです。公式の報告書なので、若干形式ばっていますが、実際は、

●水筒の中にはアルコールを少量入れ、凍結しないようにときどき振れ
 ●小便は風に向かってせず、最後の一滴まで絞れ
 ●唐辛子の粉を足にこすりつけて凍傷を防げ

 など具体的なアドバイスが続きました。


八甲田山雪中行軍遭難
明治33年の雪中露営訓練(弘前隊)

 さて、弘前隊の「雪中行軍手記」によれば、1月24日は

《午前、暴風吹き、降雪は樹木の凝雪と共に乱舞す。午後に至り一層拡猛を極め、気温最も低く、天候も亦(また)甚(はなは)だ悪し》

 という状況です。気温は零下16度と記録しています。

 一方、青森隊が後に公開した「第5聯隊遭難始末」では、気温は《測候所の報告によれば最低気温12度》となっています。すでに寒さのあまり、気温を測って記録することができなかった証拠です。

《露営を去る約2里許(ばか)り行進せる間に、不幸にも前頭の兵士、路を失して沢に下りたれば、始めて方向を誤りたるを知り、再び上り来りしも、 手足悉(ことごと)く凍へて非常の惨状を極めたり》

 道を何度も間違え、兵士は疲労と寒さで体力を落としていきます。一行は軍歌を歌いながら、全員で足踏みしつつ露営します。

 腹に巻いていた米は凍りませんでしたが、ほとんどの兵は背嚢に食糧を入れており、それは即座に凍ってほとんど食べられません。缶詰は指が凍っているので開けられず、開けられても他人の手を借りないと食べられない人もいます。

 薪がなく、火もおこせません。なんとか火がついても、米は生煮えです。

 スコップを放棄していたので、雪壕を掘れず、30人ほどの兵士は「屏風を倒すように」死んでいきました。
 
 ズボンのボタンが外せず、そのまま大便をした兵士もいます。大便より悲惨なのが小便で、放尿した瞬間に凍ってしまうため、陰部も凍って悶絶しながら死んでいきました。


八甲田山雪中行軍遭難資料館
兵士の荷物(八甲田山雪中行軍遭難資料館)
左端から右回りに行灯、指揮刀、えんび(スコップ)、金かんじき、かんじき

 低体温症になると、さまざまな幻覚を見たり、精神錯乱を起こします。

 たとえば2009年7月、北海道のトムラウシ山で、9名が低体温症で死にました。そのときの報告書には、

《女性客N(62歳)さんの後ろを歩いていたが、彼女は何ごとか叫びながら、四つん這いで歩いていた》

《Mさんをなんとか歩かせようとするが、脚を出せと言っても、左右の区別ができない》

《ガイドC(38歳)さんが、ハイマツの上で大の字になっていた》

 などと書かれています。

 似たような状況は、八甲田山でも起きました。新田次郎の『八甲田山死の彷徨』では、道を間違えて隊を混乱に陥れた人物が、錯乱のあまり、川に飛び込んで凍死したシーンが書かれています。生存者の証言によれば、ほかにも奇声を上げたり、突然ヤブに突進する者も現れたといいます。

 また、隣にいる戦友を怪物だと思い込んで恐怖に駆られる兵士も出ました。

 生き残った伊藤格明中尉は、後に講演でこう語っています。

「行軍するうち、はるか向こうの山から四列縦隊の兵が元気よくやってくるのが見えた。応援が来たものと全員が喜んだ。しかし、いつまでたってもやってこない。飢えと疲れで視力に異常を来したもので、後で枯れ木だとわかったときの落胆ぶりはひどかった」


八甲田山雪中行軍遭難
明治天皇も見た「2等兵が大尉を介護しつつ、ともに凍死した」写真
(国会図書館所蔵『歩兵第五聯隊史』より)

 青森隊が予定日までに戻らないので、連隊本部は捜索隊を出します。

 1月27日、立ったままの仮死状態で、後藤房之助伍長が発見され、その証言で初めて遭難事故の一端が判明します。

 悪天候の中、捜索が続けられ、続々と死体が見つかっていきます。死体の様子は次のように記録されています。

《いずれも手をかがめ、足を伸ばして仰向けになり、目を開いているものが多く、ひどい場合は眼から出血している。口は呼吸を吸うときのようにすぼめていて、みな手袋もせず裸足というありさまだった。なかにはパンを握ったまま倒れている死体もあった》(『第5聯隊遭難始末』より抄訳)

 遺体は4時間以上かけてゆっくり溶かし、ようやく納棺できました。


後藤房之助伍長の立像
後藤房之助伍長の立像(八甲田山雪中行軍遭難資料館)

 実は、弘前隊は下山寸前に青森隊の凍死体に遭遇しています。

 2本の銃が雪の中に立ててあるのを見て、そこの雪を掘ると、2体の死体が現れました。その顔を見ようと帽子を取ると、頭の肉片が帽子に付着していました。それを見て弘前隊の兵士は慄然とするも、死体を運ぶことはできませんでした(『時事新報』明治35年2月1日)。


 弘前隊の福島泰造大尉は、その後、山形32連隊に所属します。1904年(明治37年)、日露開戦で部隊は遼東半島の大連に上陸します。そして、1905年1月28日、激戦で有名な「黒溝台の会戦」で、敵に突っ込んで戦死しました。享年38。雪中行軍から、ちょうど3年目のことです。


黒溝台の会戦
黒溝台の会戦で死んだロシア兵

 福島は、日露開戦の翌月、『露国に対する冬期作戦上の一慮』という論文を書いています。そこには雪中での行動指針などが書かれているのですが、「周到な準備をしておけば予想外の出来事を防げる」として、結論はこう結ばれています。

《平常に於ける準備の良否と注意の深浅とは、少なからざる関係を有するものなるべし》
 

※福島泰蔵大尉が残した膨大な報告書や手記は、2012年、親族から陸上自衛隊の幹部候補生学校(福岡県久留米市)に寄贈されました。本サイトはその資料を関係者から独自に入手し、公開しています。興味ある人は、ぜひ久留米の資料館を訪れてみてください。


 
 福島が雪中行軍に出発する前、部下に与えた30カ条のアドバイスをすべて現代語訳しておきます。 

 
1 軍靴は大きめで、靴底などに破損がなく、十分手入れをして脂を塗布したものを使用すること。水が入るものは決して使うな

2 藁靴は新品で乾燥したものを携帯せよ。軍靴の代わりに使用した場合は、宿営地に到着後、必ず乾燥させよ

3 靴下はなるべく新品を使い、乾燥して清潔で、破損やシワのないものを選べ。毛製なら特によい

4 手袋も同じように乾燥して清潔で破損してないものを使え。予備としてもう一組持つ。毛製なら特によい

5 各自、乾燥した手ぬぐいまたは半布を忘れるな

6 出発の前日に入浴し、皮膚、特に四肢を清潔にしておけ

7 足はよく洗って爪を切り清潔にして、脂を塗るのがいい。どんなに小さい部分も直接雪に触れないように

8 手足が冷えて知覚を失ったときは、よく布で摩擦して、徐々に温めよ。決して火のそばで一気に暖まらない

9 川は裸足で渡り、よく水分を拭き取って靴下をはけ。決して濡れたまま靴を履かない

10 襯衣(しんい=肌着)が濡れたら、予備に着替えろ

11 必ず腹巻を着用せよ

12 水筒には一回沸騰させたお湯を入れること

13 食事のときは、必ずお湯やお茶を飲め

14 汗をかきすぎて、のどが渇いたときでも、急に多量の水は飲まない

15 雪や氷を食べ過ぎて胃を冷やさない

16 行軍中の飲酒は禁ずる

17 空腹で疲労したときは、将校の許可を得て予備の餅を食べよ

18 寒さが厳しい中で睡眠を取ると、凍死する可能性があるから、小休止のときに寝るのは禁止する

19 宿営についたら、なるべく1時間以内に入浴せよ

20 放尿後は、ふんどしと袴下(こした=ズボン下)で陰部を包み、軍袴(ぐんこ=ズボン)のボタンを拭いておくのを忘れるな

21 大便は宿営地で行い、行軍中はしないよう注意せよ

22 日光が雪に反射するときは眼病になりやすい。予防には眼簾(遮眼布=すだれ状の遮光用の布)、もしくはサングラスを用意せよ

23 露営時に暖を取るとき、生木を燃やした煙が眼に入らないようにせよ。眼が炎症になる可能性がある

24 休憩中に雪の上に座るときは、桐油紙を敷くこと

25 皮膚、ことに耳鼻手指が濡れたときは、各自携行した手ぬぐいや半布で拭くこと

26 各自、宝丹や精心丹などの薬を携帯しておくのもよい

27 空腹は雪中行軍でもっとも恐ろしいものなので、出発前の食事は十分に摂れ

28 雪中露営で危険なのは凍凝(凍傷)なので、もし足に冷えを感じたら足踏みを行え

29 露営にしろ宿営にしろ、新しい炭を一気に焼いて身体を急に温めない

30 行軍中に凍傷や風邪などの徴候が見られたら、随行医の診察を受けること

八甲田山雪中行軍(弘前隊、1月22日。十和田湖の渓谷を下りていくところ)
http://www.tanken.com/hakkoda.html


19. 中川隆[-5809] koaQ7Jey 2018年1月26日 14:27:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

八甲田雪中行軍遭難事件の医学的研究 - 日本医史学会
http://jsmh.umin.jp/journal/54-3/215.pdf

20. 中川隆[-5808] koaQ7Jey 2018年1月26日 14:45:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ドキュメンタリー八甲田山 (2014年)予告編 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hMnMG6_d6Gc

【事件】八甲田雪中行軍遭難事件 
http://kmpjt1.blog.jp/archives/8940154.html


1902年(明治35年)1月。
日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が、青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍(訓練)の途中で遭難した事件。

訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという、日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。


冬の八甲田山

遭難事故であると同時に、認識・準備不足、面子、身分差別など様々な要因がからんだ人災でもあるため、事件として認識される。


【当時の状況及び雪中行軍とは?】

・当時の日本陸軍にとって冬季訓練は緊急の課題であった。
1894年の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したあげく、さらなる厳寒地となる対ロシア戦を想定し準備する必要があったためである。。
(遭難事件の2年後、1904年に日露戦争が勃発している)

・この時の雪中行軍に参加したのは青森歩兵第5連隊210名、弘前歩兵第31連隊37名と民間の新聞記者1名。

【行軍の目的】

・青森歩兵第5連隊はロシア軍侵攻で青森の補給路が立たれた場合を想定し、冬場に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査することが主な目的であった。
行軍ルートは田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。

最大の難所である青森〜田代温泉間の雪中行軍演習は片道約20km。


・弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実行してきた雪中行軍の最終決算にあたる。
「弘前〜十和田湖〜三本木〜田代〜青森〜浪岡〜弘前」の総距離224kmのルートで1月20日より11夜12日の行程。

・両連隊は、日程及び互いの雪中行軍予定を知らされていなかった。
小説・映画等における「行軍競争」があったという説はあくまで創作である。

(但し、弘前連隊の行軍予定については1月17日の新聞紙面上で報道されており、青森側に気づいていた者がいた可能性もないとはいえない)

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【行軍の準備】

・弘前第31連隊
弘前第31連隊が行軍命令を通知したのは実施の1月前の1901年12月。
隊は志願者37名の少数精鋭に従軍記者1名を加えた計38名で編成された。

出発に先立ち、同隊は行軍途中の村落や町役場に手紙で食料・寝具・案内人の調達を依頼していた。
また、農家等冬の山を熟知する人々から情報収集し、冬山では汗をかかないようすること・足の指を油紙で巻き唐辛子をまぶし靴下を3枚履くなどの知識を得て実践し、行軍中は麻縄で隊員同士を1列に結んでいた。


・青森第5連隊
青森第5連隊の第2大隊は1902年の1月18日、神成大尉の指揮で予行演習を行っているが、これは遭難事故の4日前である。
予行演習とはいえ、小隊規模(約40名)の将兵とソリ1台で屯営〜小峠間(片道約9km)を往復したものであり、天候にも恵まれて成功した。
(秋田出身の神成大尉自身は雪中行軍の経験なし。実施の約3週間前に突然指揮を任命された)

これを受け、大隊長の山口少佐は屯営〜田代間は1日で踏破可能と判断。
1月21日、山口少佐は行軍命令を下し、23日に出発することを定めた。

行軍隊は210名の大編成となり、1日分の食料・燃料・大釜と工具など合計約1.2tをソリ14台で引く計画だった。ソリの重量は1台約80kg。荷物と合わせると約2tとなる。

出発前日には同行する軍医から凍傷予防と処置に関する事前注意があったが、そこで指示された内容は手指の摩擦・足踏、露営ではなるべく「睡眠セザル様注意スベキコト」であった。

初めから、本格的な休息は想定してなかったうえ、参加する隊員達も軽く考え過ぎていた節がある。


部隊の指揮を執るのは、第2大隊第5中隊長で陸軍歩兵大尉の神成文吉、叩き上げの平民の出身である。
他にも第1大隊や第3大隊からも長期伍長が一部選抜され、同行した。
また、大隊長で陸軍歩兵少佐の山口ユが随行し、神成大尉の上官である山口ユが最終的な責任者といえる。
(山口は幕臣の子孫)

だが、これらの将校・伍長らの認識は互いにすれ違っており、初めから指揮系統の混乱は避けられなかった可能性が高い。

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【遭難及び捜索の経緯】


第1日
・1月23日午前6時55分に歩兵第5連隊は青森連隊駐屯地を出発。
田茂木野において地元村民が行軍の中止を進言し、もしどうしても行くならと案内役を買ってでるが、これを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山踏破を行うことを決定。


【天候悪化】
・途中小峠までは障害もなく進軍できたものの、ソリ隊が遅れ始めたため大休止とし昼食を摂った。

この時天候が急変。
永井軍医の進言により将校の間で進むか退くかの協議が行われる。
装備の不安と天候悪化から駐屯地への帰営の検討であったが、結局は行軍続行が決定された。

悪化する天候と強風・深雪などの困難を極めながらもようやく大峠から6kmの馬立場まで進軍。

ここからは鳴沢に向け積雪量が格段に深くなったため、行軍速度が落ち食料と燃料などを積んだソリ部隊は本隊より2時間以上遅れをとる。

神成大尉は第2、第3小隊計88名をソリ隊の応援に向かわせると同時に、設営隊15名を田代方面に斥候を兼ねた先遣隊として先行させた。

・夕方5時頃、馬立場から鳴沢へ向かう途中でソリの放棄を決定。ソリの荷物については、各輸送隊員が分散して持たせられた。
このとき炊飯用の銅釜を持たされた兵士が一番悲惨だったという。

先遣隊として先行していた設営隊も道がわからなくなり、その後運良く本隊と合流した。
再び第2の斥候部隊を派遣したが、日没と猛吹雪により田代方面への進路も不明となり、やむなく部隊は露営場所を探すこととなる。


【第1露営地】 (現在の青森県県道40号の脇。地跡が残っている)
・午後8時15分、田代まであと1.5kmの平沢の森まで進出した地点で最初の露営地をとる。
2M程雪を掘り、数ヵ所に豪をつくったものの狭い上に何の覆いもなく、立ったままの露営となった。

・夜9時頃、輸送隊員が到着。食糧及び木炭を分配したが、各豪40人にしては不足であり、それぞれ炉火を1つずつ起こし、交代で火に当たる。(さらに点火に1時間程かかっている)

並行して炊事用の壕も掘開されたが、2M以上掘っても地面には届かなかったため、無謀にもそのまま壕の底の雪上に竈と釜を据えて炊飯作業を始めることになる。

火が着火しづらく、水は雪を解かさなければならない。
当然ながら床の雪が火熱で溶けて、器具が傾くなど問題が続出し、作業は極めて難航した。

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第2日

【帰営決定】
・1月24日午前1時頃、ようやく1食分の半熟米が支給された。
その後酒も温められて分配されたが、異臭を帯びて飲めなかった。

将兵は雪壕の側壁に寄り掛かるなどして仮眠を取ったが、気温が零下20°C以下まで下がり、眠ると凍傷になるとして軍歌の斉唱や足踏が命じられる。
このため長くとも1時間半程度しか眠れなかったとみられる。

・出発は午前5時の予定だったが、多くの将兵が寒気を訴え凍傷者が続出する恐れがあるとして、午前2時頃には山口少佐ら協議の結果、行軍の目標は達成されたと判断し部隊の帰営を決定。

これを受けて、部隊は午前2時半に露営地を出発。


【遭難】
・部隊は馬立場を目指すが午前3時半頃に鳴沢付近で峡谷に迷い込む。

前露営地へ引き返すこととなったが、この時佐藤特務曹長が田代への道を知っているとの言を山口少佐が聞き、独断で案内を命じる。
しかし佐藤特務曹長は道を誤り、結果として部隊は駒込川の本流まで沢を降りていった。

その頃には全員が疲労困憊しており、隊列も整わず統制に支障が出始めたという。
山口少佐は、駒込川に至ったことで誤りに気付くが、引き返す道は吹雪により消されており、部隊は完全に遭難した。


・驚くべきことに、部隊は崖をよじ登ることを決定。
だがここで、崖を登れず落伍する兵が出る。

この時、華族である紀伊新宮藩藩主水野忠幹の長男で第4小隊の水野忠宜中尉が凍死している。


・崖を登って高地に出た部隊は、改めてすさまじい暴風雪に曝された。
そこから今度は鳴沢上流の山陰に向けて進む。以後、部隊は安全な場所を求めて彷徨することとなる。

この間を通じて総員の4分の1が凍死または落伍した。
特に荷物の多かった輸送隊員は数名しか残らず、残った者も荷物を投棄。
夕刻になっても大釜を背負っていた山本徳次郎一等卒(生還)などは、見かねた倉石大尉が釜を捨てさせている。

記録による推測だが、この日の現地は風速29m/s前後、気温零下20〜25°C以下、積雪は渓谷の深い場所で6〜9mという悪条件だったらしい。


【第2露営地】 (現在青森県県道40号脇)
・この日の行軍は14時間半に及んだが、直線距離にして約700mの移動であった。
夕方頃に鳴沢付近にて凹地を発見し露営地とする。

(2015年現在、青森県県道40号沿いに第1第2露営地跡があるが、この間は徒歩で約10分ほどの距離)

部隊は統制が取れなくなっていた上、雪を掘る道具を所持していた輸送隊員は全員行方不明となり、悪天候の吹きさらしの中で露営しなければならなかった。
食料は各自がわずかに携帯していたが、凍結して食べることは不可能だった。

凍傷者を内側に囲むように固まり、軍歌や足踏み、互いに摩擦するなどして睡魔と空腹に耐えたが、猛吹雪と気温低下、前日よりほとんど不眠不休で絶食状態であるため、ここで多数の将兵が昏倒し凍死していった。

この遭難で最も多くの犠牲者が発見された場所である。

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【青森屯営】
・一方、青森では帰営予定日時になっても帰営しない行軍隊を迎えに行くため、川和田少尉以下40名が田茂木野まで出迎えに行き24時まで待ったものの消息がなかった。

この時はまだ、事態の深刻さがわかっておらず、他の将校の転属の送別会なども開かれていた。

第3日
・翌1月25日も夜明けを待って出発の予定であったが凍死者が続出したため、午前3時頃に部隊は馬立場方面を目指して出発する。

この時点で死者、行方不明者合わせて既に70名を超えている。
その他の兵士も多くは凍傷にかかっていた。

方位磁針は凍りついて用を成さず、地図を頼りにほぼ勘に頼っての行軍となっていた。


【彷徨】
・部隊は鳴沢の辺りまで一度は辿り着いたものの、風が強く断崖に達したため引き返す。
その後再度反対方向に進行するも、今度は前方を山にさえぎられて道を見失う。

のちの生還者の証言によれば、大隊本部の将校である神成大尉らが協議の上「ここで部隊を解散する。各兵は自ら進路を見出して青森または田代へ進行するように」と命令したという。

それまで何とか落伍せずに頑張っていた、多くの兵士のタガがこの時に外れた。

発狂する者、川に飛び込む者、服を脱ぎ捨てて裸になる者。
凍傷で手が効かずボタンを外せぬまま放尿し、その凍結が原因で凍死する者。
死者が続出した。

但し、生存者の1人である伊藤中尉は晩年まで「部隊が途中で解散した」話を否定し続けている。

この彷徨で興津大尉以下約30名が凍死。
さらに十数名が行方不明となる(後の生存者も含む)。


【斥候隊】
・午前7時頃、多少天気が回復する。
大隊本部所属の倉石大尉は斥候隊を募り、田茂木野方面に高橋他一伍長以下7名、田代方面に渡辺幸之助軍曹以下6名の計13名を送り出した。

この日、残された部隊は遠目に見える樹列を救援隊と見違えている。
喜んだのもつかの間、勘違いを知るとさらにひどく士気が消沈した。


ついに、斥候隊の高橋班に属する佐々木霜吉一等卒が帰路を発見。

・午前11時30分頃高橋斥候長が自ら戻ってきて、帰路を発見し田茂木野方面へ進軍中と報告。
本隊は正午頃出発し、斥候隊と行動をともにする。
この時点で人員は60〜70名。

・午後3時頃馬立場に到着。
もう片方の渡辺幸之助軍曹らの班の合流を待ったが、彼らはついに戻らなかった。

(また、馬立場付近で帰路を発見した佐々木一等卒と高橋伍長は、その後重なり合うようにして凍死して発見された。)


・以後行軍を再開したが、中ノ森東方山腹に達したところで薄暮を迎え、更に午後5時カヤイド沢東方鞍部に着いた頃には完全に部隊はばらばらになっていた。
倉石大尉はカヤイド沢に降りて露営地を定め、伝令を送ったが、部隊は集まらなかった。


【第3露営】
・この日の露営でも多数の兵士が凍死した。
記録や証言などに食い違いがあり詳細は不明。


【青森屯営】
・古閑中尉以下40名は炊飯具を携行して幸畑で粥を作って待機。
その一部は田茂木野村の南端でかがり火を作って夜まで待った。

しかし夜中になっても到着しないことから、屯営では行軍隊が三本木方面に抜けているのではと考え、三本木警察に電報を出したが確認がとれず、翌日から救援隊を派遣することを決定。

第4日
・1月26日。
記録では、午前1時頃に人員を呼集すると約30名になっていた。
前日の露営で山口少佐が再び人事不省となり、少佐は兵卒に担がれる状態で行軍する。

隊列は乱れに乱れ、先頭こそ神成大尉、倉石大尉と自然に決まっていたが、それ以外は所属も階級も関係なく、将兵が後から続く形となっていた。
神成大尉らは前方高地を偵察する形で前方を行き、倉石大尉は後方を進んでいた。

天気は一日を通じて時々晴れ時々雪だった。


・部隊は夕方までに中の森〜賽の河原の間(所在不明)に到着し露営した。

この日進んだ距離は通常なら2時間で進める程度だったが、激しい疲労と飢えのため1日を要したのである。


【救援隊による捜索】
・この日、軍医を含む60名の救援隊が屯営を出発。
途中村民を案内人として雇い大峠まで捜索活動を行ったが、田茂木野出発が手間取り時刻が遅れ、またこの日の気温は−14°Cであり、風雪も厳しかった。

案内人および軍医の進言により捜索を断念して田茂木野へ引き返す。

第5日
・1月27日、生き残った部隊は協議し、二手に別れた。

青森に向かって左手の田茂木野を目指す神成大尉一行数名と、同右手の駒込澤沿いに進行し青森を目指す倉石大尉(ほとんど自力で動けなかった山口少佐含む)の一行約20名である。
(注 この日付けも証言と記録の食い違いがある)


【倉石大尉の一行】
・駒込川方面を進むが、途中青岩付近で懸崖にはまり進むことも戻ることもできなくなった。
そのまま日没となり崖の陰に寄って夜営するも、今泉三太郎見習士官が下士1名を伴い、連隊に報告すると告げ、裸になって川に飛び込んだ。
彼らは3月9日に下流で遺体となって発見された。


【神成大尉の一行】
・比較的正確に道を進んではいたが、倉石大尉らと異なり猛吹雪をまともに受けたため落伍者が続出した。
残り4人の中から鈴木少尉が高地を見に行き、そのまま帰らなかった。
残された3人のうち、及川篤三郎が危篤となり死亡。
やむを得ず神成大尉と後藤伍長の2人は雪中を進むが、今度は神成大尉が倒れた。

この時に神成大尉は後藤伍長に「田茂木野に行って住民を雇い、連隊への連絡を依頼せよ」と命令した。
後藤伍長は命を受け、朦朧とした意識の中で危急を知らせるために1人で田茂木野へ向けて出発する。


【救援隊による捜索と後藤伍長発見】
・救援隊は捜索活動を再開。
嫌がる案内人を説き伏せての行進だった。

午前10時半頃、三神少尉率いる小隊が大滝平付近で雪中に佇立する後藤房之助伍長を発見。
ここで初めて雪中行軍隊が遭難したことが明らかとなった。

後藤房之助伍長の発見時の様子については複数の説があり、そのひとつに「目を開けたまま仮死状態で立っており、近付いて救急処置を施して約10分後に蘇生した」というものがある。
この説は以後『仮死状態で歩哨の如く立っていた』とされ、後に銅像が建立された。


【神成大尉らの遺体発見】
・意識を取り戻した伍長が「神成大尉」と洩らしたため、付近を捜索すると約100m先で神成大尉が発見された。大尉は全身凍っていた上、帽子も手袋も着けておらず雪に首まで埋まっていた。
軍医はその腕に注射しようとしたが、皮膚まで凍っていたため針が折れた。その後何とか口腔内に針を刺したものの、蘇生せずそのまま凍死。

すぐ近くで及川篤三郎の遺体も発見。
2人の遺体は運ぶことができず、目印を付けてその場に置き、後藤伍長と重度の凍傷で倒れた救援隊員1名のみ救護して田茂木野へたどりついた。


【本部への報告】
・19時40分、三神少尉が後藤伍長の発見、雪中行軍「全滅の模様」であること、更に2時間の捜索で「救助隊60余名中、約半数が凍傷で行動不可かつ1名が重度の凍傷で卒倒」となったことを本営に報告。

報告を受けた上官の顔色は真っ青になったという。

第6日
・1月28日。
倉石大尉の一隊では、佐藤特務曹長が下士兵卒を連れ川に飛び込み、岩に引っ掛かりそのまま凍死した。
これに関して倉石大尉は「連隊に連絡せんとて行きしまま行方不明」と述べている。

倉石大尉ら数名は崖穴に入っており、山口少佐がいる川岸の場所と2つに分かれて兵士がいた。
倉石大尉は山口少佐にこちらに来るよう勧めたが、山口少佐は頑として拒否したという。
この頃、山口少佐に水を与える役目になったのは、比較的体の動けた山本徳次郎であった。


【弘前隊の通過】
・この日の朝、八甲田山を逆方向から行軍してきた弘前隊は田代付近の露営地を発ち、鳴沢〜大峠経由で田茂木野を目指した。
この行程は青森隊の遭難地を通過しており、その際に遭難者を見たという説がある。

だが、この28〜29日の2日間の関しては箝口令が敷かれており、詳細は不明。

翌29日の早朝、午前2時過ぎ、前日より昼夜を徹して強行軍した弘前隊は田茂木野に到着している。

第7日
・1月29日、救助隊が神成大尉および及川伍長の遺体を収容し、各哨所も完成した。

第8日
・1月30日。
後藤惣助一等卒が倉石大尉らの場所に合流。


【救援隊】
・救助隊は賽の河原で中野中尉ら36名の遺体を発見した。
この場所は倉石大尉らが駒込川の沢に降りていった道に当たる。
「賽の河原」という地名は、以前にもここで凍死した村人が多数いたことに由来する。

第9日
・1月31日午前9時頃、鳴沢付近で捜索隊に加わっていた人夫が偶然炭小屋を発見した。
小屋の中には2人の生存者がおり、三浦武雄伍長と阿部卯吉一等卒を救出。
朝まで生きていたというもう1人の遺体も発見した。

この2名は軍医の質問に対し、25日朝に露営地から出発したところまでは覚えているが、それ以降は分からず、気づいたら小屋に飛び込んでいたと証言している。小屋周辺では16名の遺体が発見された。
三浦伍長は救出後の入院中に死亡した(3月14日)。

鳴沢では他に水野忠宜中尉以下33名の遺体を発見し、大滝平付近で鈴木少尉の遺体が発見された。


【倉石大尉らの発見】
・午前9時頃、倉石大尉らが崖をよじ登りはじめる。
15時頃に250mほど進んだ所で倉石大尉、伊藤中尉ら4人が救援隊に発見され、生存者計9人が救助された。だが、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒は救出後死亡した。

この際に山口少佐も発見されたが、足場の悪さなどで救出に手間取り、応急処置を経て病院に収容されたのは翌2月1日の夜であり2日に死亡している。


【弘前隊の帰営】
・この日、弘前隊は弘前市郊外の連隊屯営に帰営し、雪中行軍の全日程を終えた。


第10日
・2月1日、賽の河原付近にて数名の、按ノ木森から中ノ森にかけ十数名の遺体を発見した。


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第11日
・2月2日。
捜索隊が大崩沢(平沢)付近で見付けた炭小屋で、長谷川特務曹長、阿部寿松一等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の4人の生存者が発見された。
しかし佐々木二等卒、小野寺二等卒は救出後に死亡。

最初この炭小屋には8名の生存者がいたが、比較的元気な3名は屯営を目指して小屋を出発したのち全員凍死し、軍医は付近から聞こえた助けを求める声を探して小屋を出たきり戻らなかったという。

・15時頃には、最後の生存者となる村松伍長が、古館要吉一等卒の遺体とともに田代元湯近くの小屋で発見された。
村松伍長は四肢切断の上、一時危篤となったがかろうじて回復した。

村松伍長らは25日朝に本隊からはぐれ、青森を目指したが進路を誤り、26日午後にこの小屋を見付けた。
中には茅が積まれていたが火を起こすことができず、翌日古館一等卒は死亡した。

村松伍長は付近で見付けた温泉の湯を飲んで命をつないだが、30日以降は立てなくなり、以後はただ横臥して雪を食べていた。


【生存者】
・倉石一大尉
・伊藤格明中尉
・長谷川貞三特務曹長
・後藤房之助伍長
・小原忠三郎伍長
・及川平助伍長
・村松文哉伍長
・阿部卯吉一等卒
・後藤惣助一等卒
・山本徳次郎一等卒
・阿部寿松一等卒

11人全て東北出身の人間である


また、救助されたが、治療の甲斐なく死亡した者は6名。
・山口ユ少佐
・三浦武雄伍長
・高橋房治伍長
・紺野市次郎二等卒
・佐々木二等卒
・小野寺二等卒


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生存した将兵も、倉石大尉・伊藤中尉・長谷川特務曹長以外の全員が、凍傷により足や手の切断を余儀なくされた。
指の切断ですんだ者もあれば、四肢切断となった者もいる。


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余談だが、倉石大尉は日露戦争の黒溝台会戦で1905年1月27日に戦死。伊藤中尉、長谷川特務曹長も重傷を負った。

遭難の詳細は生存者の証言がそれぞれ異なる箇所がある。

当時の軍国主義により軍部の圧力もあったと考えられており、救助後病院で亡くなった山口ユ少佐の死因についても多くの噂や憶測が飛び交った。

また、情報操作により、戦争に向けて民間人の軍部への批判をかわすことを目的に、真実が隠されたり歪曲された部分も多いと思われる。

記録では、上官である将校らが帰営や中止を提案したのに対し、東北出身が多かった下官ら兵士が続行を訴え、仕方なく強行したとある。
天候の悪い冬山で、無謀にも夜明け前に行動を起こしたのも、凍死を避けるためだったという。

他にも、士気をあげるために軍歌を歌うようにとの命令もあった。
ラッパを吹きつづけた者は唇の皮が剥がれ、凍死している。

当時はゴムは貴重品であり高級品であった。
そのため、偶然ゴム長靴を履いていた倉石大尉は比較的行動できたといえる。
下官卒には、冬山に地下足袋で行軍した者もいた。


当時、弘前隊・救援隊ともに近くの村民に案内をさせているが、天候の悪さに強く抵抗されている。


計画通りに雪中行軍を成功させた弘前隊だが、実際には遭難しかけており、とくに青森隊とすれ違った28日には全員が疲労困憊していた。
そのため、もし遭難した青森隊の者を発見したとしても、救助の余裕はなかったと思われる。

距離の長い弘前隊は、案内人の1人を人質にとることで、村民(案内人)達にかなりの無理を強要しての強行突破だった。動けなくなった村民達を雪の山中に置き去りにしての成功であった。

置き去りにされた村民はほとんどが悲惨な運命をたどっている。

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八甲田山の雪中行軍はその後も実施され、成功をおさめた。


この事件は映画や小説にもなり、現在はYou Tubeでのまとめ映像も多い。


が、あえてこちらを掲載する。

ドキュメンタリー八甲田山 (2014年)予告編 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=hMnMG6_d6Gc


実際に現地で再現しつつ、生還者の証言も収録したドキュメンタリーである。

日本の事件であるにも関わらず、何故字幕なのかはお考えいただきたい。
たった標高600m地点でこれだけの惨劇が起こった事件は、世界中で八甲田山だけである。
http://kmpjt1.blog.jp/archives/8940154.html


21. 中川隆[-5795] koaQ7Jey 2018年1月26日 21:39:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

冬の八甲田雪中行軍ゆかりの地探訪 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E5%86%AC%E3%81%AE%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E3%82%86%E3%81%8B%E3%82%8A%E3%81%AE%E5%9C%B0%E6%8E%A2%E8%A8%AA


八甲田山雪中行軍を語り継ぐ会 - ホーム Facebook
https://www.facebook.com/%E5%85%AB%E7%94%B2%E7%94%B0%E5%B1%B1%E9%9B%AA%E4%B8%AD%E8%A1%8C%E8%BB%8D%E3%82%92%E8%AA%9E%E3%82%8A%E7%B6%99%E3%81%90%E4%BC%9A-895912190451256/


八甲田山雪中行軍遭難事件サイト掲示板
http://www2.rocketbbs.com/101/whiteout.html


7名無しさん2012/12/05(水) 20:51:18.08ID:RZEQASNB0

史実に関しては、いろいろな本・サイトで理解しました。

8月に青森に行きましたが、青森で勤務するかたとの話で

「史実と映画はいろいろ違うんです。」

と言うと、その方は映画は史実通りじゃないんですか?とおっしゃるので、下の3点は説明しました。


@山田少佐は物語の中でのみ悪役であって、神田大尉を悲劇のヒーローにするために悪役にされているだけ。史実の山口少佐は温厚ないい人だったそうです(完全にキンコさんのサイトの受け売り)。

A映画の最後で

「5連隊で五体満足だった人と31連隊の兵士は日露戦争で全滅した」

というテロップが出ていますがウソ800で、ちゃんと伊藤中尉と長谷川特務曹長は生き残り、31連隊の方も生き残られた。

ホンマに、ああいうテロップは正確でないとあきませんね。


B徳島大尉は生まれが津軽と映画ではセリフがありますが、史実では群馬の生まれです。

また、青森市の食堂で食事をしていても「観光の方ですか?」と相席の方から聞かれ、なぜか映画の話になり、その方も「映画って史実の通りじゃないんですか?」と言われるので、相当の方がノンフィクション映画と思っておられる可能性があると思いました。

9名無しさん@お腹いっぱい。2012/12/09(日) 02:25:49.97ID:YD02J6BQ0

つーか。この事件の影響って実はかなーりでかいと思う。

それは、軍のトップの人間が現場指揮官に口を出さない方が良いというきっかけになったと思うからだ。

この事件以降、トップの人間の理想像は、細かいコトは現場指揮官に任せて、どんな突発的なコトにも慌てずに「そこにいる」ことが重視されるようになったからだ。

その後の戦記物も記述で、トップを褒めたり理想化したりするようになった。その根源がこの事件。

結局それが、現場指揮官の戦術のみの判断で突っ走ったり、猪突猛進で大局を見ない判断のみが、幅をきかせる結果となったのは事実。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1353253626


22. 中川隆[-5794] koaQ7Jey 2018年1月26日 22:43:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

八甲田山雪中行軍

明治35年に起きた八甲田山雪中行軍遭難事故の史実を、解説を添えて紹介します。組織経営を考える参考になるでしょう。
http://web.thn.jp/kimijima/body/Hakkoudasan/00hakkoudasan.htm


23. 中川隆[-5794] koaQ7Jey 2018年1月27日 17:59:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

山口大隊長は救出後自決したと伝えられているが、実際には現地で死亡していた

170名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/31(土) 09:43:22.92ID:AcOh2EA40

第二露営地

明治35年 1月24日 :  1902年
午後 5:00

結論を先に申し上げると
大隊長は翌25日の夜明けを待って田茂木野方向に出発することを命じた

しかし1月25日 午前 3:00 大隊長は倒れてしまい
青森5連隊は再び夜明け前の帰営を決断する


24日午後5:00から25日午前3:00までの第二露営地は以下の通り

@
夜のブリザードは昼間と変わらない
暖を取りたくても炭薪はなく食料もない
わずかに各自携帯する2〜3個の餅と牛缶詰があるだけ
しかれども餅は氷結し石のように固く缶詰切り開くに困難な状況
糒(ほしいい)などを食べたくとも凍傷にかかる手ではどうにもできず
人の助けがなくては口にすることもできない
喫食するものは稀であった

A
大隊長は火に当たると凍傷がひどくなるであろうと火は一切焚く事を許さず
夜通し足踏みをして暖みを取るよう厳命する

B
概に食尽き、空腹はますます迫り来たり
いかんともすべからざれど翌朝の天候に望みを抱き、
各人団輪を作り最も凍傷にかかった者を取り囲み露営を為したり

C
各小隊は、手指を摩擦したり軍歌を唄い睡魔を破り
指揮を鼓舞し体温を保ち以て凍傷を防がんことをつとめたり
昏睡して倒れた者は体をこすり蘇生を試み
睡気を催す者は高呼してその覚醒を図れり

D
行軍部隊は夜間寒気との戦いに一睡もせず足踏みしたが
雪が靴の下の凍りつき高下駄のように氷柱が発生
それが折れて倒れた者は再起不能となり水中に没するが如く深雪の中に姿を没して
死んでいったという

午後9:00までに将校を含む20数名が死亡
午後1:00将校たちは集合し対策を論じた
結果、翌25日の夜明けを待って出発することを命じた
しかし前述のとおり大隊長は倒れてしまう

この鳴沢第二露営地付近では最も多くの遺体が発見されている

第二露営地出発

明治35年 1月25日 :  1902年
午前3:00頃

神成大尉は各小隊を呼集し人員の状況を確認
三分の一は既に倒れ
三分の一は凍傷にて運動の自由を失い、三分の一のみ比較的健全
との報告あり

行軍隊は一列縦隊をもって鳴沢渓谷を下る
ブリザードの影響は少なくなるが昨日同様に寒さは厳しく
再び駒込川の本流と断崖に路を阻まれ進退困難な状況となり
先刻出発した第二露営地に引き返す事となる

この状況下、神成大尉は悲嘆のあまり絶叫した
:天はわれわれを見捨てたらしい
:俺も死ぬから、全員昨夜の露営地に戻って枕を並べて死のう

行軍して二日目ごろから精神に異常をきたすものが出てい
カンジキ隊が雪を固めて路を拓き進軍したのだが
周囲の何メートルもの深い積雪に向かい
わけのわからない叫び声をはりあげて突進するものがいた
とたんに身体がズボッとはまって見えなくなる
手をあげて助けを求めると、雪が頭に落ちて完全に埋まってしまった
それでも助けようというものはなかった

一行は、錯乱状態の中、暗中模索に喘ぎ、堂々巡りに陥った

1月25日 午前 5:30
2時間30分という時間と30名の犠牲を払って行軍隊は第二露営地に到達する


大隊長が倒れるという件は正史では
山口少佐、倉石、神成両大尉は先頭にありて進路を定め・・・・・

1月25日午前 5:30 第二露営地に行軍隊再び到達後
大隊長人事不省となる

と、遭難始末に記録されています

しかし
なぜ朝を待たずに夜に第二露営地を出発したのか?

実は大隊長が倒れたからでは?
と、この行軍の書物を読めば読むほど考えざるを得ない印象を受けます

172名無しさん@お腹いっぱい。2015/01/31(土) 16:42:49.29ID:AcOh2EA40

興味深い記事があります

後藤伍長の弁によれば、大隊長が倒れたのは
第二露営地を出た後、駒込川の本流と断崖に路を阻まれ
再び第二露営地に着く前で、しかも着いた時には既に絶命していたという

第5連隊遭難始末より  後藤伍長の談話


行軍を率いる大隊長の死は大隊の全滅を意味する
それゆえ後の青森5連隊本営での遭難に関する聞き取り調査の際に
大隊長は生きて救出されたという事を原則とし
聞き取り調書が調整された可能性もあるのではないでしょうか?

しかし本行軍は正史では
大隊長は3度人事不詳になり3度蘇生し青森本営に生還しています


174名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/02(月) 13:44:37.96ID:74tefAbz0
>>172
興味深い指摘だな
山口大隊長は救出後自決したと伝えられているが
現地で死亡していたとなると話はまるっきり違ってくる

175名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/02(月) 22:37:34.58ID:INcnm4BK0

第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ

明治35年 1月25日 :  1902年

再び前露営地に引戻ることとなってしまった
この時、山口大隊長は人事不省となり軍帽すらも吹雪に吹き飛ばされてしまっていた
軍帽は見つからないので凍死せる兵士の軍帽を取りてこれを大隊長にかぶらせ
しばらく介抱して前露営地に運び込んだのだが
大隊長はこの時既に絶命せり

第5連隊遭難始末より  後藤伍長の談話


1月25日 午前 7:00

時に午前七時なり、天は我々をしてますます悲運に陥らしめぬ
この時、山口大隊長はまた人事不省となりければ
将校数名は相抱きて樹下に風雪を凌ぎ、生木を集めて火を点ぜしに
じゅうじゅうと音するのみにて暖をとる能はず
これにおいて万事の望を没し去られたり

我々の心中は今語らんとするも形容するに言葉なし
わずかに背嚢の板片のあるを思い出し
死者の背嚢を集めて焚火をなし、大隊長を暖めたり

されど大隊長は蘇生せず。

第5連隊遭難始末より  倉石大尉の談話


1月25日 旭川にて 零下41度を記録 :他文献より


177名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/03(火) 02:05:04.08ID:+zi1+b7l0

山口少佐は山中で絶命か…45歳死亡だが、写真見るに還暦を過ぎた爺さんに見えるよな。
いくら将兵に丁重に扱われていたとはいえ、こんな爺さんが若い兵士より過酷な山中で生存できたとは思えない。

福山雅治と同じ年齢なんだがな、その父親世代に見える。当時の45歳っていうのはそんな年齢なんだろうな

179名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/03(火) 02:13:14.18ID:+zi1+b7l0

山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。
陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして師団は責任を逃れたのだろうか…

180名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/03(火) 18:59:46.97ID:tvryDbmS0

山口少佐ってのは幕臣の子弟で、徳川が駿府へ移って作った沼津の兵学校かなんかの出身なんだよな。

184名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/04(水) 18:22:22.68ID:VBsJH0AN0

第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 2
明治35年 1月25日 :  1902年

本スレでは大隊長は死んでしまったという共感を得ました
しかし
行軍を率いる大隊長の死は大隊の全滅を意味する
大隊長の死を秘匿したまま行軍は進んだのではないでしょうか

青森5連隊大隊長のプロフィール
山口ユ やまぐちしん
少佐  東京出身 士族 安政3年( 1856年 )12月27日生まれ

明治4年 東京で外国語学校で語学を学ぶ :15歳
明治13年1月士官学校に入り :24歳
明治14年12月士官学校を卒業陸軍歩兵少尉となる :25歳

明治15年1月歩兵第18連隊に着任  正8位受勲
名古屋鎮台 歩兵第18連隊( 豊橋 ) 明治21年に第3師団に改称

明治18年5月
陸軍歩兵中尉となる 従7位受勲 :28歳

明治19年5月 歩兵第19連隊に着任 従7位
名古屋鎮台 歩兵第19連隊 ( 敦賀 )   
明治21年に第3師団に改称 :29歳

第3師団 歩兵第19連隊 (敦賀) 
連隊大隊副官を任ぜられる
明治25年12月 山口姓となる :34歳

明治26年3月1日想定
陸軍歩兵大尉となる 歩兵第19連隊中隊長に任ぜられる :36歳

明治27年9月 日清戦争着任 遼東半島に戦う :37歳

明治28年6月 大連湾を出発し7月宇品に凱旋 :38歳
同11月受勲 従6位勲5等功5級 軍功旭日章 瑞宝章    
功5級金鵄勲章 (日清戦争従軍軍人 2000名が受勲 )

明治29年12月 仙台第2師団17連隊 中隊長に任ぜられる :39歳
明治30年5月 京城守備隊長をして渡韓 8月従6位受勲 :40歳
明治32年3月1日 : 想定
戸山学校入校( 戦術科 )着任:東京
同年 12月
陸軍歩兵少佐となり山形32連隊着任、中隊長だったと想定 :43歳
弘前第8師団歩兵第32連隊

明治34年2月
弘前第八師団青森歩兵第五連隊第二大隊長となる :45歳

明治35年1月
八甲田雪中行軍にて亡くなる :46歳
正史の記録では 2月2日死去
倉石大尉 後藤伍長 の弁では 1月25日死去


176名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/02(月) 22:55:45.89ID:INcnm4BK0

余談ですが日清戦争でも渡河作戦を行った四国の部隊が
濡れた軍靴のため凍傷にかかるという件

八甲田雪中行軍前に冬の北海道演習で部隊が遭難した件
これは最後の救出者は縦穴1人分の雪濠を掘り2週間後に発見され
脚を切断という顛末

日清戦争の件と北海道の件が
帝国陸軍内部で情報共有されていたかどうかは不明です


181名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/03(火) 22:42:35.59ID:jpsSMNRg0
>>176
北海道の冬季演習事故や5連隊の遭難により陸軍の防寒対策が
急に改善した訳ではなくて、5連隊を救助しようとした救援部隊の
8師団の兵士に凍傷者が続出した上に吹雪の中を前に進む事もできず、
救助活動が大幅に遅れて死者を増やした為、軍はマスコミや国民や帝国議会の
糾弾を浴び、衣服や装備の改善の急務が認識された、というのが現実です。

日清戦争でも満州の冬の寒さに陸軍兵士は大きなダメージを受けていますが
当時のマスコミは「勝った、勝った」しか書かなかった為、陸軍首脳には
寒さに対する危機意識はありませんでした。

182名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/04(水) 00:15:08.44ID:g139EkHLO

事故・犠牲→検証・反省→改善

という流れを生んだ訳だ。
日露戦争では少なからずこの犠牲を無駄にせず、寒冷地対策を行った事は意義深い。

或意味で「実験」だった訳だからな。

183名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/04(水) 01:16:22.53ID:R+Kr63Vf0

>事故・犠牲→検証・反省→改善

いや、遭難発生で大規模な救助活動が行われ、
その救助活動でも凍傷者続出で、救助活動すら満足にできない体たらくが
大々的に報道され、死者遺族を始め各所から非難を浴びまくって、
ようやく寒冷地の恐ろしさを認識した。典型的なバカ役人体質

よく似ているのが脚気。海軍は脚気を克服していたのに、陸軍は克服できず
日露戦で数万の死者を出したからな。自軍の兵士を数万人殺して、
日本を存亡の淵に追いやりながら、森鴎外を始めとする陸軍衛生課で
責任を取った者は1人もいない

基本的に帝国陸軍は学習能力が非常に低く、責任を取りたがらない保身だけの
バカ役人体質で、自らを滅ぼした


185名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/04(水) 23:36:37.79ID:7jUMK16EO
>>183
海軍が責任を取る体制であったかのような物言いだが、そうなのか?


186名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/05(木) 16:44:22.68ID:oFg4WhyG0
>>185
本来、遠洋航海などで陸軍より脚気になりやすい海軍が
完全に脚気を克服していたんだから、海軍に習ってパン食にしたり、
麦飯にすれば良かったんだよ

森鴎外のように「陸軍衛生部のメンツ」に拘って、数万の兵を殺して
日本国を危うくするのが、帝国陸軍の本質だな。
インパールなんか牟田口や辻のメンツの為に数万の兵士を殺して
日本敗戦の原因を作りながら牟田口も辻も何の罰も受けていない。


173名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/01(日) 21:27:28.16ID:fLSt16e80>>233

でもこの演習による日本軍の耐寒能力把握がなかったら
満州に渡った日本軍将兵は、ソビエトに侵攻したナチスドイツ軍がモスクワ戦線で経験したのと同じ轍を踏んだ可能性が大なんだよな。

日露戦争で、冬季でもロシア軍に渡り合えたのは、この貴重な教訓があったからだとおもうな。
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1353253626


24. 中川隆[-5794] koaQ7Jey 2018年1月28日 18:34:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

山口大隊長は救出後自決したと伝えられているが、実際には現地で死亡していた 2

190名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 07:45:22.12ID:PZahEPMf0

第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 3

第二露営地は第一露営地より北東に550m
鳴沢より南東方向1000mの谷底を超えた南方山腹の狭小なる凹地

地図はコチラ↓
http://yuebing.exblog.jp/iv/detail/index.asp?s=8010506&i=200902/28/96/a0118696_14554518.jpg

明治35年 1月25日 :  1902年
午前 7:00
雪少なしく晴れ、四方を展望するの機を得たり
倉石大尉は田茂木野方面を確かめん為斥候を出さんとす
希望の者は予の許に集まれ
渡邊幸之助軍曹、高橋他一伍長以下12名がこれに応じ
倉石大尉は彼らに次のような任務を与えた。

@渡邊軍曹は5名を率い鳴沢西南方高地の左方より
A高橋伍長は残余の5名を指揮し駒込川方向より

共に田茂木野方面を確め村人を雇ふて救援に来るべき処置をなし
且つ連隊に現況を報告せよ。
嗚呼、諸子よ、諸子は今日すべからく谷村計介たれ

第二露営地から田茂木野に至る道のりは以下のとおり
@鳴沢西南方高地を越えてゆくルート
A駒込川方向より斜面を登るルート

@A→中の森→ヤスノ木森→賽の河原→大滝平→田茂木野
第二露営地から大滝平までは約5q

谷村計介とは
西南戦争(明治10年)の際
熊本城から西郷軍の包囲を果敢に突破した伝令

1月25日 旭川 零下41度を記録
この日は未だに破られていない日本最低気温(気象官所)が観測されている

北海道に於いては概ね二十度以下にして、上川の如きは四十一度となり
石油凍結するに至れり

遭難始末より

191名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 08:28:31.63ID:PZahEPMf0

第二露営地出発 → 迷走 → 再び第二露営地へ 4

明治35年 1月25日 :  1902年
午前10:00
救援隊が来ると呼称する者があり
一同驚喜し前方の高地を瞥見( べっけん )すれば
数多の兵員達が雪を分け通路を開設しつつ我らに向かい前進していた
これにおいて感極まり感涙するものあり隊の士気は昂ぶった

倉石大尉はまずラッパ手をして号音を吹奏せしめんとしたるも
ラッパは唇頭に凍着し、ラッパ手は疲労こんぱい腹に力なく
わずかに断絶せる一、二声を発したるのみ

それに困って来る救援隊を熱視すれば
その救援隊と見えしは、あまたの樹木が1列となり2列となりにして
風雪にさらされた現象であったと判明
本件で一同は茫然、昂ぶった士気は平常に戻った
:いわゆる集団幻覚であった

兵士は寒気に襲はれ身体の自由を失いし為め、あらゆるものを集めて暖を取りし
暖を取る煙を救援隊が見出してくれるのではないか
と希望をつなぐ者もいた

午前 11:30
高橋斥候長自ら第二露営地へ来り
報じて曰く、確かに帰路を発見せり
斥候は通路を踏開し田茂木野に向いて前進中なりと
このころから雪は止まないが風が和らぎ始める

山口少佐は火辺にありて暖気を得て元気になった・・・・・
という記録が残っている
その真偽はともかく、多くの人員が山口少佐の蘇生・摩擦に
割り当てられたと想像できます

192名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 09:05:57.14ID:PZahEPMf0

第二露営地出発 →第三露営地へ

明治35年 1月25日 :  1902年

正午 12:00時 
武器を携行しての行動の困難を懸念した倉石大尉は
自らの責任とし重症者の銃を叉銃と決定している

同 12:00時 
青森5連隊の一行は高橋伍長を先導にして出発している
ここで云う一行とは第二露営地で動ける者、かろうじて動ける者
加えて大隊長が人事不省、死亡している場合は大隊長を運搬する者も
倉石大尉により編成されていたと考えねばなりません

午後 1:00頃
鳴沢谷底より馬立場に通ずる進路を発見

午後 3:00 
馬立場に達す

午後3:00以降
中ノ森の東方山腹に達するや、日既に薄暮
進路は不明となり、風雪また猛烈にして再び悲境に沈淪するに至れり

午後5:00
カヤヰド沢東方鞍部に達せんとする頃
大橋中尉・永井軍医等行方不明となりしを知る
倉石大尉は、今泉見習い士官以下10余名を率い
露営地偵察の目的をもってカヤヰド沢に降り、一地を選定し
伝令を以て大隊長一行を迎えしもついに至らず

このころ神成大尉はカヤヰド峡谷を偵察していた
その先は賽の河原である、翌朝の出発に向けての偵察だったのであろう
と想像できます

また遭難始末によれば

大隊長山口少佐は三たび人事不詳になり部下これを救護して
三たび蘇生しついに第三露営地に達する
そののち全く人事不省となれり

と、記録されています

193名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 09:28:56.41ID:PZahEPMf0

ここで小休止と再検証

第三露営地は 中の森 ⇔ ヤスノ木森 間にある沢であり
大隊長と倉石大尉他、士官、見習士官、下士官らが最後に発見された場所です

第三露営地に大隊長が到着する前

1月25日午後5:00以降
大橋中尉・永井軍医等行方不明
今泉見習い士官以下10余名がカヤヰド沢に第三露営地を設営
神成大尉はカヤヰド峡谷を偵察賽の河原方面に進出

1月25日午後 11:00
倉石大尉の一群はいまだ到着しない大隊長一行のために胸まで雪に沈みながら
1時間をかけ、かすかな声を頼りに合流し、第三露営地に案内する

という勇敢な記録が遭難の後の聞き取りにより残されています


そして大隊長は第三露営地に無事到着の後
三たびの人事不詳そののち全く人事不省となれりとは前述のとおり

しかし興味深いことに
大隊長山口少佐は人事不省となったという記録が残っているにも関わらず
カヤヰド沢の川面に責任を負うかのように座して
従卒らの亡骸にその身を護られるかのような形で
なぜか生存して発見救護されています

194名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 12:42:08.10ID:PZahEPMf0

第三露営地 検証 任意解散の件 

明治35年 1月25日 :  1902年

午後 夜
死者 139名 生存者 71名

かくして
25日の夜は再び露営するに決したが、この時、多くは凍死して
その数139名に達したるるにもかかわらず、生存せる71名は
なお隊列を乱さず整然として露営の態度を取り、しばらくは苦寒に堪えたるも
ただただ、これ死を待つのみにて、いかんともするあたわず

@青森聯隊遭難 「 雪中行軍 」  後藤伍長談


これにおいて、ある者は田代に引き返そうといい
また、あるものは田茂木野に向かおうとの意見があるが
むしろ各自任意もと進退を決定しようという事となり
倉石大尉の如きは独り奮然身を挺し田代の方向に進みしまま
たちどころにその影さえも見へず
水野中尉(子爵)においては、再びの道案内として真先に進みしが
間もなくして生きながら雪中に葬られし有様にて
見る間に続々凍死者を生ず

A青森聯隊遭難 「 雪中行軍 」  後藤伍長談


@の件は25日の夜は再び露営した事を伝え
Aの件は25日の夜任意解散が発生したと伝えている

@A、共に後藤伍長の談です
極寒の地より生還された後、記憶に混乱が生じたのでしょうか?
事故調査の際この任意解散談は国内の注目を集める事となり
生存者に聞き取りが行われています

伊藤中尉の言
山口大隊長が各兵士に自由行動を命じたと世間では言っているが
決してそういう命令は出していなかった
「陸奥の吹雪」より

小原・村松伍長の言
1月24日夜「 明払暁帰営の途に就く 」事を命じた時
「各人はおのおの道を求めて連隊本部に至り、この状況を報告せよ、」
と言われたという
:解釈的には一部兵卒が本隊とはぐれた場合の安全弁とも取れる訓示の可能性もある


補足として、田代に向かったという倉石大尉は第三露営地にて露営

195名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 13:11:56.84ID:PZahEPMf0

第三露営地 最後の露営地

明治35年 1月26日 :  1902年
午前0:00 過ぎ   

日付が変わった頃であろうか、本隊ではある動きが始まったとされている。
倉石・神成 両大尉、
伊藤中尉、鈴木少尉、今泉見習士官、佐藤特務曹長等以下十数名やや活気あり

倉石・神成 両大尉は
切々苦慮しきりに方向を考察し確認した結果答案を得るに至る
おそらく田茂木野は、この高地の右前方向にあり遠くても二里ほどの位置であろう
よりて、明け方を待って行進するに決せり

遭難始末より


1月26日 午前 1:00 頃

午前 1:00頃、人員を呼集して検ぜしに、約30名を得たり
山口少佐は昏倒たままであり止むお得ず兵卒若干を付して
カヤヰド沢を出発せり

生存者 71名のうち、やや元気な30名が深夜に第三露営地のカヤヰド沢を出発
大隊長山口少佐は強壮なる兵数名をして守らせている

他の生存した兵卒は疲労困憊の状況でカヤヰド沢で露営し
行軍開始より丸3日間を経て
4日目の朝を迎えようとしていた

196名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 19:17:26.47ID:PZahEPMf0

第三露営地  後藤房之助伍長出発

明治35年 1月26日 :  1902年
午前 明け方

後藤房之助伍長は
連日の疲労に加えて食糧の十分ならざりしため昏睡状態に至り
翌朝夜明けて目覚めれば、自分と共に眠りたるものは一人も見当らない
いかににせしやとまよいおりしが
その日はすなわち26日の朝であり
幸い天気も晴たる事なれば、立ちて四方を観望するに、
此処に二人、彼方に二人、或は十人一組となり、又は五人一団となり、
四方を眺めて方向を極めんとするもののごとくなりしなり
かくて、青森に向かう背進の途上
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長と遭遇したり 

検証
後藤房之助伍長は26日の夜明けにカヤイド沢を出発したとみられる
そして26日の深夜午前0:00過ぎにカヤイド沢を出発した神成大尉らと
奇跡的に出会っている

映画では後藤伍長と出会った神成大尉が
伍長に帰営を試み遭難を伝えるように下令するシーンがあるが
後藤伍長発見は翌日の 1月27日 午前 10:00である 

さて史実では
後藤伍長と神成大尉一行は出会って後1日さまよう事となる
その内容は以下のとおり

この日、降雪はなはなだしいいが風力・寒気は共に和やかになる
露営地に凹谷を降り進むこと1時間
神成大尉・鈴木少尉以下10数名は地形偵察のため
歩を伸ばして右折し高地に上る
倉石大尉は今泉見習士官と共に中野中尉以下の患者を救護し
一進一止、僅かに前進を続行せり
幸運なことに日も照り、雪も小休みとなるが
飢えと寒気の為め痛く痛く疲労せしをもって進退自由ならず
丈余の雪を掻き分け行くはこれも雪中を泳ぐに異ならず

そのうち、中ノ森という地に到達する
再びこの地にわれら露営することとなり
各幹部は厳然、寒気と戦いしも、夜に至りて疲労と寒さに血凍え
昏睡するに至たりしもの数名あり。

この日、後進せる( 青森の営舎 )への路は普通であれば
2時間あまりにて踏破できるのだが
一食もせずただ雪を噛りつつ進むだけで一日費やせり

第5連隊遭難始末より

本記事は神成大尉一行よりの聞き取りと推察する

197名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 19:56:07.16ID:PZahEPMf0

中ノ森露営地 
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長 + 後藤房之助伍長
露営をし翌朝1月27日を待つ

大隊長山口少佐は過去の検証より
第一露営地ですでに絶命・蘇生しその後行軍に参加し
計3回昏倒あるいは絶命しついにカヤイド沢に至る 
( 23日・24日・25日 )

カヤイド沢到着の後、大隊長再び昏倒
生き残りの強壮なる兵に護られているであろう大隊長は
田茂木野方面( 青森 )へは進出していないというのが正しい検証
であるはず

つまり大隊長は
神成大尉・鈴木少尉・及川伍長 + 後藤房之助伍長が到達した
中ノ森露営地には同行していないと云うのが常識的な見解ではあるのですが
なぜか遭難始末の記述では
大隊長は縦横無尽の行動力を示しています

これは
青森5連隊の本行軍での成果をたたえる意味と
当時の新聞社の激しい陸軍批判を牽制するため
陸軍聞き取りの遭難始末等の記録に多少の調整が加えられたと想像します


以下の記事がその調整された一件と想像できます

:27日時間不明、一名の伍長来たり
:告げていわく、田茂木野道は分明せりと
:即ち各兵を励まして行けども行けども田茂木野の路に達せず、
:ただ右に小山の見ゆるより、その地に至りしに
:ここにて先に別れし神成大尉・鈴木少尉以・今泉見習士官等ありければ
:互に談合の上
:二隊に分離し道を求めんとせるに際し
:大隊長の来るに逢ひければ各々蘇生したるを喜びて
:互に勇気百倍、二隊に別れ進行せり
:時は慥かならねど、午前六時より七時の間なるべしと思ふ


この聞き取り記事は正史で云うところの
「 二隊分離 」 神成大尉一行と倉石大尉一行

カヤイド沢に大隊長を残し27日の朝を待って
田茂木野方面( 青森 )への二隊分離の行軍を試みる
映画の別れのシーンはこの部分を描いています

198名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 20:33:03.79ID:PZahEPMf0

二隊分離 青森へ

明治35年 1月27日 :  1902年
午前 10:00
青森5連隊雪中行軍隊210名の遭難が確定します
最初の生存者後藤房之助伍長発見救助に至るという
当時としては稀にみる偉業は
この二隊分離という戦術にて担保されたと考えます


1月27日明朝の最終的な二隊分離に至るまで
神成大尉と倉石大尉はカヤイド沢より青森方面への帰路を考察
斥候等を派遣しながら帰路の裏付けを担保していたと想像できます
その内容は以下のとおり


1月27日午前7時30分頃、倉石大尉等は兵を集合させた
青森への帰営を確かなものとするため山腹をほふくし
賽の河原の南東部に達せんとするや
神成大尉の一団に会す

これにより相互協力し、共に青森への方向を偵察すれば
断崖は千じんの谷のようで踏破は不可能であった
事ここに至り打つ手は見いだせず事態は差し迫っていた
その時であった
空はいくらか晴れ渡り、洋々たる青森湾、皆の一望の下にあり
皆これをみて喜び帰路への疑念は払しょくされた

午前11時30頃 天候は曇り
吹雪と化しこれに於いて神成大尉は進路を左に進め
倉石大尉は右に進め
ついに再び合せず

遭難始末より


青森湾を一望した場面に
大隊長山口少佐が卒一名とともにおり皆が歓喜した
という記事があるのですが本スレでは除外します
史実では大隊長はカヤイド沢の川面に座し発見されているのですから


201名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/07(土) 14:02:40.36ID:oOhKMQp80

二隊分離 青森へ そして後藤房之助伍長救助

明治35年 1月27日 :  1902年
午前 10:00

二隊分離の理由は青森に続く尾根が二つ存在している件で
選択に迷い全滅を避けるための知恵だった
神成大尉の進路を左は実は田茂木野に通じる道だった

最後の命令

鈴木少尉は高所に登りて地形を見んと別れしまま帰り来たらず
間もなく、及川伍長も凍傷と空腹と
寒気のため倒れたるをもって、十分に介抱せるもその甲斐なく
いかんともする事あたわざりし
残念ながら戦友を捨てて行進を続ける事となる

その前夜、神成大尉は後藤伍長の身にしみじみと応へければ
今はとて大尉を捨てて一歩先へ雪中を
泳ぎ進むうち、捜索隊のために救ひ出されたり

第5連隊遭難始末より


明治44年6月8日の東奥日報では

大尉は最早起き上がる力もない
伍長が助け起こして同行しようとすると、大尉は声も微かに

「 もう自分は到底いかんから伍長は急ぎ田茂木野へ行き此状況を報告してくれ 」

といわれる

伍長は大尉を捨つるに忍びず、死なば諸共、是非にと同行を勧めた所、大尉は声を励まして

「 今両人共死んだなら誰が報告の任にあたると思ふか。区々たる私情に駆られずに一刻も早く行け 」

と一身の瀕死、眼中に存せざる大尉の意気に余儀なくされ
涙を呑んで前進を初めたが
さて、雪は腰を没し、両脚は凍互して棒の如く関節の役目をなさないながら
心ばかりあせっても少しもはかどらぬ

殆んど昏睡状態で立ちすくんでいる内に
三神救援隊に収容されたのである

177名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/03(火) 02:05:04.08ID:+zi1+b7l0

山口少佐は山中で絶命か…45歳死亡だが、写真見るに還暦を過ぎた爺さんに見えるよな。
いくら将兵に丁重に扱われていたとはいえ、こんな爺さんが若い兵士より過酷な山中で生存できたとは思えない。

福山雅治と同じ年齢なんだがな、その父親世代に見える。当時の45歳っていうのはそんな年齢なんだろうな

山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。
陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして師団は責任を逃れたのだろうか…


199名無しさん@お腹いっぱい。2015/02/06(金) 21:31:14.96ID:PZahEPMf0
>>177
:山口少佐の遺体を山中に遺棄していくことも出来ず、駒込川付近にて救助される。
:陸軍は、蘇生により回復したが、責任を負って自害したと言うことにして
:師団は責任を逃れたのだろうか…


八甲田雪中行軍のスレ参加は映画板を中心に7年目になりますが
以下は私の推論です

1月24日に絶命したであろう大隊長山口少佐の遺体は
動ける兵卒により交代で摩擦・蘇生・運搬され
1月25日カヤイド沢に運搬された

大隊長は死後もカヤイド沢の風雪を避けうる岩陰にて摩擦・蘇生を受けていた
この岩陰には大隊長を最後まで御守りする壮健な兵士と
青森への帰営を果たす兵士が露営し
帰営部隊は1月26日早朝より帰営を試みるが中ノ森に露営
1月27日早朝を待ち青森に二隊分離で進行

後に
二隊分離ののち青森方面に進出できなかった倉石大尉一行が
再度帰還カヤイド沢に露営しています


映画では大隊長は
1月27日に救援隊に救助され
「 全ての責任は私にあります 」と報告

しかし史実では後日
カヤイド沢の川面に座して生還
座した羅紗の外套は河原に凍りつき、救助者のナタにより切分けられ
カヤイド沢の斜面を布を利用したソリ様の担架で運搬され帰営しています

さて、沢の川面に座すという事は
摩擦・蘇生を続けた硬直していない山口少佐を救援隊の到着を待って
川面に運び出した
あるいはそういう記事を調整して後の陸軍史に残したと考えられます

山口少佐の周囲には少佐を温め護るべく数人の兵卒の亡骸があった
とも伝えられています、これは兵卒最後の職責でしょうか?
美談の創作でしょうか?


自害の件は映画のとおり
映画では自動拳銃が使用されていましたが
史実では山口少佐はリボルバーを所持
しかし凍傷で腫れ上がった指がトリーガガードに入るとは考えにくのが真実でしょう
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history2/1353253626/


25. 中川隆[-5726] koaQ7Jey 2018年2月03日 23:31:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

凍死、熱中症死の1.5倍 冬の寒さ 屋内でも要注意
東京新聞 2018年2月3日 夕刊


 冬は屋内の凍死にご用心−。熱中症の危険性は広く知られているが、低体温症による死亡(凍死)の方が、死者数は一・五倍にも上っている。二〇一〇年以降はほぼ毎年、千人以上が犠牲となっており、大半は高齢者。室内で低体温症に陥った例が多く、背景に孤立や貧困もあるとみられる。専門家は調査や対策の必要性を訴えている。


 一月末、東京都板橋区にある帝京大病院の高度救命救急センターに、意識のない八十代の女性が運び込まれた。体の深部の温度が二六度まで下がったショック状態。独居で認知症の症状があり、近所の人が自宅を訪ねると意識がもうろうとしていたため、救急搬送された。「低体温症に陥るお年寄りの典型例。似た状況の人が連日のように搬送されてくる」と、同病院の三宅康史教授(救急医学)は明かした。


 低体温症は、寒さで体の熱が奪われ、体の深部が三五度以下になって全身に障害が起きる症状。重症化すると凍死する場合がある。厚生労働省の人口動態統計によると、〇〇〜一六年の国内の凍死者は計約一万六千人で、熱中症の一・五倍に上る。


 山岳遭難など特殊な環境で起きると思われがちだが、屋内の発症例が非常に多い。日本救急医学会の四年前の調査では、全国の救急医療機関など九十一施設に低体温症で搬送された計七百五人のうち、屋内での発症は五百十七人と七割以上を占めた。


 患者の平均年齢は七二・九歳で、高血圧や糖尿病などの病歴のある人が目立つ。死者は百六十一人に達していた。北日本だけでなく、西日本でも多くの症例が報告されている。三宅さんは「背景には高齢化に加え、重症になるまで気付かれない孤立化や、貧困層の増大がある」と話す。


 首都大学東京の藤部文昭特任教授(気象学)によると、人口動態統計の数値の推移からもその傾向が読み取れるという。低温による凍死者数は、一九九〇年代から急増。低体温症に陥りやすい高齢者層の増加が要因の一つとみている。藤部特任教授は「凍死はこれまで熱中症ほど注目されず、全体像も未解明。実態把握と対策が必要」と指摘する。


<低体温症> 寒さなどで体熱が失われ、体の深部の温度が35度を下回ると、全身に障害が出てくる。35〜32度では血圧が上昇し震えが出る。32度以下では震えが止まり、意識障害や脈拍の低下などの症状が出て、放置すれば死亡の恐れがある。体温の調節機能が衰えた高齢者に起きやすく、死亡率が高い。


26. 中川隆[-5667] koaQ7Jey 2018年2月10日 16:42:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

雪上を移動するにはスキーが一番
https://rindow33kai.grupo.jp/blog/2074985

雪の上を移動するには、スキーが一番だろう。

 1902年1月、旧陸軍青森歩兵第5連隊が、悪天候の中、八甲田山中で雪中行軍を強行し凍死などにより約200名の死者が出た惨事は有名である。

 このことがきっかけで、ノルウェーの国王から日本にスキーが送られ、日本でのスキーが普及するきっかけとなった。

 この時代、既にノルウェーの軍隊では、雪上の移動手段としてスキーを活用していたという。

 他の道具より、体力を使わずスピーディーに移動できるからだ。

 スキー場の隅っこをスノーシューでちょこちょこやっている人を見かけることがある。何ともこっけいに思えてしまう。
 せっかくスキー場に来たなら、スキーを履いてほしい。

 バックカントリーで遭難騒ぎを起こすのは、ボーダーが多い。なぜならボードは、履いたままでは斜面を登ることはできないし、横への移動も難しいからだ。

 ルートを外れたと思っても、楽な方へどんどん下ってしまい、さらに迷い込んでしまう。

 その点、スキーは斜面を登ることも、横へ移動することもできる。是非、雪上の移動にはスキーを活用してほしいと思うこの頃である。


 ※冒頭の写真は、日本にスキー技術を伝えたれレルヒ少佐像。新潟県上越市金谷山。


27. 中川隆[-13586] koaQ7Jey 2018年11月12日 07:50:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20542] 報告

2802: 匿名さん
歩くのが好きな人は別だけど自分だったら車か自転車を利用するかな

2804: 匿名さん

自転車かぁ。盲点だった。
雪の時期はともかく、岩原から駅周辺までは意外に平坦な気もするし良いかも。


2805: 匿名さん

今は雪タイヤ付きロードバイクも販売されています。


2806: 匿名さん

自転車も飲酒はだめですよ。まあめったに検査なんてされないけど事故ったら問題になる。

あと真冬だと小川に落ちて死ぬ事故が多い。
飲んだ後、雪の中を歩いていて落ちて這い上がるまではいいが、また歩き出して凍死する。

もう何回かニュース見てる。
「助けてくれー」と叫んでても近所の人は喧嘩か酔っぱらいだと思って出てこない、それで翌日発見される。雪国ならではの事故。

あと春になって雪の下から身元不明の死体が発見されるってのもあったな。
単身で越して来てる人多いからね。
https://www.e-mansion.co.jp/bbs/thread/197545/

28. 中川隆[-12313] koaQ7Jey 2019年2月09日 06:50:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

玄関までわずか数十センチで凍死…北海道「ホワイトアウト」で視界奪われたか
[ 2019年1月20日 05:30 ]


 北海道地方が連日激しい風雪に見舞われる中、札幌市の北側約25キロに位置する当別町で、66歳男性が自宅玄関までわずか数十センチのところで倒れているのが見つかり死亡が確認された。北海道警が、17日午後10時25分ごろ同町の無職古市栄治さんが自宅玄関前で倒れているのを警察官が発見したと発表。死因は低体温症による凍死だった。

 現場付近は当時、吹雪で視界が遮られ、周囲が真っ白になる「ホワイトアウト」状態だったとみられる。古市さんは歩いて自宅に向かい、玄関前で倒れたとみられる。そばには玄関の鍵が落ちていた。古市さんは一人暮らしだった。

 道警札幌北署によると17日午後4時20分ごろ、古市さんから「車が雪山に突っ込んだ」と通報があった。「自力で脱出できる」と話していたが、その後、連絡が途絶えた。署員が捜索に出発。午後10時すぎ、自宅から約120メートルの路上で雪山に突っ込んだ車を発見した。自宅に向かったところ、玄関前で倒れている古市さんを発見した。

 札幌管区気象台によると当時の当別町の気温は不明だが、隣接する石狩市は氷点下11・2度まで下がっていた。積雪は約65センチだった。札幌市でも今季一番の冷え込みとなる氷点下12・3度を記録していた。

 ホワイトアウトは、暴風雪や降り積もった雪が強風により舞い上げられる地吹雪などによって起こる現象。視界が真っ白になり自分とそれ以外のものの位置関係が認識できなくなる。方向感覚がなくなり上下の感覚も鈍くなることで、どの方向に進めばいいのか判断することが非常に難しくなる。古市さんはホワイトアウトで視界を奪われ、雪山に突っ込んだ車を捨てて、徒歩で自宅に向かって歩きだしたとみられる。

 ○… ホワイトアウトに見舞われた際には、どう対応するべきなのか。事故の救出に当たった北海道・当別消防署は、一般論として今回のような場合には「携帯のGPS機能などをオンにした状態で、一酸化炭素中毒にならないように換気を行って車内で救助を待つ方法が良い」とした。自動車を運転している際にホワイトアウトに遭遇したときには「前の車のテールランプや道路境界を示す標識を目印にして、止まらずに走行をしてほしい」と話した。歩いている場合はどうだろうか。日本登山インストラクターズ協会は「吹雪が終わるまで動かないでほしい。一瞬でも視界が開けるときが必ずあるので、その間に自分のいる位置を把握して風の当たらない場所を探して逃げてほしい」とアドバイスした。


____


厳寒の札幌 玄関ドアとカギも凍る…「パパ開かない」 −12℃でトラブル続々 北海道
2/8(金) 13:40配信 北海道ニュースUHB


凍ってしまった玄関ドアとカギ=札幌市豊平区、2019年2月8日午前9時ごろ撮影


 強烈な寒気の影響で、午前9時41分に氷点下12.5℃を観測した札幌市。トラブルが続出しています。

 2月8日午前9時ごろ、札幌市豊平区平岸の築30年ほどの住宅で、6歳の子どもが「パパ開かない」と声をあげました。外出しようと準備をしていた父親(30代)が玄関へ行くと、結露した水が凍りつき、玄関のドアとカギが開けられない状態になっていました。

 父親は急きょ、ポータブルの電気式のファンヒーターを玄関付近に移動し温風をあて、ドライヤーも持ってきて鍵穴を温めること約5分。ようやく外へ出られる状態になりました。

 気が付くと、同じアパートの他の住民の部屋からも同様の声が聞こえたということです。

 8日の札幌市は午前0時すぎに氷点下10.1℃を観測してから気温は下がり続けていて、午前9時41分には氷点下12.5℃まで下がっていました。日中も気温があがらず、午後1時でも氷点下12℃と厳しい寒さが続いています。

 この男性が帰宅した時に、部屋に入ることができるのか…不安は募るばかりです。
.
UHB 北海道文化放送





▲△▽▼

北海道の歌登で氷点下30度 今季全国初
2/9(土) 3:44配信 tenki.jp

きょう(9日)未明、北海道宗谷地方の歌登で氷点下30度3分を観測し、今シーズン全国で初めて気温が氷点下30度を下回りました。
.

北海道で氷点下30度以下を観測

きょう(9日)も北海道の上空には強烈な寒気が流れ込んでいて、各地で冷え込みが強まっています。午前2時24分に、北海道宗谷地方の枝幸町歌登で氷点下30度3分を観測し、全国のアメダス観測地点で、今シーズン初めて氷点下30度を下回りました。


寒さの尺度で確認してみますと・・・

氷点下4度  水道管の凍結が始まる
氷点下6度  窓霜(水蒸気が窓の表面で凍る)が見られる
氷点下10度  ビールが凍る
氷点下14度  日本酒が凍る
氷点下15度  ダイヤモンドダストが見え始める(晴天・風が弱いなどの条件が揃えば)
氷点下20度  まつ毛や眉毛に霜がついて真っ白になる
氷点下30度  凍裂(大木が凍って裂ける現象)が起こる


北海道は、このあと日中も広く気温が氷点下のままで、全道的に真冬日になる見込みです。
.
日本気象協会 本社 日直主任

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