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自由になるというのは孤立すること
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投稿者 中川隆 日時 2018 年 6 月 24 日 07:59:20: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 社会でうまく生きられずに常に問題を起こしている人は本音を隠せない純粋な人 投稿者 中川隆 日時 2017 年 12 月 12 日 10:14:25)


自由になるというのは孤立すること

「自由」の本当の正体は、世間に背を向けた風俗嬢が知っている?


私は一度会った女性とは二度と会わないのが基本なのだが、もう一度会ってみたいと不意に思う風俗嬢がふたりいる。

ひとりは肩から背中から太腿まで大きな鯉の絵を入れた風俗嬢で、見かけはごく普通の女性に見えたのだが、服を脱ぐとまったく異質な世界を背負っていた。

背中一面に和彫りの刺青を入れている女性には、私は本当に感銘を受けて「和彫りというのはこんなにすごいのか」と驚嘆したのだった。

彼女はその背負った刺青に誇りを持っており、そのインパクトに私は感動した。

彼女は惚れた男に一途で「愛することに命を賭けていた」と言ったのだが、そのために表社会と決別する紋章を背負ったのだった。女性が大きな刺青を背中に入れると、もう普通の仕事などできない。

しかし、彼女はあえて世間から疎外される道を選んだ。


もうひとりの女性は日本全国の風俗街を転々として生きている流れ者の風俗嬢だ。あちこちふらふらしながら生きるのは普通は男が好む生き方で、女性がそんな生き方をするのは珍しい部類に入る。

しかし、「一箇所に居着きたくない、誰かとしがらみを作りたくない、顔なじみができると断ち切りたい」と思う風俗嬢がいて、こうした女性が全国の風俗街を転々として生きていた。

「私は根なし草なんです」と彼女は言った。やはり彼女も人間関係を断ち切り、表社会に背を向け、アンダーグラウンドの闇を風のように吹かれながら生きていた。

アンダーグラウンドに生きる人間は、みんなそういう傾向がある。私だけではないし、彼女たちだけではない。みんな、孤独と疎外の狭間で生きている。

それが心地良いと思う人間がアンダーグラウンドにいる。

「もしかしたら、アンダーグラウンドにあるのは無尽蔵の自由なのではないか」

時々、私はそのように心に思うことがある。地雷専門店のデリヘル「デッドボール」に所属していたアボットさんに会って話を聞いたことがあるが、彼女も「私は天涯孤独」「私が何をしようと私の自由じゃないですか」と言っていた。

「私の自由」という言葉は、何気なく彼女の口から出てすっと消えてしまったが、私は「自由」という言葉をしみじみと噛みしめる。

アンダーグラウンドをうろうろしている人間というのは、早い話が表社会とはうまく折り合いがつけられないことが多い。世間といちいち衝突する。

そのため、気がつけば世間から爪弾きにされて追い出された人間であると言える。いや、自分からふらふらと外れていった人間であると言うべきか。

大きな刺青を背負った風俗嬢も、全国を転々とする根なし草の風俗嬢も、アボットさんも、さらに言えばそもそも私自身もそんな面がある。

ふらふらと、世間から外れた。そして、明日がどっちなのか見えないまま、とりあえず前を歩いている。

孤立は別の側面で見ると「限りなく自由」な状態

「他人の言うことを聞かない」「他人と協調しない」「他人の命令を嘲笑う」「他人としばしば衝突する」「自分の興味のあることしかしない」という性向が強い人間はどこにもいる。

「このようにしなさい」と言われれば逆にそのようにしたくなくなる人間もいる。

多くの人はこうした性向のままでいると「ちょっとマズイ」と思う。衝突ばかりしていると不利益をこうむると考えて、自ら矯正する。

しかし、社会に出てもこの性向のまま突き進む人たちも世の中にはいる。あまりにその身勝手な度合いが強いと、遅かれ早かれ表社会から弾き飛ばされる。

私が今までアンダーグラウンドで知り合った男たち女たちは、そうした傾向が強くあった人が多かったと思う。一筋縄でいかない性格と言うのだろうか。

だから、彼らは表社会で孤立して自ら転々としたり、アンダーグラウンドに降りてきたりして生きるようになる。

客観的に見ると、彼らは誰からも相手にされなくなって孤立しているのだが、この孤立は別の側面で見ると実は「限りなく自由である」ということでもある。

そうだった。私が惹かれた女性ふたりは疎外されることによって「自由」になったのだ。

束縛された社会の中で「自由になりたい」と切望する人は多いと思うが、自由になるというのは孤立することなのだ。孤立と自由は表裏一体だ。

私がアンダーグラウンドを心地よいと思ったのは、もともと孤独が性に合っていて疎外が苦にならなかったという面が強かったのかもしれない。

私は孤独であるがゆえに自由であったと言える。今もそうした孤独を好む性質はまったく変わらないので、皮肉なことにそれが自由をもたらしてくれている。

彼女たちはどうしているだろう。もちろん「自由」のままだろう。どのみち、もう表社会には戻れないのだから。彼女たちには彼女たちの生き方がある。私は理解している。強烈な孤独の中で飄々と生きている女性たちを私は愛している。
https://blackasia.net/?p=7826

 

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コメント
 
1. 中川隆[-13563] koaQ7Jey 2018年6月25日 13:24:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16159]


2018.06.08
ウチダ先生に質問しました。日本人にとって「自由」とはなんですか?


自由の(再)定義
文=内田 樹(哲学者、武道家)
https://diamond.jp/articles/-/171664

外国から到来した借り物の言葉

「自由」の再定義ですか。むずかしいですねえ。ずいぶん哲学的な質問だなあ。

「自由」という語がlibertyやfreedomの訳語に採択されたのは明治以降ですね。それまでも仏教用語としてはあったようですけれど、「やまと言葉」には存在しない言葉だと思います。「自由」は手元の古語辞典にも日本語源辞典にもありませんし、僕自身の読書体験を思い起こしても、古典文学で「自由」なんて文字列を見た記憶がありません。日本人の生活文化にはまったく根づかない「借り物の言葉」だったんだろうと思います。

 そして、明治に近代日本の語彙に登録されてから150年経ったけれど、未だにこなれた日本語になっていない。単語としては存在しているけれど、意味を受肉していない。

 現に、「自由民主党」という政党名について「この政党のどこが自由で、どこが民主なのか」というタイプの問いを誰も口にしないでしょう。あの党名に自民党員たちも、野党も特段の違和感を感じていない。「自由」とか「民主」といった語が日本語として受肉していて、それなりの「意味の身体」を持っていたら、「そぐわない」とか「ぴったりだ」とかいう感想を口にする人が党の内外に出て来て当然だと思うけれど、そんな人、どこにもいないじゃないですか。

「自由」とは何かなんて今ごろ言っているのは『Six』くらいですよ(笑)。日本語じゃないんだから、どう考えたって答えなんか出てきようがないです。

 ですから、改めて「自由とは何か?」と問われたら、外国から到来した借り物の言葉で、日本人はその語に今もリアリティを感じることができずにいる、というのが答えになるんじゃないですか。

 ヨーロッパの場合だったら、その語が出現してくる歴史的な必然性がある。古代ギリシャには奴隷と自由民という身分制があったし、中世には自由都市があり、ギルドや組合というものがあった。いずれもローマ教皇や神聖ローマ皇帝や国王や地方領主の支配を押し戻して、裁判権や免税権などの特権を確保するための組織です。さまざまなレベルでの政治権力からの干渉に対峙していた人たちにとって、「自由」というのは具体的で、生活実感にしっかりと根ざした、持ち重りのする言葉だったと思います。

 日本でも、例外的なケースですけれど、博多や堺が自治都市であったし、加賀の国が100年間一向一揆状態が続いたことがありました。政治権力の干渉を退けて自治を行ったという点ではヨーロッパ的な「自由」を実践した事例に近いのかも知れない。でも、あくまで例外的事例にとどまり、フランス革命のように、「市民的自由の獲得」が国民的な目標として自覚的に掲げられて、歴史を通じて全体化していったわけじゃない。

 だから、「日本には自由はない」と言っていいと思います。勘違いして欲しくないんですけれど、日本には「その代わりになるもの」がある。


私は自由人です。凡人ちゃいます

 日本人にとって、気が楽になるとか、心持ちが落ち着くとか、肩の荷が下りた気がするとかいうのは「自由を達成した」からではないんです。すべての外的な干渉を退けて、自分の思いの通りのことを実践するということを日本人は本当は望んでいない。だって、そんなの大変そうだから。それよりは、ほっとしたい、気楽でいたい。

 集団の中にいると、さまざまな相互に矛盾したり対立したりする要請を調整しなければならないということがあります。それがうまく折り合って、「落としどころ」に話が落ち着いた時に、日本人は解放感と達成感を覚えます。

 理不尽な要求をされても、身勝手なことを言われても、それでも、あちこち走り回り、あちらの顔も立て、こちらの言い分も通して……というような困難な調整を果たして、もろもろの干渉が相互に相殺されて、一種の「ニュートラル」状態を達成した時に、日本人はなぜか深い満足感を感じる。これはどう考えても、ヨーロッパ的な「自由」とは似ても似つかぬものです。

 ヨーロッパの街でびっくりさせられるのは夏の終りの少し肌寒い日に「もう」毛皮のコートを着ている人と、「まだ」半袖半ズボンの人が並んで歩いている風景を見ることです。彼らは自分の身体感覚に従って何を着るか決めている。他人が何を着ようと気にしない。その「周りを気にしない」様子を見ると、「ああ、これが自由というものなんだな。日本人にはないなあ」と思います。

 もちろん、日本にも「周りを気にしない様子」をする人はいますけれど、そういう人は「周りを気にしないオレってすごい」「オレは凡人じゃないんだぜ」ということをうるさくアピールしてくる。自由であるべき時にすでに肩肘張っている。それは周りが半袖でも、「オレは寒いから」と毛皮を着ている人の「自由」とは質が違います。

 だから、日本人はヨーロッパ的な意味での「自由」を求めていないんじゃないかと思います。だって、日本社会で「私は自由に生きています」とアピールする人は総じて緊張しているから。でも、おでこに「私は自由人です。凡人ちゃいます」というシールを貼って、こまめに周りの承認を求めようとするなんて、野暮ですよ。

 ユーラシア大陸の辺境に位置する日本列島には、外から次々と新しい集団が到来し、新しい文物が流入しました。そして、そのつど対立せず、排除せず、折り合いをつけてきた。「そちらにはそちらのお立場が、こちらにはこちらのメンツが。どうです、一つナカとって……」というのが日本における問題解決のもっとも成熟したマナーでした。

 それは正解を得るための方法ではないのです。いざこざを避けるための作法です。原理を貫徹する、信教や思想に殉じるということを日本人はあまり好まない。それよりは非妥協的な対立を折り合わせる調整能力が尊ばれる。


「三方一両損」の生存戦略

 大岡裁きの「三方一両損」なんていうソリューションはヨーロッパ人はまず受け付けてくれないでしょう。なぜきちっと決着をつけないのか、と。サンデル教授の「ハーバード白熱教室」ってありましたけど、日本人だったら、「さあ、正解はどっちだ」と切り立てられたら、「まあ、そう言わずに、どうですお茶でも一杯」というかたちで「白熱しない」方向に誘い込もうとするんじゃないでしょうか。

 ハリウッド映画を見ていると、組織内でさまざまな利害や立場が衝突してたいへん険悪になるという場面によくお目にかかります。でも、あれこれの言い分にすべて耳を傾けて、全員が納得するような「あっと驚く落としどころ」を提案する上司というのは、まず見ることがありません。激烈なディベートのあとに、誰かの意見が「正しい」ということになって、意見が通らなかった者は憤然と席を蹴って会議室を出てゆく。

 欧米風というのは、自分のやりたいことを旗幟鮮明に掲げて、そのアジェンダに賛成する人間を登用し、反対する人間は排除するというシンプルなものです。その方が「話が早い」と人々は信じている。

 でも、日本人はちょっと違う。「いや〜、悪いねえ。どう、今回はちょっと泣いてくれない? いや、悪いようにはしないよ。次には必ず埋め合わせするから」みたいなやりとりのことを「仕事」だと称している。欧米のビジネスマンだったら、「そのどこが仕事なんだよ」と怒り出すでしょうね。

 でもそれは、しようがないと思うんです。「相容れない立場をなんとか折り合わせる能力」こそが列島住民が生き延びるために優先的に開発してきた資質なんですから。列島住民たちはそういう生存戦略で2000年くらいやってきたわけで、今さら変えろといわれても無理ですよ。

 ですから、「最近、自由がなくなってきたと感じる」という編集者の声があったそうですけれど、僕はそれは違うと思います。自由なんか前からなかったんだから。

 僕が学生だった時代、60年代末から70年代初め、大学はほとんど無法地帯だったわけですけれども、「無法」ではあったけれど、「自由」ではなかった。だって、どういうふうに「無法」にふるまうかについて定型があって、それに従わないと処罰されたから。

 それは校則が煩わしいと言って反抗する高校生たちの反抗の仕方が定型的であるのと同じです。「型にはまりたくない」と言う少年少女たちが定型的な服装をして、定型的な言葉遣いをして「定型に反抗する」。それのどこに「自由」があるんだろうと思います。

 でも、僕はそれが「悪い」と言ってるわけじゃないんですよ。そういう定型的な生き方をする人たちが求めているものは「自由」ではないと申し上げているだけです。たぶん彼らが求めているのは、ある種の「調和」なんだと思います。「調和」と「自由」とはまったく別物です。

 そして、日本人は「調和」のうちに安らぐことを、ヨーロッパ人が「自由」のうちに安らぐことを求めるのと同じくらい切実に求めているのであって、それはそれで一つの「種族の文化」だと思っているのです。


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