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ブッシュ元大統領:天国では妻・バーバラに一番に会いたい」 紡いだ愛の物語 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2018 年 12 月 04 日 20:28:29: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 


 ブッシュ元大統領:天国では 妻・バーバラに一番に会いたい」

 逝去したブッシュ氏がバーバラ夫人と 紡いだ愛の物語

    ブッシュ氏の政治経歴とは ?

(news.yahoo.co.jp:2018年12/2(日) 8:36より抜粋・転載)

飯塚真紀子 | 在米ジャーナリスト:

2012年、ジョージ・H・W・ブッシュ元大統領は孫娘のジェナに、こう聞かれた。

「天に召されたら、天国では誰に一番に会いたい?」

 ブッシュ元大統領はこう答えた。

「バーバラが私より先に逝ってしまったら、彼女に一番に会いたいな」

 11月30日夜、94歳の命を閉じたジョージ・H・W・ブッシュ元大統領は、天国で、今、8ヶ月前に先立ったバーバラと手を取り合っていることだろう。

◆話が尽きなかった初デート

 バーバラとジョージ。

 2人の愛の物語は、1941年、クリスマスのダンスパーティーが行われた夜に遡る。時に、バーバラ16歳、ジョージ17歳。ジョージは当時“ポピー・ブッシュ”というニックネームで呼ばれる、凛々しい面立ちの青年だった。

 その夜、共通の友人の紹介で出会った2人は一緒にダンスを踊った。音楽がワルツに変わり、おしゃべりを始めた2人。ジョージは「次の夜は何をするの?」ときいたが、バーバラには残念ながら別のダンスパーティーの予定が入っていた。

 しかし、2人は出会ったことが嬉しかったようだ。バーバラは母親に「最高に素敵で、最高にハンサムな青年と出会ったわ」と出会った感激を伝え、ジョージも母親に「とても素晴らしい女性と出会ったよ」と話している。

 そして、初デート。2人は話が尽きることがなかった。

「ジョージから“あの夜は喋ったね。あれからずっと喋り続けているね”と言われて、何年もからかわれ続けたのよ」と後にバーバラは振り返っている。

 その後も、2人は文通を続け、春休みにはダブル・デートをして、映画「市民ケーン」を観た。

◆結婚までヴァージンを守る

 ジョージがプロムに誘ったのは、もちろんバーバラだった。プロムの夜、彼女を寮まで送ったジョージは、別れ際、頬にキスをした。舞い上がったバーバラは、浮き足立って部屋に戻り、ルームメイトを一晩中眠らせることなく話し続けた。

「ポピーが地球上で一番素敵だわ !」

 ジョージも、母親にこんな手紙を書き送ったという。

「バーバラとは、結婚までヴァージンを守ることを含めて価値観が合って、共通点が多いんだよ」

 1942年、海軍に入隊し、軍隊の訓練に赴くことになったジョージは、旅立ちを前に、バーバラに2つの贈り物をした。一つは時計、そしてもう一つはファースト・キスだった。

 戦争が始まり、戦地に赴いたジョージ。彼を支えたのはバーバラからの手紙だった。常に、バーバラをそばに感じていたかったのだろう。ジョージは3つの戦闘機に、それぞれ、バーバラ、バーバラII、バーバラIIIと名付けている。

 1944年、2人は婚約するが、同年、父島近海で、ジョージが乗っていた戦闘機が撃ち落とされる。9人の乗員中、サヴァイヴし、アメリカに帰還することができたのはジョージだけだった。

◆試練で深まった2人の絆

 1945年、戦争から戻って来て間もなく、ジョージはバーバラと結婚。2人はハッピーな新婚生活を送った。

「結婚生活は期待していた以上だ。バーバラは素晴らしいワイフだよ」とジョージはシスターに書き送っている。

戦争から帰還後間もなく結婚したバーバラとジョージ。時にバーバラ20歳、ジョージ21歳。www.dailymail.co.ukより

 1946年、長男ジョージ・W・ブッシュが誕生。ジョージはテキサス州に引っ越し、オイル・ビジネスを始めた。しかし、3人の暮らしは順風満帆とは言えなかった。
借りていたデュプレックス(二世帯用住宅)では、隣に住んでいる売春婦の母娘と風呂を共同で使わなければならなかった。
バーバラは流産もした。2人は長男ジョージの存在を励みにして頑張り、やがて、風呂つきのアパートに引っ越すことができた。

 しかし、その後も、2人は試練に襲われる。1949年、バーバラの母親が交通事故死し、その後誕生した第2子のロビンが白血病に冒されたからだ。
バーバラは白髪が増えるほど看護に身をやつしたが、1953年、ロビンは天に旅立ってしまった。2人はロビンの亡骸を研究機関に寄贈した。

 ロビンの死は、2人の絆を深めた。ジョージの仕事への情熱も高まった。ロビンの死から、人生は予測できない、脆いものであることを学んだからだ。

 前に進もう! 突き進もう! ジョージはそう決意した。

 ジョージは、やがて、テキサス州の政治に関わり始め、同州の議員、共和党全国委員会委員長、CIA長官を経て、レーガン政権下副大統領に任命され、1989年には第41代大統領となる。
しかし、その決意は大統領になってからも揺らぐことはなかった。ジョージの執務室のデスクの引き出しにそっと置かれているロビンの写真が、ジョージをいつも見守っていた。

◆笑わせてくれたから

 突き進むジョージを“セイント(聖人)”と呼び、献身的に支えて来たのがバーバラだった。ジョージの最大のファンだったバーバラは、選挙の時は有権者たちに手作りのスパゲティをふるまうこともあった。

 しっかりもののバーバラはジョージの目に、時に、厳しい母親のようにも映った。実際、バーバラは、家族からエンフォーサー(監視役)と呼ばれていた。例えば、バーバラがテーブルで本の執筆をしていた時、ランニングから戻って来たばかりの息子ジョージ(当時、大統領だった)がお行儀の悪い姿を見せたので、彼女は強く命令したことがあった。

「ジョージ、足をテーブルの上から降ろしなさい!」

 その様子を見て、父ジョージはこう言った。

「ちょっと待ってよ、彼はアメリカの大統領だよ」

 笑いを誘うそんな出来事はよく起きていたという。

 笑わせてくれたから。

 バーバラは、1990年、ウィルズリー大学の卒業式で挨拶をした時、ジョージとの結婚を決意した理由についてそう回顧している。笑いは、結婚してからも続いた。

「私たちは時々涙が出るほど笑うのよ。でも、一緒に笑ってきたことで絆が強くなって行ったの」

 天国で真っ先にバーバラと再会したジョージは、きっと今、バーバラを笑わせていることだろう。

(参考資料)

ジョージ・H・W・ブッシュ氏の政治経歴

(ウイキペディアより抜粋・転載)

◆米中連絡事務所所長時代に天安門にて、1975年

1964年にブッシュは、テキサスの共和党員ジョン・タワー上院議員を含む南部の政治家のほとんどが反対した公民権法に賛成した民主党の上院議員ラルフ・ヤーボローに対抗して、上院議員選に出馬し、政治家に乗り出した。

ヤーボローがブッシュを「ちょうど彼らがニューヨーク証券取引所の席を買ったように」上院議員の席を買おうとする「渡り政治屋」であると批判したことに対し、ブッシュはヤーボローを「極論者」および「左翼扇動政治家」と呼んで対抗したが、ブッシュは1964年の民主党の地滑り勝利により敗北を喫した。

ブッシュは1966年と1968年の終わりにテキサスの第7区から下院議員に選任された。彼はその後1970年に、民主党の予備選挙でヤーボローを破ったロイド・ベンツェンに、二度目の上院議員選挙で敗れた。

◆CIA長官

ブッシュは1970年代を通して、リチャード・ニクソンおよびジェラルド・フォードの2人の共和党の大統領の下で、共和党全国委員会委員長、アメリカ国連大使、中華人民共和国への特命全権公使(米中連絡事務所所長)、危機委員会評議員などの要職を歴任した。

また、1年間と短い期間ではあったが、CIA長官(1976年1月30日 – 1977年1月20日)を務め、初の中華人民共和国への特命全権公使の直後であったため驚きを持って受け取られた。

◆副大統領(1981年 - 1989年)

副大統領を務めたロナルド・レーガン政権の閣僚とともに、1981年2月4日

1980年にブッシュは、共和党の大統領指名を争う予備選に出馬する。そこでブッシュは、学界では批判の多いサプライサイド経済学に基づくレーガンの経済政策を「ブードゥー(呪術)経済学」と批判したものの、結局は指名を得ることに失敗してしまう。

共和党大会直前に、ロナルド・レーガンに副大統領候補として指名され、1981年に副大統領に就任する。ブッシュはレーガンと予備選挙の時こそ対立したものの、副大統領としてはレーガンに忠実に仕えた。

レーガンも銃撃事件で病院に担ぎ込まれた際にブッシュが周囲より大統領職権の臨時代行を勧められるも断ったことをきっかけに、ブッシュの謙虚な人格を信頼するようになった。

ブッシュは、元CIA長官や元危機委員会評議員を務めていたように、外交・安全保障に並々ならぬ関心をもった副大統領であり、後に敵対することになるサッダーム・フセイン大統領のイラクとの関係強化の決定にも関わっている[2]。結果として2期8年間をレーガン政権の副大統領として勤めた。

◆1988年の大統領選挙

2期8年にわたりレーガン政権で副大統領を務めた後、満を持して出馬した1988年の大統領選では、共和党選ではボブ・ドールやドナルド・ラムズフェルドなどを破って選出された。本選では、マサチューセッツ州知事・マイケル・デュカキスに地滑り的な大勝をおさめた。

現職の副大統領としてはマーティン・ヴァンビューレン以来144年ぶり4人目、2期目を務めている現職の副大統領としては実にジョン・アダムズ以来192年ぶり2人目の大統領当選者で、「副大統領は長く務めるほど大統領選が不利になる」というジンクスを覆した。

大統領職・パナマ侵攻・大統領就任式(1989年)

ゴルバチョフとともに(1989年)

湾岸戦争勝利パレード時のブッシュ(1991年)

北米自由貿易協定調印(1992年)

◆ロンドンサミット(1991年)

1989年1月、第41代大統領に就任した父ブッシュが最初に取り組んだのは国内における麻薬の浄化であった。彼はその一環として中南米で麻薬交易の中継となっているパナマのマヌエル・ノリエガ政権に対する侵攻を決意する(パナマ侵攻)。

12月に、2万4千人のアメリカ軍の侵攻によりノリエガは逃亡するが、翌1990年1月に逮捕され、アメリカ国内で40年の禁固刑を受けた。

◆冷戦終結

1989年12月3日、地中海におけるマルタ会談では、ソビエト連邦のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長と会談し、冷戦の終結を宣言した。これを標語的に「ヤルタからマルタへ("From Yalta to Malta")」という。

この会談には、ソ連側からはエドゥアルド・シェワルナゼ外務大臣、アメリカ側からはジェイムズ・ベイカー国務長官及びブレント・スコウクロフト国家安全保障問題担当大統領補佐官などが同席している。

ブレント・スコウクロフトをはじめとするアメリカ政権内では当初からマルタ会談は「時期尚早」として、ソ連のスタンドプレーを許す結果になるとして反対していたが、フランスのフランソワ・ミッテラン大統領、イギリスのマーガレット・ヒルダ・サッチャー首相をはじめとするヨーロッパ首脳、及びアメリカ合衆国議会はゴルバチョフとの対談を説得し実現した。

◆湾岸戦争

マルタ会談から8ヶ月後、1990年8月2日にサッダーム・フセイン率いるイラク軍が隣国クウェートへ突如侵攻すると、国際連合は史上初の武力行使容認決議を可決、拒否権で停滞してきた安保理では歴史的なことであり、これを父ブッシュは新世界秩序と呼んだ。

アメリカ軍を主とする多国籍軍はクウェートからイラク軍を撃退し、サウジアラビアの防衛を保証した(湾岸戦争)。ただし、イラクのサッダーム・フセイン政権の打倒までは行わず、あくまで制裁戦争であった。

1991年1月17日の多国籍軍によるイラク空爆により、湾岸戦争は本格化した。湾岸戦争は「ハイテク戦争」と呼ばれ、軍事行動の成功直後、父ブッシュの支持率は当時歴代最高の89%に急上昇した。

 

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