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  大河ドラマ:「麒麟がくる」で“怪演”…最後に毒殺されたイケメン俳優は誰 ?
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投稿者 青木吉太郎 日時 2020 年 1 月 28 日 15:53:53: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

  大河ドラマ:「麒麟がくる」で“怪演”…最後に毒殺されたイケメン俳優は誰 ?

   長谷川博己・矢野聖人・明智光秀のプロフィールとは ?

(Yahoo!ニュース:2020年1/26(日) 20:50より抜粋・転載)

◆NHK大河ドラマ・「麒麟がくる」の第2話で注目 !

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第2話が26日に放送された。第2話では、美濃の国に戻った明智光秀(長谷川博己:はせがわ・ひろき)が合戦の中で「武士の誇りとは何か」を自問自答し、葛藤する様子が描かれている。

美濃に攻め入った織田信秀(高橋克典)のおよそ2万の大軍の前に劣勢になるも、美濃の領主・斎藤道三(本木雅弘)が相手を出し抜いて軍勢わずか4000人ながら一気に形勢逆転し、信秀を敗走に追いやった。

さらに斎藤道三は、美濃の守護大名であり、実の娘・帰蝶(川口春奈)の婿である、土岐頼純が信秀と結託して、今回の騒乱を企てたことを突き止めると、頼純を城に呼び出して毒殺した。

政治のためなら、自分の娘婿すら殺してしまう、斎藤道三の冷酷さが、印象的に描かれ、不穏な空気のまま、物語は第3話へと続く。

 この最後のシーンで登場した、土岐頼純の鬼気迫る台詞回しと、インパクトにネットは騒然としている。この土岐頼純を演じたのが、俳優・矢野聖人(やの・まさと)だ。

2010年に、演出家・蜷川幸雄氏の「身毒丸」主演オーディションで、グランプリに輝くと、蜷川氏の演出する舞台に、多数出演するなど、演技力を磨いてきた。

テレビドラマ「リーガル・ハイ」や「シャーロック」など、話題作への出演も相次ぎ、映画「HiGH&LOWシリーズ」など、人気作品でも、存在感を発揮している。

 矢野聖人について、制作統括の落合将氏は、「帰蝶の夫なので、若い設定で、20代から30代くらいの役者さんにやっていただくしかなかった。そこで蜷川さんと慣れている、矢野聖人というのが出てきた」と配役の意図を説明した。

良家出身らしくしたたかに、しかし、野心に溢れた、土岐頼純の激情を表現した、矢野聖人の演技に「演劇的な芝居が、今回のあのシーンには、すごく合っていた。頑張ってくれたと思います」と太鼓判を押していた。

 矢野聖人は、22日に自身のインスタグラムで、「念願の大河ドラマデビュー致します!!」と喜びを報告していた。大河ドラマで“怪演“を見せた、話題のイケメン俳優に、注目が集まる。

(参考資料)

○長谷川博己とは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

長谷川 博己(はせがわ・ひろき、1977年3月7日生まれ、42歳 )は、日本の男性俳優。愛称は「ハセヒロ」[2]。東京都出身。ヒラタオフィス所属。

◆来歴

中央大学文学部卒業。大学在学中はマガジンハウスでアルバイトをしていた。2001年、文学座附属演劇研究所に入所(第41期生)。

2002年、TPT『BENT』で初舞台を踏む。2004年4月、研修科を終了し準座員として入座。同年、文学座支持会新人賞(座内賞)受賞。2006年4月、準座員から座員に昇格。同年12月22日付で退座[3]。

2007年、芸能事務所フォスターに移籍。2010年、ヒラタオフィスに移籍。

2010年NHKドラマ『セカンドバージン』に出演[2]。2011年、テレビ東京『鈴木先生』で民放テレビドラマ初主演[2]。

同年、日本テレビ『家政婦のミタ』では優柔不断で若年なダメな父親役を演じる。

2013年、大河ドラマ『八重の桜』では、主人公山本八重の最初の夫川崎尚之助役を演じる。

2014年、TBSとWOWOWの共同制作で放送された『MOZU』で悪役、東和夫役を演じる。

2015年1月19日からフジテレビ系の「月9」枠で放送された『デート〜恋とはどんなものかしら〜』でオタク気質の高等遊民役を演じる。

2016年3月5日公開の『セーラー服と機関銃 -卒業-』で月永役を演じる。

2016年7月29日公開のゴジラシリーズ第29作『シン・ゴジラ』で、内閣官房副長官、矢口蘭堂役で主演。

2017年4月16日からTBS系「日曜劇場」枠で放送された『小さな巨人』で、香坂真一郎役で主演。

2018年度後期放送のNHK連続テレビ小説『まんぷく』で、主人公の夫・立花萬平役(安藤百福がモデル)を演じる[4]。

2020年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、明智光秀役で主演[5]。

◆家族

父は武蔵野美術大学名誉教授で建築評論家の長谷川堯[6]。

○矢野聖人とは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

矢野 聖人(やの・まさと、1991年12月16日生まれ、28歳)は日本の俳優である。本名は三浦 聖人(みうら まさと)。東京都東久留米市出身。ホリプロ所属。身長174cm[1]。

◆人物・来歴:

高校在学中から雑誌の読者モデルとして活動。2008年頃、ジャニーズ事務所に本名の三浦聖人名義で所属していたが、目立った活動は無かった[2]。高校卒業後は飲食店でアルバイトをしていた。

2010年、ホリプロ創業50周年記念事業、蜷川幸雄演出の舞台「身毒丸」主演オーディションでグランプリを受賞。

2010年7月期のテレビドラマ『GOLD』で俳優デビュー。

○明智光秀とは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

明智光秀(あけち みつひで、生年未詳 - 1582年7月2日〈天正10年6月13日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。

戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖(現・京都府京都市伏見区小栗栖)において落ち武者狩りで殺害されたとも[10]、致命傷を受けて自害したともされる[11]。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。

光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう[注釈 9]。妻は妻木煕子。その間の子には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。

領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽『絵本太功記』や歌舞伎『時桔梗出世請状』をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。

◆生涯・織田家仕官以前

清和源氏の土岐氏支流[注釈 10]である明智氏に生まれる。父は江戸時代の諸系図などでは明智光綱、明智光国、明智光隆、明智頼明など諸説がある。また、父親の名前も伝わらない低い身分の土岐支流とも言われている[13]。

生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず、不詳である[1]。―以下省略―

◆両属から織田家直臣へ

その後、義昭と信長の両属の家臣となり、永禄11年9月26日(1568年10月16日[注釈 1])の義昭の上洛に加わる。永禄12年1月5日(1569年1月21日)、三好三人衆が義昭宿所の本圀寺を急襲した(本圀寺の変)。防戦する義昭側に光秀もおり、『信長公記』への初登場となる。

同年4月頃から木下秀吉(後に羽柴へ改姓)、丹羽長秀、中川重政と共に織田信長支配下の京都と周辺の政務に当たり、事実上の京都奉行の職務を行う[39]。同年10月、信長と義昭が意見の食い違いで衝突して信長が突如として岐阜に戻ってしまう。

永禄13年(1570年)正月に信長は義昭の権限を規制する殿中御掟を通告するが、宛先は光秀と朝山日乗で、義昭は承諾の黒印を袖に押し信長へ返している。同日、信長名で「禁裏と将軍御用と天下静謐のために信長が上洛するので、共に礼を尽くすため上洛せよ」との触れが全国の大名に出される。続いて同年3月1日(1570年4月6日[注釈 1])、信長は将軍から離れた立場で正式に昇殿し、朝廷より天下静謐執行権を与えられる[40]。

元亀元年4月28日(1570年6月1日[注釈 1])、光秀は金ヶ崎の戦いで信長が浅井長政の裏切りで危機に陥り撤退する際に池田勝正隊3,000人を主力に、秀吉と共に殿(しんがり)を務めて防戦に成功する[注釈 18]。同年4月30日(1570年6月3日[注釈 1])には丹羽長秀と共に若狭へ派遣され、武藤友益から人質を取り、城館を破壊して5月6日帰京する。

またこの頃、義昭から所領として山城国久世荘(現・京都市南区久世)を与えられている(『東寺百合文書』)。同年9月の志賀の陣にも参陣しているが、兵力は300人から400人と大きくなく、戦の小康状態の時に宇佐山城を任され、近江国滋賀郡と周囲の土豪の懐柔策を担当した[42]。

元亀2年(1571年)には、三好三人衆の四国からの攻め上りと同時に石山本願寺が挙兵すると、光秀は信長と義昭に従軍して摂津国に出陣した。同年9月12日の比叡山焼き討ちで中心実行部隊として(和田秀純宛「仰木攻めなで切り」命令書)[43]武功を上げ、近江国の滋賀郡(志賀郡:約5万石)を与えられ、間もなく坂本城の築城にとりかかる。

柴辻俊六は光秀と他の幕臣及び織田家家臣との文書の連署状況や、滋賀郡の拝領が信長に没収された延暦寺領の処理の一環として佐久間信盛らと同時に与えられていることから、宇佐山城に入った時点の光秀の身分は幕臣であったが、滋賀郡を与えられたのを機に織田家の家臣に編入されたとみる[44]。

同年12月頃に義昭に「先の見込みがない」と暇願いを出すが(曾我助乗宛暇書状)、不許可となる[45]。なお、暇願い提出の原因として旧延暦寺領の支配を任された光秀が信長と敵対したことを理由に所領の押領を図り、義昭の怒りを買ったからとするする説があり、結果的に信長と義昭の対立の一因を光秀が引き起こした可能性もある[46]。元亀3年(1572年)4月、河内国への出兵に従軍した折では、まだ義昭方とする史料がある[注釈 19]。

元亀4年(1573年)2月、義昭が挙兵。光秀は石山城、今堅田城の戦いに義昭と袂を別って信長の直臣として参戦した。信長は将軍を重んじ義昭との講和交渉を進めるが成立寸前で、松永久秀の妨害で破綻する[48]。

同年7月にまたも義昭が槇島城で挙兵し、光秀も従軍した。義昭は降伏後に追放され、室町幕府は事実上滅亡した。旧幕臣には伊勢貞興ら伊勢一族や諏訪盛直など、その後、光秀に仕えた者も多い[49]。

同年、坂本城が完成し、居城とした。天正元年(1573年)7月に村井貞勝が京都所司代になるが、実際には天正3年(1575年)前半まで光秀も権益安堵関係の奉行役をして「両代官」とも呼ばれ連名での文書を出し単独でも少数出している。京都と近郊の山門領の寺子銭(税)も徴収している[50][51]。

朝倉氏滅亡後の8月から9月まで、羽柴秀吉や滝川一益と共に越前の占領行政を担当し[52]、9月末から溝尾茂朝(三沢秀次)、木下祐久、津田元嘉が代官として引き継いだ[53]。

天正3年(1575年)7月に、惟任(これとう)の賜姓と、従五位下日向守に任官を受け、惟任日向守となる[54]。

 

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