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  羽田雄一郎参院議員が死去、53歳 !父は、羽田元首相 !
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投稿者 青木吉太郎 日時 2020 年 12 月 28 日 18:47:49: jobfXtD4sqUBk kMKW2Itnkb6YWQ
 

   羽田雄一郎参院議員が死去、53歳 ! 父は、羽田元首相 !

     羽田議員のプロフィールとは ?

(www.nikkansports.com:2020年12月28日0時31分)

◆羽田議員:都内で死去した !

立憲民主党の羽田雄一郎参院議員(53)が、12月27日午後、都内で死去した。複数の関係者によると、羽田議院は24日ごろから発熱があり、体調を崩していたという。27日にPCR検査を受ける予定だったが、同日午後に容体が急変したといい、都内の病院に搬送された。

別の政界関係者によると、羽田議員には、「糖尿病の既往症」があったとの情報もある。
羽田議員が、新型コロナウイルスに感染していたかどうかは、不明である。長野・上田市にある羽田議員の地元事務所では「長期に療養しているような病気はなく、最近も特に病気だったとは聞いていない。急に具合が悪くなったと聞いている」と話している。

◆羽田議員:民主党政権で国交相 !

羽田議員は、長野県選挙区選出で当選5回、民主党政権で国交相、民主党参議院国対委員長などを歴任した。東京・世田谷区出身で、玉川大文学部卒である。2017年7月に死去した、羽田孜元総理大臣の長男で、1997年から衆院議員だった、父の第1秘書を務めていた。1999年10月に社民党の村沢牧参院議員の死去に伴う、長野選挙区補選に、民主党公認で初出馬し、初当選した。

◆羽田議員は、立憲民主党へ合流した !

2012年6月に発足した、第2次野田内閣で初入閣して、国交相に就任し、第3次改造内閣でも国交相を留任した。2016年3月に民進党に合流し、2018年5月に国民民主党に入党した。
昨年7月の参院選で、5度目の当選をした。今年1月の参議院本会議では、党の方針に反し、補正予算の採択で賛成票を投じ、今年9月に解党した、国民民主党から、立憲民主党へ合流し、10月から、参院幹事長を務めている。

(参考資料)

羽田雄一郎参院議員のプロフィールとは ?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

羽田雄一郎(はた・ゆういちろう、1967年〈昭和42年〉7月29日 生まれ。53歳。2020年 〈令和2年〉12月27日[1]死亡。)は、日本の政治家。学位は学士(文学)(玉川大学・1992年)。
参議院議員(5期)、国土交通大臣(第17代)、参議院国土交通委員長、参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長、民主党参議院国会対策委員長、同幹事長代行、同参議院幹事長、民進党参議院幹事長、立憲民主党参議院幹事長などを歴任した。

◆来歴

東京都世田谷区で生まれた。成城学園中学校、敬和学園高等学校、玉川大学文学部芸術学科児童専修課程卒業[2]。大学卒業後は伊藤忠記念財団に勤務する。1997年より衆議院議員で自身の父親の羽田孜の秘書を務める。

1999年10月、参議院議員村沢牧(社会民主党)の死去に伴う参議院長野県選挙区補欠選挙に、父・羽田孜が所属する民主党公認で立候補し、自由民主党の深沢賢一郎らを破り初当選。2001年の第19回参議院議員通常選挙・2007年の第21回参議院議員通常選挙でも再選された。なお、2006年、長野県知事選挙への出馬を要請されたが、辞退した。この選挙では現職の田中康夫が落選し、村井仁が初当選した。

2010年7月、民主党参議院国会対策委員長に就任。
2012年6月4日に発足した野田第2次改造内閣において、国土交通大臣に就任、初入閣した[3]。また、同日付で、国務大臣としての所管事項として「海洋に関する施策を集中的かつ総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[4] を担当することとなった。

野田第3次改造内閣では国交大臣に留任し、「海洋に関する施策を集中的かつ総合的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」は前原誠司国家戦略担当大臣へ担当が交代。

父が政界を引退したことに伴い、2012年12月の第46回衆議院議員総選挙にて父の地盤である衆議院長野3区から後継者として鞍替え出馬することを検討していたが、民主党が世襲候補者の選挙出馬を認めない方針を打ち出したことから、鞍替えの断念を余儀なくされた[5]。

2013年7月の第23回参議院議員通常選挙では民主党への逆風の中で当選し、4選。同年8月、郡司彰参議院議員会長の下で、民主党参議院幹事長に就任[6]。同月、沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任した。

2015年1月に行われた民主党代表選挙では、元幹事長・細野豪志の推薦人に名を連ねた[7]。

2017年9月に行われた民進党代表選挙後の執行部人事で幹事長代理に就任[8][9][10]。11月、長男が女児に対する暴行容疑で逮捕されたことを受けて離党届を提出していた小川勝也参議院幹事長の後任に就任した[11]。

2018年5月7日、民進党と希望の党の合流により結党された国民民主党に参加[12]、同党の役員室長に就任した[13]。

2019年7月21日投開票の第25回参議院議員通常選挙で5選[14][15]。

2020年1月30日、参議院本会議で2019年度補正予算案が採決された際、地元に大被害を出した令和元年東日本台風の復旧復興費を含む予算案だったことから、国民民主党の方針に造反して賛成票を投じた[16]。

これを受け党は2月5日の役員会で厳重注意処分とした[17]。同年9月15日には、立憲民主党と国民民主党が合流して新たに誕生した立憲民主党に参加[18][19]、同党と社会民主党との参議院会派の幹事長に就任した[20][21]。

同年12月27日、東京都内で死去[1]。同月24日頃から発熱などの症状を訴えており、27日に新型コロナウイルスのPCR検査を受ける予定だったが、病院に向かう途中で容体が急変した[22][23][24]。 死亡後PCR検査で陽性が判明し、現職の国会議員が新型コロナウイルスに感染して死亡した初の例になった[25][26]。53歳没。

◆政策・主張・重要課題

自身の重視する重要課題として、「国のかたちの再構築」「税の仕組みの再構築」「国民の暮らしと繁栄」を挙げている[27]。
安全保障:憲法9条の改正、集団的自衛権の行使に反対[28]。

原発:日本の原発について、当面は必要だが将来は廃止すべき[28]。
原発の海外輸出を進めるべきでない[28]。
選択的夫婦別姓制度:選択的夫婦別姓の導入に「どちらかと言えば賛成」[29]「賛同」[30]。

静岡空港:2003年、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[31]。
靖国神社:みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会に所属しており、例年[32]終戦の日に靖国神社を参拝している。国土交通大臣を務めていた2012年にも参拝を行い[33]、これが2009年の政権交代以来、初の民主党現職閣僚による終戦の日の靖国参拝となった(ただし、同日朝に参拝した松原仁国家公安委員会委員長が時間差で第1号)[34][35]。

なお父、羽田孜も同会会員で、かつては会長も務めていた。しかし2019年1月、市民団体との会合で「安倍首相に参拝してもらいたいと言う人もいる。そことくみして良いのか」と語り脱会も含めた再考を行っていると発言した[36]。

  ○羽田孜議員のプロフィールとは?

(ウィキペディアより抜粋・転載)

羽田 孜(はた つとむ、1935年〈昭和10年〉8月24日生まれ。- 2017年〈平成29年〉8月28日、82歳で死亡。)は、日本の政治家。

衆議院議員(14期)、内閣総理大臣(第80代)、農林水産大臣(第9代、第12代)、大蔵大臣(第88代)、外務大臣(第121代)、新生党党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表、同党最高顧問などを歴任。2012年(平成24年)に政界引退し、晩年は民進党長野県連名誉顧問を務めていた。

内閣総理大臣としての在任期間は64日間で、戦後2番目[1]、現行憲法下では最短(2017年現在)であった[2]。詳細は羽田内閣を参照。

◆来歴・人物・生い立ち:

東京府東京市蒲田区(現、東京都大田区蒲田)にて羽田武嗣郎、とし子[3]夫妻の長男として生まれる[4]。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。

1942年(昭和17年)第二延山小学校(現:品川区立第二延山小学校)に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年(昭和19年)3月に父の郷里である長野県に疎開する。終戦後、1946年(昭和21年)に父の武嗣郎が公職追放となる。

1951年(昭和26年)に長野県上田市の上田第二中学校に入学。この頃から議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが不合格となり、東京都世田谷区の成城学園高等学校に入学する。1954年(昭和29年)に成城大学経済学部経営学科に進学する。大学3年生の時にハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまったことがある。

◆自民党離党、細川連立内閣

1991年(平成3年)11月に成立した宮澤内閣で大蔵大臣に就任し、入閣。1992年(平成4年)、金丸の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である小渕恵三の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から中立の立場を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わしめる。

羽田は、小沢、当選同期の奥田敬和、渡部恒三らとともに改革フォーラム21(羽田派)を結成し、代表に就任。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗印に集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、1993年(平成5年)4月に病気辞任した渡辺美智雄の後任として、外相就任を宮澤に打診された。

これは羽田を閣内に封じ込めるために後藤田正晴副総理が考えた天元の一石であった。しかし、羽田は野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。同年6月、宮澤首相が政治改革関連法案の成立を断念したため、羽田派は野党から提出された内閣不信任決議案に賛成した。

羽田は6月23日、自民党を小沢一郎らとともに集団離党。新生党を結成し、党首に就任した。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。

これに先立つ、6月24日に既に、新生党、社会党、公明党、民社党、社会民主連合の5党首が非自民・非共産連立政権を目指すことに合意し、羽田は連立政権の首班候補として最有力視されていたが、日本新党代表の細川護煕を連立政権首班とすることに合意する。羽田は細川内閣に、副総理兼外務大臣として入閣した。


 

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