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『あさが来た』の「五代友厚」 プロジェクトが進行 !  浅子とは親しかった ?
http://www.asyura2.com/10/nametoroku6/msg/5389.html
投稿者 青木吉太郎 日時 2015 年 12 月 31 日 15:02:10: jobfXtD4sqUBk
 


朝ドラ:『あさが来た』の「五代友厚」プロジェクトが進行 !

五代友厚のプロフィール !

あさの「師匠」五代友厚との出会い !

広岡浅子とは親しかった ?


(双日と広岡浅子・信五郎の物語:www.sojitz.comより抜粋・転載)

あさが来た(373)ディーン・フジオカ…(33)大阪(3622)五代友厚

『あさが来た』で話題の「五代友厚」 プロジェクトが進行していた!

『あさが来た』で人気沸騰中のディーン・フジオカ演じる五代友厚。「大阪の恩人」とまでいわれた功績がありながら、忘れられた偉人となっていた。
大阪ではドラマがはじまる以前から「五代友厚プロジェクト」が発足。
映画化を進めると共に、各種イベントも実施しているようだ。
更新日: 2015年12月28日
aku1215さんaku1215さん


■『あさが来た』で広く知られるようになった五代友厚 !

経済界以外では知名度は低いが、今後お茶の間に浸透する可能性もある。
9月下旬に始まったNHK連続テレビ小説「あさが来た」で主要人物として登場するからだ。

「あさが来た」にも主人公に深く関わる立場で登場するため、五代の数々の功績を再認識しようとの機運が高まっている。
出典

【けいざい徒然草】大阪の恩人・五代友厚 没後130年で再び脚光、NHK朝ドラ「あさが来た」に登場、映画化も(1/4ページ) - 産経WEST
出典:www.atpress.ne.jp

五代友厚映画化プロジェクト!!!

それは、幕末から明治維新にかけて19名の薩摩藩英国留学生の1人として熱き志を持ち旅立って行った、そして今の日本に大きな痕跡を残した、
そんな彼の熱き志を引き継いだ人達の手掛ける映画プロジェクトチームであります!!!!!

(参考資料)

T 五代友厚のプロフィール

(ウイキペディアより抜粋・転載)

五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武士(薩摩藩士)、実業家。
薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。
大阪経済界の重鎮の一人。
当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図る。

◆経歴[編集]

Question book-4.svg この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2015年12月)

幼少・青年期[編集]

『三国名勝図会』の執筆者で記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下で生まれる。
質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学ぶ。

14歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図だった。友厚は父からこの世界地図の複写を命じられる。


◆武士・役人として[編集]

安政元年(1854年)、ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる。
その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。
安政2年(1855年)、藩の郡方書役助(当時の農政を司る役所の書記官の補助)となる。
兄が鎖国論者にも関わらず、開国論者の立場に立つ。

その翌年、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。
文久2年(1862年)、懇願するも渡航を拒まれた友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航、

藩のために汽船購入の契約をする。
文久3年(1863年)7月、生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となるが、通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出、

江戸に入る[1]。 国元ではイギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。


◆実業家への展望[編集]

慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発、
欧州各地を巡歴。
ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、
これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。

しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。

慶応2年(1866年)、御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。

ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。

その結果、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。
外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたった。

また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。

明治2年(1869年)の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、

また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業(朝陽館)などの発展に尽力する。

薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照:明治十四年の政変)にも関わり、政商といわれた。

他にも、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)などを設立した。

鹿児島市泉町(泉公園内)、大阪市中央区の大阪証券取引所前、大阪商工会議所前には銅像が建立されている。


◆大阪商法会議所設立[編集]

大阪商工会議所

明治初期、維新変動の波を受け、大阪経済が低迷する。銀主体の商取引の廃止や藩債の整理による富豪や両替商の資産消失が主な原因であった。
この事態を打開し大阪経済の復活を願って財界指導者の有志15名が明治11年(1878年)7月に大阪商法会議所設立の嘆願書を大阪政府に提出。

これが今日の大阪商工会議所の礎となる。設立背景は、国内に事件がおこると常にドサクサに紛れ悪辣な金儲けをする者が増えるのを防ぐため、また互いを助け合うために実業家たちの一致団結による協力と意見交換の場が必要とする考えに起因する。

嘆願書の集め方は五代らしい強引な勧誘で、決め文句は「万が一、後に会へ加盟を申し込んでも拒絶、もしくは巨額の入会費を徴収する」で、結果的に60人の同志を獲得した。

初代会頭は五代友厚。大阪商法会議所を設立した目的は大阪の実業家の相互扶助によって新時代の潮流に棹差し大阪商人の伝統である信用第一主義に則り以って自己の利益を増すと同時に大阪の繁栄を軸に国富の増強に資するといった教育勅語的な趣旨に基づいた遠大な意図だった。

役員の構成は、五代を初め計11人が創立委員となり鴻池善右衛門、三井元之助(後の三井財閥)、広瀬宰平(後の初代住友総理人)らの150株を筆頭に皆で立ち上げた。五代は初代会頭となった。

U あさの「師匠」五代友厚との出会い !

広岡浅子とは親しかった?【あさが来た】

(locatv.com より抜粋・転載)

NHK連続テレビ小説「あさが来た」で、ヒロイン・あさ(波瑠)の商いの師匠として重要な役割を果たすのが、ディーン・フジオカが演じる薩摩藩士、実業家の五代友厚(才助)です。
この記事では、ドラマ上で五代友厚が果たす役割と、ドラマ原案本「小説・土佐堀川」で描かれた五代友厚と広岡浅子(あさのモデル)との交流の様子などをまとめます。

◆あさと五代 大坂での運命の出会い

五代友厚――蒼海を越えた異端児 (潮文庫)
posted with カエレバ
橋直樹 潮出版社 2015-09-25

物語第一週。嫁ぎ先である加野屋に挨拶に行くために大坂にやってきたあさ(鈴木梨央)は、町なかであるイケメン男性と運命的な出会いを果たします。

その時の少女あさは、知る由もありませんが、この男こそ、後に「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と称され「大阪近代経済の父」とも呼ばれることになる、若き日の五代友厚(ごだいともあつ)だったのです。
※五代はあさの13歳年上という設定。

◆生き方も含め、あさの心の師に

あさは大阪に嫁入りした後、五代と再会を果たします。嫁ぎ先の加野屋の危機に直面していくあさは、西洋の事情にも明るくグローバルな考えを持つ五代の導きを得て、少しずつ女商人としての才を開花させていきます。

私利私欲を持たず(死後、多くの借金が発覚するほど)事業を通して人々の暮らしを豊かにするという大きなビジョン、それに時代の先を見通す目を持つ五代は、あさにとって、「師匠」といえる存在になっていくのです。その先には、男女としての恋も…?

ドラマでは、実在の偉人でありながら、日本人の間で語られることの少ない「五代友厚」自身の人生にもスポットが当てられ、物語に奥行きを与える存在となっていきそうです。


◆実在のモデル 五代友厚と広岡浅子は親しかった ?

▼「あさが来た」放送開始にあわせて、こんな本も発売されてます。
著者の原口氏は「あさが来た」で時代考証を担当されているそうです。
維新経済のヒロイン広岡浅子の「九転十起」―大阪財界を築き上げた男、五代友厚との数奇な運命
posted with カエレバ

原口 泉 海竜社 2015-09

「あさが来た」で登場する五代友厚の人生は、大筋は史実通りですが、ある程度脚色された「フィクション」であり、あさと繰り広げられる深い交流も、ドラマ上で創作されたオリジナルストーリーです。

「大阪近代経済の父」五代友厚は、実在の人物ですが、NHKオンラインによれば、あさのモデルである広岡浅子とどれほど親しかったのかという詳しい文献はあまり残っていないとか。

ただし、政府要人だった五代は、加島屋の事業を裏側で取り仕切っていた、浅子に手を差し伸べたともされ、まったく交流、接点がなかったというわけではないようです。

また、五代が晩年新築した、大阪・中之島の邸宅(西弘成館があった場所。現在の日本銀行大阪支店)は加島屋のあった肥後橋前からも至近であり、当時の大阪を支えた要人同士、身近な存在だったのではないかと推測できます。

◆ドラマ原案「小説・土佐堀川」での描写

「あさが来た」の原案である「小説・土佐堀川」には、ドラマの描写とは異なる浅子と五代友厚との以下のような交流が描かれています。

所有する炭鉱爆発事故、銀行設立の頓挫に見舞われて苦境にあった浅子は、実家・三井家の法事にやってきた五代友厚と会話を交わします。浅子はそれまで五代と親しく話したことはなく、この時がほぼ初めての長い会話だったとのこと。

この時、憧れの実業家・五代から聞かされた「へこたれたらあかん」「勝たなあかんで、負けの人生は惨めや」という言葉は、浅子の耳に残り、浅子は、改めてモットーである

「九転十起生」を自らに誓っています。
「小説・土佐堀川」での五代の登場ページは、ほんのわずかであり、「あさが来た」での五代の活躍は、ドラマ脚本のオリジナルとなっています。


 

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