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(とんねるずの食わず嫌い風に): 人食!!!
http://www.asyura2.com/11/bd60/msg/433.html
投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 07 日 13:29:16: 3SipOypTxKjgk
 

八切止夫著: 徳川家康 1より
http://www.rekishi.info/library/yagiri/index.html

 
さて、この当時駿府の牢は横田町にあったが、現今のように刑務所内で印刷をやらせたり家具を作らせて収益をあげられる時代ではなかった。だから、早く叩き殺して解体した方がそれだけ食い扶持が助かったし、もうかった。どんどん捕えたものは早く殺していたが、またこれにはわけがあった。
 
なにしろ今と違って薬がなかったこの時代は、唐人や韓人が関西から駿府へも入りこんできていて、「生血は卒中や中風の特効剤」「生肉は天刑病や労咳(肺結核)の薬」「生き肝は腹の病用」「生きた脳味噌をまるめた六神丸は気つけの妙薬」と売りひろめ、原料のはいりやすい処刑場の側で小さな薬品製造業をやっていた。
 
----今でも漢方薬を「生薬(きぐすり)」というのはこの頃の名残りで、黒焼として売り出したのは生肉では遠くまで売りにゆけぬから、営業上これをかえ、明治以降は取締まりがうるさいから、猿の黒焼、いもりの黒焼となった。しかしまだ明治中期までは、レプラには生きた人間の尻の肉が特効薬であると、刀をもって斬ってまわった野口男三郎というのがいて、世間でも業病には生肉と思っていたから、その点をおおいに同情され、「ああ世は夢か幻か‥‥」といった演歌が流行して、当時の女性を失神させるくらいに、おおいにみなを泣かせたものである。
 
さて横田町の牢から狐ガ崎の河原にある斬首場へ、囚人をつれて行っては斬首し、「落し頭ごと、こみでいくら」と唐人に払下げをするのだが、そう一日に何人もあるものではない。だがそれでは製薬工場の唐人が原料難で困る。そこで今日の血液銀行みたいに生きているのを引っ張ってきて、脳味噌をとったり、生の肉をはぐというような事になるが、いくら唐人に、やれやれといわれても、そう通行人を物陰にかくれて、ぶん殴って連れてこられるものではない。

〜〜〜

思わず笑ってしまった。

近代史板より:

史疑・徳川家康 (八切史観)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/556.html
投稿者 五月晴郎 日時 2011 年 10 月 15 日 21:36:43
 

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コメント
 
01. 2011年12月07日 20:57:19: j8DlsR41DQ
矢切さんがこまごまと講釈を垂れるのは面白い物語ですが、今見てきたような感じで縦横無尽に言っておられるようですね。、しかし、まあ、勉強してない庶民を困惑させると言おうか驚かすと言おうか、甚だ無理なこじつけが多い所もあるのかなあと思いますが。すいません。

うそ妄想が創作が、はてさてどのくらいあるのか。多くを本当と言うなら根拠を示さないとくわばらくわばらでしょう。前から矢切さんは奇想天外と言おうか、どっからもってきたのかと、まあ思ったりするのですが。

黄文雄の食人とは全然発想が違う。シナの食人の研究は戦前は進んでいましたよ。日本軍が行って取り締まるまで人肉市が立ってたそうですが。
シナの地方へ留学していた人の多くはシナ人は、ある意味、、、最悪だといってるようですが。


02. 2011年12月08日 16:58:29: eumosV0oVA
信長殺し、光秀ではない  3より:


詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで類焼した。
 
そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいのの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。
 
当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。
 
もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。 さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは、<Cousulita>の名目で、ローマのバチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。
 
しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附記されている筈もあるまいと考えられる。(‥‥念の為に七月末に私はローマへ見に行く)

 
さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。
 
ワリニヤノは天正九年十二月の長崎会議の後、翌年二月二十日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。

これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせるためではなかろうか。昔から「三つに一つ」とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じ様なものを三個並べてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。
 
ところがである。マカオへ彼が渡った時、「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッペ二世が、新たにポルトガル国王フィリッペ一世を名乗って、ここに改めて、二つの王を正式に継承した」
 
つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 
だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。
 
かくて同年六月二日。本能寺の変。
 
そして、ワリニヤノはローマへ行く筈だったのに、急に、日本の異変によって禁足され、印度管区長に任命され、途中で雄図空しく足止めされてしまった。だから九州三候の子息達は、日本語の通じる彼と別れて、バードレのロドリーゲスに伴われてヨーロッパへ行き、手土産の屏風などをプレゼントして歩いた。何をしに出かけたか、いまだに訪欧の目的はわからない。疑問とされている。

さて、さらに奇怪な現象が、ここに発生する。本能寺にて信長が殺害されたという日本列島の政変が本国へ伝わった後、直ちに新しいポルトガル王になったフェリッペ一世は、印度副王のドン・ドアルテ・デ・メチーゼスに対し、(スペインとポルトガルは今や合併し、一つの国になっているにもかかわらず)スペイン領のフィリピンと、旧ポルトガル領のマカオの交通を、まったく、だしぬけに、断固として、固く禁止させてしまった。
 
しかも、その上、印度副王は、突如として、マカオのカピタン・モール宛に対し、<マカオ・ビブリオテーカ(政庁図書館)所蔵>「陛下の御名により、特に許されしパードレ以外の者は、いかなる聖職者は修道者も、これが日本に渡航することは、固く禁止する。支那人の司教といえども、マカオに今いる宣教師は一人といえども、これを日本へ行かせてはならない。もし彼らの中で、既に日本へ赴いた者あると耳にしたら、陛下の御名によって余が命令するところであ
るから、いかなる方法をもってしても、直ちに追いかけ引っ捕らえて、これをマカオに送還せよ。本命令は、何等の疑念故障を、これにはさまずして完全に履行する事を命じ、その命令通りするよう通告する。なお本書はフェリッペ一世陛下の御名に於いて認可され、陛下の御玉章を捺印されたものと、全く同一効力を有するものである」
 
と発令をしている。もちろん表向きの理由は、色々な宗派の宣教師が日本へ入り込んでは混乱するからだというのである。
 
しかし、この当時フィリピンのマニラへは、ドミニコ派のサラサールが初代司教として、スペインの国策として、本国から集団で来ていた。
 
もちろん、日本列島に勢力を植えつける為である。あまたの戦闘的なフライレ(托鉢修道士)も率いていた。
 
だから、それゆえ当初は、マカオのゼズス教派のポルトガル人は邪魔をした。しかし国王の戦死によってスペイン統治下におかれていたから、本能寺の変の後では、もう反対の余力もなかった筈である。
 
だったらサラサールの率いる宣教修道士の一行は堂々とマカオへ渡り、そこから日本へ行くべきである。それなのにサラサールを保護する立場のスペインの王様が、あべこべにこれを断固として禁止してしまったのである。
 
----何を危惧したのであろうか。
 
続いてマカオ在住者の禁足。日本へ行った者は、逮捕してでも連れ戻せという緊急命令。
 
こんな不審な話があるだろうか。二百二十の大小の教会にポルトガル人の師父が数名で、あとは改宗した日本人の俄か助司祭。それも合計して八十名。これでは、あとの百四十の教会は信者が集まっても、それを司ってアーメンを言う者もいない。
 
つまり二千人の信徒に一人の宣教師では、手が足らないのはわかりきった話なのに、たくさん日本へ渡航しては混乱するから、一人も遣るなという。この弾圧は、全く奇怪であると言わざるを得ない。
 
しかも、こうした宗教上の問題ならば、(ローマ法皇のグレゴリオ十三世から、ゴアのレアルコンセ・ホデラストインジャアス(王立印度参事会)を経て、マカオのセズス教会の大司祭へ通達されるのが、当時としては順序というものである。
 
それなのに、この命令系統は無視され全く違う。「カピタン」というと、江戸期に入って長崎の出島へきていたオランダ商船の船長を考えがちだが、信長の頃の「カピタン」とは、何十門かの青銅砲を積んだ軍艦の艦長で、「マカオのカピタン」といえば、今日のマカオ・アドミラール(海軍総督)に当たるものである。(国王から印度福王。そして海軍総督)という伝達は、これは宗教問題というより、どうみても明白な軍事命令としか受け取れぬ。
 
まるでマカオに一大異変でも発生したかのように、(フィリピンからは渡航を厳禁し、マカオ在住者は一人も日本へやるな)という、この武力通達は、何に起因しているのだろうか。
 
私は、これを(本能寺の変)は、スペイン人であるフェリッペ国王は、前もって聞いていない寝耳に水の事なので「東洋の利権を失っては」と驚愕した、と考える。
 
そこで陛下は善後策をとるため、新法皇に連絡して帰国中のワリニヤノを途中の印度に足止めさせた。
 
ついで、その部下として日本にあって、四条坊門にある天主堂から本能寺を爆発させたのを見て、その場からマカオへ逃げ戻ってきたポルトガル人と日本人のパードレやイルマンを、他と接触させては厄介であると、監禁させた。そして、その秘密の洩れるのを警戒し、マニラに待機中のスペイン神父らの渡航を禁じた。勿論マカオは非常警戒で、もはや天主教の大司祭などには委せてはおけぬから、モール海軍総督の兵力によって、戒厳令をしいて、ポルトガル人の謀叛事件を極力隠蔽しようとした‥‥といった具合にも解釈できるのである。


03. 2011年12月08日 23:20:01: j8DlsR41DQ
http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/158/

面白いですね。家康と光秀が秀吉が共謀して信長を殺したのではなくローマとスペインが殺した可能性ですか。ありえますね。史料はほとんど残ってないですが今と同じ世界統一政府の陰謀の時代だったのでしょうね。大衆はつねに何もしらない。歴史書はうそだらけ。


4時に包囲して7時に爆殺ですか。侍が交渉するにしては長すぎる時間だ。

どうして兵力さが大きいから直ぐに突入しないのか。信長が抗戦する余裕とか腹を切る余裕が100人あまりの兵でどうしてあるのかが昔からの疑問でした。


現在も世界中で工作活動をしているバチカンは昔と同じうそつきでしょうね。世界を支配してるイエズス会。日本でもバチカンテロカルとは長崎の隠れキリシタンを系列化して天下教として工作活動をしてるそうらしいですが。多くの宗教団体、統一もふくめてバチカンの手の内にあるそうらしいです。民主党もそうらしい。勿論また聞きで根拠はないですが。本部は一つ目のビルのしただそうです。と某所に書いてました。まあ本当かどうかはわからんですが。うそがネットは多いから。すぐ騙される。


04. 2011年12月09日 17:12:47: eumosV0oVA
八切日本史  2より:

反抗原住民の末裔

「土一揆」というのは原住民系の暴動だが、「徳政一揆」は田畑の年貢を何年分も先取りしておき、それを帳消ししようというモラトリアムに対する別個の百姓の反抗運動である。
 
さて、かつて先祖がご馳走政策につられて農奴化した連中を反抗原住民は敵視していた。だから睨み合った種族が映画みたいに一つになることはない。その証拠に原住系は絶対に明治まで農耕をせず、これは江戸隅田川向こうの弾左衛門地が幕末までずっと一面の草原で、田畑などなかったことでも周知の事実である。
 
また今日では誤って一般大衆=百姓と扱っているが、百姓でない原住民がほぼ同数いたことは、明治五年に壬申戸籍をつくったとき、従来お寺の人別帳で掌握していた人口が約倍に増えたことでも、これは判りうる。
 
では百姓でない原住民は何をしていたかというと、封建時代というのは独占世襲制だから、きわめて判りやすく分類できる。「土を耕して種をまき取り入れしたり、桑の木をうえて、これで養蚕するがごとき付加労力的な仕事は、外来者のやること」だが、「土を耕さず自然発生的に育っている草や樹木、木の実。そして山繭(やままゆ)とよばれる天然の糸や、蜂蜜。そして山に自然にある石や土。そして山野をかける獣や人間それ自体」
 
に関しては、日本列島に以前から住んでいた地主として、ナチュラルなものは反抗原住民系の子孫が一手に押さえていた。つまり、かつて万屋錦之助が「祇園祭」を作ったが、「映画にでてきた渥美清の弓のつる打ち業」
 
は、にかわが獣脂で弓の材料が藤や矢だからそうだし、石切りの石工や、壁土を塗る左官。土でこしらえる瀬戸物や土器製造。土を入れてやく鋳物師。また[映画の中で]石工の頭である岩下志麻の父が庭師をしたのも、「坪立(つぼだて)」とよぶ庭作りは、木は自然なものとされ石工と同じにみられていたからである。
 
また木のある山を守る、いわゆる、「山がつ」「山もの」もこの仲間に入るし、「山の草」で作る「みの作り」から薬草屋。
 
そして当時の染料は、あかねにしろ藍にしろみな草木だったから、「青屋」とよばれる紺屋もこの仲間である。
 
なのに、この点だけは錦之助の主人公の立場は、これまた惜しいことに間違っている。
 
これは、余談になるが、宮本武蔵一乗寺下り松の決闘で有名な吉岡道場の初代、「吉岡憲法」は又三郎の名で紺屋が本職だったが、慶長九年六月二十一日のこと。
 
新内裏奉納能楽を見物に御所へ入ったところ、夏のことなので袖で隠していた指先を、うっかり出して青く染まったのを見咎められ、「おのれッ青屋の分際にて、不届き者」
 
よってたかって公家の連中に取り囲まれ、「京八流の手並みを見せまっせ」とばかり孤軍奮闘したが、ついに召捕られてしまい、「人外の身もわきまえず」と、その肩から上を晒首にされたという事実も、『時慶卿記』という当時のお公卿さんの日記や、家康史料の『駿府記』などに出ている。
 
つまり吉岡といえば、これは小太刀の名人と知られているが、公家側からみれば、「なんや反抗原住民の末裔やないか。やってこまそ」という存在でしかなかったようだ。


河原者発生譚

映画『祇園祭』に「山科の百姓」がでてくるがあれも嘘である。山科は別所のあとで反抗原住系の巣だから当然彼処は農耕していない。
 
山科を領していた権中納言山科言経卿も、天正十一年八月二十一日付けで、「信長から貰った飯米用の西梅津からの三十石を、本能寺変后[後?]の昨年十月二十六日から秀吉に押えられ、当家は山科よりは米一粒も入らぬから、その三十石が入らなくては食してゆけぬゆえお返し下され」と、ときの京町奉行の前田玄以あてに嘆願書をだしている。
 
その父の言継日記でも、山科から貢祖としてもってくるものは青竹ばかりだったとある。「山科閉居」として、のち大石内蔵助が入りこむのも、治外法権の別所だったからだようだ。

さて、河原者の発生は1107年の嘉承二年の、『中右記』五月二十三日の条に、「また、近日、京中下人、辻ごとに飛礫」『百練抄』の、やはり同日のものに、「飛礫、去春よりこのこと起る」とある。
 
これは反抗原住民は院地とよぶ収容地内で農耕もせずに暮らし、廻りの農奴化した連中が彼らの対する反感から、五月五日の国府宮祭の当日一日限り、農奴民が院地へ投石しにゆくのを認め、ふつうの意志ではあまり飛ばぬから、笹を結わえた勝負石を投げたのが、今日の「ちまき」の起りで、昔は餅を巻くのも一本笹だった。
 
そこで反抗原住民の側も、「きみもやるなら俺もやる」というので、石ころの多い河原に出て対戦。そこで農奴側の連中が、もし勝ったら川の鯉をとって帰り、これを竿につけて飾ったのが、現在の「鯉のぼり」の初めで、勝負の節句が、「菖蒲の節句」と転化したのがその歴史である。
 
映画祇園祭のラスト・シーンでは、青屋たちと侍所の対決となってはいるが、この当時の関白一条兼良の『尺素往来』では「祇園御霊会五月五日。夕方には白川ほこが入洛との風聞あり、六地蔵の党(馬借をふくむ反抗原住民の群)例のごとく院地打となり洛中騒動になりやも知れず、警固のため侍所之者共、すぐ打って出られるごとく河原におしだしたり」とある。
 
現在舗道の石を学生に割られ投石用にされてはと、これをめくりとって外しアスファルトに代えてしまうごとく、十二世紀の機動隊は、先に小石の多い川原を占領規制した。
 
こうなると投石用の石を確保するため、反抗原住民は先んじて川原へ出ばり、ここを年中確保するの止むなきになった。
 
しかし投石は五月五日の年一回きりである。
 
あとは他にやることが何もない。
 
そこで川原占領部隊は、資金カンパの目的もあって、それぞれ小屋掛けして、「ああ、いらはい、いらはい」 一人相撲、人形芝居、猿楽といったタレント業を始め、数が多くなると、これが地方巡演にもでかけるようになった。
 
今でこそ能楽や歌舞伎というとエリート扱いをするが、公家全盛時代には、彼らが反抗原住系の子孫ゆえ、これを河原者としか遇さなかったのは、このためなのである。 また彼らは相互でしか大正昭和まで通婚していないから、天孫系と反抗原住系との区別は、以前は生国の場所。(この見分けに用いられたのが、現在の本籍)それと苗字の最初の発音だが、ふつうの鑑別では、「もっともらしい顔をして、嘘のいえる」
 
特技をもっているのが天孫系。その反対で照れ屋だったりサービス精神があって、お人好しの欠点をもち、案外に動物に好かれるのが今も限りなく多い原住系の末裔である


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