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ど頭かちわってミソとったるでぇ
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投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 10 日 11:55:07: 3SipOypTxKjgk
 

(回答先: (とんねるずの食わず嫌い風に): 人食!!! 投稿者 1984 日時 2011 年 12 月 07 日 13:29:16)

ヤバい。

完璧に八切さんにハマってしまった。

(笑)

===

八切日本史  3より:

われらの告発

白日下の戦争体験

中央公論のグラビヤ撮影のため、生れて初めてオヤジさんと二人きりで写真をとった。
 
もう七十をすぎているのに弁護士として忙しく、リオから戻ってきたばかりである。
 
他人ならば、お元気で何よりですというところだろうが、親だけに考えさせられる。(自分もあんな年齢になるまで、あくせく動き廻らねばならぬのか)と思うとリツゼン[慄然]として、早く死なねば困るとしみじみ考える。
 
なにしろ私は1945年の夏、あまりに死をみすぎている。ふつうの戦争体験というのは、命令下において束縛されながらのものだが、私は、まったく自由の立場で、8月18日に、油で汚れた赤黒いボロ布をさげた重戦車の後から麻袋をかぶったり、一糸まとわぬ生れたままの姿の日本人が、元寇のときの捕虜のような格好で、群れをないぞくぞくと続いてくるのに、まずドギモをぬかれたものだ。
 
彼らは引揚げの途中で満人に襲撃され、(当時衣料切符が満人へは配給がなく、不足してきていたので)身ぐるみはがされていた。
 
抵抗すれば叩き殺されてしまう。そこで仕方なく赤い戦車のキャタピラの音をきくと、女達をギセイに供してその後に命からがらついてきたという話だった。
 
さて苦しい時の神頼みというが、奉天へ入ってきた開拓団の男女の生き残り八百は、「あっちだ‥‥」と春日町から浪花通りをこえ、北春日神社へと移ってきた。そして神前にぬかずくと、遥か東方を伏しおがみ、「テンノオヘイカ、バンザイ」を三唱した。すると、そこへ北春日派出所の巡警を伴った日本人の金星をつけた豪いのが現われてきて、「オマエラ、チンポコまるだしで不敬だぞ」 と一喝した。すると餓鬼のような連中が、「うおッ」と叫んで、その奉天警察総局の高級警察官を囲んで、もみくちゃにした。
 
やがて満人警官が発砲してその高官の死骸は曳きずっていったが、八百人の連中は神社につづいた夏休み中の小学校の建物へ入りこんだ。
 
満人や赤軍に散々いためつけられた彼らは日本人には強く、三々五々お貰いというよりは遥か高圧的に、食料その他の徴発にきた。「尻をまくる」という言葉があるが、私のところへ現われた三十女のごときは、「こうみえたって、わたしゃ満人は五十と二人、ロスケ[ロシア人への蔑称]だって四十余人にやられてる女なんだ」 縮毛のはえたところをめくって、下から逆かなでしながら喚きたてた。
 
やがて進駐した赤軍が占領体制をとると、「ダワイ」「ダワイ」と夜ごとに銃声をならして訪れてくる連中をさけるため、社宅のようなところは棟が一つだから、窓や戸に板をはって出入りは梯子を使う俄か作りの城塞をこしらえたが、私の住まっていた春日町や浪速通りは商店街なので、一棟が二戸ずつに分かれ、そうはゆかなかった。
 
兵役はないのだが人手不足のため、嘘みたいな話だが、当時の北春日在郷軍人分団長にされていた私が、商店街のおっさんから警備方をコンモウ[懇望]された。しかし私は弱った。
 
分団長に私がなったのは、根こそぎ現地動員でみな持ってゆかれ、誰もいなかったからである。一人ではなんともなるはずがない。
 
そこで西部劇のような具合に、北春日小学校へ行って補助シェリフを募集した。「難民」とよばれている彼らの中から、用心棒を選んだ。鉄西から運搬途中に入手した銃器弾薬があったからだ。しかし、ダワイよけに編成したはずの連中が、雪のふりだした十一月の末に、脱走兵と組んで暴発をした。
 
なにしろ前は憲兵隊と組み、赤軍進駐後はロスケの手先となって脱走兵狩りをし、同胞をシベリヤ送りにしていた奉天警察総局へ「それっ」と暁の攻撃をかけ、日本人が日本人の警官を雪中にひきずり出し、興銀前の並木を、ずらりと首吊りの木にしてしまった。
 
さてこの後が大変で、案外に日本人にはレジスタンス精神がなく、すぐ、長いものには巻かれろといった考えが多いのか、自分だけ助かろうと密告者が多く私も逮捕された。
 
しかしクラフチェンコ司令官の見解が、「旧日本軍残党の暴動」という方針だったらしく、一旦はモスコー送りになった私も、全然兵役経験がなかったせいなのか戻された。
 
しかし、この結果。
 
次々と南下してくる難民がふえ、多い時には三千人にもふくれあがった北春日小学校の連中には、やがてけわしい冬が訪れてきた。
 
形ばかりの配給だった粟もこなくなった。
 
銀行が封鎖され金のなくなった私は、自分の蔵書を並べて売り、見るにみかねて資金のカンパをしたが、とてもそんなことでは、餓えた同胞たちへの助けにはならなかった。
 
女は切羽詰れば身体を売るというが、それも買手があればこそで、化粧でもしなければ飢えた女たちを、誰も相手にしなかった。
 
だから子供づれの女は、眼前のチェンピーやマントウをかうためや、己れを売る化粧品代に、赤と紫の赤軍軍票の百円か二百円で、わが子をみな売っていた。毎朝、北春日小学校の入口には、子供を買うマーチョが並んでいた。つまりこんな具合だったから栄養失調やハッシンチブスで一日に二十人位は死んだ。
 
北陵の日本人墓地まで運べないし、火葬にする薪もない。凍った校庭の土は掘りようもない。だから並べて積むしかない。しかし月六〜七百の死体が零下二十度の気候では、冷凍マグロのごとく固まってくっついてしまう。
 
なのに時たま極寒のショックで生き返ってくるのもいる。ところが困ったことに、夜中に堂々と満人が荷車をもってきて、頭だけを斧で叩き落して運んで持ってゆくのである。「六神丸」の原料にするためだという。
 
それが贋物の八路軍だとは後で判ったが、「救国革命軍」の本営へ、やむなく文句というか陳情にいったところ、髪のはえた大男が、「死んだ者が生きている人間の役にたって、薬になるのに‥‥なにを吐かすか」と青
竜刀をひきぬかれ、私はコツンとやられてしまった。
 
だから私は今でも漢方薬の黒焼きを嫌う。
 
異民族支配下になることも厭で堪らない。共産主義を敬遠するのも肌身にしみているからだろう。


首をとるのは‥‥

時には満人の馬車を追いかけ、漢方薬の材料にと盗まれてゆく首を取り返したから、人間の首がどんな具合で重さがどの位あるか。おかげで戦国ものを書く時などには、非常に参考になっているが、あの重さは約6キロはある。両手で一個ずつ抱えると、私なんか息切れして追われても百米と走れなかった。
 
しかるに軍記物などをよむと、草縄であんだ袋へ西瓜のように入れて、三つも四つも腰にさげて歩いたというが、あれは変てこである。
 
余程それが巧妙になる首なら別だが、でなかったら己れの行動の自由がそがれてしまう。『戦国武家事典』などでは、『軍礼抄』を引き、首実験は寺でやるとか幕をはって、物具をつけ弓をもって検分とする。
 
などとあるが、これは「切腹作法」と同じことで、江戸時代に入ってから芝居のめりはりをみた作者が、そのありさまをまことらしく書いたものではなかろうか。なにしろ、(首対面の次第はまず床机に腰かけた大将の前に肴をすえ、三々九度の祝いをなし、次に首の前に肴をおき、一つの盃に二度酒をつぎ、これをすすめ、やがて終れば幕を下ろし、大将は床机より立ち上り陣屋へ帰り給う) といただけの順序が十段に分かれ、一々その動作を示してあるが、これでは、「死者への尊厳」というより、主役の大将の見世場。つまり、これは舞台でしかない。
 
そんなに大切に扱わねばならぬのなら、殺して首にすることはないし、首だけの相手に肴をすすめ酒をつぐなど、たとえ恰好だけでも可笑しい。しかしこういうのを日本では、「武士道なんだ」という。そこで、織田信長が妹婿の浅井長政や、その伜[父の間違い]の首をドクロにし、漆でかためコップにして酒を呑んだような話は残酷だと嫌われる。
 
しかし、生体から首をちょん切ってもぐのと、個体化したのを盃にするのと、どっちが残忍かは誰も比べず、ただただキレイ事にしたがる。
 
だから死者の霊を慰めるため、殺した相手の首をもいできて供養するように、これまでの話は皆なっているが、本当はなんなのだろう。
 
どうして大西瓜より重いのをわざわざ持ち帰ったのか。やはり<武士の情け>という嵩高な精神のせいだろうか。変でならない。
 
さて、『信長殺し、光秀ではない』の続篇、『謀殺』を書いた時に用いた樫原重軒の、『養生訓読解例集』という手書き本には、「島原御陣後は泰平にて合戦なし。よって小塚原などの獄門台にさらされる生首は、両三日をへずして紛失。これみな味噌をとりだしかためて丸薬となし、骸骨は黒焼になす、これ腎の病にきく為なり。されど小なるは野猿の頭の黒焼なり。なぜかなればご当代にありては幼児は遠島処分になすことあれど、打首にはならざるゆえなり。心
すべきことにてあれ」などちう個所もあるし、 備前史記の『赤松合戦記』には、「河内のからうど(朝鮮人)[八切氏は『唐人』と書いて、中国人としている著書もある]医者にもってゆけば、首一つにて、たらふく呑めると勇みたちし者らは」というのも残っている。
 
今でも河内弁で、「ど頭かちわってミソとったるでぇ」などというのは、(集荷した生首の頭を叩きわって脳味噌を抜きだし丸薬にしたり、骸骨の黒焼)を製造する製薬工場が河内には栄えていた為らしいと思われる。
 
現在のように化学薬品などで新薬がどんどん出来る時代ではないし、それに日本人は昔から薬好きだったから、戦国時代は、もっぱら生首が薬の原料になっていたようである。
 
ボルネオの土人や昔の高砂族は、唯たんに、他へ見せびらかすために、首を切って持ってきたらしいが、そこへゆくと勤勉かつ合理的な日本人の武者は製薬原料にするため、「えんやこら」と携えて帰ったのだろう。
 
でないことには、赤の他人の並首なんか、重いのを我慢して持ってくるわけはない。
 
それを、これまでの日本史では、さも恰好よくしてしまうからわけが判らなくなる。『おあむ物語』に、大坂城内の腰元が味方のとってきた生首にお歯黒をつけた話があり、「白い歯の首よりも、お歯黒をつけた首の方が、よき首なりと賞翫した為」などというが、これも写本している内の間違いらしい。
 
口中にお歯黒をつけたのは、今川義元から三好党あたりまでの室町御所直系の公家首。
 
戦国時代から後、お歯黒をつけたのは武家の女房だけだから、これでは、男首より女首の方がよき首ということになってしまう。
 
まだ女権の強かった頃ゆえそうかも知れぬが、『備中治乱記抄』に、お歯黒を口だけでなく首全体にコールタールのごとく塗布した話もある。だから篭城中では生首は売りにゆけぬから、そのために、「保存をきかせるため」にお歯黒塗りを腰元共にさせていたとも考えられる。なにしろ、『Archivo Portugvez-Oriental』にも、「インドのゴアに於て、軍役に従う奴隷はみな日本人で、それゆえ彼らは首をとりそれに防腐剤、としてビンロウ樹の実をかませる習慣があった」とあるからである  

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コメント
 
1. かっぺたんパッチ[295] gqmCwYLYgr2C8YNwg2KDYA 2015年12月19日 08:06:56 : ea87LB8lXE : QLXs07ycaI8[554]
だから、ベイエリアで河内弁なんかの日本人が、まともな態度を示すわけがないってこと。

ファイルしようかな。

怖い。


東京が懐かしい。怖い。



[32初期非表示理由]:担当:関係が薄い長文を大量にスパムしているので全部初期非表示


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