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731部隊・wikipedia(隊員の子孫は、先祖の功罪を相続し、米英以生物兵器の全ワクチンを発見・発表すべきです)
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投稿者 小沢内閣待望論 日時 2011 年 4 月 18 日 19:10:10: 4sIKljvd9SgGs
 

http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A
731部隊
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再建された建物

石井四郎博士
731部隊(ななさんいちぶたい)は、第二次世界大戦期の大日本帝国陸軍に存在した研究機関のひとつ。正式名称は関東軍防疫給水部本部で、731部隊の名は、その秘匿名称(通称号)である満州第七三一部隊の略。このような通称号は日本陸軍の全部隊に付与されていた。初代部隊長の石井四郎(陸軍軍医中将)にちなんで石井部隊とも呼ばれる。

満州に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった[1]。そのために人体実験[2][3][4]や実戦テストまで行っていたとする説もある。細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。

目次
1 沿革
2 軍組織における位置
3 部隊の活動
3.1 防疫活動
3.2 生物兵器開発
3.3 人体実験
3.4 生物兵器の実験的使用
4 米軍 (GHQ)との取引
5 日本国への賠償請求
6 関東軍防疫給水部
6.1 組織
6.2 関東軍防疫給水部長
6.3 関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊)
6.4 支部
7 脚注
8 参考文献
8.1 書籍
8.2 その他
9 関連作品
9.1 音楽
10 関連項目
11 外部リンク

[編集] 沿革
軍隊において防疫や給水は戦力の発揮のために重要な要素である。そのため日本陸軍も、陸軍軍医学校防疫部を置いて研究を行っていた。1932年(昭和7年)8月に軍医学校防疫部の下に石井四郎ら軍医5人が属する防疫研究室(別名「三研」)が開設された。それと同時に、日本の勢力下にあった満州への研究施設の設置も着手された。そして、出先機関として関東軍防疫班が組織され、翌1933年(昭和8年)秋からハルビン東南70kmの背陰河において研究が開始された。この頃の関東軍防疫班は、石井四郎の変名である「東郷ハジメ」に由来して「東郷部隊」と通称されていた[5]。

1936年(昭和11年)4月23日、「在満兵備充実に対する意見」における「第二十三、関東軍防疫部の新設増強」[6]により関東軍防疫部の新設が提案され、同年8月には、軍令陸甲第7号により正式発足した。関東軍防疫部は通称「加茂部隊」とも呼ばれており、これは石井四郎の出身地である千葉県山武郡芝山町加茂部落の出身者が多数いたことに由来する。この際同時に関東軍軍馬防疫廠(後に通称号:満州第100部隊)も編成されている。1936年12月時点での関東軍防疫部の所属人員は、軍人65人(うち将校36人)と軍属105人であった。部隊規模の拡張に応じるため、平房(ハルビン南方24km)に新施設が着工され、1940年に完成した[5]。

1940年(昭和15年)7月、軍令陸甲第14号により、関東軍防疫部は関東軍防疫給水部(通称号:満州第659部隊)に改編された。そのうちの本部が関東軍防衛給水部本部(通称号:満州第731部隊)である。他にも支部があった。731部隊を含む関東軍防疫給水部全体での所属人員は、1940年7月の改編時で軍人1235人(うち将校264人)と軍属2005人に増加し、東京大学に匹敵する年間200万円(1942年度)の研究費が与えられていた[5]。この間、1942年8月から1945年3月には関東軍防疫給水部長が石井四郎から北野政次軍医少将に代わっていたが、引き続き731部隊などは石井の影響下にあったと見られている[7]。

1945年(昭和20年)8月、ソ連対日参戦により、731部隊など関東軍防疫給水部諸部隊は速やかに日本本土方面への撤退が図られた。大本営参謀だった朝枝繁春によると、朝枝は8月10日に満州に派遣され、石井四郎らに速やかな生物兵器研究の証拠隠滅を指示したと言う。この指示により施設は破壊され、部隊関係者の多くは8月15日までに撤収したが、一部は侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク裁判で戦争犯罪人として訴追された[8]。

[編集] 軍組織における位置
沿革の通り、731部隊は陸軍軍医学校防疫研究室の下部組織としての性格を有していた。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする者も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校防疫研究室(または陸軍防疫給水部、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポールの岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。731部隊は、そのうちの関東軍防疫給水部(満州第659部隊)の主力部隊で、最大級の設備を有してはいたが、研究全体の中心ではなく実験・検証施設であったにすぎないとする。

[編集] 部隊の活動
本部隊の活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後のアメリカ軍との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪が不問に付されたこと、および、関係者の多くが戦後医学界の中枢を構成したことなどである。戦後、ハバロフスク裁判で、本部隊がペスト・コレラ・性病などの生物兵器、びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定された。なお、近年になり米国の公文書が機密指定解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録はまだ発見されていない[9]。

[編集] 防疫活動
表向きの看板とする見方もあるものの、防疫活動は防疫給水部の重要な研究要素であり、731部隊においても731部隊第三部が担当し成果を挙げている。

1939年(昭和14年)に発生したノモンハン事件では、関東軍防疫部が出動部隊の給水支援を行っている。石井四郎が開発した石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。

1940年(昭和15年)11月に満州国の新京でペストが流行した際には、関東軍も疫病対策に協力することになり、石井防疫給水部長以下731部隊が中心となって活動している。流行状況の疫学調査や、感染拡大防止のための隔離やネズミ駆除を進めた。この点、シェルダン・ハリス(en)など、ペスト流行自体が謀略や大規模人体実験、あるいは生物兵器の流出事故といった731部隊が起こしたものであったとする論者もある[10][11]。しかし、常石敬一は、これらの自作自演説には確かな証拠が全くなく、むしろ疫学調査のデータは自然流行のパターンに一致していることなどから、自然に発生した疫病であったと結論付けている[12]。また、常石は、ハリスについて、731部隊と100部隊を混同していること、『続・悪魔の飽食』で問題になった731部隊とは無関係の写真を著書に掲載していることなどを指摘し、その著作の信頼性を疑問視している[13]。なお、当時の満州はペスト蔓延地で、1909年の大流行の際には「国際ペスト会議」を設置しての対策が行われ、日本からも北里柴三郎が出席している[14]。

[編集] 生物兵器開発
731部隊は、生物兵器の開発に重要な役割を果たしていたのではないかとも言われる。当時、生物兵器の「使用」を禁止する1925年のジュネーヴ議定書が成立していたが、日本は同条約を批准していなかった(1970年批准)。また、そもそも同条約では、生物兵器の「研究開発」や「生産」「保有」は禁止されていなかった。

日本が生物兵器の利用を真剣に検討し始めたのは、731部隊の部隊長などをつとめた石井四郎軍医の働きかけによると言われる。石井は、1928年から1930年にかけてドイツなどヨーロッパ各地やアメリカ合衆国などを視察・研究にまわり、帰国後に生物兵器の有用性を陸軍上層部に訴えるようになった。石井の主張は、細菌を使った生物兵器は資源の乏しい日本にとってコストパフォーマンスに優れた兵器であり、また世界各国も生物兵器の研究にすでに着手しているというものであった。1932年の陸軍軍医学校への防疫研究室の設置も、石井の働きかけによるとされる。

731部隊が生物兵器開発に関与したとする説によると、ペストやチフスなどの各種の病原体の研究・培養、ノミなど攻撃目標を感染させるための媒介手段の研究が行われていたという。

[編集] 人体実験
生物兵器の開発などの目的のため、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする見解がある。森村誠一『悪魔の飽食』などの本で、731部隊は捕らえた多くの朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人や捕虜等をマルタ(丸太)と呼称し、生体実験に供したと言われている(ただし、『悪魔の飽食』は、映画の画像を資料として載せていたなど信憑性に批判がでて、内容を改版している)。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上[15]とされていた。これはハバロフスク戦犯法廷での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言に基づく数値である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700-800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある[16]。終戦時には、生存していた40-50人のマルタが証拠隠滅のために殺害されたという[8]。

こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員などの関係者の証言である[2][3]。その代表的な人物が陸軍病院の軍医であった湯浅謙である。湯浅は敗戦後に中国に抑留され、捕虜として2年、戦犯として撫順戦犯管理所で3年半過ごすことになったが、その後、彼は731部隊の軍医の教育の中で「中国人を生きたまま手術して殺す」という生体解剖を実施していたと主張している[17]。2007年に、湯浅と同じく元731部隊員で中帰連の篠塚良雄(en:Yoshio Shinozuka)は、当時自身が「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことをアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている[18]。ただし、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定するに至った中国帰還者連絡会関係者などの証言については、その信憑性を疑問視する見方もある[19]。

他方、部隊の活動や証言を裏付ける文献資料は余り確認されていない。近年になり米国の公文書が機密解除されたため調査が行われたが、その中からは非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[9]。

確認されている文献史料としては、まず、「特移扱」と呼ばれるスパイ容疑者などの身柄取り扱いの特例措置に関するものがあり、これが731部隊での人体実験対象にされたことを示す隠語ではないかと推定されている。1938年1月26日に関東軍の各憲兵隊に発出された命令文書「特移扱ニ関スル件通牒」(関憲警第58号)では、スパイ容疑者や思想犯、匪賊、アヘン中毒者などを通常の裁判手続きに乗せない「特移扱」とすることができるとの指示がなされている。実際に、ソビエト連邦の諜報員(ソ諜、蘇諜等と記載)を「特移扱」とした指令書や報告書等も残存している[20][21]。また、現存する731部隊の医学的成果を常石敬一が分析したところによると、「猿」を使った流行性出血熱(孫呉熱)の病原ウイルス特定と、凍傷[22]治療の2件は、人体実験を利用して得られたものではないかと推定されるという[23]。このほか、ニューヨーク在住のノンフィクション作家である青木冨貴子によって石井四郎が終戦後に書いた手記が発見されている。それには戦後の彼の行動が克明に記録されており、戦時中の行動に関しても相当量が記載されていた。この中にも非人道的な活動を明示する内容は無いものの、青木は、隠語の一部が人体実験などを表しているのではないかと疑っている[24]。

[編集] 生物兵器の実験的使用
生物兵器について、単なる研究だけではなく、実戦使用を行っていたのではないかとの説もある。日中戦争に関しては、1947年に米軍の細菌戦研究機関フォート・デトリック(en)のノーバート・フェル博士らが行った731部隊関係者からの事情聴取によると、浙贛作戦(1942年)などで12回の使用があったとする[25]。ペスト菌汚染された蚤を空中散布したとか、チフス菌を井戸や畑の果物などに撒いた、細菌入りの饅頭を配ったなどとする証言者がいる[26]。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式報告書といった文献史料は確認されていない[25]。前述のように1940年の新京でのペスト流行を731部隊と結び付ける者もあるが、証拠が無い憶測で、自然流行と見る方が妥当と言われる。

また、ノモンハン事件においても、給水業務の傍ら、実験的な細菌戦が試みられていたとする説がある。第二次世界大戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判で「血判状など作戦関係の書類を見かけた」との供述があったとされるほか、実行に加わったとする元隊員の証言が1989年になって発表されている。これらの証言によるとチフス菌の培養液をドラム缶で運んで川に流したとされるが、科学的には加害効果がとうてい期待できないことから、研究者の常石敬一や秦郁彦はデモンストレーションにすぎないとしている。なお、前述のノモンハン事件での給水活動に対する表彰は、実際には細菌兵器使用を行ったことに対するものであったとの見方もある[27]。

このほか、太平洋戦争中のサイパンの戦いなどに際しても、島の利用を妨害するための細菌汚染が大本営などで計画され、731部隊や石井四郎も関わっていたとする説もある。初歩的な検討段階で中止されたと見られるが、731部隊から抽出された実戦要員がマリアナ諸島に派遣されたとする説もある[28]。

[編集] 米軍 (GHQ)との取引
終戦時に特別列車で日本に逃げ帰った石井ら幹部は、実験資料を金沢市に保管、千葉の石井の実家にも分散して隠し持っていた。戦後、石井は戦犯追及を恐れ、病死を装い、千葉で偽の葬式まで行い行方をくらます。

1947年1月、東京裁判ソ連側検事のヴァシリエフ少将が石井らの身柄の引渡しを要求。ソ連は既に731部隊柄沢(からさわ)班班長であった柄沢十三夫少佐を尋問し、アメリカが把握していなかった中国での細菌戦と人体実験の事実を聞き出していた。 同年2月10日、GHQはワシントンへ「石井達をソ連に尋問させて良いか」と電文を出す。同年3月20日、それに対しワシントンは「アメリカの専門家に石井達を尋問させる。重要な情報をソ連側に渡してはならない」と回答。

石井は再度のGHQの尋問に対し、人体実験の資料はなくなったと主張。さらに、アメリカの担当者ノーバート・フェル博士に文書での戦犯免責を求めると共に、「私を研究者として雇わないか」と持ちかけた。近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。

結局、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない。なお、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。

[編集] 日本国への賠償請求
詳細は「731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟」を参照

731部隊が日中戦争中に違法な生物兵器の実戦使用を行ったとし、それにより損害を受けたとする者らが、日本国を相手取って損害賠償請求を求めている。1997年には、中国人180名が、細菌戦の被害者への謝罪と賠償を求めて「731部隊細菌戦裁判」を起こした[29]。この訴訟の結果は、人体実験等の存否にかかわらず、第二次大戦についての戦争賠償・補償ついては日本と被害各国との間で条約・協定等が締結、履行された事により解決し、国際法上も日本の国家責任については決着していることから、請求棄却判決により原告敗訴となった。その後に提起された同種の訴訟も、全て原告の請求が棄却された。

安部英も731部隊での人体実験関与を経て[要出典]後に帝京大学の医学部教授に就任、その後血友病治療の権威として薬害エイズに関わり、逮捕される。

[編集] 関東軍防疫給水部
[編集] 組織
関東軍組織図[30]
防疫給水部組織表[31]
関東軍防疫給水部(通称号:満州第691部隊)
関東軍防疫給水部本部(通称号:満州第731部隊)
牡丹江支部(通称号:満州第643部隊)
林口支部(通称号:満州第162部隊)
孫呉支部(通称号:満州第673部隊)
海拉爾支部(通称号:満州第543部隊)
大連支部(通称号:満州第319部隊)
[編集] 関東軍防疫給水部長
1940年8月23日まで関東軍防疫部長
階級は就任時。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[32]。
石井四郎 軍医中佐(1936年8月1日〜1942年8月1日)
北野政次 軍医少将(1942年8月1日〜1945年3月1日)==日本学術会議南極特別委員・文部省百日咳研究会。
石井四郎 軍医中将(1945年3月1日〜終戦)==>新宿区若松町で旅館経営。
[編集] 関東軍防疫給水部本部(満州:第731部隊)
第731部隊の組織構成は、以下のとおりであった。戦後の再就職先(==>)とあわせて記載する[32]。

総務部
副官室
調査課
翻訳班
印刷班
写真班
兵要地誌班
調査班
図書班
人事課
庶務課
労務班
庶務室
食堂
酒保
学校
企画課
経理課
管理課
建設班
工務班
動力班
運輸班
電話班
軍需課
第一部(細菌研究/部長:菊池斉、北川正隆)
第一課(チフス研究)
田部班(班長:田部井和==>京都大学細菌学教授・兵庫県立医科大学教授)
第二課(コレラ研究)
湊班(班長:湊正男==>京都大学教授)
第三課(生理・マルタ管理)
吉田班(健康診断)
宮川班(レントゲン/班長:宮川正==>埼玉医科大学教授)
在田班(レントゲン)
栗秋班(薬理)
草味班(薬理研究/班長:草味正夫==>昭和薬科大学教授)
石井班(捕虜入出管理)
蓬田班(捕虜入出管理)
志村班
特別班(特設監獄)
第四課(赤痢研究)
江島班(班長:江島真平==>国立予防衛生研究所)
第五課(ペスト研究)
高橋班(班長:高橋正彦)
第六課(病理研究/課長:河本耕造)
石川班(班長:石川太刀雄丸==>金沢大学医学部長・金沢大学癌研究所所長・日本学術会議会員)
岡本班(班長:岡本耕造==>京都大学医学部長・近畿大学医学部長)
第七課
第八課(リケッチア・ノミ研究/課長:笠原四郎)
野口班(班長:野口圭一==>ミドリ十字)
第九課(水棲昆虫研究)
田中班(班長:田中英雄==>大阪市立大学医学部長)
第十課(血清研究/課長:秋元涛恵美)
内海班(血清研究/班長:内海薫)
小滝班(ツベルクリン/班長:小滝秀雄)
第十一課(病原菌研究)
肥野藤班(脾脱疽/班長:肥野藤信三==>長崎医科大学、肥野藤病院院長)
太田班(炭疽研究/班長:太田澄)
樋渡班(脾脱疽/班長:樋渡喜一==>茨城県衛生研究所、樋渡病院院長)
降旗班(ペスト研究/班長:降旗武臣)
金沢班(班長:金沢謙一)
貴宝院班(天然痘研究/班長:貴宝院秋雄==>京都微生物研究所
二木班(結核研究/班長:二木秀雄==>ミドリ十字共同設立者)
所属課不詳
笠原班(ウイルス研究/班長:笠原四郎==>北里研究所)
吉村班(凍傷研究/班長:吉村寿人==>京都府立医科大学学長・日本学術会議南極特別委員・生気象学会会長)
流行性出血熱研究班(班員:所安夫==>東京大学教授・帝京大学教授・熱海所記念病院)
第二部(実施研究)
八木沢班(植物菌研究/班長:八木沢行正==>国立予防衛生研究所・日本抗生物質学術協議会理事)
焼成班(爆弾製造)
気象班
航空班
無線班
田中班(ペスト蚤増産研究/班長:田中英雄==>京都大学講師、大阪市立大学医学部長)
篠田班(昆虫研究/班長:篠田統==>京都大学理学部、大阪教育大教授)
安達実験場
第三部(防疫給水)
庶務課
第一課(検索)
第二課(毒物検知/課長:川島三徳)
第三課
濾水班
給水班
運輸班
工作班(濾水機)
濾水機・弾筒製造窯
第四部(細菌製造/部長:川島清 軍医少将==>ハバロフスク裁判被告、八街少年院医師)
第一課(培養生産/課長:柄沢十三夫 軍医少佐、鈴木啓之)
野口班(ペスト・脾脱疽/班長:野口圭一)
第二課
第三課(乾燥菌・ワクチン/課長:三谷恒夫)
第四課(ワクチン/課長:小滝秀雄)
有田班(発疹チフス・ワクチン/班長:有田正義)
植村班(瓦斯壊疽・脾脱疽/班長:植村肇==>文部省保健教育課)
所属課不詳
朝比奈班(発疹チフス・ワクチン/班長:朝比奈正二郎==>国立予防衛生研究所)
細菌戦研究班(班員:園口忠男==>陸上自衛隊衛生学校副校長、増田美保==>防衛大学校教授)
教育部(隊員教育/部長:西俊英 軍医中佐)
庶務課
教育課
衛生兵
炊事班
診療所
錬成隊
少年隊
資材部(実験用資材)
庶務課
第一課(薬品合成)
山口班(細菌弾/班長:山口一季==>国立衛生試験所)
堀口班(ガラス/班長:堀口鉄夫==>国立予防衛生研究所)
第二課(購買補給)
第三課(濾水機)
第四課(倉庫)
第五課(兵器保管)
第六課(動物飼育)
診療部(付属病院)
伝染病棟
診療室
家族診療所
憲兵室
保機隊
[編集] 支部
牡丹江支部(満州第643部隊;支部長:尾上正男 軍医少佐)
総務課
経理課
第一課
第二課
第三課
資材課
教育課
林口支部(満州第162部隊)
総務課
第一課
第二課
資材課
教育課
孫呉支部(満州第673部隊;支部長:西俊英 軍医中佐)
総務課
第一課
第二課
資材課
教育課
海拉爾支部(満州第543部隊;支部長:安東洪次==>東京大学伝染病研究所教授・実験動物中央研究所所長、春日忠善==>北里研究所・文部省百日咳研究会)
総務課
第一課
第二課
資材課
教育課
大連支部(満州第319部隊)
総務部
研究部
製造部
[編集] 脚注
^ 『在満兵備充実ニ関スル意見』(1936年4月23日付 板垣征四郎関東軍参謀長から梅津美治郎陸軍次官宛書類)の「其三、在満部隊ノ新設及増強改編」の項目第二十三には「関東軍防疫部の新設増強予定計画の如く昭和十一年度に於いて急性伝染病の防疫対策実施および流行する不明疾患其他特種の調査研究 ならびに細菌戦準備の為関東軍防疫部を新設す 又在満部隊の増加等に伴い昭和十三年度の以降其一部を拡充す関東軍防疫部の駐屯地は哈爾賓附近とす」とあり、関東軍防疫給水部の設立目的のひとつが「細菌戦準備」であったことがはっきりと明記されている。
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^ 中国黒龍江省档案館・中国黒龍江省人民対外友好協会・日本ABC企画委員会編『七三一部隊 罪行鉄証 関東憲兵隊「特移扱」文書』「[4][5]
^ 「凍傷ニ就テ(第15回満州医学会哈爾濱支部特別講演)」満州第731部隊陸軍技師 吉村寿人 国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵
^ 秦(1999)、552-553頁。
^ 青木冨貴子「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く」新潮社(新潮文庫)、2005年。ISBN 4-10-373205-9
^ a b 秦(1999)、561頁。
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^ 秦(1999)、556-558頁。
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^ 731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟
^ 関東軍組織図 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%96%A2%E6%9D%B1%E8%BB%8D%E7%B5%84%E7%B9%94%E5%9B%B3.pdf
^ 防疫給水部組織表 http://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E9%98%B2%E7%96%AB%E7%B5%A6%E6%B0%B4%E9%83%A8%E7%B5%84%E7%B9%94%E5%9B%B3.pdf
^ a b 731細菌部隊の全貌 http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm
[編集] 参考文献
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明示してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。

[編集] 書籍
青木冨貴子 『731 石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』 新潮社 2005年 ISBN 978-4-10-373205-1(文庫 2008年 ISBN 978-4-10-133751-7)
軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会(編) 『日本医学アカデミズムと七三一部隊』 風社新、1990年。新装版:樹花舎、1993年
近藤昭二(編) 『731部隊・細菌戦資料集成』CD-ROM 柏書房、2003年 ISBN 4-7601-2404-7
田中明、松村高夫(編)『十五年戦争極秘資料集29 七三一部隊作成資料』 不二出版、1991年
「731部隊員作成による人体実験-きい弾(イペリット弾)曝射実験や破傷風菌接種実験-における被験体経過観察報告書」などを収載
田辺敏雄 『検証 旧日本軍の「悪行」―歪められた歴史像を見直す』 自由社、2002年 ISBN 4-915237-36-2
常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年 ISBN 4-06-149265-9
同上 『医学者たちの組織犯罪―関東軍第七三一部隊』 朝日文庫 1999年 ISBN 4-02-261270-3
同上 『戦場の疫学』 海鳴社 2005年 ISBN 4875252269
同上 『謀略のクロスロード 帝銀事件捜査と731部隊』 日本評論社 2002年 ISBN 4-535-58337-4
秦郁彦 『昭和史の謎を追う (上)』 文春文庫、1999年 ISBN 4-16-745304-5
森村誠一 『悪魔の飽食 新版』 角川文庫、1983年 ISBN 4-04-136565-1
[編集] その他
小泉純一郎(内閣総理大臣)「衆議院議員川田悦子君提出七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問に対する答弁書」 2003年10月10日 (川田悦子 「七三一部隊等の旧帝国陸軍防疫給水部に関する質問主意書」 2003年10月3日提出への応答)
[編集] 関連作品
[編集] 音楽
池辺晋一郎 混声合唱組曲『悪魔の飽食』、1984年。原詩は森村誠一。
スレイヤー 米国のスラッシュメタルバンド。2009年発売のアルバム・『血塗ラレタ世界』収録の「ユニット731」。
[編集] 関連項目
悪魔の飽食
731部隊細菌戦国家賠償請求訴訟
516部隊
帝銀事件
ハバロフスク裁判
[編集] 外部リンク
松村高夫 『731部隊と細菌戦に関する鑑定書』 2001年2月5日 慶應義塾大学名誉教授
土屋貴志 『同志社大学文学部「倫理学特論」講義ノート目次』 大阪市立大学文学部准教授
『10. 日本の医学犯罪(1)概説』
『11. 日本の医学犯罪(2)生物兵器の使用』
『12. 日本の医学犯罪(3)軍医の訓練(「手術演習」)』
『13. 日本の医学犯罪(4)研究(人体実験)』
山本真-大分協和病院医師(編) 森下清人-元七三一部隊少年隊2期生(回答) 『七三一部隊元隊員証言記録』 1991年9月インタビュー
『日本大百科全書』(小学館)の「七三一部隊」の項目
100,000 Pages Declassified in Search for Japanese War Crimes Records
この「731部隊」は歴史に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ歴史)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A」より作成
カテゴリ: 出典を必要とする記事/2011年2月 | 大日本帝国陸軍の部隊 | 関東軍 | 日本の戦争犯罪 | 生物兵器
隠しカテゴリ: 中立的観点に議論ある項目 | 参照方法 | 歴史関連のスタブ項目
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コメント
 
1. 中川隆[-5883] koaQ7Jey 2018年1月22日 12:43:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
昭和天皇の命令で行なわれた(?)生体実験

731部隊の全貌
http://www7a.biglobe.ne.jp/~dev2ec82/index.htm

731部隊・石井四郎の野望・元部隊員の証言
http://www.youtube.com/watch?v=-qOV2saI5kQ


 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた
東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は
教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。
それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。

 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま
喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。

それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、
初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。

堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に
喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、
その病因を究明するためのものだった。

 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。
いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。

やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。
耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていく
あの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。

私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。
それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……
http://hide20.blog.ocn.ne.jp/mokei/2008/05/post_44a5.html


実験その1。

厳冬の厳しい真冬の寒さの中に「マルタ」を長時間置き、凍傷を作りその治療をするという人体実験。

この場合限界まで外に置き完全に凍傷をさせる死の直前まで外に置く。

死んでは治療が出来なくなためです。そして体に出来た各部の凍傷を治療するという人体実験。

零下40度cの中に、長時間置かれるだけでも苦痛なのに。凍傷しているかを試すのに、
角材で、手、足を殴り、痛いうちはまだ凍傷になって
いないため更に、長時間、外に凍傷するまで置かれたという。

実験その2。

腹部に銃弾を撃ち込み、その銃弾の摘出手術をするという人体実験。
治癒するまでの時間がどの位掛かるのか。


実験その3。

無理やり全身麻酔の注射をして、人体を解剖し、足、腕、を切断し、接続する人体実験。
頭部を切り落とし脳の中の仕組みを調べる。


実験その4。

「マルタ」の男女にセックスをさせる実験。目的は梅毒に感染させるため。
日本兵が梅毒に感染した時の治療方法の研究。


実験その5。

細菌に感染させる人体実験。チフス、ぺスト、コレラ、赤痢、結核、梅毒等に感染させて、
その病状の変化の様子を克明に記録した。


実験その6。人間はどの位食べ物を摂らずに生きていられるかの実験。

兵士の背負う重装備の「背嚢」→はいのう。約30キロはある重い物を
背負わせ。5時間〜6時間歩かせ、水、食べ物をも与えず何日位位耐えられるのか。

あるいは飲料水と乾パンだけで、何日耐えられるか。

この実験には2人の中国人が使われた。何も与えない人。水と乾パンだけの人。
それぞれのデーターが記録された。


実験その7。

臓器摘出の人体実験。「マルタ」に全身麻酔をして、切り開かれた体内の臓器に、
刺激を与えどのような反応をするのかの人体実験。

そして摘出をして、ホルマリン漬けにする。まだぴくぴくと動いていたという。


実験その8。

「マルタ」を逆さつりにして、何時間何分で死に至るのかの人体実験。
身体の各部はどのように変化するるのかのテスト。


実験その9。

猿や馬の血液と人間の血液の交換実験。「マルタ」の体内血液を全て抜き取り、
どの位の分量の血液が搾り取る事が出来るかの人体実験。


凍傷の人体実験では、極寒の零下40度に長時間放置し、冷凍人間に近いものを作って
人体実験をした部分は記載中涙が止まらなかった。何故そのような事が行われたのか?

答えは、かってシベリア出兵の時日本軍は凍傷に悩まされた経験を持っていました。
この凍傷の克服のために731部隊では、凍傷実験が行われたのです。

この実験で手足を無くした「マルタ」の身体は、かろうじて残された頭部だけです。
そして最終的には毒ガス実験などに「再利用」されたという

その他「マルタ」を柱に縛り付け、空中から細菌爆弾を投下し効果がどの位あるのかを実験した。
「細菌の効力を確かめるため」

毒ガス実験では、ガラス張りの中に「マルタ」を入れ、毒ガスで死亡していく経過を映像に記録したり。絵画を描いたという。
http://homepage2.nifty.com/yocyan1854/ikari4.htm

そやね。私たちが片付けにいったとき、中国の女の人がありましたね。

梅毒の実験の。スペロヘータの実験の。それは思い出ありますね。

えーと、やられた先生は、園田中佐。教育隊の中佐のね。

それで私たちが入ったのは梅毒のそれをやったあとですから、恥部をずうっと切り開いとったですね。

その実験がどういうようにしたとかはお聞きになりましたか?

いやー、それは聞いてない。それは恥部と、それとあばらを開いとったですね。

その中をどうあたっていたかは覚えてないですね。顔とかはあたってないです。
まあ、そのような繰り返しです。
http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm


その真空試験いうのは?

結局カプセルの中に入れて空気を抜くわけです。そうすると穴という穴から腸とか全部飛び出してくるいうて、凄かったらしいです。

それを言われた方、覚えていますか?

はい、1班におったのですね。茨木の方です。4年次になってちょっとして聞いたですね。

何班ですか?

それは研究班になるんですね。岡本班ですね。どういう意味でやったのかそこまで聞かなんだけどね。
http://tenjin.coara.or.jp/~makoty/library/memory731.htm


証拠隠滅=殺しつくし、焼きつくす

 撤収作業で緊急を要したのは、マルタの処置であった。

 ロ号7,8棟に、青酸ガスを噴出させて、かなりのマルタを殺した、
また、私たちが直接手を出さないで確実に殺す方法を編み出した。

つまり、マルタ2人を互いに向かい合わせ、首にロープをまき、その中央に棒を差し込んで、2人がねじるのである。

もちろん、私たちはかたわらで銃を構えている。2,3分で2人とも自らの首を自らの手で締め上げていった。

この方法で私たちは多数のマルタを殺した。また、その他いろいろな方法で、マルタを整理したのである。

 私たちは、マルタを殺す前、マルタ自身に溝を掘らせてから処置することも忘れなかった。

そんな時、彼らは足かせを引きずりながら、生気の無いドロンとした眼で、シャベルや鍬(すき)をにぎっていた。
きっと、その溝が何のためのものかわかっていたのだろう。
http://xa0007.blogspot.com/2009/10/731_27.html


アメリカが主導した○○○○の戦争犯罪の証拠隠滅

○○○○と731部隊


欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。

 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、その地で、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。その中心になったのが陸軍軍医少佐の石井四郎であった。

 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他の石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。

 そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。

 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。

 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。

 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 戦後、アメリカは731部隊幹部の尋問を細菌兵器の専門家に担当させた。
ところが、731部隊幹部は事実を隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。

 1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊員の尋問を要求した。ソ連とアメリカの交渉により、人体実験のことが明らかになると、アメリカは人体実験・細菌戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。

 731の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務部の活動はアメリカ自身の手によって強制的に停止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。

 マッカーサーと本国アメリカとの交渉の中で、データの独占のこともあったが、もう1つの大きな懸案は、天皇にその責任が及ばないようにすることだったのではないか?

 マッカーサーは当初から日本の占領にあたって、天皇の力を利用しようと考えていた。

 また、マッカーサーは自国の遅れていた細菌兵器の開発に日本軍のデータが役立つだろうと見ていた。何としても、細菌戦や細菌兵器のデータが欲しかった。
 731部隊の戦犯追及をすると、そのデータは独占できなくなり、またその責任が天皇に及ぶのを恐れたのではないか?

 (ドイツでは人体実験にかかわった医師などが「ニュルンベルグ継続裁判」によってアメリカの手によって裁かれている!最高責任者ヒトラーはすでに自殺している。)

 日本政府とアメリカは、一緒になって、731の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。

昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。

新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。

 それ結果、裁判で国民の前に731の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任は問われなかった。

※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。(『死の工場』ハリス著:柏書房)

・天皇裕仁は、明らかに、2度にわたって石井の実演を目にしている。

1度目は1933年に陸軍軍医学校を視察した折、もう1度は恒例の天皇訪問の際の、海軍の艦船上においてである。石井が濾水機の1つに放尿し、その濾過水を飲み干すよう天皇に恭しく差し出したとされているのは、天皇が視察したそうした折のことだった。・・・天皇はその申し出を断り、そして石井は尿を濾過したその水を見るからに嬉々として飲み干したという。

・軍医中将で元関東軍軍医部長の梶塚隆二によれば、石井は「天皇の軍令」によって1936年に平房の実験を開始する許可を与えられたと言う。・・・・梶塚によれば、その後1939年に、天皇は、石井の特殊部隊を再編成するようさらにもう1つ軍令を発布した。・・・・

 石井が東京の高い地位のところに、ひょっとすれば最も上のところに味方を持っていたことは明らかである。


・軽く見てはならないのは、石井と若松の部隊は、裕仁の勅令によって設立された部隊であるという事実である。他の多くの部隊は、必要とされた時に陸軍の内部で適当な司令官によって設立された。

・軍事細菌研究のさらにもう1つの拠点が長春の第100部隊(部隊長:若松有次郎)であった。作戦任務のための資金供給は莫大かつ無制限だった。部隊は2つの経路から資金を得ていた。すなわち、東京の陸軍省と、関東軍司令部の第2部である。(陸軍省から人件費60万円の予算が、100万円が関東軍司令部の第2部から攻撃的生物戦の研究のために支出された。731部隊の予算総額は1000万円、人件費300万円、20万から30万が各支部の運営費、600万円が細菌製造、実験、研究費用である。しかも731部隊の予算は国会の場で細部を発表されることはなかった。関東軍の獣医将校は、生物戦の資金は底なしだと自分は理解していたと語っている。)

・石井はノモンハン事件の間に彼が行ったサービス業務に対する褒美として、天皇の玉璽の押してある大変名誉な政府表彰を受けた。彼の部隊は、同じ戦闘中における英雄的な行動に対して、天皇から価値ある表彰状を贈られた。

このことも、またしても無二の名誉だったのである。他の医療部隊も日本の戦争において勇敢に働いた。それなのに、20世紀において他の医療部隊が天皇の表彰状をその業務に対して受けたことはない。裕仁が、これらの名誉ある賞を与える前に、いくらかの調査を行ったのではないかと疑ってもおかしくない。

 (1939年に発生したノモンハン事件では、出動部隊の給水支援を行うことになり、石井式濾水機などを装備した防疫給水隊3個ほかを編成して現地へ派遣し、部長の石井大佐自身も現地へ赴いて指導にあたった。最前線での給水活動・衛生指導は、消化器系伝染病の発生率を低く抑えるなど大きな成果を上げたとされる。その功績により、第6軍配属防疫給水部は、第6軍司令官だった荻洲立兵中将から衛生部隊としては史上初となる感状の授与を受け、石井大佐には金鵄勲章と陸軍技術有功賞が贈られた。)

・『731部隊−天皇は知っていたか?』と題されたそのドキュメンタリーは、2人のベテランのテレビジャーナリストによって製作された。・・・アメリカ、イギリス、その他の連合国軍の西洋人捕虜が、人体実験の犠牲になったことが暴露された。その上、ドキュメンタリーの製作者・ナレーターは、天皇が満州での細菌戦の人体実験を知っていたことを強く示唆している。

・1930年代において、くるくる替わった日本の内閣においては役目を果たすように〔大臣職に〕任命された軍部のリーダーたちは、誰もが満州で起こっていることを認識していた。参謀本部のスタッフ〔立案者〕とその上司たちは、石井、若松、北野のプロジェクトに精通していたし、細菌兵器の開発研究を助けた。・・・・

 何千人もの、もしかしたら何万人もの陸軍の軍医や獣医、生物学者、化学者、微生物学者、技術スタッフその他の似たような職の人々が、定期的に交代で満州や〔その他の〕中国占領地に派遣されている。(731部隊には専用の飛行場があり、専用の飛行機も複数持っていた。東京⇔ハルピン間を何度も往復して情報交換や物資の輸送などをしていた。また、他の部隊との連絡にも使った。)

・軍部を除けば、外務省が平房での秘密の任務について認識していたことは確実と思われる。それは、ハルピンの日本領事館の地下室がマルタの留置場として使われていたことからも言える。

・東久邇は早い時期に、平房の施設を旅先で訪れている。

・1939年2月9日に、裕仁の弟である活発な秩父宮は、陸軍省の大会議室で、2時間半にわたる石井の「雄弁な」講演に出席した。

・天皇の一番下の弟である三笠宮は、施設の多くに立ち寄った。

・竹田宮は関東軍の首席主計官として、満州におけるすべての細菌戦の関連施設に割り当てられる金を扱った。・・・また、平房〔の施設〕に立ち入る際には竹田宮・宮田が発行した通行証を求める必要があった。関東軍司令官もしくはその直属の部下が731部隊を訪れるときは、竹田宮自身が彼らの一行に混じって彼らをエスコートした。

・天皇は、その倹約〔の精神〕でも知られていた。彼は常々、役に立たないもしくは取るに足らないプロジェクトのために、政府の支出が無駄に使われないよう懸念していると表明していた。細菌戦のプログラムは、国の資源の大規模な乱費であった。第2次世界大戦中、平房、長春、奉天、南京の主要な基地および多くの支部施設は、少なくとも1500万円から2000万円、多分それ以上の年間予算を食い潰して機能していたに違いない。天皇が軍事予算を詳細に調べたなら、満州やその他の中国における何千もの人員の滞在は、天皇にとって関心事だったはずである。裕仁はまた、特別の武器研究にその使途を限定された秘密の帝国予算を持っていたが、それが満州や中国において細菌戦の研究に使用されていても何の不思議も無い。

・裕仁は細菌戦の研究については知っていたのだろうか。おそらくイエス、であろう。このプロジェクトは、単純に、天皇の目から隠しおおすには、大規模すぎた。費用も、天皇の政府費用に対する鋭い関心から逃れるには巨額すぎた。・・・・最終的に、大日本帝国において、政策決定は政府の最高レベルで行なわれるべきものであって、陸軍の将軍たちの気まぐれでできるものではなかったのである。

(以上『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳より抜書き)

・731部隊の組織犯罪については、関東軍という日本陸軍の一駐留軍の指揮命令系統下にあった。部隊そのものは関東軍司令官の直轄であり、あらゆる人体実験も形式上は司令官の命令無しには行なわれえなかった。また、731部隊以外の「防疫給水部隊」(北京、南京、広東など)も日本陸軍の中国派遣軍の指揮下にあった。

日本陸軍を統括していたのは陸軍省であり、その上には天皇がいた。したがって731部隊の人体実験の最終責任者も天皇である。(『検証 人体実験 731部隊・ナチ医学』小俣和一郎著:第3文明社)

http://blog.livedoor.jp/nobug51/archives/1103925.html


戦後も731部隊出身研究者の大活躍が続きます

石井四郎が京都大学医学部の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学や京都大学を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校校長、国立予防衛生研究所所長、大阪大学微生物病研究所幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯岸信介らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い徐々に弱まって来ている。

1947年、国立予防衛生研究所の幹部となった北岡正見(旧731部隊ウイルスリケッチア部長)らは府中刑務所の受刑者を使って発疹チフスの人体実験を行った。

1950年、GHQとコネができた内藤は、後年に薬害エイズを引き起こすミドリ十字の前身の日本ブラッドバンク(6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次とサンダース中佐が顧問)を創立した[7]。

1952年の名古屋市立乳児院事件では、乳児達に対して大腸菌を直接飲ませて激しい下痢を起こさせるという人体実験を行い乳児一人を殺している。乳児達は親のいない子が多く拒むことはできなかった。名古屋市立大学小児科の旧731部隊員小川二郎が中心となり石井四郎のネットワークの一つである東京1644部隊にいた小川透、東大伝染病研究所(現在の医科学研究所)、国立予防衛生研究所が協力して行った実験であった。

同1952年、日本学術会議総会において若手医学者達が731部隊について反省・総括が必要と主張。それに対し戦前からの医学界の重鎮である戸田正三(石井の京大での恩師で731部隊に積極的に協力してきた)は「細菌兵器は今日ほとんど実用になりません。実用にならぬものを苦労して日本で作るというバカが出ましたら、そんなバカなことをするなという勧告を私からよく致しますから、どうかその点、ご安心ください」と回答した。

1956年、新潟精神病院ツツガムシ病人体実験では、新潟大学医学部の桂重鴻教授らと旧731部隊の北岡正見、浅沼靖が協力して、149人の精神病患者にツツガムシの病原体(リケッチア)を投与し、8人が死亡、9人が腕から皮を剥がされる結果となった。これはアメリカ軍の生物兵器部隊406研究所の出資により行われた、米軍にツツガムシ病がでないための実験であった。

1967年、ミドリ十字は赤痢予防薬の人体実験を陸上自衛隊員を使って行い、1089人中577人に急性食中毒を起こさせた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の跡があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。

1993年、大阪大学微生物病研究所(旧731部隊渡辺栄らが作ったワクチンメーカー)はMMRワクチン(はしか、おたふく風邪、風疹の三種混合ワクチン)のおたふく風邪ワクチンの成分を厚生省に無断で変えて無菌性髄膜炎を多発させ2人の幼児を死亡させた。

近年、アメリカのダグウェイ実験場でも731部隊の人体実験のデータが発見され公開されている。その中には実験で標本にされた人体の顕微鏡写真も含まれていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A


細菌戦部隊を支えた主な人物 戦後の就職先

安東洪次(大連衛生研究所→武田薬品顧問)

石川太刀雄丸(731郡隊→金沢大医学部)

江島真平(731部隊→国立予防研究所〔予研〕)

緒方富雄(防疫研究所〔防研〕→東大医学部)

岡本耕造(731部隊→兵庫医大・東北大等)

小川透(1644部隊→名古屋大医学部)

笠原四郎(731部隊→北里研究所)

春日仲善(731部隊→北里研究所)

北野政次(731部隊→ミドリ十字取蹄役)

木村廉(防研→京大細菌学教室)

草味正夫(731部隊→昭和薬科大)

小島三郎(1644部隊→予研第2代所長)

児玉鴻(731部隊→予研初代所長)

正路倫之助(防研→京大)

園口忠男(731部隊→陸上自衛隊衛生病学校、熊本大)

田中英雄(731部隊→大阪市立大医学部長)

田部井和(731部隊→京大医学部)

所安夫(731部隊→東大病理学、帝京大医学部)

内藤良一(防研→ミドリ十字会長)

中黒秀外之(731部隊→陸上自衛隊衛生学校校長)

細谷省吾(防研→東大伝染病研究所長)

増田美保(731部隊→防衛大学)

湊正男(731部隊→京大)

村田良介(防研→予研第7代所長)

八木沢行正(731部隊→抗生物質協会)

山口一季(731部隊→国立衛生試験所)

吉村寿人(731部隊→京大航空医学教室、京都府立医大)

柳沢謙(防研→予研第5代所長)
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/731butaiseturitu.htm


七三一部隊と「ミドリ十字」

 帰国した次の日、二十日の「しんぶん赤旗」で、私は「ミドリ十字」の見出しの
小さな記事を目ざとく見つけた。「七三一部隊はこうしてまだ息の根を止めていない」と、怒りがわいた。

 某病院の照会に、C型肝炎汚染の血液製剤の納入はしなかったとうそをついていたミドリ十字が、実は納入していたことを認めていたニュースだった。このため、医師は汚染血液製剤を患者に使ってしまっていた。

 薬害エイズの問題を初めとし、人工血液で捏造問題を次々起こしている「ミドリ十字」の前身「日本ブラックバンド」は、
七三一部隊二代目の元部隊長、北野政治が創設した会社であることは、誰もが知っている事実である。

命を何とも思わない考えは脈々と流れているではないか。
これは偶然ではなく、中国で行った人体実験の実績が利用された疑いも、最近濃厚になっているという話もあるくらいだ。

 七三一部隊の責任者だった石井四郎は、許しがたいことにアメリカ軍との取引で、
細菌戦の膨大な資料の提供と引き換えに戦犯を免れているのである。
当然一級戦犯になるべき人物が!

 アメリカの侵略戦争は、マルタとなった命を踏みつけて、
さらに罪なき人の屍を無数に積み上げる人でなしの行為である。
http://www.akazukin-sanae.com/column/china2004/c05_03.html


2. 中川隆[-5882] koaQ7Jey 2018年1月22日 12:44:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
731部隊の真実  〜エリート医学者と人体実験〜
NHKスペシャル 2017年8月13日 170813 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=731%E9%83%A8%E9%9A%8A%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F+%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E5%8C%BB%E5%AD%A6%E8%80%85%E3%81%A8%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93%EF%BD%9E

731部隊の真実 〜エリート医学者と人体実験〜

初回放送

総合 2017年8月13日(日)
午後9時00分〜9時49分

戦時中、旧満州で密かに細菌兵器を開発し実戦で使用した、731部隊。部隊が証拠を徹底的に隠滅、元隊員が固く口を閉ざしたため、その実像を知る手がかりは限られてきた。

今回NHKは、終戦直後、旧ソ連で行われたハバロフスク裁判の音声記録を発掘。20時間を越える記録では、部隊中枢メンバーが、国防や国益のためとして細菌兵器を開発した実態、そして旧満州で日本に反発していた中国や旧ソ連の人々を「死刑囚」とし、細菌兵器開発の「実験材料」として扱っていた実態を、克明に語っていた。

さらに、元隊員の資料や当時の学術界の膨大な記録からは、軍だけでなく学術界からも多くの研究者が部隊に参加していた実態が浮かび上がってきた。満州事変以降、学術界が軍と関係を深めていった過程、そして日本軍が旧満州で反発する人々を死刑にすることについて世論の支持が高まる中で「死刑囚」を研究に活用する動きが相次いでいた実態も明らかになってきた。

731部隊はどのようにして生まれ、そして医学者たちは、どう関与していったのか。数百点にのぼる資料をもとに、731部隊設立の謎に迫る。


3. 中川隆[-5881] koaQ7Jey 2018年1月22日 12:46:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人戦犯8人目・榊原秀夫の供述書公開 731部隊の細菌戦に協力(一)〜(二)
http://j.people.com.cn/n/2014/0711/c94474-8754210.html
http://j.people.com.cn/n/2014/0711/c94474-8754240.html

4. 中川隆[-5871] koaQ7Jey 2018年1月22日 20:09:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

凍傷実験(黒い太陽) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=wJJ2en75guk

5. 中川隆[-5870] koaQ7Jey 2018年1月22日 20:13:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

映画 731部隊 黒い太陽731 悪魔の飽食:復号731 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=c3aL9XqmvHw

6. 中川隆[-5869] koaQ7Jey 2018年1月22日 20:16:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

unit731 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BUJsksb6b34

2017/05/16 に公開


7. 中川隆[-5868] koaQ7Jey 2018年1月22日 20:27:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
 

731部隊の真実 前編
生理学的実験
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen009.html


731部隊では、凍傷実験、ガス壊疽実験、銃弾実験などのように、人体を極限まで破壊すると、人体はどのくらいの期間持ちこたえることができるのか、あるいはそこからどのように治療すれば回復させることができるのか、といった生理学的な研究も頻繁に行われた。こういった実験は、731部隊以外の陸軍病院などでも行われた[29]。

731部隊の憲兵班の曹長であった倉員サトルは、ハバロフスク裁判において、凍傷実験を目撃した様子について次のように証言している。 「生きた人間を使用する実験を私が初めて見たるは、1940年12月のことであります。第1部員である吉村研究員がこの実験を私に見せてくれました。(中略)私が監獄の実験室に立ち寄リました時、ここには長椅子に5人の中国人の被実験者が座っていましたが、これらの中国人の中2人には、指が全く欠け、彼らの手は黒くなっていました。三人の手には骨が見えていました[30]。」

731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、子持ちの慰安婦を解剖した時のことを次のように回想している。「子どもが泣いている前で母親が死んでいった。子どもはどうするのかと思っていると、凍傷(の実験台になった)。それをざんごうに放り込んで埋める。本当に悲惨なことがたくさんあった[31]。」

さらに、同じく731部隊の印刷部員だった上園直二は、「2人の白系ロシア人の男性が零下40度から50度の冷凍室の中に素裸で入れられていました。研究者たちが彼らが死んでいく過程をフィルムに撮影していました。彼らはもがき苦しんでお互いの体に爪をめり込ませていました。」という証言をしている[32]。

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟の友人から次のような証言を聞き出している。「ときには、マルタが3、4人ずつで中庭の散歩を許された。この時は、手錠だけで足枷は外されたようだ。自分が見た中で忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられたマルタが、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった[33]。」

1935年から1936年にかけて背陰河の東郷部隊に傭人として勤めた栗原義雄は、水だけを飲ませる耐久実験について、「自分は、軍属の菅原敏さんの下で水だけで何日生きられるかという実験をやらされた。その実験では、普通の水だと45日、蒸留水だと33日生きました。蒸留水を飲まされ続けた人は死が近くなると『大人、味のある水を飲ませてくれ』と訴えました。45日間生きた人は左光亜(サコウア)という名前の医者でした。彼は本当にインテリで、匪賊ではなかったですね[34]。」と語っている。

細菌爆弾の効果測定

731部隊では、単なる生物兵器に留まらず、ペスト菌や炭疽菌を砲弾や爆弾に詰め、大砲や飛行機で都市に散布するための研究が行われた。731部隊は、細菌爆弾や砲弾の改良や性能を調べるための屋外実験場を安達に持っていた。マルタを使用した安達実験場での爆弾実験は、新型爆弾の開発が追い込みにかかる1943年末以降に活発化したことが資料や証言で明らかになっている[35]。731部隊の第4部細菌製造部第1班班長であった柄沢十三夫は、ハバロフスク裁判の判決準備書面で「昭和18年末あるいは19年の初めに安達付近演習場にて人体および動物に関する実験が行われたり」と述べている[36]。この時は炭疽菌爆弾の実験が行われ、犠牲となったのは10〜20人であり、その他に馬20頭についても実験が行われたという[37]。炭疽菌爆弾の場合、マルタは榴流弾の弾子で負傷し、血だらけとなる。マルタは担架で部隊に運ばれ、どのような傷であれば感染が起こるか、何日間で発病するか、そしてどのように死んでいくかが観察された。多くの場合、全員が感染し、数週間以内に死亡している。最後には内臓のどの部分が最もダメージを受けたかを明らかにするために、解剖された[38]。

石井部隊長の施設秘書的存在として活動していた、731部隊の女性隊員郡司陽子は、同じく731部隊の隊員であった弟から、安達実験場での細菌爆弾の効果測定にマルタが使用されていたことを示す次のような証言を聞き出している[39]。

「やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「丸太」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)

覆面トラックから降ろされた「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)

「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。

そこは、「丸太」の地獄だった。「丸太」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた物、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「丸太」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」


--- 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』(1983年8月31日初版、徳間書店、94-97頁 ---
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen009.html


731部隊の真実 後編 
性病実験と女性マルタ
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen010.html

また731部隊では、性病実験も頻繁に行われた。戦時中の性病治療法は極めて限られており、主な方法は注射しかなかったが、性病の蔓延は陸軍内部で深刻なほど拡大していた。例えばシベリアでは多くの日本兵が現地のロシア人女性を強姦したために性病が蔓延し、1個師団相当の兵力が失われたとされ、軍紀が乱れる大きな原因となった[40]。司令部は、731部隊がこの問題を解決するよう期待したのである。

当初、731部隊では注射で女性マルタに梅毒を感染させていたが、現実に即した実験結果が得られなかったため、マルタを強制して性行為を行わせることで梅毒を感染させ、梅毒にかかった男女を小部屋に入れて再び性行為を強制した。性病に感染すると、その経過を丹念に観察して、1週間後、3週間後、1ヶ月後における病気の進行状態を確認した。研究者は性器の状態など外部的兆候を観察するだけでなく、生体実験を行って様々な内部器官の病気がどの段階に達しているかを検査した[41]。また、731部隊の研究員だった吉村寿人(のちの京都府立医大学長)が戦後に発表した論文には、乳児を氷水の中に漬けた際の温度変化が記録されていることから、実験中のレイプにより生まれた乳幼児、あるいは731部隊に捕えられる前から妊娠中だった女性マルタが出産した多くの乳幼児が凍傷実験に使用されたものと考えられている[42]。

元731部隊員の胡桃沢正邦は、生体解剖時の麻酔から目覚めた女性マルタの様子について次のように証言している。

(インタビューワーの女性) 「眼は開いているの?」

(胡桃沢正邦) 「眼は開く場合もある。」

(インタビューワーの女性) 叫んだりする人もいた?.....何と言ったの?」

(胡桃沢は力なく泣き始め) 「そのことは2度と思い出したくない!」

(胡桃沢は謝罪し、数秒後しゃくりあげながら答えた) 「『私は殺されてもよいが、子供の命だけは助けてください』と言った」。


--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」廣済堂出版、2002年、45-46頁 ---

手術演習[編集]

中国大陸の陸軍病院で幅広く行われていたという「手術演習」という名の生体解剖も、731部隊で頻繁に行われていたと考えられている。拡大を続ける中国戦線において、傷病兵を素早く治療して戦場に送り返すためには軍医が外科手術の腕をあげる必要があり、そのために中国人の生体解剖が頻繁に行われたのである。

731部隊員ではなかったが、軍医として中国に滞在した3年半の間に、14人の中国人を生きたまま解剖して殺したという湯浅謙は、最初に経験した手術演習の様子を次のように語っている。

「手術演習は外科医を速成させるための練習だった。今思って異様なのは、その場にいた皆が2人の中国人を見てニヤニヤ笑い、普通の顔をしていたことだった。集まっていたのは、軍医、衛生兵そして看護婦だった。(中略)1人はもしかしたら八路軍の兵士だったろう、堂々として悠然と自分でベッドに横たわった。部屋の中には手術刀、ノコギリそれにメスなどがあり、自分の運命は分かっていた。彼の心の中は日本に対する憎しみで溢れていただろうが、自分たちは皆、日本軍の威厳に八路軍の兵士が屈したと変な満足感を覚えていた。その彼の胸を開け、内臓を次々に取り出していった。もう1人は本当に近所の農民だったろう、ベッドに行こうとせず、「アイヤー、アイヤー」と泣きわめいた。看護婦は、「麻酔をする、痛くない」と下手な中国語で言い含め、麻酔を打った。その時、彼女はニヤと私を見たのだった[43]。」


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、99頁 ---

なお、731部隊との関連性が疑われている、1989年に7月東京都新宿区戸山で発見された大量の人骨には、四肢が様々な位置で切断された形跡が残っている。11個の頭蓋骨と長骨のほとんどには、鋸で引いた跡やドリルで穴を開けた跡があった。頭蓋骨には銃撃されたものがあり、鋭利な刃物で刺された頭蓋骨も1つあった[44]。

そして1992年4月、札幌学院大学教授の佐倉朔の鑑定結果により、人骨について次のような事実が明らかになっている。

1. 人骨は100体分以上のものである。

2. 人骨は一例を除き人種的にはモンゴロイド(アジア系の人種)だが、単一の人種からなるものではない。

3. 10数個の頭蓋骨には人為的な加工の跡がある。

4. いくつかの頭蓋骨その他には、拳銃で打ち抜かれた孔や刀で切られた跡が残っている。

5. 骨が現地に埋められたのは1890年〜1940年頃までの間である。

6. 人骨は四股の骨の多くは何ヶ所かで切断された形跡がある。


--- 常石敬一 『七三一部隊 生物兵器犯罪の真実』 講談社現代新書 1995年、107頁 ---

以上の理由から常石敬一は、凍傷や壊死など、四肢の切断を必要とする手術の練習台に、これらの人骨が使用されたのではないかと指摘している[45]。
http://www.geocities.jp/ns2ganta/731sen010.html


8. 中川隆[-5876] koaQ7Jey 2018年1月23日 08:39:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

BS1スペシャル「731部隊 人体実験はこうして拡大した/隊員たちの素顔
2018.01.21 by Kenhasejp - Dailymotion
http://www.dailymotion.com/video/x6dhev7
http://www.dailymotion.com/video/x6dhg47

9. 中川隆[-5875] koaQ7Jey 2018年1月23日 08:42:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

731部隊に関与した医師・医学関係者     作成者:小俣和一郎
https://web.archive.org/web/20150807215132/http://hirukawamura.web.fc2.com/731/731.htm

 

氏名(生没年)・出身地・卒業校(卒業年)・職歴・勤務地・地位・最終階級・戦後履歴

*顔写真あり

 

1.石井四郎(1892[3?]−1959)Ishii Shiro *

千葉県(千代田村加茂)・京大医学部卒(1920)・陸軍軍医・1930陸軍軍医学校教官・1932東郷部隊長(背陰河)・石井部隊(のち731部隊)長・軍医中将・1939ノモンハンで細菌戦指揮・1940寧波細菌戦(ペスト菌散布)指揮/記録映画撮影・1942チェーガン細菌戦(ペストノミ散布)指揮・1945/731部隊長(再任)/対ソ細菌戦準備・1945平房から逃走(大連より帰国?)・1946初頭に尋問(A.T.トンプソン獣医中佐)・1947年5月以降に再尋問(フェル、ヒル)・東一で癌死(喉頭癌、67歳)


2.北野政次(−1986)Kitano Masaji *

東大医学部卒(1920)・陸軍軍医・軍医学校教官・満州医科大学教授(細菌学/瀋陽1936−42)・731部隊長(1942・8−1945・3)・上海派遣軍軍医部長・軍医中将・1945上海で中国軍捕虜・1946上海から帰国(脱獄?)・日本ブラッドバンク東京支部長(のちミドリ十字役員)・「防疫秘話」ほか(日医新報)執筆・日本学術会議第一期南極特別委員

3.梶塚隆二(1888−)Kajitsuka Ryuuji

田尻市・東京大学医学部卒(1914)・東一勤務・陸軍省医務局衛生課長・関東軍軍医部長(1939−45)・細菌爆弾の実験・軍医中将・ハバロフスク裁判被告・1956帰国


4.増田知貞(1901−52)Masuda Tomosada *

石川県金沢市・京大医学部卒(1926)・陸軍軍医学校防疫研究室・多摩部隊(南京1644部隊)長(1939‐45)・軍医大佐・千葉で開業まもなく交通事故死(頭部外傷)


5.内藤良一(―1982[1?])Naito Ryouichi *

1931京大医学部卒・陸軍軍医学校防疫研究室・1937−39ドイツ・アメリカへ派遣・1939輸血用血液の凍結乾燥を実用化(国産第一号の凍結真空乾燥機製造)・南方軍防疫給水部設立・軍医中佐・GHQと取引き(サンダース通訳)・(株)日本ブラッドバンク社長(1950)・1977勲三等旭日中綬章


6.北条円了(1894‐)Houjou *

防疫研究室・1933東郷部隊・1941ベルリン大使館付・1945年6月20日米軍に逮捕・軍医大佐・


7.西村英二()Nishimura Eiji


8.金子順一()Kaneko Junnichi

東大卒・伝研・東郷部隊・東芝生物理化学研・軍医少佐・1947フェルにより尋問


9.北川正隆(−1943)Kitagawa Masataka

731部隊第二部長・南方軍防疫給水部隊初代部長・軍医大佐・1943年5月飛行機事故死


10.朝比奈正二郎 ()Asahina Seijirou

731部隊昆虫班・戦後予研(昆虫部長)


11.梅沢浜夫 ()Umesawa Hamao

予研

12.所安夫 ()Tokoro Yasuo

東大助手・軍医中尉・1943/731部隊(石川の後任)・診療部・帝京大教授

13.白川初太郎()Shirakawa Hatsutaro

軍医学校防疫研究室・

14.高橋正彦()Tkahashi Masahiko

731部隊・軍医少佐/731部隊第一部(ペスト菌)・戦後千葉県茂原市で開業

15.永山太郎()Nagayama Taro

731部隊診療部長・軍医大佐

16.園田三郎()Sonoda Saburo

731部隊教育部長・1942

17.園田太郎()Sonoda Taro

軍医少佐/731部隊病理

18.川島清(1893-)Kawashima Kiyoshi

千葉県(山武郡)・1934東郷部隊・731部隊第四部長(1941−43)・ハバロフスク裁判被告・1956帰国、千葉県八街市少年院医師

19.柄沢十三夫(1911‐1956)Karasawa Tomio

長野県(豊里)・東京医学専門学校・軍医学校・731部隊第四部第一課長(川島の部下)・安達の野外人体実験(炭疸菌/1943)・ハバロフスク裁判被告(禁固20年)・軍医少佐・1956年11月自殺(帰国直前)

20.貴宝院秋雄()

京都府立医大講師・防疫研究室・1939/731部隊・1942南方軍防疫給水部(シンガポール)・結核菌研究・京都微生物研

21.三谷幸雄()

731部隊第四部第二課長(乾燥菌の製造)・軍医少佐

22.降旗武臣()Orihata Takeomi

軍医少佐・731部隊第一部(ペスト菌)

23.佐々木義孝()Sasaki Yositaka

軍医中佐・孫呉支部長(1940−43)・

24.榊原秀夫(1908-)Sakakibara Hideo *

1934岡山医大卒・1940軍医学校入学・1941漢口第11軍軍医・1942チャムス代10師団防疫給水部長・1944林口支部長・軍医少佐・1956年中国で裁判・1957年釈放帰国、山口県内の総合病院勤務医

25.秦正氏()Hata Masaujji

千葉医科大学卒・1941第28師団軍医・1944/731部隊総務部翻訳班長・軍医中尉・1951逮捕・1956中国人民法廷被告・

26.西俊英(1904-)Nishi Toshihide

鹿児島県・北京防疫給水部・1944年731部隊教育部長・1943年孫呉支部長兼任・軍医中佐・ハバロフスク裁判被告・世田谷区で開業

27.尾上正男(1910-)Ogami Masao

鹿児島県・1943牡丹江支部長・軍医少佐・ハバロフスク裁判被告

28.加藤恒則()Kato Tsunenori

ハイラル支部長・軍医少佐

29.安東洪次()Andou Kouji *

大連衛生研究所長・1939/731部隊大連支部長(二等技師)・1947帰国・東大教授(伝研)・日本モンキーセンター所長

30.菊池斉()Kikuchi Hitosi

731部隊第一部(研究部)長・軍医少将・1947尋問(N.H.フェル)

31.荻原

大連

32.碇常重()Ikari Tsunesige

731部隊第二部(実験部)長・軍医大佐・ノモンハン細菌戦(1939)決死隊長・1947尋問(フェル)

33.太田澄()Oota Kiyosi *

岡山大学医学部卒・731部隊総務部(第四部)長・南京1644部隊長・1941常徳細菌戦指揮官・1943再び常徳細菌戦(コレラ)指揮・軍医大佐・1947尋問(フェル)・山口県で開業・自殺

34.村上隆()Murakami Takasi

軍医大佐・ノモンハン細菌戦・1947尋問(フェル)

35.佐藤俊二(1896-)Sato Shunnji

愛知県(豊橋市)・医科大学卒(1923)・軍医学校防疫研究室・関東軍第五軍医部長・軍医少将・ハバロフスク裁判被告・1956年帰国

36.羽山良雄()Hayama Yoshio

南方軍防疫給水部隊長(1943−45)・軍医少将・

37.目黒 正彦()Meguro Masahiko *

軍医少佐、大連衛生研

38.山下 昇()Yamasita Noboru

曹長・1952中国で供述書

39.山口 省一()Yamguchi Shouichi

軍医大佐・初代林口支部長

40.荒瀬 清一()Arase Seiichi

軍医少佐・第二代林口支部長

41.藤野 恒三郎()Fujino Kouzaburo

南方軍給水部・技師・阪大教授(生物学研)

42.小林栄三()Kobayashi Eizou

軍医中尉・

42.安東清()Andou Kiyoshi

慶応助手・軍医中尉・慶応助教授

43.三井但夫()

多摩部隊・慶応大助教授・予研検定部長

44.湊正男()Minato Masao

京大医学部卒(1935)・平房731部隊コレラ班長・奉天/鉄西捕虜収容所でも人体実験

45.石川太刀雄丸(?−1973)Isikawa Tachiomaru *

京大講師(清野の弟子)・1938/731部隊六等技師・1943帰国(840の剖検標本を持参)・金沢医大教授(病理)・同大医学部長・日本ブラッドバンク企業株主

46.田名部(田部井?)和()Tanabu Nagomu

京大助教授(細菌学)・731部隊・1945帰国・兵庫医大教授

47.吉村寿人(1907−90)Yshimura Hisato(Toshinndo?)*

1930京大医学部卒・京大講師(1936、生理学)・731部隊凍傷研究班長(1938)・1945帰国・1950−52英文日本生理学会誌に論文発表・日本学術会議南極特別委員会委員・生気象学会長・1967京都府立医大学長・1972兵庫医大教授・1980神戸女子大教授/1978勲三等旭日中授賞

48.二木秀雄()Futaki Hideo

731部隊六等技師・結核班長・金沢医大(細菌学)・戦後日本ブラッドバンク

49.渡辺辺(‐1940)Watanabe Hotori

熊本医専卒・京大・731部隊第四部長・二等技師(コレラ)・1940年10月新京ペスト作戦中オートバイ事故死

50.渡辺廉()Watanabe

陸軍一等軍医・東郷部隊・

51.岡本耕造()Okamoto Kouzou *

京大助手(病理)・731部隊コレラ・ブルセラ・ペスト・近畿大学医学部長・兵庫医大教授

52.林一郎()Hayashi Ichiro

京大助手(病理)・731部隊・自主的に帰国・京大講師・長崎医大教授

53.斉藤幸一郎()Saito Koichiro

京大助手(生理)・1938/731部隊・1941帰国・山口医専教授・長崎医大教授

54.石野琢次郎()Ishino Takujiro

京大(外科)・石川の協力のもと肝切除実験・戦後医学部同窓会誌『芝蘭』第79号に回想文(1977)

55.池田苗夫(1902−90)Ikeda,

1929新潟医大卒・1940/731部隊・軍医中佐(流行性出血熱で人体実験)・戦後(1958)大阪で開業(皮膚科・性病科)・日本伝染病学会誌に1942当時の記録を発表(1967/68)

56.田中英雄 ()Tanaka Hideo *

京大講師(医動物)・731部隊(昆虫研究、ペスト蚤増産)・大阪医専・大阪市大医学部長

57.田中巌 ()Tanaka Iwao

軍医大佐・広東波部隊長

58.岡田啓(−1945)Okada Hiraku

東大医学部卒・社会主義者(クリスチャン)・増田の義弟・伝研・1945自殺

59.宮川米次()Miyagawa Yoneji

北京・伝研教授(細菌学)・公職追放・東芝生物物理化学研究所長

60.神林浩()Kanbayasi Hirosi

陸軍省医務局長・軍医中将

61.小泉親彦 (―1945)Koizumi Chikahiko *

近衛師団軍医部長・1933陸軍軍医学校長・1934陸軍省医務局長(軍医総監)・1941第三次近衛内閣+東条内閣厚生大臣・1945自殺

62.小島三郎()Kojima Saburo *

1935伝研教授・1941+1944多摩部隊・1947ヒルによる尋問・1954予研第二代所長(1954−)

63.福見秀雄()Fukumi Hideo

多摩部隊(1944)・予研所長(インフルエンザワクチン禍)・長崎大学学長

64.細谷省吾()Hosoya Shougo

東大医学部卒・1936台北大医学部教授・破傷風トキソイドの人体実験・1937軍医少尉・東大伝研教授・朝日賞受賞

65.柳沢謙()Yanagisawa Yuzuru

東大伝研・内藤とともに凍結乾燥BCGの研究に人体実験・予研第五代所長・朝日賞受賞

66.笠原四郎()Kasahara Shiro

北里研究所員・1939/731部隊(六等技師)・北研副所長・都立豊島病院

67.宮川正

東大・731部隊レントゲン班長・東大教授・

68.谷口腆二()Taniguchi

東大卒・防疫研究室嘱託・大阪大学・デング熱・浅川賞受賞・阪大微研観音寺研究所長・第二期日本学術会議会員

69.小林六造()Kobayashi Rokuzo

慶応大学(北研所員兼務)・予研初代所長

70.小酒井望()Kozakai Nozomu

防疫研究室・軍医中尉・順天堂大学付属病院長

71.石光薫()Ishii Kaoru

東大卒・技師・731部隊(破傷風菌人体実験)

72.村田良介()Murata Ryosuke

南京多摩部隊・予研所長

73.有田正義

軍医少佐・731部隊第三部(ワクチン開発)

74.内野仙治(?−1957)

京大教授(生化学)・防疫研究室嘱託・名古屋市大学長

75.上田正明

赤痢菌

76.上田弥太郎()Ueda

1938陸軍入隊・承徳陸軍病院衛生兵・1941/731部隊・1943離隊・1956人民法廷被告・

77.浜田豊博

78.山之内裕次郎

731部隊(ブルセラ)・ヒル+ヴィクター尋問

79.早川清()Hayakawa Kiyosi

731部隊(ツツガムシ)・南方軍・軍医少佐・早川予防衛生研究所開業

80.鈴木啓之()Suzuki

731部隊・軍医中佐

81.清野謙次()Kiyono Kennji

京大教授(病理学)・京都の古寺から骨董品を窃盗・辞任

82.木村廉 ()Kimura

京大教授(細菌学)・京大名誉教授(内藤の恩師)・名市大学長・日本学術会議会員

83.戸田正三(1885−19 )Toda Shouzo

京大教授(衛生学)・金沢大学学長(1949−61)・日本学士院会員・日本学術会議第一期南極特別委員

84.正路倫之助(1886−1962)Masamichi Rinnnosuke

京大教授(生理学)・兵庫県立医大学長・日本学術会議会員

85.緒方富雄(1901−)Ogata Tomio

東大助教授(伝研・病理)・陸軍嘱託・秋元を派遣・東大教授(学生部長)

86.緒方規雄

87.木下良順(1893−)Kinosita

阪大教授(病理)・六研嘱託

88.波多野輔久(1898−)Hatano

熊本医大教授(病理)・七研嘱託

89.田崎一二(1910−)Tazaki Kazuji

陸軍技研嘱託

90.田宮猛雄()Tmiya Takeo

東大・北京・伝研所長・東大医学部長・国立ガンセンター総長・日本医師会長

91.中山英司(1904−)Nakayama Eiji

京大講師(解剖)・陸軍省嘱託

92.青木義勇(1905−)Aoki

長崎大名誉教授

93.篠田統()Shinoda Osamu

京大理学部(昆虫学者)・北京・大阪教育大教授(−1965)

94.秋元寿恵夫()Akimoto Sueo

731部隊秋元班(血清)・1945帰国・秋元波留夫の実弟

95.井口昌夫(1904−)Iguchi Masao

慶応助手(細菌学)・軍医学校嘱託

96.大林静男(1911−)Oobayashi Shizuo

慶応助手(細菌学)・陸軍嘱託

97.小林栄三(1901−)Kobayashi Eizo

慶応助教授(細菌学)・軍医学校嘱託

98.田辺操 (1895−)Tanabe Misao

京城大助教授・軍医学校嘱託

99.田村乙一(1900−)Tamura

軍医学校嘱託

100.谷友次(1896−)Tani

金沢医大講師・軍医学校嘱託

101.遠藤雄三(1912−)Endou Yuuzou

慶応助手

102.阿部俊男()Abe Toshio

伝研・新京衛生技術廠長

103.井田清()Ida Kiyosi

伝研・100部隊技師

104.野星隆一

105.菅原敏()Sugawara

106.遠藤武()Endo Takesi

107.中井俊夫() Nakai Toshio

108.井沢馨()Izawa Kaoru

109.村田礼二()Murata Reiji

110.佐藤清()Sato Kiyoshi

111.竹脇潔()Takewaki Kiyoshi

112.大月明(1910−)Ootsuki Akira

京大助教授・大阪市立医専教授(細菌学)

113.宮内正広()Miyauchi Masahiro

114.長谷川昇()Hasegawa Noboru

115.江口豊潔()Eguchi

陸軍軍医学校防疫学教室・一等軍医・神奈川県で開業

116.井上隆朝()Inoue

117.勝矢俊一()Katsuya

118.小嘉多晴雄

防疫研究室嘱託

119.山内豊紀()

1938防疫研究室技師・731部隊(渡辺辺の助手)・戦後に囚人暴動事件を証言

120.永井寅男(1914−)Nagai Torao

北大助手(生理学)・軍医学校嘱託

121.安部英(1916−)Abe Takesi *

東大医学部卒・海軍軍医学校・内藤と関係・帝京大副学長・薬害エイズ事件被告

122.作山元治 ()Sakuyama Motoharu

軍医少佐・防研

123.津山義文 ()Tsuyama Yoshifumi

1943−45軍医学校・

124.浅沼靖 ()Asanuma Yasushi

1942−43・731・伝研(田宮の部下)

125.土屋毅 ()Tsychiya Tsuyoshi

南京・順天堂名誉教授

126.山田秀一 ()Yamada Shuuichi

大連・熊本大教授・横浜市衛生局長

127.山中太木 ()Yamanaka Motoki

南京・大阪医科大学長・日本微生物学会長(1974)

128.川上善 ()Kawakami

京大・満州で死亡

129.近喰秀大 ()Konjiki

南京(1644)

130.秋貞

満州医大・731(赤痢)

131.内海 ()Utsumi

731部隊(血清)

132.江島真平 ()Ejima Shinpei

731部隊(赤痢)・国立予研

 

(以下、非医師)

133.天辰良道()

長崎薬専・薬剤中佐

134.川島三徳()

東大・薬剤大尉

135.増田美保()Masuda

東京薬専/薬剤少佐・石井の親類・自衛隊勤務

136.増田美積()Masuda *

731部隊航空班長・細菌散布

137.大谷()

731部隊資材部長・薬剤少将・

138.草味正夫()Kusami Masao

薬剤中佐・昭和薬科大教授

139.山口忠重(山納?)

金沢医大・1939・731部隊/薬剤大尉・1940薬剤少佐・南京1644へ/興和化学東京研究所長

140.若松有次郎()Wakamatsu Yujiro

獣医少将・1941/100部隊長(関東軍軍馬防疫廠)・1945帰国・

141.高橋隆篤(1888‐1952)

秋田県・東大農学部卒(1928)・1935関東軍獣医部長・100部隊を監督・軍医中将・ハバロフスク被告・1952年夏脳出血死

142.平櫻全作(1916-)

石川県金沢市・獣医中尉・100部隊員・ハバロフスク裁判被告・

143.八木沢行[和?]正()Yagisawa Kazumasa *

北大理学部(植物学)・戦後日本ペニシリン協会事務長・国立予研

144.朴沢三二()Hoozawa Sanji

東北大学(昆虫学)

145.加藤陸奥雄()Kato Mutsuo

東北大(昆虫学)・東北大学長

146.栗原義雄

東郷部隊雇員

147.田村良雄(旧姓・篠塚)(1923−)

1939・731部隊少年隊員/1941雇員(第四部)/1952中国で拘束

148.山下昇

149.熊沢治郎吉

東京工業試験所第三部長

150.河島千尋

東京工業試験所(珪藻土)・東京工業大学教授

151.安川隆()Yasukawa

水産講習所・食品衛生・水産大学長(?)

152.竹田宮 Takeda

昭和天皇の従兄弟(明治天皇の孫の一人)・関東軍司令部作戦部副長・石井部隊担当・中佐・戦後は竹田恒徳として日本スケート連盟会長・1962日本オリンピック委員会長

153.石井剛夫

石井四郎の実兄・731部隊構内監獄監督者

154.石井三男

石井四郎の実兄・731部隊動物舎管理

155.荻原英夫

156.荻原周夫

航空班操縦士、細菌爆弾の投下

157.在田勉

158.三友一男(1924-)

埼玉県・農業学校卒・100部隊員・ハバロフスク裁判被告・

159.菊池則光(1922-)

愛媛県・農業学校卒・643部隊衛生兵・ハバロフスク裁判被告

160.久留島祐司 (1923-)

香川県・162部隊衛生兵・ハバロフスク裁判被告・

161.森三吾

162.堀口正雄

163.高木貞次郎

164.成井昇

166.高見忠男

167.津田玄郎

168.山下正

731部隊カメラマン

169.胡桃沢正邦

731部隊解剖助手

170.石橋直方

 

171.上園直二

731部隊総務部印刷班

172.山田乙三 (1882?−1965)Yamada Otozou

1939日本軍教育総監・関東軍司令官(1944−45)・ハバロフスク裁判被告・

173

 

174.保利信明

海軍軍医中将

175.山本本治

100部隊・獣医

 

 

*1945年8月撤退時731部隊の博士号をもつ医官は53名いた。731部隊の最大人員数は約3900人(支部含め)といわれ、陸軍防疫給水部隊の総数は約5千人といわれる。
https://web.archive.org/web/20150807215132/http://hirukawamura.web.fc2.com/731/731.htm
 


10. 中川隆[-12541] koaQ7Jey 2018年5月25日 06:16:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14293]

驚愕!御用医学者をさかのぼると、すぐに731部隊に行き着く
http://www.asyura2.com/14/genpatu38/msg/205.html


御活躍中の御用医学者と731部隊の関係を調べてみた。意外と簡単に結びつくので驚いた。
(以下敬称略)

まずは長崎大学から。

==== 長崎大学医学部(旧長崎医大) ====

山下俊一、高村昇らが活躍(暗躍)する長崎大医学部は元731部隊関係者の巣窟であった。
少なくとも次の4人が関係者だと言われている。

林一郎(病理) 長崎大学名誉教授・日本先天異常学会会長
斎藤幸一郎 (生理) 長崎医科大学教授・金沢医科大学第1生理学教室教授
青木義勇 (細菌) 長崎医科大学教授
福見秀雄 (細菌・防疫) 長崎大学学長・長崎大学教授・ 国立予防衛生研究所(予研)第6代所長

福見秀雄は1980年に長崎大学学長に就任。
同年、長瀧重信が医学部教授に、のちに医学部長になっている。
長瀧の教え子が山下俊一、そのまた教え子が高村昇である。

長崎大医学部は、731部隊直系の研究組織と言ってよい。
そして、そこから御用学者が何人も出ていることは決して偶然ではない。


==== 重松逸造 ====

重松逸造は御用医学者を語る上で極めて重要な人物、キー・パーソンである。

彼は終戦当時、ラバウルで海軍軍医をしており、731部隊で研究していたわけではないようだ。
しかし彼の恩師や同僚は731関係者が非常に多い。とくに長崎大教授たちとは深い交流があった。
福見秀雄とは共著で論文を書いているし、林一郎とも知己であった。
斎藤幸一郎とは金沢大で働いている。
その金沢大(旧金沢医大)も、戸田正三、石川太刀雄丸、二木秀雄などが在籍し、長崎大と並ぶ
731出身者の巣窟であった。

重松は彼らから731部隊の悪魔的な思想・精神をしっかりと受け継いだと考えてよい。

米国が組織した原爆傷害調査委員会(ABCC、Atomic Bomb Casualty Commission)の
日本側初代代表は都築正男だったが、GHQの原爆に関する研究発表禁止に反発し追放処分となり、
その後継者となったのが重松である。(まともな人間がハネられるのは原子力ムラの常である)

ABCCはデータを取るだけで全く治療をしてくれない、と原爆被爆者の激しい非難を浴びた。

そのABCCは1975年に放射線影響研究所(放影研)に改組され、重松は第3代理事長となり、
1981年から16年にも渡り、原爆被害の隠蔽・過小評価に尽力した。
そのあとを継いだのが弟子の長瀧重信で、第4代理事長に就任した。

重松、長瀧とも1960年前後にハーバード大学に留学している。
当時は、特別なコネでもなければ海外渡航はできなかった時代である。
奨学金をもらい留学"させてもらった"のかもしれない。要するに米国(IAEA)のヒモつきだ。
恩義があるから米国の言うなりであり、原爆の被害を過小評価するのは当然のことであろう。
(アメとムチは米国のお家芸であり、安部首相の祖父・岸信介はA級戦犯だったが、
 無罪放免と引き換えに米国の走狗となった)

重松は水俣病、イタイイタイ病、スモン病など多くの公害、薬害事件において、事実を隠蔽・改ざんし、
常に政府・企業側に有利な報告をでっち上げている。

また長瀧らとチェルノブイリ原発事故の調査をし、住民に健康被害はないとのトンデモ報告書をまとめ、
全世界から非難を浴びた。(このときの後援者がIAEAと結託した笹川財団である)
重松はIAEA、ICRP、WHOの委員も務めている。

彼は筋金入りの御用である。困ったことに弟子も多い。
2年前に彼が亡くなったときには、あちこちで歓声が上がったという。むべなるかなである。


==== 広島大学医学部 ====

長崎大と比べて、広島大には731部隊の主だった関係者は在籍していなかったようだ。
しかし放影研、重松逸造との関係は深い。

まずは原子力安全委員会委員の久住静代(放射線影響学)。20ミリシーベルト提案者である。
彼女は重松の教え子であり、放影研、広島大学原爆放射能医科学研究所(原医研)で働いている。

次に神谷研二教授。原医研所長であり、福島県立医科大学副学長に就任した。
この人も重松の弟子であり、長瀧重信とも仕事をしている。

原医研では2006年に放射性ヨウ素131のずさんな取り扱いが内部告発で明らかになり、
文科省による立ち入り調査を受けた。
しかし研究総括責任者の神谷は政治力を駆使、「訓告」だけですんだ。

ほかにも原医研では不祥事が多く、1969年に患者に他人のがん細胞を注射し、体内で生成された抗体を
また元のがん患者に注射するという731顔負けの人体実験が発覚、担当助教授は辞任した。
また2005年、腫瘍外科研究分野の教授が医師派遣に絡む受託収賄容疑で逮捕された。


==== 国立公衆衛生院 ====

東大系の研究所では、国立公衆衛生院、東大医科学研究所(旧伝染病研究所)、
国立感染症研究所(旧国立予防衛生研究所)の3つが731部隊との関わり合いが深い。

まず国立公衆衛生院であるが、関東大震災の復興援助として、ロックフェラー財団から
建物・設備が寄贈されたのがその始まりである。

ここの疫学部長に就任したのが野辺地慶三である。彼は1923年、ハーバード大学に留学、
帰国後数々の業績をあげ「公衆衛生の父」と呼ばれている。
1958年にはABCCの疫学部長に就任している。

この人物も731部隊、そして米国との関わり合いが深い。
戦後、百日咳の研究で、731部隊の最高幹部であった北野政次、安東洪次と協力している。

重松逸造は野辺地の教え子で、1966年に疫学部長に就任している。

国立公衆衛生院は2002年、改組により国立保健医療科学院となり、
現在は、汚染食品からの被ばくは小さいなど安全キャンペーンをやっている。


==== 東大医科学研究所(旧伝染病研究所) ====

上昌広教授、坪倉正治医師の所属する医科学研究所(医科研)は、初代所長があの北里柴三郎で、
由緒ある、エリート医学者のための研究所である。

しかし第7代所長・田宮猛雄は731部隊への人材供給役であった。
宮川米次(第5代伝研所長)、細谷省吾、小島三郎、柳沢謙、金子順一、安東洪次、緒方富雄、浅沼靖
などの研究者が731部隊に関与したと言われる。戦後、何食わぬ顔で東大教授になった人もいる。

戦後、731部隊長・北野政次が伝研に現れたとき、もっとも北野を庇護したのがこの田宮であったと言われる。

戦後、田宮は731部隊で得た成果を利用し、リケッチアによる伝染病、つつが虫病の研究で有名になり、
国立がんセンター初代所長、そして日本医師会会長まで登りつめ、医学界のボスとして君臨した。

水俣病では田宮委員会を組織し、熊本大医学部の有機水銀中毒説をつぶし、被害を拡大させた。

田宮が初代所長になった国立がんセンターだが、ここも問題が多い。

上昌広は、2001年から国立がんセンターで造血器悪性腫瘍の臨床研究をしていた。
国策遂行が最優先され、臨床試験を効率よく行なうために、重篤患者を切り捨て他の病院に回すのが
当たり前だったと語っている。患者の命よりも研究成果が重視されるのだ。

「国立病院に生き続ける陸海軍の亡霊」 (MRIC Vol.198 2008/12/22)
http://mric.tanaka.md/2008/12/22/_vol_198.html

ちなみに、2011年9月に山下俊一は、日本対がん協会(垣添忠生会長)から「朝日がん大賞」を受賞したが、
垣添は元国立がんセンター総長であった。まさにズブズブの関係だ。

フィルムバッジを福島住民に配布することを提言したのもここ。

ここも汚職など不祥事が相次ぎ、2010年に独立行政法人へ移行、国立がん"研究"センターと改称している。

インタビューで、上教授は福島で収集したデータが高く売れると話している。
http://www.asyura2.com/13/genpatu32/msg/595.html

住民の命、健康を守ろうという姿勢は全くうかがえない。彼にとって福島は金ヅルでしかないようだ。
"モルモット"が逃げ出さないよう、後輩の坪倉正治を福島に派遣して安全デマを流布している。

「将来奴ら(福島県民)は、集団訴訟とかするんやろなあ」と酔って話したという話も伝わっている。
しかしまるで他人事、責任感は全く感じられない。
http://blog.goo.ne.jp/mayumilehr/e/aacebb2e3d5f936dce460130bdfd2f30


==== 国立感染症研究所・旧国立予防衛生研究所(予研)====

戦後、米軍命令で予研が設立され、伝染病研究所から約半数が移籍している。
ここもまさしく731部隊の牙城、再就職先であり、柳沢謙(結核研究)、そして前述の福見秀雄など
何人もの731関係者が在籍した。

そして、戦後も米軍と協力して密かに人体実験を続け、犠牲者を出している。
ここにそのまとめがある。福見秀雄の名前が何度も出てくる。
出展は、新井秀雄著「科学者として」(幻冬社)

「わしの本の予定と、『予研』問題のコンジョいる入門講座」 (宮崎学 2000/11/6)
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/8536/yoken.htm

薬害エイズの非加熱製剤を合格させたのも予研である。
また予研は1947年から1975年にかけてABCCに協力をしている。

1989年、住民の反対を押し切って、東京・新宿区戸山の旧陸軍軍医学校跡地に予研の建物を建設工事中、
大量の人骨が見つかった。ここには731部隊の日本における拠点があったため、その関連性が疑われている。
犠牲者の怨霊のしわざだろうか、ぞっとする事件である。

予研は薬害エイズ等であまりにも評判が悪くなったためか、1997年に国立感染症研究所に改称された。
(不祥事が起きると組織名を変えてごまかすのが日本の伝統である)

福島関連では、被ばくとは直接関係ないこともあって、この研究所の御用活動は今のところ目立っていない。
しかし、マイコプラズマ肺炎や風疹など得体の知れない感染症が流行し始めており、今後は要注意である。
これは稼ぎ時とばかりに、製薬会社とグルになって、効果ゼロかつ危険な副作用をもつワクチンをでっち上げ、
強制接種すべしと圧力をかけるかも知れない。

ちなみに、ここの先生方は子宮頸がんワクチンの恐ろしい副作用を「気のせい」と判断している。


==== 放射線医学総合研究所 (放医研) ====

中川恵一准教授が所属する放医研では、宮川正名誉教授が重要人物である。
http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/kouhou/1232/4.html

この訃報には陸軍軍医として戦時医療に従事されたとあるが、実は731部隊レントゲン班であった。
何をしていたかは容易に想像がつく。

戦後、東京大学医学部放射線科教授、埼玉医科大学教授などを歴任している。
放医研の立ち上げに尽力。放医研は原子力総本山のIAEAとも深い協力関係にある。

彼の弟子が、元放医研所長の佐々木康人教授(現・日本アイソトープ協会・常務理事)であり、
ICRP委員も勤めている。その教え子が、われらが中川先生である。

驚くべきことに、彼の恩師をたった2代さかのぼれば731部隊にたどり着くのである。

また中川と同じく、安全だ安全だと繰り返す明石真言は、この研究所の理事である。

ここも法令違反など度重なる不祥事が起きている。そのうち名称が変わるであろう。
いつも内部被曝は無視するから、放射線外部被曝研究所とでも名付けたらよかろう。


以上、簡単にまとめてみたが、みなさんの感想はいかがだろうか。

あまりにも御用医学者たちが731部隊と簡単に結びつくのにびっくりしたのではないだろうか。
正直、私も驚いた。

活躍中の御用医学者の恩師をさかのぼれば、直接または重松逸造を介して731部隊関係者にたどりつく。
世の中は広いようで狭い。すべて御用の道は731に通ず、というわけだ。

日本の医学界イコール731部隊であり、御用医者のみならず誰をさかのぼっても731部隊に行き着く、
という指摘もあるが、これは荒っぽい性急な議論であろう。

なぜなら、731関係者が多かった組織ほど重大な社会問題を引き起こしているからである。
予研がそうであり、また731部隊員の受け皿であったミドリ十字(旧日本ブラッドバンク)も
薬害エイズを引き起こした。人命軽視、成果・利益最優先の結果である。

本来ならきちんと裁判を行ない、731部隊の行なった残酷な人体実験の責任を明確にし、
関係者を処罰し、医学界から追放すべきだった。
しかし米国と闇取引をして、実験の成果を渡す代わりに全員が無罪放免になった。米国も共犯である。

731関係者は何一つ罪を問われなかったために、人命を軽視し、人間を当たり前のように実験台に使い、
成果を自分の昇進や金儲けに使うおぞましい伝統が日本の医学界に生き残り、はびこってしまった。

国家のため医学のためという大義名分の下に、何千人もの捕虜や住民を丸太(マルタ)と称して使い、
血も凍るような凄惨な人体実験を繰り返した731部隊の思想・精神は、脈々と後進に受け継がれているのだ。

そして今、その何百倍、何千倍という規模の人体実験が福島を中心に行なわれているのである。

731の人体実験の背景には、日本人の民族的優越感があり、劣等民族は犠牲になって当然という
差別意識があった。長年そう思っていたが、福島の事故でこれは正しくないことを思い知らされた。
彼らは、自らの利益のためには、たとえ同胞であろうと誰でも容赦なく犠牲にするのだ。

御用医学者たちが鼻血を必死で否定するのも、被ばく被害に気づかれて、"モルモット"が汚染地帯から
逃げ出してしまうと困るからである。

私は、福島その他の汚染地帯にいる人たちに何度でもこう言いたい。

「あなたたちは、あの悪魔のような731部隊の末裔によってモルモットにされているのですよ。
彼らの言うことを信じてはいけません。
犠牲になりたくなければ、一刻も早くお逃げなさい」


(参考資料・リンク)
「悪魔の飽食」(森村誠一著・角川書店)

「731部隊に関与した医師・医学関係者」
http://hirukawamura.web.fc2.com/731/731.htm

「731部隊関係者のその後および厚労省との関係」
http://www5.ocn.ne.jp/~kmatsu/iryou/731butai/kitikunoshokugyou.htm

「731部隊展2014」
http://ameblo.jp/supportvictim731/archive-201404.html

「被曝をめぐる御用学者の系譜」 (ArecoNote3 2011/6/4)
http://arita.com/ar3/?p=4674

「731細菌戦部隊残党と長崎大学の放射線医学者たち」
(真相究明・堀田伸永オフィシャルサイト 2012/1/21)
http://kyumei.me/?p=807

「重松逸造のエリートならざる足跡をたどる」 (堀田伸永 放射能・原子力の本棚 2012/1/26)
http://shohyo.kyumei.me/?p=60

「神谷研二氏率いる広島大学原医研の歴史に見る『明』と『暗』」 
(真相究明・堀田伸永オフィシャルサイト 2011/12/23)
http://kyumei.me/?p=600

「フクシマを植民地支配するナガサキの医学者達 - 731部隊の現代版」 (院長の独り言 2012/8/28)
http://onodekita.sblo.jp/article/57851653.html

「731部隊、広島長崎、チェルノブイリ、福島」 (Save Kids Japan 2013/1/16)
http://savekidsjapan.blogspot.jp/2013/01/japan-victim-and-perpetrator.html


11. 中川隆[-13946] koaQ7Jey 2020年2月07日 20:29:21 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-619] 報告
細菌戦「731部隊」の新資料発見 「ないはず」の戦後公文書 細菌生産を明記
京都新聞社 2020/02/07
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/細菌戦「731部隊」の新資料発見-「ないはず」の戦後公文書-細菌生産を明記/ar-BBZJYnx?ocid=ientp



© 京都新聞社 関東軍防疫給水部行動経過概況図の実寸複写と西山名誉教授

 第2次世界大戦中に細菌戦の準備を進めた旧関東軍防疫給水部(731部隊)について、戦後に日本政府が作成した公文書が6日までに、発見された。京都帝大などから派遣された医師らが人体実験を行ったとされる731部隊について、政府はこれまで国会で政府内に「活動詳細の資料は見当たらない」と答弁をしており、発見した西山勝夫滋賀医大名誉教授は「まだまだ731部隊に関係する資料が埋もれている可能性がある」と話している。

 発見された公文書は戦後5年目の1950年9月に厚生省(現・厚生労働省)復員局留守業務第三課が作成した「資料通報(B)第50号 関東軍防疫給水部」との文書。西山名誉教授が昨年11月、国立公文書館から開示決定を受けた。文書は計4ページあるが、もっと分厚い資料の一部だった可能性がある。戦後中ソに取り残された元731部隊の軍医や軍人らの状況を把握するために作成された資料で、「関東軍防疫給水部の特異性 前職に依る(サ)関係者が多い」と書かれている。
 うち1枚は「関東軍防疫給水部行動経過概況図」と題された縦約90センチ、横約60センチある大きな図面。「防給本部」について「部隊長 石井四郎中将以下約1300人内外 本部は開戦と共に全部を揚げて北鮮方面に移動すべく」などと満州(現・中国東北部)から日本に帰国するまでの経路が図説され、本部第一部が細菌研究、第四部が細菌生産などと部隊構成も記載されている。

 図は大連支部や牡丹江支部、ペスト防疫部隊など、関東軍防疫給水部の各支部がソ連参戦時にどういう部隊構成だったか、武装解除や敗走経路、ソ連に抑留された人数や指揮官の氏名、中国側に残留している人数なども記載している。731部隊はハルビン近郊にあった本部と実験施設を爆破し研究資料も廃棄処分したとされるが、撤退の経路が日本側公文書で裏付けられるのは初。731部隊の本部では日本に帰国し、戦後の医学界や製薬会社で活躍した人物が多いが、今回の資料で各支部は混乱した状況だったことも明らかになった。

 731部隊の生体実験やペスト菌散布などを示す戦時中に作成された文書や論文は国内や中国で発掘が相次ぎ、占領期に米国が石井元731部隊長や解剖した医学者らに尋問した調書も機密開示されているが、戦後に日本政府は731部隊について「調査しない」との見解を繰り返しており、公文書が存在した意義は大きい。
 日本政府は、731部隊のペスト菌散布を裏付ける金子軍医少佐論文(1943年付)が国会図書館関西館(精華町)で発見された際も、2012年の国会答弁で「政府内部に資料が見当たらないのが実態」と答弁している。
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/細菌戦「731部隊」の新資料発見-「ないはず」の戦後公文書-細菌生産を明記/ar-BBZJYnx?ocid=ientp

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