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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その8)
http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/362.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2011 年 12 月 09 日 00:49:13: BW32mpuE76J86
 

 前回、マルクス経済学(競争の強制法則)も市場原理主義者(自生的秩序)も、理論上の最善は「共に市場への人間の意識的・積極的介入を否定します」と述べました。しかし現実の政治では、民主主義の進展によって、また理論的にもフェビアン主義や社民主義、ケインズ理論によって市場への規制や介入が行われています。
 共産党の不破さんもマルクス主義から、北欧型の社会民主主義・福祉国家主義への転換をめざしているように見えます。これは19世紀末からの参政権(民主主義)の拡大を念頭に、現実に合わせざるを得なかっただけで、すでに説明しているようにマルクス主義の二大原理(剰余価値説、唯物史観)とは矛盾しています。今日では、マルクス的共産主義は、不破・志位未来論に見られるように、ほとんど「空想的共産主義」になろうとしています。
「空想的共産主義」(=科学的社会主義)というのは、「生産手段の社会化」に端的にあらわれています。一体「生産手段の社会化とは何なのか。社会化された生産手段を所有・管理・運営する主体は何(誰)なのか」を考えてみれば、世界、国家、地域、企業体等の膨大な生産・物流の情報を、市場(交換過程)無しで想定することは不可能ではないでしょうか。地球環境も人間の認識・制御能力も、マルクス主義者が考えるほど単純でも楽観的でもありません。
 ここでマルクスが市場の等価交換を前提し、社会主義・共産主義では、市場の廃止を想定したことの欠陥が露呈するのです。搾取が生産過程でなされるなら、生産手段の社会化(共産党管理)が有効かもしれません。しかし、事実としては市場の契約で搾取(不等価交換)が行われるのですから、その利害の調整(共産党と労働者の対立)は、マルクス主義を前提とする限り新たな階級・党派闘争を生じることになります。
 「空想的共産主義」という誤ったイデオロギー支配が、管理(指導)権闘争と社会の不断の対立・混乱を生み出すのです。そこでは社会契約にもとづく公正な市場の交換ではなく、偽善、詐欺、欺瞞、コネ、闇市場、腐敗等が蔓延し、国民の不満を抑えるための経済成長が地球環境を破壊します。また深刻な利害対立は、共産党による計画的生産計画を阻害し、反対勢力の妨害による生産力の低下が起こります。
 空想的共産主義の社会では、確かに資本家による支配と搾取はなくなるかもしれないけれど、「国民が主人公」ではなく「共産党が主人公」となり、共産党による搾取が行われるのは理論的必然なのです。いかに不破さんや志位さんが善人でも、Kakasiのような批判をすれば冷静ではおられないでしょう。ハシズムのような共産党指導者が出現すれば命の保証はありません。マルクス理論の虚偽と偽善と欺瞞を放棄しない限り、共産党には未来を語る資格はありません(放棄すれば「理想的共産主義」の実現をめざす政党として存在理由が生じます)。
 今回は言い過ぎたかもしれません。次回は唯物史観と未来論の批判を続けます。長くなりましたので今回はここまで。
 前回までは<BW32mpuE76J86> を検索してください。
 

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コメント
 
01. Y. Kakasi 2011年12月09日 00:57:55: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
マルクスの盟友エンゲルスの『空想から科学へ』からの引用を追加しておきます。
「国家が真に全社会の代表者として現われる最初の行為――社会の名において生産手段を掌握すること――は、同時に、国家が国家としておこなう最後の自主的な行為である。社会関係への国家権力の干渉は、一分野から一分野へとつぎつぎによけいなものになり、やがてひとりでに眠りこんでしまう。人にたいする支配に代わって、物の管理と生産過程の指揮とが現われる。国家は「廃止される」のではない。それは死滅するのである。」(邦訳全集19 p221)
○ 国家は単なる階級支配の装置ではなく、種々の集団や個人間の利害対立の調整・管理機関でもあるから、国家のような権力機構(立法・行政・司法)は、死滅することはあり得ない。

「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによつて、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。」(邦訳全集19 p223」
○ マルクス・エンゲルスの未来社会論は、疑問をもてばもつほど荒唐無稽で空想的なものであることがわかります。「社会が」「社会の名において」とは一体どのような意味でしょうか。「計画的、意識的な組織」とはどのような組織でしょうか。Kakasiのマルクス批判も「生存闘争」の一つと思いますがどうなるのでしょう。「人間的な生存条件」とは何でしょうか。「人間の支配と統制に服する」とは、どのような人間が行うのでしょうか。Kakasiは、マルクス信奉者のような人間の支配と統制に服させられたくありません。Sweet dreams!


02. 2011年12月09日 22:17:17: SkuAZ53yWk
日本共産党のやっていることとマルクスの思想はあまり関係がない。

03. Y. Kakasi 2011年12月11日 12:01:04: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
02)さん、コメントありがとうございます。

>日本共産党のやっていることとマルクスの思想はあまり関係がない。

→とのことですが、マルクスの思想を信じている人たち(JCP)にとっては、
死活問題ですよ。でも思想信条の自由は大切ですから、信仰までを否定するこ
とはできません。
 まずは過去の教説への信仰と利権の根源を解明批判していかないと、今日の閉
塞状況を打開することはできないでしょう。
ところで02)さんは、マルクス支持者であるようにも見られますが、次回は是非見解をお聞かせください。


04. 2011年12月11日 13:26:20: EVskgte9f6
またお会いしましたね。

マルクスの思想は、時代と共に変わっていきましたので、最終的な結論に近いところで捕らえたほうがJCPとの関連が良くわかるのではないかと思います。誤解を恐れず、ざっくりまとめると、

1)平均的生活水準の維持
皆が人間らしく生活し、家族を持ち、子を育てることができる社会を作る。
2)純粋な需要に基づく生産
生産手段を共有し、各人が欲しいと思ったものは、自力で生産出来るようにする。これまでのように景気を維持するために無駄な事業を行ったり、余分な消費を誘う必要はなくなる。

というところだろうと思います。マルクスにとっては市場の等価交換は最終的に、あまり重要な位置を占めなくなったのではないかと思います。

市場の等価交換が成り立たない理由は様々で、原因が搾取なのか福祉なのか一概に言うことは難しい。例えば、一次産業のように生産量が自然頼みの場合、取れすぎた作物は破棄して価格を維持します。これは搾取か、福祉か、それとも他の何かか。中古ゲームは新品と殆ど同じ実用的な価値ですが、定価の数千円から100円まで下がったりします。しかも、その値段で売れません。これを等価交換ではないと見るか、等価交換と見るか。そんなかんなで、等価交換(その定義自体が問題かもしれません)から話を進めるのはかなり困難のように思います。


話は変わりますが、
多くの人が気にされているのは、共産主義では一党独裁になるのではないか、という点でしょう。マルクスの論理が「全て」正しければ共産主義の一党独裁になるかもしれません。ただ、現在のように資本主義が正しいという政党が大半の場合、これも一種の一党独裁だと思います(資本独裁制とでも言うべきか)。
マルクスの主張の中で、個人的に印象に残っているのは、経済発展の必然として資本主義は限界を迎えるだろう、という所です。この限界を乗り越える出発点(あくまで出発点ですよ)が共産主義なんじゃないかな、と思います。


05. Y. Kakasi 2011年12月17日 16:25:48: BW32mpuE76J86 : fXOQhCwWGs
04)さん コメントありがとうございます。スレッドが流され、次の投稿の記述のためにせっかくコメントいただきながら、見逃してしまいました。

>マルクスにとっては市場の等価交換は最終的に、あまり重要な位置を占めなくな>ったのではないかと思います。
→というのはそのとおりで、「等価交換」はスミスやリカードにとってだけでなく、現在の経済学者にとっても、経済学の常識であり前提だったのです。Kakasiたちはそれを問題にしています。交換の成立結果(等置)を前提とし、結果(end)を究極目的(end)とみなす西洋的循環(円環)的思考様式を問題とし、批判しているのです。マルクス批判は、西洋的思考様式の一部に過ぎないのです。
 なお経済発展(人類の生存)には、人間の欲望の所産である資本主義だけでなく、理性的空想的共産主義のも限界があります。


06. 2011年12月23日 00:53:39 : g0r0PeqIMy
投稿者の人、無知過ぎます
科学的社会主義というものの、日本共産党の文献は読んだ形跡はなく、マルクスやエンゲルスやレーニンの著作も読んだ形跡が全くみられません。いったい何の文献を読むとそのような記述ができろのでしょうか、笑われますよ。

記述内容がデタラメで、前段で読むのを止めました、

★日本共産党綱領には当面の革命と社会主義革命は区別されており、貴方の憶測でいう「北欧型・・」云々は、それらの革命以前の課題として位置づけられているものです。
★「市場の廃止」――そんな規定がマルクスやエンゲルスの文献のどこにあるのでしょうか。そんな文献が有るわけがありません。展望されている社会主義社会の経済制度は、市場原理と計画的経済(統制経済とは無縁)の組合せですよ。

投稿者は、原典をまるで読んだことのない人です。


07. Y.Kakasi 2011年12月27日 00:59:52 : hV0b9k4tYxh0. : fXOQhCwWGs
06)さん コメントありがとうございます。
 誤解される方がないようにと、01)で以下の文を引用しておきましたのに・・・。やはり反論をするときは、最後まで文を読んで頂きたいものです。
 一体「商品生産は廃止」された後で、市場は残るのでしょうか。「市場の廃止を想定(規定でなく想定)」するのが当然ではないでしょうか。なお付け加えるならば、下の引用文で「個人間の生存闘争は終りを告げる」とはどのようなことなのでしょうか。マルクス主義的共産主義が存在する限り、「理論的生存闘争」は永遠に続きそうです。だから「空想的共産主義」というのです。 

★引用→「社会が生産手段を掌握するとともに、商品生産は廃止され、それとともに生産者にたいする生産物の支配が廃止される。社会的生産内部の無政府状態に代わって、計画的、意識的な組織が現われる。個人間の生存闘争は終りを告げる。これによってはじめて、人間は、ある意味で決定的に動物界から分離し、動物的な生存条件からぬけだして、ほんとうに人間的な生存条件のなかに踏みいる。いままで人間を支配してきた、人間をとりまく生活諸条件の全範囲が、いまや人間の支配と統制に服する。人間は、自分自身の社会的結合の主人となるからこそ、またそうなることによつて、いまやはじめて自然の意識的な、ほんとうの主人となる。」(邦訳全集19 p223」
 


08. 2012年11月27日 17:31:41 : wXPShKYgaw

 (その9)につづきます。kakasi
 ⇒http://www.asyura2.com/11/senkyo123/msg/469.html

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