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Re: 日本初・国際“超”高級官僚としての新渡戸稲造/吉田祐二
http://www.asyura2.com/12/bd61/msg/587.html
投稿者 仁王像 日時 2014 年 10 月 05 日 20:00:36: jdZgmZ21Prm8E
 

(回答先: 副島隆彦『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』から抜粋 投稿者 仁王像 日時 2014 年 10 月 05 日 16:10:47)

第9章 日本初・国際“超”高級官僚としての新渡戸稲造/吉田祐二から抜粋

≪新渡戸稲造とは何者か≫
 なぜ新渡戸が後世に伝えられる「偉人」なのか? それは、新渡戸が日本における「国際高級官僚」のはしりだったからである。新渡戸は国際的なエスタブリッシュメント(支配階級)に求められた初の日本人であった、ということに尽きるのである。
 稲造は、ジョン・ホプキンス大学でクエーカー教徒となる。バージニア州やペンシルバニア州はクエーカー教会とユニテリアン教会が非常に強いところである。

≪『武士道』の本当の意味≫
 新渡戸は「武士道」を西欧の「騎士道」(chivalry)と訳し、ヨーロッパで騎士道が廃れたのと同様に日本の武士道も消滅しかかっていると問題提起した。そして、その精神を日本に「接ぎ木」するのは西欧のキリスト教精神(=道徳、モラリティ)をおいて他にないと論じている。だから『武士道』は日本人のためのキリスト教への入門ガイド本である。

≪新渡戸はなぜ偉いのか≫
 それは彼が当時、世界権力の中枢に近づくことの出来た国際連盟の中で、唯一の日本人だったからだろうこの。この新渡戸の世界人脈を引き継いだ者たちは、日本の戦後にもアメリカとのパイプ役となって活躍した。園田義明『隠された皇室人脈』には、新渡戸が種を蒔いたキリスト教人脈が、日本の支配層に充満していくさまが詳細に描かれている。

【出典】副島編『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房)’14年  

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コメント
 
1. 2015年6月03日 15:41:05 : neNenCUcDc

ちゃんばらーじゅん     2011年01月
http://kenshijun.exblog.jp/m2011-01-01/ 様より全文拝借しました。

新渡戸稲造の武士道と現代剣道の限界

 新渡戸稲造の武士道は、我が国のみならず、海外においても大きな反響を呼び、日本人の古来の精神性について深い感銘を与えて来た。ところが、「さむらい」とは何かが詳述されていても剣道そのものを賞賛・評価しているような記述はない。侍が日々鍛錬した武芸、特に弓や馬、剣についてはあまりふれていない。剣道部の先輩がヨーロッパに駐在していたとき、日本文化を研究しているという現地の生意気そうなインテリ白人に、”日本の剣道をどう思うか?”と聞いたところ、「フン!鉄砲の方が全然強い。」ととりつくしまもなかったのに驚いたという。
● 剣道に取り組む人々が道として求め続けているものは、実は”武士道という精神性”であって、”剣道の精神性”などというものはないという錯乱に陥る危険性もあります。昔の侍は儒教や論語、仏教、特に禅の知識も豊富だった。しかし、剣道を単なる体の鍛錬とか、仕事の一環として鍛錬していたのだろうか。そうではないと思う。

● 新渡戸稲造の武士道は欧米人から、日本人は無宗教、根性無しと言われて、反論するためにあのような内容になった。武士道を全て言い表していない。武士が剣道から学んだことは大きいはずであり、剣道の持っている精神性とは何かを考えたい。小生は、剣道の稽古や、技の意味、戦いに臨むときの精神の持ち方などは、身体の動作の中や実践的な鍛錬に精神世界を重ね合わせていると思う。例えば、呼吸や構えを宇宙の中にいる自己となぞらえ、一種の世界観を表現しながら鍛錬した。精神と体、日常生活は一体のもので、それぞれが分離し始めたのが現代である。現代なら、瞬発力をどう高めるかとか、技の反復練習、筋トレとか新しい言葉で表すが、それは近代スポーツの概念。結果的に剣道の練習方法というのは手順があり、合理的かつ科学的であると思う。しかし、その根本の形は命のやり取りにつながる動作である。だから、勝つ事は相手を殺す事を意味する。そこに結びつければ、命の世界は合理的な説明がつかず、精神世界の領域である神とか、禅の思想も借りながら考えたくなる。

 法定などで分るが、刀を大地を引き上げるつもりで構えるとか、霞の構え、上段を火の構えとか、表現が文学的。まさに剣道を精神世界の中にとらえていた。剣道から精神力を得るというより、精神表現として剣の理法を考え、鍛錬したのではないかと思う。理合を学ぶという事と精神の働きを高め、会得したことと同義なのです。今の剣道はそうした剣道の中にある精神性、理合を宇宙の法則となぞらえて考えることを故意に否定している。それは戦後、剣道がスポーツとして再生した事とも関係がある。今日は作法とか、礼とかが精神性とされているが、これらは生活習慣である。形式を守る事を精神性としている。ここに現代剣道の限界がある。だから、皆、昇段審査の成功が全て、あるいは試合で勝つ為の剣道となっている。実際、居合いや古流を学ぶにはこうした目標は無いから、本来の精神性を求めての修行となり、その本質が分ってくるのではないでしょうか。

● これは新渡戸稲造のような文人には分らなかったであろう。彼の時代は、維新経験の武士の第二世代で、剣道が忘れ去られていたころ。札幌で西欧教育を受けた人々は、何とか武士の世界観から脱して新しい考えを得たいと願い、アメリカに渡った人々だから、剣道は無理だった。彼らは昔の武士が剣道に注いだ情熱を、英語の習得やアメリカでの大学での勉強に向けたのである。だから、彼らはジョンズホプキンス(新渡戸稲造)、MIT、アマーストカレッジ(新島譲、内村鑑三)といった東部名門校で優秀な成績を上げている。驚異的である。
 
● 山田次郎吉先生が剣道集義に「剣道は科学だ。」と書かれていますが、この科学というのは実証的とか、実験科学とは意味が違う。要は合理精神が含まれているという意味であろうかと思う。剣道の精神性に重きを置く余り、ここのところが軽視されてきたのが戦前の剣道であることも否めない。精神性の反対にある勝ち負けにこだわる剣道は、科学でも何でもなく醜いだけで論外。腕を振る方向性、合理的な肘・手首の使い方、送り足・すり足の正しい意味・使い方などいわゆる剣法、剣法と言っても剣の使い方というよりは、剣を正しく正確・迅速に動かすための体の使い方、呼吸法である。
●ああしろ、こうしろと言う先生・先輩のご指導、剣道の参考書には親しく接して来ているところだが、それらに共通しているのは、何故そうすると良いのか?Why?という説明が乏しい。ハウツーばかりでホワイに乏しい。昔の剣道ではこの部分を宗教的な解釈をしていた。人間の動作を分解して、マニュアル化するようなセンスは無かったのである。山田先生は19世紀の科学という世界におられた。西欧科学は、何事も、細分化、分割、分解の時代である。細菌学、物理学、すべてこのデカルト的世界観であって、これが科学だった。だから、直心影流の型についても、写真を使って分解動作を説明するという当時として、画期的な解説書を残しているのである。


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