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死後の世界、証明可能?
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/508.html
投稿者 気まぐれな風 日時 2013 年 6 月 29 日 13:48:00: Yql9N1LbacSfs
 

死後の世界

 存在するのでしょうか?

 存在しないのでしょうか?

ここで言う『死後の世界』は、
肉体が死んだ後の世界、です。

 つまり、

 アナタの肉体が、死んだ後

 アナタがアナタを

 認識するか?どうか?

 意識するか?どうか?

 ワタシがワタシとなるか?どうか?

ならない、証明。

なる、証明。

 両端の場合において、考察せよ。

感情論ではありませんよ。

理論的に証明です。

 
アホは
『そんなのカンケーネー』
『オッパッピー』
言うのですよ(笑)


ヒント
パソコンが破壊されても
パソコン使用者は破壊されない。
機会があれば
可能であれば
必要があれば
新しいパソコンを手に入れる。


 解答は求めてません。

 解答が出来たら

 紙に書いて、客観的に、
 矛盾点を見つけてください。

 どこか?矛盾するか?
 ですからね。

 イチイチ、ワザワザ、
 指摘しませんよ(笑)


狂いそうになったら
風呂入って寝て下さい。
カラオケ行くのも良いでしょう。

一歩づつ、確実に、
無理をしないように。

壁に当たったら
過去、様々な参考書を、
読み直して下さい。

解答は、求めていません。
コメントしても
独り言になる可能性大(笑)


 自分で考えろってこと。
 自分でたどり着けってこと。
 
 いつか、必ず、死ぬのだから。

行き当たりばったり
着いた所は、、、
『そんな、ばかな!』
『どうにもならない、じゃないか!』

ならなければ、良いのです。

   

  拍手はせず、拍手一覧を見る

コメント
 
01. 気まぐれな風 2013年6月29日 13:58:49 : Yql9N1LbacSfs : 94qgJOJ53s
僕の問題は、僕が解決します。

 僕の問題を
 誰かが背負ってくれれば
 楽だけどね(笑)

現実は、、、

僕の借金、会社の同僚、
誰も背負ってくれない(>.<)

 当たり前ですね。

 だから、言わないんだ。

 『僕の借金、背負って(^_-)』
 とは、言わない。

 当たり前ですね。

 ゆえに保証人にも
 なりません。


02. 気まぐれな風 2013年6月29日 14:20:30 : Yql9N1LbacSfs : 94qgJOJ53s
小学生の頃は、

夏休み最終日、

お母さんが手伝ってくれた。


今は、
残業、クレーム、諸問題
 誰も手伝ってくれない。

合コンの問いには
 飛び付いてくるのにさ!
 『連れてって(*´▽`*)』
    


03. 2013年6月29日 16:49:41 : gU4UTHXPbw
肉体の他に、エーテル体があるらしい。

腕や足を失った人が、ないはずの部分がかゆかったり痛かったりするのは、肉体の一部はなくなったが、エーテル体はなくなっていないからかも知れない。

魂とはエーテル体なのかも知れない。

すると、肉体は死ぬが、エーテル体はどうなるのだろうという問いが出てくる。

肉体を失ったエーテル体は気まぐれな風に飛ばされてしまうのだろうか?


04. 2013年6月29日 18:11:38 : W18zBTaIM6
釈迦は死後の世界は存在しないと言ってる。

仏教徒なら全員死後の世界を否定する。

まあ日本の仏教は中身は神道だから違うけどね。


05. 2013年6月29日 18:57:19 : 3nTXkp9TvA
死後の世界、証明可能?

「証明」とは「科学の力」で明らかにするという事ですか?
脳波を映像化する研究の先に、死にゆく人間の魂と呼ばれるモノを
追跡する事が可能になれば或いはですね。

そんな科学的手法や科学的機器を用いて、
死後の世界の存在を多くの科学者、大衆が認めるところになれば、
地球規模で人類史上の大革命、大変革が巻き起こるでしょうね。

富を独占したい者や、権力者連中は全力で妨害して来るだろうけれど…。


06. 2013年6月29日 21:49:23 : TxqyqCR7a2
死後の世界は恐山の「いたこ」さんとか、専門にしている人に聞くべき。「いたこ」芸人 大川隆法 では無理だと思う、本はたくさん出しているようだが・・・。

07. 2013年6月29日 22:14:07 : TxqyqCR7a2
まじで話をすれば、現代科学で幽霊の存在を証明できるかという話と同じ。科学というのは物質を扱う世界、霊というのは(信じるかどうかは別として)物質ではない、従い、物質界の法則は適用できない。人間の成り立ちは肉体(物質)+霊(非物質)からできている、霊は不滅、肉体が壊れても、キリスト教でいう天国(仏教では極楽)へ帰って行く。

08. 2013年6月30日 02:04:06 : Ezl2LJ9Lwg
今ここに存在してる事も証明されてない、いずくんぞ死をやだ

09. 2013年6月30日 05:31:38 : DY5UF9p3s2

悪いことをすれば地獄へ堕ちる。今の人間はほとんどが地獄へ堕ちるだろう。

地獄は八大地獄と言ってその中でも最悪な地獄が阿鼻地獄(無間地獄)と言う。

今の人間は、地獄などないと思っているので悪の限りをつくして生きている。地獄の存在を認めたら恐ろしくて悪いことなどできないよ。

人間の命をこの世限りのものと思っているから悪いことをするのだろうが、残念ながら人間の生命はこの世で死んでも、延々とステージを変え生き続ける。

悪い原因からは悪い結果が生まれるし、良い行いからは良い結果が生ずる。

今の日本人の大部分は仏教徒と思っているようだが、私の目から見れば今の日本人は六師外道の考え方の人間が多いと思う。

盲目の人間には目の前が見えない様に、信仰心も霊能力もない人間には何もわからないだろう。

本を読んでわかろうとするから何もわからないのだ。大体その本が正しいと思っているのかな?

これらは体験でのみ実感できるもので屁理屈など通用する世界ではない。


10. 2013年6月30日 10:23:47 : W18zBTaIM6
釈迦は地獄も極楽も無い、死んだら何も残らないと言っている。

それが仏教の本当の教えだ。


11. 2013年6月30日 10:46:41 : TxqyqCR7a2
四向四果(しこうしか);上座部仏教の修行の段階(修行達成度合いの基準)
上座部はスリランカ、ビルマ方面の南方に伝わった仏教で、シナ化して日本に伝来
したいわゆる大乗仏教(大衆部)とは異なる点がある。

預流向(よるこう)、預流果(よるか)
一来向(いちらいこう)、一来果(いちらいか)、不還向(ふげんこう)
不還果(ふげんか)、四向四果 応供向(おうぐこう) (阿羅漢向(あらかんこう)応供果(おうぐか) 阿羅漢果(あらかんか)がある

たとえば 預流 とは- 聖者の流れに入ることで、最大7回欲界の人と天の間を生れかわれば悟りを開く位

つまり人間は死んだ後もあの世とこの世を生まれ変わり、行き来すると、仏教でも言っているということ。 ちなみに不還、の修行レベルに到達すれば、悟りを開いたので、もうこの世に還らない(不還となる)。


12. 2013年6月30日 10:54:22 : TxqyqCR7a2
弘法大師空海「秘蔵宝鑰」より

「三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず

 生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く

 死に死に死に死んで死の終わりに冥し(くらし)」


13. 2013年6月30日 13:50:02 : W18zBTaIM6

上座部仏教はバラモン教で釈迦の教えじゃないよ。

タイでは僧侶はバラモン教の経典しか読まないしね。

空海の密教はヒンズー教

空海は仏教には関心なかったんだろ


14. 2013年6月30日 16:23:06 : TxqyqCR7a2
12>>日本の仏教のみが正当仏教だとか、大乗仏教が正しい、法華経がNO1経典だとか、キリスト教が唯一正しいとか、いやイスラムだとか、十人十色の考えがありますいいではないですかそれで。

15. 2013年6月30日 16:25:44 : DY5UF9p3s2

>>10

六師外道の中にそんなことを言っている人がいたな。10の言ってることは仏の教えではないよ。

仏は因果の法則をキチンと言ってるよ。

人が死ねば三途の川を渡り、裁きを受け身の振り方が決まる。極悪人の場合、三途の川を渡らずに地獄に直行する。

信仰心の厚い善人の場合は、三途の川を渡らずに忉利天、兜率天に直行する。これらのことはお経に書いてある。


16. 2013年6月30日 16:28:34 : tplrd7aWpY
キリスト教のキリスト教たる所以は復活である。復活がなければキリスト教は成り立たない。死んだら誰も魂は分離して肉体から離れる。魂の行き場所は信仰心の深さとこの世の行いによって決まるとされている。復活体と蘇生体は違う。復活体は二度と死ぬことがないと言われている。どのような体に復活するかと言うと四次元、五次元、多次元の肉体と言う。首のない死体、灰になった死体からでもその人の復活体はできるのである。面白いのはいくら食べてもトイレに行かなくていいようだ。

17. 2013年6月30日 21:42:08 : j3OEbyVrN2
現代、現在の科学体系では、証明不可能です。

信じるか信じないかの世界です。

私は信じてます!

でも、他の人を説得するのは、ほぼ、不可能!

友人は虚数を解明すれば証明できる。と。

苫米地さんも、ある可能性は否定できない。くらいしか現在の科学では。


18. 2013年6月30日 23:44:03 : W18zBTaIM6
>これらのことはお経に書いてある。

釈迦はお経なんて書いてないよ

仏教の無常というのは三途の川も地獄も存在しない、魂も存在しない、死んだら何も残らないという意味さ(無我説)


19. 2013年6月30日 23:47:32 : W18zBTaIM6
無我の我というのは魂、無我というのは魂が存在しない事

魂が無かったら地獄に行く主体が無いだろ。

本当の仏教では死後の世界は存在しないの

だから無常なんだろ


20. 2013年7月01日 06:46:33 : GQrN4nKkaL
ブッダはこう謂う。虚無に還りたい者は、虚無に還ると。そこはその者の故郷だ。則ち、問題にならぬと。
本源でそう願うのか願わぬのか。
それのみに尽きる。

烏が闇に紛れて息を潜めるがごとく、そうやって永遠の恐怖や緊張と隣り合わせのかりそめの安らぎを信奉し存在し続けるなら、それは、ただ貴方の選択した事実として尊重する他ない。縁は無くなれど、存在の在り方の参考と云ふ位には残る。

それも、また良しかな。


21. 2013年7月01日 06:49:53 : GQrN4nKkaL
小乗にのみ、真理を求むべし。

22. 2013年7月01日 07:06:38 : GQrN4nKkaL
あなたの一生の願いが、
認められたい、偉くなりたい、モテたい、金持ちになりたい、世界征服したい…等々なら、一顧だにされなくてヨ?w

それが人生のすべてかいな$?(オエッ、優しすぎた…)


23. 2013年7月01日 07:22:08 : GQrN4nKkaL
改めまして。
君らは、一瞥して「ふんっ」と鼻を鳴らすしかないんではねーかなw
んなもんやでって笑

24. 阿羅菅 2013年7月01日 07:35:16 : tXd9QFM0CovlM : GQrN4nKkaL
宇宙って何だっけ?笑

25. 2013年7月01日 14:12:14 : DY5UF9p3s2

>>19

諸法無我、諸行無常、涅槃寂静の意味をよく調べなさい。諸法無我のあなたの解説は誤っていますよ。

あなたの思想は六師外道のアジタ・ケーサカンバリンの唯物論だ。


26. 2013年7月01日 14:26:49 : DY5UF9p3s2

>>18

お経は釈迦が直接書いたものではありません。弟子たちが書いたものです。お経の始まりは「如是我聞」から始まります。

旧約聖書もエホバの神が書いたものではありません。新約聖書もキリスト様が直接書いたものではありません。コーランもアラーの神が直接書いたものではありません。

神や仏が直接書いたものでなければ不都合なことがあるのでしょうか?

無常というのは「存在しない」ということではなく、常に変化しているという意味です。

諸法無我とは「ない」という意味ではなくて、「すべてのものごとは他とつながりがあり、他と無関係に存在しているものはない」という意味です。

生兵法は大怪我の元ですね。今の日本には六師外道の思想がはびこってきているみたいですね。


27. 2013年7月01日 15:26:36 : TxqyqCR7a2
死後の世界の証明から、宗教論議に移りましたね。
仏教--目的;覚りを得る、空、無我を自覚する
   方法;戒、定、慧の三学を修行する。
   そうすれば、慈悲心のある、三毒(煩悩)のなくなった、人間になる(聖者
   だわな)

キリスト教--神(創造主)を信じなさい
      そうすれば、汝の敵も愛せるようになれます(聖者だわな)


28. 2013年7月01日 23:53:48 : W18zBTaIM6
>諸法無我とは「ない」という意味ではなくて、「すべてのものごとは他とつながりがあり、他と無関係に存在しているものはない」という意味です。


我というのはアートマン

アートマンというのは魂

無我は魂が存在しないという意味で間違いない

死んでも魂が無ければその先も無いのさ。


29. 中川隆 2013年7月02日 00:30:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

釈迦の言葉


ブッダは、世界については、すべては無常で変滅し恒常不変なものはない(諸行無常)と理解しており、例外はいっさい認めま

せんでした。

___________________________


かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。

その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」

「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」

そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。

「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には
存しないのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 22:97)


かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。

その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」

「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。

比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。

また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、す

べて破壊するのである。

比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」

(サンユッタ・ニカーヤ 35:82)


アーナンダよ、やめよ。悲しむな、泣くな。

アーナンダよ、わたしはかつて説いたではなかったか。

すべて愛し親しめる者も、ついに生き別れ、死に別れ、
死してはその境界を異にしなければならぬ、と。

アーナンダよ、一切は壊れるものであって、
ひとたび生じたるものがいつまでも存することが、どうしてありえようか。

(ディッガ・ニカーヤ 16)

死後の世界について

ブッダは、人間が死後も存在するかどうかというような人間の知識を超えることがらについては、それは独断にすぎず、無益な

ものであると考えて、沈黙を守りました。


________________________________

滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どう

かそれをわたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておられるからです。

師は答えた。ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれ

については存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶えるのである。
(スッタニパータ 1075〜1076)

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。

「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものである

とか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、

これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉

しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ 参って、この意味を尋ねてみよ

う・・・。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中

略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことが

あるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのよ

うに説くことを要求し、そのように説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。

また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに

、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを
征服することをわたしは教えるのである。
(マッジマ・ニカーヤ 63)


ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような

種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。そ

れは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマ・ニカーヤ 72)

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなもの

に立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というよ

うな教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)


六道輪廻について
 
 世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。

しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。 それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。


 そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。

かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。

釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。

 その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。 生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。

 趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。

 ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。

 というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。

たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。

つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。

善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。

 これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。

要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。

 ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。

 しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。

しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html


「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、

『我と世界は一つである』

とか、

『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』

というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」


「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)


「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。 このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。


初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。・・・アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)

ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

かようにわたしは聞いた。
ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに座した。
傍らに座した長老ラーダは、世尊に申し上げた。
「大徳よ、無我、無我と仰せられますが、大徳よ、いったい、いかなることを無我というのでありましょうか」
「ラーダよ、色(肉体)は無我である。受(感覚)は無我である。想(表象)は無我である。行(意志)は無我である。識(意識)は無我である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである。そして、すでに解脱するにいたれば、ああわたしは解脱したとの智が生じて、と知ることができるのである」
南伝 相応部経典23-17
http://www.kojintekina.com/agama/agama7052006.html


無常の思想
ブッダの主張のなかでも、とくに重要なのは、「諸行無常」、すなわち、すべてわたしたちが経験や知覚するものは無常であるという主張です。経験世界のすべては、生まれ、変化し、滅するのであって、常住不変なるものはない、という主張です。これが無我の主張の根拠となりました。
かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。

「大徳よ、この世のものにて、定恒永住にして、変易せざるものがあろうか。」

「比丘よ、この世には、定恒永住にして、変易せざるものは、少しもない。」

そして、世尊は、すこしばかりの土を爪の上にのせて、かの比丘に示して言った。

「比丘よ、たったこれだけのものといえども、定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである。」
(相応部経典22:97、増谷文雄訳「爪にのせたる土」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、84頁)


かようにわたしは聞いた。ある時、世尊は、サーヴァッティーのジェータ林なる給孤独の園の精舎にあられた。その時、一人の比丘が、世尊のいますところにいたり、世尊を拝して、もうして言った。
「大徳よ、世間、世間と称せられるが、一体どのような意味において世間と称せられるのであろうか。」

「比丘よ、破壊するがゆえに世間と称せられるのである。
比丘よ、眼は破壊する。鼻は破壊する。舌は破壊する。身は破壊する。意は破壊する。
また、それらの触(感官)を縁として生ずるところの感受は、楽なるものも、苦なるものも、あるいは非楽非苦なるものも、すべて破壊するのである。
比丘よ、このように、すべてが破壊し遷流するがゆえに、世間と称せられるのである。」
(相応部経典35:82、増谷文雄訳「世間は壊れる」『仏教の根本聖典』、大蔵出版、88〜89頁)

ブッダはこのように、「定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しない」、と主張しました。しかし、それは、古代ギリシャ哲学のように、単に「万物は流転する」というような主張ではなく、この諸行無常という経験世界の観察を、人間が経験する悲しみや苦しみと関連づけました。そこにブッダの思想の特徴があります。
つまり、ブッダは、この世のすべてのものは無常にして結局破壊にいたってしまうものに過ぎないのに、そのことを理解せずそれに執着してしまうことから人の悲しみや苦しみが生じると考えました。そのために、「定恒永住にして、変易せざるものは、この世には存しないのである」という理解を徹底すること(覚り)によって執着心をなくし、執着心が無くなればひとは苦しみから解放される(解脱)と考えたのです。

無常だから無我である
ブッダの思想は、死後も生残る魂、永遠不変の魂、すなわちアートマン(永遠の個我)の存在が当然のことと考えられていたウパニシャッドの宗教世界の真っただ中に生まれました。しかも、アートマンを認識することは彼らの宗教的救いの根拠となるものでした。そのために、アートマンを救いの根拠とするウパニシャッド哲学の伝統と、すべてが無常であり、そのことを理解して執着から解放されて自由になれ、という仏教の思想とが、真っ正面から対立することになります。こうして、仏典は、「無常だから無我である」、というブッダの主張を繰り返し繰り返しすることになったのだと思われます。

原始仏典の中では、無常ということがすべての教えの前提になっている。

「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては無我である」

という文句は、原始仏典のいたるところでお目にかかる。・・・すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、というようにである。
(梶山雄一、『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、8頁)

たとえば、次のような経が典型的です。

「アッギヴェッサーナよ、これをどのように思うか。人間の肉体(色)は恒常であろうか無常であろうか。」

「無常です、大徳よ。」

「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」

「苦です、大徳よ。」

「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」

「いいえ、大徳よ。」
「アッギヴェッサーナよ、それではこれをどのように思うか。感覚(受)や思考(想)や意志(行)や意識(識)[などの人間の心の部分]は、恒常であろうか無常であろうか。」
「無常です、大徳よ。」
「それでは、無常なものは、苦であろうか楽であろうか。」
「苦です、大徳よ。」
「それでは、無常であり、苦であり、変異するものを、これは我がものである、これは我である、これは我がアートマンである、ということは正しいであろうか。」
「いいえ、大徳よ。」
(マッジマニカーヤ、35:20)

ここで、「肉体(色)、感覚(受)、思考(想)、意志(行)、意識(識)」などといわれているものは「五蘊(スカンダ)」といって、初期の時代から仏教では人間存在を構成している要素と考えられていたものです。すなわち、すべての存在はさまざまな原因や条件や要素に依存して成立しているという縁起の考え方から生まれた仏教の人間観です。

ブッダは人間存在を成立させている要素の一つ一つを取り上げて、そのどれも、無常であり、苦であり、変異するものであるから、そのどれも、永遠不変の存在と信じられているアートマンではありえない、と主張したのです。
これはとくに注目すべき主張です。なぜなら、ブッダは、「アートマンは存在しない」という全称命題的言明を意図的に避け、人間存在を成立させている要素の一つ一つ取り上げて、これも無常であるから(常住であるはずの)アートマンではない、あれも無常であるから(常住であるはずの)アートマンではない、というふうな仕方で、知覚し経験できる範囲内の事柄に関してのみ言及するという方法をとっているからです。
しばしば、アナートマンは「無我」ではなく「非我」と翻訳すべきであるという主張が仏教学者によってなされるときがありますが、まさにそのとおりで、人間存在を成立させている一つ一つが、これも非我であり、あれも非我である、という主張がなされているわけです。
つまり、ここでも、形而上学的問題については断定的判断を下さないというブッダの態度が貫かれていることが分かります。また、これとはすこし別の形の人間分析からもおなじような主張がなされていることがありますが、いずれにしても、人間存在というものを、知覚し経験できる範囲内だけで分析しているところがブッダらしいところです。

比丘たちよ、眼は無常である。
すべて無常なるものは苦である。
すべて苦なるものは無我である。

すべて無我なるものは

『これ我がものにあらず。これ我にあらず。これわが我(アートマン)にあらず。』

と、このように正しき智慧をもって、あるがままにこれを見なければならぬ。

比丘たちよ、耳について言うも同じである。鼻について言うも同じである。舌について言うも同じである。身について言うも同じであり、また、意について言うも同じである。
(サンユッタニカーヤ 35:1、増谷文雄訳)

そこにないものを見ようとしたりしないで、人間存在を「あるがままに見」れば、人間存在を成立させているどの要素もすべて無常であり、アートマンの恒常不変の性質をもつものではない、というわけです。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_3.html


仏教はジャイナ教と同じく諸要素の集合論をとる。しかし、ジャイナ教が業物質の担い手としての霊魂(ジ−ヴァ、生命体)を想定したのに対し、仏教は肉体を物質(色)の要素一本にまとめる代わりに、こころを感覚(受)・想念(想)・意志(行)・認識(識)の四種の作用に分解し、そのいずれもがアートマン(霊魂)ではない、という論理で、間接的に霊魂の実体性を否定し、同時に業とはそれらの心身の営むはたらきとみることで徹底した。(高崎直道、『インド思想論』、法蔵館、12頁)
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism33.html

アートマンとは何か?

ブッダが、インドの伝統的な信仰であったバラモン教(後のヒンズー教)の中心的概念であった、輪廻転生しながら永遠に生き続けるというアートマン(atman 個我=魂)を否定して、アン・アートマン(anatman 無我)を説いたことを疑うのは極めて困難です。それは、あまりにも多くの文献において書き残されており、しかも、仏教徒の書いたものだけでなく、彼らの宗教的・思想的ライバルたちによっても、仏教徒たちがアートマンを否定していることに対するさまざまな批判が、書き残されているからです。
もし、ブッダが魂の否定としての無我を説かなかったとすれば、たとえば、『ミリンダ王の問い』に書き残されているような、

「もしアートマンが存在しないのなら、改組・回帰(輪廻転生)していく、当のそのものは、なにものか」

というような問いに仏教が明確な解答を与えようと大変苦労した思想史的事実が説明できなくなってしまうでしょう。

また、「アートマン」という概念はバラモン教の哲学(ウパニシャッド)にとって本質的なものであって、それなくしては、ウパニシャッドの語る宗教的救い(ブラフマンとの合一)がなくなってしまいますが、そのような重要な概念を真っ向から否定する「アン・アートマン」という概念を使用したことは決して軽く見るわけにはいきません。
単に、「自己中心的な生き方を否定する」、といったような凡庸な教えにすぎないのなら、バラモン教・ヒンズー教にもあるのであって、わざわざ「アン・アートマン」という概念を持ち出す論理的な必要がありません。
なぜブッダはアートマン(永遠の魂)を否定したのか、この問いは、大変重要な問題なのです。
死を恐れ、永遠の生命を望むのは、古今東西、どこでも見られる現象です。そのため、古代人はさまざまな空想を駆り立てて、死後も生き残る自己の物語(エジプトのミイラ、中国の仙人、キリスト教の復活、インドのアートマン、日本の魂、など)を創造してきました。
さいわいなことに、古代インド人は彼らの思想を伝達することにきわめて熱心で、たとえば、リグ・ヴェーダ経典は世界最古(おそらく西暦前1200年頃成立)の残存する経典となっています。そこで、彼らの古代の経典を調べることによって、どのようにして、古代インド人がアートマンというものを信じるようになっていったか、その初期の状況をかなりくわしく知ることができます。 たとえば、『ブリハッド・アーラヤヌカ・ウパニシャッド』には、アートマンが次のように説明されています。
「アートマンとはどのようなものか」

「認識からなり、諸機能のうちに、(また)心臓に存在する内部の光であるこのプルシャ(神人)であります。
彼は(かなたの世界とこの世界に)共通ですから、両世界を往来します。
(かなたの世界では)沈思するかのようであり、(この世界では)動き回るかのようであります。
彼は夢となって、この世界…、死のさまざまな形を超え出ていくのです……。
まさしくプルシャ(神人)には、実際には二つの状態があります。
(目覚めて)この世にあることと、(熟睡して)かなたの世界にある状態とであります。
夢の状態は(両者の)つなぎ目になる第三のものであります。
そのつなぎ目の状態にあるとき、彼はこの世に在ることと、かなたの世に在る状態という、この二つの状態を見るのです……。

彼は眠っているとき、万物を包蔵するこの世界から物質素材をとり、自ら破壊し、自ら創造し、自らの光輝により、自らの光明によって夢を見るのです。
この場合、神人は自らを光明とするのであります……。

その点について次のような詩節があります。

黄金の神人、一羽の鷲鳥は、
眠りによって、身体にかかわるもの(この世)に打ち勝ち、
自らは眠らず、眠った者たちを観察する。

彼は光を得て(目覚めて)、もとの位置に戻る。

黄金の神人、一羽の鷲鳥は、
下方の巣(身体)を、気息によって守りつつ、
不死となって、巣(身体)から外に歩み出で、
望むところに、不死のものとしておもむく、

夢の中で、あるいは上昇しあるいは下降し、
神として、さまざまな形像をつくり出す。

……

人々は彼の巣である園林を見るが、
だれひとり彼を見るものはいない。

……彼は、実に、この安全な安息(熟睡状態)のなかで楽しみ、徘徊して、善いこと悪いことを見た後に、もとのところへと進路を逆にたどり、夢へと馳せ戻るのです。」
(長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』より)

アートマン(永遠の魂)という概念が、ここでは、夢の中で自由に行動する自己と同一視されています。そして、夢の中の世界や熟睡状態の世界をもう一つの事実の世界であると見なしています。このような夢の内容をそのまま事実の世界と思い込む現象は、決して、古代インド人だけに特有のものではなく、現代人のなかにもしばしば見られるものです。 たとえば、

「ベッドに横たわる自分の姿を上から見ていた」、という内容の夢を見た人が、夢を事実と取り違えて、

「身体から抜け出した魂が抜け殻の身体を上から見ていた」、


というふうな解釈したりする話を、今日でもときどき聞きます。 上記の「自らは眠らず、眠った者たちを観察する」という表現も、そういうことを意味してるのでしょう。

しかし、古代インド人の特徴は、夢の中の体験を、目覚めているときにも体験しようと執拗に試みたところにあります。
それが、ヨーガ(瞑想)だと思われます。 ヨーガ(瞑想)に関する教典から、古代インドのバラモン教の実践者たちが、現実の世界よりも夢(空想)の世界の内容を「より真実の世界」であると思い込んでいたことがうかがえます。

夢における知は、夢の中で拝んでいた、神の美しいすがたを対象としている。

目覚めたときの静かな心で同じ神の姿に凝念すれば、ヨーガ行者の心は安定に達する。
(「ヨーガ・スートラ」、同上)

このように、ヨーガ行者は夢の中と同じ体験を瞑想のなかに求めます。さらに、夢の中で自由に徘徊する自己、という考えをエスカレートさせて、


ヨーガ行者は水上を歩き、蜘蛛の糸の上を歩き、光線の上を歩き、さらに虚空を自由に行くことができる。(同上)

とか、

心が身体を離れて外的に働くときは、大離身といわれるのである。
この大離身によって、ヨーガ行者は他人の身体に入る。(同上)


などともいわれます。

夢のなかで「自己」が身体を離れてゆく現象を、目覚めているときに意図的につくりだす心理的テクニックが本来のヨーガ(瞑想=夢想)の目的だったろうと思われますが、後には、身体を持ったまま空中を飛ぶ、いわゆる「空中浮遊」などが信じられるようになります。 いずれにしても、夢や空想を現実から区別をしようとしない独特の宗教的習慣が古代インド人の間にあったことは否定できません。

このような考え方の中で、死後、身体を離れてゆく永遠の魂(アートマン)を想定することは、何でもないことです。

つまり、アートマン(永遠の魂)の思想は、もとをたどれば、古代のインド人たちが、身体とは別に夢の中で自由に徘徊する自己を「真実の自己」と思い込んだところから、生まれてきたものと考えられるのです。

このような歴史的背景を知ることによって、シッダータ・ゴータマが、「無我」の思想を真理として発見した自分のことを、「ブッダ=目覚めた者」と呼んだことの歴史的な意義が明確になると思います。
ブッダの思想家としてのデビューと考えられる、いわゆる「第一説法」において、瞑想・苦行にいそしむ旧友に対して彼は
なんじらは、わたしを名をもって呼んではいけない。 また「友」と呼んでもならない。

わたしはもはや如来である、最高の「目覚めたもの」である。
(『マジマ・ニカーヤ』26)


と宣言します。すなわち、

「buddh =眠りから醒める」

という言葉を用いることによって、

彼の真理の特徴が夢想的なバラモンの思想の否定

にあることを主張したのだ、と考えられます。

http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/soul02.html

アートマン(Atman) は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。
真我とも訳される。
最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、アートマンは個の中心にあり認識をするものである。

それは、知るものと知られるものの二元性を越えているので、アートマン自身は認識の対象にはならないといわれる。 初期のウパニシャッドである『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』では、「…でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「…である」と定義することはできないという。

したがって、「…である」ものではない。すなわち、「何でもないもの」すなわち「何かではないもの」「有るものではないもの」がアートマンで、これは仏教または禅の「無」と同じ意味だととることもできる。
ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされる。
http://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/62.html#id_622e274d

大まかに言うとかつてのインドの宗教思想や規律がまとまったものをヴェーダと言い、そのなかでも後代にまとまった哲学的思想がウパニシャッドと呼ばれます。「梵我一如」というのはそのウパニシャッドの中の最重要な考え方ですね。
基本的には仏教はウパニシャッドを否定するなかでできたものですから、梵我一如が仏教にとり込まれたとか、仏教がそれを受け継いだ、ということはありません。

梵我一如というときの我は、アートマン(atman、発音符は除きます)の漢訳語です。このアートマンというのは、ちょうど有名なデカルトの懐疑で表れる主体のように、疑っても疑っても疑う主体として現れてどこまでもそれを否定し得ない、懐疑の一番メタレベルに存在する、唯一至上の主体として想定されました。思惟のなかではどこまでも客体として扱えない、従って言葉では常に「〜ではない」という否定を重ねる仕方でしか表現できないとされます。

つまり、アートマンというのは基本的には「私」という個別の実体を支える「本質、そのもの」と言ってよいものです。これは私を成立させる原理であると同時に、心臓に位置すると考えられる実体的存在でもあります。ウパニシャッドではもちろん輪廻を想定するのですが、アートマンはその際に自己同一性を保つ実体でもありますから、一面では具体的な「魂」とも考え得るわけです。

このアートマンが梵つまり宇宙の本質であるブラフマン(brahman)と実は一体であって交換可能な概念である、というのが梵我一如の思想ですね。恐らくいろいろなウパニシャッド書のなかで一番有名な言葉が「それはアートマンである」「自己はブラフマンである」といった短い聖句ですが、これがブラフマンとアートマンの究極的な合一を表すものとされています。(事実、サンスクリット語ではアートマンという言葉が「ブラフマン」を意味する場合がかなりあって、両者は相即的な関係にあります)

要するに、対象化すらできない自分の本質が世界全ての本質と通じている、ゆえにそこではすべての物がひとつのものになりますから、当然、個々の人間同士の差も問題にならなくなるし、善と悪だとか人と神といった一切の分析的な区別も超越される、というのがウパニシャッドの理想とした境地なのです。その合一は言語を離れた瞑想のなかでしか感得できないものとされます。宗教学の術語で言えば一元論的な神秘主義思想ですね。


一方、このような思想とは異なって、仏教では固定的な実体をもった「本質」なる存在を認めません。原始経典にもあるように、「私にはアートマンとしての我は存在しない、従ってアートマンに属するものとして我がものも存在しない」という認識が苦を離れるための仏教の実践の基礎にあるのです。

個々の事物が互いに関係し合いながら本質(仏教では自性と呼びます)を持たずに存在し、変化を続けていく姿を仏教は「縁起」として捉えました。言わばあるがままを根本原理としたのですから、永遠不滅にして普遍の実体を認めるはずがありません。これは初期仏教でも大乗仏教にも共通していますし、法体恒有(ほったいごうう)を唱えてモノの背後に実体を想定した有部という部派ですら、人間については何ら実体的存在を仮定しなかったのです。


仏教をかじり出した人は初期仏教と大乗仏教の差が気になるのですが、本質的には大乗仏教の始まりにあたる空観という思想は、隘路にはまった有部の思想と決別して釈迦の縁起説を復活させようとした言わばルネッサンスです。従って、ことアートマンに関するような根本的問題について両者の違いを論じるのはナンセンスです。

事実、八宗の祖などと言われ、大乗仏教の思想的基礎を確立した竜樹(ナーガールジュナ)は、『中論』という書物の中ではっきりと「我(アートマン)と我所(アートマンに属するもの)が無いことを知るところに解脱が生まれる」とか、「われわれは一切の縁起を空と呼ぶ」と書いています。これは明かに釈迦の縁起を正統に受け継いだもので、実体ありきの梵我一如の考え方とはまさしく正反対です。

そもそも、仏教が旗印とする縁起の思想から生まれた「無我」という考え方は、サンスクリット語ではアナートマン(anatman)と言います。この語頭のanは「無、非」の意味を持つ接頭語です。例えばaryaというのは「アーリア的な、高貴な」という意味ですがanaryaとなると「アーリア的でない、下賎な」という意味になります。つまり、「アートマンに非ず」という意味のアナートマンという言葉からして、仏教がアートマンを肯定する立場をとらないことは歴然としています。

あるいは原始経典に頻出する十無記、十四無記などを考えてもよいでしょう。釈迦は、「アートマンは存在するのか」という問いに対しては常に答えを保留したとされます。

要するに、仏教というのはヒンドゥーつまりインド的なものの中では基本的に異端なのです。例えば14世紀にマーダヴァが著した『全哲学綱要』という書物では、ヒンドゥー教の立場からインドで起こった合計16の哲学説をそれぞれ解説しているのですが、仏教はヴェーダ聖典の権威を認めない3つの異端のひとつ、という扱いを受けています。

ヒンドゥーにとって一番劣っているのは精神を認めない唯物論ですが、仏教はそれに次いで劣った思想、とされています。それというのも結局アートマンを認めないからなのです。
一方でジャイナ教は3番目に劣った思想という位置づけです。ヴェーダは認めないけれどもアートマンの存在を認めるジャイナ教が仏教よりはまし、とされるというのは、ヒンドゥーにおけるアートマンの重要性を雄弁に語っていると思えます。
事実、現在に至るもジャイナ教はインドで命脈を保っているのに対し、仏教は早くに滅んでしまいましたね。(むろんこれには、仏教がヒンドゥー教に近づいたためにインドでは価値が薄れてしまったという5〜6世紀以降の歴史もあるのですが、ここでは重要な問題ではありません)

概ね、梵我一如を肯定しない仏教の立場は以上のようなものです。 さて、なぜその仏教が梵我一如と関係づけて説明されるのでしょうか。正直なところ私にもわからないのですが、輪廻や業というインドでは空気のような考え方が結果的に仏教にとり入れられたこと。 このことがアートマンまでとり入れられたという錯覚をもたらしたのでしょうか。
http://okwave.jp/qa/q718920.html


30. 中川隆 2013年7月02日 00:37:38 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

アートマン(死後も存続する永遠の魂)の否定

仏教はアートマンを否定しました。
そしてそれをしばしば「無我」(アナートマン、アナッタ)ということばで表現しました。
それは決して、たんに「我執を去る」というような教えではありません。
また、食ったり歩いたり寝たりする日常的「わたし」を否定したわけではもちろんありません。
そうではなく、人間やものに内在していると信じられている恒常な本体、つまり、(人間で言えば)「死後も存続する永遠の魂」を否定したのです。
わたしたちは、無我の思想に出会わずして仏典を読み進むことはできません。
いたるところで、仏典は無我の思想を語るからです。
仏教がなぜ無我を主張したかといえば、仏教の思想の前提に無常の思想、つまり、

「常住するものはない」、
「永遠不変なものはない」、
「ものはすべてうまれ、変化し、滅亡する」、

という思想があるからです。
「無常(常住するものはない)」という概念と「永遠に存続する魂」の概念は矛盾すると考えられたのです。
原始仏典の中では、無常ということがすべての教えの前提になっている。

「すべては無常であり、すべては苦であり、すべては無我である」

という文句は、原始仏典のいたるところでお目にかかる。

無常・苦・無我という概念は、直前の表現のように、いつでも並列されているというわけではない。
三つの中でも無常は、苦と無我の根拠とされていることも多い。

すべてが無常なのだから、すべては苦しみであり、そのように無常と苦にさいなまれている自分と世界の中に、絶対者としての自己、恒常・不変・自在な自我などあるわけはない、というようにである。
(梶山雄一、『空の思想 仏教における言葉と沈黙』、8頁)

仏典を読むものはどうしてもこのような無我の思想にぶつかるのです。
つまり、わたしたちの経験世界は見渡すかぎりすべて、わたしたちの肉体も意識もすべて、変滅しており、常住不変なるものはどこにも見つけることはできない(諸行無常)、
だから、常住不変であるとされているアートマンなるものはわたしたちの経験世界にはどこにもない(諸法無我)、
という主張です。
これが、仏教のアートマン否定の一つの側面です。
仏教のアートマン否定のもう一つの側面は、わたしたちの経験を越えた世界に関する主張の否定です。
たとえば、
人(如来)は死後も存続して永遠に生き延びていく(いかない)、
というような主張を、ブッダは「おろかな考えである」として否定したのです。
「弟子たちよ、『我』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、

『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』

というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」


「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ、22:25)


ブッダ自身は、死後の世界とか、世界の始まりだというような、経験を越えた世界に関する問いには、沈黙をもって応えました。

経験を越えた世界に関してはだれもなにも知らない(「真実として捉えられるものではない」)のだから、経験を越えた世界に関する主張はすべて独断(「おろかな考え」)にすぎず、修業の目的(解脱、ニルヴァーナ)の為には、何の役にも立たない、と考えたからです。

これが有名なブッダの沈黙(無記、捨置記)です。 例をあげておきましょう。

ヴァッチャというある修行者がブッダを訪ねて、

「世界は常住であるかどうか」
「世界には辺限があるかどうか」
「霊魂と身体は一つであるかどうか」
「人は死後にもなお存在するかどうか」

などの質問をしますが、これらの問いに関してはブッダは意見を持たないことをヴァッチャに告げます。
そこで、ヴァッチャは、
「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか」
と問います。 そこで、ブッダは答えます。
ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。

それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)


このように、「死後、我は永遠に生きるかどうか」というような(答えのでない)問いに対する見解は独断に過ぎず、修業の目的の為には何の役にも立たない、というのがブッダの立場であり、それでも、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」と主張するものに対しては、ブッダは実に端的に、「おろか」であると戒めています。


ヴァッチャは、さらに、尋ねて聞いた。

「世尊よ、では、執着を離れて解脱した者は、いずこにおもむいて生れるのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれるというのは、適当ではない。」

「では、どこにもおもむいては生まれぬというのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれぬというのも、適当ではない。」

「世尊よ、それでは、わたしはまったくわからなくなってしまった。

以前に世尊と対座問答することによって、わたしの得た深い確信すらも、すっかり消えうせてしまった。」

すると世尊は、彼のために、このように説明せられた。


「ヴァッチャよ、なんじがまったく解らなくなったというのは、当然であろう。

ヴァッチャよ、この教えは、はなはだ深く、知りがたく、すぐれて微妙であって、智慧あるもののみが知りうるところのものである。

他の見解にしたがっている者や、他の行をしている者には、とうてい知られがたいものであろう。

だが、ヴァッチャよ、わたしはさらに、なんじのために説こう。

いまわたしが、なんじに問うから、思いのままに答えるがよい。


ヴァッチャよ、もしなんじの前に、火が燃えているとしたならば、なんじは、火が燃えている、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、なんじは何と答えるか。」

「それは、この火は、薪があるから燃えるのだと、わたしは答える。」

「では、もしなんじの前で、その火が消えたならば、なんじは、火は消えた、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、なんじはいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。

かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」


そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。


「ヴァッチャよ、まったくその通りである。
そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。


その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・

そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」
(同上、増谷文雄訳)

ヴァッチャは、古代インド人の常識として当然のごとく、バラモン教・ヒンズー教・俗信の伝統にしたがって、執着を離れて解脱したものはどこか善いところ赴いて生まれると思い込んでいたのです。

そのために、ブッダにつまずいてしまったわけです。

ブッダの思想には、どこかに赴いて生まれる(赴いて生まれない)とか、よい世界に生まれ変わる(生まれ変わらない)とかいうような問いは、「いままで燃えていた火はどこに行ったのか」と問うことがまったく見当違いの問いであるように、まったく見当違いの問いだったからです。

ブッダは、比喩を用いて、火が消えるのはただ薪が燃え尽きたから消えたにすぎないのであって、火がどこか別の世界に赴いて行ったのではない、というのです。

ヴァッチャは、これを聞いてブッダの意味するところを理解することができ、ブッダに帰依します。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html


31. 中川隆 2013年7月02日 02:12:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

日本の仏教信者は ”親の因果が子に報い” の意味が全く理解できていない


業をどう見るか 梅原猛


 仏教は一方で、慈悲を強調しながら、他方、人間の深い煩悩の世界を凝視しています。

 そのような点で、「業」の思想は、今後仏教の現代的意味を考えるとき、たいへん重要な思想であると思うのです。 業の思想が、例の十二因縁の思想と深いつながりを持っていることは確かであります。 十二因縁とはなんでしょうか。

 木村泰賢氏によれば、十二因縁の解釈には、三つの解釈の仕方があるというのであります。

第一は論理的な解釈、つまり十二因縁、無明から老死までの十二因縁を、論理的範疇として考える考え方であります。

第二は、それを心理的あるいは倫理的、現代の哲学用語を使えば、実存的に解釈する道であります。つまり、老や死を、苦と思うことの原因を、渇愛と無明に求める、これが十二因縁の意味であるという解釈であります。

それから第三に、十二因縁を実在的に、宇宙的生の発展のあり方を述べたものであるという説があります。つまり、無明から存在するものは発生し、行識を通り、最後に人間が出て老死が生じたという解釈であります。

 このうち、のちの仏教において、とくに部派仏教において有力になったのは、第三の実在的な因果の考え方であったようです。因果はまさに生命の理法を示したものというわけです。 しかもその因果が、道徳の問題と結合するとき、善因善果、悪因悪果、三世の因果という考え方が生まれます。

われわれが長い間、因果の概念で知っていたのは、このような因果概念でありました。私は子どものころ、縁日に見世物を見に行きましたが、そこにはロクロ首の女や熊女などがいました。このロクロ女や熊女は親の因果が子に報いて、このような片輪者になったといわれました。明治以前までわれわれ日本人はよいことがあると、先祖のおかげでといって喜び、悪いことがあると、親の因果と思ってあきらめたものでした。

 因果の概念には宿命論的ひびきがあります。そこには、おのれの運命への諦めがあります。そして同時に、このような現世の運不運を、人間の理解できない前世の因縁と結びつけることによって、仏教は、はなはだしく、理性の正しい行使を傷つけます。因果の概念は、まさに、日本人を諦観にしばりつけるとともに、日本人の理性をマヒさせた最大の元凶のようでした。

 長い間、仏教は因果の概念をつかって、民衆に道徳を教えましたが、その概念の拡張解釈は、人問に諦観を与えるとともに、人間理性の正しい行使を妨げることに役立ったようです。近代の精神は、このような因果因縁の概念を否定することから生じるのであります。近代的理性にとって、このような因果因縁の概念こそ、まさに仏教のインチキ性を証明するものと映ったにちがいありません。

 このような因果因縁の概念は、まさに仏教の恥部であったわけです。明治以後、日本の仏教学者が、仏教の束縛を離れて、ヨーロッパから、直接に釈迦仏教を研究する方法を学びとったとき、彼らは、彼らが従来釈迦の教説と思っている仏教が、実は釈迦の仏教でもなんでもなく、はるか後代において、釈迦の名にかこつけて作られた経典編集者の思想にすぎないことを知ってビックリしたものでありました。そればかりか、釈迦以来、二千何百年という年月は、同じことばの意味をも、まったく変えてしまったようでありました。

釈迦の十二因縁の思想は、どうやら、因縁・因果の名でもって、われわれの現実に知られていた思想とまったく別な思想のようでありました。因縁の思想を釈迦それ自身において考える必要があります。明治以来の根本仏教と解する原始仏教の研究は、結局この因縁の概念、因果の概念を明らかにすることにあったといってよいかもしれません。因縁をあの伝統的な汚名から解放すること、それはあたかも、文明開化の時代の文化人に不評となった仏教を、その迷信の汚名から解放するかのような意味をもっていました。

 因縁の論理的解釈

 このうち、論理的解釈はもっとも近代的解釈のようであります。このような解釈の代表が、宇井伯寿氏の『十二因縁の解釈−縁起説の意義−』と和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』であるといわれます。じつは、この解釈には、すでに先例があり、新カント派の哲学者マックス.ワレーザーが、『原始仏教の哲学的基礎』という本を書き論理的解釈の先鞭をつけたといいます。ワレーザーの本を私は読んでいませんので、はっきりしたことは申しかねますが、日本においてこのような理解がはなばなしく、出てきたときは、まさに新カント学派の全盛時代であったことに注意する必要があります。新カント学派は、ヴィンデルバントやリッケルトに代表されるカント復興運動でありますが、それは、当時ドイツに広がったカント以後の非合理主義的な思想に反対して、カントの合理主義に帰れという運動でありました。いわば、それは小市民の合理主義を代表するものでありましょうが、なんでもドイツ哲学を最高の真理として学ぶ日本の哲学者のサル真似主義が大正デモクラシー運動と結びつき、日本の哲学者はほとんど新カント派の哲学者になりました。このとき秀才の文献学的仏教学者宇井伯寿氏と、秀才哲学者和辻氏のみごとな理性主義的仏教解釈が生まれたのです。

 新カント派は非合理主義、人間の本質を非合理な意志や感情におく非合理主義に深いにくしみをもっていました。そして彼らが、もっともきらったのはショウペンハウエルでした。なぜなら、ショウペンハウエルは、彼らの尊敬する師カントを非合理主義のほうにねじまげたからです。

 ところがまさに仏教は、とくに原始仏教は、従来ショウペンハウエルの見地で見られていたわけです。ショウペンハウエルは、世界を動かしているものを、近代哲学の伝統に反して、理性として考えず、盲目の意志として考えます。われわれの生命を支配する盲目の意志、この盲目の意志は、必然的に人間を苦悩におとしいれます。意志の世界は必然的に苦の世界であります。この苦の世界から、人間を救い出す必要かあります。そのためには、この意志を否定すること、我の意志を否定することが必要であるとショウぺンハウエルは考えます。ショウぺンハウエルは、釈迦の思想中に、このような意志否定の哲学を見て驚くわけです。ショウぺンハウエルは、釈迦の涅槃をこのような意志否定の境地として解釈します。

 ショウぺンハウエルの弟子、ドイッセンは、この師の思想に啓発されて、仏教の研究を志します。

つまりヨーロッパは、ショウぺンハウエル思想によって、仏教を発見するわけです。そして、西洋の仏教学をそのまま学んだ明治以前の日本の仏教学も、またショウぺンハウエルから仏教を見ていたわけです。仏教学者姉崎正治氏は、ショウぺンハウエルの『意志と現識としての世界』の訳者でありますし、木村泰賢氏もショウぺンハウエルに大きな影響を受けています。

 ヨーロッパの哲学、ドイツの哲学がショウぺンハウエルから抜け出そうとしていたのです。ドイツの哲学、とくに現在流行しているドイツの流行哲学を最高の哲学と無邪気に思っている日本の哲学者が、このような風潮により、仏教解釈においても、ショウぺンハウエルを抜け出て、カントに帰ろうとしたのは当然であります。そこから和辻氏の解釈が出てまいります。和辻氏の解釈は、死の解釈において、その本質をむき出しています。死は彼によれはVergehenすることです。つまり過ぎてゆくことであります。死ははたして単なる過ぎてゆくことでありましょうか。ここで、釈迦の人間の苦悩を語ったかの偉大なる教説が、論理的範疇(はんちゅう)論に化するのです。ハイデッガーはExistenzialistat実存範疇ということばを作っています。それは実存的人間存在を表わす範疇であり、それはKategorie論理的範疇とまったく違うというのです。退屈や不安はエキジステンチアリテートに属しますが、カテゴリーには属しません。和辻氏はまさに、ここで一つの誤謬を犯したのです。それは実存範噂に属することを、論理的範疇の意味に解釈したという誤謬です。宗教的不安なしに仏教を見たすぐれた文献学者宇井氏が、そのような誤謬を犯したのは当然かもしれません。和辻氏は、この宇井氏の解釈を哲学的に根拠づけたわけです。まことに才気あるさっそうたる誤謬であります。

 従来から私は和辻氏に対して、きびしすぎる批判をくだしてきましたが、別に和辻氏に恨みがあるわけではありません。私は和辻氏を、むしろ私どもの仕事の先輩として、尊敬すらしています。

しかし私は、和辻氏の青年時代はまだヨーロッパの最先端の哲学に真理そのものが住んでいるという幻想を脱却することができなかったのではないかと思うのです。
 十二因縁を論理的に解釈すること、それはまさに仏教の合理化であり、近代化であるようでありました、この因縁という仏教の汚点のように見える思想を、長い間の不名誉から救うすばらしい行為のようでありました。しかし、因果・因縁を論理的カテゴリーとして解釈して、いったいどういう利益があるというのでしょう。われわれはそこに、ただ、不明確に語られたカント哲学を見るだけであります。釈迦の思想を不明瞭に語られたカント哲学としてみることは、はたして釈迦にとって名誉でありましょうか。当時のインテリの目からみれば、それは名誉なことであったのでしょう

が、いかんながら、釈迦の十二因縁を、論理的カテゴリーとして解釈することは、まったくの誤解のようであります。


 因縁の実存的解釈

 このような解釈より、さきに述べた木村氏の第二の解釈のほうが、ほるかに正しい解釈であると思います。つまり釈迦は、やはり生病老死の原因を求めるのです。どうして人間の世界に苦があるか、世界の苦の原因は何か。そしてその原因をわれわれの心の中にある渇愛と無明に求めます。渇愛は欲望を欲望の側から、無明はむしろ知の側からそれがわれわれの知をくらませるものとしてとらえるわけです。つまりこの老死の苦の原因が、渇愛または無明、すなわち盲目の意志というわけです。このような解釈はショウペンハウエル的ですが、同時に、明治時代の日本の原始仏教研究家の多くの意見です。私はこの見方は一応正しいのではないかと思います。

 人間には苦がある。苦の原因は何か。渇愛あるいは無明。この渇愛、無明を滅ぼせ。このような苦の原因の追求と、同時に苦の滅びに関する追求、それはけっして論理的追求ではなく実存的追求といわれるべきものと思います。釈迦の思想は実存的なものであります。したがって、このような実存的な釈迦は論理的な解釈よりはるかに正しさをもちます。

 人間における渇愛と無明の深さ、のちの仏教はそれを煩悩といいます。そして仏教はじっとおのれの心の姿を見ているところがあります。暗い闇の心の凝視、それが仏教に、キリスト教以上の深みを与える思想的特質なのです。ヨーロッパの哲学では、人間を理性的自我としてとらえます。しかし、人間は理性的自我に尽きません。人間の中には深い煩悩の相がありノます。無明は無知と違います。無知は知らない心ですが、無明は知っていても止められない心であります。このような心、深い煩悩の心の考察は、ヨーロッパにおいて、ショウペンハウエル以後においてはじめて自覚に上されました。近代的な無意識の発見者フロイドは、ショウペンハウエルとニーチェから思想的示唆を得たというわけです。このように煩悩の世界、無明の世界は西洋において、ショウペンハウエル以来の哲学の一潮流にすぎないのですが、仏教ではこの間題が思想の中心問題となります。闇の煩悩の凝視、そこに仏教思想の深さがあります。

 このように解された十二因縁の説は、はなはだ倫理的にして、しかも実存的な説であります。死の苦の原因は、無明渇愛にある、その渇愛無明を捨てたまえ。

 このような十二因縁の見方は、はなはだ倫理的、実存的であります。たしかにこの理解は仏教理解の解釈として実存的であります。まさにこれこそすぐれた十二因縁の解釈であるといえます。

 しかし、はたして十二因縁はこのような意味に尽きるでしょうか。木村泰賢氏は、十二因縁はこのような意味には尽きない、そこには実在する生命の発展過程を、時間的に説明するという面もあると言うのです。たとえば、無明行識の識といわれるものは、受胎の状態に比せられます。つまり十二因縁はすべての存在するものが発生し、老死を生み出すまでの時間的契機を明らかにしたものだと言うのです。

 このような実在的生命観は、因果理解に、道徳的要求が加わった場合、あの善因善果、悪因悪果の説すなわち、よい行為にはよい結果が伴い、悪い行為には悪い結果が伴うという考え方が生じます。しかしこのような縁起の概念をとる仏教学者は現代では少ないようです。むしろ、それは宗派を代表する古い仏教学者の意見に多いようです。木村泰賢氏は、第二の実存的な思想が因果概念にあることを認めながら、同時に、実在的な因果概念も仏教においては無視できない思想であると言われます。


32. 2013年7月02日 02:45:33 : W18zBTaIM6

小沢一郎先生の息子は”親の因果が子に報い”で派遣社員やってんだなwwww

33. 2013年7月02日 04:57:39 : tplrd7aWpY
遠近法 この世間厭な奴が遠ざからず、好きな者が遠ざかるのはつらいよねえ。
だれでも徹底的に遠ざけたい奴っているよね。
厭な奴とはその人間の性根の問題だろう。その人間の土台の問題だろう。
徹底的に相いれない部分がある。遠ざければ済むこと、遠ざかれば済むこと。

34. 2013年7月02日 05:24:14 : DY5UF9p3s2

文が長すぎて何を言いたいのかよくわからない。もう少し文をまとめて書いたらどうですか。ただ所どころコピペするだけだから無理なのか?

「ない」というのがお好きなようだが、今そこで発狂しているのは誰なのかな?夜中の2時頃に書き込みしているようだが。

怒りに燃えて書き込んでいる様子は、修羅界に落ち込んでいるようですね。

最初から言っているように、こういうことは屁理屈ではわかり得ないことで実際に体験してみないとわからないことだ。

釈迦の言っている事は対機説法と言って、相手のレベルによって解説が微妙に違っている。

ことに初期の説法は真実に到るまでの方便の教えです。最終的に真実を述べるわけだが、五千人起去といって増長慢の人々が去ります。

釈迦の真実の教えとは、誰でも最終的には仏になることができる。ということです。


35. 2013年7月02日 05:56:16 : TxqyqCR7a2
34>>仏になる、種が人間の中にある。それと重要なのは、釈迦は人里はなれた場所で瞑想することを好んだ、余計なおしゃべりを慎み、瞑想を行った。弟子迦葉(マ−ハカッサパ)は禅宗の始祖とされる、迦葉は拈華微笑(ねんげみしょうでしられている、釈迦から覚ったと認められた弟子の一人である。
(拈華微笑年)
釈迦しゃかが弟子に説法しているとき、一本の花をひねって見せたが、弟子たちはその意味を理解できず沈黙していた。ただ一人、迦葉かしょうだけが悟ってにっこりと笑った。釈迦は、迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を理解できる者として、彼に仏法の奥義を授けた。
釈迦は以心伝心、相手の動作を見ただけで覚った人間か否かが分かった、覚りを開いた人間だから分かるのであろう。ゴジャゴジャ説明しないで感覚で本質を見抜けたわけ。

36. 2013年7月02日 05:58:13 : dRWhKZuF1c
今のところ、科学で実証出来ませんが、だから「有り得ない」といえませんね。
僕は、非常に高確率で死後の世界はあると感じてます。
人生の目的は「経験を積んで進化する事」と仮定すれば、死んでオシマイならば意味がなくなるからです。
もし、本当にオシマイならば、僕らが持つ向上心も無意味となり、それでは人間の持つ精神構造(自分の欲求)さえ否定しなければなりません。
人生で積み重ねたモノが「無」になるならば、誰も努力出来ないでしょう。
長年描き続けてきた絵画を完成しないうちに途中で燃やさねばならないとしたら、全ての努力はフイになってしまい、こんな理不尽に満足出来る人はいません。

PCとユーザーの例えは実にわかりやすいですね。
僕は脳を「有機物超高性能PC」と定義しています。
人間は、脳が持つ五感で3次元世界を知覚していますね?
ならば、五感では探知出来ないモノがあっても不思議じゃないでしょう。
僕らは脳を通して世界を見ている訳で、脳がなくなれば別な世界が見えてくるのではないでしょうか?

また、参考までに述べますが、人間が死ぬ時には苦痛など一切なく、むしろ凄まじい多幸感に包まれるそうです。
本来、苦痛とは人間に「間違い」を教えるためにあります。
臨終に苦痛がないという事は、死が人間にとって避けねばならない間違いではなく、むしろ祝福される一大イベントだと感じるのです。
実に心憎い演出じゃありませんか?
この仕組みを考えた存在の知性と愛情に驚きます。


37. 2013年7月02日 06:16:07 : TxqyqCR7a2
36>>。ヨ脳が持つ五感で3次元世界を知覚していますね」
 五感というのは脳が持つのでしょうか?
死後の世界へは肉体(脳も含めて)はいけませんので魂(霊)が人間から離れて、死後の世界へ行くと解釈するのですが、であれば(仮にそうがであるとすれば;霊があるとすれば)霊が人間をコントロ−ルしている中心と考えられるのです。

38. 2013年7月02日 06:22:25 : TxqyqCR7a2
霊がこの世での経験を持って次の世界へ旅立つ、脳の記憶も持って(脳は捨て去るが記憶は霊が引き続ぐ)、この世で経験をして次の世界へ進化する。

39. 2013年7月02日 07:54:34 : W18zBTaIM6
>釈迦の言っている事は対機説法と言って、相手のレベルによって解説が微妙に違っている。
ことに初期の説法は真実に到るまでの方便の教えです。最終的に真実を述べるわけだが、五千人起去といって増長慢の人々が去ります。

初期の説法というのは釈迦が生きている時の説法

法華経は釈迦が死んでから何百年も経ってからの説法

釈迦が何故対機説法したか全然わかってないな。

釈迦の教えは完全な唯物論・無神論で当時の人には受け入れられなかった。

それで頭の悪い人にはあの世が存在しないという真実は言えなかった。

それが釈迦が対機説法せざるを得なくなった理由だ。


40. 2013年7月02日 08:09:25 : W18zBTaIM6
釈迦も弟子もお布施で食ってたからパトロンを怒らせる訳にはいかなかった。

だからパトロンにはアホが喜びそうな輪廻とか地獄の話をして大金を貰ってたのさ。


41. 2013年7月02日 09:41:40 : DY5UF9p3s2

いい度胸してるね。「盲(めくら)蛇(へび)に怖(お)じず」というやつか

自分の行為をよくわからないのね、六師外道の教えならば仕方ないだろうな。

因果の法則などどうせ否定するんだろうから関係ないんだろう。

死ねば「ハイ、おしまい」生きてる間に贅沢してやりたい放題。他人様に迷惑かけても関係ないんだろう。

おそろしい世の中になったもんだ。死んでおわりだったら宗教なんて不必要、生きてる間に好き放題やりなよ。オウム真理教のやつらみたいにな。

オウム真理教も六師外道の教えの奴らだ。


42. 中川隆 2013年7月02日 10:36:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
アホに真実を教えてやるよ. 一番の外道は釈迦の弟子なのさ:

対機説法の目的


スッタニパータ 第二章 小なるもの 第一経 宝

227  正しくある者たちに賞賛された、これら四組の者たち八人(四双八輩:正覚に至る四階梯の各々において学びつつある者と学び終えた者の計八人)が〔世に〕有るなら、彼ら、善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。

これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。これもまた、僧団(サンガ)における、妙なる宝である。この真理によって、安穏成れ。
http://www7.ocn.ne.jp/~jkgyk/sho20070317.html


ここで布施を受けるのは、貧しい人々ではなく、バラモンの生活法に則って、家住期を終え、家庭を離れて遍歴修行する遊行者、あるいは祭祀を行うバラモンのことである。
 
ゴータマとその弟子たちもまた、住居と生業をもたない遍歴の修行者であった。 かれらも生存していくためにやはり在家から食を乞わねばならない。 

 そのとき、布施の功徳を問われれば、先のマーガとの問答にあるように、祭祀さえも認めることがあったのだろう。 後の経典は、動物供犠を除けば邪盛会でさえ、肯定されているのである
http://www.eonet.ne.jp/~sansuian/com/comp5.html


要するに上記227節の意味は、

釈迦の弟子は特別な存在だから、もっと金を出せ

という事。そしてこれこそが仏教における釈迦崇拝の背景。

スッタニパータを書いた目的も

善き至達者(ブッダ)の弟子たちは、施与されるべきである。これらの者たちにたいする諸々の施しは、大いなる果となる。

というのを一般の人に納得させる事なんですね.

要するに,我々偉大なる釈迦の弟子にもっと金を出せ という事です.

輪廻転生や死後の世界を素朴に信じている無知蒙昧な一般人に大金を出させるには,釈迦の弟子が特別な選ばれた人間であると思わせなければならないですからね.

ブッダというのは目覚めた者という意味で単なる人間にしか過ぎない。

さらに、部派仏教の段階で釈迦の教えは既に大幅に修正されていたので、釈迦の言説は100年後には既に真理だとは思われていなかったですからね。

悟った人間は阿羅漢と言われて、本来はその全員が釈迦と同格ですね。釈迦から阿羅漢に認定された弟子は当時、何千人も居たので、釈迦が特別な人間という訳ではないのです。


釈迦が何故神格化されたかと言うと、無知蒙昧な一般人にお布施を出させるには,釈迦が神で、その弟子も特別な選ばれた人間であると思わせなければならないからでしょう。

坊さんも水を飲んで霞を食べて生きている訳じゃないですからね.

ハッタリも方便

要するに、僧侶にとって宗教は,職業として生活の為にやっているものなので,釈迦の本当の教えなんかどうでもいいという事なんでしょうね.



43. 2013年7月02日 10:41:08 : W18zBTaIM6

南無妙法蓮華経

もっと金出せ

もっと金出せ

南無妙法蓮華経


44. 中川隆 2013年7月02日 11:08:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

仏教というのはお布施をいっぱい出した人間だけが救われるという教え


タイにちょっと詳しい人なら「タンブン」という言葉を耳にしたことがあるだろう。タンは徳、ブンは積むの意味で、徳を積むの意味になる。具体的には、お寺に寄進したり、托鉢する僧侶に施しを与えり、恵まれないものを援助することだ。


タイの仏教はスリランカ系の上座部仏教(小乗仏教)で本来は出家し、修行を重ねた坊さんしか救われないことになっている。しかし、一般の人でも救済され、来世でより良い生涯を送ることができる方法がある。それがタンブンだ。

現世での幸福は前世でのタンブンが多かったせいであり、不幸は前世でタンブンが少なかったことの表れだとタイ人は考える。現世でタンブンを怠り、悪行を行うと来世は不幸になるばかりか転生先は獣へ落とされる。タンブンは人間として生きるための当然の行いだ。

タンブンを重ねると、それは次の転生時まで持ち越すことができる。タンブンは輪廻の中における善行の長期預金だ。

タンブンをすればするほど来世での生活が保障され、その将来が安定していく。

タイにはひと月に4回の仏教日ワン・プラがある(新月と満月とその中間日)。この日は絶好のタンブン日となり、各寺院では法要が行われ、喜捨寄進の品々が各家庭から山のように寄せられる。線香、歯ブラシセット、石鹸、ローソク、花、布地、 お金等僧侶が必要 とする日用品等が入っているタムサンカターンという ポリバケツのセットがスーパーなどで売られていてこれがタンブンされる。トーパーパという竹のクシにお札を挟んだお飾り(丁度お札の花が咲いているように見える)もタンブンされる。

4月のワン・プラに女中のブアがトーパーパを用意していた。みると1000バーツ札の串が何本も刺さっている。全部で3,4万バーツはあるだろう。兄弟始め、村の人からのタンブンを集めたものだそうだ。お寺にタンブンをしに行くので数時間家を空けてもいいか、と聞く。公休ゼロが続いていたのでもちろん承知したが、タンブンが嬉しくてたまらないという様子でいそいそと出かけて行った。

そのあと、5月のワン・プラにもトーパーパを用意していた。ブアに頼まれて近くのお寺に車で行くことになった。お寺では本堂の正面に座ったお坊さんにトーパーパを差し出して三拝九拝する。トーパーパにはブア手書きの手紙がついている。ママさんの病気平癒と我々兄弟の満願成就を祈念して下さいと書いてあるそうだ。別に自分がタンブンしたわけでもないので少し申し訳ない気分になる。

帰りの車中でブアにいくらタンブンしたのかと聞いたら自分のポケットからは2千バーツだけと言う。エエーッ、2千も?それじゃ4月のトーパーパは、と聞くと5千バーツタンブンしたとのこと。

ソンクランの時にも近くのお寺に連れて行かれ、本堂や仏塔で拝むたびに100バーツをタンブンしていた。そのお寺で占いが良く当ると評判のお坊さんの庵に行った。ママさんの病気はどうしたら治るでしょう、とブアが100バーツ(自分も100バーツ)タンブンして尋ねてくれた。体中に刺青をしたアヤしい坊さんのご託宣は「よくゴハンを食べるように」といったものだったが。

ブアの月給は7千バーツだから、給料の大部分をタンブンしていることになる。タンブンすることが目的で働いているようなものだ。大体、キリスト教でも収入の10分の1を寄進すれば天国行きを保証してくれると聞いたことがある。これだと貧者にも救いがある。収入の大部分をタンブンしているブアのようなタイの善男善女に幸せな来世が約束されているのだろうか。

はっきり言うと、タイでは、「タンブンの金額」が非常に重要視されている。裕福な階級の人々は財力を生かしてどんどん徳を積むことができるが、経済力のない人は積める徳の量も限られてくる。回数、質、量がモノを言うのがタンブンの世界だ。残念ながら貧乏な人にはチャンスは少ない。ギブ(タンブン)・アンド・テイク(来世)のドライな勘定で、貧者の一灯といったウェットな感情が入る余地はない。 その格差は年を追うごとに開くばかり。子供が出家することは最高のタンブンとなるが子供を出家させるにも莫大な準備金が必要になっていて、手軽なように思える出家でさえも、実は楽ではない。

不平等の声はあちこちで聞くが、それでも人々は熱心にタンブンに励む。それしか幸福に至る道はないのだから、励まざるを得ないのだ。
 http://blogs.yahoo.co.jp/uzbekistan24/48005241.html


金さえ出せばどんな悪事をやっても地獄に行かなくても済むんだ

だからヤクザはみんな創価信者なんだね

ありがたや、ありがたや

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経


45. 2013年7月02日 11:51:53 : TxqyqCR7a2
おえらい中川様のお説などいろいろありますね。
まじ、ど素人集の話より、死後の世界、霊などについて知りたければ、その道の研究者、実践者の本を読むべき、http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/appendix.html
心霊研究者のものを、私お勧めは エドガ−ケ−シ−、古代霊シルバー・バーチの霊訓、日本では福来友吉博士、浅野和三郎 らですね、東大で心霊研究を行った、福来友吉博士は東大を追放されています、当時の科学者から基地外扱いされて。

科学的に信じられない話であれば、イエスキリストの死後の復活、聖書のなかの、イエスのなした(神の力)奇跡、死者をよみがえらせ、目くらが見えるようになりるなど、多々不思議なことがあります、パウロの目も、らうろこが落ちて見えました。
科学的にはこんな話は眉唾、うそ話とされてしまいます、心霊の話しかりです。


46. 2013年7月03日 06:09:53 : GQrN4nKkaL
生きてるうちに、このスレ&レスが全体が示すよな虚無から解脱できるかどーかが全てなんやけどな…w
堂々巡りとかww、ね。

てか、スレ主はマジでこんな、不毛で混線しまくりの論議を求めてたんかいな??

一服しよ、アホらしか笑


47. 2013年7月03日 06:19:25 : GQrN4nKkaL
まぁ、貴方の投げた石がまずはこんな形で返ってくることを学習する機会があっただけいいのかな。
だから、常日頃から、問いは自らの内のみに養っとけと、総動員かけて伝えてきてんのにね。気付けにゃしゃーないな。
下らんスレ立てるヒマがあったらね。
それとも、こんなんで貴方は
充分慰められてんのかな?w

48. 2013年7月03日 06:48:04 : GQrN4nKkaL
これまで、様々な人の生死の不思議に触れてきた経験から言葉で言えることは上記ぐらい。ほんとは、筆舌に尽くし難い。

49. 2013年7月03日 08:46:29 : GQrN4nKkaL
合掌。
このスレからの、とりま離脱。
てか、勘弁してくれ、
極道どもよ。

50. 2013年7月03日 08:55:18 : GQrN4nKkaL
そんなバカな。
なれば、良いのです。

51. IBDS 2013年7月03日 09:00:49 : eRNYLAD.48jlI : GQrN4nKkaL
いきあたりばったり、でたとこしょうぶ。

52. 2013年7月03日 12:51:27 : W18zBTaIM6
巷で死後の世界と言われてるのは単に無意識の世界の事だよ

死ぬ寸前に意識を失っても夢を見ている様な状態はしばらく続くからね。

死んだら脳細胞も溶けるから無意識もすぐに消えてしまう。

釈迦はそういう事情に気付いたから唯物論・無神論になったんだ。


53. 2013年7月03日 12:59:34 : W18zBTaIM6
buddh:眠りから醒める

死後の世界と言われてるのが夢を見ているのと同じ状態だと気付いた覚者の事を釈迦は仏陀と言ったのさ。


54. 中川隆 2013年7月03日 13:12:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

死後の世界は再現可能

幽体離脱! 右脳の電気刺激、肉体の外に意識出た感じ

・右脳のある部分に電気刺激を与えると、意識だけが肉体の外に出たように感じる「幽体離脱」を引き起こすことを、スイスのジュネーブ、ローザンヌ両大学病院の研究チームが発見した。
 
2002年9月19日発行の英科学誌ネイチャーに発表した。

 チームは、43歳の女性のてんかん患者の治療のため、発作の原因となっている部位を特定しようと脳に電極を差し込み、電気刺激を与える実験をした。

 右側頭葉にある聴覚野の後ろを刺激すると、患者は「ベッドの中に沈んでいるような」感覚を訴えた。

刺激を強くすると、「横たわっている自分の下半身を上から見ている」

「ベッドの上2メートルほどのところに浮かんでいるような感覚がする」

と話した。

 腕を伸ばしていた場合には、左腕だけが短くなったように感じたという。
 こうした結果から、チームでは、平衡感覚と自分の体の部位をイメージする感覚を脳でうまく処理できない時に、「幽体離脱」を感じるようだとしている。

______


臨死体験、脳のここが働いていた スイス研究 2002.09.28
(CNN) 

「自分が死んだときに、体から魂が抜けるのを見た」

などという「臨死体験」は、関心を呼ぶことが多いが、医学的にどんな現象なのかはほとんどわかっていない。

しかし、スイスの研究チームがてんかん患者の脳のある部分を刺激すると、患者が臨死体験することを偶然見つけ、英科学誌ネイチャーに発表した。

スイス・ジュネーブ大学病院神経科のオラフ・ブランケ博士は、てんかんの女性患者(43)を治療中、右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分を電極で刺激したところ、必ず患者が「自分の体から抜ける」ような情景を体験したことを確かめた。
この患者は、過去11年間てんかんに悩まされ、ブランケ博士らは、てんかんの原因になる脳の場所を突き止めようとしていた。

患者の脳には100個以上の電極がセットされ、場所を変えて次々に刺激が与えられたため、チームは「患者が脳の特定の場所の刺激によって臨死体験を見た『ふり』をした可能性はほとんどない」と考えている。

角状回は、体や空間の認識、論理的な順序づけを統御する、脳の中でも複雑な部分。

クリーブランド医療財団のシンディー・クブ博士によると、角状回に異常がある患者は、ズボンをはいてから下着をはこうとし、そして「何かおかしい」と気づいたりするという。

また、手や足が体とつながっていないと感じたりするという。

臨死体験は、脳のどこかの神経細胞で、情報伝達の途切れや誤りが起きているのが原因ではないかとみられているが、特定の部分が関与していることを示唆する「結果」は珍しい。

今回の結果は、臨死体験を研究しようとして得られたものではなく、偶然発見された。

比較されるべき対照患者グループも用意されていない研究だが、この分野の専門家は「説得力があるものだ」と評価している。
http://www.asyura2.com/2002/health1/msg/485.html

脳内に電極を埋め込んだ男性、体外離脱を経験 2007年 11月 2日 17:08 JST

 [ボストン 31日 ロイター] 耳鳴り治療のために脳内に電極を埋め込まれた男性患者(63)が、その影響で体外離脱を経験していたことが分かった。
 ベルギーのアントワープ大の研究者らが31日、学術誌「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に論文を発表した。

 電極に刺激を与えたところ、この患者は15秒間と21秒間の2回にわたって自分が体外に離脱したような感覚を覚え、医者がCTスキャンによって脳内のどの部分が活発になっているかを調べたという。

 心停止から生還した人などから報告される体外離脱の感覚について、一部の人は死後の世界がある証拠だと論じている。一方、科学者の多くはその見方に懐疑的で、脳が錯覚を起こさせる現象だと指摘している。

 アントワープ大の研究者らは、患者の耳鳴り治療に脳内電極を試していたが、その成果は上がらなかった。その代わり、患者は自分の肉体から50センチほど後ろに離れ、左側に行く感覚を経験したという。
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/199.html

(2007/8/30) 人工的「体外離脱」体験に成功

「体外離脱(幽体離脱)」を疑似体験させる2研究がヨーロッパで実施され、米科学誌「Science」8月24日号に掲載された。

「体外離脱」とは、肉体を離脱して自分の体を離れたところから見ているような感覚のことで、ストレスにより視覚、触覚、自分が自分の肉体にあるという固有受容感覚などが分断されたときに生じるという。

時に外傷を受けた人が臨死体験として報告している。

臨死現象研究専門家であるKevin Nelson博士によると「体外離脱」は珍しくはなく、20人に1人は体験しているが、自然発生的でコントロールできないため、これまで詳しく研究することが難しかった。

 今回の研究の一つは、英ロンドン大学(UCL)神経学研究所のHenrik Ehrsson博士らによるもの。

被験者にハイテク3Dゴーグルを装着させ、約6フィート(約1.8m)離れた位置から撮影した自身の体をリアルタイムの3D映像で見せた。

プラスチック棒で被験者自身の胸部(本人には見えない)に触れると同時に、映像の同じ部位にも触れたところ、被験者は自分の肉体を6フィート離れた後ろから見ているような感覚を覚えたという。

さらに、幻影の体をハンマーで打とうとすると、被験者に発汗の増大がみられ、その恐怖を現実のものと感じていることが示された。

もう一つの研究は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校Ecole Polytechnique Federal de Lausanne(EPFL)のOlaf Blanke氏らが実施したもの。

被験者に、自分自身の体、人体模型、四角形をしたブロックのホログラフィ映像の一つを見せ、映像の「背中」をブラシでなで、時々は同時に被験者自身の背中もなでた。

その直後、目隠しをして後退させ、自分がいた元の位置まで戻るよう指示すると、模型またはブロックを見ていた被験者は正確に元の位置に戻ったが、自分自身の映像を見ていた被験者は幻影があった位置まで進んだという。

 専門家の一人は

「興味深い研究。体に触られた感覚を、まるで別のところにある自分の体を“見て”いるように感じている。

これは、車を運転するビデオゲームで、運転する車の映像は自分の前に見えているのに、あたかも自分が車の中にいるように感じる人がいることにも似ている」
と述べている。

 Nelson氏によると、どちらの研究も「体外離脱」を完全に再現したわけではないが、空間の中で自分の存在を認識する上で視覚が重要であることを示すものだという。

通常、脳で行われている視覚と触覚や固有受容感覚との統合が、幻影により混乱させられ、その結果、一時的に自分の肉体が隔絶しているような感覚を覚えるのだという。

同じことが睡眠−覚醒の過渡期や、脳が死に近い状態にあるとき、特定の病状にあるときに起きている可能性もあるという。

 ただし、視覚だけが最も重要というわけではなく、ほかの感覚についても実験方法があれば同様の結果が得られるはずだという。

この知見は、神経化学分野にとどまらずテレビゲームや遠隔手術などに応用できる可能性もあるほか、神学や哲学の核心に踏み込むとも思えるものだが、霊的なものとを混同するべきではないとNelson氏は指摘している。
原文[2007年8月23日/HealthDay News]
http://health.nikkei.co.jp/hsn/news.cfm?i=20070830hj000hj

_______________

 3) 臨死体験=脳内現象説

 臨死体験=脳内現象説は、臨死体験は死ぬ間際の人間が脳の作用によってみるただの幻覚の一種だという主張です。

 これに関して、1920〜1940年代にアメリカの脳神経学者ペンフィールドが行った興味深い実験があります。

ペンフィールドはてんかん患者を治療するために頭蓋骨を切り開き、どこの部位を切除すれば機能が回復するかをテストしようとしました。

 このとき、ペンフィールドは

電気で側頭葉を刺激すると、患者が「自分の体が浮かび上がっているように感じる」などということに気がつきました。

これを聞いて学術的興味深々のペンフィールドさん。

「面白いオモチャを見つけた」とばかりに患者の脳をいじくりまくります。

ぐりぐりぐりぐり。

てんかんの治療はどうしたんでしょうか?

 まず、側頭葉のある部位を刺激すると、「浮遊体験」が感じられ、別の部位を刺激すると、「自分の魂が体から離れていっている」という感覚に襲われる
ことが判明しました。

もしかしたらこの患者だけなのかもしれないので、念のためとばかりにペンフィールドは、同様の実験を他の患者にも試し、脳をぐりぐりぐりぐり。

同じような言動をすることを確認。

 また、側頭葉のシルヴィス溝を刺激された者の中には対外離脱だけではなく、神に逢ったと主張する者もいました。

 そういえば、日本で「悪魔を祓うために体を清める」と称し、いとこを殺害して体を塩で清めたという悪魔祓い殺人事件では、側頭葉てんかんを持った男が「神の声を聴いた」と主張したのが始まりでした。

側頭葉には神様が住んでいるのかもしれません。

 臨死体験=脳内現象説の理論はこれだけではありません。

 もしあなたが自転車に乗っていたら、ドカンと車にぶつかってみましょう。
あなたの人生が一瞬にして早送りで再生されるはずです。

そうです、走馬灯です。

 この別名「映画フィルム式思考」と呼ばれる、死に直前で自分の一生が一瞬で思い出されるという体験は、クスリの服用でも体験できます。

 クスリの名前はセントロフェノキシンという、スマートドラッグとしてアメリカでかなり出回っている代物。

これを服用すると、突然数十年前の思い出が鮮明に甦ってくることがあるのです。

 他には、LSDなどの麻薬で体験する幻覚には、

長いトンネルの映像、
まばゆい光、
別世界の住人、
生死を問わず様々な友人や家族

が登場します。

 いくつかの薬物が臨死体験に酷似した幻覚を生み出すことは以前から指摘されていました。

臨死体験が脳内物質や脳内現象による幻覚であると仮定するならば、それと同様の薬物を投与することで臨死体験と同様の体験ができ、そのメカニズムと解明されることになります。

 1980年の時点で既に、精神薬理学者のロナルド・シーゲルにより、臨死体験と薬物による幻覚の類似性が指摘され、亜酸化窒素やエーテル、ケタミン、フェンシクリジン(PCP)、ヘロインなどの薬物の名が挙げられています。

 さらに、オークランド大学のイェンセン教授は、

「人間が死に瀕したとき、脳内の神経細胞を酸欠状態から防ぐために、エンドサイコシンという物質が大量に放出される。
これが臨死体験を引き起こすのだろう」

という説を発表した。

この説はあくまでも仮説であり確証はありませんが、人間が極限状態に陥ると、脳内麻薬が発生することは昔から知られていました。

死の直前というのは究極の極限状態ですから、脳内麻薬が大量に発生し、それが脳内に幻覚を生み出すのは十分に考えられます。

 大脳酸素欠乏症説というのもあります。

 肉体が危篤状態になったり、ほんの一瞬でも心臓が止まると、大脳の酸素が欠乏します。

この大脳酸素欠乏は、短時間であっても重大な損害を脳に与えます。

 この大脳酸素欠乏状態に陥ったとき、最初に幸福感や全能感がやってきて、
さらに酸素欠乏が進むと現実判断能力が失われ幻覚が生じます。

 日本の武道の場合、柔道の絞め技などで「おちる」瞬間は非常に気持ちいいと言われています。

 これらは、直接 臨死体験=あの世 を否定するわけではありませんが、

人間の脳に刺激を与えたり、ドラッグを服用することで擬似的な臨死体験をすることができるのは事実です。
http://psychology.jugem.cc/?eid=19

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/443.html



55. 2013年7月03日 13:23:20 : W18zBTaIM6

チベットの死者の書
http://www.youtube.com/watch?v=pih08EpqzEg
http://www.youtube.com/watch?v=uzGCo5pynMg
http://www.youtube.com/watch?v=cV5z5KQy97o


中沢新一もアホを騙して随分稼いだなwwwww


オウムと中沢新一「虹の階梯」オナニー修行 麻原彰晃が心酔した宗教学者
http://www.youtube.com/watch?v=2H4FLYKS4GU


56. 2013年7月03日 13:52:45 : TxqyqCR7a2
55>>中川大先生にお伺いいたします、科学的に説明できないこととして、キリスト教
、聖書の中のもろもろの奇跡、代表例、モ−ゼが(神の杖で)紅海を二つに分けた(出エジプト記)、死んだ娘を生き返らせた(マタイ福音書 第九章)などなど、奇跡、神業多数書かれています。どのように先生はおもわれますか?
宗教でも仏教とは相当趣きがちがいます、死後の話ではないのですが、死人が生き返ってますので・・・・。

57. 2013年7月03日 14:17:45 : DY5UF9p3s2

オウム真理教は六師外道の中でもクズの中のクズらしいな。

頭に電流を流しているヤク中なのか。あきれたな。ソーカとかオウムがいるから日本は低迷してるんだよ。

地獄とはこいつらのためにあると言っても過言であるまい。


58. 中川隆 2013年7月03日 14:33:20 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
僕は無学歴・無知・無教養でネットで見つけたコピペを貼ってるだけなので悪しからず。


>科学的に説明できないこととして、キリスト教、聖書の中のもろもろの奇跡、代表例、モ−ゼが(神の杖で)紅海を二つに分けた(出エジプト記)、死んだ娘を生き返らせた(マタイ福音書 第九章)などなど、奇跡、神業多数書かれています。

キリスト教の正典はマタイ伝で、そのマタイ伝というのは危険思想の持ち主であったイエスの真の教えを隠す為に作られたものなのですね。

従って、新約聖書だけからイエスの生涯や本当の教えを推測するのは不可能です。

新約聖書に書かれたイエスの言葉(?)と口伝で伝えられていたイエスの言葉がどれ位違うかはマタイ伝とルカ伝の山上の垂訓を比べてみればすぐにわかります:


口伝で伝えられていたイエスの言葉
ルカ(6章17−26)

山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆・・・イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。


貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである

今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる

今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる

人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている

今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる

今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる

すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである

改竄・捏造されたイエスの言葉
マタイ(5章1−12)

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである


__________


ルカ伝からするとイエスは極左の革命家、マタイ伝からするとイエスは道徳の先生

180度違うのですね。 もちろんルカ伝は原典そのままですからイエスは極左の革命家が真実に近いのですが、

原始キリスト教ではそういう真実がそのまま伝わると伝道が不可能になるので、イエスの言行を改竄・捏造した訳です。

聖書の中のもろもろの奇跡というのもイエスの出生の秘密や言行を隠す為に捏造・追記されたという事ですね。


例えば

イエスは私生児


ドイツ(ビンガーブリュックの町)にはイエスの実父のお墓があるとも伝えられています。

イエスはタルムード(ユダヤの律法とその解説)によると、ローマ兵の射手(姓:Panthera)とマリアの間の私生児でした。

教会はそれを否認しましたが、パンテラのお墓が発見されたことにより、タルムードの中のこの話の信 憑性が高くなりました。

墓碑銘によると、パンテラは西暦9年までシドンというフェニキアの町(現在レバノン)に派遣されていて、その後ライン地方へ転勤させられたそうです。
http://kobe.cool.ne.jp/daini_densho/page010.html

・・・生前のイエスがユダヤ人からどう見られていたかについて、記そう。

当時のユダヤ人には姓がなかった。
通常は自分の名の次にベン(ヘブル語)もしくはバル(アラム語)をつけ、次に父の名を置いた。

正確ではないが、イエスがヨセフの子なら、イエス・ベン・ヨセフという言い方をする。

この点、ロシヤ人の父称とやや似ている。いわばイワン・イヴァノヴィッチ・イワノフとはイワンの息子のイワンで、もしイワノフという姓がなければイエス時代のユダヤ人と同じ言い方になる。

当然のことだが、私生児には父称はない。トルストイの『復活』で、カチューシャが法廷の人定尋問で父称をきかれ、顔を赤らめて「私生児でございます」という場面があるが、父称のある国では私生児であるか否かが名前を見ただけでわかる。・・・

父称が姓のかわりをする社会で私生児がすぐにわかるのはユダヤ人も同じであった。
ではイエスは一体なんと呼ばれていたのか。


マルコ福音書(六3)に

「・・・この人は大工ではないか。マリアの息子(・・・・・)で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここの私たちと一緒にいるではないか」

という言葉がある。この「マリアの息子」という言葉は私生児に対する軽蔑的な表現であると、シュタウファーはいい、この表現の例をタルムード(ユダヤ教文書)からあげている。

私生児でも敬虔な生活をしている限り、その出生について何も言わないのが彼らの習慣だが、しかしその者が、不敬虔なまたは背教的な生活をしたときは、公然とその出生について誹謗するという。

いわばイエスが普通の敬虔な大工であるときは何もいわないが、柄にもなく会堂で妙な説教などはじめると、途端に「マリアの息子ではないか」といった言葉が出てくる。
こういう誹謗の言葉を後代が福音書に付加するとは思えないから、これは真正の伝承であろう。

さらにシュタウファーはマタイ福音書十一章九節やルカ福音書七章三七節の

「食をむさぼる者、大酒を飲むもの」

というイエスへの誹謗の言葉も、私生児を表すと指摘している。

これらのことは、イエスがヨセフの実子ではなかったこと、いわばヨセフは自分の子と認めず、周囲もそう見ていたことを示している。・・・


では、イエスは私生児なのか。

ユダヤ教ははっきりとイエスを私生児とし、タルムードには

「姦淫の女の息子」
「娼婦の息子」

とさえ言われている。まことにこまったことにマリアは、聖母とされるか姦婦・娼婦とされるかどちらかであって、それ以外に呼びようのない対象になっている。・・・

イエスは終始母マリアに冷たかった。

聖母マリア信仰は、聖書の記述によるのではなく、後にキリスト教信者が作り上げたものである。

それは賛美歌と共に信者を集めるのに大きな役割をはたしたが、イエスの行いとは相容れないものだ。
http://www.kojintekina.com/monthly/monthly60704.html

●マリアは、ヨセフと結婚する前に、誰か他の男性と関係を持ってイエスを身篭った。つまり、マリアは未婚で私生児を身篭ったティーンエイジャーだった。

しかし、夫となったヨセフは、その子供を父親として認知した。

イエスの「処女降誕」を主張しているのは、マタイ・ルカ福音書のみで、新約聖書のほかの部分には全くない。マタイ・ルカの福音書はあくまでもイエスを神格化するために、「処女懐胎」の思想を生み出した


●マリアが関係したイエスの父親は、ローマ軍の兵士だった。(ギリシャの思想家ケルススが178年頃書いた『真理の言葉』)。

イエスの父親は、ティベリウス・ユリウス・アブデス・パンテラという名前で40年間、ローマ軍の兵士として務め、61歳でドイツで亡くなり、墓が1859年にドイツのビンガーブリュックで見つかっている)


●イエスには、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの腹違いの弟四人とマリア、サロメの腹違いの妹二人がいた。

(マルコ福音書)みんなマリアの子であるが、イエスとは父親が異なるー父親はヨセフもしくはその兄弟のクロパと思われる。

ユダヤの戒律により、夫が亡くなった時にその兄弟が跡継ぎとなることが決まっていた。クロパは正式な名前ではなく「呼び名」の可能性が高く、クロパはギリシャ語形で(聖書の中で)何度も登場するアルファイである。

イエスの磔に立ち会い、埋葬に加わった女性三人は、@マグダラのマリアAイエスの母マリアBイエスの妹サロメである。

(ここで「腹違い」と書かれているが、原文か翻訳の間違いであろう。イエスも兄弟姉妹もすべて母親がマリアなら、イエスと「父親違い」が正しいだろう)


●マリアもヨセフも先祖を遡るとソロモンやダビデらイスラエルの王に辿ることができる。つまり、イエスも正統な王家として、王位継承を求めていたのではないか。(つまり、斟酌されるのは、イエスの行動は宗教家としてではなく、政治運動だったのではないか。そのために、反政府勢力として殺害されたのではないか。

弟たちもこの「政治運動」に使徒として参加し)イエスとシモンが磔刑、ヤコブが石打ちの刑というふうに、五人のマリアの息子のうち三人がむごたらしい死を迎えた。
http://blog.goo.ne.jp/goo1956718/e/d36c199613e1dd41f56cd591aa4ae444


その証拠にパウロはイエスの事を良く知っていたにも関わらず、イエスの出生や言行については絶対に触れようとしなかったのです:


パウロ書簡から史実のイエスを傍証する


ちなみに、パウロ書簡は現存する最古のキリスト教文書ですが、新約聖書の約3分の1を占める膨大な量であるにもかかわらず、そこには史的イエスの描写が「一切」といっていいほど存在しません。唯一つの例外は『コリント人への第一の手紙』(11:23〜26)で、そこに、

「主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、『これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、『この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい』」

という記述があります。たったこれだけです。

これでさえ、死の影にほとんど包み込まれたイエス、生身のイエスの消滅を前提とした最後の晩餐でのイエス、それもその教義的解釈の枠内でしか史実のイエスを記述していません。これを史実のイエスへの言及と言っていいかどうか?

パウロがイエスに触れるのはキリストとしてだけ、つまりその十字架の死と復活と栄光の来臨についてだけであり、それもそれぞれについての神学的意味づけに関してだけです。

パウロは「意図的に」史実のイエスには触れません。
イエスがどのような家庭に生まれ育ち、いかに成長し、いかなる目的で伝道を始め、どのような集団を構成し、どのようにして死に至ったかについては何も語りません。
つまりそこには肉のイエス論(生前のキリスト論)はなく、霊のキリスト論(死後のイエス論)しかありません。『コリント人への第二の手紙』第5章16節には、

  「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」

と記しています。手紙としてこれを記しているというのは、読む人々にも「そのようにしなさい」と薦めてもいるわけです。

肉のイエスに関わる「作り話やはてしない系図などに気をとられることのないように、命じなさい」とも記しています。

「もうそのような知り方はすまい」というパウロの態度は、史実のイエスへの単なる無視ではなく、むしろ拒否を意味しています。


しかし、もしマタイ、マルコ、ルカなどの共観福音書で描かれたように、十字架贖罪死へ意図的に歩むイエス像が史実として正しいならば、最強最大の十字架贖罪論者であるパウロがイエスの言行についてほとんど一言も触れないのは言語に絶する不可解なこととなります。

そこには当然十字架贖罪死へ向かう感動的なイエスの言行が数限りなく存在した筈だからです。


なぜパウロはイエスの言行について一切触れなかったのでしょうか? 

この重大な問題については、ふつう、「史実のイエスと直接接触のあったペテロ・ヤコブ・ヨハネなど直弟子たちに対する劣等感からくる反撥や開き直りかもしれない」と解釈されて、納得が求められています。

しかしパウロ自身のそのような個人的な境遇が救い主の生涯そのものへの無視へと続くことは決してありえません。これはさも解答があるかのようにみせる一種の誤魔化しや誤導です。

とにもかくにもイエスは彼と全人類にとって「神の子」で「救い主」だから、そのイエスの生涯について一言も語らないというのは、本当は信じられないほど奇妙なことなのです。

その奇妙さを実感していただくために、ここでひとつ質問してみたいと思います。もしあなたの命の恩人がいて、その人がまた家族一人ひとりの命の恩人でもあり、さらに存亡の危機にあった国家をも救った恩人だったとしましょう。

これでもパウロが信じた「全人類を救ったイエス」という大恩人よりはまだもう一つスケールの小さい恩人ですが、それでも、もしこういう人物がいたとするなら、あなたはその人の生まれや成長や活動内容に全く無関心でいられるでしょうか? 

そのようなことは人間として100%ありえません。

ところがパウロはそういうこと一切に対して拒否の態度を示し、事実上、積極的に「無視せよ」と薦めているのです。

これは非常に不自然です。言葉に尽くせないほど不可解です。


もしイエスが十字架死へ向けて意図的に生きたのが史実として正しければ、熱烈な十字架贖罪論者のパウロは彼一流のあの素晴らしい筆法で、十字架への道を歩むイエスの感動的な生き様を数多く紹介してくれたことでしょう。

むろんイエスの生き様に対するパウロのこのような度外れた無視と拒否は、事実上、史実のイエス・本当のイエスへの甚だしい侮辱に他なりません。
http://www.geocities.jp/toryon33/syuukyoukaitou.html#hitonoko

新約聖書で行われているイエスの言葉の改竄・捏造については


イエスとは誰か (NHKブックス) 高尾 利数 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%81%AF%E8%AA%B0%E3%81%8B-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E9%AB%98%E5%B0%BE-%E5%88%A9%E6%95%B0/dp/4140017635


59. 中川隆 2013年7月03日 15:24:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

イエスの死と復活についても原始キリスト教会は必死の改竄・捏造で真実がわからない様にしていますね。 真実を明らかにしてローマ人を怒らせると布教できなくなりますからね:


チベットの密教寺院で発見された聖イッサ伝によって明らかになったイエス処刑の真相

イエスは、二十九歳のときイスラエルに帰った。

彼がいない間、異教徒はイスラエルの民に、なお一層恐ろしい苦しみを与え、人々の気力はどん底に沈んでいた。

イエスは町々を巡り、絶望の重みに耐えかねていたイスラエルの民の勇気を、神のことばによって強めた。

数千人の群集が、イエスに従って説教を聞いた。

町々の指導者らは、イエスを恐れはじめた。

そしてエルサレム駐在の統治者に通報した。

イエスと呼ぱれる男が町に来たこと、説教しながら、権威に抗うよう民をそそのかしていること、群集は国の仕事もかえりみず、熱心に彼に聞き従っていること、そして侵人

して来た統治者が、間もなく迫い払われるだろうと彼は断言している、と。


エルサレムの統治者ビラトは、説教者イエスの身柄を抑え、町に迎れて来て裁きにかけよ、と命令した。

しかし民衆の怒りを買わぬよう、祭司や学識あるへブライの長老たちに、イエスを神の宮の中で裁くようにと勧告した。

しかし、イエスの釈明を聞いた祭司と、賢い長老らは、彼を裁かぬことに決めた。

なぜならイエスは、だれも傷つけてはいなかったから。

そして彼らは、ローマの国の異教徒の王によって、エルサレムの統治者として定められていたピラトの前に出て、こう述べた。

「町々の長らは、あなたに間違った報告をしています。

というのは、この男は民に神のことばを教える義人です。

彼を尋問して私たちは安心し、彼を行かせました」


これを聞いて統治者は怒りに駆られ、変装させた家来をイエスの身近に送り込んだ。

イエスの行動すべてを監視させ、彼が民に向けて語ることばを、細大漏らさず報告させるために。

イエスの驚くばかりの人気は、統治者ピラトをおののかせるようになった。

イエスに敵対するものたちによると、民衆の中にはイエスこそ王だと主張するものがあり、イエスが彼らをそそのかしているという。

ピラトは彼のスパイの一人に、イエスを告発せよと命じた。

そこで兵士らが、命じられてイエスの逮捕に向かった。彼は捕らえられ地下牢に囚われた。

牢にはさまざまな拷問が待っていた。彼らは彼を死に定めるため、拷問にかけて自白を得ようとした。

聖者が受けている苦しみと、拷問のことを聞き知った大祭司、賢い長老たちは、統治者のもとへ赴き、近づいている祭りの栄光のためにも、イエスを自由にしてほしいと頼んだ。

だが為政者は、にべもなく拒んだ。

イエスは総督に向き直り、こう言った。

「どうしてあなたは、自分の品位を恥ずかしめるのですか。
どうして家来に、間違った生き方を教えるのですか。
自分の手は汚さずに、無実のものを罪に落とす方を持っているあなたが」


総督はこれを聞いて怒り狂い、イエスに死の宣告と、二人の盗賊の赦免を命じた。

協議を終えた裁判官らは、ピラトに言った。

「私たちは無実の人を有罪にし、盗賊らを釈放するという大きな罪を負うことはできません。 それは法に背きます」。


「だからどうぞ、あなたの思いのままに」。

祭司と賢い長老たちは、こう言い残して法廷を出、聖なる鉢で手を洗って言った。


「この義人の死について、私たちに責任はない」
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html


イエス復活の秘密についてはマタイにも明記されていますね:


マタイ28-13

その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼(イエスの亡骸)を盗めリ
此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。

イエスの復活については、ペテロら弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、イエスの復活をふれ回ったとする解釈(自作自演説)もありますが、どうにも不自然です。

ペテロらの自作自演なら、福音書によって記述がかなり食い違う点も説明が困難です。目撃証言や伝聞をつなぎ合わせていったから、あのような食い違いが起きたのであり、自作自演なら矛盾なくきれいに話がつながったはずでしょう。


イエスの遺体を墓から運び出させたのは誰でしょうか。

イスカリオテのユダしか考えられません。

イスカリオテのユダは、他の弟子たちがイエスの真意をようやく悟り始めたことを知りますが、弱い彼らは時が経てば逃げてしまうだろう、そうなれば、イエスは忘れ去られ、その教えは地上から消滅します。

イスカリオテのユダにとって、それは耐えられないことでした。

彼は、イエスの復活を演出します。墓からイエスの遺体を密かに運び出させました。

早朝、空になった墓を見て、イエスの遺体に香油を塗りに来た婦人たちは悲鳴を上げて逃げ出します。やがてイエス復活の噂がエルサレムの街のあちこちで囁かれるようになりました。

それを見届けたイスカリオテのユダは首を吊って自殺したのではないでしょうか。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/juda.html


60. 2013年7月03日 15:35:39 : TxqyqCR7a2
58>>イエスキリストについて色々ありがとうございました、出生の秘密やら、政治運動していた など。
個人的見解ですが、2000年以上も前から人々から尊重されている、聖書、日本の古事記、日本書記 、イスラムのコ−ラン がすべてフィクション、うそ話であれば今日まで2000年以上の人々が大切にしてこなかったと考えるのですが、まこれは個人個人の考え方でしょうから。

それから、キリスト教は科学では解明できない神「創造主」(エホバなる固有名詞もあるようです)について書かれているわけで(神を信なさいが聖書のテ−マ)。

また今日の科学が絶対ではなく、科学で解明されていないことがらもあるわけですから・・・。

四方山話でした。


61. 2013年7月03日 15:58:50 : TxqyqCR7a2
おまけ、付録。
神を出汁にして人々からお金を巻き上げる、いかさま宗教が沢山ありますので、ご注意ください(例)オ−ム真理教、法の華三法行、などなど
神様、仏様はあちらの世界の方で、あちらではお金は通用しません、娑婆にいる教祖さま(最低限の教団運営資金は必要であろうが)が必要なだけで、教祖がキャデラックに乗ってたり、やたらお金を出せというのは、ヤバイ宗教と判断すべき基準です、念のため、おせっかいながら。

62. 2013年7月03日 16:26:50 : W18zBTaIM6
>聖書、日本の古事記、日本書記 、イスラムのコ−ラン がすべてフィクション、うそ話であれば今日まで2000年以上の人々が大切にしてこなかったと考えるのですが


聖書のルター訳はドイツ語の教科書

欽定訳聖書(KJV, 1611年)は英語の教科書

旧約聖書はヘブライ語の教科書で唯一の歴史書

古事記、日本書記は唯一の歴史書

内容がどうこういう前に、宗教書は当時最高の文学者が書いた名文なので文章の手本として大事にされたんですね。


63. 2013年7月03日 16:28:54 : W18zBTaIM6
因みに、古事記は柿本人麻呂が書いたという噂で、日本文学で最高の名文

64. 2013年7月04日 15:59:33 : DY5UF9p3s2

インド哲学史から考察していけば、よくわかるんだけどね。デタラメを吹聴する知ったかこきのほら吹きがいるみたいだな。


65. 2013年7月05日 11:32:08 : oxvwFuj49c
ここでの主旨は・・・

 知ってるなら、
    何も問題ない、です。

  知っているなら、ね。

 知らないから!

  あ〜だこ〜だ、アホやるのですよ。

簡単な例)

 お婆さんが毒りんごをくれました。

  ひひひひ。

 毒りんごだ、と、知っていたら!

 食べません!!!

  当たり前だ。



66. 気まぐれな風 2013年7月05日 11:37:27 : Yql9N1LbacSfs : oxvwFuj49c
肉体の他に、エーテル体があるらしい。
腕や足を失った人が、ないはずの部分がかゆかったり痛かったりするのは、肉体の一部はなくなったが、エーテル体はなくなっていないからかも知れない。

魂とはエーテル体なのかも知れない。

すると、肉体は死ぬが、エーテル体はどうなるのだろうという問いが出てくる。

肉体を失ったエーテル体は気まぐれな風に飛ばされてしまうのだろうか?

 
 その問いを、自力で解きなさい!
 って話ですよ。

 既に教材は、ごまんとある。

 ただし、毒りんごには、気を付けてくださいね。


67. 気まぐれな風 2013年7月05日 11:42:23 : Yql9N1LbacSfs : oxvwFuj49c
釈迦は死後の世界は存在しないと言ってる。

ほんとに?
釈迦が、そう言ったの?

仏教徒なら全員死後の世界を否定する。

 仏教徒がどうだろうと関係ない。

まあ日本の仏教は中身は神道だから違うけどね。

 仏教とは、、、

  仏から学ぶのです。
  仏が教えるのです。
  仏教経典が教えるわけではない。
  ゆえに自身の仏の探求なのです。
  ゆえに自身の仏の教えなのです。
  あなたが仏から学ぶのです。

 


68. 気まぐれな風 2013年7月05日 11:54:52 : Yql9N1LbacSfs : oxvwFuj49c
「証明」とは「科学の力」で明らかにするという事ですか?

  科学の力で、死後の世界を証明?
  肉眼で共通観測の力で、不可視を証明?
  
  その矛盾を、言う前に、自身で気が付け、ということ。

  気が付いたから、問い、なのです。
  変、かな?
  気が付いているのです。

脳波を映像化する研究の先に、死にゆく人間の魂と呼ばれるモノを
追跡する事が可能になれば或いはですね。


69. 気まぐれな風 2013年7月05日 12:33:12 : Yql9N1LbacSfs : oxvwFuj49c

これらは体験でのみ実感できるもので屁理屈など通用する世界ではない。


その通り、です。

 悪、とは?

  それを理解する事が大切です。

 体験で、実感で、悪だ、と、知っているのです。

  では?悪とは?

 亜心、心に亜が、憑りついているのです。

地獄は八大地獄と言ってその中でも最悪な地獄が阿鼻地獄(無間地獄)と言う。 

 これは、脅しのテクニック。

 子供を教育する際
 「夜中に笛吹くと、ヘビが出るぞ」
 親は言ってでしょ(笑)

  しかしながら、
  因果応報の法則は、存在しますよ。

 ここが、地の獄だ、と、

  過去、既に、指摘を受けた方もいますね。

  その通りです。


70. 気まぐれな風 2013年7月05日 13:56:27 : Yql9N1LbacSfs : rYpjsgwVrM
三途の川

 教本の言語の記憶など

 どうでもいいのです。

三途の川とは?

なんなのだ!?

どんなだ!?

 理解しなさい、ということ。

カッパーニだか、ベッターラだか、

 知らんよ、そんな事。

インドの人に言え。

 どう、したいのだ?

 なにが?したいのですか?

 あなた方は!

なぜ?コメントするのだ?

 ここはどこ???

 私はだれ???

 私は何してるの???

一体、何を、してるのさ!?

 ボンクラか?(笑)

僕はしょうもないボンクラを

 ボンクラだ、と、

  気付かせている。

 なぜだ?

 夏休みの宿題が

  たまりにたまっているからだ。

 なぜだ?

  僕は宿題、終わったからだ。

 なぜだ?

  僕は過去、宿題残して、落第したからだ。

 なぜだ?

  辛く厳しい落第生活だったからだ。


いいんだよ、落第したい奴は。

 好きにすればいい。

 クラスが落ちれば

ヤクザの親分が君の教師になる。

 まぁ、鬼だね。

 神の教えは、、、

 桁違いにヤバい。

 人類の手に負えないほど
 鬼の手に負えないほど落第しきった者は、、、

 宇宙のゴミとして捨てられる。

  放置教育だ。
 『いつか、キッカケがあるだろ』
 『10000兆年の歳月の中』
 『いつか、たぶん、な』

 アナタ1人の面倒など

  観てる暇はない。

 時折、時期をみて、

   救援隊を遣わすが、

  落第しきった者は

  残念ながら気が付かない。


イエス復活を切望する者は

復活したイエスが目の前にいても

 気が付かない(笑)

 あの絵の顔で
 『私はイエスである』
 『これが免許である』
 言われると信じる(笑)
 アホだ(笑)

 で、騙される。


宿題終わった者は
宿題終わった者が

 何をしているのか?
 知っている。

 もう、終わってるから、

  知ってるのです。


71. 2013年7月07日 05:26:33 : GQrN4nKkaL
ピンポ〜ン!

いいねえ。
やっぱ、新興宗教のネット教祖目指してたわけじゃないやん。
一旦離脱はしたものの、
お立ち寄り・笑


72. 2013年7月07日 06:46:27 : GQrN4nKkaL
大体、解答を知らない者が、ありとあらゆるヒントのみを書き連ねる世界って…。
やっぱこのスレ、そこそこ面白いかもね(余興thanx)!

73. 2013年7月07日 07:21:21 : GQrN4nKkaL
宇宙が小乗で成り立ってると云うからには、これも言っておかねばなるまいね。
アノヨってのは、意外とコネ(縁)がものを云う。ま、コネあってものっけからだめなら結局即ゴミ送り…。
逆に言えば執行猶予なんてつかないから、かえって厳しい規準なのかもだけど。とまれ、意味もなく生まれてきたり、存在した者(物)なんていないよ!?

74. 2013年7月07日 07:35:46 : GQrN4nKkaL
大乗は、誰にでもチャンスや希望があるという、謂わば民主主義。
それはまた、真理ではあるのだが…。

偏差値とか、市場主義とかのいかがわしさを看破しない限り、結局簡単に地獄の門番(閻魔大王とかw)にひっかかっちゃうの。
大乗は大切。
であるからこそ、よくよく、己の心の詐欺(毒リンゴ)にひっかからないよう…。


75. 2013年7月07日 07:46:18 : GQrN4nKkaL
…しっかし。
びっくり大反響だったよね、このスレwww

76. 2013年7月09日 05:47:50 : GQrN4nKkaL
縁があってもゴミ送りってのは、オバハンよりオッサンの方が、比較的あぶねーんだよな。文明が進歩した世界では、生きてるうちに悟り易いのは、女性より男性と(少なくともこれまでは)言われてるけど…。
男のプライド、立場、沽券、エゴなんてのは、可愛い女の見栄以上にハブられまっせ。

77. 2013年7月09日 05:52:05 : GQrN4nKkaL
芸人の出川とか狩野(マセキ幼稚園とか言われてるアホ)なんかは、本人がそうされたくなくても、済度されちゃうクチかもよ?w
大ヒント。

78. 2013年7月09日 05:58:36 : oEcwWuvmfI
投稿者さん。

宿題が終わるv.v. 宿題を終わらせるの違い、分かりますか?


79. 2013年7月09日 05:58:42 : GQrN4nKkaL
うーん。もっと解りやすく言うと。
聖書の、ラクダが針の穴を通るよりむずかしいと言われた対象ってナ〜ンだ?

80. 2013年7月09日 16:52:43 : 3nTXkp9TvA
>>68さんへ
05です。

「死後の世界」とは果たして存在するのか?

その「証明」に、聖書や教典の記述からの引用を幾ら述べ説いても、
一般人は納得しません。
やはり科学者が「科学の力」で解き明かし、提示してこそです。

科学雑誌のサイエンスや、ネイチャーが取り上げ、ノーベル賞を受賞し、
ハイビジョンカメラ撮影されたクリアな死後の世界の映像を
NHKスペシャル等で放映し、小学校から教える…

世界中の人々に、歴史に共有価値観の大変革がもたらされる。
そんな光景を見てみたいのです。


81. 2013年7月10日 06:28:11 : DY5UF9p3s2

幽霊の体温を体温計で計るようなもんだな。幽霊と一緒に考えてみなよ。


82. 2013年7月10日 10:11:14 : GQrN4nKkaL
>81
よー出る話。
ユーレイッヒ〜

硬直しきった後の、死体の体温計ってみ〜。
それ当然の、科学的実証ね。
死体が甦る夢、人類にとって、叶って欲しくない一部の者の描く夢の筆頭だゾ(ンビ)。


83. 2013年7月10日 10:19:21 : GQrN4nKkaL
冷たいけど、まんま絶対0(霊)度にはなってない。液体窒素で凍らせたら、触ると砕けるけど、もやの中に生前の姿が浮かんできたりして…(これ科学!?)

84. 気まぐれな風 2013年7月10日 14:53:49 : Yql9N1LbacSfs : uDJjP9zS5Q

なーーーーんだかんだ言って

殆どのコメント者は幽霊怖いんだよ(笑)


  知ってて教える者

  知らないで強がる者

  知らないで悪態つく者


一目瞭然じゃないか(笑)

すぐ解るよ。


 ほんと、知らねーぞ。

 強がってる奴は
 文句言う奴は
 『肉体死後』が、存在すると、
 都合が悪い奴だ。


   悪いことバッカリやって
   スタコラ逃げる???
   

  君達の都合なんて、

  全く考慮されない!!!

 太陽が君の都合で

  日差しを抑えるか?

 するわけないだろが!!!

   
 なぜ?怖がる?
 なぜ?嫌がる?
 なぜ?否定する?

あったって、いいじゃないか(笑)

 悪いことしてる、と、

  自覚が在るからだ。

 
 強欲な魂+霊だ。

  それが、君達だ。


清々しい心霊写真、
 あまり見たことないね。

 それが、後々の、体験した時の、

  表情だ。

 
 欲を満たせない
  禁断症状の表情だ。


 ほんと、知らねーぞ。

 
  


85. 2013年7月10日 15:29:15 : oEcwWuvmfI
78で聞いた質問に答えていただけないようなので。。。。

宿題を出すのも、採点をするのも先生ですね。(先生イコール神)
採点を待たずに終わったと自分で判断して外に遊びに行きたい気持ちは理解出来ます。
(辛く厳しいものであれば尚更)

ヨハネ19章30節でイエスが「成し遂げられた」と言ったのは、
十字架の上で、まさに息を引き取る直前でした。

クリスチャンの「宿題」が終わるのは、この世を去る時です。
宿題の中身をよく理解し、要領良く済ませようと先生の助け(祈り)を
求めるならば、今貴方が感じている解放感よりも更に祝福されるでしょう。



86. 中川隆 2013年7月11日 11:36:46 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

イエスの受難・復活は自作自演の大芝居だったというのは有名な話


イエスが元ネタにしたのは


死海文書で有名な義の教師

旧約聖書詩篇22章2節:


 イエスの最後の言葉

 「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27章46節)

 イエスが無実の罪で十字架にかけられ、息を引き取る際の最後の言葉です。


 この言葉に関しては、信仰を守り通すことを人々に説き、自らもその通り行動してきたイエスらしからぬ言葉として疑問が投げかけられ、イエスの人間としての弱さが出たものだと指摘されたり、また、キリスト教を揶揄する人たちから、「イエスは最後に信仰を捨てた」と言われたりすることもあります。

 しかし、この言葉は、旧約聖書の『詩篇』を前提としたものであり、それを知らなければ理解できないものです。「イエスが『神から見捨てられた』と考えて、このような言葉を発した」という解釈は全くの誤りなのです。


 該当の『詩篇』は、次のように、まさにこの言葉から始まります。

 「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(詩篇22章2節)

《参考》
○『詩篇』は、紀元前1世紀(ダビデ王朝)から、前2世紀頃までの約800年の間に歌われてきた神への賛美の詩や祈りの文言の中から150を厳選したもので、賛美・感謝・嘆きの3種類に分類される。
○詩篇22章の第1節は「指揮者に。『曙光の雌鹿』で。ダビデの歌。」で、該当章の題名のようなもの。
○旧約聖書翻訳委員会訳の『旧約聖書W 諸書』(岩波書店)では「わが神、わが神、なにゆえ、私をお棄てになったのか」という訳になっている。

 この詩篇22章は、自分を見捨てた神を責める言葉から始まり、苦難の内にいる者が神に救いを求め、最後は神への賛美で終わります。

 つまり、イエスは、最後の言葉で詩篇22章を示唆することにより、「『神に見捨てられた』と感じ絶望するような時にも、神を信じ続け信仰を捨てるな」というメッセージを伝えているのです。

 なお、詩篇22章を示唆するものは、この、イエスの最後の言葉だけではありません。イエスが十字架にかけられた際の出来事が次のように詩篇22章に対応しています。
http://kojiki.imawamukashi.com/j01kosatu/lastword01.html


イエスの受難・復活劇のシナリオを書いたのはイスカリオテのユダだと言われている。


87. 中川隆 2013年7月11日 12:59:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

イエスは言った。

「この世界の支配者は立ち上がって、わたしの名を用いるだろう。

そして、代々の信仰深い人々は、彼に従い続けるだろう。

彼の後には、みだらな者たちから別の一人が立ち ・・・

彼らはすべて終わりに導く星である ・・・

終わりの日に、彼らは恥に落とされるのだ」


解説


「世界の支配者」はイエスの12使徒、パウロ、正統派キリスト教会の事

キリスト教がローマの国教になった後、正統派キリスト教会は世俗の王に匹敵する権威をもつようになった。それが、

「イエスの名を利用して人々を支配する」


の意味。


正統派キリスト教会は最後の審判の日に地獄に堕ちる事になる。


88. 2013年7月11日 16:26:46 : DY5UF9p3s2

W18zBTaIM6 は、地獄に堕ちる事になる。



89. 中川隆 2013年7月12日 03:55:21 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

クムラン宗団の「義の教師」がイエスとイスカリオテのユダが書いた受難・復活劇のシナリオの元ネタ


紀元前後に、死海周辺のイエリコの南の一隅にエッセネ派の分派集団がひっそりと隠れ住んでいた。

 いわゆるクムラン宗団である。独身主義の集団で、隠遁と瞑想を好み、財産はすべて共同所有になっていたらしい。聖約者宗団ともいわれた。ヘブライ語による夥しい死海文書はそのクムラン宗団に属する者たちが綴ったものだった。

 文書からは驚くべき“真実”が見えてきた。

そこにはメシアとおぼしい「義の教師」が描かれていたからである。

かれらが自分たちのことを“貧しき者”と呼びあっていたことも見えてきた。


いまでは死海文書が中心的に意味しているところは、とりあえずはっきりしている。

 それは、クムラン宗団にはメシア待望思想が芽生えていて、そこにはイエス・キリストの禁欲的な前身ともいうべき「義の教師」が活動をしていたということだ。

いや、それだけではなく、その「義の教師」は紀元前50年ころに処刑されていた。

 もう一人、荒野をさまよう洗礼者ヨハネの問題がある。

洗礼者ヨハネとは、サロメがヘロデ王に頼んで首を切らせたあの例のヨハネだが、実はクムラン宗団かエッセネ派に密接な関係をもつ荒っぽい修行者であった。イエスはこのヨハネによって洗礼を受けていた。そして荒野に導かれていった。

 そうだとすれば、このヨハネとクムランとイエスの関係こそが最大の謎になる。そこに原始キリスト教団の発生がある。

おそらくイエスは「義の教師」と洗礼者ヨハネとの両方からインスピレーションをうけたのであったろう。
http://1000ya.isis.ne.jp/0174.html


死海文書の中には、「正義の教師」(日本語では「義の教師」と訳されてきた)という称号で呼ばれる人物が登場する。 これは、この教団の歴史的起源に関わりをもつ人物ではないかと思われ、その特定が試みられてきた。 死海文書中の正義の教師とは誰のことなのか、大いに議論され、それは今日も続いている。

ダマスコ文書第1欄3−12行(CDI:3−12)

神は御自分を離れた彼らの背きのゆえに、イスラエルと御自分の聖所から御顔をお隠しになり、彼らを剣に渡してしまわれた。しかし、神は先祖たちの契約を覚えていてくださり、イスラエルに残りの者を残し、絶滅させることはなさらなかった。

バビロンの王ネブカドネツァルの手に彼らをお渡しになってから、390年の怒りの期限が来て、神は彼らを訪れ、イスラエルとアロンからひとつの植木の根を生じさせ、その地を所有させ、その土地の賜物をもって豊かにしようとされた。

彼らは自分たちの罪悪を自覚し、罪深い人間であることを認めたが、20年間、盲目同然、道をさぐる人々のようであった。

神は彼らの行いを見て、彼らが曇りのない心で御自分を追い求めていると理解し、彼らのために正義の教師を起こし、御心にかなった道に彼らを導き、終わりの世にあって欺く者の会衆に何をなさろうとしているかを、将来の世代に知らせようとされた。

「バビロンの王ネブカドネツァルの手にお渡しになって」は、前6世紀にエルサレムが陥落したことをいう。 CDでは、エルサレムの陥落を怒りの期間の始めとして、それから数えて390年経って、神が訪れてくださったと言う。

その後20年の迷いの時期が過ぎて、正義の教師を起こしてくださったという(I:11)。

CDXX:13-15によると、その正義の教師の死後40年経ってメシアの時代が来ると考えていたらしい。


現代の年代学では、バビロニアによるエルサレム陥落は、紀元前586/7年である。 これをもとに数えると、

神の訪れは紀元前196/7年、

正義の教師の登場は176/7年

ということになる。


第1洞窟出土ハバクク書注解(1QpHab)第8−12欄


彼はその任務の始めには真の名をもって呼ばれたが、イスラエルを治めるようになると、その心は尊大となり、神を捨て富のゆえに掟に背いて悪に手を染め、神に反逆した不法の人々の富を奪って集め、民々の富を取り上げて、罪深い悪を自分に増し加え、[忌まわ]しい道をあらゆる汚いけがれをもって働いた。


悪徳祭司は正義の教師を迫害し、自分の憤りの嫌悪をもって彼を困惑させようとした。

その捕囚の家に、休息の祝祭のとき、贖罪の日に彼らの前に現れ、彼らの休息の安息日、断食の日に彼らを困惑させ、よろめかせようとした。

悪徳祭司が貧しい者たちを絶やそうと目論んだように、神は彼を裁いて絶やそうとされるからである。

エルサレムで、悪徳祭司は忌むべき行為を働き、神の聖所を汚した。

そこで彼は貧しい者たちの富を掠め取った。・・・

正義の教師は悪徳祭司と言われる人物と対立する一方、偽りの人と言われる人物とも対立する。


まずその悪徳祭司について、 その任務の始めは善良であったが、 やがて背教者となって堕落したことが示唆される。

第11欄4−8行で、 その悪徳祭司が正義の教師を迫害したことを言う。

ここでその悪徳祭司は「捕囚の家」と言われる正義の教師がいたところを、安息の祝祭の日に襲ったことが示唆されている。

その日とは、贖罪の日のことらしい。またその日は悪徳祭司も安息すべき日であるのに、 それを守っていないところから、彼はクムラン教団の歴とは異なる暦に従っていたのではないかと思われる。

そのあとの第12欄2―10行で、悪徳祭司が「貧しい者たち」と言われるクムラン教団の人々を攻撃し、 これを絶やそうとしたことが示唆されている。

他方、この悪徳祭司は第10欄1―2行では、圧迫と強奪によってエルサレムの建造に努めたこと、 また第9欄2行、11行、第12欄5行では惨めな最期を遂げたことが示唆されている。


ここでその悪徳祭司とは誰のことかということになるが、その最も考えられる人物が、マカバイのヨナタンである。 彼は政治的に有能な総統で、ユダヤの復権とエルサレムの再建に成功したが、宗教的には無関心であった。 はじめはユダヤの人々に受け入れられていたが、 やがてアンティオキアのセレウコス王朝の内紛を利用してエルサレム神殿の大祭司に任命してもらうに及んで、 暴力と強奪に手を染めた。彼がエルサレムの再建にも努めたことも、 惨めな最期を遂げたこともマカバイ記に書かれている。

かなりの蓋然性をもって言えるのは、ハバクク書注解に出る悪徳祭司とは、 この大祭司になったヨナタンのことであり、 正義の教師とはそのヨナタンによって迫害された人物ではないかということである
(G・ヴェルメシュ、T・C・ミリク、W・シュテーゲマン、特にJ・マーフィー・オコナー)。

つまりアルキモスの死後、大祭司は空位であったが、その任務を果たす人物がいたはずで、 それはツァドク家系の人物であったと思われるが、ヨナタンが大祭司に任命されることにより、 お役ご免になり、追っ払われたのではないか。

この人物がハシダイたちのところに来て、正義の教師、つまり正統な教師と呼ばれるようになったのではないか。

この推論は、その後ヨナタン王文書(4Q448)の解読によってさらに強い支持を受ける。 珍しくヨナタンの実名が出るこの文書断片は、E・ピュエシュの分析によると、 まだ善良な指揮官だった時代のヨナタンのために祈る文書の写本断片だという。

彼の推論によると、正義の教師は、アルキモスの死後その空位の間に大祭司の代行者であったのではなく、 れっきとした大祭司だったのではないかという。

この人物がヨナタンによる大祭司職簒奪に伴い追放され、 その名前さえ意図的に歴史から抹消されたのではないか、 つまりcondemnatio memoriae(記憶抹消判決)されたのではないかという。

その追放された人物がエルサレムの神殿と町を去り、その同志たちと荒れ野に逃れたのではないか。

このように悪徳祭司をマカバイのヨナタンと見て、正義の教師をこのヨナタンに追われた大祭司ないしその代行者と考えることにより、 ダマスコ文書第1欄に書かれている年数の意味もいっそうよく読みとることができる。

おそらく紀元前152年、ヨナタンが大祭司職に任命されたとき、 多くのハシディムがファリサイ派に与し、正義の教師はエッセネ派と共に荒れ野に向かい、 ここで新しい共同体を創設することとなったと考えられる。
http://mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS06a.html


90. 中川隆 2013年7月12日 04:13:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

イエスの受難・復活は自作自演の世紀の大芝居だった

ユダの福音書

イエスはイスカリオテのユダに対し、自分達を取り巻くエルサレムの統治者ビラトからの圧迫が最終局面に至っている事を語り、

それへの「最終的な打開策」を打ち明け、

最も信頼する弟子と考えるユダに対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。


「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」


これは秘密の啓示である・・・。

イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・

イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。

正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。

イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。


福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。

そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。


イエスがユダヤに居たある日の事・・・

12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。

彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。

使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた

イエスは言う・・・

イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」

■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

キリスト「You will be greater than all others. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『キリスト』が『天国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdom. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。王国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)

http://wildoldboy.cocolog-nifty.com/wild_old_boy/2006/04/the_gospel_of_j_eab8.html


イエスはユダに語ります。

「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」

「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。


福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。

「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、

『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』

と声をかけた。


91. 2013年7月12日 06:50:11 : GQrN4nKkaL
大体、経験上、虫とか爬虫類が嫌いじゃないタイプの人って、幽霊や妖怪も嫌いじゃない。ま、大体生き物全般好き。
アタシ?
割りと、つーか結構好き・笑
家族も、友人達も(生物&妖怪オタ)。

そいえば、最近あったよね。ゲゲゲの女房って朝ドラ。
タイトル曲by生き物係(イキモノ憑りって書くと、俄然妖怪チックw)。


92. 2013年7月12日 06:55:33 : GQrN4nKkaL
ありがとう
って伝えたくて〜♪

93. 2013年7月12日 07:01:54 : GQrN4nKkaL
あ、ちなみに先日、中卒の次女が科学博物館の昆虫インストラクターに採用決定しました。ほぼ同時に運転免許ゲット。
以前から、幽霊や妖怪とはよく出くわして親しんでます。特に拘ってもないけどw

94. 2013年7月12日 07:05:04 : GQrN4nKkaL
臨死体験云々の解説の前に、脳内にそもそもクスリが仕込まれているという、その不思議から考えてみよーよ。

95. 2013年7月12日 07:08:02 : GQrN4nKkaL
怖いもんは怖いでいいんだよ。
問題は、それらをどう理解し、付き合っていけるか。

96. 2013年7月12日 08:20:23 : GQrN4nKkaL
かくかくとお経(仏典)には書いてある。
しかじかと、聖書には書いてある。

「あなた」典には、なんと書いてある?

それがタルムードでも、自分の都合に合う信念とすれば、同じこと。

なにかひとつの典籍が、あなたの存在を、担保するのだろうか?
アベノミクス教とて、いつか高学歴の金持ちの成した投資が、あなたの生活に還元されると約束してるではないか。信じる者は、救われる。だから自民に投票せよ。そうした勝ち組に投票した者
が必ず勝つ!という自信がおありなら、どーぞ。
それもシューキョー。現世で、頑張って掬われてください。


97. メカオタ、ワンピオタ、アラマタオタ 2013年7月12日 09:07:42 : aKNENQDYr0czQ : GQrN4nKkaL
の腐女子連(にナニがわかる、って〜?wwwwww)

98. 2013年7月12日 10:35:16 : GQrN4nKkaL
>58
これがその通りであれば、そこから推察されるのは、大したことだ。
イエス・キリスト自身は、母系社会主義者の、母神信仰を興した祖と言うことになり、本来のパタナリズムを徹底否定する為にこそ存在した、未来への橋渡しだったということになる。
無論、極男性原理、暴力主義の発露と言ってもいいタルムード主義などは完全否定、真っ向から対立していると言っても良い。
興味深く、読ませてもらいました。

99. 2013年7月12日 10:40:10 : GQrN4nKkaL
中川氏に問いたい。
あなたのノーシスとしての考察を。(できれば、ズバリあなたの意見を)。

100. 中川隆 2013年7月12日 14:52:56 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

グノーシスの問題はユングがすべて解明していますね。

それから宗教の意義はこれで尽きてますね:

インドの女性は歌が好きだ。

インド・コルコタにいたとき、ひとりの女性が口ずさむように、静かで優しい歌を歌ってくれたことがある。

彼女は普段はどちらかと言えば粗野な喋り方をする女性で、感傷的な感情をほとんど持っていないようにも見えた。

しかし、物憂げな部屋の中で暇を紛らわすように歌ったその歌は、とても感傷的なリズムで、抑制された美しい声に私は聞き惚れて涙がこぼれそうになった。


マントラという歌

声のトーンも彼女の普段の粗野なものが消えていて、まるで彼女が別人になったかのような不思議なものであった。

「それは何の歌だい?」と尋ねると、彼女は部屋の神棚に飾っている私の知らない神の写真を指さして「昔の歌(Old Song)よ」と答えた。

確かにそうだろうと思う。街の騒々しいボリウッドソングとはまったく違った趣(おもむき)の歌だった。

そのとき、私は知らなかったのだが、のちにこのような歌をマントラというのだと分かった。

マントラという言葉は初めて聞く言葉ではない。それは呪文だか呪術だとか、そういうニュアンスで私は覚えていたので、歌までマントラという括りをすることに驚いた。

今となっては彼女がアカペラで歌ったそのマントラがどんなものだったのか旋律が思い出せないのだが、その歌を聞いたときの感情は生々しく思い出すことができる。

美しい歌を聞いたときの感動の震えがそこにあった。そして、ずいぶん後になって私は「これは危険だな」と意識したのだった。

美しさに取り込まれてしまいそうなのが分かっていた。

その歌がマントラなのであれば、その歌の先にヒンドゥー教が待っている。

ガヤトリ・マントラ

人は美しい歌を聞いて感動し、その歌の世界観に浸って自分の心を癒すことができる。

宗教はそういった歌の効用をよく知っていて、それを巧みに使って心を操っていく。

キリスト教徒は賛美歌やゴスペルに涙を流す。

たとえば、「アメイジング・グレイス」や「What A Friend We Have In Jesus」などをじっくり聞いていると、キリスト教徒は涙がとまらなくなるという。

人口に膾炙する美しい旋律(リズム)と、その詩の内容の優しさが加わって心に響くようだ。

インドのマントラも美しい旋律のものがいくつかあって、ガヤトリ・マントラ(GAYATRI MANTRA)などはよく知られている。

ただ、古い歌にはよくあることだが、ひとことでガヤトリ・マントラと言っても、膨大な種類のリズムと歌詞があって、同じ歌でもまったく違うように聞こえる。

私が聞いているガヤトリ・マントラは YouTube で見つからないのだが、近いのはドイツ出身の歌手、デヴァ・プレマールの歌うガヤトリ・マントラかもしれない。

Deva Premal and Miten - Gayatri Mantra
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=d63COahIpVM

Om bhur bhuvah svaha
tat savitur varenyam
bargo devasya dhimahi
dhiyo yonah prachodayat

彼女はドイツ人だ。なぜドイツ人女性がヒンドゥー語でガヤトリ・マントラを歌っているのか最初は戸惑った。

調べてみると、彼女は子供の頃から父親にマントラを聞かされていたらしく、その影響が強かったようだ。

こういった珍しい経歴の人もいる。彼女は歌を通してヒンドゥーに取り込まれていた。

欧米でも、このようなヒーリング的なものを求める人たちにはよく売れているようだ。

人は、このような歌から精神世界や宗教に取り込まれていく。その典型的な例がマントラの旋律にあった。

美しさは無条件に人の心に染み入っていく。

そして何度も何度もそれを繰り返すことによってその歌の世界が自分の感情と同化していく。

そこに宗教的なメッセージがあれば、歌と同時に人はそれをも無意識に受け入れてしまう。歌が美しいゆえに拒絶反応すら起きることがない。


美しい旋律の歌が人生を変える

これは一種の巧妙な洗脳とも言える。

アメイジング・グレイスやガヤトリ・マントラのような美しい旋律の中に宗教を散りばめて人々を取り込んでいくのである。

教会や寺院で人々は何をやっているのか。賛美歌を歌っているのではなかったか。

賛美歌は神を讃える歌詞をリズムに載せたものである。それを皆と一緒に歌い、感動を共有し、その宗教と一体化する。

日本が無神論者のような人が多いのは、仏教が美しい歌を「開発」しなかったからだと私は強く思っている。

念仏は眠気を誘うが宗教心を芽生えさせない。そういう意味で仏教の親玉は他の宗教と比べると知恵が足りなかったのだろう。

ヒンドゥー教もキリスト教も、歌だらけだ。

インド人は幼い頃からマントラを聞いて、歌って、その世界観の中で生きていき、成人する頃には頭の中はその思考から離れられない。

あの真っ青な荒唐無稽な神は私にとっては単なる滑稽なフィクションだが、彼らにはそうではない。それが自分の血肉に染み付いた大切な精神世界なのだ。

同じことがキリスト教にも言える。あの十字架にぶら下がっている死体は、やはり私にとっては滑稽なフィクションだが、彼らはそれを「なんという友、私たちのジーザスよ」と感極まっている。

子供の頃からくり返しくり返しそれを聞いて、それを歌い、それが思考の基盤になっていている。

父親も母親も、そして兄弟も地域社会も、自分のまわりがすべてそのひとつの宗教に染まっている。

そこまで行くと、その宗教を否定することは両親や地域社会や文化をすべて裏切ることになる。

美しい歌があり、心地良い思い出がすでに蓄積されている。だから、いくら荒唐無稽だとしても、その宗教を否定することなどできなくなってしまっている。否定する意味もない。

そして、村ぐるみで、町ぐるみで、国ぐるみで宗教を擁護し、それを認めない者を「自分を否定した」と憎むようになる。


アメイジンググレイス
http://www.youtube.com/watch?v=uofG9z66LXg&feature=player_embedded#!


多くの国の美しい曲

たったひとつの美しい旋律の歌が、そのような篤い宗教心の人間を生み出しているのは間違いない。

私が感銘を受けたガヤトリ・マントラは、その一曲で私をヒンドゥー教に向かわせる威力もあったはずだ。

美しい旋律の曲が人生を変えるというのは本当だ。自分の気に入った歌を思い出して欲しい。

あなたは無意識にその歌の世界をなぞって生きているはずだ。

それに気がつかなかった人もいるかもしれない。そして、それに気がつくと、恐ろしくなる人もいるかもしれない。

あなたが子供の頃から知っている好きな歌が、あなたを洗脳した歌だ。そして、その歌の世界が、あなたの世界観である。

あなたの自分の世界観は、実はあなたが考えた世界観ではなく、歌で洗脳された世界観だ。

あなたが何に洗脳されたか知る方法は、あなたがどんな歌が好きなのかを思い出すだけでいい。

自分の愛する歌は、それ自体が自分の感情に対する訴えかけを失ってからもずっと後まで、意思決定や性格形成に影響を与え続ける。

私がガヤトリ・マントラでヒンドゥーに染まらなかったのは、理由はひとつだ。

私は、タイでタイの美しい歌に聞き惚れ、カンボジアでカンボジアの美しい歌にしっとりとし、インドネシアでやはり美しい歌に心を奪われた。

多くの国の美しい曲が、私をひとつの思考や哲学や宗教や国にとどまらせるのを許さなかった。
http://www.bllackz.com/2011/02/blog-post_3799.html

光が乱舞する心の深層の世界

仏教タントラではブラフマン(創造神)とアートマン(真我)の合一を体験することをサマジー(三昧耶)・・・暝想の極致という。
ダンマ(真理)に接近しこれと合一する(即身成仏)ことを目的にした、究極的な高度で、深い暝想のはてに、浄化がある。


○想像力は目にみえないものを見させる

 ハワイのフラダンスは、もともと神に奉げれていた神舞であった。
フラの巫女には、女神ペレのマナ(霊力)が感応してくる。
ハワイ語でマナとはスピリチャル・パワーのことだという。
そこで、もともとフラは神霊との交流の儀式であった。

 始めに、詔(みことなり)や、リズムと歌で、神々しい雰囲気と聖なる場を整える。
「真如」の導入である。

次に、フラのダンサーは、そのリズムで踊りながら陶酔し、やがて「没我」となる。
そこに、神霊が「感応」する。
恍惚が踊り手を支配する。
すると、神からの返答が現れ、「天恵」が現象化する。

こうしたプロセスをもつ古代儀式は、世界中に普遍的にある。
ダンスがそもそも交霊術であることを示してくれる明確な例はスーフィのダンス、鎌倉時代に起きた一遍の「踊念仏」などが上げられよう。
不乱の舞は、「没我」に至るには欠かせなかったのだろう。


 古代的な交霊は、表面的にしか物事を見ない人々には理解できない。
エンタテインメント化されたショウとしてのフラよりも、マナ(スピリチャル・パワー)と一体になったフラは偉大で神聖である。
ハワイ島では、古代と同じ”のり”で女神ペレへの感謝のフラが、今でも行われている。

これが奇跡なのだろう。

 なんであれ、音楽とダンスとは一体であり、それは神楽(かぐら)だった。
日本の祭の神輿(みこし)の”のり”が、それなのだろうか。
洸惚感、あの陶酔感は、御輿(御神体)を担ぐことによって、はじめて感じることができる。

神輿を担ぐことは、スピリチャル・ダンスだった。
真の芸能には、「真如」「天応」「没我」「天恵」の4つのプロセスが必ず組み込まれている。

だからこそ喜びと生きる力を与えていた。
現代では、真のイベントは少なく、その一部か、残り物だけとなってしまっている。

それは、大音響のロックの陶酔感とはあきらかに違うものである。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/008.html


101. 2013年7月14日 05:33:18 : GQrN4nKkaL
書物の引用ではなく、ご自身の体験を書いていただき、ありがとう。
ただ、仏教にも、真言宗のお経(もとはチベット密教でしょう)など、音律や音色が豊かで、吸い込まれるようなものは存在しています。
イスラムも、コーランをえい唱という形で伝えており、特に響きのいいモスクなどで聴けば、たちまち魂を奪われますよ・笑
要は、幅広い歌の世界(特定の宗教に被れ過ぎる必要はなく)に、素直に痺れ、浸る経験を持てばいいのだと思う(それで洗脳されるというのは、あまりにもナイーブに過ぎる)。多文化に関心を寄せ、感動することに何か問題でも?
そのままヒンドゥー教徒になる決意をしても、それも縁。又は、恋という崇高な道標かも知れん。

いつか破れる、裏切られることを恐れていたら、恋なんてできません。最も頼もしい導きを、取り逃がすだけ。


102. 2013年7月18日 14:57:36 : oEcwWuvmfI
聖書は40人以上のイスラエル人(12支族出身、ルカを除く)によって書き残された書物です。写本は、特別なインクで、特別に用意され、大きさも決められた動物の皮に一語一語書き写されることによって複製が後世に残されてきました。神、救世主の名を写す段階に、時の王が入室することがあっても、写生の手を止めてはいけない、という厳しい決まりもあったことから、神の言葉として重く受け止められていました。写本は、ごく一部の裕福なユダヤ人のみが所有し、一般人はシナゴーグで朗読を聞くのが一般的だったようです。ハザール人は元々が中央アジアの遊牧民、ユダヤ教を取り入れ建国されたのが600年以降、ハザールに関するその他の記述で早くても550年ごろだそうです。信憑性に欠けるとされ、聖書から排除されたグノーシスが書かれたのは100−200年との事です。ハザールの子孫がもっと早く存在していたとしても、遊牧民をルーツとするハザール人が、アラメア語やヘブル語を理解していたとは思えないので、彼らが聖書の記述に関わっていたとは考えにくいです。


>58のコメント内のパウロの書簡について

66章からなる聖書には、それぞれの章にユニークな神の意図、目的が反映されています。メインの福音(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)もそれぞれ異なった読み手に向けられて書かれています。

イエスの詳しい記述については、実際にイエスと時を共にしたマタイとヨハネにより既に書き残されています。伝道時代の人間として生きたイエスと関わった事のないパウロが書く事は適していると思われません。パウロの書簡が残された目的は、イエス昇天後、異邦人にも福音が語られ、教会が設立されていった時代を生きるクリスチャンへの指針です。彼自身が体験した苦しみ、イエスや兄弟姉妹への大きな愛、誤った教えに対する警告、悪への抵抗など、今を生きるクリスチャンにとって励ましや勇気を与えてくれる大事な書簡で、私は好きです。

そして、聖書を神の言葉と信じる者が集まる教会では、神との繋がり、証し(奇跡も含む)が自身の経験として語られ、神が自分達の生活に確実に関わっていて下さるのだと信じる事が出来るのです。プリントされた聖書が手に入らない貧しい国や小さな村などでは、その証は更に顕著です。様々な国に伝道の旅をするクリスチャンからも会合で直接話を聞く事が出来ます。メディアが取り扱わないだけです。

中国では共産党がクリスチャンの家から聖書を全て取り上げたり、イランでは聖書を隠し持っていただけで殺害されるのです。

経典やコーランを持っていても同じようには扱われませんね。何故でしょう。


103. 2013年7月18日 22:39:32 : W18zBTaIM6
聖書は長い間禁書で聖職者でも読めなかった。

ロシアでは19世紀末にやっと印刷が許可されてドストエフスキーが最初期の読者になった。

要するに、福音書間に矛盾が有って、それを調べると捏造・改竄したのがわかってしまう為、聖書の持ち出しや所有を禁止していた。


104. 2013年7月18日 22:47:15 : W18zBTaIM6
西欧では印刷された聖書が手に入る様になるとすぐに無神論者や唯物論者が輩出する様になった。

105. 2013年7月19日 07:35:19 : GQrN4nKkaL
日本では、印刷された日本国憲法が発布されるようになるとすぐに、改憲論(安倍信者)や、ウヨ どもが輩出するようになった。
問題は、今我々が,どこにいるか。

by GQrN4nKkaL


106. 2013年7月19日 08:10:03 : oEcwWuvmfI
福音の広まりを何としてでも阻止しようとする悪の戦いに私達は日々向かい合わなければなりません。皇帝ネロの時代のクリスチャンへの迫害は酷いものでしたが、それでも武力では阻止出来なかったため、敵は手の内を変えて来ます。悪も歳を取り賢くなっているようです。聖書の信憑性を貶めようとするのも手の内の一つです。
騙されないように気をつけましょう。

107. 気まぐれな風 2013年7月19日 10:30:15 : Yql9N1LbacSfs : oxvwFuj49c
結果は、既に、決まっているのです。


 心配するな(笑)


 その「道」は未定ですが。


 曲がりくねった10000万メートル?

 直線の10m

 ・・・垂直?


  断末魔の際、

  アナタが飲み込まれなければ良いのです。


簡単な例)
嘘つきに淡々と事実を言うと嘘つきは突然暴れ始める。
既に、この社会は発狂している。


108. 2013年7月19日 12:43:02 : qfWD1qpLH2
飲み込まれない場所にいさせてもらえる安心感がある人には、
まだその域に達していない人の事が心配になるのです。
取り残される人は大勢いるでしょう。
地獄に落ちるのがどんなに酷い事か知らない人があまりに多いのです。

109. 2013年7月20日 09:03:59 : oEcwWuvmfI
103番さん。
バチカンが改竄に関わっているとお考えでしょうか。

ユダヤ出身の人(ホロコーストを生き残った)でイエスを救世主として受け入れたクリスチャンで、アメリカの神学校の教授をしている人がいますが、ヘブル語を理解しており、引用にヘブル語の聖句を用います。正統なユダヤ人でキリストを受け入れるという事は当時タブーであり、隠れた存在だったようです。私の教会の牧師も、ヘブル語、ギリシャ語を習得しており、一般人が暗記しやすいようにヘブル語のアルファベットを順に並べて書かれた章などを詳しく説明してくださいます。聖句の意味を正しく理解しようとオリジナルに返る事は頻繁にされていますので、ラテン語や英語に訳された時に内容が改竄されたとしても、すぐに問題になったと思われます。

クリスチャンと名乗る教派でも、カトリックバージョン、モルモンバージョン、エホバの証人バージョンと、それぞれ書き加えられた聖書が存在します。そのような動きに警告を与えるべく、最後の黙示録には、「一語も加えることも差し引くことも許さない」と書き記されています。


110. 2013年7月21日 08:28:01 : W18zBTaIM6
聖書の改竄・捏造はパウロや12使途や原始キリスト教会が行ったものですね。

イエスの言葉はQ資料やその他 口伝で伝わっていたのですが、新約聖書を作る段階で原資料を意図的に変えているんですね。 特にマタイ伝で行われている改竄・捏造は悪質ですね。


111. 2013年7月22日 06:59:51 : oEcwWuvmfI
私はクリスチャンになる前に、聖書に興味を持ち、捏造された聖書(by Bart D. ehrman)という本を購入しました。著者の猜疑心による供述が多く、翻訳、鑑定にどんな人物が貢献したのかという内容ばかりで、半分しか読みませんでした。今日また目を通して見ましたが、マタイで問題になった箇所は、終末論のことで、この世の終わりがいつくるのかは、父である神しか知らないという節に触れていました。神であるイエスがその日を知らないというのはまずいので、神の子という言葉を削除した、とあります。現在普及されている聖書には、終末の日は父なる神のみと記されています。マルコのある箇所では、イエスが聴衆を怒りの目で見つめた、とあり、マタイ、ルカでは、「怒り」という言葉が書かれていない=改竄、と、聖書が伝える大事なテーマを変えるような改竄を指摘するには程遠い内容でした。

1947年に発見された死海の文書は、紀元前125年のものと推定されており、既存の聖書と照らし合わせたところ、有名なイザヤ書53章を例にすると、166語のうち、更なる鑑定が必要とされたのは17語、そのうちの10語はスペルの間違い、4語は接続詞の変化による記述、残りの3語は光という言葉が11節に書き加えられたと判明しています。

パウロの書簡の改竄の可能性を耳にしたのは初めてです。どの章がどのように改竄されていると指摘されているのでしょうか。


112. 2013年7月26日 01:03:11 : W18zBTaIM6
イエスの受難の話は元々最古のマルコ伝には含まれていなかった。

イエスとユダが書いたシナリオが別に有って、それをマルコ伝に追加したんだ。


113. 2013年7月27日 13:59:37 : oEcwWuvmfI
イエスの受難について、マタイ、マルコ、ルカのそれぞれの記述の対比(共感福音書と呼ばれている)

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?イエスの受難に対する共観福音書とヨハネの福音書の視点の相違

テクノロジーの発達のおかげで、様々な聖書のアプリが出回っています。ある章をハイライトするだけで、他のチャプターの、関連した章と節が表示される便利なアプリもあります。新約聖書の節をランダムにセレクトすると、大体2〜10箇所の関連した章(旧約、新約両方)が表示されます。旧約聖書と新約聖書は一つの書物として連携しており、何処かを一部改竄したとすると、他の章との解釈に語弊が生じて来ます。去年の衆院選で、個人票と比例に辻褄が合わないことで不正が疑われたのと同じ事です。



114. 2013年7月27日 14:06:37 : oEcwWuvmfI
リンクがうまく表示されませんでした。
こちらの方が見やすいかもしれません。


http://www.jizai.org/wordpress/?p=405

4つの書物はキリストの人生、特に受難と復活が書かれているのですが、内容は同じだったり微妙に違っていたりします。それでもマタイ・マルコ・ルカの3書はかなり似通っているのに、ヨハネだけははっきりとした違いをみせています。


115. 2013年7月29日 05:42:05 : DY5UF9p3s2

死後の世界があるかどうかと言ったらある。前世の記憶を持っている人もたまにいる。

退行催眠でも証明できる。ヨガの行者でも4つ前ぐらいはわかる行者がいるという。

お釈迦様は、永遠の過去から永遠の未来に渡ってそれがわかったという。因果律というものもわかる。

お釈迦様はバラモンたちの質問に対しても教えている。

死後、自分のなした善業と悪業の比較により、地獄・餓鬼・畜生・人・天の五道に修羅を含めれば六道を輪廻する。


116. 中川隆 2013年7月29日 12:50:19 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6
前世の記憶とはこういうもの:


「誤った記憶」作った!…利根川氏ら


 【ワシントン=中島達雄】脳を刺激して実際と違う誤った記憶(過誤記憶)を作り出すことに、ノーベル賞受賞者の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授と理化学研究所のチームがマウスの実験で成功したと、26日付の米サイエンス誌に発表する。

 過誤記憶を人為的に作り出したのは世界で初めて。

 人間はしばしば記憶違いを起こすほか、妄想を抱く病気もある。これらの原因はわかっておらず、今回の成果をきっかけに解明が期待される。

 利根川教授らは、マウスの脳の奥にある「海馬かいば」と呼ばれる部分に光を当て、実験を行った。海馬は記憶に関係すると考えられる。マウスの脳細胞には特殊な遺伝子が組み込まれ、光を当てると活性化、直前の記憶が再生されるようになっている。

 このマウスをまず、何もしない安全な部屋に置いた後、形の違う別の部屋に移し、脳に光を当てながら、マウスの嫌いな電気を足に流した。このマウスを安全な部屋に戻すと、外敵に遭った時のように身構え警戒したが、電気を流しただけのマウスを安全な部屋に戻しても、警戒しなかった。

 これは、海馬に光が当たったことで安全な部屋の記憶がよみがえり、マウスが「安全な部屋で電気を受けた」と混同したと考えられる。

(2013年7月26日07時27分 読売新聞)


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