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自己の感性を取り戻す探求の旅 2
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投稿者 金十字架 日時 2015 年 10 月 04 日 16:30:56: mfAWtS4GF8MpY
 

(回答先: 自己の感性を取り戻す探求の旅 1.8 投稿者 金十字架 日時 2014 年 10 月 08 日 01:04:47)

自分の思想、主義、考えとするものによって人は成長が促されます。

そしてまたそれは衣服と同じで、自分が変化していく過程にあっては、
それらはすべて自分の身にどんどん古く小さなものとなっていくように感じられます。

故にその都度、成長する度に自分の身の丈に馴染む衣服を求めるのは自然な事です。

人は"衣服に着られ"るもの。

学生、看護士、公務員、警察官、政治家、裁判官、検察官、
もしくは、青年、壮年、老年、大衆、学者、権威者、無職、
それら肩書きを無視しない場合、そうした「衣装を着る」事により、
にわかにそれに見合った経験のパターンが意識に加わるようになります。

自分がそれを求めている段階において、成長とは見込めるものです。

勿論それらは、価値観を共有する者のみに通用する社会常識と云った、
固定観念の枠組みの中でのみ有効とするものです。

「私は人である」「私は親である」「私は女である」といった観念もまた、
それら制服と同じで、それらはより身体そのもののように感じられるかもしれません。

そのように自分の中で当然すぎる主義主張は、核となる観念として、
その周囲には、よりその考えに正当性を付与する、様々な補強観念を引き寄せることとなります。

そしてやがてそれは巨大な恒星のように迄育ち、意識の中で輝きを放つようになります。

もし、その一人の意識の中に、それら恒星としての観念が二つ以上有り、
ひとつはもう一方に対立する観念として存在していたとする場合、
その矛盾性は自分の自然な振る舞いを制限し、抑え込むように働きます。

人類の持つ基本的な対極性の概念の中にあらゆるものは成長するとみるため、
それは大抵、善悪といった基本的な対立の構図を解釈するものとして見る事が出来ます。

例えば、「私は善人である」と云う観念を主要な成分として持っていた人が居たとします。
そうすると、その人の中には同時的に「善」という概念にまつわる様々な観念を呼び寄せ、そこに際立たせることとなります。

もし、そこでその人の意識に、「善人は貧しい暮らしを送っている」と云った考え方が自然な考えとして入り込んできた場合、
それは、「悪人は金もちである」という別の考え方から齎された観念であるかもしれません。
すると、自分がお金を持っていない事が、何となく正当な根拠に支持されているかの様に感じられるかもしれません。

更にそこでは、楽をしてお金を手に入れる事に葛藤を覚えたり、
逆にお金を持たない事が気が楽だ、という考え方以外は普通ではないと云う事になります。

もし、そこで当人がお金持ちである場合、比較的労働をせず大金を得る事に罪悪感を覚えたり、
社会に正当性を訴える必要性に駆られたり、また開き直った態度をとるかもしれません。

そしてまたそうした考えの元では、貧しい人の怒りは善側、つまり正義の声だと云う事になります。

そのように、そこには更なる正当性を与える考え方が引き寄せられてくる事となり、
それらが集まって、ひとつの巨大な価値観を形成するのです。

つまりそうした考え方を受け容れ、尚かつそうする必要を感じていれば、
更なる実感に至る為に必要な出来事が、その人の経験として呼び寄せられ、具現化すると云う事です。

謂わばそれは、人が倖せと云うものを掴むには、社会では大金が必要だと考えている事がある訳で、
それに対して、もう一方ではそこに必要な行動パターンを採らせないように、
対立観念が無意識的に割り込み、自然な行動を抑制するように働いて居ると云う訳です。

どちらの観念も意識の中では恒星の様に大きな輝きを放っているのに、
その人はそのどちらのエネルギーをも自然に運用する事ができず、
敢えて、対立した考えに挟まれて、事ある毎に行動を切り替えて、
不活性なエネルギーに転換したもののみを取り出し、利用する他無くなります。

そこには感性と理性の対立と云ったような、
善悪の概念による対立観念が強く影響していると云う事が理解出来る筈です。

しかしその考えのどちらも自分の自然な振る舞いとして産まれたものであり、
どちらかが自分の中から消し去らなければならない「悪」とするものなどでは無いのです。


つづく―  

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コメント
 
1. 2015年10月16日 05:52:08 : q931E3NW4E
※自身の解釈するものに振り回されてしまうのは本末転倒です。

事象として具現化されたものは、基本、
どうした解釈も可能なものとして捉えておくに越した事は無く、
何かが正しくてその対には間違ったものがあるとか、
善悪の概念を挟まずに、人間的なドラマとして理解しやすい解釈に押し流されないようにするのがベストであると私は考えます。

物事を素直に感じると云う事、つまりもっとも素直な感性を育むと云う事をお勧めします。

そうした感性が指し示す指針となるものは、どこに居ても通用するものとなりうるからです。


私たち一人一人が地球の一部と言えるように、
そこに共存するひとつひとつの存在もまた、私たちであると言え、
それはまた宇宙の一部、次元、あらゆる体系にて複合された世界の一部として見る事が出来ます。

私たちの意識もまた、それら世界を根底に支える粒子の一つ一つで出来ていると見る事が出来る訳です。


※あらゆる事故に拠る怪我、病気もまた、
健康を具現化する為に使われるエネルギーと根元を一(いつ)にします。

傷痕を残したとしても、それもまた具現化されたサインで在るとすることが出来ます。

それは本人が意図的なものと気付かないことで、適切なメッセージとして受け取る事が出来るかもしれず、以後の経験に役立てる為に"自ら"与えられているのです。

それはその魂にとって、必要とするものとして、
自らの要請に応じて残されたと見るのが適切であると考えます。

よってそれが消えた時には、その必要性も消えている事でしょう。

勿論、それを利用したどうした解釈をも自らに与えることは可能で、
それに対して自分がどんな行動を思いつき、それを選択、決断するのかといったことも、
その時点の段階では、「様々な可能性を秘めている」、といった言葉に集約される事に違いは無いものです。

逆に言えば、どんな病気でも、傷でも、綺麗に完治した場合とは、
意識には残存する観念的なエネルギーもそこで完全に払拭されている訳です。

医学の場で得たどんな科学的実証データもその多くは、
観測の立場の持つ期待と、被験者の立場の双方の期待が一致する事で生まれた、
ヒーリング効果を単に医学側の薬学に基づく業績としている場合が有ります。

しかし、そこで起きている事は、古代シャーマンの行なった診療方法と内容的には一緒である訳です。

病気が生まれる仕組みも一緒で、多くの医療実績の陰に、現行の医学会は、
多くの被験者となる新たな病例の患者をもまた作っていると言えるのです。


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