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石原慎太郎の人生
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/478.html
投稿者 中川隆 日時 2012 年 11 月 18 日 00:09:50: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 小沢一郎 「我々が政権を託されたら、消費税は凍結ないし解消する。国民の皆様の前で誓ってもいい」 投稿者 中川隆 日時 2012 年 11 月 17 日 23:41:45)


貧困なる精神(121) 本多勝一

石原慎太郎の人生

石原慎太郎と同世代になる私などのように、石原の若いときからの生態を観察してきた者からみると、今の若い世代には石原の基本的性格が理解されていないのではないかと思う。石原が都知事選に立候補したときの 「風速計」 で簡単にふれたが、ここでもう少しくわしく解説しておくことにしよう。

「ウソつき」 と 「卑劣な小心者」 とをこねて団子にしたような男。

これは本誌去年3月26日号の拙文 (風速計) からの引用ですが、東京都知事選に再び立候補して二四年ぶりに目的を果たした石原慎太郎 (敬称略、以下同) の基本的性格は、こう表現するのが適切でしょう。しかしこの人物に直接接したり具体的問題にかかわったことのない人々が、このへたくそな小説家のハッタリ人生にだまされて、そんな事実を知らないのも無理はないかもしれません。

この人が最初に世間に売り出したのは、小説家としてでした。株式会社文藝春秋が、自社の 「ショー」 としていくつもつくっている文学賞の類のひとつに 「芥川賞」 があり、石原は学生時代の1956年にそれを得たのです。

これが芥川ショーとしての、他の年の普通の同賞以上に騒がれたのは、学生時代の若さということ以上に、彼の小説の突出した下品さにありました。 『太陽の季節』 と題するその小説は、勃起した はせで障子紙を破る奇矯な描写がとりわけ評判となったのです。そんなことを書く小説家は 「純文学」 畑にはそれまで (たぶん) いなかったでしょうが、そういう描写それ自体が下品だというのではありません。描写の方法なり文体なりが 「文学」 になっていないから下品なのです。

こんなものになぜ文学賞が出されたのでしょうか。それは、かつて故・深沢七郎も言っていたように、これが一出版社の商売としてのショーだからです。話題性があること、巷間(こうかん)で騒がれることなどで売れればいいのです。かといって無茶苦茶低レベルのものばかりに毎年ショーを出していたら、その賞本体に権威がなくなりますから、真に文学の名に値する作品も時にはあるでしょう。しかし基本的には、文春が下選びした作品について、文春が選んだ 「選者」 たちが審査するのですから、文春の商売的意向が反映さぜるをえません。このあたりのことについては、かつてやはり文春のショーたる 「大宅賞」 の性格を論じたとき、この賞を逸した鎌田慧に対する選評をもとに詳述したことがあります (本多勝一著作集第19巻 『日本語の作文技術』 = 朝日新聞社 = 収録の 「茶番劇としての"大宅壮一賞"」 ) 。

以来、彼の書く小説は、ヘミングウエイの亜流の亜流というべきか、自分ではヘミングウエイていどの冒険さえ全くできないくせに作品だけはそれをまねようとして、一言で言えば 「三流以下」 の駄作を重ねてゆきます。もちろん私は小説界にくわしいわけではありませんが、彼の小説が 「文学」 としてはほとんど相手にされなかったことは、いわゆる文壇でも常識でしょう。ごく最近の例として金井美恵子の一文から引用しておきます。

「・・・・・・小説家としては三流以下だった都知事のお金に関する政策、外形標準課税は典型的なファシズムのやり口でしょうし、・・・・・・」
( 『一冊の本』 2000年6月号の 「 『お金』 については語らない」 から)

そんな 「三流以下小説家」 では未来が暗いことくらい当人でもわかりますから、タレント性が選挙に有利な分野たる政界に転進することになります。そしてその前後から、若いころにはかなり"進歩的"だったこの男がえらく反動的になっていって、ついには靖国神社復活をめざす 「青嵐会 (せいらんかい) 」 に加わるまでに到りました。日本の核武装も積極的に主張しはじめます。

以後の石原の軌跡については、あらためてここでたどる必要はありますまいが、その 「ウソつき」 ぶりと 「卑劣な小心者」 という基本的性格を知らない若い有権者も多いことでしょうから、私が直接知っているか体験した事実を、この機会に三件だけ紹介しておきましょう。

1.ベトナム戦争での卑劣さ

想えばもう三十余年も前 (1967年) のことになります。ルポ 『戦場の村』 (朝日新聞社連載、のちに朝日文庫) を書くため南ベトナム (当時) に滞在中、石原慎太郎がベトナムへやってきました。私がサイゴンにいるときだったので、何かの会合で他の記者たちと共に会ったことがあり、その帰りの夜道でニューギニアについて彼と話した記憶があります。

そのあと彼はサイゴンを離れて何ヶ所かの前線を取材に行ったようですが、肝臓だかを悪くしてひどい下痢で活動できなくなり、まもなく帰国したという噂をききました。もともと真の冒険家ではありえない人だから、修羅場には弱かったのでしょう。

それからほぼ一年のち、南ベトナムから私が帰国してまもなく、報道写真家の石川文洋が 『ベトナム最前線』 というルポルタージュを読売新聞社から刊行しました。これに序文を寄せた石原の文章を読んで、次の部分に私は少なからず驚かされることになります。


ベトナム戦線Dゾーンのチャンバンの砲兵陣地で、訪れた我々日本記者団に向かって、試みに大砲の引き金を引いて見ないかと副官にすすめられたことがある。 (中略) 番が私に廻って来そうになった時、同行していた石川カメラマンがおだやかな微笑だったが、顔色だけは変えて、

「石原さん、引いてはいけません。引くべきでない。あなたに、この向こうにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もない筈です」

といった。


躊躇(ちゅうちょ)している私に、陽気な副官は鉄兜をさし出し、”Kill fifteen V.C.!”
と叫んだが、幸か不幸か突然射撃中止の命令が入り、その時間の砲撃は止んでしまった。

私は今でもその時の石川君の、私を覗(のぞ)くように見つめていた黒いつぶらな瞳(ひとみ)を忘れない。童顔の、あどけないほどのこの若いカメラマンの顔に、私はその時、なんともいえず悲しい影を見たのだ。

彼がもし強く咎(とが)めていたら、私は天邪鬼(あまのじゃく)にその後まで待って引き金を引いていたかも知れない。

この文章からみると、石原は解放戦線または解放区の住民に対して、副官にすすめられるままに、大砲の引き金を引く寸前だったことになります。たまたま 「幸か 不幸か 突然射撃中止の命令が」 出たために、彼はそれを果たせなかった。もし中止命令が出なければ、第一には 「すすめられるままに」、そして第二の可能性としては 「彼 (石川文洋) がもし強く咎めていたら、私 (石原慎太郎) は天邪鬼にその後 (砲撃再開) まで待って引き金を引いていたかも知れない」 のです。

こういう小説家の神経と体質について、私がここで解説を加えるまでもありますまい。私はこのあと解放区の取材に長く潜入していましたから、時間と場所がすこしずれれば、ことによると石原の撃った砲弾が私のいた村にとんできたかもしれませんね。 (注1) 。

ここに見られるように、石原はベトナムへ行ってもせいぜい陣地までしか行けはしない。石川文洋の苛烈な体験はもちろん、私がやったていどの歩兵との最前線従軍さえできず、安全地帯にいて、卑劣にもそんな中から大砲だけは撃ってみるような、子どもの戦争ごっこくらいしかできないのです。しかも石川文洋が言うとおり、石原慎太郎にとって殺す理由など何もないベトナム人を砲撃しようとする鈍感さ。この卑劣で鈍感な男が政治をやろうというのであります。

2. ヨット世界一周への嫉妬

次は今から二六年前 (1973〜74年) のことです。真の冒険児たる かの堀江謙一が、ヨットによる単独の無寄港地球一周に275日と13時間10分の新記録で成功しました。

しかしながらこの成功は、その前年 (1972年) に失敗して二度目の挑戦による快挙です。前年には出港してまもなく、マストに欠陥があって折れたために、出直しをすべく計画を一年延期したということですが、この"失敗"にさいして、週刊誌をはじめとするマスコミ (情報商売 = ジャーナリズムではない) は堀江を徹底的に中傷・非難しました。女性週刊誌の一部にはプライバシー問題まで暴いたりして、あんまりひどいので当時の堀江との対談 (注2) で 「こんもの書いて (または書かせて) メシ食ってるヤツ、人間のクズだな。カスだ。これこそ告訴ものだ」 と発言したら、当のクズ・カスから私の職場に電話があって、ひとこと 「抗議する」 と言っただけで一方的に電話を切りました。抗議されるべきはクズ・カスの方ではありませんか。

余談ですが、この種の私事暴露や虚偽を掲載するゴロツキ雑誌やそれを書いている連中は、その卑しさ・汚さの点でいかなる破廉恥犯罪人よりも本質的に下等な人種に属すると思います。三年ほど前のことになりますが、講談社のある月刊誌が、私に対して一度たりとも取材をせずに、ジャーナリストの名誉の根幹にかかわるひどい加害報道を実行したので、その月刊誌編集長と筆者について 「よく卑しい職業の例にあげられる売春婦よりも本質的に下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中である」 と論評しました。すると当の筆者などから、売春婦に対する差別発言であるかのような"反論"がありましたが、これは誤読・曲読の類というものでしょう。売春婦の中にも大いに尊敬すべき人物がいることは知っているからこそ、俗世間でよく卑しい職業の例にあげられることに違和感を抱いており、そんな例を挙げるとすれば、売春婦などよりも前述のような 「人間のクズ・カス」 こそ本質的に、真の意味で、本当の 「卑しい職業」 なのだと言っているのです。

それはさて措(お)くとして、堀江謙一のような真の冒険家は、日本ではよく攻撃されます。日本型社会の枠の中での冒険なら、たとえば植村直己の場合のように愛されたり称賛されたりもするのですが、その枠からとび出すほどの、日本的価値観では理解を絶する最先端の冒険には、逆に非難・攻撃を加えるのです。堀江が二三歳のとき成しとげた初の太平洋単独横断にさいして、日本のマスコミが加えた非難・批判の激しさとばかばかしさは、日本人の本質的な底流にかかわる問題として私に論文 「冒険と日本人」 (注3) を書かせました。二度目にマスコミから袋だたきにされたのが、前述の世界一周"失敗"のときです。

さらに、三度目の袋だたきはもっとひどいものでした。無寄港単独世界一周に新記録で成功した翌年 (1975) 、太平洋横断ヨットレースに堀江も加わったときです。堀江のヨットはこのときメイン = ブームの故障などで遅れたものの三位に入賞したのですが、問題は無線機が故障して四〇日余り連絡不能に陥ったこと。これでまたマスコミに騒がれて、自殺説だの遭難説だの、さらに私事暴露や、ひいては前年の世界一周が嘘だという暴言さえ出る始末でした。このとき私は 「またまた袋だたきの堀江謙一を激励する」 と題する堀江との対談 (注4) を発表しましたが、この、世界一周捏造説を断定的にとなえた人物こそ、石原慎太郎だったのです。


このあたりのことについて、かつて書いた中から一部を引用しましょう。

石原氏は好んで冒険的な題材を扱い、みずからもヨットをあやつり、エベレスト (チョモランマ) やベトナムにも行った。世間には 「男性的カッコよさ」 がイメージづけられた。しかし彼の 「行動」 を見ていると、かつて一度たりとも真の冒険に値することをやったことがない。本当に生命の危険があるようなところへは決して近づいていない。ヘミングウエイに彼は憧れていたようだが、実際に冒険にとびこんだヘミングウエイとは似ても似つかぬ"行動"だった。ヘミングウエイの亜流ならまだしも、幼稚な 「ヘミングウエイごっこ」 でしかなかった。

「男性的カッコよさ」 が虚像だったとすれば、女性的というべきなのだろうか。しかしそれでは女性に対して失礼になろう。ヨットなら小林則子氏、山なら今井通子氏、ベトナムならミシェル = レイ氏など、彼など及びもつかぬ冒険家が、女性の中にもたくさんいる。むしろ 「小心な男」 というべきなのであろう。その裏返しとして、自分のなれない冒険家に 「なりたがっている」 のである。だから本当の冒険家を嫉妬したり、時にはとんでもない 「冒険ごっこ」 もする。

かの堀江謙一氏がヨットによる単独無寄港地球一周に新記録で成功したとき、石原氏はこれをウソだと公言した。どこかにかくれていて、さも一周したかのように出てきて発表したというのである。さすがの堀江氏もこれには激怒していたが、これほどひどい名誉毀損(きそん)も珍しいだろう。小心な男の嫉妬として、これはまことに興味ある生態であった。エベレストのときも、三浦雄一郎氏ら本当の冒険家たちに山麓まで仲間入りさせてもらっただけであった。 (中略)

「朝日ジャーナル」 の1977年4月29日号は、編集部の取材記事として、 「その周辺で囁かれる人物評」 が 「女みたいですねえ」 だと書いている。最近の環境庁記者クラブとの深刻な対立の過程をみても、これは全く当然の人物評であることがわかるが、やはり 「女みたい」 では女性に失礼なことだ。もし女性が環境庁長官になれば、石原長官よりはるかに立派な腕前をみせてくれるであろう。この小心な男は、私たちの世代の恥を延々とさらしつづけてくれている。
(本多勝一 『愛国者と売国者』 収録の 「小心な男としての石原慎太郎」 から)


しかも石原は、堀江の世界一周にさいして、その航海日誌を朝日新聞社のヘリコプターが帰港直前に吊りあげて入手したことを 「検疫法違反」 と非難しています。ところがこれも 「無寄港」 の世界一周ですから、日本を出て日本に帰っただけ、どこにも寄らないのでは検疫法など無関係でした。アムンセンが人類初の南極点到達のあとオーストラリアのタスマニア島まで帰ったとき、無人の南極からでは税関に用事がなく、無菌の南極からでは検疫の医者も用事がなかったというアムンセンの手記を思い出します。

アムンセンや堀江謙一といった真に 「人類初の」 冒険をやる人物の行動には、なみの国際法や検疫法の類など問題外の場合が珍しくありません。石原と同じく反動側の"文学"畑から、江藤淳も堀江を非難していました。 (前述の 「冒険と日本人」 で詳述) 。

ヨットをめぐる石原慎太郎を一言で要約すれば、小心者の卑劣な嫉妬心。これだけです。

3.南京大逆殺をめぐる虚言

三つ目の例は、私自身が直接かかわることです。

石原慎太郎はテレビ発言その他さまざまな場で 「南京大虐殺はウソだ、なかった」 と述べてきましたが、これは 『月刊プレイボーイ』 誌 (日本版) 1990年11月号の場合です。

石原は南京大虐殺について自分では一度たりとも取材したことがない (取材する能力もない) ままに、日本を世界の孤児にする売国的"右翼"の虚言を受け売りしているだけですが、自民党代議士 (当時) という公人としての発言は、小林よしのり型の主体性なきマンガ家等の放言とは違いますし、これは私のジャーナリストとしての仕事を否定するものでもありますから、石原に対して次のような質問状を送付しました。


自民党代議士としての石原氏に対し、その選挙区の者ではありませんが、国政への有権者かつ納税者の一人として次の二点をただします。一ヵ月以内にお返事を下さるようお願いします。


一、 『月刊プレイボーイ』 誌の1990年11月号で 「プレイボーイ = インタビュー」 に答えてあなたは次のように発言されました -----

「日本軍が南京で虐殺をおこなったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。これによって日本のイメージはひどく汚されましたが、これは嘘です」

右は何を根拠としての発言ですか。


二、 同じところで 「どこで日本人は虐殺をしました?」 と発言されていますが、これは 「虐殺はどこにもなかった」 という意味ですか。あるいは 「どこどこの虐殺は認める」 という場所があればそれを挙げてください。

1990年11月23日 本多勝一

これがどうなったかは、石原側からの回答を含めて、拙著 『愛国者と売国者』 (朝日新聞社)の第四部 「南京大虐殺と 『愛国心』 」 に収録されています。こうしたやりとりの結論は、 『朝日新聞』 19991年11月9日付夕刊コラム 「深海流」 に、次のような私の署名記事として書いたとおりです。


石原慎太郎氏の 「うそ」

国会議員の石原慎太郎氏が南京大虐殺を 「中国側の作り話」 「うそ」 と発言 (米誌 『プレイボーイ』 誌昨年10月号 = 日本版は11月号) して問題化したとき、私は 『朝日ジャーナル』 (昨年12月7日号) で、これが何を根拠にしての発言なのか公開で質問した。

回答によると、 『プレイボーイ』 のインタビューは 「通訳を通して」 行われたので 「食い違いがあった」 とのことである。そのほか 「個々の質問」 については 『文藝春秋』 今年2月号の石原氏の 「論文」 (日本を陥れた情報空間の怪) をもって回答にかえるという。

そこで当の 「論文」 を読んだところ、これは違法行為としてのひどい改ざんや捏造、スリかえをもとにして個人攻撃をしたうえ、南京大逆殺についての朝日新聞の報道を 「売春と同じように一度始めたら容易には止められない」 といった差別表現をしてまで中傷する異様な"論文"であった。

このような"論文"に対して同じ 『文藝春秋』 誌上で反論する前に、まず事実関係をはっきりさせておくべく、次の二点について再度質問状を送った。


(1)通訳を通しての 「食い違い」 はどの部分か。

(2)インタビューが活字化されるにさいして原稿かゲラで自分の発言をチェックしたか。


だが、二月に出したこの再質問には回答がない。以後十月までに三回にわたって催促したが、まだない。

もはや回答は出たとみるべきであろう。 「作り話」 「うそ」 を語ったのは、中国側ではなくて、まさに石原慎太郎議員自身たったことになる。石原氏は何の根拠もなく、 『プレイボーイ』 誌で南京虐殺を否定したのであった。

「国際化」 とは、外国語会話をやることなどではなく、まず侵略の非は非と認めて再出発することこそその第一歩なのだ。せめてドイツが戦後やってきたような程度まで。

南京大虐殺を中国側の 「作り話」 「うそ」 と全否定した石原は、これはマズイと思ったらしく、この"論文"の中では卑劣にも黙ってひそかに部分否定に変更しています。つまり 「うそつき」 は石原の側だったわけです。

以上のような基本的性格が彼の仕事全体に反映するのは当然ですが、なぜか 『週刊朝日』 (去年3月26日号) は、石原慎太郎の 「滑り込み都知事選出馬」 を 「単独インタビュー」 して言いたい放題にさせました。選挙なら誰だって 「単独」 で応じるに決まっています。これは他候補たちが票を食いあっていることを見越した上での 「漁夫の利立候補」 にすぎません。こんな 策戦に利用されて 「単独インタビュー」 で応援する雑誌やテレビの見識の無さ。

今から二四年前になる1975年の都知事選に石原が出たとき、私は月刊誌 『潮』 (1975年4月号) で次のように書きました。

「石原慎太郎東京都知事。 −−劇画や漫画なら 「ドヒャーッ」 とか 「ケケケケ」 とか、そんなオノマトペで笑えばすむことだが、現実にそうなるかもしれないとなると、考えこまざるをえない。 (中略)

こんな男の 「支配」 する東京都にいることなど、恥ずかしくてとても耐えられない。もともと私などは住所不定で日本にいないことが多く、日本にいても東京にいないことが多いが、住民税の納め場所は東京になっている。少なくともこれだけは拒否すべく、彼の任期中は現住所を故郷の実家へ移してしまおう。いったいどうして、彼の支配体制のために財源を助けることができようか」


ここで冒頭の一文にもどります。

「ウソつき」 と 「卑劣な小心者」 とをこねて団子にしたような男。

東京都知事に漁夫の利当選した石原慎太郎の基本的性格は、やはりこう要約するのが適切でしょう。 「三国人」 発言その他は、すでに書いたように (本誌5月26日号 「風速計」 ) 、ブタがブーブー鳴いているだけのこと、問題はそんなものを支持する国辱的日本人が少なくないことです。
http://www1.odn.ne.jp/kumasanhouse/hinkonnaru_seisin/k121.html


石原都知事の名指し攻撃になぜかおとなしい『朝日新聞』

2012 年 3 月 23 日 6:20 PM


 石原慎太郎・東京都知事の記者会見の内容を、東京都のホームページが「正確に反映していない」ことを前回のブログ「石原都知事の発言を正確に伝えない東京都ホームページの不思議」で指摘しました。

 南京大虐殺めぐって石原都知事は、「昔、本多勝一ってバカがいたんだよ、『朝日新聞』の」と2月24日の会見で話しているのですが、都のホームページにある「都知事の部屋」(http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/index.htm)では、「昔、本多勝一(ジャーナリスト)というやつがいたんだよ」となっている問題です。

 この発言に続けて石原都知事は次のように話しています。
「結局、彼は最後に修正したけど、南京の占領の間だけで40万の人を殺せるわけがない」

 小誌連載「貧困なる精神――石原慎太郎東京都知事に訂正・謝罪を求める」で本多勝一編集委員が指摘しているように、本多編集委員は『朝日記者』時代もその後も「40万人説」を唱えたことはありません。そして、唱えていないのだから、もちろん「修正した」こともありません。

 では、当の朝日新聞社はこの石原都知事の「ウソ」発言についてどのように考えているのでしょうか。そこで下記の質問状を朝日新聞社に送りました。

(ここから引用)
//////////////////
「南京大虐殺」について石原都知事が次のような発言をしています。

「昔、本多勝一ってバカがいたんだよ、『朝日新聞』の。結局彼は最後に修正したけどね。あんな南京占領の間に40万人を殺せるわけはないんだ」(2月24日)、
「彼の論では40万人もの虐殺という数字が論拠がないものだからね」、(本多氏は人数を書いていないという指摘に)「『朝日』も書いて、あちこちで書いている」(3月2日)。

 そこで次のことをお聞きします。

1)本多勝一氏の記事(見解)、もしくは別の朝日新聞記者の記事(見解)として、いわゆる「南京大虐殺」の死者(犠牲者)が40万人とする記事を掲載したことがありますか。

2)いわゆる「南京大虐殺」の死者数についてはどのような掲載をしていますか。

3)『朝日新聞』が犠牲者数を40万人とする記事を掲載していないとすれば、石原都知事の記者会見での発言は事実と異なると考えてよろしいでしょうか。

4)都知事の記者会見はインターネットやテレビなどで生中継され、また録画視聴が可能です。石原都知事の発言が「虚偽」だとしたら、訂正の申し入れなど貴社としてなんらかの対応を取られるお考えはありますか。また、すでになんらかの対応を取られている場合は、その内容をお教え下さい。
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(引用ここまで)

 続いて朝日新聞社広報部からの回答を掲載します。

(ここから引用)
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 いただいたご質問の「1」から「4」についてまとめてお答えします。

 南京事件での死者数について、朝日新聞はこれまで、様々な説があることを報じてきました。なお、お尋ねの件に限らず、個々の記者会見の内容について、紙面などで報じる以外に論評することは差し控えます。

回答は以上です。よろしくお願いいたします。
                               草々
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(引用ここまで)

 では『朝日新聞』は、今回の石原発言をどのように「紙面などで報じ」ているのでしょうか。私がさがした範囲では2月25日(土)の第3社会面に2段見出しで次のように報道している1本(写真参照)だけでした。河村たかし名古屋市長発言とその波紋については詳報し、3月8日には社説「河村市長発言 日中の大局を忘れるな」を掲載しているのと比べ、極端に扱いが少ないようにみえます。では、その記事の内容を見てみましょう。

(ここから引用)
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河村市長の南京発言、石原都知事「正しい」

 東京都の石原慎太郎知事は24日の会見で、名古屋市の河村たかし市長が南京虐殺を否定する発言をしたことについて「正しい。彼を弁護したい」と述べた。

 石原知事は、南京陥落の数日後に現地に入った評論家らから聞いた話として、「死体はあったけど、山と積むような死体は見たことがなかった」と指摘。「相手も無抵抗に近かっただろうけど、あれだけの(旧日本軍の)装備、期間で40万の人を物理的に絶対殺せっこない」と話した。

 石原知事は衆院議員時代の90年に米誌のインタビューで南京虐殺を「中国人が作り上げたうそだ」と発言している。
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(引用ここまで)

 いやぁ、驚きました。善意に解釈すると「南京大虐殺があったことを前提としているので石原発言の紹介だけでよい」と考えているのかもしれませんが、『朝日新聞』が攻撃されているのに、あまりにも及び腰だと感じるのは私だけでしょうか。
http://www.kinyobi.co.jp/blog/?p=3156


石原慎太郎のばかさ加減(21日の日記) 2008年06月21日


 ジャーナリストの本多勝一氏は、石原東京都知事の無知蒙昧ぶりについて、6日の「週刊金曜日」コラム「金曜日から」で次のように批判している;

 石原慎太郎という東京都知事の「バカさ加減」について、日本記者クラブ会員の谷久光氏(『朝日新聞』社会部OB)から実話をきいた。書いてもいいとのことだから紹介しよう。

 何年か前のある日、柳橋の料亭・亀清楼に、石原の一行が客として現れた。通された座敷の床の間にかかっていた平山郁夫の絵を見て、おかみに石原が言った −「こんな中国に土下座している絵描きの絵は不愉快だ。おかみ、はずしなさいよ」

 この料亭は横山大観以来、日本美術院の大家に歴代愛用されたのでかれらの作品の多くを所蔵し、平山郁夫の師にあたる前田青邨の絵もある。おかみが即座に言い返した − 「お気に召さないのなら、今すぐ別のお店へお移りください!」

 石原のこの「バカさ加減」は、おかみの旦那さんから谷氏が直接きいた実話である。大観から青邨・平山にいたる由緒も知らぬ石原であればこそ、いい気になってこんな態度もとるのだろうと谷氏は推測する。

 確かに。こうした無知なくせに(無知だからこそか)倣慢な石原知事の態度は、こんな男に投票する都民の責任に帰すべきことを長らく私は論じてきたが、当の都民ももういいかげんに目覚めていいころではなかろうか。(本多勝一)

2008年6月6日 「週刊金曜日」705号 66ページ「金曜日から」から引用

 単純な石原慎太郎は「オレは客だから」という意識の上に「都知事でもあるし」「都民の間では人気もあるし」などと思い上がっての暴言だったかも知れない。しかし、こっちもそれなりの矜持を持って商売をしているわけで、おかみの一喝は痛快である。
http://plaza.rakuten.co.jp/bluestone998/diary/200806210000/


2011年03月16日

石原慎太郎がとうとう馬脚を露わした。「天罰」発言である。

未曾有の大災害に家族や家を失いながらも、秩序を保ち節度をもって行動する被災者の姿は、外国メディアの感嘆を見るまでもなく称賛に値する。その彼らに向かって「天罰」である。

石原は日本人(たぶん自分はその中にはいないのだろう)の我欲に対する「天罰」と言いたいのかもしれないが、言葉をよく知らないようなので教えてさしあげると、天罰とは悪事を働いた当人に天が下す罰のことである。元小説家のくせにこんなこともわからないとは。

いや、元小説家といっても、知られているのは『太陽の季節』くらいで、男性のモノで障子を破るというエロ小説まがいのワンシーンで有名になっただけの駄作である。これが芥川賞をとるのだから噴飯ものである。選考委員の目が節穴だったか、どこからか圧力がかかったとしか思えない。ちなみに、現在この男は芥川賞の選考委員を務めている。文藝春秋よ、いったい何を考えている?

さすがに選挙前にこの発言はまずいと思ったのか、翌日に記者会見を開いた。

「まず、行政の長であります私が使いました、『天罰』という言葉が、添える言葉が足らずに、被災者の皆様、国民・都民の皆様を深く傷つけたことから、この発言を撤回し、深くお詫びいたします」

全然謝罪になっていない。どんな言葉を添えようと、天罰の意味は変わらない。

石原慎太郎はファシストである。あらゆる言動がそれを裏付けている。
本多勝一は今から36年前の1975年、こう看破した。

「(石原は)靖国神社復活に精魂を傾ける極右集団『青嵐会』の有力メンバーとなり、日本の核武装を積極的に主張し、ファッショ台頭に一種好都合な『天下大乱』の世相があらわれるにつれて、たくみに浮動票を集めて政治の場に出てきた」(「石原慎太郎という小説家の体質」本多勝一集 第21巻所収)

これに付け加えるとすれば、「弟の七光りを最大限に利用して」というところか。
この年、石原は都知事選に出馬した。この文章はその直前に書かれたもので、このあとこう続く。

「私はこんな男の『支配』する東京都にいることなど、恥ずかしくてとても耐えられない」

幸いなことにこのときは美濃部候補に敗れたが、悪夢は28年後にやって来たわけである。


心ある他府県の人々は東京都民をわらっている。いいかげんに目を覚まそうではないか。
http://blog.goo.ne.jp/sax-a-55/e/e4166661be973606bc521a04c528397e
 

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コメント
 
01. 2012年11月18日 11:47:06 : tZDk4q8jZ6
本当だ。東京都民が馬鹿を増長さしたのだから。迷惑な話である。

02. 2012年11月19日 23:25:55 : EYHTwT0u8w
天罰ってのは、身から出たさび、自業自得ってイミじゃないの?『お前ら(被災者)の日ごろの行いが悪いからだ』ッてやつでしょ?

能登の震災の時『東京じゃなくて良かった』って慎太郎は言ったらしいじゃないか?

そういう奴のことを『愛国者』って言うのか。
そういう奴を、都民は支持したのよね。

と言うわけで、都民の皆さん。

首都直下で壊滅しても天罰だって、東京都の条例で定めてくれたら赦す。

国政選挙で慎太郎を落としてくれても赦すww


3. 中川隆[3375] koaQ7Jey 2016年7月24日 08:37:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3726]

噂の眞相 99年6月号特集2

都知事選にイメージ操作で圧勝した石原慎太郎の知られたくない人間性――なぜ出馬宣言が遅れたのか――。

その理由はオウムとの関係ではなく、新潟県にいる女性と隠し子の存在にどう対応し、切り抜けるのか、だった……。――

 
● 本誌特別取材班
● 予想されていた石原の圧勝

 
圧勝とはこのことをいうのかもしれない。4月11日に投開票された東京都知事選は、”新都知事”が次点の鳩山邦夫にダブルスコア近い差をつける独走劇で、あっさりと終わった。その新都知事となったのは、あの石原慎太郎。芥川賞作家であり、運輸相や環境庁長官を歴任した元大物衆議院議員……。いや、こんな肩書きなどよりも、むしろ「故石原裕次郎の兄」、「反米タカ派の国家主義者」といったほうがさっと分かりやすいだろう。

 それにしても圧倒的な支持だった。なにしろ突然の青島幸男の不出馬で、告示前は「乱戦」「だんご都知事選」といわれながらも、フタをあげてみれば石原慎太郎が集めた票数は、実に166万4千5百票余り。有効得票数の30パーセントにも及ぶ計算になるのだ。 社会部記者もあきれ顔でこう語る。「鳩山や舛添要一、明石康を担いだ自民党執行部、それに創価学会さえも、今回だけは石原慎太郎の圧倒的な知名度、人気を改めて思い知らされたんじゃないか。ただし、石原を含めた各陣営には、はじめからある程度この結果は予想できていたはずです。というのも、石原がまだ出馬を口にする前の段階から、世論調査では、すでに石原が圧倒的支持を集めていたからです」

 そう、事前の調査データでも、石原慎太郎の圧勝は十分予想されていたことだった。そして普通に考えれば、だからこそ石原も、最終的に出馬に踏み切ったはずなのだ。

 しかし、だとすればである。当選が確実視されているのに、石原はなぜ、あの時告示ギリギリまで出馬を迷っていたのか。

 なにしろ他の有力候補が2月中旬にはそろって出馬表明していたのに対し、石原が出馬を表明したのは3月10日、つまり告示までわずか2週間余りという時期だったのだ。

 しかもその出馬表明にしても、元秘書グループや自民党の小林興起らが外堀を埋めたため、ようやく石原がその重い腰を上げたかのようにいわれているが、実際は少し違う。

「実は石原が出馬を具体的に検討し始めたのはわりと早い時期で、青月島幸男が不出馬を表明した直後、2月の初めだったといわれます。事実、小林興起が”(石原は)100パーセント出馬する”とマスコミに触れ回り始めたのもこの直後からだった」(政治部記者)

 にもかかわらず、石原はその間、いっこうに態度をハッキリさせなかったのである。

「石原の側近は、そのワケをこう説明していましたよ。

”注目を引きつけておいて最後にドーンと表明すれば、有権者に対するアピールも新鮮で衝撃的なものになる”からだと。つまり選挙戦術だったというんですが、実際は戦術なんて呼べる代物じゃなかったんです。むしろ”苦肉の策”

というべきでしょう。というのも、石原は2月初めから出馬を真剣に考えていたというのに、なぜかギリギリの段階まで、本当に出馬を迷い続けていたからです」(前出・政治部記者)


 もしそうならば、石原が土壇場まで出馬に踏み切れなかった理由は何だったのか。その理由いかんでは、石原が新都知事になることも、あるいはなかったかもしれないのだ。

 実をいうと、本誌はすでにその”理由”をつかんでいる。石原は、逡巡した理由を「まだ文学者としてやりたいことがあった」などと語っているようだが、そんなものはしょせんポーズにすぎない。

断言しよう。石原が出馬をためらった本当の理由とは、決してこんな格好いいものではない。石原には、東京都知事選を戦う以上はどうしても隠しておきたい、ある”事情”があったのである。


 
● 怪文書が飛び交ったオウムとの関係
 
「一説には、石原とオウム真理教をめぐる例の〃噂〃がそれだったのではともいわれています。たしかに石原はここ数年、オウム絡みの噂がささやかれ続けており、彼も悩まされてきましたから」(前出・社会部記者)

 実は出馬会見前後から、石原慎太郎の周辺にはさまざまな「怪文書」がバラまかれていたという。ほとんどがワープロ打ちされたA4サイズのもので、その数は、本誌が入手したものだけでも軽く10数種に及ぶ。

 たとえばある怪文書では、石原が84年の総選挙で、故新井将敬の選挙ポスターに「朝鮮人」と書いたシールを貼り選挙妨害をしたと書き、”人種差別主義者 石原慎太郎を許すな!”と罵倒。あるいは「在日本中国人留学生会」名の怪文書では、中国を”支那”と呼ぶ石原の歴史認識の欠如ぶりを非難、石原は都知事に相応しくない! と断じている。

 事実関係はともかく、石原の差別主義ぶりはたしかにその通りだし、もし怪文書がこれだけならば特筆するまでもない話だろう。

 ところが、実際に各所へバラまかれていた大半の怪文書は、この程度のシロモノではないのだ。石原出馬までの経緯、選挙資金の出所、さらに石原とオウムの”関係”に至るまでを詳細に指摘したものだったのである。


 政界関係者がこう解説する。

「出回った怪文書の大半は、”石原慎太郎出馬の背景”というタイトルで、4項目で構成された内容もほぼ同じ。

おそらく初めの怪文書を次々と打ち直し、あらためてバラまいたものだろうね。

前半部分では、選挙資金の出資者として、自由連合代表で徳洲会理事長の徳田虎雄や、例の日本法曹政治連盟主宰・松浦良右の名を挙げ、それぞれ2億、4億を出資したことなんかが書いてあるんだが、”出馬までの経緯”の項にある、出資条件として徳田が公立病院への民間委託参入を要求したというくだりは結構真実味がある。徳洲会が民間委託に目をつけてるのは事実だからね」


 なかでも目を引くのが、やはりオウムに関する部分だ。この怪文書の”3、石原の衆議院議員辞職の背景”という項には、両者の関係について具体的にこう書かれているのだ。

1、末子「ひろたか」は、オウムの在家信者で、麻原が瞑想していた背景の「曼茶羅」を描いたとの説あり。政治的取引で逮捕を免れたとも噂される。(現在行方不明)

 2、オウムの林医師は「裕次郎」の臨終立会医で、当時慎太郎の主治医。石原と林の家族は家族ぐるみの付き合い。

 3、石原と杉並選出の仁木都議(昨年死亡)は、オウムの宗教法人認可に介在。仁木の死により「死人に口なし」となり、出馬の大きなファクターとなったか。

 4、石原とオウムの関係が公にならざるを得なくなった時点で「不問に付す」ことを条件に政界引退。

(誰が不問に付したか? 当時の野中国家公安委員長は、最近「息子がオウムの信者で、林医師と付き合いがあったことは知っている」と述べている)(原文ママ)

 これだけではない。さらにはこんな怪文書まで登場するのである。

「”都知事選ご関係者各位 石原慎太郎、議員辞職の真相について”というその怪文書の内容じたいは、石原や四男がオウムの国家転覆クーデターに関与した、というほかの怪文書とさして変わらないものなんですが、ビックリしたのは、この怪文書に書かれている内容の詳細が『中央公論』に掲載されると記述してあることです」(週刊誌記者)

 怪文書を読むと、たしかにこう書かれている。”石原氏が何故、国会議員のバッジをはずしたのか、今、一部マスコミでぶり返されていますが、来月発売予定の月刊中央公論に、その詳細が掲載されています。以下がその要点の抜粋です……”。

しかも、選挙妨害になるので”4/11前はたとえ事実であっても報道できないとのことです”と、それらしい解説まで付け加えられているのである。

 いくら怪文書とはいえ、ここまで大量に、それも具体的なディテールを伴ってバラまかれると、にわかに信憑性も帯びてくる。そもそも今回の怪文書に書かれている石原とオウムの〃関係〃は、本誌でも以前に触れたように、数年前から根強くささやかれてきた話であり、単なる「都市伝説」として片づけるにはリアリティがありすぎるのだ。

 そしてもちろん、こうした噂が仮に事実だとすれば、石原が都知事選を前に躊躇した理由としても充分に説明がつくではないか。

 だが結論からいえば、怪文書に書かれている話はそのほとんどが”ガセ”だった。

 実は本誌も、もう一度この石原とオウムをめぐる噂を追跡、検証してみたのである。

 まずは石原の四男のオウム信者説ーー。前出の怪文書では「ひろたか」となっているものの、この四男の名前は延啓といい、たしかに一応は画家で、宗教に強く興味を持ち、描く絵の中には密教的なものもあるという。しかしオウムとの接点らしきものがない。唯一根拠として語られていた「破防法の立証資料に四男の名前が記載されている」という事実もない。

 そして林郁夫と裕次郎の関係についても確認できる材料はなく、加えて宗教法人認可の噂も、実はすでに2年前、今回の怪文書にも登場する法曹政治連盟の松浦良右が完全否定している。

 さらに『中央公論』が詳細記事を掲載する、という記述についても、同社関係者は

「いや、そんな予定はまったくありませんよ」

と首をかしげ、試しにあの怪文書に記載されていた住所を訪ねてみても、そこには記載されていた「オウム徹底糾弾・オウムクーデター真相調査請求を求める会」なる団体の影も形も見当たらなかったのだ。

 ようするに、しょせんは怪文書以外の何物でもなかったのだが、そんなさなか、とんでもない事実が発覚した。驚いたことに、一連の怪文書が自民党の謀略だったとの疑惑が浮上したのである。

前出の政界関係者が語る。

「怪文書攻撃に頭を抱えていた石原陣営が、怪文書に印字されていたファックス番号を調べてみたら、それが自民党都連の番号だったことが判明した。しかも石原側が都連を追及したら、都連側は怪文書をあちこちにバラまいたことを認めてしまったんだよ。

作成者には創価学会説もあるが、それが誰かはともかく、怪文書をまかれた側の石原は当然カンカン。告訴をチラつかせて強硬に抗議中で、都連はもちろん平謝り。4月9日には、”自民党都運事務局長”名で石原の関係者に詫び状を出すという醜態ぶりだからね」

 都知事選は圧勝、ついでに頭を悩ませていた一連のオウム疑惑もきれいに晴らし、そのうえ与党の都連に詫び状まで出させる……。

 さすがは石原慎太郎、いや新都知事というべきか。たいした剛腕ぶりである。

 しかし、実をいえば、石原がどうしても隠しておかなければならなかったこととは、このオウムをめぐる疑惑などではないのだ。

 都知事選に出馬するにあたって、石原が絶対に触れられたくなかった事実……。
 それはズバリ、愛人と隠し子なのである。


 
● 隠し子の存在がネック
 
さる4月23日、この日発売された写真週刊誌『フライデー』(5月7・14合併号)に、こんな記事がトップで掲載された。”石原慎太郎に「元愛人と隠し子」を問う” いわく石原には元ホステスの「愛人」とその女性に生ませた「隠し子」がおり、それを隠して都知事選に出馬したのは、”都民に対する裏切りではないのか?”というのがその主な内容だ。なるほど、新都知事に倫理観を問うという意味では、たしかにいいタイミングの記事だったといえるのかもしれない。

 ところがである。この問題は、本来ならいまごろになって記事になるはずではなかったのだ。もっと早い時期、そう都知事選の前には記事になっていたはずのものなのである。

 それがなぜいまごろになったのか。実をいうと、石原サイドでは出馬表明前、この『フライデー』の動きをツブすべく、水面下で必死になって工作を行っていたのだ。そして事実、一度この記事はツブれたのである。

「ええ、石原の愛人と隠し子の記事にストップがかかったのは事実。ウチは石原の出馬が噂されていたころから記者とカメラマンを動かしていたんですが、出馬直前になぜか別の企画に変更されてしまった」(講談社関係者)

 その「企画」というのが、3月26日号に掲載された次のような記事だった。
”「本命」石原慎太郎氏があの徳田虎雄と密会していた理由/深夜のホテルで出馬決意した〃瞬間〃をスクープ撮”。

 石原とその選挙スポンサーと噂された徳田虎雄が出馬表明前夜にホテルで密会、そのシーンを撮影し、直撃インタビューしたというこの記事が、愛人と隠し子の取材ストップと同時に掲載されたというのである。別の講談社関係者がこう明かす。

「つまり、石原と『フライデー』はバーターしたんですよ。

というのも、実はこの記事はヤラセなんです。『フライデー』の動きを察知した石原は、出馬前夜の自分と徳田の密会現場を『フライデー』に撮らせることを条件にバーターを画策し、この問題が表面化するのをなんとか押さえようとしたんです」

 もともと都知事選出馬に意欲的だった石原慎太郎にとって、出馬の最大のネックとなっていたのは、オウムとの噂や書きかけの小説などではなく、なによりもこの愛人と隠し子の問題だったという。事実、出馬を準備し始めてからの石原は、この問題に対して異常なくらいナーバスになっていたというのだ。

 一方、すでに3年前、この「愛人」を隠し撮りして記事にしていたのが『フライデー』だった。だから石原としては、出馬する以上、愛人と隠し子の存在を唯一詳細につかん

でいたこの雑誌の動きを、どうしても事前に押さえておく必要があったのである。

 そしてこのバーターの裏で暗躍したのが、幻冬舎社長の見城徹だったという。というのも、見城は今回の都知事選で石原陣営のマスコミ対策を仕切っていたとも噂されたように、石原とはべッタリの関係だし、『フライデー』編集長の加藤晴之ともツーカーの仲。

「見城はもともと石原の出馬には反対だったんですが、石原に頼まれてイヤとは言えなかったんでしょう。それに彼はこれまでもさまざまな記事ツブシに暗躍してきた経緯があるからね。実際、見城は石原の言う通り、愛人と隠し子の問題を記事にしないという約束で代わりのネタを『フライデー』に提供したんです。それが例の石原と徳田虎雄の密会現場写真だった」(前出・講談社関係者)

 この一件について当の見城に電話取材をしたところ、すごい剣幕で「そんなことはやってない」と怒鳴り、電話は一方的に切られてしまった。が、その見城、いや石原も、バーターしたはずの『フライデー』がまさか当選後にちゃっかり記事にするとは夢にも思わなかったのではないか。事実、石原サイドでは今回の記事にカンカンになっているという。

 実は石原が愛人と隠し子問題でこれほどうろたえたのは、今回だけではないのだ。

 新潟市内から車で1時間半ほど走ったあたりに広がる静かな穀倉地帯。この地域の小さな集落に、ごく普通の小さな民家がある。

 この家で暮らしているのは、老齢の夫婦とその娘、そして高校生になる孫。だがこの娘と孫ーーつまり石原の愛人と隠し子であるこの母子は、ここでずっと暮らしていたわけではない。ある時期から、ここへ逃げるように戻ってきたのである。石原の関係者が言う。

「その母親、仮にA子さんとしておくと、A子さんは銀座の高級クラブ元ホステスで、石原とは18年前に、当時彼女が勤めていたお店で出会い、愛人関係になったんだ。その後彼女は妊娠し石原の子供を生むんだが、しばらくは石原もA子さんと子供を都内の一等地に住まわせ、すべての面倒をみていたはず」

だが、A子さんが認知を求めたことで状況は一変する。石原の夫人に愛人と隠し子の存在がバレてしまい、怒った夫人と石原、A子さんの三者の間で、修羅場が繰り広げられるようになったというのだ。関係者が続ける。

「そうした中、最終的に石原は子供を認知するんだが、ただ、それは決して積極的なものではなかったと思う。というのも、石原は当時、陰では〃DNA鑑定すれば俺の子供じゃないと分かる〃と言っていたくらいで、どうも本気で自分の子供じゃないと思ってたフシがあった。それでも結局認知したのは、だんだん騒ぎが大きくなってA子さんと子供の存在が周囲に知られるようになったから。そんな時に認知裁判でも起こされば、マスコミの格好のネタになると思ったからだよ」

 実際、石原はこの認知騒動後に、A子さんと子供を当時住まわせていた白金から実家の新潟へ、幽閉するかのように引っ越しをさせるのである。さんざん愛人関係を楽しんでおきながら、子供ができれば自分の子供じゃないと主張し、騒ぎが大きくなれば渋々認知して人目につかない地方に閉じ込める……。

 そういう意味では、こんなエゴイスティックな人間もいないだろう。若くして芥川賞を受賞し、圧倒的な人気で国会議員に転身。そして、妻や亡き弟・裕次郎、さらに衆議院議員の長男・伸晃といった「理想の家」を家長として率いる自分。こういった選民意識まるだしの脆弱なプライドこそ、石原慎太郎という人間にとってもっとも重要なのである。

事実、選挙に絡み愛人と隠し子問題をマスコミに書かれることをなにより恐れていた石原は、それまでさんざん迷っておきながら、『フライデー』とのバーターが成立した日、つまり徳田との密会現場を撮らせた3月9日の翌日に晴れやかな顔で出馬表明するのだ。出馬会見や選挙期間中、さんざん辟易させられた自信満々・傲慢そのもののあの物言いも、しょせんお笑い草でしかないのである。

 
● 石原慎太郎という男の人間性
 
 ただ不可解なのは、なぜ石原慎太郎は今回そこまでして、必死に東京都知事になろうとしていたのか、である。

 前述したように、石原はあの徳田虎雄を利用して『フライデー』とバーターしたのである。彼が医療法人徳洲会理事長というスポンサーと噂された大物と引き換えても手に入れたかったものとは、ほかでもない都知事のイスなのだ。だいたいそれほど権力の座にこだわるのなら、なぜ4年前任期途中にかかわらず議員を辞めたのか。

 その理由については、石原自身も意味不明なセリフを繰り返しているが、いまから30年ほど前、あの”保守の帝王”江藤淳が指摘しているこの一文がもっとも分かりやすい。

”…ここから彼一流の自己劇化の衝動が生まれる。つまりかっこいい絶対者の地位に自
分を置いておかなければ安心できないという焦燥が生じるのである”(68年『婦人公論』)

 身もフタもなくいってしまえば、ようするにこの石原慎太郎という男は、特権意識とプライドだけが肥大化した異常な目立ちたがり屋なのである。どうやら、自分という人間は絶対者の地位にいなければいけない、とでも思っているフシさえある。だが、石原慎太郎が

”王様”でいられる場所など、もうどこにもなかったのだ。政治評論家がいう。

「4年前、石原さんが突然議員辞職した理由は簡単です。誰も彼のことを相手にしなくなったからです。石原は自社政権を作ったひとりだが、人望がないうえに経済オンチ、エラソーにするだけで、派閥を率いて子分にカネを配る力もない。

89年の総裁選の時、立候補に必要な20人の推薦人を集めるのにも苦労したように、当時の自民党内での石原さんの存在理由なんて、選挙の時の人寄せパンダぐらいのもので、仮に石原さんが笛を吹いても、誰も踊らないような状況だった。

彼にはそれがガマンならなかったんですよ。だから、せめて議員在職25年の演説という舞台をわざわざ選んでタンカを切り、辞職したんです。その意味では、非常に分かりやすい人ですよ」

 議員辞職後、復権しようと働きかけた文壇でも同様だろう。満を持して出した復帰第一作『肉体の天使』は文壇から完全に無視され、故・裕次郎を描いた『弟』という私小説でも批評家からは相手にされず、喜んだのは裕次郎ファンの一般読者だけ。いまや石原を必要としているメディアなんて、少部数のタカ派論壇誌ぐらいのものなのである。

「『文藝春秋』が98年3月号で発表した思い出に残る芥川賞作品で、石原の『太陽の季節』が読者アンケートの断トツ1位になっていたが、そこに掲載されていた石原の文章が哀しいよね。すでに自分が古い価値観になっていることも気づかずに、いかに当時自分が古い価値観と闘ったかをさも自慢気に書いているんだから」(文芸評論家)


 そういう意味では、石原慎太郎にとって自分が絶対者の地位でいられる場所は、もはや東京都知事しかなかったのである。

 それも東京都知事選といえば、これまで選挙という選挙で必ずぶっちぎりのトップ当選を果たしてきた石原にとって、唯一無二の敗北を経験した選挙だった。その特権意識を充足させるためにも、石原はなんとしても都知事選に出馬し、勝つ必要があったのだ。

 しかもである。石原は一見、周辺の人間に外堀を埋められたため仕方なく出馬したというポーズを装っているものの、実は密かに準備していたフシもある。というのも、石原は都知事選が話題に上りはじめた昨年12月、幻冬舎から『法華経を生きる』という単行本を出版しており、この本がどう読んでも、自分の”支持者たち”に媚びるために書いたとしか思えないような内容なのである。

「タイトルからも分かる通り、ひと言でいえば、五木寛之『大河の一滴』の二番煎じのような内容なんですが、違うのは五木は真宗大谷派に、そして石原は、日蓮宗系の在家団体、つまり霊友会や立正佼成会といった宗教団体に向けて書いていることでしょう。実際この本のなかでは、立正佼成会の開祖、庭野日敬の著作が頻繁に引用されていたり、霊友会のシャーマン・小谷喜美を褒め讃え、選選挙の時に霊友会から20万票回してもらった話などが随所に登場するんです」(前出・文芸評論家)

 事実、石原にとって霊友会や立正佼成会は、これまで最大のスポンサーであり最強の集票マシーンだった。そして実をいえば、それは今回の都知事選でも同様だったのである。別の石原の関係者が明かす。

「怪文書には徳田や松浦云々と書いてあったが、実際の選挙資金は、おそらく立正佼成会がかなりの部分を負担したはずです。もちろん票集めもね。霊友会は数年前の久保継成会長の女性スキャンダルで組織が分裂状態のため、今回はそれほどでもないが、元をたどれば立正佼成会も霊友会から派生した団体。つまり『法華経を生きる』は、都知事選に出たらお願いします、という石原から信者に向けたメッセージだったのかもしれないな」

 2年前、本誌は石原を「醜悪」と批判したが、こうなるとむしろ「哀れ」とも思える。

 いや一番哀れなのは、こんな人物を都知事に迎えてしまった東京都民、かもしれない。
http://www.asyura2.com/0601/ishihara10/msg/514.html


4. 中川隆[3664] koaQ7Jey 2016年8月20日 05:04:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4044]

「ドイツは無条件降伏していないことを日本人は知らないっていうけれど、そりゃ知らないですよ:内田樹氏」
2016/8/20 晴耕雨読
https://twitter.com/levinassien
http://sun.ap.teacup.com/souun/20586.html


しかし、世の中には平気で嘘をつく人がおりますね。


『月刊日本』の石原慎太郎・亀井静香対談を読んで、石原慎太郎の息を吐くようにつく嘘にある種の感動を覚えました。


ドイツは無条件降伏していないことを日本人は知らないっていうけれど、そりゃ知らないですよ。


無条件降伏してるんだから。


石原の論法は若い時からずっと同じです。


「・・・について論じるものはこれくらいのことを知っていて当然だ」と言って「誰も知りそうもないこと」を言い立てる。


そして、「知らない」と言うと「おまえにはこれを論ずる資格がない」と嘲弄する。


でも、そのときに石原が挙げる「これくらいのことは知っていて当然」という事項を石原が選んできた条件は「誰も知りそうもないこと」なんです。


ほとんど知られてない本からの引用とか、個人的に聴いた「ここだけの話」とか、あと嘘。


おかしいのは、そういう「はったり」に対して「そんな話聴いたことがないなあ」と正直にいう人がいないこと。


みんな頷いて、「それくらいのことはオレだって知っているよ」って言って石原と対等になろうとする。


そうやって術中に陥る。


あの人はそういう人間の弱さを熟知していますね。


「・・・について知らないものはこの論件について語る資格がない」というロジックを使う人間とは口をきくだけ時間の無駄です。


彼らは真実の開示には興味がないし、人間の知性の向上にも興味がない。


自分がその場で「でかい顔をする」ことにしか興味がない。


マウンティング命なんです。


だから、石原慎太郎が橋下徹のうちに「後継者」を見出したというのはまことに歴史的必然があったのだと改めて思います。


5. 中川隆[4192] koaQ7Jey 2016年9月26日 08:52:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4599]

石原慎太郎が「やまゆり園事件犯の気持ちがわかる」と暴言、天皇には「スキューバで人生観変わる」と仰天アドバイス
http://lite-ra.com/2016/09/post-2583.html
2016.09.25. 慎太郎「障害者殺戮犯の気持ち分かる」  リテラ


 豊洲新市場問題で、石原慎太郎にようやく、批判の声が上がり始めた。都知事在任中に問題の“地下コンクリート案”をゴリ押ししていたにもかかわらず、嘘と責任逃れ、開き直りを連発するその姿には、石原に弱いマスコミもさすがにかばうことができなくなったらしい。

 ただ、石原の都知事時代の暴挙は、こんなレベルの話ではない。新銀行東京というデタラメな金融機関を作って破綻をさせ、息子の美術事業に数億円の血税を投入し、舛添前知事の比ではない豪華な海外出張や会食三昧、それでいて都庁にはわずか週3回しか出勤しない。さらには、障がい者、性的マイノリティ、女性、中国・韓国への数々の差別発言……。

 こんな人物をまともに批判もせず、都知事の椅子に10年以上も居座らせていたことが異常なのだ。まさに石原をタブー扱いしてきたマスコミの責任といえるだろう。

 しかも、マスコミはこの男が都知事をやめた後も、何かにつけてメディアに登場させ、聞くに堪えない暴論をありがたがって拝聴している。

 実は最近も、石原は「文學界」10月号に登場。精神科医の斎藤環氏と対談し、信じられない発言を連発した。

 石原は、神奈川県相模原市の障がい者施設「やまゆり園」で起きた殺傷事件について、いきなりこんなことを語るのだ。

「この間の、障害者を十九人殺した相模原の事件。あれは僕、ある意味で分かるんですよ」

 やまゆり園の事件が起きた際、本サイトでは、石原が都知事時代に精神障がい者に対し「ああいう人ってのは人格があるのかね」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」と語っていた事実を指摘、相模原事件の植松容疑者やネトウヨたちの間に広がる“障がい者不要論”は石原がリードした側面がある、と指摘した。

 しかし、あれほどの残虐な事件が現実のものとなったうえでなお、知事の立場にあった人間が、公の場で悪びれもせず「ある意味でわかる」などと口にするとは……。しかも、石原はこの後、得意げにこう続けるのだ。

「昔、僕がドイツに行った時、友人がある中年の医者を紹介してくれた。彼の父親が、ヒトラーのもとで何十万という精神病患者や同性愛者を殺す指揮をとった。それを非常にその男は自負して、『父親はいいことをしたと思います。石原さん、これから向こう二百年の間、ドイツ民族に変質者は出ません』と言った」

 対談相手の斎藤も慌てて否定していたが、精神疾患や同性愛者から変質者が生まれるなどというのはなんの科学的根拠もないデタラメだ。こんなインチキ優生思想をうれしそうに語っているところを見ると、この男の本質はやはり、ヒトラーに影響を受けた“やまゆり園の犯人”と大差ないということなのだろう。

 実際、石原のこうした差別意識やナチス的思想はこの対談を読むだけでも、いたるところに顔をのぞかせる。

 たとえば、同世代の作家・大江健三郎との思い出話をしていたときには、唐突にこんなことを言い出していた。

「大江なんかも今困ってるだろうね。ああいう不幸な子どもさんを持ったことが深層のベースメントにあって、そのトラウマが全部小説に出てるね」

 大江健三郎の長男で作曲家の光氏は知的障がい者であることは有名だが、その光氏を「不幸な子どもさん」呼ばわり。だったら、お前の息子の“ウソツキ伸晃”はどうなのか、と突っ込みたくなるではないか。

 また、石原はいま、大阪池田小児童殺傷事件の犯人・宅間守をテーマに小説を執筆中らしいのだが、宅間については、逆にまったくわからないと言い出し、こう語るのだ。

「ああいう全く分からない人間っていうのは何なんですかね」
「ある有名な評論家が、幼少期のドメスティックバイオレンスの影響でああなったんだというけど、必ずしもそれだけじゃないですね。やっぱりDNAの問題でしょうかね」

 社会的背景や家族関係に対する考察は一切ないまま、「DNA」を連呼する。こんな優生思想丸出し発言をする人間がついこの間まで、都知事の椅子に座っていたのだ。

 いや、この発言は元都知事というだけでなく、作家としても大丈夫かと言いたくなる。石原は小説を書くにあたり、宅間守の担当弁護士や臨床心理士に長時間インタビューし、「人間の存在の深淵の深淵にあるものに取り組んで、小説家の手ではこれ以上届かないところまで書いたつもり」だと胸をはっていた。ところが、たどりついた結論は「やっぱりDNA」。その人間観はいくらなんでも浅すぎるだろう。

 浅すぎる人間観、といえば、もうひとつ、この対談で明かされていた天皇とのエピソードもすごい。

 なんでも、石原は都知事になったばかりの頃、夫婦で宮中に招かれ、天皇皇后夫妻と会ったらしい。その際に、天皇が葉山の御用邸の前の海で素潜りをしているという話題になったのだが、石原はそのとき、天皇とこんなやりとりをしたことを自慢げに語っているのだ。

「僕が「それだったら陛下、スキューバをお勧めします。簡単ですから。人生観変わりますよ」と言ったら、陛下が「はあ、人生観ですか」とおっしゃるから、「そういえば、天皇陛下の人生観はわれわれには分かりませんな」と言ったら、女房も皇后も笑ったの。そうしたら、陛下、気を悪くしちゃって黙っちゃってさ。」

 天皇相手に何を言っているのだろう、この男は。

 断っておくが、別に「天皇を敬え」とか「不敬だ」とか、天皇主義者のような主張をしたいわけではない。そもそも石原はかつて「皇室はなんの役にも立たなかった」「国歌は歌わない。歌うときは『君が代』を『わがひのもと』に変えて歌う」と発言するなど、皇室嫌いで知られているから、天皇にぞんざいな口をきくことじたいはいまさら驚かない。

 しかし、生まれたときから皇位継承者として生きていくことを宿命づけられ、即位後は国の象徴的役割を背負ってきた相手に、スキューバ程度で「人生観変わる」はあまりに浅すぎないか。しかも、相手が自分の意見に興味を示してくれないと見るや、「天皇陛下の人生観はわれわれには分かりませんな」と小馬鹿にするようなことをいって突き放す。天皇だって機嫌が悪くなるのは当然だろう。

 いや、問題は相手が天皇だからという以前の話だ。当時、石原自身もとっくに還暦を過ぎていたのだ。そんな歳で「スキューバで人生観変わる」などという大学生みたいなセリフを平気で口にできるということ自体、この男の知性のなさ、幼稚さを物語っているといえる。

 実際、マスコミがありがたがって持ち上げ、作家としても重鎮扱いしてきたてきた石原だが、たいした思想をもっているわけではない。それこそ大学生レベルの浅くて幼稚で偏見に満ちた価値観をそのまま振り回しているにすぎない。しかも、社会の現実がどういうものであろうと、専門家がどういう分析をしようと、この男はまったく聞く耳をもたず、ひたすらその価値観を他人に「押し付ける。

「精神病理学者・安永浩がクレッチマーに依拠しながら提唱した「中心気質者」にあたると思います。のびのびと発達した五〜八歳ぐらいの子どもの天真爛漫さのまま大人になり、肉体的な快・不快にとても敏感——といったところでしょうか。」

 斎藤環はこの対談の中で、石原から性格分析を依頼され、ヨイショ気味にこう答えていたが、これはある意味、石原の本質を言い当てているとも言えるだろう。

 大学在学中に2作目の小説「太陽の季節」でいきなり芥川賞を受賞して時代の寵児になり、弟も国民的人気俳優になって、作家タブー・メディアタブーに守られて、生涯一切の批判にさらされることなく、好き放題やりたい放題60年やってきた結果、こんな怪物みたいな人間ができあがってしまったのだ。

 しかも、そんな人間が作家をやっているだけならまだしも、政治家になって権力をもってしまった。

 そういう意味では、今、発覚した豊洲の問題は、起こるべくして起きた問題と言えるだろう。そして、改めて繰り返しておくが、こんな人物を「はっきりした物言いが気持ちいい」と支持して都知事に選んだ有権者、タブーに祭り上げて、一切の批判を封印したマスコミの責任でもある。

(酒井まど)


6. 中川隆[6941] koaQ7Jey 2017年3月04日 07:05:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7403]


2017年03月03日
契約書にサインをしたことがないという石原元都知事の非常識

 この石原都知事というのは、なんと愚かな人かと思ってしまいます。

 というよりも、そもそも単なる小説家でしょう?

 しかも、読んで恥ずかしくなるような小説。

 これ以上は、言いません。貴方の判断にお任せします。

 その石原氏が、本日、いろいろ弁解しています。

 そして、豊洲の土地を買収した契約書に自分はサインをしていないと言っていいます。

 アホか、と言いたい。

 1週間に1度か、2度か、或いは3度か…殆ど役所に出てきていなかったので、何も実務が分かっていないのでしょう。

 石原都知事は、確かに嘘は言っていない。

 契約書にサインをしていないというのは本当でしょう。

 しかし、契約書にサインをしていなくても、決裁文書にはサインないし押印をしたのではないでしょうか?

 決裁文書に押印すれば、後は自動的に、都知事の公印を事務方が押すことができるのは役所の常識です。

 そのようにしておかなければ、事務が滞ってしまうではありませんか?

 週に1、2度しか登頂しない都知事の場合にはなおさらなのです。

 但し、海外との関係で、サインが必要な場合には、本人にサインしてもらう必要があるのはそのとおり。

 それに決裁文書に押印等をしていないとしても、もし、都知事の権限を副知事や局長クラスに委任していれば、結局、都知事が判断したのと同じになるのです。

 それ、役所の常識です。

 長年都知事を務めていて、そんなことも知らないのか?

 或いは呆けてしまったのか?

 そもそも、石原氏の肝いりで銀行まで創設して、そして、大変な損失を被って、そのことについて石原氏が都民に詫びたことがあるのでしょうか?

 そんなことを思い出してしまいました。
http://blog.livedoor.jp/columnistseiji/archives/51709057.html


7. 中川隆[6942] koaQ7Jey 2017年3月04日 07:10:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7404]

2017年03月03日
石原元都知事の記者会見


森友学園が鴻池氏の会見に対して、反論文を掲載しています。詳述は省きますが「嫌悪感を感じます」は、教育者がつかうべき言葉ではありません。最近はこうした言い回しも認められるようですが、正しくは「嫌悪感を生じる」もしくは「嫌悪感がある」です。○○感という場合、それはもう『感じ』ですから、感じを感じる、というのは言葉としておかしいのです。一般の方ならとやかく言うことはありませんが、教育者なら後進のためにも言葉を正しく用いて、教え導かなければならず、この点でも落第といえるのでしょう。

言葉が正しくない人物がもう一人、石原元都知事です。

豊洲移転が規定路線だった、専門家が決めた、報告は受けていない、一任していた、記憶にない。

よくこれだけ無責任なことを「果し合いに行く覚悟」で「屈辱を晴らしに行く」と述べてまで記者会見への意欲を示し、開けたものです。

たった一つ分かったことは、こんな人物に長いこと都政を任せていたことが誤りだった、ということ。それは週に2、3回しか登庁せず、しかも2、3時間で帰ってしまうのですから、都政に熱意もなく、適当にやっておく、程度の認識だったのでしょう。

だからといって、都知事には責任があります。知らない、というなら、その知らないことが問題であり、聞いていない、は聞いていないことが問題です。決裁には石原氏のサインも必要で、サインするというのは責任を負う、ということ。だから何も知らず、聞かずにサインしてはいけないのです。これは都知事だから、ではなく一般でも、民間の契約でも同じことであり、都知事にはより重くその責任がかかっていることになります。

しかも瑕疵担保責任について、頓珍漢な回答を連発していましたが、時系列なども含めて事実誤認があるとしか思えない。剰え「豊洲は安全」と述べ、移転しないのは小池都知事のせい、とばかりの態度です。誰かのせい、と言いたい。それが決闘や屈辱を晴らす、のだとしたら、人間性まで疑われるレベルなのでしょう。ますます組織のトップとしてふさわしくない。トップは仮にすべてを部下に丸投げしていたとしても、それでトラブルが生じたり、失敗したりすれば、すべての責任を負うのでなければならないからです。

これでむしろ、百条委員会はやり易くなったのでしょう。この記者会見も、元々は百条委員会を回避しようと、記者会見や小池氏との直接対決を突破口としようとしたため、企図されたものです。しかし百条委員会が決まり、大したことが喋れない、となってこのような会見となった。ただしそれは、国民にも不信感を与え、糾弾する側への援護射撃にしかならないのです。結果、石原氏は戦略の甘さ、能力のなさ、まで露呈したと言えます。

百条委員会を通過しないと分かりませんが、このままでは東京地盤の自民党国会議員は、壊滅する恐れもでます。石原氏は恐らく、責めこまれたら自民都議を道連れにするために、今回は手控えたとみられ、逆に自民都議が追及の手をゆるめれば、ここまで石原『悪』で染まった風潮の中では、批判の矛先が向かい易い。しかもその自民都連を率いるのが石原伸晃氏ですから、尚のこと手を抜いた、とみられるのです。

そして自民都連も悪とみなされれば、国政選挙も厳しいことになる。息子が2人も小選挙区に出ており、その2人も落選危機を迎える。そうなると自民都連の動きも鈍くなり、安倍政権の人気も低迷する中、ぎりぎりで得票率を上回って議席を獲得していたものが、東京ではひっくり返ってしまうかもしれないのです。石原氏がここまで国民を敵に回すような、無責任発言をくり返したのはちょっと驚きですが、これでは石原家全体が疑惑まみれに見えてしまうことも、ある程度仕方ないのでしょう。石原都政に対する違和感を生じると同時に、嫌悪感すら抱くのなら、自民都連も無傷ではいられないのでしょうね。
http://blog.livedoor.jp/analyst_zaiya777/


8. 中川隆[6951] koaQ7Jey 2017年3月04日 16:10:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7413]

石原慎太郎都政「問題だらけの8年」を再検証する
「モノ言う知事」の品性と功罪(前編) 青木 理
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50915


ハチャメチャな都政私物化

ここにきて石原慎太郎・元東京都知事の周辺がにわかに騒がしくなってきた。問題が次々噴出する豊洲新市場の建設にゴーサインを出した責任者であることに加え、メディアの注目を一身にあつめる“小池劇場”効果によるものなのはあらためて記すまでもなく、大手週刊誌やテレビの情報番組なども石原都政の責任を問いはじめている(そのトーンは相変わらず生ぬるいが)。

率直に言って私は、何をいまさら……といった感慨を抱く。あるいは、ようやくか……という気分とも言える。

石原都政が問題だらけだったのは、当の石原氏が都知事在任中、ごく一部の新聞や雑誌が熱心に追及した。私も、その一人だった。半年ほどの集中取材を重ね、いまはなき『月刊現代』誌に連載ルポを発表したこともあった。その実態は、公私混同が徹底指弾された舛添要一・前都知事の所業が可愛く思えるほどハチャメチャな都政私物化だった。

なのに当時、大半の新聞、週刊誌、テレビは沈黙した。石原氏の威丈高で高圧的なメディア恫喝に怯えた面もあったろう。また、作家として大手出版社に大きな影響力を持っていたことは、普段は遠慮会釈ない筆鋒の週刊誌メディアを黙らせる遠因になった。

だが、もし当時、こうしたメディア群が石原都政をきちんと追及していれば、その都政が4期13年も継続することはなかったろう。畢竟、豊洲新市場問題がここまでこじれることはなかったかもしれない。少なくとも都が主導した新銀行プロジェクトなどで1000億円もの税金がドブに捨てられることはなく、石原氏の側近やファミリーが甘い汁をちゅうちゅうと吸い続けることもできなかった。沈黙したメディアの責任は重い。
 
とはいえ、いまからでも遅くはない。石原氏には、そのハチャメチャな都政私物化の責任をきっちりと取らせるべきだと私は思う。だから、『月刊現代』に私がかつて寄せた連載ルポを以下に再掲させていただく。

2007年4月号と5月号に掲載されたルポ<「モノ言う知事」の品性と功罪>は、石原都政が2期目から3期目に差しかかった時期の取材結果である。これをお読みいただければ、石原都政の問題点がどこにあり、それがいかに醜悪だったかが明白になる。豊洲新市場問題にまでは取材の手が回っていないが、その混乱の原因もぼんやりと浮かび上がってくるはずである。

(編集部注:文中敬称略、肩書は当時のものです)

時計の針を99年に戻す

大衆糾合に長けた憂国の政治家か、それとも都政を私物化する俗人なのか──。
 
4月8日投開票の東京都知事選を控え、都知事・石原慎太郎の周辺が騒がしい。税を喰いものにするがごとき豪華外遊や高額接待の実態が問題化し、芸術家だという四男と都政の不透明な関わりも発覚した。
 
批判を浴びている石原だが、2016年に東京オリンピックを招致するのが「私の責任」と訴えて3選出馬を早々に表明。選挙対策とも囁かれた先の東京マラソンについても、

「成功だった。素晴らしいお祭りを東京の伝統にしたい」
 
と自賛するなど意気軒昂に見える。民主党の対立候補擁立作業は混迷が続いており、このままいけば石原3選は確実な情勢だ。
 
だが、石原という政治家は、果たして日本の首都である東京都知事の座を引き続き委ねるのに相応しい人物なのか。
 
言うまでもなく石原は都知事である。とすれば、2期8年に及んだ石原都政の検証こそが石原慎太郎に3期目の都政を託すことの是非を浮かび上がらせる道のはずだ。石原は都知事として何をなし、何をなさなかったのか。石原が都知事となったことで何が起き、都庁は今、どうなっているのか。
 
本稿では、石原に目立つ差別的暴言の問題性やイデオロギー的な視点からの論評から敢えて離れ、石原都政の実相をリポートする。
 
まずは石原が推し進めて様々な波紋を巻き起こした主要施策のうち、銀行税、ディーゼル車規制(以上1期目)、新銀行と新大学の設立(以上2期目)などの功罪を検証するため、時計の針を1999年3月10日まで戻そう。
 
この日、石原は東京・内幸町の日本記者クラブで都知事選への出馬を正式表明している。

「石原裕次郎の兄でございます。都民や国民を代表して、一種の革命をやろうと思っています」
 
会見でそう切り出した石原は、中国を「支那(シナ)」と言い放って出席者の眉をひそめさせる一方、《東京が蘇るために──NOといえる東京》と題した政策資料を配布。都知事選に向けたスローガンは「東京から日本を変える」だった。
 
都知事選への出馬会見で「裕次郎の兄でございます」と言って恥じぬ石原の臆面のなさや厚顔ぶりをここでは問わない。毎度おなじみの差別的言辞が孕む醜悪さも同様だ。ただ、「東京から日本を変える」という勇ましきスローガンこそが都知事の座を目指した石原の心中を最大限に照射していたのは間違いない。
 
27年という長きにわたって永田町に生息した政治家・石原慎太郎だが、打算と深謀の渦巻く国政の場では結局のところ異端の座に終始し、ついに主流へと躍り出ることはできなかった。それは文芸評論家で盟友の故・江藤淳をして「政治家としても作家としても孜々として努めるというところの見えないアマチュア」と喝破させた石原の限界だったろう。

だが、そんな石原にとって「東京都知事」の座は自らが主役の暴れ舞台とするのに格好の玩具であり、都知事として「国」に波紋を巻き起こすことこそが出馬にあたっての最大の眼目だったはずだ。
 
それからちょうど1ヵ月後の都知事選で自民党推薦の元国連事務次長・明石康や民主党推薦の鳩山邦夫、あるいは国際政治学者の舛添要一といった並み居る対立候補を蹴散らして約166万票を獲得、当選を果たした石原は、都庁に乗り込むと「東京から日本を変える」とのスローガンに相応しい刺激的な狼煙を上げ始める。 




「銀行税」の衝撃

翌2000年の2月7日、都庁で開かれた知事会見。石原はいつものように目をしばたたきながら「この会見は私が就任してから一番大事な会見の一つになる」と語り、一部の都幹部や側近だけで極秘に検討を進めてきた大銀行への外形標準課税、いわゆる「銀行税」構想を発表した。
 
自ら「ヘッドスライディングのホームスチール」と評し、「皆さんが味方になってくれないと困る。セーフになるだろうが、(それは)世間次第だ」と語った通り、発表は賛否両論が渦巻く大きな波紋を引き起こした。
 
概略のみ記せば、銀行税とは都内に本支店を持つ資金量5兆円超の銀行を対象とし、5年間の時限措置で法人事業税に外形標準課税を導入する、というのが柱だ。しかし当時の自民党執行部や大蔵省は「課税の公平性」などの観点から相次いで疑念を示し、課税対象となる銀行はもちろん財界も激しく反発した。

しかし一方で、民主党などから「真剣に検討すべき」との声が漏れ、都議会では共産党までもが歓迎を表明。バブル崩壊の後遺症から大銀行への怨嗟が積もっていた世論は石原に喝采を送った。「東京から日本を変える」と訴えた石原にとっては、まさに都政1期目で最大となる「会心の打ち上げ花火」だったろう。
 
その背後の事情を都庁幹部が振り返る。

「銀行税は別に石原さん独自のアイデアというわけじゃない。大企業課税を狙った美濃部亮吉都政下でも外形標準課税は検討され、都庁では主税局を中心に長らくの悲願だった。石原さんが『国に一泡吹かせるような新政策を出せ』とハッパをかけたこともあり、主税局長だった大塚俊郎さん(現副知事)が構想を持ち込んだ。銀行憎しの世論も強かったころだから、石原さんも『行ける』と踏んで食いついたんだろう。そういう風向きを読むことにかけては天才的な人だから」
 
石原が銀行税に先立って打ち出し、国や財界を巻き込んでやはり大きな波紋を巻き起こしたディーゼル車規制問題でも、類似の構図が見て取れる。
 
排ガスのススを入れたペットボトルを振りかざし、

「これをみんな吸っているんだ」
「国がやらないから都がやる」
 
そう訴える石原──。その姿はメディアを通じて拡散し、初期の石原都政を代表するシンボルの一つとなった。これもやはり霞が関や自動車業界などが相次いで疑問の声を上げる中、東京が独自条例での規制に突き進んだことは世論の好感を集めた。前出の都庁幹部が続けて言う。

「(都の)環境局が知事への説明のためスス入りのペットボトルを持ってきたのを見て『これは受ける』とひらめいたようだ。特に1期目は都議会もオール野党状態だったから、銀行税やディーゼル車規制など広く世論受けする政策に食いついたんだろう。そもそも石原さんは自分で一から新しい発想をできるような人じゃない。石原都政下で動き出したように見える施策の多くは、もともと都が進めようとしていたものばかりだ」
 
しかし、銀行税にせよ、ディーゼル車規制にせよ、世論を味方につけた石原の突破力があってこそ実現した、との声は多い。また、都庁内外では、時に国とも対決するという前向きな自立意識を都庁に広げたことへの評価もある。そして確かに、2期8年に及んだ石原都政の初期に打ち出された「東京発の施策」が日本中に大きな波紋を広げたのは間違いない。
 
銀行税をめぐっては、条例の無効確認などを求めて提訴した銀行側に一審、二審とも敗北したとはいえ、全国の自治体で課税自主権論議を活発化させ、国が外形標準課税を導入する誘い水となった。ディーゼル車規制も、東京の取り組みが03年10月に埼玉や千葉、神奈川も含む首都圏にまで拡大しての走行規制実施につながった。

法定外目的税として、一泊1万円以上のホテル宿泊者に100〜200円を課税する「ホテル税」では、鳥取県知事の片山善博から「都民以外から税を取る『他人のふんどし』」と批判されるなど賛否はあったが、やはり1期目の01年12月に成立させた。
 
他の主な公約である米軍横田基地の軍民共用化やカジノ構想などではめざましい進展があったとは言い難いが、「東京から日本を変える」と掲げた石原のスローガンは、都政1期目の初期に関する限りは「成果」をもたらした面があったようにも見える。
 
だが、都知事・石原を間近で見てきた都庁幹部たちの評価は厳しい。


「公」のない人

「石原さんはいわば究極のポピュリスト。何が世論受けするかを嗅ぎ取って派手な打ち上げ花火を上げる感性は鋭いが、常に拙速と思いつき。体系的、持続的な思考ができない人なんだ」という都の部局長経験者は、石原の手腕をこう酷評する。

「ディーゼル車規制といっても石原さんが環境問題を真剣に考えているわけじゃない。環境問題に取り組むなら水質汚染や緑地対策などトータルな対策が必要なのに、石原さんはディーゼル車規制だけ。銀行税にせよディーゼル車規制にせよ、瞬間的な判断で世論の心をつかむのは得意だが、はっきり言えばそれだけなんだ。行政で最も重要な体系的、持続的な積み上げの姿勢がまったくない。一定のメドがついたとされる財政再建にしても、景気回復に助けられた部分が大きい」
 
前出の都庁幹部の見方も同様だ。

「江藤淳さんが石原さんを『孜々として努めるところが見えない』と評したのは名言だと思う。石原さんはいつも一時の思いつきで強引に突き進むが、後が続かない。もっと問題なのは、石原さんに、そもそも『公』という発想がない点だ。だから自己顕示欲を満たすような思いつきで動き、周囲に側近やイエスマンを侍らせ、組織がおかしくなっていく。石原都政の問題点は最初っから一貫していた」
 
こうした都庁幹部たちの石原評を踏まえて冷静に振り返ると、石原の号令に基づくアクティブな試みが肯定的効果を及ぼしたように見えたとしても、それは都政初期のわずかな期間に限られていることに気づく。また、そこにはすでに石原流トップダウンの病理も透けて見えており、実際にその後の石原都政を眺めれば、強引な独善と場当たり的な施策の悪弊が極大化し、都政の現場は混乱と怨嗟ばかりが渦巻いているのである。

都民に必要ない銀行

2003年4月の都知事選で、石原は300万票という圧倒的な得票で都知事再選を果たした。銀行税やディーゼル車規制などで国に波紋を巻き起こし、「モノ言う知事」のイメージを作り上げた石原の勝利だった、と言えるかもしれない。
 
そんな石原が2期目の公約として掲げたもののうち、具体性があって目を引くのは2つ。「中小企業の能力を引き出す新しい銀行の創設」と「これまでにない新しい大学の実現」である。
 
このうち「新しい銀行の創設」は05年4月、都が1000億円という巨費を出資する「新銀行東京」として結実した。「中小企業の能力を引き出す」と公約でもうたい上げられた通り、大手銀行の貸し渋りに悩む優良な中小企業に無担保融資を実施して成長を支援する、というのが最大の売り物だ。
 
だが、新銀行東京の発足にも関与した都庁関係者はこう打ち明ける。

「実は都庁内でも当初から『うまくいくはずがない』と囁かれていた。貸し渋り対策というけれど、制度融資など都には中小企業支援のための別の方策がある。なぜ新銀行でなければいけないのか理解できない。そう言って、考え直すよう進言する人もいたんだが、石原知事の命を受けて動く幹部は聞く耳を持たなかった」
 
実際、新銀行は2006年9月期決算で154億円もの赤字を記録、既に累積赤字は500億円近くに膨らんでおり、設立から2年も経たぬうちに投資した都税の半分近くが消えてしまった計算だ。赤字を改善できねば今後2年ほどで資本を食いつぶしてしまう可能性もあり、行員らも櫛の歯が欠けるように辞めていると言われる。

石原自身、05年12月の会見で「思ったようにはいっていないというのが率直な見解」と認め、昨年12月の会見では「立て直す知恵を出す」と力んでは見せている。しかし都庁関係者はいずれも「さらに赤字が膨らむのは必至」との見方で一致しており、ある都庁幹部は「石原都政で最悪の失政の一つになるかもしれない」と言い切る。

当初から無謀と分かっていた新銀行に漂う暗雲──。だがなぜ、これほど無茶な計画がまかり通ったのか。

都幹部らによれば、新銀行は銀行税と同様、大塚俊郎(当時は出納長)が主導し、石原の命によるトップダウンで実現に漕ぎ着けた。石原自身の地元で三男・宏高の選挙区でもある品川、大田区あたりは中小企業が多く、銀行税の経験から『銀行叩き』は受けるという計算もあったろう。だが、何といっても石原や側近が独善性を強め、都庁幹部も徐々にイエスマンばかりになってしまったことが大きいと、前出の都庁関係者は指摘する。

耳を疑う「通告」 

石原側近の独善性や都庁幹部のイエスマン化については後述するが、もう一つの大きな公約である「新しい大学の実現」にも石原流トップダウンの病理が垣間見える。新銀行とほぼ時期を同じくする05年4月、都立大学を統合する形で発足した「首都大学東京」。それは極度に専横性を強めた石原都政の実相を浮き彫りにする格好の材料だ。

石原が都知事に再選されて数ヵ月後の2003年8月1日。都庁内の一室には東京都立大総長だった茂木俊彦を筆頭に都立の科学技術大、保健科学大、都立短大の4大学トップが急遽集められていた。都と大学側はこの時までに都立大統合を含む大学改革について協議を行っており、01年11月には都が「東京都大学改革大綱」も発表している。

都の厳しい財政事情なども背後にあり、05年の改革実施を目指して両者の協議と調整は紆余曲折を経ながらもまとまりつつあった。だが、この日なぜ都庁に呼び出されたのか、茂木らは詳しく知らされてはいなかった。
 
複数の都立大関係者によると、この席で都の「大学管理本部」幹部は茂木らが耳を疑うような「通告」を突きつけている。まず、これまで積み上げてきた都と大学による大学改革協議を白紙に戻すこと。大学側と協議して改革を進める体制を廃棄すること。そして都立の4大学を廃止して「都市教養学部」など4学部からなる大学を「新設」すること──。

要は大学側との協議を一方的に破棄し、今後は完全なトップダウンで「改革」を行うから黙って従え、という信じ難き宣告だった。
 
石原はこの日、午後3時からの定例会見で「大都市における人間の理想像を追求する」などとする新大学構想を発表している。茂木らは「通告」を受けた会議室の椅子に座ったまま、庁内テレビが映し出す会見の模様を憤怒と呆然の面持ちで見つめるだけだった。

当然ながら都立大学は激しい反発に包まれた。石原が常々語っていたのは、先端技術企業が集中する米シリコンバレーで産学協同の中心として知られる「スタンフォードのような大学」。都庁関係者によれば、都と大学で積み上げてきた改革案に石原が不満を漏らしたことを受けて都側は突如として掌を返し、石原の意向に合わせるためしゃにむに軌道修正に乗り出したのが実相だったようだ。ここにも石原流の思いつきとトップダウンの悪弊が見て取れる。

リベラル嫌い 

当時の都立大最高幹部は「大学側も改革は必要だと思ったから協議を積み重ねて来た。しかし、都のやり方はあまりに強引で非合理。大学の自治や協議の手続きなど考慮すらされなかった」と語る。

都立大改革をめぐって都側が繰り出した強権行使ぶりを物語るエピソードは事欠かない。03年9月には都が勝手に決めた教員配置案などを提示するにあたって「同意し、口外しない」ことを誓約させる「同意書」の提出を教員に要求。これに反発して応じない教員が続出すると、翌04年2月には新大学への就任の踏み絵を迫る「意思確認書」を全教員宅に送りつけた。

さらに同3月初めには、都の大学管理本部が総長の茂木に対し、次のような「見解」を突きつけている。

《知事には全く新しい大学を17年度(05年度)に断固として開学する強い思いがある。改革である以上、現大学との対話、協議に基づく妥協はあり得ない。総長、学部長、教授クラスの教員にあっては、混乱を招いた社会的、道義的責任を自覚すべきだ》

協議で積み上げてきた議論を一方的に引っくり返しておいて、混乱の責任は大学側にあるという都側。都立大ばかりか、全国の大学関係者にも驚きと怒りをもって受け止められた歴史的な「恫喝文書」だった。

「都側はとにかく、大学を押さえ切れないことが知事周辺に知れわたるのを恐れていた」と当時の都立大最高幹部は言う。
 
都側の非合理でデタラメな態度を受け、都立大からは優秀な教員が次々と去っていった。03年末には法学部教授4人が辞職。間もなく経済学部の教授十数人も新大学への就任を拒否し、新大学では経済学コースが設置できない異常事態も起きた。

この教授らは文部科学省が世界最高水準の研究と認定して補助金を支給するプログラム(21世紀COEプログラム)に選定されていたチームのメンバーだったが、間もなくほとんどが都立大を離れた。


9. 中川隆[6952] koaQ7Jey 2017年3月04日 16:14:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7414]

石原慎太郎元都知事は、一体何を間違えたのか?
「モノ言う知事」の品性と功罪(後編) 青木 理
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50917


ついに「懐刀」と呼ばれた浜渦武生副知事が登場、石原氏の「無責任ぶり」はさらに加速する――。

(編集部注:文中敬称略、肩書は当時のものです)

「こんな大学、世界にないぞ」

石原都政が強行した大学改革は結局、「首都大学東京」の開校という形で現実化した。石原が任命した理事長は日本郵船元副社長の高橋宏。学長に就任したのは東北大学総長などを務めた西澤潤一。

高橋は石原が「一番の親友」と呼ぶ一橋大学時代の同期であり、西澤はノーベル賞候補にも名前が挙がる電子工学の第一人者だが、一方で「新しい教育基本法を求める会」の会長を務めて「愛国心の育成」や「道徳教育の強化」を声高に訴えてきた人物である。要は石原の友人やお気に入りの人物をトップに据えた「石原大学」が出現したのだ。
 
新大学発足の直前にあたる05年3月25日、都立大で開かれた卒業式で、最後の都立大総長となった茂木はこんな式辞を送っている。少し長くなるが一部を引用する。

「ここ数年間、都立大学は改革の嵐の中を進んできました。トップダウンはどんな場合でも誤りだというのではありません。しかし、ボトムアップを一切位置づけないトップダウンは、どこかで行き詰まります。

意見を述べること、討議すること、一致点を見出すこと、これらが無視されたり軽視されたりする経験が重なってくると、人々は『もう何を言っても無駄だ、決めるのは自分ではなく、他の誰かが決めるのだ。結果が悲惨でも自分には責任がない』、このような心境になる危険性があります。これは思考停止であり、歴史上の幾多の事件、もっと言えば戦争の前夜にも人々の耳にささやかれた、いわば『悪魔の声』です」

独善的な為政者による強権的な大学破壊への怒りと、それに抗しきれなかった無念さが滲んだ式辞だった。だが、こうした叫びは石原の心には何一つ響いていないようだ。直後の4月6日に開かれた首都大学東京の第1回入学式で、石原は新入生を前にこんな「祝辞」を口にしたという。

「こんな大学はないぞ、世界には。東京にしかない。たった一つしかない、それがこの大学なんだ」
 
前述した通り、少なくとも就任初期の銀行税やディーゼル車規制といった施策からは、石原都政の内包する「罪」が垣間見える一方で、「東京から日本を変える」と吠えたスローガンの「功」と評価できる部分も確かに存在した。だが、その後に強行された施策の数々からは、独りよがりで暴力的な権力を場当たり的に振りかざす石原都政の悪臭しか嗅ぎ取ることはできない。
 
ある都の職員は苦笑いしながら「石原さんが独善的なのは最初っから一貫している。独裁的トップダウン型の行政の良い面より悪い面が目立つようになっただけだ」と言うが、別の都庁幹部の分析はこうだ。

「当初は石原さんの突破力と都庁幹部の知恵がうまく融合した部分もあった。しかし、その後は石原さんの周辺を固める側近はもちろん、都庁幹部が次第にイエスマンばかりになってしまったことが大きく作用している。石原都政とは結局、側近による一種の宮廷政治のようなものになってしまった」
 
もちろんその最大の責任は石原にある。だが、その弊害を増幅させた象徴的存在として知られるのが浜渦武生だ。石原の最側近として都庁に乗り込み、副知事として暴政の先頭を担った男である。

「都知事の懐刀」と呼ばれた男 

1947年生まれの浜渦は、石原が衆院議員時代から秘書を務めた「側近中の側近」であり「懐刀」と評される。都議会の反発を受けて当初は特別秘書の座に甘んじていたが、2000年7月に議会の同意を取り付けて副知事に就任すると、週に2〜3日しか登庁しない石原の“名代”として都政の実権を掌握するに至った。そんな浜渦について都庁OBはこう言う。

「都庁職員を怒鳴り上げて罵倒、恫喝するのは日常茶飯事。石原知事にだけ忠誠を尽くし、気に喰わない人物は謀略まがいの手口も厭わず駆使して蹴落とそうとする。失礼だが、権力闘争と謀略が好きな永田町の秘書連中の中でも、相当に質の悪いタイプだ」

副知事就任直後の2000年9月、浜渦は酒に酔って目黒区内で通行人とつかみ合いのけんか騒ぎを起こし、その直後には取材にあたっていた写真週刊誌記者ともみ合いになる事件を起こしたことが発覚している。民主党都議団幹事長の田中良は石原と浜渦の関係をこう皮肉る。

「石原知事は本当のところ極めて臆病な人。だから浜渦のように絶対忠誠を尽くす『不良』が近くにいると安心する。石原知事にとって浜渦氏は精神的支柱なんだ」


お手紙方式

石原が「あうんの呼吸で、しゃべらなくても考えていることが分かる」と語るほど絶大な信頼を寄せる浜渦はしかし、石原の威光を笠に着て都庁の人事や情報を独占し、やりたい放題だった。
 
石原への報告の際は、常に浜渦氏が知事の横に座った。ある都庁幹部が浜渦氏の気に喰わぬ動きをした際は、幹部会議の場で公然と名指しし「火傷しますよ」などと恫喝したこともあったという。同様の証言は都議会からも聞こえてくる。

都庁内では誰もが知る「お手紙方式」と呼ばれて有名になった“手続き”がある。石原の名代として権勢を振るった浜渦は、自身の気に入った幹部としか直接会おうとしない。しかし、浜渦の了解を得なければ施策は前に進まない。仕方なく他の幹部たちは文書で報告するしかなく、浜渦から文書にマル印をつけてもらうのに汲々としていたのを揶揄した言葉だ。こんな状態で都庁の行政が萎縮し、荒廃しない訳がない。

多くの都庁幹部やOBは、石原や浜渦に是々非々でモノを言う幹部が左遷されたり自ら都庁を去ったりして徐々に消えていったことにより、石原都政の中枢はイエスマンばかりになってしまった、と口を揃える。

「当初は首都行政を担うに相応しい優秀な官僚群も数多く配置されていた。だが、石原さんや浜渦さんらにモノを言える優秀な幹部は徐々に姿を消していった。まさに死屍累々という感じだ。人間とは不思議なもので、そのうち都庁幹部の中からも『浜渦さんへのお手紙は手書きのほうがいいらしい』なんて真面目に言い出すヤツが出てくる。どうしようもないが、これが現実だった」(前出・都庁OB)
 
ある都幹部によれば、浜渦はある時、都庁幹部らを前にこういう趣旨の発言を口にしたことがあったという。

「自ら政策立案に意欲を持っているような官僚はもう古い。オレたちがやりたいと思っていることを先取りしてやってくれるのが優秀な官僚だ」
 
だとすれば、石原都政で独善的暴政ばかりが目立つようになったのも納得がいく。石原や側近がやりたいことを先取りする官僚こそ優秀だと評価され、必死に忠誠を尽くすイエスマンたちが跋扈するようになった都政──。石原や浜渦が命令しなくとも、下がそれを慮って暴政の片棒を担ぎ始めたとすれば、それは典型的な独裁の病理というほかはない。

家族のための知事 

だが、そんな浜渦の悪運も尽きたのか、2005年6月にはついに更迭へと追い込まれた。東京都の社会福祉総合学院の施設が民間の学校法人に転貸されていた問題で民主党都議にヤラセ質問を依頼。

都議会自民党の実力者らを追い落とすために同学院の運営に違法性があるかのように答弁したことが都議会百条委員会で追及され、刑事告発もちらつかされたことに、さすがの石原も更迭に応じざるを得なかったのである。都政の主導権をめぐる自民党実力者との権力闘争に敗れ、返り討ちにあってしまった形だった。
 
ある都議は、「謀略好きの浜渦らしい最後だが、最大の右腕を失った石原知事にとっては痛手だろう」と皮肉り、前出の都の部局長経験者もこう語る。

「石原知事は相変わらず週に2〜3日しか登庁しないから、“名代”の浜渦氏を失ったことで求心力は急低下している。今の副知事は能力が高いとは決して言えない都庁出身者で固められており、石原さんが言う『東京から日本を変える』ような施策どころか、良くも悪くも新銀行や首都大学創設のような暴政すらできないような状態だ」

整理すれば、つまりはこういうことだ。「東京から日本を変える」と意気込んで都庁に乗り込んできた当初こそ、石原の意気込みに都庁幹部も応える形で刺激的な施策を実行に移すことができたように見えたが、次第に周囲は浜渦に象徴される側近の暴政に付き従うイエスマンばかりとなり、石原都政は急激に独善化を強めた。そして今、最大の片腕を失ったことによって、ほとんどレームダック化してしまっている──。
 
石原は06年7月、五輪招致などに向けた「国との調整役」として浜渦を都参与の職に引き戻したが、もはやかつてのような権勢を振るう立場にはない。
 
となれば、これほどの惨状の中でなぜ石原は3選を目指すのか、という疑問が湧く。石原自身はオリンピック招致を理由に挙げているが、複数の都庁幹部と都議が口を揃えて指摘したのは「ファミリーと側近のためだろう」という呆れ果てた理由だった。

「最大の理由は家族のため。都政への不透明な関与が問題となった芸術家とされている四男もそうだが、衆院議員となった三男の宏高氏も知事の後ろ盾がなければ今の座を維持するのは苦しい。都の参与に舞い戻った浜渦氏や他の特別秘書の連中など知事にぶらさがっている側近もたくさんいて、今さら辞めるに辞められないんだろう」(前出・都庁幹部)

「いくら親バカとはいえ、息子たちの能力ぐらいは石原知事も分かっている。このまま3期目に入れば、石原都政は“ファミリーの生命維持装置”とでも言うべき状態になる」(前出・都議)

「3選は、出ないほうがいい」

『都政新報』という都政専門紙が昨年11月、石原の都政運営について300人以上の都職員を相手に実施したアンケートがある。それによると、石原都政への評価では「合格」「まあ合格」としたのが計52・2%で、前回99年末の調査より20ポイント近くも急落。3選出馬の是非を問う質問になると「出馬すべきではない」との回答が56・3%に上り、石原の都政運営や印象については「側近政治的な姿勢が目立つ」「独断専行」とするものが80%以上に達した。
 
特に部長級以上の幹部職員で「3選出馬すべきでない」としたのが62%、課長級でも66%に上っており、アンケートを実施した同紙編集担当取締役は「私たちも驚く結果だった」と語る。

「アンケートの実施時期は最近問題化している石原知事の都政私物化問題が大きな話題になる前で、アンケート回収率でみると本庁に勤務する職員の割合が高い。そうした調査でこのような結果が出たということは、都庁中枢の職員の間で知事の手法への失望感が相当広がっていると言える」(同)

「東京から日本を変える」と都庁に乗り込み、都政の現場を荒廃と憎悪の修羅場に叩き込んだ石原──。今も世論の支持率は高く、このまま民主党が有力な対抗馬を擁立できなければ3期目の都政を担う可能性は高い。しかしその独善的暴政への嫌気と求心力の陰りはお膝元の都庁職員の間で確実に広がっている。取材に応じてくれた数多くの都庁関係者のうち、「石原都政には『功』もたくさんあったんだ」と石原を擁護し続けた都庁幹部ですらこうつぶやいたのが印象的だった。

「石原さんの3選出馬に反対だ。今辞めれば石原都政には『功』があったという印象が残るが、このまま3期目に入れば『罪』の部分だけが噴出し、汚点を残すのは間違いない。それは石原さんにとっても不幸な事だ」 

(了)


10. 中川隆[6958] koaQ7Jey 2017年3月04日 20:29:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7420]

2017-03-04
昨日3日、99〜12年まで東京都知事を務めていた石原慎太郎氏が、築地市場の豊洲移転問題について会見を行なった。(・・)

 本人は「果し合いに行く気分」だ。「座して死を待つ気はない」と、かなり好戦的な感じで、会見への意気込みを示していたのだけど・・・。

 実際、会見で最も主張したことは、豊洲移転は既定路線として決まっていたもので、、契約交渉は部下に任せていた。最終的には、専門家、都議会も賛同してみんなで決定したもので、自分ひとりが決めたわけではないということ。判子も自分で押したか記憶にないし、瑕疵担保責任の件も全くわからずに契約書に押印したと強調した。(~_~;)

 そして、専門家が豊洲は安全だと言っているのに、小池知事が「安全と安心を混同し、専門家を信用せずに余計なお金を税金で使って」、豊洲移転を延期していることに大きな問題があると、逆に小池知事の責任について言及したのである。^^;

* * * * *

 小池知事が石原氏の会見をきいて「中身はよく分からなかった。新しいことをおっしゃるかと思っていたが残念だ」と言っていたのだが。
 mewも含め、「わざわざこんなことを言うために会見を開かなくてもいいのに」と思った人は少なかったのではないだろうか?(・・)

 また、石原氏は何人かの部下の実名を出したのだが、その中の一人(今、練馬区長になっている人)は、すぐに会見を開いて、話が事実と違うと反論を行なったという。(・o・)

 とりあえず、昨日の石原氏、小池氏の発言について、大体のことをまとめておくです。(++)

* * * * *

『石原慎太郎元東京都知事が3日に行った記者会見の要旨は次の通り。

【冒頭発言】(都議会の)百条委員会に呼ばれているが、とてもそれまで待てない心境だ。(豊洲市場への移転を決めた)責任は、最高責任者だった私にあることは認めるが、(現在の)混迷や迷走の責任は小池百合子知事にある。

 就任して早々、豊洲移転が既定路線であるような話を担当副知事から聞いた記憶がある。土地売買の交渉の細かな経緯は逐一、報告を受けていなかったので、詳細は分からない。譲渡価格は妥当だったと思う。建物の下に盛り土が行われなかった経緯については、何も記憶がない。

【質疑応答】
 −移転決定前に環境基準を超えるベンゼンが検出された。なぜ移転を踏みとどまらなかったのか。
 専門家ではないので、関係部局や専門家会議に一任するよりなかった。結論が上申された時に「土壌の問題は大丈夫か」と聞いたら、「今の技術があれば大丈夫です」ということだったので、「分かった」と裁可した。議会もいろいろな調査をしたはずだ。都庁全体が検討し、議会が了としたので裁可した。

 −ほぼ全て副知事らに任せていたのか。
 各部局や専門家会議で論議して決めたので、それに任せざるを得ない。こういう問題は知恵と力を出し合って決めるもので、その総意として上がってきたものを認可した。

 −東京ガスとの用地交渉は。
 浜渦武生元副知事らに一任した。(東京ガスの)瑕疵(かし)担保責任の放棄は、報告も相談も受けていない。

 −途中経過の報告はなかったのか。
 そんな小さなことにかまけていられないので、任せきりにした。(時事通信17年3月3日)

☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆

『「任せていた」「記憶にない」 石原氏、会見で連発〜豊洲への市場移転の経緯と石原氏の説明

 東京都はなぜ、土壌汚染が残る豊洲を、食品を扱う市場用地に選んだのか。当時知事だった石原慎太郎氏は折々でどんな判断をしてきたのか。石原氏は3日の会見で「専門家が決めた」「任せていた」「記憶にない」と連発し、事実解明は進まなかった。最高責任者の判断があいまいなまま、土壌汚染対策費は860億円にまで膨らんだ。

 「私、専門家ではありませんから」。2001年に東京ガスが豊洲の土壌汚染を公表した時になぜ移転方針を変えなかったのか――。会見の冒頭で問われた石原氏は、こう答え、都庁内や専門家の判断に「一任していた」と述べた。

 土壌汚染を認識した当初の石原氏の判断は大きな焦点だ。同じ質問が繰り返されたが、石原氏は「専門家が専門性を駆使して多角的に決めた。私が関与する余地も知見もありません」。自身の専門外だと何度も強調した。会場から「何のために知事がいるのか」と問われると、「知らないものは知らないし、任せるしかない」と突き放した。

 00〜01年、土地売却に後ろ向きだった東京ガスを「(土地価格や開発者負担の交渉は)水面下でやりましょう」と説得したのは、石原氏の側近の浜渦武生副知事(当時)だった。この水面下の交渉で汚染処理などの範囲が協議された可能性があるが、石原氏は「小さなことは(浜渦氏に)任せっきり。一任していた」。具体的な報告も相談も受けていないとした。

 08年、外部識者で作る専門家会議の指示を受けた都の調査で、環境基準の4万3千倍のベンゼンなどが豊洲市場予定地で検出された。都は、敷地全面での土壌入れ替えなど、土壌汚染対策法や都条例が求める措置を大幅に超える対応を決め、対策費は現時点で860億円に膨らんだ。東ガスは78億円を負担し、残りは都の負担だ。

 都は東ガスと11年に結んだ協定書で、「(東ガス側は)今後、土壌汚染にかかわる費用を負担しない」として東ガス側の瑕疵(かし)担保責任を放棄。このため膨らんだ処理費用は都が持つことになった。協定書には、石原氏の名前が印字され、知事の押印もあった。

 しかし、石原氏は「瑕疵担保の話は(昨年10月に小池百合子都知事名で)都から質問され初めて知った」と説明。協定時に説明を受けなかったのか聞かれると、「専門的すぎて交渉の当事者にゆだねるしかない」。協定書に押印した記憶はないという。

 石原氏が「瑕疵担保責任の報告を私にしていない」と名を挙げた元都知事本局長の前川燿男・東京都練馬区長は「瑕疵担保責任については、私が(05年に)都を退職した後。事実関係や時間の前後関係が混乱している。とばっちりだ」と話した。(別宮潤一、小林恵士)(朝日新聞17年3月2日)』

『売却を渋る東ガス側を説得した交渉経緯については、側近の浜渦武生副知事(当時)に一任しており、「報告を受けてない」。2011年に土地売買契約額を土壌汚染がない前提で560億円と算定したことについても「審議会が専門家も含めて決めたこと」とし、判断への関与を否定。契約書へのサイン自体を「覚えがない。私の判子が使われた」などと述べた。(同上)』

* * * * *

『豊洲問題をめぐる自身の責任を認めつつ、「都庁、議会にも責任がある」と強調。さらに「混迷、迷走の責任は今の都知事にある」と移転を延期した小池百合子知事を批判した。「豊洲市場は安全」と述べる学者の見解を取り上げ、「科学が風評に負けるのは国辱だ。豊洲に移転すべきだ」と語気を強めた。

 報道陣からは、部下に全て任せていたのかという趣旨の質問が集中。石原氏は「私は専門家でない。専門家のいる委員会や担当部局に任せざるを得ない」「浜渦君(当時の浜渦武生副知事)に任せていた」と繰り返すばかり。
 しびれを切らした記者が「なぜきょうまでに事情を知っている浜渦元副知事から聞かなかったのか」と問いただしても「時間がなかった」。記者席から失笑が漏れた。(時事通信17年3月3日)』

☆  ★  ☆  ★  ☆  ★  ☆

 石原慎太郎氏は会見の中で、石原氏の超側近で、細かい実務はお任せにして来た浜渦副知事の名を何度もあげていたほかこの件に契約段階で強く関わっていた人として、02年〜05年当時に都知事本局長を務めていた前川燿男氏(現練馬区長)の名を何度か出したのだが。<都庁辞めたあと東京ガスにはいった(実質天下り?)っていうのは、チョットね。>
 
 前川氏は自分の名が出たことに驚いたようで、夕方、すぐに反論の会見を行なった。(~_~;)

『練馬区長「私は関係ない」 東京ガスとの用地売買交渉…石原慎太郎氏にキーマンと名指しされて

 豊洲市場用地について、石原慎太郎氏から東京ガスとの交渉をめぐるキーマンと名指しされた元都知事本局長の前川燿男練馬区長は3日、同区役所で記者会見し、「とばっちりで、いい加減にしてほしい。私は関係ない」と憤りをあらわにした。

 都は平成13年、東京ガスと用地買収で基本合意しているが、前川氏は当時、都福祉局長だった。その後、14年7月〜17年7月まで知事本局長を務め、石原氏の側近として都政を支えた。前川氏は同月、都を退職し、9月に東ガスに再就職している。

 前川氏は、石原氏について「相当、時系列や事実関係が混乱している」と指摘。用地買収の基本合意時は担当部局の所属ではなく、交渉に関わっていないと強調した。さらに、都が東ガスに土壌汚染対策の追加負担を求めないとした23年の協定書についても「(締結は)私が辞めた6年後。知りません」と述べた。(産経新聞17年3月3日』 
 
* * * * *

 また、小池知事は、次のようの感想を述べた。(・・)

『東京都の豊洲市場をめぐる問題について石原慎太郎元知事が記者会見をしたことを受け、小池百合子知事は3日、都庁で報道陣に対して「都民のみなさまからすれば石原さんらしくないなあという印象だけが残ったのではないか。色々と新しいことおっしゃるのかと思っていましたが、せっかくの記者会見だったのに残念だ。明確におっしゃったほうが石原さんらしかったんじゃないか」と語った。

 豊洲移転を延期したことについて石原氏が「混迷の責任は現都知事の小池さんにあると思う」などと指摘したことについては、「人の責任とおっしゃるのは簡単だ。仲卸(業者)の方々も今のままでは豊洲にうつれないと明確におっしゃっている。こういう状況をつくってこられたことについて、もう少し客観的にご自分を見つめて頂きたい」と応じた。

 石原氏が豊洲への早期移転を主張したことについては「そうおっしゃるなら、もう10年20年前に移転すべきだったんじゃないか」と反論。「きちんと都政を責任ある姿でやっていくなら、あまり人に任せることはよくなかったんじゃないか」とも語った。(朝日新聞17年3月3日)』

* * * * *

 石原氏の会見を見て、特に市場関係者の中には「無責任だ」と怒っている人が多い様子。(`´)(*1)

 石原氏は20日に百条委員会に呼ばれているのだが。その前には浜渦氏を含め都側の関係者、東京ガスの担当者などから話をきくようなので、それを参考し、もっと詰めた質問ができるのではないかと思うし。
 今後、石原知事時代のようないい加減な政策が行なわれようにするためにも(国政でもしかり)、ここはしっかりとTOPであった石原知事(当時)の責任追及をして欲しいと願っているmewなのだった。(@@)

  THANKS  


<豊洲問題会見>「無責任すぎる」市場関係者、怒りと困惑
毎日新聞 3/3(金) 20:14配信

 東京都・築地市場(中央区)の豊洲市場(江東区)への移転決定時に都知事だった石原慎太郎氏(84)の3日の記者会見。石原氏の発言に、築地市場(東京都中央区)で働く市場関係者の間では「無責任すぎる」「過去の話で何とも言いようがない」などと、怒りと困惑が交錯した。

 水産仲卸会社社員、野末誠さん(79)は「判子を押したのもわからないなんて、それなら都知事なんていらない。無責任すぎる」と批判。土地売買の際、さらなる土壌汚染対策費を東京ガスは負担しないという協定を結んで市場用地を購入したことについて「なぜそこまでして汚染された土地を取得したかったのかよくわからない。きちんと説明すべきだ」と不満を示した。

 一方、業界団体でつくる「築地市場協会」の伊藤裕康会長は「豊洲市場については開示されていない話が多い。6000億近い建設費も、中身について事前説明はなかった」とこれまでの都の姿勢に苦言を呈した。20日には都議会百条委員会が石原氏を証人喚問するが、伊藤会長は「過去の話で我々の判断の何の決め手にもならない。小池百合子知事には一刻も早く移転の可否判断をしてほしい」と訴えた。【川畑さおり】
http://mewrun7.exblog.jp/25508727/
 




11. 中川隆[6983] koaQ7Jey 2017年3月05日 20:57:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7446]

豊洲移転問題どう語る? 石原慎太郎元知事が記者会見 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=5q0zek9S8JA


12. 2022年2月04日 04:43:40 : JKSPu7iMHo : eDYxc1lad1o1NEk=[25] 報告
<「石原節」という差別発言>天下の暴言男 石原慎太郎 一方的礼賛報道の危うさ(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/401.html


※2022年2月3日 日刊ゲンダイ1面 
※2022年2月3日 日刊ゲンダイ2面

※文字起こし

 作家で元衆院議員、元東京都知事の石原慎太郎氏が1日に89歳で死去し、追悼報道が続いている。自民党の安倍元首相は「戦後、形作られた既成概念に挑戦した政治家だった」と故人を称え、茂木幹事長も「威風堂々、歯に衣着せぬ、そして国家観を語る素晴らしい政治家だった」と偲んだ。石原氏と親交のあった台湾の陳水扁元総統は「大きな損失」と産経新聞にメッセージを寄せていた。

 大新聞テレビも惜しみなく賛辞を送る。国民的スターだった石原裕次郎の兄であり、数々のベストセラーを世に送り出した作家でもある。華やかな経歴に彩られた石原氏を「偉大な存在」「カリスマだった」と情緒的に持ち上げることは、ある種のカタルシスを喚起するのだろう。

 一作家の人生を回顧するならそれでもいいが、石原氏は長きにわたって政治家でもあった。暴君のごとく振る舞った石原氏の露悪的な言動に傷つけられた人は少なくない。彼の生前の功罪を冷静に分析、紹介するならいざ知らず、一方的な礼賛報道はむしろ、毀誉褒貶に満ちた石原氏の人生を無にすることに等しいのではないか。

 著書に「東京を弄んだ男『空疎な小皇帝』石原慎太郎」などがあるジャーナリストの斎藤貴男氏が言う。

「まずは謹んでご冥福をお祈りします。ただ、亡くなったからといって、すべてが免責されるわけではない。死者を悪く言わないのは日本人の美徳でしょうが、そういう道徳を破ったのもまた石原氏でした。公権力者が、女性や障害者、LGBT、在日、被差別部落出身者など社会的弱者に対する差別を公の場で剥き出しにしたのは彼が初めてです。差別は正義だという思想を振りまき、日本に植え付けたのが石原氏だった。“東京から日本を変える”と訴えて都知事になった石原氏は、弱者をいたぶって当然という意識を東京から日本に定着させたのです」

 死者を悼む気持ち、あるいは礼節と、故人の所業を検証することは別問題だ。

社会的弱者に対する暴言の数々

 都知事としての石原氏は、国に対抗してディーゼル車規制や羽田空港国際化などの実績を残した一方、その発言はたびたび物議を醸した。

 都知事に就任した1999年に重度心身障害者施設を視察した際は、「ああいう人ってのは人格あるのかね。意志持ってないからね」と発言。2000年には陸上自衛隊第1師団の記念行事に出席して、「東京では不法入国した多くの三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返している。大きな災害では騒擾事件すら想定される」と煽った。

「ババア発言」もあった。大学教授の発言を引用する形で「文明がもたらした最も悪しき有害なものはババア」「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」などと発言したのだ。それを自分の妻や家族に向かって言えるのだろうか。石原氏の言葉には常に「自分は特別」という驕りと、軽さがあるのだ。

 都知事3期目の10年には、同性愛者について「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう」と発言している。ことさらマッチョイズムやミソジニーを押し出すのは、何らかのコンプレックスの裏返しなのか、障子を突き破る20代から変わらなかった。

 11年に東日本大震災が発生すると、「この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。積年たまった日本人の心の垢をね。これはやっぱり天罰だと思う」と言って猛批判を浴びた。

 こうした暴言、差別発言の数々が「石原節」の一言で許されてきたことが、この国の宿痾と言える。

弱肉強食の新自由主義や優生思想と通底、しかも卑劣

「石原都知事の功罪でいえば、罪科の方が圧倒的に大きかった。鳴り物入りの新銀行東京は失敗し、築地市場の移転も経緯が不透明なままです。熱心だった東京五輪の招致も莫大な赤字を生み出した。何より罪深いのは、尖閣問題を都が買うと言い出したことです。日中関係は決定的にこじれ、戦争の危険性が高まった。彼は中国と戦争をしたかったのでしょうが、あまりに短絡的な発想です。豪華海外出張や、都の文化事業で自身の四男に多額の税金を流すなど、都政の私物化もひどかった。それでも石原氏をもてはやし続けたのは、大メディアの堕落としか言いようがありません。さらに、亡くなって礼賛報道一色というのは、全体主義の同調圧力に通じる恐ろしさを感じます」(政治評論家・本澤二郎氏)

 石原氏の死去を受け、法政大教授の山口二郎氏はツイッターにこう投稿した。

<石原慎太郎の訃報を聞いて、改めて、彼が女性や外国人など多くの人々を侮辱し、傷つけたことを腹立たしく思う。日本で公然とヘイトスピーチをまき散らしてよいと差別主義者たちを安心させたところに、彼の大罪がある>

 社民党副党首の大椿裕子氏も、石原氏死去のニュースを引いて、<今後、追悼番組が放送されるだろうが、称賛で終わるのではなく、彼が撒き散らしたレイシズム、性差別、障害者差別等についても、なかったことにしないでもらいたい>とツイートしていた。

 すると「死者への冒涜だ」「人としてどうなのか」などと批判コメントが殺到。ならば、石原氏の差別発言は人としてどうなのか。弱者を差別し、冒涜してきた石原氏は喝采を浴び、権力者によるヘイトやレイシズムに警鐘を鳴らす側が非難される社会は健全なのか?

人気者におもねる大メディアの欺瞞

「思慮が浅く他人を傷つける発言をしてしまう子どもの純真さは残酷だとよく言われますが、石原氏はいい大人になってもそうだった。誰もが無意識に抱いている、けれど常識ある大人は決して口にしないような心の闇を刺激することを政治家の立場で、公の場で堂々と言う。それで留飲を下げる人がいる。ところが、それらの差別発言が批判されると、『ボクは作家だから』と逃げるのです。それはルール違反ですよ。私は、『卑劣と無責任に服を着せると石原氏になる』と言い続けてきました。彼のように、自分は安全圏にいて口先だけで勇ましいことを言うのが愛国者というような、おかしな風潮がすっかり浸透してしまった。それが安倍長期政権や日本維新の会の躍進にもつながっています。そういう偽物の愛国者に支持が集まることは、本当の権力者にとって都合がいいのかもしれませんが、それをもてはやしてきた大メディアはどうしようもない。石原氏の訃報を報じるニュースに接していると、日本社会は危ういを通り越して、完全に底が抜けてしまったと感じます」(斎藤貴男氏=前出)

 大メディアがこぞって称賛する「石原的なるもの」。それは差別と同義で、弱肉強食の新自由主義や優生思想と切っても切れないものなのだが、彼の死によって美化され、「待望論」に火が付きそうなことは実に危うい。

 そういえば、石原氏は14年の衆院選で落選して政界引退を表明した時の会見で、維新の共同代表だった橋下徹氏を「彼は天才」とホメちぎっていた。「あんなに演説のうまい人を見たことがない。例えはよくないが、演説のうまさ、迫力は若い時のヒトラー」と言っていた。

 維新は、立憲民主党の菅直人最高顧問が橋下氏について「ヒトラーを思い起こす」などとツイッターに投稿したことについて抗議しているが、石原氏の発言は問題ないわけだ。発言者が誰かによってヘイトかどうかを判断する日本の悪習は、まさに石原氏から始まったといっていい。人気者におもねる大メディアのダブルスタンダード、欺瞞でもある。

 石原氏は政界引退会見で「死ぬまで言いたいことを言い、やりたいことをやって人から憎まれて死にたい」とも言っていた。勇ましい発言をする人ほど小心者という現実も多々あるし、憎まれたいなんて本心ではないだろうが、皮肉屋の石原氏のことだ。今の礼賛一辺倒の報道には、泉下で苦笑しているのではないか。

 だからこそハッキリさせておきたい。石原氏の差別発言は決して許されるものではない。そして、それを引き継ぐ日本社会であってはならない。日本国民に影響を与えたレイシストの死によって、文字通り「ひとつの時代が終わる」ことを願うばかりだ。

13. 2022年2月04日 04:44:41 : JKSPu7iMHo : eDYxc1lad1o1NEk=[26] 報告
石原慎太郎死去で差別丸出し発言を朝日までが“石原節”と称える異常! 一方、差別批判にはネトウヨが「死者への冒涜」と的外れ攻撃(リテラ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/399.html


 2月1日に死去した石原慎太郎・元東京都知事をめぐり、またぞろ「不謹慎」「死者への冒涜だ!」といった声が噴出している。

 たとえば、政治学者の山口二郎・法政大学教授が訃報を受けて〈改めて、彼が女性や外国人など多くの人々を侮辱し、傷つけたことを腹立たしく思う。日本で公然とヘイトスピーチをまき散らしてよいと差別主義者たちを安心させたところに、彼の大罪がある〉とツイートすると、共感する意見が集まった一方で、〈亡くなったばかりの人に言うことではない〉〈人間の屑〉〈死者を侮辱〉〈日本人の感覚とは、かけ離れている〉などという非難も殺到。挙げ句、自民党の長島昭久衆院議員にいたっては〈こういうのこそヘイトスピーチと言うのではないか〉とまで言い出した。

 辟易するほかないが、ヘイトスピーチとは人種、民族、国籍、性などの属性を有するマイノリティの集団もしくは個人に対してその属性を理由とする差別的表現のことであり、山口氏のツイートはヘイトスピーチでもなんでもない。山口氏が指摘するように、生前、ヘイトスピーチをはじめとする数々の差別発言を連呼しつづけてきたのが石原氏だ。そんな当たり前の指摘をしただけで「死者への冒涜だ!」と騒ぎ立てるほうがどうかしているだろう。

 しかし、このような筋違いの非難が起こるのもある意味当然かもしれない。というのも、肝心の大手メディアの報道自体、石原氏が繰り返してきた差別発言をほとんど取り上げず、ワイドショーだけではなく大手新聞やニュース番組までもが「石原節」などと報じているからだ。

 実際、1日夜の『報道ステーション』(テレビ朝日)では、「歯に衣着せぬ石原節が人々の心を掴んだ」などと表現。新聞も同様で、2日の朝刊では朝日新聞が「石原都政、直言も放言も」、毎日が「「石原節」物議醸す」、東京新聞までもが「硬軟巧み 慎太郎流」などと伝えた。

 いや、それどころか、朝日新聞デジタルにいたっては、1日夕方に「「外国人が凶悪な犯罪」「参拝して何が悪いの」数々の石原節」として記事を配信。「外国人が凶悪な犯罪」という石原氏の発言はヘイトスピーチそのものだが、それを「石原節」などと表現したのである。

 この朝日の記事は批判が集まったためか、その後、「数々の石原節」という部分が「主な発言」と修正されたが、このように大手メディアの報道では、石原氏の差別発言が「差別」としてほとんど検証・批判されていないのだ。

 本サイトでは繰り返し指摘してきたが、政治家や学者、芸術家らが鬼籍に入っても、過去の言動や表現、作品をきちんと検証・批判するのは当然の行為だ。とりわけ石原氏は「芥川賞作家で昭和の大スター・石原裕次郎の兄」として脚光を浴びてきただけでなく、その抜群の知名度を活かして政治の世界に進出し大臣を歴任したほか、13年ものあいだ東京都知事を務めた公人中の公人である。

 そして、政治家による差別発言は差別を許容・肯定していいものだという社会の認識を生み出すものであり、その意味でも石原氏の生前の発言は悪質極まりなく、亡くなったからといって免罪されるものではない。むしろ、訃報に際してその功罪はしっかり検証されなければならないものだ。にもかかわらず、よりにもよって差別発言を「歯に衣着せぬ石原節」「放言」と矮小化するとは……。

■水俣病患者の抗議に「IQが低い」、「テレビにも同性愛者の連中が平気で出てる」と性的マイノリティ攻撃

 当然、そのような差別礼賛報道を看過するわけにはいかない。石原氏の発言が「石原節」「放言」などとは到底言いようもない、いかに卑劣なものだったか、以下に代表的なものを挙げていこう。

 たとえば、石原氏が剥き出しにしてきたのが障害者に対する差別であり、その差別発言によって“障害者排斥論”をさんざん煽ってきた。実際、環境庁長官だった1977年には、水俣病問題で「ニセ患者もいる」などと言い放った上、熊本に現地視察した際、水俣病患者が手渡した抗議文に対して「これを書いたのはIQが低い人たちでしょう」と発言。さらに都知事時代の1999年には重度障害者の治療にあたる府中療育センターを視察後に「ああいう人ってのは人格あるのかね」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」とも発言した。さらに、政界引退後の2016年に起こった相模原障害者殺傷事件についても、「文學界」(文藝春秋)での対談内で「あれは僕、ある意味で分かるんですよ」とよりにもよってジェノサイドに理解を示し、2020年に元厚労省医系技官ら2名の医師がALS患者の女性に薬物を投与し殺害した事件が起こると、Twitterに〈業病のALS〉〈武士道の切腹の際の苦しみを救うための介錯の美徳も知らぬ検察の愚かしさに腹が立つ〉と投稿している。

 女性に対する差別を酷かった。田中真紀子氏への「更年期じゃないの」発言や小池百合子氏への「大年増の厚化粧」発言など枚挙に暇がないが、とくに大きな問題となったのが、都知事時代の2001年、「週刊女性」(主婦と生活社)の「石原慎太郎都知事吠える!」という記事内においての発言だ。石原氏は当時東京大学教授だった松井孝典氏からの伝聞だとした上で、「“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ”なんだそうだ。“女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です”って。男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね(笑い)」と述べたのだ。

 この発言の謝罪・撤回を首都圏の女性113人が求めた裁判では、請求は棄却されたものの、一審の東京地裁、二審の東京高裁ともに「教授の話を紹介する形だが、知事個人の意見を表明した」と認定、「女性の存在価値を生殖能力面のみに着目して評価する見解は個人の尊重などを定めた憲法と相いれない」と指摘したが、石原氏に反省はなく、2005年には「私が司法の対象になるのは分からない。裁判のための裁判であの人たちのパフォーマンス」「変な左翼」「シャケだって(中略)産卵したら死ぬわけでしょ」と差別を上塗り。そして、女性差別を繰り返してきた石原都政下では、男女平等担当部局が部から室へ格下げされ、平等を求めて女性が裁判を起こした場合に経済的な支援をおこなう訴訟支援・制度の打ち切り、東京女性財団や男女平等推進基金が廃止されるなど、男女平等実現のための施策が後退に追い込まれたのである(しんぶん赤旗2005年6月29日付)。

 また、石原氏が女性同様に標的にしたのが性的マイノリティだ。2000年には東京都が策定中だった「人権施策推進のための指針」の骨子から、原案にあった「同性愛者」を施策の対象から削除。これについて石原氏は会見で「特殊な性状を持っている人は見た目ではわからないから、どういう形で人権が棄損されるケースがあるのか想像が及ばない」「私は純粋なヘテロだから」と発言。2010年には、性描写規制を進めようとする都青少年健全育成条例改正案に関連して「男のペア、女のペアがあるけど、どこか足りない感じがする。それは遺伝とかのせいでしょう。マイノリティで気の毒ですよ」「テレビにも同性愛者の連中が平気で出てる。日本は野放図になり過ぎている」などと発言。これにはマツコ・デラックスが、東京都が株主である東京メトロポリタンテレビ(TOKYO MX)の『5時に夢中!』において「言ってみれば狂ってるよ、この発言は」「すべて信憑性なくなるよね。あの発言は狂ってますよ」と批判した。

■「三国人」発言に代表される排外主義、東日本大震災では「これはやっぱり天罰」

 さらに、石原氏が煽ってきたのが排外主義、外国人差別だ。そもそも石原氏といえば、1983年衆院選の選挙期間中、立候補していた故・新井将敬氏のポスターに石原氏の公設秘書が「(新井氏は)66年に北朝鮮から帰化」と書いたシールを貼り付けるという事件が起こったこともあるが(石原氏は「秘書がやった」と主張)、石原氏の外国人差別発言として忘れてはならないのが、2000年の陸上自衛隊の観閲式でおこなった「三国人」発言だろう。

 このとき石原氏は、「不法入国した多くの三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」「すごく大きな災害が起きた時には大きな騒擾事件すら想定される」「三国人が騒擾事件を起こせば治安出動していただく」と発言。「三国人」という差別用語を持ち出しただけではなく、関東大震災時に起こった朝鮮人虐殺を正当化するかのような物言いで外国人に対する偏見を煽ったのだ。

 しかも、この卑劣な石原氏の発言には賛同の声があがり、実際、「日本会議」と自民党・民主党所属の議員らが都庁内で石原発言を支持する集会を開催。こうした支持の声を背景に、その後も石原氏は「(中国人の犯罪は)民族的DNAを表示するような犯罪」(産経新聞の連載にて)などと直球のヘイトスピーチを繰り返した。

 このほかにも東日本大震災の発生からわずか3日後に「津波をうまく利用して、我欲を洗い落とす必要がある」「これはやっぱり天罰だと思う」などと発言するなど、石原氏の暴言、差別発言は挙げだすとキリがないが、このように、石原氏は障害者や女性、性的マイノリティ、外国人といった人びとの人権を侵害して侮辱し、貶め、攻撃を煽ることで危険にさらしてきたのだ。

 いや、差別発言だけではない。石原氏が尖閣諸島の購入計画をぶち上げたことがその後の国有化をもたらし日中関係をさらに悪化させたが、それ以外にも南京大虐殺や旧日本軍「従軍慰安婦」の強制連行を否定するなど歴史修正主義を全開にしたほか、「核兵器を保有すべき」だの「徴兵制で若者を鍛え直す」だのと軍事力増強を主張したり「支那(中国)と戦争して勝つ」といった好戦的発言を連発。また、イラク人質事件が起こった際には自己責任を振りかざし、リーマンショックの影響で「年越し派遣村」に数多くの生活困窮者が集まった際にも求職者の姿勢や生活保護を「甘え」と切って捨てた。

 障害者差別や優生思想、外国人差別による排外主義の煽動、ジェノサイドの肯定、女性や性的マイノリティへの攻撃、歴史修正主義、自己責任の強調や生活保護バッシング──。石原氏の暴言・差別発言、ヘイトスピーチを挙げればはっきりとするように、石原氏は差別主義者以外の何物でもない。

 しかも、石原氏の問題は、彼一人のものではない。その存在は、安倍晋三・元首相をはじめとするネトウヨ・極右のベースとなり、橋下徹氏や維新的ポピュリズム、優生思想の跋扈を生み、社会的弱者への攻撃、民族差別、障害者差別が堂々とまかり通る土壌をつくり出した。

 だからこそ、石原慎太郎という政治家の言動については徹底した検証と批判がなされなければいけないのである。

 何度でも言う。石原慎太郎への批判は「死者への冒涜」などではない。この国でこれ以上の「人権侵害」「差別」の広がりを食い止めるために、絶対に必要なことなのである。

14. 2022年2月04日 04:48:23 : JKSPu7iMHo : eDYxc1lad1o1NEk=[27] 報告

2022-02-02
貧困なる精神(121) 本多勝一 「石原慎太郎の人生」=「ウソつき」 と 「卑劣な小心者」 とをこねて団子にしたような男。  週刊金曜日2000年
https://wellwellbeing1.hatenablog.com/entry/2022/02/02/132215





貧困なる精神(121) 本多勝一
石原慎太郎の人生

「ウソつき」 と 「卑劣な小心者」 とをこねて団子にしたような男。

これは本誌去年3月26日号の拙文 (風速計) からの引用ですが、東京都知事選に再び立候補して二四年ぶりに目的を果たした石原慎太郎 (敬称略、以下同) の基本的性格は、こう表現するのが適切でしょう。しかしこの人物に直接接したり具体的問題にかかわったことのない人々が、このへたくそな小説家のハッタリ人生にだまされて、そんな事実を知らないのも無理はないかもしれません。
この人が最初に世間に売り出したのは、小説家としてでした。株式会社文藝春秋が、自社の 「ショー」 としていくつもつくっている文学賞の類のひとつに 「芥川賞」 があり、石原は学生時代の1956年にそれを得たのです。
これが芥川ショーとしての、他の年の普通の同賞以上に騒がれたのは、学生時代の若さということ以上に、彼の小説の突出した下品さにありました。 『太陽の季節』 と題するその小説は、勃起した はせで障子紙を破る奇矯な描写がとりわけ評判となったのです。そんなことを書く小説家は 「純文学」 畑にはそれまで (たぶん) いなかったでしょうが、そういう描写それ自体が下品だというのではありません。描写の方法なり文体なりが 「文学」 になっていないから下品なのです。
こんなものになぜ文学賞が出されたのでしょうか。それは、かつて故・深沢七郎も言っていたように、これが一出版社の商売としてのショーだからです。話題性があること、巷間(こうかん)で騒がれることなどで売れればいいのです。かといって無茶苦茶低レベルのものばかりに毎年ショーを出していたら、その賞本体に権威がなくなりますから、真に文学の名に値する作品も時にはあるでしょう。しかし基本的には、文春が下選びした作品について、文春が選んだ 「選者」 たちが審査するのですから、文春の商売的意向が反映さぜるをえません。このあたりのことについては、かつてやはり文春のショーたる 「大宅賞」 の性格を論じたとき、この賞を逸した鎌田慧に対する選評をもとに詳述したことがあります (本多勝一著作集第19巻 『日本語の作文技術』 = 朝日新聞社 = 収録の 「茶番劇としての"大宅壮一賞"」 ) 。
以来、彼の書く小説は、ヘミングウエイの亜流の亜流というべきか、自分ではヘミングウエイていどの冒険さえ全くできないくせに作品だけはそれをまねようとして、一言で言えば 「三流以下」 の駄作を重ねてゆきます。もちろん私は小説界にくわしいわけではありませんが、彼の小説が 「文学」 としてはほとんど相手にされなかったことは、いわゆる文壇でも常識でしょう。ごく最近の例として金井美恵子の一文から引用しておきます。
「・・・・・・小説家としては三流以下だった都知事のお金に関する政策、外形標準課税は典型的なファシズムのやり口でしょうし、・・・・・・」 ( 『一冊の本』 2000年6月号の 「 『お金』 については語らない」 から)
そんな 「三流以下小説家」 では未来が暗いことくらい当人でもわかりますから、タレント性が選挙に有利な分野たる政界に転進することになります。そしてその前後から、若いころにはかなり"進歩的"だったこの男がえらく反動的になっていって、ついには靖国神社復活をめざす 「青嵐会 (せいらんかい) 」 に加わるまでに到りました。日本の核武装も積極的に主張しはじめます。
以後の石原の軌跡については、あらためてここでたどる必要はありますまいが、その 「ウソつき」 ぶりと 「卑劣な小心者」 という基本的性格を知らない若い有権者も多いことでしょうから、私が直接知っているか体験した事実を、この機会に三件だけ紹介しておきましょう。



1.ベトナム戦争での卑劣さ
想えばもう三十余年も前 (1967年) のことになります。ルポ 『戦場の村』 (朝日新聞社連載、のちに朝日文庫) を書くため南ベトナム (当時) に滞在中、石原慎太郎がベトナムへやってきました。私がサイゴンにいるときだったので、何かの会合で他の記者たちと共に会ったことがあり、その帰りの夜道でニューギニアについて彼と話した記憶があります。
そのあと彼はサイゴンを離れて何ヶ所かの前線を取材に行ったようですが、肝臓だかを悪くしてひどい下痢で活動できなくなり、まもなく帰国したという噂をききました。もともと真の冒険家ではありえない人だから、修羅場には弱かったのでしょう。
それからほぼ一年のち、南ベトナムから私が帰国してまもなく、報道写真家の石川文洋が 『ベトナム最前線』 というルポルタージュを読売新聞社から刊行しました。これに序文を寄せた石原の文章を読んで、次の部分に私は少なからず驚かされることになります。



ベトナム戦線Dゾーンのチャンバンの砲兵陣地で、訪れた我々日本記者団に向かって、試みに大砲の引き金を引いて見ないかと副官にすすめられたことがある。 (中略) 番が私に廻って来そうになった時、同行していた石川カメラマンがおだやかな微笑だったが、顔色だけは変えて、 「石原さん、引いてはいけません。引くべきでない。あなたに、この向こうにいるかも知れない人間たちを殺す理由は何もない筈です」
といった。
躊躇(ちゅうちょ)している私に、陽気な副官は鉄兜をさし出し、”Kill fifteen V.C.!”
と叫んだが、幸か不幸か突然射撃中止の命令が入り、その時間の砲撃は止んでしまった。
私は今でもその時の石川君の、私を覗(のぞ)くように見つめていた黒いつぶらな瞳(ひとみ)を忘れない。童顔の、あどけないほどのこの若いカメラマンの顔に、私はその時、なんともいえず悲しい影を見たのだ。
彼がもし強く咎(とが)めていたら、私は天邪鬼(あまのじゃく)にその後まで待って引き金を引いていたかも知れない。


この文章からみると、石原は解放戦線または解放区の住民に対して、副官にすすめられるままに、大砲の引き金を引く寸前だったことになります。たまたま 「幸か 不幸か 突然射撃中止の命令が」 出たために、彼はそれを果たせなかった。もし中止命令が出なければ、第一には 「すすめられるままに」、そして第二の可能性としては 「彼 (石川文洋) がもし強く咎めていたら、私 (石原慎太郎) は天邪鬼にその後 (砲撃再開) まで待って引き金を引いていたかも知れない」 のです。
こういう小説家の神経と体質について、私がここで解説を加えるまでもありますまい。私はこのあと解放区の取材に長く潜入していましたから、時間と場所がすこしずれれば、ことによると石原の撃った砲弾が私のいた村にとんできたかもしれませんね。 (注1) 。
ここに見られるように、石原はベトナムへ行ってもせいぜい陣地までしか行けはしない。石川文洋の苛烈な体験はもちろん、私がやったていどの歩兵との最前線従軍さえできず、安全地帯にいて、卑劣にもそんな中から大砲だけは撃ってみるような、子どもの戦争ごっこくらいしかできないのです。しかも石川文洋が言うとおり、石原慎太郎にとって殺す理由など何もないベトナム人を砲撃しようとする鈍感さ。この卑劣で鈍感な男が政治をやろうというのであります。



2. ヨット世界一周への嫉妬
次は今から二六年前 (1973〜74年) のことです。真の冒険児たる かの堀江謙一が、ヨットによる単独の無寄港地球一周に275日と13時間10分の新記録で成功しました。
しかしながらこの成功は、その前年 (1972年) に失敗して二度目の挑戦による快挙です。前年には出港してまもなく、マストに欠陥があって折れたために、出直しをすべく計画を一年延期したということですが、この"失敗"にさいして、週刊誌をはじめとするマスコミ (情報商売 = ジャーナリズムではない) は堀江を徹底的に中傷・非難しました。女性週刊誌の一部にはプライバシー問題まで暴いたりして、あんまりひどいので当時の堀江との対談 (注2) で 「こんもの書いて (または書かせて) メシ食ってるヤツ、人間のクズだな。カスだ。これこそ告訴ものだ」 と発言したら、当のクズ・カスから私の職場に電話があって、ひとこと 「抗議する」 と言っただけで一方的に電話を切りました。抗議されるべきはクズ・カスの方ではありませんか。
余談ですが、この種の私事暴露や虚偽を掲載するゴロツキ雑誌やそれを書いている連中は、その卑しさ・汚さの点でいかなる破廉恥犯罪人よりも本質的に下等な人種に属すると思います。三年ほど前のことになりますが、講談社のある月刊誌が、私に対して一度たりとも取材をせずに、ジャーナリストの名誉の根幹にかかわるひどい加害報道を実行したので、その月刊誌編集長と筆者について 「よく卑しい職業の例にあげられる売春婦よりも本質的に下等な、人類最低の、真の意味で卑しい職業の連中である」 と論評しました。すると当の筆者などから、売春婦に対する差別発言であるかのような"反論"がありましたが、これは誤読・曲読の類というものでしょう。売春婦の中にも大いに尊敬すべき人物がいることは知っているからこそ、俗世間でよく卑しい職業の例にあげられることに違和感を抱いており、そんな例を挙げるとすれば、売春婦などよりも前述のような 「人間のクズ・カス」 こそ本質的に、真の意味で、本当の 「卑しい職業」 なのだと言っているのです。
それはさて措(お)くとして、堀江謙一のような真の冒険家は、日本ではよく攻撃されます。日本型社会の枠の中での冒険なら、たとえば植村直己の場合のように愛されたり称賛されたりもするのですが、その枠からとび出すほどの、日本的価値観では理解を絶する最先端の冒険には、逆に非難・攻撃を加えるのです。堀江が二三歳のとき成しとげた初の太平洋単独横断にさいして、日本のマスコミが加えた非難・批判の激しさとばかばかしさは、日本人の本質的な底流にかかわる問題として私に論文 「冒険と日本人」 (注3) を書かせました。二度目にマスコミから袋だたきにされたのが、前述の世界一周"失敗"のときです。
さらに、三度目の袋だたきはもっとひどいものでした。無寄港単独世界一周に新記録で成功した翌年 (1975) 、太平洋横断ヨットレースに堀江も加わったときです。堀江のヨットはこのときメイン = ブームの故障などで遅れたものの三位に入賞したのですが、問題は無線機が故障して四〇日余り連絡不能に陥ったこと。これでまたマスコミに騒がれて、自殺説だの遭難説だの、さらに私事暴露や、ひいては前年の世界一周が嘘だという暴言さえ出る始末でした。このとき私は 「またまた袋だたきの堀江謙一を激励する」 と題する堀江との対談 (注4) を発表しましたが、この、世界一周捏造説を断定的にとなえた人物こそ、石原慎太郎だったのです。


このあたりのことについて、かつて書いた中から一部を引用しましょう。



石原氏は好んで冒険的な題材を扱い、みずからもヨットをあやつり、エベレスト (チョモランマ) やベトナムにも行った。世間には 「男性的カッコよさ」 がイメージづけられた。しかし彼の 「行動」 を見ていると、かつて一度たりとも真の冒険に値することをやったことがない。本当に生命の危険があるようなところへは決して近づいていない。ヘミングウエイに彼は憧れていたようだが、実際に冒険にとびこんだヘミングウエイとは似ても似つかぬ"行動"だった。ヘミングウエイの亜流ならまだしも、幼稚な 「ヘミングウエイごっこ」 でしかなかった。
「男性的カッコよさ」 が虚像だったとすれば、女性的というべきなのだろうか。しかしそれでは女性に対して失礼になろう。ヨットなら小林則子氏、山なら今井通子氏、ベトナムならミシェル = レイ氏など、彼など及びもつかぬ冒険家が、女性の中にもたくさんいる。むしろ 「小心な男」 というべきなのであろう。その裏返しとして、自分のなれない冒険家に 「なりたがっている」 のである。だから本当の冒険家を嫉妬したり、時にはとんでもない 「冒険ごっこ」 もする。
かの堀江謙一氏がヨットによる単独無寄港地球一周に新記録で成功したとき、石原氏はこれをウソだと公言した。どこかにかくれていて、さも一周したかのように出てきて発表したというのである。さすがの堀江氏もこれには激怒していたが、これほどひどい名誉毀損(きそん)も珍しいだろう。小心な男の嫉妬として、これはまことに興味ある生態であった。エベレストのときも、三浦雄一郎氏ら本当の冒険家たちに山麓まで仲間入りさせてもらっただけであった。 (中略)
「朝日ジャーナル」 の1977年4月29日号は、編集部の取材記事として、 「その周辺で囁かれる人物評」 が 「女みたいですねえ」 だと書いている。最近の環境庁記者クラブとの深刻な対立の過程をみても、これは全く当然の人物評であることがわかるが、やはり 「女みたい」 では女性に失礼なことだ。もし女性が環境庁長官になれば、石原長官よりはるかに立派な腕前をみせてくれるであろう。この小心な男は、私たちの世代の恥を延々とさらしつづけてくれている。 (本多勝一 『愛国者と売国者』 収録の 「小心な男としての石原慎太郎」 から)


しかも石原は、堀江の世界一周にさいして、その航海日誌を朝日新聞社のヘリコプターが帰港直前に吊りあげて入手したことを 「検疫法違反」 と非難しています。ところがこれも 「無寄港」 の世界一周ですから、日本を出て日本に帰っただけ、どこにも寄らないのでは検疫法など無関係でした。アムンセンが人類初の南極点到達のあとオーストラリアのタスマニア島まで帰ったとき、無人の南極からでは税関に用事がなく、無菌の南極からでは検疫の医者も用事がなかったというアムンセンの手記を思い出します。
アムンセンや堀江謙一といった真に 「人類初の」 冒険をやる人物の行動には、なみの国際法や検疫法の類など問題外の場合が珍しくありません。石原と同じく反動側の"文学"畑から、江藤淳も堀江を非難していました。 (前述の 「冒険と日本人」 で詳述) 。
ヨットをめぐる石原慎太郎を一言で要約すれば、小心者の卑劣な嫉妬心。これだけです。



3.南京大逆殺をめぐる虚言
三つ目の例は、私自身が直接かかわることです。
石原慎太郎はテレビ発言その他さまざまな場で 「南京大虐殺はウソだ、なかった」 と述べてきましたが、これは 『月刊プレイボーイ』 誌 (日本版) 1990年11月号の場合です。
石原は南京大虐殺について自分では一度たりとも取材したことがない (取材する能力もない) ままに、日本を世界の孤児にする売国的"右翼"の虚言を受け売りしているだけですが、自民党代議士 (当時) という公人としての発言は、小林よしのり型の主体性なきマンガ家等の放言とは違いますし、これは私のジャーナリストとしての仕事を否定するものでもありますから、石原に対して次のような質問状を送付しました。



自民党代議士としての石原氏に対し、その選挙区の者ではありませんが、国政への有権者かつ納税者の一人として次の二点をただします。一ヵ月以内にお返事を下さるようお願いします。
一、 『月刊プレイボーイ』 誌の1990年11月号で 「プレイボーイ = インタビュー」 に答えてあなたは次のように発言されました -----
「日本軍が南京で虐殺をおこなったと言われていますが、これは事実ではない。中国側の作り話です。これによって日本のイメージはひどく汚されましたが、これは嘘です」
右は何を根拠としての発言ですか。
二、 同じところで 「どこで日本人は虐殺をしました?」 と発言されていますが、これは 「虐殺はどこにもなかった」 という意味ですか。あるいは 「どこどこの虐殺は認める」 という場所があればそれを挙げてください。
1990年11月23日 本多勝一


これがどうなったかは、石原側からの回答を含めて、拙著 『愛国者と売国者』 (朝日新聞社)の第四部 「南京大虐殺と 『愛国心』 」 に収録されています。こうしたやりとりの結論は、 『朝日新聞』 19991年11月9日付夕刊コラム 「深海流」 に、次のような私の署名記事として書いたとおりです。



石原慎太郎氏の 「うそ」
国会議員の石原慎太郎氏が南京大虐殺を 「中国側の作り話」 「うそ」 と発言 (米誌 『プレイボーイ』 誌昨年10月号 = 日本版は11月号) して問題化したとき、私は 『朝日ジャーナル』 (昨年12月7日号) で、これが何を根拠にしての発言なのか公開で質問した。
回答によると、 『プレイボーイ』 のインタビューは 「通訳を通して」 行われたので 「食い違いがあった」 とのことである。そのほか 「個々の質問」 については 『文藝春秋』 今年2月号の石原氏の 「論文」 (日本を陥れた情報空間の怪) をもって回答にかえるという。
そこで当の 「論文」 を読んだところ、これは違法行為としてのひどい改ざんや捏造、スリかえをもとにして個人攻撃をしたうえ、南京大逆殺についての朝日新聞の報道を 「売春と同じように一度始めたら容易には止められない」 といった差別表現をしてまで中傷する異様な"論文"であった。
このような"論文"に対して同じ 『文藝春秋』 誌上で反論する前に、まず事実関係をはっきりさせておくべく、次の二点について再度質問状を送った。
(1)通訳を通しての 「食い違い」 はどの部分か。
(2)インタビューが活字化されるにさいして原稿かゲラで自分の発言をチェックしたか。
だが、二月に出したこの再質問には回答がない。以後十月までに三回にわたって催促したが、まだない。
もはや回答は出たとみるべきであろう。 「作り話」 「うそ」 を語ったのは、中国側ではなくて、まさに石原慎太郎議員自身たったことになる。石原氏は何の根拠もなく、 『プレイボーイ』 誌で南京虐殺を否定したのであった。
「国際化」 とは、外国語会話をやることなどではなく、まず侵略の非は非と認めて再出発することこそその第一歩なのだ。せめてドイツが戦後やってきたような程度まで。


南京大虐殺を中国側の 「作り話」 「うそ」 と全否定した石原は、これはマズイと思ったらしく、この"論文"の中では卑劣にも黙ってひそかに部分否定に変更しています。つまり 「うそつき」 は石原の側だったわけです。

以上のような基本的性格が彼の仕事全体に反映するのは当然ですが、なぜか 『週刊朝日』 (去年3月26日号) は、石原慎太郎の 「滑り込み都知事選出馬」 を 「単独インタビュー」 して言いたい放題にさせました。選挙なら誰だって 「単独」 で応じるに決まっています。これは他候補たちが票を食いあっていることを見越した上での 「漁夫の利立候補」 にすぎません。こんな 策戦に利用されて 「単独インタビュー」 で応援する雑誌やテレビの見識の無さ。
今から二四年前になる1975年の都知事選に石原が出たとき、私は月刊誌 『潮』 (1975年4月号) で次のように書きました。
「石原慎太郎東京都知事。 −−劇画や漫画なら 「ドヒャーッ」 とか 「ケケケケ」 とか、そんなオノマトペで笑えばすむことだが、現実にそうなるかもしれないとなると、考えこまざるをえない。 (中略) こんな男の 「支配」 する東京都にいることなど、恥ずかしくてとても耐えられない。もともと私などは住所不定で日本にいないことが多く、日本にいても東京にいないことが多いが、住民税の納め場所は東京になっている。少なくともこれだけは拒否すべく、彼の任期中は現住所を故郷の実家へ移してしまおう。いったいどうして、彼の支配体制のために財源を助けることができようか」

ここで冒頭の一文にもどります。
「ウソつき」 と 「卑劣な小心者」 とをこねて団子にしたような男。
東京都知事に漁夫の利当選した石原慎太郎の基本的性格は、やはりこう要約するのが適切でしょう。 「三国人」 発言その他は、すでに書いたように (本誌5月26日号 「風速計」 ) 、ブタがブーブー鳴いているだけのこと、問題はそんなものを支持する国辱的日本人が少なくないことです。



<注1> このことについては、かつて月刊誌 『潮』 (1975年4月号) に書いたことがあり、拙著 『愛国者と売国者』 第一部 「愛国者と売国者」 に 「石原慎太郎という小説家の体質」 と題して収録されている。
<注2> 拙著 『冒険と日本人』 (朝日文庫) 収録の 「再びマスコミから袋だたきの堀江謙一を擁護する」 で、藤木高嶺氏司会による対談。これは本多勝一集第12巻 『アメリカ合州国』 にも収録された。
<注3> この論文も右の著書 (朝日文庫) で冒頭に収録されている。
<注4> この対談も右の朝日文庫および著作集第12巻に収録されている。

http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/399.html
15. 中川隆[-13918] koaQ7Jey 2022年2月04日 13:33:03 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[16] 報告
負の石原慎太郎<本澤二郎の「日本の風景」(4343)
http://jlj0011.livedoor.blog/archives/31981908.html
2022年02月03日 jlj0011のblog


<オウム麻原彰晃・毒ガス兵器サリン無差別殺人との関係はいかに?>

陰暦1月1日の虎年に入ったところで、反共台湾派で知られた石原慎太郎が亡くなった。遺族がすい臓がんであったと公表した。辛い闘病生活だったろう。彼の身内のような存在だった安倍晋太郎も、すい臓がんで逝った。両家の息子たちに限ったことではないが、お互いがんに要注意か。

 日本では、人の死をいたわる文化がある。悪党も仏様扱いされる。昨日の新聞テレビは、その合唱であふれた。そんな中、反中派嫌いの福田康夫が田園調布の豪邸を見舞った。コロナそっちのけで知事の小池百合子も。死者の様子を観察したかった?

 デスマスク嫌いの筆者でも、両親のほか妻と次男、そのほか5人の国会議員らと、最期の悲しい別れをしている。心底落ち込んでしまう。長生きして、悪政撲滅に少しでも貢献したいものだ。石原・安倍両家に詳しい清和会OBは「これで少しは世の中がよくなればいいのだが」と正直な胸の内を明かした。

 昨年の時点でオウムの深層にため息が出たものだから、咄嗟に「麻原彰晃のオウムサリン事件の真相を墓場に持ち込んだか」とため息が出た。毒ガスを用いた無差別テロ事件のオウムとの関係は、安倍晋三にも当てはまるとの分析も浮上してきた。

 「日本の公安が手を出したくても出せなかった背景をぶち明けて、この世からオサラバして欲しかった」と思うのは一人だけか。

<突然の議員辞職は、息子と麻原彰晃の深い仲を暴かれた監督責任?>

 石原慎太郎が、突然、予告もなしに国会議員の地位を捨てた。驚くと同時に安堵した記憶がある。日本国憲法をぼろくそに批判する政治屋を、善良な日本人は許容できない。そのためで、悪政の一部が消えると感じたものだ。

 だが、真相が自民党内から伝えられてきた。「麻原彰晃の背後の曼陀羅絵は、慎太郎の4男の作品。オウムは選挙戦において、石原内閣待望論を振りまいていた理由などから、両者の関係は深い。4男逮捕を止める取引として父親が議員辞職した」ものだった。公安当局と清和会の手打ちだったのか。

 石原は教団キラーで知られる。カネと票を握る宗教団体と提携すれば、選挙に当選することが出来る、そのためだった。確かである。選挙参謀・飯島清が石原を参院全国区でトップ当選させたが、背後で新興宗教を抱き込んで、大量得票に導いたことは、知る人ぞ知るである。

 いつの時点でオウムに接近したのか、絵師の4男を送り込んだ時期は?関連して安倍晋太郎もオウムに接近していたらしい。義父の岸信介は、韓国の統一教会を自在に操り、信者を清和会議員に送り込んでいた。その影響かもしれない。

<島津レポートが暴いた安倍晋三オウムスポンサー疑惑>

 カルト教団の活用は、岸からだった。文鮮明と岸の仲は、第三者が入り込む余地などなかった。娘婿の安倍晋太郎、そして晋三へと継承してゆく。この線上にオウムが存在した、と元ジャパンタイムズ記者が発信する島津レポートを、半年前に偶然、インターネットで見つけて、驚いたものだ。

 清和会というと、死の商人・武器商人の臭いが強い。改憲軍拡の清和会と、もう一つが中曽根康弘派の流れである。これの先導役を担わされていたのが、憶測だが、オウム真理教ではなかったろうか。

 オウムのソ連崩壊後のモスクワを徹底的に調べれば、裏付けが取れるかもしれない。生き延びた上祐なる人物も詳しい、と見られている。

 地下鉄サリン事件の真相に、CIAも首を突っ込んだ可能性が高い。ともあれ、島津レポートのすごい取材力に圧倒される。このレポートを察知した反原発派で有名な大沼安史は、電磁波攻撃という世にも恐ろしい殺人兵器で殺害された、と大沼周辺の間で語られている。

<大量処刑による証拠隠滅に手を貸した上川陽子は本当か>

 島津レポートを手掛かりに、オウム信者の大量処刑の前夜、首相の安倍と法相の上川陽子らが乾杯する映像が、ネットに流れた背景を眺めてみると、頷けてくるのである。これで証拠隠滅完了を小躍りしたものか。やはり想像を絶した大陰謀が隠されているのであろうか。

 ちなみに安倍の神戸製鋼の部下だった麻原側近は、証拠隠滅のため公衆の面前で殺害されている。確かに、大量処刑が新たに、疑惑を膨らませている。「三文作家にとって、オウムの真相を書けば、本物になれたろう」と指摘する向きも。

<モスクワ時代のオウム工作に安倍晋太郎も関与か?>

 思うに日露の北方領土返還にかこつけた安倍晋太郎外相のモスクワ入りに、晋三も同行している。安倍の後継者・森喜朗もプーチンと接近をはかった。その後に安倍がとことん、突っ込んだことは記憶に新しい。晋太郎とモスクワとオウムが、どうだったのか。単なる憶測でいいのか。

<「息子4男の関与で突然の議員辞職」に沈黙した新聞テレビ>

 昨日は、石原の死に4人の息子が、父親の最期をテレビカメラの前で、それぞれの思いを語った。注目の4男も。彼も真相を語れる人物だろう。不思議なことは、石原の突然の議員辞職の真相を、当時も今も沈黙する新聞テレビである。余計に疑惑は膨らむようだ。

<オウム・武器商人の豪州ウラン採掘作戦!>

 Youtubeで見たテレビの特集報道で、麻原彰晃らオウムの一団が、オーストラリアのウラン鉱山に押しかけている事実を明らかにしている。彼らの狙いは、なんと核兵器開発であった。

 オウムのスポンサーの奥の奥には、財閥の姿も見て取れる。1972年ごろ、右翼の街宣車で国会と自民党周辺は埋まった。その様子を平和軍縮派の宇都宮徳馬に尋ねた。「彼らはどうして生きているのか」という素朴な質問に、彼は「財閥が金を出しているんだよ」と即答した。

 モスクワにおけるソ連の核兵器開発データ入手作戦と、核実験のためのウラン採掘作戦をつなげてみると、カルト教団の野望の大きさと、それを支援する偏狭なナショナリスト政治屋、そして武器商人財閥の姿が浮き彫りにされるかもしれない。オウム事件は、まだ入り口にも入っていない。護憲リベラル派は、第二のオウムにも警戒すべきだろう。

2022年2月3日記(東芝製品不買運動の会代表・政治評論家・日本記者クラブ会員)

16. 2022年2月04日 16:21:29 : IANSEFVjsY : OURCM1BWVDdoWEU=[18] 報告
元東京都知事・石原慎太郎氏が死去、新聞各紙はどう報じたか? 「石原節」という言葉に感じた“危うさ”とは
プチ鹿島2022/02/03
https://bunshun.jp/articles/-/51833


 2月1日、石原慎太郎氏が亡くなった。私は、新聞各紙が石原氏の死去をどのように報じるのかに注目した。石原氏は作家としての顔のほか、運輸相や東京都知事を歴任した政治家でもあり、戦後の日本社会に与えた影響がはかり知れないほど大きいからだ。2014年に政界を引退したが、それはいまもなお、である。

 いまこそ政治家・石原慎太郎の「仕事」を丁寧にふりかえるべきタイミングではないだろうか。そして、それは新聞をはじめとするメディアの大切な役割だと思う。

新聞各紙はどう報じたか
 私はまず訃報当日の朝日新聞デジタルに驚いた。石原氏の過去の発言をまとめ、「石原節」と見出しに付けていた。


『「外国人が凶悪な犯罪」「参拝して何が悪いの」数々の石原節』(2月1日)

 それらの中には、

「三国人、外国人が凶悪な犯罪を繰り返しており、大きな災害では騒擾(そうじょう)事件すら想定される。警察の力に限りがあるので、みなさんに出動していただき、治安の維持も大きな目的として遂行してほしい」(2000年4月、陸上自衛隊練馬駐屯地で開かれた「創隊記念式典」でのあいさつで)

 もあった。こういう確信的な問題発言も「石原節」としてしまっていいの? そのあと朝日は見出しを「石原節」から「石原慎太郎氏の主な発言」に変更したがとにかく驚いた。


 しかし。翌日の新聞(2月2日)を見ると、

『「石原節」物議醸す』(毎日新聞)
『石原節 波紋』(東京新聞)
『慎太郎節 時に物議』(読売新聞)
『石原節、時に物議醸す』(日本経済新聞)
『国動かした慎太郎節』(産経新聞)

 なんと、朝日以外の5紙もすべて「石原節」という言葉を使っていたのだ。びっくり。


問題発言も「石原節」に含めていいのか
「三国人」発言も石原節に入れていたのは、東京新聞、毎日新聞、読売新聞、日経新聞。つまり産経以外である(産経はこの件には触れず)。

 あの発言はなぜ検証されなければならないのか。『1923年関東大震災 ジェノサイドの残響 九月、東京の路上で』(加藤直樹 著、2014年)から引用する。

©文藝春秋
©文藝春秋
《東京の特殊性。私たちは、かつてレイシズムによって多くの隣人を虐殺したという特殊な歴史をもつ都市に住んでいるのである。関東大震災の記憶は、在日コリアンの間で今も悪夢として想起され続けている。そして日本人の側は、ありもしなかった「朝鮮人暴動」の鮮烈なイメージを、くり返し意識下から引っ張り出してきた。石原「三国人発言」も、そこから生まれてきたものだ。過ちを繰り返さないために、東京は、90年前のトラウマに今もとらわれていることを自覚しなければならない。》


「三国人発言」は、他者に憎悪を公然と投げつける姿を確信的に見せた。いまの社会の風潮にも影響を与えていないか? たとえば現在、小池都知事は関東大震災の朝鮮人犠牲者らへの追悼式にメッセージを送るのをやめ、歴史に向き合おうとしない。「三国人発言」から20年の間に起きた動きの一つである。のんきに「石原節」と報道していてよいのだろうか。

©文藝春秋
©文藝春秋
雑にまとめる新聞に感じた“危うさ”
「石原節」と呼ばれるものがあるのは別によい。たとえば読売新聞の文化面(2月2日)では作家の西村賢太氏が追悼文を書いている。石原氏の政治家としての面には毫も興味を持ってなかったが、

《しかし六十を過ぎても七十を過ぎても、氏の作や政治発言に、かの『価値紊乱者の光栄』中の主張が一貫している点に、私としては小説家としての氏への敬意も変ずることはなかった。》


 と記している。そして同日の読売社会面の「評伝」は、

《若き日のエッセーに「価値紊乱(びんらん)者の光栄」がある。タイトルのままの人生を生き切った。》

 と同じ点に注目している。

 石原氏の言動や政策の源を著作から見いだし、政治家の特徴として見立ててみせるのは「論評」である。こういうのは読みごたえがある。

 故人をしのび、その功績をたたえるのは自然なことだが、石原氏の発言をなんでもかんでも「石原節」と雑にまとめてしまう新聞の手つきには危うさしか感じなかった。最後まで「言いっ放し」をさせてよいのだろうか。

政治家の失言が許される風潮
 政治家・石原慎太郎の仕事を論評しようとする記事も少ないながらあったので、いくつかあげる。

《誇りある威勢のよい日本人をむねとし、その自意識が「三国人」発言や女性蔑視発言などを生み、強い批判も浴びた。今や世界の一方の潮流となりつつある権威主義やポピュリズム(大衆迎合主義)の影を石原さんに見ることもできるだろう。それを熱狂的に受け入れた時代と社会の素顔も、私たちは記憶せねばならない。》(毎日新聞「評伝」2月2日)

《人権意識の低さにあきれかえることが何度もあった▼それでも人気は衰えず、政界で存在感を示し続けた。それも一因だろうか。「率直」と「乱暴」の違いをわきまえられない、幼稚な政治家が相次いでしまった》(朝日「天声人語」2月2日)


©文藝春秋
©文藝春秋
 朝日の社会面では御厨貴氏(東京大名誉教授・政治学)が、

《差別的発言など是認できないものがあったのに「石原さんだから仕方が無い」と許されてしまう面があった。影響力が大きい人ゆえに政治家の失言が許される世の風潮を作ってしまった。それは負の遺産だ。》

メディアはしっかり「論評」を
 これらは石原氏と今の社会をつなげる論評だった。しかしその下に載っているジャーナリスト田原総一朗氏のコメントは、

《問題発言も多く批判もあるが、「ぶれない政治家」という点ではまれな存在だったと言える。》

「問題発言」にはあっさり。この前段を読むと「国会議員時代に、雑誌の対談で大げんかになった」とか、要は石原慎太郎との交流自慢だった。

 東京新聞の1面コラム「筆洗」は《人目と批判をおそれすぎる現在の日本を思えば、その人はやはりまぶしい太陽だった。夕日が沈む。》(2月2日)

 各々うっとりしてる。これほどまでに石原慎太郎は戦後日本を生きた年代の人たちにとって大きな存在だったのだ。そうだとしても、それはそれ、これはこれである。メディアはきちんと「論評」をしてください。

17. 2022年2月05日 14:56:15 : VhU1IF7sQc : ZkVjWFNabmlYR1E=[45] 報告
「監獄襲撃を計画」「裏切り者を脅した」石原慎太郎の壮絶人生
https://friday.kodansha.co.jp/article/227978
2022年02月04日 FRIDAYデジタル

2月1日に逝去した石原慎太郎氏については、賞賛がある一方、政治家としての言動に否定的な声も少なくない。作家から政治家へ。国会議員として計27年、東京都知事として13年以上を務め、その間、環境庁長官、運輸相として入閣も果たしている。

この稀有な政治家をウオッチしてきたジャーナリストが、本人の執筆活動からその「素顔」をひもといた。


ありし日の石原慎太郎氏。都知事として多くの「改革」を断行した。2003年撮影。最愛の長男・石原伸晃氏に「総理の夢」を託していたとも 写真:ロイター/アフロ

慎太郎が「在野の言論人」だったころ

彼はもともと大学在学中に『太陽の季節』で芥川賞を受賞して有名人となった。その知名度を生かして1968年に35歳で政治家に転身。以来「タカ派の論客」として存在感を持ち続けた。都知事を辞めた後も2年間、国会議員をしており、政界を引退したのは2014年のことである。

そんな石原氏だが、長い政治家人生の途中1995年、国会議員在職25年を機に、一度政治家を辞めている。その後、1999年の都知事選で政界復帰するが、この間は在野の言論人として活動した。

その浪人時代に、月刊誌『諸君!』96年1月号から98年8月号まで「国家なる幻影〜わが政治への反回想」と題した回想録を寄稿するのだが、その内容がきわめて興味深い。個人の手記だから、もしかしたら脚色めいた話もあるのかもしれないが、それでもそれまでの四半世紀の政治家人生のさまざまな裏話が記されていて、ときおりハッとさせられるような記述がちりばめられている。

たとえばカネの話。田中角栄が他派閥も含めてカネをばら撒いていたとか、自民党から野党にもカネがばら撒かれていたとかの一般的な話だけでなく、「自民党総裁選で佐藤栄作首相を訪ねたら、現金の入った紙袋をもらった」とか「宗教政治研究会に名義貸しで副会長となったら、会長の玉置和郎から1千万円もらった」などの具体的な体験談も書いている。

また、自民党内での抗争では「ある時は手洗いに立った相手を追いかけていき、トイレの中で襟足を締め上げ、裏切り行為を咎めて脅した」「ある議員なんぞはホテルの目のつかぬ片隅に拉致していって、胸の内ポケットにさしていた万年筆を抜いてキャップを外し、ペン先をナイフのように見立てて相手の顔すれすれに突き出し、ここで裏切らぬと誓わなければこのペン先で目ん玉をくりぬいてやるなどといって脅しもした」などとかなりやんちゃなエピソードも明らかにしている。

安全保障分野で筆者が興味を持ったのは、「沖縄で見た核」と題された1章だ。石原氏は沖縄の嘉手納米軍基地を訪問した際、核弾頭を見学したとの記述がある。石原氏はその“見た物体”を、ただ「薄青味がかった巨きな金属の箱」だったとだけ伝えているが、いくらなんでも米軍が日本の政治家に沖縄配備の核兵器を見せるはずはない(仮に所持していとしても)。これはおそらく石原氏の勘違いだろう。

数々の武勇伝のなかでも凄まじいのは

さらに、政界入りする前後の時期からのさまざまな自身の政財界の人脈についての記述も興味深い。自民党右派の大物の名前が並ぶが、CIAなど米国の反共右派との関係にも言及している。また、コワモテな右翼活動家たちの名前も頻繁に登場する。

それと、同手記にはロッキード事件は米国の陰謀だったとか、1983年にサハリン沖でソ連軍に撃墜された大韓航空機はスパイ機だったとか、湾岸戦争は米国の陰謀だっとか、その種の話も多い。

数々の武勇伝が語られている手記「国家なる幻影」に記されているエピソードの中でも、最も破天荒な物語が、フィリピン監獄襲撃計画の話だろう。

それは、フィリピンがマルコス大統領の独裁政権下だった時期。同書では1982年の自民党総裁選の前後の頃と記されているが、状況的におそらくその数年前のことと思われる。石原氏の盟友でもある反体制派の大物政治家であるベニグノ・アキノ氏(後にマルコス政権により暗殺される)が収監中に獄中で謀殺されるという情報を入手した石原氏が、独自に救出作戦を計画したというのである。

そのくだりを引用する。

<私は意を決してある日、その子息との知己の縁あって日頃懇意だったある人物に、ある相談を持ち掛けに出かけていったのだった。

相手はかつての幻のクーデタといわれた三月事件の首謀者の一人、当時ではたった一人存命の、いわば日本の最後の本物の右翼ともいわれていた清水行之助氏だった。

(中略)

 そんな相手の事務所に出向いて、

「先生、一つ黙って私のために二千万円つくっていただけませんか」

(中略)

「で、どうやって救い出す」

「彼が繋がれている監獄の見取り図も手に入れました。後は向こうと連絡とって日を選び、船で乗りつけて彼をさらいます。監獄はどこかの入り江に面していて、海からの接近は簡単で警備も薄いそうです」

「あなた一人で出来はしまいが」

「専門家を連れていきます」

「どんな」

「自衛隊の特殊訓練を受けたことのある男たちです」

「なるほど、何人くらい」

「三人。それと船を動かす専門家と、後は私が」>

……まるで映画である。しかも戦後まもなくの混乱期のストーリーではなく、高度経済成長が終わって10年近く経過した時代の話だ。

この作戦自体は結局は未遂に終わった。が、大物右翼の実名を明記してまったくの虚偽を書くことは考えにくく、こうした計画を考えたことがあり、実際に清水氏とやりとりしたのは事実なのだろう。石原氏は当時40代後半。すでに環境庁長官で入閣経験もある現職の衆議院議員である。よく言えば、破天荒な人物といえる。

なお、石原氏はその他にも武勇伝は多く、同手記にはやはり右翼人脈と協力して尖閣諸島に灯台を作った話なども登場する。

しかも、同手記を連載している最中の1997年、石原氏はイギリス船籍の船で尖閣近海まで行くのだが、その船に自動小銃など大量の武器が積まれていたという事件もあった。これは別の政治家が日本漁船で尖閣に上陸したのに同行したという話だが、石原氏が乗船していたイギリス船は石原氏の旧知のプロデューサーが所有する船で、石原氏の依頼でフィリピンから回してくる際、そのプロデューサーがフィリピンで武器を調達したものだった。もちろん通関手続きなしで日本領海に持ち込み、石垣港に停泊したというのだから違法である。

石原氏サイドはこの武器については知らなかったとしているが、件のプロデューサーは石原氏が船に武器が積載されていたことは知っていたと証言している。

その疑惑は立証されていないので真相は不明だが、いずれにせよなかなかインパクトのあるエピソードである。

石原氏は癖の強い政治家であり、彼の政治家としての功罪の評価は、各人の立場によって大きく異なっているが、エピソードの弾けぶりは日本政界随一の人物だったといっていいだろう。

故人のご冥福をお祈りします。

取材・文:黒井文太郎 写真:ロイター/アフロ

18. 2022年2月05日 14:57:18 : VhU1IF7sQc : ZkVjWFNabmlYR1E=[46] 報告
石原慎太郎は成熟を拒絶した「永遠の中2病」 軽薄さを三島由紀夫も見抜いていた それでもバカとは戦え(日刊ゲンダイ)
http://www.asyura2.com/22/senkyo285/msg/414.html

2022/02/05 日刊ゲンダイ


石原慎太郎氏(右)は若い頃の自分を橋下徹氏に重ねていたのだろう(C)日刊ゲンダイ

 作家の石原慎太郎が亡くなった。享年89。間違いなく戦後を代表する人物だったと思う。もちろん、悪い意味において。石原は保守でも右翼でもない。石原自身も「僕そんな右じゃない。真ん中よりちょっと左ですよ」と述べているが、戦後民主主義の敵対者という世間のイメージとは逆に、戦後社会の屈折した「気分」にひたすら迎合してきたポピュリストだったのだと思う。

 数々の差別発言や暴言も「大衆の汚い本音を代弁するオレってカッコいい」といった自己愛に基づくもので、思想的な裏打ちがあるわけでもない。差別主義者というより「かまってちゃん」。社会の常識、建前にケンカを売ることで注目されたかったのだと思う。

 アメリカが嫌い、中国が嫌い、皇室が嫌い、官僚が嫌い……。口を開けば、改革、変革、中央支配体制の打倒と騒ぎたてる。要するに強者、権威、既存の体制に反発することで、大衆の無責任な改革気分に訴えかけてきた。こうした姿勢は文壇デビュー作「太陽の季節」から一貫している。

 一方、人間としては支離滅裂だ。「それ(天皇制)は笑止だ。それは全く無意味だ」「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だと言う言い分と同じ程笑止で理の通らぬたわごとだということになる、と言うより問題にもされなくなる、と僕は信じる」などと皇室を罵倒し続け、旭日大綬章の受章が決まれば「そんなね、涙を流して夜も眠れずありがたいもんじゃないよ」とニヤけながら、ちゃっかりと受け取る。

 こうした石原の軽薄さを見抜いていたのが三島由紀夫だ。

「氏は本当に走っているというよりは、半ばすべっているのである」(「石原慎太郎氏」)。石原が安全な立場、つまり自民党内部で党の批判を繰り返すことについても「貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます」(「士道について」)と批判した。石原の最大の特徴は、この言葉の軽さだ。

 大統領制を唱えていた橋下徹に入れ込んだのも若いころの自分に重ね合わせたからだろう。「僕は橋下君を首相にしたい」「彼は革命家になれる」「若い頃のヒットラーにそっくりだ」

 石原は最期まで成熟を拒絶した。「永遠の少年」というより「永遠の中2病」と言ったほうが適切だろう。

19. 2022年2月09日 08:19:08 : ZYPRKUSsaQ : VTNtaUJ2bWRFWkk=[2] 報告
石原慎太郎はなぜ「問題発言」を繰り返したのか? 東京都知事時代に見る“メディアの罪”
プチ鹿島2022/02/08
https://bunshun.jp/articles/-/51915


 石原慎太郎は生きている。訃報から1週間が経ち、あらためてそう感じています。現在進行形で、メディアや世の中に大きな影響を与えていると思うからだ。

 たとえば、大阪の毎日放送(MBS)が元日に放送した特番「東野&吉田のほっとけない人」の件。日本維新の会の松井一郎代表(大阪市長)、吉村洋文副代表(大阪府知事、大阪維新の会代表)、同会元代表の橋下徹氏をそろって出演させ、政治トークをさせたことが問題になっている。

政治家とじゃれあう報道の在り方に疑問
 このニュースにふれたとき、私の脳裏には石原氏の顔が浮かんだ。かつて石原氏が都知事だった頃、そのタレント性や声の大きさ、わかりやすさをメディアはありがたがり、楽しんでいた節があると思う。差別や蔑視発言があったのに(決して失言ではない)、それも「石原節」「本音」などと杜撰にまとめてもてはやしていなかったか。視聴者だって「面白くてわかりやすいからいいじゃん」と思っていたかもしれない。


 そんな「地元のスター」とじゃれあう「報道」の在り方を見るにつけ、私は石原氏の都知事時代を思い出さずにはいられない。

 石原氏の生涯を伝える紙面で多かったのは、ああ見えて実はいい人という切り口だった。

『「威圧感」も豊かな「喜怒哀楽」魅力 石原氏死去』(産経ニュース2月1日)

 ここで石原都知事時代の職員の言葉が紹介されている。

「表で怒鳴られると、むしろ気持ちよかった。不思議なんですけど、あの石原さんに怒られたって、何かうれしかった」

「都庁に入ってからずっと仕えてきたが、本当に厳しい人だった。怖いし、威圧感も存在感もあった。でも、時折見せる人情味が魅力的な人だった」

「ああ見えて実はいい人」の落とし穴
 こういうエピソードは政治家なら必ずあるだろう。半径5メートル以内を虜にする、人たらし的な部分は必要だ。政治家は番記者などメディアを含めむしろ内輪を大事にしてくるはず。

 しかし、ああ見えて実はいい人という関係性は、石原氏の差別発言や、外国人への憎悪を煽る排外的発言、社会的弱者への偏見などもなあなあにしていないだろうか。その結果としてひどい言葉を発してもオーケー、だって都知事が言っているのだからと、政治家の問題発言を許容する風潮が生まれる一因になったと思う。超公の立場にいた石原氏の発言についてはもっと検証されるべきではないか。

©文藝春秋
©文藝春秋
問題発言はなぜ繰り返される?
 一昨年に石原氏がツイッターに「業病のALS(筋萎縮性側索硬化症)に侵され自殺のための身動きも出来ぬ女性」と投稿して批判が殺到したことがあった。


 毎日新聞は『ALS嘱託殺人 石原慎太郎氏の差別発言はなぜ繰り返されるのか 「業病」ツイートの根底に優生思想』(2020年7月30日)と検証していた。

 業病とは「前世の悪業の報いでかかるとされた、治りにくい病気。難病」(デジタル大辞泉)のこと。もちろんALSの原因は業病ではないし患者に責任はない。

 この記事では、石原氏の他の発言も取り上げている。同性愛者に対する「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」という発言である。どうしてこういう思考になるのか。LGBTに関する情報を発信する「一般社団法人fair」代表理事の松岡宗嗣氏は、

「『生殖能力』で人の価値を推し量るという点で共通しており、優生思想が根底にある。そうした思想には、誰しもある日突然、マイノリティーになる可能性があり、自分が排除される立場になるかもしれないという想像力が欠けている」

 と解説している。

政治家に求められる「想像力」とは
 ここを読んで思い当たる節があった。最近、「利他」というキーワードをよく見かける。『思いがけず利他』(中島岳志 著、ミシマ社)という本では、利他の本質に「思いがけなさ」があるのではと書かれている。自己と他者は「置き換え可能な存在」という想像力が必要だと。

『くじ引き民主主義 政治にイノヴェーションを起こす』 (吉田徹 著、光文社新書)という本でも、公共性とは「立場互換性」がなければ存在し得ないとあった。

©文藝春秋
©文藝春秋
 ここで先ほどの石原慎太郎氏への指摘を思い出そう。《誰しもある日突然、マイノリティーになる可能性があり、自分が排除される立場になるかもしれないという想像力が欠けている》という部分である。


 石原氏には都庁職員や番記者など内輪ではいい人エピソードが多いが、それは我々一般有権者には関係ないことだ。そんなことよりも政治家に求められるのは社会的弱者もちゃんと見つめてくれる目だろう。

 ところが、誰しも突然マイノリティーになる可能性という「立場互換性」への想像力が石原氏には欠けていたように思える。利益を共にする身内には優しいが、他者にはひどい言葉を平気で投げかける。究極の内輪ウケと言えないか。この人が築いてしまったスタンスは今の社会にも影響を与えている。

メディアが夢中になった「力強さ」
 その一方、石原氏は本当に「力強い人」だったのかという検証も必要だ。

 人気はあったが自民党の総裁にはなれなかった石原氏は、東京都知事という座を選んだ。石原都知事が何か政策を出せば出すほど、その視線は東京都民ではなく自民党や永田町に向けて「見て、見て、俺を見てー」と言っているように、私の目には映った。その自称・力強さにメディアはまんまと夢中になっていた。

 石原慎太郎氏を考えることは今を考えること。故人をしのびつつ、その「業績」をあらためて検証することが必要だと思います。

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