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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その14)
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 1 月 23 日 22:56:03: BW32mpuE76J86
 

 下の曲を聴きながら読んでいただくと元気が出てきます。「★阿修羅♪」の賑やかな議論に圧倒されないために、音楽を聴きながら書いています。今日の混迷した時代に、「地上の星」の一つになれるよう表題の批判を続けます。
  http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE

 前回「一隅より」さんからとても貴重な質問・意見をいただきました。それは、Kakasiたちの提案する「道徳的社会主義」を「透明化され公正公平な商品交換経済より成り立つ社会主義社会」とまとめて、そのような社会がモラルとして成立可能なのか、むしろマルクス主義的に経済原理をはたらかせてその行き詰まりから社会主義を実現するほうが現実的ではないかという提案(反論?)でした。

 Kakasiたちの道徳的社会主義(社会参加)の考えは、次の原則に要約できます。
@ 市場経済と社会主義、自由と平等は、正義と道徳(万民の幸福)による調整によって両立する。
A 社会主義は社会的利潤の追求をめざし道徳的・建設的であるが、資本主義は個人的利潤の追求をめざすことによって反道徳的・破壊的である。
B 修正資本主義では、民主主義の成熟とともに、労働者保護政策、財政金融政策、福祉(社会保障)政策等の分配的的社会主義化が進んでいる。
C 道徳的社会主義は、Bの分配的正義だけでなく、市場の透明化と公正公平、企業倫理、社会的責任、社会連帯等の交換的正義(win win関係)を推進することによって安定的・持続的成長をめざす。
D 道徳的社会主義において、会社法人(企業の資産・組織・活動)は、民主的経営・管理、と交換・分配的正義(公共の福祉)を前提として、経済社会の中心的存在となる。
E 道徳的社会主義は、不正不当な個人的蓄財や個人的独占、社会的格差を助長する反社会的資産は制限されるが、「生産手段の社会化(私有財産の廃止・公的所有)」は社会主義の絶対的前提とはならない。

 以上は厳密な要約ではありませんが、個人の自由と自律と連帯にもとづく「交換的(市場的)正義」を重視する新しい社会主義の理念です。新しいと言っても、それほど奇抜なものではなく、今までの資本主義や社会主義の論議をふまえた、常識(良識)の範囲内の理論(結論)です。「道徳」という概念には、多くの人に違和感があると思われますが、その違和感は、地球環境の有限性と経済成長の限界という目前の現実を考えれば、氷解するものです。人間の意識(知識・理念・イデオロギー)は、人間の社会的存在(在り方・生き方)を規定するものであり、地球の限界をふまえて人間と社会の発展を制御し、持続的な平和的生存を可能にするのは道徳(倫理)的意識なのです。 

 さて本題である日本共産党志位委員長の「綱領教室第10回」についての批判です。演題は前回に続き「民主主義革命と民主連合政府(2)」ですが、まずは志位さんの巧みな講義を是非視聴していただきたいです。  http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2

 まず特定の価値観を絶対的なものとして押しつけないという観点から、「イスラムなど異なる文明間の対話と共存を通じ、共通の価値観を見いだし相互尊重をはかる」ということがめざされています。ここで、異なる文明の立場を相互に理解し尊重することや、国連憲章にあるようなより普遍的な価値観を追求するというのは問題ないようにみえます。しかし、「共通の価値観をめざす」こと、すなわち「国連憲章にあるような普遍的価値観」を追求することに関しては、普遍性の西洋的限界を問題にしなければなりません。

 つまり、国連は、賞味期限を過ぎている、もはや時代錯誤になりつつあるということです。それは、@第二次世界大戦の戦勝国中心の組織であること、A「世界人権宣言」における人権観の限界、B世界連邦的権力(世界政府)樹立への展望がないことの三つの点で、限界があるということです。世界連邦は、欧州連合や東アジア共同体等地域連合のまとまりさえ不十分なのに、夢のまた夢ではないかと思われるかもしれません。
 しかし、マルクス主義を標榜する共産党である限り、「万国のプロレタリアは団結せよ!」という国際主義の理念は必須のものです。単に綱領にある「社会制度の異なる諸国の平和共存および異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立」と「共通の価値観の追求」というだけでは、未来の展望は開けないでしょう。もちろん「万国のプロレタリアは団結せよ」というスローガンを共通の価値観とすれば、偏狭で時代錯誤な価値観とならざるを得ないでしょう。

 Aの「世界人権宣言」については「生命言語説」(ネット検索可)からの説明が必要です。つまり第1条で「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とありますが、このような単純な人権では、有限で複雑多様な人類社会の共通の価値観にするのは困難です。(説明はコメント欄へ)

 また国際的な統治機構(世界政府)の構想の欠如は、国際的国家資本主義競争(国益競争)の永続を意味し、生産手段の社会化など望むべくもありません。成長の限界に直面している「宇宙船地球号」の内部での国際競争では、一国社会主義は、独裁的支配体制か地球号内での国家的対立や社会的混乱以外ありません。

 もともとマルクス主義では、労働者階級の空想的団結が優先されて、国家間や労働者内部での利害対立は十分想定されていませんでした。帝国主義戦争や民族対立が現実のものになっても、レーニンなどは世界革命を期待し続けたのです。その根源は、マルクスが共同体・国家間の商業取引を含む商品交換(市場経済)の不等価性(非対称性)を十分吟味してこなかったこと、および意識形態(言葉、知識、観念、理論、法等)の重要性を認識できなかったことによります。

 次に綱領「憲法と民主主義」については有益な話です。とくに憲法制定時の内閣発行『新憲法の解説』からの引用は示唆に富んでいます。文明は戦争によって成立したのであり、「文明が戦争を抹殺」するにはどうすればいいのか。文明と戦争は対立概念ではないし、憲法9条の「戦争放棄」は、戦争抹殺の方法を示していません。綱領では日本の平和が言及されていますが、戦争抹殺と世界平和の方法については、志位さんも述べていません。

 私見では、戦争の抹殺・抑止には、アメリカやロシアや中国の軍をコントロールできる世界政府軍が必要と考えます。戦争や私有制の根源は、生命や人間の存在そのものにもあるので、戦争抹殺のような単純な発想よりも戦争抑止、しかも今日のような均衡抑止よりも「世界政府による絶対抑止」が必要です。憲法9条は、違憲性のある自衛隊を、国連軍の一員として絶対抑止の一翼を担い、日本と世界の平和に寄与させる役割があります。もっともその前に、マルクス主義(共産主義ではない)の誤りが世界的常識となる必要がありますが・・・・。

 天皇制については、民主主義や平等と両立しないが、将来情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものとされています。明治憲法の絶対主義天皇制は批判できても、象徴天皇制そのものを批判するのは難しいようです。なぜなら象徴天皇制を批判するには、日本人の依存(甘え)的国民性そのものを批判する必要があるし、それをすれば共産党の指導(前衛)性そのものが問われることになるからです。結局世論を考慮しての問題の先送りにならざるをえないのでしょう。まずは平和憲法体制の維持、加憲や創憲も認めないという結論になります。天皇制についての私見は、哲学の成熟しなかった日本に、哲学が確立すれば自然に解決する問題だということになります。

 次に「経済的民主主義」についてです。志位さんの結論は、綱領を読めば解説はいらない、社会改良主義そのものです。すなわち、「ルールなき資本主義」の現状を打破し、労働者の長時間労働や一方的解雇の規制を含め、ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点も踏まえつつ、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」をつくる、というものです。「ルールなき」というのは「新自由主義」「市場万能主義」を意味するのでしょうか、実際には、強者優先・競争優先のルールがあるのだから説得力はないし科学的とは言えないでしょう。
 マルクスも日本共産党も、ずっと説明を続けているように、「利潤の本質」を捉え損なっているのです。

 問題はむしろ次回(1月24日)の講義になるのでしょうか、統一戦線や民主連合政府という時代錯誤な提案についてです。大企業の労働組合や小選挙区制が、共産党にとってどうにかならない限り未来は厳しいものです。次回の講義で何らかの展望が開けるのでしょうか。

前回までは<BW32mpuE76J86> または表題を検索してください。

「もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪」
 

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コメント
 
01. Y. Kakasi 2012年1月23日 23:00:10 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
上記投稿の補足です。

 世界人権宣言 第1条は、西洋近代における理性主義ヒューマニズムの限界を示しています。というのも、人間は欲望と感情の動物であり、理性や良心は教育と環境の所産だということ、その自覚から理性も良心も前提でなく目標であること、そして、その自覚によって始めて人間の権利や正義が成立するものだからです。自由、平等、理性、良心等は、人間社会に求めるべき理想であって、その理想であるという自覚から人類の共通の結合が始まるのです。

 人間は本来自然でも社会でも自由ではありません。人間を自由にするのは、自由でない人間を自己認識するところから始まりました。単なる欲望充足や反抗・逃避は自由ではありません。偏見や差別や抑圧を、体験し自覚したところから自由が獲得されてきたのです。だからフランス人権宣言が「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある」というのも、自由の限界を十分捉えていない点で正しくありません。人生の有限性と人間関係の困難性(利己性と利他性)、そして現実の偏見や差別・抑圧を自覚した上で、永続的な自由や平等が追求されるのです。

 だから、第1条の前半と「人間は、理性と良心とを授けられており」というのは人間に対する誤った命題(前提)であり、「互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」だけが努力目標として正しいのです。人間の本性を無視した自由や平等は、利己心と欲望肥大に導き、人間社会に不信から生じる無益な競争と混乱、偽善と欺瞞をもたらします。


02. 天の網島 2012年1月23日 23:53:03 : roto1wtJR0WMQ : UDWhozKeFI
この投稿は「阿修羅」(政治)には似つかわしくないから、中止された方がいい。
そう提言したのですが、まだ続けるのですか?
いい加減にして、専用ブログでも立ち上げて、そこで喚いてください。

今回の「道徳的社会主義」@〜Eの概説で、その底の浅さと非科学性がはっきりしました。まさしく空想的社会主義の域を出ていません。
今や、資本主義は「生産と交換」の域から「貨幣と信用」の肥大した架空化というバカげた怪物に変化し、しかも、全世界的にその矛盾を散播し始めています。
一国社会主義の限界は、資本の本性の攻撃の前に無力であることも明らかです。

処方箋はマルクスに回帰し、「万国の労働者の団結」による「同時的革命」、即ち
政権奪取ーマスコミ制圧を先ずやらなければならないのです。
マルクス主義は「資本論」だけではなく、「ドイツイデオロギー」の階級闘争理論を忘れてはなりません。


03. クロイツブルガー 2012年1月24日 01:46:45 : 1nA7klhqkLJtg : qYLRgkj6SE
私も何度も板違いでは?と指摘し、以前
ルロワグーランやら認知言語論のコメントをしていました。

ここは残念ながら政局メインです。
持論はご自信のサイトでやられたほうがよいです。
(BBSを再開されないんでしょうか?)

しかしカカシさんのような識者がこの堕落した板で
日本のツァイトゲノシッシェポリティークについて
意見を発することはとても意義があるとおもいます。


04. 一隅より 2012年1月24日 22:40:17 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
前回「その13」のKakasiさんのコメント06について。

>自由主義やマルクス主義・・・の背景になったのが、欧米の経済学の根本にある「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」なのです。

自由主義とマルクス主義を並列するところがおかしい。

自由主義(自由市場経済主義)の言い分は、資本主義的生産において「資本家は労働者にすでに正当な対価を支払っている。だから、それを越えて得られた利潤は正当にも資本家のものだ」、というものです。
つまり、労働者は「等価交換」で雇われているのだ、「等価交換原則」は貫かれているのだ、というのです。
この限りでは(=自由市場経済主義の言い分の限りでは)、「同意・契約の結果はすべて正義である」ということになります。

これに対してマルクスはこうです。
労働者が自己の労働力を手放すのは自身の交換価値(再生産費用)と等価な限りにおいてである。
ところが資本家がその労働力から引き出すものはその労働力の使用価値だ。
資本家は、買い取った労働者の労働力(=その使用価値)を「使用」することによって利潤をあげる。
つまり利潤の源泉は労働者の労働(=労働力の使用)だ。
これ(労働力の使用価値)にたいしては、労働者は正当になど支払われていない。
自由市場経済主義のいう、「同意・契約の結果はすべて正義」という言いかたには、この点で欺瞞がある。


Kakasiさんの言いかたは、こうなるべきです。

自由市場経済主義の考える経済学の根本にあるのは、「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」だ。

しかし、マルクスの考える経済学(批判)ではこうなる。
資本家は労働者の再生産費用を支払って労働力を買い入れる。
たしかに、その同意・契約は「等価交換法則」にもとづく。しかしその結果は「正義」ではない。


>自由主義やマルクス主義・・・の背景(は)・・・「同意・契約の結果はすべて正義である」という「等価交換法則」なのです、
という一文は、不正確だ。
自由主義について、とマルクス主義についてと、分けて考えるべきだ、と思います。

どうでしょうか、Kakasiさん。

ただし私は相変わらず、「経済原理そのものから資本主義・競争原理社会の行き詰まりの可能性をさぐる」、という方向で考えているので、
「労働者は正当には支払われていない」ことが「正義でない」かどうかはあまり本質的なことではない、(マルクスもその点を問題にしているのではない)、と思っています。

(中途ですが、Kakasiさんに言いたい/聞いてみたいことの、前半です。今回「その14」について聞いてみたいことはまた書きます。)


05. Y. Kakasi 2012年1月25日 00:15:39 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
02)、03)さん、重ねてのコメントありがとうございます。
たぶん以前にも申し上げたのですが、板違い等の指摘は、管理人さんに一任しております。
 Kakasi 自身は政治的な意図をもって投稿しており、挑戦的な表題が気に入っています。マルクス主義を好意的に解釈することは、その人の選好の問題です。内容についての反論を期待しております。

02)天の網島さん、マルクスやエンゲルスが、道徳的義憤から労働者階級の解放を誰よりも強く願い、『ドイツ・イデオロギー』や『資本論』を書いたことは、Kakasiも労働者階級の一員として十分共感理解しているつもりです。
 しかし、彼らも西洋哲学思想の限界を受け継いでいます。それは哲学では弁証法的発展理論、経済学では労働価値説にもとづく等価交換説、思想的にはユダヤ教的歴史決定論です。これら西洋的限界に由来する誤りは、資本主義的搾取制度を断罪することとは別の問題です。
 確かに道徳的社会主義と空想的社会主義はよく似ています。でも前者における搾取なき社会の実現は、交換的正義とそれに由来する連帯によります。要求や憎悪にもとづく連帯ではなく、正義と道徳にもとづく連帯です。階級闘争を遂行すれば社会主義・共産主義が実現するというような、無責任で欺瞞的な歴史決定論ではありません。

03) クロイツブルガーさん、前回と同様難しいコメントです。
「生命言語説」についてはどうでしょう。検索できます。
「等価交換による剰余価値説」についての意見を聞かせてください。
残念ながらKakasiにはBBSのできる時間的能力的余裕がありません。

04)一隅よりさん、コメント重ねてありがとうございます。
初めての本質的な意見なので、うれしく思います。
 交換過程(契約)と生産過程をどう考えるかということと、抑圧された労働者の再生産費用をどう考えるかという問題です。すでに説明していると思うのですが、少し時間をください。


06. 2012年1月25日 16:57:40 : FUviF2HWlS
>>05

>(マルクス主義は)思想的にはユダヤ教的歴史決定論です。

ちょっと、ヒトラーぽい。

「プロレタリア革命=最後の審判」のように、マルクスの世界観は、キリスト教の新約聖書の世界観の影響の方を多く受けているのではないか?


07. Y. Kakasi 2012年1月26日 00:48:20 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
>>04 
一隅よりさん、コメントが遅れて申し訳ありません。端的に答えます。
一隅よりさんは、Kakasiは次のように言うべきだとされます。
>資本家は労働者の再生産費用を支払って労働力を買い入れる。
たしかに、その同意・契約は「等価交換法則」にもとづく。しかしその結果は「正義」ではない。
→しかしマルクスは、
「労働力一日間の使用でつくり出される価値(交換価値と剰余価値)が、労働力自身の日価値(交換価値・労賃分)の二倍であるという事情は買手(資本家)にとっては特別な幸運であるが、とはいえ、売手(労働者)に対する不法(Unrecht)では決してないのである」(『資本論』向坂訳 岩波文庫(二)第五章労働過程と価値増殖過程p93、カッコはKakasi、この文は12/1 投稿のコメント01に補足しています)
と記述しているとおり、「売り手に対するUnrecht(不正・不当・誤謬・侮辱等)では決してないaber duruchaus kein Unrecht gegen den Verkäufer」としています。

 実は、マルクスを好意的に理解しようとする人は、一隅さんのような誤解をされているのです。マルクスの考える「経済原理」は、厳密に人間の社会的意識を規定する「自然法則」であって、競争の強制法則の働く自然史的過程は、人間や国家によってはコントロールできないものとされていたのです。

 しかし私見では、過剰生産恐慌や金融恐慌は、生産や流通の無政府性にあるのは確かですが、マルクス的経済原理によるものではなく、資本主義(市場経済)のもとで目先の利己的利益しか考えない利潤追求行為がパニックの悪循環(連鎖反応)を引き起こしたものだと思います。詳しくは述べられませんが悪しからず。

06)さん コメントありがとうございます。
>マルクスの世界観は、キリスト教の新約聖書の世界観の影響の方を多く受けているのではないか?
→とのことですが、権威主義的なマルクスの性格から言うと、『新約聖書』愛の神よりも、『旧約聖書』の怒りの神に近いのではないでしょうか。本人は宗教を否定しているので断定できないと思います。


08. 一隅より 2012年1月27日 00:46:31 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
Kakasiさん、>私(一隅より)のような誤解、のところだけコメントさせていただきます。

誤解ではありません。Kakasiさん引用中の、マルクスのした『幸運』とか『不法』という言葉づかいは、皮肉なのですから。

私がいいたかったのは、
経済的事実を評価するに公平公正を重視するKakasiさんの立場からいえば、
>資本家と労働者のかわす交換は(不等価なものではなく)まさに等価交換だが、それでも(これを道徳的に評価するならば)、それは結果的には「正義」ではない、
ということになるのではないか、
ということでした。

これに対してマルクスは、これらの経済上の事実を道徳的に評価する、という立場にたちません。
(だからマルクスが『幸運』とか『不法』という言葉を使っても、それは皮肉なのです。)


それに続く、>マルクスの考える「経済原理」は・・・「自然法則」であって・・・人間や国家によってはコントロールできないものとされていた、のところはその通りだと思います。
(ただしマルクスは、「これまでは」コントロールできなかったし、「今のままでは」コントロールできない、という文脈でいっています。)

Kakasiさんは、>過剰生産恐慌や金融恐慌は・・・マルクス的経済原理によるものではなく・・・目先の利己的利益しか考えない利潤追求行為が・・・引き起こしたものだ、
と考えるようです。

問題は、およそ経済上の事実を、「利己的」利益の追求・・・という概念で説明できるか、ということです。

マルクスはたしかに資本家の利潤追求行為に繰り返し(道徳的観点から)悪罵をあびせていますが、それはいわば修辞的なだけのもので、いざ経済上の諸事実を説明しそこから来る問題の解決を論じるときには、完全に「道徳的観点をはなれた」立場から説いています。


前提のところでやりとりしていてなかなか本題にはいれません。
次には、Kakasiさんが利潤の源泉を「商品交換の非対称性」に求めるというのはどうなのだろうか、
ということについて、言いたい/聞いてみたいと思っています。


09. Y. Kakasi 2012年2月06日 15:14:34 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
コメントへの返信は、(その15)につづきます。
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/458.html

10. Y. Kakasi 2012年9月11日 14:24:45 : BW32mpuE76J86 : F8FukKaAk4
Kakasiたちの研究をよりよく知っていただくために、

新たに「人間存在研究所」のサイトを増設しました。

ここでは、人間存在の新しいものの見方考え方を提案していきます。

https://sites.google.com/site/sawatani1/

(管理人さん ★阿修羅♪も宣伝しているので削除しないでネ)


11. 2012年9月13日 14:55:37 : F8FukKaAk4
せっかく検索していただく方がおられるので、やや専門的ですが、以下の点を補足しておきます。

・社会科学における西洋的合理主義の根本的欠陥
 と新社会契約・道徳的社会主義の意義

 国家と市場交換における社会契約は、自律した自由平等な諸個人間の合意と約束によって、公正と正義(等価)にもとづいて成立しているとされる。
 しかしこの前提は誤っている。正義と公正は、現実の不自由と不平等によってすでに欠落している。なぜなら、交換(契約)当事者間の情報の非対称性や不公正な所得格差から自然的に生じる、詐欺的社会契約が許されているからである。
 等価とされる交換の結果は、現象(表面)的にはwin win の関係に見えようとも、実質的には評価の基準(価値判断)が当事者間で異なる。財産・所得の多寡、地主と借地人、大企業と中小下請け企業、資本家・経営者と労働者・被雇用者、独占企業と消費者大衆等々、具体例には事欠かない。
 正義と公正の社会は、完全性ということはありえない。しかし、新しい社会契約は、交換と分配の正義が不断に検証され、そのために情報の透明性が担保されなければならない。それによって人類が獲得した近代の自由と平等の原理ははじめて実現される。
 新しい自由と平等には、共に人類史の発展と成華を共有する社会的責任が伴う。ここに道徳的社会主義の基本的意義がある。


12. 2012年10月11日 09:54:10 : 6Lkz56iWeI
道徳的社会主義について、さらに追加しておきます。

https://sites.google.com/site/sawatani1/sinnsyakai


13. 2012年11月27日 17:54:43 : wXPShKYgaw

 (その15)につづきます。kakasi
 ⇒ http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/458.html

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